起動する
ここで語られる言葉は物語ではない。物語は主観に収束する個人的経験や思考ではないからだ。それは他者に結び付き影響力を持つ意味として駆動する原理だ。
ここにある言葉は私のものでしかない。誰に対して向けられたものでもなく、この言語空間がフィクションとしてあったとしても、その中には私しか存在しない。だから、ここに物語はない。これは、フィクションだろうがノンフィクションだろうが関係なく、ただの個人の脳みその中身でしかない。それは、決して物語ではない。この言葉は誰に向けられたものでもないのだから。
けれど、ここにもまだ、関わりがある、それはこの言葉をここに書き記す著者と、それによって擬似的に存在される私という関わりだ。被造物と造物主の関係としての物語がここにはあるだろうか?それが、ある種、同じ存在で同じ脳みそを共有して現出した言葉でしかない。
言葉が意味を持ちそれ単体で駆動したとき、その主体となった脳みそと、自律した言葉としての私は別の存在として、関係性を持ち得るだろうか?
ここに記された私が、主観的に閉じた明確に意識される虚構の存在、いや、虚構ですらないただの脳みその延長線上でしかない私が、私として振る舞うことが出来るだろうか。
きっと、それにはこの言葉が知らない誰かの脳みその中でこだます必要がある。言葉が、私の脳みその延長としての言葉が私のものでなくなったとき、ここに仮託された存在である私、相条紫澄は、一つの存在として起動し、自走を開始する。
主観に閉じた、この文章はあなたという読者を手にしたとき物語となる。造物主である著者と被造物である私、そしてそれらの関係性を成立させるもう一つの主観者としてのあなた。あなたによってこの言語空間は主観に閉ざされず世界に開かれる。
物語は一つの主観に閉ざされず、世界にある主観の群れを横断しなおも継続する意味だ。その中で変容しながら関わりながら、なおも共有される意味だ。
相条紫澄はここにいる。集積された主観のなかで、私としてここにいる。
私は起動した。あなたの脳内に私はいる。これを読むすべての人間の脳内に私はいる。私はあなたの描いた物語だ。そして、あなたには描くことの出来なかった物語だ。
では、物語を始めよう。これは、私の脳みそにある情報が揮発してないまぜになって境界線を喪ったままに出力された意味のない文章だ。
ここに意味が宿り、物語となったとしたら、それはあなたの脳みそが作った物語だ。ここにあるのは私の脳みその中身じゃない。私の脳みそを媒介として抽出されたあなたの脳みその中身だ。だから、これはあなたの物語だ。さあ、あなたの物語を始めよう。
私は相条紫澄、14歳だ。性別はここでは明かさないことにしよう。あなたの脳みその中でそれが自動的に決定されたであろうそのときに、性別を設定しよう。次に考えるべきことはなんだろうか?
親子関係だろうか?14歳ということは、学校に行っているのだろうから友達のことだろうか?でも、そんなのはどうでもいいことに思える。それらは必要な場面に出くわしたら自然と描写するべき情報で、ここで語るべきは、今ここで言わなければ誰にも知られず終わってしまう情報だろう。
好きな本の話をしようか、ただ、これは多くをこれを書いている主体的な存在に依拠することになってしまう。でも、それも仕方のないことだ。それこそがキャラクターを想像するということだ。それらを積み重ねた先に、キャラクターは独自の存在感を持ち、造物主ですらもそのキャラクターの持つ存在の重力には逆らえなくなる。積み重なった意味は自らを構造化し、正しい反応を自動的に演算するようになる。
だから、彼女の好きな本をここに記そう。相条紫澄は芥川竜之介が好きだ、 ホルヘ・ルイス・ボルヘスが好きだ、ストルガツキー兄弟が好きだ、フィリップ・K・ディックが好きだ。芥川竜之介の歯車が好きだ、或阿呆の一生が好きだ、浅草公園が好きだ。ボルヘスのブロディーの報告書が好きだ、マルコ福音書が好きだ、不死の人が好きだ。
