死の舞踏
そうさね
あれは人にあらざる、人でなし
あるいは、傍らにいるものとなり
あるいは、訪いを入れるものとなる
それは人が恐れるもの、すべてになる
火が灯されるより、遥か前からそこにあり
朱き月の日、記憶の闇から蘇る
お前もじきに、思い出す
恐れるかたちで、顕れる
朱き瞳は、生きている
とあるお伽噺より
気付いたのは、朝食を済ませた後ぐらいだろうか。
「看守殿?」
気配が、ない。
第三監獄。政争に敗れた貴族達、思想犯、凶悪犯などが詰め込まれた、強固な要塞。その最奥で、パトリシア・ドゥ・ボドリエールこと、シェラドゥルーガは暮らしていた。
ここに収監されることは、死を意味している。まして自分は、公式に死が発表され、埋葬されているはずの存在である。
それでも、ここにいる人間は、その質はどうであれ、生者である。これから死ぬもの。死にゆくもの。それは山ほどいるが、それでも死ぬまでは、生きているはずである。
それを、感じない。静かすぎる。
ダンクルベールの“足”は、いるようだった。書庫の方に、いつもふたりぐらいは潜んでいる。
何かが、起きているのかもしれない。
「状態を確認する。その後、我が愛しき人にお伝えあれ」
気配の先に、言ったつもりだった。
鍵は、気持ちをこめるだけで、開く。想像したことを実現する力。神通力とでも呼ぶべきもの。それが、備わっている。幾らかの疲労と引き換えに、ひと通り、思い通りのことが可能なぐらいには。
カーテンを開けた。
「看守殿。いるかね」
暗い。光は、差さない。窓のない廊下。
不意に、何かが転がっている気がした。左下。
看守だった。壮年の男。鉄格子にもたれかかるようにして、倒れている。首から、血が出ていた。
死んでいる。
「やっぱり、出ない方がいい。まずいぞ、これ」
死の匂いが、充満していた。
-----
----
---
--
1.
晴天の霹靂。そういう、表情だった。
オーブリー・ダンクルベール中佐、無条件での大佐昇進が決定。併せて、サミュエル・ウトマン少佐の無条件昇進も決定した。
定期昇進の時期である。尉官であれば、自動的に階級が上がる。佐官以上は、功績か、あるいは昇級試験が必要となる。ペルグランについては、先のウルソレイ・ソコシュの一件で昇進済みのため、据え置きとなっていた。
ダンクルベールの階級は、ほぼ功績で手に入れてきたものだそうだ。怪盗メタモーフ事件、ガンズビュール連続殺人事件、あるいはその他諸々。ただ貧民の生まれであり、法の都合もあり、中佐という階級とは、およそ十数年来の付き合いとなっていた。
国民議会議長マレンツィオを含め、国民議会議員らが推し進めていた改革のひとつだそうだ。家柄や身分に依存した、各種、地位役職の上限撤廃。および、下層階級の権利の保証。その一環と象徴として、先の二名を含む何名かについて、無条件の昇進が決定した。
感極まっていた。これでひとつ、皆に楽をさせることができる。働けるのはせいぜい、あと数年。それでも、今まで苦労をした分、そしてさせた分を、返してやることができる。隊員一同の前で、あの褐色の巨才が、目頭を抑えていた。
白秋に入った。このひとの隣に、あと何年、いてあげられるだろうか。不安が大きくなっていたころの、大佐昇進。
おめでとうございます。そして、ありがとうございます。ペルグランが掛けてあげられる言葉は、それしか思い浮かばなかった。それだけできっと、十分だっただろう。
実家からも、両親それぞれから、祝辞が届いていた。あえて母の分だけを、ダンクルベールに渡した。父の方は、ペルグランの方で読んでから、焼いて捨てた。予想通り、いくらかの言祝ぎと、へつらい、阿るような言葉ばかりだったから。
定年退役で少将昇進。この国の歴史に燦然と刻まれるであろう、新たなる立身出世の代名詞。霹靂卿、オーブリー・ダンクルベール。
一悶着だけ、あった。ウトマン、および、ヴィジューション支部隊長、アルフレッド・マルセル・ドゥ・ヴィルピン中佐の処遇である。
両名の出自の都合、ヴィルピンを司法警察局、ウトマンを警察隊本部の後継者として据える予定ではあったものの、法改正により、ウトマンも大佐以上が見えてきた。となれば両名の適性や気質、そしてヴィルピン本人の要望も考えれば、逆にしたほうが、適切であろう。
親友ふたり。互いに正反対の性質だからこそ、互いに憧憬と尊敬を抱いていた。俺はウトマンの上では転べないと、ヴィルピンはあの時、泣いていた。
ただ、これに難色を示したのが、ウトマン本人である。
ダンクルベールより、もっと良くない出自。新任少尉時代、あのガンズビュールを経験し、生き延びた、宿命の捜査官。長らく現場にて育ち、必要に応じて必要な才覚を培ってきた、努力の人。冷静沈着、堅忍不抜の性分もあり、司法警察局の重役としても、十分にやっていけるはずである。
しかし前任が、あのセルヴァンであるというところで、大きく気後れしていたのだ。
ここ一年ほどで、世相は大きく変った。貴族名族が、そうあることを面倒臭がりはじめていたのだ。ダンクルベールの勲功爵授与。旧王朝の残党が引き起こした政変未遂。そしてペルグラン自身の恋路。そういったものが重なり、民衆に歩み寄り、あるいは“ドゥ”の名を捨てるものも、多く出ていた。
緩やかに、穏やかに。国と政治は、貴族社会ではなく、民衆のためのものに、移り変わりつつあった。
このあたりは、マレンツィオの意思や才覚にも依るところが大きいだろう。今となっては数少ない、もと宗主国であるヴァルハリアの爵位を持ちながら、民衆に理解を示し、また私生活では、子宝にこそ恵まれなかったものの、歳近い夫人と理想的なおしどり夫婦であり続け、その天下御免の名跡を静かに終わらせようという姿勢は、名門貴族や上流家庭にとっては、驚嘆すべきものであった。今でも養子縁組の提案を蹴り続け、あるいは子宝に恵まれなかったのは、夫人に問題があったのではという声と戦い続ける、立派な夫であり、立派な男である。
立ち返って、今まで散々に悩まされ続けた、犯罪捜査における政治的な根回しは、今後は減るはずである。それに、後方支援の花嫁こと、ヴィオレット・ラクロワ中尉も十分に育ちきったと、ダンクルベール、およびセルヴァン両名の判断が下っていた。ふたりで嫁げば、あるいはセルヴァン以上の働きも期待できるだろう。
連日連夜、ウトマンを囲んで、説得にあたった。
錚々たる面々だった。ダンクルベール、セルヴァン、ヴィルピンと副官のモルコ、ビアトリクスとアルシェ、ムッシュことラポワント、くわえて内務尚書(大臣)ラフォルジュやマレンツィオに、二代目悪入道ことジスカールまでもが、貧民出身の秀才中佐に、頭を下げ続けた。
そしてようやく、ウトマンが折れた。
これにて、司法警察局次長、ウトマン中佐。麾下、警察隊本部次長、ヴィルピン中佐という、新たなる組織構造が決定した次第である。
「俺も次長補佐として、憧れの警察隊本部着任だ。また貴様と一緒に仕事ができるってのが、何より楽しみだね」
昼食時、幼さの残る顔立ちのモルコ中尉が、はにかんだ顔を見せた。ペルグランたちより、ふたつほど上ではあるが、根の明るさと話しやすさから、すぐに俺、貴様の間柄となった。
「泣き虫ヴィルピン、本部復帰か。こりゃあ、賑やかになるだろうね。俺とデッサンも、最初の三年ぐらいは、よく世話になったもんだよ」
「本当、楽しみだな。不安ばかりの新任少尉のころ、よく褒めてくれた。絵を描けるなんて凄いじゃないかって。俺、なんにもできないんだよって言ってさ。今思うと、謙遜もいいところだよね」
ゴフとデッサン。こちらも二名とも大尉昇進となっている。
「かわりにラクロワが嫁ぐかたちにはなりますが、仕事の都合、こっちには頻繁に足を運んでくれるでしょうし、今生の別れにはなりませんからね。ゴフ隊長の言う通り、賑やかになるでしょう」
ペルグランは、あえてラクロワの名前を出してみた。それでモルコの口元が緩んだ。どうやらちょっと、気になっている様子である。これに関して、言わなければならないことはあるものの、今である必要は無いだろう。
「淋しくなったといえば、先月の、おやじさんの退役ぐらいか?あれもまあ、何だかんだ、明るく送り出せたしな」
「ガブリエリが、あんだけ泣きながらも、気丈でいるんですもの。皆、貰い泣きしないよう、必死だっただけですよ」
思い出しながら、ちょっとだけ、こみ上げてきた。
ビゴー准尉、退役。六十五歳。
操作の基本は、足。それの体現者。とにかく歩き、人と接し、人を理解し続けた人だった。満ち足りたるを知り、去る事を決めたと、言っていた。
それでも街を歩けば、どこかにその姿があった。やっぱりあたしは、こいつが好きですね。そう言って、笑っていた。どうか素敵な老後を、楽しんでほしいものである。
ガブリエリも結婚し、奥さまも懐妊した。かなりのすったもんだの末、末妹に現王朝の傍系を婿に迎えることで、自らお家騒動を仕立て上げ、愛しの栗毛ちゃんのところに転がり込んだのだ。
レオナルド・オリヴィエーロ・デ・ガブリエリ、あらため、レオナール・ガブリエル・トルイユ。姓は代われど、名残はある。リもルも同じだとばかりに、いつも通りに呼んでいる。
ヴィルピンとモルコは今日、ヴィジューションに戻る。業務の引き継ぎを済ませ次第、こちらに来る。
ヴィジューション側の後任は、ティボーだそうだ。前支部次長。ヴィルピンよりいくらか年嵩がある、良い女房役だったおやじである。きっと、うまく回るだろう。
昼食終わり、アンリに呼ばれた。
「執務室にて、本部長官さまがお待ちです」
「俺を、ですか?」
「人事で、ご相談したいことがあるそうでして。近くを通ったところを、お願いされました」
向こう傷の聖女。その可憐な美貌は、何処か寂しげだった。歩きながらの雑談も、なんだかぎこちなかった。
「どうか、良き門出を」
執務室の前。潤んだ瞳で、それだけを告げられた。
「ペルグラン中尉、入ります」
意を、決さなければならないことなのかもしれない。それでも、いつもどおりに執務室に入った。
いつもどおり。中央にダンクルベール。ふたり、いた。ムッシュ。それと珍しい顔。マレンツィオである。
三人とも、穏やかな顔つきだった。
「ジャン=ジャック・ルイソン・ドゥ・ペルグラン中尉」
ダンクルベール。やはり、いつもどおりの、深い海のような声に聞こえた。
「卒業式だ」
それだけ。ただ、言わんとしているところは、わかった。
起立したまま、まずは話を聞くところからにした。
「次長であるヴィルピンは、一国一城の主の経験者。副官も一緒に連れてくる。捜査一課をマギー。二課をアルシェ。それで回る」
組織の構造が変わる。ヴィルピンを中心にして、表のビアトリクス、裏のアルシェで、役割分担は明確になる。
以前のヴィジューションでの一件にて、ヴィルピンの仕事の仕方は知っていた。仕事の振り分けと状況管理が、何より上手い。皆と一緒に、皆を動かす指揮官だった。
となれば、ダンクルベールが現場に出ることは、少なくなる。
「俺は、名前だけだ。警察隊本部長官、大佐。霹靂卿、ダンクルベールだ。セルヴァンやブロスキ男爵閣下には流石に見劣りするだろうが、この名前だけで仕事になる」
名前だけの仕事。それもひとつの、仕事のあり方だった。今やダンクルベールという名前には、十分以上の箔がある。
だから副官は、いらなくなる。
「三年、いや、四年か?石の上に座るのも、そこが頃合いだろう。この名前があれば、今からでも、軍総帥部なり、海軍本部なりにお前を渡してやれる。それだけの人間に育てた自負はある」
言われた言葉に、左右に座るふたりを見た。
ムッシュ。司法解剖に携わる、代々の死刑執行人。感情豊かな、気持ちの良い御仁。にこにこと、笑っていた。
マレンツィオ。こちらも朗らかな面持ち。天下御免のブロスキ男爵にして、国民議会議長。肩書こそおっかないが、人となりは気前が良く、頼もしい大人物だった。我が曽祖父たるニコラ・ペルグランに憧憬を抱いて、出自をかなぐり捨てて軍属入りした、異端児でもある。
「行きたいところを、挙げてみなさい。時間はかかってしまったが、お前とご実家に対する、ささやかな恩返しだ」
ダンクルベール。
夜の海。暗闇から、さざ波の音だけが聞こえてくるような。穏やかだが、どこまで深いのかわからない。落ちたら、岸には戻れないだろう。どことなく、そんな印象だった。
それが最初、こわかった。
でもそのうち、そこに揺蕩うことを覚えたら、これほど気楽なことはなかった。ダンクルベールという、夜の海。その中で、暮らしてきた。
それから、離れるべきときが来た。いつかあるだろう、来るべきときが。
「それであれば、遠慮なく。思ったことを、思ったままに」
まずは一拍。とはいえ、決めていたこと。
くそったれ。やってやろうじゃないか。こんなところ、ただの踏み台だ。のし上がって、自分の力で、高いところまで昇ってやる。あの頃からずっと、そう思い続けていた。その思いひとつで、この大男の隣に、侍り続けた。鞄持ちとも、案山子の杖とも、からかわれようとも。ずっと、隣の人を見て、育ってきた。
行きたいところは、いつからか、ひとつだけになった。
短合羽。脱ぐ。バラチエ司祭の件の後、買ったもの。結構育った。肘の内側の、蜂の巣のようになった色落ちが、気に入っていた。幾分、油が抜けて、水が染みるようになったからだろうか、丈の部分にちょっとだけ、よれが入っている。最初はどうにか矯正できないかと悩んだが、それもひとつの味だと思って、そのままにしていた。
内側に付けていた、ヘリンボーンのインナーベスト、ヴィジューションの出張手当が思いの外、多かったので、思い切って買ったもの。支給品のものより薄手だが、ちゃんと温かいし、着膨れしない。ガブリエリにも教えてあげていた。
着る気なんか一切なかった、油合羽。野暮ったくて、臭くて、べたべたする、港町の作業着である。
今、これ以外を着るかどうかを、尋ねられている。
そしてもう、決めていた。たったひとつ。それで終わり。
「国家憲兵隊、司法警察局警察隊本部、捜査一課。それで、お願いします」
それを羽織り直しながら、ペルグランは、それだけ答えた。
やっぱり、いち捜査官。それで高いところまで、昇りきってみせようじゃないか。油合羽の袖だって、捲れる。副官だった頃は、偉い人と会うことが多い都合、できなかったから。
これ以外を着るなんて、思いつかなくなっていた。揺れ動く船の上だとか、薄暗い参謀室だなんて、もはや真っ平御免だ。
豪快な笑い声。マレンツィオだった。ムッシュも、腹に手を当てて、笑っていた。
「な?俺の出る幕なんて、無かっただろう?お前、どれだけ自分の副官を信用していないんだ。まったく、いつまで経っても、面倒がかかるやつだよ」
「閣下の仰る通り。ただまあ、心配なのはわかりますよ。同じ頃のおやじですもの。男の子は何を言い出すか、わかりませんから」
おやじふたりの笑い声に、気が楽になった。ダンクルベールも、同じようだった。
