第三話 邪霊
残酷な描写が入ります。ご注意ください。
夜の校舎は、しんと静まりかえっている。
水の一滴でもこぼれ落ちれば、廊下中に響くであろう静寂の空間に、大きな足音が鳴り響いていた。
片方は、靴音。
よほど急いでいるのか、音の間隔が非常に短い。
片方は、鉄の音。
がしゃがしゃと大きい音を立てていることから、この音の主はよほどの重量を持っているということが解った。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ」
走っていたのは、男性だった。
夜の巡回を担当する警備員の彼は、この日もいつものようにライトを片手に巡回をしていた。だが、彼の“いつも”とはかけ離れた存在が、そこに“あった”のだ。
『オォォオォオォォォォ』
地獄の底から鳴り響くような昏い声に、彼は更に足を速めた。
もう上がるはずがないと思っていた速度は、土壇場の力が働いてどんどん上がっていた。
だがいくら速くとも――所詮人間の足に過ぎない、速さだった。
自分から離れていかない声に、彼はついに屈した。
心では逃げたいと思っていても、身体が動こうとしなかった。
手にびっしょりと汗を掻き、疲れから足は震えている。立つことすらままならず尻餅をつき、乾ききった口内を汗で湿らせてどうにか助けを呼ぼうとした。
だが、恐怖で引きつった喉はひゅーひゅーと空気の音しか放とうとせず、冷たいタイルにしがみつくように這って逃げようとする。
『オォオォオオオォ』
――その儚い逃走劇は、予想に狂わずすぐに終焉を迎える。
近い距離で“声”が聞こえて、彼は身体の向きを変えた。
尻餅をつくような形になった彼を見下すのは、黒い甲冑だった。
漆黒の鎧の手には、彼の身長程ある巨大なバスターソードが握られていた。
その剣もまた漆黒だったが、鎧よりも暗いその黒は、数多の血を啜った悪魔のように見えた。
「あ、あはは、は」
彼の口からは、もう乾いた笑いしか出てこなかった。
逃げられない状況が、長く保たれていた彼の精神を叩き折っていた。
彼が最後にその目に映したのは、漆黒の大剣を振りあげる、伽藍とした甲冑だった。
Flame,Plus
椅子に座って、黒板を見る。
一般的な教室よりも豪華な教室での授業も、一週間もすれば慣れてくる。
朝のHRの度に黒板から視線を逸らしたりなんか、“もう”しない。
それでもまだ肩身が狭い気がするのは、クラスメート達がこの教室の風景を“当然”のように享受しているためだろう。
ようは、慣れても馴染めてはいないということだ。
椿は小さく息を吐くと、視線を教室の扉に移す。
運動靴が廊下のタイルを叩く音がしたためだ。教師が来るなら、とりあえず馴染めていない空間にいることは、忘れておくことが出来る。
「おはようっ」
気怠げに右手をあげて入室する、つり目の女性。
緑色のジャージにかかる所々跳ねた黒髪と、生徒の前なのに堂々と咥えた電気タバコ。
彼女の名前は草加楓――椿たちの担任で、姉御肌な体育教師である。
「それじゃ、朝のホームルーム始めるぞー」
教壇に立ち、声をかける。
教壇に手を置いてやや前屈みになる仕草は、鋭い目つきと相まって少しだけ怖かった。
ここの先生はどうにも“普通”な感じの人がいないと、椿はこっそりため息をついていた。
「起立――礼」
立ち上がって、頭を下げる。
こっそりクラスメートの様子を見ると、活発な奈津でさえ斜め四十五度に傾く綺麗な礼だ。
腰の前に重ねられた手といい、幼いながらに淑女然とした仕草をしている。
椿もある程度は祖父母から教わっていたが、日常生活にしみこむレベルの礼は出来ていない。クラスメートに合わせるのが既に難しいという事実が、椿に再び大きなため息をつかせるのだった。
「――で、最後に重要な連絡だ」