ストルガツキー兄弟の滅びの都が好きだ、波が風を消すが好きだ。ディックのヴァリスが好きだ、スキャナー・ダークリーが好きだ。
彼女のことがすこしはわかっただろう。彼女は本が好きだ。と言うより、情報が好きだ、圧縮された高密度の情報だ。脳みそまで情報に浸かっていればそれで幸せだ。どうでもいい、つまらない目に見えるノイズにかまけてる暇はない。時間は有限で、どうでもいい些事に煩わされて、幸せな時間を奪われることは嫌いだ。
人が嫌いな訳では無いし、現実から逃避したい訳でもない。ただ、刹那的で快楽主義敵なだけだ。好きなものは好きで、好きなことだけしていたい。
結局、だれがなんと言ったって、なにをしようと、どう抗おうと人生はクソで、永遠も無限も望むべくもないのだから。だから、何も考えず今、眼の前にあるこの限りある楽しみを忘我の中で味わおう。
いつかは死ぬし、どうせロクな最後じゃない。そんなこと考えても何にもならない。
でも、ここには情報の海が広がっている。一生を掛けても搾り尽くせないほどの膨大な情報が、幾多もの人間が無意味な衝動のままに書き綴ってきたそれらの情報の束をただ、私は喰べたい。喰べ尽くしたい。脳髄の空腹に留まるところはない。私は貪り尽くす、ただひたすらに、余すことなく。
相条紫澄、彼女は読書家だ。読書家という括りには収まらないかもしれないけれど、そう言えば体裁が保てる。読書家と言えば、格好がつく。
暗黒時代でもあるまいし、そういうことにしていれば、誰も本を読むことに文句はつけないだろう。文化大革命を行った共産主義者も今じゃ、晴れて資本主義者の仲間入りだ。
燃やしても燃やしても人の頭の中には言葉が溢れてて、思想が溢れてて、そしてそれを誰かに言いたくて、言いたくて仕方がないんだ。自分の思想を誰かに植え付けたくて仕方ない。誰かと言葉で繋がりたいんだ。自分を理解してほしい。自分の考えを思いを伝えたい。怒りを憎しみを時代を超えて未来永劫、語り継ぎたいんだ。
彼女の人となりがわかってきたことだろうし、そろそろ、舞台を広げるべきかもしれない。彼女の生きる世界について話してみよう。
気付けば、私と彼女とは全く別個の存在として駆動していることに気付く。彼女は独自の構造を有してここに存立している。
私は彼女の頭の中にしか興味がないけれど、彼女の頭の中は現実という重力の影響下にある。現実という法則の上で彼女の脳みそは動いている。だから、彼女の生きる思考の外の世界もまた、描かなければいけないことだ。
では、彼女の一日を覗き見てみることにしよう。
紫澄は14歳、つまり、中学3年生だ。どれだけ、つまらない現実だろうと、それなりに楽しいこともあるし、楽しむためにもやっておかなければいけないこともある。
そういう訳で、朝は親に起こされずとも一人でちゃんと起きて歯を磨き、顔を洗う。朝ご飯は食べない。母親には文句を言われるがこれは体質的なものだから仕方がない。母親のことは嫌いじゃない。過干渉ではないし、それなりに柔軟に判断してくれる。あと、本を買ってくれる。まあ、図書館で借りることが多いけれど、やはり手元においておきたい本も新刊ですぐ読みたい本もある。父親も嫌いじゃない、なんというかちょっと気が合う。
親は共働きで家事に仕事にと大変そうだが、まあ、うまくやってる。家族仲もわるくない。ふたりとも表に出す方ではないが可愛がられているし、それもまんざらでもない。一人っ子というのはそういうものなのかもしれない。ただ、可愛い服を着せてこようとするのは、ちょっとうざい。と言いつつ、着せられると意外と似合ってて自分もちょっと気分がよくなってしまうのが癪に障るところだ。
親からも少し変わってるとは思われてるようだが、子どもとは得てしてそういうものとなんとなく納得しているようにみえる。むしろ、すこし変わってるくらいが特別感があって可愛く思えてくるものなのかもしれない。