「すまんな」
「こちらこそです。いち捜査官で、お願いします」
「いや、どうせだ。マギーを頼む。あれも、親離れの苦手な娘だからさ。弟ひとり、付けてやりたかったところだった」
「承りました。一番上と一番下。きょうだい仲良く、やらせていただきます」
役職なしだが、補佐役として動く、というぐらいだろう。ダンクルベールと同じく、現場気質である。ビアトリクスの隙間という型に嵌まるのは、そう難しくないだろう。
ふうと、ため息ひとつ。
ダンクルベールの褐色に、ひとすじが、流れた。
「ちょっと、長官ってば」
「いや、すまん。気が抜けちまった。こうならないよう、ムッシュと課長に頼んだというのに、情けないなあ」
朗らかな笑みだった。いつもの峡谷のような皺は、ほとんど見当たらない。
「ムッシュにはよく言っていたんだ。お前は本当に、手のかからないこだって。利発で、反省ができて、決断ができてさ。思ったことを、思ったままに言ってくれた。俺を、俺として見てくれた。それが本当に、ありがたかった」
ムッシュが、穏やかな顔のまま、頷いていた。
迷惑ばかりを掛けていた。そればかり、思っていた。余計なことを言って、邪魔をして、至らないことばかりで。足を引っ張るようなことばかりを、してきてしまった。
それでも、そう評価してくれていたんだ。
「だから余計に、申し訳なかった。俺なんかより、セルヴァンの子どもとして、育ててあげるべきだった。そうすれば今頃、少佐ぐらいにはさせてあげられたのにな。俺の生まれが悪いばかりに、要らぬ苦労ばかりをさせてしまった。本当に、ごめんな」
父親の顔。幾度か見てきた、ダンクルベールという、お父さんの顔。
それを遂に、自分に向けて、自分に見せてくれた。
「俺は、長官の」
そこまで言って、耐えきれなくなった。
俯いてしまった。こぼしてしまった。溢れ出て、震えてしまっていた。
それぐらい、言いたかったことがあった。
「親父の、子どもになれて、よかった」
思ったことを、思ったままに。
震える声。霞んだ視界。それでも、ようやく。
「親父は、俺をニコラ・ペルグランではなく、ルイソン・ペルグランにしてくれました。俺の愛する人を、赤いインパチエンスにしてくれました。何もかも、親父のおかげです。今までちゃんと言えなかったからさ。ちゃんと言いますよ。思ったことを、思ったままに」
前なんて、よく見えなかった。それでもぼやける視界の中で、親父は、顔を覆っていた。
「ありがとうございます。拾ってくれて。育ててくれて。本当に、ありがとうございます。だから、どうせなら。親父の死に水ぐらい、取らせて下さい。ガブリエリばっかり、ずるいですよ。俺だって、それぐらい、やりたいです。だから、ここに置かせて下さい。親父の隣でなくったって、親父とおんなじところに、置かせて下さい」
ようやく、ようやく全部、言えた。言いたくて、仕方なかった。
それでもう、駄目になってしまった。屈み込んで、顔を抑えて。馬鹿みたいに泣いた。声を抑えることなんて、できなかった。
「泣かせるんじゃないよ、馬鹿息子」
「こっちの台詞ですよ、馬鹿親父」
そうしてふたり、声を上げて泣いた。
親父、泣かせちまったな。駄目な息子だ。でも、本音が言えた。それで、すっきりした。
「いいもん、ひとっつ。見せてもらったよ。ペルグラン殿。いや、ルイソン・ペルグランよ」
ようやく落ち着いたころ、席に促された。マレンツィオも、あと一歩というぐらいの涙声で、それでもいつもどおりの、大きな声で言ってくれた。
「凄いことだよ。お前は本当に、ルイソン・ペルグランだ。祖先の築いた“ニコラ”の名なんて海に捨て。日陰に咲いた姉さん女房、拾い上げ。挙げ句に育てた男を親父と呼んでだ。誰がそんなこと、できようものかよ。男の夢も本懐も、三つ四つも叶えやがって。まあ、羨ましいもんだなあ」
「かの天下御免にそこまで褒めていただけるなら、冥利も冥利です。でもそれも全部、親父のおかげですもの」
そう。全部、親父のおかげ。それでマレンツィオも、呵々大笑としてくれた。
「死線を越え、守るべきものを得て、男になったなあ。ついぞ俺が、成り得なかったものに」
「おやおや、謙遜が過ぎますな。これだけ立派な息子を育てたんですから、長官だって、立派な男ですよ。私は小癪な叔父貴でいましょうかね」
ムッシュは変わらず、朗らかだった。むしろ面白いものを見たようなぐらいだった。その朗らかさに、いつだって助けてもらっていた。
紅茶を淹れて持ってきてくれたのは、アンリだった。手に持った盆が、震えていた。
「俺が配りますから。さあ、お掛け下さい」
「ごめんね。外でこっそり聞いてて、耐えられなくなっちゃった。私、お姉ちゃん失格だね」
盆を受け取った途端、顔を覆ってしまった。
「課長。俺は本当に、果報者ですね。夫には成れませんでしたが、これだけ沢山の、そして立派な子どもたちの、父親になれました。課長のご指南とご配慮があってこそです」
「そりゃあ、お前が勝手にそうなっただけさ。しかし、いいもんだねえ。かみさんひとりで手一杯とも思ったが、見ていて欲が湧いてきたよ。今からでも養子ひとり、引き取ってみるかね」
「それなら、ガブリエリ中尉がよろしいでしょうな。孫もそろそろ産まれましょうし。子どももそうですが、孫はとびきりですぞ?一度見たら最後、死んでたまるかって、なりますからね」
「おっ、流石はラポワント先生だ。その辺に捨てられちまった、本家のもと嫡男を拾ったともなれば、俺の名も上がろうものよ。俺が育ててやったようなもんなんだから、レオナルドとしても、断る理由も無かろうものさ」
おやじ三人、笑っていた。ペルグランも、笑ってしまった。
褐色の肌の父、オーブリー・ダンクルベール。三年か四年かぐらい。たったそれだけ。それでも、実の父より、父親として見ていた。
人を愛するということはな。人を育てるということは。本当に大切で、本当に大変なことなんだ。それをわからんままに、親をやるようなやつを。わからんままに、人をやるようなやつらを、俺は許せない。
紙巻もそうだが、何より、“くっつきむし”に対しての、別れの言葉。あれを聞いて以来、この大男に対する憧憬と尊敬は、大きくなっていった。
人を愛することを、大変と思えるぐらい。人を育てることを、大変と思えるぐらい。それだけの苦労をしてきた人。そんな人に、育ててもらっている。大変な思いを、させてしまっている。
だから、少しでも早く、大人になりたかった。それがようやく、叶った。
「よかった」
アンリが、笑ってくれた。まだ涙は、流れたまま。
「アンリさんにも、心配を掛けました。ずっと前から決めてたことだから、言っておくべきでしたね」
「ルイちゃんを呼ぶのを頼まれたとき、本当にこわくて、断ろうと思った。でも、お姉ちゃんだから、最後くらいは、ちゃんとしないとって思って、頑張ったんだけどね。駄目だった」
「ちょっと。何ですか、ルイちゃんって」
「ルイソンだから。ラクロワ中尉さまは、私から俺にしたし。インパチエンスさんは、お坊だから。私だって、何かひとつ、欲しかったんだ」
涙を流しながら、いつものからかう時の笑顔。それでまた、おやじ三人が笑っていた。
ちょっと恥ずかしいけど、アンリ姉ちゃんになら、いいかな。憧れの、アンリ姉ちゃんだもの。インパチエンスにばれないようにだけ、気を付けよう。
「ダンクルベール。入るぞ」
そうやって、皆で団欒していたときだった。扉の外、聞いたことのある美声。
入ってきたのは二名。セルヴァンと、女性士官らしき格好の人。
「シェラドゥルーガか」
ダンクルベール。言われて、それが軍帽を取る。
朱い髪が、燃え広がった。
「第三監獄が、襲われている」
セルヴァン。そしてふたりとも、青い顔だった。
ダンクルベールを見る。目が、合う。
「先遣隊。三名から五名。なるべく早く。乗馬に長ける。遭遇戦。身辺警護。監獄の構造を知っているものを、最低一名」
「スーリさん。オーベリソン軍曹。それと、俺で」
「よし。装備は任意。インパチエンスには会っておけ。オーベリソンへは、アンリエットから通達。その際、“錠前屋”には、全員招集の後、厳戒態勢を指示。とにかく、シェラドゥルーガと合流してくれ」
「承知。先遣隊は、ひとつ目の宿駅で合流します」
立ち上がる。頭の中で、組み立てはじめる。一緒に、体も動く。
ルイソン。呼び止められた。深い声。
振り返った。巨躯がのそりと、近づいてくる。
ダンクルベール。まだ瞳に、揺らぐものが残っている。
大きな手のひらが、両方に乗った。知っている、親父の手のひら。
「生きて、帰ってこい」
張り上げた。それでも、震えた声だった。
「はいっ」
同じく、張り上げた。そして、震えていた。
ぐるんと、体を回された。背中に、衝撃。それで、動いた。
親父、行ってきます。必ず、戻ります。
「親子の絆かあ、いいねえ。格好付けちゃってさ」
聞き覚えのある声。いつの間にか、そしていつも通り。
「ようやく言えましたからね。腹の中、すっきりしてます」
「おいらもそういうの、欲しいなあ。かあちゃんの方がいいかな?」
「救出対象は、親父の愛する人です。だから、かあちゃんですよ」
「いいねえ、それでいこう。とびきり美人のかあちゃんだもの。張り切っていこうぜ、ってね。じゃ、宿駅で」
瞬きひとつで、それはいなくなった。
遭遇戦。もしかしたら、複数勢力か。あの監獄は、ちょっとした迷路だ。袋小路もある。基本、白兵戦。中近距離での銃は使いづらい。取り回しのいいもの、ふたつ程度。
装具を用意するのが面倒だったので、裸のままの馬に乗った。宿駅で、装具が済んでいるものと交換すればいい。
「あら、お坊?」
“赤いインパチエンス亭”。インパチエンスと、母であるジョゼフィーヌがいた。今日はインパチエンスの体調の都合、休業していた。
「何したの?」
「緊急の任務。それの準備に寄った。もしかするかもしれない」
座っていたインパチエンスの近くに寄る。そして、目を合わせた。
目の奥に怯えはあったが、それ以上のものが、前に出ていた。
「あたくしも、武人の妻でごぜあんす。覚悟はできております」
「絶対に帰る」
インパチエンスのおなか。触れる。温かかった。
「君と、このこのためにも」
そうして、唇を重ねた。
インパチエンスに、生命が宿った。
本当に嬉しかった。できるなら、離れたくない。
でも今度は、親父のために、戦う。
地下に、ちょっとした物置を作っていた。こういった、装備が選べる場合に使えるようなものを、仕舞っておいていた。
手に取ったのは、平原で使われていた短弓。これなら取り回しもいいし、銃のように装填に手間取る必要もない。乗馬指南役の先生が大平原の人で、弓も習っていた。
あとは、剣。
「エーミール」
名前を、呟いていた。
「俺の家路を、君に託す」
喧嘩用。北方ヴァーヌのだんびらである。“颪”の際に、謀略に掛けてしまった若者が持っていたものを、形見として拾っていた。
刀身の長さは小剣程度だが、いくらか柄の長い、片手半の直剣。分厚い刀身は、切れ味が落ちても威力が高い。広がった柄頭で、ぶん殴るということもできる、使い勝手のいいものだった。
剣にも、これから産まれてくるであろう子にも、その名を付けていた。償いではなく、新しい出会いとして。
「ジャン。私の可愛いジャン。どうか、ご無事を」
地下から出てきたあたりで、母が涙を浮かべて、抱きついてきた。ウルソレイ・ソコシュや、その後のインパチエンスのことでも、散々に気を揉ませてしまっていた。
ここまで育ててくれた、大切な母親である。
「母上。そして、俺のインパチエンス」
だからここで、ちゃんと報告をしたかった。
「長官を、親父って、呼んできたよ」
晴れやかな気持ちだった。
母も、インパチエンスも、目に涙を浮かべていた。
「おめでとうごぜあんす。お舅さまの、お子に、お成りあんしたのね?ダンクルベールのお殿さまの、お子に、お成りあんしたのね?」
「そうだよ。親父も俺のことを、ルイソンって、呼んでくれた」
「ああ。ジャン、いえ、ルイソン。お前は、大人になったのね。ひとりの男に、なったのね?私の可愛いジャンから、私の自慢の、ルイソン・ペルグランに、なってくれたのね?」
「はい、母上。ようやく、一人前の男になりました。ニコラ・ペルグランではなく、ルイソン・ペルグランになりました。だから俺は、インパチエンス=ルージュの夫であり。黒髪のジョゼフィーヌの息子であり。そして霹靂卿、オーブリー・リュシアン・ダンクルベールの、息子です」
伝えた。母は、自分の胸の中で、泣いていた。声を上げて、頭を振りながら。
母は、強い人だった。
成り上がりのペルグラン家よりも家格は高い家の出自のはずだが、祖父であるヤン・ヴァレリアン・ニコラにより、もとの家名を名乗ることを禁じられた。かのニコラ・ペルグランの嫡子でありながら才覚に恵まれず、体面や面目ばかりに拘る、小さな人物だった。あるいはそれは、一族すべての男がそうであり、父であるフェルディナン・ニコラも同様だった。
ニコラ・ペルグラン以外の名はすべて、恥ずべきもの。嫁いできたひとに最初に言った言葉は、それであったという。
ペルグランは、子どもの頃からずっと、それを見てきた。面目や体面ばかりを気にする男どもと戦い続ける、母の背中を。強さを養い、それらに打ち勝っていく姿を。
家名無きジョゼフィーヌ。もはやそれは、思い出せないという。夫人にも一度、尋ねたことがあったが、暗い顔で首を振られた。あのこのためにならないから。あのこはあの家で、ひとりの女として、戦うことを決めたから、と。
ジャン。男になりなさい。偉くならなくてもいい。稼ぎが良くなくたっていい。男に、なりなさい。人を幸せにできる人に。人を愛し、愛される人に。愛する女を妻と、恩師を父と呼べるような人間になりなさい。どうかあのような、男の見た目をした人形にだけは、ならないで頂戴ね。
時折、ふたりだけになると、そう言われた。その意味が分かったのは、警察隊本部に入ってからだった。
ニコラ・ペルグランではなく、ルイソン・ペルグランになるということ。それは母の戦いを、終わらせることでもあった。ようやく母を、ひとりの男の母にしてやることができた。
「母上。つらい思いをさせました。これでもう、母上の戦いも、終わりです。帰ってきたら三人で、“ドゥ”の名を海に捨てましょう」
「ありがとう。なんて優しい子に育ってくれたんでしょう。母は、果報です。お前に押し付けるものばかりを押し付けて。それでもお前は、ルイソン・ペルグランになってくれた。あのダンクルベールのお殿さまの、息子になってくれた。これでようやく、家名無きジョゼフィーヌに戻れます」
「ありがとうございます。必ず、戻ってきます。その間、俺たちのインパチエンスをどうか、お願いします」
涙は、無かった。死にに行く男は、女の前で泣いてはいけない。母の教えの、ひとつだった。
いざ、死地へ。男のいるべき場所へ。
2.