つらつらと自分の“礼”について考えていた椿は、それまでの話を全く聞いていなかった。
そのことに少しだけ慌てて、しかし後で奈津に聞けばいいかと思い直す。
「――すー……っと――すー……っと、と」
だが、奈津は後ろ姿からでも解るくらい、あからさまにうとうととしていた。
これでは話なんか聞いていないだろう。
ならばせめて、重要な連絡事項だけでも聞いておこうと、椿は楓を見た。
楓は、本当に重要なことを伝えるためだろう、聞いていない生徒がいないか首を回して見ていた。
「佐倉、起きろ」
「は、はいっ」
低く、それでいて冷たくいわれて奈津が飛び上がる。
その様子に、椿は小さく苦笑した。奈津は、朝は弱いのだ。
楓は額を揉みほぐすような仕草をして、呆れていた。
だがすぐに表情を戻すと、教壇に両手をついた。
「昨晩、校舎に邪霊が出現した」
――その一言に、教室が静まりかえる。
騒ついたりしないのは、上品な家庭環境で過ごしてきたためのものだろう。
だが行動には表れなくとも、生徒達の目に不安が宿っていた。
それは当然だが、椿も同様だ。
邪霊によって失ったものがあるというだけに、漠然な恐怖とは言い難い。
自身に迫る、不安なのだ。
「上級生と教師で討伐を行う。だから、夕方の五時以降は寮から出るな。それ以前でも、人気のないところには行くな。何か、質問はあるか?」
質問、と聞いて椿はおずおずと手を挙げた。
祖父母から、校舎には邪霊が侵入する事の出来ない結界が張られている、と聞いたことがある。だから、何故邪霊が出現するということができたのか、聞きたかったのだ。
「あの、学校には、結界が張られていると聞いたのですが……」
クラスメート達の疑問も、同じものだったのだろう。
椿の質問を聞いて、クラスメートの視線が楓に集まった。
「強い力に集まる傾向がある邪霊にとって、ここは絶好の餌場だ」
楓はそこで言葉を切ると、電気タバコを咥え直しながら目を伏せた。
「だから学校の敷地内には結界が張ってあるが、面積が広大だということもあり絶対ではない。前例は、少ないがな」
そして、教壇越しにしっかりと生徒達を見回した。
「だから、施設には特別強力な結界が張られる。一番強いのは寮で、次が校舎だ」
「え……でも、校舎に出たんですよ、ね?」
奈津が割り込むように、不安げな声を出した。
二番目に強力な結界が、張られている。
そう聞いてしまえば、最初の連絡事項が不可解なものになる。
――いや、この時点で、もうほとんどの生徒が気がついていた。
「そうだ――つまり、それだけ“危険”な事態ということだ」
しん、と静まりかえる。
椿は不確かな胸の動機を抑えるように、右手の拳を胸元に当てた。
「こんなところで犬死にしたくなければ、外出はするな。――以上だ。起立」
不安に思って、それでどうにかなる訳ではない。
この名門、楼城館学院には教師を含めて多くの優秀な“魔法使い”がいる。
ならば、椿たちに出来ることは、注意事項を守って先生達を信じることだけだ。
その無力感と不安が混じった礼は、最初よりもずっと精彩に欠けるものだった。
†
今日の三限は、歴史学の授業だ。
いつものように低姿勢で、雅人が授業を始める。
「そ、それでは授業を始めます。今日のテーマは“邪霊”です」
内容に入り始めると、はきはきとした口調になるのは、この教師の特徴だ。
黒板に丁寧な字で“邪霊”と書いて、話を続ける。
「世界の歪みや淀み、悪意から生まれたといわれている敵対存在。それが“邪霊|≪ダークウィスプ≫”です」
具体的にどうやって生まれてきたかは解っていない。
歪みや淀みから生まれてきたというのが一般的な説ではあるが、他にも人間の悪意の結晶体という説や、強い怨念を抱いて死んだ人間の変異種という説など、諸説は多岐にわたっている。中には、外宇宙からの侵略者というものまであるのだ。
