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閑話 水族館

太陽の帝国、そろそろ登れカタツムリ、Fiasco。

私達は水族館に来ていた。言葉の羅列、意味の羅列。展示された意味が泳いでいる。VSシリーズのラストを飾るゴジラVSデストロイアの一幕を思い出す。しながわ水族館で、魚たちが水に喰われ白骨化するシーンだ。古代より眠っていたその怪物、微小な甲殻類を揺り起こしたのはゴジラをも殺す兵器、オキシジェン・デストロイヤーだった。ここにあるもの、ここにないもの。私の視界には私が見たいものだけがある。

押し留められる意味と、決して制御することのできない意味がある。私の視界の中にある魚群は人の手の中にあるものだろうか?最も繁栄した生物は家畜かもしれない。私達は家畜なしに生きることはできない。最もこの地球に適応した生物は犬や猫かもしれない。世界を覆い尽くした人間の上に安寧を謳歌している。この区切られた水の中にある意味は、誰のものだろうか?

水槽の中で設計された生態系、誰かが意図して、誰かが求めた意味。水槽の角にへばり付いた茶色の苔、尾びれが破れた魚。サメと一緒に泳ぐ小魚。私が見たいのは現実だろうか?現実としてそこにあると感じられる意味だろうか?

循環していく、その小さな箱に区切られて、その箱の中を回り続ける、濾過された水。栄養が付加され、塩分が添加され、適切なPH濃度に調節されて回り続ける。外に開かれた水槽に太陽の光が差し込んで虹色にきらめく。泡の中に幾つかの光が差し込んで私の目を刺す。

押し留められる意味もまた制御することのできない意味だ。制御することのできない意味もまた、この空間では制御された意味として振る舞う。

見ている私が見られている。泡の間を漂うオットセイと目が合う。視線が行き交っている。けれど見ているものを見ている人はいないのかもしれない。そこにあるのは、意味だ。ここには私はいない、私は意味じゃないからだ、私は情報に還元されることすらなくただの物体としてここにある。私を見ているのは、この空間において、私を見つめている生き物だけかもしれない。


誰かが私の手を取る。

「みてみて!このクラゲ下から見るときらきら光って見えるよ!」

眼の前にたゆたいながら蠢動する光の線が見えた。それは、美しい色をしていた。それは私達にしかみえていないもので、他の誰かに意図された意味には思えなかった。握られた手が熱くなる。私が強く握りしめているようだ。

手の先にめいいっぱい、目を開いて光の線をじーっと見つめる秋華がみえた。

この管理された世界と私の視線は繋がっていた。この地球もまた月の引力に影響を受けて、潮が引き、そして引いていくように。


管理され制御され大切に囲い込まれ、多くの視線の中で美しさだけが抽出される。美しさを否定することはできない。美しさはそれだけで完結した意味で、誰もそこに意味を与えようとは思わないから。美しさは最初で最後の意味としてある。

博物館に展示されたものは、過去を語るわけじゃない、ただ、そこにある価値を示す。それは、意味によって価値を為す訳じゃない。価値によって意味を為す。そこにしまい込まれたことが意味を与える。そこに理由はいらない。それを見た人はそこに意味をみる。陳列された言葉の群れは自己を証明する必要性を持たない。美しさすら必要ではない。

そこには基準と意味とがある。けれど、そこに配置され、それを見るもののにその意味も基準も関係ない。それはみるべきものとしてそこにあるという価値を有する。

美しさは価値でも意味でもない、事実だ。それは正しさだ。そこに承認は要らない。美しさは誰にも所有されることのない意味だ。美しさはすべてを奪い、ただそれだけとしてそこにある。そこにあることすら必要ない。


透き通ったアクリル板の先に深く澄んだ水中がみえる。アクリル板の間で屈折した世界が薄く切り取られて視界の中に置かれている。視界に届く光は、水晶体を通って電気信号に変換され私の脳みそで像を結ぶ。私が認識する像は脳みそが補正したものなのだそうだ。本来、目に映る世界は反転してみえるはずだ。私の脳みそはそれをひっくり返している。

見える世界は、私によって形作られ、私によって意味づけられる。あるいは、それは延長された表現型と言うべきものかもしれない。世界はこの主観の中にある。世界は私の中にある。私の中に……。


また、秋華が私の手を強くひっぱっる。

「ペンギンの餌やり見に行こ!」

ペンギンたちと同じ場所に、水族館のスタッフのお姉さんがバケツを持って立っている。ペンギンたちがバケツに入った餌の魚を目当てでわらわらとお姉さんの近くに集まってくる。

それぞれのペンギンの名前と性格、特徴を話しながら、餌を与えている。私はそれをみている、秋華を見ていた。私達が見つめるショーは、観客の為に設計されながら、それぞれの主観の中にある。それらの視線の行き交う場としてあった。

スタッフのお姉さんは、説明しながらもそれぞれのペンギンに餌が行き渡るように意識しながら餌を与えているようだ。ペンギンたちはそんな中でちゃっかり多めに餌を食べれないかと油断なく、見張っている。

