第十七話 双頭の炎狼
大きく、歪む。
大きく、呻る。
大きく、啼く。
大きく、大きく、大きく。
始めはただの黒だった。
だが、それは黒では終わらなかった。
次に、赤が生まれた。
それでも、赤だけでは終わらなかった。
そして、黒が増えた。
そして、大きく口を開いた。
その淀んだ目は――正確に、人間を見つめていた。
その場所は、本来人間が近づかない、場所だった。
ある期間のみ、大量に魔法使いが訪れる、それだけの場所。
騎士団が監視をしているその場所は、魔法使いでなければ危険な場所だった。
魔法使いでも、一人では来られない場所。
そこに迷い込むことは出来ない。だが――故意に侵入することは、できた。
――できて、しまった。
その男は、密猟者だった。
その森が騎士団に監視されていることに目をつけて、その場所に貴重な生物、ないし稀霊石か亜霊石でもあるのでは?そう考えたのだ。
その欲求のもと、動いた人間。
少し理性が外れて、道徳観や倫理観を吐き捨てただけの、どこにでもいる人間だった。
男は、この“仕事”の前に、盗みを働いていた。
魔力を補充しておける力を持つ、水晶。その中でもとくに魔力をため込んだものを、男は持っていた。
これと稀霊石をセットで売れば、もっと高く、買い取ることが出来るのだが――。
そう言って、この場所を口から零した、クライアントを思い出す。
なにも、始めからこの場所を知っていた訳ではない。試しにと聞いた場所へ向かったら、騎士が実際に監視をしていた。
“騎士”が監視をしていると言うことは、男にとって他のなによりも“信頼”できる情報だった。
そして、森に入り、歩き回り――“それ”に、遭遇した。
男の腰までの高さ。
だが、渦巻く炎と二つの頭が、実際よりも存在を大きく見せていた。
咄嗟に走り出すも、逃げ切ることは叶わなかった。
それはすぐに追いつくと、男を引きずり倒した。
生まれたばかりでも、“それ”は狩人だった。
目の前の“餌”を逃す程、鈍重ではない。
悲鳴を上げれば、助かる。
助からなくても、聞きつけた騎士によって、一矢報いることができる。
男のそんな、小さなあがきは――“それ”に喉を焼かれて、消え失せた。
悲鳴を上げるどころか、呪詛の言葉を吐くことも出来ずに――男は、その泥にまみれた人生に、幕を下ろした。
そこそこ魔力を持った、魔法使いでは無い人間。
魔力を大量にため込んだ、純度の高い水晶。
めきめきと音を立てて、その二つを食い尽くした“それ”の身体が、大きくなる。
そして“それ”は――来たるべく、大量の“餌”のために、森の奥へと身を潜ませた。
Flame,Plus
九月三日の金曜日。
新学期が始まって、三日目。
今日は、午前中から通しで、実戦授業を行う日だ。
学校の敷地を出て、バスで一時間程移動した場所に、授業で使う森がある。
……椿は、バスが“普通の”バスだったことに、こっそり安心をしていた。
授業は、一学年全クラス合同で行われる。
その中から実力のバランスで考えられたチームを組み、指定されたポイントにいる邪霊を討伐する。そんな、シンプルな授業だった。
実力で、というだけあって、強い生徒は、同じチームにはならない。
そのため、他の生徒よりも頭一つ突き抜けた実力を持つ椿たちは、全員ばらばらのチームに割り当てられた。
応龍杯に参加したメンバーも、やはりばらばらだ。
毎年、この授業に始めて参加する生徒達は、八割が足が竦んで動かなくなる。
だが、今年はある程度の落ち着きを見せていた。
なにせ、全員が応龍祭で、邪霊との戦闘を――邪霊の脅威を、体験しているのだ。
その様子を見ていた引率の教師陣は、安心して――いることはなく、逆に不安そうな表情で佇んでいた。引率は、楓とミファエルと神楽。そして、治療要員のアンジェリカだ。
特別意志の低いスライム型の邪霊。
それも、教師がすぐ側にいて、いつでも助けてくれるという安心感。
安全な状況で戦える、環境。
“そんなもの”を経験として認識していたら、痛い目を見る。
「神崎、佐倉、エルストル、オールアクセン、サイミル、沖田、オウクストード、イクセンリュート、大寺門、水戸川……この辺りは、まず問題はないだろうな」
「そうだねぇ~」
