第十五話:『敦盛』を聴く日
あれから十年の歳月が流れた。 妙法寺の古びた堂宇の瓦には厚く苔がむし、杏樹が植えた庭の杏の木は、今では彼女の背丈をはるかに超えるほどにたくましく成長していた。 歳月は人の世の大きな出来事を遠い昔語りへと変え、そして小さな命を確かな存在へと育て上げる。その静かで抗いがたい流れの中で、杏樹の息子、信は健やかな少年に育っていた。
信は十歳になっていた。 その姿は見る者の心を奪うほどに美しかった。母である杏樹の、陶器のように滑らかな白い肌と形の良い涼やかな目元。そして父である信経の、多くを語らずとも強い意志を感じさせる黒く真っ直ぐな瞳ときりりと結ばれた唇。その双方の最も美しい部分だけを選び取って生れてきたかのようであった。 彼は母の繊細な感受性と、父の寡黙な優しさを受け継いでいた。寺の裏手の小川で日がな一日魚の動きを見つめているかと思えば、次の日には山に入り自分よりも大きな薪の束を平然と背負って帰ってくる。物静かであったが、その芯には父譲りの強い力が宿っていることを杏樹は感じていた。
彼の唯一の楽しみは、母から笛を習うことであった。 杏樹はかつて自分がそうであったように、信に笛の手ほどきをした。信は驚くほどの才能を見せ、すぐにその複雑な指使いと息遣いを覚えていった。 夕暮れ時、寺の濡れ縁に母子が並んで座り笛を奏でる。 杏樹が奏でる物悲しくも美しい主旋律に、信のまだ少し、たどたどしいが清らかな音色が寄り添うように重なる。 その音色は風に乗り、丘の下の里へと流れていく。 その穏やかで満ち足りた時間が杏樹にとっての全てであった。 彼女はこの小さな幸せが永遠に続くことだけを静かに神仏に祈っていた。
そんなある秋の日のことであった。 寺に薪を納めに来た里の男が、興奮したように言った。
「尼様! 聞きましたかい! 明日この里に、都で評判の幸若舞の一座が、やってくるそうで!」
幸若舞。 その言葉を聞いた瞬間、杏樹の心臓がどきりと小さく跳ねた。 それは武士たちの間で今、最も人気を博しているという新しい芸能であった。物語を独特の節回しで語り、それに合わせて舞手が勇壮に舞う。
「……して、その、演目は、何と申すのですか」
杏樹は声が上ずらないように必死にこらえながら尋ねた。 男は得意げに胸を張った。
「へい! なんでも『平家物語』の中でも一番の名場面! 一ノ谷で散った悲劇の若武者、『敦盛』だそうで!」
敦盛。 その名を聞いた瞬間、杏樹の耳の奥できぃん、という鋭い耳鳴りがした。 血の気がさっと引いていく。 あの忌まわしい、そしてあまりにも気高い偽りの自分の名。 それが今や物語となり、人々の慰みものとして諸国を巡っている。 その残酷な現実を彼女は改めて突きつけられた。
「母上!」
話を聞いていた信が、目をきらきらと輝かせながら杏樹の袖を強く引いた。
「幸若舞! 私、見てみたいです! お願いです、母上! 明日、一緒に里へ連れて行ってください!」
信はこの寺で生まれ、この寺で育った。彼にとって外の世界は常に憧れの対象であった。 その純粋な好奇心に満ちた瞳に見つめられ、杏樹は言葉に窮した。 行きたくない。 断じて行きたくない。 愛する男の壮絶な死が、どのように歪められ、どのように美化され語られているのか。そんなものを直視する勇気はなかった。 何よりも人々の好奇の目に晒されるのが怖かった。この美しさがいつか災いを招く。その予感は年々強くなっていた。
彼女が断りの言葉を探して俯いた、その時だった。 背後から静かな声がした。
「……杏樹。行って、おやりなされ」
いつの間にかそこに立っていた慈信尼であった。 老婆は全てを見通すような穏やかな目で杏樹を見つめていた。
「……お前さんが、何を恐れているのかは、知らぬ。じゃが、信は、もう、子供ではない。外の世界を、知ることも、必要じゃ。……そして何より……」
慈信尼はそこで一度言葉を切った。
「……お前さん自身も、いつまでも、過去の影の中に、閉じこもっていては、ならぬ。流れる川の水が、濁らぬように、人の心も、時には、外の風に、当てねば、ならぬものよ。……行きなされ。信のために。そして、お前さん自身のために」
その言葉に、杏樹は逆らうことができなかった。 それはまるで己の心の、一番奥深い部分を見透かされたような言葉であったからだ。
翌日の昼下がり。 杏樹は信の手を引き、十年ぶりに丘の下の里へと下りていた。 彼女は市女笠を深く深く被り、その顔を決して誰にも見られぬように隠していた。 里の中心にある広場には、すでに黒山の人だかりができていた。 その場しのぎの簡素な舞台が組まれ、その周りを農夫や商人、女子供たちが期待に満ちた顔で取り囲んでいる。誰もがめったにない、この娯楽に心を浮き立たせていた。
