第五話 大角大蛇 (後編)
大降りの雨が窓を打つ音と目覚まし時計の音で、目が覚める。
目覚まし時計を止めて目を開けても、眠気から完全に覚醒することは出来なかった。
原因は、解っている。
椿たちを襲った、あの大蛇の邪霊だ。
腕を上げて、降ろす反動で身体を起こす。
ぐっと背筋を伸ばすことで、暗鬱とした気持ちを入れ替えることが出来た。
それでもまだしこりのように胸に残っているのは、未だ進展のない大蛇への不安だ。
「あ……そっか、もうすぐゴールデンウィークなんだ」
壁に掛かったカレンダーに目をやり、そう呟く。
五月の連休、GW……普段だったら、思わず頬が緩むというのに、気分は晴れない。
自分たちを襲った邪霊が、まだ校舎で息を潜めている。
――その事実が、重かった。
だからといって、足を止めてはいられない。
せめて誰かが巻き込まれないように、誰も巻き込まれないように、そして――。
「――後悔しないように、しなきゃ」
朝食を作るために、立ち上がる。
弁当も作らなければならないし、部屋干しになってしまうが洗濯物だって干す必要がある。
朝は忙しい。
――そして、忙しさは憂鬱を忘れさせてくれる。
降り止まない雨と、窓に当たる風。
その音が、椿のため息を虚空へ消していた。
大蛇に遭遇してから、三日。
新たな失踪者が出ることもなく、静かな日常が続いていた。
そう――――不気味なほど“平穏”な、日常が……。
Flame,Plus
助けられた女生徒は、最初に失踪した被害者だということが判明した。
だが、目を覚ました彼女は茫然自失となっていて、邪霊のことはなにも覚えていなかった。そのことが噂になり、学校には不穏な空気が流れていた。
そんな空気の中でも、授業は行わなければならない。
いつまでかかるかも解らないのに、休校にする訳にはいかないという判断だった。
「み、みなさん、お、おはようございます」
入室してきた雅人は、普段よりも腰が引いていた。
どんよりとした空気に当てられたのか、顔が引きつっている。
さっさと授業を始めたいのか、雅人はいつもよりも素早い動きで教壇に立って、号令を促した。授業に入ってしまえば、自分のペースだ。
「さ、さて――――今日は、邪霊と人間の関係について、お話ししましょう」
ペースに引っ張り込もうと必死なのか、いつもより良く通る声で授業の開始を告げる。
いくら陰鬱な空気だったとしても、ここは名門校。この学校に通う以上、授業に真面目に取り組む姿勢を崩したりはしなかった。彼女たちは、名家として名門に通うプライドがあるのだ。
「人間にとって、邪霊は天敵です。それは、魂の消滅というリスクからもわかるでしょう。そして、精霊にとっても邪霊は天敵です。彼らは、精霊すらも餌だからです」
邪霊は強い人間を食べて力をつけ、強い精霊を食べて力を取り組む。
その関係からか、精霊達は極端に邪霊を敵視している。
「邪霊は、時折人間を浚うことがあります。浚われた人間はどのような事をされているのかわかりませんが、大抵は帰ってくることが出来ません」
邪霊に拉致された人間が居るという事実が確認されたのは、ごく近年のことだった。
今まで敵対してきた、直接の戦闘以外で関わることの無かった邪霊の新しい動きに、人間達は戸惑いながら必死に対策と原因を調べた。
「そんな中、浚われた人間が、無傷で帰ってきました」
生存して、すぐに保護されたのは、まだ十にも満たない少年だった。
少年は断片的にしか記憶を所持していなかったため、結局なにも解らなかった。
「その状況に変化が起きたのは、保護されてすぐのことでした」
少年は、襲ってきた邪霊を、超常的な力を以て打ち倒した。
両目が紫色に輝くと、少年は手を握る動作で離れた位置にいた邪霊を“掴んだ”のだ。
「その後の調査で、彼は邪霊によって特別な能力が植え付けられていた事が判明しました」
