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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第十七話:真実を語る時

時が止まったかのような静寂があった。 庭では名も知らぬ秋の虫が、りん、りんと鳴いている。そののどかな音が、かえって縁側に満ちる張り詰めた空気を際立たせていた。


老武士、六郎太は地に膝をついたまま動けなかった。 目の前に立つ尼僧の姿。その三十をいくつか過ぎたはずの美しい顔貌のさらに奥に。彼は十五年の歳月を飛び越えて、在りし日の主君の姿を見ていた。 一ノ谷の血に染まった浜辺で散ったはずの若君、平敦盛。 その幻影があまりにも鮮烈で、彼は言葉を失っていた。


対する杏樹は氷のように冷たい静けさを保っていた。 背後に庇った息子・信の存在が彼女を強くさせていた。恐怖はすでにない。あるのは、このかけがえのない日常を何者にも侵させはしないという、母としての鋼の意志だけであった。 彼女は静かに、しかし決して目を逸らさずに老武士を見据え続けた。


その息詰まるような睨み合いを破ったのは老武士の方であった。


「……お許し、くだされ……」


六郎太は震える声でそう言うと、畳に両手をつき深く深く頭を垂れた。その丸まった背中は、先ほどまでの鋭い武人のそれではなく、ただ老いさらばえた無力な老人のものにしか見えなかった。


「……この老いぼれの早とちり……。幻を見たに相違ござりませぬ……。尼御前様と若君様の平穏をかき乱しましたこと、万死に値しまする。何卒……何卒、ご容赦を……」


そのあまりにも必死な懇願の言葉。 杏樹はその声に嘘がないことを悟った。 この男は敵ではない。 ただ自分と同じように過去という亡霊に取り憑かれた哀れな男なのだ。 彼女の心の内で張り詰めていた氷がすうっと溶けていくのを感じた。


「……おもてを、お上げなさい」


杏樹は静かに言った。 その声にはもはや先ほどまでの刺すような冷たさはなかった。


「……そなたは、何者なのですか。なぜ、敦盛という、名を、知っているのです」


六郎太はおずおずと顔を上げた。その皺だらけの顔は涙と安堵と、そして深い困惑でぐしゃぐしゃになっていた。


「……それがしは、六郎太。かつて、故・修理大夫しゅりのだいぶ、経盛様にお仕えした、取るに足らぬ下級の武士にござります」


経盛。父の名であった。 杏樹の胸が小さく痛んだ。


六郎太は途切れ途切れに語り始めた。 平家が滅びた後、彼はかろうじて生き延びたこと。だが仕えるべき主家を失い、生きる意味を見失い、ただ諸国を放浪してきたこと。


「……わしは、経盛様から、そして敦盛様からも、大恩を受けました。都にいた頃、わしが病で伏せっておった時、敦盛様はまだ十にも満たぬご年齢であったのに、自らわしの汚い寝床をお見舞いくださり、貴重な薬を分けてくださった……。そのお優しさを、この六郎太、片時も忘れたことはござりませぬ」


それは杏樹自身も忘れていた遠い昔の記憶であった。


「……この十五年、わしはただ平家一門の菩提を弔うためだけに生きてまいりました。敦盛様が討たれたあの、一ノ谷の浜辺にも何度も足を運び、経をあげ申した……。ですが、心のどこかで信じられなかった。あのように、お優しく美しい御方が、あのような無残な最期を遂げられたとは、どうしても……」


六郎太はそこで言葉を切り、改めて杏樹の顔を、そして彼女の背後に半分だけ姿を見せている信の顔を見つめた。


「……そして、今日……あの笛の音を聞き、若君のお姿を拝見した時……わしは……わしは、奇跡が起きたのだと、思ってしもうたのです。仏が我らを哀れみ、敦盛様を蘇らせてくださったのだ、と……」


そのあまりにも純粋な、そして痛ましいほどの忠誠心。 杏樹はもはやこの老人を偽り続けることに耐えられなくなっていた。 彼女は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。


