第二十四話 日常 ―終章―
――ズ…ゥゥン
緩やかな鳴動が、校舎に揺れを与える。
足音のように傲慢で。
鳴き声のように怠慢で。
笑い声のように横暴で。
泣き声のように貪欲で。
玩具を求める幼子が欲しい欲しいと癇癪を起こすように、身体を揺らして地団駄を踏む。
欲しい。
――ズ
欲しい、欲しい。
――ズズ
欲しい、欲しい、欲しい。
――ズズ、ズ
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。
――ズズズ、ズ
………………………………………………。
――…………、…
欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。
“――”が、欲しい。
――ズズウゥゥンッッッ
一際大きく、揺れた。
まだ生徒の居ない、始業式の前々日。
何かが、ゆっくりと綻び始めていた――。
Flame,Plus
――トントントン
冬休みの最後を祖父母の元で過ごした椿は、寮に戻って始業式を終えた。
三学期最初の授業は、その翌日。すなわち、今日この日である。
椿は自室で、昼食用の弁当を作っていた。
自分の分と、奈津の分。二人分の弁当だ。
「あ――」
料理の最中、手元が狂って、指を切る。
椿は“感覚”で、指を切ったと感じた。
左手の人差し指。
そこを左手の親指で、指をこすり合わせるように撫でる。
それだけで、もうそこに傷はなかった。
「結構、深く切っちゃったって、思ったんだけどなぁ……」
椿はそう言うと、寂しそうに笑う。
対極の属性を取り入れてから、神霊者の力が一気に強くなった。
それにより、椿は様々な影響を抱えることになった。
瞬時に再生するため、人体の警告信号である痛覚が、極端に鈍い。
その代わり、聴覚や視覚といった五感が、格段に上がっている。
耐性も身体も強くなっているので、それを利用した攻撃、閃光や大音量、音波といったものも、椿には通じないだろう。
魔力的な直感にも優れ、状況の予測から擬似的な未来予知をすることもできる。
「化け物、か」
否定してきた言葉だが、今ではそう言われても仕方がないような気がして、ならなかった。
おそらく、腕を切り落とされても、すぐにくっつくのだろう。
そんな自分を想像して、椿は身体を震わせる。
――心を、震わせる。
料理を弁当に包むために冷ます。
その間に、制服の袖を通す。
心は晴れない。
けれど、折れる訳にはいかない。
このまま、現状を維持できるのなら、まだいい。
だが、それは、不可能なことに思えて仕方がなかった。
『椿?』
「なんでもないよ、雅人さん」
椿は雅人を抱えると、抱き締める。
今はまだ――このままで。
†
教室へ入る、小さい影。
幼い容姿の教師、神楽だ。
まだ半年も経っていないのに、教師としての威厳が身についているように感じられる。
それは“顧問”としての経験が、授業の時にも生かされているからだろう。
「もうすぐ、一年生も終わりですね。最後まで気を抜かずに、でも肩の力は適度に緩めて、頑張りましょうねっ!」
そういって笑う。
その姿は、やはり幼く感じられた。
人間、そんなにすぐに、変わることは出来ないのだ。
「それでは、今日は精霊と人間、その狭間のお話です」
神楽は、そう言うと、横に並べて書いた精霊と人間の文字の間に、Tの字を書く。
その狭間にある存在を、Tの下の部分に書くためだ。
「幻想世界において、人と精霊の混血者、というのは、良く耳にします。ですが、その人間とは、幻想世界の住人であって、正しく我々現実世界の人間と同じものではありません」
精霊と人間が交わることは出来ない。
それは、精霊が現実世界において子を為すことが出来ないからだ。
「人間は幻想世界へ、自分で行くことが出来ません。しかし、稀に事故で幻想世界に“落ちる”ことがあります」
そこで神楽は一度区切り「詳しい事は、セルエイラ先生に聞いてくださいね」と付け加えた。注意事項諸々は、魔法学のミファエルの担当なのだ。
「これを“逆行|≪ゲートアウト≫”といいます」
逆行は、精霊を召喚するときに、何らかの要因によって幻想世界へ“落ちる”現象だ。
理由が不明なため、詳しい事は判明していない。
「六十年前、最初の逆行が発生しました。それより、何度か起こっていますが、幻想世界へ落ちたものは、現実世界に戻ってくることが出来ません。――ある、一例を除いて」
神楽はそう言うと、Tの字の下のところに、チョークを走らせる。
「落ちた人間が戻ることは叶いませんが、その子供は戻ることが出来ます。幻想世界で交わったが故に、精霊との間に子を為すことが出来た。そうして生まれてくるのが、精霊と人間の混血“重霊者|≪ダブル≫”です」