「邪霊は、強い魔力を持った人間を好んで食べます。その血肉を食べることで己の力として強くなっていきます」
これにも諸説はあるのだが、雅人は聞き取りやすさを優先して断定した口調で話した。
「人の魂は、人の世で輪廻の輪に加わり転生します。けれど、邪霊に食べられた人間は転生することが叶いません。邪霊によって吸収され、消滅します」
その言葉に、生徒の何割かが身体を震わせた。
名門といわれる大家名家は、邪霊と戦う歴史がある。中には研究者として名をはせた者も居るが、ごく僅かにすぎない。この楼城館学院に通う生徒達は、ほとんどの家が邪霊と長く戦ってきた魔法使いの血筋であった。
「そして、邪霊達には邪霊を率いる王というべき存在がいます。それが“邪霊王|≪ロードオブウィスプ≫です」
明確な意志を持ち、他の邪霊を統べる。故に、邪霊の王なのだ。
「全ての生きとし生けるものの敵対者、その頂点である邪霊王ですが、実は古くからその存在が確認されていた訳ではありません。邪霊王が我々の前に姿を現したのは、約百二十年前、魔法使いと数多くの邪霊が戦った“邪霊戦争”でした」
今までばらばらの行動をとってきた邪霊達が、突然連携や戦略を持つようになったのだ。
人間達に対して大々的に侵攻を開始した邪霊に、国々で争っていた人間達は団結した。
人間同士で争っている場合ではないと、世界の魔法使いと現代兵器を駆使して戦った。だが、魔力の込められていない武器ではダメージを与えることは叶わず、それまで使い勝手の悪さから、戦争ではあまり優遇されていなかった魔法使い達が重宝されるようになった。
「数々の邪霊を退けた魔法使い達の前に現れたのは、人間でした。――いえ、正確には人間の形をした邪霊、というべきでしょう」
人間と全く変わらない姿なのにもかかわらず、邪霊達の数倍の力を持った邪霊だった。
腕の一降りで数百の魔法使い達を“圧縮”してみせたその邪霊は、自ら“邪霊王|≪重圧≫”と名乗った。
「その邪霊王は、数多くの魔法使いを屠り、自分の力と数多の邪霊の力を持って人間達を圧倒しました」
数千に及ぶ邪霊をどこからか連れてきて、それらを従えて人間を襲う。
その力は凄まじく、未だに国家間の問題から足を引っ張り合っていた人間達に、叶うはずもなかった。
「五年にわたり続いたこの戦争で、人類は三分の一まで減り、そこで漸く本当の意味で人間達が団結しました」
団結したことで長く続いた戦争は、終焉に向かった。
だが、漸く邪霊王を倒した人間達は、邪霊王の最後の言葉によ、り今後も団結し続けなければならないことを理解した。
「邪霊王は死の間際にこう残しました……“今回は私の敗北だ。けれど次の邪霊王はこうはいかない。次こそは、我々の勝利だ”と」
邪霊王が一体ではない。
確証が無くとも脅威は知っている人間達は、魔法使いの育成と発展に世界を賭けて取り組むことになったのだ。
「以上が、邪霊王と邪霊戦争までの歴史でした。……こ、これで、終わります」
再び雅人が低姿勢になったことで、張り詰めていた空気が霧散した。
生徒達は大きく息を吐いて、余韻を残しつつ休み時間に入るのだった。
†
中庭にある大きな木。
その下に茣蓙を引いて、四人でお弁当を食べるのが椿たちの日課だ。
椿と奈津は純和風のお弁当。ラミネージュは自家製サンドウィッチ。レイアは洋風のお弁当だ。
時々おかずを交換しながら雑談をしていると、いつしか話題は学校に出た邪霊の話になっていた。
「襲われたのは巡回中の警備員。魔力はそこそこあったようでしたが、邪霊が好むような魔法使いでは無かったようですわね」
レイアが得た情報を聞かせると、椿は首をかしげた。
「好む好まないが、あるの?」