邪霊の仲間ではないかと疑われた少年の誤解が解けたのは、それから更に数年後のことだった。
「邪霊が何故そのようなことをしたのか?それが判明したことにより、漸く彼らに対する風当たりが弱くなりました」
最初の事件が二十五年前。
風当たりが弱くなったのは、ほんの五年前だ。
まだ、差別的な意識は抜けていなかった。
「それから、毎年、多くはありませんが同じ境遇の少年少女が確認されてきました。そんな彼らのことを、我々は“向こう側の子供達|≪アビスチルドレン≫”と呼びます」
そう締めくくると、雅人は一息ついて黒板に年号などの情報を書き込み始めた。
授業に呑まれたのか、生徒達の陰鬱は空気は、ある程度とはいえ払拭されていた――。
†
どこに出没するか解らない。
それが、邪霊の特に恐ろしいところだ。
どうも巻き込まれる節がある椿は、時間の空いていたレイアと連れ添って帰宅していた。
奈津は、数学の授業中の度重なる居眠りを注意されて、安全な職員室で説教されている。
奈津も狙われそうな状況に立っているのは確かなので、そちらにはラミネージュがついていた。
「それにしても、おかしいですわ」
「レイア?」
帰宅途中、レイアは顎に手を当てて、そう呟いた。
「教師陣の対応の遅さ、ですわ」
「他で手が回らない、とか?」
他校ならば、それでも通るだろう。
だが、ここは世界有数の名門校。名家大家が集まるような学校だけあって、セキュリティーも教師も一流だ。
「しかも、アンジェリカ先生のようにレベル九の魔法使いまで雇っているのですよ?それで手が回らないなんて事、あるはずがないですわ」
この学院に流れる不穏な雰囲気を、名家の権力争いといった人間の黒い部分を見てきたレイアは、敏感に感じ取っていた。それが、他者の悪意だと断定できる訳ではないが、なにかしらの思惑があるとは、確信した上での発言だった。
「なんにせよ、蛇は執念深い生き物といいますし、注意しておきなさい。椿」
「うん……そう、だね。ありがとう、レイア」
蛇は、家屋などで見つけたら自分を確認される前に追い払う必要がある。
下手に手を出して威嚇でもされたら、もう殺してしまわなければならいのだ。
それは、直接戦闘した椿たち――それも、椿は獲物を奪っている――は、尚更だ。
殺せなかった以上、最大限の注意を払う必要がある。
邪霊を常識でくくるのは間違いだが、習性は器に引っ張られるということは、少なからずあるものであった。
何事もなく、寮に着く。
椿とレイアはそのことに安堵の息をつく。
「それでは、また明日ですね、椿」
「うん、ありがとう。また明日、レイア」
椿は、レイアと別れて自分の部屋へ帰っていった。
レイアはその後ろ姿に、嫌な予感を感じながらも、流石に寮の中まで来たりはしないだろうと頭を振る。
「疑心暗鬼が、過ぎますわね」
そうして、レイアも気を取り直して自室に戻った。
†
部屋に帰った椿は、シャツにロングスカートという軽い私服に着替えて翌日の予習をしていた。そして、息抜きにコーヒーでも煎れようと、大きく腕を伸ばしてから立ち上がる。
壁掛けの時計を見ると、時針は五の数字を指していた。
「奈津達は、もう帰れたかな?」
そう呟くと、気になってくる。
携帯電話やテレビの類は校則で禁止されているため、持ってくることが出来ない。
そのため、寮生に連絡が取りたいのなら、直接部屋に行くしかなかった。
「様子、見に行ってみようかな」
狙われているかもしれない。
その不安をかき消すためにも、椿はあえて声に出して呟いた。
こんな時は、友達に会いに行くに限る。
――コン、コン
チャイムの音と、その後すぐに聞こえたノックの音。
椿は、奈津達かとも考えたが、わざわざノックをしたりはしないだろうと頷いた。
ならば誰だろうと首をかしげてから、すぐにのぞき窓を見る。
