第一話・雨が降る
雨の匂いが、遠くから忍び寄ってくる。
湿った土の奥に眠っていたものが目を覚まし、息を吐くように地表へ溢れ出す。苔の柔らかな肌がしっとりと色を濃くし、樹皮の隙間では小さな虫たちがそわそわと動き始めていた。
雨が降る。
雨爺はそれを「生きものが雨雲に連れられてくる匂い」と呼ぶ。理屈はわからない。けれど、その言葉の奥には、長く生きたものの確信のような温かさがあった。私は、その響きを信じている。
私たちはアメフラシの一族だ。その名に誇りはある。けれど、村々で歓迎される理由が、私たちそのものではなく「雨を降らせる力」だけだと思うと、胸の奥に鋭い棘が刺さる。
十六になると、大人は雨爺から力を分け与えられる。印を組めば、たちまち雲が集まり、雨が降る。雨爺の力は一族で最も強い──もっとも、一族といっても、雨爺と母さん、弟、そして私だけ。父さんは雨爺との修業中に亡くなった。
私が六つの頃、雨の乏しいラグス村に呼ばれた。隣村が川を堰き止め、小さなダムを築いたせいで、この数年は干上がりかけている。月に数度、雨を降らせる報酬は、立派な家と山羊と鶏。だがそれだけでは暮らしは成り立たない。私はいつも雨爺と山へ食料を獲りに行く。
山は深く、樹々の合間から漏れる光は斑模様をつくる。地面は落ち葉に覆われ、その下で小石や根が足を取る。雨爺は背筋を伸ばし、若い猟師のような鋭い動きで短刀を降り、兎を三羽も仕留めた。弓は使わない。
私はリュックいっぱいの茸や山菜を詰め込みながら、雨爺の背中を何度も目で追った。その肩は年老いてもまだ広く腕の筋肉はしなやか、父のような頼もしさと同時に、いつか失われてしまうのではという不安も感じさせた。
ふもとが見えかけたころ、雨爺の眉間が深く寄った。矢羽根が風を裂き、かすかな音を立てる。二日前に降らせた雨の名残で、足もとはぬかるんでいる。湿気が肌にまとわりつき、鼻先には鉄のような匂いが混ざった。
「滑るぞ、気をつけろ」
「うん」
返事をした瞬間、右足が土をとらえきれず、尻もちをつく。冷たい泥が掌にまとわりつき、足首に鈍い痛みが走った。
「静かに」
その声は低く、刃物のように研ぎ澄まされていた。雨爺の目は山肌ではなく、ずっと先の景色を射抜いている。息を吸う、矢を番う、放つ。
木立の隙間をあざやかに抜けた矢は、武装した男たちのさらに向こうへ。視線を追うと、放し飼いの牛の尻に刺さっていた。茶黒い毛並みに血が滲んだのか、牛は瞬時に狂乱した。重い頭突きで柵を砕き、破片が後ろの牛に突き刺さる。群れの目が赤く光り、轟く蹄が土埃を震わせた。
「村人たちへの合図だ」雨爺は短く言った。「牛が奴らを散らしてくれる」
しかし、村の男たちは来る気配がない。
「……祭りの準備で洞窟か」雨爺が苦々しく舌打ちしたとき、その声には焦りよりも諦めが混ざっていた。
雨爺は首から外した。鼈甲色の石がはめ込まれたペンダント。
「シューヴァ。誕生日にはまだ早いが、力を継げ。肌身離すな──誰かを愛するときでも、死ぬときまでずっとだ」
父さんが受け取るはずだったもの。十年前、それを首にかけたまま逝った父さんの影が、私の胸もとで揺れた。
その時、村の方から乾いた爆ぜる音。炎の色が夕暮れ時の空を一層染め、焦げた匂いが風に混ざる。叫びが裂くように届き、弟と母さんの顔が脳裏に浮かぶ。
「行くな」
雨爺が片手で私を制し、三本の矢を一度に番えた。
「矢に宿る精霊よ──雨の調べに集え」
放たれた矢は枝葉をかすめ、空高く吸い込まれる。その細い軌跡が見えなくなったかと思うと、空から無数の影が降り注いだ。矢の輪郭をもった雨。雨のような矢。
ふもとで倒れる影は、女や子どもではなく武装した男たちだった。
「降りるぞ」
その声にはためらいがなかった。もし従わなければ、私は怒りに飲まれ、無謀に駆け下りていただろう。そして、無残に殺されていただろうに。
村は、朝の面影を一片も残していなかった。焦げた木の匂いと、血の鉄臭さがまとわりつく。その臭いは肺を深く刺す。呼吸するたびに、苦しい。
地面には倒れた村人が横たわり、その隣で鍋がまだ煙を上げていた。