第三監獄より、ボドリエール夫人、および、生き残っている刑務官を救出する。至急、かつ極秘の作戦である。
司法警察局庁舎会議室。国家憲兵刑務局局長、ボンフィス大佐。内務省直下公共安全維持局局長、ミッテラン少将。そして、内務尚書(大臣)、ラフォルジュ。くわえて、セルヴァンとダンクルベール、シェラドゥルーガである。
シェラドゥルーガからの接触があった。
いつもは泰然自若としているシェラドゥルーガが、動揺していた。だから、事実であろうと直感した。セルヴァンはそれを受け、すぐさまラフォルジュに報告したところ、ミッテラン率いる公安局も、ほぼ同じくして情報を掴んでいたため、緊急の対策会議というかたちになった。その間も、公安局からは、ばんばんと情報が上がってきていた。
とはいえ、結局はよくわかっていない。複数勢力が第三監獄に侵入しており、ぶつかり合っている。
「バルゲリー男爵夫人が、第三監獄に収監されたこと。これが事態の切っ掛けで間違いないと見ている」
老獪という言葉がぴったりのミッテラン。冷静だった。
確か宰相閣下の愛妾で、ユィズランド方面の外交官をやっていたはずである。罪状は、取って付けたような、適当なものだった。
「機密漏洩と扇動の疑いがある。こちらで追い詰めようとしたところ、宰相閣下が、これを第三監獄の中に逃がした」
「逃がした、と?」
「第三監獄の中にいる人間は、死んでいるものとして扱われる。死にながら、活動を続けさせるつもりだろう。宰相閣下は、王陛下を含むエンヴィザック家に、良い印象を持っていない。別の一族を王に当てるか、あるいは別の政体をとろうとしているのだろう。男爵夫人は、その尖兵だ」
再度の政変。それを、宰相閣下御自ら、企んでいる。
「どいつもこいつも、狙いはボドリエール夫人だ。こちらも理由はよくわかっていないが、何かしらの利用価値を見出している」
「シェラドゥルーガだけでも、外に出ることは?堅牢とはいえ、壁の何枚かぐらいは、壊せるはず」
「軍も、動いている」
ダンクルベールの言葉を、ミッテランが遮った。
軍事政権。ダンクルベールの唇が、震えながらそれを綴った。
「一個旅団、消えている。おそらくは囲まれている。更地にされるおそれもある。いくら人でなしとはいえ、夫人単体で旅団ひとつを相手取るのは難しかろう。それに、夫人の脱獄という、格好の大義名分を作ってしまう」
「死んでいるはずの、ガンズビュールの人喰らいが生きていた。総軍を以て対応すべき、ですか。そして狙う先は、我が居城たる第三監獄ではなく、宮廷でしょうね」
青ざめた顔で、それでもシェラドゥルーガは悪態を付いた。
「私は罪人です。好き勝手やらせてはいただいていますが、それだけは、守るつもりでいます。人の社会、それも政治に介入するつもりは、一切ありません」
「大丈夫だ。その点は、信用している。こちらも不老長寿の存在を王に戴くなんぞ、古代文明のようなことは望んではいない」
ラフォルジュ。尚書という身でありながら、政争には一切の興味がない、貴重な存在である。下部組織にも、シェラドゥルーガに対しても、理解のある御仁だった。
「内務省として、そして国家憲兵として。我々の守るべきは、あくまで国家と国民である。政争に関わるつもりはない。まずは、明言しておこう」
「それを、お言葉に出していただける。それは何よりも、ありがたいことでございます」
セルヴァンは、素直に礼を言った。
「して、シェラドゥルーガ。状況は?」
「正直、よくわからない。明かりは全部、消されている。死体が多い。それと」
ちらとだけ、シェラドゥルーガが、ボンフィスを見た。
「刑務官同士での、殺し合いが発生している。おそらく、化けているやつがいる」
慮るような、静かな声だった。
それでも、その屈強な肉体は、わなわなと震えだした。
「申し訳ござらん。ダンクルベール本部長官殿、セルヴァン局長閣下。そして、ボドリエール夫人」
ボンフィスが立ち上がり、大声で頭を下げた。
「我々が至らないばかりに、このような事態に」
「ボンフィス局長殿、どうか頭をお上げ下さい。本官も、シェラドゥルーガとの接触が多すぎました」
「いいや。本部長官殿とボドリエール夫人のお力があってこそ、数々の難事件が解決できた。それを支えきれなかった、守りきれなかった我々の責任です」
「責任の追求は、後にしましょう。まずは、動かねば。山札と手札の確認です」
セルヴァンは、つとめて冷静に、着席を促した。
「このような状況です。私は動けていない。バリケードの構築と、ダンクルベール長官の密偵二名で、防御を固めています。軍に囲まれている可能性もあるし、何より、殺すべきでない人を殺してまで、外に出たくはない」
言いながら、シェラドゥルーガが苦い顔をした。
凶悪殺人犯とは、えてして殺しに対して強い矜持がある。不本意に人を殺すのは良しとしない。まして気位の高い化け物であるシェラドゥルーガともなれば、尚更だろう。
「司法警察局は、“錠前屋”を。現在、指示ひとつで、動ける状態です。くわえて、先遣隊として三名を送っています」
「刑務局からは、鎮圧部隊、三個中隊を出せます。何れも閉所での、近接戦特化の歩兵です」
「公安からは、特殊工作部隊を一個小隊程度、既に送っている。先遣隊に、“鼠”はいるかね?面識のあるものを含めている」
「はい、含めております。人員は、スーリ、オーベリソン、そして、ペルグラン」
ダンクルベールの言葉に、おお、という声が上がった。
「あの、ウルソレイ・ソコシュの。ニコラ・ペルグランのお血筋殿か」
ラフォルジュが、喜びに頬を綻ばせた。
「はい。そして何より」
ダンクルベールの言葉に、力が入った。
「あれはルイソン・ペルグランです。本官の、自慢の息子です」
その言葉に、セルヴァンは驚いていた。
ルイソン・ペルグラン。ニコラ・ペルグランではなく。
ダンクルベールが大佐昇進し、ヴィルピンが次長となることで、ペルグランを副官として置く必要が無くなる。ダンクルベールという名前だけで、仕事になるから。それについて、転属先をいくつか見繕ってもらうよう、頼まれていた。
もともと政変の都合で、確約されていた席が流されたという、良いところの坊っちゃんに過ぎなかった。しかし年月を経て、ダンクルベールという巨大な才覚の隣にあり続け、その職責に見合う力を培った、若き俊英となっていた。
ニコラ・ペルグランの血。どこもかしこも、欲しがっていた。特に海軍本部などは、喉から手が出るほど、という具合だった。
だが、ダンクルベールは今、ルイソン・ペルグランと呼んだ。あの若者は、ニコラ・ペルグランのお血筋ではなく、ルイソン・ペルグランという、ただひとりの男になったということなのだろう。
男ひとり、育て上げた。自慢の息子と、胸を張れる男に。
「ジョゼ」
ぽつりと。シェラドゥルーガだった。悲しげな顔だった。
「手札を現場に。それと、軍への干渉も。一個旅団で監獄を囲んでいる。これの、説明をしてもらいましょう」
セルヴァンは、断ち割るように言葉を出した。
「軍部への対応は、私とミッテラン少将で行こう。ボドリエール夫人はとにかく、自身の身の安全の確保だ。必要であれば、君が人ならざるものであることも、明かしていい。今は、ここまで。都度都度、やっていこう」
「内務尚書さま。ご配慮、感謝いたします」
「新作、待ってるよ。どの名義も大ファンでね」
そう言って、四角い顔を、特大の笑みで歪ませた。
会議室は、三人だけになった。
「ペルグラン君は、ルイソン・ペルグランになったんだね。そしてお前の、自慢の息子にも」
「ああ。親父と、呼んでくれたよ」
シェラドゥルーガが、隣の巨躯にもたれかかりながら、ぼそりと呟いた。同じぐらいの声量で、ダンクルベールも答えていた。
「これでようやく、ペルグランという名から解放される。愛しいジョゼ。つらかったろうに。大変だったろうに」
美貌に、涙が伝った。それを、見ていられなかった。
黒髪のジョゼフィーヌ。あるいは、家名無きジョゼフィーヌ。巨大な名と戦い続けた、ひとりの淑女。
あのニコラ・ペルグランの孫を尻に敷く恐妻として知られる一方で、もとの家の名を奪われ、帰る場所を失ったという、悲劇の人でもある。そして、そんな貴族社会の闇を凝縮したような場所で、それに抗い続けた戦乙女でもあった。
腹を痛めて産んだ我が子を、名族の血筋ではなく、ひとりの男として世に送り出す。それが彼女が自身に課した、ただひとつの使命。それを、我々が終えさせることができた。
立派な息子を、育てさせてもらった。ひとりの母の子育てを、終えさせることができた。あるいは、もっと穏やかで、幸せなかたちで、それを終わらせることもできたのかも。
そう思うと、何よりも無念であった。
「あのこに、名前をあげよう。もう、思い出せもしないと、言っていたそうだから」
「そうしたまえ。“ドゥ”もいらんだろう。ルイソン・ペルグランの母としてであれば、どんな名でも、相応しいはずだ」
それだけ、答えた。
どこからか取り出したペンと便箋で、シェラドゥルーガは、ひとつの名を綴った。そしてそれを、封筒にしまい込んだ。
「我が愛しき人。これを、ジョゼに。我が愛しき妹、ジョゼフィーヌ・ボドリエールにお渡しあれ」
ボドリエール。あえて、その名を。
「わかった。今、息子たちが向かっている。オーべリソンは、あのアンリエットの父親だ。もう少し、耐えてくれ」
「お前とジョゼの自慢の息子だけでなく、アンリのお父上まで来てくださるのだね。そして、スーリ君も。頼もしい限りだ。どうかまた、会えるように」
「そうだな。まずは自分を守れよ。俺も、これから向かう」
三人、頷いた。それでシェラドゥルーガの姿は、消えた。
「色々、片付いたか。もうひと踏ん張りだ」
「そうだな。貴様も、あまり無理をするなよ」
「なに。ウトマンとラクロワ君が来てくれるんだ。私も、名前だけの仕事になるだろうさ」
「それならいい。ムッシュのところにでも、世話になることだ」
立ち上がったダンクルベールは、穏やかな顔だった。
「死ぬなよ。貴様が死ねば、俺は貴様と呼べるやつが、いなくなる」
「そうだな。私も、貴様以外に、貴様と呼びたいやつなど、思いつきもしない」
突き出した拳。合わせた。
病を、患っていた。五年から先は、保証できないとも、言われていた。
3.
はじめての場所。そして、暗闇。
オーベリソンは、先遣隊としてそこにいた。第三監獄に収監されているボドリエール夫人の救出。そして、可能な限りの刑務官も救出すること。それが任務である。
遭遇戦、そして護衛戦。長柄の斧だけでは、対処が難しい。長剣と木の盾を主軸にした。これもまた、父祖伝来のものである。
「いかにもって感じですね」
ペルグランはそう言って笑っていた。
「中尉殿は、和洋折衷というか、何でもありですな」
「本当。ごちゃ混ぜですよ」
「杖だけでなく、片手半に短弓までとは。器用で羨ましい」
それを見たとき、ぎょっとしたというか、感心と呆れたのとがないまぜになった心境だった。
平原の短弓。見るのは、はじめてだった。かの大ヴァルハリアに唯一土をつけた、ダライタル=ヘールタル諸氏族のそれである。銃では装填に時間もかかるし、音と閃光が、味方にも恐怖を与えかねない。選択としては最適だが、それを実現できる技術があるというのが驚きだった。
そして、片手半。それも、あの“颪”の喧嘩用である。オーベリソン自身が対峙し、捕縛していた若者のものだという。
奸計により、死に追いやった、エーミールという若者。その名を、剣にも付けていた。心を蝕んでいるのか。そう思ったが、違うようだ。新しい出会いとして。あるいは、ともに歩んでいくために。
本当に、強くなった。大きく、逞しくなった。ニコラ・ペルグランのお血筋ではなく、ひとりの男として。ルイソン・ペルグランとして、男ひとつ、成り立っていた。今年で確か、二十三か、四か。それぐらいである。その若さで、太い芯を手に入れることができた。
あるいはそれは、隣りにいた男の薫陶でもあり、焦りでもあったのかもしれない。ダンクルベール。白秋に入り、あと何年、そこにいられるか。だからこそ男ひとり、育てねば。そういう思いが、あったのかもしれない。
人の上に立ち、支えになり、盾になれる男。時に非情に、冷酷になれる男。ダンクルベールは時間と機会でそれを培ってきた。男には成り得たとて、遅すぎた。それを経験として、短期間で男ひとり、仕上げてみせた。
ダンクルベールの遺作にして、最高傑作。それが、ルイソン・ペルグラン。いずれ警察隊本部、いや、国家憲兵隊の頂点に立つ男。
血の匂い。近づく。
「刑務官。同士討ちだ」
そこまで、言ったぐらいだった。
猿叫。後ろだった。構えた盾に、何かがぶつかる。そのまま突き飛ばした。
「国家憲兵警察隊、ペルグランと知ってのことかっ」
ペルグランの一喝。それで、影が動きを止めた。
「警察隊のかたで、いらっしゃいますか?」
声は、怯えていた。
「刑務官、ルデュク一等であります」
ランタンを持って、近づいた。
震えた、若い刑務官。痩せて、頬骨が出ている、頼りなげな印象。表情は怯えているが、眼は正気だった。
ペルグランが近付いてくる。オーベリソンは、周囲の警戒に気を配ることにした。スーリもそれに倣う。
「一等。まずは、落ち着かれよ。わかっていることだけ、教えてくれないか?」
「はい、はい。何者かが、侵入しました。外に出ようとしましたが、城門は閉まっており、近づいたものは、帰ってきていません。鳩もすべて、逃されております。我々、刑務部隊は、詰所の方に、まとまっています。今、ふたり一組で、いくつかの斥候隊を作って、見て回っております。これもいくつかは、帰ってきておりません。このぐらいです」
「貴官は、ひとりだが?」
「いつの間にか、いなくなってました。それを気付いたとき、動けなくなってしまいました。それで、ここに」
そこまで言って、顔を覆ってしまった。
暗闇の恐怖。集団恐慌と、疑心暗鬼。思いつく中で、一番最悪な環境である。
そこに取り残されていた。そしてそれでも、生き残っていた。
「そちらの最高責任者は、現在、どなただ?」
「監獄の最高責任者である、看守長殿は、殺されました。現在は、主任副長殿。デュシュマン少佐殿が責任者です」
「わかった、ありがとう。ひとりでは戻れまい。一緒に行こう。俺たちを、信用してくれないか?」
ペルグランの言葉に、ルデュクが戸惑いを見せた。
「小官を、信用してくださるのですか?」
震える声。
ペルグランが、こちらを見た。
「貴官の感じている恐怖は本物だ。その上で、正気を保ってくれていた。情報の提供もしてくれた。信用に値する」
思った通りの言葉に、ルデュクの表情が引き締まった。
か細いが、強いものを持っている。
「襲い方が衝動的だった。理性がなかった。その上で、言われて我に返った。だから、大丈夫よん」
スーリも、明るく声を掛けていた。こういう状況で、この男の剽軽さは、何よりの助けになるだろう。
それで、落ち着いてくれた。
ルデュクは、オーベリソンとともに、後ろにつくこととした。やはり頼りなげだが、それでも、しっかりと付いてくる。
勇気がある。必要最低限、かつ、不可欠な分を。
「オーベリソン軍曹殿は」
ルデュク。武器は、収めさせていた。心が乱れると、それに頼りたくなるためだ。
「こわくは、ないのですか?」
「勿論。こわい。俺は、ここははじめてだし、この通り、真っ暗だ。誰が敵か、誰が味方かがわからないし、そして任務がある。貴官らを連れて帰るという、重大な任務がな」
恐怖、そして、責任。心を蝕むもの。
「それでも、経験がある。何十年も、戦乱にいた。混乱を経験してきた。内部不和も、裏切りも。だからここにあるのは、知っている恐怖だ。聞いたことのある怪談話は、こわいには変わりないだろうが、どこがこわいかが、わかっているからね」
目を見て、笑ってみせた。それで、落ち着いたようだ。
「こわいことを、覚えるんだよ」
「ご指導、ありがとうございます。今後の業務に置ける、励みになりました」
「いいね。ちゃんと励めるよう、生きて帰ろう」
笑って、背中を叩いてやった。
心との戦いになる。強さだけでは、壊れてしまう。
スーリ。近くの黒いカーテンを開けた。貴族だろうか、隅で怯えていた。
こちらにも、事情を聞いた。何かが起きている。時折、悲鳴が上がる。わかっているのは、それだけのようだ。順番に無事を確認、安全確保していく旨を伝え、家具か何かで、入口を塞ぐように言った。聡いものは、すでにそうしているようだった。
オイル灯は、順々に付けていった。これが消されたら、相手がそこを通ったことが分かる。
「ルデュク一等。ひとつ、怪談話だ」
ペルグランの言葉に、ルデュクの体が固まった。
「シェラドゥルーガは、生きている」
身震いが、空気を伝わるほどに。
「噂には、聞いていました。本当だったんですね」
「そう。そして、我々の救出対象でもある。ボドリエール夫人と、貴官らを救出するのが、我々の最終目的だ」
「ダンクルベール長官と、ボドリエール夫人」
あえて、言葉に出したようだ。
ぱしん、と。両手で、自分の頬を張っていた。
「承知いたしました」
「よかった。面白い人だから、安心してくれ」
笑ったようだった。
「殺されたのは、そんなに多くないっすね。恐怖を植え付けて、殺させている。殺し合いを、させている」
「悪趣味な手口ですなあ。目的がわからん」
「突発的にはじまったかもしれない。それも、複数勢力。腹の探り合いをしているうちに、疑心暗鬼が生まれちまった」
道中、いくつか死体が転がっていた。刑務官だけでなく、囚人もいる。
死に損なっているのも、幾つかいた。話だけして、オーベリソンの手で、楽にしてやった。
死で、苦痛を終わらせる。何度も経験したことである。
斥候隊とも遭遇した。二名一組。こちらは、落ち着いている。
「ルデュク一等。一緒に、詰所に戻るか?」
ペルグランが促した。ルデュクの様子が、ちょっとおかしい。
「違う」
叫びだった。
動いたのは、同時。それでもこちらが早い。スーリ。ふたりの前を、駆け抜けただけに見えた。
「なるほどちゃんね。化けてやがるんだ」
斃れたうちの片方が持っていた馬上刀を見ながら、スーリが冷静に言った。見せてもらったところ、拭き取っているだろうが、それでも脂がまいていた。
回りくどいことをしている。単純に、正面から突入して制圧しない理由は、何か。
「道が、変わっている」
目の前の壁に対して、ペルグランが言った。
スーリが、さっと駆けていく。すこしして、壁の向こう側から、こんこんと、音がなった。そうしてまた、戻ってきた。
「囚人が脱獄したとき用の、隔壁だね。天井に貼り付けてある。そいつを落としている」
「監獄のつくりを、知っているってことですな」
「刑務隊にも紛れ込んでやがんな。くそったれだね」
スーリの悪態に、ルデュクが周りを見回した。
「大丈夫だ。貴官は先ほど、身を以て、それを証明した」
しっかりと、声で伝えた。
おそらく、最奥。カーテンは開いていた。入口の前で、看守ひとり、死んでいた。鉄格子の向こうは、書架でバリケードを組んでいるようだった。
「夫人。ペルグランです」
宙に、放り投げるように。
それで、何もかもが、ひとりでに動いた。
「これが、人でなしってやつですか」
「色々、便利なことができる人ですから」
思わず感心した言葉に、ペルグランが返してくれた。
娘であるアンリや、それらを知るものには、いくらか話は聞いていた。
アンリを娘にする際、相当、気を揉んでくれたことも聞いていたので、アンリに頼んで、謝意をしたためたものも渡したことがある。それをきっかけに、細々とではあるが、自分も手紙のやり取りをするようになった。
人でなし。人知を超えた存在。なおかつ、自分の父祖と同じく、ヴァーヌの火に運命を狂わされた存在。シェラドゥルーガという名の、生ける神性。あるいは、生きながらに神として祀られた生き物。
オーベリソンの血の故郷も、多神教であった。自然のそれぞれに神が宿り、精霊が暮らし、人と交わる。それを繋ぐ祭司が、神や精霊の言葉を語り継いできた。それを考えると、馴染みやすい存在だった。
焼け残った神。それでも人を愛し、人として生き続けるもの。憎しみの先に進むことを、教えてくれた恩人でもある。
中は、綺麗だった。書架の林。そこで、そのひとは出迎えてくれた。
「顔を合わせるのは、はじめてでしたね」
心を奪われるほどに、美しかった。
「我ら、鋼の血族にして、アンリエット・チオリエが父。カスパル・オーベリソンと申します。ボドリエール夫人。そして、朱き瞳のシェラドゥルーガさま」
どん、と。剣を持った右手を、胸に叩きつけながら。
