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時代の混沌

光陰、零の如し

作者: 双鶴

昭和二十年三月二十七日、鹿屋基地。

午前五時、空は墨を流したように暗く、格納庫の影が地面に沈んでいた。空気は冷たく、機体の腹を撫でるように流れていく。整備員たちは黙々と動き、工具の音だけが静かに響いていた。


「第三飛行隊、出撃準備完了」

報告の声は低く、抑揚を欠いていた。隊長・村岡大尉は頷くだけで応え、帳面に目を落としたまま動かない。背筋は伸びていたが、肩はわずかに沈んでいた。


格納庫の奥、機体番号「七〇三」の前に立つ若い隊員がいた。階級は少尉、名を神谷。十九歳。

彼は機体を見上げていた。鋼板の継ぎ目、塗装の剥がれ、昇降舵の揺れ。すべてが、静かに語りかけてくるようだった。


「神谷少尉、整備完了です」

整備員の一人が声をかける。神谷は振り返り、短く「ありがとう」とだけ言った。

その声は、空に溶けた。


格納庫の奥、機体番号「七〇三」は、整備員の手によって最終点検を受けていた。

空気は乾いていて、金属の匂いが微かに漂っていた。工具の音が断続的に響き、誰も余計な言葉を発しない。そこにあるのは、鋼と人間の手の対話だった。


神谷少尉は、機体の左翼に指を添えた。冷たい。夜露がまだ残っている。

鋼板の継ぎ目は滑らかで、リベットの並びは均整が取れていた。塗装はところどころ剥がれていたが、下地の金属は鈍く光っていた。

操縦席の縁に手をかける。皮の座面は硬く、背もたれには微かな凹みがあった。誰かの背中が、そこに何度も沈んだのだろう。


「昇降舵、動作確認済み。燃料満載。酸素供給系統、異常なし」

整備主任の田嶋軍曹が、記録簿を見ながら淡々と告げる。

神谷は頷いた。

「……よく仕上げてくれた」

田嶋は一瞬だけ目を上げたが、すぐに記録簿に視線を戻した。

「いつも通りです」


神谷は操縦席に腰を下ろした。

計器盤の針は静かに揺れていた。高度計、速度計、酸素供給装置のランプ。すべてが、静かに呼吸しているようだった。

足元には、ペダルが二つ。金属の表面には、微かな擦り傷があった。誰かが、何度も踏み込んだ痕跡。


「少尉」

田嶋が声を低くした。

「この機体、よく飛びます。……ただ、空の流れに逆らうと、癖が出ます」

「癖?」

「左に流れます。高度を保てば問題ありませんが、突入角が浅いと……」

神谷は計器盤を見つめた。

「了解した。空の動きは読む」


田嶋は、工具箱を閉じた。

「……整備員は、機体を送り出すだけです。戻ってくるかどうかは、流れ次第です」

その言葉に、神谷は微かに笑った。

「流れは、掴める。少なくとも、今朝は静かだ」


田嶋は何も言わず、機体の側面に手を添えた。

そこには、整備員たちが小さく書いた文字があった。

「風」

それは、誰にも見られないように、塗装の隙間に刻まれていた。


神谷はその文字を見つめ、何も言わずに操縦席から降りた。

整備員たちは、彼の背中を見送った。

誰も、言葉を発しなかった。


前夜、鹿屋の空は赤く染まっていた。

午後八時、警戒警報が鳴り、格納庫の照明が落とされた。遠くで爆音が響き、地面が微かに震えた。

神谷少尉は防空壕の入口に立ち、空を見上げていた。雲は低く、光の反射で形を失っていた。


空気は焦げたような匂いを含み、地面の温度がわずかに上がっていた。

格納庫の屋根が、断続的に光を受けていた。

整備員たちは壕の奥で身を低くし、誰も言葉を発しなかった。

ただ、工具箱の蓋が閉まる音だけが、静かに響いた。


「第三飛行隊、被害なし」

報告が届いたのは、二十二時過ぎ。だが、隣接する補給倉庫が炎上し、整備員の一人が負傷したと聞いた。

神谷は何も言わなかった。ただ、手袋を外し、指先の感覚を確かめていた。


その夜、司令室の前で村岡大尉と言葉を交わした。

「少尉、明朝の件、確認しておく」

「承知しております」

「……何か、言い残すことはあるか」

神谷は少しだけ考えた。

「ありません。任務に従います」

村岡は頷いた。

「よろしい。風向きは安定している。離陸は零六三〇」


沈黙が落ちた。

神谷は、司令室の扉に目を向けた。そこには、出撃予定者の名簿が貼られていた。

自分の名前の横に、赤い印が付けられていた。


「少尉」

村岡が声を低くした。

「……お前は、よく訓練を積んだ。機体の癖も理解している。だが、空は常に変わる」

「承知しております」

「ならば、言葉は不要だな」

「はい」


神谷は敬礼し、踵を返した。

その背中に、村岡は何も言わなかった。


宿舎に戻った神谷は、机の上に置かれた記録簿を開いた。