私と雨爺は、母さんと弟を探して地獄の中を走った。
雨は降っていないのに、雨の匂いが消えずに残っていた。
*
知っているはずの村が、まるで異郷だった。角を曲がれば我が家――そう信じていた記憶が、頭の奥で溶けていく。あそこにあるべき家も、もう幻なのではないか。扉を開けば、懐かしさと同時に、決して見たくなかったものと出会う気がして、胸がざわついた。
隣村の男たちは武器を捨て、命のあるものは己の村へと逃げ帰った。致命傷のもの、絶命したものは、そのまま泥にまみれ、ラグスの村人たちと同じように転がっている。
同じ人間のはずなのに、違うように見える。
我が家の扉の前で立ち尽くした。扉には斧で打ち据えた跡がはっきりと残っていた。家の前には、背に五センチほど穴を開けた男たちが三人、目を見開いたまま絶えていた。まるでチーズのようだった。握り締めた手には、斧や鍬、鎌――日常を生きるための道具。それを私は、泥まみれの靴で踏みつけて奪った。武器を手から剥ぎ取るためにだ。
「もう、死どる」
雨爺が淡々と告げる。そこに感情はない。私も同じく。
それでも私は踏みつけ続けた。痛みを感じるかどうかではない、私が痛みを与えているかどうかが問題なのだ。
山を歩くために選んだ厚い靴底が、死者の骨を感じる。不思議と吐き気すら涌かない。その手はラグスの男たちのものと同じだ。荒れ、硬く、畑の土にまみれた手。
いや、その手は“かつて人間だったものの手”と呼ぶ方が、ふさわしい。
私は扉に手をかけた。躊躇した。どうしても開けられなかった。開けたくなかったのだ。開けてしまえば、母さんとナガメが冷たくなっている現実を突きつけられる――その予感が、私を動けなくした。
雨爺が私を優しく押しのける。足裏で扉を蹴りつけると、思いのほかあっけなく開いた。バリケードもなく、錆びたヒンジは脆く外れた。
家の中は、時間が止まったように静かだった。
キッチンには作りかけのスープ、吹きこぼれた鍋は火を落としたまま固まっている。私たちの帰りを待っていたのだろう。リビングにも、寝室にも、人の気配はなかった。だが、死の気配すらない。
それが、いっそう不気味だった。
甲高さの中に漏れ滲むような低い声が聞こえた。
「シューヴァ! 雨爺!」
ナガメの声だった。三つ下の弟。背は低く、昔と変わらぬあどけなさに声変わりの大人さを残している。少年が青年へと変わる儀式が私には興味深くそして、気味悪くもあった。
母さんと一緒に納屋に逃げていたらしい。暴れ牛が周りを塞ぎ、誰も近寄れなかったと母が震え声で言った。
雨爺を見た。牛の尻に矢を放ったのは、使役のためだったのか。牛の護衛、二人を守らせるために。
だが、次の瞬間には崩れた。
裏手から侵入した隣村の男たちが、母とナガメを捕らえたのだ。刃を首筋に押し当て、家の外へと引きずり出す。
「雨爺! この二人の命、お前の決断にかかってるぞ!」
声の主は、隣村の村長の息子だった。自ら名乗り、誇示するかのように。
雨爺は弓を放り、静かに降伏の意思を示した。
「よせ。ワシが目的だろう。わかった。二人を放せ」
その声に、私は血が震え、燃えるように沸き立つのを感じた。雨爺のように、冷静にはなれない。母とナガメに何かあれば――殺す。
雨爺は拘束され、村長の息子とその手勢に連れ去られた。盗まれた馬に乗って、彼らはあっという間にラグス村を去った。
「雨爺!」
ナガメの叫びは、届かないまま風に溶けた。
私は斧を握り、雨爺を追うことにした。その時、洞窟からラグス村の男たちが戻ってきた。息を切らしている。私と同じように、死んだ隣村の男たちから奪った農具をめいめい手にして。
「ハルジさん……」
母が隣家の男の名を呼んだ。ハルジは雨爺を連れ去った男たちと入れ替わりに我が家に入り込んでいた。様子がおかしい、斧を持ち、無言で母に歩み寄る。
ハルジと二人の男が、母に襲いかかった。叫ぶ暇もなく、彼女は斬り伏せられた。
次に、ナガメ。幼い肩が裂け、血が弧を描いた。
声が出なかった。
私は、ただ斧を握り、立ち尽くした。泥まみれの床に血が流れる。
「死ね」
ハルジが唇を歪めた瞬間、屋根が破れた。轟音とともに、影が落ちた。
