最終話 世界 (前編)
暗く沈んだ、闇の中。
黒く淀んだ、水の中。
その漆黒が、鳴動する。
鎖は解けた。
磔は壊れた。
箍は取れた。
蓋は外れた。
遮るものがなくなったそれは――無垢な歓喜の声を上げた。
――――――欲しい。
Flame,Plus
――ドンッ
爆発音にも似た、地震。
その地震は校舎を揺るがし、授業を受けていた生徒達に、動揺を走らせる。
椿たちの一年B組で授業をしていたミファエルは、鋭い表情で装霊器を取り出した。
「オウクストードさん、皆さんをドームに避難させてください。あそこが一番、安全です」
「……わかりました。説明はどうせ後でも聞ける。今は避難だ!」
ミアが指示を出して、すぐに動く。
特に纏まりの良いこのクラスは、最初に避難が完了するだろう。
ミファエルが睨み付けた、校舎の外。
その空には、目に見える程大きな罅が入っていた。
「学院の結界が、壊れている?」
やがて罅は亀裂となり――――。
――バリンッ
――――音を立てて、割れた。
「全員!戦鎧を装着しなさい!」
ミファエルが、声を張り上げる。
初めて聞いた荒々しい声に、生徒達は咄嗟に戦鎧を装着した。
空気が震えて、大地が啼く。
地面から染み出るように、無数の黒い固まりが出現した。
球体のそれに、八本の足が生える。
そして、上に触覚のようなものが一本伸びて、その先にぎょろりとした目玉が生まれた。
奇妙な形の、邪霊だ。
球体の中には、足ではなく翼が生えたものも居た。
同じように触覚に目玉がついているが、その触覚は背中から十三個も生えていて、下に垂れ下がっている。
『ホシイ』『ホシイ』『ホシイ』『ホシイ』『ホシイ』
『ホシイ』『ホシイ』『ホシイ』『ホシイ』『ホシイ』
暗鬱とした声が、響く。
その発生源は、邪霊の腹。
地上のものも空中のものも、変わらず腹に大きな口があった。
全身が漆黒で覆われているのに、その口の中は不自然な程紅かった。
「急いで!」
「はい!」
まだ、力の強い邪霊の気配はしない。
この間に、ドームに急がせる。
「【喰らえ】」
窓を割って侵入した邪霊を、ミファエルは切り落とす。
その風圧で、後から続こうとした邪霊も、数匹纏めて吹き飛ばした。
「我が内に、眠りなさい」
ミファエルの大剣が、生徒達に牙を剥く邪霊を、一匹も残さずに切り落とす。
数の多い邪霊は、合体することがある。だが、魔力を根こそぎ吸い取るミファエルの技ならば、その心配は要らない。
後には、枯渇した塵しか残らないのだから。
黒い魔力が、暴食の力を振るわせた。
†
避難の最中、椿は奈津と並んで、周囲を警戒していた。
気味の悪い邪霊の鳴き声に惑わされないように、冷静さを保てるようにしていく。
「いったい、何がどうなったんだろうね」
『結界が壊れたようだが……それだけで、狙い澄ましたように邪霊が溢れるのもおかしな話だ』
小声で呟いた奈津に、やはり小声で雅人が答えた。
結界が壊れることを待ち伏せしていたかのように溢れ出た、無数の邪霊。
結界が壊れるなどと言うことは、邪霊王であった雅人でさえも、気がつかなかったことだ。
『結界について特化した邪霊王でもいるのか……なんにしても、厄介だね』
「うん……そうだね」
雅人の言葉に、椿は沈痛な声を零した。
目下のところ、邪霊王は人類最大の敵である。
雅人は防御に特化した邪霊王だったが故に、神霊者の能力によって打ち倒すことが出来た。
だが、支援特化、攻撃特化の邪霊王が現われると、分が悪い。
他の人間を巻き込まれでもしたら、椿に出来ることはぐっと減る。
そして、今はまさにその状況だった。
「どうにか、しないと――――っ!?」
――ズキン
久しく感じていなかった、頭痛。
