最終話:血脈は未来へ
本作は歴史if小説です。
織田家のルーツが平氏という説からの妄想です。
織田家の先祖は平重盛の孫・平資盛であるとされています(コレも諸説有り)
平清盛を基準にすると、平重盛は清盛の長男、平敦盛は清盛の甥(弟の経盛の子)にあたります。
歳月は川の流れのように静かに、そして容赦なく過ぎ去っていった。 妙法寺の古びた堂宇の瓦には厚く厚く苔がむし、杏樹が息子が生まれた年に植えた庭の杏の木は、今ではその幹が大人の男の腕でも抱えきれぬほどの見事な古木となっていた。 毎年春には他のどの花よりも早く、薄紅色の可憐な花を咲かせ、夏には豊かな緑の葉を茂らせ、秋には黄金色の実をつけ、そして冬には全ての葉を落とし厳しい寒さにじっと耐える。その愚直なまでの生命の営みは、杏樹のこれまでの人生そのものを、そしてこの寺で紡がれてきた静かな時間の全てを象徴しているかのようであった。
杏樹は五十の坂をとうに越えていた。 その類まれなる美貌は、さすがに歳月の前にはその輝きをいくぶんか和らげてはいた。目尻には細やかな皺が刻まれ、絹のようであった黒髪には白いものが目立つようになっている。だがその穏やかに老いを受け入れた姿は、若い頃の、人を寄せ付けぬような鋭い美しさとはまた違う、深い深い慈愛に満ちた静謐な美しさを湛えていた。それは全てを知り、全てを赦し、そして全てを愛した者だけが持つことのできる聖母のような輝きであった。 杏樹を母のように見守り、この寺へと迎え入れてくれた慈信尼もとうの昔に百歳近い大往生を遂げていた。今は杏樹がこの寺で最も古い尼僧となっていた。
彼女の息子、信は四十歳を目前にしていた。 彼はもはや美しいだけの青年ではない。日々の労苦と歳月がその顔に男としての深みを与え、その広い肩と厚い胸板は、家族を守るべき一家の主としてのたくましさを物語っていた。 彼は二十歳を前に近隣の庄屋の娘であった、心根の優しいお葉という女を妻に迎えた。そして今では信久という名の十五になる快活な長男と、千代という名の十になる利発な娘の二人の子の父親ともなっていた。 信は母や妻と共にこの妙法寺を守り、寺の小さな畑を懸命に耕し、そして時折里の者たちの求めに応じてその見事な笛の腕を披露することもあった。彼のその実直で誠実な人柄は里の者たちからも深く慕われていた。
その秋の終わりのある日のことであった。 杏樹は床に就くことが多くなっていた。 特定の病というわけではない。ただ長年酷使してきた身体のあちこちが悲鳴を上げ、魂の炎がその役目を終えようとして静かに小さくなっていくのを、彼女自身が感じていた。 その日、彼女は縁側で日向ぼっこをしながら、庭で薪割りの手伝いをする孫の信久と、その傍らで花を摘む千代の姿を目を細めて眺めていた。 信久の額に汗して働くそのたくましい横顔には、若き日の信の面影が、そしてそのさらに奥には、杏樹が決して忘れることのない愛した男の誠実な面影が宿っていた。
(……ああ……。私は、幸せ者だ……)
杏樹は心の中で深く深く呟いた。 平家の姫として生まれ、偽りの若武者として生き、全てを失い、流浪の果てにこの地にたどり着いた。その壮絶な人生は決して平坦なものではなかった。だが今、この穏やかな光景を目にすることができる。これ以上の幸福があろうか。 彼女はそっと目を閉じた。 脳裏に浮かぶのはただ一人、愛した男のあの最後の夜の優しい笑顔。
(……信経……。見ていますか……。あなたの子が、そして、その子が、こうして、たくましく生きていますよ……。あなたの、命は、確かに、ここに、繋がれております……)
その日の夕暮れ時。 杏樹は信を己の枕元へと呼んだ。
「……信。少し、話が、あります」
その声はいつもよりかすかに弱々しかったが、その響きには決して揺らぐことのない静かな覚悟が宿っていた。 信は母のそのただならぬ様子を察し、黙ってその傍らに正座した。
杏樹はゆっくりと身を起こすと、枕元に常に置いてある一つの古びた桐の箱を手に取った。 そしてその蓋を静かに開けた。 中には二つのものが大切に納められていた。 一つは黒塗りの見事な笛筒。 そしてもう一つは茶色く変色し、もはや読むことも困難なくらいに古びてしまった一通の書状であった。
「……信。これを、あなたに、託します」
杏樹はまずその笛筒を手に取り信に差し出した。
「……これは、名笛、『小枝』。私の祖父が院より拝領し、父を経て私が受け継いだものです。表向きの、平敦盛という、物語と、共に、これはお前が受け継ぎなさい。お前には、その、資格がある」
信は驚きに目を見開いたが、母の真剣な眼差しに何も言わず、そのずしりと重い笛筒を恭しく両手で受け取った。
