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何かがいる

ふるいヒト。ふるいヒト。

森から来て、山へ行く。

ロ・ロと呼び、ロ・ロと鳴く。

里からはぐれて、森へ行く。


ふるいヒト。ふるいヒト。

山で暮らして、森となる。

ロ・ロは呼び、ロ・ロが鳴く。

朝は昏がり、夜が来る。


ロ・ロの名は、ロ・ロが鳴く。

ロ・ロの名が、ロ・ロを呼ぶ。


ロジェール村の童歌わらべうたより

1.


 緊急捜査事案、発生。

 緊急捜査本部長、司法警察局局長セルヴァン少将。次長、司法警察局警察隊本部長官ダンクルベール中佐。特務機動隊“錠前屋じょうまえや”、全員投入。衛生救護班、全員投入。同班特別顧問、ラポワント特任とくにん大尉を動員。特殊工作員として、スーリ中尉を動員。他、後方支援や事務処理要員として、司法警察局、および警察隊本部捜査一課、二課より数十名を動員。以上、第一次決定事項。現地にて、必要に応じて必要な人員を投入する予定。

 事案発生地域は、フォンブリューヌ地方。事案内容は、連続誘拐。被害者は七名。いずれも十代中盤から二十代前半の女性。現状で、身代金の要求や司法取引要求を含む、犯人からの接触は一切なし。現地警察隊支部の捜査では、一切の手掛かりが発見できず。最初期事案発生から、約三ヶ月経過。

 フォンブリューヌ地方、ボーマルシェ伯領。地方分隊の応援要請、およびボーマルシェ伯ベイロンからの要望もあり、今回、緊急捜査本部設立に至った次第である。

 ムッシュは何故、この場に呼ばれたのかを考えていた。

 誘拐された七名は、あるいは既に。その司法解剖のためか。衛生救護班だけでは、緊急事態発生時の救命医療に不足ありとの判断か。

「貴方には、その両方をお願いしたい。その他もね」

 馬車の中。問いに対し、正面に座した美形の中年は、低く落ち着いた声で、そう答えた。

 司法警察局局長、セルヴァン。朱夏しゅか半ばが見えてきた頃だが、何しろ佇まいが立派であり、色気と気品がある。見た目通りの冷静さと、それと裏腹な、血の熱さがある人だった。

 だが今、その表情からは何も読み取れなかった。

 この人が前線に立つ。それは国家存亡の危機と同義である。元来、後方支援の人であり、組織運営の人である。この人のお陰で、温かいめしと、不足無い給料、そして手厚い福利厚生が存在していると言っても過言ではない。

 縁のの力持ち、そういう人なのだ。

「捜査官ではありませんが、情報があれば」

「とにかく人が消える。外見的特徴には共通点はないが、育ち盛りの娘さんであるというところは、共通している」

「フォンブリューヌに海はない。四方は、山。高原です」

「人身売買ではない。そこは、あいつの“あし”で調査済みだ」

「殺しでしょうなあ。三ヶ月で七人。早すぎる」

「山と森。隠せる場所は、何処にでもある」

「川もありますな。上流域ですが、崩せば、流せる」

「けものや、鳥も、使える」

「あるいは、けもの。そのものかもしれない」

 そろそろ晩夏に入る。食い物が無くなったけもの。狼や、熊。獲物を持ち帰るとすれば、熊か。

「消えたのはすべて、町中だ」

「けもののような、人。そんなものはいない。人は人。人に紛れて人を巣に持ち帰る。つまりは快楽殺人。ともすれば、猟奇殺人ですかな」

 そこまで言って、ムッシュはため息をついた。

「第二の、ガンズビュールやもしれません」

「それも懸念しているが、その延長線上の、懸念もある」

 暗い栗毛をかきむしりながら、セルヴァンが、いくらか苛立たしげに言った後、ひと呼吸を入れた。

「お化けが出るんだよ」

「これはこれは。お化けと来ましたか」

「こことか、うちの実家とかでね。“ロ・ロ”とか、“ふるいヒト”とか、そう呼ばれている。よく童歌わらべうたを歌ったもんさ」

「いわゆる、シェラドゥルーガですか」

 思わず、奥歯を噛み締めていた。

 人でなし。

 人知を超えた存在。すべてが不可解で、未知数なもの。歴史上、実在は確認できず、細々と口伝のみで伝わってきたもののうち、信じられないが、本当に存在したもの。

 かつて文壇でその名を大いに轟かせた才媛、パトリシア・ドゥ・ボドリエールこと、お伽噺で語られてきた、人を喰う悪魔、シェラドゥルーガ。

 我々はそれが実在することを、知ってしまっている。つまりはそれと同一か、あるいは別の種が、世界のどこかに、未だ存在しうる可能性にも、気付いてしまっている。

「無くはないからこそ、貴方がいたほうがいい。手札は、多いに越したことはない」

「ご評価、感謝いたしますが、私はあくまで、町医者です」

「軍師。いや、将軍としても、有能だよ」

ずい朝の詩を、詠み過ぎましたかな」

 セルヴァンが笑った。冗談が通じたようである。

 東の大国、ずいふるい詩は、その大半が、群雄や英傑が綴ったものであり、そこから詩家百氏が産まれていった。そういう、戦乱から文化が産まれた国である。その詩を読むことは、その軍略や、英雄たる志を学ぶことにも近しい。

 つまり、求められているのは、そういった役割もか。

「閣下のご実家や、ボーマルシェ伯領は、天然の要害です。いにしえの大ヴァルハリア侵攻の折も、最後まで籠城し、抵抗してのけた。国そのものが降伏するまでね。だからこそ内部の乱れには、幾分、脆いでしょうかな」

「仰る通り。そこなのだよ。既に人心に、乱れが生じている。それこそ“ロ・ロ”が、“ふるいヒト”が出たってね。いつ集団恐慌が起きるやもしれぬ状況だ。だからこその、緊急捜査事案認定だよ。我らのご存知、“錠前屋じょうまえや”を、民衆に差し向けることだって、あり得る状況だ」

「国防軍も、加えるべきでしょう」

「そこは、山札から出てきてはくれなかった。地元の猟師連中でなんとかしろ、だとさ」

「町中で拐われているのに、山狩をしろとは、些か」

「まったくだ。さて、そろそろ着くぞ」

 セルヴァンが一言ののち、馬車の扉を開いた。光が、差し込んでくる。

 降りると、素晴らしい風景が広がっていた。

 北西部、フォンブリューヌ地方。

 急峻な白扇はくせん山脈をはじめとする山々に囲まれた、牧歌的な高原地帯。その山から流れ出て、あるいは自然と湧き出た美しい清水。淡く、あるいは鮮やかな緑の広がる牧草地で、穏やかに草を食む羊や牛。見上げれば、空と言うしかない空が広がっている。

 田舎、と言ってしまえばそれまでだが、それでもこの雄大な景色は、誰しもを圧倒し、魅了するだろう。

 街の作り方も素朴で情緒があり、木材と石材が調和した家々が立ち並ぶ景観、それもどの家も、窓の外に美しい花を咲かせた鉢を置いたりしている。古い建築様式の協会や城塞なども遺っており、歴史的価値も高いだろう。

 夏は避暑地として、冬はスキーなども楽しめる、観光地としても人気である。かつてこの地を訪れた、あのボドリエール夫人も、美しすぎて退屈という、最大級の賛美を送っている。

 ここ、ボーマルシェ伯領や、セルヴァンの実家であるロジェール男爵領などは、この大自然の中、しかし微々たる居住可能面積に、詰め込めるだけの民衆を抱えた大豪族たちである。あるいははじめは、少ない人々からはじまったのだろうか。鉄鋼などの金属の産出は無く、酪農と農業のみで食いつなぎ、人を呼び、呼んだ人を含めて養っていくしくみを作り続けてきた。

 中でも、やはり酪農に因んだ特産品は有名で、生ハムをはじめとした加工肉、そして数多くのチーズは、東西南北の貴賤を問わず、愛されている。特に、ロジェール男爵領で作られている青カビのチーズはその最たるものであり、ほとんどがこの近隣で消費されているものの流通自体はしており、しかしいざ首都近郊で買おうとすると、とんでもない値が付けられる高級品だ。こちらで買えば、二束三文である。

 だから皆、チーズひとつのために、押し寄せるようにして、この山々まで足を運ぶ。そうして訪れた観光客を誠心誠意にもてなし、地元の味を振る舞って、金を落とさせる。これもまた、そういうしくみのひとつでもある。

「そうだ、局長閣下。ここ、お化けが出るんでしょう?」

 先に到着していた“錠前屋じょうまえや”隊長のゴフが、挨拶と業務連絡を済ませた後、その野蛮な顔を困ったようにして、そんな事を言い出した。勇猛果敢な腕自慢ではあるが、実は幽霊だとか怪談話は大の苦手というのは、小耳に挟んでいた。

「おや、苦手かね?ゴフ隊長」

「すんません。俺、そういうのだけは、ちょっと」

「人であることを確かめちまえば、あとは本領だろう?とっとと仕事をはじめて、犯人像を絞り出そうぜ。そうすれば貴官もぐっすり、眠れることだろうよ。それまでは、アンリ君にでも甘えて、寝かしつけてもらうことだな」

 美貌を朗らかな笑顔で歪めながら、セルヴァンはゴフの背中を叩いた。その絶世の容貌と、堂々とした佇まいから、下の者からすれば、ともすれば近寄りがたい印象をも与えてしまうが、この通り、砕けた一面もある。あるいはこちらが本性なのだろう。気兼ねなく世間話をしにいける人だった。

「ひとり、増えた。貴様の到着する、一時間前にわかった」

 古城ひとつ貸し切った緊急捜査本部営舎にて、ダンクルベールが、絞り出すようにして発言した。

「やはり、年若い女子か」

「十六歳。そしてまた、露天市場マルシェでだ。人の多い場所だ。支部小隊を軸に探しているが、手掛かりはない」

「民衆の動きを、止めねばなるまいかな」

「難しかろう。経済が止まる。めしも買えないとなれば、不満も出る。学び舎、市場あたりに人を置くぐらいしか、できはしまい。それに動きが変わると、余所に流れる可能性もある。できうれば、この中で仕留めたい」

「そうだな。そうしてくれると、ありがたい」

 行動範囲が変われば、被害層も変化しうるかもしれない。つまりは振り出しに戻ったうえで、人だけが死んでいる状況になる。

「とりあえず、意見を出していこう。犯人像。被害者の現在の状態。あるいは次の標的。民衆への対応。五月雨式さみだれしきで構わん。どんどん、やっていってくれ」

「犯人は男。これは、決め打ちでいいだろう。女の場合、人物像が複雑になりすぎる。容貌への嫉妬、若さへの執着、あるいは、子どもをうしなった母親など。選択肢が多すぎる。あくまで被害者そのものに、用事があるやつだ」

 セルヴァンの言葉で口火を切ったのは、ダンクルベール。犯人を見る、となれば、やはりこの褐色の巨才の右に出るものはいない。

「標的については、無差別。年齢は同じぐらいだが、身分、髪の色や目の色、背格好も異なる。品定めには、それほど時間を掛けていない。上は大体、二十の三ぐらいまでだ。となれば最悪、性的暴行の可能性も考えねばなるまい」

「衛生救護班や女性隊員は、必ず男性隊員、二名以上と出歩くこと。特に班長であるアンリ君がいなくなれば、かなりの痛手だ。これから犠牲者、負傷者が出ることは、大いに考えられる」

「承知いたしました」

「我が身に替えても」

 アンリとオーベリソンが、ほぼ同時に返答した。思わず顔を見合わせて、くすくすと笑いはじめた。同郷の長い付き合いであり、血は繋がっていないものの、仲の良い父娘おやこである。

「どこにいるかが、問題ですよね。住める場所と、住めない場所が、くっきり分かれた地域だ。住める場所自体は狭いが、全体で見るとかなりの広さだ。山岳救助隊みたいな、山登りが得意な連中が必要になるってんなら、俺たち“錠前屋じょうまえや”では、対応しきれないっすよ」

