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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第六話:流浪の日々

燃え盛る都を後にしてから、幾月が過ぎただろうか。 平家一門は大宰府だざいふからも追い立てられ、九州の豪族たちにも見放され、まるで根無し草のように西海をさまよった末、最終的に讃岐国さぬきのくに屋島やしまにひとまずの拠点を築いていた。かつて鑑真和上が創建したと伝わる屋島寺の麓、瀬戸内の海に突き出すように広がる松に覆われた溶岩台地。そこは都の雅とは無縁の、潮風と岩肌ばかりが目立つ荒涼とした土地であった。


六波羅の壮麗な寝殿造りの屋敷に代わって彼らに与えられたのは、「内裏だいり」と名付けるのもはばかられるような、ありあわせの材木で建てられた粗末な板葺きの仮御所であった。安徳天皇と建礼門院が住まう一画を中心に、一門の者たちが身分に応じてあてがわれた狭苦しい仮屋で肩を寄せ合って暮らしている。それはもはや「都」ではなく、海に浮かぶ巨大な「陣」であった。


あれほどまでに輝いていた平家の栄華は見る影もなかった。 男たちが身に纏うのは潮気を含んでごわごわになった直垂ひたたれ狩衣かりぎぬ。袖口は擦り切れ日に焼けて、かつての鮮やかな色は見る影もなく褪せている。誰もが手入れの行き届かない月代さかやきを伸ばし無精髭を生やし、その顔には深い疲労と焦燥の色を浮かべていた。女房たちのあれほどまでに誇り高かったうちきの重ねも、今は旅の汚れでくすみ、その表情からは都にいた頃の華やいだ化粧も快活な笑い声も消え失せていた。誰もが先の見えぬ不安と、故郷を失った深い喪失感をその顔に刻みつけていた。


食事は干した魚と粟やひえの混じった雑炊が常となった。都では器にすら手を触れなかった高貴な姫君たちが、今では自ら慣れぬ手つきで火を熾し米を研ぐ。夜になれば単調な波の音と、岩に当たってすすり泣くような風の音だけが彼らの粗末な寝床を包み込む。それは死んだように静かで、それでいて決して心の休まることのない夜だった。


この何もかもが剥き出しの世界で、敦盛はこれまで経験したことのない新たな地獄を生きていた。 それは飢えや寒さといった肉体的な苦痛ではない。自らの「秘密」をこの極限状態の中で守り抜かねばならないという、精神的な苦行であった。


都の広大な屋敷では彼女の部屋は奥深く、誰にも邪魔されることのない聖域として保たれていた。だがこの屋島の仮屋では、そのようなものは望むべくもなかった。薄い板一枚を隔てて隣には兄たちの、その向こうには従兄弟たちの生活がある。咳一つ寝返りを打つ音一つさえ筒抜けになるような環境。ここでは誰もが否応なく、互いの生々しい気配の中で息を潜めて生きていた。


「プライバシー」などという概念が存在しないこの場所で、敦盛にとって日々の全てが綱渡りのような緊張の連続だった。 例えば着替え一つをとっても、それは命がけの所作であった。 信経が夜明け前のまだ誰もが深い眠りについている時間を見計らい、人目につかぬよう彼女の寝所の入り口に何気ない顔で立つ。誰か通りかかれば「若はまだお休みだ。起こさぬように」と静かに声をかける。 そのわずかな時間で敦盛は、獣のように素早く衣を改めねばならなかった。 月明かりだけを頼りに震える指で、固くそして平らに己の胸を晒しで圧し殺していく。日々かすかに膨らみを増していく胸の柔らかさを憎悪にも似た感情で押しつぶし、痛みをこらえながらきつくきつく縛り上げる。その冷たい布の感触は、お前は女ではない、と彼女の身体に毎日宣告を下しているようだった。