楓が名簿を見ながら、そう零した。
実家の気質的にも経験的にも、あまり心配はいらないだろう。
「問題が起こるのなら、邪霊だけにして欲しいところだが」
「無理、でしょうね」
肩を竦めてそう言う楓と、それに頷くアンジェリカ。
その様子に、神楽は首をかしげた。
「なにか、他にもあるんですか?」
「人間っていうヤツは、一筋縄でまっすぐなのばかりじゃ、ないってことだよ」
楓は、そう嘆息する。
メンバーの中で、一番心配なのは、椿のことだった。
上流家庭どころか、中流家庭でもない。
歴史と伝統による後ろ盾がないのに、おそらく一年生の中で一番の実力を持つ生徒。
厄介なチームを割り当てられなければ、まだいい。
だが、それは叶わないだろう。
楓は、手元のチーム割りの表を見ながら、大きく大きく息を吐いた。
†
椿は、チームメンバーに気づかれないように、小さく小さく息を吐いた。
割り当てられたメンバーに、同じクラスの人はいなかった。
クラスメートが一人でもいたのなら、だいぶ気が楽だったことだろう。
椿のクラスは、応龍祭の組み体操で、しっかり団結していたのだから。
また、大角大蛇に被害者側として関わった生徒でも、そうまずいことにはならなかっただろう。彼女たちは、救い出してくれた椿たちに、多かれ少なかれ恩を感じている。
だが、椿のチームメンバーは、そのどれにも当てはまらない生徒だった。
「ちょっと!聞いてるの!?」
そうヒステリックに叫ぶ、茶髪の少女に、椿は身を竦ませた。
さらに、その後ろに控えるように立つお団子頭の少女と目元の隠れた少女も、同じように椿を威嚇していた。胃の痛くなる状況である。
茶髪の少女が赤谷桃乃。お団子の少女が佐久間理恵で、目元の隠れた少女が岡本奈美。
この三人に椿を加えた四人が、第十三斑のメンバーだ。
実力によってメンバーの数が変わり、四人から八人のチームが、八クラスで分けられる。
椿の実力を考慮した結果、集まったのは最低人数の四人だった。
「は、はいっ!」
鋭く言われて、姿勢を正す。
気分は、授業中に居眠りを注意された時のような感じだ。
「エルストルにオールアクセンだけでも信じられないのに、どうやってサイミルやオウクストードにまで取り入ったワケ?……あんた、生意気なのよっ」
「は、はぁ」
いまいちしっくりこないのは、未だに“サイミル”が解らないからだろう。
オウクストードについては、ミアから話を聞いていたのだが。
このことを知れば、さすがのリリアも落ち込むだろう。
「あんたみたいな庶民がいると目障りなのよっ!」
「そうよ!腰巾着のくせに!」
「コバンザメは大人しくしてなさいよ!」
普通なら、怒るところだろう。
そうでなくとも呆れるべきなのだが、取り巻き二人の言葉がどうにも自分に向けられている気がしなく、椿はただ戸惑いながら聞いていた。
更に言えば、一般の中学から進学してきた椿は、同年代の少女の口喧嘩を聞いたこともあるし、そうでなくても“悪意”は嫌という程受けてきた。
だから、そんな“庶民”だとか言われても、いまいち悪口を言われている気がしなかったのだ。
更に言えば、変なところで気弱なのか、椿が怒るであろうレイア達の悪口を言ったりも、しなかった。奈津の悪口も言わない辺りで、名家としては同じレベルなのだろう。
手も出してこない辺り、上品に育てられてきた証である。
「それに、そんな……かわ……薄汚い猫まで連れてきて!」
「そうよそうよ!そんな、愛くる……小汚い猫まで!」
「何の権利があって、そんな癒……可愛い猫を!」
一人、言い直せなかった。
普通は、高圧的な態度に出られれば、身を竦ませる。
だが、まったく動じない椿に痺れを切らして矛先を変えたのだが……変える対象がまずかった。椿の肩の上で欠伸をしながら顔を洗う猫を見て、和まない女の子など稀だ。
「と、とにかく!貧乏人は貧乏人らしく、小さくなって生きていればいいのよ!」
「あんまりそういうこと言っちゃ、いけないよ?」
「そ、そうかしら?……って、だ、黙りなさい!」
ずれた嫌みのおかけで落ち着いた椿が、冷静に諭す。
すると、桃乃は少し怯んだが、すぐ我に帰って踵を返す。
貶めようとする人間に、良い印象は持てない。