 ご存知、“錠前屋じょうまえや”隊長のゴフ。腕力が悪目立ちするが、その発想の鋭さは、他の追随を許さない。持ち前の明るさから、雰囲気づくりも得意科目である。

「いわゆるシェルパがいる。使えるが、使わんに越したことはない。言う通り、見るべき範囲が広すぎるからな」

「じゃあ、場所の傾向を見ましょうよ。街の地図、貰っていいでしょかね?粗、密、とりどりので。いなくなっただろう場所を、点を打ってみる。言葉でなく、図で見たほうがいい。そこに人を潜ませて、現行犯狙いだ」

 スーリも議論の場にいた。もと暗殺者、つまりは、もと犯罪者だ。犯罪者の視点から物事を導き出せる、希少な存在である。

「山狩自体は行ったほうがいいっすね。危機感を覚えさせる。その上で、スリルを楽しむやつだっていますからね。そういうやつは、それで炙り出せまっせ」

「遊び目的か。俺たちが来たことを教えれば、こちらを試すようなことはしてくる。それで、ぼろが出るだろう」

 このように、捜査そのものは、ダンクルベールとスーリの組み合わせで十分だろう。あとは各々が、それを補強、補間するなりすればいい。

「民衆への対応は、衛生救護班で行います。修道士と看護員。人心の慰撫には、最適かと」

 チオリエ特任とくにん伍長。それよりも、向こう傷の聖女で知られたサントアンリである。生ける聖人が来たとあらば、領民も心が休まるだろう。

「アンリエット。ラクロワも伴っておくれ。現場での後方支援を、学ばせたい。これの盾は、オーベリソンとペルグランで行こう。今回は、副官仕事は後回しだ。いち捜査官として働いてくれよ」

 ペルグランが首肯したうえで、挙手した。

「デッサン中尉殿も、如何いかがでしょう?絵というのは、心を慰めたり、穏やかにさせたりする効果も、あるかと思います。例えば被害者のご家族に、似顔絵を描いてあげるとか」

「発想、着眼点、大いによろしい。ただし似顔絵は事態と折り合いがつけれていないと、ちょっときついかもしれんな。それならば、いわゆるお絵描き教室とかをするのもありだろう。大人たち向けにアンリ君を。子ども向けにデッサン中尉だ。これならどうかね?デッサン中尉、ペルグラン少尉」

「僕でよければ、喜んで。ありがとう、ペルグラン少尉」

「こちらこそです。中尉殿」

 ペルグランは最初、デッサンをよく思っていなかったようだが、その人となりを知ってからは、随分と仲良くなっている。それに伴ってか、デッサンの出番も、色々と増えてきた。絵を描くことだけで、色んな役割が果たせるようになっている。

「兵站は、こことうちの実家で十分にまかなえる。作業分担は、私が七、ラクロワ君が三でやってみよう。現場に事務方にと忙しくなるだろうが、こういう機会でもなければ学べないことだ。ひとつ、骨を折っておくれ」

「かしこまりました。頑張ります」

 末席にいたラクロワが、おずおずと返事をした。気の弱いお嬢さんだが、後方支援に極めて強い、事務方の才媛である。

「後で地図を見てくれればいいが、運河もある。ものや人員を運ぶのに、船が使える。ペルグラン少尉の腕の見せ所だろう。他の者に、操船技術を教えてやるのもいいかもね。余裕があれば、使ってみてくれ」

「承知しました。ちなみに、船の種類はわかりますか?」

「確か、パント船だったかな?できるかい?」

「あれかあ。多分、大丈夫です。乗るのも、教えるのも」

 話をするふたり以外は、きょとんとしていた。軽くだけ説明を入れてもらって、ああ、あれか。となった。

 ここは流石、かの名提督ニコラ・ペルグランのお血筋だろう。操船だけでなく、天気読みや遠泳もできるとのことだ。他にも馬術、精密射撃手マークスマンまで巧みにこなす、百貨店ひゃっかてん二号店にごうてんになりつつある。ダンクルベールも、副官に置いておくには勿体ないと、嬉しい悲鳴を上げていた。

「船については血の都合、俺も多少の嗜みはあります。できうる限りは、やらせていただきましょうや」

 オーベリソン。いわゆる“南蛮北魔なんばんほくま”の“北魔ほくま”の方。最果ての地より各国を脅かした、海の戦士の末裔である。

「高い建物を教えて貰えれば、あたしの目が使えます。デッサン中尉に絵を描いてもらうもよし。長官やスーリの見立てに活かすのもよし。運河で兵站線作るのにもいいんじゃない?まあその都度、言ってもらえれば、やりますよ」

 議論の場としては珍しい、“錠前屋じょうまえや”女性下士官のルキエ伍長。目の良さを活かした斥候役という、一芸特化の極地のような人材だが、運動神経も抜群で、犯人追跡にも大いに活躍している。

 ムッシュはあえて、発言は控えていた。犯罪捜査、組織運営自体は門外漢であるし、この地について理解が深いわけでもない。意見は出せるが、場当たり的なものにしか過ぎない。

「ムッシュは、どうかね?」

 考えている矢先に、セルヴァンが意見を求めてきた。

 一旦、全員の顔を見渡した。

「各員のケアについて、私でよろしければ、務めさせていただきたく思います。緊急捜査事案。それも、慣れない地です。あるいは閣下であれば、ご実家を含む地元の危機です。心身ともに負担は大きいでしょう。些細なことでも構いませんので、ご相談下さい」

 自分の言葉に、全員の顔に安堵が浮かんだ。特にセルヴァンは、張り詰めたものが解放されたかのような、大きな息が出てしまっていた。

 ダンクルベールに次ぐ年長者であるムッシュであれば、たとえ知識や経験が伴わずとも、話し相手としては適任であろう。

 ここで出ないもの。それを、埋める。それが求められている役割。そして出なかったものは、自身を保つことだった。危機対応において、最も重要なことである。

 普段の実務においても、ムッシュはそれを担うことが多かった。特にダンクルベールには、大いに頼られていた。歳で言えば、向こうが三から四、上ではあるが、数少ない同世代である。いてくれるだけ、ありがたいのだろう。

 経験と実績があるものは地方支部の運営に回しているため、警察隊本部は、四十代以上が少ないのである。

 警察隊本部の顧問役として着任してから年月は浅いが、各位から信頼を得られていた。それは本当に、ありがたいことだった。年嵩のあるおやじであるし、医師であり、代々の処刑執行人である。人の生と死を、長く担ってきた。それが大きいのだろう。

 人が消える。その後がない。手がかりも、無い。残されるのは、不安と恐怖だけである。死体が上がれば、怒りや悲しみが産まれる。それを消費して、行動に移れる。

 不安と恐怖は、勇気の燃料には、なり得ない。

 そうやって、意見も場も落ち着いたあたりで、訪いがあった。

 入ってきたのは、髭を沢山に蓄えた、威厳のある御仁であった。

 全員、起立。ただそのひとはそれ以降を手で制し、にこやかにダンクルベールのもとに向かった。

「よくぞお越しくださいました、霹靂卿へきれききょう。お会いできて光栄です」

 伯領領主、ボーマルシェ伯ベイロン閣下である。

此度こたび勲功爵くんこうしゃくの授与。まことにおめでとうございます。霹靂へきれきとは、まさしくダンクルベールきょうに相応しき御名みなにございますなあ」

「ああ、いや。光栄であります。伯爵閣下」

 笑顔で詰め寄られたダンクルベールは、些か気後れした様子だった。どこか、奇妙な可笑しさがあった。

 先の通り魔案件で、ダンクルベールは、騎士爵シュヴァリエに相当する勲功爵くんこうしゃくを授与されていた。爵位というより称号であり、貴族になったわけではないが、名誉あることである。

霹靂へきれきとは、闇を裂く光であり、沈黙を破る音にございます。けいはその類まれな才覚と叡智えいちもって、数々の困難を切りひらいてきた、まさしく稲光と雷鳴の如きお方だ。けいが来てくださると聞いた領民一同、大いに快哉を上げ、これでもう安心だと、心より安堵しております。いやあ、これほど頼もしいことはござりますまい」

「伯爵閣下にそこまで仰っていただけるのであれば、この老骨にも、鞭の入れ甲斐もあるというものです。この一件、粉骨砕身の覚悟にて取り組ませて頂きますれば、何卒、よろしくお願い申し上げます」

 遠慮しがちに、それでもしっかりと、ダンクルベールは礼をしていた。やはりどこか、慣れないものが見て取れて、一同、口に手を当てて、笑いを堪えていた。

 軍功ある軍人に対し、騎士爵シュヴァリエ、あるいは勲功爵くんこうしゃくが与えられる場合、習わしとして、その個人の功績に則った二つ名が与えられる。

 それこそが霹靂卿へきれききょう、ダンクルベール。霹靂へきれき。つまりは、かみなりおやじである。

 その人となりを知るものはいざ知らず、ベイロンのように、武名や勇名のみを聞いているものからすれば、さぞ立派で威厳のある名に聞こえるのであろう。ダンクルベール自身も、勲功爵くんこうしゃくの授与自体が、まさしく青天の霹靂へきれきだったようであり、未だ馴染んでいない様子である。こうやって、けいだとか、ダンクルベールきょうだとか呼ばれるたび、しどろもどろになってしまうので、それらをひっくるめて、皆、面白くて仕方ないのだ。

「かみなりさま、ねえ」

 ひとしきりの挨拶を済ませたベイロンが去ったあと、やはり笑いが収まらない様子のセルヴァンが漏らしてしまった。

 セルヴァンは領土持ちの男爵家出身ではあるが、次男のため、爵位の相続権は無い。ただ確か、ガンズビュール事件の際に騎士爵シュヴァリエを授与されており、瑛眼卿えいがんきょうの名を賜ったと記憶している。セルヴァン卿と呼ばれることも多かった。

「茶化すんじゃない。俺とて、未だ慣れておらん。貧しい家の出が、白秋はくしゅう手前でけいだのきょうだのと呼ばれるとは、思いもせなんだ」

「かっこいいじゃないですか。それに、これから警察隊を目指そうという人々にとって、いい目標になると思いますよ?」

「勘弁してくれ、アズナヴール伯さま」

 言い返されて、ペルグランも笑いの的となっていた。本人は実直な好青年ではあるものの、あのニコラ・ペルグランを祖とする、アズナヴール伯ペルグラン家の次代家督である。

 ひとしきりが済んだので、具体的な指示が発せられていく。場が、動きはじめる。

 セルヴァンに呼ばれ、別室に移動した。

「今、一番ケアが必要なのは、やはり私か」

「よく、お気づきで」

 それだけ、言うことにした。

「一度、ご実家に戻られるのもありかと思います。ご親族の顔を見るだけでも、心は安らぐ」

「そうしたいのは、やまやまだがな」

「やはり、シェラドゥルーガですか」

 美貌が、顔をしかめた。

 ガンズビュール連続殺人事件。その犯人やダンクルベールを含め、その解決直後からの付き合いである。

 セルヴァンは、ボドリエール夫人ことシェラドゥルーガのことを、極端に避けていた。理由は様々だろうが、彼女に対する、強い思いがあったことが、一番だろう。

 それを、裏切られた。そしてそれが、人ですらなかった。それがセルヴァンを、今でも蝕んでいる。

 この地に根付く、“ロ・ロ”や“ふるいヒト”と呼ばれるもの。あるいはそれがまた、人ならざる人でなしなのではないかという、不安と恐怖。郷里の地で巻き起こるかもしれない、再度のガンズビュール。

 セルヴァンだけはただひとり、それと立ち向かわなければならない。

「先の場は、泰然、毅然と振る舞われておりました。しかし今、閣下の状態は、見てわかるほどに悪い。あまり眠れていないのでしょう。呼吸も浅いです。肌色も」

 すべて、旅路から気付いていたことだった。首都から片道二日ほど、このひとを見てきた。

「まずは休養めされい。現場は長官がおられます。閣下のお仕事も、司法警察局の職員に割り振ればよろしい。三日も休めば、もとに戻ります。元手がなければ、商売もはじめられますまい」