そして月に一度、彼女に訪れる女の証。それはもはや忌まわしい呪いでしかなかった。 血の匂いをどうやって隠すか。汚れた布をどこで洗いどこで乾かすか。都では乳母や女房たちが、当たり前のようにそして完璧に処理してくれていたその問題を、今この男ばかりの陣中で自分一人の力で解決せねばならないのだ。 腹の芯を鈍い楔で抉られるような痛みと背筋を走る悪寒に耐えながら、敦盛は誰にも悟られぬよう平然と振る舞わねばならなかった。顔が青白いと指摘されれば「少し、船酔いが残っているようだ」と嘘をつき、食欲がないのを訝しがられれば「潮風が、どうも肌に合わぬらしい」と作り笑いを浮かべる。 嘘を重ねるたびに心が少しずつすり減っていくのが分かった。


そんな彼女の絶望的な孤独を、ただ一人理解しそして支えている者がいた。 伊勢信経であった。 彼は敦盛の影そのものであった。 敦盛が何かを口にする前に、彼女が何を必要としているかを完璧に察知し行動した。


信経は敦盛の月の周期を、おそらく敦盛自身よりも正確に把握していた。 敦盛の表情にかすかな翳りがさし、無意識にそっと下腹部に手を当てる仕草を見せる。そのほんのわずかな兆候を信経は見逃さない。 彼は何でもないような顔で敦盛に声をかけるのだ。


「若。この島の南側に、良い湧き水が出るところがあると聞きました。喉の渇きを癒すのに、うってつけかと。少し、馬を歩かせてみませんか」


それは他の誰にも、ただの散策の誘いにしか聞こえない。 だが敦盛には、その言葉に隠された信経の深い配慮が痛いほど分かった。 南側の湧き水。それは陣から最も遠く、人の寄り付かぬ岩陰に隠された小さな泉のことだった。そこでなら人目を気にせず、身体を清め汚れた布を洗うことができる。


二人は馬を並べて陣を抜け出す。 道中他の武士たちとすれ違えば、信経は朗らかに声をかけ当たり障りのない世間話を交わす。「今日は波が穏やかですな」「漁の首尾はいかがかな」などと。その間敦盛は、ただ黙って馬上で頷いているだけでよかった。信経が巧みに、彼女を周囲の世界から隔絶させる見えない壁となってくれていた。


目的の泉に着くと、信経は当然のように敦盛に背を向け少し離れた岩の上に腰を下ろす。


「……半刻はんときほど、ここで、馬を休ませましょう。私は、周囲の見張りをしています。ごゆっくり」


その背中は、決してこちらを振り返らないという固い意志を示していた。 敦盛はその無言の信頼に胸が熱くなるのを感じながら、急いで用事を済ませる。冷たい湧き水が火照った身体を鎮めていく。それは単に身体の汚れを落とすだけでなく、張り詰めていた心の緊張をわずかに解きほぐしてくれる束の間の救済であった。


またある時はこんなこともあった。 都落ちの鬱憤を晴らすかのように、血気盛んな若武者たちが浜辺で相撲を取り始めた。


「おう、敦盛殿! 貴殿も一番、いかがかな! 都の若君が、どれほどのものか、見せていただこうではないか!」


一人が悪気なく、しかし明らかに侮りを含んだ口調で敦盛に声をかけた。 敦盛の身体が一瞬凍り付くように硬直する。断れば気骨のない公達だと嘲笑されるだろう。だが男の、筋肉の塊のような身体と組み合えば、己のあまりにも華奢な身体つきがすぐに知られてしまう。 敦盛が返答に窮し唇を噛んだ、その時だった。 信経がすっと敦盛の前に進み出て、にこやかにしかし有無を言わせぬ響きで言った。


「お相手、致そう。だが、その前に、一つ、賭けをしないか」


「賭けだと?」


「そうだ。俺と、そちらの五人で、勝ち抜き戦をする。もし、俺が五人全てを倒したら、敦盛様への無礼な誘いは、今後一切、なしにしてもらう。もし、俺が負けたら、俺の差している、この太刀を、くれてやろう」