それでも、彼女はどうも嫌いになれないタイプの、人間だった。
ずんずんと足音を鳴らすように、先を行く桃乃を追いかける。
指定されたポイントを歩き回っていれば、邪霊と遭遇する。
そう指示されていたはずなのに、不思議な程静かな森だった。
「ホントに邪霊なんているのかしら?まったく、面倒ね」
「そうよね!」
「面倒だわ!」
そう言いながら先に進む桃乃の後ろで、椿はしきりに周囲を観察していた。
邪霊がいるところには、動物はいない。彼らは、動物も食べるため、邪霊がいる森に動物は近づかないのだ。
そのため、邪霊の気配は比較的探りやすいのだが、付近に自分たち以外の気配はなかった。
椿は、どうにも嫌な予感がして、周囲を見る。
「一端帰っちゃおうよー桃乃」
「奈美の言うとおりだよー桃乃」
「そうね、戻っちゃおうか。メンドーだしぃ」
桃乃が、踵を返す。
なにもいないと思って気を緩める、このタイミング。
動くならば、ここしかない。
椿はそう判断して、桃乃達を後ろから突き飛ばした。
「痛っ!?なにすんの……っ」
椿と桃乃達の間に降り立ったのは、巨大な狼だった。
炎の毛皮を持つ、双頭の狼。一つの頭に、それぞれ黒い四つの目がついていた。
『グルルルルルル……』
低い、唸り声。
狼は椿を一瞥すると――振り返って、桃乃達を見た。
「ひっ」
引きつった声。
決して良い印象の人ではなかったが、見捨てる訳にはいかなかった。
――見捨てたく、なかった。
「【四元素が一柱を司る・炎燐を纏う槍の火蜥蜴よ・彼の者を・その炎で覆い護れ】」
小規模結界魔法を、自分ではなく桃乃達の方へ張る。
防御魔法が苦手な椿の結界ではたかが知れているが、それでも邪霊の突進による衝撃を、弱くすることが出来た。
「あうっ!?」
「きゃあっ」
「ひぃっ!」
だが、弱めただけ。
それだけで衝撃が殺しきれることはなく、三人はその衝撃で大きく弾かれた。
椿がなんとか、怯んだ邪霊の横を駆け抜けて、桃乃の前に立ちふさがる。
腕から血を流して蹲る桃乃。奈美と理恵は、目を回して気を失っていた。
狼は、警戒しながら椿を見る。
こちらが警戒を緩めたところを狙って、襲いかかるつもりなのだろう。
「ここは抑えるから、逃げて」
「ひっ、ひぃっ……や、あたし、怪我してるんだよ!?う、動けないよっ!」
腰が抜けたのか、足が竦んだのか。
桃乃は、蹲ったまま動かない。
「いいから!早く!」
「うぁ……い、痛い、痛いよぉ」
錯乱する桃乃の様子を見かねて、椿は振り返る。
それでも意識を狼に向けて、威嚇を続けた。
黒猫も、毛を逆立てて、鋭く狼を睨み付けていた。
「っ――!」
――パンッ
「っ!?」
錯乱した桃乃を鎮めるために、椿はその頬を叩いた。
「何、するのよ!?あんた、庶民のくせに、あ、あたしを、あたしを――――え?」
椿を、敵意を込めて桃乃が睨み付ける。
椿は、そうやって涙を流す桃乃を、優しく抱き締めた。
――自分が泣いていたときは、おじいちゃんがこうしてくれた。
そんな、子供の頃のことを、思い出しながら。
「怖くないよ」
「え、なに、を?」
ぽんぽん、と、背中を優しき叩く。
「だいじょうぶだよ――――私が、守るから」
「あ、あんた」
それは、椿がなりたい――“魔法使い”の、かたち。
「早く、行って!」
「っ――――」
突き放されて、立ち上がる。
転がった二人を肉体強化で持ち上げて、桃乃は教師達が控えるキャンプの方へ走っていった。
二人を抱えているせいか、あまり速くはない。
だが、迷うことなく、走っていく。
『ガァ!』
「させない!【四元素が一柱を司どる・灼熱を統べし槍の火蜥蜴よ・我が手にその穂先を与えん】」
背を向ける桃乃を追いかけようとした狼の前に、椿は炎刃を携えて飛び出した。
牙を剥き噛みつく狼の横面を、炎刃で叩くように切る。炎属性なのが悪いのか、ほとんどダメージは与えられない。
『グルルルル……ガァッ!!』
ならば、手段は限られる。
周囲には、誰もいない。だったら、使えばいい。
――わかっているのに、決心がつかなかった。
狼の爪が、赤い軌跡を残して走る。
それを紙一重の所で躱すが、攻撃に転じる隙がない。
使えばいい。
使えばいい……だが。
――それで、人間から“外れて”しまったら?
