真相には続きがある:後編
4.
少し外して話がしたいと、ペルグランからの申し出があった。
自分の執務室に案内した。ペルグラン夫妻と、バティーニュである。
まず渡されたのは、封書。ひと通りに目を通し、驚嘆した。そしてすぐに現状を思い返し、戦慄した。
「ダンクルベール長官は、この事態を予測していたのか。国家憲兵警察隊の、神機妙算、褐色の巨才。音には聞いていたが、まさかこれほどの人だったとはな」
犯人の人物像の見立てから始まり、事態が発生した際の対処方針まで、詳細に記してあった。
そして何より、その、対処方針である。
逃げろ。要約すれば、それだけだった。
「ペルグラン少尉殿。私は警察隊のしくみが分からんが、休暇中の将校に、捜査、および逮捕の権限はあるのかね?」
「ありません。可能なのは、現行犯逮捕のみ」
「そうだろうと思った。となれば、あの名探偵が真相を突き止める前に、とっとと人数まとめて逃げ出すのが、一番の上策。仰る通りだ」
ジャックミノーの脳裏に、嫌な思い出が滲んだ。
「撤退戦、か」
「すみません。少し、話についていけないのですが、ポワソン氏が犯人を特定することに、何か問題があるのでしょうか?犯人特定、逮捕、それで済む話では、無いのですか?」
バティーニュが、困惑した顔をしていた。おそらく何故、この場に呼ばれたのかも、把握できていないのだろう。
「バティーニュ先生。どうか、落ち着いてお聞き下さい。推理小説とは違い、実際の犯罪捜査というのは、言ってしまえば、お役所仕事なのです。順序が何より尊ばれる。まずは現場の保全。周囲の人間の安全確保。あるいは、遠方から来られた方がいるとすれば、身元を確認したうえで、その帰路を保証する必要もあります。そういった諸々を済ませてから、捜査というものは、はじまるのです」
「続けて、警察隊というのは、前提として国家憲兵。つまりは軍隊だ。軍隊とは暴力装置。それを制御するためには、強固な規則、規律が必要となる。私が少尉殿に真っ先に確認したのが、それだ。休暇中の警察隊将校に、捜査、および逮捕の権限はない。権限がない行動に、法的根拠、および拘束力はない。つまり、ペルグラン少尉殿の手前、本当に申し上げにくいのだが、少尉殿の警察隊将校という肩書は、現在、有名無実、そのものになる」
そこまで言うと、バティーニュはぎょっとした顔になった。
「じゃあ、ペルグラン少尉殿は、ダントン夫人を殺した犯人を逮捕できないというわけですか?」
「申し訳ありませんが、そうなります。逮捕可能な条件はありますが、極めて危険です。つまりは正当防衛。俺の目の前で、誰かが危険な目に合わなければならない」
「しかし、緊急事態です。例外措置として」
「軍隊の規律に、例外はあってはならない。繰り返すが、軍隊とは暴力装置だ。例外ひとつ許せば、規律が形骸化する。形骸化し、有名無実となった規則に従う暴力装置を、誰が信頼できましょうか?」
そう言うと、バティーニュは黙り込んでしまった。医者とは裁量の仕事だが、例外が許されるわけではないだろう。
「先程のペルグラン少佐殿の話にあった、逮捕可能な条件。正当防衛だが、これも少尉殿の意見が正しい。少尉殿の目の前で、だれかが危険な目に遭う。これを少尉殿が逮捕しようとした場合、犯人がやることは何か、おわかりですね?」
「人質を、取る」
「その通り。だからこれも、使えない手札になる」
もうひとつの、犯人がペルグランを狙う場合。これも逮捕条件に入るのだが、犯人側の立場になれば、やる必要が一切ない行為である。むしろ殺しはダントン夫人の一件だけで留めるのが、動揺を煽れる。
「犯人は、ペルグラン少尉殿の立場、いや、警察機構のしくみを知っているということですか」
「おそらくは、その可能性が高い。だから犯行に及んだ、とまで読み進めてもいいかもしれません」
答えながら、ペルグランが居住まいを正した。この若さ、この状況でも、冷静さを欠いている様子は見られない。立派な歴戦の捜査官であり、軍人である。
「立ち戻って、この原則に則った上で推理小説を構成するならば、登場人物は、極論ではありますが、三名だけでいい。犯人、被害者、警察です。探偵には、逮捕の権限は勿論、犯罪捜査を行う権限はありません。警察からの捜査協力がない限り、民法、および刑法の範囲内でしか、それを行うことは許されません」
その枠を踏み越えるのならば、警察は犯人だけでなく、探偵も逮捕する必要が出てくる。
「バティーニュ先生は、ポワソン氏の著作のファンだと仰っていた。私も何冊かは読んだことがある」
そう、読んだことがある。そして、好きにはなれなかった。ある一点の違和感に気づいた、その瞬間から。
「あの人の著作に、警察の出番は少ない。極端にだ」
その言葉に対して、バティーニュは、唾を飲むことで返答とした。
つまりは作家であり探偵でもある自己を投影してのことだろうが、ポワソンの著作における警察とは、ただの装置でしかなかった。探偵の邪魔をする装置。探偵の捜査を引き立て、あるいは解説する装置。あるいは、探偵の突き止めた犯人を逮捕する装置。警察の機能には一切触れられていない。
また犯人にも、犯行にあたっての、やんごとなき理由が用意されていることがほとんどである。復讐であったり、葛藤であったり。そういったものを理解した上で、探偵は犯人を追い詰める。だから犯人は、警察がいなくとも神妙に罪を白状し、探偵に対して従順になる。
作り話の登場人物とは、作者の都合にあわせて、極めて常識的、道徳的である。それは理想的である反面、現実の人の在り方とはだいぶ異なる。
人は自分勝手な理由で人を害する。どこまでも浅はかで、どこまでも残酷に。
「要するに、今ここには、犯人と、被害者と、探偵。いや、犯人と、被害者、そして被害者候補しかいないと」
「そのとおりです。その状態で、一介の被害者候補に過ぎない探偵が犯人を特定したとすれば、何が起こるか」
ペルグランの、つとめて静かな言葉に、バティーニュの体が、がたがたと震えはじめた。
「解き明かした真相の先にも、続きはあるんです。終わりを定めない限りには」
震えて頭を抱えるバティーニュに、インパチエンスがそっと身を寄せた。あのポワソンに啖呵を切ったとは思えないほど、淑やかで美しい。気品があり、鮮やかな人だ。
だが今、その手も、震えている。
「一旦、止めよう。私のものであれば飲み物がある。少し、落ち着きましょう。奥さまも、こわい思いをされている」
「お気遣いいただきあんして、ありがとうございます」
「まずは事態、というより、把握できている事項の確認と、各々の役割分担かな?ペルグラン少尉殿」
「はい。流石は佐官経験者。お話を導いて頂き、本当にありがとうございます」
「戦場とは、不条理と不都合の塊だ。だからこそ、相互の認識確認は不可欠になる。下士官どもには何度も殴られたものさ」
持っていた封書を、バティーニュたちに手渡した。その内容に驚嘆しつつも、やはり愕然としていた。
「まずは我々、警察隊の動きです。俺の上官であるダンクルベール長官は、このような事態が発生する事を、事前に予測しておりました。中央から伝令が走っています。事態発生の有無にかかわらず、支部小隊の保有している全戦力、および全船舶を、このウルソレイ・ソコシュに向かわせ、包囲する。先遣隊を出し、事態の発生を確認次第、全戦力を乗り込ませます。またその伝令についても、いわゆる特殊工作員から選出しています」
最適以上。そして、想像以上だ。
「続いてこちら、現場の状況。無茶を通して、現場の保全と、周囲の人間の安全確保は完了しています。問題は、そこから先」
安全確保した人員の、帰路の保証。
「船は今、一隻も、ありません」
その言葉に、ジャックミノーは、眉間に皺を寄せることしかできなかった。
完成した。孤島という、密室。
「俺に課せられた役割は、伝令です。船を確保して、何名かを載せて、向こう港の分所までたどり着く。それがゴール地点。都度、船の状態は確認しておりましたが、不覚をとり、やられました。面目もありません」
「いや、むしろ上出来以上だ。俺のように現地の人間なら、船がなくなる理由も知っている。日の出までには帰ってくる。だから、気に止む必要はない」
船が一隻もない理由。すべて、漁師たちが使っているからだ。
この時期、近海を回遊する魚、およびそれを捕食する大型魚などを狙って、港の連中が総出で、手漕ぎまでも使って漁をする。
ちょうど現場の保全をしている頃に、出港していた。
「さしあたって、他の手段をとります。家の習いで、遠泳は得意です。現在の天候や、海の状況から、おそらく二時間から三時間でたどり着けます。その間、こちらの支配人でもあるジャックミノー大佐殿には、お泊りの皆さまや、使用人の方々の、身の安全の確保をお願いします。現役時代、中佐相当官となれば、人の取り扱いには慣れている、いや、長けている」
「軍人なら一個大隊。民間人なら、二個中隊程度なら捌ける。承った。少尉殿の最愛のお人を含め、この身を呈してお守りいたす。ならばバティーニュ先生は、最悪の事態のための、最後の砦」
「はい。衛生兵です。怪我人の治療、あるいは現場からの救出。もっとも、負担がかかる仕事です」
バティーニュを見やる。些か気まずそうな、落ち着かない様子である。
「ご信頼はありがたいのですが、おふたかたとも、私が犯人ではないという前提でお話をされているのですが、それは」
「そのメモ書きにある通り、警察隊の保有している情報では、この殺しをやる犯人はこの島でしか動きません。地元の人間です。バティーニュ先生は、遠方から来られている。それも、今回がはじめてだとお伺いしました。信頼できる持ち札としては少ないですが、それでも十分に、信頼できる。遠方から、はじめて訪れた、外科医です」
「立ち返って今一度、大前提を共有しておきたい。ここは、殺人事件の犯行現場ではありません」
その言葉を、ジャックミノーは口にしたくなかった。蘇る。匂い。熱。断末魔。あたり一面に散らばる、屍。
そして、恐怖。
「戦場です」
そう、戦場。そして行うのは、撤退戦。
必要なのは最低限、三名。斥候と、衛生兵と、殿軍。斥候が、ペルグラン。衛生兵が、バティーニュ、そして殿軍がジャックミノーである。
「従軍経験は無くとも、お医者さまであれば聞いたことがあるかと思います。私が退役間近、領土紛争をしていたあの場所には、ひとりの、生きて列せられた、聖人がいました」
言いながら、無くした足が疼いていた。
その人は最後まで、その足を切り落とさないように、懸命に連れ添ってくれた。あの声。少しかすれた、それでも雪解け水のような。