「……六郎太。そなたの忠義、篤と、受け取りました」


彼女は背後の信に優しく語りかけた。


「信。もう、よいのです。こちらへ、おいでなさい」


信は戸惑いながらも母の隣へと進み出た。 杏樹はその息子の肩をそっと抱き寄せ、そして六郎太に向かって言った。


「……そなたの見たものは、幻ではありませぬ。ですが同時に、真実でもないのです」


彼女は意を決し全てを語ることにした。 自分が女として生まれたこと。 平家のための神託の子として男、「敦盛」として育てられたこと。 そして一ノ谷で討たれたのは自分ではなく、己の名を、そして運命を引き受けてくれた一人の忠実な若武者であったことを。 その若武者の名を伊勢信経ということを。


「……一ノ谷で、死んだのは、平敦盛という、名の、武士。それは紛れもない真実です。ですが、その魂は、私の乳兄弟、伊勢信経のものでした。そして、その信経の魂は……」


彼女はそこで言葉を切り、愛おしそうに隣に立つ息子の黒髪を撫でた。


「……この息子、信の中に、今もこうして、生きておりまする」


六郎太はただ呆然と、その信じられない物語を聞いていた。 驚愕、困惑、悲嘆、そしてやがてその全ての感情が一つの、深い深い感動へと収斂しゅうれんしていくのを彼は感じていた。 彼は改めて信の顔を見つめた。 その美しい少年の顔の奥に、彼は確かに二人の人間の面影を見ていた。 敦盛の気高い美貌。 そして彼もよく知るあの実直で誠実な若者であった伊勢信経の強い眼差し。


「……そう……でしたか……。信経殿が……。あの、実直な、信経殿が……」


六郎太の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。 それは長年彼の胸の内につかえていた全ての悲しみが、ようやく溶け出して流れ落ちていくかのような涙であった。 彼はその場に平伏し声を上げて泣いた。 それは滅び去った平家一門への哀悼であり、そして愛にその身を捧げた名もなき若武者への手向けであった。


その夜、杏樹は眠れずに月明かりが差し込む縁側に一人座っていた。 六郎太は日が暮れる前に寺を発った。 彼は発つ前に杏樹と信の前で深く深く頭を下げ、誓った。


「……この六郎太、今日ここで見聞きしたことは、全てこの胸の内にしまい込み、墓場まで持って参ります。そして残りのわが人生は、信経殿の、そしてあなた様と若君の未来が平穏であることを、ただひたすら神仏に祈りながら生きていく所存にござります」


その言葉に嘘はなかった。 杏樹は彼に道中の路銀としてわずかばかりの銭を渡した。彼は何度も固辞したが、最後には涙ながらにそれを受け取った。 去っていくその小さな後ろ姿は、もはやただの寂しい老人のものではなかった。 長年の心の荷を下ろしようやく安らぎを得た巡礼者のそれに見えた。


(……これで、よかったのだろうか……)


杏樹は自問した。 過去の秘密を打ち明けてしまった。それは信経が命をかけて守ろうとした平穏を、自ら脅かす行為ではなかったか。 だが彼女の心は不思議と穏やかであった。 むしろ重い荷物を一つ下ろしたかのようなかすかな軽やかささえ感じていた。


その時だった。 背後で静かな衣擦れの音がした。 信であった。 彼は母の隣にそっと腰を下ろした。 昼間の出来事以来、彼は一言も口を利いていなかった。ただ何かを深く深く考えているような表情で自分の殻に閉じこもっていた。


「……信」


杏樹が声をかける。


「……昼間は、怖い思いをさせましたね。許しておくれ」


信は静かに首を振った。 そして彼は十五年間で初めて聞かせる、深くそして落ち着いた大人の男の声で言った。


「……母上。お話が、あります」


杏樹は息を呑んだ。 ついにこの時が来たのだ。 彼女がいつか必ず来ると覚悟し、そして恐れ続けてきたその瞬間が。 彼女は黙って頷いた。


信は一度目を伏せ、そして意を決したように真っ直ぐに母の目を見つめ返した。


「……今日、あの六郎太殿が、母上を呼んだ、名……。『敦盛』とは、誰の、ことなのですか」 「……そして、あの、笛の曲……。なぜ、母上は、あの曲を、ご存知なのですか」 「……何よりも……」