「どちらさまですかー?」
のぞき窓の向こうに立っていたのは、黒縁眼鏡にお下げをした女生徒だった。
最初の被害者にして、椿が救出したあの生徒だ。
「あなたは……もう、大丈夫なんですか?」
椿は、ドアを開けて心配そうに声をかけた。
非道く錯乱していたという話は、楓から聞いていた。聞いていなくとも、噂にはなっていたが。
「は、はい……その節は、ありがとうございましたっ」
頬に朱をさして勢いよく頭を下げる。
その姿はすっかり元気なようで、椿は安心しながらお礼を受け取った。
「どういたしまして。無事で良かったです」
女生徒は、再び頭を下げると、真剣な目で椿を見た。
「あの、それで、その……」
言いづらそうに口をもごもごとさせる女生徒に、椿は首をかしげる。
女生徒は、困惑しつつも口を開くのを待つ椿に、決心したように告げた。
「あの邪霊のことで、お見せしたいものがあるんです」
「え――?」
何故教師ではなく自分なのか?椿はそれを聞こうと口を開く。
「ねぇ――」
「お願いしますっ!……助けていただいたのに、いえ、助けていただいた貴女にしか、頼ることが出来ないんです!」
だが、それも女生徒の必死な叫びに遮られた。
かたかたと肩を震わせる女生徒に、椿は息を呑んだ。
女生徒は目に一杯の涙を溜めて、椿に懇願する。ここまで頼られて捨て置ける程、椿は大人にはなれなかった。
「わかった、わかったから!」
「あ――」
そう告げて、震える女生徒を抱き締める。
すると、ゆっくりだが女生徒の震えが収まった。
「今、装霊器をとってくるから待っていて」
「はいっ!」
椿は、すぐに部屋に戻って、装霊器を右手に嵌める。
左手の指に戦鎧を嵌めることも、忘れない。
「ねぇ、あの時貴女を一緒に助けた、私の友達も――ちょっ!?」
「ついてきてくださいっ!」
椿は、信頼する友人達にも声をかけたいと説得しようとした。
だが、女生徒はひどく焦った様子で走り出してしまった。
当然だが、先日まで錯乱していたという彼女を放っておくことなどできない。
だから、椿は女生徒を追うために、走り出す。
「待ってっ!」
女生徒は椿が考えていたよりもずっと速いスピードで、寮の外へ飛び出した。
椿は追いかけるのに必死で、寮の外へ来てしまったことの意味も気がつかず、追いかける。
女生徒の足は速く、視界の中に収めておくことだけで精一杯だった。
そのため、困惑している余裕もなく、椿は足を動かして女生徒を追いかける。
そして、女生徒は寮の裏手に回り込み、茂った林に飛び込んだ。
「はぁっ……はぁっ……一体、どうしたの?」
足を止めて、無言で俯く女生徒に、椿は肩で息をしながら問いかけた。
すると、女生徒は、虚ろな目で呟いた。
「にげ……て」
「え――っ!?」
崩れ落ちる女生徒を抱え込もうと近寄った瞬間、視界が闇に閉ざされた。
迫り来る漆黒に混乱する意識の中で、椿は抱え上げた女生徒を突き飛ばす。
これで、女生徒は助かるだろう。だが、ここで大きく口を開けた大蛇に呑み込まれてしまったら、女生徒が食べられるのも時間の問題だ。
闇より濃い深淵が迫る中、椿はどうにかして窮地を脱しようと考えていた。
だが、可決策を思い浮かべているような時間はない。
既に至近距離にまで迫った、大蛇の口。
そして、その絶望を覆す――声が響いた。
「二度あることはっ」
耳の届く、救いの音。
何度も何度も、椿を救いあげる、可憐なヒーロー。
「二度とも潰すッ!」
横面への跳び蹴り。
前回と違うのは、それだけで終わらないことにある。
「一つ!」
空中で足の裏から魔力を噴出させて、怯んだ大蛇の斜め上から踵落しを決める。
「二つ!」
そのまま足を振り抜いて、空中回転。左の踵落しを打ち込む。
「三つ!」
更に回転と勢いを加えて、右の踵落し。