重霊者、と綴られた黒板。
重霊者ならば、現実世界へ渡ることが出来る。
だが、更に幻想世界へ戻ることはできなかった。
「彼らが――――」
神楽の説明が続く中、椿はふと、外を見た。
いつもと変わらない、学院の空。
その空が、何故か泣いているように思えて……。
†
――ズ…ゥゥン
椿たちが中庭の木の下で昼食をとっていると、地面が小さく揺れた。
「うわ、また地震だよ。地盤、大丈夫なのかな」
奈津が、心配そうにぼやいた。
ここのところ、学院周辺では何度も地震が起こっている。
異常がないかどうかは、目下調査中だった。
「何ともなければいいのですけれど」
「噂をすれば」
「影が差すのとは、ちょっと違うと思うよ?」
ラミネージュがレイアを脅しにかかり、椿がそれを諫める。
なんでもない日常なのに、胸騒ぎが止まらない。そのことに気がついている人間は、どれだけいるのだろうか。
「椿?」
「ぁ――どうしたの?奈津」
思い悩む様子は、表情に出していない。
だというのに的確に見抜いた奈津に、椿は動揺を押し殺す。
「さっきから、変な顔してたよ」
「へ、変な顔って?」
揺れる心を、隠す。
それをここで、暴かれたくなかった。
一瞬、椿の目に、そんな懇願の色が浮かぶ。
奈津はそれに気がついて、周囲に解らないようにため息をつく。
ここまで来たら、引き下がる方が不自然だ。だったら、不本意だが場をかき混ぜよう。
そう、不本意なのだ。決して、からかおうなどと考えては、いない。
「うーん、そうだな……」
例えを出そうと、奈津が頭を捻る。
その様子に誤魔化してくれると感づいていて、椿は感謝の念を視線に込める。
……だがそれも、すぐに霧散することになる。
「最近ちょっといいなと思う人が、猫っぽい人で自分的にどうだろうと考えつつ、猫扱いして誤魔化している時の顔かな?」
「――――っっっ!?!?!!」
「ちょっと奈津、猫扱いはないのではありませんこと?」
「それじゃあ、椿が変態になる」
事情を知らないレイアとラミネージュが、ツッコミを入れる。
奈津は「それもそうだねー」などと朗らかに笑っているが、その笑みを騎士演習の時に見ていた椿は、意図を汲んでしまい、頬が紅潮するのを止められなかった。
割と動じない雅人が、椿と奈津の様子を、目を見開いて驚きながら見ていた。
彼は、椿の横でキャットフードを食べているところだったのだ。
「ちょっと気になってた人を愛称で呼んでいる気になって高鳴った胸を押し隠す様子とか、抱き締めるのにも“猫だから”と自分を誤魔化しながらどぎまぎしてみたりだとか、気がつかれないことに安堵しつつちょっと拗ねてみたりだとか、他にも――――っ」
息継ぎもせずに話す奈津。
椿はそんな奈津に近づくと、頬に手を添えた。
ぱっと見た限りでは、危ない百合の園に思えるが、当人達にとってはもちろんそんなことはなかった。
「つ、椿、さん?」
「こ・の・く・ち・かな?」
そして、思い切り、全力で、奈津の頬を引っ張る。
よく見れば、指に青筋が浮いていることが解るだろう。
――それほど、本気で引っ張っていた。
「いいいいいいひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっっっっ!?!?!!」
「え?もっとやって欲しいの?……しょうがないなぁ、奈津は」
騎士演習の時の比ではない、雑巾を絞るようにというか、むしろ引きちぎるように引っ張っていた。奈津はマジ泣きしかけている。すこし、喋りすぎた。
レイアは、仕方がないと肩を竦めると、止めようと声をかける。
「椿、そろそろその辺りで――」
「なぁに?」
「――なんでもありませんわ」
三秒と持たずに、レイアはすぅと目を逸らす。
椿は引っ張るだけでは飽きたらず、捻り始めていた。
「ラミネージュ、ほっぺたにソースがついていますわよ」
「うん」
「ほら、そんなに急ぐんじゃありませんことよ」
「うん」
レイアは、現実逃避にラミネージュの世話をし始めた。
なるべく、縋るように自分を見る奈津を、視界から外す。
ラミネージュも、現実逃避に、甲斐甲斐しく世話をされていることを、気にしないでいた。
――もしかした、“素”なのかもしれないが。
やがて、奈津は解放され、ぐったりと横たわる。
椿はレイアの死角で、食べ終わった雅人を抱き寄せた。
「まーくんは、何も聞いてないよね?」
『いや、そんなに気にしていてくれたというのなら、私ももう少し――』
「聞いてない、よね?」
『――聞いてないよ、うん』
抱き締める力が、万力の如く強くなる。
それに命の危機を感じた雅人は、すぐに頷いた。
