颪
それを手に取った日から、思い出ははじまる。
その手が頬を撫でたときから、絆は産まれていく。
たとえそれまでに、繋がりがなかろうと。
たとえこれから、お互いを知ることになろうとも。
君を愛でよう。この生命が枯れる日まで。
貴方を敬おう。その亡骸に添えられる日まで。
木漏れ日の中、花は陽を向いて咲く。
その眼差しを、見上げるようにして。
フランシス・ラポワント、著
“詩集:日々、思うこと”より
1.
馴染みの酒屋に、いつものやつを何本か頼んでおいたのを思い出し、予定のない休日という怠惰から抜け出そうと決めたのは、正午をいくらか過ぎたころだった。
年老いた、むさい男のひとり暮らしである。
官庁街から少し離れたぐらいにある、小さな屋敷。家族が暮らすには手狭だが、ひとりで暮らすには十分な広さだし、内も外も華美すぎず、それでいて野暮でない。内見した際にすぐに気に入って、買ったものだった。
基本、めしは外で食うか、惣菜を買ってくるし、着る物は玄関先に置いておけば、毎朝、気のいい洗濯屋が取りに来て、きっちりアイロンまでかけて仕上げてくれる。面倒なのは掃除ぐらいだが、ほとんど家にいることもないし、週に一度、お隣さんで働いている使用人に頼んで、ついでに仕事してもらうようにしていた。
かつて子どもたちと過ごしたあの家は、賃貸にして、ちょっとした小遣い稼ぎとして役立ってもらっている。
シャツ、ジレ、トラウザーに襟巻きと、小綺麗な老人を気取るにはちょうどいいものをかき集める。これに二十年来の付き合いである長合羽と、鉄芯入りの杖を合わせれば、国家憲兵警察隊本部長官、オーブリー・ダンクルベールの出来上がりであるが、今日は非番である。代わりに二重回しと、フェルトの帽子を合わせることにした。
屋敷からあの店までは五分ちょっと。ただ、楓通りの紅葉がいい具合だったのも思い出して、ダンクルベールはのんびりと、二十分ほど歩き回った。
「ここの酒蔵も景気が悪くてねぇ。もしかしたらそのうち値上がりするかもよ」
酒屋で、亭主がそんなことを言い出した。同じぐらいの年嵩の爺である。
「そりゃあ困ったな。じゃあ、おすすめのものがあれば、一緒に見繕ってくれるかね?」
「あいよ。流行りのやつをひとつ。これと似たようなのって、実はなかなか無かったりするんだよねえ」
「そうなんだよな。安いのが一番の売りみたいなもんだから。金が無かった頃からの付き合いだもの」
言いながら、ふたりで笑った。
酒など、飲めればどれでもよかったが、それほど余裕がある暮らしではなかった。だからいつも、安いものばかりを選んでいた。
そうしていつの間にか、この緑の瓶のエールビール以外は、好みではなくなった。
帰り道は普段通りの、五分ちょっとの道を使おう。そう思いながら店を出たあたりで、道行く人の多さに驚いていた。
そういえば祝日だったな。ひとり、ごちていた。
寄ろうと思ったチーズ屋も惣菜屋も、いつもより忙しそうだったので、遠慮しておくことにした。食べる物なら家に幾らか残っているだろうし、杖をついた老人が人の多い狭い店に立ち寄るのは、お互いにいい気分ではないだろう。
ふと、路地裏に誰かが座り込んでいるのを、視界の隅で捉えた。
老婆の乞食だろう。木の実か何かを入れた小さな袋を揺すって調子をとりながら、嗄れた声で南の方の民謡を歌っていた。
暗い路地の中、その老婆はひとりだった。
路地裏の暗闇に、ダンクルベールは足を進めた。たった一歩の距離だが、表通りの喧騒が嘘のように消え、心地よい静寂と、冷たい空気が肌に刺さる。
老婆が歌いながら、ちらりとこちらを見た。
酒瓶が入った袋を地面に置き、財布から小銭を何枚か取り出し、老婆の前に放り投げた。老婆は歌を止め、やはり嗄れた声で、ありがとうねえ、と絞り出した。
「旦那、風が吹いたろう?」
ダンクルベールが踵を返したあたりで、老婆は、若い男の声でそう聞いてきた。
「先週の件か」
「風が来たよ。山から、“颪”が降りてきたんだ」
老婆の目が、深い皺の奥からぎらりと光った。
“足”。ダンクルベールの私的な密偵である。長らく使っているが、足を悪くしてからは、その規模は自分でもわからないほどに大きくなっている。
ダンクルベールはさらに何枚かの小銭を老婆の前に投げてやった。老婆が、何かを書いた紙切れを差し出してきた。
「北の霊峰、ヴァルハラの“颪”だ。季節の風とはいえ、まさか海を渡ってくるとは思わなんだね」
「余所者ねえ。目的は、何だろうか」
「そこまではまだ掴めてない。“颪”は他所の風を極端に嫌う。入り込むのはなまなかじゃない」
「晩秋の北風とはな。迷惑な話だ」
先週の中頃、豪商の屋敷が全焼するという事件が起きた。それも二日続けてである。
家主から使用人まで全員が殺され、燃やされていた。聞き込みは進めているが、未だ何の情報も得られていない。
わかっているのは、組織的な犯行であること。そして、この国の匪賊どもは、ここまで過激にはやらないということだ。
外部の賊。それも北の海を越えた、ヴァーヌ地方の。それが今、豪商を襲っている。頭の中の引き出しに、何か覚えのあるものが入っているような気がした。
「山を降り、海を渡った。随分な長旅だ。とすれば、誰かが手引きをしたはずだ」
「まずは、そっちかい?」
「そっちが本筋だな。くれぐれも、慎重に」
老婆は、喉を鳴らして笑った。
「慎重に?言われずともさ。何を怯えてやがるんだい?」
「ひとつ。ちょっと気掛かりなことがあってだな」
引き出しを開けた。入っていたものが、すでに頭の中に散らばっていた何かしらと結びつきはじめた。
議会で、ある法案について議論が紛糾している。
確か関税に関するものだったはずだが、これが通れば、豪商の発言力はますます大きくなるという噂だった。これを許さない勢力は、少なからずいる。
その少なからずのうち、一番厄介なものが、今のところ最も静かでいるのが、不気味だった。
「降りてきたのではなく、降ろされた。降ろしたのが、山そのものだとすれば」
それで、老婆の目も、引き締まった。
「ヴァーヌの山そのもの、かい?話がでかくなってきたね」
「かまえて用心しろ。最悪の場合、俺でも、俺の上の連中ですらも、手が出せなくなるやもしらん」
ダンクルベールは袋の中から茶色の瓶をとり、封を開けた。香りは芳醇で、どっしりと重いが、苦味がわざとらしく、ちょっとくどい。
ひとくちつけただけのそれを老婆に渡し、ダンクルベールは表通りに戻った。頭の中には、すでに何十人もの名前が並びはじめていた。
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聖孔雀動乱、あるいは、聖孔雀追放事件。
大ヴァルハリアの祖、御使のミュザの末裔を自称した、西の大王、ミヒャエル・マイザリウスによる、東の大平原への進出。それが、東の大王こと“海嘯王”を盟主とした、ダライタル=ヘールタル諸氏族によって阻まれた際、その国境であったオルリアント辺境伯の提唱により、両者の緩衝地帯として誕生したのが、ユィズランド連邦である。
その地理的位置の都合、ユィズランド連邦は、西のヴァルハリア、北のアルケンヤール、東のダライタル=ヘールタル諸氏族、そして南のエルトゥールル、その四勢力すべての緩衝地帯として機能することになった。
これが長らく続いた、四強の時代である。
しかし時代が降るにつれ、四強に変化が生じる。
火器の発達により、隆盛を誇った騎馬隊が陳腐化し、また各国の交易が陸から海に切り替わったことにより、交易が衰退したダライタル=ヘールタル諸氏族は、真っ先に脱落した。続いてヴァルハリアにて、ヴァーヌ聖教会の宗教改革が発生、布教先での思想弾圧や民族浄化、歴史改竄を行っていたことが明らかになり、人心を消失し、それを国教、国是としていた帝国の権威もまた、失墜した。アルケンヤールは長らくの内乱、そして各国との係争、紛争が解決しておらず、発展できないまま、時代だけが進んでしまった。
残ったのは、陸海の貿易で財を成したエルトゥールルと、四強それぞれとの交易で、同じく勢力を保ち続けていたユィズランド連邦のふたつだけだった。
これに危機感を覚えたのが、先の王朝、北方ヴァーヌ出身の王家、ホフマンスタール家である。
後ろ盾であるヴァルハリアの勢力が衰えたこと。そしてヴァルハリアの王朝が縁の薄い南方ヴァーヌ寄りになったことによる影響力の低下を恐れ、内閣の解体と絶対王政の復古を掲げた、強硬的な行動を開始した。これに対し、それを良しとしない地方豪族、豪商、王侯貴族の穏健派、そしてホフマンスタール家との関係が劣悪であったヴァーヌ聖教会が合従し、国王、および宰相の不信任を強行決議。王朝派と、非王朝派による激突が発生した。
しかし勢力差は圧倒的であり、ひと月もしない内に、国王は国外追放、そして王朝派勢力もまた追放、あるいは処断された。
北方ヴァーヌの象徴たる聖孔雀の紋章は、過去の遺物となった。追いやられ、踏み荒らされ、焼き滅ぼされた。
しかし、それは未だ熱を持ち、熾火となってそこにある。それもまた、ひとつの事実であった。
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2.
庁舎に入ってくるなり、ダンクルベールは矢継ぎ早に指示を出しはじめた。中でも驚いたことは、ご存知、“錠前屋”に厳戒態勢が命じられたことだった。
ゴフとしては、いつでも動かせるようにはしてある。しかし、それをあえて言葉として出されると、どうしても、頭も体も、鈍ってしまうものだ。
「朝晩の弁当、お熊さんに頼んどきますよ」
オーベリソンの声に、ようやく頭が動きはじめた。
「昼の分もだ。ひとまず二十日分」
「食う暇ができますかね?」
「俺は食う」
はいはい、といった表情で、オーベリソンは席を立った。
ほどなくすれば、あの炊事場の戦乙女が血相を変えて怒鳴り込んでくるだろう。そうなる前に、ゴフもここを離れることにした。オーベリソン以外の下士官への通達もそうだし、ちょっと頭の回ってそうなやつを捕まえて、状況を噛み砕いてもらう必要がある。
廊下を足早に進んでいると、正面から三人ほど並んでこちらに向かってくる。真ん中の男の顔を見て、ゴフは即座に足を止め、敬礼した。向こうも足を止め、にこりと微笑んだ。
「やあ、ゴフ隊長。元気そうで何よりだ」
「おはようございます。セルヴァン局長閣下」
「かしこまるのはここまでにしよう。ちょうど君にも少し、話があったものでね」
四十半ばを過ぎてなお衰え知らずの美貌と美声の、司法警察局局長閣下。ゴフにとっては上官の上官。いっとう偉い人である。
「押し込み強盗殺人が立て続けに二件。ダンクルベール長官からも話があったかもしれんが、これを最重要案件とすることで、国家憲兵隊総局が決定を下した」
「はい。ええと、警察隊本部でも、司法警察局でもなく、総局の決定ですよね?」
「そうだ、総局だ。緊急捜査本部も立ち上げる。国境警備局ほか、国防軍からも人員を補填する予定だ。公安局にも動いてもらう」
「そこまで、大ごとなんですか?」
「そこまで大ごとなのだよ」
セルヴァンのため息は、大きかった。
失礼します、とひと言告げ、セルヴァンの隣にいた若い男ふたりのうち、ひとりの襟首を引っ掴んだ。
「おい、鞄持ち。どうなってやがる」
「俺に聞かないでください。俺もガブリエリも、ついさっき局長閣下に捕まったばっかりで」
「それだよ、お前。長官はどうしたんだよ?」
「それこそわからないですよ。あの人、今日の朝からうわ言みたいに、山から風が降りてきたとか、呟いてばかりで」
ダンクルベールの副官であるペルグランですら、現状を把握しきれていない。となると、どいつもこいつも似たようなものだろう。もう片方のガブリエリも、落ち着かない様子でいる。
「では簡潔に伝えよう、ゴフ隊長」
「はっ」
「本件は、ただの殺しじゃない。私や国家憲兵総監閣下ですら対処しきれないかもしれない、巨大な陰謀だ」
また、頭が固まった。このひと、何かとんでもないことを言い出したぞ。
そしてふと、そんな状況下で、自分達に厳戒態勢が命じられていることを、ゴフは思い出してしまった。
「最悪の場合、“錠前屋”には、宮廷に突入してもらうかもしれん。それぐらいの覚悟を、よろしく」
それでは、と言って、セルヴァンたちは去って行った。
おいおい。何度でも言ってやるぞ。どうなってやがる。
しばしの逡巡のあと、ゴフは駆け出した。わからないことは、本人に聞くしかない。今、ダンクルベールがいそうな場所となると、いくつかに絞られる。
一番最初に思いついた、別棟の司法解剖室には、確かに何人かいた。お目当てのダンクルベールも、壁にもたれかかっていた。
「おう、ゴフか。どうした?」
「長官、状況を整理させてください。大変申し訳ありませんが、俺はちょっと混乱しているようです」
「わかった。ここは、そういうことをするには丁度いい場所だしな。人間もちょうどよく揃っている」
深呼吸して、周りを見渡す。
確かに勢揃いだ。デッサンことフェリエ、ムッシュ・ラポワント、アルシェ、それに聖アンリに、スーリまで。
そして真ん中には、丸焦げで縮こまった、男か女かもわからないほど損傷した遺体がひとつ。
この司法解剖室は、いつしか警察隊本部の面々にとって、ちょっとした雑談場のような場所になりつつあった。司法解剖に携わる三人の様子を見つつ、各々が独自の見解を忌憚なく述べていく。ダンクルベールがいれば、話をまとめつつ、何かしらの糸口に辿り着くこともあるだろう。
「一件目の犠牲者のうち、一番状態のいいやつを見てもらっている。俺が持っている情報と、俺の思いついた仮定が当てはまるかを確認するためだ」
「その、長官が持っている情報ってのが、どでかい陰謀ってやつですよね?先程、たまたまセルヴァン局長閣下に会って、そんなことを言われたんですよ」
「どでかい陰謀ね。そう言うのが正しいかもしれん」
ダンクルベールが苦笑した。
「俺の“足”は、これを“颪”と言っていた。山から降りてくる風、つまりは、余所者の犯行だとな」
ダンクルベールが独自の密偵を雇っていることは、ある程度だが、ゴフも知っていた。規模がどの程度だとか、情報の精度がどの程度か、そこまでは知らない。ただし、この老練な捜査官の名推理には、それら密偵の動きが確実に関わっていることだけはわかっていた。
「ゴフ。お前が知っている中で、一番でかい山は何だ?」
「何ですか、突然」
「いいから言ってみろ。ぱっと思いついたやつだ」
「そりゃあ、海の向こうの霊峰ヴァルハラ」
そこまで言って、頭の中で、何かが組み上がった感じになった。
颪というのは、山から降りてくる風のことだ。でかい山から、降りてくる風。この国の北にある、ヴァーヌ聖教の聖地たる、霊峰ヴァルハラからの。
ヴァーヌからの、侵入者。
「わざわざ海まで越えてくるのはおかしい。降ろした奴がいる。ヴァーヌの連中、つまりは」
「そういうことだ。だから、どでかい陰謀というわけだ」
「旧王朝派、北方ヴァーヌ貴族の連中ですか。先の政変で立場を失ったから、強硬手段に走ったってか。でも、そんなわかりやすいことを、今の今更、やるやつがいるもんですか?」
「小人、窮すれば斯に濫す。そういう言葉も、あったりするよね」
デッサンが口を開いた。今日もあだ名の通り、遺体を前に、忙しく筆を走らせている。
「なんたって、最終目的は王政復古とかいう大改革だ。名誉と権威の復興のためにと息巻いた連中が、一度土を付けられた程度では諦めはしないだろう。結局はうまく行かず、逃げたり降ったり死んだりするわけだけど、そのどれにも当てはまらず、生きているだけの連中が問題になる」
「問題、ね。第一問。この状態の作者の気持ちを答えよ、かな?こりゃあ難問だぞ、先生」
遺体のあちこちをいじりながら、ムッシュが笑った。
「まあ、当時の首切り役人が言うのも何だがね。きっと、死んだほうがましだったろうさ」
その言葉に、いくらか胸が傷んだ。
ムッシュ・ラポワント、あるいはムッシュ・ド・ネション。代々の死刑執行人。政変の折は、来る日も来る日も人を殺し続けた男である。
「悲しいことに、貴族とは、貴族であることが人生の前提にある。前提を覆されれば、誰しもが絶望し、腹を立てる。どうしてこんな目にあわなければならない?私は何も悪いことをしていないのに。悪いのは全部あいつらだ。許せない。仕返しだ、倍返しだ。おお、我が名誉よ。復讐するは我にあり。愛しき君よ、今征くぞ。君を取り戻すためならば、私は生命すらをも厭うことはない」
「覚えてやがれ、こん畜生。ってな」
熱のこもったムッシュの声に対し、至って平静な要約を飛ばしたのはアルシェだった。
「詩集の件、また断ったらしいじゃないか。あんたの詩風、俺も結構好きだから、出してほしいと思ってたんだがね」
アルシェの平坦な言葉に、思わず吹き出してしまった。ムッシュもいくらか、顔が赤くなっている。
このアルシェという男も、かつては旧王朝派の、というより旧王族直下の秘密組織にいたとかいう、曰く付きである。
いつだって仏頂面で、冷酷無比を絵に描いたような振る舞いをするが、案外、こういった茶目っ気のあることもやる。ダンクルベールとは家族付き合いとも聞いているし、話してみれば、本当に、どこにでもいる人という印象に変わっていた。
「さて、第二問はこいつか。おそらくは、若い女。喉ごと頸動脈をやられているが、拘束の跡もないし、抵抗した様子もない。後ろから首を掻かれたかね?」
アルシェが遺体の首を指差す。焼け焦げてはいるが、確かに刃傷が残っている。
「いや、正面から斬られている。意表をつかれたんだ」
デッサンの影から、スーリがそっと、前に出た。
「これぐらいの規模の仕事の場合、内から鍵を開けたり、屋敷の見取り図を用意したりする人間を使う時があるんだ。いわゆる、内通者さ」
「これだけで、どうしてわかる?」
「おやじさんコンビ、今回に限って不作だって話じゃん?屋敷の周りの人たちは、火が上がるまで、まったく気付かなかった。押し入って、いる人間まとめてぶっ殺して、そこから放火までやってるってのに」
「じゃあなんで、こいつまで殺された?」
「いらなくなった。それまでは、褒めておだてて持ち上げて。ほいじゃあ分け前の話を、ってときに、ばっさりとさ」
スーリがひょいと身を乗り出して、アルシェの指差したあたりをじっくりと眺めている。それを見て、不意に、アルシェの指が動いた。アンリがそれを見て、何かを察した。
「喉に、心臓。声を奪ってから、確実にとどめを刺す。順番としては、ありうるかと」
「胸の傷、突きのようだが、広いし、厚いな。馬上刀や細剣じゃない」
「おいおい、今の時代に“だんびら”使いか?」
ゴフは思わず顔をしかめた。
威力は高いが嵩張る段平剣を得物にする強盗団なんて、聞いたことがない。そもそも段平剣というのは、戦場が剣と鎧の時代の産物であって、今の時代、博物館ぐらいにしか置き場所はないはずだ。
「それに、いくら内通者だからって、それこそ“だんびら”担いだ連中を前に、怯えずにいられる人間がいるもんかよ」
「内通者がひとりではなかった。あるいは、屋敷にいる全員、内通者だった。周りもみんな、裏切り者なら、侵入者に対して、油断も生まれるだろう」
ダンクルベールがぼそりと漏らした。スーリが頷く。
「屋敷の足跡が妙だった。正面、裏口、窓という窓の周辺、ありとあらゆるところに、やたらめったら足跡が残っている。それも小さいのから大きいのまで、盛りだくさんだ。盗人ってのは、証拠を残さないのが習性みたいなもんでしょう?」
「情報を飽和させて、証拠として機能させないのも、手口としてはありうる」
「こいつら、相当な用意をしていますよ。時間も金も、たっぷり使っている。全部燃やして証拠を残さないようにと思わせて、見えるところにはあえて残している。消すやり方と、塗りつぶすやり方。ひとつの仕事で、両方使ってる」
真っ黒な目。ひとごろしの目。
ながらく、旧王朝派の手駒として、暗殺家業をしていた男だった。一才の証拠を残さず、暗殺だと見破らせず、あらゆる手段で幾多の政敵を葬ってきた、凄腕の殺し屋。その徹底ぶりは恐ろしく、時には自分の死すら偽装してみせたという。
それでも、スーリはひとりだった。たったひとりでできることは、どうしても限られてくる。こんなやり方は、思いついたところで、実行できなかったのだろう。
「つらいよな、スーリ」
「こんなやり方ができるんなら、やりたかったですよ。おいらはね。殺さなきゃ死ぬだけだったから、死に物狂いで殺してきたんです。血の小便がでるほど、大変な思いだったのに。こいつらはじっくりのんびり、楽しんでやがるんだ。おいらと同じ、殺人鬼の、畜生の分際で」
遺体の置かれた台にかじりつきながら、スーリが震える声でうめいている。体が、戦慄いていた。
「スーリ中尉さま」
アンリだった。
「確かに、貴方のやってきたことは、人の道に背くものだった。でも、貴方が貴方を認めてあげなければ、貴方が褒めてあげなければ。いつしか、貴方を褒めてくれる人は、ひとりもいなくなってしまう」
つとめて優しい口調。
「そんなの、寂しいじゃないですか」
にこりと、可憐な顔と向こう傷が微笑んだ。
言われて、スーリはしょんぼりしたように踵を返してから、それでも一回だけ、吠え声を上げて。それで、終わった。
「ごめん。そして、あんがと。アンリってやっぱり、強いよね」
「いえ、そんなことありません。でも確かに、強く成らなければ、人は救えない。強く在らなければ、人は守れない」
その言葉に、ダンクルベールはゆっくりと瞼を閉じていた。
「神さまは、人を強くは作って下さらなかった。だから、求める強さのためには、人、自らが努力をしなければ」
その目には、涙が無かった。
いつだって、泣いてばかりいた。それでも色々なものを経て、努力をして、強くなった。そうしてこうやって、人に強さの在り方を説いていくところまでに来た。
もう、泣き虫で意地っ張りのアンリじゃない。強さで人を救える聖人に、頼れる仲間になってくれた。
泣かせてくれるじゃねえか、俺たちのアンリ。
「俺たちのアンリは言うことが違ぇやな。若いの並べて、聞かせてやりたいぜ」
「これこれ。そうやって、人の褌で他所を下げるのは行儀が悪いですよ。年長者ってのは、黙って頷いていればいいんです」
湧き出そうになった涙をごまかすために出した言葉に、ムッシュが笑って釘を刺してきた。それで、皆笑った。スーリも、げらげらと笑っていた。
人の気を汲むのは得意科目だが、お株を奪われてしまった。いや、結果的によかったのか。
「ランツクネヒト」
ふと、デッサンがそんなことを言い出した。
「ヴァーヌと“だんびら”。士官学校の、戦史の授業でやったのを思い出した。戦場が長槍と騎兵の時代に、槍衾を切り払っていく傭兵だよ。ええと確か、こっちの言葉だと“草刈り職人”だったかな?」
デッサンの手が、音が出るぐらいに、せわしなく動く。そうしてできあがったのは、身の丈ほどにもなる長い剣を担いだ、死ぬほど派手な格好をした剣士の絵だった。
「発想、着眼点、大いによし。ランツクネヒトとは、また古いな。だが、あの“だんびら”は、思った以上にでかいぞ。なにせ槍衾を刈り払うんだから、お前のその絵のとおりの長さになる」
「そうですね。博物館とかでも、見たことがありましたので。思いつきまでに」
「思いつくことが、いいことだ。続けてみよう」
ダンクルベールは、満足げな表情だった。デッサンもこのごろ、捜査に関する意見を積極的に出せるようになってきた。
ゴフは、デッサンの書いた剣士の絵を、今一度見直した。
何かが、ひっかかった。
両手剣を肩に担いだ、洒落た大男。その腰に、もう一本。帯びているのは、いわゆる小剣と呼ばれる類のもの。そのはずである。
「デッサン、これ、なんだ?」
「なんだよ、ゴフ」
「担いでるやつじゃない。その腰の方だ」
片手半。アルシェの呟きに、力がこもっていた。
「あ、いや。これは咄嗟に描いたから、これが正しいわけじゃあないよ。おそらくはちゃんと片手で収まるくらいの」
「ゴフ、デッサン。でかした」
ダンクルベール。どん、と杖を鳴らした。
「二人とも、着いてこい。士官学校の、戦史資料室だ」
青い瞳が、深くなっていた。
扉の一枚目が開いた。ゴフの心は、踊っていた。
3.