だとしたら気をつけないといけないことが出てくるのか、と椿はげんなりとした顔でため息をついた。好きこのんで食べられたいと思うような特殊な嗜好はもっていないのだ。
そんな椿に、レイアは苦笑しつつも説明を続けた。
「下っ端の邪霊――個としての意志が極端に低いものは、好みなんか関係ありませんわ。けれど、種としての力が強くなってくると意志も強くなっていくのですわ」
学院の結界を抜けて、更に強力な校舎の結界も抜ける。
邪霊王程ではないが、強い意志と力を持った邪霊ということがわかる。
「強い力を持つ邪霊はより強い魔法使いと精霊を求めるようになる。だから、力を得た魔法使いについて回る宿命ってところかな?」
レイアの説明を奈津が引き継いで説明すると、椿は納得したように頷いた。
「あれ?でもそれじゃあ、何故警備員さんが?」
納得して、再び出てきた疑問に再び首をかしげる。
そんな椿に答えたのは、先ほどまでサンドウィッチを一生懸命食べていたラミネージュだった。ラミネージュは、ハンカチで口元を拭い、紅茶を飲んで一息ついてから話に加わったのだ。
「おそらく、撒き餌」
「どういう、こと?」
その言葉の意味がわからないわけではない。
だが、どうしようもなくもやもやとした感情が、すぐに理解することを拒んでいたのだ。
「オールアクセンの言うとおりでしょうね。適当な人間を狩っておいて、強い魔法使いを呼び寄せる、といったところですわ」
ただそれだけのために殺された警備員。
日常において、他人の死などニュースからほぼ毎日耳に入る。
それでも、見ず知らずの人だったとしても、椿はそうして人が死んでいくのが嫌だった。
理不尽に生命を散らす人がいるのが、嫌だった。
「椿が気に病んでも仕方がないよ」
「奈津……」
「そうですわ。まったく」
慰める奈津と、ため息をつくレイア、無言で頷くラミネージュ。
そんな三人の様子に、椿は気を遣わせてしまったことを内心で恥じていた。
椿が気に病まずとも、学院の魔法使いが解決する問題なのだ。
「まぁ、巻き込まれないように早く帰宅する。悔しいですが、それが私たちのレベルの魔法使いに出来る、最大限の“協力”ですわ」
レイアのその言葉に、椿は気を取り直して頷いた。
邪魔をしないこと。それが、彼女たちに出来る唯一のことなのだ。
†
午後からの授業は一つだけ、一般教養の数学だった。
椿は落ちてくる瞼を必死に開きながら、授業の終わりを迎えた。
「はぁー……今日の授業は終わりッと」
大きく腕を伸ばして息を吐くと、見事に寝ていた奈津を揺すった。
「奈津、授業終わったよ」
「ふぁ?」
揺すられたことで目を開けはしたが、未だ夢見心地なのか焦点は定まっていない。
そんな奈津に、椿は困ったように笑った。
「神崎さん、佐倉さん。二人は放課後残ってください。お時間は取らせませんので」
そう告げたのは、数学の教師だった。
パンツスーツに分厚い眼鏡の女性教師で、椿は未だ彼女の名前を覚えていなかった。
個性の強すぎる教師陣の中で、普通の人は気配が薄すぎるのだ。
「あ、はい。わかりました」
「え?なに?うん?」
戸惑う奈津は置いておいて、椿がしっかりと頷いたことを確認してから教師は去っていった。
「え?呼び出し?なんで?」
「寝てたからじゃない?」
「あぅ」
慌てる奈津にため息をつきながら言うと、奈津は思い至ったのか頭を垂れた。
椿までとばっちりを喰らったことが、落ち込むことに拍車を掛けていた。
「うぅ……正義の味方が寝るなんて」
「ヒーローだって睡眠くらいはとると思うよ?」
そういって、二人は帰りのHRが始めるまで歓談していた。
だからだろう――教師の目が虚ろだったことに、気がつくことができなかったのは。
†
放課後、椿と奈津は言われたとおり教室で数学教師を待って残っていた。
だが、一向に来る気配はなく、既に空は朱色に染まり始めていた。
