何かがいる
旧いヒト。旧いヒト。
森から来て、山へ行く。
ロ・ロと呼び、ロ・ロと鳴く。
里からはぐれて、森へ行く。
旧いヒト。旧いヒト。
山で暮らして、森となる。
ロ・ロは呼び、ロ・ロが鳴く。
朝は昏がり、夜が来る。
ロ・ロの名は、ロ・ロが鳴く。
ロ・ロの名が、ロ・ロを呼ぶ。
ロジェール村の童歌より
1.
緊急捜査事案、発生。
緊急捜査本部長、司法警察局局長セルヴァン少将。次長、司法警察局警察隊本部長官ダンクルベール中佐。特務機動隊“錠前屋”、全員投入。衛生救護班、全員投入。同班特別顧問、ラポワント特任大尉を動員。特殊工作員として、スーリ中尉を動員。他、後方支援や事務処理要員として、司法警察局、および警察隊本部捜査一課、二課より数十名を動員。以上、第一次決定事項。現地にて、必要に応じて必要な人員を投入する予定。
事案発生地域は、フォンブリューヌ地方。事案内容は、連続誘拐。被害者は七名。いずれも十代中盤から二十代前半の女性。現状で、身代金の要求や司法取引要求を含む、犯人からの接触は一切なし。現地警察隊支部の捜査では、一切の手掛かりが発見できず。最初期事案発生から、約三ヶ月経過。
フォンブリューヌ地方、ボーマルシェ伯領。地方分隊の応援要請、およびボーマルシェ伯ベイロンからの要望もあり、今回、緊急捜査本部設立に至った次第である。
ムッシュは何故、この場に呼ばれたのかを考えていた。
誘拐された七名は、あるいは既に。その司法解剖のためか。衛生救護班だけでは、緊急事態発生時の救命医療に不足ありとの判断か。
「貴方には、その両方をお願いしたい。その他もね」
馬車の中。問いに対し、正面に座した美形の中年は、低く落ち着いた声で、そう答えた。
司法警察局局長、セルヴァン。朱夏半ばが見えてきた頃だが、何しろ佇まいが立派であり、色気と気品がある。見た目通りの冷静さと、それと裏腹な、血の熱さがある人だった。
だが今、その表情からは何も読み取れなかった。
この人が前線に立つ。それは国家存亡の危機と同義である。元来、後方支援の人であり、組織運営の人である。この人のお陰で、温かいめしと、不足無い給料、そして手厚い福利厚生が存在していると言っても過言ではない。
縁の上の力持ち、そういう人なのだ。
「捜査官ではありませんが、情報があれば」
「とにかく人が消える。外見的特徴には共通点はないが、育ち盛りの娘さんであるというところは、共通している」
「フォンブリューヌに海はない。四方は、山。高原です」
「人身売買ではない。そこは、あいつの“足”で調査済みだ」
「殺しでしょうなあ。三ヶ月で七人。早すぎる」
「山と森。隠せる場所は、何処にでもある」
「川もありますな。上流域ですが、崩せば、流せる」
「けものや、鳥も、使える」
「あるいは、けもの。そのものかもしれない」
そろそろ晩夏に入る。食い物が無くなったけもの。狼や、熊。獲物を持ち帰るとすれば、熊か。
「消えたのはすべて、町中だ」
「けもののような、人。そんなものはいない。人は人。人に紛れて人を巣に持ち帰る。つまりは快楽殺人。ともすれば、猟奇殺人ですかな」
そこまで言って、ムッシュはため息をついた。
「第二の、ガンズビュールやもしれません」
「それも懸念しているが、その延長線上の、懸念もある」
暗い栗毛をかきむしりながら、セルヴァンが、いくらか苛立たしげに言った後、ひと呼吸を入れた。
「お化けが出るんだよ」
「これはこれは。お化けと来ましたか」
「こことか、うちの実家とかでね。“ロ・ロ”とか、“旧いヒト”とか、そう呼ばれている。よく童歌を歌ったもんさ」
「いわゆる、シェラドゥルーガですか」
思わず、奥歯を噛み締めていた。
人でなし。
人知を超えた存在。すべてが不可解で、未知数なもの。歴史上、実在は確認できず、細々と口伝のみで伝わってきたもののうち、信じられないが、本当に存在したもの。
かつて文壇でその名を大いに轟かせた才媛、パトリシア・ドゥ・ボドリエールこと、お伽噺で語られてきた、人を喰う悪魔、シェラドゥルーガ。
我々はそれが実在することを、知ってしまっている。つまりはそれと同一か、あるいは別の種が、世界のどこかに、未だ存在しうる可能性にも、気付いてしまっている。
「無くはないからこそ、貴方がいたほうがいい。手札は、多いに越したことはない」
「ご評価、感謝いたしますが、私はあくまで、町医者です」
「軍師。いや、将軍としても、有能だよ」
「瑞朝の詩を、詠み過ぎましたかな」
セルヴァンが笑った。冗談が通じたようである。
東の大国、瑞の旧い詩は、その大半が、群雄や英傑が綴ったものであり、そこから詩家百氏が産まれていった。そういう、戦乱から文化が産まれた国である。その詩を読むことは、その軍略や、英雄たる志を学ぶことにも近しい。
つまり、求められているのは、そういった役割もか。
「閣下のご実家や、ボーマルシェ伯領は、天然の要害です。いにしえの大ヴァルハリア侵攻の折も、最後まで籠城し、抵抗してのけた。国そのものが降伏するまでね。だからこそ内部の乱れには、幾分、脆いでしょうかな」
「仰る通り。そこなのだよ。既に人心に、乱れが生じている。それこそ“ロ・ロ”が、“旧いヒト”が出たってね。いつ集団恐慌が起きるやもしれぬ状況だ。だからこその、緊急捜査事案認定だよ。我らのご存知、“錠前屋”を、民衆に差し向けることだって、あり得る状況だ」
「国防軍も、加えるべきでしょう」
「そこは、山札から出てきてはくれなかった。地元の猟師連中でなんとかしろ、だとさ」
「町中で拐われているのに、山狩をしろとは、些か」
「まったくだ。さて、そろそろ着くぞ」
セルヴァンが一言ののち、馬車の扉を開いた。光が、差し込んでくる。
降りると、素晴らしい風景が広がっていた。
北西部、フォンブリューヌ地方。
急峻な白扇山脈をはじめとする山々に囲まれた、牧歌的な高原地帯。その山から流れ出て、あるいは自然と湧き出た美しい清水。淡く、あるいは鮮やかな緑の広がる牧草地で、穏やかに草を食む羊や牛。見上げれば、空と言うしかない空が広がっている。
田舎、と言ってしまえばそれまでだが、それでもこの雄大な景色は、誰しもを圧倒し、魅了するだろう。
街の作り方も素朴で情緒があり、木材と石材が調和した家々が立ち並ぶ景観、それもどの家も、窓の外に美しい花を咲かせた鉢を置いたりしている。古い建築様式の協会や城塞なども遺っており、歴史的価値も高いだろう。
夏は避暑地として、冬はスキーなども楽しめる、観光地としても人気である。かつてこの地を訪れた、あのボドリエール夫人も、美しすぎて退屈という、最大級の賛美を送っている。
ここ、ボーマルシェ伯領や、セルヴァンの実家であるロジェール男爵領などは、この大自然の中、しかし微々たる居住可能面積に、詰め込めるだけの民衆を抱えた大豪族たちである。あるいははじめは、少ない人々からはじまったのだろうか。鉄鋼などの金属の産出は無く、酪農と農業のみで食いつなぎ、人を呼び、呼んだ人を含めて養っていくしくみを作り続けてきた。
中でも、やはり酪農に因んだ特産品は有名で、生ハムをはじめとした加工肉、そして数多くのチーズは、東西南北の貴賤を問わず、愛されている。特に、ロジェール男爵領で作られている青カビのチーズはその最たるものであり、ほとんどがこの近隣で消費されているものの流通自体はしており、しかしいざ首都近郊で買おうとすると、とんでもない値が付けられる高級品だ。こちらで買えば、二束三文である。
だから皆、チーズひとつのために、押し寄せるようにして、この山々まで足を運ぶ。そうして訪れた観光客を誠心誠意にもてなし、地元の味を振る舞って、金を落とさせる。これもまた、そういうしくみのひとつでもある。
「そうだ、局長閣下。ここ、お化けが出るんでしょう?」
先に到着していた“錠前屋”隊長のゴフが、挨拶と業務連絡を済ませた後、その野蛮な顔を困ったようにして、そんな事を言い出した。勇猛果敢な腕自慢ではあるが、実は幽霊だとか怪談話は大の苦手というのは、小耳に挟んでいた。
「おや、苦手かね?ゴフ隊長」
「すんません。俺、そういうのだけは、ちょっと」
「人であることを確かめちまえば、あとは本領だろう?とっとと仕事をはじめて、犯人像を絞り出そうぜ。そうすれば貴官もぐっすり、眠れることだろうよ。それまでは、アンリ君にでも甘えて、寝かしつけてもらうことだな」
美貌を朗らかな笑顔で歪めながら、セルヴァンはゴフの背中を叩いた。その絶世の容貌と、堂々とした佇まいから、下の者からすれば、ともすれば近寄りがたい印象をも与えてしまうが、この通り、砕けた一面もある。あるいはこちらが本性なのだろう。気兼ねなく世間話をしにいける人だった。
「ひとり、増えた。貴様の到着する、一時間前にわかった」
古城ひとつ貸し切った緊急捜査本部営舎にて、ダンクルベールが、絞り出すようにして発言した。
「やはり、年若い女子か」
「十六歳。そしてまた、露天市場でだ。人の多い場所だ。支部小隊を軸に探しているが、手掛かりはない」
「民衆の動きを、止めねばなるまいかな」
「難しかろう。経済が止まる。めしも買えないとなれば、不満も出る。学び舎、市場あたりに人を置くぐらいしか、できはしまい。それに動きが変わると、余所に流れる可能性もある。できうれば、この中で仕留めたい」
「そうだな。そうしてくれると、ありがたい」
行動範囲が変われば、被害層も変化しうるかもしれない。つまりは振り出しに戻ったうえで、人だけが死んでいる状況になる。
「とりあえず、意見を出していこう。犯人像。被害者の現在の状態。あるいは次の標的。民衆への対応。五月雨式で構わん。どんどん、やっていってくれ」
「犯人は男。これは、決め打ちでいいだろう。女の場合、人物像が複雑になりすぎる。容貌への嫉妬、若さへの執着、あるいは、子どもを喪った母親など。選択肢が多すぎる。あくまで被害者そのものに、用事があるやつだ」
セルヴァンの言葉で口火を切ったのは、ダンクルベール。犯人を見る、となれば、やはりこの褐色の巨才の右に出るものはいない。
「標的については、無差別。年齢は同じぐらいだが、身分、髪の色や目の色、背格好も異なる。品定めには、それほど時間を掛けていない。上は大体、二十の三ぐらいまでだ。となれば最悪、性的暴行の可能性も考えねばなるまい」
「衛生救護班や女性隊員は、必ず男性隊員、二名以上と出歩くこと。特に班長であるアンリ君がいなくなれば、かなりの痛手だ。これから犠牲者、負傷者が出ることは、大いに考えられる」
「承知いたしました」
「我が身に替えても」
アンリとオーベリソンが、ほぼ同時に返答した。思わず顔を見合わせて、くすくすと笑いはじめた。同郷の長い付き合いであり、血は繋がっていないものの、仲の良い父娘である。
「どこにいるかが、問題ですよね。住める場所と、住めない場所が、くっきり分かれた地域だ。住める場所自体は狭いが、全体で見るとかなりの広さだ。山岳救助隊みたいな、山登りが得意な連中が必要になるってんなら、俺たち“錠前屋”では、対応しきれないっすよ」
ご存知、“錠前屋”隊長のゴフ。腕力が悪目立ちするが、その発想の鋭さは、他の追随を許さない。持ち前の明るさから、雰囲気づくりも得意科目である。
「いわゆるシェルパがいる。使えるが、使わんに越したことはない。言う通り、見るべき範囲が広すぎるからな」
「じゃあ、場所の傾向を見ましょうよ。街の地図、貰っていいでしょかね?粗、密、とりどりので。いなくなっただろう場所を、点を打ってみる。言葉でなく、図で見たほうがいい。そこに人を潜ませて、現行犯狙いだ」
スーリも議論の場にいた。もと暗殺者、つまりは、もと犯罪者だ。犯罪者の視点から物事を導き出せる、希少な存在である。
「山狩自体は行ったほうがいいっすね。危機感を覚えさせる。その上で、スリルを楽しむやつだっていますからね。そういうやつは、それで炙り出せまっせ」
「遊び目的か。俺たちが来たことを教えれば、こちらを試すようなことはしてくる。それで、ぼろが出るだろう」
このように、捜査そのものは、ダンクルベールとスーリの組み合わせで十分だろう。あとは各々が、それを補強、補間するなりすればいい。
「民衆への対応は、衛生救護班で行います。修道士と看護員。人心の慰撫には、最適かと」
チオリエ特任伍長。それよりも、向こう傷の聖女で知られた聖アンリである。生ける聖人が来たとあらば、領民も心が休まるだろう。
「アンリエット。ラクロワも伴っておくれ。現場での後方支援を、学ばせたい。これの盾は、オーベリソンとペルグランで行こう。今回は、副官仕事は後回しだ。いち捜査官として働いてくれよ」
ペルグランが首肯したうえで、挙手した。
「デッサン中尉殿も、如何でしょう?絵というのは、心を慰めたり、穏やかにさせたりする効果も、あるかと思います。例えば被害者のご家族に、似顔絵を描いてあげるとか」