両足で屋根を砕き、黒衣の男が舞い降りた。手に、銃のようなものを握っている。背は高く、痩せて、獣の気配を帯びていた。
「クソ雨ジジイ! どこだ? ――サンレが戻ったぞ!」
ハルジが斧を振り下ろす。
男は銃を構え、低く唱えた。
「銃に宿る精霊―雨の調べに、集え」
耳に覚えのある言葉のつながる響き。
次の瞬間、弾丸が光を裂き、ハルジたちの頭蓋を砕いた。
倒れたハルジのこめかみに、氷のような弾丸が埋まっている。
「霰だ」
サンレはそう言って、私の手を引いた。牛の背に私を押し上げ、ラグス村を離脱する。
私は、涙を流しながら喚いた。
「母さん! ナガメ! 」
「逃げるぞ」
「ちょっと放してよ!」
怒りと懇願が混濁し、喉が裂けるまで叫んだ。
サンレは答えず、山道を駆ける。背後では、洞窟から戻った男たちが狂ったように呪詛を吐き、村に怨嗟の響きがこだました。
サンレはふと、私の首に下がるペンダントを見た。
「なるほど。お前も、雨ジジイにもらったんだな」
「…はい」
言葉にならない感情が喉を塞ぎ、私はただ頷いた。
助けてくれた彼に礼を言うべきなのに、そんな気持ちはひとかけらも湧かなかった。雨爺は連れ去られ、母とナガメは殺された。それが、すべてだ。
牛がいつもの山のふもとまでたどり着いた。サンレは牛を解放した。
「まずは方針を固める。無駄死には、雨ジジイだって望まない」
「あなた……誰?」
サンレは笑いもせず、短く答えた。
「覚えてないか。俺は雨ジジイの弟子――霰の雨降師だ」
アメフラシ? その響きだけが、頭に残った。
限界を超えた身体は、サンレの腕の中で崩れ、深い眠りに落ちた。
*
ラグス村の男たちは、いまごろ惨状に怯え、息を潜めているに違いない。
だが、ここからでは村の細かな様子までは見えなかった。山肌に絡みつく霧が、すべてを覆い隠している。
「ハルジは……死んだの?」
息を殺して尋ねた私に、サンレは首を横に振った。
「おそらく、生きている」
淡々と告げるその声に、確信めいた響きはなかった。サンレが使う銃弾は、簡単に言えば水分でできているらしい。雨爺の放つ無数の矢も、同じく水分を凝らしたものだという。
私たちの家系は「雨降師」。雨を呼び、制御する家元の血筋だと、サンレは教えてくれた。彼は幼い頃、雨爺に拾われ、父の代わりに修行を積んできたという。父は修行の途中で行方不明になった。今日まで、私は父が死んだものとばかり思っていたが、サンレの口ぶりでは“生死不明”生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。そんな曖昧な存在として扱われているらしかった。
日が西の山腹に沈みかけ、空が鈍色から墨色へと移り変わる頃、私たちは山頂近くに建てられた雨爺の「雨乞い小屋」に着いた。
村人たちには、この場所の存在は知らされていない。深い霧と険しい山道が、外界からの侵入を拒む。無謀に登ってくる者などいない。少なくとも、そう信じられるだけの安心がここにはあった。
小屋の中は質素で、テーブルと椅子が二脚、簡素なベッドが二つ。寝て食べるだけの最低限の生活空間だった。だが、私には懐かしい場所だ。幼い頃、ナガメと一緒に雨爺によく連れてきてもらった。二つのベッドをくっつけて、真ん中に雨爺を挟んで眠った夜を覚えている。朝になると、なぜかベッドが離れ、間の床に雨爺が落ちている。そんな可笑しな光景も、まだ目に浮かぶ。
外には小ぶりな社があった。雨爺が祈りを捧げ、村に雨を呼ぶ神聖な場所。そこに足を踏み入れられるのは、雨爺ただ一人だった。
「なんか、食うもんないのか?」
サンレの腹の虫が先に口を開いた。
「小屋の横に貯蔵庫があります。塩漬けの鹿肉と、ジャガイモが少し」
そう答えると、私はベッドに体を投げ出した。
胸が重く、息が浅くなる。母とナガメはもういない。あまりにも無惨に、あまりにも唐突に殺された。脳裏に焼き付いた光景が、まぶたの裏を焼き続ける。ハルジ……許せない。あの男の隣にいた顔ぶれは見覚えがない。おそらく隣村から来た者たちだ。