「もう夕方じゃないか。先生は何をやっているんだろう?」
奈津は腕を組みながら、憮然とした表情で呟いた。
ただでさえ早く帰らなければならないといわれているのに、ずっとこうして待っている訳にはいかない。今、この校舎は“安全な場所”ではないのだから。
「奈津、先生だって忘れているかもしれないし、一端寮に戻ろう?」
「うーん、そうだね。職員室に電話掛けて、確かめればいいかー」
うんざりしたように学生鞄を持つ奈津に、椿も追従する。
時間が進む度に、もやもやとした気持ちが自分の中で大きくなっていくことを、椿は危機感とともに感じていた。
「その必要はないわ」
かけられた声に、二人は教室の入り口で足を止めた。
女性教師が、じっと二人を見据えていた。
「遅いですよー先生。なんなんですか?こんな時間まで待たせ……」
「――飛んでっ、奈津!」
最後まで言い切る前に、奈津が大きく後ろに飛んだ。
椿も叫ぶと同時に飛んでいて、奈津の斜め後ろに着地していた。
――ドゴンッ
教室の床を打ち破る衝撃音。
何が何だか解らずとも、二人はこの状況がまずいということくらい、理解していた。
「何のつもりですかっ……先生!」
椿が叫ぶと、砂煙の先で教師が動いた。
それが自分たちへ直進するものだと気がついて、二人は教室の中央へ飛んだ。
机の上に乗って走る。奈津は途中で、自分と椿の机の横に掛けられたスポーツバッグを拾い上げて、そのまま教壇の方へ駆け抜けた。
「椿ッ」
「奈津、ありがとう!」
椿は奈津からバッグを受け取ると、装霊器を取り出した。
そして、素早く右手に嵌める。奈津も、自分の足に装霊器を嵌めていた。
「逃げていないで、こちらに来なさい」
「誰がのこのこと行くもんか……」
「どうしちゃったんですか?先生……」
厳しい目で教師を睨み付ける奈津と、同じく厳しい目だが、心配と戸惑いが込められた視線で見る椿。そんな二人の様子に、教師は感情のない声で呼びかける。
「どうもしていないわ。いいから、早く、この子の、え、えさ、えさ、え、えさ、に」
途切れ途切れの声からは、何の感情も見えない。
机の向こうで立つ教師に何が起こっているのか、ひどい砂煙のせいで二人は理解できずにいた。ただ、まったく抑揚のない声が、二人に強い不安を与えていた。
「こ、この、この子、この子の、この子の、この、こ、この子の」
壊れたテープレコーダーのように言葉を流し続ける。
もう少し余裕のある間合いに出なければ、いくら展開速度が速いと言っても戦鎧を装着することは出来ない。それは、経験の少ない彼女たちとって、致命的な隙になる。
「この子の、え、さに――――――――餌になれ」
急にはっきりとした言葉に、再び横へ飛ぶ。
今度は、教壇横のドアから廊下へ飛び出る形だ。
――ズガンッ
先ほどよりも激しい音。
その音が物語る“何か”の威力は、よほど強力だったのか黒板を後ろの壁ごとたたき割っていた。
二人はその惨状を一瞥すると、互いに顔を合わせて頷いた。
そして、その場から一目散に走り出す。
「よくわかんないけどっ」
「走りながらなら……今しか、ないっ」
椿は左手の中指に嵌められた指輪に唇を落とした。
すると、椿の身体が光の粒子に包まれたて、真紅の戦鎧が装着された。
一方奈津は、まだ持っていたバッグから、緑色の金属で出来たバックルを取り出した。
それを腰の真ん中に当てると、黒いベルトが出てきて腰に巻き付いた。
「【変……」
走りながら、左手を握って腰に当て、右手を左斜め上に突きだした。
そして、ゆっくりと弧を描きながら、右手を右へ回していく。
「……身】」
右手が力強く右の腰を叩くと同時に、左手が右斜め前に突き出された。
すると、バックルが左右に開いて機械チックな銀色のプロペラが顔を出した。
そのプロペラが高速回転しながら光を放つと、奈津の身体に光の粒子が集まった。