この時点で、大蛇は反撃のそぶりを見せることも出来ずに怯んでいた。
「ラストッ!」
最後は、身体のひねりも加えて放つ、両足を使った踵落し。
巨大な鉄槌のごとき一撃に、大蛇は両の目から黒い液体をまき散らしながら、頭から地面に叩きつけられた。
「椿っ!無事!?」
「う、うん。でも、どうしてここに?」
奈津は、散々説教されて寮へ帰るところだった。
そこで、ラミネージュと一緒に歩いていたときに、遠くで茂みに入る椿を見つけたのだ。
こんな時間に、焦ったように茂みに飛び込む。厄介事なのは、間違いない。
「ラミは、装霊器が大きくて持ち歩けないとかで部屋に取りに行った。レイアも呼んできてくれるから、それまでに」
椿は力強く頷くと、戦鎧を装着して、起き上がった大蛇を睨み付けた。
大蛇は、二回三回と頭を振ると、黒い液体の流れ続ける深淵の瞳で椿たちを睨み付けた。
その瞳に映るのは、ただただ深い闇だけだ。
『シュゥゥゥゥウウウウウ……』
先の割れた細い舌が、黒い粘着質な液体を零しながら、ゆらゆらと動く。
それはまるで、邪霊の流す血液のようだった。
『シャァァァァアアアアアアッッッッ!!!!』
大蛇の身体が、ぶれる。
それは、今までのものとは比べものになりらないスピードだった。
それでも、椿と奈津は追いつかれることなく左右に飛んだ。
――ガヅンッ
大蛇は、獲物を見失った事を気にもとめず、大きな木に激突する。
そしてそのまま木をへし折り、口にくわえた。
それを、大きな身体を振り回す遠心力を用いて、椿の方へ投げた。
左右に別れたため、奈津はフォローに向かうことが出来ない。邪霊もそれを見越したのだろうが、奈津はそもそもフォローに向かう気は無かった。
「【四元素が一柱を司どる・灼熱を統べし槍の火蜥蜴よ・我が手にその穂先を与えん】」
大きく伸びた炎の刃を、縦に一閃した。
すると、刃に触れた木が、燃え上がりながら二つに分かれた。
そして、木を投げたことで無防備になった大蛇を見逃すのような、奈津ではない。
「【大気を統べし風の主よ・我が身体に宿り・我が身に疾風の加護を授けん】」
その身体を疾風の矢として、一直線に大蛇へ向かう。
大蛇は慌てることなく、その長い尾を使って迎撃の態勢に入った。
「甘いッ!」
左側面から襲いかかる尾を、奈津は空中で体勢を変えることにより踏み台にした。
更に高く飛び上がる奈津の着地地点に、大蛇は大口を開けて構えた。
「させない!」
近づいてきた椿が、口が閉じるように穂先を使ったアッパーカットを入れた。
軽く仰け反る大蛇の顎の裏に、上空から魔力の噴射と落下の勢いを味方につけた奈津が、轟音と共に振ってきた。
――ドオンッ
「でぇりゃぁぁぁっ!!」
地面にめり込む勢いで、角から落ちる大蛇。
奈津は飛び上がって、大蛇から距離をとると、椿に並ぶ。
「あれ?これ勝てそう?」
「油断しないの。奈津」
大蛇は、尾を奈津達に向けたまま、動かない。
消滅しないうちは、油断は出来ない。それでも、緊張に耐えかねた奈津は、ほんの一瞬気を抜いた。
「――っ奈津!」
――ドンッ
轟音と同時に、椿は奈津を突き飛ばす。
「え?」
呆然と呟く奈津の前で、椿は大蛇に呑み込まれる。
悲鳴を上げる暇もなく、奈津の視界から消えた椿。大蛇は、めり込んだ部分から地面を掘り進み、胴を伸ばして椿たちを後ろから襲いかかったのだ。
「あ、ぁ、ぁ、あ」
ぱくぱくと口を動かし、声にならない悲鳴を上げる。
大蛇はそんな奈津を見て――ニタリと、歪に笑った。
「………えせ」
俯いているため、表情は見えない。
だが、噛みしめた唇からは血がにじんでいた。
「椿を返せぇぇぇええええっ!!!!」
技も策もなく、一直線に走る。
大蛇は穴から這い出ると、魔力を纏う奈津を呑み込もうとした。
だが、それは大蛇の頭上より振ってきた、“何か”によって遮られる。
