第七話:秘めたる想い
寿永二年(1183年)の冬は、屋島に容赦なく吹き付けた。 瀬戸内の海は、夏の間見せていた穏やかな瑠璃色をすっかりと潜め、鉛色の空を映して重く冷たく沈黙している。大陸から吹き下ろしてくる身を切るような北風は、遮るもののないこの地でその勢いをさらに増した。それは人の体温だけでなく、心の奥底にあるか細い希望の灯火さえも吹き消してしまいそうな無慈悲な風であった。
平家一門の士気は日に日に目に見えて落ちていった。 都落ちから半年近くが過ぎ、当初抱いていた「すぐに都へ返り咲く」という楽観的な見通しは、厳しい現実の前に脆くも砕け散っていた。食料は乏しく衣は擦り切れ、薬師も満足にいないこの地で人々は次々と病に倒れていく。それは戦で傷つくよりも、もっと陰湿でじわじわと心を蝕む終わりなき消耗戦であった。
仮御所のあちこちから咳の音が聞こえる。かつては雅な管弦の音が満ちていた空間を、今は病人の呻き声と吹き荒れる風の音だけが支配していた。誰もが口数を失い、その瞳からは輝きが失われていた。彼らはもはや未来を語ることをやめ、ただ過去の栄華という手の届かない夢の中にだけ慰めを見出そうとしていた。
この緩やかな滅びへと向かう閉塞感の中で、敦盛の心もまた限界まで張り詰められていた。 彼女を苛むのは物理的な寒さや飢えではなかった。それは終わりなき緊張という内なる敵との戦いであった。男として振る舞い、武士として毅然とし、そして何より「平家の勝利の駒」という神託の子としての役割を演じ続けなければならない。その重圧がまるで鎧の下にもう一枚鉛の衣を着せられているかのように、彼女の心身を絶え間なくそして確実に疲弊させていた。
信経の献身的な支えがなければ、彼女はとうの昔に心の弦がぷつりと切れてしまっていたかもしれない。だがその信経に頼れば頼るほど、敦盛の中には別の種類の苦しみが生まれていた。それは彼に対して抱く名付けようのない、甘くそして痛みを伴う感情であった。彼がそばにいると安らぐ。しかし同時に、彼の視線を感じるたびに心臓がまるで罪を犯したかのように速くそして不規則に脈打つのだった。
その日は朝から冷たい雨が降り続いていた。 空は墨を流したようにどこまでも暗く、雨はまるで天が泣いているかのようにしとしとと屋島のすべてを濡らしていた。 敦盛は朝餉の席で一口粟の粥を口に含んだだけで、すぐに箸を置いた。
「……どうかなさいましたか、若。お顔の色が、優れませぬが」
隣に座る父・経盛が心配そうに声をかける。
「いえ……なんでもありませぬ、父上。少し、この寒さに、当てられただけかと」
敦盛は力なく微笑んでみせたが、その身体は芯から冷え切っていた。頭が重い兜をかぶっているかのようにずきずきと痛む。視界が時折ぐにゃりと歪む。立っているのがやっとだった。
昼過ぎ、雨はさらに勢いを増し風も出てきた。 敦盛は自室の仮屋で横になっていた。信経が火鉢に炭をくべてくれたが、それでも身体の奥から這い上がってくる悪寒は一向に収まらなかった。歯の根がカタカタと噛み合わない。
(まずい……)
敦盛は必死に己の身体を叱咤した。ここで倒れるわけにはいかない。病に伏せれば誰かが必ず様子を見に来る。そうなればこの秘密がいつ露見するとも限らない。 だが彼女の意志とは裏腹に身体は言うことを聞かなかった。熱が急速に上がっていくのが分かった。意識がまるで濃い霧の中をさまようように混濁し始める。
夕刻、ついに彼女は起き上がることができなくなった。 異変に気づいた信経が部屋に駆け込んでくる。
「若! しっかりなさいませ!」
信経の声がどこか遠くで聞こえる。 敦盛の額に触れた信経の手が氷のように冷たく感じられた。いや、違う。自分の身体が燃えるように熱いのだ。
「……ひどい熱だ……」
信経は顔色を変えすぐに経盛を呼びに行った。 部屋に飛び込んできた経盛はぐったりと横たわる敦盛の姿を見て狼狽した。
「敦盛! どうしたのだ! しっかりせい!」
「経盛様、お静かになされ。若は、おそらく、長旅の疲れが、一気に出られたのでしょう。私が、薬湯の支度をいたします。何卒、このことは、ご内密に……」
信経は冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で経盛を制した。彼はこの事態が何を意味するかを即座に理解していた。敦盛が病に倒れたこと、そしてその看病ができるのはこの世で自分たち二人しかいない、ということを。
経盛は娘の苦しそうな寝顔と信経の真剣な眼差しを交互に見比べこくりと頷いた。
「……分かった。信経、頼む。敦盛を……この子を、頼む」
その声は平家一門の公卿としてではなく、ただ娘の身を案じる一人の父親のか細い声であった。
父が部屋を出ていくと、狭い仮屋は再び外界から隔絶された静寂な空間となった。 残されたのは荒い息をつく敦盛と、彼女を懸命に看病する信経、そして板葺きの屋根を激しく叩く雨の音だけだった。
信経は手際よく動いた。 まず自らの知る限りの薬草の知識を総動員した。幸い都落ちの際に彼が個人的に用意していた荷物の中に、解熱や鎮痛に効くいくつかの乾燥させた薬草があった。彼はそれを石の薬研で丁寧に丁寧にすりつぶしていく。 ごり、ごり、という硬質な音が部屋に響く。 その単調な音だけが、この絶望的な状況の中での唯一の秩序ある営みのように感じられた。