グリーブと同じ緑色のガントレット。
緑を基調とした、銀色のラインが入った胸の装甲。
目元を覆う、緑色のバイザー。女性ヒーローの鉄則、“口元は出す”を律儀に守っていた。
その姿はまさしく、正義の変身ヒーロー|(Ver,改造人間)だった。
「奈津……」
「だ、だめ、かな?」
並走しながら呟いた椿に、奈津は不安げに訊ねた。
だが、椿は目を輝かせて首を振った。
「すっごくカッコイイよ!奈津!」
「そ、そう?……えへへ、ありがとう」
先ほどまでの緊迫した雰囲気が、完全に壊れていることに気がつかないまま、椿は奈津を褒めた。隠れヒーローファンは伊達ではない。
後ろから追いかけてくる気配はない。
ならば、このまま逃げ切るのがベストだ。
廊下の尽きたりを曲がり階段を下りる。一階降りて更にもう一階降りようとしたが、二人はそこで足を止めた。
「階段が――」
強い衝撃を受けて崩されている階段。
何故もう一段上の階で崩さなかったのか理解できないが、そもそも人間である彼女たちが邪霊の考えを理解できるはずがない。ただ、教室で仕留められなかったことを考えてある辺りで意外と頭が回るのか、などと考えていた。
「とにかく、反対側の階段まで走ろう!」
「うん、わかった!」
椿は頭を振って、奈津を促した。
とにかく、じっとしている場合ではないのだ。
気を取り直して走る。
一年生の教室は、邪霊に襲われた際最前線になるであろう一階から遠ざけるために、上の方の階――最上階の下、五階――になっていた。空を飛べる邪霊が少ないことからとられた処置だったが、今の二人にとってはそれが仇となっていた。
――ズドンッ
目の前を舞う瓦礫と砂煙に、二人は慌てて足を止めた。
上の階から廊下を突き破って、教師が落ちてきたのだ。
「もう、逃げられないかな?」
「みたい、だね」
窓から逃げるのには、四階は高すぎる。
それは崩された階段も同様だ。
また、上に昇のでは流石に追いつかれるだろう。それを考えると、下に降りるのは目の前の“障害”を退けるしか、手段はない。
「なるべ、なるべく、く、いた、くしな、いか、いたく、ない」
相変わらず声に抑揚はないが、先ほどまでより口調がおかしくなっていた。
砂煙が晴れると、漸く教師の姿がはっきりと見えた。
「なん、で」
「――ひどい」
その姿に奈津が、遅れて椿が、息を呑んだ。
落ちてきた衝撃か、右足はあらぬ方向に曲がっていた。
右手には、漆黒のバスターソードが握られている。だが、その細腕はとこどころ裂け、鮮血と一緒にに白い骨が突きだしていた。
力なく俯かれた蒼白な顔。口元からは、血に染まった泡が零れ出ていた。
震える奈津の横で、椿は目を閉じた。
思い浮かべるのは、幼き日の光景。比べるつもりはないが、乗り切ることは出来る。
既に、経験してきた風景なのだから。
「怖がるのも」
――隣にいる友に言うのではない。
「怯えるのも」
――目の前に佇む、邪霊に云うのでもない。
「竦むのも」
――それは、ただ。
「全部、あとで。――――今はただ、あなたを倒す……!」
――自分自身への、宣誓。
装霊器に、魔力という名の火が灯る。
青白い光は炎を属性とする精霊石を通り、その身を真紅に変えた。
決死の炎は右手を包み込み、決意の炎がその双眸に宿る。
「え、さ、に」
「行くよ、アレク」
右手を前に掲げると、同時に邪霊の身体が動く。
無理矢理動かされた身体は、人間ではあり得ない速度で剣を振った。
「【四元素が一柱を司どる・灼熱を統べし槍の火蜥蜴よ・我が手にその穂先を与えん】」
装霊器から伸びた炎の剣が、漆黒の大剣を防ぐ。
力負けをすることはわかりきっているからこそ、椿が横にしていた剣を天井へ向けて突き上げて、縦にすることで大剣を流した。