今、警察隊本部で、特任下士官として捜査協力をしていると聞いていたる。おそらくペルグランとは、面識があるだろう。
「聖アンリ。アンリエット・チオリエという、幼い娘」
「ああ。そのご尊名は確かに拝聴しております。向こう傷の聖女。最前線の守護天使」
「先生には、この島における、聖アンリになっていただきたい。無理は承知の上です。その身を投げ出し、傷を負い、敵味方を問わず人を救う聖人だ。そこまでやれ、とは申しますまい。だが、相応の重責を負っていただくことのみ、どうかご容赦いただきたい。先生は我々の、最後の希望です」
そこまで言って、しかしおずおずと、バティーニュは頷いてくれた。
ここから先は、真っ暗闇の撤退線。兵站と連絡線が断たれた状況からの脱出。
指揮できる人間は、ジャックミノーとペルグランのみである。
「そして、その。犯人なのですが」
バティーニュ。意を、決したように。
「ダンクルベールのお殿さまの見立てが正しいのであれば、当てはまる人間がひとり、いますよね?」
インパチエンスの体が、びくりと跳ねた。
「いる。今、うちの使用人のふたり、ドゥラノワとパドルー、そしてダントンさんと組んでいる。これはすぐに、私とバティーニュ先生に変えたほうがいいだろう。勘付かれたと思うだろうが、すぐには行動に移せまい。ペルグラン少尉殿が支部小隊を連れてくるまで、あるいは明け方に船が戻ってくるまで、状態を維持できればそれでいい」
船が出払っている現在、犯行を暴かれたとしても、殺戮を続けるだろう。むしろそれを狙っている可能性すらある。
「とにかく、船が戻り次第、バケツリレーで避難です。ポワソン氏は生贄にしても構わないということですので、最初か最後に、容疑者と一緒に送ってしまいましょう。船の上で犯人を特定して、逆上した犯人に襲われたとしても、誰の責任にもなりません」
そこまで言って、ペルグランはカナッペの幾つかを口に含んでいった。人心慰撫のため、アルセーヌが用意したものである。
「ちょっと、お坊」
「大丈夫、ちゃんと美味しいよ。アルセーヌのお手製だもの」
慌てるインパチエンスを宥めながら、ペルグランが答えた。味に満足そうな表情を浮かべている。
「連続殺人犯は手口を変えない。同じことを繰り返して、洗練させていく。それが基本中の基本。推理小説とは違ってね」
にこにこと笑いながら、ペルグランはインパチエンスにもそれを勧めていた。
ジャックミノーもひとつ、手に取る。口に含んだ。正直に、美味しい。ありあわせのもので作ったとは思えないぐらいである。それを見て、ようやくバティーニュも、カナッペに手を伸ばした。
「めしを食うと」
老いは見て取れるが、皺は少ない。その顔が、幾らか和らいだ。
「落ち着きますね。外科医なんてやってると、特にそうなります」
その言葉で、皆もほぐれた。
医者の中でも、外科医ともなれば、体力の仕事だ。神経と腕力の両方を、長時間、酷使する。
やるべきことをこなした後のめしは、きっと格別なもののはずだ。
「それで、ポワソン氏の捜査を妨害する必要もあるな?少尉殿」
「はい。ポワソン氏自体を、犯人扱いします」
きっと、顔をしかめていたと思う。
「ポワソン氏は身元確認の際、自己紹介をしなかった。客の中に、俺の密偵がいます。そいつに、ポワソン氏が偽物ではないかと声を上げさせる。失礼な言い方にはなりますが、バティーニュ先生の“慈悲”と同じことをやるかたちです」
バティーニュの“慈悲”とは違い、本人であることを証明する方法は難しい。おそらくはペルグランに対する侮蔑と反発心から、名乗り出ることをしなかっただけだろうが、よもやそんな小さなところをあげつらっていくとは。
奸計の類。狡猾というか、老獪ですらある。
「それに乗るかどうかは、各々に任せます。ただいずれ、同調圧力に負けるときが来る。そうやって、ポワソン氏を孤立させていけばいい。真犯人は、困惑か、あるいは激昂。ただ、今の今まで冷静でいますから、後者は無いでしょう。ノーコメントの後、乗っかるかたちでポワソン氏を悪者扱いするかと」
「軍隊も警察も、そして医者も探偵も。信頼とは最も価値の高い通貨です。少尉殿の密偵というと、ダンクルベール長官のお下がりかもしれませんから、舌の方も、よほどの腕前なのでしょうね」
「名推理ですね、先生。大当たりです。魔除けの案山子の“足”代わりですよ」
ペルグランの言葉に、合点がいった。ダンクルベールが盗賊などに情を掛けて、密偵にしているという噂を知っていたからだった。
男がひとり入ってきたのは、ペルグランがインパチエンスと別れのベーゼを交わしたときぐらいだった。
「何だとっ」
思わず、目の奥が熱くなった。
ポワソンが、何人かを引き連れて、現場に乗り込んでいるという。
インパチエンスとバティーニュには、食堂へ向かわせた。ペルグランとふたり、現場である一室に向かう。
「おやおや。そんなに血相を変えて、どうしたのかね?」
途中の廊下。ポワソンと、客が何人か。意気揚々といった雰囲気である。
「あんた、現場の保全状況を崩したな。あんたが責任を取れるのか?」
「何をぎゃあぎゃあ騒いでおる。事件解決のためにと、小生のファンたちが、お手伝いをしてくれたのだよ」
胸ぐらを掴み上げたが、減らず口は変わらなかった。
「やはり今回も、同じだったよ」
にやりと笑いながら、ポワソンが何かを掲げた。
「小生の著作のトリックだ」
おそらくは、釣り糸。
掴み上げていた手を、離してしまっていた。ペルグランも、苦み走った表情で、壁を蹴り飛ばしていた。
見誤っていた。行動力と頭脳。ここまで早くたどり着くとは。
「犯人は、この中にいる。このマノワール・ホリゾンの中に」
そうして食堂に集まった皆の前で、ポワソンが煙管をふかしはじめた。
「ポワソン殿。この状況での犯人探しは無意味だ。犯人を当てたとして、その先、誰もどうすることはできない。犯人を徒に刺激するだけだ」
「おや、負け惜しみかね?自分が犯人を特定できないからといって、小生の推理の邪魔をするつもりかね」
「ポワソンさん。どうかここは、ペルグラン少尉殿のご要望のとおり、朝まで身の安全を確保することに注力しましょう」
「お医者さままでそう言うのかね?小生のファンだと申していただろう。これから小生の神智をお見せすることの、何が問題かね」
独壇場。もはやこうなってしまっては、誰の言葉にも耳を傾けない。
この男は、現状が見えていない。犯人を特定したとして、それを捕まえる権限がある人間がいないという現状を。
「小生は、この島で殺人を続けているものを包丁使いと呼んでいる。愚かなことに、毎回同じ手口。密室を作り上げるトリックも、毎回、同じものを使う。だから、たどり着くのは簡単なものさ」
現場からくすねてきた釣り糸をちらつかせながら、もはや有頂天の様子でポワソンが続ける。
「さて、根拠は後回しにして、結論から申し上げよう」
「ポワソン殿、やめろっ」
ペルグランの絶叫だった。
すべては、ダンクルベールの見立てにある。
男。現地の人間。法律、あるいは軍規にある程度の理解がある。犯行は快楽目的。犯行前後で態度が変化することなく、泰然としている。
「犯人は」
そして、犯行を暴かれたとしても、冷静に対処する可能性が高い。場合によっては、その場にいる全員を殺傷する行動に出るおそれがある。
「あなただ」
突き出した杖の先。
そこにいたのは、料理人、アルセーヌ・レナル。
しばらくの沈黙の後、アルセーヌは、わざとらしい笑い声と拍手を鳴らしはじめた。
「おめでとう、大当たり。いやあ流石は、かもめ髭の名探偵、ポワソン大先生。本当に、恐れ入りましてございます」
まさしく感服といった様子だが、やはり泰然としている。対してポワソンも上機嫌だった。
恐れていることが、起きようとしている。
「それで?」
ひとしきりのやり取りの後。アルセーヌが、突如として声色を落とした。
「皆さま、これからどうするんです?どうやって、ここから、そしてこの俺から、逃れようっていうんですかねえ」
笑顔。満面の、笑み。
ぞっとしていた。ダンクルベールの見立て通り。この場にいる全員、殺して回る腹づもりだ。そのつもりで、さっさと白状したのだ。
「何を言っている?君の逮捕ぐらいなら、そこにいる案山子の鞄持ちにだってできるだろう?」
「逮捕令状、あるいは捜査令状は?現行犯じゃないよ?」
「証拠はある。君の自白もある。今更、見苦しいぞ」
「おや。探偵業やってらっしゃるんだから、法律には明るいと思っていたんですがねえ。ペルグラン少尉殿のご表情をご覧頂ければ、お察しいただけるかと思いますよ?少尉殿は今、案山子の鞄持ちじゃあない」
首をひと捻り。アルセーヌが一切、声色を変えずに。
「本物の、案山子です」
ペルグランは、無念そうに、顔をしかめていた。脂汗も浮いている。
「休暇中の警察隊隊員に、捜査、および逮捕の権限はない。よしんばそれをしたところで、一切の法的な拘束力を持たない。反対に、俺がそういう行為に及んだ場合、アルセーヌ・レナル氏には、傷害罪などで訴える権利がある」
「だってさ。流石はダンクルベールのお殿さまの副官にして、あのニコラ・ペルグランのお血筋にあらせられるお方だ。聡明で、判断力に富み、職務に忠実な警察隊隊員だ。心中、お察し申し上げます」
アルセーヌの言葉に、ペルグランは小さく会釈をした。
「補足をすると、俺が少尉殿に傷害を加えた場合のみ、少尉殿は緊急逮捕の権限を有することができる。傷害罪の現行犯逮捕だ。あるいは、俺が少尉殿や他の皆さまに対し、急迫不正の侵害を行った場合、自己、また他人の権利を防衛するため、やむを得ず攻撃的な行動を行うことは罪には問われない。つまりは、正当防衛ってやつだね。このあたりの組み合わせ方次第では、俺を逮捕することは可能だよ」
「だったら、君があの鞄持ちを傷つければ」
「馬鹿じゃないの?自分が何言ってるか、分かって言ってる?俺だって自分の身が可愛い。わざわざ自分から逮捕されに行くような真似もしたくないし、自首するつもりもない」
「仰るとおりだ。私たちが理由もなく引き止めていたとでも思っていたんだろうが、間違っているのは最初っから最後まで、あんたひとりだったんだよ、ポワソンさん」
ジャックミノーは、ひねり出すようにしてでしか、声を出せなかった。ざわめきはもはや、止めようもないぐらいになっている。
「少尉殿も支配人さまも大変だねぇ。礼儀も法律も、お役所仕事のおの字もしらない、自意識過剰な爺さんに振り回されて、最悪の事態になっちゃったんだもん。ほらご覧?皆、ある程度、これからどうなるか察した顔しているよ?謝罪会見やるんなら、今が絶好のタイミングだねえ」
