第五話:燃え落ちる都
寿永二年(1183年)の初夏、風が運んでくる匂いはすでに甘い花の香りから青々とした草いきれとむっとする土埃のそれに変わり始めていた。六波羅の広大な屋敷では公達が退屈しのぎに蹴鞠に興じ、女房たちは御簾の奥で歌を詠み香を焚きしめる。それはあまりにも長く続きすぎた、平穏という名の薄氷の上で繰り広げられる最後の雅な舞であった。
その薄氷が耳を聾するほどの音を立てて砕け散ったのは、五月の下旬のことである。 北陸道から一騎の伝令が駆けた。泥と血にまみれ鎧はところどころ砕け、乗っている馬は口から泡を吹いている。もはや人の声とも思えぬかすれ声で彼は、主だった者たちが集う広間の階の下に転がり込み絶叫した。
「……倶利伽羅峠にて、我が軍、総崩れにございます! 平維盛様、行方知れず! 敵は、木曽義仲が率いる、数万の兵!」
倶利伽羅峠。 その地名が持つ意味を即座に理解できた者は少なかった。だが、「総崩れ」という言葉の持つ絶望的な響きは、誰の耳にも突き刺さった。平家が誇る十万と号した大軍が、北陸の山中で木曽の山猿どもに敗れた。その事実は、これまで彼らがよすがとしてきた「平家は不敗である」という巨大な幻想を根底から覆すには十分すぎた。
その凶報は、まるで水面に投じられた一石が瞬く間に波紋を広げていくように、六波羅全域を震撼させた。 あれほど毎夜のように繰り返されていた狂騒の宴はぴたりと止んだ。代わりに屋敷を満たしたのは、これまでひた隠しにされてきた恐怖と現実感を失った者たちの浮足立った喧騒だった。
「木曽の山猿どもが、もうすぐそこまで迫っておるそうだ!」
「いや、後白河法皇様が、比叡山へとお逃げになられたらしいぞ!」
「馬を、馬を用意せい! 我らも西国へ……!」
真偽の定かではない噂が人々の口から口へと飛び交い、恐慌はさらに増幅されていく。侍たちは己の保身のために右往左往し、これまで公達に傅いていた女房たちの絹を裂くような悲鳴が、あちこちの対屋から聞こえてくる。 昨日までの、あの驕り高ぶった自信はどこにもなかった。そこにあったのは、巨大な船が沈みゆくのを悟った者たちの、見苦しくも哀れな阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
敦盛と信経は、その地獄を醒めた眼で見ていた。 敦盛の住まう屋敷の奥まった一画だけが、まるで嵐の目の中にあるかのように不気味なほど静まり返っていた。
「……やはり、こうなったか」
庭に咲く紫の桔梗の花を静かに見つめながら、敦盛はぽつりと呟いた。その声に驚きや悲しみといった色はなかった。ただ、来るべきものが来たとでも言うような深い諦念と、不思議なほどの落ち着きが感じられた。 あの夜、信経と共に築地塀の外で見た民の憎悪。飢えた子供の瞳。あの時から彼女は、こうなることを予感していたのかもしれない。一門の栄華というものが、いかに脆くそして多くの人々の犠牲の上に成り立っていたかを、その肌で知ってしまったからだ。
「若……」
傍らに控える信経が心配そうに声をかける。敦盛はゆっくりと彼の方を振り返った。彼女の顔は青白かったがその瞳は澄み切っていた。
「信経。お前は、怖くないのか」
「怖い、とは思いませぬ。ただ……」
信経は言葉を切り、真っ直ぐに敦盛の瞳を見つめ返した。その黒い瞳は深淵のように静かで、いかなる動揺も映してはいなかった。
「ただ、あなた様をお守りすること。私の心にあるのは、それだけでございます。平家がどうなろうと、日の本がどうなろうと、私の成すべきことはただ一つ。変わりはございませぬ」
その言葉は誓いだった。世の理がどう覆ろうとも決して揺らぐことのない、彼自身の真実。 その揺るぎない事実が敦盛の心を強く支えていた。
「そうか……」
敦盛はかすかに微笑んだ。それは偽りの元服の夜以来、信経が見た最も穏やかでそして最も力強い微笑みだった。
「ならば、私も、怖くはない。お前が、共にいてくれるのなら」