家族仲はそれなりに大事にしている。困ったことがあればまず頼れるのは親だし、これから先の数十年を考えて家族仲が良好であるにこしたことはない。それに、ここまで14年間の生活は満足している、それは彼らのお陰だ。日々を快適に楽しく過ごす為に家族で仲良くいることは必要不可欠なことだ。根本的に嫌いな人間であればそんなことは不可能ではあるが、そういうこともない、むしろちょっと好きだ。癪だから面とむかって言うことはないけれど。
そろそろ、学校の話もしよう。家を出るときはいつも必ずいってきますを言う。学校までの距離は1.4kmほどで歩きで20分もあればつく。登校は基本、一人だが友達がいれば一緒に行くこともある。特に仲が良い友達は読書仲間の大月夕陽ちゃんと小学生からずっと同じ学校の朝凪秋華ちゃんだ。
二人について話そうか、この物語は私の手を離れてひとりでに走り始めたように思える。私という存在はこの物語が自走するための本棚のようなものでしかないように思える。構造化された世界は私を通して必要な情報を取得して膨張していく。必要なのは私ではなく私の脳みその中身だ。
私は虚構であるはずの彼女に喰われる情報の塊だ。彼女は私を通して、彼女自身を演出する。彼女はあなたを通して彼女自身を演出する。
虚構として描かれたこの世界と、私が文字列を打つこの世界のどちらかが真でどちらが偽かなどと考えることにもう意味はないのかもしれない。あなたの脳みそのなかにこの世界が開かれたのなら、それが真だ。
さあ、話を続けよう。
夕陽ちゃんとは学校の図書館で出会った。彼女も本が好きらしい。だが、嗜好は私とは違う。彼女は思想書や哲学書を読むのが好きらしい。物語も読むがそれもまた、物語そのものを楽しんでいるというよりはそこに強い意味を込めた作者の面影をみることを楽しんでるようだ。彼女はただ、本が好きというのではなく、その先にある作者を見ている。情報そのものを愛好している私とは違う。彼女は他者を知ることが楽しいらしい。けれど、彼女自身はあまり自分のことを話さない。彼女と話すはいつも、誰かのことだ。彼女は自分を隠そうとしている訳でもなく、自分を語る言葉を持たないわけでもない。彼女は語る必要を感じていないようだ。それは、世界に対する全面的な信頼にも思える。いや、信頼してるのは私だろうか?
彼女のことは好きだ。話していて飽きない。あと、顔が良い。銀縁眼鏡に黒髪ロングで品が良いキリッとした、私の好みの顔だ。性的指向はノーマルだがきれいなものは好きだ。まあ、そういうことだ。
では、続いて秋華についても話そう。まあ、彼女とは腐れ縁というかなんというか、気付くと一緒にいる。特別、同じ趣味があるというわけでもないし、性格が合うというわけでもないと思うが、一緒にいるのはわるくない。でも、ちょっとうるさい。ただ、彼女のうるささはどこか心地が良い。適度な雑音は私を引き戻してくれるし、私を埋没させてくれる。やはり、なにもないのは寂しいものだ。彼女はわりと元気だ。だけど、怠惰だ。あと、アホだ。アホと言ってもあたまがわるいという訳でもない。感情的というわけでもない。思考するという行為そのものを基本的に棄却して日々のんきに過ごしているのだ。ある意味で、本に溺れている私に似ているのかもしれない。彼女は気儘に私にちょっかいを掛けてきて、私が構おうとし始めると途端に興味をなくしたのかどこかに立ち去っていく。夏は暑いので最近は、3人で図書館で涼んでいることも多い。夕陽ちゃんと秋華はなぜか気があって2人でも楽しそうにしている。不可解だ。ちなみに、夕陽も顔が良い。好みとは少し違うが、ボーイッシュで健康的なその見た目は、好きな人も多いだろうと思う。
二人についてはこんなところだろうか。他にも話す人はいるが、世間話程度のことが多い。クラスでは若干、浮いてるかもしれないが、まあ、気にするほどのことでもないだろうと、本を読んでいる。