きょとんとした様子のポワソンの肩に手を回しながら、アルセーヌは依然として、からからと笑っていた。
やはり、この状況を狙っていた。待っていたのだ。
「さてと、もう一回、聞きますよ?これからどうするんです?どうやってここから、そしてこの俺から逃れようっていうんです?ここにいるのは、役目の終わった名探偵。新婚旅行中の、権限を持たない警察隊少尉殿とその奥さま。くわえて、当館支配人である退役軍人大佐殿にお医者さまと、その他諸々と」
自身の腰元に、手を伸ばして。
「そして、快楽殺人鬼。包丁使い。この、アルセーヌだ」
言葉と、光るものが一閃。
汚い悲鳴と、倒れ込む音だけは聞こえた。
「浅手。太い血管も斬ってない。お医者さまが診ればすぐ塞がる。三分あげるから、どうぞご歓談下さいな?」
ポワソンが叫びながら、床を転げ回っている。そしてアルセーヌの手には、大ぶりの牛刀がひとつ。
それで、場は混沌に包まれた。
「やかましいっ」
一喝。中隊以上を指揮する士官であれば、大声は必須科目である。そしてジャックミノーにとっては、得意科目だった。
見渡す。男どもに、勇気はあるか。駄目だ。全員、竦み上がっている。使い物にならない。女はへたり込んでいる。
空気に飲まれている。ひとごろしの、殺気に。
ひとりだけ、違った。ペルグラン。
「ジャックミノー大佐殿、皆様を外へ。ここを、俺と彼だけの密室にして下さい。ポワソン殿は放っておいてもいい。どうせ浅手だ。人手を割くだけ無駄になる。騒ぐようであれば、外に放り出してください」
「ペルグラン少尉殿、危険すぎる。私も」
「盾は何枚かあったほうがいい。男だけを集めて、死ぬ順番を決めて下さい。順番に抵抗して、殺すだけ殺させて、へばらせる。バティーニュ先生、“慈悲”のご準備を」
「なんということを、少尉殿。それだけは」
バティーニュが、真っ青な顔になった。
古くは重症を負った友軍の兵士に、死という名の慈悲を与えるために用いられ、現在も従軍医師をはじめ、外科医などの複数の専門医に、その用途のために携行が許されている短剣である。
身元確認の際、バティーニュが取り上げられていた、それである。
「トリアージのお覚悟をお願いします。怪我人が増えれば増えるだけ、貴方の負担が増える。こちらの不利だ。先にお見せした封書の通り、司法警察局警察隊本部所属、ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグラン少尉。ならびに、上官である警察隊本部長官ダンクルベール中佐。司法警察局局長セルヴァン少将。この三名が、本事案に関するすべての責任を負います。ですから、どうか」
肩を上下させながらのその言葉に、バティーニュが“慈悲”の鞘を抜いて応えた。
「生命の枚数で、時間を稼ぐしかない。その頃には、分所、あるいは支部小隊からの船が届く」
「それこそ、船は」
「ないよ。そりゃあ勿論、逃がすわけが無いでしょうに」
誰かの声に、アルセーヌは余裕綽々といった様子で答えた。そしてまた、静まり返ってしまった。
「知っている。その理由も」
「協力者に恵まれたねぇ。お嫁さんにお別れは?」
「いらない。生きて、帰る」
「その意気や良し」
そろそろ時間。号令ひとつ、食堂の扉を開けた。民間人であれ、それでどうすればいいかはわかってくれる。皆、飛び込むようにして部屋の外に出ていった。
ただインパチエンスだけは、ペルグランの側を離れようとしない。
「下がれ。何をしている。俺のインパチエンス」
「お坊、お坊。お坊を残して生きるなんて、あたくしは」
「早くしろ。あと一分もない。大佐殿、どうか俺のインパチエンスを」
「一緒に。一緒に、死にあんす」
歯を、食いしばりながら。
「あたくしは、お坊の赤いインパチエンス。お坊の隣で咲けないならば、他に行くあてなど何処にもなし。深手を負ったら、あたくしがお坊を殺して、後を追いあんす。そうしてふたりで、星になりましょう?あたくしはもう、ひとりにはなりたくはございあせん」
その言葉に思わず、こぼれそうになった。
廃嫡覚悟で娶ったのは、素性卑しき姉さん女房。そう聞いていた。でもそこには、確実なかたちの愛がある。双方向の、思いがある。
そうなれば、死は、ふたりを分かつものにはなり得ない。
奪うようにして。ペルグランが、インパチエンスと唇を交わした。
「大佐殿。盾の二番手は、貴方にお願いします。白兵戦訓練の経験がおありのはず。足の不都合はあるにせよ、それなら他の男より時間は稼げる。他の男たちにも、長めの棒を。最後の盾は、お医者さまで。そして、どうか皆さまを、よろしくお願いします」
「相分かった。ご厚意により、生命ひとつ頂戴した。どうかご武運を。勇敢なるジャン=ジャック・ルイソン殿」
抱き合うふたり。それを惜しみながら、扉を閉めた。
どうか、ご無事で。ペルグラン少尉殿。
5.
残されたのは、三人。それでもインパチエンスは、部屋の隅でじっとしていることしかできない。
「お嫁さんは狙わないよ。そんなずるは、したくない」
「好きにしろ」
傍らに打ち捨てられていた、ポワソンの杖。ペルグランはそれを拾い上げた。
構える。細剣のように。掌の中で、感触を確かめるかのように回していく。
「へえ。あの爺さんの顔を立てるつもりかい?」
「魔除けの案山子の杖さばき。継ぐのは俺だ、包丁使い」
「そういうのもあるんだね。お殿さまはトレードマークが多くて、覚えるのが大変だ」
二歩、アルセーヌが詰める。振りかざしもせず、真っ直ぐに伸ばしたものを、ペルグランはひねるようにして躱し、その背を杖で打った。うめきと同時に、掌の中で、杖が翻る。最小の動作で、上段。包丁を持つ手を叩いた。
右手から、包丁が落ちる。いや、落とした。撃たれる寸前に。それを左手ですくい上げ、アルセーヌがそのまま詰める。
「くそっ」
アルセーヌの声。
踏み込んだ足。その膝に、ペルグランのつま先が入っていた。それで、離れる。
「杖の喧嘩に路上喧嘩かよ。珍しいもん、知ってるね」
「見様見真似だけどね。ガンズビュールの“細腕”仕込みだ」
おたがい、悪態をつくようにして。
ペルグランから。前足の膝を狙うように、払う。退いて、アルセーヌが闇雲に振り回す。相手にせず、これも退く。ペルグランが、体ごとぶつかっていく。反応しきれずぶつかって、離れる。
縦一文字。それを杖で受け止めた。動きが止まる。
刃が、杖に食い込んでいた。
巻き込むようにして、ペルグランがアルセーヌの腕を抱き込みにかかる。
瞬時、何かが走った。離れる。
小包丁。
「危ねえ」
ペルグランの腕に、血が滲んでいた。滴るまではいかない。
お坊。思わず、声を出しかけた。でも、出してはいけない。あのひとに、気を使わせてはいけない。
逃げるべきだった。それを我儘で、逃げなかった。だから堪えなければ。インパチエンスは両の掌で、口を必死に抑えていた。
ペルグランの目が、せわしなく動く。何か武器になるものを探している。その視線が暖炉の火かき棒に留まったとき、アルセーヌが動いた。真正面の、突き。
傍にあった卓の燭台で、それを受け流していた。
三叉の燭台。蝋燭を取っ払い、短刀のようにして構えた。
今度は、ペルグランから。やはり細剣のように、半身で突きを撃っていく。それを捌きながら、それでも徐々に、距離が縮まっていく。
ほぼ、零距離。動いたアルセーヌの腕を、ペルグランが取った。
どしんと、大きな音。裂帛の気合とともに、ペルグランがアルセーヌの体を投げ飛ばしていた。いまだその手で、腕を取りつつ。
「神妙にすればそれでよし。そうでないなら」
「どうだってんだよっ」
何かが、瞬いた。
動いていた。きっと、反射で。
小さな包丁。さっきいたところに、突き刺さっている。
「インパチエンス」
ペルグランの叫び。
やめて。来ないで、お坊。叫ぼうとしたが、声が出なかった。
声を出したのは、ペルグランだった。うめき声。こちらに来る姿が、幾らかよろめいた。
「ごめんね。ずるしちゃった」
軽い口調。体勢の崩れたペルグランの奥に、包丁を掲げた影だけが。
それでもペルグランは、インパチエンスの前まで来て。両腕を広げて。
「俺のインパチエンスに、手を出すんじゃない」
やめて、お坊。
血が、舞いはじめた。それでもずっと、そのひとは、立ち続け、自分を守り続けていた。
お坊。やめて、お坊。ずっと、ずっと叫んでいた。
そうして、しばらくして。崩折れてしまった。
「お坊、お坊」
意識はある。眼も、開いている。でも、上の空。指の数、耳、鼻。全部、ある。でもどこもかしこも、傷。傷と、血。
眼の前。包丁を持った男。睨みつける。
あたくしが、守る。今度は、あたくしがお坊を守る。死んでも。
「順番守ろうよ。言ってたじゃん。男だけを集めて、死ぬ順番を決めて下さいって。旦那さんの次は、あの大佐殿。あんたの順番は、きっと一番最後かな」
叫ぼうとした。怒鳴ろうとした。でも、声が出ない。震えている。こわい。恐ろしい。殺される。殺される。
男が、屈んだ。目線が合う。
「それとも」
どうして、そんなに綺麗な目。
「啖呵を切った通り、旦那さんを殺して、後を追うかい?」
包丁。差し出された。
何も、考えられなかった。でも、手は動いていた。震えて、それでも受け取った。
そうだ。このひと殺して、後を追うんだ。そうすれば。
振り上げた。愛しい人。か細い息。まだ、生きている。愛んこい顔。あたくしのジャン=ジャック・ルイソン。殺して。死んで。そうして、一緒に。あたくしと、一緒に。
叫んだ。叫んで、叫びまくった。それでも。
殺せない。
頭が染まった。斬り掛かる。軽く、いなされた。もう一度、腰に据えて、体ごとぶつかりに行った。刃先が届く前に、肩に拳がめり込んでいた。
そうして、倒れ込んでしまった。
「これだからさ、女は信用ならないんだよなあ。肝心なところで、決めたことを覆そうとするんだから」
アルセーヌ。淡々とした口調だった。落としてしまった包丁を拾い上げて、何事もなかったかのように。
何して。
ぐったりしたペルグランにすり寄りながら、溢れていた。
何して。
手が届く。まだ、温かい。血が流れている。生きている。
何して。
何して死なねばならねのすか。何してこのひとば殺さねばならねのすか。あたくしたちが何したって言るんですか。何してこんたな目に合わねばならねのすか。
抱きしめて、愛しい人の血に塗れながら、涙ばかりが流れていた。あたくしのせいで、おうちも、体も、何もかも傷ついて。
あたくしがいけないんだ。あたくしなんて、いなければよかったんだ。そうすればきっと、こんたな目に。
「まあ、どっちからでもいいや。お互い、約束は破ってるんだからね」