「それこそは、パトリシア・ドゥ・ボドリエール。そして、朱き瞳のシェラドゥルーガ」
魔性の女。いや、魔性。朱と黒の、美しき魔女。
まずは休憩。そう言って、席に促してくれた。
紅茶と、お茶菓子を用意してくれた。少しだけ、甘めに作ってある。それで、張り詰めていたものが解れた。
ルデュクも気が抜けたのか、涙をこぼしていた。ペルグランが隣で、励ましている。
“足”ふたり。年のいった女だった。目の奥の光が、強かった。
「目的は、私だそうだよ」
いくらか疲れた様子で、夫人がこぼした。
「今の今更、何に使うつもりなんだか。私はただの囚人で、あるいは作家と翻訳家だ。政治なんて、できやしないのに」
「目的は様々でしょう。それより、夫人をどうやって確保し、維持するか。それの見当が付いているかのほうが問題です」
「見当がついているから、行動を起こした。そして実際に、効果が出ている」
そう言って卓の下から、透明なものが入った酒瓶を取り出した。
「お下品なことをするよ。御免遊ばせ?」
一言。
封を開け、喇叭で少し飲む。瓶を、手の中で軽く回して、瓶の中で渦を作った。
一瞬だった。
「だあっ、畜生が」
まさかの、ウォッカの一気飲み。唖然としてしまった。
「あらまあ、やけ酒?」
スーリだけは、面白いものを見るようにしていた。
「そうだよ、こん畜生。この見当ってのが、スーリ君なら、わかってくれると思うことだよ」
「何となくはわかったけど、おいらから言うと角が立つから」
「ありがとう。ひとごろし同士、仲良くしよう」
口直しとばかりに、紅茶を啜っていた。それでもその紅茶も、おそらくブランデーがたっぷり入っているだろう。酒の臭いが強かった。
「そちらの刑務官殿には刺激が強かろうがね。私は、肉体の死では、死を迎えることはない。正真正銘の化け物だ」
悪態をつくように言ってみせた。
肉体の死。首を切り、血を流しすぎてでも死なない。そういうことなのだろう。
「だから、心を殺す。精神的に追い詰める。ここにいる人間ごと、私を廃人にするつもりだ。口さがない言い方をすれば、アルシェ君のやり方だね」
その言葉に、思わず顔をしかめた。
心を苛む拷問官、アルシェ。使うのは警棒、ただひと振りのみ。それで、心を追い込む。
そういうことを、この場の全員にやる。暗闇の恐怖という、ひと振りだけで。それで、他者へ対する疑念と、不安が産まれる。集団恐慌が巻きおこる。そうすれば、勝手に人は死ぬ。
人の死は、生きている人の心をも蝕む。おそらくこの、人でなしの心すらも。
「私だって、こわいものはこわい。ここの壁をぶち破って、外に出たっていい。ただ、一個旅団で囲んでいるという話も聞いた。現代戦の一個旅団なんて、相手したことない。そして私は、世間一般的には精神病質者の扱いを受けているが、一応はちゃんとした倫理観と道徳観を身に着けた、一般市民だ。それに欠ける行いは、当然こわい」
「凶悪殺人犯で、模範的な服役囚でもある。“悪戯”するのは、我々、顔見知りだけですし。ここの刑務官に対しては、夫人は極めて、礼儀正しく接しているように見えます」
ペルグランの言葉に、夫人は流麗な所作で座礼をした。
「罪人が一番嫌がることってのはね、自分の罪を突かれることなのさ。これは刑務官殿なら、一等兵といえどもご存知のはずだ」
その言葉に、遠慮がちにルデュクが頷いた。
「叱って、諭して、促して。それが我々、刑務官の。罪を犯してしまった人々を更生する人間の、仕事です。犯した罪を詰り、謗り、追い詰めるようなことだけは、絶対にしてはならないと、上官からは常々、申し付けられています」
「素晴らしい。ここの刑務官は、本当に優秀なのだよ。なんたって全員、もれなく終身刑の馬鹿者どもだ。下手に神経を逆撫でるようなことをすればどうなるかを、ちゃんと勉強している」
「つまりは、夫人が夫人であることを、使ってくると?」
オーベリソンの言葉に、夫人は天を仰いだ。
「私の神経を逆撫でるようなことをしてくる。私が、他の人々を守らなければならない立場であることを知った上でね。泣き叫ぶことも、暴れ回ることも許されず、緊張と恐怖、そして罪の意識に苛まれ続けるわけだ。本当に、気が滅入るよ」
そこまで言って、額を押さえてしまった。
強靭な肉体の反面、心のそれは、弱いのかも知れない。強くとも、脆い部分がある。だからこそ、ガンズビュール以降、ここにいた。
外界は、人ならざるものにとって、心につらいものが多いだろう。
いくらかして、窓を見張っていた“足”が、構えた。
「内務省公安局だ。“鼠”はいるか?」
声だけ、聞こえた。
「ここにいる。今、向かう」
「来ないほうがいい。よく、中に入れたよな。罠だらけ、闇だらけ、嘘だらけだ。ふたり、やられた。うちに化けてすらいる。ボドリエール夫人は、無事か?」
「それこそは、パトリシア・ドゥ・ボドリエール。この中は安全だ。怪我人は、おられるか?」
夫人。すっと立ち上がる。
「ご本人でいらっしゃいますか。怪我人はいない。やられたやつは、致命傷だった。合流したいが、お互いの信用ができない状態だろう。気持ちだけ頂戴する」
お互いの信頼ができない。つまり、それだけ痛い思いをしたということか。
そしてこれからも、そういうことが起こり得る。
「警察隊本部、ペルグラン中尉です。出口になりそうな所があれば、教えていただきたい」
「貴官らが侵入した裏口は、もう塞がれている。正面城門か、城壁を飛び降りるかだ。ただ、縄などはない。おそらく城門も、罠だらけだろう。どこかに爆薬で穴を開けたいが、囚人のこともある。しばらく時間をくれ」
「相分かった。まずは、身の安全を優先なされよ」
「お言葉、ありがとう。では、一旦」
声は、それで消えた。
公安局まで動いている。相当な大事なのか。
ちょっとお着替え。そう言って、夫人は奥に行った。
しばらくしたら、略式軍装に油合羽、亜麻色の髪を纏めて結い上げて、軍帽を被った女軍警の出で立ちになって、戻ってきた。
リュリ中尉と、名乗るようだ。
「ルデュク一等殿。どうか、共に家路を」
夫人の言葉に、ルデュクの頼りなげな顔も、引き締まった。
詰所の場所は、ルデュクが先立って、教えてくれた。
道中は、やはり暗かった。順に灯しながら、進んでいく。都度、黒いカーテンを開けて、中にいるものの状態も、確認してゆく。
何人かは、死んでいた。鍵も、開いていた。
「こりゃあ、おっかないや。あれも、身内同士での殺し合いだよ。囚人みたいだ」
囚人同士が、折り重なって死んでいた。
「凶悪犯の独房も、開いていたりしています。逃げ出す好機ではあるが、出口がない。ストレスを抱えて、また殺しをはじめるかもしれない」
ペルグラン。倫理観の欠如した凶悪犯が、解き放たれている。刃物一本だけでも、複数人は殺せるだろう。
斥候隊と、幾つか遭遇した。会ったものはすべて、本物だった。皆、ルデュクの顔を見て、安心していた。ルデュクも同様だった。
詰所まで、たどり着いた。
付近のオイル灯は、すべて点いていた。少し離れたところに、おそらく死んだものの骸が入った袋が、いくつも並べられていた。
「ルデュク一等です。モンセイ伍長殿は、行方不明。道中、国家憲兵警察隊の方と合流しました」
ルデュクが、いくつかのやり取りをしていた。合言葉のようである。
それで、ようやく開いた。
中にいたのは、十数名。入ってすぐのところで、士官が出迎えてくれた。
第三監獄主任副長、デュシュマン少佐。歳の頃はおそらく、オーベリソンと同じぐらいだった。
「貴官らは、いかにしてこの事態に?」
「公安局より、情報あり。先遣として罷り越しました」
リュリ中尉になった夫人が、さっと答えた。
「この事態に気づいて下さるとは。何よりも、ありがたいことです」
デュシュマンは軍帽を取り、深々と礼をした。
だいぶ憔悴しているようだが、それでも毅然としていた。信用に足る人物と見てよさそうだ。
「異変に気づいたのは、本日未明。連絡を取ろうとしたが、鳩は逃されているし、城門にも近づけん。縄の類も見当たらん。おそらく燃やされている。となれば、城壁からの脱出も難しい。裏口も罠があり、近づけなかった」
これは侵入時、スーリがすぐに気付いて、すべて撤去していた。そして公安局の工作員によれば、裏口は既に潰されている。
「内務尚書閣下指示のもと、公安局、刑務局、そして我々、司法警察局の合同作戦を実施しております。現在、こちらに各管轄の特務部隊が向かいつつあり。まずは、御心を平らかになされませ」
夫人が、はきはきとした言葉で連ねる。本当に、軍人の口調である。
「よくぞ、ご英断いただきました。そしてまた、よくぞご無事で、ここまで来られました。何よりも、ルデュク一等をお助けいただいたことについて、心より御礼を申し上げます」
デュシュマンが、深々と頭を下げた。ルデュクも、礼をしてくれた。
「よく、帰ってきた。そしてよく、この方々を連れてきてくれた。まずは、少し休めよ」
「はっ、ありがとうございます。主任副長殿」
強面を綻ばせながら、ルデュクの肩を叩いていた。
このひとについて、道中でルデュクから、いくらか聞いていた。小言の多い人ではあるが、面倒見がよく、何より人の適性や人となりを見るのが的確だということだった。そしてこの緊急事態において、常に陣頭に立ち、情報の収集と見極めを行っていた。
夫人もそうだが、このひとも今、極限の状態に置かれている。
「続けて、主任副長殿に具申いたします。まずは貴官ら、刑務局職員を含む我々の、身の安全の確保をいたしましょう。この人数なら、正面城門までは、余裕を持ってたどり着けます。その後、増援を待ち」
夫人が、そこまで言ったときだった。
どん、と、詰所の扉が鳴った。
何度も。ドアノブも、回されている。入ってすぐに、机などでバリケードを作っていたため、入っては来れないだろうが、どこか必死さを感じた。
男の声。助けてくれ。叫んでいた。
「麾下将兵ですか?」
「違う。おそらくは、収監されていたものだ。何者だっ」
デュシュマンの声には、答えない。とにかく、助けを求める声。それがそのうちに、悲鳴に変わった。
何かが、崩れ落ちる音。
「俺が見てきます。皆さま。まずは、お覚悟の程を」
オーベリソンは、すぐさま動いた。
バリケードを押しのけて、扉が開けれるようにまでする。スーリも来てくれて、扉に耳を立てていた。
「ひとり、離れた。もたれかかってるやつは、虫の息だ」
見上げてくる目。真っ黒な、ひとごろしの目。
「開けるところまで、やりましょう」
頷いた。
開ける。暗闇。ランタンを投げる。誰もいない。
まずはスーリ。その後に、オーベリソンと続いた。
扉の裏。男が、死んでいた。貴族らしい装束。後ろから、切りつけられ、刺されている。
「灯りを、たどって来たんすかね?」
ペルグランと夫人も出てきた。
「おそらくは、そうだろうね。そして、そいつを追いかけてきた。灯りを消しながら」
夫人がオイル灯のひとつを、灯したときだった。
気配。
「動くなっ」
ペルグランの声だった。背を向けている状態のはずだ。
上体だけ、背面を向く。短弓の弦の音。叫び声が上がった。
「くそたわけっ」
振り向きざま、夫人が馬上刀を振り下ろした。それで、その影は崩れた。
粗末な服装。おそらくは、凶悪犯の類か。折れた剣を手にしている。
まだ息があった。
「お前たちが皆、殺したんだろ?」
男はそれだけしか、言わなかった。
刑務官たちは、真っ青になっていた。デュシュマンすらも必死になって、震えるのを堪えている。
「飲み物か、何かを」
「もういやだっ」
誰かが、叫んだ。
「どうして、どうしてこんな目に」
「落ち着け、新任少尉。落ち着けと言った」
「いやだ。帰らせてくれ。こんなことに、どうして」
「指導っ」
ペルグランが、それに殴りかかっていた。
「こわいのはわかる。こわいのを、まずは受け入れろ。抑え込めば、膨れ上がるだけだ。よろしいか」
若々しい、青く震えた顔の新任少尉。真正面の怒鳴り声にも、怯えてしまっていた。
ペルグランが、周りを見渡した。
「皆も、こわいだろう。頭のものを、全部、外に出すんだ。今のうちに泣け。泣いて、叫べ。頭のものを膨らませるなっ」
咆哮のような一言だった。
言われて、皆が必死に、叫びはじめた。泣きながら、隣のものと抱き合っていた。
ペルグランが編み出し、ラクロワなどに教えたやり方である。新任少尉のころ、凶悪犯罪の現場などで染み付いた恐怖を洗い流すために、試行錯誤をして見つけたものらしい。
恐怖を認め、不安を抑え込まず、すべてを吐き出す。格好はつかないが、自分を律するうえでは、一番いいやり方かもしれない。
そうしてしばらくして、皆、落ち着いた。
「だいぶ、落ち着きました。助かりました」
「お役に立てたようで、何よりです」
見渡した。皆、だいぶ落ち着いたようだ。
「デュシュマン主任副長殿」
オーベリソンは、あえて言葉を出した。
「主任副長殿だけでも、仮眠を取られよ。その間、我々や刑務官の皆さまで、脱出の準備をいたします」
それに、デュシュマンがいくらかの戸惑いを見せた。
「今まででも、これからも。いちばん大変なのは、あなただ」
「すまない。それでは十五分を目処で。時間になったら、起こしてくれ」
疲れ切った笑顔だった。
その他にも、顔色の悪いものなどは、同じように仮眠を勧めた。
「ここから先は、遭遇戦、護衛戦、撤退戦の合せ技だ」
警察隊の面々で集まった中、オーベリソンはそれを告げた。
「死ぬほどきつい。死ぬぐらいには」
経験など、いくらでもある。
ペルグランの目。自信があった。ウルソレイ・ソコシュの件で、それを経験している。
スーリ。経験は無いだろう。だが、生存能力には特化している。索敵には大いに役に立つだろう。
となればやはり、夫人。
「いくら強大な力があるとはいえ、軍事行動は未経験でしょう。まずは、無理をなさらないことだ」
「やれるだけをやる、などと適当なことは言えない。全員、生かして帰る。私が何度、死のうとも」
目を合わせる。その朱い瞳は、いくらか潤んでいた。怯えが強い。そして、その他のものも。
「私はかつて、それをできなかったのだから」
その言葉に、目を合わせるのがつらくなった。
ヴァーヌの火。ひとりだけ、燃え残ってしまったもの。目の前ですべてを焼き払われ、塗りつぶされたもの。
このひとだけは、その過去とも対峙しなければならないのだ。
「お覚悟、天晴です」
軽くだけ、肩を叩いた。
ここから先は、自分自身との戦い。心の中の、恐怖との。
4.
会うべきものを、探していた。その兆しは見えたので、どこかにいるはずである。
ビゴーが退役してから、ガブリエリはひとりで歩いていた。かつてのビゴーがそうであったように、はぐれていた。
恩人だった。自分のやりたいことを見つけさせてくれた。導いてくれた。一歩ずつ、一歩ずつ、一緒に歩いてくれた。だからそのときも、いつも通り、歩いて別れた。
彩りを与えてくれた。今はひとりで、それを保っていく必要がある。
いた。ひとつの路地裏。そこに、佇んでいた。
「突然だね。お兄さん」
フェルト帽を押さえた、黒い肌の女。
公安局、エージェント・ミラージェ。影の中に潜み、貸し借りの契約を要求する、白い瞳のまやかし。
今はひとりで、対峙できる。
「妹が、どじを踏んじまってねえ」
正面ではなく、横並び。お互い、体も視線も、向けることなく。
「来週、国営劇場でやる“きらきらするものと”の公演。チケットを取ったはいいが、急用が入ったんだと。行けなくなっちまったから、誰かに貰ってほしくてね」
封筒ひとつ、懐から出しておいた。
「悪いが、趣味じゃないね」
「豪華俳優陣だ。特に主演の女優が、とびきりでね」
その言葉で、かざした封筒に手が伸びてきた。
「おや、本当だ。こいつは話が変わってくる」
中身をあらためたミラージェが、声を上げた。口調は変わらないが、向こうが欲しいものだというものは、雰囲気から伝わった。
ガブリエリ独自の密偵を、作っていた。それが掴んできた情報である。司法警察局より、公安局の方が有益と判断して、渡そうと思っていた。
今のところ、“妹”とだけ、呼んでいる。女性だけで構成されたもので、貴族名族、あるいは宮廷の中に、使用人や妾、あるいは高級娼婦として潜り込ませていた。
ダンクルベールと同じように、“足”の頭目も、おそらくは老いてきている。そして“足”では潜り込みづらい場所も、幾つかある。その後継と補間として、ダンクルベールたちに提案し、立ち上げたものだった。
この国の巨大な闇、貴族社会を暴く。そのための、ガブリエリ家の、もと嫡男たる自分の“妹”たち。礼節と教養を教え込み、男を誑かす術も教えていた。立ち上げて間もないが、多くのものが手に入っていた。
「軍のお偉方が熱を上げている女優とあらば、見ておきたいしね」
ミラージェは、あえてそれを、言ったようだった。
軍総帥部が、動きはじめていた。
ユィズランド連邦では、民主共和政権が樹立していた。それも、大量の血を流した、性急なかたちでである。それに感化された急進派が、同じような軍事革命を企んでいた。旧体制を打倒した後、ユィズランド連邦に加わるのが目的らしい。
その手土産として、人でなしたるボドリエール夫人を使うとのことだった。
我が国では夫人ひとりだけの人でなしだが、大陸本土ではいくつかが確認、保護されているそうだ。そのいずれもが、いわゆるヴァーヌの火で焼かれた、民族浄化と歴史改竄の被害者であり、ヴァルハリアに対して強烈な悪感情を抱いていた。
夫人を含めた人でなしどもを軍事転用し、ヴァルハリアを滅ぼす。資源や交易路を得るためだけに。終わったあと、人でなしは、まとめて海にでも沈めるつもりだろう。随分な絵空事である。
問題は、その急進派に、ペルグランの親族が加わっているとのことだった。それもほぼ中心にいるようだ。
「でもこれ、高かったろう?」
「払い戻しもきかないしね。家族で見に行くといい」
「それじゃあ、ありがたく」
そこまで言って、ミラージェは封筒を、懐にしまい込んでいた。
ビゴーとミラージェのような、貸し借りの関係は、ガブリエリにはできなかった。だから、やり方を変えた。
手に入れた情報のうち、司法警察局では扱いきれないもの、公安局からのアプローチのほうが効果的であるものを、ミラージェに渡す。
貸し借りではなく、おすそ分け。こちらとしては善意、あるいはお節介のつもりなので、返して貰う必要はない。
ミラージェという、ひとりの人間をわかってあげる。そうして、この方法を執ることを、取り付けることができた。
これで軍総帥部には、公安局、あるいは内務尚書たるラフォルジュからの干渉が可能になる。司法警察局では到底難しいことだが、公安局であれば、難しいことではないだろう。
「そういえば、お兄さん」
ひとしきりが済んで、お互い、紙巻を咥えたところだった。
「髭、どうしたんだい?髪型も変えちゃって」
「やっぱり、似合わないかね」
「いいとは思うけど、思い切ったね。今までの綺麗な感じから、男前になった。ただまだ、そういう歳でもないだろう」
言われた通り、風貌を変えていた。
髭をいくらか伸ばすようにしたし、髪も、切りそろえたものから、すべて後ろに流すようにした。
「同期が、余所に異動するんだ。それの栄転祝いでね」
「へえ。それが祝い事になるのかい」
「女の子。これが可愛いんだよ。でも、こういう男臭いのが好きらしくってね。せがまれちまったもんだからさ」
その言葉に、ミラージェが鼻を鳴らした。
「片思いでもしてたのかい?青春じゃないか」
「大当たり。でも、向こうも想い人がいたからね。諦めた。それで、かみさんにたどり着いたってところさ」
そこではじめて、ミラージェの目が、こちらを向いた。
「奥さん、結構、大きくなっただろう?家で紙巻、吸うんじゃないよ」
「おや、優しいじゃないか。勿論、気をつけるよ」
「まあね」
視線を戻し、防止を被り直した。
「これでも、母親だからね」
「そうか。前に言っていたものな」
「ちゃんと、周りに頼るんだよ。私はそれができなくて、苦労したもんさ」
「大人は皆、それを言うんだね」
「そりゃあそうさ」
影が、歩きはじめた。
「お兄さん、優しいばっかりだから。皆が甘えちまうのさ。だからあんたが甘える機会を、用意できなかった」
「准尉殿か」
「たまに、思い出したようにして、私に伝えてくる」
振り返りはしなかった。
「これで、貸し借り、無し」
手を振ったようだった。
振り返る。姿はない。
「ありがとうございます」
放り投げるように、それだけ告げた。
エクトル・ビゴー。そしてその娘、エージェント・ミラージェ。
ふたりとも、未だ、師であり続けてくれる。
5.