それを確認して、奈津は大きく飛び退いた。
それは、筒だった。
アームガードと柄を取り付けた、巨大な銀色の筒。
奈津の身長の二倍はあるであろう筒が、壁になったのだ。
「大丈夫、奈津」
「やっと、追いつきましたわ」
素早く筒を回収して、軽々と肩に担ぐ。
一歩遅くも、全滅は逃れた。
そんなタイミングで、ラミネージュとレイアはやってきたのだった。
†
「つ……ぅ」
音も、光も、風も、匂いも。
なにも感じない空間で、椿はゆっくりと目を開けた。
「ここ、は?」
頭を抑えながら、立ち上がる。
そこは、なにもない空間だった。
光の届かない絶対なる闇。その闇は濃く昏く深く、自分の姿すら確認できなかった。
「誰か!……誰かいませんかー!」
声を出すも、反響することもなく、また返事が来ることもない。
なんとか出口を探そうと、歩き回る。だが、自分が歩いているという感覚すら、徐々に遠のいていった。
「誰か!返事をしてください!」
ここが大蛇の腹の中だというのなら、以前呑まれた失踪者がいるはずだ。
そう考えて呼び続けるが、喉が枯れる程叫んでも、返事は来ない。
「誰か……返事をしてっ!」
響くことすらない叫びに、椿の思考は暗く沈んでいく。
触覚も感じないため、自分という存在が本当にそこに居るのかすら、曖昧になっていった。
やがて、自分で自分が信じられなくなり、心が折れて絶望する。
それが大蛇の能力――“絶望の結界|≪テラーゾーン≫”だった。
折れそうになる心を、椿は必死に縫い止めていた。
光が無ければ、もう居られそうもなかった。
腰を落とし、膝を抱える。
涙すら流れず、ただ消えゆく希望をつなぎ止めようと、周囲から心を閉ざす。
絶望しないためにととる行動が、ことごとく椿を追い詰めていた。
――椿っ!
聞こえてきた、声。
その声に、椿は顔を上げた。
「だ、れ?」
椿の呟きが、闇に溶ける。
――こっちだ、椿っ!
二度目の声。
それはもう、気のせいなんかではない。
――椿、早く!
声に従い、立ち上がる。
折れかけていたのにこうもあっさりと立ち上がった自分の心に苦笑し、椿は力強く前を見据えた。
――こっちだ!
――急いで、椿!
導く声に従い、走り抜ける。
すると、遙か前方で、光を垣間見た。
さらに走ると、それは大きなひび割れだった。
レイアが魔法で割った、罅。
「あのっ……あれ?」
声の主にお礼を言おうとしたが、自分を先導していたはずの声は、いつの間にか消えていた。あの声が呑み込まれた人ならば、すぐにこの空間をどうにかする必要がある。
椿は気持ちを入れ替えて、罅を睨み付けた。
「行くよ、アレク」
精霊に声をかけると、精霊が装霊器から一鳴きあげた。
すぐに頼ろうとしなかったことを相棒に申し訳なく思いながら、光によって見えるようになった装霊器を、大きく弓なりに引いた。
「【終焉より来たりて・再生を冠する炎よ・我に応えて・我が敵を砕け・烈火の魔弾】」
基本魔法の詠唱。
それは、対象に当たることで爆発する魔法だった。
その魔法を肘の後ろに設置して、爆発させる。
「くっ……あぁぁぁああああっ!!!」
みしりと、嫌な音が耳に届く。
だが、その効果はあって、爆発により超加速を加えられた右のストレートが罅に激突する。
大きな衝撃と共に罅が広がり、装霊器の先が埋まる。
「【四元素が一柱を司どる・灼熱を統べし槍の火蜥蜴よ・我が手にその穂先を与えん】」
そして、最後の一手。
埋もれた先から展開した炎の剣が、ついにその空間を貫き、壊した。
光が、視界を覆い尽くす――――。
†
椿が呑み込まれ、大蛇とラミネージュが対峙する。
怒りからクールダウンした奈津は、真っ青な顔で立ち竦んでいた。
ラミネージュが、筒を振りかぶって大蛇に叩きつける。
大蛇は大きく呻り、距離をとって再び向かう。時折魔法で作った土の壁で、攻撃を凌ぐ。