信経の言葉に男たちはどっと沸いた。平家の分家筋とはいえ信経は敦盛の従者にすぎない。その男が五人抜きだと? 面白半分でその賭けに乗る。 信経は平家の分家筋とはいえ、幼い頃から武芸百般を叩き込まれてきた。その実力はそこらの若武者とは比べ物にならない。 彼は言葉通り次々と相手を砂浜に投げ飛ばし、あっという間に五人抜きを達成してしまった。その動きには一切の無駄がなく、まるで舞を舞うかのように流麗でさえあった。だがその瞳の奥には、獲物を狩る獣のような冷たい光が宿っていた。 男たちは呆気にとられ、そして己の未熟さを恥じすごすごと退散していった。


信経は砂を払いながら、何事もなかったかのように敦盛の元へ戻ってきた。


「……つまらぬ座興に、お時間を取らせました。お許しを」


敦盛は言葉が出なかった。 ただ自分のために、たった一人で五人の男を相手にした信経の背中をじっと見つめていた。 彼は決して敦盛を「か弱い」とは言わない。ただ黙って彼女の前に立ち盾となる。そのやり方が敦盛の、武士としてのそして男としてのかろうじて保っている矜持を、何よりも尊重してくれている証であった。


過酷な環境が二人をより強く結びつけていった。 彼らの間に多くの言葉は必要なかった。視線が一度交わされるだけで。あるいは隣に立つその気配だけで。互いの考えていることが手に取るように分かった。


その日の夕暮れ、二人は仮屋の裏手にある小さな岬の突端に立っていた。 眼下には瀬戸内の穏やかだがどこか物悲しい灰色の海が広がっている。空は茜色と深い藍色が混じり合った複雑な色合いに染まっていた。


風が二人の髪を静かになぶる。 敦盛は一日中張り詰めていた緊張から解放され、岩に背を預け深く息を吐いた。 信経はいつものように少し離れた場所に立ち海を見つめている。 沈黙がしばらく続いた。 それは気まずい沈黙ではなく、互いの存在をただ静かに感じ合う安らぎの時間だった。


やがて敦盛がぽつりと呟いた。


「……信経」


「は」


「……お前がいなければ、私は、とうの昔に、狂っていたか、あるいは、海に身を投げていただろう」


それは何の飾りもない魂からの言葉だった。


「毎日、思うのだ。この身体が、憎い、と。この運命が、忌まわしい、と。だが、お前が、当たり前のように、私の側にいてくれる。お前だけが、私が何者であるかを知った上で、それでも、私を『敦盛』として扱ってくれる。それが……どれほどの救いか」


声がわずかに震えていた。


「お前だけが……私を、人として、ここに繋ぎとめてくれている」


信経はゆっくりと敦盛の方を振り返った。 夕陽の赤い光が彼の横顔を彫刻のようにくっきりと浮かび上がらせていた。 彼は静かに言った。


「……私の居場所は、若のお側にしか、ございませぬ。昔も、今も、そして、これからも。ただ、それだけのこと」


その言葉は誓いだった。 そしてそれはもはや単なる忠誠心からだけではなかった。 敦盛もそれを感じていた。 信経の静かな瞳の奥に宿る深い深い光。それは主君に向けるものとは少し違う、熱を帯びた切ない色をしていた。 そしてその瞳に見つめられると、自分の心臓がきゅっと締め付けられるように痛むことにも気づいていた。


この感情に、何と名前をつければいいのだろう。 敦盛はまだ知らなかった。 ただこの潮風に吹かれる荒涼とした岬の上が、今の彼女にとっての世界の全てであるように思えた。


眼下の波がざあ、と音を立てて岩肌を洗う。 それはすぐそこまで迫っている新たな戦乱の足音のようにも聞こえた。 二人の束の間の平穏が長くは続かぬことを

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