第十六話:過去からの訪問者
歳月は川の流れのように静かに、そして容赦なく過ぎ去っていった。 妙法寺の古びた堂宇の瓦には厚く苔がむし、杏樹が息子が生まれた年に植えた庭の杏の木は、今では彼女の背丈をはるかに超えるほどにたくましく成長していた。 毎年春には他のどの花よりも早く、薄紅色の可憐な花を咲かせ、夏には豊かな緑の葉を茂らせ、秋には黄金色の実をつけ、そして冬には全ての葉を落とし厳しい寒さにじっと耐える。その愚直なまでの生命の営みは、杏樹のこれまでの人生そのものを象徴しているかのようであった。
杏樹の息子、信は十五の春を迎えていた。 少年と青年の狭間にいるその姿は、見る者の心を奪うほどに美しかった。母である杏樹の、陶器のように滑らかな白い肌と形の良い涼やかな目元。そして父である信経の、多くを語らずとも強い意志を感じさせる黒く真っ直ぐな瞳ときりりと結ばれた唇。その双方の最も美しい部分だけを選び取って生れてきたかのようであった。 背丈はすでに母を追い越し、そのしなやかな身体には、日々の薪割りや畑仕事で鍛え上げられた若々しい筋肉がつき始めていた。 彼は母の繊細な感受性と、父の寡黙な優しさを受け継いでいた。寺の裏手の小川で日がな一日魚の動きを見つめているかと思えば、次の日には山に入り自分よりも大きな薪の束を平然と背負って帰ってくる。物静かであったが、その芯には父譲りの強い力が宿っていることを杏樹は感じていた。
彼の唯一の楽しみは、母から笛を習うことであった。 その音色はもはや子供の手慰みの域をはるかに超えていた。信が奏でる笛の音には聴く者の魂を揺さぶるような不思議な力が宿っていた。それはおそらく彼が生まれながらにして受け継いだ天賦の才であったのだろう。 夕暮れ時、寺の濡れ縁に母子が並んで座り笛を奏でる。 その穏やかで満ち足りた時間が杏樹にとっての全てであった。 彼女はこの小さな幸せが永遠に続くことだけを静かに神仏に祈っていた。
だが彼女の心の、一番奥深い場所には常に一つの消えぬ影があった。 それは彼女自身の美しさという呪いであった。 三十をいくつか過ぎたというのに、彼女の容色は衰えるどころか、母となったことでさらに深く、そして人を寄せ付けぬほどの気品を増していた。 その美しさがいつか、自分とそしてこの最愛の息子に災いを、もたらすかもしれない。その漠然とした、しかし確信に近い恐怖が常に彼女の心の底に澱のように沈んでいた。 彼女は信が物心ついた頃から固く言い含めていた。
「信。決して、寺の外で、私のことを話してはなりませぬ。ましてや、私の顔のことを、誰かに褒められたとしても、決して、得意になってはいけませぬぞ。よいな」
信はその理由を理解できぬまま、しかし母の真剣な眼差しにただこくりと頷くのであった。
その恐れていた運命の日がついに訪れたのは、秋も終わりに近づき、木々の葉が最後の鮮やかな紅の色を見せ始めたある日の夕暮れ時のことであった。 妙法寺の古びた門を一人の旅人が叩いた。 それは見るからにただの旅人ではなかった。 年の頃は六十をとうに過ぎているだろうか。背は老いのためか少し丸まっている。だがその着古された柿色の旅衣の下には、長年鍛え抜かれた武人の骨格が隠しようもなく浮かび上がっていた。顔には深い皺が幾重にも刻まれ、その左の目元には古い刀傷の跡が白く残っている。 だが何よりも印象的だったのはその瞳であった。 老いてなお、その奥に宿る光は少しも衰えていない。それは獲物を狙う鷹のような鋭さと、そして多くの修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、深い深い諦念の色を同時に宿していた。