「発想、着眼点、大いによろしい。ただし似顔絵は事態と折り合いがつけれていないと、ちょっときついかもしれんな。それならば、いわゆるお絵描き教室とかをするのもありだろう。大人たち向けにアンリ君を。子ども向けにデッサン中尉だ。これならどうかね?デッサン中尉、ペルグラン少尉」
「僕でよければ、喜んで。ありがとう、ペルグラン少尉」
「こちらこそです。中尉殿」
ペルグランは最初、デッサンをよく思っていなかったようだが、その人となりを知ってからは、随分と仲良くなっている。それに伴ってか、デッサンの出番も、色々と増えてきた。絵を描くことだけで、色んな役割が果たせるようになっている。
「兵站は、こことうちの実家で十分に賄える。作業分担は、私が七、ラクロワ君が三でやってみよう。現場に事務方にと忙しくなるだろうが、こういう機会でもなければ学べないことだ。ひとつ、骨を折っておくれ」
「かしこまりました。頑張ります」
末席にいたラクロワが、おずおずと返事をした。気の弱いお嬢さんだが、後方支援に極めて強い、事務方の才媛である。
「後で地図を見てくれればいいが、運河もある。ものや人員を運ぶのに、船が使える。ペルグラン少尉の腕の見せ所だろう。他の者に、操船技術を教えてやるのもいいかもね。余裕があれば、使ってみてくれ」
「承知しました。ちなみに、船の種類はわかりますか?」
「確か、パント船だったかな?できるかい?」
「あれかあ。多分、大丈夫です。乗るのも、教えるのも」
話をするふたり以外は、きょとんとしていた。軽くだけ説明を入れてもらって、ああ、あれか。となった。
ここは流石、かの名提督ニコラ・ペルグランのお血筋だろう。操船だけでなく、天気読みや遠泳もできるとのことだ。他にも馬術、精密射撃手まで巧みにこなす、百貨店の二号店になりつつある。ダンクルベールも、副官に置いておくには勿体ないと、嬉しい悲鳴を上げていた。
「船については血の都合、俺も多少の嗜みはあります。できうる限りは、やらせていただきましょうや」
オーベリソン。いわゆる“南蛮北魔”の“北魔”の方。最果ての地より各国を脅かした、海の戦士の末裔である。
「高い建物を教えて貰えれば、あたしの目が使えます。デッサン中尉に絵を描いてもらうもよし。長官やスーリの見立てに活かすのもよし。運河で兵站線作るのにもいいんじゃない?まあその都度、言ってもらえれば、やりますよ」
議論の場としては珍しい、“錠前屋”女性下士官のルキエ伍長。目の良さを活かした斥候役という、一芸特化の極地のような人材だが、運動神経も抜群で、犯人追跡にも大いに活躍している。
ムッシュはあえて、発言は控えていた。犯罪捜査、組織運営自体は門外漢であるし、この地について理解が深いわけでもない。意見は出せるが、場当たり的なものにしか過ぎない。
「ムッシュは、どうかね?」
考えている矢先に、セルヴァンが意見を求めてきた。
一旦、全員の顔を見渡した。
「各員のケアについて、私でよろしければ、務めさせていただきたく思います。緊急捜査事案。それも、慣れない地です。あるいは閣下であれば、ご実家を含む地元の危機です。心身ともに負担は大きいでしょう。些細なことでも構いませんので、ご相談下さい」
自分の言葉に、全員の顔に安堵が浮かんだ。特にセルヴァンは、張り詰めたものが解放されたかのような、大きな息が出てしまっていた。
ダンクルベールに次ぐ年長者であるムッシュであれば、たとえ知識や経験が伴わずとも、話し相手としては適任であろう。
ここで出ないもの。それを、埋める。それが求められている役割。そして出なかったものは、自身を保つことだった。危機対応において、最も重要なことである。
普段の実務においても、ムッシュはそれを担うことが多かった。特にダンクルベールには、大いに頼られていた。歳で言えば、向こうが三から四、上ではあるが、数少ない同世代である。いてくれるだけ、ありがたいのだろう。
経験と実績があるものは地方支部の運営に回しているため、警察隊本部は、四十代以上が少ないのである。
警察隊本部の顧問役として着任してから年月は浅いが、各位から信頼を得られていた。それは本当に、ありがたいことだった。年嵩のあるおやじであるし、医師であり、代々の処刑執行人である。人の生と死を、長く担ってきた。それが大きいのだろう。
人が消える。その後がない。手がかりも、無い。残されるのは、不安と恐怖だけである。死体が上がれば、怒りや悲しみが産まれる。それを消費して、行動に移れる。
不安と恐怖は、勇気の燃料には、なり得ない。
そうやって、意見も場も落ち着いたあたりで、訪いがあった。
入ってきたのは、髭を沢山に蓄えた、威厳のある御仁であった。
全員、起立。ただそのひとはそれ以降を手で制し、にこやかにダンクルベールのもとに向かった。
「よくぞお越しくださいました、霹靂卿。お会いできて光栄です」
伯領領主、ボーマルシェ伯ベイロン閣下である。
「此度の勲功爵の授与。まことにおめでとうございます。霹靂とは、まさしくダンクルベール卿に相応しき御名にございますなあ」
「ああ、いや。光栄であります。伯爵閣下」
笑顔で詰め寄られたダンクルベールは、些か気後れした様子だった。どこか、奇妙な可笑しさがあった。
先の通り魔案件で、ダンクルベールは、騎士爵に相当する勲功爵を授与されていた。爵位というより称号であり、貴族になったわけではないが、名誉あることである。
「霹靂とは、闇を裂く光であり、沈黙を破る音にございます。卿はその類まれな才覚と叡智を以て、数々の困難を切り拓いてきた、まさしく稲光と雷鳴の如きお方だ。卿が来てくださると聞いた領民一同、大いに快哉を上げ、これでもう安心だと、心より安堵しております。いやあ、これほど頼もしいことはござりますまい」
「伯爵閣下にそこまで仰っていただけるのであれば、この老骨にも、鞭の入れ甲斐もあるというものです。この一件、粉骨砕身の覚悟にて取り組ませて頂きますれば、何卒、よろしくお願い申し上げます」
遠慮しがちに、それでもしっかりと、ダンクルベールは礼をしていた。やはりどこか、慣れないものが見て取れて、一同、口に手を当てて、笑いを堪えていた。
軍功ある軍人に対し、騎士爵、あるいは勲功爵が与えられる場合、習わしとして、その個人の功績に則った二つ名が与えられる。
それこそが霹靂卿、ダンクルベール。霹靂。つまりは、かみなりおやじである。
その人となりを知るものはいざ知らず、ベイロンのように、武名や勇名のみを聞いているものからすれば、さぞ立派で威厳のある名に聞こえるのであろう。ダンクルベール自身も、勲功爵の授与自体が、まさしく青天の霹靂だったようであり、未だ馴染んでいない様子である。こうやって、卿だとか、ダンクルベール卿だとか呼ばれるたび、しどろもどろになってしまうので、それらをひっくるめて、皆、面白くて仕方ないのだ。
「かみなりさま、ねえ」
ひとしきりの挨拶を済ませたベイロンが去ったあと、やはり笑いが収まらない様子のセルヴァンが漏らしてしまった。
セルヴァンは領土持ちの男爵家出身ではあるが、次男のため、爵位の相続権は無い。ただ確か、ガンズビュール事件の際に騎士爵を授与されており、瑛眼卿の名を賜ったと記憶している。セルヴァン卿と呼ばれることも多かった。
「茶化すんじゃない。俺とて、未だ慣れておらん。貧しい家の出が、白秋手前で卿だの卿だのと呼ばれるとは、思いもせなんだ」
「かっこいいじゃないですか。それに、これから警察隊を目指そうという人々にとって、いい目標になると思いますよ?」
「勘弁してくれ、アズナヴール伯さま」
言い返されて、ペルグランも笑いの的となっていた。本人は実直な好青年ではあるものの、あのニコラ・ペルグランを祖とする、アズナヴール伯ペルグラン家の次代家督である。
ひとしきりが済んだので、具体的な指示が発せられていく。場が、動きはじめる。
セルヴァンに呼ばれ、別室に移動した。
「今、一番ケアが必要なのは、やはり私か」
「よく、お気づきで」
それだけ、言うことにした。
「一度、ご実家に戻られるのもありかと思います。ご親族の顔を見るだけでも、心は安らぐ」
「そうしたいのは、やまやまだがな」
「やはり、シェラドゥルーガですか」
美貌が、顔をしかめた。
ガンズビュール連続殺人事件。その犯人やダンクルベールを含め、その解決直後からの付き合いである。
セルヴァンは、ボドリエール夫人ことシェラドゥルーガのことを、極端に避けていた。理由は様々だろうが、彼女に対する、強い思いがあったことが、一番だろう。
それを、裏切られた。そしてそれが、人ですらなかった。それがセルヴァンを、今でも蝕んでいる。
この地に根付く、“ロ・ロ”や“旧いヒト”と呼ばれるもの。あるいはそれがまた、人ならざる人でなしなのではないかという、不安と恐怖。郷里の地で巻き起こるかもしれない、再度のガンズビュール。
セルヴァンだけはただひとり、それと立ち向かわなければならない。
「先の場は、泰然、毅然と振る舞われておりました。しかし今、閣下の状態は、見てわかるほどに悪い。あまり眠れていないのでしょう。呼吸も浅いです。肌色も」
すべて、旅路から気付いていたことだった。首都から片道二日ほど、このひとを見てきた。
「まずは休養めされい。現場は長官がおられます。閣下のお仕事も、司法警察局の職員に割り振ればよろしい。三日も休めば、もとに戻ります。元手がなければ、商売もはじめられますまい」
「私は」
ムッシュの言葉を振り払うかのように、セルヴァンが背を向けた。
「私を、乗り越えなければならない」
決意の言葉は、小さかった。
そうして、部屋を後にしていった。
剛毅だが、頑迷でもある。誰でもそうであるが、追い込まれると、それがより、強くなる。
そうやって皆、壊れていく。かつての自分が、そうだったように。
「だ、そうですよ」
ため息ひとつ、言葉を宙に放り投げた。
「あら、バレちゃった?」
やはり、言葉が帰ってきた。
それは優雅に、ムッシュの視界に入ってきた。朱と黒のドレス。背筋の伸びた、豊満な肉体。そして美貌。
ボドリエール夫人こと、朱き瞳のシェラドゥルーガ。本日は、その朱い髪を纏め上げ、チュール付きの帽子と薄手の手袋もくわえて、余所行きといった風情でのご登場である。
「邪魔しちゃ駄目ですからね。ただでさえ、仕事をする側も民衆も張り詰めている。観光程度に収めておきましょう」
とりあえず、刺すべき釘は刺しておいた。勿論、といったふうの笑みが返ってきた。
これの遊びのひとつに、捜査妨害や犯罪教唆を行って、状況をややこしくすることがあった。特にダンクルベールなどが、自分よりも先に真相にたどり着いた場合に、それをすることが多い。気に食わないというよりかは、それに気付いてもらって、叱られたいようにも思えていた。
ともかく今回ばかりは、誰も彼もが張り詰めている。それだけは避けてほしかったが、そこは弁えているようだった。
「セルヴァン閣下と仲直りするのに、いい機会かと思って」
「となれば、“ロ・ロ”たるものの正体についても?」
「勿論」
鼻を鳴らし、朱い瞳がきらりと光った。
「お化けなんていない。寝ぼけた人が見間違えたのさ」
「おや、貴女は?」
「あら、失礼ね。これでもちゃんとした生き物よ?人間の皆さんからすれば、そう見えるだけで」
指先で口元を隠しながら、笑ってみせた。
「長らくこの島に根ざしている。私以外に、人ならざる人でなしがいないことは、都度都度、確認済みですから」
「それであれば、やはり人のやることですか」
「だからこそ、厄介極まりない」
夫人の顔から、笑みが消える。毅然とした表情。
「人らしくない人。人たるものが欠落した人。それを、人が人の目線で予測することは、困難極まりないこと」
「仰る通り。そして長官と貴女は、それを成してきた」
「そう。だから、ご安心」
言いながら、そのあたりにあった椅子に腰を下ろした。あわせるようにして、ムッシュもそれに倣った。
「セルヴァン閣下には、我が愛しき人がいる。我が愛しき人が育て上げた優秀な人材がいる。そして貴方のように、我が愛しき人やセルヴァン閣下を支えてくれる人がいる。だから、何の心配もない」
自信満々。表情から、それが読み取れた。
複雑怪奇な存在だった。前提として人ではないから、行動原理は人のそれではない。
それでも、人に対する大きな愛がある。だからこそ知性と教養、道徳と倫理を併せ持ち、あるいはそれを捨てることもできる。これを人として見れば、狂気を孕んだ精神病質者として捉えるだろう。
人ではない、人でなし。その前提を押さえておけば、この生き物と接するのは、難しくなくなる。信頼を、置けるようになる。
つまりは言う通り、何の心配もいらない。いつもどおり、ダンクルベールが陣頭に立ち、それをセルヴァンが支える。それをやればいい。
そうするように各員を機能させることが、自分の仕事だということだ。
「とりあえず」
安心したので、後は言うべきことを言うだけだった。
「観光にしてもそのお召し物は、ちょっと派手ですかね」
それだけ言うと、夫人は破顔した。
2.