彼はそこで一度言葉を切った。 その黒い瞳が真実を求める強い光で揺らめいた。


「……私の、父上は……。私の、本当の、父上は、一体、誰なのですか」


そのあまりにも直接的で、そして切実な問い。 もはやごまかすことはできない。 杏樹は観念した。 いや、違う。 彼女はこの聡明な息子に全てを打ち明けるべき時が来たと悟ったのだ。 彼を子供として守るべき時は終わった。 これからは一人の男として真実を共有し、共に生きていくべきなのだ。


「……信。よく、聞いておくれ」


杏樹は静かに語り始めた。 自らの数奇な運命の全てを。 平家の姫として生まれながら、神託の子として男、「敦盛」として育てられた偽りの少年時代。 その孤独な日々をただ一人支えてくれた乳兄弟、伊勢信経という若者の存在。 彼の深い優しさと揺るぎない忠誠心。 そしていつしか主従の関係を超えて、互いの心の中に芽生えていった淡い恋の想い。


彼女の語りは夜が更けるのも忘れ続いた。 燃え落ちる都。 西海での流浪の日々。 そして一ノ谷での最後の夜。 彼女は初めて誰かにあの夜のことを語った。 信経の悲壮な覚悟。 彼の愛の告白。 そしてただ一度だけ結ばれたあの炎のような夜のことを。


語り終えた時、彼女の頬には涙が伝っていた。 だがそれは悲しみの涙ではなかった。 長年たった一人で背負い続けてきたあまりにも重い荷物を、ようやく下ろすことができた安堵の涙であった。 彼女はそっと懐から十五年間肌身離さず持ち続けてきた、あの書状を取り出した。 紙はすっかりと茶色く変色し、文字も薄れている。だがそこには紛れもなく信経の魂が宿っていた。


「……これが……。これが、お前の、父上が、母に、遺してくれた、最後の、言葉です」


彼女はその書状を震える手で信に差し出した。


信は黙ってそれを受け取った。 そして月明かりを頼りに、その古びた書状に記された文字を、一字一字噛み締めるように目で追っていった。 父が母へ遺した愛の言葉。 そしてまだ見ぬ己の子へ託した未来への願い。 彼は読んでいくうちにその肩が小刻みに震え始めるのをどうすることもできなかった。 だが彼は決して泣かなかった。


全てを読み終えた信は、ゆっくりとその書状を折りたたんだ。 そしてそれを母の手へと静かに返した。 彼はしばらく何も言わなかった。 ただじっと闇に沈む庭の木々を見つめていた。 その沈黙の間に、彼の中で何かが音を立てて変わり、そして新たに構築されていくのを杏樹は感じていた。 少年が死に一人の男が生まれようとしている、その尊い瞬間を。


やがて信はゆっくりと母の方へと向き直った。 その顔にはもはや子供のあどけなさはどこにもなかった。 そこにあったのは父の面影を宿す深く、そして強い意志を湛えた一人の青年の顔であった。 彼は母の涙に濡れた手を自らの大きな手でそっと包み込んだ。 そして深く落ち着いた声で言った。


「……母上。お話くださり、ありがとうございます」


「……私は……そのような気高い父上の、息子であったことを、誇りに思います」


「……そして、何よりも……」


彼はそこで一度言葉を切ると、母の手をさらに強く握りしめた。


「……そのような壮絶な人生を、たった一人で生き抜き、私をこの手で育ててくださった、母上を……心の底から、尊敬いたします」


そのあまりにもまっすぐで、そして温かい言葉。 杏樹は嗚咽が込み上げてくるのを必死にこらえた。


「……これからは……この私が母上をお守りいたします」


信は静かに、しかし決して揺らぐことのない響きで誓った。


「父上の名に恥じぬよう。そして、母上の子であることに誇りを持って。私は、生きていきます」


その言葉を聞いた時、杏樹はようやく本当に救われたような気がした。 十五年間たった一人で背負い続けてきた、重い重い荷物。 その半分を今、このたくましく成長した息子が静かに受け取ってくれたのだ。 彼女はもう一人ではない。


杏樹は涙に濡れた笑顔で深く頷いた。 月が雲間から現れ、母子の姿を優しく照らし出していた。 それは過去の全ての悲しみが浄化され、未来への確かな希望へと変わった瞬間の光景であった。

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