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閑話 ひとりたび

私はひとり、旅に出ていた。家でずっと活字の海に溺れていると、重力に縛られていた肉体から、思考が遊離して、情報を摂取するだけの浮遊した脳みそになってしまう。フィクションとはあくまでも虚構であり、それを読む私は現実に地に足をつけていなければいけない。それを読み解く原理は現実に依拠したものだ。だから、たまには外に出よう。

ただ、あてもなく歩くというのは面白くない。やっぱり、旅には一応の目的を設定するべきだろう。今回は私が死ぬまでに一度見てみたい生き物ベスト3、ヤマノカミ、カヤネズミ、ドロアワモチのひとつであるドロアワモチを見つけに行くことを目的として設定した。ドロアワモチは絶滅危惧I類に指定されている。希少生物の生息地は多くの場合に秘匿され、それを知る方法はほとんどない。だが、今回は希少生物が発見され、その保護のため予定された工事の範囲と方法を変更したという新聞に載っていたある記事を見つけていた。そこからあたりをつけて大体、生息していそうな場所は推測できた。

ドロアワモチについても説明しよう体長5㎝くらいの泥色で、2本の触角が付いているなめくじのような見た目をした貝類だ。貝類と言っても貝殻は退化してなくなっている。汽水域の泥地に繋がった葦原などに生息しているらしい。近縁の種にはイソアワモチやヤベガワモチというのもいる。

私がドロアワモチに興味を持ったのはその造形の妙からだ。既存の生物群から大きく離れていると言う訳でもないのだが、なんとも言えない不思議さと違和を感じさせる絶妙な見た目をしている。これを地球上に生み出した淘汰圧というやつはなかなかセンスがある。


目的地までは距離がある。どれくらいの間だっただろうか、長い時間、私は電車に揺られていた。外を眺めていると雑草に覆われた小川、コンクリートに覆われた山の斜面と枯れ木、手入れされていない雑木林、水の張られた田んぼ、足元の錆びた電柱、それらの景色が次々と通り過ぎていく。眼の前を通り過ぎていくのは漠然とした空白の描写だ。意味を持たない生の現実が私の網膜を通り過ぎ脳みそに接続され、そのままに映像へと変換されていく。そこに思考はなかった。そこに意味はなかった。眼の前を通り過ぎていくそれらの風景に意味が生じるのは、その風景が私の旅の目的に接続されたときだ。

はじめにロゴス(言葉)ありき、新約聖書「ヨハネによる福音書」のはじまりの言葉だ。それは最初に引かれた世界への境界線だ。境界線が引かれる以前の世界、それを仏教では空と言う。仏教とは境界線を解体し、自我を解体し、空へ向かう意志だ。世界は痛みと苦しみで満ちている。一切皆苦、生きるということは苦しみで、それは私達が世界に境界線を引き、自己を定義するからだ。境界線が引かれ、定められた自己は有限だ。定義された自己を存続させ、継続するためには世界と対立して生きていくしかない。だから、仏教はその苦痛の根源を自我にみる。世界との対立を解消する術は、境界線を引くことをやめ、自己もまた世界と合一し、空に至ることだと釈迦牟尼仏は悟った。それが涅槃寂静であると。

けれど、私は選択する、自らの意志で衆生世間におりて因縁に縛られて生きることを。

この痛みは私のものだ。この痛みは絶対に手放さない。


翻って、はじめにロゴス(言葉)ありき、そう、宣言したキリストはどうだろう?

彼がはじめに世界に境界線を引いたとき、世界は彼によって、意味付けられた。

キリストは世界を、イエスというひとつの神性のもとに統合する意志だ。世界は彼により創造され、すべての事物は彼により予定されたものだ。彼は世界だ、彼は世界に満ちている。キリストは世界を自己によって塗り潰す。そこにあるのは、キリストの意志だ。

そこでは、私の行動も間違いも、彼によって予定されたものであり、そこにある困難は試練とされる、そして、この痛みすらも贖罪として奪われる。

それは確かに救済だ、他者に意味を委ねることは平穏だろう。

けれど、私は私の意志を他者に譲り渡すことを拒否する。この世界には奇跡も救済もない。あるのはどうしようもない現実だけだ。私はその現実を抱きしめる。私の意志で。


気付くと、電車は目的地に付いている。私は電車から降り、駅のホームに立った。蒸し暑さが一気に襲ってくる。太陽が私の皮膚を刺す。私は息を整え、改札を抜けて、目的地に向かい歩き始める。目的地までは結構、遠い。川沿いに向かっていくらか歩いたところに、葦原があるらしい。ドロアワモチが住むのは汽水域だ。汽水域には海からも川からもいろいろなものが流れ込んでくる。海から海水が入り込み潮汐の影響を受け、川からは真水と一緒に土砂や栄養が流れ込んでくる。そこには海と川、双方の生き物もまた混ざりあっている。