各員に指示を伝え、ルキエだけ残した。全景を見る、ということをやっておきたかった。
ガンズビュールの際、左足を悪くしている。それでも杖があれば楽、という程度のものであり、それがなければ立てもしないというわけではない。それにしても、その左足がたやすく悲鳴を上げる程度には、この物見塔の階段は急であり、また長かった。見かねたムッシュが肩を貸してくれて、なんとか登りきれたぐらいだった。白秋手前の爺ふたり、大汗をかきながら、ようやく登りきれた。
「いやあ、絶景だな」
全景を見渡し、思わず素直な言葉を出していた。
白扇山脈の氷河。山々の鮮やかな緑。碧色の山中湖。運河の走る、色とりどりの、石と木を織り交ぜた建築物の数々。おそらくヴァーヌ聖教以前の建築様式で作られた教会など、雄大で美しい様々が、視界を窮屈なまでに埋め尽くしていた。
風が心地よい。汗が、不快なものではなくなっていく。
「アルシェが来たがったのもわかるなあ。これが故郷だというのだもの」
口に出してしまっていた言葉に、ルキエが振り返っていた。
「アルシェ大尉も、フォンブリューヌ出身だったんですか?」
「サラさんのね。アルシェは、ガンズビュールだ。新任少尉のときの配属先がフォンブリューヌ。市場で拾った落とし物がきっかけで、サラさんと出会ったんだと」
「へえ、そうだったんだ。ちょっとロマンチック。サラ姉、綺麗だし、朗らかで優しい人だから、どうしてまたアルシェ大尉となんだろうって思ってたけど」
「アルシェは、仕事場と私生活でまるきり違いますからな。知らない人はびっくりするでしょうよ」
ムッシュも、面白そうに笑っていた。
仏頂面の寝ぼけ眼の、少し痩せた男。どうしても、酷薄なものを感じてしまうものは多いだろう。実際は、至極普通な感性を持つ家庭人である。特に妻であるサラに対しては、前職に異動するにあたって大変な思いをさせてしまったことから、今でも相当に気を揉んでいる。
本事案は誘拐ということもあり、妻や子どもは巻き込みたくないし、かといって長期間置いていきたくもないとなり、本部で居残りである。
ビアトリクスも同じくフォンブリューヌ出身ではあるが、郷里にはあまり愛着が無いようで、また誘拐という事案から、同じく本部居残りとなっていた。
「土産に、セルヴァンのところのチーズを頼まれたよ。サラさんが好物らしくってな。今、“足”に頼んで、買いに行っている」
「長官、サラ姉と仲がいいんですね」
「家が近いのさ。行きつけのビストロで鉢合わせて以来の、家族付き合いだ。息子のエドガーとも、よく遊んでもらっているよ」
「へえ、いいなあ。サラ姉、お子さんのこと、よく話してくれるんです。会ってみたいなあ」
ルキエは興味深そうに、話に混ざってくれた。
警察隊の年嵩の連中に多いように、ルキエも生まれがよくなかった。その点で気楽なのだろう。よくこうやって、輪に入ってくれる。自分たちからしてみても、ちょっと小生意気で、可愛げがある姪っ子といった感じである。ウトマンとは特に仲が良く、アンリを含めて和気藹々としていた。
世間話をしながらも、見るべきものを見ていった。主に、人の流れである。どのようにして集まっていくか。どんな年齢の人が、どこに行くのか。
人の多さに、なにより驚いていた。
山があり、湖があり、運河がある。そして建物も。その間を縫うようにして、人々の往来が止むことがない。そして人々も、身なりが整っている。貧しい人が見当たらない。
理想的な土地、と言っていいだろう。まるで危機など、どこにも無いようなぐらい、平穏で、活気がある。
「セルヴァンは、やはり無理をしているか」
ムッシュに問いかけた。
ルキエは、戸惑った様子だった。自分が聞いていい話なのか、という顔である。目で、続けるようにだけ、伝えた。
「既に、体にも見えるほどに」
「だろうな。今回はあれが一番、大変だろう。郷里の危機。慣れない前線。そして“ロ・ロ”の存在」
「有り得る話だからこそ、心を蝕む。強い心を持っていますが、ひびがある。そこを、攻撃されている」
「ガンズビュールの時も、そうだった」
静かに、目を伏せた。
ガンズビュール連続殺人事件。
あのシェラドゥルーガとの因縁のはじまりでもあり、また、ダンクルベールとセルヴァンの、付き合いのはじまりの場でもある。
今回と同じように、特別捜査本部長として着任した、二十半ばの美男子。後方支援のみで大佐まで昇進した異才であり、司法警察局次長に着任したばかりの、新進気鋭の駿才であった。あるいはダンクルベールのような現場のものからすれば、現場を知らない若僧が来た、という、いい印象ではなかった。
セルヴァンはそれを、ただ実力を以て覆した。
捜査官の、身の安全の確保と整備。現地に滞在していた王族貴族や、現地民への慰撫。また、それぞれに対する保養と体調管理の徹底。それをあっという間にこなしたと思えば、今まで現地の警察隊のそれに依存していた兵站能力を、首都の司法警察局へのそれへと瞬時に切り替えてみせ、自分の“足”以上の速度で、正規軍人による、現地と首都間の兵站線を確保した。
また、当時の最高指揮官マレンツィオの持っていた業務の棚卸を行い、事務作業の一切を引き取り、警察隊を現場に専念させることもやってみせた。その上で必要と思われる人員の確保と招集、場合によっては、在野の名士に特任士官権限を与えて、現場に加えるということもやった。
現場知らずの若年の大佐が着任してからひと月もしない内に、特別捜査本部の屋台骨は、鉄骨造りの堅牢強固なものに仕上がっていた。
後方支援とは何か。あるいは国家憲兵とは、軍隊とは、そして国家とは何か。それを熟知した、稀代の戦略家だった。
しかしひとつだけ、セルヴァンが知らないものが現場にあった。
それは、恐怖だった。
当時の司法警察局局長が殺された。首都にいたはずの人間が、ガンズビュールで、引き裂かれて見つかった。それが、はじまりだった。
自分もこうなるかもしれない。あるいは、自分が支えているものが、こうなってしまうかもしれない。いつ、どこから、何が切欠で狙われるのか。
一度崩れると、立ち直れない。強い心だからこそ、組み立て直せない。セルヴァンは、心の籠城戦を強いられていた。
そして犯人は、ボドリエール夫人。
セルヴァンは、熱心なボドリエール・ファンでもあった。憧れた、恋い焦がれたその人であり、そしてまた、人ではなかった。お伽噺の人食い魔、シェラドゥルーガ。実在した神話。
それが今でも、セルヴァンの心に、大きくひびを入れていた。
そして今、故郷のお伽噺が、現実になりかけている。それが、心を締め付けている。
「司法警察局とは、セルヴァンだ。ひとりですべてをやってしまっている。ひびを守るために、何枚もの壁を作ってしまったから、誰も近寄れない。だから今以て、司法警察局の人材は、育ちきれない」
「此度は、そのひびと、向き合わねばなりますまい」
「あれが崩れれば、すべてが崩れ去る。俺たちは、ここに取り残されてしまう」
長く、背中を預けていた。それが崩れ去ることだけが、何より恐ろしかった。
セルヴァンを守ってやらなければならない。恩義に、友情に、報いなければならない。彼を育んだ、この雄大な自然の中で。
「どうやら長官も閣下も、副官がいたほうがよろしいようですな」
くすりと笑ったムッシュに、ダンクルベールも笑ってしまった。
司法解剖に長ける医者である以前に、人生経験の豊富な年寄りである。隣りにいるだけで、気が楽だった。
「手間を掛けるな、ムッシュ」
「お構いなく。ペルグラン少尉も羽を伸ばす、いい機会でしょうし」
「今回は女どもの世話役。あれのことだ。張り切ってやってくれるだろうよ」
言って、やはりふたり、笑っていた。
ペルグランを今後、どう育てるか。ちょっとした悩みだった。
副官としては、育ちきっていた。いち捜査官としても、並程度のものになっている。あとはどこを伸ばすべきか。どういう人物として、仕上げていくべきか。
叩けば響き、伸びる。そして多才だ。器用貧乏だけにはしたくない。いずれ手放すとして、誰と組ませるべきか。ウトマンやビアトリクスとは相性がいいだろうが、正攻法が過ぎる。搦手をやれるものがいない。となればアルシェだろうが、手を汚すことをよしとしてくれるか。
今回、ペルグランを横に置かないことで、それも一緒に考えていきたかった。そうなると、年嵩の親父であるムッシュは、いい相談役だった。
見るべきものは見たので、次に取り掛かろう。そう、思ったときだった。
「あの」
振り向いた。ルキエが、難しい顔をしていた。
「あたし、セルヴァン局長閣下のこと。強い人とばかり思ってました」
寂しいというより、悲しみに近い口調だった。
縁の上の力持ち。そう呼ばれてきた男。朱夏も半ばが見えてきてなお、衰えることのない美貌。冷静沈着かつ迅速果断。そしてその気っ風の良さから、セルヴァンを知るものは、きっとそう思うだろう。
セルヴァンの弱さは、もっと踏み込んでいかなければ、見えないものだった。そしてルキエたちは、見る必要のないものだった。それは何より、セルヴァン自体が望んでもいない。
「お前にとっては、それでいい」
「あたしたち、頼りすぎていたんですかね?」
「それがセルヴァンの仕事だよ。気にする必要はない。むしろ俺たちは、あいつの盾になってやらねばならん。背中を預けるということは、それを守るということと同じだからな」
言葉は選んでみたものの、ルキエの表情は変わらなった。
尊敬する人物の、頼ってきた人の、見えざる部分。それをどう受け止めていいのか、わからないのだろう。
ひとつ、思い浮かんだものがあった。
「お前にとっての、アンリエットみたいなものさ」
それを言うと、ルキエの顔に明るさが戻ってきた。
「それなら、やれると思います」
「よし。じゃあ今回も、セルヴァンに頼っていこう」
「はいっ」
元気な返事だった。
ルキエとアンリという、同い年ふたり。正反対ではあるが、公私を問わず仲が良かった。
確か、ルキエがアンリの着ていたものを破り裂いたのが、はじまりだったはずだ。それも自分から正直に報告してきて、処断を仰いでいたし、罰則として言いつけた、アンリと仲良くすることも、すぐにできていた。
柄の悪い不良娘ではあるが、根は素直だ。口は悪いが、ひねくれてはいないので、他者と関係をこじらせることも少ない。ものだけでなく、人を見ることもでき、それに手を差し伸べようとする姿勢もまた、見せることができる。その手段だけ教え込めば、ルキエはより育つはずだ。
先の通り魔案件では、捜査官としても活躍してくれた。人のことを思う力を育めば、指揮官としても芽吹いてくれる。何よりも、人そのものとしても、大きくなれる。
全景は見た。次に出るであろう場所と時間を予測する。
スーリに、出現場所の可視化を頼んでいた。人通りの多い飲食店街、そしてやはり露天市場である。
それを見ながら、とりあえずいる面々で議論をやってみる。ダンクルベール、スーリ、ゴフ、ルキエ、それとゴセック少佐。フォンブリューヌ地方支部長であり、この地方の出身でもある。
「露天市場が多いな。となれば、午前中か」
ゴフが口火を切った。ひらめきを活かす。知識の下地さえ整えておけば、あとは促さずとも切り拓いていく。
「とにかく、栄えてます。平日ですが、人の量が多い。狙われるのは、すべて客。店員、市場関係者、卸業者などは狙われてない」
次に、ルキエ。やはり観察眼。そこから、洞察力が生えてくる。下士官にしておくには勿体ないぐらいだ。
「日中、出歩く女性の量が多いというのも、ここの特徴だ。めしは外なり、買ってくるなりにして、家事は午後に回しているのかな?」
「大体、そうですね。外で食べることが多いです。地元民向けのブションが多くあります。午前中は買い物と昼食、午後から家事でしょうか。大家族があまり無いのも、特徴といえば、特徴になります」
ゴセック少佐が回答してくれた。外連味がなく堅実で、人意思疎通に齟齬を起こさない。特に組織運営においては、そこがよく作用する。このフォンブリューヌのように、情勢が安定した地に置く守将としては、正解のような人物だった。
「全員、地元。家族と一緒より、お使いが多い。行ったまま帰ってこないってのが、ほとんど。今のところ無いけど、親御さんが気付く時宜によっちゃ、いっぺんに連れ去られたように思える犯行も、出てくるでしょうね」
スーリの言葉に、ダンクルベールはいやなものを感じた。
「複数犯、組織犯にも見える、ということか」
あるいは模倣犯にすら。
悪意ある人間が、ひとりではなく、複数人いる。それだけで、人の心は揺さぶられる。何より、セルヴァンの心が。
「ひとりで出歩かせないようだけ、通達できないものかな。セルヴァンに確認の上、ベイロン閣下に頼んでみてくれ。後は、行方不明の届出が出たとしても、警察隊の面々に止めよう。分析の後、セルヴァンに伝える」
控えていた司法警察局の職員に、まずは言ってみた。セルヴァンに負担を掛けないように、やっていくしかない。
「それと、ベイロン閣下のご家来さまで、地域の情勢に詳しい方がいれば、連れてきてはくれんか」
「何か、思い当たったのですか?」
「フォンブリューヌは悪党がいない。それが不思議でな」
「どこから生えた茸か、っていうことですか?」
ゴフの問いに、頷いてみせた。
余所者ならともかく、地産であれば、何かしらの土壌があるはずだ。大抵は裏社会、つまりは悪党になるが、このフォンブリューヌ一帯では、それが見当たらなかった。
セルヴァンが悪党に理解が薄いのも、おそらく、このフォンブリューヌの出身だからだろう。ビアトリクスやゴセックも、悪党の仕組みについての理解に苦労していたはずだ。
来たのはベイロン閣下、そのひとだった。
「本官は長らく、首都近郊での犯罪捜査を担当しておりました。経歴の大半は、悪党が中心でした。それが、このフォンブリューヌには存在しない。それが何故か、ご存知でしょうか?」
ダンクルベールの言葉に、ベイロンが顔をしかめた。
「悪党というのは、つまり犯罪組織かね?」
「いえ。もっと広義なものです。法の加護を受けられないものたちの互助会みたいなもの。例えば博徒であったり、任侠であったり。そういった、法すれすれの商売をする人々です」
やはりベイロンは、理解ができていないようだった。
それで、何となく見えてきた。
「つまりは、そういうものが産まれない仕組みが、この地方には長らく存在しているということですな」
「私はこの地の生まれ育ちだから、仰る意味がわかりかねるが、確かにそういう仕組みがある。貧しいものや、法の加護を受けられないものを産まないため、貧富の差を少なくし、共に栄えていく。理非曲直を正す。それが、治世の根本だろう?」
「仰る通り。そしてこの地やセルヴァン本部長のご実家は、それを実現できている、理想的な領地です。そして、そうでない地域では、そういったものが存在するのです」
そこまで言って、ようやく得心が行ったようだった。
「犯人が、どのような身分か、あるいは出自か、ということかね?」
「ご賢察にございます。若い娘を三ヶ月で八人も拐う。そういう存在を育む土壌がある。それが無いならば、余所者の犯行になる。その切り分けのためです」
ベイロンの顔が、明るくなった。機嫌を損ねたわけではなかったようだ。
やはり、いい仕組みがある。領主と領民が、一緒に暮らしていく仕組み。富の再分配が的確に行われる仕組み。危機に対応する仕組み。それぞれが、ちゃんと機能している。
ここには、悪党は必要ないのだ。政治がちゃんとしている。領主と領民がいれば、すべてが成立し、機能する。あるいはこの地域そのものが、小さな国家であると言っていいだろう。
「いわゆる匪賊や窃盗団であれば、極稀に流れてきて、山の中に拠点を作ったりはする。それは交渉するなりして、帰順するなり余所に行ってもらうかしている。地元民の犯罪についても、基本的には商売だったり、人の交わりに起因するものだ。人さらいも無くはないが、身代金だったり、何かしらの要求がある。だから必ず、交渉の余地がある」
「となれば、余所者ですな」
余所者となれば、相当な手練れである。他の地域で、同様の事件は無かったはずだ。このボーマルシェ伯領で発見できたのは、偶然か、あるいは別の要因か。
「悪党がいなけりゃ、それが暮らす場所がない。地図や、目に見えているものがすべて。そこのどこかに、若い娘を約十人、隠しているってことになりますよね」
ルキエの言葉が、まさしくそれであった。
「市街地ではないだろうな。ゴセックの言葉もあるが、家屋の一軒一軒はそれほど大きくなく、密集している。人が多いし、往来も多いから、異変には気付きやすい。殺しなら特にだ。臭いですぐに気付かれる。運河は浅く、側溝、暗渠もない。いわゆる貧民窟も無い。目に見えているものがすべてだから、人がいる場所ではない」
「山か、森ですか。厄介だな」
ゴフが苦い顔をした。
「山は、難しいだろうな。三ヶ月で八人。遠すぎる。森でいいだろう。人里に最も近いところだ」