そう考えると、力が入らなかった。
胸の痛みは、ほとんどない。その意味することを考えた、その刹那の隙。
それを見逃すことなく、狼が体勢を低くした。
「しまっ!?」
『グルゥア!』
気がついたときには遅く、すでに避けられるタイミングではなかった。
『ふにゃあっ!!』
そんな狼に飛びかかったのは、威嚇していた黒猫だった。
彼女の使い魔は、主を守ろうと飛び出して、狼の顔に張り付いた。
『ガァゥッ!!』
「まーくんっ!」
だが、もう片方の頭に頭突きを加えられ、その小さな身体が宙を舞う。
狼は、わずらわしい“それ”を消してしまおうと、口の中に炎の吐息をため込んだ。
「【魔剣・真紅】!!」
その狼の頭を斬りつける、真紅の大剣。
飛来したそれは、狼の顔に一筋の傷を刻み込んだ。
痛みに怯んで下がる狼を一瞥もすることなく、椿はまーくんと名付けた黒猫に近寄った。
命の灯火が薄らいでゆくその様に、椿はそっと目を伏せた。
「すぐに、助けるから、待ってて」
椿は、大剣を左手に追従させる。
右手には、真紅の刃が構えられていた。
どこまでこの相性の悪い相手に通じるか解らない。
だが、逃げることが出来ない以上は、できるだけ早く、打ち倒す必要があった。
狼が――低く、呻る。
†
焦燥した表情で森から出てきた生徒――桃乃の姿に、神楽は息を呑んだ。
アンジェリカと楓が駆け寄って、遅れて神楽も走る。ミファエルは、周囲の警戒に身を引き締めた。
「おい!どうした!?」
「先生っ!神崎さんが、神崎さんが!高位の邪霊を相手に!お、囮をっ!」
抱えていた二人をおろしながら訴えかける桃乃の姿に、楓は緊迫した空気を放つ。
「っどっちだ!……って、おまえも怪我をしているじゃな――」
「あたしの怪我なんか、“どうでもいい”から、早く神崎さんをっ!」
必死で訴えかける桃乃に、楓はしっかりと頷いた。
「わかった……アンジェリカ、頼む!」
「わ、私も!」
「東雲先生は、ミファエルと警戒を!」
「っ……はい!」
走っても、間に合うかはわからない。
それでも――楓は、身体に魔力を流して、駆け出した。
†
椿と狼が、爪と刃を合わせる度に、赤い軌跡と火花が生まれる。
森を焼く勢いで、激しい剣戟の音が木霊する。
その戦闘の横で、一匹の黒猫が横たわっていた。
最早、ほとんど息もしていない。
使い魔として強化されていた身体でなければ、先ほどの一撃で粉々になっていただろう。
大地を濡らす、赤い液体。
それは既に、乾き始めていた。
全く動かない、黒猫。
だが、その瞳は――淡く、明滅していた。
――DL 94% ……95%
漆黒の瞳に映る、何かの数値。
その値は、完了が近いことを、示していた。
――DL 96% ……97% ……98% ……99%
そして、表示される情報が、変化する。
――DL 100%
――情報構成・完了
――対象者にアクセス・コネクト
――リミット解放・1・2・3 ……ロック解除
――権限を移行 一番・二番・三番 アクセス
――ログ・オン スリープモード 解除 復元・完了
――プログラム・スタート
瞳孔が、銀色に染まる。
その右目に映るものは――“遮断”の紋章。
そして彼は――――ゆっくりと、目を開けた。
†
ほんの数度、刃を合わせただけで、椿は憔悴していた。
合わせる度に押されて、捌ききれなかった攻撃で、腕や足からは血が流れ出している。
細かい傷ならば、数え切れない。
その理由は、わかっていた。
――“相性”である。
炎が聞きにくい時点で、魔剣以外の攻撃が通りにくい。
魔剣で攻撃すれば傷つける出来るのだが、超攻撃力の突進や噛みつきに対する盾にするため、攻撃に回れない。
そして、盾にすると、力で押し負けるのだ。
そう、椿は――圧倒的に“防御”の手段に、欠けていた。
「【三槍・響炎】」
追尾の槍を放つ。
ダメージにならなくても、気を引かせることが出来ればいい。
雅人と戦ったときとは違い、椿は二種類同時に扱うことができるように、なっていた。