そこは意味が重なり合って、複雑に絡み合い曖昧になる場所だ。そして、その特有のニッチだけに住む生き物もいる。汽水域という空白地帯でしか生きられない者たちだ。ドロアワモチもその一つだ。

私は川を眺めながら、堤防の上を歩き続けていた。汽水域には特有の雰囲気がある。言葉にはうまくできないが、そこにはなんとも言えない匂いがある。海のような広さも深さもなく、川のような険しさも清らかさもない。泥っぽくて、淀んでいて、定まった色がなく常に移り変わっていく。けれど、どこか優しい、無関心な無遠慮な優しさがある。優しさと言うにはどこか投げやりで、優しさと言うにはどこか儚げな、その匂いが私は好きだった。

この世界には私だけしかいないのかもしれないそんな気がしてくる。汗を拭って私は木陰に座り込む。堤防のコンクリートの亀裂に力強く根付いてた大きな木が川岸に堆積した泥を見下ろしてる。私は水をいっぱい飲みながら、木と一緒に下を見下ろす。何かが飛び跳ねている、少し大きめだ、ムツゴロウだろうか。ムツゴロウもどんどん数が少なくなってきてるらしい。汽水域というのは根本からして無秩序なものだ。自然を開拓し、生物を品種改良し、自己すらも自己家畜化し制御しようという人間が汽水域という自然そのものをそのままにすることはやはり難しくその多くが護岸工事で喪われた。

ドロアワモチのいる場所が守られたのも、ほんの気まぐれに過ぎない。それは制御し尽くした自然の中で、一定以上の安全性が担保されたうえで、レッドリストに登録されたという理由で制御しない環境を作るということすらも含めて自然を制御した結果だ。

生物多様性の恵みを収奪し尽くした人間は、環境サービスを享受するために一定の無秩序を保持することすらも選択可能になった。ただ、それだけのことだ。

けれど、私もまた、それに加担するもので、それを強く否定することはできない。私の生活は環境負荷の上に成り立っていて、私はこの生活を手放すことができない。人は頂点捕食者ですらなく、スーパー捕食者だと言った人たちがいた。人は自己のためにこの地球環境の一切を収奪することすらも自覚的に行えるのかもしれない。環境に負荷を与えそれを自覚しながら、この自然を愛でている私はなんなのだろうと思う。刹那的に快楽に身を委ね、情報を摂取するということは、どこか罪深いことだ。私はわかっていながら知らない気で世界を眺めている。今ここにある楽しさだけを無邪気に手にしている。それは、私の痛みだ。絶対に消えることのない痛みだ。これはどうしようもないものなのだろう、だけど、絶対に手放しちゃいけないものなのだと思う。ここにある痛みは私のものだ。


私はふうっと息をついて、立ち上がり、また歩き出す。コンクリートと泥と少し濁った川、単調な景色だ。けれど、その中には様々な生き物や人間たちの営みが刻み込まれている。川に流れ込む汚水、泥に埋まった空きビン、川に浮かぶビニール袋、確かにここには人間の生きた証がある。共に生きることはできないのかもしれない、けれどここには2つの存在が分かち難く結びついている。船が水しぶきを上げながら海に向かっていく。

私達は、はじめは同じ一つの存在だった。生命のはじまり、海の底、海底の熱水噴出孔の周りで、最初のそれは生じたとも言われる。そこには一つのコードが刻まれていた。産めよ増やせよ地に満ちよ、自己を複製せよというのが原始のコードだった。そこに最初の境界線が引かれた。私達は自己複製子だ。自己を複製するとき、自己は定義された。自己が定義されたとき、私達は世界と対立し、世界に抗う必要も生じた。世界に抗う私達は不完全な自己複製子となることを余儀なくされる。

それは、変化する世界という淘汰圧に同じ様態では適応できないかったからだ。原始のコードを含んだ私達はそこに様々なコードを付け加えた、それは複製エラーだったかもしれない。