その繰り返しだった。
「しっかりなさい!奈津!」
そんな中、レイアは奈津についていた。
ラミネージュ一人で任せるのは心配だし、大蛇の腹にいる椿はもっと心配だ。
だが、二人を助けるためには、まずは茫然自失の奈津をどうにかする必要があった。
「レイア、どうしよう、椿が……椿が、あいつに、あいつの腹にっ!」
「落ち着きなさい!」
錯乱し始めた奈津に、喝を入れる。
だが、彼女に一番力を注ぎ込むことが出来る少女は、ここにはいない。
大蛇の腹の中という、それこそ絶望的な状況にいるのだ。
「でも、一緒だったのに、さっきまで、僕が――――“私”が一緒だったのにっ!!」
涙を溜めながら、慟哭する。
一体何と重ねているのか、その怯えは、尋常なものではない。
レイアは、そんな奈津の……頬を張った。
「――――っ」
――パンッ
唇を噛みしめるレイアと、呆然とする奈津。
レイアはふぬけた表情の奈津の、両肩を掴んだ。戦鎧がなければ、胸ぐらを掴んでいただろう。
「貴女はっ」
「レイア……?」
顔を赤くして怒りを表すレイアに、奈津は訳もわからずレイアを見た。
「貴女は――――椿が誇った……“ヒーロー”なんでしょう!?」
「ぁ――」
がつんと、ハンマーで殴られたような衝撃。
そんな錯覚を受ける程、レイアの言葉は奈津の心に響いていた。
「私はオールアクセンの援護に行って参りますわ。――あとは、自分で立ち上がりなさい」
レイアは、そう厳しく言い放つと、装霊器を抜き放って悠然と援護に向かった。
その後ろ姿を見ながら、奈津は両手を握りしめる。
「ははっ……こんなんじゃ、椿に顔向けできないや」
そういいながら顔を上げる。
そこにはもう、先ほどまでの怯えた少女はいなかった。
「行こう、エア――オープニングは、もう終わった」
左足を、前に出す。
――――その一歩は、弱々しい。
「友と過ごす、日常を抜けて」
右足を、踏み出す。
――――その一歩に、気負いはない。
「合間に入れた、コマーシャルで休んで」
左足で、大地を踏みしめる。
――――揺るぎない意志を持った、一歩。
「ヒロインが、悪の組織に浚われた」
右足は、空に。
――――道は、ない。
「そして」
左足が、虚空を蹴る。
――――周囲の景色が、加速する。
「“ヒーロー”は、遅れてやってくる……!」
身体が、加速する。
風の抵抗も、大気を駆け抜けるエアリエルの加護を持つ奈津の前では、無意味だった。
爆発的に加速した奈津は、レイアもラミネージュも追い越して、他者の視界から消え失せた。
遙か上空で、奈津は構える。
右足をまっすぐ伸ばして、左足は曲げる。
斜め上から、自身を魔力を用いて発射する。
流星の如く飛来するその姿は、未熟ながら、彼女に“正義のヒーロー”を体現させていた。
上空から勢いをつける奈津の姿に、レイアは薄く笑った。
そして、ラミネージュの横に並ぶ。
「今回は、私たち、脇役のようですわよ?」
「それならそれで、“主役”を補佐する」
抑揚はないし、表情もない。
だが、その身に纏う空気は、どこか楽しげだった。
「一発しか撃てません――任せましたわよ、ラミネージュ」
「うん――任された、レイア・イルネア」
奈津の着弾まで、もう数秒程度だろう。
その間に、奈津が最大の威力を放つことが出来るように、舞台を整える。
「【豊穣を司りし・大いなる水の神よ・エルストルの契約に基づき・我らを害する者を・その力強き激流を以て・大河の底に沈めよ】」
激流が大蛇を打ち据える。
それにより、位置を修正され、さらに怯ませられた。
「【大地に宿りし・小さき民よ・汝が身体を以て・彼の者を封ぜよ】」
そして、ラミネージュの魔法が発動し、盛り上がった大地が大蛇の身体を固定した。
「悪しきものよ……永久の、闇に還れぇぇぇぇええっっっ!!!!」
緑の流星は、一直線に大蛇に激突し、その角を叩き折った。