肉も酒も、余るほどにあった。
温かいめしを食ったのも、食わせてやったのも、久しぶりである。二日続けての大仕事だった。ようやく、こうやって遊べるほどの金が入った。あれからもう一週間にもなるが、手下どもは、いまだに朝も夜もないかのように騒いでいる。今もこうやって、一番若いのが、大将に着いてきてよかっただのと、泣きながら絡んでくる。
雌伏とは呼べないほど、惨めな暮らしだった。
昔は私掠認可だとかいって、他国での狼藉の一切を国が保証してくれた。それが、たった一夜にして無くなった。それからは、何でもやるしかなかった。たまに戦があったとしても、村を焼き払えだの、畑を荒らしてこいだの、ひどいときは、銃列に正面から突っ込めだの言われてきた。気がついたときには、周りには憎悪と屍しか残っていなかった。
それでも、生きてきた。
ひとしきり、今日の馬鹿騒ぎが落ち着いたあたりで、男ひとり、入ってきた。合わせるように立ち上がり、促すようにして一緒に外に出る。
「今日も、酒と肉ばかりか。女は、いらんのか」
「いらんな」
「勿体無い。この島の女はいいぞ。ちょっとくすぐるだけで、よく鳴く」
「駄目だ。女は、すぐ漏らす」
自分の言っていることの意味がわかってないのか、男は首を傾げていた。
「そろそろ、また動いてもらう」
「早いな。まだ、釜は組み上がったばかりだ。前の仕事についても、後片付けがしきれていない」
「油合羽どもが、動き出す」
ほう。思わず、口から漏れていた。
「ダンクルベールだな。オーブリー・ダンクルベール。国家憲兵隊の、警察隊本部長官」
「よく知っている」
「魔除けの案山子。油合羽の大親分だ。向こうでも結構、聞こえてたぜ。南の島には手を出すなって。ここ二十年くらいは、常識みたいなもんだった」
思わず、口角が上がっていた。
会ったことなど、勿論ない。しかし、海向かいですら、その名はよく耳にした。神機妙算の捜査官にして、歴戦の指揮官。匪賊から凶悪殺人犯まで、頭脳と剛腕を以てねじ伏せる。警察隊とは言うが、本土の騎士修道会など、相手にならないほどだろうとも。昔馴染みの鉄鉤衆も、食うに困ってこちらに渡ったものの、何もできずに首を括られたと聞いている。
そして、その手強さは、すでに実感していた。
「認識違いがひとつある。奴ら、とっくに動きはじめている」
「何をもって、そんなことを?」
「俺さまとお前がはじめて会ったときには、既にな。お前、虫一匹引っ付けて、何とも思わなかったとはなあ」
言われて、男がみじろぎした。
密偵がひとり、入り込んでいた。それのを見抜いたのは、自分だった。最初の仕事をはじめる前に炙り出せたのは、僥倖だった。
ただ、何も得られぬまま、死なせた。徒労に終わった。
「おい、若僧」
引き抜いた剣を、喉元に突きつけてやった。男は動かなかったが、目は明らかに怯えている。
「俺さまがお前なんぞに呼ばれてここへ来たのは、お前の実家に恩義があったからだ。利用する分には構わんが、手綱の太さを、ちゃんと確かめてからにしたほうがいいぞ」
「強盗騎士が、嘗め腐って」
「お前の首の方が値段が高いとわかれば、すぐにでも斬り落としてやる。覚えておけ」
軽く脅しただけで、男の気が萎えた。
こんな男に、仕えるのか。内心、嫌になってきた。確かに恩はあれど、ここまで落ちぶれているとは思っていなかった。
剣を納める。それで、向こうも話を進める気になった。
「それで、どいつだよ?」
「ブロスキ男爵、マレンツィオ」
名前を聞いた途端、頭に光が走った。
南方ヴァーヌの爵位。本土の皇室も、現在は南方ヴァーヌの血である。それを狙えと、こいつは言い出した。
「この間、国民議会議長になった。もと警察隊本部で、今でも繋がりがある。おそらく、連中は近々接触するだろう。そこを、狙ってもらう」
「高値だが、危険だ。狙う意図がわからん」
「裏切り者だよ。政変の際は、我が身可愛さで逃げまくっていた分際で、今は天下御免がどうたらこうたらと言い張って、でかい顔をしている。恥知らずの、売国奴めが。ヴァーヌ貴族として、あいつが生きていること事態が許せん」
芝居がかったような口調と、身振り手振り。
違う。こいつは、嘘をついている。殺意とは、感情ではなく、背景から産まれる。本当の理由はもっと、不都合なことだ。
「今回の件、そいつに話したな?」
「おい、何を言い出す」
言い終わる前に、剣は喉笛を掠めていた。それで、目の色が褪せた。体も、震えはじめた。
「何遍も言わせるなよ?いいか。俺さまはこれまで、人を騙し、脅し、貶めてきた。お前がやったことが、一番のどじだということが分かる程度にはな」
目を見据える。卑屈なものと、意地。どちらも不要なものだ。だからこうやって、面倒なことにもなる。
君、君足らずとも、臣、臣たるべし。何度も、言い聞かせた。これでも、今まで過ごしてきた時間より、ずっとましなのだから。
「やることをやってからでも、遅くはない。そこもまた、経験してきたことだ。計画通りで行くぞ」
「だがマレンツィオが、警察隊と接触すれば」
「どうにもならんよ。これ以上、手も口も出してくれるな。ここからは、俺さまとダンクルベールたちとの、知恵と我慢の総比べだ。割って入ろうものなら、斬って捨てるぞ」
言いながら、思わず笑いがこぼれていた。
これだ、この感覚。この高揚感。私掠だの、賊働きだのでは味わえない。このひりつくような、恐怖のようなもの。既に向こうも動いている。追いつかれる前に、出し抜く。そのためには、何をやるべきか。頭が、彩りに溢れている。
楽しい。こればかりを、求めていたんだ。
音に聞こえたダンクルベール。どんなやつだ。どんな顔をしている。油合羽なんぞ、漁師どもが使っているようなものを羽織るとはな。濡れるのが、そんなに嫌か。それとも、血を浴びることがか。臆病なのはいいことだが、自分ひとり長生きできたところで、周りの連中はどんどん死んでいくぞ。その油合羽は、それにどこまで耐えられるかな。
さあ。親愛なる警察隊本部長官、オーブリー・ダンクルベール殿。
まずは一献、ご挨拶仕る。
4.
戦史資料室の室長は、捜査一課時代の同僚になっていた。
自分が一課課長になるあたりで、士官学校教官に転任したのまでは覚えていたが、まさかそんな役職になっているとは思わなかった。久しぶりに会ったものだから、お互い、やいのやいのと盛り上がってしまった。
「ヴァーヌの片手、あるいは片手半といえば、これだな」
倉庫の奥の奥あたりで、ラサールが指差したのは、雑多に仕舞われたうちの一振りだった。
他の小剣よりいささか長く、幅広い。湾曲して広がった、装飾性の高い鍔と、扇状に広がった柄頭が目に留まる。
「喧嘩用だったかな?名前の通りだが、まあ、酒場や街中での取っ組み合いでも、よく使っていたらしい。そのあたりは、こっちでの細剣とかと変わりないやな」
分厚い革で拵えた鞘から抜き払う。きっちり手入れされているようで、鈍色の鋼が、怪しい光り方をしていた。
「これは片手か。これの片手半は、あるかね?」
「ちょっと探す必要がある。まあ、そう代わりないさ。刀身と柄をあわせて、掌一枚分、伸びるくらいだ」
「柄頭が重いからか、先重りを感じないな。振りやすい」
「刃引きはしているものの、気をつけろよ。馬上刀や細剣より、刃そのものが重い。まさしく、叩っ斬るための剣だ」
言われた通りの、剣と鎧の時代の、戦場の剣だった。理にかなった作りになっている。掌で転がすだけで、ぶんぶんと音が鳴る。
「ゴフ。お前の、ちょっと構えてみろ」
ふと思いついて、ゴフに声をかけた。
少しの驚きを見せた後、ゴフが腰に佩いていた馬上刀を抜き払った。片手で、半身に構える。作法通りの構えである。
正眼で構えた。鼻から吸った息を、腹に入れていく。丹田に、力を込める。それを見たゴフも、構えを固くした。
振り抜く。抵抗は感じなかった。
部屋の片隅にへし折れた馬上刀の上半分が転がっていた。ゴフも同じようにして、へたり込んだ。
「やはり、今様の刀剣では相手にならんか」
「勘弁してくれよお、長官。むやみに刃物振り回しちゃいけませんって、どこかしらかで習ったでしょう?」
「すまんすまん。新しいやつ、買ってやるよ。いやしかし、片手でこれほどか。両手で持てば、首どころか胴も断てるぞ」
「まだまだ持て余してるみたいだな、ダンクルベール。爺になっても、片足を悪くしたとしても、馬鹿力は健在か」
ラサールが笑いながら、埃に塗れた木箱を引っ張ってきた。片手半の方を持ってきてくれたらしい。
木箱には、聖孔雀の焼印が押されてあった。
「その印、北方ヴァーヌですね?」
「おお、フェリエ君。そうとも。これはその中でも、アルケンヤールとの国境あたりの一品らしい。拵えはそっちと、ほぼ同じだがな。やはり、悪名高い“北魔”とやりあうとなれば、これぐらいはいるってことだ」
デッサンが逸りながら開けた箱の中には、今持っているものの、そのまま一回り長いものが収められていた。それでも、腰に下げる分には邪魔にならない長さだろう。
北方ヴァーヌの賊。うちの手元には、まったく情報が無かった。
“足”を使って、ひとり、会えるかどうかを確かめてみた。本来はこちらから出向くべき人物ではあるが、散歩がてらに来てくれることになった。士官学校の応接間を借りて、会うことにした。
モンゴルフィエ夫人。ヴァルハリア方面の外交官のひとりであり、幾度か顔を合わせたことがあった。ふくよかで愛嬌たっぷりの見た目だが、瞳の奥には酷薄な知性が蠢いている。外交官というより参謀、いや、謀略家と言ってもいいだろう。それぐらい、くせがある御仁だった。
性格はともあれ、知性は確かだ。ここは頼るしかあるまい。
軽く挨拶を済ませてから、本題に移る。
「北方ヴァーヌの情勢について、何か変化はございませんでしたか?」
「北方ヴァーヌですか?いつもどおり、不穏ですわよ」
「不穏、ですか」
極めて穏やかな口調で、モンゴルフィエ夫人は続ける。
「そもそも、ヴァルハリア帝国そのものが今、極めて情勢不安定ですから。宗教改革やらこちらの政変もあって、帝室の権威はもはや薄氷の上。民衆をなんとかなだめるため、憲法や国民議会を制定したはいいものの、今度は貴族層から不満が上がる。もともと中世的封建制度の寄合世帯を、強引に中央集権化したような国ですから、時代を経れば経るほど、あちらを立てればこちらが立たなくなるのは、当然といえば当然ですわ」
用意された珈琲に手を伸ばそうとして、やめた。このひとは、そういう細かいところも見ている。今は、そのまま喋らせた方が、都合が良さそうだ。向こうは遠慮なんてひとつもないように、作法通りの手つきで珈琲を口につけた。
「北方では、北顎海峡の領海権を巡って、アルケンヤールとの紛争が続いております。その軍費は現地の諸侯に押し付けられるものですから、資金繰りに随分苦労しているようで、食うに困って賊に身をやつすものも増えております。先の政変で、我が国から戻った旧王朝派も行く当てがないようで、徐々に北進しているそうです。まあ、そうなれば、後はご想像の通り」
「瓦解は免れませんな。北方で大きな叛乱が起こる」
「あらやだ。あの皇帝陛下は、英邁なお方でしてよ?」
モンゴルフィエ夫人が、にこりと笑った。だが、その目は猛禽類のような冷たさが滲んでいた。
「言うことを聞かない子には、お仕置きが必要です。叛意ありとなれば、いっそ更地にするおつもりのようで、密かに各所から動員を掛けているご様子ですわ。金を生み出せないお貴族さまに価値はないでしょうし。それに、お給料が減る一方の軍人がたへの、いい慰みにもなることでしょうから。軍総帥部は、今か今かと舌なめずりしているようでしてよ」
なるほど、それは不穏だ。
困窮極まる地方諸侯、好き放題言うだけの民衆、そして、出戻りの旧王朝派。これを十把一絡げに均してしまいたいわけだ。低下する一方の皇帝の権威も、幾らかの回復が見込めることだろう。軍部の不満も、解消できる。
「それを察した連中が、我先にと余所に流れ出すのは、想像に難くない。しかし、些か極端にも聞こえますなあ。特に、兵どもに、自国領土への私掠を許可するまでは、流石にやりませんでしょう」
「あら、略奪や暴行の許可は、費用対効果に極めて優れたご褒美でしてよ?貴方は国家憲兵ですから、お嫌いでしょうけれど」
「憲兵である前に、ひとりの国民です。お上の都合で踏み潰されるなんぞ、御免被ります」
「なら、貴方も旗を握ればよろしいじゃないかしら?」
作法に気をつけながら口に運んだ珈琲の熱が、冷めた。
目を見る。笑っている。作り物、そのもの笑み。
「あのガンズビュールの英雄、魔除けの案山子、そして商売繁盛の守護聖人が、民衆のために立ち上がるとなれば、皆、快哉を上げることでしょう。ねえ、国家憲兵警察隊本部長官、ダンクルベールさま」
「ご冗談を、夫人」
「そうかしら?向こうもこっちも、誰も彼も、現状には飽き飽きしている。誰かがなんとかして欲しいと願っている。その誰かが、こんなところに転がっているんですもの。これほど都合のいい話はございませんわ」
震えそうな手を、心で叱りつけた。
これがモンゴルフィエ夫人の腹の中だけの話なのか、それとも、もっと上の意思なのか、読めなかった。よしんばダンクルベールを神輿に決起をさせたとして、どこを落とし所にするつもりだ。民主化か、旧王朝の復古か、ヴァルハリアの介入か。
あるいは、俺の命、そのものか。
「卒爾ながら、申し上げます」
デッサンが、大きく、それでも震える声で割って入った。
「ダンクルベール長官は」
「黙らっしゃい」
一喝。それで、抑え込んでしまった。
恐ろしい目。デッサンが、縮こまることもできずに固まってしまっている。
しばらくの間をおいて、モンゴルフィエ夫人が鼻を鳴らし、こちらに向き直った。目の奥にあった恐ろしいものは消えていた。
「いい部下を持ったわね、ダンクルベールさま」
「痛み入ります」
「こちらも戯れが過ぎましたわ。御免遊ばせ?ただ、わたくしは貴方のこと、そのぐらいは買っていましてよ。そちらのお二方もそうですし、民衆は皆、貴方のことを慕っている。畏れ、敬っている。悪くない話だとは思うのだけれども?」
「お気持ちだけ、頂戴します。本官はただの憲兵です。それに、足の悪い老人です」
「誰かが、貴方の志を継ぐとしても?」
切り上げたと思ったが、まだやる気か。
