閑話 紫千
それは、もう一つの世界の話、思考が具象化され、私が抽象として描画される世界。認識はそのままに現実で、情報が世界を形成する。主観が集積され、場が立ち上がる、電子空間。私はそこで彼女に出会った。彼女はshsenというハンドルネームを使っていた。聞くと彼女はiを入れ忘れて名前を登録してしまったらしく、正しくはshisen、漢字で書くと紫千と言うそうだ。彼女は電子上に構築されたワールドに集う人間を観測し、彼女自身がオブジェクトとしてワールドの一部でありながらに場に干渉することで起きる反応を走査していると私に語った。彼女は彼女の行動様式それ自体を開示しその立ち上がった空間上において、一貫して安定した行動を継続することによってワールドの一部であるオブジェクトでありながら、場に干渉しているらしい。彼女はオブジェクトであったがそこには常に彼女特有のランダム性があり、彼女特有の空気感があった。彼女が観測するという言葉は常に双方向で、観測者である彼女は観測した情報を観測者にフィードバックする。見ることと見られることは常に隣り合わせで、彼女の存在はその空間上では時間とともに場そのものへと溶けていくようでもあり、世界そのものが彼女の形へと羽化していくようでもあった。
この電子空間には様々な人々が設計した、作家性を有した膨大なワールドがある。そこには現実の物理法則を逃れて表現される精神構造が生々しく表出するものもあった。私と紫千はそういったワールドを巡り、そこに表現される認知構造というものを走査していった。
彼女の言葉は常に彼女自身を通してその先にある他者に向けられていた。透明なあなたとしての私と、彼女は表現した。彼女は彼女を編集する、彼女のアバターもその立ち振る舞いも演出されたもので、彼女に企図されたものだ。それは彼女から抽出された精神構造そのもので、彼女の身体性を取り除いた彼女そのものを効率的でに伝達する外部構造体だ。なによりもそれは人間的でなによりも作り物めいた彼女の在り方が私は好きだった。彼女はここにいる私は延長された表現型だと語った。
彼女は常にチャットで会話をする。彼女は彼女自身の身体情報の多くを電子空間に同期させることが可能にも関わらずその多くを排除し、言語情報とアバターとその服装という明確な視覚情報のみで自身を表現した。声も表情も手の動きもそこには決して表現されることはなかった。私は彼女を通して私を見ているように思えてくる。彼女の周りはいつも曖昧で、それでいてはっきりとしていた。矛盾が矛盾としてそのままに場に表現される。彼女はそのどちらでもあり、どちらでもない存在だ。
彼女は場に介在するツールの多いワールドを好んだ。電子空間そのもの設計・操作、聴覚情報の操作、陰影・照明・描写の変化、それらを空間にいるすべての対象そのものを観測しながら、そこに存在する他者を常に自己というオブジェクトに同期させ続ける
それらと同期するということは他者を把握するということであり、他者を自己の構成要素とするということでもある。彼女のみるという行為は常に彼女自信を変容させ続けるということであり、常に彼女が世界に滲み続けるということだった。
私の彼女との記憶は彼女というより、彼女がいたワールドに強く結びついて思い出される。記憶というのは思い出すたびに変わりゆくものなのだと聞いたことがある。私が思い出す彼女は常に違うもので、それなのにどこまでいっても彼女でしかなかった。彼女は三日月のように優しく、日光助真のように鋭く、台風の目のように静かで、バベルの図書館のように謎めいていた。彼女はその時々で気まぐれに見え方を変える。眼の前にいる誰かに合わせて彼女の言葉の形は変わっていく。そして、その時の私によって思い出される彼女は変わっていった。色のない島。
私が見た変わらぬ彼女らしさとは何だったのだろう。彼女はいつも真っ直ぐ私を見ていた、彼女の視線がそれる時、それはいつも私の視線がそれる時だった。彼女らしさは何よりもまず、彼女が私と正面から向き合っているということにあったように思う。すべてが設計され、すべてが演出された彼女は、けれども彼女の本心を決して隠していなかったように思う。彼女は完璧なまでに作り出した、その電子空間上の存在様式としての彼女を通して何よりも脆く、繊細な彼女の核を私の手の届く場所に差し出していた。それが、彼女が私を見るということなのだろう。彼女はいちばん大事なものを常にベットする。だからこそ私が彼女を見るということは、正面から向かい合うことになった。彼女は多くの言葉で彼女自身の考えや思いを語るけれど、最も強く彼女という存在を示すのはその在り方だったように私は思う。
私が彼女と見た電子空間というものを説明してみよう。
電子空間において通常出力される人間性というのは極めて生々しいものだ。誰かがアナログで描かれる絵にはデジタルと違って物理法則に従う抵抗が生じ、その抵抗によって適切な出力が行いやすいという話をしていた。ここではそういう現実に存在する摩擦係数が限りなくゼロに近く設定されていて、人間の人格とそれに伴う関係性を、主観優位で加速させる装置として機能してしまう。主観との近さがありながら、同時に物理的な障壁としても存在する電子空間は抑制の効かないままの人間性を効率的に発露させる。
ここは、私たちが物理的に存在する現実の空間の説明力が低いままに疑似空間を生成してその場を共有する為に、その場を擬似空間として二重化できずに空間に粘性を発生させる。
電子空間は二重化して切り離せない、けれど、そこにいる人々は説明できないままにそれぞれの現実に接続しており、常に実行可能なアクションは対話を主体とする行為となる。
対話を主体にするしかないこと、空間の共有が強制されること、この2点によって、会話が飽和して、リソース量を喰われる結果、鳴き声(非言語的なコミュニケーションを含む)をあげることが空間で存在を低コストで持続させるための最適解になるということが観察される。
その中に特異な文化としてお砂糖というものがある。その起源は遥か昔に遡るそうだが、私たちはそういったことにはあまり興味がない。起源は重要だが始まりというものは今に接続する要素の一つでしかない、今ここにある現象をありのままに紐解くことがそれに連なる要素を紐解くことに繋がる。始まりはその過程において垣間見るべきものだと、私は考えている。あるいは彼女はそう思っていた。
お砂糖というのは基本的には俗に言うネット恋愛のようなものとも言えるのだが、実際のところそれが示す関係性は極めて広範で多岐に渡る。
お砂糖というのは関係性を曖昧にすると同時に関係性を規定する枠組みだ。そこには明確に定義付けしないこと自体が主要な機能としてあって、定義づけされること自体を拒むものだ。だから、人は自分が求めてる関係性をお砂糖として利用する。特別であることだけを認め、特別である以上の意味を付加しない。個人を順位付けする機能とそれによって緩やかに他者を排斥する機能という2つの機能によっても規定できるだろう。電子空間上においてはそこで知り合いその人とアドレスを交換すればフレンドという関係性で固定される。フレンドとの間には余白がない。だから、そこに自他に認知可能な、それでいて、決定的ではない枠組みとしてお砂糖は使われる。その言葉によって他者を独占することは承認される。
ここでは、関係性もまた、自己本位に規定される。
電子空間では、すぐに加速された自我が漏出し、濁っていく。彼女は観測し、走査し、探査し、演算する。私の視線が彼女とぶつかるその瞬間だけ、世界は澄んでいた。