このまま能力が成長してゆけば、全ての力を同時に扱うことができるかも知れない。
そんな“恐ろしい”想像を、椿は頭からたたき出した。
だが――その一瞬ですら、狼にとっては大きな隙だった。
『ウル……グガァッ!!』
「きゃあっ!!」
とっさに大剣を盾にしたが、今まで逸らしてきた衝撃をまともに受けてしまったため、大きく後ろに弾かれた。
「っ――【走焔・群魚】!」
背後の木に背中を打ちつける。
その衝撃に飛びそうになる意識を、唇を噛み切ることでつなぎ止めた。
そして、無数の魚型の炎を生み出して、撹乱させる。
狼にとって無害に等しいダメージしか与えられないだろう。
だからこれは、狼がそれに気がつくまでの、時間稼ぎなのだ。
「どう、すれば」
力を使えば使う程、胸が痛くなる。
痛くなって、次第に“痺れて”いくのだ。
それはどこか、知りもしない麻薬のようだった。
「っ」
頭を振る。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
諦めたくない。
でも、手段は少ない。
防御という一点を考えれば、これ以上はない力は持っている。
だが、それを使うことは出来ない。
心情的に、ではない。
まだ、扱うことが出来ないのだ。
「どう……すれば――」
『――私が、手伝うよ』
目を伏せて、悔しさから身体を震わせる。
そんな椿にかけられたのは、どこか幼い――それでも、聞き覚えのある――声だった。
「まー、くん?」
『クッ……そうだよ。“まーくん”さ』
その声は――雅人のものだった。
振り返る先には、無傷の黒猫。
その両目は銀色に染まり、右目には“遮断”の紋章が浮かんでいた。
「なん、で?」
『詳しい話は後にしよう。今は、そう……私を使えば、“心絶”の力を扱うことができる……まずは、目の前のあれをどうにかしようか』
狼は、律儀にもあらかた魚を潰し終えたところだった。
餌にならなかったのが気にくわなかったのか、低く唸り声を上げながら、椿を見ていた。
まーくん――雅人は、猫らしい身軽な動きで、椿の右肩に飛び乗る。
『私は君の使い魔だ。それには変わりはない』
「う、うん」
『だから、心を同調させるんだ。君の“使い魔”として、私を信用しろ』
「――うん」
疑問はいくらでもある。
だが、この黒猫は、椿が自分で助けて、契約した――自分の、使い魔|(家族)なのだ。
『グルルルルゥ……』
狼が、呻りながら、体勢を低くした。
『ガァッ!』
そして、勢いそのままに、飛びかかる。
『合わせて、椿』
「うん!」
目前まで迫った狼に、手をかざす。
心が同調して、雅人と同時に詠唱をする。
「【心盾・絶火】」――――『【ウォールアウト】』
出現した赤い半透明の“壁”に、狼が勢いよく衝突した。
雅人が行ったように、これを射出することは出来ない。
だが、防御力はまったく同じ――こちら側と向こう側を、遮断する。
「っ……ごふっ」
だが、過剰な魔力の運用により、身体に負荷がかかる。
そのせいで、大量の血を吐いた。
――それでも、椿は止まらない。
空に弾かれて、体勢を崩した狼。
次からは警戒されて、うまくはいかないだろう。
椿の魔力も、あと一撃分しかない。
それならば、この一瞬が――――最後の、チャンスだ。
指を指して、狙いを定める。
身体は右半身になり、視線は狼に固定される。
真紅の魔力が身体を走り抜けて、爪の間から血が流れる。
大きな負荷に身体が軋み、悲鳴を上げて、右腕が自然に裂けた。
流れ出る夥しい血液も、身を灼くような激しい痛みも、心を覆う――激情も。
今、この時だけは、全部捨てて前を見た。
「【断火・一閃】」――――『【ラインアウト】』
指先からまっすぐ縦に“出現”する、壁。
狼がその一撃を見たときには、すでに、二つの頭は別々の方向へ投げ出されていた。
『グゥ…ギッ!?!!』
そして、地面に投げ出される、前に。