そこには、整備主任・田嶋の筆跡で、機体の状態が詳細に記されていた。

最後の欄に、小さく「安定」と書かれていた。


神谷は記録簿を閉じ、窓の外を見た。

空は暗く、星は見えなかった。

ただ、遠くで何かが燃えているような匂いがした。


彼は、何も書かなかった。

何も残さなかった。

ただ、翌朝の空を見据えていた。


午前六時。

滑走路の端に、機体が並んでいた。空はまだ浅く、青と灰の境界が曖昧だった。

神谷少尉は、機体番号「七〇三」のそばに立っていた。

整備員たちは最後の確認を終え、工具箱を静かに閉じていた。誰も言葉を発しない。

その沈黙が、空気を満たしていた。


神谷は、操縦席の縁に手をかけた。

皮の感触は冷たく、背もたれには微かな凹みがあった。

計器盤の針は静止していたが、何かを待っているように見えた。

酸素供給装置のランプは、まだ点灯していない。


隣の機体に、高梨少尉の姿があった。

彼は神谷と同じ年齢で、訓練時から同じ編隊に属していた。

高梨は、何も言わずに帽子の庇を少しだけ上げた。

神谷は、それに頷いた。

それだけで、十分だった。


空気が動いた。

遠くで、風向計がわずかに揺れた。

神谷は、機体の左翼に手を添えた。

鋼板の表面は冷たく、指先に微かな震えが伝わった。

その震えが、機体の鼓動のように感じられた。


「少尉、出撃まであと十分です」

通信士が声をかけた。

神谷は頷き、操縦席に腰を下ろした。

座面の硬さが背中に伝わる。

ペダルに足を乗せる。金属の表面には、微かな擦り傷があった。


整備主任・田嶋が近づいてきた。

「計器、異常なし。燃料、満載。酸素供給、起動確認済み」

神谷は、計器盤を見つめた。

針が静かに動き始めていた。


田嶋は、機体の側面に手を添えた。

そこには、昨日と同じ文字があった。

「風」

塗装の隙間に、小さく刻まれていた。


神谷は、その文字を見つめた。

何も言わず、操縦桿に手を添えた。

整備員たちは、彼の背中を見送った。

誰も、言葉を発しなかった。


午前六時三〇分。

滑走路に並んだ機体が、順にエンジンを始動させていた。

空はまだ浅く、東の端にわずかな光が差していた。

整備員たちは後方に下がり、隊員たちは各自の機体へと向かっていた。


神谷少尉は、操縦席に腰を下ろした。

皮の座面は冷たく、背中に硬質な感触が伝わる。

計器盤の針は静かに揺れ、酸素供給装置のランプが淡く点灯していた。


「七〇三、出撃準備完了」

通信士の声が短く届いた。

神谷は操縦桿を握り、視界の端に整備主任・田嶋の姿を捉えた。

彼は何も言わず、帽子の庇をわずかに上げた。


エンジンの振動が機体全体に広がる。

骨に響くような低音が、座席を通じて伝わってくる。

滑走路の端が遠ざかり、空の色がゆっくりと変わっていく。


「第三飛行隊、離陸開始」

無線が告げる。

神谷はスロットルを押し込み、機体が地面を蹴った。

速度が増し、視界が揺れる。

地面が遠ざかり、空気の密度が変わる。


機体は上昇した。

雲の切れ目を抜け、光が計器盤に反射する。

神谷は高度計を確認し、僚機の位置を目で追った。

編隊は整っていた。誰も言葉を発しない。ただ、空を進んでいた。


遠くに海が見えた。

水平線は薄く、波の動きは見えなかった。

神谷は、操縦桿を微調整しながら、機体の挙動を探っていた。

左にわずかに流れる。田嶋の言葉が頭をよぎる。


「空の流れに逆らうと、癖が出ます」


神谷は、計器盤の針を見つめた。

その動きは、静かだった。

空は広く、何も語らなかった。


編隊は整列していた。

空は澄み、雲は薄く、陽光が機体の表面を淡く照らしていた。

神谷少尉は、高度計を確認しながら、僚機との距離を保っていた。

左斜め前方に、高梨少尉の機体があった。

機体番号「七〇五」。訓練時から、常に神谷の隣を飛んでいた。


高梨は、無線を使わない。

訓練中も、言葉より動きで意思を伝えていた。

旋回の角度、速度の調整、編隊の間隔。

神谷は、その癖を覚えていた。

今も、それは変わらなかった。


機体は、空を滑るように進んでいた。

空気の密度が変わり、振動が増していく。

神谷は、操縦桿を握り直した。

高梨の機体が、わずかに右へ傾いた。

それは、進路変更の合図だった。


神谷は、応えた。

機体をわずかに左へ傾け、編隊の形を保った。

無線は沈黙していた。

だが、空には言葉があった。


記憶がよぎる。

訓練中、山岳地帯での編隊飛行。

濃霧の中、視界が遮られたとき、高梨の機体だけが、一定の距離を保っていた。

そのとき、神谷は思った。

「この距離は、信頼だ」


今も、その距離は変わらない。