「私は」

 ムッシュの言葉を振り払うかのように、セルヴァンが背を向けた。

「私を、乗り越えなければならない」

 決意の言葉は、小さかった。

 そうして、部屋を後にしていった。

 剛毅だが、頑迷でもある。誰でもそうであるが、追い込まれると、それがより、強くなる。

 そうやって皆、壊れていく。かつての自分が、そうだったように。

「だ、そうですよ」

 ため息ひとつ、言葉を宙に放り投げた。

「あら、バレちゃった?」

 やはり、言葉が帰ってきた。

 それは優雅に、ムッシュの視界に入ってきた。あかと黒のドレス。背筋の伸びた、豊満な肉体。そして美貌。

 ボドリエール夫人こと、あかき瞳のシェラドゥルーガ。本日は、そのあかい髪を纏め上げ、チュール付きの帽子と薄手の手袋もくわえて、余所行きといった風情でのご登場である。

「邪魔しちゃ駄目ですからね。ただでさえ、仕事をする側も民衆も張り詰めている。観光程度に収めておきましょう」

 とりあえず、刺すべき釘は刺しておいた。勿論、といったふうの笑みが返ってきた。

 これの遊びのひとつに、捜査妨害や犯罪教唆を行って、状況をややこしくすることがあった。特にダンクルベールなどが、自分よりも先に真相にたどり着いた場合に、それをすることが多い。気に食わないというよりかは、それに気付いてもらって、叱られたいようにも思えていた。

 ともかく今回ばかりは、誰も彼もが張り詰めている。それだけは避けてほしかったが、そこは弁えているようだった。

「セルヴァン閣下と仲直りするのに、いい機会かと思って」

「となれば、“ロ・ロ”たるものの正体についても?」

「勿論」

 鼻を鳴らし、あかい瞳がきらりと光った。

「お化けなんていない。寝ぼけた人が見間違えたのさ」

「おや、貴女は?」

「あら、失礼ね。これでもちゃんとした生き物よ?人間の皆さんからすれば、そう見えるだけで」

 指先で口元を隠しながら、笑ってみせた。

「長らくこの島に根ざしている。私以外に、人ならざる人でなしがいないことは、都度都度、確認済みですから」

「それであれば、やはり人のやることですか」

「だからこそ、厄介極まりない」

 夫人の顔から、笑みが消える。毅然とした表情。

「人らしくない人。人たるものが欠落した人。それを、人が人の目線で予測することは、困難極まりないこと」

「仰る通り。そして長官と貴女は、それを成してきた」

「そう。だから、ご安心」

 言いながら、そのあたりにあった椅子に腰を下ろした。あわせるようにして、ムッシュもそれに倣った。

「セルヴァン閣下には、我が愛しき人がいる。我が愛しき人が育て上げた優秀な人材がいる。そして貴方のように、我が愛しき人やセルヴァン閣下を支えてくれる人がいる。だから、何の心配もない」

 自信満々。表情から、それが読み取れた。

 複雑怪奇な存在だった。前提として人ではないから、行動原理は人のそれではない。

 それでも、人に対する大きな愛がある。だからこそ知性と教養、道徳と倫理を併せ持ち、あるいはそれを捨てることもできる。これを人として見れば、狂気を孕んだ精神病質者サイコパスとして捉えるだろう。

 人ではない、人でなし。その前提を押さえておけば、この生き物と接するのは、難しくなくなる。信頼を、置けるようになる。

 つまりは言う通り、何の心配もいらない。いつもどおり、ダンクルベールが陣頭に立ち、それをセルヴァンが支える。それをやればいい。

 そうするように各員を機能させることが、自分の仕事だということだ。

「とりあえず」

 安心したので、後は言うべきことを言うだけだった。

「観光にしてもそのお召し物は、ちょっと派手ですかね」

 それだけ言うと、夫人は破顔した。


2.


 各員に指示を伝え、ルキエだけ残した。全景を見る、ということをやっておきたかった。

 ガンズビュールの際、左足を悪くしている。それでも杖があれば楽、という程度のものであり、それがなければ立てもしないというわけではない。それにしても、その左足がたやすく悲鳴を上げる程度には、この物見塔の階段は急であり、また長かった。見かねたムッシュが肩を貸してくれて、なんとか登りきれたぐらいだった。白秋はくしゅう手前の爺ふたり、大汗をかきながら、ようやく登りきれた。

「いやあ、絶景だな」

 全景を見渡し、思わず素直な言葉を出していた。

 白扇はくせん山脈の氷河。山々の鮮やかな緑。碧色の山中湖。運河の走る、色とりどりの、石と木を織り交ぜた建築物の数々。おそらくヴァーヌ聖教以前の建築様式で作られた教会など、雄大で美しい様々が、視界を窮屈なまでに埋め尽くしていた。

 風が心地よい。汗が、不快なものではなくなっていく。

「アルシェが来たがったのもわかるなあ。これが故郷だというのだもの」

 口に出してしまっていた言葉に、ルキエが振り返っていた。

「アルシェ大尉も、フォンブリューヌ出身だったんですか?」

「サラさんのね。アルシェは、ガンズビュールだ。新任少尉のときの配属先がフォンブリューヌ。市場で拾った落とし物がきっかけで、サラさんと出会ったんだと」

「へえ、そうだったんだ。ちょっとロマンチック。サラねえ、綺麗だし、朗らかで優しい人だから、どうしてまたアルシェ大尉となんだろうって思ってたけど」

「アルシェは、仕事場と私生活でまるきり違いますからな。知らない人はびっくりするでしょうよ」

 ムッシュも、面白そうに笑っていた。

 仏頂面の寝ぼけ眼の、少し痩せた男。どうしても、酷薄なものを感じてしまうものは多いだろう。実際は、至極普通な感性を持つ家庭人である。特に妻であるサラに対しては、前職に異動するにあたって大変な思いをさせてしまったことから、今でも相当に気を揉んでいる。

 本事案は誘拐ということもあり、妻や子どもは巻き込みたくないし、かといって長期間置いていきたくもないとなり、本部で居残りである。

 ビアトリクスも同じくフォンブリューヌ出身ではあるが、郷里にはあまり愛着が無いようで、また誘拐という事案から、同じく本部居残りとなっていた。

「土産に、セルヴァンのところのチーズを頼まれたよ。サラさんが好物らしくってな。今、“あし”に頼んで、買いに行っている」

「長官、サラねえと仲がいいんですね」

「家が近いのさ。行きつけのビストロで鉢合わせて以来の、家族付き合いだ。息子のエドガーとも、よく遊んでもらっているよ」

「へえ、いいなあ。サラねえ、お子さんのこと、よく話してくれるんです。会ってみたいなあ」

 ルキエは興味深そうに、話に混ざってくれた。

 警察隊の年嵩の連中に多いように、ルキエも生まれがよくなかった。その点で気楽なのだろう。よくこうやって、輪に入ってくれる。自分たちからしてみても、ちょっと小生意気で、可愛げがある姪っ子といった感じである。ウトマンとは特に仲が良く、アンリを含めて和気藹々としていた。

 世間話をしながらも、見るべきものを見ていった。主に、人の流れである。どのようにして集まっていくか。どんな年齢の人が、どこに行くのか。

 人の多さに、なにより驚いていた。

 山があり、湖があり、運河がある。そして建物も。その間を縫うようにして、人々の往来が止むことがない。そして人々も、身なりが整っている。貧しい人が見当たらない。

 理想的な土地、と言っていいだろう。まるで危機など、どこにも無いようなぐらい、平穏で、活気がある。

「セルヴァンは、やはり無理をしているか」

 ムッシュに問いかけた。

 ルキエは、戸惑った様子だった。自分が聞いていい話なのか、という顔である。目で、続けるようにだけ、伝えた。

「既に、体にも見えるほどに」

「だろうな。今回はあれが一番、大変だろう。郷里の危機。慣れない前線。そして“ロ・ロ”の存在」

「有り得る話だからこそ、心を蝕む。強い心を持っていますが、ひびがある。そこを、攻撃されている」

「ガンズビュールの時も、そうだった」

 静かに、目を伏せた。

 ガンズビュール連続殺人事件。

 あのシェラドゥルーガとの因縁のはじまりでもあり、また、ダンクルベールとセルヴァンの、付き合いのはじまりの場でもある。

 今回と同じように、特別捜査本部長として着任した、二十半ばの美男子。後方支援のみで大佐まで昇進した異才であり、司法警察局次長に着任したばかりの、新進気鋭の駿才であった。あるいはダンクルベールのような現場のものからすれば、現場を知らない若僧が来た、という、いい印象ではなかった。

 セルヴァンはそれを、ただ実力を以て覆した。

 捜査官の、身の安全の確保と整備。現地に滞在していた王族貴族や、現地民への慰撫。また、それぞれに対する保養と体調管理の徹底。それをあっという間にこなしたと思えば、今まで現地の警察隊のそれに依存していた兵站能力を、首都の司法警察局へのそれへと瞬時に切り替えてみせ、自分の“あし”以上の速度で、正規軍人による、現地と首都間の兵站線を確保した。

 また、当時の最高指揮官マレンツィオの持っていた業務の棚卸を行い、事務作業の一切を引き取り、警察隊を現場に専念させることもやってみせた。その上で必要と思われる人員の確保と招集、場合によっては、在野の名士に特任とくにん士官権限を与えて、現場に加えるということもやった。

 現場知らずの若年の大佐が着任してからひと月もしない内に、特別捜査本部の屋台骨は、鉄骨造りの堅牢強固なものに仕上がっていた。

 後方支援とは何か。あるいは国家憲兵とは、軍隊とは、そして国家とは何か。それを熟知した、稀代の戦略家だった。

 しかしひとつだけ、セルヴァンが知らないものが現場にあった。

 それは、恐怖だった。

 当時の司法警察局局長が殺された。首都にいたはずの人間が、ガンズビュールで、引き裂かれて見つかった。それが、はじまりだった。

 自分もこうなるかもしれない。あるいは、自分が支えているものが、こうなってしまうかもしれない。いつ、どこから、何が切欠で狙われるのか。

 一度崩れると、立ち直れない。強い心だからこそ、組み立て直せない。セルヴァンは、心の籠城戦を強いられていた。

 そして犯人は、ボドリエール夫人。

 セルヴァンは、熱心なボドリエール・ファンでもあった。憧れた、恋い焦がれたその人であり、そしてまた、人ではなかった。お伽噺の人食い魔、シェラドゥルーガ。実在した神話。

 それが今でも、セルヴァンの心に、大きくひびを入れていた。

 そして今、故郷のお伽噺が、現実になりかけている。それが、心を締め付けている。

「司法警察局とは、セルヴァンだ。ひとりですべてをやってしまっている。ひびを守るために、何枚もの壁を作ってしまったから、誰も近寄れない。だから今以て、司法警察局の人材は、育ちきれない」

「此度は、そのひびと、向き合わねばなりますまい」

「あれが崩れれば、すべてが崩れ去る。俺たちは、ここに取り残されてしまう」

 長く、背中を預けていた。それが崩れ去ることだけが、何より恐ろしかった。

 セルヴァンを守ってやらなければならない。恩義に、友情に、報いなければならない。彼を育んだ、この雄大な自然の中で。

「どうやら長官も閣下も、副官がいたほうがよろしいようですな」

 くすりと笑ったムッシュに、ダンクルベールも笑ってしまった。

 司法解剖に長ける医者である以前に、人生経験の豊富な年寄りである。隣りにいるだけで、気が楽だった。

「手間を掛けるな、ムッシュ」

「お構いなく。ペルグラン少尉も羽を伸ばす、いい機会でしょうし」

「今回は女どもの世話役。あれのことだ。張り切ってやってくれるだろうよ」

 言って、やはりふたり、笑っていた。

 ペルグランを今後、どう育てるか。ちょっとした悩みだった。

 副官としては、育ちきっていた。いち捜査官としても、並程度のものになっている。あとはどこを伸ばすべきか。どういう人物として、仕上げていくべきか。

 叩けば響き、伸びる。そして多才だ。器用貧乏だけにはしたくない。いずれ手放すとして、誰と組ませるべきか。ウトマンやビアトリクスとは相性がいいだろうが、正攻法が過ぎる。搦手をやれるものがいない。となればアルシェだろうが、手を汚すことをよしとしてくれるか。