注意深く、悟られないように、深呼吸した。ゆっくりと、言葉を選びながら、答えた。
「継ぐ者がいたとしても、その者もまた、憲兵でしょう。国家憲兵とは、国家から給料を頂戴し、国家と国民を護るのが仕事です。国家を覆すことは、仕事に含まれておりません」
あら、そのとおりね。モンゴルフィエ夫人は声を出して笑った。
モンゴルフィエ夫人が優雅な所作で立ち上がり、それじゃあ、と言い残して去って行った。
敬礼を返した後、三人、どっと背もたれに体を委ねきった。今になって、汗が吹き出してきた。
「なんなんですか、あの婆さん」
天を仰ぎながら、デッサンがこぼした。瓶底眼鏡が曇るほどに、大汗をかいていた。
「傑物というか、怪物の類だな。気軽に世間話で済ませようと思っていたのだが、油断していた。まさか向こうも、持ってくるものを持ってくるとは、思わなんだ」
ぬるくなった珈琲を煽っても、喉の乾きは収まらなかった。
いずれ、そういう話をするつもりでいたのだろう。向こうからすれば、わざわざ席を設けてくれてありがとう、といったところか。
あの婆、やはり利用するには、危なすぎた。
「デッサンのくそ度胸も大概だけどよ。俺の馬鹿加減もすごいもんだぜ?あの婆さんの言ってること、ほとんどわからなかったよ。わかってたらきっと、耐えられなかっただろうさ」
「羨ましいな、ゴフ。ちょっとだけ分けてくれ」
「分け方がわかりませんよ。まったく、今日は散々な一日だ。刀だけじゃなく、酒も欲しい」
「俺もだ。ふたりとも、帰りに付き合ってくれ」
三人とも、くたくたな様子で、帰り支度をはじめた。およそ三時間。陽も傾きはじめている。
悲鳴が聞こえたのは、士官学校の玄関までたどり着いたところだった。
何かと思った途端、先に帰ったはずのモンゴルフィエ夫人が、血相を変えて戻ってきた。その目には、先ほどの恐ろしいものはなく、完全に取り乱している。
「モンゴルフィエ夫人、如何なされた?」
がたがたと震える体を、思わずで抱き止めた。
「ああ、ダンクルベール、ダンクルベール。なんなのよ、あれ。何が、起きているの?」
「どうか、落ち着いて下さい。何を、見たのです?」
「あれは、貴方がたの馬車でしょう?」
馬車だと。馬車が、どうしたのだ。
デッサンがいきなり、腰に佩いた馬上刀を、ゴフに放って渡した。ゴフも思わず、といった表情だが、こともなげに受け取っていた。
「見てきます」
「待ちなさい。何があるのか、わからんのだぞ」
「今、この中で、命の値段が一番安いのは、僕です」
震えていない。腹が、据わっている。慎重な足取りで、進み出した。
「デッサン」
振り向いたデッサンに、ダンクルベールは胸元に忍ばせていたものを手渡した。
パーカッション・リボルバー。もはや年代ものだが、まだしっかりと動く。
「帰ってこいよ」
デッサンが一礼して、拳銃を受け取った。それを見て、ゴフが馬上刀の鞘を払った。
「おい、薄情者。隣か背中ぐらいは、任せやがれ」
「ごめん、そうだったね。それじゃあ両方、頼んだよ」
意を決したように、ふたりが前に出た。それに続いて、ダンクルベールも、震えるモンゴルフィエ夫人の肩を抱きながら、ゆっくりと足を進める。
自分たちの馬車。夕焼けの中、佇んでいた。確かに、おかしかった。馬車だけが、ぽつんと置かれている。馬も、御者の姿もない。
そして何より、赤い。赤く、悍ましいものに塗れている。
周りを警戒しながら、ゴフとデッサンが近づく。まずは、乗り口の前まで。ゴフが、馬車の周りを一周してから、扉に手をかける。デッサンが、拳銃を正眼に構える。撃鉄を起こす音が、こちらまで響いた。
扉を、開けた。デッサンは、撃たない。撃たずに、構えたままだ。
動揺している。固まって、動けない。
「こりゃあ。ああ、くそったれ」
中を覗き込んだゴフが、叫んでいた。
「ゴフ、応援を呼んできてくれ。僕は、このまま周囲を警戒する。まだ、どこかにいるかもしれない。長官は」
叫んだデッサンの声は、明らかに震えていた。顔が、真っ青になっている。
中に、それほどのものが、ある。
「デッサン、何があると聞いている」
「長官、来ないでください。危険です。そのままモンゴルフィエ夫人を」
「何があると、聞いているんだ」
腰を抜かしたモンゴルフィエ夫人を置き去りにして、駆け寄っていた。体を使って止めようとするデッサンを押し退けて、扉の前までたどり着いた。一気に、馬車に乗り込む。すぐ感じたのは、知っている臭いと、湿り気だった。
おい、これは一体、どういうことだ。
目の前の光景を、ダンクルベールは信じることができなかった。
赤い。弾けたような、赤が、赤黒い何かが、馬車の中に散乱している。そこに何かが、ころんと置いてあった。悍ましい赤の空間の中、その部分だけがやけに白く、眠ったように穏やかだった。
人の、死体。まだ若い娘だった。
その顔を見た時、頭の中が真っ白になった。何かが、失われていくのが、あるいは、満ちてきているのか、自分でもよくわからない。
ただ自分の口が、それの名を綴ったような気がした。
「そんな。お前が、どうして」
その顔は、“足”のひとりだった。
5.
なんでえ、ビゴーのおやじさん。こんな町外れどころか、山の手前まで来るなんて、珍しいな。まあ、何にもないが、寛いでくんな。なぁに、もう、あんたがたの世話になるほど、やましいことはしちゃあいないよ。今は闘犬と、闘鶏ぐらいだ。昔みたいなやつは、もう流行りじゃあないんだ。
変わったことだって?まあ、俺たちみたいな、ごろつき連中の縄張り争いなんかはしょっちゅうだが、ええと、そうだな。おい、カミーユ。見つけたのはお前だったよな。そう、その件だ。ああ、すまないね。そうなんだ。別に大したことじゃあないと思うが、もう少し奥まったところに、結構な規模の焼窯ができててね。あのあたり、何かしらの掘建小屋が数軒あった程度だったんだが。そう。顔を見たが、多分、ヴァルハリアから流れてきたんだろう。連中、土と鉄に関しちゃあ鼻が効くからな。どっかの商家が雇い入れたんだろう。たまに羽振りの良さそうな、派手なあんちゃんが、様子を見に来たりしているよ。思いつくのは、それぐらいかな。
おっと、いいのかい?おいおい、多すぎるぜ。あ、いやあ、いらないわけじゃあないけどよ。すまねえな。暇な時は、また前みたいに、飲みに来てくれよな、おやじさん。
暮山羊街道から少し外れたところにある、山茶花亭の主人からは、一通りのことが聞けた。山道をずんずんと進むビゴーの後ろを、ガブリエリは置いて行かれまいと、半ば躍起になりながら足を動かしていた。
久しぶりの、ビゴーと一緒の聞き込み捜査である。こんな山道くらいで、へこたれてはいられない。
「しかしビゴー准尉殿。長官はどうして、新しい焼き物窯ができてないかなんてこと、言い出したんですかね?」
「それがね。あの人の密偵がやられちまったでしょう?その密偵の体から、焼き物の破片が出てきたんですって」
それも、胃の腑からね。ビゴーが、小さく付け足した。
ガブリエリも、見せてもらった。
まだ、十五、六ぐらいの、若い娘。清められた後とはいえ、それでも見ていられないほどに痛めつけられていた。見つかった時は、死化粧を施されていたという。丁重に葬ったつもりか、あるいは、その死を含め、ダンクルベールを嘲笑うためか。ペルグランとふたり、怒りと悲しみばかりが、涙として出てきていた。
あの娘のことを、ダンクルベールは、きっと信頼していたのだろう。血だらけ傷だらけの体を、手ずから清めてやって、そうして安置所に運ばれてからも、しばらく離れずにいたのだという。
「普通、密偵とか間者っていうのはね、ああやって捕まってしまうと、舌を噛むなり何なりして、死んでしまうのを選ぶんです。死んで、秘密を、主人を守ろうとする。でも、あのこはそうしなかった。ああまでやられても、きっと、生きて帰るつもりだったんでしょう。生きて帰って、長官に、仕事をしたぞって、伝えるつもりだったんだ。それは叶わなかったけど、それでも帰ってきてくれた。手がかりを、文字通り、腹ん中にしまい込んで、帰ってきてくれたんです」
「すごいことだと、思います」
「よくやった、えらいこだって。長官も褒めていた」
ビゴーが寂しそうな顔で、そう呟いた。
「これは、年寄りの繰言なんですがね。ガブリエリさんや」
「はっ、何でしょう」
そらきた、とばかりに、ガブリエリは居住まいを正した。
この前置きが来ると、この人は必ず、ちょっとした気障なことを言ってくれる。思わずにやけそうになる頬を、何とか引き締めるぐらいには、ビゴーのそういうところが、ガブリエリはたまらなく好きだった。
「あたしとか、長官ぐらいの歳になるとね、関わる若いのは、みぃんな、子供とか、孫のように思えてくるもんなんです。どんなに出来が悪くったって、どんなに生意気なこと言われたって、可愛くって、愛おしくって仕方なくなる。年寄りってのはね、どうしてか、そうなってしまうんだ。それなのに、突然いなくなられちまうと、そりゃあ悲しいじゃないですか」
そこまで言って、ビゴーは足をとめて、振り向いてくれた。
「だからね、ガブリエリさん。あんた、死んじゃあ駄目ですからね。絶対に、死んじゃあいけませんよ」
そこまで言って、ビゴーは、気恥ずかしそうに笑った。
その言葉を聞きながら、ガブリエリはもう、舞い上がりそうになっていた。むず痒いというか、嬉しいというか、何だか涙まで込み上げてきた。
やっぱり、この人だよなあ。この人の隣が、私は一番なんだよなあ。
「ご安心下さい。この油合羽の濃いうちは、絶対に死んだりしませんよ。准尉殿の羽織ってるやつよりぼろぼろにして、羽織ったまんま、火に清められてやるんですから」
「まったく。あんたは口ばっかり、達者なんですから」
ビゴーは、目を細めて、笑ってくれていた。
しばらく山道を登っていくと、確かにそれは見えてきた。大きな、煉瓦造りの窯である。周りには、掘建小屋がちらほらあった。職工たちが、寝泊まりするところなのだろうか。
近づいてみる。人の気配は、少なかった。
ちょっとした違和感を感じた。掘建小屋の方である。変な匂いがする。堆肥というか、糞尿の匂い。つまりは、人が暮らすようの小屋ではない。
それともうひとつ、卵の腐ったような匂い。
釜のそばに、腰の曲がりかけた、白髪の老人が佇んでいた。悪い目つきと、突き出た鼻が、なんとなく印象に残った。
それを見て、ふたりでゆっくりと歩いて近づいていく。
「どうも。国家憲兵隊のものです」
ビゴーの穏やかな挨拶に、老人は、無感情に一瞥をくれるだけだった。それで、踵をかえした。
「ああ、憲兵さんですね。お世話さまです」
代わりに奥から出てきたのは、がっしりとした体格には不釣り合いな若々しい顔をした、朗らかな男だった。
「エーミールといいます。ここの釜を任されています」
「突然すみません、警察隊のビゴーと申します。たまたま近くを寄りまして、こんなところに、窯場なんてあったかなぁ、と思いまして」
「ありゃまあ、そうですよね。実は、先月あたり、アギヨン商会の旦那衆に頼まれまして、急遽拵えたんです。ああ、ちょっと、聞き取りづらいでしょう?なにぶん、北から出稼ぎにきたもんでございまして。御無礼は平に、ご容赦を」
にこにこと笑う若者の言葉は、お世辞にも流暢とは言えなかった。ちょっと、発音が固っ苦しいところがある。
「それはまあ、ご苦労さまです。アギヨン商会さん、焼き物も取り扱うようになったんですね」
「新規事業ってやつみたいです。このあたり、木も、土もいいんですよ。塗り薬も、良いのが作れますし。まあ確かに、憲兵さんが見て回るぐらい、悪い連中がうろついてるのは存じてます。ただそこは、こう見えて、うちも腕自慢がそろってますから、ご心配なく」
「はは、それは頼もしい限りで。ただ、本当に危なくなったら、すぐご相談ください。麓の山茶花亭という宿ですが、そこの主人が窓口になっておりますので」
「ご配慮、感謝いたします」
エーミールと名乗る若者は、つとめて穏やかだった。
「ああ、あの、お父つぁんについては、失礼いたしました。あの人、あの通り頑固で偏屈なのもありますし、こっちの言葉も難しいみたいで」
奥の方をちらりと見てから、エーミールが深々と頭を下げた。
「いえ、こちらも突然お尋ねしたものですから」
「ご機嫌を損ねてしまったようであれば、本当に」
「ご心配なく。大丈夫ですよ」
「であれば、ああ、よかった」
エーミールが、大袈裟に胸を撫で下ろすような仕草をしてから、遠くにいった老人に対して、何かを叫んだ。語調からして、北方ヴァーヌの言葉のようである。それを聞いて、老人は遠くからこちらを向いて、申し訳程度の会釈をした。
「お仕事中、失礼しました。では、私どもはこのあたりで」
「どうも、お世話さまです。ああそうだ、少々お待ちを」
エーミールが、咄嗟に踵を返して走っていった。しばらくして、小ぶりの木箱に、いくつかの陶器を入れて寄越してきた。ご丁寧に、一つ一つ、紙で包んである。
「新作でございます。アギヨン商会、どうぞ、よしなに」
「これはどうも。ありがたく頂戴します」
「それでは、道中お気をつけて」
深々と例をするエーミールに、会釈を返して、ビゴーとガブリエリは踵を返した。
「ここですかね、准尉殿」
「そうでしょうね。にしても、窯場、か」
「焼き物窯は、高温が出せる。人を何人かぐらいなら、骨ごと灰にできる。そして必然的に、生木も。もっと高温を出すなら、木炭も作る炭焼き窯も必要になる」
「人を灰にできるほどの熱と、木炭」
ビゴーが確認するように、重い声を出した。
「匂いは、気づきましたか?」
「ええと、なんというか、糞尿かな?あとは、卵が腐ったようなやつ、つまりは」
「硫黄ですね」
言われて、ガブリエリの頭の中で、何かが組み上がった。
「硫黄、木炭、硝石。つまりは、火薬」
「どうやら、偶然ですが、あたりを引いたみたいですな」
ビゴーが、険しい顔のまま、口元だけ笑った。
「一大事ですね。早く、長官に」
「そう、いち早く、帰りましょう」
言って、ビゴーの歩調が一段と早くなった。
「死んじゃあ、駄目ですからね。ガブリエリさん」
言われてはじめて、ガブリエリは背筋に嫌なものを感じた。
薄暗い夕刻、周りの木立のざわめきが、不意に生き物のそれのように思えてきた。
6.