ダンクルベールは言いながら、三つほど点を打った。
「探りながら、燻してみよう。軽装で、入るだけでいい。安全第一だ」
それで、ゴフも頷いた。
「ダンクルベール卿。お時間がよろしいときでいい。悪党について、より詳しくご教授賜りたい。必要悪にも理解があったほうが、今後のためになるだろう」
ベイロンの楽しそうな声に、思わず苦笑交じりの返答をしてしまった。
これこそが、この地方の発展の根底にあるものなのだろう。
二日ほど、そうやって物見や実地を見ることをしたり、議論を重ねていったりした。
「“ロ・ロ”、あるいは“旧いヒト”について。念の為、知っておきたい」
ゴセックとふたりで、地図を見ていた。
人々が、それらに怯えている理由。今回の件と、何らかの関係があるのか。
「童歌で知られる、お化けのようなものです。それから呼ばれると、里からはぐれ、森に誘われる。つまりは、人さらいですかね」
「なるほど、つまりは現状に即していると。童歌があるとすれば、それに由来する出来事が」
そこまで言って、また嫌なものにぶつかった。
「残されてはいないだろうな」
自分で言いながらも、思わず、舌を打ってしまった。
以前、ガブリエリに歴史の勉強を頼んだ際にもぶち当たった、ある種の事実であり、問題である。
ヴァーヌの火。そう呼ばれる歴史用語。つまりは、歴史改竄。
ヴァーヌ聖教の布教に併せて、ヴァルハリアは各地でそれをやってきた。そうやって自分たちに不都合な歴史を燃やし、嘘の歴史で塗りつぶしてきた。
この国の歴史も、それをやられてきた。天然の要害であるフォンブリューヌであれ、それは免れなかっただろう。
“ロ・ロ”、あるいは“旧いヒト”の末裔。つまりは先住民族。思いついたはいいが、いたとしても、単独では動かないはずだ。
スーリの行ったことが事実になったのは、その日の夕方だった。
誘拐発生。ふたり、一気に消えた。
「同時ではないです。朝と晩で、ひとりずつ。晩の方は、ひとり暮らし。通報人はお隣さん。前日の夜に見てから、帰って来る様子がないからということでした」
「届け出が重なっただけだな。深くは考えなくても良さそうだ」
ペルグランとゴフ。三人で資料を見ながら、それを分析していた。
犯人は、夜にも動く。あるいは、未明から早朝か。
「よし、これからセルヴァン本部長に報告だ。対策本部室だな?」
「それが、既に報告済みでして」
「なにっ」
司法警察局局員の言葉に、血が沸き立った。
「言ったはずだぞ。セルヴァン本部長にも、それは了承を得ている」
「申し訳ありません。こちらの、情報伝達が十分でなかったようで」
「もういい。ペルグランとゴフは、ここで待機だっ」
吐き捨てるようにして、部屋を出ていった。
セルヴァンの部下が、セルヴァンのことをわかっていない。それが何より頭に来た。人を育てれないセルヴァンも悪いが、育っていけない下の人間も、同じぐらいに悪い。
何も言わず、対策本部室の扉を開いた。
セルヴァンはひとり、ぼうっと外を眺めていた。
「ダンクルベールか」
「ふたり、消えた。だが、別時刻だ」
「そうか」
振り返った。その顔は、呆けていた。
「ダンクルベール、どうすればいい?なあ、私はどうすればいいんだ?」
青い顔。怯えて、竦み上がっていた。ガンズビュールの時と、同じように。
心が、保てなくなっている。
「大事ない。まず、気を保ちなさい、セルヴァン。深呼吸、深呼吸だ」
「同日にふたりだ。複数いる。やつらは、“ロ・ロ”は、複数いる。いや、山ほど、山ほどいるんだ」
「届け出が重なっただけだ。ただの偶然だ」
「本当だったんだ。あの童歌は、“ロ・ロ”は、いるんだ」
目の焦点が合っていない。肩も、頬も、いくら叩いても、戻ってきてくれない。
恐怖に呑まれている。心も体も、蝕まれている。
「童歌は、童歌だ。複数だとして、人がやったことだ」
「人じゃない。“旧いヒト”だ。人でなしだ。あの童歌が何を意味していたのか、気付いてしまった」
セルヴァンの怯えが、一際、ひどくなった。歯が、噛み合わなくなるほどに、震えている。
「“ロ・ロ”を旧くしたのは、私たちだ」
その言葉に、背筋に怖気が走っていた。
「私たちが、旧い時代の私たちが、“ロ・ロ”を里から山へ、追いやったんだ。朝は昏がり、夜が来る。そうだ、“ロ・ロ”は復讐者だ。かつて自分たちを追いやり、人から、人でなしにした、私たちに対し、終末という夜をもたらす、復讐者なんだ」
つまりは、ヴァーヌの火の燃え残り。塗りつぶしきれなかった、この国の事実。それがもしや、このフォンブリューヌの地にも。
頭を強制的に切り替えた。それが事実だとしたら、何もできなくなる。
真実を、信じるしかない。今、ここにいるすべてのために。
「落ち着きなさい、セルヴァン。落ち着け」
「落ち着いていられるかっ」
絶叫だった。
それでも、震えたまま。目が、何処かへ行ってしまっている。息が浅く、そして荒い。
「また、人でなしだ。また、シェラドゥルーガだ。私はまたあれと、あれのようなものどもと対峙しなければならないのか?もうたくさんだ。あんな恐ろしい思いを、また、しなければならないのか?うなされ、眠れない夜を過ごさなければならないのか?どうすればいい?どうすればいいんだ?ダンクルベール」
「違う、セルヴァン。まずは頭を止めろ。考えるな」
「ダンクルベール。貴様は何故、正気でいられるんだ?あの時もそうだった。貴様だけは正気のまま、恐怖に立ち向かった。貴様もまた、旧いものなのか?騙していたのか?貴様もシェラドゥルーガなのか?もう、私は貴様を」
「しっかりしろと言ったんだよっ、セルヴァン」
胸ぐらをつかみながら、何度も揺さぶった。殴ってでも、殺してでも、立ち直ってもらわねば。
これが崩れれば、すべてが、崩れる。
「そう。しっかりしろって、言ったのよ」
聞き覚えのある声。
見渡す。すぐ側だった。のんびりと椅子に腰掛けた、朱と黒のドレス。同じ色合いの、豪奢な扇子をはためかせながら、それはこちらを見ていた。
「美中年が怯えて震えちゃって、台無しじゃない。折角、閣下の格好いいところを見られると思ってたのに。残念」
シェラドゥルーガ。
掴んでいた胸ぐらから、力が抜けたのが、はっきりわかった。
抱きとめていた。がたがたと震えている。自分にも、それにも、目を合わせようとしない。そのうち目をつむり、耳を塞いでしまった。
「私も、入れてよ?」
「それどころじゃない。見ろ。お前に、怯えている。このままでは壊れる。出ていけ、シェラドゥルーガ」
「その上でだよ。御心を平らかになさい?私は太古の昔より、この島生まれのこの国育ちだ。他に私のような人でなしがいないことは、何度も何度も確認済みだ。それに私は、長生きな頂点捕食者。つまり、繁殖する必要もないから、性の区別もなければ、子どももいない。ひとりぼっちの、可哀想なシェラドゥルーガさ」
「お前の、お前の何を、何を信じろというのだ」
目と耳を塞いだまま、震える声で、セルヴァンが叫んでしまっていた。
「貴方への、愛よ。ジルベール」
少しして呟かれたものは、優しく、温かな言葉だった。思わずで、顔の筋肉が緩んでいた。
愛。それこそは、シェラドゥルーガの行動原理。
「私を愛し、私が愛したジルベール。瑛眼卿、ジルベール・クリストフ・ドゥ・セルヴァン。貴方は私の書いたものを愛し、そして私そのものを愛してくれた。本の中に仕込んだ“悪戯”だって、幾つも見つけてくれた。ふたりだけの晩餐会に招待したときにも、喜んで来てくれて、その言葉とその心で、私に愛を伝えてくれた。だから私も、この言葉とこの心で、この愛を伝えてきた。それを、信じてほしい」
甘く、蕩けるような言葉。心を掴み、解きほぐす、愛という言葉。
腕の中のセルヴァンに、熱が戻ってくるのを感じていた。
「子どもの頃に歌ってきた童歌。旧いお化けにこわがっている。でもそれはもう、お伽噺。そういうことがあったとしても、もう今は、そうではない。かつて、そういうことがあったときでも、貴方はそれを、乗り越えてきた。我が愛しきオーブリー・リュシアンと共に。貴方が支え続けた、警察隊という、勇者たちと、共に」
シェラドゥルーガの朱が、紫に戻っていく。かつて見た、ボドリエール夫人の色に。セルヴァンが恋い焦がれ、そしてダンクルベールにとっては、疑い続けていたときの色に。
「忘れてはいけなくてよ?誰も貴方を、見捨てはしない。誰も貴方を、見放さない。貴方が皆を、そうしてきたから。貴方は、帰るべき場所。我が愛しきオーブリー・リュシアンの、そしてその、仲間たち。そして貴方の仲間たちや、貴方の家族たち。そして私、貴方の愛したパトリシア・ドゥ・ボドリエールの、帰るべき、広く、温かいおうち。その温かな火は、揺らぐことはあっても、消えることだけは、決してない。それは、皆が貴方を、愛しているから。我が愛しき、ジルベール・クリストフ」
ボドリエール夫人は、ダンクルベールが抱きとめていたセルヴァンの頬に、軽く唇を乗せ、そしてゆっくりと、その体を抱きしめた。
「大丈夫。皆がいる。ここに、いるから」
誰しもが、セルヴァンに言いたかったこと。それを、ボドリエール夫人、そしてシェラドゥルーガは、優しく伝えた。
夫人、とだけ。その言葉が、セルヴァンの口から漏れた。
しばらくして、セルヴァンの体に、力が戻ってきた。かつて抱いていた恋心が、かつて伝えてもらった愛の言葉が、きっと、そうさせたのかもしれない。
その内に、ダンクルベールの手を掴み、それを支えにしながら、ゆっくりと立ち上がった。
セルヴァンの顔だった。
「ありがとう、シェラドゥルーガ。いや、パトリシア。格好の悪いところを見せてしまったね。色男、失格だ」
「大丈夫よ。今の貴方が、一番素敵。こわい思いを乗り越えた、男の顔をしてる」
シェラドゥルーガ。美しく、優しい、母親のような表情。
「愛してる。ジルベール」
「ありがとう、愛している。パトリシア」
ふたり、寄り添って。
そうして、唇を重ねていた。
「ダンクルベール。皆を、集めてくれ。今後の方針について、検討しよう」
声と顔に、セルヴァンが戻ってきた。背中を預けるべき、頼るべき男のものが。
「いけるか?セルヴァン」
「ああ」
その言葉に、震えるほどの力を感じた。
「私が貴様を守る。貴様たちを、守り抜いてみせる」
ジルベール・クリストフ・ドゥ・セルヴァン。縁の上の力持ち。二十年来の、見初め、すべてを預け尽くした恋女房。年齢も役職も越えて、貴様と呼べる、唯一の男。
見惚れていた。これまで以上のものを、見せてくれていた。
かつての愛をひとつ、取り戻した。それで、人というものは、立ち直れるものなのか。それ以上のところに、上っていけるのか。
そこに何か、葛藤のようなものを覚えた。取り戻す前に、喪ってしまったもの。ダンクルベールの内にあるものは、そんなものばかりだった。
部屋を出ていったセルヴァンから目を逸らした先には、朱いシェラドゥルーガがいた。いつもどおりの、不敵な笑みで。
幾つもの顔。それは女に限らず、これもそうなのだろう。
親愛、敬愛、愛欲、そして食欲。本質がどれなのか、いつもわからなかった。
「あえて聞くが、シェラドゥルーガ」
紙巻を咥えて、火を灯した。紫煙が、濁りを取り払うと思い込みながら。
言った言葉に、どうしてか、シェラドゥルーガは背を向けていた。
「お前は、何者だ?」
あえて、虚空に放り出すように。
一拍以上の、間。
「知りたい?」
振り向いた。振り向かせては、いけないものが。
「いや、いい。きっとわからん」
ダンクルベールは、それらから目を逸らせた。
その女の影のかたちは、人のかたちではなかったから。
3.
湖から流れ出す運河は、澄んだ碧色で、穏やかだった。パント船、三隻。これで、ものと人員が、十分に運べた。
パント船は久しぶりに操船するので、ちょっとだけ練習させてもらった。船尾に立ち、棹を川底に突いて操作する。川は浅く、底は石で敷いてある。人数やものを乗せる都合、速度を出す必要はない。
五分程度で、人を乗せても大丈夫なぐらいには、動かせた。
船頭はペルグラン、ラクロワ、オーベリソン。人数の大部分はペルグラン。荷物とデッサンをオーべリソン。そして、ラクロワが、アンリとドゥストを乗せて、三人で交代しながら、やってみることにした。
やはり血の都合、オーべリソンは習得が早かった。ラクロワは士官学校でカヌーなどの操船も習っているが、はじめて触るパント船は、おっかなびっくりといった様子だ。それでも同世代の女三人、きゃあきゃあ言いながら、進めている。最初は物珍しさから、デッサンもやりたがっていたが、やっている途中、やっぱり風景が気になって仕方ないのだろう。オーベリソンに任せて、絵を描くことに没頭しはじめた。本当に、絵を描くことが大好きな人である。
それもわかるぐらい、船から見る町並は、本当に素晴らしかった。素朴で、新鮮で、いつまでもいたいと思えるほどだった。
現地の人々の慰撫に回っていた。
人心が乱れている。それを幾らかでも回復し、維持するのも、警察隊、あるいは国家憲兵としての役目である。このあたりはガンズビュール経験者でもあるセルヴァンの、手腕の見事さであった。
やはり聖アンリの尊名は、なによりの効果があった。
おそらく、国内で知らない人は、もういないのではなかろうか。訪れる先、船の上、ないしは街の中で、その可憐な顔に走る向こう傷をみとめた民衆が、ああ、アンリさまだ。アンリさまが来てくださった。そう言って、わっと駆け寄ってくる。皆、一様に、これで助かる。これできっと、よくなると、涙を流していた。そしてアンリをはじめ、衛生救護班の面々で、温かい言葉と、強い励ましを以て、それに応えていく。
「大丈夫。私がいます。このアンリエットが、御使さまの名代として、旧いお化けを追い払います。だから皆、気を強く持って。お化けなんていない。怖くなったら、火を灯して。火は、御使さまの道標。あなたたちのための、炎の冠。龍を倒した御使さまが、やってきてくれる。私だけでなく、御使さまが、来てくれる。炎の冠と炎の剣を携えて、あのミュザさまが、こわいお化けなんて、やっつけてくれるんだから」
神代の英雄、御使のミュザ。その名代たる聖アンリ。その姿は、まさしく宗教画のようであった。
「アンリさん。すごいなあ」
ラクロワが、ぼそりと零した。
「宝石みたいな、声」
ラクロワは、いつもそう、言っていた。
それだけ、アンリの声には、神通力があった。故郷の戦乱の中、叫び続け、泣き続けたのだろう。少しだけかすれて、それでも、雪解け水のように、澄み切った声。
傷を負い、涙を流し、生きて聖女となった、聖アンリ。
「生ける聖者であること。その責務を果たそうとすることは、尋常ではできないことだよ。それを尊敬することはいいことだけど、比べる必要は、ないんじゃないかな」
「ありがとう。ペルグランくん」
そう答えても、やはりラクロワは、自信がなさげだった。
「一番は、これを思い付けるセルヴァン局長閣下だよ。軍隊の支援だけではなく、そこに住む人を支援すること。ラクロワは、そっちを見るべきじゃないかな?あの方、ラクロワをすっごい評価しているから」
「セルヴァン局長閣下が、私を?」
はっとした顔で、こちらを向いた。ラクロワの顔は、少しだけ、嬉しそうだった。
「これ、内緒だよ?局長閣下から、ラブレター来てるんだ。ダンクルベール長官が、待てを出している。だからさ、胸張っていこう。そうしてそうなった時、自慢できるようにしようよ。あの局長閣下に口説かれたってさ」
そこまで言うと、ラクロワは真っ赤になってしまった。そうして小声で、ありがとうと言ってくれた。
同期。それも女の子。自分に自信が持てない、控えめな女の子。その背中を押すためなら、これぐらい、格好をつけたっていいだろう。
「ペルグラン少尉の言う通り、自信を持ちなよ、ラクロワ少尉。持てるかどうかは、君の持っているものを、君が認めてあげることから、はじまるんだよ」
どこか嬉しそうな声で近づいてきたのは、デッサンことフェリエだった。笑顔の子どもたちを、山ほど連れてきている。
「僕は、絵を描くことしかできないけど、こうやって、子どもたちを楽しませることができる。ペルグラン少尉の意見のおかげで、僕も自信満々の大忙しさ」
瓶底眼鏡の奥の目が、にこにこしていた。子どもたちは、デッサンの描く絵に群がったり、あるいは、自分たちも描いてみたりして、本当に楽しそうにしている。
「提案を受け入れていただけて、本当にありがとうございます。デッサン中尉殿」
「こちらこそだよ。僕も、子どもが大好きだからね」
「今、おいくつでしたっけ?」
「上が六歳と、下が三歳。だからちょうど、この子たちぐらいだ。だからやっぱり、ちょうど同じようにして、遊んであげられる。これも役立つとは、思わなかったね」
きっとセルヴァンの入れ知恵だろうか。髭も服も整えて身綺麗になっているから、いつも感じる陰湿さはなく、剽軽さや愛嬌すら覚える。年若いお父さんといった感じだ。
正直、最初の頃は、この人が嫌いだった。
