対立する 3-2
国家総力戦、膨大な流血を要求した2つの大戦を経て国家という暴力機構は一つの極点に到達した。第二次大戦において枢軸国として最後まで抵抗を続けた極東の一国に落とされた2つの原子爆弾という形でこの世界にそれは、産み落とされた。
対立の果てに、暴力の果てに、国家間の自然状態の果ての一つの終着点としてそれはあった。
原子爆弾を実践で、使用することができたのは僅かな間だけだった。第二次大戦の終戦間際、その瞬間においてのみその純粋な暴力は一国が占有するものとして存在していた。アメリカがもし、その時、原子力爆弾によって世界の征服を望んだとしたら、それは成功していたかもしれない。その破壊を止める力は誰も持っておらず、相応の報復が可能な国は存在していなかった。もしかしたら、その瞬間が人類にとって最も危険なときだったのかもしれない。
その危機を押し留めたのはあまりに多すぎた流血だったのかもしれない。あるいは、そんな生易しいものではなく、報復として使用可能な核兵器がもうすでに存在しているかもしれないという疑念だったのかもしれない。
流血を厭うものはこれを厭わぬものによって必ず征服される。常にそこにあって、消えることなく私達の脳髄に向かって銃口を向け続けていた言葉は、暴力の極点によってやっと消えることとなる。しかし、それは最も純粋で暴力的な意味としてだった。言葉も逃走線も無意味なこの世界において唯一、その原理を否定したものもまた暴力だった。
アメリカについで、ソビエトが原子爆弾の開発に成功し、核の均衡が生まれた。それは、私の死があなたの死であるという意味を共有することだった。相互確証破壊、私達は脳天に銃を突きつけ合うことで初めてその原初の価値観を共有することができるようになった。
それが第二の約束だった、破滅の共有、最後の審判という共有幻想、そこには同じ痛みがあった。
相互確証破壊が機能するのはそれが、私達が所有する基盤そのものを破壊するからだ。国家は土地と国民の上に成り立つ。けれど、それ以上に私達、人類は地球の上に成立する。地球なくして生存することは叶わない。核戦争は、地球環境そのものの破壊の可能性ですらある。
第二の約束は、恐怖により行動を抑制するものでしかなかった。最初の約束は、恐怖を克服し、相互の協力関係を築き自由を最大化し拡張するものであった。第二の約束がもたらしたのは恐怖の共有による、相互に不可侵であることの要求であった。そこには未来に無限に延長された破壊という恐怖を媒介とした停滞しかなかった。その停滞は破局を延期し続ける。そして、果てしない未来に投げ出された恐怖をみてもなお、相容れない私達は、自らに死を課してでも他者の死を望むかもしれない。
第二次大戦中、アメリカで極秘裏に進められたマンハッタン計画、その科学部門のリーダーを務めたのがオッペンハイマーだった。原爆の父と呼ばれた彼はなにを思っていたのだろう。彼は科学的な興味と誠実さだけでマンハッタン計画を進めたわけじゃなかった。彼はナチス・ドイツという独裁的で民族主義を掲げる一国家に核という破滅的な力を独占させることを阻止するために行動した。愛国心もあっただろう、もちろん科学者として、宇宙の根源的な原理を理解したいという思いもあっただろう。だが、彼は科学者であると同時に政治家でもあった。彼は共産主義から距離を置き愛国者であることを暗に示した。彼はナチスの反ユダヤ主義を利用した。彼はそれが政治的行為であり、命を懸けた闘争であることを理解していた。オッペンハイマーは、パンドラの匣を自らの意志で開いた。彼はヒトラーが自死し、ドイツが敗北した後も原子爆弾の使用を選択肢として残し続けた。その光が地球の何処かを照らすことを否定しなかった。
そこにはわかりやすい善意もわかりやすい悪意もなく、純粋な科学もなかった。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された、その3日後、続いて1945年8月9日、長崎に原子爆弾は投下された。人類の頭上に振り下ろされた莫大なエネルギーは、強い閃光の後に大きなキノコ雲を残した、辺りを一様に黒く塗り潰すキノコ雲は60km先からも見えたそうだ。
オッペンハイマーは、苦悩の上にそれを作り上げた。だが、彼はそれが使用されるまで本当の意味を知ることはなかった。いつも終わった後に意味は理解される。彼の、彼らの誠実さの上に閃光は瞬いた、消えることのない光は人類の頭上で瞬き続けた。
アメリカによる原爆投下には幾つかの意味があった。核の実証実験、日本への降伏勧告、ソビエトへの牽制。
それが、日本の降伏には不必要な犠牲だったとするものもいる。けれど、それは国家間の死力を尽くした闘争において求められたものだった。たった一人でも同胞が生き残るなら、この血と泥に塗れた、戦場が一瞬でも早く終わるのなら、戦場の誰もが望むものだった。戦場に、最前線に、命を懸けた兵士たちの頭上にそれを否定する論理はなかった。銃口を向けられた兵士たちはその銃口を取り除くことだけを望んだ。原子爆弾が一般市民の頭上で炸裂するとしても、銃後もまた同じく私達に向けられた銃口の一部でしかない。
オッペンハイマーは、広島と長崎の惨情を知りその立場を変えていった。彼はアメリカ一国による核の独占を恐れ、核兵器の国連での共同管理を主張し、アメリカによる水爆の開発を拒否した。そこには確かな理性があった。原子爆弾は確かな理性とともに産み落とされたものだった。
光があった、私は無だった。
アメリカ人の多くは、原子爆弾により、日本が降伏したと信じている。けれど、それは間違いだろう。日本は原爆投下に大きな衝撃を受けたが、それによって直ちに降伏を決定したわけではない。日本にはまだ本土決戦の可能性が残されていた。日本の降伏は原子爆弾をきっかけとして、日本の領土獲得を目指したソビエトの参戦とソビエト軍侵攻によって満州にあった関東軍が瓦解したことが大きいだろう。ソ連を仲介とした講話の望みが絶たれ、関東軍の瓦解により軍事的余力を失った日本が、アメリカのみならず強大なソビエト軍までをも相手に戦いを続けることは無意味であることは明白だった。
だが、皮肉にも原子爆弾という力は日本に特異な地位を与え、戦後復興に多大な貢献をしたことも事実だ。第二次大戦後に始まった米ソにおける軍拡競争は、西側諸国に極東における同盟国を求める結果につながった。核を持つアメリカの占領下にある日本はソビエトによる攻撃的な行動を斥けた。日本はドイツのような分割統治を実施されることもなく、それどころか、米ソの対立によって生じた朝鮮戦争における朝鮮特需で大きな利益を得ることなる。オッペンハイマーによって作り出された、核は新しい論理を世界に与えた。