それを感じて、椿は唇を噛みしめて、動揺を隠す。
「とにかく、今は早くドームに行かないと、ね」
『それがいいだろう。なにも、椿が全て行う必要はない』
隠すことに成功したのか、奈津と雅人は話を続けていた。
椿は、どうにか頭痛を振り払おうと、頭を振る。奈津と雅人に感づかれないように、小さく。
――こっちだ。
頭に響く、声。
こんなことが出来るのは、“邪霊王”以外に、知らない。
校舎を出るまで、あと一歩。
そこまできて、邪霊達が椿たちの集団に、狙いをつける。
殿を守っていたミファエルが戻り、一気に乱戦となった。
椿はその混乱に乗じて――雅人を、肩から降ろす。
それも、戦闘に突入するので、肩にいられては困るといった形で、ごく自然に。
――来るんだ。
雅人は椿の使い魔で、椿も雅人を信頼している。
それでも――椿は胸に燻る、自分でも知らない感情から、雅人から離れた。
――さぁ、早く。
身を翻す。
校舎の外へと急ぐ集団の中、椿は一人、校舎の中へ飛び込んだ。
†
群がる邪霊を、斬り飛ばす。
体育の授業をしていて、その生徒達を避難所に送り届けた楓は、まだたどり着けていない生徒達の護衛にやってきた。
「無事か!」
「草加教諭!……まだ、点呼はとっていませんが……椿の姿が見あたりません!」
ミアが、唇を噛んで、悔しそうにそう叫んだ。
委員長としてクラスを纏める立場にありながら、クラスメートがはぐれたことに気がつかなかった。
――それよりも。
友達が、いなくなったことに、すぐに気がつくことが出来なかった。
そんなミアの様子に、楓は安心させるように笑いかけた。
「それなら、大丈夫だ」
「え?」
「神崎は、はぐれていたところを“保護”した、と“連絡”があった」
「それは――」
「――第二波だ、来るぞ!」
詳しい事を聞く前に、再び邪霊が密集する。
そのやりとりを聞いて安心する、ミアたち。
その中で、奈津は一人厳しい表情を作っていた。
「どう思う?まーくん」
『私がここに残っている時点で、厄介ごとは確定だろうね』
そういって、肩を竦める。
余裕を保とうとしているが、雅人の顔には焦りが見えた。
奈津は、小さく苦笑すると、足を速めて先頭のミアに並ぶ。
「ミア」
「佐倉?どうした?」
とりあえず落ち着いたところで話しかけられたので、ミアは平静に答えることが出来た。
そんなミアの目をまっすぐ見て、奈津は言葉を続ける。
「何も言わずに“はぐれ”させてほしい」
「――――椿、だな」
奈津の真剣な目と、その肩にいる雅人の姿。
それだけで、ミアは察して見せた。
楓の話で表面上は安心して見せた。追求して楓を困らせたら、余計な混乱が生まれる。
こうして、何が何でも助けに行く姿勢をとることができる奈津を、ミア少しだけうらやましく思った。
自分は、ここを離れてまで、クラスを纏める責任を放棄してまで離れることが、出来ないのだから。
「私が上手く誤魔化そう――――気をつけろ、“奈津”」
「――うん。ありがとう……行ってくる」
ミアに送り出されて、奈津は踵を返した。
「遠峰先生、椿の居場所はわかる?」
『先導する、任せてくれ!』
雅人が、宿主を強く感知する。
使い魔としての役割は、本来はこれが一番大きい要素なのだ。
椿が隠したがっていても、見つけることは出来る。
一人で行かなかったのは、気がついてすぐ移動するよりも、奈津の全力疾走についていった方が何倍も速いからだった。
それ以上に、戦力が欲しかったということも、あるのだが。
「あーもーっ……からかい倒してやる!」
『返り討ちが、関の山だと思うけど――手伝うよ』
軽口を叩きながらも、全力で走る。
そして、奈津と雅人は校舎へ飛び込んでいった。