死体画家。そう呼ばれていた。雨の中、人に傘を差させてまで、死体の絵を描く男。不恰好で、奇怪で、不気味な男。
本当は、真面目で心優しい人だった。そして灼熱に燃え上がる、正義漢だった。ただ、それを活かせる才覚がなかった。行き場のないものを、自分自身や、犠牲者の絵に、乗せていた。
そうしてできあがるものは、緻密で、多角的だった。もっと力があれば、もっと才能があれば、それを、絵にぶつけ続けていた。
ただ、本人はそればっかり言うけれど、沢山の他のものも持っていた。観察力。洞察力。行動力。記憶力。そして、理解と共感をする力。
理解しはじめてからは、打ち解けるのも、絵に込められているものを感じ取るのも早かった。男性隊員の中では、一番に話す、人生そのものの先輩になっていた。
代々の尚武の家系。画家になりたかったけど、家の面目のために軍人になった。でもやっぱり、才能がない。わかってくれたのは、士官学校の同期のゴフぐらい。あの人は粗野で乱暴だけど、人のそういうところを見抜く直感と、弱いものいじめが大嫌いという義侠心があった。そこで波長が合ったらしい。いつも冗談を言い合ったり、あるいは取っ組み合いの喧嘩だってするぐらい、仲が良かった。
頑固な所が強いので、一度怒ったら、もう止まらない。そこもなんだか、人間臭かった。
僕は絵を描くことしかできないけれど、絵を描くことができる。それで進める人や、助かる生命がある。皆がそれを教えてくれた。僕の絵には、皆の花丸がついてるんだ。笑って、いつも言っていた。
奥さんと子どもがいるというのは、最近知った。やっぱり、絵を見せてくれた。綺麗な奥さんと、可愛い子どもたち。許嫁らしいけど、ゴフいわく、見ているこっちが恥ずかしいぐらいらしい。現在、三人目をご懐妊だそうだ。
「遠足の前には、持ち物確認は大事だっていうだろ?それとおんなじだよ。ラクロワ少尉」
「でも、自分を見るのには、どうすればいいでしょうか?」
「鏡を見ればいいんじゃないかな?」
デッサンの言葉に、ラクロワは笑ってしまっていた。結構、冗談が好きな人でもある。そしてこうやって、心を解きほぐすのだって上手だった。
まだ夏ではあるものの、高原地帯のため、少し肌寒い。アンリたち衛生救護班も、珍しく、油合羽を着ていた。
アンリはペルグランと同じく“短合羽”が好きな様子だ。現場に出ることが多いので、結構、育っている。丈は短いものの、ちょっぴりだぼっと羽織れる感じのサイズ感で、袖をまくる。いわゆる“彼氏合羽”だ。
若くてお洒落な女の子でも油合羽は人気であり、油を抜いた“油断合羽”にしたりして、ファッションアイテムとして、一定以上の知名度を得ていた。酪農の盛んな、このフォンブリューヌ地方では、羊毛などの毛織物のほうが馴染みが強いのだろうが、それでも街行く人を見ると、ちらほらと油合羽を羽織っている人は、目についたりもする。
「人が集まっているところを狙う。少ないところではなく。なら、けものじゃない。人でしょうな」
見上げるほどの大男。頼れる父親役、オーベリソンだ。
その巨躯を活かして、今回はもっぱら、衛生救護班や、民衆たちの護衛役である。見た目に慣れてしまえば、これほど頼れる人もいないだろう。デッサンと同じく、子持ちのパパさんでもあるので、子どもの扱いも得意だ。現地の子どもたちからは、巨人さんとか言われて、その大きな体いっぱいに、しがみつかれていた。
「そうであってほしいですよね。“ロ・ロ”とかいう、お化けが出るって、皆、こわがっていた」
「船乗りだって、お化けが苦手でしょう?少尉殿」
「セイレーンとか、クラーケンとか、色々いますからね」
「俺も祖先は、船乗りですから。おっかなくってね」
そう言って、威容をはにかませた。冗談のつもりだろうが、笑いづらかった。
何と言っても、あの“北魔”の血である。アルケンヤールの荒波を乗り越えて、ヴァルハリア、ユィズランド諸国から、この国やエルトゥールルにまで襲いかかった、蛮族の中の蛮族だ。
うちの実家にも、どういうわけか当時の船が一隻、保管されている。ロングシップ。名前の通り、長く細い船体。ほぼ全長すべてに櫂が着けることができ、さらに前後対称。つまりは後退も簡単だ。方形帆が掛けられる帆柱も取り付けられるようで、その喫水の浅さから、遠洋から近海、岩礁地帯から、あるいは河口を遡って川を登ることだってできるだろうし、船着場を選ぶ必要もない。つまりは、どこでも行けて、どこでも襲える船である。
およそ千年前。あの船に、オーベリソンに匹敵、あるいは凌駕する巨人を三十人程度詰め込んだものが、無数に押し寄せてきたのだ。実家の歴史でも、戦列艦とかフリゲート、どれだけ古くてもガレオン船ぐらいである。捕捉しづらい小型船で高速で近寄られ、斧を担いだ巨人に乗り込まれるなんて、船乗りの出身としては、お化けよりもずっと恐ろしい。
でもこちとら、あのニコラ・ペルグランの血だ。冗談ひとつで、負けてなんかいられない。
「景気づけにウォークライ、やっちゃいますか?」
「おっ、いいですねぇ。でも、うちのは失伝しちゃいました。流石はペルグラン家だ。お詳しい」
「竜骨に刻まれてるって、やつですよ」
そこまでで、ふたりで笑った。ラクロワや衛生救護班は、きょとんとしていた。船乗りどうしの、冗談合戦である。
「話を戻すと、けものなら、はぐれたやつを狙うはずだ」
「軍曹は、狩りの経験も?」
「幾らかね。この地は、広い牧草地があるから、その必要がない。羊や牛、山羊も飼える。山羊は乳が重宝しますよ。人の乳にだいぶ近いので、赤ん坊を育てるのに使えます。森なら豚で、肉だけでなく、茸も探せる。豊かな土地です」
「馬にもよさそうですよね。ただ、農業には不向きかな。標高がちょっと高すぎる。氷河が溶けた川や湖はあるから、水は豊富ですが、これも交易には使いづらい。鮭が戻ってくればいいでしょうが、どうだろう。でも、湖の鱒とかパーチでも十分、使えます。水質があえば、チョウザメも養殖できるかな?お隣の、セルヴァン閣下のご実家だと、黒鱸の養殖が盛んなんですって」
「作物は、芋とか蕎麦になるのかな?野菜のほうがいいでしょう。キャベツ、レタス、セロリ、ブロッコリー、アスパラガスあたり。キャベツは発酵させれば、長く使える。あとは木、そのもの。林業だな。石材も良さそうだ。実際、このあたりの建物は、木と石の組み合わせ方が上手です」
「基本的には、地産地消。加工して価値を高めて、麓に売る。そうして、麓の麦とかを買うんですかね?」
「おふたりとも、何の話をされているんですか?」
やはり、きょとんとした顔で、ドゥストが尋ねてきた。
まんまるとして愛嬌たっぷりのお嬢さんだが、腕利きの看護師である。救命医療における生命のリレーの中では、その二番手を務める、生命維持と医療介護の要石だ。
アンリが救い、ドゥストが繋ぐ。そうしてはじめて、ひとつの生命が、長らえられるのだ。
「おっと、また脱線しちまったみたいですよ。少尉殿」
「船乗りはどうしても、ものを売ることばかり考えちまいますよね。ここの美味しいものは何だろうね、って話です」
そう言うと、ドゥストが体同様の丸い目をきらきらさせた。何しろ、食べるのが大好きなのである。連日、セルヴァンが築き上げた兵站線から送り届けられる各種特産品に、舌鼓を打っていた。女の子に言うのは失礼かもしれないが、見ていて気持ちのよくなるぐらい、楽しそうに食べてくれる。
「医療に目を向けるとすれば、サナトリウムが良さそうですね。実際に何件か、見かけているし」
「そうですね。結核、精神疾患など。日当たりも、空気もいいですから、きっと早く良くなります」
気を使って、衛生救護班にもわかるように話を作ってみた。アンリが追っかけてきてくれた。
「デッサン中尉さまなら、やっぱり、絵ですよね?」
「そうだね、アンリ。この風景、そのものに価値がある。山々、丘陵、そして川や湖。どれもこれもが美しい。建物だって、さっき軍曹が言った通り、独特で、素晴らしい建築で、町並みが本当に綺麗だ。首都では絶対、見られないものばかり。つまりは観光だ。観光資源が、たくさんある」
題材がそこら中にあるのが嬉しくて仕方ないのだろう。とにかく絵を描いては、そのあたりにいる子どもたちや、老人たちに手渡している。そうして皆、自分たちが、どれほど素敵な場所に住んでいるのかを見て、わあっと、声を上げていた。
「風景が人を呼ぶ。それを目一杯、もてなすんだ。ここに、やみつきにさせる。あるいは、ここに住まわせるぐらいに。人が増えれば、仕事が必要になるし、住む場所も必要になる。そうしてどんどん、やることが増える。経済が回るしくみが、できあがるってところだね。川や湖の話があったから、遊覧船とかもいいんじゃないかな?パント船以外にも、色んな船を使えると思うよ」
「やっぱり、絵を描く人の目線ってなぁ、すごいですね。もののひとつひとつじゃなく、全体を見ることができる」
オーベリソンが、感嘆の声を上げた。
「伯爵閣下や、セルヴァン閣下のご一族は、きっと、この土地をよく観察して、発展させてきたんだろうね。人々は怯えているけれど、切欠を与えれば、すぐに立ち直れるよ。何度も危機を経験してきている。それを領主さまたちが先頭に立って、立て直してきた。それがここ、フォンブリューヌだ」
「立派な方々だ。山々という砦のお陰で、外敵からは身を守れる。その分、内に目を向けなければ、滅びが待っている。お互いに手を取り合い、助け合っていくしくみが、ちゃんと組み上がっている。人を育み、呼び、定着させるしくみも」
「私たちの故郷とは、本当に正反対。内陸の、穀倉地帯。四方はそれを羨む人ばかり」
「学ぶべき事柄は、学ぶべき場所にある。例え、人の上に立たなくとも、学ぶこと自体に、価値がある」
アンリとオーベリソン。この二人だからこその、金言だった。何よりも尊く、そして重い言葉だった。
「さて、ペルグラン少尉殿は、船乗りという家柄から。デッサン中尉殿は、絵描きの目線から。そして俺やアンリは、狙われる穀倉地帯という、故郷の情勢からこの地を見た。ラクロワ少尉殿は、何を見るでしょうか?」
突然に巨人から話を振られ、ラクロワの体が跳ねた。普段からオーベリソンの髭を結ってあげるなど、仲は良いのだが、現場と後方支援という立場の都合、仕事上の付き合いは少ない。
「道、でしょうか」
突然、話をふられてびっくりしたのだろうか。震えた声で、それでも絞り出した。その隣りに、そっと、デッサンやアンリが控えてくれたのが、嬉しかった。
「首都からここまで、約二日。峠道は、馬車が交差できる所が少なかった。馬車の幅は、作る職人さんや、それを使う人の身分などによってまちまちで、規格化されていません。だから、交差の際に、外側になる馬車は、危険になります。馬車の幅を規格化するのもひとつですが、身分が絡む都合、法整備はきっと大変になる。それならば、道そのものを規格化、効率化する。それでもっと早く、安全にたどり着ける」
どもりながら、それでも並べた言葉に、おお、と、デッサンが声を上げた。
「例えば、隧道を掘るとか。あまり長いと、空気が悪くなるので、短く、細かに。それだけでもきっと、半日から、四半日は、短縮できるし、安全な交通ができると思います。私はここに来るのははじめてだし、馴染も薄いから、もしかしたらもっと、いい方法があるかもしれない」
ぽつぽつと並べた言葉に、皆の顔が、綻んでいった。
「おそれいりました。こいつはきっと、ラクロワ少尉殿だからこそ、思い付けるものです。馴染みが薄く、はじめて来た。だから、道の不便さに気付いたんでしょうな」
「私やオーベリソン軍曹は、紛争地帯で育ったから、道はだいたい、荒れているか、壊れていた。そういう前提があります。ペルグラン少尉さまは、船乗りのお血筋だから、航路。もっと不便。本当に、ラクロワ少尉さまだからこその発想ですね」
「すごいや。僕はこの風景を変えたくない、そう思っちゃうから、道も風景のひとつとして見ていた。でも、交通の便が良くなれば、もっと身近な土地になる。半日も縮むんだったら、もっといっぱい、人が来るよ」
「よかったじゃん、ラクロワ。皆、褒めてる」
皆で、ラクロワを褒めていった。そうして真っ赤になって、ありがとうしか言えなくなったあたり、四人、こっそりと目線を合わせて、しめしめ、といったふうにした。
これこそが、ラクロワを、衛生救護班とデッサンとの民衆対応に伴った目的であり、ダンクルベールとセルヴァンから託された、極秘任務だ。つまりはラクロワの、司法警察局転属に向けての、花嫁修業である。
同期三人。親と自分の都合で割り込んだペルグラン。憧れがあって、そのために道を切り拓いたガブリエリ。
でも、ラクロワだけは違った。困った人を助けたい。でも何をやるのが一番なのか、わからない。人の勧めで士官学校に入り、成績優秀だったため、警察隊本部に配属された。
ダンクルベールは、その素質をすぐに見抜いた。それこそが、セルヴァンの正統な後継者というものだ。後方支援の第一人者、セルヴァンへ嫁がせるために、まずは二課配属とし、現場を知り、現場の欲しいものを知るように教育する。そういう方針のようだった。
困った人を助ける。これは、我らフォンブリューヌの地方豪族の行動原理、そのものだ。ラクロワ少尉を、私にする。そのための下地を、ダンクルベールの警察隊本部で作る。現場を知ったうえで、後方支援の何たるかを叩き込めば、あるいは私以上にもね。私の娘はまだ小さいが、バージンロードへの準備は、手間をかけるに越したことはないだろう?だから、娘ふたりを嫁がせた、ダンクルベールに託したわけさ。
警察隊隊員としてのセルヴァンを作る。それも、ひとつにある。警察隊本部の内に、セルヴァンをこさえるんだ。司法警察局の庁舎に行くという手間ひとつ、省ける。ペルグラン。これは、お前やガブリエリが大きくなったあとのためにも、必要なことだ。お前たちは、誰に背中を預けたいか。俺はセルヴァンという恋女房を見つけた。司法警察局への花嫁として、そしてお前たちの許婚として、俺とセルヴァンで、ラクロワを育て上げてみせる。それが俺たちふたり、父親の役目だ。
あのふたりが、ここまで評価しているのだ。後方支援の花嫁、ラクロワ。その素質が、この小さな体と、弱気な心に宿っている。
自分とガブリエリの許嫁という表現だけは、ちょっと引っかかるけれど、ラクロワだったら、きっと安心して背中を任せられるだろう。あとは自身の才覚を、周りが自覚させていくだけだ。
さっきまでのは、オーベリソン主体での即興劇だ。“錠前屋”筆頭下士官ともなれば、人の扱いも、会話の回し方も上手だ。デッサンもアンリも、上手く絡んだ。
「デッサン中尉殿は、お化けとかは、描くんですか?」
「そういうのはあまり。人と、風景。素描だからね」
「お化けとか、お伽噺とかは、人の心に根付いた、文化によるもの。風景に潜む、不思議だとか、こわいとか、そういうものへの気付きから、はじまります。信仰も、そのひとつ」
「つまりは、何を疑問に思うか、ですか?」
「そうさね、少尉殿。そのためには、色んなものを見なきゃあいけません」
「私、お化けがこわい。こわくて、震えたくなる。アンリさんは、どうして、こわくないのですか?」
ラクロワの問いに、アンリは、ひときわに微笑んだ。
「お父さんが、いるから」
そうして答えながら、オーベリソンを見た。
少しして、オーベリソンの威容が、喜びと、また違うなにかに、濡れそうになっていた。
「ごめんな。その呼び方、まだ、慣れてなくてね。アンリ」
このふたりに関して、ちょっとだけ、進展があった。本当の父娘になったのだ。つまりは、アンリエット・チオリエ・オーベリソンに。
オーベリソンは、優しい人だ。アンリも優しい人だ。ふたり、ほんとうの父と娘になって、幸せそうだった。
「そうだ、アンリ。木と石があるなら、あれができるな」
気を紛らわせるようにしたのだろう。オーべリソンが、ちょっと張ったような声を出した。
「ああ、サウナ」
答えたアンリは、嬉しそうな顔だった。
「お父さんの血の故郷の、蒸し風呂文化。私たちの故郷でも、育った教会に作ってもらったんです。水が少くっても、身を清められるんですよ」
にこにことした様子で、アンリが説明してくれた。
木で作った小さな掘っ立て小屋。その真中に、石を積んだストーブを置く。たったそれだけ。サウナという、蒸し風呂文化だ。ストーブで焼けた石に、たまに水をかけて温度を上げたり、温まった体のまま、川に飛び込んだりして楽しむらしい。特に冬の間は水が冷たく、確保もしづらいので、身を清めるのに重宝したそうだ。
「首都近郊だと、エルトゥールル式のハマムっていう蒸し風呂が多いんだけど、温度が低くって、ちょっと物足りないんですよねえ。あの、かっちんかちんに暑いの。懐かしいなあ。きっと受け入れられると思うから、セルヴァン局長閣下に具申してみようかな?」
「アンリさん、あれで物足りないんですか?十分、暑いじゃないですか」
「サウナは、乾燥してますからなあ。蒸気でなくって、熱の塊がどかんと来ますよ。冬なんかは、辛抱できなくなったまんま、雪ん中に飛び込むんでさあ。あれがたまんなくって」
