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対立する 3-1

私の思考は何処か深いところに落ちていった。身体の終端としての死。暴力の極限としての虐殺システム。政治的な領域が戦争という構造体に従属するとき。そこには、虐殺器官として私達がただあった。

ここにはあらゆる意味からの逃走線も無く、政治的な言葉もまた無力だ。

意味を捨てず、言葉を積み重ねたところで、この身体は暴力によって支配される。

暴力の行使、物理的な法則に縛られる私達にとって、それらを拒否することはできない。どこまで言ってもあの言葉が私達の脳天に振り下ろされる。流血を厭うものは、流血を厭わぬものによって必ず征服される。


けれど、私達が生きるここは自然状態ではない。万人の万人に対する闘争、自然状態。それは動物的状態だ。力により他者を支配し、存在を自己に従属させる、暴力の原理。力あるものが力なきものから全てを奪い取っていく。暴力に無抵抗な人間は自己の一切を完膚なきまでに収奪される。

トマス・ホッブズが提唱したその、自然状態というものを、人間はどのように克服したのだろう?

そして、この私達が生きる世界で自然状態を克服してもなお立ち上がる、この暴力機構というものはなんなのだろう?


獣と人間の違いは他者を必要とするかしないかにあって、人間は揺れ動く存在で、獣は変わることのない存在なのだと私は思う。

獣にとっては自己利益の為に利用できるものがあるだけで、同種の生物も基本的には自己を取り巻く環境でしか無い。例外として唯一あるのは血族関係だろうが、それもまた、遺伝子にという自己の構成要素の存続の為の仕組みでしかない。人間というのは他者への認識を利益という視点だけじゃなく、常に更新し続けながら生きていく存在で、合理だけであらわせない部分が多くあると私は思う。人が他者を求めるのはそこに揺れ動く自己があるからだ。そこで求める他者は変わることのないなにかではないと私は思う。変わることのないものには手触りがないから。変容していく私は、変容していくあなたを求める。不安定な、けれど、明確な自我を持つ私は、それを分かち合いたいと願う。


ルソーは不平等起源論の中で、所有こそが不平等の始まりであると言った。そして、この所有(私有財産)を持つことを容認すること、容認させることで成り立つ関係性こそが社会の始まりだった。所有者は所有に所有されることによってのみ所有を所有する。そう言ったのは安部公房だった。私有財産の存在、それこそが暴力からの逃避を不可能とし、身体の終端としての死をこの肉体に引き受ける楔だった。この場所を所有する私は、ここにある利益を防衛するためにこの場所を守らなければならない。この肉体を所有する私は、私という自我を所有する、この私は、この肉体を、この自我を守らなければならない。けれど、その先で大きな暴力の前に私達は自己防衛のために、自己を奪われていく。私を守るために私という存在は、奴隷化される。


自然状態が解消されたとき、そこには最初の約束があった。最初の約束、それをルソーは暴力を用いることなく誘導し、説き伏せることなく納得させるような権威によって達成されると言った。自然状態において、私達が共有できるものとはなんだろう。それは共有幻想だ。身体に伴う死という終端という恐怖だ。揺れ動く自己を分かち合いたいという思いだ。

それを、ルソーは一般意志として表現した。一般意志、それは特殊意志に対比されるものとしてある。特殊意志というのは個々人の持つ本来的欲求の発露だ。だが、この特殊意志の単純な総和が一般意志ではない。特殊意志の総和では多数派という力ある者たちの意見が優先されるからだ。それは、全体意志として一般意志として区別される。一般意志とは、そこにある構成員全体を含む共同体という視点から考える全体利益を求める意志のことだ。

そこにあるのは共にある意志で、他者を自己の同一線上に置くことだ。

最初の約束、それによって結ばれた契約を社会契約という。社会契約は、双方の自由意志による、一般意志の共有と合意に基づく契約という形でしか成立しない。奴隷に対して押し付けられる契約は自身の特殊意志を他者に強制することで、ここに一般意志は存在しない。ルソーは奴隷契約の不当性を主張する。それは、契約という行為が原理的に個人と個人の間で結ばれるものであって、奴隷化された個人は意志が剥奪されそこに個々人の意志は介在できない為だ。当事者性そのものが喪われてるならそれは一方的な意志の押しつけでしかなく、それは原理的に契約とは言えない。奴隷契約は不当である。

けれど、この不法性というのは社会契約が結ばれることによって初めて明らかにされるものだ。動物的な存在という枠組みの中に奴隷契約の不当性はない。

自然状態そのものから奴隷契約という自由を剥奪し相互の自由意志の伴わない契約を不法とする要件は導き出されない。奴隷契約の不法性は自然発生した社会契約の裏返しとして発見されるもので、自然状態においては成立しないはずの奴隷契約が、成立するものとして扱われ得ると私は考える。

だから、他者を求める私達の前に、あなたが立ち現れるとき、そこにあなたと私によって共有される一般意志が生まれ、一般意志を否定する奴隷契約の不法性が理解される。

他者を必要とすることでしか、一般意志を介する社会契約は結ぶことができないのだと私は思う。


暴力からの逃避が一般意志として共有され、自由意志によって一般意志に基づいた社会契約が結ばれることで、暴力の自由な行使を個々人は放棄し暴力を共同体というシステムによって共同管理するようになった。

その先に巨大な権力構造としての国家が立ち現れる。国家はその巨大さ故に構成員全てを圧倒する物理的な力を手にする。このとき、構成員は国家を運営するものを抑制する手段もコントロールする手段も喪う。

また、国家というものは、その最初においては一般意志によって成立するが、その後に生まれたものは、すでに存在していた国家というルールのもとに過去の一般意志を強制されることになる。最初の約束を行った者たちの意志は呪縛として残り、一般意志のもとにない人々をその内部に蓄積していく。

国家と大衆の対立は幾度も起きた、革命や内乱を繰り返し、その果てにおいて大衆は民主主義と国民主権を手にするに至った。多くの国々で少数の支配は否定され、人々は自己の自由のもとに生活することを一応、可能とした。そして、最初の約束という呪縛を解くことはできないながらも、憲法や法律を必要に応じて暫時的に変更していくことで曲がりなりにも一般意志を更新することを可能にした。だから、私達の生活するこの場所に暴力はない。


けれど、言葉も宗教も考え方も生きる環境も異なる人々を国家は同じ一般意志を共有するものとは捉えられなかった。そこには異質な、理解することの不可能な他者がいた。国家は、あるいはそれを構成する人々はそこに敵をみつけた。一般意志を共有することができる我々は、一般意志を共有できないものを恐怖する。

万人による万人への闘争状態を乗り越えるために最初の約束として結ばれた社会契約は国家間の自然状態へと到達した。

全ての国家による全ての国家への闘争状態、それが国際社会だった。


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