†
声に導かれるまま、椿は学院長室に辿り着いた。
そのまま、堂々と中に入り、周囲を見回す。
――本棚に、触れるんだ。
言われるがままに、触れる。
――魔力を流せ。
魔力を込めると、本棚が鳴動した。
そして、音を立てて、横にずれる。
――入って、まっすぐ歩くんだ。
言われるがままに、まっすぐ歩く。
姿見の前で躊躇するが、意を決して進む。
水の中を通るような、空気の膜を破るような、不思議な感覚に包まれる。
鏡の中は、半透明の景色だった。水中を思わせるのに、その外側が見えない。
出口がどこかわからず、椿は戸惑っていた。
だが、それもすぐに終わる。
目を閉じて感覚を研ぎ澄ませる。
やがて感覚が正常になって、椿は外に出たことを悟った。
「ここは――――」
目を開けて、その光景に、絶句する。
石造りの建物の中のような場所だ。
天井は遠く、校舎よりも高いように見える。
どこにも窓はないのに、周囲は不自然な程明るい。
所々ひび割れた壁と、亀裂の走った地面。
大きな柱は、欠けている箇所があるが、崩れるような様子はない。
そこかしこに落ちている、白骨。
その側に転がる、色とりどりの精霊石。
最早ほとんど姿を見なくなった、拳銃や小銃も落ちていた。
「戦争の、跡?」
椿はそう呟くと、再び襲う頭痛に眉をしかめた。
――あともう少し、こっちだよ。
「なんにしても、進まないと」
言われるがままに、進む。
邪霊の気配はするが、結界が張ってあるのか、出てくることはなかった。
だから、とにかく進んでいく。
天井の高い廊下を歩く。
迷宮のように入り組んでいるが、導かれるままに歩いているので、迷うことはない。
歩いて、歩いて、歩いて。
緊張から、手のひらが冷たく濡れる。
口が渇いて、脂汗が流れる。
身体が強ばり、鳥肌が立つ。
それでもなお、進む足を止めたりは、しなかった。
やがて、大広間に出た。
いくつも並んだ長椅子と、巨大な石像。
大きなパイプオルガンに、ステンドグラスを模した壁画。
その一番奥に扉があり、その前には祭壇がある。
そして、その祭壇で、一人の青年が祈りを捧げていた。
「よく、来てくれたね」
立ち上がり、背を向けたまま、そう言葉を紡ぐ。
その声に乗せられた感情を読み取ることは、できない。
「待っていたよ、神崎椿――――“神霊者”よ」
「なん、で……知っているんですか?――学院長先生」
動揺を押し殺して、ゆっくりと、そう言った。
すると、青年――――蓮は、ゆっくりと振り向いた。
その表情は、どこかもの悲しい笑顔だった。
「知っている、知っているよ。遠峰雅人のことも、三上院“慎一郎”のことも――この学院で、私に感知できないものはない」
「学院長先生?」
蓮は、ゆっくりと祭壇を降りた。
そして、椿から数歩離れたところで止まる。
「私はずっと待っていたんだ――君のような、存在を」
「私のような――“神霊者”を待っていた、ということですか?」
蓮は、抑揚に「そうだ」と頷いてみせる。
「順を追って、説明しよう」
椿は答えない。
ただ、まっすぐと蓮を見る。
「まずは、そう……ここがどこか、だね?」
どこか、雅人の時のやりとりと似ている。
意図的なのかも知れないと思うと、そこまで知っている蓮の様子に、椿は先ほどまでとは種類の違う頭痛を覚えた。
「ここは学院地下大遺跡“ゴルゴタの棺”という――そう、かつての大戦の跡さ」
「ここが、学院の……地下?」
境界鏡のみしか入り口を持たない巨大な遺跡。
学院は、正しくこの場所に“蓋”をした形になる。
「ここが全ての終わりで始まりの場所。ここで終わって、今もなお続く地」
一つの終焉が、この場所に訪れた。