「そうそう。それと、エバとイェシカが遠慮なくってね。ビョルンが先に入っているのに、素っ裸で乗り込んじゃうの。ビョルンったら、涙目になって飛び出てくるんです。それがもう本当、おかしくって」
アンリ姉ちゃんの思い出し笑いに、オーベリソンが、恥ずかしそうに頭を掻きながらも、やっぱり笑っていた。
エバとイェシカというのは、おそらくオーべリソンの娘ふたりだろう。そして末っ子長男のビョルン君。以前、お会いしたが、背の高い美少年である。とはいえ、まだまだ多感なお年頃。娘ふたりはペルグランと同じぐらいと聞いたから、たとえ姉のそれとはいえ、女性の裸体は目の毒だろう。ちょっと可愛そうでもあり、可愛い話でもある。
でも、いいなあ、ビョルン君。お姉ちゃん、三人もいるだなんて。しかも、うちひとりは、アンリ姉ちゃんだもの。
戻った時、ちょうど“錠前屋”の面々も、山狩から戻ってきていた。スーリの発案である、燻しである。ちょっとだけ脅かしをいれて、犯人を動かせるという寸法だ。犯人が人ならば、おれは獣じゃないぞと、神経を逆なでさせることができる。
そうして燻り出したところを、捕らえる。
衛生救護班は、中に戻した。アンリとラクロワは、残った。ちょっとした雑談のためだ。
スーリも、戻っていた。燻した後の、町中の細かいところを、見てきたようだった。
「森は、無ぇな。小屋はそれなりあるが、全部、整ってた。人の血も見当たらない。獣のねぐらは、幾つかあった。掘ってはいないが、餌を埋めたらしいところも。きっと、熊だろうね。鉢合わせたら“こと”だったぜ」
ゴフが、軽いめしなどを摂りながら、疲れた様子で漏らした。山の中を歩き回るのは、想像以上に体力を要する。
「熊なら、抵抗がなくなるまで叩きつけてから、首根っこを咥えて、持ち帰る。街に、痕跡が残るはずですな」
「町中は、アンリや画家先生の民衆対応もあって、綻んでる。そうやって、気が緩んでいるところを狙うのもありなんでね。点を置いた場所に、何人か潜ませときましょうぜ」
「精神科への通院歴がある人間は、探っているのかな?」
「地方小隊側に任せてるが、まだじゃねぇか?あとサナトリウムが何件かあるけど、皆そこまで、やばいやつじゃないってさ。まあ、どの程度まともかは、アルシェ大尉を引っ張ってこないと、うちらじゃあ、なんともだがな」
「犯人からの接触がない限りは、何も見えない。数だけが、増えていく。人心が、より乱れます。デッサン中尉殿の紙の枚数も、アンリさんの聖女の名前にも、限界はあります」
「あるいは“ロ・ロ”、“旧いヒト”の見立て犯行とかは、どうでしょうか?里からはぐれて、森へ行く。招待状が、届いているとか」
「被害者の家宅捜索は、地方分隊の方で済んでいます。“ロ・ロ”の名が、“ロ・ロ”を呼ぶ。こっちもありえますが、地獄耳にも程がある」
「よっしゃ。一旦、ここまでだな。セルヴァン局長に報告しよう。休んで、次の行動を考えよう」
そうやって、“錠前屋”たちの装備の片付けを手伝っていたときだったと思う。
遠吠え。
聞こえた。確かに、白昼の中。
おそらくは、この古城の、上。ペルグランは、視線を上げた。きっと、それと同時。
何かが、ぼとりと落ちてきた。
「見るんじゃない」
そう吠えて、隣りにいたアンリに、オーベリソンの巨躯が覆いかぶさっていた。ペルグランも同じくして、隣りにいたラクロワに覆いかぶさった。デッサンだけは、その落ちてきたもののところに、駆け出していった。
匂いが、予想以上だった。それで、何が落ちてきたかは、見る前でも、わかってしまっていた。
表面が崩れかけた、おそらくは、女の。腹は裂け、中身はほとんど無い。一部、骨も見えている。顔と思われる部分は、もはや何がどうなっているか、わからなかった。
すぐに、周りにいた“錠前屋”たちが、それを取り囲んだ。そうやってその姿が人だかりで見えなくなってから、ラクロワから離れた。オーベリソンも、同じように。
「ラクロワ。見てないよな?見たら、駄目だからな」
首肯したが、震えていた。おそらく何かは、気付いたのだろう。その顔は、真っ青だった。
「いいか、ラクロワ。頭の中のものを、膨らませちゃ駄目だ。泣くなり、叫ぶなりして、頭の中のものを、出し切れ」
「お父さん、ペルグラン少尉さま。あれは、もしかして」
アンリも、混乱した様子だった。こちらもきっと、気付いてしまっている。前に出ようとするのを、オーベリソンが、必死に抑えていた。
「駄目です。軍曹、ふたりをお願いします」
「おうさ。絶対、見るなよ」
オーべリソンが、半ば無理やり、小柄なふたりを担ぎ上げた。それをみとめてから、ペルグランはまず、上を見やった。何処かにまだ、いるかもしれない。
城の上には、既にスーリが登っていた。確かに、何かがいる。陽を背にして、影のみが浮き彫りになっていた。そうしてすぐに、何処かへ消えた。
スーリが追いかけていく。ルキエも既に、駆け出しているようだ。
汚れてもいいような一室を借りて、改めて、ムッシュがそれを診ることになった。
アンリも、毅然とした表情で、大丈夫。その一言だけ言って、部屋に入っていく。自分も少し遅れて、入った。中には既に、ダンクルベールもいた。
「食べられていますな。人の歯型だ。それに、暴行も。直接の死因は、脳挫傷か、頭蓋骨の陥没か。頭を真正面から、石か何かにぶつけられている。順番としては、犯して、頭を叩きつけて、食べる。食べられてるのは、主に中身。肝とか、肺、心臓かね。あとは全部、棄ててるのかな?」
顔を歪ませながら、ムッシュが並べていく。
「土に埋めています。蛆や、他の虫。ただ、土そのものでこなれる、というところまでは、行っていない。今までのうち、中盤あたりの犠牲者でしょうか」
思った以上に、アンリは冷静だった。
位置を変え、それの足を開いた。
「入口も、通り道も、ずたずたです。無理やりに、されています。肌の状態は悪いですが、吸い跡や、噛み跡はない。発散するためのものとしてしか、見ていない」
「アンリさん。どうか、無理をしないで下さい」
「お父さんと少尉さまに、準備をするための時間をいただきましたから」
脂汗。目に、少しだけ涙を浮かべながら、アンリが微笑んだ。それを聞いて、嬉しくなったと同時に、ほっとした。
「相手は人だということは、これでわかった。女を、そういうものとして見ている。化け物でも、人でなしでもない。化け物みたいなやつ、ではあるが」
ダンクルベールが、難しそうな顔でこぼした。
婦女暴行、殺人、食人、死体遺棄と、倫理観を無視した行為が目白押しである。本寸法以上の、猟奇殺人だ。
燻しに効果があった。ただ、相手の神経を逆撫でたのはいいが、その反応は予想以上だった。
でもこれで、足がかりは作れた。階段の何歩分かは、進められる。
「腹は、どう裂いている?わかればでいい」
「なんともですな。ただ、刃物にしても、鋭いものではないと思います。噛んだり、何かを刺したりして、取っ掛かりを作って、広げたのかな?」
ムッシュの顔も、汗塗れである。死と長く向き合ってきたとはいえ、これほどのものは、はじめてかもしれない。
「むう、いかん。目が、きつくなってきた」
「ムッシュも、無理をなさらず。今、清めるものとかを用意させます」
「すまんな、ペルグラン。よし、休憩。外に出て、空気を吸ってこよう」
ペルグランは、ぱっと部屋から出た。衛生救護班に、温めた布や、いくらか飲み物を用意するよう、頼んだ。
それと併せて、やっておきたいことがあった。
離れた個室。泣き叫ぶ声。中に入った。
ラクロワ。かがみ込み、頭を抱えながら。側にいるオーベリソンの様子は、心配も見えるが、穏やかだった。
「ラクロワ。俺だ。ペルグランだよ」
近寄り、顔を覗き込んだ。それで、叫ぶのを、やめた。
泣いてはいたが、眼は、しっかりしていた。
「ペルグランくんの、言ったとおりにした。大丈夫」
「頭の中のものは、まだ、膨らんでる?」
何も言わず、首を振った。
「よかった。そのまま、気が済むまで、発散しよう」
思わず、頬が緩んでしまった。
「こいつぁ、いい方法ですな。少尉殿」
「俺も新任少尉の頃、大変でしたから。その中で編み出したものです。もうちょっとだけ、お願いしてもいいですか?」
「勿論、お任せあれ」
オーベリソンが、どん、と、胸を鳴らした。やはり守りに強い、頼もしい人だ。
司法解剖をやっていた部屋の前に戻ると、人が増えていた。スーリとルキエだ。ふたりとも、大汗をかいてへたり込んでいる。ドゥストが隣りにいて、世話をしていた。
「いやあ、あんなの無理ですよ、隊長。速いのなんのって」
「まずはお疲れさんだ。ふたりで無理なら、誰だって無理だろうさ」
ゴフが、優しく声を掛けていた。
そのあたりで、外に出ていたダンクルベールたちも、戻ってきた。ムッシュとアンリも、落ち着いている。
「よくやってくれた。話すのは、落ち着いてからでいい」
「もう、速いも速い。土地にも慣れてる。がんがんかき回されて、最後には運河にどぼん。影しか見えなんだや」
「スーリもあたしも、泳ぐのは得意じゃないからさ。ペルグラン坊っちゃんならいけただろうけど、そもそも追いつけねえって、あれ」
「土地にも慣れてる、が収穫だな。運河も使えるなら、町の構造もちゃんと把握している。人に紛れることも、あるいはな」
そう言って、ダンクルベールが近くの椅子に腰掛けた。
「若い娘だけ狙うのは、情欲の発散と、食料の確保が、両方、行えるからでしょうか?」
「人、いや、他の生き物を、めしとしているのが先にあって、情欲が後ろ。もしかしたら先に、殺してから犯しているのもあるかもしれん。それが、あまりよくなかった。だから、犯してから殺すほうに変えた。そちらのほうが、満足できるから」
ペルグランが言い切る前に、それははじまっていた。瞼を閉じて、小声で。
即興の見立て。
「埋めていたのを、掘り起こした。それを投げて寄越した。怒っている。縄張りに踏み込んだ。最初は見ていただけだが、入ってはいけないところに入った。燻し。山。そこが寝ぐら。情欲が出て、縄張りが広まっている」
少しして、目が開いた。海の色。
「ルキエ。服は、着ていたよな?」
「着てました。ぼろ切れというか、ばっちい感じです」
「よし。それも収穫だ」
「長官、もしかして」
「見えてきたぞ。まずはセルヴァンに会う」
「もう、来ている」
セルヴァン。そして、“錠前屋”の面々や、デッサンもいる。
セルヴァンは、震えていた。そして、青ざめていた。
お伽噺に伝わる“ロ・ロ”、あるいは“旧いヒト”が、眼の前に現れた。それが人であることは、まだ伝えていない。だからきっと、もしかしたら、それが人でなしかもしれない。その恐怖が、あるのかも知れない。第二の、ガンズビュールと。
ただその目は、揺らぐことなく、燃えていた。
「なあ、ダンクルベール。ひとつだけ、頼みたい」
「何だ?」
「指導、一回」
その言葉に、一同が唖然とした。
ただダンクルベールだけは、悠然と、その前に歩を進めた。それをみとめて、セルヴァンは、眼鏡を外し、じっと、ダンクルベールを見据えていた。
「ジルベール・クリストフ・ドゥ・セルヴァン少将。姿勢、正せ」
静かだが、通る声。思わず、聞いている全員の背筋が伸びていた。
「指導、一回。用意」
「はっ」
その声は、震えていなかった。
「指導」
甲高い音。美貌が、軽くだけ、ぶれた。
「深呼吸、三回の後、聞く姿勢。用意」
言われた通り、セルヴァンが、大きく息を吸った。見ているこっちも、思わず、深呼吸をしていた。
ダンクルベール。少しの間を置いて、セルヴァンの肩に、その大きな手のひらを置いた。
「おかえり」
優しい言葉。
思わずセルヴァンも、はにかんでいた。
「以上。指導、終わり」
「ありがとうございました」
聞き馴染みのある、凛々しい声だった。
不思議な光景だった。少将が中佐に指導を受け、礼をしている。心の中が対等だから、きっとそれが、できるのだろう。このふたりだけの、関係だからこそ。
それだけ長く、そして強く、繋がってきた。
顔を上げたセルヴァンの頬は、少しだけ、赤くなっていた。アンリが、駆け寄っていた。音を聞く限り、軽く叩いたはずだった。
それで、戻っていた。いつものセルヴァンの顔だった。司法警察局局長の。縁の上の力持ちの。
「私も、軍人だな。これが一番、すっきりする」
「無茶はさせんでくれ。無茶も、しないでくれ。貴様はよく、それをするからな」
「あのころからずっと、臆病者なんだ。無茶をしなければ、前にも進めん」
ふたり、少しだけ笑った。
“ロ・ロ”は、人でなしではなかった。人だった。
「貴様と、ベイロン閣下。見通しが立った」
「すぐに準備する」
「ペルグラン。来れるか?」
「はい」
「あえてもう一度聞く。ペルグラン、来れるか?」
何故それを、聞いたのか。
ダンクルベールの目を見た。セルヴァンの体に出ていたものが、目に宿っていた。
怯えと、迷い。
見立ては立った。それが、正しいのか。あるいは、当たってほしくないのか。
「思ったことを、思ったままに。申し上げます」
迷いが伝染るのがこわくて、あえて声を張り上げた。
奮い立たせろ。この人を、支えるために。言い聞かせた。
「長官も、お覚悟を決めたくて、聞いたんですよね?」
ダンクルベール。ペルグランの言葉に、静かに、それでも苦しそうな表情になっていった。
「よく、できました」
そう言って、肩を軽く、叩いてくれた。
何を、見たのだろうか。きっと、恐ろしいもの。得体の知れない、恐ろしい、何か。
あるいは、あの人でなしより、恐ろしいものを。
着いてきなさい。そう言って、ダンクルベールは、踵を返した。少しだけ、背中が小さく見えた。
個室。セルヴァンとベイロンが、立ったまま、待ち構えていた。
「まずはお話をする前に、捜査本部長、ならびに伯爵閣下に対し、おそらく、相当以上の無礼を申し上げることになる点のみ、予めのお詫びを申し上げます」
「それほどの、内容というわけかね?」
「本官もまだ、自身はありません。思いついたはいいが、受け入れがたい」
あくまで毅然と、きっと作り込んだ、いつもの声。
「ひとつだけ、質問をさせていただきたい。この近隣において、貧民。もっと言えば、乞食がどれだけいるか、把握されておりますでしょうか?」
スーリたちが見た姿。ぼろを着た、人。つまり、乞食。
「ほとんどいない。そのための、我々であり、我々が築いてきた、しくみがあり、それが動いている」
その言葉には、幾らかの苛立ちが含まれているように思えた。そうならないよう、ここに根ざす人達は、戦い、培ってきたのだろうから。
「ベイロン閣下に代わり、補足する。働く者こそ良く食うべき。我々、地方豪族の原則に則り、誰であれ、めしを与え、職を授ける。そういう教育を、子どもたちにもしている。そういうものを見たら、各種行政機関、あるいは領主の居住地へ案内するように、教えてきている。人が育み、人を育てる。そういうしくみを、築いてきた」
セルヴァンは、いつも通りだった。
それを聞いて、一拍置いた。ダンクルベールが、背筋を伸ばす。
「犯人は、やはり人です。乞食に化けています」
ここまでは、範囲内。セルヴァンも自分も、そう、捉えていた。ベイロンのみ、些かの動揺が見られた。
「しくみを、悪用している。手を差し伸べるもののうち、気に入ったものを拐います。そのために、街の作りや、どこに人が集まるか、そしてしくみ自体も、調べている。おそらくはかなりの、時間を掛けている。知能が高い。ただ、それ以外のものが、ない」
そう言って、一息入れた。その姿には、やはり迷いが見えた。それを察すれるようになった自分に嬉しさを感じたのが半分と、その迷いが何から生じるのか、こわさが、半分。
たった、一言だけだった。
全員が、固まった。到底、受け入れがたい見立てだった。自分の当てずっぽうのほうが、きっと、まだましだろう。
だが、確かに、しっくりきた。
「有り得る話では、あるのだがね」
ベイロン。絞り出すような、震える声だった。
「ご無礼は、平に」
「我々の落ち度だ。気にする必要はない。気に病む必要も」
そういってベイロンは、近くの椅子に座り込んでしまった。しゅんとしてしまった。つらそうな、顔だった。
自分たちのしくみの中から、いてはいけないものが、産まれてしまった。その自責の念から、来るものだろう。
セルヴァンの顔。同じように、苦悶の表情だった。
「それで、これからは?」
それでも毅然と、セルヴァンが発言した。ダンクルベールも、自分の出した言葉に恐ろしさが来たのだろう。困惑した表情だった。
「正直に、自身がない。見立てが合っているかも、合っている場合、どうすべきかも」
震えた声だった。
「一両日、時間を頂戴したい」
それだけ言って、ダンクルベールは、踵を返した。
ペルグランは、動けなかった。ダンクルベールひとりだけ、動いていた。
退室ぎわ。ダンクルベールの声が、本当に小さな呟きが、聞こえた。
誰かの名前のような、そんな気がした。
4.