 今回、ペルグランを横に置かないことで、それも一緒に考えていきたかった。そうなると、年嵩の親父であるムッシュは、いい相談役だった。

 見るべきものは見たので、次に取り掛かろう。そう、思ったときだった。

「あの」

 振り向いた。ルキエが、難しい顔をしていた。

「あたし、セルヴァン局長閣下のこと。強い人とばかり思ってました」

 寂しいというより、悲しみに近い口調だった。

 縁のの力持ち。そう呼ばれてきた男。朱夏しゅかも半ばが見えてきてなお、衰えることのない美貌。冷静沈着かつ迅速果断。そしてその気っ風の良さから、セルヴァンを知るものは、きっとそう思うだろう。

 セルヴァンの弱さは、もっと踏み込んでいかなければ、見えないものだった。そしてルキエたちは、見る必要のないものだった。それは何より、セルヴァン自体が望んでもいない。

「お前にとっては、それでいい」

「あたしたち、頼りすぎていたんですかね?」

「それがセルヴァンの仕事だよ。気にする必要はない。むしろ俺たちは、あいつの盾になってやらねばならん。背中を預けるということは、それを守るということと同じだからな」

 言葉は選んでみたものの、ルキエの表情は変わらなった。

 尊敬する人物の、頼ってきた人の、見えざる部分。それをどう受け止めていいのか、わからないのだろう。

 ひとつ、思い浮かんだものがあった。

「お前にとっての、アンリエットみたいなものさ」

 それを言うと、ルキエの顔に明るさが戻ってきた。

「それなら、やれると思います」

「よし。じゃあ今回も、セルヴァンに頼っていこう」

「はいっ」

 元気な返事だった。

 ルキエとアンリという、同い年ふたり。正反対ではあるが、公私を問わず仲が良かった。

 確か、ルキエがアンリの着ていたものを破り裂いたのが、はじまりだったはずだ。それも自分から正直に報告してきて、処断を仰いでいたし、罰則として言いつけた、アンリと仲良くすることも、すぐにできていた。

 柄の悪い不良娘ではあるが、根は素直だ。口は悪いが、ひねくれてはいないので、他者と関係をこじらせることも少ない。ものだけでなく、人を見ることもでき、それに手を差し伸べようとする姿勢もまた、見せることができる。その手段だけ教え込めば、ルキエはより育つはずだ。

 先の通り魔案件では、捜査官としても活躍してくれた。人のことを思う力を育めば、指揮官としても芽吹いてくれる。何よりも、人そのものとしても、大きくなれる。

 全景は見た。次に出るであろう場所と時間を予測する。

 スーリに、出現場所の可視化を頼んでいた。人通りの多い飲食店街、そしてやはり露天市場マルシェである。

 それを見ながら、とりあえずいる面々で議論をやってみる。ダンクルベール、スーリ、ゴフ、ルキエ、それとゴセック少佐。フォンブリューヌ地方支部長であり、この地方の出身でもある。

露天市場マルシェが多いな。となれば、午前中か」

 ゴフが口火を切った。ひらめきを活かす。知識の下地さえ整えておけば、あとは促さずとも切り拓いていく。

「とにかく、栄えてます。平日ですが、人の量が多い。狙われるのは、すべて客。店員、市場関係者、卸業者などは狙われてない」

 次に、ルキエ。やはり観察眼。そこから、洞察力が生えてくる。下士官にしておくには勿体ないぐらいだ。

「日中、出歩く女性の量が多いというのも、ここの特徴だ。めしは外なり、買ってくるなりにして、家事は午後に回しているのかな?」

「大体、そうですね。外で食べることが多いです。地元民向けのブションが多くあります。午前中は買い物と昼食、午後から家事でしょうか。大家族があまり無いのも、特徴といえば、特徴になります」

 ゴセック少佐が回答してくれた。外連味がなく堅実で、人意思疎通に齟齬を起こさない。特に組織運営においては、そこがよく作用する。このフォンブリューヌのように、情勢が安定した地に置く守将としては、正解のような人物だった。

「全員、地元。家族と一緒より、お使いが多い。行ったまま帰ってこないってのが、ほとんど。今のところ無いけど、親御さんが気付く時宜じぎによっちゃ、いっぺんに連れ去られたように思える犯行も、出てくるでしょうね」

 スーリの言葉に、ダンクルベールはいやなものを感じた。

「複数犯、組織犯にも見える、ということか」

 あるいは模倣犯にすら。

 悪意ある人間が、ひとりではなく、複数人いる。それだけで、人の心は揺さぶられる。何より、セルヴァンの心が。

「ひとりで出歩かせないようだけ、通達できないものかな。セルヴァンに確認の上、ベイロン閣下に頼んでみてくれ。後は、行方不明の届出が出たとしても、警察隊の面々に止めよう。分析の後、セルヴァンに伝える」

 控えていた司法警察局の職員に、まずは言ってみた。セルヴァンに負担を掛けないように、やっていくしかない。

「それと、ベイロン閣下のご家来さまで、地域の情勢に詳しい方がいれば、連れてきてはくれんか」

「何か、思い当たったのですか?」

「フォンブリューヌは悪党がいない。それが不思議でな」

「どこから生えた茸か、っていうことですか?」

 ゴフの問いに、頷いてみせた。

 余所者ならともかく、地産であれば、何かしらの土壌があるはずだ。大抵は裏社会、つまりは悪党になるが、このフォンブリューヌ一帯では、それが見当たらなかった。

 セルヴァンが悪党に理解が薄いのも、おそらく、このフォンブリューヌの出身だからだろう。ビアトリクスやゴセックも、悪党の仕組みについての理解に苦労していたはずだ。

 来たのはベイロン閣下、そのひとだった。

「本官は長らく、首都近郊での犯罪捜査を担当しておりました。経歴の大半は、悪党が中心でした。それが、このフォンブリューヌには存在しない。それが何故か、ご存知でしょうか?」

 ダンクルベールの言葉に、ベイロンが顔をしかめた。

「悪党というのは、つまり犯罪組織かね?」

「いえ。もっと広義なものです。法の加護を受けられないものたちの互助会みたいなもの。例えば博徒であったり、任侠であったり。そういった、法すれすれの商売をする人々です」

 やはりベイロンは、理解ができていないようだった。

 それで、何となく見えてきた。

「つまりは、そういうものが産まれない仕組みが、この地方には長らく存在しているということですな」

「私はこの地の生まれ育ちだから、仰る意味がわかりかねるが、確かにそういう仕組みがある。貧しいものや、法の加護を受けられないものを産まないため、貧富の差を少なくし、共に栄えていく。理非曲直を正す。それが、治世の根本だろう?」

「仰る通り。そしてこの地やセルヴァン本部長のご実家は、それを実現できている、理想的な領地です。そして、そうでない地域では、そういったものが存在するのです」

 そこまで言って、ようやく得心が行ったようだった。

「犯人が、どのような身分か、あるいは出自か、ということかね?」

「ご賢察にございます。若い娘を三ヶ月で八人も拐う。そういう存在を育む土壌がある。それが無いならば、余所者の犯行になる。その切り分けのためです」

 ベイロンの顔が、明るくなった。機嫌を損ねたわけではなかったようだ。

 やはり、いい仕組みがある。領主と領民が、一緒に暮らしていく仕組み。富の再分配が的確に行われる仕組み。危機に対応する仕組み。それぞれが、ちゃんと機能している。

 ここには、悪党は必要ないのだ。政治がちゃんとしている。領主と領民がいれば、すべてが成立し、機能する。あるいはこの地域そのものが、小さな国家であると言っていいだろう。

「いわゆる匪賊や窃盗団であれば、極稀に流れてきて、山の中に拠点を作ったりはする。それは交渉するなりして、帰順するなり余所に行ってもらうかしている。地元民の犯罪についても、基本的には商売だったり、人の交わりに起因するものだ。人さらいも無くはないが、身代金だったり、何かしらの要求がある。だから必ず、交渉の余地がある」

「となれば、余所者ですな」

 余所者となれば、相当な手練れである。他の地域で、同様の事件は無かったはずだ。このボーマルシェ伯領で発見できたのは、偶然か、あるいは別の要因か。

「悪党がいなけりゃ、それが暮らす場所がない。地図や、目に見えているものがすべて。そこのどこかに、若い娘を約十人、隠しているってことになりますよね」

 ルキエの言葉が、まさしくそれであった。

「市街地ではないだろうな。ゴセックの言葉もあるが、家屋の一軒一軒はそれほど大きくなく、密集している。人が多いし、往来も多いから、異変には気付きやすい。殺しなら特にだ。臭いですぐに気付かれる。運河は浅く、側溝、暗渠もない。いわゆる貧民窟も無い。目に見えているものがすべてだから、人がいる場所ではない」