ごめんね、お坊。あたくしと、会ってしまったばっかりに。
「ちゃんとふたり、星にしたげるからさ」
振り上げるのだけ、見えた。
何かが、爆ぜた。叫び声。自分のものでも、ペルグランのものでもない。
何かが起きた。
目を開ける。アルセーヌの他に、誰かがいる。
「あいあいあいさの、あいさいさ。ようやく入り込めたよ。随分、難儀な仕掛けをしてくれたもんさねぇ、包丁使い?」
目の前に割って入ったのは、見覚えのある影だった。今、自分が抱いている、傷に塗れた愛しい人と同じ顔。
ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグランが、二人いる。
「お坊?」
「はい、どうも」
呼んだ時、胸に抱いていたその人から、まったく別の声で返事が来た。
顔を見やる。いつの間にか別人になっていた。小さい背格好の、どこにでもいるような人に。
思わず、悲鳴を上げていた。向こうの二人は、気付いていない。それをみとめて、小男がさっと、綺麗な所作で立ち上がり、ひとつ、敬礼を捧げてきた。
「御免遊ばせ?国家憲兵警察隊本部の“鼠”の方。スーリと申しまさ。旦那さんのふりしてごめんなちゃいね。ちゃあんと種も仕掛けもありますんで、安心して驚いて頂戴?」
場にそぐわない軽い口調のまま、その小男はまた、へたり込んだ自分の膝の上に、頭を乗せて寝転んできた。
「旦那さんは、外でお医者さまに、怪我の手当てをしてもらっているから、ご安心ね?警察隊支部の連中も、そろそろ着くところまで来てるから、頃合いまでは、“蜘蛛”と遊んでもらおうって、ご寸法。おいらは出番まで、お嫁さんのお膝でお寝んねさんだ。ああ。役得、役得」
ほんの一瞬だった。
その“鼠”は、血だらけ傷だらけのペルグランに変わっていた。
「ほいじゃま、まあまと、まあ、さてと。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて地獄に堕ちろと申せども、ここにおわすは鼠一匹、蜘蛛一匹。包丁使いの天敵さいね。姐さん十八番の南東の吟唱、一丁戯れ、お付き合いを願いましてでございあんすかねぇ?」
膝の上で寝転ぶ三人目のペルグランが、“蜘蛛”と呼んだペルグラン。これもまた、まったくあの人とは異なる声と、その所作で、あの殺人鬼と正対しながら、おちょくるように手招きをしてみせた。その口調も、節回しを多分に強調した、小唄のようなものだった。
南東の吟唱。自分があの館で客を取っていた時、ほぼ唯一、苦手としていた芸事だった。上手な人は、それこそ眼の前の“蜘蛛”のように即興で吟じる事ができるが、自分は簡単なものを、二、三しか覚えられず、それも節回しに舌がついていかず、とても十八番とは呼べるものではなかった。
鼠一匹、蜘蛛一匹。逃せばお家の害となる。鼠は麦、米食い散らかし、糞尿撒いては病呼ぶ。蜘蛛は隅。じっとり根を張り贄を待つ。蛆、蝿、蜻蛉に蝶々まで、招いて散らすは骸の園。まして包丁使いなら、一失万事、害の元。箒はどこじゃ?はたきはどこぞ?掃いては拭いて、拭いては掃いて。磨けど磨けど底知らず。それはそうとも、うちは茶屋さね。人さま以外も、お腹を空かして、今か今かと飯時よ。おん出やぁんせや、お出やんせ。食うて捨てるは骨と金。命散らすは本地無しどもさ。されば狙うはどこの誰。
「財を狙うは顔なしの。命狙うは影もなし」
背の高い、細身の女。暗い茶のガウン。体の線に吸い付くような、赤いドレス。目の高さで、短く切りそろえた、薄い金色の髪。
「鼠一匹、蜘蛛一匹。逃せば我主の責なるぞ?」
そう吟じながら、踊るように刃の往来と戯れるのは、まさしく自分の姿、そのものだった。
「お膳立て一丁、入りまぁす」
赤いインパチエンスの声に、不意に、膝で寝転んでいたペルグランが立ち上がった。右手を握り込んだものを、口元に持っていく。ちょうど、吹き矢か何かに見立てるようにして。
聞こえたのは、息の音だけだった。
アルセーヌが、小さい悲鳴を上げた。手に持った包丁を落とし、右目を押さえている。何かが刺さったのか、ぎゃあぎゃあと喚きながら、何かしらを引き抜こうとしているのか、あるいは目を開こうとしているのか。
それだけ認めて、また、いつの間にかペルグランの姿に戻っていた“蜘蛛”は、関心を失ったかのように踵を返した。二、三、首を捻ってから、すっと、右手を上げた。
「頼んだぜ?俺」
ぱちん、と、指が鳴る。
「任されたよ、俺」
あの人の、声。
うめくアルセーヌの後ろに、人影が浮かんだ。暴れる男の腕を引っ掴み、勢いよく、そのまま床に叩き伏せた。
ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグラン。その人が。
「傷害、および殺人未遂の現行犯。確保」
途端、ばたばたと大人数が乗り込んできた。油合羽こそないものの、その装束で、国家憲兵警察隊であることはすぐに理解できた。あの人に変わりアルセーヌの体を抑えつけ、縄を巻いていく。
「お手柄だね、ペルグランさん。傷の手当まで済ませてるとは」
「お褒めの言葉、ありがとう。二度と会うことは無いと思うが、君のめしは美味かったよ。それで済ませてくれていれば、お互い、幸せに済んだはずだ」
「そうだろうがね。いっときの快楽ほど、魅力的なものは無いもんさ。道徳に外れていれば、なおさらね」
「理解はできるし納得もできるが、賛同はいたしかねるね。このあたりで失礼させてもらうよ、くそったれ」
「お幸せに。新郎さん、そして素敵な新婦さん」
そうして、アルセーヌは連れて行かれた。
ペルグラン。歩いてくる。しっかりとした歩調で。
抱きしめようとした。向こうから、抱きしめてくれた。
「お坊、お坊。お怪我は。ああ、お坊」
「ああ。俺のインパチエンス。大丈夫だ。俺の友だちや、お医者さまたちが面倒を見てくれた。驚かせてごめんよ」
お坊の声。よかった。生きてた。あたくしの、お坊。
抱きしめていた愛しき人の後ろに、ふたつの影。もうふたりの、お坊の姿。
「お嫁さんの前で、かっこいいとこ、見せちゃって、まあ」
「“鼠”、野暮はいけんぜ。俺たちゃ、このあたりだ」
「お嫁さんの前で少尉に化けて、三人一緒に甘えようって言ったのは、どこのどいつだっけ?“蜘蛛”さんやい」
「ここまで惚気けられちゃ、ご馳走さまでよござんしょよ。“蜘蛛”と“鼠”の戯れじゃ、姿形は化かせども。歩んだ恋路は真似できゃせん、ってね」
そやね。“鼠”が一声。それじゃ。“蜘蛛”が一声。
背中を見せた二人は、他の憲兵同様の姿に変わっていた。
「うちの謎だらけの二枚看板。“蜘蛛”は長官の密偵の頭目さん。“鼠”のスーリさんは、もと暗殺者。どちらも変装の妙手ではあるが、今回はとびきりだ。しかもふたりとも、喧嘩は強くないと言ってたが、とんだ謙遜もあったもんだよな。まず、間に合ってくれたおかげで、何とかなった」
それだけ言って、ペルグランは笑顔を見せてくれた。幼さの残る、愛んこいお顔。
ジャックミノーと、バティーニュ。駆け寄ってきてくれた。
「途中、ご迷惑をおかけしました。おかげさまで、あいつを捕まえることが出来ました。本当に、皆さまのご協力のおかげです」
「お役に立てたようで何よりです。ちょっと、びっくりはしましたが」
「ああいう人たちもいる、ぐらいで覚えてもらえれば。とにかく、皆さまがご無事で、そして俺のインパチエンスも、無事で。本当に、よかった」
そこまで言って、その人の身体から、力が抜けた。
お坊。叫んでいた。目が、閉じている。
バティーニュがゆっくりと近づき、呼吸と脈を見た。顔をあげ、にっこりと笑ってくれた。
また、涙が出てきた。身を挺して、守ってくれた。身を投げ出して、皆を、救ってくれた。
「流石は、ニコラ・ペルグランのお血筋にして、ダンクルベールのお殿さまの副官殿。いやそれ以上に、貴女の大切な、ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグランさまです」
「ありがとうごぜあんす。大佐さま、お医者さま。ありがとうごぜあんす。本当に、本当に」
泣いてばかり。でも、生きている。皆。そして、ふたり。生き延びた。
ああ、お坊。えらい、えらい。
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案山子の杖が大手柄。
ウルソレイ・ソコシュ内の某ホテルで、宿泊客に対する傷害、および殺人未遂の現行犯で逮捕された男について、国家憲兵司法警察局は、同日に発生していた殺人事件の容疑者として、再逮捕したことを発表した。男は、容疑を認めているという。他にも、過去の殺人事件について関与している可能性もあるとして、引き続き事情の聴取を行うとしている。
男を逮捕したのは、国家憲兵警察隊本部所属、ジャン=ジャック・ルイソン・ドゥ・ペルグラン少尉(旧名:ジャン=ジャック・ニコラ・ドゥ・ペルグラン)。氏は休暇中、同地に滞在していたところ、殺人事件に遭遇。同ホテルに滞在していた各位に対し、犯行現場の保全と各員の安全確保について協力を依頼しており、また、その中で抵抗し、刃物を持って暴れた男に対し応戦、逮捕し、その身柄を現地支部小隊に引き渡した。また氏は応戦の際に怪我を負っているが、命に別状はないとのこと。国家憲兵司法警察局、および国家憲兵隊法務部は、氏の対応について、休暇中の警察隊将校が所有する権限内で可能な行動であると判断し、法的に問題がないことを発表している。
ペルグラン氏は、アズナヴール伯ペルグラン家の出身で、警察隊本部長官ダンクルベール中佐の副官を担当している。先ごろ、氏名非公開の女性との婚約を発表しており、今回の滞在、および休暇の申請内容については、新婚旅行であったことが、関係者の取材で判明している。
また同日、同ホテルに滞在していた、蒼鷺出版社代表取締役社長のポワソン氏に対し、国家憲兵司法警察局は、休暇中の警察隊将校の協力依頼に対して非協力的な対応をしたこと。保全した犯行現場へ侵入し、保全状況を損なったこと。および容疑者を刺激するような言動を行ったことの三点について、甚だ遺憾である旨を表しており、正式な抗議声明を発表した。またポワソン氏は、ペルグラン氏とその配偶者に対し、事実とは異なる内容での侮辱、ないし名誉毀損にあたる発言をしていたこともわかっており、これについて、ペルグラン氏個人、および所属する国家憲兵隊との間での、訴訟問題に発展するものと思われる。
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6.