けれど、そのエラーという意味が私達に差異を与え、淘汰圧のなかで生きるものと死にゆくものを定めていった。

付け加えられた新しいコードは遺伝子の中で様々な形式として生命を構成する表現型となる。ひとつひとつの表現型はそれぞれが原始のコードである自己を複製せよという命令と自己という意味を持っていた。一つの生命の中には積み重ねられた膨大な意味が蠢いている。積み重ねられた世界に抗う意味が統合され、一つの意志として振る舞っているのが私だ。

私達は共通する原始のコードから分かたれた、生きる意志というそれぞれの答えだ。私が私であろうとする限り、あなたの生きる意志を私が塗り潰すこと、それは必然なのかもしれない。

けれど、人は自殺する。リチャード・ドーキンスはその著書、利己的な遺伝子の中でミームという概念を発明した。ミーム、それは脳みそという構造の中に根づき、自己を複製し他者の脳内に拡散していく情報である。

生きる意志として生まれた私という身体の中には別の意味が宿りうる。遺伝子という自己複製子の根本原理である自己生存を自ら否定し、自己そのものの破壊すらも可能とする意味が。私達は原始のコードから連綿と続く遺伝子の持つ生きる意志に縛られている。この肉体も神経回路も思考様式もすべてそこから生まれ、積み重ねられてきたものだ。なのに、私たちはそこから逸脱できるのかもしれない。統合された私という意志はそこまでに積み重ねられてきた意味を書き換えることができるのかもしれない。私というのはこの肉体全体において、脳みそを司る最も上位の行動権限を持つ意志だ。

この肉体はミトコンドリアを取り込み、遺伝子にある数多もの表現型によって成立し、細胞によって組み立てられ、腸内細菌と共生し、植物によって世界に生み出された酸素を取り込み、物理法則である浸透圧で血を巡らせ、この肉体を統制制御する脳みそによって駆動し、脳みそに注入されるあらゆる情報の影響を受ける。

この世界は複層的に折り重なった意志が複雑に絡み合う世界だ。

意味は意志になり、意志は意味になる。意味を束ね一つの方向に志向させるもの、それが意志だ。なら、「いし」はどうだろう。この世界にはじめに投げ入れられたとも言われるそれはなんなのだろうか?

世界に秩序を与え、世界に溶けていく「いし」にはどんな意志があるのだろうか?この混沌とした世界の中で、それはあまりに大きな空白に見えた。


私がふと頭を上げると、道の先に葦原が見えた。先程までの灰色の景色を黄色く鬱蒼とした葦原が覆い隠してる。この中のどこかにドロアワモチがいるのだろうか。

どこか葦原の中に入れる場所はないかと、探し歩き、やっと入れそう開けた道を見つけた。

道を歩いていくと足元は徐々にぬかるんでいく。普通のスニーカーで来たことを少し後悔しながら、その先を進んでいく。泥地の中で葦原が生い茂っている。私は辺りを見渡す。ここでもムツゴロウが飛び跳ねている。その青い綺麗な模様を横目に丹念に葦原の間の少しかたくなった泥の地面を見ていく。そこにはカニや巻き貝などはいるが、ドロアワモチはなかなか見つからない。暑いときは隠れていることが多く、朝方などに見つけやすいという話も聞く。

今日は見つからないのかもしれないとも思いながら、休憩を挟みながら、周辺の葦原の間や干潟を丹念に探していく。辺り一面、一様に泥色をしている。もしかしたら目に見えるこのどこかにいるのかもしれない。ふぅ、と息をついて岩に座り込む。2時間ほどだろうか、だいぶ探したが見つからない。この辺にしようかと立ち上がったその時、葦原の奥の赤い空き缶が目についた。そして、その横になにか泥色のナメクジのような塊が見えた。

近づこうとしたが、その手前の泥地は水分が多くグズグズになっていて近づけなかった。


私はその場から、遠くに見えるそれをただ、静かに見つめていた。泥色をして、ざらざらしていて、2つの触覚がニョキッと生えてゆっくりと動いている不思議な生き物を。

私はそれを私の意志で意味づけたいとは思わなかった。それを、必然のこととしてあなたの意味を塗りつぶしたいとは思わなかった。私は私の意志でそう思った。

そこにあったのは大きな空白だった。鈍い胸の痛みを引きずりながら私は帰路についた。

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