「山か、森ですか。厄介だな」

 ゴフが苦い顔をした。

「山は、難しいだろうな。三ヶ月で八人。遠すぎる。森でいいだろう。人里に最も近いところだ」

 ダンクルベールは言いながら、三つほど点を打った。

「探りながら、燻してみよう。軽装で、入るだけでいい。安全第一だ」

 それで、ゴフも頷いた。

「ダンクルベール卿。お時間がよろしいときでいい。悪党について、より詳しくご教授賜りたい。必要悪にも理解があったほうが、今後のためになるだろう」

 ベイロンの楽しそうな声に、思わず苦笑交じりの返答をしてしまった。

 これこそが、この地方の発展の根底にあるものなのだろう。

 二日ほど、そうやって物見や実地を見ることをしたり、議論を重ねていったりした。

「“ロ・ロ”、あるいは“ふるいヒト”について。念の為、知っておきたい」

 ゴセックとふたりで、地図を見ていた。

 人々が、それらに怯えている理由。今回の件と、何らかの関係があるのか。

童歌わらべうたで知られる、お化けのようなものです。それから呼ばれると、里からはぐれ、森に誘われる。つまりは、人さらいですかね」

「なるほど、つまりは現状に即していると。童歌わらべうたがあるとすれば、それに由来する出来事が」

 そこまで言って、また嫌なものにぶつかった。

「残されてはいないだろうな」

 自分で言いながらも、思わず、舌を打ってしまった。

 以前、ガブリエリに歴史の勉強を頼んだ際にもぶち当たった、ある種の事実であり、問題である。

 ヴァーヌの火。そう呼ばれる歴史用語。つまりは、歴史改竄。

 ヴァーヌ聖教の布教に併せて、ヴァルハリアは各地でそれをやってきた。そうやって自分たちに不都合な歴史を燃やし、嘘の歴史で塗りつぶしてきた。

 この国の歴史も、それをやられてきた。天然の要害であるフォンブリューヌであれ、それは免れなかっただろう。

 “ロ・ロ”、あるいは“ふるいヒト”の末裔。つまりは先住民族。思いついたはいいが、いたとしても、単独では動かないはずだ。

 スーリの行ったことが事実になったのは、その日の夕方だった。

 誘拐発生。ふたり、一気に消えた。

「同時ではないです。朝と晩で、ひとりずつ。晩の方は、ひとり暮らし。通報人はお隣さん。前日の夜に見てから、帰って来る様子がないからということでした」

「届け出が重なっただけだな。深くは考えなくても良さそうだ」

 ペルグランとゴフ。三人で資料を見ながら、それを分析していた。

 犯人は、夜にも動く。あるいは、未明から早朝か。

「よし、これからセルヴァン本部長に報告だ。対策本部室だな?」

「それが、既に報告済みでして」

「なにっ」

 司法警察局局員の言葉に、血が沸き立った。

「言ったはずだぞ。セルヴァン本部長にも、それは了承を得ている」

「申し訳ありません。こちらの、情報伝達が十分でなかったようで」

「もういい。ペルグランとゴフは、ここで待機だっ」

 吐き捨てるようにして、部屋を出ていった。

 セルヴァンの部下が、セルヴァンのことをわかっていない。それが何より頭に来た。人を育てれないセルヴァンも悪いが、育っていけない下の人間も、同じぐらいに悪い。

 何も言わず、対策本部室の扉を開いた。

 セルヴァンはひとり、ぼうっと外を眺めていた。

「ダンクルベールか」

「ふたり、消えた。だが、別時刻だ」

「そうか」

 振り返った。その顔は、呆けていた。

「ダンクルベール、どうすればいい?なあ、私はどうすればいいんだ?」

 青い顔。怯えて、竦み上がっていた。ガンズビュールの時と、同じように。

 心が、保てなくなっている。

「大事ない。まず、気を保ちなさい、セルヴァン。深呼吸、深呼吸だ」

「同日にふたりだ。複数いる。やつらは、“ロ・ロ”は、複数いる。いや、山ほど、山ほどいるんだ」

「届け出が重なっただけだ。ただの偶然だ」

「本当だったんだ。あの童歌わらべうたは、“ロ・ロ”は、いるんだ」

 目の焦点が合っていない。肩も、頬も、いくら叩いても、戻ってきてくれない。

 恐怖に呑まれている。心も体も、蝕まれている。

童歌わらべうたは、童歌わらべうただ。複数だとして、人がやったことだ」

「人じゃない。“ふるいヒト”だ。人でなしだ。あの童歌わらべうたが何を意味していたのか、気付いてしまった」

 セルヴァンの怯えが、一際、ひどくなった。歯が、噛み合わなくなるほどに、震えている。

「“ロ・ロ”をふるくしたのは、私たちだ」

 その言葉に、背筋に怖気が走っていた。

「私たちが、ふるい時代の私たちが、“ロ・ロ”を里から山へ、追いやったんだ。朝は昏がり、夜が来る。そうだ、“ロ・ロ”は復讐者だ。かつて自分たちを追いやり、人から、人でなしにした、私たちに対し、終末という夜をもたらす、復讐者なんだ」

 つまりは、ヴァーヌの火の燃え残り。塗りつぶしきれなかった、この国の事実。それがもしや、このフォンブリューヌの地にも。

 頭を強制的に切り替えた。それが事実だとしたら、何もできなくなる。

 真実を、信じるしかない。今、ここにいるすべてのために。

「落ち着きなさい、セルヴァン。落ち着け」

「落ち着いていられるかっ」

 絶叫だった。

 それでも、震えたまま。目が、何処かへ行ってしまっている。息が浅く、そして荒い。

「また、人でなしだ。また、シェラドゥルーガだ。私はまたあれと、あれのようなものどもと対峙しなければならないのか?もうたくさんだ。あんな恐ろしい思いを、また、しなければならないのか?うなされ、眠れない夜を過ごさなければならないのか?どうすればいい?どうすればいいんだ?ダンクルベール」

「違う、セルヴァン。まずは頭を止めろ。考えるな」

「ダンクルベール。貴様は何故、正気でいられるんだ?あの時もそうだった。貴様だけは正気のまま、恐怖に立ち向かった。貴様もまた、ふるいものなのか?騙していたのか?貴様もシェラドゥルーガなのか?もう、私は貴様を」

「しっかりしろと言ったんだよっ、セルヴァン」

 胸ぐらをつかみながら、何度も揺さぶった。殴ってでも、殺してでも、立ち直ってもらわねば。

 これが崩れれば、すべてが、崩れる。

「そう。しっかりしろって、言ったのよ」

 聞き覚えのある声。

 見渡す。すぐ側だった。のんびりと椅子に腰掛けた、あかと黒のドレス。同じ色合いの、豪奢な扇子をはためかせながら、それはこちらを見ていた。

「美中年が怯えて震えちゃって、台無しじゃない。折角、閣下の格好いいところを見られると思ってたのに。残念」

 シェラドゥルーガ。

 掴んでいた胸ぐらから、力が抜けたのが、はっきりわかった。

 抱きとめていた。がたがたと震えている。自分にも、それにも、目を合わせようとしない。そのうち目をつむり、耳を塞いでしまった。

「私も、入れてよ?」

「それどころじゃない。見ろ。お前に、怯えている。このままでは壊れる。出ていけ、シェラドゥルーガ」

「その上でだよ。御心を平らかになさい?私は太古の昔より、この島生まれのこの国育ちだ。他に私のような人でなしがいないことは、何度も何度も確認済みだ。それに私は、長生きな頂点捕食者。つまり、繁殖する必要もないから、性の区別もなければ、子どももいない。ひとりぼっちの、可哀想なシェラドゥルーガさ」

「お前の、お前の何を、何を信じろというのだ」

 目と耳を塞いだまま、震える声で、セルヴァンが叫んでしまっていた。

「貴方への、愛よ。ジルベール」

 少しして呟かれたものは、優しく、温かな言葉だった。思わずで、顔の筋肉が緩んでいた。

 愛。それこそは、シェラドゥルーガの行動原理。

「私を愛し、私が愛したジルベール。瑛眼卿えいがんきょう、ジルベール・クリストフ・ドゥ・セルヴァン。貴方は私の書いたものを愛し、そして私そのものを愛してくれた。本の中に仕込んだ“悪戯いたずら”だって、幾つも見つけてくれた。ふたりだけの晩餐会に招待したときにも、喜んで来てくれて、その言葉とその心で、私に愛を伝えてくれた。だから私も、この言葉とこの心で、この愛を伝えてきた。それを、信じてほしい」

 甘く、蕩けるような言葉。心を掴み、解きほぐす、愛という言葉。

 腕の中のセルヴァンに、熱が戻ってくるのを感じていた。

「子どもの頃に歌ってきた童歌わらべうたふるいお化けにこわがっている。でもそれはもう、お伽噺。そういうことがあったとしても、もう今は、そうではない。かつて、そういうことがあったときでも、貴方はそれを、乗り越えてきた。我が愛しきオーブリー・リュシアンと共に。貴方が支え続けた、警察隊という、勇者たちと、共に」

 シェラドゥルーガのあかが、紫に戻っていく。かつて見た、ボドリエール夫人の色に。セルヴァンが恋い焦がれ、そしてダンクルベールにとっては、疑い続けていたときの色に。

「忘れてはいけなくてよ?誰も貴方を、見捨てはしない。誰も貴方を、見放さない。貴方が皆を、そうしてきたから。貴方は、帰るべき場所。我が愛しきオーブリー・リュシアンの、そしてその、仲間たち。そして貴方の仲間たちや、貴方の家族たち。そして私、貴方の愛したパトリシア・ドゥ・ボドリエールの、帰るべき、広く、温かいおうち。その温かな火は、揺らぐことはあっても、消えることだけは、決してない。それは、皆が貴方を、愛しているから。我が愛しき、ジルベール・クリストフ」

 ボドリエール夫人は、ダンクルベールが抱きとめていたセルヴァンの頬に、軽く唇を乗せ、そしてゆっくりと、その体を抱きしめた。

「大丈夫。皆がいる。ここに、いるから」

 誰しもが、セルヴァンに言いたかったこと。それを、ボドリエール夫人、そしてシェラドゥルーガは、優しく伝えた。

 夫人、とだけ。その言葉が、セルヴァンの口から漏れた。

 しばらくして、セルヴァンの体に、力が戻ってきた。かつて抱いていた恋心が、かつて伝えてもらった愛の言葉が、きっと、そうさせたのかもしれない。

 その内に、ダンクルベールの手を掴み、それを支えにしながら、ゆっくりと立ち上がった。

 セルヴァンの顔だった。

「ありがとう、シェラドゥルーガ。いや、パトリシア。格好の悪いところを見せてしまったね。色男、失格だ」

「大丈夫よ。今の貴方が、一番素敵。こわい思いを乗り越えた、男の顔をしてる」

 シェラドゥルーガ。美しく、優しい、母親のような表情。

「愛してる。ジルベール」

「ありがとう、愛している。パトリシア」

 ふたり、寄り添って。

 そうして、唇を重ねていた。

「ダンクルベール。皆を、集めてくれ。今後の方針について、検討しよう」

 声と顔に、セルヴァンが戻ってきた。背中を預けるべき、頼るべき男のものが。

「いけるか?セルヴァン」

「ああ」

 その言葉に、震えるほどの力を感じた。

「私が貴様を守る。貴様たちを、守り抜いてみせる」

 ジルベール・クリストフ・ドゥ・セルヴァン。縁のの力持ち。二十年来の、見初め、すべてを預け尽くした恋女房。年齢も役職も越えて、貴様と呼べる、唯一の男。

 見惚れていた。これまで以上のものを、見せてくれていた。

 かつての愛をひとつ、取り戻した。それで、人というものは、立ち直れるものなのか。それ以上のところに、上っていけるのか。

 そこに何か、葛藤のようなものを覚えた。取り戻す前に、うしなってしまったもの。ダンクルベールの内にあるものは、そんなものばかりだった。

 部屋を出ていったセルヴァンから目を逸らした先には、あかいシェラドゥルーガがいた。いつもどおりの、不敵な笑みで。

 幾つもの顔。それは女に限らず、これもそうなのだろう。

 親愛、敬愛、愛欲、そして食欲。本質がどれなのか、いつもわからなかった。

「あえて聞くが、シェラドゥルーガ」

 紙巻を咥えて、火を灯した。紫煙が、濁りを取り払うと思い込みながら。

 言った言葉に、どうしてか、シェラドゥルーガは背を向けていた。

「お前は、何者だ?」

 あえて、虚空に放り出すように。

 一拍以上の、間。

「知りたい?」

 振り向いた。振り向かせては、いけないものが。

「いや、いい。きっとわからん」

 ダンクルベールは、それらから目を逸らせた。

 その女の影のかたちは、人のかたちではなかったから。


3.


 湖から流れ出す運河は、澄んだ碧色で、穏やかだった。パント船、三隻。これで、ものと人員が、十分に運べた。

 パント船は久しぶりに操船するので、ちょっとだけ練習させてもらった。船尾に立ち、棹を川底に突いて操作する。川は浅く、底は石で敷いてある。人数やものを乗せる都合、速度を出す必要はない。

 五分程度で、人を乗せても大丈夫なぐらいには、動かせた。

 船頭はペルグラン、ラクロワ、オーベリソン。人数の大部分はペルグラン。荷物とデッサンをオーべリソン。そして、ラクロワが、アンリとドゥストを乗せて、三人で交代しながら、やってみることにした。

 やはり血の都合、オーべリソンは習得が早かった。ラクロワは士官学校でカヌーなどの操船も習っているが、はじめて触るパント船は、おっかなびっくりといった様子だ。それでも同世代の女三人、きゃあきゃあ言いながら、進めている。最初は物珍しさから、デッサンもやりたがっていたが、やっている途中、やっぱり風景が気になって仕方ないのだろう。オーベリソンに任せて、絵を描くことに没頭しはじめた。本当に、絵を描くことが大好きな人である。

 それもわかるぐらい、船から見る町並は、本当に素晴らしかった。素朴で、新鮮で、いつまでもいたいと思えるほどだった。

 現地の人々の慰撫に回っていた。

 人心が乱れている。それを幾らかでも回復し、維持するのも、警察隊、あるいは国家憲兵としての役目である。このあたりはガンズビュール経験者でもあるセルヴァンの、手腕の見事さであった。

 やはりサントアンリの尊名は、なによりの効果があった。

 おそらく、国内で知らない人は、もういないのではなかろうか。訪れる先、船の上、ないしは街の中で、その可憐な顔に走る向こう傷をみとめた民衆が、ああ、アンリさまだ。アンリさまが来てくださった。そう言って、わっと駆け寄ってくる。皆、一様に、これで助かる。これできっと、よくなると、涙を流していた。そしてアンリをはじめ、衛生救護班の面々で、温かい言葉と、強い励ましを以て、それに応えていく。