そして、一つの始まりが、ここにあった。
「百二十年前、激化した邪霊戦争に終止符を打つために、一人の“少女”が立ち上がった」
雅人の授業に似た、声。
声色を似せて話しているのだろう。
「類い希なる力を持った“響霊者”だった彼女は、この地に潜む邪霊王の元へ辿り着いた」
邪霊王“重圧|≪ロードアーム≫”――それがこの地にいると探り当てて、少女はこの地にやってきた。仲間の“全て”に外のことを託して。
「邪霊王を討ち滅ぼした彼女は、そこで邪霊王が守っていたものを、知った」
悲痛な表情。
その表情に、息を呑む。
「邪霊が生まれ続ける、歪み。世界の歪みが意志を持ち、そこにいた」
「貴方は……いったい」
扉の上に設置された、女性を象った大きな石像。
蓮はその石像を、悲しそうな表情で見上げた。
「彼女は言ったよ。“響霊者、ううん……例え真霊者になっても、勝てない。人間にカテゴライズされない、上位種でないと、あれには届かない”――とね」
蓮はその石像に手を伸ばす。
救いを求めていながら、救いを与えたいような、儚い願い。
蓮は伸ばした手を丸めて、指を弾く。
「だから、彼女は、その存在が現われるまで――“それ”を封印することにした」
石像が、砕け散る。
そこから出てきた姿に、椿は目を瞠る。
「自分の身体を依り代に、自分の“精霊”にこの地を守らせて、ね」
白髪交じりの、黒い髪。
薄く開かれた目は、碧色。
光の反射で、虹色にも見える。
身を包むものはなく、白い肌を晒している。
十四から十五歳程度の少女が、水晶の中で浮かんでいた。
「それでは……貴方は」
「――私の名は、レン……魔法使い“蓮城桜”の精霊――――“虹睨”さ」
虹を司る龍、虹睨。
姿を移ろわせて、なんにでも変身することが出来る精霊。
七色の力を持つ、龍神。
「私は彼女――桜との約束に従い、この地に封印を施した。そして、質の良い魔力を溜め続け、かつカモフラージュとするために、ここに学校を作った」
邪霊を“倒す”ことしかできない人間では、歪みの意志を滅ぼすことは出来ない。
だから、徒にこの地のことを知らせる訳にはいかなかった。それは同時に、桜という英雄の為したことを、伝えられないと言うことだった。
「桜は私に、歪みを滅ぼせなかった自分の名を、後世に伝えないでくれと頼んだ。そんなことはいいから、ここを守ってくれと、約束した」
それでも、邪霊王を討ち滅ぼした彼女の名を、どこかに残したかった。
だから、この学院を――“楼城”館学院と名付けたのだ。
自分の名と合わせて、いつまでも残っているように、と。
――ズンッ
「――っ!」
地面が揺れる。
大気が慟哭する。
世界が、鳴動した。
水晶に罅が入り、桜の顔に苦悶の感情が浮かび上がった。
「そろそろ、封印も限界だ。時が、立ちすぎた」
水晶の罅が、広がっていく。
「私も封印に力を使いすぎた。もう、戦うことは出来ない」
所々が割れて、それに同調するように、邪霊の気配が強くなる。
「どうか――世界を救ってくれ」
水晶が、砕け散る。
落ちてきた桜を、レンが愛おしそうに、抱き締めた。
「どうか――――世界を、守ってくれ」
石像の下の扉が、開く。
その吸い込まれそうな闇に、椿はそっと目を閉じた。
迷いはある。
守るとも言えない。
逃げ出したい気持ちも、ある。
それでも、退くことは出来なかった。
目を開ける。
双眸に強い意志が込められる。
だが、いつもよりも、心なしか、光が弱い。
躊躇は残っている。
肩が重く、息苦しい。
それでも――――。
「――――ありがとう」
進まないという選択肢を、選ぶことが出来なかった。
早足で、進む。
久遠に続く闇を、無理矢理振り払うように――――。
――どくん