“足”は、確かに届いていたようだった。
ビゴーとガブリエリが、暮山羊街道の方で焼き物窯を見つけたそうである。それも、木炭窯と、硝石小屋、さらには硫黄の匂いまで一緒になっている、不自然なやつだという。
とっかかりさえ渡せば、必ず何かを拾ってきてくれる。あのふたりであれば、必ずそれができる。
だが、連中はそれより一歩だけ、早かった。
同時に三本、狙われた。爆発騒ぎである。豪商、豪族派議員、それに北方ヴァーヌ出身貴族。いずれも意識不明の重体で、助かる見込みは薄いだろう。
「狙われたのは、アギヨン商会の旦那だった」
報告書を読みながら、セルヴァンは唸るように言った。
「窯場の連中も、アギヨン商会を名乗っていたらしい」
「動かれる。根城については、振り出しだ」
そう返すと、セルヴァンは、こちらを見てから、わざとらしくため息をついた。
「調子が悪いようだな。足を挫いたからとはいえ、貴様らしくもない」
「俺の“足”だ。まだ痛む」
「なら、アンリ君なり、ムッシュなりに診てもらうことだ。旧王朝派も狙われたとなれば、私の方も、一旦、振り出しだ。ペルグラン少尉も返す。だから、貴様もなんとかして、気持ちを切り替えてくれ」
暗い表情のまま、セルヴァンが退室した。
旧王朝派で不穏な動きがないか、ということで、社交界や宮廷に理解のあるペルグランやガブリエリといった名門出身者を貸し出していたが、旧王朝派ですら標的となると、また前提からの組み立て直しということになる。
ダンクルベールも、少しして席を立った。紙巻でも吸いに行こうと思ったからだ。
顔が、見えない。人となりが、見えてこない。
ダンクルベールが捜査するときは、犯人の人物像を推察して、その行動原理を予測することが多かった。それを裏付けるため証拠だったり、証言だったりするわけだ。だが、それが見えない。伸ばした手の先すら霞む濃霧の中、見せてきたものは、全部、撒き餌だった。
となれば、本寸法の真っ向勝負。それも、これほどまでに大掛かりな連中を相手に。
ひとつの手順に、こだわりすぎたな。ダンクルベールは、外ヘ向かう廊下の途中で、唇を噛んだ。
本来、捜査とはそうあるべきなのだ。証拠があって、証言があって、行動原理を予測する。自分がやっているのは、いわゆる心理学の真似事みたいなものだった。まず人がいて、どういう考えのもと、どう動くのか。それが、通じない。ならば俺は、凡百と変わりないではないか。
心細かった。ひとりぼっちになったような気分だった。
窓から、西日が差していた。まだ三時も回ったばかりだった。もう、冬になるのか。そんな時期になったんだな。
階段まで差し掛かったあたりで、踊り場に誰かがいた。朱と黒を基調とした、派手なドレスの女だった。
「やあ、我が愛しき人。思った通り、難儀そうな顔だ」
女は、朱い髪をたなびかせながら、美貌をこちらに向かせた。ダンクルベールはため息ひとつ、答えるだけは答えることにした。
「確かに難儀してはいる。だが、お前の出る幕はない」
朱き瞳のシェラドゥルーガ。ガンズビュールの人喰らい。
白秋近く生きてきた中で、唯一出会った、人にあらざる人でなし。銃弾を何発あびようが、死なないようなやつ。人間の常識が一切通じない、正真正銘の化け物である。
「おやまあ、不機嫌?お前をそこまで困らせるというのであれば、私も頑張りがいがあるというものなのだがねえ。何だったら替わってあげるよ。さあ、どんなやつだい?どう料理する?献立ぐらいは教えてくれたっていいだろう?」
右腕にその手を回しながら、シェラドゥルーガは多分に吐息を含んだ囁きを続けた。あえて、しばらく無視した。
廊下が長すぎる。そして、誰もいない。
いつもの、ちょっとした“悪戯”である。これでも一応は国家機密であるから、その自覚もあって、こういうことをしているのだろう。たったひとつ、世間話をするためだけに。
「ならばまず、お伺いするが。ボドリエール夫人」
「何なりと、警察隊本部長官さま」
「強盗、放火、それと爆発物の取り扱いの経験は?」
「無い」
即答。シェラドゥルーガが、自信満々に胸を逸らしていた。
凶悪犯ではあるが、猟奇殺人が専門である。そういうことはしたことがないはずだ。
「であれば、今回はお前の出番は無いな」
「なんだよう。ちょっとぐらいは遊んでくれたっていいだろう」
「不機嫌だと見抜いてくれた通りだ。勘弁してくれ」
あえて大股に歩いて、距離を離した。今、こいつとあれこれしている余裕はない。やるべきことが、山ほどある。
「あのさあ、我が愛しき人」
しばらくして、ため息混じりに。
「怒りは、目を曇らせるぞ」
思わず、立ち止まった。
振り返った。シェラドゥルーガは、しゅんとした顔で、こちらを伺うようにしていた。
「お前に何が起きたのか、何に怒っているのかなど、私の知ったことではない。ただ、お前の今のような姿は、今まで見たことがない。見たことがないほど、ひどい姿だ。こんなことをお前に言うことになるとは、思わなかった」
左足が、痛い。それすら忘れて、杖すら放り投げて詰め寄っていた。胸が、苦しい。呼吸が浅く、荒い。
気付いたら、シェラドゥルーガは頬を押さえて、横を向いていた。女の顔を、叩いてしまっていた。
「それだ。お前が、そんな顔をするのを、見たくなかった」
そう呟くシェラドゥルーガの目と口調は、きわめて悲しみに満ちていた。
「先ほどセルヴァン閣下にも会ったが、言われたよ。あいつがおかしいって。お前はその瞳のように、海のような男なのだから。海が荒れれば、周りに住む者たちは怯えてしまうのだよ?」
「知った口を聞くな。お前なんぞに、わかってたまるか」
「わからん、わからんさ。ただ、今のお前が、みっともないと言っているのだ。私はただそれだけが、心配なんだ」
宙ぶらりんになったままの右の手に、シェラドゥルーガは、そっと両の手を添えた。
「我が愛しき、オーブリー・リュシアン」
リュシアン。
あのかたは、酒臭い息を撒き散らしながら、そう呼んでくれた。勝手に、そう名付けてきたんだった。
うるせえ。俺がお前を、リュシアンって呼びてぇからだ。そのでっけえ体と、綺麗な肌。そしてその、深い目が、俺にそう呼んでくれって、言ってきたのさ。夜の海みてぇなお前から、言ってきたことだろう?だから、今日からお前は、俺にとっては、リュシアンだ。
今、そう呼んでくれた声は、酒と煙草に焼けた、がらがらの声ではなく、まるで母親のような、穏やかな声だった。
「私を、不安にさせないでおくれ」
朱い瞳が、優しく突き刺さった。その色が、頭のどこかにしまった、何かに重なったような気がした。
ダンクルベールは、つとめて落ち着き払って、深呼吸した。それを見て、シェラドゥルーガも、そばに転がった杖を拾って、手渡してきた。
「すまないことをした。本当に、よくないことをした」
「気に病むことはない。私も、余計なことを言ったのだから」
「ああ、ありがとう。だが本当に、今回だけは、俺だけでやらせてくれ。俺たち警察隊だけで、かたをつける」
「すべて、お前の思うがままに。我が愛しき人」
優しく微笑んでくれていた。それを見て、ダンクルベールは歩を進めた。
「ああ、それと」
言いたいことがひとつ、あった。振り向きは、しなかった。
「終わったら、付き合え。いやとは言わせん」
そう言って、あらためて足を進めた。
少しして、後ろで吹き出すように、大きな笑い声が上がった。
霧が、晴れた。頭の中が、ようやく見渡せるようになった。あれに心配されるなんぞ、俺もらしくない。
だが、怒りは、乗り越えた。それだけでいい。
“颪”の連中、それを降ろしたやつ。受けて立ってやる。そして、この報いは、法の下で受けてもらおう。
「ダンクルベール、ダンクルベール」
不意に、呼び止められた。正面だった。
セルヴァン。真っ青で、汗塗れだった。
「どうした、貴様。そんな顔をして」
セルヴァンが、震えながら、胸ぐらを掴んできた。
「王陛下が、狙われた」
その言葉に、杖を落としていた。
7.
馬車の中、ダンクルベールは無言で外を眺めていた。こいつなりに、いろいろと考えているのだろう。そしてそれは、自分より遥かに深く、入り組んだもののはずだ。それに対し口を挟めば、ただでは済まないことも知っている。
その日は確かに、ヴァルハリアからの親書を携えた使者が、王陛下と謁見するという予定があると聞いていた。使者が抱えていた親書が、使者が抱えたままの状態で、爆発した。
宮廷は大騒ぎだったようだ。爆音と閃光、飛び散る肉片と血飛沫、そしてはらわた。王妃陛下は、その場で卒倒してしまったというほどだ。
その後、ヴァルハリア側に確認を取ったが、返答は驚くほど淡白だった。
皇帝の親書も、謁見の使者の話も知らない。そんな予定も約束もない。ただそれだけである。
その後の混乱については、外務省にすべて放り投げた。くれぐれも最悪の結果にならないよう、動いてもらわなければならない。宮内省近衛局に口添えし、すぐさま衛兵の配置も見直した。
「王陛下は、ひどくお怒りのご様子だ。偽りの使者を立てて、お命を狙ったのだからな」
セルヴァンは、静かに漏らした。実際、セルヴァンと憲兵総監、宰相閣下、そして主だった議員たちは、相当な剣幕で怒鳴り散らかされた。
派閥がどうこうなどとか、貴公らの些末ないがみ合いに口を出す気はない。だが余や、余の家族、そして他国まで巻き込むと云うのならば、もはや余の知ったことではない。これ以上、続けるようであれば、余はここを引き払い、カロジリアに引きこもる。それでも良いな。
そこまで言われて、セルヴァンは、思わず総毛立った。
連中の狙いは、玉座だ。市井や宮廷からの評判が悪いとはいえ、王は王である。戴くべき王がいなくなるだけで、この見せかけの安寧は終わってしまう。残されるのは、空の玉座と、いがみ合う豪族貴族ども、そして、それを脅威、あるいは好機と見るヴァルハリアやユィズランド。あるいは、エルトゥールルか。
その先にあるのは、国の滅亡。
壊すだけ壊して、その後に玉座に至ればいい。この国土のすべてが灰燼に帰した後だろうと。
「できるな。この国の弱いところを、ついてきた」
「ただの賊と、そのパトロンじゃない。期待した以上の、どでかい陰謀だな、ダンクルベール」
「なんとかの顔は、三度まで。だったかな?」
ダンクルベールが、のそりと、こちらを向いた。
「連中は最低でも、もう一度、王陛下を狙う。王陛下に、カロジリアにお帰りいただくために」
「ではなぜ今、ブロスキ男爵と会う必要がある?」
「ようやく、顔が見えてきたのでな」
そう言いはじめたダンクルベールの目は、いつも通り、夜の海のように、どこまでも深く、静かだった。
戻ってきたな、ダンクルベール。セルヴァンは、胸の中にわだかまっていた焦りと不安が、それだけで小さくなっていくのを感じた。
さあ、この男の本領は、ここからだ。
「おい、聞かせろよ。見えたのは、どっちだ?」
「パトロンの方だ。仮に“黒幕”とでも呼ぼうか。こいつは、ひとりだ。残念なことに、嫌われ者のようだな」
ダンクルベールは、胸元から紙巻をとりだして咥えながら話しはじめた。
「本来は、この国に残った旧王朝派で手を取り合って、これをやる気だった。だが、旧王朝派も一枚岩ではないことは、先の政変でわかりきっていたはずだ。わかっていなかったから、誰もついてこなかった。それで、ヴァルハリア本国から“颪”を吹かせた。これが“黒幕”が今動かせる、唯一の手駒だな」
政変とはいえ、実際に落命した旧王朝派は、ほんの一部である。
警察隊本部に関わるところで言えば、ペルグラン家は旧王朝の外戚にあたるが、セルヴァン家を含む地方豪族に恭順を示していた。ガブリエリ家も外戚とはいえ、北方ヴァーヌ系の旧王朝とは違って南方ヴァーヌ系の血族であり、くわえて、もと王家という大看板がある。マレンツィオ家はその親戚筋だ。処断できるほどの名分がない。そして大部分の旧王朝派は、とっとと尻尾を巻いて、本国に逃げ帰っていた。
今、この状況で、奸賊どもに報復を、と息を巻いたところで、まともに話を聞くものなど、ほとんどいないのだろう。
「檄文をばらまいている。“颪”はどう思おうが、“黒幕”は今になって、それが不安材料になっている」
「“颪”と“黒幕”の間で、軋轢が生じるな」
「これまで調子良くやってきたのは、“颪”の方が主導権を握れていたからだな。だが、ほんの少しだけ、時間がかかってしまった。俺の“足”が入り、釜場が見つかった。“黒幕”は今頃、気が気じゃない。でかいことをやるくせに、肝は小さいやつだな。撒いた種をどうにかしなければと、騒いでいる。“颪”としては一旦、我儘に付き合う必要がある」
「それがマレンツィオという、旧王朝派の大物の暗殺か」
「男爵閣下が、もと警察隊というのも大きいだろう。俺と貴様とが接触するとなれば、急いででも動く」
「餌は豪華な方がいい、というわけか?」
「それだけだと、実は心許なくってな。そこで、だ」
ひとしきりふかし終わった紙巻の屑を、携帯灰皿に仕舞い込んで、ダンクルベールはのんびりと首を回した。
「こないだ、釣りの名人を名乗る爺さまに教わったことでな」
ダンクルベールが、飄々とした口調で、もう少しだけ身を乗り出した。
「見えている魚は、釣れないそうだ」
そう言って、にやりと口を歪めた。
言っていることの真意は、わからなかった。逆の言い方をすると、見えない魚を釣るための仕掛けを、用意するということか。それはどんな仕掛けだ。そもそも魚とは向こうか、それとも自分たちか。
そうこうしているうちに、馬車はマレンツィオの邸宅前に停まった。相変わらず、さすがは名のある大貴族という、風格の建物だった。
「おお、久しぶりだな。さすがの俺でも、持て余すほどの暇があるわけではないが、お前がどうしてもと言うならなあ。もちろん、お前が飲んでいるようなやつも用意してあるぞ」
ひとまわり太くなった腹回りと、老いで弛んだ頬とを揺すりながら、マレンツィオ自ら出迎えてくれた。それを見て、決まり事のように、ダンクルベールが愛嬌たっぷりの愛想笑いで、頭を掻きながらも拝礼した。
「いやあ、恐縮です。ブロスキ男爵閣下。いや、国民議会議長閣下とお呼びすべきですかな。ご就任のお祝いが遅れてしまい、申し訳ございません」
「なに。祝ってもらうほど、大した役職じゃない。それにしても、こちらも久方ぶりに、局長閣下もご一緒とは。遠方からはるばる、士大夫が訪ねてくる。我が寡賓だ。“三十二年の赤”をご用意しておりますので、どうぞ、ご堪能ください」
「お気遣いなく、議長閣下」
セルヴァンは、つとめて笑顔で返答したつもりだった。もと上官に対して田舎者とは、随分と偉くなったもんだな、この野郎。ともあれ、“三十二年の赤”があるというならば、大人になってやろうか。
先の政変では、マレンツィオは自分と同じように、静観を決め込んでいた。ただ、天下御免のブロスキ男爵のご印籠が、些かの邪魔をしたらしい。旧王朝派の中核が泣きついてきて、それを追い散らかすのに、随分以上の苦労したということは聞いていた。
管理職としては有能としても、捜査官、あるいは政治家としては極めて凡庸なマレンツィオが、国民議会議長に抜擢されたのには、それなりの訳がある。
旧王朝派を含む王侯貴族、地方豪族、豪商の三すくみが、先の政変で大きく崩れたのはいいが、旧王朝派の後釜に、現王朝派こと、ユィズランド貴族たちがすっぽりと嵌め込まれた。後ろ盾たるヴァーヌという存在価値を失った旧王朝派ではあるが、特色が失われたおかげか、新たな三すくみの中において貴重な中立派、というより緩衝地帯として作用しはじめたのだ。
もはや希少な、旧王朝派の穏健派という立場。豊富な人脈を背景にした交渉力と調整力。そして天下御免のブロスキ男爵と、ガンズビュールの英雄としての名声。本人の人となりはいざ知らず、どこ置いても角が立たない人材として、議長の座に座らせておくには最適解である。
当初は貴族院議長を推されていたというが、身に余ると言って固辞したらしい。向こうは文字通りの針の筵だろうし、国民議会の方ならば、元より市井の人気が高い人であるので、気が楽だろう。民衆からは早速、国民の声の代弁者として、ちやほやされているようだ。
「いやしかし、嘗めてかかっていた俺も悪いが、国民議会議長というのも大変なものだ。民衆ども、何も知らないで好き勝手言いやがる」
「言うだけ無料ですからね。それでも、すでにいくつもの法案をお上げになられている。閣下の手腕あってこそです」
「何をおっしゃる。局長閣下にご紹介いただいた、あの秘書官殿のおかげです。いや、あれはすごいな。俺の尻を、馬のそれだと思って叩いてきやがる」
「カスタニエ君のことですか。お役に立っているようで、何よりです」
「どこへ行こうが、持つべきものは、昼夜を共にしてくれる、忠実で健康な部下だ。おかげで人件費だけで家が建つ」
マレンツィオは迷惑そうな表情で、葉巻に火をつけた。
性格の部分でぶつかることは多いが、お互い、年を取ったこともあり、関係としては概ね良好である。秘書官ひとり、紹介していた。有能ではあるが、人間性に些か難があり、使いこなせなかったのがいたので、行儀見習いを兼ねてマレンツィオに渡していた。こういうのを取り扱うのは、マレンツィオの本領である。自分の下にいた頃より、のびのびと仕事ができているようだった。
国民議会議長就任以降のマレンツィオの人気は、今まで以上に跳ね上がっていた。特にその、人となりが受け入れられている。おだてられ上手の見栄っ張りは相変わらずとして、才覚以上の気位が年齢を経て落ち着いたのか、それでも抜けきれない嫌味と皮肉が愛嬌として捉えられているらしく、特に若者たちからの受けが抜群にいい。大衆向けの新聞では、国民議会の名物おじさんだとか、ある種の珍獣の類として親しまれているようだった。
落ち着くべき人が、落ち着くべきところに落ち着いた、というところか。そういうのもありだな、と思わず頷いた。
「そろそろ、本題に移りたく思います」
使用人が、それぞれにそれぞれの酒と酒肴を供したあたりで、ダンクルベールが身を乗り出した。
「単刀直入にお尋ねします、議長閣下」
「どうぞ、警察隊本部長官殿」
「我々に何か、隠し事をされてませんか?」
マレンツィオの表情が、固まった。
「どの程度の、隠し事だろうかね」
「北の山から、“颪”が降りてきた。そういう程度です」
「ふん。その程度のことで、この俺の時間を取らせるとは」
マレンツィオはお得意の嫌味を口ずさみながら、しかし険しい顔のまま立ち上がり、部屋の片隅まで歩いて行った。しばらくして、何かを摘んで戻ってきた。
「恋文が、いくつか届いている。匿名でな」
何通かの、封の開いた手紙を放り投げ、マレンツィオは眉間を抑えた。ダンクルベールは、動じていないようだった。
「お返事は、されたのですか?」
「するものかよ。今さらお国に謀反など、まっぴらごめんだ。非才の身で、国民議会とはいえ、議長にまで登れたのだ。もうこれ以上は求めん。贅沢というものだよ」
「懸命なご判断ですが、なぜ、隠されていたのですか?」
セルヴァンはそれを、あえて聞いた。聞いているものがいると感じていたからだった。
「貴公もご存じの通りですがね、セルヴァン閣下。この黒犬めはまあとにかく、面倒臭いったらありゃあしない。これの信頼を得るにはこつがいる。いっそ疑ってもらってから、それを晴らしたほうが、幾分かはいいだろうと思いましてな」
ある種の処世術さ。と、マレンツィオは息をついた。ダンクルベールも、この回答には合点がいっている様子である。
「他の旧王朝派議員にも、相当数、送っていたみたいだな。皆、一斉に詰め寄ってきたよ。だから、俺と、貴族院議長の連名で、黙殺するように密命を出した。司法警察局の連中が勘付くまで、口を割るな。可能であれば、焼いて捨てろ、とまで言ってある」
「流石ですな。恋文が届いた時点で擦り寄ってきたならば、今頃、全員まとめて犬小屋にぶち込んでいたことでしょう」
「やれやれ。お互い、まだ耄碌しちゃあいないようだ」
ひどく疲れたふうに答えてから、マレンツィオは、卓の一番手前にある酒肴に手を付けた。
この酒肴、びっくりするほど美味いのである。茹でた海老と木の実とを、香草の効いたソースで和えたもので、ブロスキ男爵夫人シャルロットの自信作だそうだ。ダンクルベールも、遠慮など一切見せることもなく、そればっかり口に運んでいる。
「送り主に、心当たりはございますか?」
「ないね。ただ、ある程度の絞り込みはできるだろうさ。ほれ、この封だよ。ご丁寧に、聖孔雀の紋章だ。つまり、北方ヴァーヌ出身で、要領が悪くて、まだ死んでないやつだ。となればまあ、数える程度しかあるまい」
言われて、三つか四つ、名前が思い浮かんだ。
マレンツィオはむしゃくしゃした様子で、自分に注がれたものと同じものを一気に飲み込んだ。ちょっと勿体無い飲み方である。
「好き勝手やるのは勝手だろうが、王陛下まで巻き込みやがって。地元に帰りたいって駄々こねるのを、宥める身にもなってみやがれってんだ。まあつまりは、双六盤をひっくり返せば、自分達の出番も回ってくるだろうって算段なんだろうな。馬鹿には馬鹿なりの考えがあるっていうことか」
「流石は、捜査一課課長を任されただけはありますな」
「忘れるなよ。俺とて、お前と共にガンズビュールを生き抜いた捜査官だ。お前より何段も格は落ちるがな」
「恐れ入ります」
ダンクルベールが、穏やかな表情で座礼した。
ひと通りの応酬の後、マレンツィオがもう一度、葉巻を咥えた。それを見て、ダンクルベールも、胸元から紙巻を取り出して、火をつけた。セルヴァンは煙草を嗜まないので、善意で提供された“三十二年の赤”を楽しむことにした。
ボドリエール夫人の処女作としても知られる“三十二年の赤”であるが、これは、とある銘柄の俗称である。三十二年の赤といえばこれ、というやつである。それぐらい、ワイン愛好家の間では、家を売ってでも欲しいと言われるほどに人気であり、もはや手に入るものではない。提供されたものは別の当たり年のものだろうが、それでも相当な値になるだろう。
このあたりはきっと、セルヴァンがボドリエール・ファンであることを汲んで、シャルロットが用意してくれたのだろう。大変に香りがよく、赤ではあるが軽やかであり、酒肴と合わせてもおかしいところが無かった。
マレンツィオの様子がおかしくなったのは、その味を楽しんでいるときだった。突然、うめきだしたのだ。
「議長閣下?」
胸を、抑えている。目が、飛び出すほどになっている。太った体が、小刻みに痙攣していた。
呼吸が、できていない。
「議長閣下、如何なされた」
思わず、ワイングラスを放り投げて、駆け寄っていた。
舌が、口の中から飛び出てきている。肉のついた背中を、尾骨あたりから力を入れて摩り上げる。
毒だ。
ワイン、酒肴、葉巻。その中で、自分が口にしていないもの。
葉巻。葉巻に、毒が仕込まれていたのか。
「誰ぞ、誰ぞあるか」
ダンクルベールが叫ぶ。少しもしないうちに、何人かが、部屋に飛び込んできた。
屋敷の使用人。シャルロット。そして、何名かの憲兵。その何名かに、セルヴァンは見覚えがあった。
「空気が、肺腑に届かなくなっていますな」
恰幅のいい偉丈夫。ムッシュ・ラポワントである。
続けて駆けつけた若い女にも、見覚えがあった。素早い動きで、マレンツィオの片腕を押さえつけ、袖を捲り上げる。上腕部に、縄のようなものをきつく結び上げる。ムッシュが、抱えていた鞄を開く。
「アンリ。しっかりと押さえておくれよ」
言われて、向こう傷が走った美貌が頷いた。
ふたりとも、見事な手際だった。下腕の内側を指でばしばしと叩く。浮き上がった青い血管に向かって、静かに注射器を刺してゆく。
「苦しいのはわかります。まずは苦しいことを受け入れて、閣下。状況を理解すれば、心は落ち着きます」
向こう傷の聖女。最前線の守護天使。聖アンリ。
「貴方を、お星さまになんかさせやしない。お側にいます、閣下。どうか、生きたいと、気を強く持って」
このあたりで、頭の整理が追いついた。
随分と準備がいいじゃないか。セルヴァンはダンクルベールに視線を向けた。当の本人は、目の前の状況が、さも当然のことであるかのように、紙巻を咥えていた。
「安定したら、動かすぞ。ここからだと」
「はい。私の医務院が、一番近いです。馬車なら、五分もしないうちに」
「よし、ムッシュ。頼んだ」
少しして、マレンツィオが激しく咳き込んだ。
息が戻った。薬というものは、こんなに早く効くものなのかと、思わず感心した。
「行きます」
勢いよく、アンリがマレンツィオの巨体を担ぎ上げた。
思わず、唖然としていた。若年の細腕ながら、長く情勢不安な地方にいた救護兵であるので、相当な力持ちなのは頭に入っている。一度、ダンクルベールを担ぎ上げたのを見て仰天していたが、今回はそれの上を行くマレンツィオである。
そこからは早かった。おろおろとする使用人を尻目に、マレンツィオを担いだアンリと、それを支えるムッシュとシャルロットが、一気に玄関まで掛けてゆく。もう何人か、着いてきていた連中が、道中の邪魔になりそうなものを掃けながら、玄関の観音開きを大きく開く。
玄関正面には、後ろ開きの馬車が待っていた。マレンツィオの体と、付き添っているシャルロットを馬車の中にぶち込んでから、アンリたちも乗り込んだ。
「セルヴァン、出るぞ」
呆然としていたところに、極めて深い声で、ダンクルベールがそう言った。促され、正面まで歩いて行くと、もう一台の馬車が駆けつけてきた。
「おい貴様、まさか」
「計画通りだ」
背中を見せたまま、ダンクルベールはわざとらしく、紫煙を噴き上げた。
8.