「大丈夫。私がいます。このアンリエットが、御使みつかいさまの名代みょうだいとして、ふるいお化けを追い払います。だから皆、気を強く持って。お化けなんていない。怖くなったら、火を灯して。火は、御使みつかいさまの道標みちしるべ。あなたたちのための、炎の冠。龍を倒した御使みつかいさまが、やってきてくれる。私だけでなく、御使みつかいさまが、来てくれる。炎の冠と炎のつるぎを携えて、あのミュザさまが、こわいお化けなんて、やっつけてくれるんだから」

 神代の英雄、御使みつかいのミュザ。その名代みょうだいたるサントアンリ。その姿は、まさしく宗教画のようであった。

「アンリさん。すごいなあ」

 ラクロワが、ぼそりと零した。

「宝石みたいな、声」

 ラクロワは、いつもそう、言っていた。

 それだけ、アンリの声には、神通力じんつうりきがあった。故郷の戦乱の中、叫び続け、泣き続けたのだろう。少しだけかすれて、それでも、雪解け水のように、澄み切った声。

 傷を負い、涙を流し、生きて聖女となった、サントアンリ。

「生ける聖者であること。その責務を果たそうとすることは、尋常ではできないことだよ。それを尊敬することはいいことだけど、比べる必要は、ないんじゃないかな」

「ありがとう。ペルグランくん」

 そう答えても、やはりラクロワは、自信がなさげだった。

「一番は、これを思い付けるセルヴァン局長閣下だよ。軍隊の支援だけではなく、そこに住む人を支援すること。ラクロワは、そっちを見るべきじゃないかな?あの方、ラクロワをすっごい評価しているから」

「セルヴァン局長閣下が、私を?」

 はっとした顔で、こちらを向いた。ラクロワの顔は、少しだけ、嬉しそうだった。

「これ、内緒だよ?局長閣下から、ラブレター来てるんだ。ダンクルベール長官が、待てを出している。だからさ、胸張っていこう。そうしてそうなった時、自慢できるようにしようよ。あの局長閣下に口説かれたってさ」

 そこまで言うと、ラクロワは真っ赤になってしまった。そうして小声で、ありがとうと言ってくれた。

 同期。それも女の子。自分に自信が持てない、控えめな女の子。その背中を押すためなら、これぐらい、格好をつけたっていいだろう。

「ペルグラン少尉の言う通り、自信を持ちなよ、ラクロワ少尉。持てるかどうかは、君の持っているものを、君が認めてあげることから、はじまるんだよ」

 どこか嬉しそうな声で近づいてきたのは、デッサンことフェリエだった。笑顔の子どもたちを、山ほど連れてきている。

「僕は、絵を描くことしかできないけど、こうやって、子どもたちを楽しませることができる。ペルグラン少尉の意見のおかげで、僕も自信満々の大忙しさ」

 瓶底眼鏡の奥の目が、にこにこしていた。子どもたちは、デッサンの描く絵に群がったり、あるいは、自分たちも描いてみたりして、本当に楽しそうにしている。

「提案を受け入れていただけて、本当にありがとうございます。デッサン中尉殿」

「こちらこそだよ。僕も、子どもが大好きだからね」

「今、おいくつでしたっけ?」

「上が六歳と、下が三歳。だからちょうど、この子たちぐらいだ。だからやっぱり、ちょうど同じようにして、遊んであげられる。これも役立つとは、思わなかったね」

 きっとセルヴァンの入れ知恵だろうか。髭も服も整えて身綺麗になっているから、いつも感じる陰湿さはなく、剽軽さや愛嬌すら覚える。年若いお父さんといった感じだ。

 正直、最初の頃は、この人が嫌いだった。

 死体画家。そう呼ばれていた。雨の中、人に傘を差させてまで、死体の絵を描く男。不恰好で、奇怪で、不気味な男。

 本当は、真面目で心優しい人だった。そして灼熱に燃え上がる、正義漢だった。ただ、それを活かせる才覚がなかった。行き場のないものを、自分自身や、犠牲者の絵に、乗せていた。

 そうしてできあがるものは、緻密で、多角的だった。もっと力があれば、もっと才能があれば、それを、絵にぶつけ続けていた。

 ただ、本人はそればっかり言うけれど、沢山の他のものも持っていた。観察力。洞察力。行動力。記憶力。そして、理解と共感をする力。

 理解しはじめてからは、打ち解けるのも、絵に込められているものを感じ取るのも早かった。男性隊員の中では、一番に話す、人生そのものの先輩になっていた。

 代々の尚武の家系。画家になりたかったけど、家の面目のために軍人になった。でもやっぱり、才能がない。わかってくれたのは、士官学校の同期のゴフぐらい。あの人は粗野で乱暴だけど、人のそういうところを見抜く直感と、弱いものいじめが大嫌いという義侠心があった。そこで波長が合ったらしい。いつも冗談を言い合ったり、あるいは取っ組み合いの喧嘩だってするぐらい、仲が良かった。

 頑固な所が強いので、一度怒ったら、もう止まらない。そこもなんだか、人間臭かった。

 僕は絵を描くことしかできないけれど、絵を描くことができる。それで進める人や、助かる生命がある。皆がそれを教えてくれた。僕の絵には、皆の花丸はなまるがついてるんだ。笑って、いつも言っていた。

 奥さんと子どもがいるというのは、最近知った。やっぱり、絵を見せてくれた。綺麗な奥さんと、可愛い子どもたち。許嫁らしいけど、ゴフいわく、見ているこっちが恥ずかしいぐらいらしい。現在、三人目をご懐妊だそうだ。

「遠足の前には、持ち物確認は大事だっていうだろ?それとおんなじだよ。ラクロワ少尉」

「でも、自分を見るのには、どうすればいいでしょうか?」

「鏡を見ればいいんじゃないかな?」

 デッサンの言葉に、ラクロワは笑ってしまっていた。結構、冗談が好きな人でもある。そしてこうやって、心を解きほぐすのだって上手だった。

 まだ夏ではあるものの、高原地帯のため、少し肌寒い。アンリたち衛生救護班も、珍しく、油合羽あぶらがっぱを着ていた。

 アンリはペルグランと同じく“短合羽たんがっぱ”が好きな様子だ。現場に出ることが多いので、結構、育っている。丈は短いものの、ちょっぴりだぼっと羽織れる感じのサイズ感で、袖をまくる。いわゆる“彼氏合羽かれしがっぱ”だ。

 若くてお洒落な女の子でも油合羽あぶらがっぱは人気であり、油を抜いた“油断合羽ゆだんがっぱ”にしたりして、ファッションアイテムとして、一定以上の知名度を得ていた。酪農の盛んな、このフォンブリューヌ地方では、羊毛などの毛織物のほうが馴染みが強いのだろうが、それでも街行く人を見ると、ちらほらと油合羽あぶらがっぱを羽織っている人は、目についたりもする。

「人が集まっているところを狙う。少ないところではなく。なら、けものじゃない。人でしょうな」

 見上げるほどの大男。頼れる父親役、オーベリソンだ。

 その巨躯を活かして、今回はもっぱら、衛生救護班や、民衆たちの護衛役である。見た目に慣れてしまえば、これほど頼れる人もいないだろう。デッサンと同じく、子持ちのパパさんでもあるので、子どもの扱いも得意だ。現地の子どもたちからは、巨人さんとか言われて、その大きな体いっぱいに、しがみつかれていた。

「そうであってほしいですよね。“ロ・ロ”とかいう、お化けが出るって、皆、こわがっていた」

「船乗りだって、お化けが苦手でしょう?少尉殿」

「セイレーンとか、クラーケンとか、色々いますからね」

「俺も祖先は、船乗りですから。おっかなくってね」

 そう言って、威容をはにかませた。冗談のつもりだろうが、笑いづらかった。

 何と言っても、あの“北魔ほくま”の血である。アルケンヤールの荒波を乗り越えて、ヴァルハリア、ユィズランド諸国から、この国やエルトゥールルにまで襲いかかった、蛮族の中の蛮族だ。

 うちの実家にも、どういうわけか当時の船が一隻、保管されている。ロングシップ。名前の通り、長く細い船体。ほぼ全長すべてに櫂が着けることができ、さらに前後対称。つまりは後退も簡単だ。方形帆が掛けられる帆柱も取り付けられるようで、その喫水の浅さから、遠洋から近海、岩礁地帯から、あるいは河口を遡って川を登ることだってできるだろうし、船着場を選ぶ必要もない。つまりは、どこでも行けて、どこでも襲える船である。

 およそ千年前。あの船に、オーベリソンに匹敵、あるいは凌駕する巨人を三十人程度詰め込んだものが、無数に押し寄せてきたのだ。実家の歴史でも、戦列艦とかフリゲート、どれだけ古くてもガレオン船ぐらいである。捕捉しづらい小型船で高速で近寄られ、斧を担いだ巨人に乗り込まれるなんて、船乗りの出身としては、お化けよりもずっと恐ろしい。

 でもこちとら、あのニコラ・ペルグランの血だ。冗談ひとつで、負けてなんかいられない。

「景気づけにウォークライ、やっちゃいますか?」

「おっ、いいですねぇ。でも、うちのは失伝しちゃいました。流石はペルグラン家だ。お詳しい」

竜骨ほねに刻まれてるって、やつですよ」

 そこまでで、ふたりで笑った。ラクロワや衛生救護班は、きょとんとしていた。船乗りどうしの、冗談合戦である。

「話を戻すと、けものなら、はぐれたやつを狙うはずだ」

「軍曹は、狩りの経験も?」

「幾らかね。この地は、広い牧草地があるから、その必要がない。羊や牛、山羊も飼える。山羊は乳が重宝しますよ。人の乳にだいぶ近いので、赤ん坊を育てるのに使えます。森なら豚で、肉だけでなく、茸も探せる。豊かな土地です」

「馬にもよさそうですよね。ただ、農業には不向きかな。標高がちょっと高すぎる。氷河が溶けた川や湖はあるから、水は豊富ですが、これも交易には使いづらい。鮭が戻ってくればいいでしょうが、どうだろう。でも、湖の鱒とかパーチでも十分、使えます。水質があえば、チョウザメも養殖できるかな?お隣の、セルヴァン閣下のご実家だと、黒鱸くろすずきの養殖が盛んなんですって」

「作物は、芋とか蕎麦になるのかな?野菜のほうがいいでしょう。キャベツ、レタス、セロリ、ブロッコリー、アスパラガスあたり。キャベツは発酵させれば、長く使える。あとは木、そのもの。林業だな。石材も良さそうだ。実際、このあたりの建物は、木と石の組み合わせ方が上手です」

「基本的には、地産地消。加工して価値を高めて、麓に売る。そうして、麓の麦とかを買うんですかね?」

「おふたりとも、何の話をされているんですか?」

 やはり、きょとんとした顔で、ドゥストが尋ねてきた。

 まんまるとして愛嬌たっぷりのお嬢さんだが、腕利きの看護師である。救命医療における生命のリレーの中では、その二番手を務める、生命維持と医療介護の要石だ。

 アンリが救い、ドゥストが繋ぐ。そうしてはじめて、ひとつの生命が、長らえられるのだ。

「おっと、また脱線しちまったみたいですよ。少尉殿」

「船乗りはどうしても、ものを売ることばかり考えちまいますよね。ここの美味しいものは何だろうね、って話です」

 そう言うと、ドゥストが体同様の丸い目をきらきらさせた。何しろ、食べるのが大好きなのである。連日、セルヴァンが築き上げた兵站線から送り届けられる各種特産品に、舌鼓を打っていた。女の子に言うのは失礼かもしれないが、見ていて気持ちのよくなるぐらい、楽しそうに食べてくれる。

「医療に目を向けるとすれば、サナトリウムが良さそうですね。実際に何件か、見かけているし」

「そうですね。結核、精神疾患など。日当たりも、空気もいいですから、きっと早く良くなります」

 気を使って、衛生救護班にもわかるように話を作ってみた。アンリが追っかけてきてくれた。

「デッサン中尉さまなら、やっぱり、絵ですよね?」

「そうだね、アンリ。この風景、そのものに価値がある。山々、丘陵、そして川や湖。どれもこれもが美しい。建物だって、さっき軍曹が言った通り、独特で、素晴らしい建築で、町並みが本当に綺麗だ。首都では絶対、見られないものばかり。つまりは観光だ。観光資源が、たくさんある」