床に打ち付けられ、タイルを割り、コンクリートに突き刺さる。
その最大の好機を逃すまいと、椿は突き上げた剣を振り下ろした。
その目指す先は、大剣の柄。まずは、教師の手から引きはがす。
「はぁっ!」
「ぐゥッ」
鈍い音が聞こえて、手から剣が離れる。教師はそのまま仰向けに倒れて、動かなくなった。
だが、大剣はそれでは止まらなかった。
跳ね上がるように椿の顔を狙う大剣を、なんとか装霊器でガードする。
その衝撃に耐えきれず、椿は二歩、三歩とたたらを踏んだ。
大剣は滑らかな動きで後ろに下がった。
そして、その大剣の影からしみ出るように、黒い甲冑が現われた。
甲冑は大剣を掴むと、その切っ先を椿に向けた。
そして――瞬間移動でもしてきたかのように、素早い動きで間合いを詰めた。
反応することすら叶わず、椿はただ、振り下ろされる剣を呆然とした目で見ていた――。
†
ほんの少しだけ、遡る。
椿が邪霊に啖呵を切ったとき、奈津はただ呆然とその姿を見ていた。
はじめて目にする“他人の”ひどい怪我と、それを引き起こした黒い剣。
その圧倒的な力を肌に感じて、奈津はただ震える身体を抱き締めていた。
椿は、地面を砕く程の一撃を、上手く流して見せた。
――自分は何をしていた?
椿は、邪霊から教師を引きはがして見せた。
――自分は何をしている?
椿は、黒い甲冑を目の当たりにしても、決して前を見据えることをやめなかった。
――なにも、できない?
「そんなものは、言い訳だ」
脳裏に浮かぶのは、あの日の夕焼け。
椿に手を取って貰ったあの日のことを、奈津は忘れていない。
忘れられる、はずがない。
椿の笑顔と、投げかけてくれた言葉を――。
――奈津、ヒーローは?
「ヒーローは――」
――ヒーローは……。
「――決して、挫けない」
青白い光が装霊器に流される。
風の精霊の魔力は淡く緑色に光り、奈津の足に決意がこもる。
バイザーに隠された瞳に宿るのは――勇気と、気合いと、根性と……友情。
「【大気を統べし風の主よ・我が身体に宿り・我が身に疾風の加護を授けん】」
足を中心に、緑の光が奈津を包み込む。
宿りしは風の精霊エアリエル。奈津が安直のようで一生懸命考えて、エアと名付けた彼女の相棒。
その時奈津は、ただ一つの風になった――。
†
時は戻り、椿に視点が移る。
呆然と剣を見つめていた椿は、ただ一度瞬きをした。
「え――?」
ほんの一瞬。それこそ刹那の時しか目を閉じていなかったのに、椿の目に映ったのは十メートル程先で剣を床に叩きつける、甲冑の姿だった。その足下にいたはずの、教師の姿すらそこにはなかった。
「遅れてごめん」
その声が聞こえてきて、椿は漸く自分が抱えられていたことに気がついた。
小脇に抱えられ、もう片方には気を失った教師の姿があった。
「――ううん。良いタイミングだよ。ありがと、奈津」
廊下のタイルに降り立ちながら、椿は力強く笑った。
奈津は、その笑みに返すように笑うと、勢いよく飛び退いて、更に後方に教師を横たえた。
そして、すぐに椿の横に立つ。
「第二ラウンド」
「開始、だね」
椿の装霊器から伸びる赤い炎と、奈津が纏う緑の光。
二色の光が、床から剣を引き抜いた甲冑に対峙した。
その姿には、先ほどまでの張り詰めた緊張も、恐怖に竦んだ姿も見あたらず、ただ強い意志のみがあった。
『餌となれ』
先に動いたのは、甲冑だった。
甲冑はその黒い剣を大上段で構えて、残像が残る程のスピードで間合いを詰めようとした。
だが、それを許す奈津ではない。
奈津自身に、攻撃力はあまりない。
だが、自身のスピードと相手のスピードを利用したカウンターならば、話は別だ。
「でぇぇえぇぇえぇいっっっ!!」
高速で飛来する矢のように、奈津はまっすぐ足を伸ばしてドロップキックを放った。
その軌道は、吸い込まれるように甲冑の兜に決まった。