「後ろでぼーっとしてるあの子かわいいね」

「そうだね、どこにいても餌貰えるのわかってるのかもね」

「なるほど、ちょっと、紫澄っぽいね」

私は、無言で握っている手をきつく握りしめる。

「ごめんって」

「あの、お姉さんの足元でばたばたしてるアホっぽい子は秋華に似てるかもね」

「ほんと!あの子!かわいいよね!」

都合の悪い事は秋華の耳には入らないらしい。


私達は暗がりの中の通廊を歩く。水族館というのは思った以上に広いものだ。これだけの量の水に囲まれるということもそうそうないな、と私は思う。基本的に水は触れるもので囲まれるものじゃない。その質量を押し留めて、それを俯瞰する状態というのは自然から逸脱した異常な事態だろう。大量の水を入れた箱がたくさんある。いくつもいくつも、大小さまざまな、様々に調整された水たまり。不思議な気分になる。たくさんの箱庭を、たくさんの世界を、たった一日で誰かと共有できる。本来交わらないはずのそれらが、同じ場を共有する瞬間。時間と空間とが圧縮されている。ここに意図された意味は、ここに意図された意味を超えて存在しているようにも思う。ここは、世界に紐付く、意味が交差する場所だ。

あらゆる意味がないまぜになった混沌、それを制御したと見せかけ、美しさに落としこんで見せる場所だ。だけれど、ここにある美しさというのは、意図された美しさとは違うようにも思う。写真で切り取られた世界ではない、絵に描かれた一瞬ではない、美しさだけが抽出された場所ではない。

ここにある手触りは人工的で、視線の中にあって、配置された、野生だ。


私は秋華に引かれるままに水の合間を泳いでいく。そこにあったのは私の見たいものだけではなかった。岩の隙間に隠れた赤と白のデコボコしたエビや、水流の届かない水槽の端に集まった小魚。何の変哲もないワカメを眺める子供。照明に照らされて輝く秋華の瞳。光の中に落ちる私の影。私達はカップのアイスを買って、椅子に腰掛けて大水槽を眺めている。

急に岩が動いたと思ったら、それはエイだった。秋華が驚いて声を上げる。

ネコザメが視界を横切る、かわいい。口の中にミルクの甘さが広がる。冷たい。行き交う人々の感嘆の声、子供たちの騒ぎ声が雑音として耳に届く。水槽を見つめる人々が静かに佇んでいる。思考に囚われた私の脳みそも、いつしか、水槽の中を漂っていた。水が循環し、人々が行き交い、魚がサメがサンゴ礁がいきづいている。


水族館、それは資本主義に回収された自然とも言えるかもしれない。金銭的価値に転換された意味。だけれど、そこにお金の匂いはしない。それは、水と同じく、その場を維持するのに必要な要素だ。けれど、そのためだけに存在している訳でもない。そこには人間的だが、切実な意味が付加される。自然との共生、自然の保護、科学的探求、啓蒙。水族館は自然を搾取しながら自然に奉仕する。自然は手段であり、目的だ。どちらが主でどちらが従かはもうわからない。だけれど、どちらも嘘ではない。

そのふたつが重なり合って、ここにある膨大な意味を押し留めている。それらは水槽を構成する不可欠の要素としてそこにあって、水族館という生態系を織りなしている。

クラゲの成長過程が展示してある。ここで展示されているクラゲはすべて、この水族館内で繁殖したものなのだそうだ。中にはここで初めて繁殖に成功した種類のクラゲもいるらしい。

小さな水槽に目を落とす、目で捉えれるかどうかというほどに小さなクラゲが泳いでいる。小さくても確かにそれはクラゲで、生きている。

指先よりも遥かに小さなクラゲを私達は一生懸命、見つめた。


水族館というのは図書館に似ている。一つ一つの水槽は図書館の中に収められた本のようにそれぞれの生態系、あるいは固有のロジックを持っている。それは意図して設計されたものだ。水槽には志向された意味が宿っている。水槽はただ、自己でよってのみ振る舞う存在ではなく、はじめの意志によって方向づけられた存在だ。意志の支配下にはないけれど、意志の影響下にある。物語が積み重ねられた意味のもとに自ら駆動していくとしても、始まりとしてある意志を無視できないように、水槽のなかにある存在もそれらを無視できない。水槽は被造物としての意味を逃れられない。

だからこそ、その視線の先で誰かと結びつく事に意味が生まれる。様々な生態系としての水槽が併置され交錯することに意味が生まれる。物語がそれを読むものと結びつくとき、水槽がそれを見るものと結びつくとき、そこに被造物は存在しない。そこにはただ、そうあるものがある。私とあなたがいる。今がある。


たくさんの情報を私は摂取する。意味を無分別に食すのは快楽だ。意味を大事にするのもわるいことじゃないけれど、意味は快楽であるだけで十分で、意味に意味を与えたくはない。そんなことを思いながらも私は思考を巡らす。思考の先に、あらゆる意味が積み重なっていく。それはただの事実ではなくなっていく、私によって塗り潰されていく。私が塗り潰されていく。思考が沈んでいく。水の中に沈殿していく。あなたと私の関係性の中に収束していく。流れていく。私もまた生態系に組み込まれる。膨大な質量の一部となる。水族館を織りなす器官となる。水の中で混ざり合って、ひとつの存在となる。私の手が彼女の手を握っている。

暗がりの中、深海魚水槽の赤いライトに照らされた私達の視線が交差する。

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