男は応対に出た慈信尼に深く頭を下げ、名乗った。
「……それがしは、六郎太と申す、ただの隠居の身にござります。諸国を巡礼の途中、日が暮れてしまい難儀しておりました。まことに厚かましいお願いとは存じますが、今宵一夜、軒下なりともお貸しいただくことはできませぬでしょうか」
その口調は丁寧であったが、その言葉の端々には武人らしい独特の響きが残っていた。
慈信尼はその老武士の姿を静かに見つめた後、穏やかに頷いた。
「……仏の道に、入った者に、貴賤の別は、ございませぬ。旅の、お疲れでございましょう。さあ、どうぞ、中へ。粗末な物しかございませんが、粥くらいは、差し上げられましょう」
慈信尼のその慈悲深い申し出に、杏樹は内心激しく動揺していた。 台所の仕切り戸のわずかな隙間から、その老武士の姿を窺っていた彼女は、得体の知れぬ強い胸騒ぎを感じていたのだ。 あの男。 あの佇まい。 あれはただの巡礼者ではない。 あれは自分と同じ匂いがする。 平家という滅び去った過去の亡霊の匂いが。
杏樹は咄嗟に信を呼び寄せ、固く言い含めた。
「信。今宵は、決して、母屋に近づいてはなりませぬ。客人がお帰りになるまで、離れで静かに、しておるのです。よいな」
信は母のただならぬ様子に戸惑いながらも素直に頷いた。
その夜、杏樹はほとんど眠ることができなかった。 客人が寝泊まりしている母屋の方から、時折聞こえてくる老人の低い咳払い一つにさえ、彼女の神経は針のように尖った。
(……あの男は、何者……?) (……一体、何のために、このような、辺鄙な寺へ……?)
様々な憶測が彼女の頭の中を駆け巡る。 まさか平家の残党狩りか。いや、それにしては歳月が経ちすぎている。 では一体……。
翌朝。 杏樹は意を決し、自ら客人のための朝餉の膳を運ぶことにした。 いつまでも怯えていては埒が明かぬ。この目で直接確かめるしかない。 彼女は市女笠を深く深く被り、決して顔を上げぬよう細心の注意を払って客間へと向かった。
部屋では老武士、六郎太がすでに身支度を整え、行儀よく正座していた。
「……朝餉の、ご用意が、できました」
杏樹は俯いたままそう告げ、膳を彼の前に置いた。
「……おお、これは、ご丁寧に、痛み入る」
六郎太はそう礼を述べたが、その視線は膳ではなく、杏樹のその俯いた姿にじっと注がれているのを、彼女は肌で感じていた。 それは値踏みをするような鋭い視線であった。
杏樹は一刻も早くその場を立ち去りたかった。 彼女が膳を置き終え、静かに部屋を出ようとしたその時だった。 寺の裏手の庭の方から清らかな笛の音が聞こえてきた。 それは信が毎朝日課としている、笛の練習の音であった。 その旋律。 それはかつて「平敦盛」が得意としたあの秘曲、「青葉の笛」であった。
ぴたり、と六郎太の動きが止まった。 彼の顔が驚愕に染まる。 そしてその鋭い視線が杏樹から、音のする庭の方へと向けられた。
「……この、笛の音は……。まさか……」
彼は何かを確かめるようによろめきながら立ち上がると、吸い寄せられるように庭へと続く縁側へと向かった。
(……しまった……!)