それまでは、体の快楽など感じたこともなかった。
幾多の男の腕に抱かれ、男のものを受け入れてきても、あるのは違和感か、苦痛。それでも、たまらない、とか。ああ、すごい。ねえ、もっと、だとか。求めているものだけを、囁き続けた。
そうしなければ、客は来ない。客が来なければ、生きてはいけない。
最初のうちは本当につらかったが、そのうち部屋が持てるようになり、芸事を習うのを許されるようになり、体以外のものでも稼げる術を手に入れることができた。それだけでも生きていけるほどに。
自分の店を構えるとなったのは、後から入ってきた娘たちが、お茶を引いているのを見るのがつらかったからだった。かつての自分の姿を、つい重ねてしまっていた。
体だけでなく、酌や芸事だけでも銭を稼げるように仕込んであげて、誰にでも、できるだけ仕事が回ってくるような環境を整えた。
自分の体が、男を迎え入れるのがきつくなってきたというのも、正直なところだった。乱暴なやつ。不潔なやつ。爪を切りそろえてないやつ。そういう野暮は、女の体にはどんどん蓄積されていく。自分は酌と芸事だけでも十分稼げる。そのうちに、体を休めておきたかった。
このひとと会って、久しぶりに体を委ねた。
はじめてかもしれなかった。心のうちから声が出たのは。それも、穏やかなものだった。壊れるものを扱うように触ってきたので、最初のうちこそじれったかったが、そのうちそれがやみつきになった。大事にされている。ものでなく、人として見てくれている。それだけで十分だった。心が通えば、そういうものの神経も通るのかもしれない。
これが自分なりの、見出したもの。自分なりの、体の快楽。
都度、したたかに精を放たれてはいるが、兆しは来なかった。月のものは来ているものの、きっともう、壊れてしまっているのかもしれない。女のそれを、精を求めるように動かすことはできたとしても、子を育むための奥に続くその道程は、傷だらけだった。
あの旅から帰ってきて、うなされるようになった。
見たことのある男どもが、口汚く罵ってくる。痩せた商売女めが。何処へ行こうと、お前は穢れた女だ。穢れた女が歩いた場所は、腐って潰える。嘲りと、いやと言うほど嗅がされた雄の匂い。汚い指が、口の中に入ってくる気持ち悪さ。
まどろみの中で、何度も叫んだ。何かがもう、壊れてしまっていた。そうとしか、思い浮かばなかった。
目が覚めた。真夜中。
その人は、隣ですやすやと、寝息を立てている。愛んこい寝顔。あたくしの、お坊。身を挺して、あの場にいた人々と、そして自分を守ってくれた、お坊。お医者さまがたのおかげで大きく残る傷はなかったけど、それでもうっすらと残る傷跡の数々をなぞりながら、感謝と愛が溢れてくる。
あたくしのために、あたくしたちのために、頑張ってくれた、お坊。
気付いたら、涙が溢れていた。それも滝のように。
何かに、気付いてしまったのだ。そして、決めてしまった。
もう、やめよう。偽ることを。赤いインパチエンスであることを。
素敵な名前を頂いたというのに、素敵な人々に出会えて、素敵な贈り物まで貰えて、果報者だ、幸せものだと言い聞かせていたのに。
これは全部、偽りの上に塗り重ねられた、見た目だけの彩り。その下には結局、がらんどうしかなかったのだ。
あたくしは、ここにいてはいけないんだ。
その人の頬を撫でた。愛んこい。ぷにぷにしている。あたくしは、この人のものだった。この人のものになりたかった。でも、偽ることでしかそれはできなかった。それももう、壊れかけていたから。続けるのは、難しくなっていたから。これ以上は、ただ穢してしまう。この人も、この人の周りの人たちも。だから、おしまいにしよう。そうしよう。
ごめんね、お坊。もう、甘やかしてあげられなくって。
闇の中、着の身着のまま、外に出た。春もそろそろ終わりかけだが、夜はどうしてか寒い。
鳩をひとつ、送っていた。
悪入道、リシュリューⅡ世。このあたりの裏の大物で、何度か顔を合わせたことがある。頼ったことはない。
それでも、これが最後だと思い、ひとつだけ頼むことにした。
お坊がもし、親分さまのところへ訪いに行ったら、かりそめの遺灰でもひとつ用意していただいて、死んだことにしてほしい。花の枯れゆくさまを、見つけられたくはないから。
そうやって、またひとりで生きていくことに決めた。やはり自分は名も無い遊び女。体ひとつしか、持ち物は許されていなかったのだろう。
涙は、出なかった。あるいはもう、枯れたのかもしれない。そう決めたついさっきに、散々、泣いたから。
もう少しで、夜が明ける。そうしたら乗合馬車にでも乗って、何処かずっと遠くへ行こう。海を渡るのも、悪くはないのかもしれない。
そうだ、エルトゥールルにしよう。南東の、砂漠の国。そこならば、きっと居場所がある。
砂漠には、花は咲かないだろうから。
「インパチエンス。私たちの、赤いインパチエンス」
ふと、聴いたことのある声が近づいてきた。暗闇の中でもわかる、小さな体。お団子に結った黒髪。紫を差した、黒いドレス。
お坊の、母さま。黒髪のジョゼフィーヌさま。
「義母さま、どうして」
義母は、何も言わずに抱きしめてきた。温かい。求めていた温かさ。ずっと、ずっと。
でも、その温かさが、今となっては。
「いや」
痛かった。鋭いくらいに。
引き剥がしていた。体が震えてしまっていた。
「どうして?私たちのインパチエンス」
ああ。やはりもう、決めてしまったのだ。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。でももう、お坊にも、ご家族さまにも、ご迷惑をかけることに堪えられません。好いて愛してくだすったご恩に報いることが出来ないことも無念ですが、何よりあたくしは、ただいるだけでも穢れを振り撒く、卑しい女。これ以上はもう、あたくしが堪えられません。どうか、お許しえって下んせ」
声も震えたが、涙は出なかった。
その人の後ろに、大きな人の影が見えた。きっとこの人が気を汲んで、義母と呼んだひとをつれてきてくれたのだろう。
ありがとうございます。お舅さま。ダンクルベールのお殿さま。お別れの機会を設けて下さって。
「お舅さま。いえ、お殿さまにこの名を頂いた時は、本当にありがたく、感謝ばかりでごぜあんした。それでもやはり、あたくしは赤いインパチエンスではごぜあせんでした。日陰に咲く、鮮やかな花ではござあんせんでした」
そう。自分は、求められた姿ではなかった。求められた姿にはなれなかった。鮮やかな人。強い自己。日陰に咲く赤いインパチエンス。求められたから、偽っただけ。
花の名前など、ひとつしか知らなかった。
「あたくしはベラドナ。憎しみを吸い、悲しみを咲かせる。所詮は愚かな、滅びの花にごぜあんした」
精一杯を言ったつもりだった。それでも、涙は出なかった。
もう、何も残ってはいない。すべて、諦めたから。手放すことを、決めたから。
甲高い音がしたのだけ、わかった。頬が痛いかどうかは、わからなかった。
眼の前にいる、かつて義母と呼んだ人。本当にあの人にそっくりな俤で。可憐な顔。そして、まあるい目を、涙で満たしていた。
ああ。お坊は、本当に義母さまにそっくりなのね。
「お馬鹿な我が娘。なんて愚かなインパチエンス。私たちに、おまえの悲しみが背負えないとでも思っているの?私たちが、おまえのつらさを受け止められないような薄情者だとでも思っているの?己が在り方を疎ましく思うような花なんて、こっちから願い下げよ」
また、頬を張られた。か弱い力だった。それが何回か。
そのうち、義母と呼んだひとは、崩折れて泣きじゃくった。顔を覆うこともなく、声を上げていた。
ああ。また人を不幸せにしてしまった。やっぱりあたくしには、これしかできないんだ。
それでも、どうにかしてやりたかった。何も思い浮かばなかったから、とりあえず近寄って、膝を折った。
そのひとは、涙をぼろぼろとこぼしながら、それでも赤いインパチエンスと偽ってきたこの手を、握りしめてくれた。
「それでもおまえは日陰に咲いていたインパチエンス。今はただ、陽の光と温かさに戸惑っているだけ。お家が何だというの?面目がどうだというの?おまえを慈しみ愛おしむためならば、私たちはどんな手間も苦労も惜しまない。だからどうか、あのこから。そして私たちから。おまえという彩りを奪わないで頂戴。私たちの愛しい、赤いインパチエンス」
愛しい。まだ、そう言って下さるんですね。あたくしを、まだ赤いインパチエンスと呼んで下さるんですね。
抱きしめてしまっていた。しがみついてしまっていた。
離れたくない。やっぱり、放したくない。お坊も、義母さまも、好いて愛して下さった皆さまも。散々に穢してしまったというのに、どうしても離れ離れになりたくない。
蘇ってきた。枯れたはずの涙が、喜びが、そして後悔がこぼれていた。偽りのないものが。体の中、心の中を、どこを探しても見つからなかったものが。
「ああ。母さま、母さま。お申さ訳ながす。お申さ訳ながんす。どうかお許しえって下んせ。あたくしは不孝な娘にござんした。愚かな娘にごぜあんした。どうか、どうか、お許しえって下んせ」