 題材がそこら中にあるのが嬉しくて仕方ないのだろう。とにかく絵を描いては、そのあたりにいる子どもたちや、老人たちに手渡している。そうして皆、自分たちが、どれほど素敵な場所に住んでいるのかを見て、わあっと、声を上げていた。

「風景が人を呼ぶ。それを目一杯、もてなすんだ。ここに、やみつきにさせる。あるいは、ここに住まわせるぐらいに。人が増えれば、仕事が必要になるし、住む場所も必要になる。そうしてどんどん、やることが増える。経済が回るしくみが、できあがるってところだね。川や湖の話があったから、遊覧船とかもいいんじゃないかな?パント船以外にも、色んな船を使えると思うよ」

「やっぱり、絵を描く人の目線ってなぁ、すごいですね。もののひとつひとつじゃなく、全体を見ることができる」

 オーベリソンが、感嘆の声を上げた。

「伯爵閣下や、セルヴァン閣下のご一族は、きっと、この土地をよく観察して、発展させてきたんだろうね。人々は怯えているけれど、切欠を与えれば、すぐに立ち直れるよ。何度も危機を経験してきている。それを領主さまたちが先頭に立って、立て直してきた。それがここ、フォンブリューヌだ」

「立派な方々だ。山々という砦のお陰で、外敵からは身を守れる。その分、内に目を向けなければ、滅びが待っている。お互いに手を取り合い、助け合っていくしくみが、ちゃんと組み上がっている。人を育み、呼び、定着させるしくみも」

「私たちの故郷とは、本当に正反対。内陸の、穀倉地帯。四方はそれを羨む人ばかり」

「学ぶべき事柄は、学ぶべき場所にある。例え、人の上に立たなくとも、学ぶこと自体に、価値がある」

 アンリとオーベリソン。この二人だからこその、金言だった。何よりも尊く、そして重い言葉だった。

「さて、ペルグラン少尉殿は、船乗りという家柄から。デッサン中尉殿は、絵描きの目線から。そして俺やアンリは、狙われる穀倉地帯という、故郷の情勢からこの地を見た。ラクロワ少尉殿は、何を見るでしょうか?」

 突然に巨人から話を振られ、ラクロワの体が跳ねた。普段からオーベリソンの髭を結ってあげるなど、仲は良いのだが、現場と後方支援という立場の都合、仕事上の付き合いは少ない。

「道、でしょうか」

 突然、話をふられてびっくりしたのだろうか。震えた声で、それでも絞り出した。その隣りに、そっと、デッサンやアンリが控えてくれたのが、嬉しかった。

「首都からここまで、約二日。峠道は、馬車が交差できる所が少なかった。馬車の幅は、作る職人さんや、それを使う人の身分などによってまちまちで、規格化されていません。だから、交差の際に、外側になる馬車は、危険になります。馬車の幅を規格化するのもひとつですが、身分が絡む都合、法整備はきっと大変になる。それならば、道そのものを規格化、効率化する。それでもっと早く、安全にたどり着ける」

 どもりながら、それでも並べた言葉に、おお、と、デッサンが声を上げた。

「例えば、隧道ずいどうを掘るとか。あまり長いと、空気が悪くなるので、短く、細かに。それだけでもきっと、半日から、四半日は、短縮できるし、安全な交通ができると思います。私はここに来るのははじめてだし、馴染も薄いから、もしかしたらもっと、いい方法があるかもしれない」

 ぽつぽつと並べた言葉に、皆の顔が、綻んでいった。

「おそれいりました。こいつはきっと、ラクロワ少尉殿だからこそ、思い付けるものです。馴染みが薄く、はじめて来た。だから、道の不便さに気付いたんでしょうな」

「私やオーベリソン軍曹は、紛争地帯で育ったから、道はだいたい、荒れているか、壊れていた。そういう前提があります。ペルグラン少尉さまは、船乗りのお血筋だから、航路。もっと不便。本当に、ラクロワ少尉さまだからこその発想ですね」

「すごいや。僕はこの風景を変えたくない、そう思っちゃうから、道も風景のひとつとして見ていた。でも、交通の便が良くなれば、もっと身近な土地になる。半日も縮むんだったら、もっといっぱい、人が来るよ」

「よかったじゃん、ラクロワ。皆、褒めてる」

 皆で、ラクロワを褒めていった。そうして真っ赤になって、ありがとうしか言えなくなったあたり、四人、こっそりと目線を合わせて、しめしめ、といったふうにした。

 これこそが、ラクロワを、衛生救護班とデッサンとの民衆対応に伴った目的であり、ダンクルベールとセルヴァンから託された、極秘任務だ。つまりはラクロワの、司法警察局転属に向けての、花嫁修業である。

 同期三人。親と自分の都合で割り込んだペルグラン。憧れがあって、そのために道を切り拓いたガブリエリ。

 でも、ラクロワだけは違った。困った人を助けたい。でも何をやるのが一番なのか、わからない。人の勧めで士官学校に入り、成績優秀だったため、警察隊本部に配属された。

 ダンクルベールは、その素質をすぐに見抜いた。それこそが、セルヴァンの正統な後継者というものだ。後方支援の第一人者、セルヴァンへ嫁がせるために、まずは二課配属とし、現場を知り、現場の欲しいものを知るように教育する。そういう方針のようだった。

 困った人を助ける。これは、我らフォンブリューヌの地方豪族の行動原理、そのものだ。ラクロワ少尉を、私にする。そのための下地を、ダンクルベールの警察隊本部で作る。現場を知ったうえで、後方支援の何たるかを叩き込めば、あるいは私以上にもね。私の娘はまだ小さいが、バージンロードへの準備は、手間をかけるに越したことはないだろう?だから、娘ふたりを嫁がせた、ダンクルベールに託したわけさ。

 警察隊隊員としてのセルヴァンを作る。それも、ひとつにある。警察隊本部の内に、セルヴァンをこさえるんだ。司法警察局の庁舎に行くという手間ひとつ、省ける。ペルグラン。これは、お前やガブリエリが大きくなったあとのためにも、必要なことだ。お前たちは、誰に背中を預けたいか。俺はセルヴァンという恋女房を見つけた。司法警察局への花嫁として、そしてお前たちの許婚として、俺とセルヴァンで、ラクロワを育て上げてみせる。それが俺たちふたり、父親の役目だ。

 あのふたりが、ここまで評価しているのだ。後方支援の花嫁、ラクロワ。その素質が、この小さな体と、弱気な心に宿っている。

 自分とガブリエリの許嫁という表現だけは、ちょっと引っかかるけれど、ラクロワだったら、きっと安心して背中を任せられるだろう。あとは自身の才覚を、周りが自覚させていくだけだ。

 さっきまでのは、オーベリソン主体での即興劇だ。“錠前屋じょうまえや”筆頭下士官ともなれば、人の扱いも、会話の回し方も上手だ。デッサンもアンリも、上手く絡んだ。

「デッサン中尉殿は、お化けとかは、描くんですか?」

「そういうのはあまり。人と、風景。素描デッサンだからね」

「お化けとか、お伽噺とかは、人の心に根付いた、文化によるもの。風景に潜む、不思議だとか、こわいとか、そういうものへの気付きから、はじまります。信仰も、そのひとつ」

「つまりは、何を疑問に思うか、ですか?」

「そうさね、少尉殿。そのためには、色んなものを見なきゃあいけません」

「私、お化けがこわい。こわくて、震えたくなる。アンリさんは、どうして、こわくないのですか?」

 ラクロワの問いに、アンリは、ひときわに微笑んだ。

「お父さんが、いるから」

 そうして答えながら、オーベリソンを見た。

 少しして、オーベリソンの威容が、喜びと、また違うなにかに、濡れそうになっていた。

「ごめんな。その呼び方、まだ、慣れてなくてね。アンリ」

 このふたりに関して、ちょっとだけ、進展があった。本当の父娘おやこになったのだ。つまりは、アンリエット・チオリエ・オーベリソンに。

 オーベリソンは、優しい人だ。アンリも優しい人だ。ふたり、ほんとうの父と娘になって、幸せそうだった。

「そうだ、アンリ。木と石があるなら、あれができるな」

 気を紛らわせるようにしたのだろう。オーべリソンが、ちょっと張ったような声を出した。

「ああ、サウナ」

 答えたアンリは、嬉しそうな顔だった。

「お父さんの血の故郷の、蒸し風呂文化。私たちの故郷でも、育った教会に作ってもらったんです。水が少くっても、身を清められるんですよ」

 にこにことした様子で、アンリが説明してくれた。

 木で作った小さな掘っ立て小屋。その真中に、石を積んだストーブを置く。たったそれだけ。サウナという、蒸し風呂文化だ。ストーブで焼けた石に、たまに水をかけて温度を上げたり、温まった体のまま、川に飛び込んだりして楽しむらしい。特に冬の間は水が冷たく、確保もしづらいので、身を清めるのに重宝したそうだ。

「首都近郊だと、エルトゥールル式のハマムっていう蒸し風呂が多いんだけど、温度が低くって、ちょっと物足りないんですよねえ。あの、かっちんかちんに暑いの。懐かしいなあ。きっと受け入れられると思うから、セルヴァン局長閣下に具申してみようかな?」

「アンリさん、あれで物足りないんですか?十分、暑いじゃないですか」

「サウナは、乾燥してますからなあ。蒸気でなくって、熱の塊がどかんと来ますよ。冬なんかは、辛抱できなくなったまんま、雪ん中に飛び込むんでさあ。あれがたまんなくって」

「そうそう。それと、エバとイェシカが遠慮なくってね。ビョルンが先に入っているのに、素っ裸で乗り込んじゃうの。ビョルンったら、涙目になって飛び出てくるんです。それがもう本当、おかしくって」

 アンリ姉ちゃんの思い出し笑いに、オーベリソンが、恥ずかしそうに頭を掻きながらも、やっぱり笑っていた。

 エバとイェシカというのは、おそらくオーべリソンの娘ふたりだろう。そして末っ子長男のビョルン君。以前、お会いしたが、背の高い美少年である。とはいえ、まだまだ多感なお年頃。娘ふたりはペルグランと同じぐらいと聞いたから、たとえ姉のそれとはいえ、女性の裸体は目の毒だろう。ちょっと可愛そうでもあり、可愛い話でもある。

 でも、いいなあ、ビョルン君。お姉ちゃん、三人もいるだなんて。しかも、うちひとりは、アンリ姉ちゃんだもの。

 戻った時、ちょうど“錠前屋じょうまえや”の面々も、山狩から戻ってきていた。スーリの発案である、燻しである。ちょっとだけ脅かしをいれて、犯人を動かせるという寸法だ。犯人が人ならば、おれは獣じゃないぞと、神経を逆なでさせることができる。

 そうして燻り出したところを、捕らえる。

 衛生救護班は、中に戻した。アンリとラクロワは、残った。ちょっとした雑談のためだ。

 スーリも、戻っていた。燻した後の、町中の細かいところを、見てきたようだった。

「森は、無ぇな。小屋はそれなりあるが、全部、整ってた。人の血も見当たらない。獣のねぐらは、幾つかあった。掘ってはいないが、餌を埋めたらしいところも。きっと、熊だろうね。鉢合わせたら“こと”だったぜ」

 ゴフが、軽いめしなどを摂りながら、疲れた様子で漏らした。山の中を歩き回るのは、想像以上に体力を要する。

「熊なら、抵抗がなくなるまで叩きつけてから、首根っこを咥えて、持ち帰る。街に、痕跡が残るはずですな」

「町中は、アンリや画家先生の民衆対応もあって、綻んでる。そうやって、気が緩んでいるところを狙うのもありなんでね。点を置いた場所に、何人か潜ませときましょうぜ」

「精神科への通院歴がある人間は、探っているのかな?」

「地方小隊側に任せてるが、まだじゃねぇか?あとサナトリウムが何件かあるけど、皆そこまで、やばいやつじゃないってさ。まあ、どの程度かは、アルシェ大尉を引っ張ってこないと、うちらじゃあ、なんともだがな」