何かが、起きている。
マレンツィオ、ダンクルベール、セルヴァン。主要の三名が落ち着いたあたりで、一気に乗り込む段取りである。今回の内通者はひとりだけで、それが合図を出したら、開始のつもりだった。
それより早く、屋敷の中が騒がしくなった。
そうこうしているうちに何台かの馬車がやってきて、太った男を抱えた女が現れて、そのうちの一台にそいつをぶち込んだ。おそらく、あの太いのがマレンツィオだろう。
その馬車が出た後に、悠々と、ふたつの影が出てきた。杖をついた大きいのと、それより少し小さいやつ。
「若旦那、どうします?」
親父がつけてくれた、年のいった目付役が、こちらを伺ってきた。今回の仕事については、自分に全ての裁量が委ねられている。
考えるための時間は、一瞬すら与えられていない。
「撤退だな」
「ご英断です。殿は、俺たちに」
「いや、俺がやる。お前たちの方が速く、精確だ。生きて、親父に伝えてくれ。予定通り、しくじったと」
目付役は驚いたように、少しの逡巡を見せた。その後に、ご無事で、と言い残し、影も残さずに消えていった。
もともと、捨て仕事である。
雇い主が、色々と注文をつけはじめた。自分達を引き込む前に、方々に恋文を送っていたのが露見するのはまずいと。
そんなこと、我々の知ったことではないが、ご機嫌を取る必要はある。ただ、馬鹿正直に、恋文を送った先すべてを手にかけるのは、時間がかかるし、身元を自ら晒すようなものだ。
だから、しくじる。親父は、そう判断した。その代わり、これも撒き餌にする。それから、本筋に戻ろう、と。
見えている魚は釣れない。きっと、大勢の憲兵が護衛しているか、場所か時間をずらすかなり、対策はしてくるはずだ。だから、しくじるには容易い。だからお前、やってみろ。つまり、ちょっと行って、脅かしてくればいいだけだ。もし捕まったとしても、吐けるものは吐いていい。その頃までに、こちらで本筋を終わらせておく。
親父の予想通り、何かしらの用意はしているとは思っていたが、これは予想だにしていなかった。護衛はほとんどいなかったし、目の前の光景通りだ。見たところ、毒を盛られたのだろうか。とすれば、他にマレンツィオを狙うやつがいたか、それとも内通者が余計なことをしたか。もしかしたら、それ以上の、宝になる情報が得られるかもしれない。
あの目付は、働きは十二分以上だが、こう云う時のことを考えるのには向かなかった。だから、自分が残ることにした。
手元には、他に四名。いずれも腕は立つから、選択肢を狭める必要はない。事態を把握してから帰るもよし。あいつらを驚かせてから帰るもよし。親父も、顔ぐらいは拝んでおきたいと言っていたから、いい収穫になるだろう。
決断の後なら、猶予はある。まずは、見に徹するべし。親父の教え通りだ。
相手はふたり。杖をついた大男と、それよりは劣るが、体つきのしっかりとした男。つまりは、ダンクルベールと、セルヴァンだ。ふたりとも、剣を佩いていない。
いけるな。思って、剣の柄に手を伸ばした。
「そこまでだ」
喉元に、何かを突きつけられた。背中に、怖気が走った。
力を込める。振り向きながら、振り抜く。ぶつかった。斬れていない。弾かれた。こちらも、喉は無事だった。
暗闇でもわかるほど、大男だ。長柄の斧。鈍い光から、胸甲、籠手、そして鉄兜。ちゃんと準備してきたようで、相当な重装備である。
構え直す。こめかみの横に、前手を添える。切っ先を、前に突き出す。
“怒りの攻撃”。親父の、教え通りの構えである。
「ほう。見たことのある構えだ」
「これでも本場仕込みだ。侮るなよ」
「いいじゃないか。おかげで、遠慮する必要がなくなった」
大男は、斧を両手で持ったきり、構えない。動かないなら、自分から行く。“怒りの攻撃”は攻防一体の型だ。
左からひとつ。弾かれる。ならば、上段。これは、避けられた。やるな。突きを、騙しを入れながら何発か。これも、うまく躱された。むこうが動かしているのは、上体だけだ。
不意に、膝に何かをくらった。痛みは少ないが、体勢が崩れる。矢継ぎ早に、中段を二発。これは、なんとか防げた。
「うまいが、こだわりすぎているねえ。そういうのに、馬鹿正直に付き合う必要もないだろう」
大男が、随分と偉そうに言った。
飛んでくるのは、斧刃じゃない。柄の方だった。長柄斧を、杖のように使う。速く、動きが小さく、そして当たれば硬い。鋼の剣ですら、弾くのが手一杯だ。そして、絶対に上段は狙ってこない。“怒りの攻撃”は本来、上段から中段に対する守りの構えであるから、続けるだけ不利になる。そうこうしていれば、一撃必殺の斧刃が襲って来るだろう。
やるじゃねぇか。馬上刀だの細剣だのより、よっぽど野蛮で、よっぽど面白えや。
構えを正面に直し、突っ込む。はじめて、斧刃の方が飛んできた。打ち込んだ剣と、ぶつかる。手が痺れるほど、重い。
しかし、相手は振り抜いた。それが、斧の弱みだ。小回りでは、剣の方が遥かに融通が効く。
刹那の間に、体を縮め込み、解き放つようにして、突いた。狙いは、脇。
何かを裂いた。布。皮膚や肉の感触は、ない。
「“だんびら”なら確か、切先より下は、刃を付けないんだよな?」
男の不敵な言葉に、ぞくりとした。
剣の中ほどを、左脇で抱え込まれていた。その両手に、既に斧はなく、自分の体に組み付いている。
まずい。息を抜け。力を、抜かなければ。
思うより先に、投げ飛ばされていた。
両の手首は、無事だ。察した途端、体が先に、剣を手放していた。手放していなければ、両の手首は折れていたはずだ。受け身も上手く取れている。痛みは少ない。
立てる。
立ち上がったと思った途端、また、吹っ飛んだ。銃弾が、顔にぶち当たったか。
それじゃあ、死ぬのか。親父、俺は。
「おい。生きてるだろ、お前」
誰かが、頬を叩いている。意識を失っていたようだった。
視界が元に戻ると、黒い肌の若い男が、にやにやしながら覗き込んできた。少し後ろに、あの大男もいる。
「やるじゃねぇか。うちのオーベリソンの拳骨もらって、どこも壊れていないとは、たいしたもんだぜ」
黒い肌の男が、自慢げに大男を指差した。
拳骨だと。あれが、人の拳だっていうのか。思わず、顔を拭う。鼻も、折れていない。唇を、少し切ったぐらいだろう。
大男が、鉄兜を脱いだ。白い肌と、岸壁のように厳つい顔。アルケンヤールの人相だ。かつて“北魔”と恐れられた、蛮族の総本山である。
「鉄籠手がありましたから、力が十分に伝わりませんでしたかな。まあ、生捕りにするなら、都合がよかった」
「“北魔”に、黒肌野郎にとは。国家憲兵ってのも、節操の無い連中なんだな」
「節操が無いから、強ぇのさ。地元の連中に教えとけ。ここの案山子には、“足”だけじゃなくて、腕っこきの“錠前屋”が控えてるってな。まあ、生きて帰れたらの話だけどよ」
体に、縄が打たれた。周りを見渡す。手下どもも、同じように縄を打たれて、項垂れていた。
予定通り、しくじった。口の中に、悔しさと、血の味が滲んだ。
9.
焼かれたのは、ヘルツベルク宮中伯の邸宅だった。
たまたま別邸の方にいたらしく、宮中伯本人は無事だったようだ。随分と怒り心頭らしく、無事を確認しにいったものが、しこたま罵倒されたようだった。
おい軍警、どうなっている。お前たちはまだ、賊の尻尾も掴んではおらんのか。父祖の代からの屋敷ひとつ守れんとは。お前らは、なんの役にも立たん木偶だ。いいか、私は別邸に籠る。もっと役に立つ衛兵を回しておけ。
随分とまあ、良いご身分だな。ダンクルベールは報告を聞いて毒づいた。
現場は確かに、散々な有様だったが、色々と違和感があった。
「ペルグラン。どう感じた?」
「とにかく、不自然さを」
ペルグランが、地面の灰に指を立てて、あれやこれやと描いている。これが彼なりの、考えのまとめ方である。
「死体が少ない。衛兵の分だけ。使用人は逃がしたか、連れて行った。絵画、調度品の痕跡もほとんど無い。これもやはり、逃がしている。ヘルツベルク宮中伯といえば、相当な蒐集家と聞いていました」
「いいぞ。出力しながら、順番に組み立てていきなさい」
「偽装です。今までの“颪”なら、皆殺しにするはず。それがない。ただ、影武者がいないのが気になります。用意できなかったんですかね?死んだほうが動きやすいはずなのに」
「なぜ、できなかったと思う?」
「選択肢として、ふたつ。本人が嫌がった。もしくは予想外のことが起きて、そちらに注力する必要があった。つまり、昨日の同時刻、マレンツィオ閣下の暗殺に失敗した」
「発想、着眼点、大いによし。もう少し整理してから、俺の見立てと合わせてみることにしよう」
立ち上がったペルグランの背中を、ぽんと叩いた。ペルグランが嬉しそうに、そして気恥ずかしそうに笑った。
ダンクルベールも、ほぼ同じ見立てである。偽装。本来は、ヘルツベルク伯も死んだことにしたかった。死ななかったのは、死ぬのを嫌がった。あくまで宮中伯としての生活をしていたいという、貴族根性が邪魔をした。
“颪”としては痛手であろう。こちらの力量を踏まえていれば、殺しておかなければ、足がつくのは想定しているはずだ。“黒幕”の我儘に付き合ったせいで、身元が割れる羽目になった。
そのあたりで、セルヴァンが現場に顔を出した。その場をペルグランに任せ、ふたりで路地の方へ、隠れるようにして進んでいった。
「ここだな」
「だろうな、十中八九」
ヘルツベルク宮中伯。長い歴史のある名家である。去年あたり、先代が亡くなって、文句をたれていた若いのに代替わりしたばかりだった。先代は大層な大人物で、派閥を超えて交流が広い人だったから、ダンクルベールも何度か世話になったことがある。大身ながら、話せる殿さまだった。
何より、北方ヴァーヌ出身の、旧王朝派である。
「ペルグランだけでも、現場は回せるぐらいになってきたな。今回はちと、相手が不勉強だったのもあるが」
「まあ、向こうから尻尾を出してくれたのだから、こちらも好き勝手させてもらおう。私は外務省と、ヴァーヌ聖教会に話をつけてみる」
「ヴァルハリアを動かすか。大掛かりになるな」
「向こうが、ことを大きくする気なんだ、付き合おうぜ」
このあたりは、名士たるセルヴァンの本領である。
「それにしても」
ひとしきり話し込んだ後、セルヴァンが悪そうな顔をした。
「貴様も悪い奴だな。マレンツィオ閣下に、毒を盛るとは」
「“颪”も、本気で来ないだろうと踏んだからな。いっそ釣鉤ごと糸を思い切り引っ張って、竿をふんだくってやった。これで向こうも、一気には踏み込めなくなったはずだ」
「嵌められた閣下は、今頃、さぞやお怒りだろう」
「勿論、事前に話はつけておいたさ。ああ、それとだな」
そういえば、ダンクルベールは、ここからをどう説明すればいいかを考えていなかった。だから、考えながら喋ることにした。
「厳密には、毒では無い」
「はぁ?」
「免疫の過剰反応だったかな?乳幼児に多いのだが、特定の食べ物とかを摂ると、蕁麻疹が出たり、呼吸がうまくいかなくなったりするという、病気というよりは、身体機能の異常だそうだ」
セルヴァンは、首をひねったままだった。確かキトリーの上の子が似たようなものを患っていたらしいが、自分も実際、理解が及んでいないものである。
マレンツィオの大好物に海老があるのだが、最近、それを食べると、呼吸が苦しくなるということを、先月あたりに聞いていた。娘ふたりが今も世話になっているので、そのお礼にと出向いた席で、シャルロットに相談されたのだ。
昨日の会合で出た、海老の酒肴こそがそれである。あれはシャルロットの実家に伝わる秘伝のレシピであり、またマレンツィオが愛してやまない逸品だというのに、もう食べさせてあげることができないと、さめざめと泣いてしまっていた。
近くに医務院を構えるムッシュによると、体を守る仕組みが過剰に反応して、呼吸器に異常が出ることがあるそうだった。ダンクルベールやマレンツィオの齢で発症するのは、かなり珍しいらしい。医学会でも研究が進んでおり、対象となる食物を少しずつ摂取して身体を慣らしてやれば、いずれは寛解するとのことである。
原因はわかっているし、対処は可能である。見せかけの毒殺未遂をやるのには好都合だった。
だから先んじて、陰謀にまつわる諸々とあわせて、マレンツィオに注文を出しておいた。奥さまお手製の、あの海老の美味しいやつ、久々にご馳走になりたいのですが、と。マレンツィオも久々に好物が食べれるとあって乗り気であり、またムッシュとも前々から知己になりたかったらしく、入院と治療を切欠に、交友を深めたいとのことだった。シャルロットにだけは可哀想な思いをさせてしまったが、寛解するものであると伝えたところ、心から喜んでくれた。
あのふたりといえば、巷ではちょっとした名物だった。何しろ、名族同士の恋愛結婚である。シャルロットも名の知れた、南東の名家の出ではあるものの、流石に天下御免のブロスキ男爵家には足元にも及ばないほどには、家格の差がある。それを若かりしマレンツィオが社交界で見初めて、決まっていた許嫁に頭を下げ、包むものを包んでまでして、口説きに口説いて、妻にと娶ったのだ。
シャルロットとしては、かのブロスキ男爵家に嫁ぐなど畏れ多いと、使用人になるつもりで出向いたらしく、とにかく働くことで認めてもらうしかないと思い込んでいたそうだ。そして、その働きぶりがあまりに素晴らしいものだから、男爵家側も恐縮してしまい、嫡男の嫁なのだからそこまでしなくてもいいと、何度も説得したという。そうやって幾度かの押し問答を経て、何とか落ち着いたものの、やはり働かせたら右に出るものがいないので、結局は家のことはすべて、シャルロットが差配することになっていた。
また人となりも素晴らしく、家の内外も貴賎をも問わず、穏やかで心優しく接してくれる、慈母のようなおひとである。あの気難しい見栄っ張りのマレンツィオを常に支え、癇癪を起こしても、優しく宥め窘めるのだから、いつぞやに大変ではないかと労ったのだが、そこがあのひとのいいところだからと、惚気けられてしまった。マレンツィオも、これほどの人を迎えることができて果報も果報と、暇さえあれば惚気話をぶち込んでくるので、家庭で色々とあった身としては、なんとも羨ましい限りである。
ペルグランやセルヴァンとは一足先に、庁舎に戻ることにした。やったことと、これからやるべきことを、整理していくためである。
“黒幕”の姿は捉えた。これは、セルヴァンが外交方面で攻めかかる。警察隊としては、これ以上やることはない。
他の旧王朝派については、マレンツィオがいい仕事をしてくれた。このまま黙ってくれていれば、こちらも動きやすいし、“黒幕”の姿をいっそう浮き彫りにできるが、楽観はできない。
“颪”は“黒幕”との問答と、こちらが捕まえた捕虜もあって、迂闊には動けまい。結局は、ひとつの家を後ろ盾にした賊であり、時間をかければ掛けただけ不利になるだろう。だが今は、足を止めているだけの状況。次の一撃は、思い切りのいい、必殺の一撃になるだろう。その前に仕留めなければならない。
如何にして“颪”を捉えるか。
しばらくしてから、アルシェを呼んだ。喫煙可能な場所に移る。自分が紙巻を取り出すと、アルシェも続くようにして、紙巻を取り出した。
「出番ですかね。時間はどれぐらい、頂戴できますか?」
「四日かな」
「やはり、それぐらいですか」
捕まえたやつは、やはりアルシェに任せることにした。かつて旧王家直下の“秘密警察”にいた、凄腕の拷問官である。
「そもそも、吐かんでしょう。そういう躾をされた顔です。まだ舌を噛んでないのが、不思議なくらいです」
「そうだろうな。だから、やれるところまででいい」
無茶は承知の上である。だから、取っ掛かりひとつ、見つけられればいいぐらいだった。
「なら、ひとつ。変化球でよろしければ」
ふと、アルシェがこちらを見て言った。ひとつ頷くと、あえて耳打ちをしてきた。
その内容に、ちょっとした驚きがあった。
「やれるのか?」
「得手です」
「よし、任せた。用意するものは用意するが、他に欲しいものはあるか?」
「おやじさん。いや、ガブリエリ少尉を。もしかしたら、釜場で顔を見ているかもしれない。あとひとりくらい、演者が欲しいですが」
「なら、これも注文だが、ペルグランを出す」
アルシェが、あからさまにいやそうな顔をした。
「受け入れてくれますかね?」
「ふたつ。ちょっとした事情があってだな」
ダンクルベールも、周りに人がいないことを確認した上で、あえてアルシェに耳打ちした。
その内容に、あの仏頂面が一度、目を白黒させた。
「なるほど?」
「旧王朝派を含む王侯貴族が一枚岩ではないからこそ、“黒幕”は“颪”を呼んだ。だが、一枚岩ではないからこそ、よからぬ企みをするということは、ありうる」
王陛下の身辺を守るために、宮廷にスーリと“足”を入れてあった。早速、何人か怪しいのを捕まえていた。
その中に、明らかに“颪”とは関係のない勢力が混ざっていたことが、気がかりだった。
「豪商、豪族、あるいはヴァーヌ聖教会あたりも。この混乱を見て、旗色を変えるもの。あるいは、自分の企てを進めたいものも」
「ひょっとしたら、ひょっとする」