誰を頼るべきか。そして、誰に頼られるべきか。
ここから外に出る。やるべきは、たったそれだけである。それが何より難しい状況に、置かれていた。
デュシュマンは、隊列の殿にいた。隣には、見上げるほどの巨躯の、“北魔”の如き戦士と、あのニコラ・ペルグランの血筋がいた。
全員分の生命を託すに足る人間だった。それは、先頭を行く、スーリという小男と、リュリと名乗った女性士官も。言葉に、嘘偽りを感じなかった。
ただ、リュリだけは、不安のほうが強かった。何かしらの脆さを、持っていた。
「あえて聞くが」
ペルグランに、声を掛けた。歩みを遅めながら。
「リュリ中尉は、大丈夫かね?些か、不慣れに思えるが」
ランタンとオイル灯だけの薄暗がりの中でも、ペルグランの顔に迷いが出たのは、すぐに分かった。
「やはり、そう見えますかね」
「このような事態で、肝が据えれる人間など、数えるほどもいないだろう。それでも先頭は、厳しい。例えば貴官なりと替わってあげた方が、よろしいかとも思うのだが」
ペルグランの顔の迷いが、強くなった。
「主任副長殿を、信頼しております」
「如何した?」
回答はなかった。
ペルグランは胸元から、メモと鉛筆を取り出し、ざっと、何かを走らせた。それを、渡してきた。
「決して、他言無用で」
本当に、小さな声だった。
恐る恐る読む。内容に、血の気が引いた。
リュリ中尉は、ボドリエール夫人である。ボドリエール夫人は、正真正銘のシェラドゥルーガである。くわえて、ここを襲った勢力の狙いは、ボドリエール夫人である。
目を見た。真剣な眼差し。
ボドリエール夫人は、生きている。それは、デュシュマンとしても、知っていることだった。あるいは、それがシェラドゥルーガという、本物の化け物だということも。
それが今、狙われている。その状況の中、先頭に立ち、我々を導いている。
渡されたそれを、静かに裂いた。いくつかにして、口の中に放り込んだ。
なんとかして、飲み込んだ。
もう一度、若者の目を見た。
「ありがとうございます。やはり、信じてよかった」
「こちらこそだ。よくぞ、打ち明けてくれた。そしてリュリ中尉にも、感謝を述べねばなるまい」
渡された水筒。中身を疑うこともなく、口を付けた。
ちゃんと、水だった。
「ルデュク一等」
声を出した。近寄ってくる。痩せた若者。体は、震えていた。それでも目だけは、しっかりしていた。
「ここがお前にとって、一番に安全な場所だ」
ルデュクにはそれだけを言って、ペルグランの目を見た。オーべリソンの目も。
「俺が、前に行く。頼れる男ひとり、置いていく」
「わかりました。リュリ中尉を、お願いします」
静かに、前の方に出た。スーリと、リュリ。
リュリは、明らかに震えていた。
「デュシュマンです。リュリ中尉」
「主任副長殿。如何なされましたか?」
「俺でよければ、隣りにいます。ボドリエール夫人」
つとめて、小声で伝えた。
一呼吸以上、あった。
「お気付きに、なられたのですね」
「貴女に対し、不安なものがあった。不審ではなく、不安が。だから、ペルグラン中尉に聞きました」
「不安、ですか。そうですね。仰るとおりです」
ある分の息を、吐いたようだった。
「人を守るのは、どうも苦手です。ひとごろしですから」
「なるほどね。そこには、考えが及びませんでした」
「人を追い詰めたり、誑かしたりするのは得意ですが、逆は本当に、難しい。そして失敗すると、その分、傷になります。とてもつらい傷に」
「そこは、おいらもおんなじ。ひとごろしあるある、ってやつさ」
スーリが明るく笑った。肌に朱みが差しているぐらいしか、外見的に特徴のない、小さな男だった。
「スーリ中尉は、暗殺者とかかね?」
「おっ、大当たり。主任副長殿、早いねえ」
「俺は刑務官だから、守りの仕事さ。だから反対に、人を攻撃することは苦手でね。そういう風に、順序立てただけさ」
そういうことは、得意だった。人となりを知り、境遇を知り、理解を示す。改める部分を指摘し、改善を促す。それを順序立ててやっていく。
「まして自分が標的となれば尚更だし、俺たちという足枷もある。それでも、攻撃者としての危機察知能力を索敵に回すことは可能。基本は使えず、応用だけ。となれば、楽はできない。不安だし、疲れもするだろう」
「素晴らしい。佐官ともなれば、そこまで考えが及ぶ」
「刑務官とは、人を扱う仕事でもある。更生するにしろ、どこを直すべきかは、見定めなければならない。いずれにしろ、備わったものではなく、培ったものだ」
ふたりの目を見る。不安が、和らいでいた。
前に来て、正解だった。
「後ろはあのふたりで、なんとか以上。オーベリソン軍曹は守りの人だし、ペルグラン中尉は万能選手だ。話し相手として、ルデュクも置いてきている」
「なら、主任副長殿は、守備役と我々の話し相手の兼業かしら?」
「そんなところだ。凶悪犯と、もと暗殺者。ふたりなら、この隊列をどう崩すか。それを学んでおけば、俺が対策を練れる」
「頼もしいとっつぁんだや。これだけで、かなり気が楽になったよ」
「お互い様ってやつだよ。生命を預け合うのだから」
つとめて、笑ってみせた。
振り向いて、手で合図。自分たちだけ、いくらか早足。それで隊列と、五歩ほどの間が空く。
「状況と傾向からいって、内部不和。恐怖を呼ぶ。心を攻めれば、体は死を求める。敵は複数勢力だそうだから、あえて我々でなく、他の勢力を狙うのもいいでしょうね。内と外の、恐怖。それだけで、自壊させられる。私はどれだけ殴ろうが死なないから、へたばらせたところを捕まえるはず」
「信じられるのは、自分ひとり。敵は、それ以外のすべて、か。お化け屋敷だな。仕掛けを予測すればいいわけだ」
言いながら、思いついた。
「一旦、止まれ」
振り向き、大声で伝えた。
「点呼」
いくらかのざわめきのあと、それははじまった。混乱からはじまったが、番号が続くうちに、整然としていった。
声の数は合っている。
ただし、人数は、合っていない。
「姿勢、正せ」
オーベリソンだった。ひとりに詰め寄る。
「点呼指示に従わなかった旨、指導する。指導一回、用意」
どしりと圧のある声に対し、それが動いた。
おそらく、短剣。閃く。硬い音。盾。突き刺さって、抜けない。動揺したのか、柄から手を離せず、引っこ抜こうと、もがいている。
「指導」
盾を、跳ね上げただけに見えた。
轟音と、振動。男の体が、壁に叩きつけられていた。
「各員、防御っ」
ペルグランの声。弦の音。何かがいくつか、天井から落ちてきた。五人か。矢を打ち込まれ、天井から落とされたものどもが、うめき声を上げている。
「スーリ中尉とペルグラン中尉は引き続き警戒。全員、息があるようだから、オーベリソン軍曹と私で、ちょっと尋問しよう。主任副長殿は、各員の慰撫をお願いします」
リュリがそう言って、オーべリソンに殴られた男のもとに向かう。襟首を掴み、何かを語りながら、指を鳴らしていた。
全員を見ていく。怪我を負ったものがふたりほど。歩けないほどではないので、持ち合わせの医療道具で応急処置をした。生命に別状なし。そういって、背中を叩いてやる。そうやって和ませていった。
敵は全員、動けない程度の怪我で、長く置いても死なないだろう。それぞれの着ているものや、その辺にあるもので縛り上げ、口に何かしらを噛ませて、近くの牢に放り込んだ。
中にいたのは、使用人付きの貴族だった。抵抗するようなら殺してもいいとだけ、伝えた。
「軍総帥部。ボドリエール夫人に軍事的な利用価値を見出している。実権掌握後、ユィズランド連邦に加入する腹積もりのようです」
「大した夢物語だ。それも末端までに、それを伝えるとは」
つまりは、軍総帥部全体ではなく、どこぞの一派が勝手にやっていることなのだろう。上官、部下ではなく、同志であれば、末端まで思想が行き渡る。
「それと、あまり言いたくはないが」
ちらと、リュリがペルグランを見た。
「ペルグラン中尉のご親族も、関わっている」
思わず、口の中が苦くなった。
敵勢力の関係者が近くにいる。内部不和の要因になりかねない。
「へえ。確かに、あいつらのやりそうなことです」
ペルグランだった。あからさまに、大きな声である。
「俺はもう、ニコラ・ペルグランではなく、ルイソン・ペルグランですから」
余裕綽々といった笑みだった。
言葉に、どよめきと、快哉が上がった。あの、ウルソレイ・ソコシュの、という声が、多く上がった。
「何だかちょっと、恥ずかしいですね」
「いや。実際、立派なもんだ。愛するひとを、包丁からも、世間の目からも守り抜いた、若き英雄。それも“ニコラ”の名を捨てたお人だもの。これ以上に信頼できる材料はない」
「帰ったら、“ドゥ”も捨てるって、母とかみさんとで、決めてきました。捜査官と、居酒屋の亭主の兼業です。さっさと帰って、皆で打ち上げやりましょう」
茶目っ気たっぷりに、ペルグランがそう言った。それにも、部下たちは声を上げていた。
上手なものだ。苦労話で場を盛り上げるなんぞ、なかなかできやしないことである。
「私は、ペルグラン君の成長を見てきました。純朴で生意気なのは相変わらずですが、人間として分厚くなりました」
「やはり、隣に大人物がいたのも、大きいのですかな」
「あれの母も、強かった」
そうこぼしたリュリの顔は、寂しげだった。
「世継ぎではなく、男を育てることだけに力を注いだ。そういう母から、産まれた男です」
言われた言葉に、胸を締め付けられた。
性別的なものではなく、概念としての、男。それになるということは、とても大変なことだ。デュシュマン自身、自分が男かどうか問われても、答えられないだろう。
女は強い。どのような境遇であれ、信念を、産まれてくる子に託していける。男は、子を育んでくれる女無しに、それは実現できないのだから。
都度、点呼を取りながら、進んでいく。その間も、死体や、殺し合いをしている何かしらと遭遇した。隔壁で道も替わっている。発狂した囚人の声も、そこかしらから聞こえる。あるいは実際に、そういったものが襲いかかってくる。
精神を、削られてくる。頭蓋の輪郭がわかるほどに、疲労が頭を圧迫してくる。いつかたどり着く出口がどこまで先か、そればかりを考えてしまう。
「ボドリエール夫人」
ぼそりと、誰かが呟いた。
「ボドリエール夫人だよ。解き放たれたんだ」
エマリー伍長。震えて、目の焦点が合っていない。
デュシュマンは、隊列を止めてから、エマリーのところへ行った。ぶつぶつと、何かを呟いている。
煽動か、あるいは、壊れたか。どっちだ。
「エマリー伍長。もっと大きな声で言ってみろ」
「ボドリエール夫人が、生きている。ここで殺しを楽しんでいるんです。そうでしょう?こんな大掛かりなこと、あいつぐらいにしか、できやしない」
「もっと大きな声でだ」
「シェラドゥルーガだよ」
絶叫。
粟立った。それは皆、同じようだった。
「シェラドゥルーガは生きているんだ。殺して、喰われちまうんだ。俺たちは、生贄なんだ。そうでしょう?でなきゃ、あのダンクルベールのお殿さま、こんなところに足繁く通ったりしないんだ」
「エマリー。いいか、よく考えろ。二十年だ。ガンズビュールから二十年経っている。生きていたとして、婆さんだろう。婆さんにそんなこと、できるわけがないだろう」
同じぐらいの声量で、怒鳴りつけた。それでもエマリーは、頭を抱えて震えていた。
壊れたか。
腹を、ぶん殴った。その後、最後尾まで引っ張っていった。
「ルデュク一等。面倒を見てやってくれ」
エマリーの体を、放り投げた。
「いけるか?」
「はいっ」
怯えて、震えてはいるが、眼は正気だった。
「他のもだ。二十年前の殺人鬼に怯えるような小心者がいるのであれば、俺が指導してやる。申し出ろ」
声を張り上げた。
ひとりひとり、顔を見ていく。危なそうなやつがいたら、頬を引っ叩いた。
リュリ。震えていた。
「しっかりなさい」
軽くだけ、頬を叩いた。
「たとえ今、貴女が正体を明かしたとして、部下たちの心に染み付いたものは、抑えきれはしないだろう。貴女自身が、気丈であらねば」
「ご厚意、感謝します」
息は荒かったが、持ち直したようだった。
「お化け屋敷の一番の目玉が、私自身だったとはね」
苦虫を噛み潰したような顔。
自分の存在が、味方の一番の恐怖になっている。認めたくないことに決まっている。
「貴女は、ガンズビュールを引き起こした。以来、二十年、脱獄もせず、ここにいた。それができたはずなのに」
口にした言葉に、リュリがはっとした顔を見せた。
「罪の意識がある。手にかけた人々ではなく、おそらくは、あのダンクルベール長官に」
目を、逸らされた。
「貴方に、隠し事はできないみたいね」
「詳しくは聞きますまい。罪の意識よりも、傷口かもしれませんから。そしてその傷口に塩を塗り、指を突っ込むようなことは、無論のこと」
「そう、傷。二十年経とうが、瘡蓋すらできない、大きな傷」
「あるいは、名前自体が、かね」
リュリの顔が、一気に曇った。これは、あえて言ったものだった。
名も無きもの。パトリシア・ドゥ・ボドリエールも、あるいはシェラドゥルーガも、仮初めの名。必要だから、あるいは押し付けられて名乗った名。
「ならば、貴官はリュリ中尉でいるべきだ。それができないならば、正体を明かし、この場にいる全員を殺してでも、ここから出たほうがいい」
「それは、もっと選びたくない」
「貴女は、あえて人であることを選んでいる。それが、その理由か」
言葉に、美貌は天を仰いだ。そうして大きく、息を吐いた。
こちらに向き直った顔は、清々しかった。
「降参しますわ。デュシュマン主任副長殿」
綺麗な声だった。
人より強い力を持ちながら、人であることを選んでいる。人を支配することもできるだろう。それを選ばない。
人であることに、価値がある。人に、価値を見出している。つまりは、人に対する愛がある。
それを損なうようなことは、したくない。
「刑務官ではなく、捜査官も向いていると思いますわね」
「俺のこれは、目の前にいる人にしか、使えん。顔も見えない人物を予測するのには、向いていない」
「捜査官もまた、信頼を必要とする仕事。人となりに理解を示し、それを否定せず、受け入れるということは、相互の信頼を構築するうえで、何よりも有効なことだから」
「俺を、信頼してくれると?」
「何を今更」
リュリは明るい顔のまま、鼻を鳴らした。
「私の三つの顔、すべてを理解し、その上で隣りにいてくれる。今、あなたがいなくなったら、私は崩れ去ってしまう」
そっと、手を差し出された。
「任せてくれ。娘が、そろそろ嫁ぐからね。バージンロードの練習もはじめんといかん」
それを、迎え入れた。その手は冷たく、震えていた。
時間制限あり。それだけ、頭に置いた。
後ろで喧騒。剣戟。オーベリソンの大喝。
「撃滅できました。刑務官の格好ですが、化けてます」
ペルグラン。刑務官の格好、という言葉。
「各員、ふたり一組。隣の顔を、よく覚えておけ」
吠え声は、オーベリソンのものだった。
「マンディアルグ伯領。俺はそこで戦ってきた。何度もやられた手だ。生きて家に帰りたいんなら、泣いてでも這ってでも、正気を保て」
その言葉に、闘志が漲ってきた。
あの、動乱の地。あるいはそこにいた、ひとりの少女。
どん、と。胸を叩く、大きな音。
「最果ての地。氷河の原を切り拓いた、双角王と、聖アンリの名に誓い」
腹の底から、迸る声。
「我ら、鋼の血族。カスパル・オーベリソン。この北の魔物が、貴官等をお守りいたす」
デュシュマンの中で震えていたものが、滾りに置き換わった。
北の勇者。やはり、見た目に違わぬ“北魔”の血。
そして、向こう傷の聖女。聖アンリの名。
「勇者、オーベリソンに続け。皆、腹から声を出せいっ」
裂帛の気合。おう、と、声が上がった。
ひとつ、持ち直した。聖女の加護と、勇者の名乗りのおかげだ。
「頼りがいのある連中ばかりだ。ありがたいことです」
「軍曹が敵になったら、真っ先に逃げちゃうね。あんな拳骨くらって、死にたくないもん」
スーリが笑っていた。この男も、この状況で笑えるだけの肝がある。
「“鼠”か。いやなことが、沢山あっただろう」
「そうだね。いやなことばっかり。特に、ひとごろし。生きるためには、人を殺さなきゃならなかった。本当、おすすめしないよ」
笑いながらも、その目は真っ黒だった。
「だからこそ、生き延びる。目の前のこいつ殺してでも、生き延びてやる。それひとっつで、しのいできた。だから勿論、今日も生き延びるよ。ひとりでも多く、引っ張ってね」
口笛を吹きながら。
暗がりを導く、一匹の鼠。生きるために生きてきた、そういう男。
「長官から聞いたことがあるよ。何だっけ?少なくとも八回逮捕されて、五回は処刑されてるんだよね。うち一度は本人として。しかもあの、ムッシュ・ラポワントだってさ」
リュリの言葉に、思わず吹き出してしまった。死んでも生きている人間が、まさか、ここにもいたとは。
死んでるはずの人でなしに、死んでも死なない“鼠”。死に損なうには、絶好の先達である。
そろそろ出口だろう、といったところで、道が複雑になりはじめた。スーリが都度、道を確認してから戻って来るが、そのたびに青い顔になっている。
「ああ、くそっ。皆、覚悟してくれ」
水筒に口を付けてから、スーリが腹から声を出した。
「ガンズビュールだ」
その一言で、十分だった。誰も彼もが、震え上がった。
ガンズビュール。
この状況で、それが持つ意味は、もはや言うまでもないものだ。
全員を止め、自分だけ先に進んだ。ひどい匂い。血と、はらわたの。
オイル灯はすべて、付いている。だから尚更、それが見えた。
「なるほど、ガンズビュールだ」
話には聞いていたが、これほどひどいものだとは思わなかった。
あらゆる牢の前。あるいは壁に。