高梨の機体は、一定の間隔を保ち、神谷の視界の端に留まっていた。

何も言わず、何も示さず。

ただ、そこにいた。


遠方に、艦影が見えた。

編隊は散開しつつある。

高梨の機体が、わずかに加速した。

神谷は、それを見送った。

何も言わず、何も考えず。

ただ、進んでいた。


高度三千。

編隊は南南東へ進路を取っていた。空は澄み、雲は薄く、陽光が機体の表面を淡く照らしていた。

神谷少尉は、計器盤を確認しながら、僚機との距離を保っていた。

無線は沈黙を保っている。通信士からの報告もない。

それが、規定だった。


海が近づいていた。

水平線は明瞭で、波の動きは見えない。ただ、青の濃淡が広がっている。

神谷は、操縦桿を微調整しながら、機体の挙動を探っていた。

左への流れは、依然としてある。だが、制御可能な範囲だった。


遠方に、艦影が見えた。

黒く、低く、動かないように見えたが、煙が上がっていた。

敵艦隊だ。

神谷は、視界の端で僚機の動きを確認した。編隊は散開しつつある。

それぞれが、目標へ向かう。


「七〇三、目標確認」

通信士の声が短く届いた。

神谷は頷いた。

それだけで、十分だった。


機体は速度を上げていた。

空気の密度が変わる。振動が増し、骨に響く。

神谷は、酸素供給装置のランプを確認し、計器の針を見つめた。

すべてが、正常だった。


敵艦は、徐々に大きくなっていく。

甲板の構造、砲塔の配置、煙の動き。

神谷は、目標を定めた。

その瞬間、空気が変わった。


閃光。

遠方から、何かが放たれた。

砲火だ。

神谷は、機体をわずかに傾けた。

回避ではない。

軌道の調整だった。


爆音が遅れて届く。

空が震えた。

だが、機体は進んでいた。

神谷は、何も言わなかった。

何も考えていなかった。

ただ、目標を見ていた。


空が裂けた。

閃光が走り、音が遅れて届く。

神谷少尉は、機体をわずかに傾けた。回避ではない。軌道の修正だった。

敵艦の砲塔が動いている。煙が上がり、空気が震える。


編隊は散開していた。

僚機の一つが、急角度で突入していく。

その姿は、鋼の矢のようだった。

神谷は、視界の端でそれを捉えた。

次の瞬間、白い煙が広がった。

何かが、消えた。


機体の振動が増す。

速度は限界に近い。

計器盤の針が揺れ、酸素供給装置のランプが点滅する。

神谷は、操縦桿を握り直した。

手の感覚が、少し鈍い。


砲火は続いていた。

空気が裂け、光が走る。

音は、遅れて届く。

それが、恐怖を生む。


神谷は、目標を見据えていた。

敵艦の甲板、煙突、砲塔。

すべてが、静かに迫ってくる。

機体は、左に流れた。

田嶋の言葉が、頭をよぎる。

「空の流れに逆らうと、癖が出ます」


神谷は、操縦桿を微調整した。

機体は応えた。

わずかに軌道が修正される。

その瞬間、閃光が視界を覆った。


衝撃。

機体が揺れる。

何かが、外れた。

計器盤の針が跳ねる。

酸素供給装置のランプが消えた。


神谷は、何も言わなかった。

何も考えなかった。

ただ、操縦桿を握り続けた。


空は、青かった。

敵艦は、黒かった。

その間にあるものは、何もなかった。


機体は、進んでいた。

振動は増し、音は消え、視界は狭まっていく。

神谷は、目を細めた。

目標は、すぐそこだった。


敵艦が目前に迫っていた。

甲板の構造、煙突の傾き、砲塔の向き。すべてが、視界に収まっていた。

神谷少尉は、操縦桿を握り直した。手の感覚は薄れ、振動が骨に響いていた。


機体は、左に流れた。

神谷は、微調整を加えた。

計器盤の針は、静かに揺れていた。

酸素供給装置のランプは、消えたままだった。


空は、何も語らなかった。

音は消え、振動だけが残った。

神谷は、目を細めた。

敵艦の甲板に、数人の人影が見えた。

だが、彼らの顔は見えなかった。

それで、よかった。


記憶が、断片的に浮かんだ。

整備主任・田嶋の手の動き。

「風」と書かれた文字。

村岡大尉の沈黙。

夜の空襲。

炎の匂い。


神谷は、何も言わなかった。

何も考えなかった。

ただ、目標を見ていた。


機体は、速度を保ったまま進んでいた。

空気の密度が変わる。

視界が狭まり、光が強くなる。

敵艦の甲板が、目前に迫る。


その瞬間、時間が止まった。

音も、振動も、すべてが消えた。

ただ、光だけがあった。


神谷は、操縦桿を握っていた。

それが、最後の動作だった。


空は、何も変わらなかった。

ただ、彼の軌跡だけが残った。


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