セルヴァンや軍総帥部にも話はするが、できうる限り、自分たちの把握できるところで事を進めていきたい。権謀術数など、やらないにこしたことはないが、やはり必要な時はどうしても出てくる。
こういう話ができるのは、うちにはアルシェぐらいしかいない。
「長官がペルグラン少尉、あるいはアズナヴール伯家に疑いを持っている。確かに大抵の連中は、それだけで二の足を踏むはずです」
“政争の国”と揶揄されるほどの国である。静観を決め込んでいる連中が、実際、腹の中で何を考えているかまではわからない。
だからこそ、急がなければならない。
自分の目が光っている事を、見せる必要がある。その生贄として、あのニコラ・ペルグランのお血筋たる、ペルグランを使う。可哀想だが、もはや手段を選んではいられなくなってきた。
そして、もうひとつの事情。
「春になれば、俺も白秋に入る」
これは耳打ちをせず、目を見ていった。アルシェが少しだけ、顔をしかめた。
「世継ぎは、ペルグラン少尉と?」
「ああ。そうした。ウトマン、マギー、ペルグランの順だろうが、俺がいるうちに、育てきる」
「ペルグラン少尉かガブリエリ少尉となれば、確かにペルグラン少尉ですね。ガブリエリ少尉は、司法警察局、あるいは内務省か」
「そう。だからペルグランを、お前のようなことができるようにする。あるいはできなくとも、選べるようにする」
それでアルシェも、納得したようだった。
ペルグランは、原石だった。上に立つ人間として、この組織を、広く見れる人間になってほしい。そのためにも、業に塗れることも、疑念に晒されることも、覚えさせなければならなかった。
人は、育てなければ、育たない。そのためなら、冥府魔道にも、堕ちてみせる。非道の謗りも、喜んで受ける。
執務室にペルグランを呼んだ。アルシェも一緒にいる。
「やらなければ、駄目ですか?」
用件を伝えたところ、やはりペルグランは、つらそうな顔をした。
「お前に任せる。できれば、やってもらいたい」
「理解はできるし納得もできますが、賛同はできません。卑劣すぎます。ガブリエリほどではないにしろ、俺にだって良心があります。人として、そこまでのことはやりたくありません」
「そうだな。だから、任せる」
「アルシェ大尉は、それでいいんですか?」
懇願するような声だった。
「仕事としてはな。私人としては、やりたくない」
あくまで、淡々と。
アルシェとは、そういう男である。目的のためなら手段を選ばない、というより、必要なことと不必要なことの線引ができる。そして必要なことであれば、どんな極端なことだってやってのける。
「ジャン=ジャック・ニコラ・ドゥ・ペルグラン」
あえて、そう呼んだ。難しい顔で、脂汗をにじませる若者の肩を、両手で掴んだ。
「これだけは、かまえて覚えておきなさい」
目には、強い意志があった。頼もしくも、強固なものが。
「人の上に立つためには、心に一匹の鬼を飼わねばならん」
その言葉で、目が、ぐらついた。
心を殺すためのもの。それをダンクルベールは、鬼と呼んでいた。心を殺し、目的のために手段を選ばないことをやるために、それが必要だった。
ペルグランを大きくする。そのために、血に塗れさせる。かつてダンクルベールが、望まざるとも、そうしたように。
「場合によっては、守るべきものを棄てねばならん」
「長官には、それができるのですか?」
「ガンズビュールで、俺はパトリシアを撃った」
ペルグランの身体が、大きく身震いした。歯の軋む音が、聞こえるほどだった。
パトリシア・ドゥ・ボドリエール。疑っていた。だが、愛してくれた。だから、同じぐらいに愛していた。
それでも、撃った。その首に食らいつき、撃ち殺した。
「やはり、愛してらっしゃったんですね」
「ああ。今でも愛している。だからこそ、撃てる」
「観念しました。謹んで、拝領いたします」
俯いたままで、敬礼が返ってきた。
「ただひとつ、我儘を」
ペルグラン。顔を上げた。
「終わったら一発、ぶん殴らせて下さい」
その表情は、見惚れるほどだった。
「何発でもいい。気が済むまで、やりなさい」
「承知しました。それでは」
声色は変わらず、ペルグランは踵を返した。
「珈琲。今、お持ちします」
退室間際、それだけ言われた。
姿が見えなくなった後、胸の中に、悲しいものが広がった。
たどってきたものと同じ道しか、示すことができないのか。他の方法があれば、きっとよかったのだが。
「ペルグランの珈琲、美味いぞ。それで、落ち着こう」
「そうですね。ちょうど、喉が乾いたもので」
アルシェは、落ち着いていた。
「大丈夫です。大きくなれますよ、きっと」
仏頂面が、口元だけで笑った。
たまに見せてくれるそれと、ペルグランの珈琲が、心を取り戻させてくれた。
“颪”もこちらも、お互い、次の一手が、やれるかぎりの最後だろう。こちらの手は、アルシェ渾身の一撃。それでも、チェックメイトには届かないだろう。
だが、デュースまでは持ち込んだ。次は、マッチポイント、アドバンテージ・レシーバー。
今度は、こっちの番だ。
10.
暗い牢屋だった。
壁には、柔らかい詰め物が敷き詰められていて、頭蓋を割れないようにしてある。隅には、厠代わりの穴が空いているが、その穴にも格子がはめ殺しされていて、脱出できそうにはない。そんなところに手枷をされて、放り投げられていた。
猿轡はない。死ぬなら、舌を噛んで死ね。ということなのだろう。めしは、日に一回、最低限のものが出た。
静かだった。他の四人は、別の建物にいるのだろうか。親父は、捕まったとしても、そのうちに本筋を片付けておくと言っていた。
ここを出る手段はいくつかあるだろうから、それが思いつくまでは、のんびりさせてもらおう。
おそらく、何日かしてから、ぼんやりとした明かりが降りてきた。
男、三人。暗かったが、ひとりだけ、見覚えがあった。釜場に来た軍警の片割れで、金髪の色男。そいつが真ん中にいる、人相が悪い男に、何かを呟いてから、去って行った。
残された二人が、ゆっくりと牢の中に入ってきた。
「よう、エーミール」
人相の悪い方が、声をかけてきた。
返事はしなかった。もう片方はランタンを持ったまま、壁にもたれかかった。童顔の、若い男だった。
「エーミール、話をしようよ」
「名前を間違えるような失礼な奴と、話すことなんかねぇ」
人相の悪い方が、怪訝そうな顔をした。
「俺は、グスタフってんだ」
「なんだよ、嘘ついてたのかよ」
男が、ゆっくり近づいてくる。髪を掴まれて、頬をぶん殴られた。
「お前、ビゴーのおやじさんとガブリエリに、嘘ついたのかよ。最低だな」
双眸が、暗闇の中で蠢く。睥睨するような光。
「軍警なんぞに、腹ぁ曝け出して、たまるもんかよ」
「おい、嘘つき野郎。俺はそういうのは大嫌いなんだ。おやじさんはお前のこと、いいやつだって言ってたんだぜ。アギヨン商会の、愛想がよくって、帰り際にお土産までもらったって。それなのに全部、嘘だったんだな」
「そりゃあまあ、お人好しの爺だな。騙し甲斐があったよ」
また、殴られた。
「そうかい、グスタフ。お前、そういう奴なんだな」
人相の悪い男が、腰に佩いていた警棒を手に取った。
右肩を、ぶっ叩かれた。思わず、うめいた。続けて、腹につま先が突き刺さった。
「残念だ。お前みたいな嘘つきと話すことなんか、何ひとつない。お前が死ぬまで、適当に痛めつけることにする」
呼吸が、できなかった。何も入っていないはずの腹の中身が、出そうになった。
「待ってくれ。助けてくれよ、お兄さん」
「おう、なんだ、もう降参か?ずいぶん素直じゃないか」
男が、また、髪を掴み上げた。
「じゃあまず、お前らの組織の名を言え」
相変わらず、見下すような目だ。
決めた。こいつを、とことん怒らせてやろう。本気にさせて、もう片方に止められるまで、怒らせる。そこからなら、ふたりとも蹴り飛ばせる。
そして、逃げられる。
「ヴァルハリア少年合唱団」
腹に、拳骨が飛んできた。また、息ができなくなる。
「冗談にしたって、つまんねぇんだよ」
「へへ、怒れよ。怒って、大事な虜囚を、殺せばいいんだ」
「もとからそのつもりだよ、嘘つき野郎」
こめかみに、警棒を打ちつけられた。目眩がした。倒れ込んだ後、何度も、踏みつけられた。
気を失ってたようだった。気づいたら、ふたりともいなくなっていた。
手枷は、外されていた。ところどころが、死ぬほど痛い。
警棒をぶつけられたこめかみを触った時、布の感触がした。手当をされている。他の傷も、丁寧に手当がされていた。
やれやれ。向こうさん、ちゃんと冷静だな。逃げるのも、楽をさせてくれそうにないか。
しばらくして、また降りてきた。中に入ってくる。
今度は何も言わずに、蹴り飛ばされた。仰向けに倒れる。鳩尾を、何度も踏みつけられた。腹の奥から、胃液が飛び出してきた。それを見計らったように、顔面に水をぶっかけられた。凍えるような冷たさだった。
「お前は、嘘つきだ」
男は言いながら、耳を引っ張り上げてきた。
「嘘つき野郎は、嘘つきのまま、死んでいけ」
そこからは、あまり覚えていない。
拳、蹴り、警棒。絶え間なく、痛めつけられた。一時間ぐらい、続いたと思う。
また、意識を失っていた。起きた時、体のところどころに、また包帯が巻かれている。
そんなことが、何回も続いた。嘘つき野郎。まともな尋問もなく、ただただ殴られる。お前は、嘘つきだ。男は、それしか言わない。気を失うと、その間に手当をされる。そうしているうちにめしが出たので、一日続いたことになる。
またふたりが来て、殴られ続けて、意識を失った。
目覚めた時、ちょうど、ふたりが牢から出ていくところだった。ランタンを持った若い方が、一度だけ、こちらを一瞥した。鍵が、閉められる。また、部屋が暗くなる。
部屋の片隅に、何かが落ちているのに気づいた。這いつくばりながら、それに近づいた。
紙切れだった。
暗闇に目が慣れるまで、紙切れを持ったまま、じっとしていた。徐々に、何かが見えてきた。読めるようにまでなったとき、思わず、唾を飲んでいた。
必ず、助ける。それだけ書かれていた。
11.
それを夢と認識するのには、いくらか時間を要した。
ゼラニウムが咲いていた。自宅の花壇である。そろそろ終わりの時期だったはずだが、しっかりした花弁で、色とりどりの花が咲いていた。ずっと見ていたいと思うほどだった。
若い娘がひとり、花壇をいじっていた。
たまにこうやって、勝手に花を植えて、帰っていくのだ。自分はそういうことをやらないから、どう世話をすればいいのかわからなかったが、自分のいない間に、水やりなり、肥料を足したりしていたのだろう。あれが来てからは毎年、春から冬のはじめまで、しっかり咲き続けていた。
ゼラニウム、好きなんだよね。気障りだっていう人もいるけど、やっぱり、綺麗だもん。いろんな色があるし。でもね、おじさん。人にあげる時は、濃すぎない程度の赤、黄、ピンクだよ。真紅と白は、愛でる分にはいいけど、人にあげるには、よくないんだって。でもやっぱり、こうやって、いろんな色があるのが、あたし、好きなんだ。
たまに遊びに来る娘たち以外に、この家に顔を見せるのは、この娘ぐらいだった。
そして、その声と、その笑顔は、もう、帰ってこない。
誰かが部屋に入ってくる音で、目を覚ました。束の間、眠っていたようだった。
勤務中に居眠りなどとは。自分にしては、らしくないというか、珍しいことである。爺になどなるものではないと、いくらか自虐めいたものが口元に浮かんだかもしれない。
「筆跡鑑定の結果、出ました」
部屋に飛び込んできたのは、ウトマンとセルヴァンだった。
長らく自分の副官をやっていたが、ペルグランが来てからは、捜査一課の課長を任せていた。現状、自分がこの件につきっきりになっているため、警察隊本部としての組織運営は、いつもどおりウトマンとビアトリクスに放り投げている。
「一致です。例の恋文、ゲオルグ・フォン・ヘルツベルク宮中伯の筆跡で間違いないかと」
「でかした。わざわざ直筆とは、ご丁寧なことだ」
「ダンクルベール、こちらも進んだぞ。ヴァルハリアの大使が、ヘルツベルクの坊ちゃんの身柄を要求してきた。なんと、向こうのヴァーヌ聖教会大司教猊下との連名でだ」
セルヴァンが、満面の笑みで書状をひらひらさせている。
「モンゴルフィエの婆さまめ、大はしゃぎで対応してくれたよ。こいつは、逮捕令状より効果覿面だぜ」
言われて、思わず苦笑した。
モンゴルフィエ夫人め。こちらを揶揄いに来たつもりが、外面を取り繕えないほど、えらい目にあったのだ。そんな時にセルヴァンから声を掛けられたとなれば、名誉回復のいい機会と、勢い勇んで対応したのだろう。
「みんな、調子がいいようだな」
「アルシェ大尉の方は、進捗はいかがでしょう?」
「予定通りだ。今夜、仕上げにかかる」
周りには、諸事情によりペルグランを副官から外した、とだけ言ってあった。すぐさまペルグランの父親から、物言いが入った。
本部長官殿は、我が子を蔑ろにするのか。もしや、我々を疑っているのか。
職場に乗り込んできたのを、なんとか宥めすかして、お帰りいただいた。去り際に何かを言おうとして、途端に青ざめた顔になっていた。こちらの腹の中を、そこで察したわけである。
他の王侯貴族や豪族たちも、なんとか自身の潔白を認めてもらおうと、自分やらセルヴァンやらに擦り寄ってきている。宮廷に入り込んでいる不穏分子も、一気にその数を減らしているようだ。
期待通りの成果が出ている。つまりは、順調というわけだ。
眠気の残る頬を自分で引っ叩いて、どっと立ち上がった。
「よし、はじめるか。俺と、“錠前屋”で出るぞ」
「坊ちゃんと“颪”は、一緒にいるんだろう?それなら、私も出る。坊ちゃんの相手は、この私だ」
「よしきた。ウトマン。すまんが、また留守を頼むぞ」
「承りました」
ウトマンが、仕方ない、といった表情で了承した。
「まったく、長官も局長閣下もお忙しいものですから、色々と業務が滞っているんです。あとは了承欄だけ埋めてもらえば終わるんで、とっとと帰ってきてくださいよ?」
ウトマンに結構な剣幕で凄まれたものだから、ふたりして狼狽えてしまった。温厚篤実、冷静沈着だが、根っこはかなり荒んでいるので、怒るとおっかない。
それを見て、はじめてウトマンが頬を緩めた。
「それでは、ご武運を」
「ありがとう。では、また」
ウトマンが、笑顔で敬礼した。こちらも居住まいを正し、敬礼を返した。
「あいつ、やっぱり欲しいな」
廊下を歩いていると、セルヴァンがそんなことを言い出した。顔に出すつもりはなかったが、ダンクルベールは極めて渋い表情をしてしまった。
「駄目だ。俺の後は、あいつと決めている。貴様にはヴィルピンを渡すと決めていただろう」
「泣き虫ヴィルピンも欲しいさ。ただどうしても、隣の芝は青く見えるもんだな。マレンツィオ閣下にカスタニエを渡したのも、今更になって惜しくなってきた」
「嘆いている暇があったら、育てろ。絶対、その方が早い」
ごちゃごちゃと言い合いをしながら、練兵場に出た。
“錠前屋”達が訓練の最中で、こちらに気づくなり、姿勢を正して敬礼を送ってきた。手で、それを制する。
「秘密兵器の方は、どうだ?」
「なんとか様になってきた、ってところですかね。あまりにも難しいもんですから、いつはじめようが、ぶっつけ本番みたいなもんですよ」
ゴフが、組み打ち相手が構えている長柄を一瞥しながら、ため息をついた。鎌と槍と鉤爪が一緒くたになったような穂先が、鋭く光っている。
戟槍とでもいうのだろうか、宮廷の儀仗隊から拝借してきた、秘密兵器である。今となっては、その華美な様相から、パレードぐらいにしか出番がないが、戦場において一時代を築いた銘品である。
「おう。その本番が、ようやく来たぞ」
「長官、そいつは」
「待たせたな、“錠前屋”ども。仕事の時間だ」
言われて、ゴフが喜色満面といった様子で、全員に号令をかけた。ものの数分もしないうちに、精鋭どもが目の前に並ぶ。
皆、顔に生気と、覇気がある。
ここまで、長かった。我慢と知恵の、総比べだった。
「これより、通称“颪”の主戦力掃討、およびヘルツベルク宮中伯の身柄確保に向かう」
吐き出した声は、思った以上に大きかった。
「前線指揮は、ゴフ中尉。戦力は、貴官ら特務機動隊“錠前屋”の二十三名に加え、国境警備局より銃兵二個分隊相当が合流する。全員、精密射撃手だ。上手く使うぞ」
これも、前々から話を通してあった、とっておきである。
国境警備局の銃兵といえば、最新鋭の後装式旋条銃が真っ先に配備されたほどには、屈指の精鋭揃いで、匪賊相手の実践経験も豊富である。どんな状況でも、必ず役に立つはずだ。
「後方支援として、チオリエ特任伍長率いる衛生救護班と輜重隊、合わせて十八名。これは今回特別に、司法警察局局長セルヴァン少将閣下が指揮をする」
おおと、どよめきが起こった。聖アンリだけでなく、セルヴァンが来てくれるということは、温かくて美味いめしと、清潔な寝どこも期待できるというわけだ。これなら、兵どもも安心して戦えるはずだ。
「作戦総指揮は、警察隊本部長官、ダンクルベール中佐」
言い終えて、軽く杖を鳴らした。
「以上。お前たち、こじ開けるぞ」
喚声が上がった。
勝つか負けるか引き分けか。扉の先にいるのは、幸運の女神か、あるいは死神か。
ここまで来たならば、勝ちに行くまでだ。
12.