「私たちこそ、どうかお許し下さい。あのこを甘やかしてくれるおまえを、私たちは甘やかしてあげていなかった。馬鹿な親がいたものね。きっとつらい思いをして、きっと苦しい道を歩んで、そうしてここまで来てくれたのに。私たちばかりがはしゃいでしまって、おまえを喜ばせることを忘れてしまったのね」
「母さま。あたくしは甘えてもよろしゅうごぜあんすか?産まれてこのかた、頼るものなど何処にもなし。ただ己ひとつを用意することしか、あたくしは知らなかったから。誰かに甘えることなど、知らなかったから。心は許せど、ついぞ甘えることなぞ、知らなかったから」
「インパチエンスはね、一輪では咲かないのよ?日陰でそっと群れて咲く花。ならば私たちがそちらに赴きます。そうやって一緒に咲いていきましょう?ああ、愛しいインパチエンス。ようやく知ることができました。おまえはずっと、ひとりで咲いてたのね?さみしい思いをさせてしまったのね?そのさまを遠目で愛でて、それで済ませた我らが愚かを、どうかお許しえっておくんなせ?」
ああ。慣れていないだろう。あたくしのことばまで使っていただいて。どうして母がいたというのに、甘えることをしなかったのだろう。どうして心を開くことができなかったのだろうか。
ああ。母さま、母さま。あたくしの、母さま。
ようやくふたり、泣き疲れたころには、空が白みはじめていた。そろそろに、陽の眩しさが体を焼きにくる。
母は、大男のほうを向いて立ち上がった。
「警察隊本部長官、ダンクルベールさま。この度は我が息子と我が娘に多大なご寛恕を賜りまして、心より御礼を申し上げます。そして何よりも、これからもどうか、未熟で不束なふたりでありますが、どうかご配慮とご指導のほどを、よろしくお願い申し上げます。ふたりの母である、ジョゼフィーヌ・ドゥ・ペルグラン。いえ、家名なきジョゼフィーヌの、心よりのお願いにございます。どうかお聞き届け下さいますよう、この通り、お願い申し上げます」
家名まで棄てて頭を下げた母の願いに対し、褐色の大きな舅は、敬礼と深い声を以て、応えてくれた。
「神たる父と、御使たるミュザ。そして我がリュシアンの名に誓って、委細承知仕りました。不肖、オーブリー・リュシアン・ダンクルベール。ご母堂さまをはじめとして、ペルグラン家ご一族の御心を煩わすことのないよう、粉骨砕身の覚悟にございます。さあどうぞ、お顔をお上げ下さい」
そうして顔を上げた母に、舅は穏やかな笑みを浮かべた。
「甘えてくれと、言ったじゃないか」
舅は、くずおれたままの自分の体を、優しく抱きしめてくれた。大きな体。お日さまのように、温かかった。
「俺の話になる。不貞を働いた妻は浜に上がり、男手ひとつで育てた娘はふたりとも嫁ぎ、そして先の冬、娘と思って育てた女が、むごい死に方をした」
「お殿さま?」
「ゼラニウムが好きな、優しい娘だった。俺ひとりになった屋敷の花壇を世話してくれた。あれがいなくなって、花壇を世話してくれる人がいない。あれの弔いにと、花の勉強をした。そしてこの春、お前が来てくれた。嬉しかった。凛と咲いた、名もなき鮮やかな、赤い花だ」
声も、体も、穏やかなままだった。でもなぜか、涙を感じた。顔を見やっても、悲しそうな表情だけで、頬は濡れていなかった。
「もう、いなくなってくれるなよ。白秋を迎え、娘も友もいなくなり、寂しいばかりなのだ。形見ばかりが増えるなか、ようやく来てくれた、あれの愛しき人。ならばどうか、俺にも愛おしませておくれ。この爺の、ただひとつのお願いだ。どうか目の届く場所で。ひっそりとでも構わない。だからどうか、離れることだけはしないでおくれ。俺たちの赤いインパチエンス。いいかね?」
舅は、大きく、優しく、温かかった。でもその心は、哭いていた。嗚咽し、慟哭し、顔を覆って崩折れていた。
そうだ。この人は、あたくしを花とみとめて、最初に愛でてくれた、いっとう大切なお人だったのに。
「ああ、ああ。お舅さま。お申さ訳ながす。お申さ訳ながんす。お舅さまにも、つらい思いをさせてしまうところでござんした。本当に果報で、それ以上に、不孝であんした。どうか、どうかお許しえって下んせ」
「許すさ。ここにいる。ここにいるんだから」
陽の光が差してきた。焼かれるような感覚は無かった。
ああ。日向に咲いても、よろしゅうござんすのね。
7.
朝。起きると、店の方に何人かいた。愛しいインパチエンス。ダンクルベール。そして母親だった。
何事かと思いつつ、とりあえず用意されていた朝飯を食べながら、事情を聞いた。
インパチエンスが、失踪しようとしていた。
自分が廃嫡されること。それによって実家である本家筋も途絶えること。そして何より、自身の存在により皆が傷つき、嘲笑われることについて、インパチエンスは相当以上の負い目を感じていたようだった。あの、かもめ髭の名探偵に貶された時は、がっつり啖呵を切ってみせてはいたが、胸中つらいものが大きかったようだ。
ダンクルベールは、ペルグランに同行していた“足”からの報告で、それを察したようで、すぐさま実家まで飛んだそうだ。
貴方がたの可愛いインパチエンスが、つらい思いをしている。どうか本当の意味で、家族として迎えてはやってくれませんでしょうか。勝手ながら、あれの名付け親からの願いにございます。そう言って、頭を下げたようで、ジョゼフィーヌが大慌てで、一緒に駆けつけてくれたという。自分はずっと眠りこけていたから、最初から最後まで、何も気付かなかった。
己の不明を、恥じ入るばかりだった。
「ごめんよ、俺のインパチエンス。甘えてばかりで、君を甘えさせることができていなかったんだね」
「面目のないことにごぜあんす。でもやっぱりあたくしは、お坊を好いて甘やかしとうござんして。ならばと母さまが、胸ひとつお貸しして下さいました。わあわあ泣いて、甘えさせていただきましあんしたので、もうすっきり。ああ。母さまのお召し物も汚してしまい、本当にお申さ訳なござんした」
「いいのよ。私たちのインパチエンス。貴女の着ているようなものも、ちょっと着てみたかったから」
ジョゼフィーヌは、インパチエンスのドレスを拝借したのも嬉しかったようで、その場で軽くサイズ合わせを済ませて着てみたようだ。もとは、それの華奢な線を強調するためのものだから、肉付きのいい年増が着ると、些か見苦しい。
「母上、それで外は出歩かないでくださいね?後で余所から借りてきますんで、それまで辛抱よろしく」
出された珈琲をすすりながら、ため息を付いた。
インパチエンスの心配事を減らしてやろうと、ダンクルベールがいろいろと気を回してくれていた。“足”や馴染の新聞屋などを使って、自分たちの結婚を、ちょっとした美談として話を流しているそうだ。市井を味方につければ、地位のある方々も、そう強くは出られまい。
慎ましやかに暮らしていきたい欲がある手前、些か迷惑ではあるが、仲間は多いことに越したことはない。素直に礼を言っておいた。
あとふたつほど動かしているそうだが、どうやらアルシェたちと共謀した、相当の悪巧みのようだ。
そのひとつ目が、実家だった。ひと悶着あったという。
自分の廃嫡について、さて正式な手続きをと一族が集まった場に、憤怒の形相をたたえた男がふたり、怒鳴り込んできたそうだ。国家憲兵司法警察局局長セルヴァン少将閣下。ならびに、国民議会議長ブロスキ男爵マレンツィオ閣下。珍しい組み合わせではあるが、我が一族からしてみれば絶対に敵に回したくはない、恐ろしい二代巨頭である。
かまえて言上仕ります。大事なご嫡男を、ご自身の面目のために投げて寄越しておきながら、都合が悪くなればご廃嫡とは、如何なるご存念にございましょうか。少尉殿ご廃嫡のお話、直属の上官である警察隊本部長官ダンクルベール中佐、ならびに国家憲兵総監中将の両名とも心中穏やかならず。手前どもに何らかの不作法、不始末がありやなきかと、本官含め三名とも、落ち度あらば直ぐさま職を辞する覚悟にございます。あるいは、よもや少尉殿ご自身がお選びなさったご内儀さまがお気に召さんと仰るおつもりか。他家の事情に口を挟むは不行儀ではありますが、ご内儀さまのご出自におかれましては、些か思うところがあるのは承知の上。然れども、少尉殿直々のご紹介のみぎり、そのご禀性については、本官も敬服するほどにご立派なご婦人にあらせられます。少尉殿の上官たるダンクルベール中佐をお舅さまと、そしてその上官たる本官を大舅さまともお慕いいただき、格別のご昵懇を頂戴いたしております。そもそも気に食わんと申すのであれば、予め貴家のお家柄に相応しい許嫁なりをご用意するのが筋というものでございましょう。成すべきことも成さざるままに、ご内儀さまの、我ら国家憲兵隊へのご厚意と、少尉殿とご内儀さま、ご両名の親愛を無下になさるというならば、それで結構。しからばご両名とも、我がセルヴァン一族のご養子としてお迎え入れた後、我ら国家憲兵隊は、貴家とは今後、一切の縁を切らせていただく所存にございますが、それでよろしいか。