杏樹の血の気が引いた。 なぜ今日に限って信はあの曲を。 彼女は咄嗟に六郎太の前に立ちはだかろうとした。 だがもう遅かった。
縁側から庭を見下ろした六郎太の視線の先にその姿はあった。 朝陽を浴びて輝く杏の木の下で、一人の美しい少年が一心不乱に笛を吹いている。 その気品のある横顔。 その滑らかな白い肌。 そして何よりもその笛の、あまりにも巧みでそしてどこか物悲しい音色。 六郎太の身体がわなわなと震え始めた。 彼の脳裏に二十年近く前の記憶が鮮やかに蘇る。 都の六波羅の御殿で。あるいは西海の船の上で。幾度となく耳にしたあの若君の笛の音。そしてその類まれなる美貌。
「……まさか……。そのような、ことが……」
老武士は信じられないというように首を振り、そしてゆっくりと杏樹の方を振り返った。 彼の目は完全に据わっていた。 杏樹は恐怖で後ずさりそうになるのを必死にこらえた。 彼女は咄嗟に被っていた市女笠をさらに深く、顔を隠そうとした。 だがその狼狽した仕草が、かえって彼の疑念を確信へと変えてしまった。
六郎太は幽鬼でも見るような目で杏樹に一歩また一歩と近づいてくる。 そして彼は震える手で彼女の市女笠に手をかけた。
「……やめ……!」
杏樹の制止の声も虚しく、笠は無情にも払い落とされた。 朝の柔らかな光の中に隠されていた彼女の顔の全てが露わになる。
時が止まった。 六郎太は息を呑んだ。 その顔。 歳月を経て少しは変わってはいる。だがその根本にある造作の美しさと気品は隠しようもなかった。 何よりもその大きな黒い瞳。 それは彼が生涯忘れることのできぬ主君の面影を宿していた。 平家の若武者。 一ノ谷の露と消えた悲劇の貴公子。 平、敦盛。
「……あ……あつ……もり……さま……?」
老武士の唇から絞り出すようなか細い声が漏れた。
「……まことに……まことに、敦盛様……に、あらせられますか……? 生きて……生きて、おられたと、申されるか……?」
彼はその場にがくりと膝をつき、まるで亡霊に出会ったかのようにただ呆然と杏樹の顔を見上げるだけであった。
杏樹の世界は音を立てて崩れ落ちた。 ついに来た。 いつか必ず来ると恐れていたその日が。 過去が亡霊となってこのささやかな平穏を破壊しにやってきたのだ。
彼女の最初の反応は純粋な恐怖であった。 全身の血が凍り付く。 彼女は咄嗟に背後の信の元へと駆け寄り、その小さな身体を己の背中に庇うように隠した。
「……母上……? どう、なされたのですか……?」
信が戸惑ったように尋ねる。 だが杏樹には答える余裕はなかった。
逃げなければ。 今すぐここから。信を連れて。 どこへ? どこへ行けばいいというのだ。 もはやこの日の本に安住の地などどこにもない。
その絶望的なパニックの中で。 ふと彼女の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。 信経。 あの最後の夜。 そして彼が命をかけて遺してくれた言葉。
(……私が、この子を、守る……) (……信経……。あなたに代わって、私が……。たとえ、この身が、どうなろうとも……)
その瞬間。 杏樹の中で何かが変わった。 氷のような恐怖がすうっと引いていき、代わりに心の、一番奥底から烈火のような何かが込み上げてきた。 それは怒りであった。 己の運命に対する怒り。 そして何よりもこの最愛の息子を脅かす全てのものに対する母としての猛烈な怒りであった。
彼女は背中に隠した信の肩をそっと押した。
「……信。離れへ、戻っていなさい。決して、ここへ来ては、なりませぬぞ」
その声は驚くほど冷静で、そして有無を言わせぬ響きを持っていた。 信は母のただならぬ気迫に押され、何も言えずに頷くと裏口から走り去っていった。
信の姿が完全に見えなくなるのを確かめると、杏樹はゆっくりと老武士の方へと向き直った。 彼女は乱れた尼の衣を整えた。 その何気ない仕草。 だがそれはもはやただの尼僧、杏樹のものではなかった。 まるで十二単の袿を纏うかのように。 その背筋はすっと天に向かって伸び、その顎はわずかに上げられ、その瞳には相手を射抜くような鋭い光が宿っていた。 そこにいたのは平家の姫君、平敦盛、その人であった。
彼女は地に膝をついたまま呆然としている老武士を静かに見下ろした。 そして氷のように冷たく、そして鈴が鳴るように美しい声で言った。
「――老武者よ。そなたは、幻を、見たのです」
「……この寺には、杏樹という、名の、尼と、その、息子が、いるだけ。平敦盛などという、男は、二十年も前に、須磨の浦で、とうに、死にました」
彼女は一歩前に進み出た。
「……お分かりですか。幻は、人に語るものではありませませぬ。語れば、身を、滅ぼしますぞ。そなたの、身も、そして……」
彼女はそこで一度言葉を切った。 その美しい瞳が剃刀のように鋭く細められる。
「……私の、大事な、息子の、身も」
その圧倒的な気迫。 それは慈母のそれではない。 己の子を守るためならば鬼にもなるという母性の凄み。 そして全てを失ってもなお、その血の奥に流れ続ける王者の誇り。 老武士、六郎太は、ただ圧倒され震えながらその場に平伏するだけであった。