サンレは貯蔵庫から鹿肉を取り出し、厚めにスライスすると、ポケットにはジャガイモを四つ忍ばせて戻ってきた。
よく見ると、彼は私より十歳ほど年上かもしれないが、不思議と幼さが残る顔立ちをしている。緑がかった瞳、百七十センチほどの背丈、そして大きく骨ばった手が印象的だった。
「よし、コンロはこれだな」
火が灯る音とともに、鹿肉がフライパンに放り込まれる。外の井戸から汲んだ水で、鍋のジャガイモが静かに踊り始めた。その手際は、まるでこの小屋に長く住んでいたかのようだった。
「ずいぶん慣れてるのね」
私がつぶやくと、サンレはにやりと笑った。
「わかるか? 雨爺の小屋はどこも同じ造りなんだ。俺が修行してた頃の小屋も、こんな感じだった」
こんな状況でも、彼は不思議と楽しげだ。母とナガメの死に、彼は直接関係がない。悲しみも、怒りも、私のようには抱いていないだろう。
「なんだ? 俺が悲しそうにしてないから不満か?」
図星を突かれたように、私は息をのんだ。鹿肉が裏返され、香ばしい焦げ目が立ち上る。油はなく、肉は少しフライパンに張りつきそうだったが、弱火でじっくり焼かれているためか焦げた香りはしない。
「俺だって悲しいさ。せっかく雨ジジイに腕前を見せたかったのにな」
ふっと鼻先に、湿った空気の匂い――雨の気配が漂った。
「どうして私たちの家がわかったの?」
あんなにもタイミングよく屋根を突き破って現れるなんて。
「あぁ、雨爺の住む村を聞いてな。でも俺、方向音痴でな、道に迷ってた」
方向音痴にしては、この小屋には真っ直ぐたどり着いた気がするが。サンレは続ける。
「途中で、尻に矢が刺さった牛を見つけたんだ。あれでピンときた。雨爺の“使役の矢”だ。護衛用の矢が放たれたもう一頭の牛を追って、ここに来たってわけだ。……まぁ、天井から派手に入る必要はなかったけどな」
「もう少し早く来てくれたら……」
言葉が喉に詰まった。心の奥で、彼を責めようとしていた。もう少し早ければ、母もナガメも助かったのではないかと。
「それは違うな。俺は家元じゃない。雨降師ほどの力はない」
サンレが言うには、彼の「霰」は雨爺の雨の力を分化させたもので、雨を凍らせ弾丸に変える力だという。
「雨は降らせられるが、思うようには扱えねぇ。せっかく雨爺から授かったのにな」
彼は銃を手に取り、苦々しそうに見つめた。
「それ、何発も撃てば戦えるんじゃないの?」
私は復讐に巻き込む算段をしていた。
「三発だ。それ以上は霰を練り込めねぇ。だから雨ジジイに修行を頼みに来たんだ」
――この人は、素直すぎる。私はそれを、遠慮も恥もなく利用しようとしている。
「復讐したい」
その言葉は、堰を切った水のように溢れ出し、私の中の黒い感情を氾濫させた。サンレはただ黙って聞いていた。
「その気持ちはわかる。だが、誰に復讐するんだ? 隣村の男たちか? ……雨ジジイは生きてるかもしれんぞ。それに、母親と弟を殺したのは奴らじゃない」
確かに、人質にはされたが、二人を殺したのはハルジだ。同じ村の人間。隣村の連中を手引きし、騒乱を招いたとしても、殺す必要はなかったはずだ。
「思うんだが……お前の母親と弟は死んでいないかもしれない」
「どういうこと?」
「雨爺が“恵みの雨”を施している」
恵みの雨――聞いたことはある。神の加護のような力だと。
「知らないのか? 内側から回復する力だ。致命傷でも、そこから癒えていく。俺は一度見たことがある。……まぁ、俺に放たれたんだがな」
修行時代、兄弟子との模擬戦で雨爺が二人に恵みの雨を降らせたという。サンレは死の淵から半日で回復したらしい。本人にはその自覚がなかったほどだ。
「とりあえず食って寝よう。明日考えればいい、先のことは」
「母とナガメを助けるの、手伝ってくれるの?」
「あぁ、心配するな」
胸の奥の硬い塊が、少しだけ和らぐ。
私は雨爺の無事を祈りながら、香ばしく焼き上がった鹿肉と、茹でただけのジャガイモを頬張った。希望と食欲は、確かに比例する。村の男たちはきっと、ハルジを捕らえ、母とナガメを手厚く治療してくれているはずだ。――だって、私たち一家は、これまで村のために雨を降らせてきたのだから。