薬湯を煎じながら信経は何度も敦盛の元へ寄り、その様子を窺った。 敦盛は苦しそうに眉を寄せ浅い呼吸を繰り返している。時折熱に浮かされたように意味の分からないうわごとを呟いた。
「……母上……寒い……」
「……笛が……どこかへ……」
そのか細い声を聞くたびに、信経の胸は鋭い刃物で抉られるように痛んだ。 彼女はたった一人でこれほどの重荷をずっと背負ってきたのだ。神託の子として、平家の若武者として、そして偽りの男として。そのあまりにも細い肩に。
信経は濡らした手ぬぐいを固く絞り、敦盛の燃えるように熱い額をそっと拭った。 汗でしっとりと濡れた前髪を指で優しくかき分けてやる。現れた形の良い額。閉じられた瞼の下で長い睫毛が微かに震えている。苦痛に歪んでいてもなお、その顔立ちはぞっとするほど美しかった。
(……ああ、この方は……)
信経の心の中に、これまで忠誠心という分厚い壁の向こう側に必死に押し込めてきた感情が、堰を切ったように溢れ出しそうになるのを感じた。 それは主君に対する敬意や忠義ではない。 一人の男が一人の女に対して抱くどうしようもなく切実な恋情であった。
汗で敦盛の寝間着が肌にぴったりと張り付いている。 信経はためらった。だがこのままでは熱がさらに上がってしまうだろう。 彼は意を決し、敦盛の寝間着の合わせに手をかけた。
「……お許しを、若」
誰に言うともなくそう呟き、彼はそっとその衣をはだけさせた。 現れた白い肌。 そしてその下には、いつも彼女の女性性を、そして彼女自身を苛んできた、あの白い晒しがあった。 汗で湿った晒しは、彼女の胸の柔らかな膨らみを生々しく写し出していた。それはもはや少年と見紛うような平坦な胸ではない。紛れもなく女のそれであった。
信経は息を飲んだ。 見てはならないものを見てしまったような罪悪感。そして同時に、彼の身体の奥底から抗いがたい熱いものがこみ上げてくるのを感じた。 彼は慌てて敦盛の身体に乾いた布をかけ顔をそむけた。 心臓がまるで胸の中で暴れ馬が駆け巡っているかのように激しく脈打っていた。
(俺は……俺は、何を考えているのだ……。この方は、主君だぞ……。平家の、希望の星なのだぞ……!)
信経は己の心の内に生まれた不埒な感情を必死に打ち消そうとした。 だが一度自覚してしまった想いはもはや偽ることはできなかった。 主君への忠誠心と、一人の女性を想う男としての恋情。その二つが彼の心の中で激しくせめぎ合っていた。
その時だった。
「……のぶつね……?」
背後からか細い声がした。 信経がはっとして振り返ると、敦盛がうっすらと目を開けていた。その瞳は熱で潤み、どこか現実感のない色をしていたが、確かに信経の姿を捉えていた。
「若! お気づきに……!」
信経が彼女の枕元に膝を進める。 敦盛はしばらくぼんやりと信経の顔を見つめていたが、やがてその瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ああ、信経……。夢かと、思った……」
「夢ではございませぬ。私は、ここに……」
「……疲れた……。もう、疲れたのだ、信経……」
その言葉は信経の胸を深く突き刺した。 敦盛はまるで堰を切ったように、これまで決して誰にも見せることのなかった弱音を吐露し始めた。
「……男でいるのは、もう、嫌だ……。武士であるのも、もう、嫌だ……。神託の子など……私は、なりたくて、なったわけではない……!」
涙が次から次へと彼女の美しい瞳から溢れ出してくる。
「……普通の、女子に、生まれたかった……。ただの、名もない、娘で、よかったのだ……。そうすれば……そうすれば、誰かに……誰かに、ただの娘として……愛されることも、あったのかもしれぬのに……」
その魂からの悲痛な叫びはもはや信経の心の壁を粉々に打ち砕いてしまった。 彼は気づけば敦盛の冷たくなった手を両手で強く握りしめていた。
「若……」
抱きしめたい。 この傷ついた、あまりにもか弱くそして愛おしい人を、この腕の中に閉じ込めて守ってしまいたい。 その抗いがたい衝動に信経は駆られた。 だが彼は必死にそれをこらえた。己の身分が、そして彼女の立場が、それを許さない。
「若は……若は、若のままで……。あなた様は、そのままで、誰よりも、美しく、そして、気高い……」
信経が絞り出した言葉は震えていた。
「……私が……この信経が、生涯をかけて、あなた様を、お守りいたします。たとえ、この身が、どうなろうとも……!」
それはもはや従者の誓いではなかった。 一人の男の愛の告白に限りなく近いものであった。
敦盛は信経のその言葉を朦朧とする意識の中で聞いていた。 彼の温かい手の感触。彼の震える声。 それが不思議と彼女の心を穏やかに鎮めていくのが分かった。 彼女はそっと目を閉じた。 涙の跡がまだ生々しく残るその顔には、ほんのかすかな安らぎの表情が浮かんでいた。
長い長い夜が明けようとしていた。 雨はいつの間にか上がっていた。雲の切れ間から、弱々しいが、しかし確かな朝の光が差し込んでくる。 それは二人の間に、もう二度と後戻りのできない新たな関係が始まったことを告げる夜明けの光でもあった。