七月に入り、事態はもはや誰の目にも絶望的となった。 義仲軍は破竹の勢いで都へと迫り、平家の防衛線は次々と突破されていく。宇治川の防衛線もいともたやすく破られたという知らせが最後のとどめとなった。 六波羅の総帥である平宗盛――清盛亡き後一門を率いる立場にあったが、その器量は偉大な父にはるかに及ばなかった――は、最後の軍議を招集した。
広間には一門の主だった武将たちが鎧姿で顔を揃えていた。普段は華やかな狩衣を纏う彼らが、今は鈍色の鉄と革の匂いを立ち上らせている。その光景そのものが非常事態を物語っていた。 敦盛もまた父・経盛と共にその末席に座している。彼女が身に纏うのは黒糸縅の、まだ真新しい小さな胴丸。その鉄の重さが現実の重みとなって彼女の華奢な肩にのしかかる。
広間の空気は鉛のように重かった。誰もが俯き口を開こうとしない。 沈黙を破ったのは血気にはやる若武者の一人、平有盛だった。
「……もはや、これまでか。我らは平家の武士ぞ! この由緒ある都を枕に、華々しく討ち死にすべきであろう!」
その声は悲壮な覚悟というよりは、自暴自棄の叫びに近かった。
「馬鹿を申せ! 帝をお連れし、西国にて再起を図るべきだ! ここで犬死にすれば、それこそ平家は終わりぞ!」
歴戦の老将である平頼盛がそれを一喝する。 議論はどこまでも平行線を辿り、一向にまとまらない。誰もが己の意見を主張するばかりで、一門全体の未来を見据えている者はほとんどいなかった。
宗盛はただ青ざめた顔でその議論を呆然と聞いているだけだった。彼の額には脂汗が滲んでいる。彼にはこの状況を収拾し、断固たる決断を下すだけの指導力が欠けていた。 その時、知勇兼備で知られる清盛の四男・知盛が重い口を開いた。彼の顔には疲労の色は濃かったがその眼光はまだ鋭さを失っていなかった。
「兄上。もはや、都での防戦は叶いませぬ。敵の勢いは我らの想像をはるかに超えております。ここは一時、都を明け渡し、安徳帝と三種の神器を奉じて、我らの地盤である西国へと落ち延びるべきかと存じます。九州にて体勢を立て直し、再び都を奪還する。今は、それしか道はございませぬ」
その言葉は冷静で現実的だった。そしてそれゆえに、あまりにも屈辱的だった。自分たちの手で築き上げたこの栄華の都を敵に明け渡して逃げろ、というのだから。
広間が水を打ったように静まり返る。 誰もが宗盛の決断を待っていた。 宗盛はしばらくの間虚空を見つめていたが、やがて絞り出すようにか細い声で命じた。
「……西へ、向かう」
その一言が全てを決定づけた。 平家一門が百年近くにわたって築き上げてきた、都での栄華の終わりの始まりだった。
軍議が終わるや否や、六波羅全体が最後のそして最大の混乱に包まれた。 都落ちの準備である。 それはもはや「準備」と呼べるような秩序だったものではなかった。むしろ「略奪」に近い凄まじい光景だった。 誰もが自分の財産を少しでも多く運び出そうと躍起になっていた。金銀、綾羅錦繍、伝来の武具、高価な調度品。それらを牛車に満載し我先にと屋敷を飛び出していく。運び出せないものはその場で惜しげもなく打ち捨てられ、あるいは下人たちによって公然と盗まれていった。ある姫君は愛用の琴を牛車に乗せられぬと知るやその場に叩きつけて泣き崩れ、ある公達は下人と一緒に己の蔵から財宝を運び出すという本末転倒な姿を晒していた。
そんな中、敦盛の部屋だけは信経によって静かにそして整然と旅支度が進められていた。 信経が敦盛のために用意した荷はごくわずかだった。数枚の動きやすい小袖と袴。旅の汚れを拭うための手ぬぐい。そして小さな革袋に詰められたわずかばかりの兵糧。彼は敦盛が元服の際に贈られたきらびやかな太刀ではなく、より実戦向きの軽くて扱いやすい小刀を選び彼女の腰に差させた。 そこに贅沢な装飾品や華美な衣装は一つもなかった。これは貴公子の旅ではない。敗走なのだと信経は痛いほど理解していたのだ。
敦盛はその様子をただ黙って見ていた。 やがて信経が桐の箱の中から一本の笛を恭しく取り出した。 黒塗りの笛筒に金蒔絵で見事な細工が施されている。その中に納められているのは祖父・忠盛が鳥羽院より拝領し、父・経盛を経て敦盛に受け継がれた天下に名だたる名笛「小枝」。 敦盛の魂とも言うべき笛だった。 彼女はそれを受け取ると懐かしむようにその冷たく滑らかな竹の肌を指でそっとなぞった。この笛を吹いている時だけは男でも女でもなく、神託の子でもなくただの「自分」でいられた。