こういう時、男性は非常に弱いのだ。関係ないかも知れないが。
「まったく、奈津はやりすぎだよっ!もうっ!」
気を取り直して、できるだけ柔らかく怒る。
だが、口から魂を出している奈津の耳には、届かなかった。
「あ、あれ?奈津?おーい」
結局、昼を過ぎて目を覚ました奈津は、何も覚えていなかった……。
†
放課後は、英雄考察研究会の活動だ。
旧校舎裏手で、英雄のテンプレートについて話し合う。
「やはり、平凡だったはずの人間が、ピンチになったときに覚醒するというのが、始まりとしては定石ではありませんこと?」
レイアが、まずは挙げてみる。
それに、ラミネージュが首を振る。
「やっぱり、ヒーローによって瀕死になった主人公が、ヒーローに乗っ取られて戦う」
王道のように見えて、少し違うパターンだ。
「僕としては、アブダクションかな?浚われて、改造されて、脱出して戦う」
「うんうん、そうだよね」
奈津がそう言って、椿もそれに頷く。
似た様な感性だ。
「私としては、五人の組織や兄弟が、巨大ロボットに乗って戦うっていのうが良いですね」
神楽が、そう続く。
すっかり、奈津に毒されていた。
この調子ならば、ヒーロー研は今後も安泰だろう。
「次は、名乗り文句かな?」
「家族構成が先ではありませんこと?」
「それは割と適当で良いような気が……」
「大切な伏線になる、かも」
「ま、まぁまずは、名乗り文句で行きましょう」
行き交う意見に、神楽が割り込む。
ここで躓いたら、進まない。
「天が呼ぶ地が呼ぶ人が呼ぶ、とか?」
「天地人にかけているんですのね」
まずは、奈津が挙げる。
すると、響きが気に入ったのかレイアはこくこくと頷いた。
「闇に蠢く悪しきもの、照らし滅する白光の月」
「月光戦士的なヒーロー、かな?」
ラミネージュが挙げると、今度は椿が乗った。
気に入ったようだ。
「ヒーローなら、寡黙に“見参”とかも、カッコイイですよね」
「あ、カッコイイですよねー」
神楽がそう言って、和やかに奈津が頷いた。
椿たちも、それに合わせて頷き合う。
「それなら次は――――」
奈津が次々とお題を出して、それをみんなで議論して、レイアが律儀に記録していく。
ラミネージュが時折注釈を加えて、椿がお茶を入れて、神楽がこっそり職員室から持ってきたお菓子を食べる。
英雄考察研究会の、日常が広がっていた。
†
やがて、一日が終わる。
各々の日常を過ごし、就寝時間をすぎて眠りについた頃。
校舎の最上階、学院長室には、未だ光が灯っていた。
大きな机、豪華な椅子。
整頓された本棚……その、後ろ。
横にずれた本棚の後ろには、小さな部屋があった。
その中心には、魔方陣が敷かれていて、その上に大きな姿見が置いてある。
これは、特殊な境界鏡だった。
召喚のためのものではない。
送還のためのものでも、ない。
これは、“移動”のためのものだ。
境界鏡にそういった機能がある訳ではない。
この小さな部屋が、境界鏡に“移動”に機能を持たせることが出来る“遺産”なのだ。
つまり、この部屋は、どこかへ移動するための、エレベーターのようなものだった。
境界鏡が、揺らぐ。
水面に石を落としたかのように、中心からゆっくりと波紋を浮かべる。
だんだんとその波は大きくなり、穏やかな海が嵐へと表情を変える一幕を演出していた。
そして――境界鏡から、手が伸びた。
虚空を掴むように藻掻き、やがてその全容を顕わにする。
ワインレッドのスーツに、白髪交じりの黒髪。年の頃は十にも満たない幼い童女。
姿を変えた、蓮だった。
蓮は、陸に打ち上げられた魚のように身を捻らせながら、境界鏡から“落ちる”。
苦しげに歪んだ眉と、打ち震える身体。目尻に溜まった涙と、血の滲んだ腹部。
「つっ…………はぁっ」
脂汗を流しながら、残った力で腹部の怪我を修復させる。
地をみっともなく這って、小部屋から出る。そして、本棚に魔力を通すことで、入り口を閉じた。
「限界、か…………ごほっ、ごほっ!」
赤黒い血を吐き出して、口元を拭う。
皮肉げに歪んだ顔は、悲哀の色に満ちていた。
「護る、から……だから、大丈夫だ」
祈るように、天井を仰ぐ。
溢れる涙を拭うこともせずに、ただ、顔を上げる。
「約束は、守る……だから、もう少し、頑張ってくれ」
息も絶え絶えに、言葉を紡ぐ。
それは――――。
「――――桜」
――――儚い、悲恋の詩にも、似ていた。
最後の日常パートでした。
次回は、最終話。前後編で完結です。
あともう少し、最後までお付き合いください。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
最終話も、よろしくお願いします。