続けて物申す。不肖、ブロスキ男爵マレンツィオめが、アズナヴール伯ペルグラン閣下、ならびにこちらにお並びのご歴々に、国民の声を代表して物申す。体ひとつで爵位をもぎ取り、時の王妹殿下のご親族にまで上り詰めた立身出世の代名詞、ニコラ・ペルグランのお血筋ともあろう方々が、面目や体面のためだけに、ご嫡男の輝かしい将来を奪い去るなんぞ、親兄弟のやることとは到底思えぬ。まさしく鬼畜の所業なるぞよ。市井を見よ、国民を見よ。あのペルグラン家のご嫡男なる男伊達ぞ。素性卑しき娘を見初め、愛念を貫き、お家を捨てても添い遂げるぞと。あいや、そのお覚悟天晴なりと。快哉を上げてお祝いしておる。それを蔑ろにし、覚悟を決めた娘御を泣かせてまでも、可愛いお家の名などあるものか。先の一件では愛するご内儀を含め、多くの国民の命を、文字通り身を挺して守り抜いた、勇敢なるご嫡男の心意気を汲めぬほどの凡百風情が“ニコラ”の名を負うなぞとは、まったく以て言語道断。未だ恥を知るほどの賢しさが一抹ほどにでもあるのであれば、今すぐご領内の港にまで赴いて、その名を海に棄ててこい。
その場の議事を務めていたものに、文書に起こしたものを見せてもらったが、正しく恫喝といっていい発言である。
家格はこちらが上だが、セルヴァン家は政変の際、身の安全を保証してもらった地方豪族のひとつでもある。そして爵位はこちらが上だが、天下御免のご印籠たるブロスキ男爵の名跡を背負い、加えて国民議会議長という肩書もあるのが強すぎるマレンツィオ大閣下だ。対してこちらは政変以降、大した稼ぎがあるわけでもなく、まさしく他家と国民に飯を食わせてもらっている立場にある。息子の嫁と決心に文句があるというのなら、国の全てが敵に回るぞ、と、直接言われたようなものである。
竦み上がった親族たちは、すぐさま廃嫡とりやめと、その場で誓詞血判まで書かされたそうだ。
そういうことで、自分は結局、“ニコラ・ドゥ・ペルグラン”を名乗らなければならなくなる。正直に、何を今更、といったところだ。愛しのインパチエンスを娶ると決めてからは腹も括っていたし、国家憲兵隊に骨を埋めるのも決めている。
それに、セルヴァンから名を頂戴するとなった時、私が付けたことにするから、君が選んだものを名乗りなさい。そう気を利かせてくれたものだから、ほぼ返し言葉で、じゃあルイソンでお願いします、と自分で決めた名でもある。セルヴァンも筋金入りのボドリエール・ファンだから、途端に大笑いして、ミュラトール卿かあ。渋いところを選んだな。ちなみにどの場面がお好きかね。と、ことの大事を忘れて、やんややんやと盛り上がったものだ。
貴族の証たる“ドゥ”の方はいざ知らず、“ニコラ”の方には、今更、愛着もくそも無い。マレンツィオの仰る通り、海に棄ててしまってもいいぐらいだ。
確かに本官は長子ですが、家督は未だ父にあります。それに結局は家庭の事情ですので、本官から言うべきことは特にありません。ただ、昵懇にさせていただいておりますセルヴァン少将閣下より、ルイソンという名も賜りましたことですし、一度捨てた名に未練はございません。いずれ産まれる子どもたちか、犬か猫でも飼うとなったら、あるいは授けてみようかと思っているぐらいであります。
ペルグラン家、お家騒動か。そう題打って大勢集まった新聞屋たちを前に、思ったことを思ったままに言ってみたところ、民衆に随分と受けてしまい、ペルグラン家のご嫡男は機知に富んだお方だとか、名に縛られない粋なお方だとか騒いでいる。加えて、じゃあうちの子にも授けてみようか、と、永久欠番という暗黙の了解が広まっていた“ニコラ”の名は大安売りとなり、すっかりありがたみがなくなりつつある。
母親はいざ知らず、針の筵に座らされた父親たちには悪いことをしたと思う反面、マレンツィオの口癖を拝借いたしまして、ざまあみやがれってんだといった思いが正直である。
結局は、ジャン=ジャック・ルイソン・ドゥ・ペルグラン。そしてその妻、クラリス・インパチエンス=ルージュ・ドゥ・ペルグラン。そういうこととなった。
市井からだけでなく、他家や宮廷からも色のいい反応が返ってきた。名家豪商だけでなく、王妃陛下からもお祝いの手紙を頂戴してしまった。綺麗なお嫁さん、是非紹介してちょうだいね。なんてことも書かれていたので、返信には些かの苦労をした。
ふたつ目は少ししてから。ちょっとだけ、すっきりした話。
名探偵ポワソンが、自分の実家と国家憲兵隊法務部の双方から、訴状を投げつけられていた。
実家の方は嫡男とその夫人に対する名誉毀損。憲兵隊法務部の方も同様に、憲兵将校に対する侮辱罪である。きっとあの法務部部長あたりが裏で手を引いているのだろう。双方、示し合わせたように仕掛けていた。特に実家は、息子夫婦が公衆の面前で侮辱された、と憤慨しているご様子で、刑民両面とも最高裁まで争うことも辞さない姿勢だという。
この声明を受けて、他社マスメディアがこれ幸いにと群がりはじめた。かもめ髭の旦那め、あのペルグラン家のご嫡男さまを知った顔して罵ったところを、ご内儀さまに扇子でぶっ叩かれ、ものすごい剣幕で怒鳴られていたと、事実ではあるが嘘みたいな内容の三面記事が湧いて出てきて、いままでの素行不良も合わせて散々にこき下ろされている。
続くかたちで、民衆からの不興と反感も高まり、著作や各種出版物の不買運動に発展。遂には蒼鷺出版社の社員たちから三行半を叩きつけられたそうだ。
畳み掛けるように、実家から、幾度か弁明はあったもののやはり納得致しかねる、という声明が発表され、めでたく調停をすっ飛ばして裁判に直行したとのことだ。向こうはもはや、どれだけ積んでも弁護人が見つからない有様だという。
こないだ、おっかないふたりに乗り込まれてどやされたんだ。ご実家さんにも名誉回復の機会があってもいい。なに、向こうさんが死ぬまでは追い込まない。代わりに、死ぬほどの思いをしてもらうだけさ。そう言って、法務部部長オダン大佐は笑っていた。強面だが話すと面白い人で、しかし仕事については顔面通り、峻厳というか苛烈である。
先の一件のお陰で昇進も決まった。中尉。着任しておよそ三年での昇進である。定期昇進間近ということもあり、順調、といえばそこまでだが、時間や家の力でなく、自力で勝ち取った、念願の、自分だけの肩書である。腕一本で勝ち取ったというのは、立身出世の代名詞、ニコラ・ペルグランをなぞったようで気恥ずかしいが、それでも嬉しかった。
ダンクルベールからの、対応についての評価は七十五点だった。休暇中のため業務上命令違反には該当しないものの、逃げろと言ったのに逃げなかったのが五十点減点。その上で、現地の人間の協力を仰ぎ、殺しの犠牲者以外の死人を出さなかったことで四十点の加点。でもやっぱり、身を挺するような危険な行動はよしなさい、で二十点減点。そして、よく生きて帰ってきてくれたとして、五点加点だ。
士官学校からもいい判例になると、話が来ているらしく、細かいところは反省会を重ねて、今後に活かせるよう、ノウハウとして残すこととなった。
そのうちインパチエンスが、昼の間も店を開けるようになった。日陰に咲く花ではごぜあんすが、お日さま浴びるのも悪くはなござんしょう、と晴れやかな顔だった。
数席だが、路地に卓も出すようにした。めしについては、まだ適当なものしか用意できないが、いずれは充実していこうねと、ふたりで笑った。
非番の日は給仕として店を手伝うことにもしていて、このころはおかげさまで、勤め先だけでなく、民衆から、物好きな貴族まで、いろいろな人達に足を運んでくれる、気持ちのいい店になりはじめていた。
昼前、店を開けようといったところで、随分な威容の司祭が訪いを入れてきた。悪入道、リシュリューⅡ世こと、ジスカールの親分である。生粋の任侠筋ともあって面倒見が良く、インパチエンスを娶るにあたっての諸々を含め、公私を問わずよくしてもらっている。
「そのまま、そのまま。元気でやっているようで安心したよ。遅くなったが、開店祝いと、兄さんの昇進祝いに来たよ。これぐらいの店というのは、気持ちいいよね。それにやはり、姐さんのその語り口は、いつ聞いても楽しくていい」
昼間から透明の強いものを傾けつつ、ジスカールの親分は、のんびりした感じで寛いでくれていた。“足”の一部として、また裏社会のまとめ役として、色々忙しいはずである。そんな御仁に、一息つける場として認められるとは、嬉しい限りである。
「裏の連中がこわがっていた“女主人クラリス”。茨の園に咲く一輪の薔薇だとか、甘い毒のベラドナだとか言われていたが、まさか赤いインパチエンスとはな。強い自己を持って咲き誇る、鮮やかな人。ダンクルベールのやつ、随分と格好いいことをしてくれたもんだ」
「うちの長官もそうですが、親分さん世代の男は、やけに花とか花言葉に詳しいですよね。流行りなんですか?」
「ダンクルベールは、まあ、察してやんな?俺の場合は仕事上、必要になるんだよ。悪党の中でも、任侠というものは、しきたりや験担ぎにとにかく五月蝿い。花に宝石、香に酒。ものに秘められた言葉を知らなければ、取り扱うべきではないとまで叱られたもんさ。もっとも、今の連中には、もうそういうのはいらんだろう。肩肘張らずに、のびのびやるべきだ。そういうものの最後の世代は、俺でいい」
そう言って笑ったジスカールの顔には、老いの色が強く出ていた。
「ダンクルベールも白秋に入った。俺ももうじき。どこもかしこも、代替わりの時期だろう。警察隊本部はウトマンちゃんか?その次の次ぐらいが、きっと兄さんだ。ニコラ・ペルグランのお血筋が、船の上ではなく、法の上に立つんだ。苦労ばかりしていたダンクルベールも、泣いて喜ぶだろうさ」