信経はその笛筒を敦盛の腰にしっかりと結びつけた。
「若。これだけは、決して、お体から離されますな」
「……ああ。分かっている」
敦盛は腰の笛にそっと手を触れた。この笛だけがこの嘘にまみれた人生の中で、唯一自分を自分たらしめてくれる真実の証だった。
「信経」
敦盛は顔を上げ信経を見つめた。
「都の民は、我らがいなくなるのを、喜ぶだろうか」
その問いに信経は迷わず答えた。
「……はい。おそらくは。ですが、彼らは、すぐに知ることになりましょう。木曽の兵が、我ら以上に、野蛮で、無慈悲であることを。そして、彼らは、我らの時代を、懐かしむことになるのかもしれませぬ」
その言葉には不思議な説得力があった。
「そうか……。そう、かもしれぬな」
敦盛は小さく頷くとすっと立ち上がった。その瞳にもはや迷いはなかった。
七月二十四日の夜。 平家一門の都落ちの行列が、六波羅の門を次々と出発していった。 それはかつての彼らの栄華を思えば、あまりにも寂しくそして惨めな夜の逃避行だった。
先頭を行くのは幼き安徳天皇と、母である建礼門院徳子が乗る粗末な御所車。その後ろに三種の神器を奉じた牛車が続く。それが彼らに残された最後の「正義」であり「権威」であった。 それに続くのは宗盛をはじめとする一門の武将たち。誰もが口を固く結びその表情は、疲労と屈辱に深く歪んでいた。 敦盛もまた小さな栗毛の馬に乗り、父・経盛や信経と共にその行列の中にいた。彼女は馬上で揺られながら、これまで過ごしてきた六波羅での日々を断片的に思い出していた。信経と出会った夜のこと、偽りの元服に涙した夜のこと、そしてあの燃え盛る牛車と民の憎悪に満ちた瞳のこと。その全てがもはや遠い昔の夢の出来事のようだった。
彼らが鴨川を渡り、都の西の境界である七条口に差し掛かった時だった。 誰かが叫び声を上げた。
「火だ! 六波羅が、燃えている!」
敦盛がはっと振り返る。 見れば彼らがつい先ほどまでいた六波羅の方角の夜空が、真っ赤に不気味に染め上がっていた。巨大な火の手がいくつも立ち上り、まるで天を舐める巨大な獣の舌のようだ。黒い煙がもうもうと立ち上り、火の粉が夜風に乗ってこちらまで飛んでくる。
「宗盛様が、お命じになられたのだ……。我らが館を、敵の手に渡さぬよう、自らの手で、火を放て、と……」
誰かが絶望的な声でそう呟いた。
自らの栄華の象徴を自らの手で焼き尽くす。 これ以上の敗北の証があるだろうか。 敦盛は馬上で呆然とその光景を見つめていた。
遠くでごう、という炎が風を吸い込む音が聞こえる。時折、屋根が焼け落ちる轟音も響いてくる。 あの壮麗だった寝殿が。美しい庭園が。信経と出会ったあの部屋が。月夜に初めて笛を吹いたあの濡縁が。 自分の偽りのしかし、確かに存在した少年時代の全てが今、紅蓮の炎に包まれ灰と化していく。
悲しいという感情はもはやなかった。 ただあまりにも巨大な喪失感が彼女の胸を空っぽにしていくだけだった。 炎が敦盛の白い頬を赤く照らし出す。 その大きな瞳には燃え盛る都の炎が、地獄の業火のように映り込んでいた。 彼女は泣かなかった。 ただじっとその光景をその目に心に焼き付けていた。 決して忘れぬ、とでも言うように。 我ら一門が犯した驕りの罪のその結末を。
「……若」
隣を進む信経が敦盛の馬にそっと自分の馬を寄せた。 彼の声に敦盛はゆっくりと視線を燃える都から前へと戻した。 前にはどこまでも続く暗い西への道が広がっている。
信経は何も言わなかった。 ただその右手を己の腰に差した太刀の柄にそっと置き、前方を鋭く見据えた。 彼の世界はもう燃え落ちる都にはない。 彼の忠誠も平家一門の未来にもない。 ただ隣にいるこの偽りの名を背負わされた美しくも孤独な主君。その人を守り抜くこと。 それだけが彼の世界の全てだった。
敦盛は馬の腹を軽く蹴った。 馬は小さな蹄の音を立て、再び西へ向かって歩き始めた。 もう二度と振り返りはしなかった。