人だったものがぶら下がっている。手や足を切断され、はらわたを引きずり出されたものが。なかには、それだけをされて、まだ生きているものすら。
まさしく、ガンズビュール連続殺人事件の、再来。
そして、聞こえる悲鳴。名前。シェラドゥルーガ。あるいは、ボドリエール。
まだ、いる。
何かの音がする。それが自分の奥歯が鳴る音だと気付くのには、いくらか時間を要した。
戻る。全員が、震えていた。あるいはリュリすらも。
「全員、抜刀」
震える声で叫んだ。従うものは、僅かだった。
できないものを順に、頬を張っていった。それでもできないものは、近くの牢にまとめることにした。
「主任副長殿。自分は、こわいです。こわくて、もう」
ルデュクだった。可哀想なぐらいに震えて、泣いていた。それでも馬上刀は、抜いていた。
「ああ。こわいよな。こわいと思えることは、いいことだ。それがわからなくなったら、心が死んだときだ」
「はい、はい。すみません。指導、お願いします」
「よく言った。指導」
吹っ飛ばない程度で、頬を叩いた。
立派だった。一番の臆病者。それでも、ここまで付いてきている。
リュリは、真っ青になっていた。目の焦点も、合っていない。
「私の」
震える声。
「私の、せいで。皆が」
「あんたはリュリ中尉だ。しっかりなさい」
「違う。私は、リュリじゃない。ただのひとごろし。私は、ただの」
「じゃあ誰なんだっ」
胸ぐらを、掴み上げていた。
「貴官、名乗れっ。名乗れぬなら敵と見做し、斬って捨てるぞ。今の今まで、騙していたとでも言うつもりか」
声を張り上げた。張り上げるしか、やることがなかった。
立ち直らせなければならない。リュリとして、ボドリエール夫人として。そして、シェラドゥルーガとして。
この人は、人を守れないことを、極端に恐れている。心に傷を負うことを。それが何よりも、つらいことだから。そのつらいことを、何度も経験しているから。
そして今、自分のやってきたことが、他者を傷付け、またそれが、自身をも傷付けている。因果を、突きつけられている。
つまりこれは、ただの罪人だ。己の罪を清算するためにここにいる、模範的な服役囚だ。それに懺悔する場を与えるならともかく、責め苦や、過去の罪を突きつけることは、更正にはならない。
叱り、諭し、促す。もう一度、陽の光の中で生きられるように。それが、刑務官たるデュシュマンの職責だった。
「本官は、リュリです」
涙を流しながら、震える声でも。
「国家憲兵警察隊本部、捜査一課所属、中尉。パトリシア・リュリです」
美貌のリュリは、答えてくれた。
「よく言った。上官からの誰何に対し遅れた旨、指導っ」
頬を叩いた。それで、へたり込んでしまった。
デュシュマンは、それを背負った。
「目を、瞑ってなさい」
それだけ言って、進みはじめた。
入りはじめる。ガンズビュールの、惨劇の場所。
誰も彼もが、悲鳴を上げた。その度、背中のリュリの体が跳ね上がった。歯が擦れる音が、耳に入るほどに。
偽物のボドリエール夫人が、どこかにいる。それが本物を、苦しめている。罪人であることを、悍ましい過去を突きつけて、苛んでいる。
随分と大掛かりなことをする。そこまでやってまで、手に入れたいものなのか。己の罪や存在に苛まれ、涙を流す女ひとりを。
女ひとり、真正面から口説けぬとは。男のやることではない。人のやることですら。
スーリの足が、止まった。あわせて止まる。
突き当り。隔壁。正面に、人。背の高い女。
「何者か」
誰何。答えはない。
それがすっと、横に動いた。通路がある。誘われるように。そして、悲鳴。
進む。牢獄の、ほぼ一番最初の部分。黒いカーテンは、全て開いている。中にいるのは全員、生きていた。
生きているだけだった。
「シェラドゥルーガ」
「ボドリエール夫人だ。助けてくれぇ」
全員、気が狂ったように、そればかりを繰り返していた。
「お化け屋敷も、最佳境ってことだな」
憤然としたもので、恐怖を塗りつぶしていった。
また、隔壁。道が変わった。
正面に、牢獄。収監されていたのは、身なりの良い女。
そして、殺されていた。長い、槍のようなもので。壁に突き立てられて。
あの女もいた。黒と、紫のドレス。まとめて結い上げた、黒い髪。遠目で見てもわかる美貌。
それもどこかで、見たことのある。
「生きている」
読み上げてしまった。
その女が突き立てられた壁に、血で書かれていた。
「シェラドゥルーガは、生きている」
艷やかな、女の声。
後ろで、何かが起こった。
「ペロワ中尉殿」
誰かが、叫んだ。そしてまた、誰かの叫び声。
振り向いた。
「やめろっ」
死が、湧き上がってきた。
はじまった。はじまってしまった。恐怖から逃れるための、あるいは恐怖に耐えられなくなったものたちの、狂乱と死の舞踏。自分自身に、あるいは隣のものに、刃を突き立て、銃を鳴らす。
止まらない。一度はじまってしまっては、すべてが滅ぶまでは。
オーベリソンが、その巨体で割り込んでいった。盾で薙ぎ払い、拳を打ちつけ、叫びながら。ペルグランも、それに続いた。暴力という規則で、それを押さえつけようと、必死になっていた。
「リュリ中尉。動くなよっ」
駆け出した。紫の女。刃物を持っている。振りかぶった。それに、体ごとぶつかった。よろめいたのをみとめてから、牢の中に入り込む。
牢の隅。そこに、リュリの体を下ろした。
「そのまま怯えていなさい。それが一番、安全だ」
頭を抱えてうずくまるリュリを確認してから、抜刀。振り向く。
女の姿は無い。よし。
「おいらに任せて。主任副長殿は、あれを鎮めてくれ」
「頼んだぞ」
スーリの声。姿は見なかった。とにかく、狂乱へ。
アフレの顔。ぶん殴った。ドロレ、シムノン。馬上刀の柄頭で、ぶっ叩く。オヴォラ、違う。知らない顔。首を刺した。次に見えたのも、知らない。斬りかかってきたのを、何度か弾いて、袈裟に切り捨てた。
増えている。
「声が聞こえているもの、下がれっ。牢の中だ」
振り向いた。紫の女。笑み。
「ものまね女がよっ」
動いていたのは、足だった。腹にぶっ刺さった。
隣に、ペルグランとオーベリソン。自分も含め、それぞれ傷だらけだが、すべて浅傷だ。
「スーリ君」
叫び。リュリだ。
見えた。ケクラン。リュリの前に立ちはだかった、スーリの腹を、刺していた。
「馬鹿野朗っ」
ケクランのこめかみを、柄頭でぶん殴った。
スーリが、倒れる。折れた馬上刀で、無理やり刺されたようだった。
急所ではない。ただ、血が。
「スーリ君、スーリ君」
リュリが泣きながら、着ているものなどで、傷を抑えていく。ペルグランがそれに続いて、シャツの袖で、即席の包帯を作って、体に巻き付けた。
「だいじょうぶ、だよぉ。げんき、いっぱい」
スーリ。か細い声だった。
「かあちゃん、たすけるんだから」
その手を、伸ばしていた。リュリの、胸に。
飛びついた。脈、呼吸。ある。十分以上に。生きてる。
生きるために、意識を捨てたんだ。そういうことが、無意識にできる。
生き延びるために生きてきた、一匹の“鼠”。
「主任副長殿」
振り返った。
巨躯がそれを遮ってはいるが、怯えた目が、いくつも突き刺さってくる。
敵意。
「どうして、どうしてそんなやつ。信用するんですか」
怯えた声。震えた身体。身を守るために、すべてを敵と見做している。
「馬鹿者。今まで守ってくれたのは、誰だと思っている」
「そいつのせいだ。そいつらのせいだ。そいつらのせいで、俺たちは」
ペルグランが、短弓に手をかけた。それを、手で制した。
攻撃すると、余計に悪くなる。
「なら」
オーベリソンの巨躯を押しのけて、前に出た。
「俺から、やれ」
牢を出た。刑務官たちの前に、立ちはだかった。
怯えた目。知っている顔と、知らない顔。
そして、一番奥に、偽物のボドリエール夫人。
敵意を、自分に集中させた。これでいい。これで死んで、皆、目が醒めるはず。
後は頼んだ。そう、呟いたつもりだった。
聞こえた。笑い声。女の。
「リュリ中尉?」
リュリが、笑っていた。突然だった。
まさか、壊れたか。極限状態に置かれて、精神が。
「リュリ中尉殿っ」
オーベリソンが呼びかけた。それでも、止まらない。スーリを抱きかかえたまま、笑ってばかりで。
「リュリ中尉。しっかりなさい、リュリ中尉」
「違う」
はっきりと。
「違う。正しくない」
同じようでいて、別人の声。
「それこそは、パトリシア・ドゥ・ボドリエール」
艶やかな声。
総毛立った。その、名前だけで。
「それこそは、人でなし。それこそは、ガンズビュールの人喰らい。あるいは、狼たちの女主人であり、朱き瞳の恐ろしきもの。そして」
澱んだ何かを纏ったものが、立ち上がった。同じくして、へたり込んでしまった。
「お前たち以外の、すべて」
どうと、何かが吹きすさんだ。誰も彼も、それで動けなくなった。
眼前にいるのは、何か、別のものだ。
「神たる父よ。御使たるミュザよ。己の作ったものを呪うときが、また来たぞ。我が名を騙り、あるいはそれを恐れるものどもよ。その蒙を啓かれるときが、また来たぞ」
まるで、嘲笑うように。いや、微笑いながら。
朱と黒の、優美で妖艶な装束。虚空を舞う、鬣のように燃え広がる、朱い髪。
闊歩する、何か、違うもの。ペルグランも、オーベリソンすらも、腰を抜かしていた。
「火が灯されるより、遥か前からここにあり。記憶の闇から蘇る。実在しない過去が、観測し得ない存在が。すべての事実と真実に対する反証として、ここにある」
残像を残す、朱き瞳。スーリを抱えながら、くるくると回っている。
舞うは火の粉。焔のような、朱。
「ああ。そう、そうとも」
手を広げる。麗しく、それでも恐ろしい、魔性の笑み。
あるいは、まさか。これこそが。
「シェラドゥルーガは、生きている」
本当の、人でなし。
あの紫のボドリエール夫人とは、姿かたちは似こそはすれ、まったく別の存在。存在感も、感じるものも、まったく別。
これこそが、シェラドゥルーガ。人知を超えた存在。
跪いていた。
震える。汗が、止まらない。言葉が、動きが、出てこない。感じていた恐怖が、より大きな恐怖で、塗りつぶされていく。
「自己紹介は以上だ。時間もないから、とっとと行くぞ」
傲然と。
指の音。何人かが、立ち上がったようだ。
「我が親愛なる同胞に紛れし不届き者よ。私を騙る愚か者よ。しかし罪あるものを裁くのは、私ではない」
気配だけ。立ち上がったものが、そのまま、宙に。
おそらく、そういうことが起きている。ただ、目線を動かすこともできない。
眼の前にいるものに、魅入られている。囚われている。
「裁くのは、人。人たる己で、己を裁け」
ぱちん、と。
何かが落ちる音。そして、何かに引っかかる音。うめき声。そして、ぎい、と。何かが軋んで、揺れる音。
体が動かなくてよかったと、今ほどに思うことはなかった。
「さて、そこなご婦人」
その言葉に導かれるように、声の方に目が行った。
ボドリエール夫人。怯えている。立ったまま、呆然としている。それは、その眼前に立った。
「お名前を、頂戴しても?」
「私は、パトリシア・ドゥ、ボドリ。いや、私は」
「嘘をついて、ごめんなさいも言えないとはね」
侮蔑の色。
何かを、手渡していた。年代物のパーカッション・リボルバー。
「自裁しろ。六発全部、使い切れ」
指の音。
銃声と、悲鳴。そして懇願の叫び。それが六回だったと思う。とにかくボドリエール夫人だったものは、その美しい顔以外はずたぼろになり、それでも立ったまま果てていた。
あれはシェラドゥルーガだ。本物の、化け物だ。遊ぶようにして人が殺せる、いにしえから伝わる悪魔だ。
それが今、人に対して、牙を向いた。
「デュシュマン主任副長殿」
甘い声。
立ち上がっていた。意識せずとも。
「改めて、私こそが、朱き瞳のシェラドゥルーガ」
目の前。絶世の美貌。しかし、悪魔の笑み。
奥歯が、鳴っていた。
手を、取られた。白く、細い指。
「それでも貴方に、託します」
温かい、感覚。手の甲への。
それで、心が安らいだ。恐怖が、嘘のように消えていく。
「俺で、よろしいのですか?」
「貴方と、貴方が信頼する人々。それ以上に信頼に足るものはありません」
表情。美しい。そして、心よりの懇願の顔。
「どうか家路を、共に」
その言葉に、手を取り返し、跪いた。
「承りました。我が身に替えても、報いましょう」
返した。手の甲への、ベーゼ。
「ありがとう。共に、信頼を」
にこやかな顔だった。
「オーベリソン殿。そして、ルイソン・ペルグラン」
堂々とした声。
近寄ってきた。巨躯と、若武者。
「帰ろう。もう死ぬのは、よそう」
言われた言葉に、頷いた。
点呼をした。半分は、動かなくなったか、動けなくなっていた。動けないものは、空いている牢獄にまとめた。
「ルデュク一等」
傷だらけだった。血の泡を、吹いていた。それでも、生きている。
「必ず、戻るからな」
目だけで、頷いてくれた。
暗闇の恐怖。誰かがそこにいるかもしれないという、病的なまでの恐ろしさ。そこで、殺し合わせる。恐怖をつついて、動かさせる。そうして滅ぼさせる。
「愚か者ども」
隣りにいたシェラドゥルーガ。憤然と、呟いていた。
「従わせたくば、我が前に見えよ。そして請え。額を地に擦り付け、泣きながら請うがいい。されば聞こう。耳を傾けよう。それが、礼儀というものだろう」
唇が、戦慄いていた。
「下げる頭が無いというのであれば、首を落とすまでだ」
悲憤だった。
一息、作った。
「お気持ちは、重々」
「ごめんなさい。抑えきれなかった」
「抑えきれなくても、当然です。俺たちは、巻き込まれた側です。まして貴女には、スーリ殿に守ってもらったという、自責があろう」
「本当に、えらいこです」
「報いるべき時に、報いましょう。信頼にも、怒りにも」
スーリを見た。シェラドゥルーガに抱きかかえられた、小さい男。子どものように、すやすやと眠っている。
その片手は、乳房の上に、乗せられていた。
「私は、かつて」
ぽつりと。
「守るべきものを、守れませんでした」
「シェラドゥルーガさま?」
「恥ずべきものです。守ってくれた。愛してくれた。それをすべて、無下にしてしまった。だからこそ、今回だけでも、守り抜きたい」
悲しい顔をしていた。
これの過去のことなど、何ひとつ知らない。それでも、そういうのならば、それは心の傷になっているのだろう。
守るべきものを、守れなかった。誰にとっても、それは大きい傷になるはずだ。
ならば自分は、その傷を癒やし、立ち上がることを促すだけだ。
大きな扉。光が、差した。日光。
外だ。
「パトリシア・ドゥ・ボドリエール。降伏しろ。抵抗するなら、銃殺するぞっ」
銃列、二枚か。正面に、並んでいた。
すべて、刑務官の制服である。
「貴官ら、何処の所属かっ」
「主任副長、何をされている。囚人の脱走に加担なさるか」
「第三監獄の刑務官は、全員、ここにいるか、死んだかしている。何者ぞっ」
体が、動いていた。シェラドゥルーガの前に。
「主任副長殿。およしなさい」
「我が身に替えても、報いる。そう、申し上げた」
他の刑務官も、同じようにして、前に出てくれた。
「お前たち。死のう。ここで死のう。守るべきものを守って死ねるなら。まして命の恩人だ。格好ひとつ、つけれるぞ」
「およし。また私を。守るべきものを」
「お気になさんな」
体は、震えていた。それでもなんとか、その目を合わせることができた。
「お互い様、というやつですよ」
それで、その瞳に、決意を宿してくれた。
不意に、銃列が乱れた。何人かの首に、矢が刺さっている。
ペルグランだった。動き回りながら、短弓で矢を放っている。
咆哮。そこに気を取られている後ろから、オーベリソンの巨躯が襲いかかった。まさしく“北魔”の威迫。担いでいた長柄の斧で、人の体を吹き飛ばしていく。
「征くぞっ、エーミール」
ペルグラン。それは、手にした剣の名だろうか。
入っていく。見事な剣捌きで、銃をはたき落とし、喉を裂き、腕を斬り落としていった。
どこかから、影のようなものが湧いてきて、それも偽衛兵どもを、ひきずり倒していった。
少しもしないうちに、一発の銃声もなく、鎮圧できた。
「時間がかかってしまったよ。すまない、ペルグラン中尉」
公安局の、特殊工作員のようだった。
「“鼠”は、生きていますか?ボドリエール夫人」
「大丈夫。ただ、余裕はない」
「今、正門の安全を確認します。正面に、各管轄の部隊も到着したところです。もう少しの辛抱だ」
「安全が確認できたら、俺が前に出よう」
オーベリソンだった。あの暗闇の中、ずっと泰然としていた。最後まで身を張れるとは、素晴らしい勇者だ。
当たりを見た。刑務官たち。ひとまず整列させ、点呼。
「点呼、終わり」
言葉に出た途端、力が抜けた。がくりと、崩折れてしまった。
「副長。主任副長殿」
何人かが、駆け寄ってきた。抱きとめてくれた。
「ああ、お前たち」
部下たちだった。全員、ちゃんと見たことのある顔だった。
「すまんなあ。大変な目に、あわせてしまった」
「何を仰る。主任副長殿が導いてくださいました。こちらこそ、申し訳ありませんでした。疑ってしまった。我々は、主任副長殿とシェラドゥルーガさまを、疑ってしまいました」
言葉が、嬉しかった。
「我々は、生きています。数は減りましたが、帰れます」
帰れる。
ああ。よかった。部下を、守ることができた。信頼できる人々を、守ることができた。それだけでいい。あとは、ルデュクたちを助けて、それで、終わり。
随分と死なせた。その分だけは、責任を取らねば。そうしよう。娘も、もうじき嫁ぐ。あれとふたりなら、適当な仕事でも、食っていける。細々とでも、暮らしていける。
何より、家に帰れる。ただいまと、言える。
「十分だけ、仮眠を取る。すまんが、起こしてくれ」
それを最後まで言えたかどうか、わからなかった。
6.
