閑話 ミズスマシ
ある、昔話があった。どこでそれを聞いたのだろう、もしかしたらそれは昔話ですら無く、私のために即興で作られた、ただの絵空事でしか無かったのかもしれない。私はその話をよく覚えている、一度しか聞いたことがなかったのに、誰に聞いたかも覚えていないのに。
誰も近寄らないような深く静かな山中にそのムラはあった。ムラと世界とは隔絶されていて、外から人が訪れるのは数年に一度ほどだった。だから、世界はムラだった。そこに訪れる人間は世界の外側にいるものだった。ムラは、ムラに訪れた者を無から生じた最初の一だと理解した。世界の終端にある空白を満たすものである彼らをムラはこう呼んだ、ミズスマシと。
遺伝的な多様性を維持し、近親交配を避けながら集団が存続するために必要な人口は500人程とも言うが、ムラは十分な人口を有しており、約1500人ほどが暮らしていた。そのため、外部から血を取り入れるといった必要性もあまりなく、彼らの意識が外部に向けられるのは大きく訪問者が出現したときに限られた。
ムラにはその始めから古い木があった。それは古くはあったが然程大きくはなく人の背丈ほどの大きさの木だった。ウロが1つ根から小さく口を開けており、枝ぶりは空を覆い尽くそうとするようだった。人々は暇があればその木の周りに集まった。そこには儀式があるわけでもなく、信仰も祈りも無かった。木はただそこにあって、そこに在り続けた。木はムラの始めから終わりまでそこにあるものだった。木はこのムラの時間軸を貫く一としてそこにあった。ムラの人々はその木を通して、過去と未来と繋がった。彼らは過去が変われば木の枝を剪定し、未来が動けばそれに合わせて木の枝の方向を少しずつ変えた。過去の積み重ねであり未来への通過点としての今として木はそこにあった。それは世界の始めと終わりと今ある物理空間とを包括した一だった。
過去も未来も共有しない空白から生じたミズスマシは、世界ですら無かった。
この物語は私がみた夢だったのかもしれない。誰にも共有されることのない夢物語。私の脳内に生まれた情報。それは虚構だろうか?彼らが見る世界、限られた世界は虚構だろうか?そこにある木は、胡蝶の夢だろうか?この物語は、物語の物語だ。でも、すべての物語が、いや私たちの生きる世界そのものが物語だ。物語は虚構だろうか?世界は1つだろうか?
ミズスマシ、彼らもまた物語だった。この世に産み落とされた新しい物語、それがミズスマシだった。ミズスマシたちは様々な物語を語った。
世界とは連続性の中にある。出来事の積み重ねが今を形作る。接続するもの無く最初に生み出されるものというのは、1つの世界だ。けれど世界と世界が出会った時、それらは統合される。世界というものは認識されたすべてのことだ。世界が二つあるという理解は、その瞬間に一つに統合された世界を形作る。
ムラは世界を更新し続けた。語られた世界を取り込み、ムラは自己を理解した。ミズスマシは様々な物語を語った。ミズスマシが語るのはいつも彼ら自身の物語だった。彼らはありふれた日常を伝えた。古びた家のこと、元気の良い妻のこと、趣味の紅茶のこと。港町の夜に小さく点いている灯台の明かるさと、強く吹き付けてくる潮風の痛さについて。世界としてここに流れ着いたミズスマシはいつだって、世界の中の一欠片だった。彼らは決して世界を語ることはなかった。自らの見た自らの、なんの変哲もないありふれた、ひとつの波紋。ムラの外側、この夜をはみ出した真空、この朝を通り過ぎていく眩しさ。
世界とはなんだろう?私の見る世界?集積して連なった主観という意味の総体?観測可能な客観的事実?世界は物語としてしか存在できないのかもしれない。この夢もまた1つの世界。一欠片の世界。夜が明けて、窓から日が静かに差し込んでくるまでミズスマシの声は響き続けた。
ミズスマシの物語は、彼らがムラを立ち去る時、ムラの中央にあるその木の中にミズスマシの物語を一番近くで聞いた誰かが新しい意味をひとつ付け加える。意味の上に意味が積み重なっていく。思いの上に次の思いが継ぎ足されていく。今を見る私が過去を理解し、過去を見る私が今を理解する。そして、その先に未来がある。ミズスマシが見た意味の中にそこにいる人々の思いが繋がっていく。結線された意味は網目状に繋がり、柔軟に変形する外膜とつよい結晶構造を持つようになる。それが木だった。木はそれぞれの主観の中に枝を張り巡らせ、思いを共有し伝達し、一つに統合する物語だった。
夢をみていた。私は長い夢を見ている、どこともなく続いていく暗がりに目を凝らすと、そこには空があった。夢とも現とも言えぬなにかが見える。現実とはなんだろうかと思う。幻とはなんだろうかと思う。虚構とはなんだろうかと思う。夢の中の夢、物語の中の物語。夢の中の物語。物語の中の現実。現実の中の幻。幻の中の虚構。虚構の中の夢。私にはそれらが同じ質量を持っているように感じられた。それは今ここが夢の中だからだろうか?私がとあるムラのことを思い返しているからだろうか?ここにあるものはなんだろうか?私がみているものは、私が感じているものはなんだろうか?ミズスマシの物語とは、ムラが共有する木とはなんなのだろうか?