見立てが立った。ただ、自信が無かった。“足”の速達であれ、ここから往復三日。それでは、被害が増える可能性もある。なるべく早く、突き止めなければならない。
答え合わせを、したかった。
試したかったことでもある。あれは、こちらがどこにいるかを知っている。何かしらを鍵に、ダンクルベールや他の者たちの前に現れる。
なら、呼ぶこともできるはずだ。
ダンクルベールに、神通力の持ち合わせなど、勿論無い。だが、向こうはそれを察すれるはずだ。
それだけ長く、築き合い、確かめ合ってきたのだから。
「おまたせ。待った?」
瞼を開けたとき、卓の正面には、朱い女が座っていた。
朱き瞳の、シェラドゥルーガ。
「それほどでも。便利なものだな」
「お前の頼みとあれば、是非にでも」
「早速、仕事の話になるが、いいか?」
「勿論。調査資料など、五分もあれば読み込める」
雰囲気は、汲んでくれていたようだった。いつもの冗談めかしたやり取りもなく、本題に移れた。
紙一枚、渡した。
「合っていると思う」
しばらくして、そう言いながら目を合わせてきた。少しだけ、困惑の色がある。
「で、喰えと?」
「いや、答え合わせだけだ。自信が、無かった」
シェラドゥルーガは、大きく息を吐いた。どこか、安心したようにも思えた。
「喰えと言われたなら、お前を見捨てた」
ひどく冷淡な口調だった。
「つまりは、昔の私のようなものだ。それを喰うとなるならば、どうしても、昔を思い出してしまうからね。思い出は輝かしいものだろうが、恥にもなりうる」
「それを俺に言われると、少しな」
「ああ、悪気は無くてよ?我が愛しき人」
それで、ちょっとだけ、笑ってくれた。自分もそうだが、向こうも何かと、色々あったに違いない。長生きをすると、そういうことも、幾つかはある。
「で。これ、どうすんだ?」
それが、何よりの懸念だった。
見立てもそうだが、解決策が少なすぎる。
「法では裁けん。人には、見せられん。特に、ここの人達にとっては、酷な存在だ。だから、殺すしかない」
「殺せるやつは?」
「俺か、スーリ。あるいは、今、来てもらっているが」
一呼吸。ほんの一呼吸だけ、置いた。
「ジスカール。悪入道。その、二代目だ」
見立てができ次第、“足”を速達で送っていた。
“足”の一部であり、首都近郊の裏社会のまとめ役。悪入道リシュリューⅡ世ことジスカール。悪党の中の悪党。そして、恩の貸し借りもある程度には、理解者でもある。
「いやな名前。継がせたとは聞いていたが、本当にやるとは」
シェラドゥルーガは、心底に嫌そうな顔をしていた。
初代、悪入道ことリシュリューは、あるいはシェラドゥルーガを凌駕しうるその頭脳を、神通力と称するほどの、宗教家であり、大学者であり、闇の謀略家だった。頭を使えれば、何でもいいのだろう。神学論争を楽しみ、暦のずれを直し、そして人を貶め、争わせる。
何度もシェラドゥルーガとともに挑み、何度も囚えては、何度も逃がした。終身刑確実の証拠も揃えたところで、最高裁で逆転無罪。あるいは判決確定後に、ヴァーヌ聖教教皇の名で恩赦が与えられ放免。そんなことを、やってのけた男である。
自分にとっても嫌な思い出ばかりだが、大人物であることには、変わりなかった。
「あの爺さんの隣りによくいた、顔の怖いやつだろ?いつだかの司祭の罠に引っかかった、お間抜けさんだ」
「あまり言ってやらんでくれ。あいつなりの、事情がある」
「それもわかる。ただ、それを行動原理にするのは気が知れん、というだけだ。だがまあ、人選としては適切かな。裏で、長く生きてきた。その上で、倫理と道徳を弁えているからこそ、どこまでも冷酷になれる」
「そうだ。スーリは凄腕だが、心が強い。ムッシュと同じだ。だからこそ、揺り動かされる。あれは、それがない。正気のまま、人が殺せる。そういうやつだ」
「悪党。あるいは、任侠だからかね」
シェラドゥルーガは、重たそうに、その美しい瞼を閉じた。そうしてしばらく、もの思いにふけるようにしていた。
「お前さあ。よくこれ、たどり着いたよね?」
「辿り着いたが、やはり自信がない。異例中の異例だ」
「だろうな。話にしか、聞いたことがない。ここまで、育ち、ねじれたやつも」
そこまで言ったシェラドゥルーガは、虚しそうな顔で、ため息を付いた。何か、思うところがあるようだった。
「いるんだねえ」
「いるんだろうな」
そこまで言って、とりあえずで用意したワインを注いだ。品種も銘柄もよくわからないが、文句ひとつ言わず、口を付けてくれた。自分の酒も用意したが、やはりふたりとも、あまり進まなかった。
その答えを受け入れるには、やはり、自信がなかった。
求めているものが到着したのは、翌日の昼だった。
警察隊本部隊員と同じ装束の、威容、としか表現できない男。眉が薄く、彫りが深い。迫力のある人相。馬に乗って現れたそれは、戦場が剣と弓の時代の将軍のようでもある。
悪入道、リシュリューⅡ世。その名を、ジスカール。
「手を煩わせる。すまんな」
「いいさ。話は聞いた。俺が適任だろう」
堂々とした居住まいに相応しい、厳かで、静かな声。
裏の人間であり、何度も戦ったが、何度も手を取った。信用はできないが、信頼はできる。そういう男。
“一家”の稼ぎは、法すれすれ、あるいは法の下に収まる範囲であり、何より、貧しい者たちに仕事を与え、理不尽の前に立ちはだかる救済者であり、守護者でもあった。
自分も貧しい家の生まれだから、その在り方に憧れがあったのかもしれない。
ジスカールという名は、おそらくは偽名だろう。人相や口調から、そう感じ取っていた。もっと北東。おそらくは、平原の北にあるという、枯れた国。
過去については、語り合うことはしなかった。そこは、同じ悪党である、アキャールと同様である。在り方は異なるが、同じく友だちとして、接することができる男だった。
「そこの人は、殺し屋さんかい?それも、もと殺し屋だ」
「大当たりだよ、やくざ屋さん」
「あんたはやめときな。やれば、戻るぞ」
その言葉に、スーリに若干の怯えが見えた。
生粋の悪党。それだからこそ、殺しの恐ろしさも知っている。そしてそれを、克服するなり、折り合いを付けるなりができている。
人の家に、堂々と正面から乗り込んで、人を殺せる。そしてその帰りに、普通にめしが食える。そういう男だ。スーリは、生きるために殺した。心を殺してでしか、殺せない。
「“足”に場所を掴ませている。見ないほうがいい、とも、言われたよ」
「なら、なおさら、俺だな」
ジスカールは胸元から、自分の使っているものと同じ型のパーカッション・リボルバーをちらつかせた。あまり道具にこだわりはないはずだが、あえて合わせてきたのだろう。
手柄を寄越すつもりか。自分の姿を隠すつもりか。
山林の中は、恐ろしく静かだった。自分たちの足音と、後は烏とか、何かの鳥の鳴き声ぐらい。奥に進むに連れ、それは強くなった。
ここは縄張り。そいつの、聖域。だから誰も、近づけなかった。そこに踏み入ったから、あの残り滓を投げて寄越したのだ。こうなるぞ、という、警告。
そして時期が来て、狩り場が広がった。人里にまで。
何かがいた。背を向けて、かがんでいる。
誰かが、何かを、食べていた。むしゃぶりつく音。いくらか近づいたところで、それは振り向いた。
目が、澄んでいた。動物のそれと、同じように。
若い男。痩せているが、筋肉はしっかりとついている。髪は何かで切っているのだろうか、思ったより長くはない。髭も、同じように目立たない。そしてやはり、何も着ていない。白い肌の、全裸だった。不思議と汚れていない。山の闇の中、その輪郭が、くっきりと浮き上がっていた。
顔つき。子どもより、子どものよう。そうとしか、表現できない。そのぐらい、あどけなく、幼かった。
奥に横たわっているものを食べていたのだろう。頬が膨らむぐらいに何かを含み、口の周りを血や脂でべたつかせながら、澄んだ大きな瞳で、じっと、こちらを見ていた。
おそらくその姿に、何かを重ねてしまっていた。
「当たっちまったな」
ジスカールの声は、いつも通りだった。
ナイフを用意したスーリを手で制し、ずいと前に出た。懐から、パーカッション・リボルバーを取り出す。男が、唸り声を上げ、四つん這いで近づいてくる。けものの警戒のしかただった。
破裂音。続けて、二発。それで、動かなくなった。
「あんちゃん。それ、貸しな」
ジスカールが、スーリに促し、ナイフを手渡す。その手を掴み、手の甲に浅く、傷を入れた。ほんの少しだけ、血が滲んだ。ダンクルベールの手も取って、同じことをしてきた。
血は滲む程度だったが、いやなものが、同じように滲んだ。
「確保の際に抵抗し、隊員に傷害を負わせたため、銃殺。それでいいだろう?」
その間ずっと、動けなかった。
男。十代半ばから後半。教養も道徳もない。知能は高い。手段として、輪の中に入ることはできる。サディスト、あるいは、捕食者。被害者は、情欲の対象であり、食欲の対象でもある。繁殖本能から情欲が産まれるということを理解しておらず、その教育も受けていない。
つまりは、野生児。それこそ、お伽噺の存在。
見立てが当たった。信じたくはなかった。当たってほしくも、なかった。
だからこそ、動けなかった。
やはりジスカールは平然と、背を伸ばして、首を捻ったりしていた。眠らずに、早馬で駆けつけてくれたのか、あくびまでしていた。
「帰ろうや、ダンクルベール」
「そうだな」
紙巻を、咥えた。きっとその手は、震えていたのだろう。マッチが上手く、擦れなかった。
横から、火が灯される。ジスカールだった。同じように、胸元から紙巻を取り出す。
「それでいいんだよ、ダンクルベール。法の下、理の下で生きる。それが本来の在り方だ。そしてお前たちは、それを司り、それを以て裁くものでもある。それも、正しい」
ジスカールの言葉は、どこまでも落ち着いていた。
「だからお前は、そしてお前たちは、これを殺してはいけない。これを殺すのは、法の外、そして、理の外にいる、俺のような連中の仕事だ」
真っ直ぐな目だった。それから、去っていった。
スーリとふたり、ふたつの骸の前で、しばらく、立ち尽くしたままだった。
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ロ・ロは何処。ロ・ロは何処。
森へと帰り、夜が来る。
ロ・ロは此処。ロ・ロは此処。
朝へと巡り、森となる。
ロ・ロは其処。ロ・ロは何処。
山へと昇り、鳥となる。
ロ・ロは何処。ロ・ロは此処。
里へと下り、人となる。
旧いロ・ロ。今のヒト。
旧いヒト。今のロ・ロ。
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5.