正門が、開きはじめた。
「銃列、二列。すぐにだ」
ゴフ。“錠前屋”が、騎兵銃を並べた。緊張が走る。
「最果ての地。氷河の原を切り拓いた、双角王の名に誓い」
大喝が響いた。アルケンヤールの、戦士の名乗り。
「我ら、国家憲兵警察隊。カスパル・オーベリソン」
見えたのは、巨体。オーベリソンだった。
「第三監獄勤務の刑務隊隊員一同を伴い、只今、参上仕った。“錠前屋”隊長、ゴフ大尉に、お目通りかかりたい」
縦列の中から、ゴフが走り出ていった。握手ひとつ、抱き合っていた。こちらを向いて、手を振った。
中から、十数名が出てきた。刑務官と、ペルグランたち。シェラドゥルーガが、スーリを抱きかかえていた。怪我をしているようだった。
「生きている。どうかこのこを、助けておくれ」
血が出過ぎたのだろうか、意識が薄い。
アンリが詰め寄って、応急処置をてきぱきと行った。力強い言葉を掛けながら、傷の消毒、縫合。軟膏を塗り、包帯を巻いたら、ドゥストに託す。衛生救護班の、生命のリレーである。
その間もずっと、シェラドゥルーガはスーリの側にいた。
「かあちゃん」
かすかに聞こえた。小さな声。
「かあちゃん、おいら」
その声に、シェラドゥルーガの体が、わなわなと震えはじめた。
「スーリ。朱い肌のスーリ」
ドゥストから奪うようにして、スーリの体を抱きかかえた。そうして、泣きながら。大粒の涙を流しながら。
「スーリ。おかあちゃんだよ。おかあちゃん、ここにいるからね。朱い肌のスーリ。お前のおかげで、おかあちゃんたち、助かったんだから。お前、本当に偉かったよ。ありがとうね。おかあちゃん、待ってるからね」
おかあちゃんと。その声が、枯れるまで。
しばらく、そうしていた。
「あのこは、私を守ってくれた」
飲み物を用意してもらい、シェラドゥルーガと並んで腰掛けた。まだ、涙は残っていた。
「守らせてしまった。身を挺することを、強いてしまった」
「いいんだ。おかあちゃんだもの。子どもなら、そうするさ」
そう言って、肩を抱いてやった。
白でもなく、黒でもない、朱い肌の人たち。
思い返してみれば、スーリ以外で、その色を見た覚えは無かったはずだった。
そこからは、刑務局の鎮圧部隊の仕事だった。中に入っていき、生存者、負傷者を運び出していく。あるいは抵抗するものがまだいたのだろう、いくらか戦闘する声が聞こえたりした。工作員らしきものも、捕縛されていた。
しばらくして、何人かが、担架で運ばれてきた。刑務官。まだ生きている。そのうちのひとりの横に、ペルグランが駆け寄った。
ルデュク一等と、呼ばれていた。血だらけで、痙攣しており、血の泡を吹いていた。見た中で一番、状態が悪い。
「アンリエット」
それに駆け寄ろうとしたアンリに、つとめて、静かに。
「離れろ」
間に割り込んだ。胸元のものには、手をかけていた。
「そいつだ」
その言葉が伝わったか、どうか。
担架に乗せられた男が、動いた。何かを突き出す。こちらも同時。
音は、無かった。
ペルグラン。男の胸に、剣を立てていた。
動かなくなった男の顔に、手を乗せた。違和感があった。
ひっぺがす。その下から、まったく違う顔の男が出てきた。
「身元の確認だけ、やっておこう」
それだけ告げた。
アンリの隣には、オーべリソンがいてくれた。いくつか話をしたが、大丈夫そうだった。オーベリソンも疲労が見えていたが、精神的には余裕がありそうだった。
「ルイソン。帰ろう」
男は、ぼうっと立っていた。
「ルデュク一等は、俺を、信頼してくれてたんです」
「そうか。仇を取ったと、思えばいい」
「そうですね。それがきっと、いいんでしょうね」
声が、震えていた。
「親父」
子どもの顔で、ルイソン・ペルグランは、泣いていた。
「親父。ルデュク一等、死んじゃった。俺、エーミールとおんなじこと、しちゃったよ」
エーミール。その名前に、思わず、震えてしまった。
“颪”の若い男。ペルグランに憎悪と怨嗟に塗れることを覚えさせるために、あえて死なせた男。
俺は息子に、人を殺させていたのだ。自分と同じ轍を、踏ませてしまったのだ。
「言うな、ルイソン。死人に囚われるな。俺と同じになるんじゃない」
張り上げた。流しながらも、自分を叱るように。
「悔しいです、親父。俺、悔しいよ。せっかく、親父の息子になれたのに。信じてくれた人ひとり、生かせなかった」
「ならその分、生きなさい。前に進んで、ルデュクもエーミールも、一緒に連れていきなさい。俺の息子なら、できるはずだ。ルイソン、自分を責めるんじゃない」
抱きとめた。そうしてふたり、しばらく泣いていた。
デュシュマンという将校に、死んだ男を見せた。名前ひとつ出てきた。ここの最高責任者である、看守長だった。頭を抱えて、死んだはずだと、何度も呟いていた。
本当のルデュク一等は、バルゲリー男爵夫人の牢獄の前にあった。多くの骸の中のひとつ。心臓を突かれ、顔を削がれていた。
かつてのボドリエール夫人そっくりな、女の死体。見た途端、怒りと、吐き気がこみ上げてきた。
逃げた囚人は、いなかった。各自の牢獄の隅にいたもの。死体になったもの。その数が、合っていた。生き残ったものは、刑務局の方で、別の施設に移送することになった。
「お疲れ様でございました。我が子、そしてダンクルベールさまの子であるルイソン・ペルグランが、無事に帰ってきたことだけで、十分でございます」
“赤いインパチエンス亭”に、ペルグランを連れて帰った。あれの母である、ジョゼフィーヌが迎え入れてくれた。
「ルイソンは、心に傷を負いました。本官も勿論、面倒は見ますが、どうかジョゼフィーヌさまからも、優しくお声を掛けていただければと思います」
「それほどまでに、おつらい事件だったのですか?」
「暗闇の中の恐怖です。誰が敵か味方かもわからない場所に、自ら赴きました。立派な子です。だからこそ、その中で出会った、信頼してくれた人を守れなかったことを、悔やんでおります」
それだけ言うと、ジョゼフィーヌは、瞼を閉じた。
「屍を乗り越えること。それだけは、教えてあげられなかった」
「誰にもできますまい。教えることも、乗り越えることも。本官も未だ、できずにいます。不貞の末に身を消した妻の、浜に上がった姿。今でも、鮮明です」
言って、自分の瞼も、重くなった。
「お煙草。ご遠慮なく」
「申し訳ございません。失礼いたします」
「あのこも、男になりました。育ててくれたダンクルベールさまを、父と呼べるほどの男に。だからきっと、乗り越えられなくとも、折り合いは付けられるはずです」
「それだけを、願っております」
紙巻が短くなるまで、言葉は交わさなかった。
「改めまして、ダンクルベールさま。我が子、ルイソン・ペルグランをひとりの男として育てて下さり、あれの母として、御礼を申し上げます」
そのひとは席を立ち、一礼した。美しい所作だった。あわせて、こちらも立ち上がった。
「こちらこそ、御礼を申し上げます。男ひとり、育てさせていただきました。娘ばかりの家でしたから」
「それであれば、何よりでございます」
「それと、ジョゼフィーヌさまへ。言伝を」
胸元から、封筒ひとつ。それを、渡した。
「名を、継いで欲しいと。愛しき妹、ジョゼフィーヌ・ボドリエールに、その名を託すと」
シェラドゥルーガから、託されていたものだった。
一瞬だけ、呆けたような顔をした。それでもすぐに、毅然とした表情に戻った。
「お気持ちだけ受け取ったと、お伝え下さい」
ジョゼフィーヌはそう言って、封筒の中身も改めず、三つ、四つに千切ってしまった。
「屍は、乗り越えなければなりませんから」
言った後、その頬に、大きなひと粒が、つたっていった。
「お見事にございます」
みとめてから、改めて一礼した。
家名無き、黒髪のジョゼフィーヌ。旧時代の価値観と戦い続けた、ひとりの母。
強いひとだった。そして何より、悲しいひとだった。
そして、シェラドゥルーガ。
家に、連れて帰った。ぼうっとしていた。疲れたのか、あるいは別のものかは、わからなかった。
娘たちに作っていたようなものを作って、食べさせた。美味しいと言いながら、食べてくれた。
「守れなかった」
グリューワイン。啜りながら、ぽつりとこぼした。
「気に病むか?」
「うん」
「誰のせいでもないさ。お前のせいでも」
隣に、座った。肩を寄せてきた。
「目の前で、ああやって傷ついて、死んでいくのをみるのは、つらかった。恐怖に冒されて、行き場がなくなって、人も、自分も殺していくさまを見た。彼らは暗闇に、そしてシェラドゥルーガに怯えながら、死んでいった」
鼻声だった。涙はなかった。
シェラドゥルーガは、生きている。バルゲリー男爵夫人の牢獄に、血で綴られていた。あの暗闇の中に取り残されたものたちは、存在を秘匿されたシェラドゥルーガの影に、怯えていた。
そのためにシェラドゥルーガは、恐怖を恐怖で塗りつぶすということを、やったらしい。人を愛し、愛されたい。そんな人でなしが、最もやりたくなかったことを。
「ガンズビュールの時は大変だったけど、楽しかった。うきうきしていた。お前を手に入れたくって、そして皆、私を愛してくれていて。でも今回は、こわがられた。ただひたすら怯えられ、そして死を選ばれた」
「お前も、感情のある生き物だから、そうだろうな」
これは、人ではない。超然として、傲慢な生き物だった。人の心を見透かし、操り、支配した。
だからこそシェラドゥルーガは、ただ不必要に恐れられることが、つらかったのだろう。
その心の繊細さに気づいたのもまた、あの時だった。
“湖面の月”。夫人としての、最高傑作にして、遺作。そして自分にとっては、ひとつの傷。
それは、シェラドゥルーガにとっても、同じだった。不本意なかたちで、ダンクルベールに大きな傷をつけた。それを、気に病んでいた。
傷だらけのふたり。きっとお互い、依存していた。だからこそシェラドゥルーガは今でも、ダンクルベールを愛し、ダンクルベールもまた、シェラドゥルーガを信頼できていた。
「やめたいなあ、私。シェラドゥルーガを」
しばらくして、子どものような口調で、そう言った。
「それは、誰しもがきっと、一度は思うことだよ。俺も、オーブリー・ダンクルベールを、オーブリー・リュシアン・ダンクルベールをも、やめたいときがある」
「お前は、お前を産んだ親や、お前を大切にしてくれた人がいる。そして、そういう人から、もらった名前がある。それは、本当のお前だ。私のそれは、人から恐れられて付けられたもの。あるいは、人から奪ったり、偽ったりしたものだけ。だから、本当の私が、欲しいなあって、思うんだ」
「偽りのものでも、お前が付けた、お前の名前だ。今回のリュリというのも、いい名前だと思ったよ」
目を合わせる。綺麗な、澄んだ朱。いつもの、何かが潜んだそれではない。
「付けてくれないかな?」
「お前の、名前を?」
「リュリは、姓だから」
思わず、笑ってしまった。
「困らせるようなことを言うんじゃないよ。娘ふたり、散々、喧嘩して付けたんだ。お前にも、愚痴っただろう?」
「知っている。リリアーヌと、キトリー。リリィと、キティ。素敵な名前。何回か会ったよね。小ちゃいときと、ガンズビュールのときか」
そこまで言って、不意に、くすくすと笑いはじめた。
「お継母さんになってほしいって、言われたんだよね」
言われて、ちょっとだけ、頬が熱くなった。
ガンズビュール事件の際、マレンツィオ家が向こうに別荘を持っていたので、娘ふたりも、そこで面倒を見てもらうことにした。その際に、シェラドゥルーガとも顔をあわせたのだが、確かリリアーヌの方が、そう言い出したのだ。
リリアーヌは、昔から、おませなこだった。あれが家に置いていった、ボドリエール夫人の著作を勝手に読んで、感化されていった。
初孫の名前も、パトリシアからパトリック、そして自分からリュシアンを貰って、パトリック・リュシアンにしていた。最初は呼ぶのに戸惑ったが、なんとか自分を慣らしていったものだ。
疑いがなければ、素直にそれを、できたのかもしれない。例え、人にあらざる、人でなしだとしても。
「綺麗で、可愛い子どもたち。褐色の青鹿毛。目も鼻もばっちりしてて。もう、お母さんだもんね」
笑っていた。いつもの魔性ではない。ただひとりの女としての、シェラドゥルーガ。あるいはそれですらない、本当の、このひと。
名前、か。少しだけ、考えた。
「ファーティナ?」
とりあえず出してみた言葉に、それの目が、光った。
「おふくろの名だ」
笑ってみた。笑ってくれた。
「ファーティナ・リュリ。じゃあ、ティナにしようか」
「それで、いいか?」
「うん。我が愛しき人の、お母さん。我が愛しき人を産んでくれた、お母さんの名前なら、受け継ぎたい」
そう、笑いながら、体を預けてきた。
肩に手を回す。しばらくもしないうちに、寝息が聞こえてきた。綺麗な顔。そして、幸せそうな、寝顔だった。きっと、いい夢を見る。
おやすみ、ティナ。そして、いい夢を。
-----
ニコラ・ペルグランの血、断絶か。
国防軍将校らが刑務局管轄の刑務所(機密の関係上、場所名は非公開)に押し入り、刑務官や囚人を含む複数人を殺傷した事件について、国家憲兵隊司法警察局は、逮捕した容疑者らが、国防軍総帥部内の一部派閥の指示により犯行に及んだと自供していることを発表した。この派閥の中核と思われるフレデリク・ニコラ・ドゥ・ペルグラン国防軍大佐は、事情聴取に対し、事実であることを供述しているという。近く、犯罪教唆の容疑で逮捕、書類送検となる見込みだ。
これを受け、アズナヴール伯ペルグラン家の嫡男である、国家憲兵警察隊本部所属、ジャン=ジャック・ルイソン・ドゥ・ペルグラン氏(旧名:ジャン=ジャック・ニコラ・ドゥ・ペルグラン)は、甚だ遺憾である旨を表明。国家憲兵司法警察局局長セルヴァン少将、国家憲兵警察隊本部長官ダンクルベール大佐との連名で、軍総帥部、ならびに氏の実家であるアズナヴール伯ペルグラン家に対し、非難声明を発表していることがわかった。また氏は併せて、氏と氏の配偶者、並びに氏の実母であるジョゼフィーヌ・ドゥ・ペルグラン氏の三名で、アズナヴール伯ペルグラン家における相続権の一切を放棄する旨も発表しており、事実上、ペルグラン一族との絶縁をも明言している。氏は取材に対し「ひとりの国家憲兵として、国民と同朋を脅かす行為は断固として看過できない」とコメントしている。
ルイソン・ペルグラン氏は本件について、事態把握の先遣隊として派遣されており、現地にて生存者の救出や、容疑者たちと応戦するなどの活躍を見せており、国家憲兵総監より表彰されている。これを鑑みればフレデリク氏らの行為は、ルイソン・ペルグラン氏を侮辱するものであり、取材に応じた国民議会議長マレンツィオ氏も「ニコラの名は、恥知らずと同義に成り果てた」と憤慨した様子を見せた。
英傑の血が産んだ英傑、ルイソン・ペルグランに、“ニコラ”の名を捨てられたペルグラン家。このままであれば、名家三代続かずを体現することとなりそうだ。
-----
7.