次に杏樹はあの書状を手に取った。 彼女はその古びた紙の感触を確かめるように愛おしそうに指でそっとなぞった。
「……そして、これ……」
彼女の声がわずかに震えた。
「……これこそが、私たちの、本当の、物語です。お前の父上、伊勢信経が、その命の最後に、母に、遺してくれた、魂の、全てです」
彼女はその書状を信の大きな手の上にそっと重ねた。
「……この中の言葉を、決して、忘れてはなりませぬ。そしていつか、お前の子、信久が、物事の道理をわきまえる、年頃になったなら……その時には、お前の口から、お前の父上の、本当の物語を語って聞かせて、おやりなさい。そして、そのまた子へも、語り継いでいくのです」
それは遺言であった。 そして母から子へと受け継がれる魂の継承の儀式であった。 信は父の遺書を、まるで壊れ物を扱うかのように両手で大切に包み込んだ。 そして深く深く母に頭を下げた。
「……母上。確かに……確かに、お預かり、いたしました。父上の名誉も、母上の想いも、この信が、生涯をかけて、未来永劫、守り抜いて、みせまする」
その言葉に嘘はなかった。 杏樹はそれを聞いて満足そうに深く頷くと、再びゆっくりと床に身を横たえた。
その夜、杏樹の容態は急変した。 信とその妻であるお葉、そして孫の信久と千代までもが、固唾を飲んでその枕元を見守っていた。 だが杏樹の顔には不思議と苦痛の色はなかった。 むしろその表情は、どこか遠い美しいものを見つめているかのように穏やかで、そして晴れやかでさえあった。
朦朧とする意識の中で、彼女は夢を見ていた。 一ノ谷のあの最後の夜。 狭い幕舎の中で自分を優しく抱きしめてくれる男の姿。
(……信経……)
心の中で名を呼ぶ。 すると夢の中の彼がこちらを振り返り、優しく微笑んだ。 そしてそっと手を差し伸べてくる。
『さあ、参りましょう、敦盛様。もう、苦しむことは、ありませぬ。これからは、ずっと、ずっと、お側におりまする故』
杏樹はその夢の中の手に、自らの手をそっと重ねた。 温かい。 懐かしい温もり。
「……のぶつね……」
現実の世界で、彼女の唇からか細い囁きが漏れた。 それが彼女の最後の言葉であった。 信がはっと母の顔を覗き込むと、彼女はまるで安らかな眠りに落ちたかのように静かに息を引き取っていた。 その顔には生まれて初めて見せるような、満ち足りたそして幸せそうな微笑みが浮かんでいた。 平家の姫として生まれ、偽りの若武者として生き、そして一人の母としてその生涯を駆け抜けた女。 平敦盛、改め、杏樹。享年、五十七。 その波乱に満ちた魂は、ようやく愛する人の元へと還っていったのである。
――そして、さらに星霜は巡る。
杏樹と信経の血脈は、尾張の地に深く根を張り、静かにしかし確かに未来へと受け継がれていった。 彼らはもはや歴史の表舞台に立つことはなかった。ただこの地の名もなき、しかし誇り高き一族としてその血を繋いでいった。 代々の当主は父祖の名から一字を取り、「信」の字をその名に受け継ぐことを習わしとしたという。
やがて戦国の乱世が訪れる。 日本中が戦乱の炎に包まれるその真っ只中。 奇しくもこの尾張の地から一人の風雲児が現れた。 彼は旧来の権威をことごとく破壊し、天下布武を掲げ新しい時代を切り拓いていく。 その男の名を織田信長。 その名にもまた「信」の字が燦然と輝いていた。
彼が桶狭間という生涯をかけた大博打に打って出るその前夜。 彼は家臣たちを集め、自ら好んで舞った一差しがあったと伝えられている。 それは幸若舞、『敦盛』。
「――人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
燃え盛る炎の前で、彼は舞う。 自らの運命を天に問い、そして滅びゆくものの美しさを謳い上げるように。 彼がその時舞っていたのは、世に知られる平家の悲劇の若武者の物語であったのか。 あるいはその血の奥底に眠る遠い記憶。 愛する女のためにその名を継ぎ、須磨の浦に潔く散っていった一人の名もなき若武者の魂の叫びを舞っていたのであろうか。 今となってはそれを知る者は誰もいない。
歴史の奔流は表向きの華やかな物語だけを後世に伝え、その水面下に沈んだ無数の真実の愛の物語を飲み込んで流れ去っていく。 だがその血と想いは決して消え失せることはない。 名もなき誰かの心から心へと受け継がれ、そして未来という大河の一滴となって永遠に流れ続けていくのである。
(完)
血筋のロマンでこんな話があってもいいな。という思いからの執筆でした。お付き合いありがとうございました。