いつからか、うなされるようになっていた。
何度も罵られ、殴られ続ける。意識を失う。嘘つき。嘘つき野郎。言われるのは、そればかりだった。いつしか、男たちがいない時でも、声が聞こえるようになった。嘘つき。嘘つき野郎。大勢の人に、囲まれて、罵られている。
やめろよ。俺は、嘘つきじゃない。お前らに、何が。
目が覚めた。体が、汗だらけだった。
体を清めるための、水桶と布きれが、用意されていた。水桶の中は、ぬるま湯程度に、温められている。そのまま、頭から被った。何か、まとわりついているものを、取り払いたかった。身体中の傷に、染みる。
男たちは、まだ来ない。めしも来ていない。目が覚めるのが、いくらか早かったのだろうか。瞼が重かった。体が休みたがっているのだろう。もう少し、眠ることにした。
途端。確かに、聞こえた。嘘つき。嘘つき野郎。お前の何を、信じれば良いんだ。顔の見えない大勢に、囲まれている。方々から、聞こえる。
やめろ。やめてくれ。嘘つきじゃない。俺は、俺は。
叫んでいた。はっとしたとき、横になっていた。
眠っていたのか。また、汗だらけになってる。水桶は、片付けられていた。残されていた布切れで、顔を拭う。息が切れている。動悸が激しい。息苦しい。
男たちは来ていない。めしも、来ていない。それほど時間が経っていないということなのか。
それに気づいて、ぞっとした。
体感だが、あいつらは三時間から四時間ごとに来て、拷問して、帰っていく。今まで、規則正しかった。それが、ずれている。いや、自分の感覚が、狂ってきているのか。判断が、できなくなっている。
何かが、壊れてきている。今まさに、殺されている。
気付いてはいけないことに気付いてしまってからは、もはや地獄だった。起きているのか、眠っているのかもわからない。頭の中で、あいつらがずっと罵ってくる。囲んで、石を、言葉を、ぶつけてくる。嘘つき野郎。お前は、嘘つきだ。目が覚める。それでも、聞こえる。
やめろ、やめてくれ。俺は、違う。信じてくれ。誰か、俺の話を聞いてくれ。
舌を、噛もうとした。歯が、舌に食い込むにつれ、声は大きくなった。できるもんか、嘘つき野郎。嘘つきの、根性なし。お前に、できるわけがないだろう。歯が、舌を離していた。叫ぶ。出ていけ、出て行ってくれ。
床に、頭を思い切りぶつけたつもりだった。これで、死ねる。だが、気づいたら横になっていた。額に、痛みはない。鉄格子にしがみついて、頭をぶつける。何度かぶつけたあたりで、また、部屋の奥で横になっていた。触っても、額には傷ひとつなかった。
嘘つきのまま、死んでゆけ。そう罵った男は、いつまで待っても降りてこない。もう、殺してくれ、殺してくれよ。いつまでこんな思いをしなければならないんだ。
助けに来ると言っていた男も、降りてこなかった。嘘つきめ。お前こそ、嘘つきじゃねぇか。俺が、こんなになってまで、助けてくれないじゃないか。助けてくれ。殺してくれ。もう、楽にしてくれ。希望なんて、持たせないでくれ。
真っ暗な部屋の中で、のたうち回っていた。叫びながら、泣いていた。柔らかいものを貼り付けた壁に体を打ち付けて、床や鉄格子に頭を打ち付けて、舌を噛み切ろうとして、両目に指を突っ込もうとして、でも、気づいたら横になっている。そして気がつくと、顔も見えない、恐ろしい何かに囲まれている。口々に、知らない声で、罵ってくる。
お前は、嘘つきだ。嘘つき野郎。
「よお、嘘つき野郎」
少しだけ、明るくなっていた。人の影が、ふたつ。
知っている、顔だ。あいつらだ。
「あんたか。来てくれた。来てくれたのか」
思わず、男の足に縋りついていた。手のひらに感覚がある。現実だ。これは、現実だ。頭の中に鳴り響いていたものも聞こえない。これは幻覚じゃない。
「なあ。助けてくれ、助けてくれよ。もう、楽にしてくれよ。何をやっても死ねねぇんだ。頭を打ち付けても、舌を噛み切ろうとしても」
「そりゃあ、お前が、嘘つきだからだろう?」
顔を見上げる。虫を見るような、冷たい目。身体中の毛が、逆立った。
「見てたぞ。お前はそんなこと、していなかった」
「何を?何を言っているんだ?あんた」
「昨日の朝からずっと、部屋の隅で、ぶつぶつ言ってただけだったよ。声を掛けても殴っても、反応しないから、壊しちまったと思ってよ。だから昨日は、たまに見にくるだけにしていたはずだが。名演劇、ご苦労だったな」
何を言っているんだ。お前ら、何日も、来ていなかったじゃなかったか。三日、四日、そんなどころじゃない。一週間以上、閉じ込められているんじゃないのか。なあ。
「さて、元気になったんだし、続けようか。嘘つき野郎」
脳天に、痛みがあった。警棒を振り下ろされていた。痛みに、転げ回る。本当の、痛みだった。
「嘘つき野郎。死にたきゃ殺してやるよ。ただし、ゆっくり、時間をかけてだ。殴られ蹴られ、飢えて死ぬんだ」
水月に、つま先が突き刺さった。転げ回る。頭を、踏みつけられる。何度も、何度も、踏みつけられた。悶え、咳込み続ける。間を置いて、もう一人のほうが、桶に入った冷水をぶっかけてきた。冷たい。体温が、奪われていく。寒い。
「ヘルツベルクだ」
声が、出ていた。それを聞いて、男たちの動きが止まった。
「ヘルツベルク宮中伯だ。俺たちを、ここへ呼び込んだ。うちの大将も、あの人の屋敷にいる」
もう、いいだろう。吐けるものは、吐いていい。そう、言われていた。
親父も、本筋を終わらせているはずだ。それを、こいつらも、そろそろ把握する頃合いだろう。
言うだけ言って、頭の中の罵倒は、すっきり消えた。
しばらくの間があった。
助手らしい、いつも壁にもたれていた若いやつが、慌てた様子で外へ出て行った。いつも殴ってくる人相の悪い奴は、相変わらず、こちらを睥睨してくる。その目が、もう、恐ろしいものではなくなった。
「ヘルツベルク宮中伯、と、言ったな?北方ヴァーヌの」
「そうさ。俺ら、北方ヴァーヌの生まれなんだ。あの家には、恩義がある。返すべき、義理が」
また、しばらくの静寂があった。
「冗談にしたって、つまんねえって、言ってるんだよ」
顔面に、靴底が飛んできた。
吹っ飛ぶ。壁に貼り付けられた柔らかいものに、体がぶつかった。男の言葉と瞳は、冷たいままだった。
ちょうど、外に出て行った若いのが、紙きれ一枚手に持って、急足で戻ってきた。それを、人相の悪い奴に渡す。男は、それを薄暗がりの中で、それを一度確認するようにしてから、自分の前に投げて寄越した。
「ヘルツベルクは、死んだよ」
何だって。声が、引っ込んでいった。
親父は、マレンツィオ襲撃と合わせるように、雇い主のヘルツベルクの屋敷を焼くと言っていた。我が儘に付き合うために、そして撒き餌のために。
それが、しくじったっていうのか。
投げ出された紙切れに飛びついた。若い男が、ランタンを持って近寄る。新聞。何かが、書いてある。
ヘルツベルク宮中伯、死亡。邸宅後にて、焼死体で発見。
「嘘だ」
ようやく吐き出した声は、震えていた。
「こんなもの、嘘に決まってる」
「お前じゃないんだ。嘘じゃない。本当のことだ」
掴みかかった。視界が霞む。涙が溢れていたのだと思う。薄らと見えた男の表情は、やはり冷たかった。
「嘘じゃない。本当なんだ」
「おんなじことを、何度も言わせるなよ。嘘つき野郎」
渾身の力でしがみついていた。叫んだ。何度も、何度も。
「俺は、嘘つきじゃない。俺は、嘘つきなんかじゃない」
叫んでいた。最後の、ひとしぼりだった。
「お前の、何を信じろって言うんだよ。嘘つき野郎」
自分の頬を引っ叩いて、男は冷淡に、傲然と言い放った。
倒れ込んだ目の前に、紙切れが舞い落ちた。掴み取って、何度も読み上げる。声に出してもみた。同じだ、同じことが、書いてある。
ヘルツベルク宮中伯、死亡。邸宅後にて、焼死体で発見。
嘘だ。じゃあ、俺は何のために、今まで。
「汚ぇ顔で泣くんじゃねぇよ、嘘つき野郎。もういい、お前と遊ぶのも、もう、飽きたよ」
屈み込んでいた脇腹を、思い切り蹴飛ばされた。転げ回る。もう、何も出てきやしない。
どうして、どうして、どうして。それ以外は、何も。
「じゃあな、嘘つき野郎。死んだらまた会おうや」
待ってくれ。手を、伸ばそうとした。明かりが遠ざかる。何も、見えなくなる。
そして、暗闇になった。
寒い。親父、寒いよ。寒いよう。
追い回されて、罵られて、逃げ回っていた。あの頃も、確か、これぐらいの寒さだった。雪だって降っていた。
たどり着いた先にあったのは、母親と呼んでいた女の、もう目を覚ますことのない、ただの骸だった。
ずっと、そこで泣きじゃくっていた。
いつの間にか、後ろに人が立っていた。小柄な、それでも精気に満ち溢れた男だった。知らない顔だった。
男は、眠ったままの母親に近づいて、しばらく肩を震わせていた。そうして、自分の方に振り返った。
小僧、来るか。それだけ聞いてきた。
ああ、そうだ。全部、子どもの頃のことだ。
これが、走馬灯というやつなのかな。それじゃあ俺は、これから死ぬんだ。あの、ひどい男の言う通り、野垂れ死ぬんだ。
生まれてから死ぬまで、いじめられて、蔑まれた。ただ、親父と一緒にいる間だけは、それが無かった。つとめて、親父は俺を、それから遠ざけていてくれたのだろう。厳しかった。それ以上に、優しくて、暖かくて、大きかった。
ごめんなあ、親父。親孝行、してやれなかったよなあ。
「おい、起きろ。死んでる場合じゃないぞ」
不意に、頬を引っ叩かれた。
目が開く。ぼんやりとした、光があった。
なんだ、まだ、死んでなかったのか。もし、今までのが口に漏れてたと思うと、生きているという実感より、恥じらいの方が強く感じてしまった。ああもう、つくづく、俺っていうやつは。
自分の頬を叩く。生きている。まだ、力がある。
声の方向に向いた。いつもランタンを持っていた、若い男だった。よく見ると、ああ、よかった。いい男じゃないか。
「すまん。遅くなった」
若い男は、小声で、申し訳なさそうに言った。
「約束、守るやつだったんだな。よかった。俺こそ、信じきれてやれなかった」
「それだけ聞ければ、冥利に尽きるよ」
自分の肩を叩く男の声は、明らかに震えていた。
「よく、堪えた。すごいな。すごいやつだよ、お前」
言われて、思わず、ぼろぼろと涙が溢れた。
ここは牢獄だ。声を出してはまずい。ふたりとも、声を抑えて、それでも、子どものように、泣きじゃくっていた。
「あいつの言った通り、宮中伯閣下は亡くなった。詳しくは、俺も知らない。ただ、お前の親父さんは、まだやる気でいる」
ひとしきり泣き終えた後、若い男は、暗がりの中で、それでも真っ直ぐにこちらを見据えてくれた。
「いくつか想定外があったから、本筋は、まだ終わっていない。お前が必要だ。だから、行ってやれ」
「お前は、大丈夫なのかよ?」
「大丈夫じゃあないさ。ただもう、愛想が尽きた」
男が、笑った。その顔に、ひどい疲れが見えた。
「警察隊本部長官の副官を任されていた。それを、実家のせいで外された。その代わりの仕事が、こんな、くそったれだ」
「それじゃあ、あんた」
「ペルグランという。我が一族、皆、宮中伯閣下には世話になった。恋文が送られてきた時こそ、夢物語だと捨て置いたが、今となっては、夢を見るのもいいかと思えてきた」
こいつ、旧王朝派か。なるほど。打算だが、今となってはありがたい。味方はいつだって、多いに越したことはない。
「諸君らのことは、我々が引き継ぐ。どうか、宮中伯のご遺志を。親父さんの本懐を。何もできずに、すまない」
「いいんだ。ありがとう、ありがとうよ」
抱き合った。人の、温もりだった。暖かかった。
ペルグランという男は、国家憲兵の制服を用意してくれていた。馬も、表に用意してあるという。急いで、着替えた。それでも、虜囚に特有の臭いというのは、自分でも気になる。そこも気を利かせて、高そうな香水を用意してくれていた。良いとこの生まれかな、気が利くやつだ。
いい馬だった。ひとつ、鞭をくれてやると、宵闇の中でもよく走った。
あの男、無事では済まされないだろう。だが、命を貰った。ならば、それに報いるまでだ。
場所は変わっていない。去り際に、それだけを言われていた。この国の地図は、頭に叩き込んである。暗闇でも、多少の無茶はできる。この僥倖、無駄にはできない。
待っていてくれ、親父。今、戻るからな。
エーミールは、駆けた。闇の中を。光を、目指して。
13.
報告を受けた時、背筋に嫌なものを感じた。
エーミールが、生きて戻ってきているという。本来ならば、歓迎すべきことである。
本来ならば、だ。
手下どもに、こちらに来させるな、押さえつけろ、と命じた。場合によっては殺せ、とまで命じた。今、ここに辿り着かれてはまずい。
震える手で、卓上に置かれた新聞を、今一度、読み返した。
国民議会議長、ブロスキ男爵マレンツィオの暗殺未遂事件について、本日未明、国家憲兵隊司法警察局は、司法取引に基づき、事件現場にて逮捕した五名のうち、一名を釈放する旨を発表した。釈放する一名については、捜査において必要な情報を提供する旨に合意し、実際に有益な情報を提示したとコメントしている。なお、残り四名については依然、黙秘を続けているため、勾留期限が過ぎ次第、司法に基づいて処罰を行うとのこと。
釈放された一名。つまりは、エーミールである。
吐けるものは、吐いていい、とは言ってある。しかし、有益な情報とは何だ。自分の手下四人を見捨ててまで、あいつ、どこまで吐きやがった。まさか、あいつに限って。
ヘルツベルクの小僧は、明らかに狼狽している。なんやかんやと五月蝿い。何度か怒鳴りつけ、最後には拳をくれてやって、ようやく黙り込んだ。かくいう自分も、体が震えている。脂汗が、止まらない。
マレンツィオが、何者かによって毒殺されかけた。
それで、手を止めざるを得なくなった。他に、誰かが動いている。それを突き止めるまで、本筋を動かすのは危ない。漁夫の利を獲られた挙句、濡れ衣を着せられてしまっては、たまったものではない。まずは一旦、見に入る必要があった。
やったのは、まさかのダンクルベールだった。
嵌められた。時間を、無駄にかけただけになってしまった。そして本筋に戻るには、機を逸してしまった。
やってくれるじゃねえか。俺さまの手を止めるだけでなく、俺さまの手駒を。よりによって、あのエーミールを手篭めにしやがったか、案山子野郎めが。
夜中のうちに、外が騒がしくなった。歯噛みした。どうやら、たどり着かれたようである。
屋敷に、何人もの男に食い止められながら、エーミールが入ってきた。逃げる際に見繕ったのだろう、国家憲兵の格好をしていた。
「親父、帰ってきた。言い付け通り、帰ってきたよ」
息を切らして、エーミールが叫んだ。涙声だった。どこもかしこも傷だらけだが、不思議と手当の跡がある。
ちらりと見た後、目線を外した。あえて、答えなかった。
「おい、若いの。聞くべきことがある」
ヘルツベルクが真っ赤な顔で、エーミールに詰め寄った。手には今、自分の手元にあるものと、同じものが握られている。
「宮中伯さま。どういうことだ?死んだはずでは」
「何を馬鹿なことを言っている。私はこのとおり、健在だ。それより、これはどういうことか、答えてもらおうか?」
それを見せられて、エーミールはしばし、呆然としていた。その後、がたがたと震え出した。目から、涙が溢れはじめている。
「違う」
絶叫だった。
その目は、確かに、本当のことを言っている目だった。何度も見た、目の色だった。
「信じてくれ。俺は、逃されたんだ。そうだ、宮中伯さま。ペルグランって男だ。一族みんな、あんたに恩義があるって、言っていた。俺は、何も吐いてはいない。そうだ。それを、褒めてさえしてくれたんだ、あいつは」
「ペルグランだと?あんな成り上がり、世話をした覚えなどない。冗談を言うのも大概にしろ。言え、何を吐いた?」
「違う、違うんだ」
エーミールが、声にならない声で、言い続けた。
「俺は、嘘つきじゃない。俺は、嘘つきなんかじゃない」
何度も、何度も叫んだ。心の底からの、叫びだ。
エーミールは、嘘つきと言われることを嫌っていた。小さい頃から、そうだった。自分だけが、知っていたことだ。
それで、すべて察した。
こいつは、何も吐いてはいない。その上で、ダンクルベールは、わざとエーミールを逃した。俺さまたちの中に、不和を、疑心暗鬼を生じさせるためだけに。
立ち上がり、皆を制した。エーミールから、すべての手が離れた。
親父。そう、か細い声で漏らした。その泣き顔は、あの頃から何ひとつ、変わってはいなかった。
もう二度と、見たくなかった。させたくなかった顔だった。
「親父。信じてくれるよな?俺は、嘘つきじゃない」
そうだ、知っているよ。お前は、嘘つきなんかじゃない。
だからな、許してくれ。
腹に、剣を刺していた。根元まで。
「親父、俺は」
震える声。真っ暗な、目だった。
「そうだな。お前は、嘘つきなんかじゃないさ」
倒れかかる体を、ゆっくりと、抱きとめた。いつの間にか、自分よりずっと大きくなった体を。
「すまんが、片付けておいてくれ」
手駒にそう言って、剣を払った。
目の前にあるのは、あの時と同じ、ただの骸だ。そう、思うことにした。
「どうする?」
ヘルツベルクが、震える声で聞いてきた。
「どうするもこうするもねえ。終いだ」
卓に置いたままの、透明な強いものを一気に飲み込んで、言い切った。
「じきに、警察隊本部、いや、司法警察局の連中が来る。首を洗って待つか、逃げるか。選べ。俺さまたちは逃げる」
「待て、話が違う。最後までやると」
「これが、最後なんだよ」
振り向きざま、腹に蹴りをぶちかました。
倒れ込んで、むせこんでいる。無様だな。まるで、今の自分を見ているみたいだった。
「馬は用意しているだろう?行くぞ」
別邸にいるのは、自分を含めて、中核の三十名程度。馬も、宮中伯のものを含めると、ふたり乗りが何騎かできるが、人数分はある。そうなれば、とっとと尻尾を巻くだけだ。
無理やりこさえていた裏口から出るあたりで、正門に気配があった。門を叩いている。司法警察局のセルヴァン。そう名乗っている。
やはり、早い。しかも先に、親玉の親玉が来るとは。
馬に跨ったあたりで、目の前に、白い粉が降りてきていることに気づいた。もう、そんな時期か。息が、白い。この様子だと、本土はもう、積もっているだろうな。何となく、しみじみと、落ち着いた気持ちになっていた。
仕事をひとつ、間違えただけだ。
馬に、鞭を打つ。目的地までの道は、三通り。あえて、一番広い通りを行く。そこで鉢合わせるとして、やりあうのにはちょうど良い広さだ。
だが、真夜中とはいえ、市街地のど真ん中だ。銃は使えない。
憲兵とは、そんなもんだ。街に与える被害が大きすぎる。夜中の街中だ。おっかなくて、撃てっこないさ。
道の広さを、相手は嫌がるはずだ。