ある程度のことが、整理できてきた。
第三監獄で行われた、ボドリエール夫人の争奪戦。大きくは、ふたつの勢力。軍総帥部と、宰相閣下。
やはり引き金は、バルゲリー男爵夫人の収監だった。第三監獄という、一種の聖域に保護された男爵夫人を危惧した軍総帥部の急進派が、急遽、動いたようだ。それを察知した、よからぬ企てを考えていた連中も、まとめて引きずり出されたかたちになる。
ガブリエリ率いる“妹”からもたらされた情報は、今回、一番の功績と言っていいだろう。宰相閣下や軍総帥部、他の貴族名族たちの思惑を、根こそぎ洗っていた。随時、公安局のエージェント経由なり、直接セルヴァンに届けるなりで、情報が上がってきた。
軍総帥部の方には、ペルグラン一族も加わっていた。個人の功績で名を挙げたペルグラン本人はともかくとして、政変による地位低下、廃嫡騒動などで、家系としては大打撃を受けている。そこの巻き返しを図ろうと思っていたのだろう。
そのため軍総帥部への干渉は、先遣隊にルイソン・ペルグランが含まれている事実を伝えるだけで、十分だったようだ。家の名を背負う若き英雄を手にかけるほどの大義名分は、持ち合わせていなかった模様である。
事態から二日経ち、だいぶ落ち着いてきたところで、ラフォルジュから招集がかかった。司法警察局としての今後について、打ち合わせをしたいとのことだった。
場所は司法警察局庁舎の会議室。参加者は、ラフォルジュ、セルヴァン、ダンクルベール、シェラドゥルーガ、ウトマン、ビアトリクス、ペルグラン、ガブリエリとなった。
ダンクルベールの家でシェラドゥルーガを保護していたが、アンリが世話をしに来てくれたらしい。ペルグランについても、相当な心的負担があったとのことだが、なんとか持ち直したようだ。ちょうど母親のジョゼフィーヌが、懐妊したインパチエンスの世話をしに来ていたのが大きいだろう。
「まずは、お疲れ様でした。くわえて皆には、迷惑をかけてしまった。特に、ボドリエール夫人には、大変な思いをさせてしまったね」
はじめにラフォルジュから、一言あった。
「こちらも皆さまには、大変にご迷惑をお掛けしました。まさか自分が標的になるとは、思いもしませんでしたもので」
シェラドゥルーガは、警察隊本部隊員の格好で訪れていた。瀟洒な所作での返答、謝意である。礼節は決して疎かにはしないからこそ、凶悪犯の人でなしでありながらも、ある程度の信頼を得られていた。
「今後についての認識合わせだ。新しい政争の波が来ている。これに国民と貴官らを、巻き込むわけにはいかない。可能な限り中立と静観を保つが、面倒事が増えることだけは、覚悟を頼みたい」
「委細承知しました。しかし、シェラドゥルーガまで使いたいとなると、どれほどの規模になるのか」
セルヴァンの言葉に、ラフォルジュは四角い顔を歪めた。
「結局は、王陛下と宰相閣下。このふたりだよ。ヴァーヌ聖教会め。面倒な一族を押し付けやがって」
王陛下の、極端な保身的、あるいは非協力的態度だけが、問題ではなかった。
王位継承権にも、懸念が上がっている。
腹違いの兄弟ふたり。兄王子殿下は血筋こそ良かれど、前時代的で、親政を望んでいる。弟王子は血筋で劣るが聡明で市井に理解があり、王妃陛下の一族も傑物揃いだ。
こちらについても王陛下から、跡継ぎについての正式声明は発表はなく、議会から市井まで、信用を損ねている要因でもあった。
“妹”によれば、宰相閣下は、王族の排除か無力化を考えている。そして自身を首長とした、共和政体の実現を目論んでいる。そのための錦の御旗として、現代文化の象徴たるボドリエール夫人を使うつもりのようだった。
「尚書さま。宰相さまにお会いすることがありましたら、不肖、パトリシア・ドゥ・ボドリエールより言伝ありと、どうか、お伝え下さい」
一礼した後のシェラドゥルーガ。その瞳と髪は、燃え爆ぜていた。憤怒の色である。
「不作法者に仕えるつもりはない。仕えさせたくば、我が前に見えよ。下げる頭がなければ、首を落とすまでだ、と」
シェラドゥルーガが憤然と告げた言葉に、ラフォルジュは満足そうに鼻を鳴らした。
「正式な声明として、伝えておこう。軍部の連中にもね」
笑顔だった。あるいは、そうこなくっちゃ、という顔だ。この人もきっと、はらわたが煮えくり返っているはずだ。
「国家憲兵隊という組織としても、人的資源の損失を大きく受けています。これについて、何かしらの抗議、あるいは非難は行うべきかと。彼らの死を、無駄にしたくはありません」
ペルグランだった。暗闇の中の暗闘で、信頼する人間を喪ったと聞いていた。
その眼は、燃えていた。
「立ち直ったな、ルイソン」
「ルデュク一等たちの仇です。できるだけ、戦いたい」
大切なものを喪ったもの同士の、親子の会話である。思わず、胸が熱くなった。
「ルイソン・ペルグランの言や良しだが、実際問題、どうするべきなんだかね。軍に宰相にと、面倒な連中ばかりだ。毎度こうだが、後手後手の策しか取れんし、肩書と悪知恵だけは、ご大層だからなあ」
「それについて、具申いたします」
頭を掻いたラフォルジュに対し、ガブリエリが挙手をした。
「本件。一般的な刑事事件として、立件しちまいましょう」
その言葉に、全員、口を開けてしまった。前提として、政治の話をしているはずである。
「刑務所に侵入し、囚人と刑務官を殺害した。立派な犯罪です。我が国は法治国家であり、我々は警察機構です。法という俎上に乗せるまでやって、あとは相手にお任せでいいんじゃないですか?」
「しかし根回しとかは、どうする?」
「いらない、いらない。むしろ無い方がいい。よもや、死んでるはずのボドリエール夫人欲しさに監獄を襲撃したなんて言えないでしょうから、大慌てになってくれるでしょう。捕まえた連中から順々に事情聴取して書類送検、んで次を逮捕。あとは検察と裁判所の仕事です。正々堂々と、真正面から訪いを入れてやりましょう」
とんとんと述べるガブリエリの言葉に、セルヴァンの頭の中が回転しはじめた。
手はじめに、軍総帥部。確保したものの中に、工作員がいた。それも、現地でシェラドゥルーガたちによる尋問が済んでいて、“妹”からの情報もあり、証拠も十分にある。検察に書類送検するまでは、今日明日にでもできる。
検察以降の動向によらず、送検の都度、マスメディアに発表していけば、それだけで向こうに対する攻撃になるし、世論も味方に付けられる。
信用の無い軍隊など、あるだけ有害だ。それほど信用とは、何より高価な貨幣なのである。
無論、向こうからの干渉はあるだろうが、消極的なものになるはずだ。最も恐れるべき“シェラドゥルーガは、生きている”は、マスメディアや民衆に限っての話である。そもそも国家機密である以上、然るべき人間でない限りは取れない手段であるし、やられたとしても、偽のボドリエール夫人の遺体が見つかっているから、反撃も可能だ。
何より、ペルグランの親族が関与しているのが強い。ペルグラン本人が本件の対応に当たっているのだから、大きい顔はできないはずだ。くわえて恐喝、暗殺などの強硬策は下策になる。袖の下があれば尚更良い。その場で確保、贈賄罪で送検。マスメディアに公表と、墓穴を掘らせることができる。
「確かに、いける。こちらから攻めていける」
結論だけ、口に出した。
「アルシェが適任だろう。それ専用にチームを組ませる。あれにも弟子を育てさせねばと思っていたしな」
「ちなみにですが、尚書閣下。俺の親族というのは、具体的に誰か、わかりますか?」
「フレデリク・ニコラ。軍総帥部参謀本部、企画参謀次長」
その答えに、ペルグランの口角が吊り上がった。
「父上の従兄さんね。脛に傷が多いわりに、肝が小さい。蹴飛ばせばすぐに泣く。そしたら、フレデリクおじさんを吐かせた後、俺の名前で、軍総帥部と実家に抗議声明を出しますよ。息子が体張ってんのに陰謀企てるなんざいい度胸だなって。ついでに、母上の念願だった絶縁も叩きつけてやる。俺が実家を捨てるだけで、司法警察局どころか内務省が本気だってこと、教えてやれますよ。いいね、わかりやすくって。それでいきましょうよ」
「ちょっと、ペルグラン君?やりすぎじゃあないかね?」
「いいんですよ、夫人。ニコラ・ペルグランの名を汚したのは自分たちだって、教えてあげるだけなんですから。泥舟に大漁旗掲げたまんまで沈んでもらいましょう。これで母子三人、“ニコラ”も“ドゥ”も無くなって、気楽に暮らせます。本当、ざまあみやがれってんだ」
そこまで言って、ペルグランはげらげらと笑いはじめた。悲しさも虚しさもない、気持ちのいい笑いっぷりだった。
「宰相閣下には、恩を売れるかたちになりますね。死んだことにしたとはいえ、ご愛妾さまを殺されていますから。味方につけて、大掃除を頼んじまいましょう。むしろ宰相閣下の本懐も遂げてやれば、国の未来を考えれば都合がいい。弱みひとつ、見逃してやるんですから、張り切って働きますよ」
こちらもたっぷりの悪い顔で、ガブリエリが笑っていた。“妹”の立ち上げあたりから、無精髭を蓄え、髪も後ろに流したので、無頼漢の色気が出てきている。
「お前たちは本当に、逞しくなったな」
ダンクルベールが、呆れたように笑った。
実家の面目と体面のおかげで、相当な苦労をした若者ふたりである。ここまでの鬱憤を晴らさせてやると思えば、やってみてもいいかもしれない。
「こいつは大賛成だ。どうせ巻き込まれたんだったら、主導権を握っちまったほうが楽しいってもんだ。そうと決まれば、とっとと事情聴取だ。公安局のミッテラン少将もけしかけとくよ」
煮えたはらわたがいい感じになったのだろう。ラフォルジュも上機嫌だった。
「念の為、聞くけど。あんた本当に大丈夫?頭に血が上りすぎてるんじゃない?」
あまりに極端なことを言っているのが心配になったのだろう、ビアトリクスが渋い顔で、ペルグランに問いかけていた。
「大丈夫ですよ。母上ばっかり頑張らせやがって、自分たちは何もしねえでやんの。俺とインパチエンスの件だって、近頃は、自分たちの手柄みたいに言ってやがるんですよ?手袋を投げて寄越したんだから、首を括られる覚悟ぐらいは決めてるはずです。ちゃんと晩節を汚してもらいましょう」
「貴様もまあ、大変だったな。ともあれ、これでお互い、憧れの一般市民の仲間入りだ。仲良くやろうぜ、馬鹿野朗」
「よろしく頼むよ、馬鹿野朗。そういえば、ブロスキ男爵閣下。貴様を養子にしようかとか言ってたぞ?警察隊本部に入れてもらったようなもんなんだから、恩返ししとけば?」
「いいねえ。私も、実家に石を投げたかったところだ。仰る通り、恩返しひとつ考えてたから、こちらから切り出してみるさ。天下御免とはいえ国民の声の代弁者だ。一般市民にゃ変わり無しだろ」
「大した親不孝者ぶりだ。見習いたいものだね」
出自のよくないウトマンとしては、もはや珍獣の類に見えてきたのだろう、腹を抱えて笑っていた。
「となれば、あとは私の処遇についてでしょうか?」
呆れ顔のまま、シェラドゥルーガが切り出した。
目下、一番の問題である。この歩き回る国家機密を、どこで管理するべきか。
「前提として、ボドリエール夫人を含めて、貴官らは、私と我々、そして国民の、貴重で大事な財産だ。第三監獄が機能しない今、どうしたもんだかと思っていたのだがね」
ちょいと頭を捻った後、そうだ、という風に、ラフォルジュが身を乗り出した。この人はとにかく、思いつくのが早い。
「警察隊本部の職員として、働くってのはどうだい?」
にこにこ笑顔での提案に、思わず固まった。周りも、同じような表情である。
「尚書さま、ご冗談ですよね?私は、人でなしですよ?」
「木を隠すなら、森の中だ。セルヴァン局長とダンクルベール本部長官。この両名の目が届くならば、他勢力も手は出せまい。今までがむしろ煩雑だったぐらいだ。刑務局も楽ができるし、行政、司法、公安の警察三機能の連携も取りやすくなる。人が食べたくなったら、刑務局に言えば調達するよ」
「しかし本官はもう、老人です。働けても、あと三年か、そこらか。それ以降の保証は、できかねます」
「なら、結婚すりゃあいんじゃないか?」
ぱっと言った言葉に、ダンクルベールは口を開けっ放しにし、シェラドゥルーガの顔は、真っ赤になった。ビアトリクスですら、口元を抑えている。
「ええと、尚書閣下。お言葉ですが、発想がちょっと、突飛ではないでしょうか?」
「突飛なものかね、ウトマン中佐。私のところまで、この二人の色恋沙汰が聞こえてくるんだ。かつての捜査官と殺人犯が、今や男と女の関係だってね。それこそお互い、いい歳ぶっこいた爺と婆だ。今更、籍は入れんでもよかろう。このあたりで双方、年貢を収めちまえよ」
そう言って、呵々大笑した。
「まあ、お互いの感情が最優先だがね。ともかく、警察隊本部預かり、あるいは司法警察局預かりで、目の届くところに置いておこうよ。特任でなく、正規軍人採用で問題ないだろう。我ながらいい考えだ。総監には私から言っておく。よっしゃ。セルヴァン局長、後はよろしく」
ラフォルジュはからからと笑いながら、帰ってしまった。
残された全員、呆然としていた。
「あのひと、あんなんだったっけか?」
思わず、声に出してしまっていた。
着任して五年程度か。もともと官僚として極めて優秀であり、特に内政と治安維持に熟達した、内向きの為政者である。なにより発想が極めて柔軟な、アイデアマンだ。思ったことを思ったままに、かつ的確なことを提案するという、ペルグランの上位互換のような人である。
ただここまで突飛と言うか、奇想天外なことまで言うとは思わなかった。あのひとのおかげで、各局は裁量通りの自由な活動ができていたし、今回の件も終着に持っていけたが、もしかしたらこれから、その発想に振り回されるかもしれない。用心するに如くは無いだろう。
さてと、ラフォルジュの提案を無下にするわけにもいかないし、言っていることは、現状では最適解である。ダンクルベールが側にいれば、さほどの悪さもしないだろう。あったとして、ちょっとした“悪戯”ぐらいだ。必要なのは、マスメディア対策ぐらいだろうが、ここは今後、公安局の協力も得られるだろうから、あまり心配しなくていい。
「警察隊本部庶務課資料室、室長。そのあたりでいいんじゃないか?それほどの規模も無いだろうし、下に貴様の“足”を置けば、監視にもなろう。閑職で、仕事も少ないから、著作活動もできる。邸宅は、どこかの一軒家を用意する。使用人として、これもまた“足”を置く。きっと公安局の連中も、何人か寄越してくるだろうから、このあたりで折半しようか」
「俺の“足”は百足じゃないんだぞ。まあ、それでよろしかろうが。とすると、中尉相当官あたりが妥当か?」
「夫人が本部施設にいるとなれば、我々としても心強いです。女性隊員にはボドリエール・ファンも多く、精神的支柱になりますでしょうね」
「ですが、夫人のままで置くわけには行きませんよ?名前ひとつ、こさえないと」
「名前はもう、決めてあるぞ」
シェラドゥルーガが、ふんすと鼻を鳴らした。その横で、ダンクルベールが眉間を抑えていた。
「ファーティナ・リュリ。ティナと呼んでくれたまえ」
ティナと名乗った朱いひとは、笑顔だった。
素敵な名前だ。素直に、そう思った。
(つづく)
Reference & Keyword
・Dark Souls / From Software
・バスティーユ襲撃
・三国志 / 北方謙三
・葵徳川三代
・Fear of the Dark / Iron Maiden
・Dance of Death / Iron Maiden