鳥の囀りが聞こえて、そちらを向くと一匹のミツバチが飛んでいるのが見えた。
それは、ミツバチが集めた花の蜜から出来た蜂蜜のようなものかもしれないと、ふと思った。私の見る夢は甘くて暖かい。
ムラにはソトがあった。内にいるものは外を知らず、外にいるものは内を知っていた。ムラは神性としてそこにあった。ムラはそれ自体で完結する物語そのものだった。ムラはムラ自身によって自己を証明する。ムラはそれ自体が全てで、それはひとつの世界という物語だった。
ソトには様々な人々がいた。ソトには様々な思惑があった。けれどもそれらはムラを侵すことはなかった。彼らにとってもムラは世界の始まりで、最初のいちだった。ムラは世界だった。だから、ソトの者たちはムラの神性を護り、ムラという世界に関わることで世界の始まりとその先とを結び付け、物語を紡ぎ続けた。
ムラが世界である限りそれはただ真実としてそこにある。そして、自己を定義するムラに加わるソトもまた、ムラが神性を維持する限りにおいて、同じ過去と未来とを貫く、始まりから終わりまでを積み重ねた物語としてそこにある。意味は共に見る夢。私たちはいつも夢見ている。世界という名の薄明の下の白昼夢を。
私は空を見ている、あるいは空を見ていた。どうした訳か私は空のその先を知ることが出来ない。星を見て、夜を見て、空を見る。私の見る空に星は見えない。群青の中で瞬く空が私の瞼を横切って、消えていく。夕暮れの中で私の視界は青白く霞む。私には空が見える。遠く果てのない霧がたちこめている。視界は遮られ、思考は狭められ、私の空は私を包み込む。私は夢を見ているのだろうか?私は空を見ているのだろうか?私は私を見ているのだろうか?
視界に収まりきらないほどに強い、光が私の目を覆う。真っ白に塗り潰された太陽が私に何色とも捉えられない空を見せる。あるいはそれは白昼夢かもしれない。私が見る空が滲んでいく。
私は空を見ていた。
私はこの物語を聞いたことがある。私はこの物語を語ったことがある。ムラとソトはだから、繋がっている。言葉はどうして繋がるのだろう。ミズスマシはソトの者なのだろうか?ムラはソトとは異なるのだろうか?私が今、この物語をあなたに伝えた時、世界はひとつだろうか?
それらは同じく情報だった。世界もムラもソトも私もあなたも。すべては情報だった。
だから、ムラには積み重ねられてきた古木があった。だから、ミズスマシはひとしずくの物語を静かに付け加えていった。私たちは世界に意味を与える。意味は偏りだった。物語は等しかったはずの情報に重力を与え、それぞれの意味に重みを作る。それは世界を選び取るということだ。
私はまた夢を見ている。私は、夢の中で何かを忘れ、何かを整えて、何かを繋げて、そうして物語を形作っていく。私は私、積み重ねていく。それは何かを手放すことだ。それはなにかを手にすることだ。夢を見ることは少し悲しくて暖かい。
そうして、また私は夢の中に墜ちていく。ミズスマシが私の夢を泳いでいく。