塵となって、虚空へ消えた。
「さぁ、はな、し、を」
『そんな身体で何を言っているんだい?――使い魔に聞きたいことがあるのなら、後で聞けばいいだろう?一緒にいることに、なっているんだから』
荒い息を隠すことも出来ずに、問いかける。
だが、逆にたしなめられてしまった。
「けほっ……あっ、かはっ!」
さらに血を吐いて、地面に倒れる。
慣れることはない、激痛で意識が遠のく、感覚。
それに素直に身を任せることも出来ないまま――椿は、気を失った。
『さて――私だけで、守りきらないとならないのかな?』
周囲にゆっくりと姿を現したのは、無数の低位邪霊。
そう、この地は邪霊の住処――これだけ魔力をまき散らしていれば、邪霊だって集まる。
「どいつもこいつも……そんなに私の生徒を襲うのが、好きか」
だが、それは、おおざっぱな方角しかわからず迷っていた楓にも、言えることだった。
雅人は、神霊者の力が周囲に漏れないように、この身体で出来る範囲で、この周囲から意識を逸らしていた。それが、最後の一撃の時に解けたのだ。
楓はその膨大な魔力を感じ取って、ここまでやってきた。
雅人は、その刀に宿る“破邪”の力を感じ取ると、安心したように蹲る。
そして、自分も椿と同じように、魔力の過負荷で気を失った――。
†
もう何度目になるか、覚えていない。
椿はそんな自分に呆れながら、医務室で目を覚ました。
目を覚ましたときに、枕元で友達が泣いているのを見るのは、心が痛む。
奈津だけは、赤くなった目を隠しながらも、笑ってくれるのだが。
今回は、いつものメンバーに神楽が加わっていて、彼女が一番泣いていた。
フランチェリカに泣かれる事並みに、子供を泣かせている気分になる。
本人には、言えないが。
お見舞いと診察を済ませると、やってきた桃乃達が椿に謝って――話の流れは覚えていないのだが、椿は彼女たちと代わる代わる握手を交して、別れた。
そして、落ち着いた頃、誰もいなくなった医務室で――雅人と、対面した。
「その、どうしてまーくんに雅人さんが?」
『あぁ、私は彼の記憶と経験をベースに使っているけれど、彼そのものではないよ』
「え……と?」
雅人は、猫らしい仕草で顔を洗っていた。
どう見ても、猫である。
『私の基盤は、確かに“遠峰雅人”のものだけれど、この身は君の“力”によって、生み出されたものに過ぎないのだよ』
雅人はそこに、「身体のベースに、死んだ子猫のものも使っているけどね。あ、餓死だよ?」と付け加えた。確かに、その一言がなければ、椿は気にしてしまうだろう。
餓死だと聞いて、やはり少し落ち込んでしまったが。
『強大すぎる邪霊王の力を扱うには、それなりの補助がいる』
「それが、雅人さん?」
雅人は、身体に引っ張られているのか、大きく欠伸をした。
『そう、私は、君が“私の”力を完全に扱えるようになるまで、君を支える“サポートユニット”という訳さ』
椿の身体にかかる負担を軽減して、さらに、その力の調整も担う。
『まぁ、他人がいるところでは、“まーくん”で構わないよ』
「あ、あははは……はい」
椿も自分のネーミングセンスには自信がないため、素直に頷いた。
二人の時は、雅人と呼ぶ。……そう、約束したのだった。
「それじゃあ、これからよろしく、ね」
『もちろんさ、それが私の存在意義だからね。マスター』
椿は、その小さな肉球を握って握手を交した。
慣れることは、恐ろしい。
それでも、助けてくれる人たちを、守りたい。
決心こそつかないけれど――椿は、悔やむことがないように、と。
小さくも、大きな――意志を、抱いた。
モチベーションが上がり、五時間で書き上げました。
次は、今度こそ、そんなに早くはあげられないかもしれないです。
今回は、この作品のマスコットキャラクター、まーくんの正式参戦でした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回も、よろしくお願いします。