――ガンッ
金属音。
だが、金属音以外はなにも聞こえなかった。
それもそうだろう――奈津が蹴った兜は、たやすく胴を離れて甲冑の後方に飛んでいったのだから。
空を切る音と共に、大剣が振り下ろされる。
だが、奈津の蹴りによって僅かに崩された体勢からでは、本来の速度は乗らなかった。
そして、椿は友達が作った隙を逃したりは、しなかった。
装霊器から伸びた炎の剣を、左斜め下から右斜め上へ斬り払う。
半歩出ることにより椿の身体すれすれで大剣がとおる。左手にかすったことで鮮血が舞うが、その程度の痛みに崩れはしないと唇を噛みしめて、炎の剣を最後まで振り向いた。
甲冑には大きく亀裂が入り、全身がぐらりと傾く。
それでもまだ動き、振り下ろした剣を振り上げた。
そのわかりやすい軌道は避けることが出来たが、その次――椿の脳天に合わせられた振り下ろしからは、逃れられそうになかった。
椿は回避行動をとることすらせずに、身をかがめて再び切り払いの形を作った。
椿が炎の剣を放つよりも先に、その漆黒の大剣は椿の身体を二つに分けるだろう。
「させるかァッ!!」
それは、椿に奈津という友達が居なければ、という話に過ぎない。
奈津は振り上げられた甲冑の右腕を、甲冑の後方から飛来してソバットキックで叩き落とした。
二の腕から外れて空を舞う大剣に、椿は冷静に狙いをつける。
奈津は、甲冑の左手に捕まれて地面に叩きつけられ、肋骨にひびを入れられながらも不敵に笑っていた。
「はぁあぁあぁぁぁっっっっ!!!!」
気合いと魔力と火事場の馬鹿力は、装霊器に込められた光を、廊下から漏れ出す程に輝かせた。
宙を舞い、ゆっくりと落ちてくる大剣。
それを椿は、横合いから叩き付けるように斬り払った。
――ガシャンッ
金属らしくない、ガラスが割れるような音。
漆黒の大剣は断末魔の叫びを上げるかのように、その音で空気を振るわせた。
真ん中から砕け散った邪霊の剣は、地面に落ちる前に煙となって、消滅した。
後に残ったのは、破損した甲冑とぼろぼろの校舎に、倒れ伏した教師。
そして、満身創痍といった表情で仰向けに寝転がる、椿と奈津の姿だった――。
「一件落着――」
「――で、済むのかな?」
椿と奈津の、切ないため息が廊下に響いた。
事後処理はどうするのか。そもそも、校舎に侵入するような邪霊を倒したと説明して信じて貰えるのか。
二人は、駆けつけてくる足音を聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。
怪我もあり、疲労もあり、後から来た恐怖心もある。
でもそれ以上に、名前をつけられない感情が、二人にささやかな笑顔を与えていた――。
†
それは男のようにも見えた。
それは女のようにも見えた。
それは人のようにも見えた。
それは獣のようにも見えた。
それは闇だった。
それは歪だった。
三日月に避けた口元から、絶え間ない笑い声が零れていた。
「まったく役に立たない。結局、わからなかった」
残念そうな口ぶりだが、その顔は未だ、嘲笑に歪んでいる。
「まぁ、いい。次がある」
それが呟くと、それの目の前がぐにゃりと歪んだ。
そして、歪んだ空間から、大きな身体を持つ“ナニカ”が落ちた。
「楽しみにしているよ。君が一体、“何者”なのか」
笑う、嗤う、ワラう。
その場所は、本来彼らが入り込めない――学院の、一室だった。
――――歯車が、回る。
初戦闘ということで、戦闘シーン短めです。
扱いとしては、一話二話は基盤作りで、漸くここから物語を動かすことが出来ます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、次のお話も是非、おつきあいください。
2010/08/20 中間一部の改訂と編集、誤字修正。