あの後、熱が出て、何日か寝込んだ。
少し重めの、風邪だそうだ。ムッシュに診てもらって、薬を貰った。日に何人か、部下たちが様子を見に来てくれる。
特にアルシェは近所だということもあり、妻であるサラと一緒に、何度も面倒を見てくれた。酷薄な拷問官、あるいは謀略家としての印象が強いが、仕事と家庭ではまるっきり別人であり、よき夫、よき父親である。サラの郷里であるフォンブリューヌで出会い、前職でこちらに来るにあたり、時期が悪く、サラをひどい育児疲れに追い込んでしまったことがあるらしい。そのため、自分から家事育児を率先してやっているそうで、来る度に、慣れた手つきで掃除や洗濯、料理までこなして、二日分ぐらいの作りおきまで残してくれた。
二課課長、ビアトリクスも、何度も来てくれた。優秀な女軍警であり、卓越した指揮官であるが、こちらはアルシェとは反対に、まるっきり家事ができない、仕事人間だった。それでも話をしてくれたり、ある程度のものを置いていってくれる。
そして毎晩、アンリやルキエが来て、病状を診てくれて、励ましてくれた。
「フォンブリューヌからこっちに戻って、気温差とかでやられたんでしょう。お薬もあるし、もう熱も落ち着いてるみたいだから、あと二日ぐらいで、元気になるわよ」
ペルグランが気を使って、娘ふたりにも伝えてくれたようだった。今日の朝、ふたりとも駆けつけてくれた。
「すまんなあ。リリィ、キティ」
「大丈夫よ。久しぶりのこっちだもん。遊びに来たついでだと思って、気楽にやるわよ。掃除も洗濯も、綺麗にできてるし。あとは本当に、お父さんだけね」
リリアーヌとキトリー。ふたりとも、もうお母さんだった。そしてふたりとも、子どもはふたりずつ。
男手ひとつで育てたが、素直に育った。幼い頃に見た母親の姿にそっくりで、背が高く、目鼻が整って、褐色の肌も、幾らか青の透ける黒い髪も、父祖たる砂漠と大河の血を色濃く残した、別嬪になってくれた。
リリアーヌは情熱的なロマンチスト。ひとつ下のキトリーは、恬淡としたリアリスト。正反対だったが、大人になっても、仲はとても良かった。
拐われたすべての被害者は、死んでいた。あのあたりの土の中から、いずれもひどい状態で見つかった。
検死の必要はないと、アンリとムッシュに伝えた。数は合っていた。地方分隊には、身元確認は不要、火で清めて返してやれとだけ、命じた。
子どもたちのあんな姿を、家族には、見せられなかった。
誰も、助けられなかった。
首を括るやつが、何人か出るだろう。あの後、ジスカールから、そういうことを言われた。それも、その通りになった。何人かの女が、首を括るなり、手首を斬るなりして死んでいた。そういう経験をしたからこそ、苛まれ、それしか選択肢が無くなったのだろう。
人を助けるしくみ、人を育むしくみがあったからこそ、時間が立てば経つほど、業が、罪が、あるいは悲しみが、浮き彫りになる。
“ロ・ロ”は確かに、復讐者だった。人に対して突きつけられた、その人の歩んできた道。人の記憶から追いやられ、山へ移り、森から現れ、心を拐う、復讐する歴史。
“旧いヒト”。その名の通り、過去から蘇る、鮮やかな俤。
そしてそれを、自分の内に潜む俤に、重ねてしまった。
赤ん坊。あれの腹の中にいたはずの、子ども。
腹が膨らみを見せはじめたとき、あれは姿を消した。そして、浜に上がった。知らない男と、ふたりで。
でも自分には、三人に見えていた。
捜査官ではなく、死亡者の配偶者として、あの場にいた。後ほど、事案報告書を読んだ。諸々の話を、聞いた。“足”も使った。
結果はすべて、同じだった。
あれの腹にいたものは、流れた。それが、事実だった。
それでよかった。あの場に三人目なんかいなかった。
だが心はいつの間にか、真実を作り上げていた。あれと同じ、白い肌の女の子。それがいれば、あれを幸せにできていた。あれを、ひとりぼっちから救い出せた。ずっと憧れていた、幸せな家庭になれていた。
それを見抜いたのは、ただひとり。シェラドゥルーガ、いや、パトリシアだった。
ガンズビュール。疑っていた。それでも、愛を告白してくれた、ただひとりの女性。
だからこそ、吐き出した。作り上げ、心のなかで腐りはじめていた真実を。
それでようやく、あのこは眠ったはずだった。
あの“ロ・ロ”は、それを蘇らせた。あるいは、あの赤ん坊は、自分の中で“ロ・ロ”になってしまった。
撤収の前日、もう一度シェラドゥルーガを呼んだ。終わったこと。見立てが当たったこと。そして、作り上げたものが蘇ったこと。“ロ・ロ”として、あの森の中で、あの山の中で生きているということを、吐き出した。
我が愛しき人。まだそれ、残ってたの?
シェラドゥルーガは、いや、朱い瞳をしたパトリシアは、泣いていた。美しい顔が崩れるほどに。きっと自分も、涙を流していたと思う。ふたり、静かに抱きしめ合っていた。
自分の傷を見つけてくれて、ふたりのものにしてくれた、パトリシア・ドゥ・ボドリエール。紫が朱に変わっても、それは変わらなかった。
“ロ・ロ”の名は、幾つもの“ロ・ロ”を呼んでいた。心のなかに埋めたものを掘り起こし、到底耐えられないかたちで突きつけてきた。
あの山は、そういう山だったのだ。法の外、理の外の世界。あるいはもしかしたら、第二、第三の存在が、潜んでいるかもしれない。それがあるいは、いにしえからいたのかもしれず、“ロ・ロ”だとか、“旧いヒト”だとか、そう呼ばれてきたのかもしれない。
未だ、何かがいる。得体の知れない、恐ろしい何かが。
「なあ。リリィ、キティ」
不意に、聞きたくなった。
「俺は、良い親だっただろうか?」
いつだって、それがわからなかった。
ひとりで、そして色んな人の手を借りて、育て上げた。良縁に嫁いだ。母親になった。
自分は親だったが、夫にはなれなかった。だからいつも、わだかまっていたものが、澱んでいたものがあった。
ふたり、顔を見合わせたあと、表情を変えず、またこちらに向いた。綺麗な顔だった。
「わかんないわよ」
リリアーヌだった。思わず、きょとんとしてしまった。
「それ、実際に親をやりきってからでしか、わからないことでしょ?私はようやく、親になったって、実感が湧きはじめたぐらいだから、わかんない。キティもそうでしょう?」
「そうねえ。うちもふたり、育ててるけど、まあ大変。良し悪しは決めれないけど、お父さんの気持ちはすっごくわかるようになったわ。姉さんところもふたりだから、きっとそうよね?朝から晩まで、ほんと戦場。今日はいい気休めって感じだわ。熱出してくれて本当、ありがと。お父さん」
キトリーは、やはり恬淡というか、冷淡ですらあった。
唖然としすぎたのか、わだかまっていたものが、どこかに行ってしまった。
「母親については、ふたりで何度も話をして、折り合いが付いてるし。なにより、シャルロットおばさまとかに良くしてもらったから、きっとそれ以上に、いい環境だったのかもしれないわね」
「おばさま、本当に優しい方だからねえ。今日も来るとき、四人、預かってもらっちゃった」
キトリーの言葉に、思わず動転していた。
「ちょっと待て。聞いていないぞ。ブロスキ男爵閣下に世話させる気か?」
「喜んでやってくれるわよ?おばさまとふたり、たまに家に遊びに来るの。おもちゃとかお菓子とか貰っちゃって。お返しすると、また倍になって返ってくるのよねえ。おじさま、本当に見栄っ張りで、楽しいお方で」
「あのおふたり、お子さまがいらっしゃらないから、余計に可愛いのかしらね。子どもたち以上に、はしゃいじゃってさ。びくびくしてるは、うちの旦那だけ。あいつ、いちいち肝が小さいんだからさあ」
そう言ってふたり、けらけら笑っていた。
ブロスキ男爵夫人シャルロットは本当に心優しい人で、あれが失踪したと知った途端、家に飛んできて、手伝いをさせてくれと頼まれたほどだった。
だから、甘えた。マレンツィオもいやな顔ひとつせず、ふたりの面倒を見てくれた。色んなところにも連れて行ってくれた。
娘たちにとっては、あのふたりは、もうひとつの父と母でもあった。だから自分たちの子どもも、孫を会わせに行ったり、預けたりする感覚でいる。
とはいえ、何と言っても天下御免のブロスキ男爵家。粗相があったらどうする気なのか。
「特におじさまは本当に嬉しがってくれて。あの通り、体が大きい方だから、子どもたちも面白がって飛びついてるわよ。角力さんだって言ってね。おじさんもおじさんで、角力さんだぞって、もう大騒ぎ」
「なら、いいんだが。くれぐれも失礼の無いようにな?」
それだけは言っておいた。
マレンツィオ夫妻。ふたりとも口を揃えて、自分が子どもができにくい体質だから。そう言っていた。表情から読み取ってしまったが、おそらくはシャルロットのほうだろう。だが見栄っ張りで愛妻家のマレンツィオのことだから、愛する人だけに恥はかかせられないと、一緒に悲しみを背負うことにしたのだろう。
確か、自分とほぼ、同じぐらいの歳である。養子の話も、全部断ったらしい。お互いがいれば、それでいい。ふたりとも、笑いながら言っていた。それを決められる相手がいる。それが本当に微笑ましく、そして、羨ましかった。
天下御免。栄光のブロスキ男爵マレンツィオ家は、あのひとで終わる。確か、きょうだいはいたはずだったが、直系は途絶えることになる。
あのひとは、それを望んで、選んだ。
「ほら。人は育てなきゃ育たない、だっけ?ウトマンさんにも言ってたやつ。結局、それじゃない?私たちは、お父さんと、周りの皆に、育ててもらった。だから育った。それだけ。良し悪しまでは、わかんない。それじゃ、駄目?」
「そうなのかな。それで、いいのかな」
「久しぶりに体壊して、弱気になってるだけよ。ほら。寝台直すから、一旦、動いて」
娘ふたりの言葉に、心を委ねることにした。それだけできっと、楽になれるだろうから。
「おお。リリィ君にキティ君。久しぶりだねぇ。いやあ、ふたりとも、相変わらず綺麗だ。そして何より、いつだって可愛いこたちだ。我が愛しき人とふたりで育てたからかねぇ。あのおやじに似ず、魅力に満ち溢れた貴婦人に育ってくれたものだ。ああ。親として、これ以上の果報はあるまい」
しばらく横になっているうち、誰かが訪いを入れたようだった。誰かは声で、すぐに分かった。
「おじさま、お久しぶり。きっと元気だって思ってたけど、それ以上ね。子どもたち預けちゃって、ごめんなさい」
「なあに、また君たちが来てくれたようなものだ。今度は男の子もいるぞ。今から家に帰るのが、楽しみで仕方ないよ。ああ。おやじの看病なぞ、大変だろう?ほれ、ちょうどここに、あれの忠実なるしもべと、こんなに可愛い天使も来てくれた。さあ、お菓子を持ってきたよ。ゆっくりしなさい」
「ありがとう。でも、たまには親孝行ぐらいさせて頂戴?何も無い家だけど、ニコラ・ペルグランのお血筋さまと、生きてる聖女さまがいらっしゃったなら、おじさまにもきっと、満足いただけるはず。少尉さん、アンリさん。ありがとう。折角だから、おじさまと、ゆっくりしていってね」
やはり、ブロスキ男爵マレンツィオだった。大きな腹を揺らしながら、ずかずかと、それでもどこか上品に中に入ってきた。相変わらずの、嫌味を多分に含んだ、それでもちゃんと気の利いた挨拶をぶん投げてきた。
ペルグランとアンリも、その巨体の影から、顔を見せてくれた。きっと家の前で鉢合わせたのだろう。ペルグランが持ってきてくれた紅茶と、マレンツィオが持ってきた山ほどのお菓子で、寛いでくれた。
アンリとマレンツィオは初対面だったはずで、アンリは緊張した様子だったが、そこは流石の本場の伊達男である。見た目を褒めそやし、勇名を讃え、つらさを受け止め、そしてダンクルベールの悪口を言って、すぐに打ち解けていた。
マレンツィオの横に広い図体だが、どうしてだか、どこにいても収まりがよい。いつだって、それが不思議だった。育ちのおかげか、本人の資質か。その大げさな身振り手振りの割に、何かにぶつかったり、立ったり座ったりで、周りを揺らしたり、大きな音がすることもなく、ただ豪快な声だけが、五月蝿いと思いつつも、いくらかの元気が貰えていた。
人の上に立つことしかできない男。あのお方が遺した言葉は、こういうところも、含んでいるのだろう。
「今年もゼラニウム、綺麗に咲いてるわね。あのこでしょ?お土産持ってきてたから、渡しといてよ」
看病をしながら、リリアーヌがそんなことを言った。
家の前の小さな花壇に、ゼラニウムが綺麗に咲いていた。“足”のなかに若い娘がいて、いつからか、手つかずの花壇を世話してくれるようになっていた。
「お父さんの密偵さんでね。一回だけ、会ったことあるの。ゼラニウムが好きだって、世話してくれてるみたい。お父さんだけの寂しいお家だから、本当にありがたいわ」
リリアーヌの言葉に、マレンツィオがむっとした表情を見せた。ヴィルピンのとき然り、目下の者に気を配る人なので、こういった話題になるとへそを曲げるのは、なんとなくわかっていた。
「おい、ダンクルベール。いいご身分だな?部下に花壇の世話までさせているなぞ、なんてやつだ。ウトマンだけでなく、部下とあらば、どいつもこいつもこき使いやがって」
「大丈夫。好きでやってくれてた。おうちがなくって、お母さんたちを養うために、スリやってたんだって。可愛い女の子よ?きっと、おじさまも気にいるはず」
それを聞いて、マレンツィオの顔に、些かの悲しいものが混じった。
「これはこれは、早合点だった。ごめんよ、リリィ君。もし次、お会いすることがあったら、不肖、マレンツィオめが、心よりの謝罪を申し上げていたと、どうかお伝えしておくれ。俺もこのおやじに、そんな甲斐性があるとは思わなんだから」
「そうよねえ。本当に甲斐性なし。お陰さまで、私たちふたり、あのボドリエール夫人を継母にするっていう大願、ついぞ成就いたしませんでした。でも殺人鬼だったから、お父さんにも、女を見る目があったってことかしらねえ」
キトリーの言葉に、三人とも、腹を抱えてしまっていた。
娘ふたりは知らないものの、この三人は、まだあれが生きていて、しかも人間ではないことを知っている。アンリに至っては、いつの間にか、文通までしているほどに、仲が良くなっていた。
「すまんな、ペルグラン。娘たちにまで声を掛けに行ってもらって」
「いいえ、お構いなく。人の顔を見るのも、いい薬になるかと思いまして」
久しぶりに、隣りにいるペルグラン。なんだかほっとした。頼りなげなものは、もうほとんど無い。
結局、フォンブリューヌでは、ペルグランをどう育てるかを考えるまで、余裕が持てなかった。ただこうやって、自分で発想できて、行動できている。そしてそれが実際に、公私を問わず、ダンクルベールの助けになっている。
自立を促すだけで、いいのかもしれない。置いた環境の中で、必要と思えるものを培っていける。そこまで、育っている。後でムッシュと相談してみることにしよう。
皆が、助けてくれた。上司も、同僚も、部下も、友だちも、娘たちも。そして、あの人でなしも。そうやって今まで、やってこれた。ひとりでは、歩いてきた道の重さには、堪えられなかっただろう。
皆がいた。ひとりぼっちでは、なかった。
オーブリー・ダンクルベール。二児の父。リリアーヌとキトリー。ふたりの娘。
それが事実であり、真実。これからも、きっと、ずっと。
(つづく)
Reference & Keyword
・ジェヴォーダンの獣
・Apéritif / Hannibal(テレビドラマ版)
・ポール・セザンヌ
・おばけなんてないさ / 槇みのり
・花畑チャイカ
・アンジュ・カトリーナ