杏樹と信は人垣の一番後ろの方にそっと場所を取った。 やがて甲高い笛の音と共に舞が始まった。 舞台に現れたのは太夫と呼ばれる一人の語り手と数人の舞手だけであった。 だが太夫がその腹の底から絞り出すような力強い声で物語を語り始めると、その場の空気が一変した。
「……それ、平家物語を、紐解くに……」
ど、ど、ど、と足元から響き渡るような鼓の音。 物語は一ノ谷の平家の陣から始まった。
杏樹は俯き、ただその語りを聞いていた。 語られる物語。それは彼女の知る真実とは似ても似つかぬものであった。 物語の中の「平敦盛」は、類まれなる美貌と武勇を兼ね備えた完璧な貴公子として描かれていた。彼は戦の恐怖など微塵も感じず、ただ一門の勝利だけを信じ勇猛果敢に戦う。
(……違う……)
杏樹は心の中で叫んだ。
(……本当の、私は、ただ、恐怖に震えていただけの、か弱い、娘だった……)
物語はクライマックスへと向かう。 敗走する敦盛。それを呼び止める熊谷直実。 そして浜辺での一騎打ち。
「返させ給え!」
太夫のその絶叫と共に、舞台上の二人の舞手が激しく交錯する。 木刀がぶつかり合う乾いた音が、観客の興奮を煽った。
信が隣で息を飲む気配がした。 彼の小さな手は興奮で固く握りしめられている。 だが杏樹の目にはもはや舞台上の稚拙な舞など映ってはいなかった。 彼女の脳裏に蘇っていたのはあの日の本物の光景であった。 血に染まった須磨の浦。 怒号と悲鳴。 鉄の匂い。 そして彼女の名を騙り、たった一人で死地へと向かっていった愛する男の、あの悲壮な背中。
舞台の上では「敦盛」がついに組み伏せられる。 直実が兜を押し上げる。
「……見れば、十六、七ばかりなる、若武者の、薄化粧して、かね黒なり。我が子、小次郎が、程にて、容顔、美麗なれば、いずくに、刀を立つべしとも、覚えざりける……」
太夫が涙ながらに語るその名場面。 観客の中からすすり泣きが聞こえてくる。
(……ああ……ああ……!)
杏樹は市女笠の下で唇を強く噛み締めた。 涙が溢れてくるのを必死にこらえた。 それは悲しみの涙ではなかった。 怒り。そしてどうしようもない虚しさ。 彼の死が。 伊勢信経という一人の誠実な男の、命をかけた愛の行為が。 こんな安っぽい感傷的な物語にすり替えられてしまっている。 人々は偽りの美しい悲劇に涙し、彼の本当の痛みと覚悟を知る者はこの世に誰一人としていない。
物語はついに終わりの時を迎える。
「……これほどの、若武者を、討ちたてまつるは、心苦しけれども、同じくは、直実が手にかけ、後の、御孝養を、仕らん……」
そう言って直実が「敦盛」の首を掻き切る。 舞手がばたり、と舞台の上に倒れる。 観客席から大きなため息と嗚咽が漏れた。
杏樹はもう耐えられなかった。 彼女の心の中で何かが崩れ落ちていく。 信経の本当の名は歴史の闇の中に葬り去られ、自分が捨てたはずの偽りの名だけが永遠に語り継がれていく。 なんという皮肉。なんという無慈悲。 彼の計画は成功したのだ。 あまりにも完璧に成功しすぎたのだ。 彼は見事に「平敦盛」という悲劇の英雄を作り上げ、そしてその名を不滅のものとした。 その代償として彼自身の存在は完全に消し去られてしまった。
「母上……」
隣で信が心配そうに杏樹の顔を覗き込んでいた。 彼の大きな黒い瞳には、物語への感動と興奮の涙が浮かんでいた。
「……なんと、お強い、若武者だったのでしょう。そして、なんと、お可哀想な……。笛が、お上手だったのですね。まるで、母上の、ようです」
そのあまりにも無邪気な言葉が、短刀のように杏樹の胸を深く深く抉った。 お前の目の前にいるこの母こそが、その「敦盛」なのだ、と。 そしてお前が今涙したその気高い若武者こそが、お前の本当の父親なのだ、と。 叫びだしたい衝動に駆られた。
だが彼女は何も言えなかった。 ただ市女笠の下で溢れ出してくる涙を、誰にも見られぬよう俯くだけであった。 そして彼女は息子の小さな手を、まるで何かにすがるように強く強く握りしめた。 その温かい手の感触。 その中に流れる信経の血の温もり。
舞が終わり、観客席からは割れんばかりの拍手が巻き起こっていた。 だがその音はもはや杏樹の耳には届かなかった。
(……それで、いい……)
彼女は心の中で呟いた。
(……世間の者たちは、偽りの物語に、涙すれば、よい……) (……あなたの、本当の、気高さと、優しさと、そして、深い愛は、私が、知っている。私が、決して、忘れはしない……) (……そして、何よりも……)
彼女は涙に濡れた瞳で、隣に立つ息子の顔を見上げた。 信経の面影を宿すその美しい顔を。
(……あなたの、命は、ここに、ある。この子が、いる。これ以上の、真実が、どこに、あろうか……)
世間は偽りの「敦盛」を語り継ぐ。 だが私は真実の「信経」をこの胸に抱き、そして彼の命を未来へと繋いでいく。 それこそが生き残った私の戦いなのだ。 杏樹はそう固く心に誓った。 握りしめた息子の手の温かさだけが、そのあまりにも孤独な戦いを支える唯一の光であった。