「それはまあ、いつぞやに言われたもんです。ある程度の家柄の人間が上に立ったほうが、下にかかる苦労は少なくなるって。それでも、まだまだ先の話ですし。右にも左にも、有能なものは山ほどいます。家柄にあぐらをかいている余裕なんて、一切ありませんよ」
「それも、ダンクルベールやセルヴァン閣下が方々を駆けずり回って、ようやく拵えた宝箱だ。石畳は爺どもが敷いた。若者は気にせず、その上を突っ走ればいい。それで冥利だ」
「親分さまは、年経てなお意気にあんす。ただまあ、憎まれっ子世に憚るとも申しますれば、あたくしどものほうが先に星になりかねんくらい、皆さん揃って元気いっぱい。本当に、羨ましゅう限りでごぜあんすことで」
「そうなのかな。人から見れば、そうなんだろうな。死ぬ時には、元気いっぱいのまま死にたいもんだ」
この間、元気いっぱいの御仁が星になったばかりだからかもしれない。寂しそうな笑いだった。
ではこれにて、と、ジスカールが席を立つ。その際、ついでと言っては何なのだが、と花を一束、頂いた。
色とりどりの、スイートピーだった。後で調べて、本当に意気な贈り物だと、ふたりで揃って涙を流した。
晩飯時が過ぎたあたり、そろそろ閉めるか、といったところで、ふたり、入ってきた。顔を見て、ぎょっとした。
ダンクルベールと、ボドリエール夫人こと、シェラドゥルーガである。
「すまん。押し切られた。隠し通せなんだ」
ダンクルベールが大きな体を小さくして、頭を下げてきた。つまりは、どこかしらかで聞いたのだろう、インパチエンスの顔を拝みに来た、ということだ。
まずはすぐさま店を閉め、店員ふたりを帰らせて、何があってもいいように、インパチエンスのすぐ隣に陣取った。
さて夫人は、カウンターに座るやいなや、インパチエンスのそれと似たような拵えの煙管を取り出して、煙をくゆらせはじめる。既に、そして明らかに、目が据わっていた。
赤と朱。一際に美しいが、それ以上に恐ろしい。
「お幸せそうで何よりね、不作法者。我が忠実なるジャン=ジャック・ルイソンのご内儀となるのであれば、まず先に、姑たる私に訪いを入れるのが礼儀というものでしょう?」
どすの利いた声で、いきなり迫り込んできた。嫁いびりに来たっていうのかよ。
ダンクルベールの顔を見ると、一番遠くの席でしょぼくれていた。見かねて、緑の瓶を注いであげた。
「お姑さまというのであれば、ほんでがすね。それで?ご一見さん。どちらさまでござんしょかしら?」
「パトリシア・ドゥ・ボドリエール。あるいは、朱き瞳のシェラドゥルーガと申しますわ。ペルグラン夫人。いえ、クラリスちゃん?」
わざとらしく語尾を上げた、嫌味ったらしい名乗りに対しても、へえ、といったふうで、特に驚くこともなく、インパチエンスの方も煙管の用意をしはじめた。ついでに、これがいつも嗜んでいるウイスキーも指一本に注いで、勝手にやりはじめた。
「これはまた、死人が巷を歩くなんざ、世も末でござんすね。お馴染みさまならいざ知らず、一見どころか、死人が大見栄切るなぞ、野暮も野暮。先に教えて下すってれば、墓に参りに詣でましたものを。不作法どうか、お許しえって?」
「あら、言うわね?」
「いびれるものなら、いびってもらってよござんすよ?うちの主人は警察隊の中尉さま。名義詐称でお縄頂戴するお姿も、さぞや見ものでござんしょうねぇ、パティちゃん?」
言い返されて、きっと睨みつける夫人と、余裕綽々なインパチエンス。それを戦々恐々と縮こまりながら眺める男ふたり。
ひとしきりの間を置いて、夫人のほうが鼻を鳴らした。
「それで?遊び女風情。我が親愛なる友人、黒髪のジョゼフィーヌとは、昵懇にできてるのかしらね?」
その言葉に、インパチエンスが目を伏せた。
母から聞いた。自身のことを、ベラドナと呼んで蔑んだと。
泣きながら、頬を引っ叩いたという。それでもおまえは、日陰に咲いたインパチエンス。今はただ、陽の光と温かさに戸惑っているだけ。おまえを慈しみ愛おしむためならば、私たちはどんな手間も苦労も惜しまない。そう言ってふたり、抱き合いながら泣いたという。
後から気になって、行く宛があったのか聞いてみた。
エルトゥールルにでも行こうかと。砂漠に、花は咲かないから。
思わず、引っ叩いていた。そして、抱きしめていた。俺のインパチエンス。どうかそんなことは二度と言うんじゃない。どうか俺の隣で咲いておくれと。何度も頼んだ。
ああ、お坊。ようやく男前なところを見せてくれあしたねぇ。えらい、えらい。
インパチエンスはぼろぼろと泣きながら、頭を撫でてくれた。
「母さまには、本当に、ようしてもらっております。お家に迷惑をかけまいと、逃げようとしたあたくしの頬を叩いて、泣いて甘やかしておくれました。まことの母など知らなんぞ、母さまこそがあたくしのただひとりの母親にござりあすれば、好いて甘やかして、救ってくれあんした」
「ジョゼは、お前のような下賎な女は、好かんはずだが?」
夫人のその一言に、インパチエンスの目に火が灯った。
インパチエンスが、あの夫人の顔面に紫煙を吹きかけ、途端、カウンターに飛び乗るや否や、そのまま腰を据え、夫人の顎先に指をかけ、真正面から見据えた。
「こちとら遊び女。男ひとり、あるいは女ひとりを落とすなんざ、稼ぎのうちにも入りゃあしませんでしてよ?」
ざらりとした、低く染まる声。それに対し、夫人の姿が、みるみる怒りに燃え盛りはじめる。
人でなし相手に喧嘩かよ。思わず割って入ろうとしたところを、その鋭い目で咎められた。夫人も、割って入ってくれるなとばかりに、けもののような目を向けてきた。
「おい、商売女。私のジョゼの、何がわかる?」
「顔も名前も知らずとも、人であれば変わりはなし。ほでなしたら今ここで、あんたさまも落としてみせましょかしら?いっとう好かないのはお互い様ではござんしょし。お坊とお舅さまの手前、本意ではござりあせんが、やるというならようざんしてよ?ほとけさま」
たん、という音が響いた。インパチエンス愛用の、夷波唐府拵えの煙管が、灰皿の上に叩きつけられる。
すっとカウンターを下り、棚から幾つかの瓶を取り出しはじめた。それと、グラスがひとつと長めのマドラー。静かに、ひとつずつの層を作っていく。
「それに?酒場で酒も頼まずにくだを巻くなんざ、野暮も野暮。やるというならそれでよし。そうでないなら、これでおさらばしえって下んせ?」
そう言って差し出したのは、自慢の“宝石”だった。
あの夫人が、きょとんとした顔をして、眼の前の美しいグラスを眺めている。そのうち、おもむろにそれを軽くステアして、琥珀色になるのを眺めたのち、口の中に、一気に流し込んだ。
強い酒を飲み干したその顔は、何処か満足したようなものだった。
「結構なお手前ですこと。ペルグラン夫人。そして、我が親愛なるインパチエンス=ルージュ。それじゃ、お愛想さま」
微笑みながら、夫人はお代替わりに、一冊の本を、カウンターに乗せた。
“喝采、そして、赤”。巷を席巻する舞台女優の、灼熱の恋路を綴った、ボドリエール夫人渾身の、“動”の名著である。
「ありがとうごぜあんす。またお出やんせ?お姑さま」
お先するよ、我が愛しき人。清々しい声で夫人は去っていった。ようやく嵐が過ぎたので、男ふたり、そろって肩を落とした。
本当に、女の喧嘩ほど、恐ろしいものはない。
「ああ、楽し」
当人はどこ吹く風で、ウイスキーの注がれたグラスを回しながら、からからと笑っていた。
「肝を冷やしてくれるなよ。俺のインパチエンス」
「あれぐらい小喧しいのを相手取るのも、あたくし、得手でごぜあんしてね。ごめんね、お坊。こわい思いをさせてしまって。でも、よくがんばりました。えらい、えらい」
そういって、自分と同じぐらいの背丈を寄せてきて、抱きしめてきた。頬ずりをし、頭を撫でてくる。
「すまないことをした、ペルグラン。そしてインパチエンス。あれがどうしてもというのでな。名乗った通り、死んでいるはずのボドリエール夫人。うちで預かっている、正真正銘の化け物だ。言ったところで、理解してもらえるとは思ってもいないが」
「あら、お舅さま。そうでしたの?そんなこともごぜあんすのねえ。ただまあ、やっぱり、死人よね?」
カウンターに掛け直したダンクルベールに、緑の瓶とグラスを差し出しながら、余裕たっぷり言ってのけた。
「あたくしは、お坊の赤いインパチエンス。お坊のためなら、男ひとり、女ひとり、あるいは死人ひとりを落とすなんざ、稼ぎのうちにも入りゃあしませんでしてよ?」
鮮やかに、日陰から日向に躍り出た、強いひと。
赤いインパチエンスはにっこりと、煙管を咥えていた。
(つづく)
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・壬生義士伝 / 浅田次郎
・サラダニーソワーズ
・George ジョージ
・ブイヤベース憲章
・名探偵ポワロ
Words
・恥す無し:恥知らず
・本地無し:馬鹿
・愛んこい:可愛らしい
・投げる:捨てる
・お恥すない:恥ずかしい
・男童子:男の子
・僅んつか:わずか
・何して:どうして
・言る:言う