だから、あえて行く。たとえ、待ち構えてられようと、蹴散らせる。こっちは騎馬だから、無茶が効く。
広い道だった。馬蹄が響く。悠々と、曲がり角を過ぎた。
途端。爆音と、閃光。馬が、倒れた。
撃ってきただと。慌てて、起き上がる。龕灯と人の列。中心に一際、大きな影。
杖をついた、大男のように見えた。
「国家憲兵警察隊本部長官」
地の底から、鳴り響くような声。
「オーブリー・リュシアン・ダンクルベール」
雷に打たれたようなものを感じた。
ダンクルベール、だと。背筋が、凍った。
「神妙にすればそれでよし。そうでないなら」
どん、と杖の音。
「ここで屍を晒すことになるぞ」
雷鳴。
呑まれた。思わず、体が竦んだ。何人か、へたり込んでしまった者もいるようだった。
来やがった。この人数。全員で、待ち構えていやがった。ここで、こんなところで、こんなところまで。俺さまの考えを読みやがった。先を、越しやがった。
前の一列目は、銃兵。後ろにも、気配。囲まれている。ならば、正面の銃列は、空砲か、弱装弾だ。そうじゃなきゃ、同志討ちになる。当たったところで、死にはしない。
まだ、勝算はある。
「舐めんじゃねえぞ、油合羽ども」
剣を抜いて、吠えていた。
「大将、早まっちゃあいけねえ」
ひとりが、体を抑えてきた。きっと、すでに心が折れているのだろう。
だが、まだだ。これからだ。
「正面突破だ」
自分に言い聞かせるように、捻り出した。
「正面しか、道はねぇ。まともに相手はするな。あしらえ」
若い連中を、先に港に向かわせておいてよかった。
正直、マレンツィオ襲撃が予想以上に失敗した時点で、宮中伯には見切りをつけていた。一度本土に戻り、時期を見て戻ってくればいい。
そのために、船を何隻か、くすねておいた。こちらに来た当初から、別働隊に、色々と仕事をしてもらっていた。当分は食っていける、あるいは養っていける程度には、稼ぎが上がっていた。
万が一、自分が戻らない場合でも、日の出と共に本土に戻るように言いつけてある。勿論、生きて戻れるに越したことはない。
たった、それだけの話だ。
「仕事は終いだ。生き延びることだけ、生き延びさせることだけ、考えろ。誰かひとり、港まで辿り着けば、勝ちだ」
そう伝えると、腹が決まったのか、皆が一斉に抜剣した。
駆け出す。破裂音。何かが、頬を掠めた。弱装弾の方だな。だが、所詮は憲兵だろう。精度の高い旋条銃の配備は、後回しにされるはず。滑空銃なら、動いていれば当たらない。この距離なら、いくら後装式だろうが、一斉射が限度だ。
銃列に飛び込んだ。銃剣じゃない。ならば、どうとにでもなる。本場仕込みの喧嘩用だ。ぶった斬ってやる。
渾身の力で、振り下ろす。
固かった。帷子に、胸甲。
震えた。そこまで、読んだか。
銃兵の後ろから、歩兵が出てきた。
長柄。まさか、斧槍だと。博物館から取り寄せたのかよ。
突き出される穂先を、弾いた。弾けなかった何人かが、足首を取られて、倒れた。長剣ならともかく、片手半剣では、分が悪すぎる。
対策されきっている。向こうは重武装。こちらは軽装で、武器は片手半剣のみ。馬は使い物にならない。人の量も、倍近く感じる。
それでも、抜け出せればいい。誰かひとり、この包囲を突破できれば。
雄叫び。若いのがふたりほど、囲いを突破したようだった。
「大将。ご無事で」
でかした。行け。そのまま、港まで。
銃声。影が、よろめいた。
「くそっ」
もう一列、控えさせていたのか。それも、この闇夜で。精密射撃手、いや、狙撃手だな、畜生め。
視線を上げた。暗闇だが、微かに硝煙が登っている。屋根の上。それも、通りの両方。いる。銃持ちと、遠眼鏡持ちの組が、いくつか。上から、狙い撃ちしてくる。
なるほど。はじめの銃列は、こいつらを見せないための、撒き餌か。ちゃんと狩場を用意してやがったんだ。くそったれ。
やられた。襲い掛かる重武装を叩き伏せながら、毒づいた。全部、見透かされてやがる。全部。手の内の、全部。おそらくは、港の連中のことも。
何度も、吠えていた。吠えながら、襲いくる連中を薙ぎ倒していた。それでも、殺せない。胸甲、籠手、鉄兜。刃が、通らない。倒れ込んだ憲兵が、足首を掴む。顔を、もう片方の足で蹴り上げる。
どいつもこいつも元気がいい。特に、戦鎚片手に暴れ回っている、声がでかい奴と、大斧をぶん回してる、図体のでかい奴だ。比べてこっちは、やられる一方である。既に半分以上が、横になっていた。
人の山を、駆け登っていた。急斜面。終わりが、見えない。手を止めたら、足を止めたら、終わる。やられる。
出てこい、案山子野郎。何度も、叫んでいた。
人の山の頂に差し掛かったあたりで、正面から、何かが飛んできた。
思わず、剣で受け止めた。重い。それでも、まだ、立っている。立って、いられている。
杖をついた、大男だった。胸甲と籠手は見えるが、被り物はない。
「長官、お下がりください」
「構うな。手を出してくれるなよ」
深い声。大男は、杖を剣のようにして、正眼で構えた。
「こいつは、俺の獲物だ」
おいおい、ダンクルベール。出てきてくれたのかい。どういうわけか、安堵のようなものが込み上げてきた。
ようやく。ようやく会えた。魔除けの案山子、油合羽の大親分。俺さまの、最後の相手として、自らお出ましとはな。ありがてぇ。
だがよ、そこは込みだぜ。案山子野郎。
オーブリー・ダンクルベールほどの傑物は、そうそういない。こいつさえいなくなれば、しばらくの間、この国の警察機能は、実質的に機能不全に陥る。軍全体を見渡しても、これほどできるやつなど、いやしないだろう。
そうすれば、これから逃す連中や、本土に残した勢力を使って、この企てをやりなおせる。この国を、混沌の底に落とせる。それが成れば、この国は、俺さまたちにとって楽園になる。全てを灰にしたあと、ゆっくりと玉座に登ればいい。
たとえ、俺さまがこいつと、相討ちになろうとも。
前手を、こめかみのあたりに添え、切っ先を突き出す。“怒りの攻撃”。得手だ。むこうは片手で、細剣のように、半身の構えで迎えるつもりだ。
いいね。小洒落た構えだ、案山子野郎。
真正面の突き。これは、いなされる。
横から薙いできた。流しながら、また突けるか。剣身とぶつかった瞬間、全身が痺れた。片手の重さじゃない。ぶん回して、威力を高めているんだ。
今度は、唐竹割。防いだ。これも、やっとだった。突くように見せかけて、切り上げたが、これは弾かれた。
手が、ずっと痺れている。鉄の杖どころか、棍棒だ。当たれば、骨だけではすまない。
また、唐竹割。付き合っていられるかと、全身で避けた。こちらから、袈裟に走る。途中で、剣身を叩かれた。向こうはずっと、足を止めたままだ。
いや、待て。
狙いは、剣だ。気づいて、ぞっとした。こちらの手を潰すために、剣そのものを、狙ってきている。
ダンクルベールの手元で、杖が回転した。反射的に、剣を横にして、防ごうとしていた。
違う。遅れて来るのは、杖頭。それも、両手だ。かち上げてくる。
防げない。
目が眩むほどの、火花が走った。
手を、離していた。遠くで、金属音が響いた。
叫んでいた。全身で、飛びかかる。指が、相手の左腿に届いた。呻き声。力が弱い。見た通り、患っていたか。これなら。
そのまま、ぶつかった。視界が、何度か回った。身体中が痛い。
落ち着いた頃に、ようやく自分が、ダンクルベールの巨体に馬乗りになっていることに気づいた。
「暗えなあ。面を見せろよ、案山子野郎」
思わず、笑っていた。
拳を、振り下ろす。顔面には、届かなかった。両腕で、がっちりと守りを固めている。知ったことか。何度も、両の拳を、振り下ろした。
ああ畜生。短刀のひとつでも下げていれば、もっと楽だったのに。殴りながら、自分に対しての、怒りばかりがこみあげてきた。
「よくも、よくもやってくれたな。この野郎」
殴りながら、叫んでいた。よくも、俺の策を。俺の手駒を、同胞を、培ってきたものすべてを。悔悟ばかりが、溢れてくる。
相手の顔は、守る両手で、見えはしなかった。それでも殴り続ける。拳が割れるぐらいに痛むが、もう知ったことか。ここで、殺す。殺してやる。
不意に、ダンクルベールの守りが空いた。いける。渾身の右を振り下ろそうとしたとき、下から、胸ぐらを掴まれていた。
額に、何かがぶつかった。意識が、飛びそうになる。
また、ぶつかった。馬鹿力で引き寄せて、向こうの額を、ぶつけてきている。何度も、何度も。金槌の方がましなぐらいの、とんでもない痛みが、その都度に押し寄せる。
朧げな視界が、幾分かましになった頃に、ようやく次に飛んできたのが、はっきりと見えた。
転げ回っていた。大きな、拳だった。
立ちあがろうとしても、力が入らなかった。痛みと、息切れだけしか感じない。
大男が、誰かに支えられて立ち上がるのが、ぼんやりと見えた。その影ふたつが、よろよろと近づいてくる。
「よくもやってくれたな、だったか?」
ダンクルベール。息は切れているが、力強い声だった。
「そりゃあ、お互い様だぜ。大将」
それで、終わりだった。
負けたんだな。そう思ったら、途端に楽になった。
14.
刑場広場に続く廊下の真ん中あたりで、ダンクルベールはぼんやりと立ち尽くしていた。
あの後は、とんとん拍子だった。港に控えさせていた脱出部隊は、国境警備局が確保した。“颪”の大将含め、捕らえた連中は、洗いざらい、すべてを話してくれた。
驚いたのは、連中がこちらにきた直後から、少数を別働隊として、地方へばら撒いていたことだった。現地の賊を抱き込んで、商家や豪族から好き勝手に略奪をやっていたらしい。地方支部から被害が報告されたのは、全部が終わってからだった。被害額は相当で、連中の規模ならば、数年は温かいめしに困らないほどだった。
これには、してやられたと、思うしかなかった。“颪”の大将は、自分達よりずっと、広い視野で動いていたというわけだ。
ヘルツベルク宮中伯は、ヴァーヌ本国へ送還となった。使者偽装に加え、動乱、煽動の罪で裁かれることになるだろう。首を刎ねられるより、よほど酷い目に遭うはずだ。
別邸からは、いろいろなものが押収された。
中には、先代の遺書もあった。一応の予想はしていたが、やはり政変に関して、忸怩たるものがあったらしい。好々爺を演じておきながら、腹の中には重たいものを隠していたのだ。
そして息子が、その遺志を、怨念を継いだ。
“颪”も、元はあの家に仕えていた、家臣団だったのだという。賊に身をやつしたとはいえ、主君に対する忠義で、こちらに渡ってきたようだった。
何本かの紙巻を消費したり、あまりの寒さに油合羽を擦り上げたりしているうちに、刑務官と囚人の列が見えてきた。それで、寒さが消えていった。
「よお、大将」
一番後ろを、とぼとぼと歩いている男に声をかけると、それは顔を上げてこちらを見た。思ったより小柄で、腰の曲がりかけた、年老いた男だった。
「おお、ダンクルベール。よく見りゃ、案外若いんだな。あん時ぁ、暗くてよく見えなかった」
「なに、お前とそう変わらんさ」
胸元から紙巻を取り出し、加える。
「ちょっとくらい、話をしようよ。なあ、大将。名前は?」
「へっ、もう覚えちゃあいないさ。人も、自分すらも騙くらかして生きてきたんだ。名前も故郷も、どこにやっちまったんだか、忘れちまったよ」
そう言って不敵に笑う老人の顔は、どこか寂しげだった。諦めに近いものが、見えたような気がする。
「フリッツ。そうだ、フリッツだ。ああ、フリッツがいいな。そう呼んでくれよ。なあ、ダンクルベール」
「そうか、フリッツ」
マッチで紙巻に火をつける。肺に、煙を入れていく。そうしてから、大きく息を吐いた。
「顔を、見にきた。あの時は、暗くてよく見えなかった」
「そうかい。お前も、そうだったかい」
「思ったより、年寄りだな」
「なぁに。お前も、そう変わらんのだろう」
ふたりとも、吹き出すようにして、笑った。
「いやあ、してやられたなあ。流石は音に聞いた、魔除けの案山子。油合羽の大親分だ。俺さまも頭の方には自信があったが、全部やられた。見透かされ、騙されて、追いやられた。すごいもんだ。お前も、手下どもも。ああそうだ。それから、あの雌犬も」
それを聞いて、心のどこかが疼いた。
「ミシエルのことか」
もう一度、火のついたままの紙巻を咥え、ゆっくりと息を吸った。
それで、疼きはおさまった。
「そうさ、あの雌犬。俺さまたちが動きはじめたころには、すでに懐に入ってやがった。炙り出すのには随分苦労したよ。その上、うちの若えのが欲出して嬲ろうとしたら、あいつ、そいつの指を噛みちぎりやがってよ」
笑っていたフリッツは、そこまで言って、深いため息をついた。口元から、笑みが萎んでいった。
「最後まで、口を割らなかったよ。えらいもんだ。だから、殺すしかなかった。可哀想なこと、しちまったな」
「そうか」
「犬の名前、覚えてるんだな。情婦かい?」
「いや。何というか、娘みたいなもんかな」
大きく息を吐く。紫煙が、体を包み込んでいく。
顔がひとつ、思い浮かんで、少しして消えた。若い娘の、笑った顔だった。
「あれが、がきぐらいのころに、俺の財布に手を出してな。ぶん殴ってやった。その頃にはこの通り、足を悪くしていたものだから、“足”として働いてもらうことにした」
頭の中の引き出しを漁っていく。十年くらい前のことだったはずだ。
道端にいた、小汚い娘。雨の日だった。
泣いていた。こうするしかないんだ、そう言いながら。かあちゃんも、にいちゃんも、腹空かせて死んじまうんだ。だから、こうするしかないんだ。
どうしてか、“足”に加えることにした。
期待はしていなかったが、よく働いた。盗賊出の連中なんかより、ずっと成果を出した。頭目も、筋がいいと褒めていて、その分、きつく鍛えていたようだった。
いつからか、報酬を手渡しするようにしたのだが、その度に顔をぐしゃぐしゃにして、泣いて、笑ってくれた。
おじさん、ありがとう。おじさんのおかげで、あたしも、家族も、あの冷たい道端から抜け出せたんだ。かあちゃんたちに、これでまた、温かいところで、温かいものを、食わせてやれるんだ。
あれの母親は、いつからか患いものをしていたようだった。亡くなったのは、去年の今頃だったと記憶している。
それでも、いつでも、あれは気丈に振る舞っていた。
「不思議なものだ。血も繋がってなければ、肌の色も違うのに、可愛くて、可愛くってな。情というのは、湧くものなんだな」
「そうだな、そうだよな」
フリッツが、視線を逸らして、そう答えた。
「俺も、お前の手下どもには、ひどいことをした。逃したやつ、お前が斬ったんだってな」
「ああ、そうだ。あれもまあ、息子みたいなもんだった」
答えたフリッツは、つとめて笑っているようだった。
「惚れた女が、産んでたがきさ」
笑いながら、吐き出すように。悲しみすらも一緒くたに。
「畜生、悔しいなあ。俺さまとしたことが、下らないしがらみに囚われて。見たこともないやつ相手に、対抗心燃やしてよお」
そこまで言って、フリッツは顔を上げた。晴れやかで、誇らしげだった。
「だけどまあ、上出来かな。お前ほどのやつ相手に、持ってるものは、全部出し切ったんだ。ああ、楽しかったよ」
「そうかい。そいつは、ありがとうよ」
紙巻が、短くなってきた。最後の一息を、思いっきり肺に入れてから、ゆっくりと吐いた。
「なあ、フリッツ」
それで、言いたいことが言えるぐらいになった。
「俺は今回、お前に勝てたのは、たまたまだと思っている。お前が、誰かの下にいたからだ。お前が、お前の思う通りに動いていたら、俺が負けていただろう」
本当のことを、言ったつもりだった。向こうも、本当のことを言っていると思ったからだった。
「本当に、駄目かもしれんと、何度も思った。長いことやってきたが、その中でも、お前はとびっきりだ。本当に、とんでもない奴だよ、フリッツ」
「何だい、褒めてくれるのかい?」
「褒めてくれたからな。お互い様だよ」
「へへ、ありがとうよ」
ふたりとも、笑っていた。そうすることで、何かを忘れたかったのかもしれないし、あるいは、振り返ろうとしたのかもしれない。
すっと、フリッツが背筋を伸ばした。その目は、燃え盛るように輝いていた。
頭の中に描いていたままの、“颪”の大将がそこにいた。
「おい、若えの。さっさとしやがれ。年寄りの世間話なんざ、日が暮れたって終わりゃあしねえんだぞ」
「あっ、はい。それでは、ダンクルベール長官」
促されるように縄をあらためた若い刑務官が、かしこまってダンクルベールを見た。頷くと、フリッツは、しっかりとした足取りで歩きはじめた。
凱旋か、出陣か。それぐらい、立派な姿だった。
「じゃあな、ダンクルベール。達者でな」
「じゃあな、フリッツ。お前も、達者でな」
ありがとうよ。そう、聞こえたような気がした。
控えさせていた馬車までの道は、風が冷たくて仕方なかった。この間の雪は、数日の晴れ間で全部溶けてしまったが、それでも、骨に沁みるような寒さだった。
馬車には、ペルグランが待っていた。それと、見慣れた女がひとり。
「これから、寄るところがあるのだが」
そいつが満面の笑みで手を振ってきたので、毛虫を見るような目で一瞥してやった。
「構わないとも、我が愛しき人。ただ随分、おあずけをくらってしまったものだから、もう我慢ができなくなってしまってね。いっそご一緒させていただきたく、ペルグラン君にもお許しを頂戴したところだよ」
ペルグランの方を睨みつける。一瞬、怯えたような顔をした後、いや、でも、だってと、口を開けたり開いたりしていた。
「言いつけ通り、花屋に寄って戻ってきたら、いたんですもの。本当に、勘弁してください」
「まあいい。こいつは事故か災害みたいなものだ。だからこそ、すぐ報告しなさい」
「すみません。でも、随分と話し込んでましたね」
「年寄りの世間話は、長くなるもんさ」
馬車に乗り込んで、シェラドゥルーガに杖を渡した。
ペルグランは、指示通りに、籠いっぱいの花を買ってきていた。濃すぎない程度の赤、黄、ピンク。白も綺麗な種類なのだが、贈り物には適さない。あの花屋ならそういうところも気を使ってくれる。もう冬なのに、しっかりとした花弁だ。
「出してくれ。東共同墓地まで」
「えっ、墓参りですか?じゃあ、花は菊にしたほうが」
「いいんだ」
慌てるペルグランを、ダンクルベールは、つとめて穏やかな口調で遮った。
外を眺める。冬の晴れ空に、あのこの顔が浮かんでいた。瞼を閉じると、それは別れを告げるかのように、ゆっくりと消えていった。
「あれは、ゼラニウムが好きだった」
それだけ言った。蓋をするように、瞼を閉じたままで。
ミシエル。シェリィと、呼んであげたかった。
(つづく)
Reference & Keyword
・予想外の霊夢
・葵徳川三代
・少年の日の思い出 / ヘルマン・ヘッセ
・Gypsy Ways / Anthem