それでも勢いが止まらず、奈津は地面にまで蹴りを入れて大きなクレーターを作る。
右手は腰に、左手は右斜め上に。
その決めポーズに呼応するように、大蛇の腹が輝いた。
「正義は――――勝つ」
大蛇が光に包まれて、ガラスが砕ける音と共に、光の中から炎を携えた椿が飛び出てきた。
その瞬間が、奈津の――ヒーローとしての人生の、本当の意味での“始まり”だった。
†
しゃり、しゃり、と果物を咀嚼する音が、医務室に淡々と響く。
並んだ四つのベッドに、椿たちは寝ていた。
レイアとラミネージュは過労で、椿と奈津は怪我で、それぞれ医務室に強制お泊まり会をさせられていた。
見事に邪霊を打ち倒し、倒れ込んだ四人は無事保護された。
助けに向かえはできなかったが、この状況でどう疑う?と呟く楓の様子が、椿たちには妙に印象的だった。
治療を受けて、翌日。
特にお見舞いに来るような人間も居ない、だから四人でのんびりとできると密かに喜んでいた奈津の思惑は、見事に打ち崩されることになった。
「椿様っ……リンゴのお代わり、いかがですか?」
――シャリッ
「う、ううん……もう、大丈夫だよ」
――ジャリッ
「そう、ですか……」
――ジュリッ
「あ、あああっ、やっぱり、いただこうかなっ」
――ザリュッ
「は、はい!今剥きますね、椿様っ!」
――ザジュリッ
横のベッドから聞こえてくる会話に、だんだんと咀嚼音が大きくなる。
彼女の名前は黒沢梓。最初の被害者であり、後遺症もなく助けられたただ一人の生徒。
黒縁眼鏡にお下げの少女だ。
今回の件を過保護な両親が許すはずもなく、彼女は海外へ留学することになった。
ならば一言礼を、と病室にやってきて――はっちゃけたのだ。
困りながら、青い顔でリンゴを食べ続ける椿。
うっとりとした目で椿を見る梓。
その横で不穏な空気を垂れ流し続ける奈津。
ラミネージュが剥いたリンゴが何故か青く染まったのを見て、身体が震え出すレイア。
色が変わる寸前に味見をして、ベッドに突っ伏すラミネージュ。
「おーい、無事かおまえら……や、邪魔したな」
お見舞いと事務連絡に来た楓は、音もなくドアを閉めた。
そして、目に映った風景を頭の奥のパンドラボックス|(Ver,38)に丁寧にしまい込み、似たような光景だった自分の学生時代を思い出して、目頭を押さえた。
「一番苦労するのは、エルストル辺りかな」
そう呟く楓の背中は、どこか晩年のサラリーマンのようだった。
楼城館女学院は、今日も平和である――――。
†
「結局、こんな結果か」
事務机の上で、チェスの駒を動かす。
対局には誰もおらず、たった一人でチェスを続ける。
「さてさて、次の駒はどうなるのやら……全くもって、気が重い」
そう――慎二郎は、芝居がかった動作で髪を掻き上げた。
「まったくもって、度し難い連中だよ」
苛立ちも、幾分か含まれている。
その歪んだ笑みで、慎二郎は目元を覆い隠した。
「大丈夫、私は上手くやるさ……そう、大丈夫だよ、慎二郎」
チェスの駒が、盤上から消え失せる。
始めから、チェスそのものが幻だったようにも思えた、神秘的で悪魔的な光景。
「くっふふっふっ……まだだ、まだだよ、そう――これからだよ、慎二郎」
ぶつぶつと呟きながら、笑い出す。
その不気味な笑い声は、いつまでも校舎に響き続けていた――。
今後の展開において重要な伏線がちりばめられているため、前後編に分けたのに結構な長さになってしまいました。
次回、次々回は、展開の重くないお話を掲載させていただく予定です。
奈津にとって椿はヒーローで、ヒロイン。
それは、逆もまた然り、です。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。
次回も、どうぞよろしくお願いします。
2010/08/20 加筆修正