「犯人からの接触がない限りは、何も見えない。数だけが、増えていく。人心が、より乱れます。デッサン中尉殿の紙の枚数も、アンリさんの聖女の名前にも、限界はあります」

「あるいは“ロ・ロ”、“ふるいヒト”の見立て犯行とかは、どうでしょうか?里からはぐれて、森へ行く。招待状が、届いているとか」

「被害者の家宅捜索は、地方分隊の方で済んでいます。“ロ・ロ”の名が、“ロ・ロ”を呼ぶ。こっちもありえますが、地獄耳にも程がある」

「よっしゃ。一旦、ここまでだな。セルヴァン局長に報告しよう。休んで、次の行動を考えよう」

 そうやって、“錠前屋じょうまえや”たちの装備の片付けを手伝っていたときだったと思う。

 遠吠え。

 聞こえた。確かに、白昼の中。

 おそらくは、この古城の、上。ペルグランは、視線を上げた。きっと、それと同時。

 何かが、ぼとりと落ちてきた。

「見るんじゃない」

 そう吠えて、隣りにいたアンリに、オーベリソンの巨躯が覆いかぶさっていた。ペルグランも同じくして、隣りにいたラクロワに覆いかぶさった。デッサンだけは、その落ちてきたもののところに、駆け出していった。

 匂いが、予想以上だった。それで、何が落ちてきたかは、見る前でも、わかってしまっていた。

 表面が崩れかけた、おそらくは、女の。腹は裂け、中身はほとんど無い。一部、骨も見えている。顔と思われる部分は、もはや何がどうなっているか、わからなかった。

 すぐに、周りにいた“錠前屋じょうまえや”たちが、それを取り囲んだ。そうやってその姿が人だかりで見えなくなってから、ラクロワから離れた。オーベリソンも、同じように。

「ラクロワ。見てないよな?見たら、駄目だからな」

 首肯したが、震えていた。おそらく何かは、気付いたのだろう。その顔は、真っ青だった。

「いいか、ラクロワ。頭の中のものを、膨らませちゃ駄目だ。泣くなり、叫ぶなりして、頭の中のものを、出し切れ」

「お父さん、ペルグラン少尉さま。あれは、もしかして」

 アンリも、混乱した様子だった。こちらもきっと、気付いてしまっている。前に出ようとするのを、オーベリソンが、必死に抑えていた。

「駄目です。軍曹、ふたりをお願いします」

「おうさ。絶対、見るなよ」

 オーべリソンが、半ば無理やり、小柄なふたりを担ぎ上げた。それをみとめてから、ペルグランはまず、上を見やった。何処かにまだ、いるかもしれない。

 城の上には、既にスーリが登っていた。確かに、何かがいる。陽を背にして、影のみが浮き彫りになっていた。そうしてすぐに、何処かへ消えた。

 スーリが追いかけていく。ルキエも既に、駆け出しているようだ。

 汚れてもいいような一室を借りて、改めて、ムッシュがそれを診ることになった。

 アンリも、毅然とした表情で、大丈夫。その一言だけ言って、部屋に入っていく。自分も少し遅れて、入った。中には既に、ダンクルベールもいた。

「食べられていますな。人の歯型だ。それに、暴行も。直接の死因は、脳挫傷か、頭蓋骨の陥没か。頭を真正面から、石か何かにぶつけられている。順番としては、犯して、頭を叩きつけて、食べる。食べられてるのは、主に中身。肝とか、肺、心臓かね。あとは全部、棄ててるのかな?」

 顔を歪ませながら、ムッシュが並べていく。

「土に埋めています。蛆や、他の虫。ただ、土そのものでこなれる、というところまでは、行っていない。今までのうち、中盤あたりの犠牲者でしょうか」

 思った以上に、アンリは冷静だった。

 位置を変え、それの足を開いた。

「入口も、通り道も、ずたずたです。無理やりに、されています。肌の状態は悪いですが、吸い跡や、噛み跡はない。発散するためのものとしてしか、見ていない」

「アンリさん。どうか、無理をしないで下さい」

「お父さんと少尉さまに、準備をするための時間をいただきましたから」

 脂汗。目に、少しだけ涙を浮かべながら、アンリが微笑んだ。それを聞いて、嬉しくなったと同時に、ほっとした。

「相手は人だということは、これでわかった。女を、そういうものとして見ている。化け物でも、人でなしでもない。化け物みたいなやつ、ではあるが」

 ダンクルベールが、難しそうな顔でこぼした。

 婦女暴行、殺人、食人、死体遺棄と、倫理観を無視した行為が目白押しである。本寸法以上の、猟奇殺人だ。

 燻しに効果があった。ただ、相手の神経を逆撫でたのはいいが、その反応は予想以上だった。

 でもこれで、足がかりは作れた。階段の何歩分かは、進められる。

「腹は、どう裂いている?わかればでいい」

「なんともですな。ただ、刃物にしても、鋭いものではないと思います。噛んだり、何かを刺したりして、取っ掛かりを作って、広げたのかな?」

 ムッシュの顔も、汗塗れである。死と長く向き合ってきたとはいえ、これほどのものは、はじめてかもしれない。

「むう、いかん。目が、きつくなってきた」

「ムッシュも、無理をなさらず。今、清めるものとかを用意させます」

「すまんな、ペルグラン。よし、休憩。外に出て、空気を吸ってこよう」

 ペルグランは、ぱっと部屋から出た。衛生救護班に、温めた布や、いくらか飲み物を用意するよう、頼んだ。

 それと併せて、やっておきたいことがあった。

 離れた個室。泣き叫ぶ声。中に入った。

 ラクロワ。かがみ込み、頭を抱えながら。側にいるオーベリソンの様子は、心配も見えるが、穏やかだった。

「ラクロワ。俺だ。ペルグランだよ」

 近寄り、顔を覗き込んだ。それで、叫ぶのを、やめた。

 泣いてはいたが、眼は、しっかりしていた。

「ペルグランくんの、言ったとおりにした。大丈夫」

「頭の中のものは、まだ、膨らんでる?」

 何も言わず、首を振った。

「よかった。そのまま、気が済むまで、発散しよう」

 思わず、頬が緩んでしまった。

「こいつぁ、いい方法ですな。少尉殿」

「俺も新任少尉の頃、大変でしたから。その中で編み出したものです。もうちょっとだけ、お願いしてもいいですか?」

「勿論、お任せあれ」

 オーベリソンが、どん、と、胸を鳴らした。やはり守りに強い、頼もしい人だ。

 司法解剖をやっていた部屋の前に戻ると、人が増えていた。スーリとルキエだ。ふたりとも、大汗をかいてへたり込んでいる。ドゥストが隣りにいて、世話をしていた。

「いやあ、あんなの無理ですよ、隊長。速いのなんのって」

「まずはお疲れさんだ。ふたりで無理なら、誰だって無理だろうさ」

 ゴフが、優しく声を掛けていた。

 そのあたりで、外に出ていたダンクルベールたちも、戻ってきた。ムッシュとアンリも、落ち着いている。

「よくやってくれた。話すのは、落ち着いてからでいい」

「もう、速いも速い。土地にも慣れてる。がんがんかき回されて、最後には運河にどぼん。影しか見えなんだや」

「スーリもあたしも、泳ぐのは得意じゃないからさ。ペルグラン坊っちゃんならいけただろうけど、そもそも追いつけねえって、あれ」

「土地にも慣れてる、が収穫だな。運河も使えるなら、町の構造もちゃんと把握している。人に紛れることも、あるいはな」

 そう言って、ダンクルベールが近くの椅子に腰掛けた。

「若い娘だけ狙うのは、情欲の発散と、食料の確保が、両方、行えるからでしょうか?」

「人、いや、他の生き物を、めしとしているのが先にあって、情欲が後ろ。もしかしたら先に、殺してから犯しているのもあるかもしれん。それが、あまりよくなかった。だから、犯してから殺すほうに変えた。そちらのほうが、満足できるから」

 ペルグランが言い切る前に、それははじまっていた。瞼を閉じて、小声で。

 即興アドリブの見立て。

「埋めていたのを、掘り起こした。それを投げて寄越した。怒っている。縄張りに踏み込んだ。最初は見ていただけだが、入ってはいけないところに入った。燻し。山。そこが寝ぐら。情欲が出て、縄張りが広まっている」

 少しして、目が開いた。海の色。

「ルキエ。服は、着ていたよな?」

「着てました。ぼろ切れというか、ばっちい感じです」

「よし。それも収穫だ」

「長官、もしかして」

「見えてきたぞ。まずはセルヴァンに会う」

「もう、来ている」

 セルヴァン。そして、“錠前屋じょうまえや”の面々や、デッサンもいる。

 セルヴァンは、震えていた。そして、青ざめていた。

 お伽噺に伝わる“ロ・ロ”、あるいは“ふるいヒト”が、眼の前に現れた。それが人であることは、まだ伝えていない。だからきっと、もしかしたら、それが人でなしかもしれない。その恐怖が、あるのかも知れない。第二の、ガンズビュールと。

 ただその目は、揺らぐことなく、燃えていた。

「なあ、ダンクルベール。ひとつだけ、頼みたい」

「何だ?」

「指導、一回」

 その言葉に、一同が唖然とした。

 ただダンクルベールだけは、悠然と、その前に歩を進めた。それをみとめて、セルヴァンは、眼鏡を外し、じっと、ダンクルベールを見据えていた。

「ジルベール・クリストフ・ドゥ・セルヴァン少将。姿勢、正せ」

 静かだが、通る声。思わず、聞いている全員の背筋が伸びていた。

「指導、一回。用意」

「はっ」

 その声は、震えていなかった。

「指導」

 甲高い音。美貌が、軽くだけ、ぶれた。

「深呼吸、三回の後、聞く姿勢。用意」

 言われた通り、セルヴァンが、大きく息を吸った。見ているこっちも、思わず、深呼吸をしていた。

 ダンクルベール。少しの間を置いて、セルヴァンの肩に、その大きな手のひらを置いた。

「おかえり」

 優しい言葉。

 思わずセルヴァンも、はにかんでいた。

「以上。指導、終わり」

「ありがとうございました」

 聞き馴染みのある、凛々しい声だった。

 不思議な光景だった。少将が中佐に指導を受け、礼をしている。心の中が対等だから、きっとそれが、できるのだろう。このふたりだけの、関係だからこそ。

 それだけ長く、そして強く、繋がってきた。

 顔を上げたセルヴァンの頬は、少しだけ、赤くなっていた。アンリが、駆け寄っていた。音を聞く限り、軽く叩いたはずだった。

 それで、戻っていた。いつものセルヴァンの顔だった。司法警察局局長の。縁のの力持ちの。

「私も、軍人だな。これが一番、すっきりする」

「無茶はさせんでくれ。無茶も、しないでくれ。貴様はよく、それをするからな」

「あのころからずっと、臆病者なんだ。無茶をしなければ、前にも進めん」

 ふたり、少しだけ笑った。

 “ロ・ロ”は、人でなしではなかった。人だった。

「貴様と、ベイロン閣下。見通しが立った」

「すぐに準備する」

「ペルグラン。来れるか?」

「はい」

「あえてもう一度聞く。ペルグラン、来れるか?」

 何故それを、聞いたのか。

 ダンクルベールの目を見た。セルヴァンの体に出ていたものが、目に宿っていた。

 怯えと、迷い。

 見立ては立った。それが、正しいのか。あるいは、当たってほしくないのか。

「思ったことを、思ったままに。申し上げます」

 迷いが伝染るのがこわくて、あえて声を張り上げた。

 奮い立たせろ。この人を、支えるために。言い聞かせた。

「長官も、お覚悟を決めたくて、聞いたんですよね?」

 ダンクルベール。ペルグランの言葉に、静かに、それでも苦しそうな表情になっていった。

「よく、できました」

 そう言って、肩を軽く、叩いてくれた。

 何を、見たのだろうか。きっと、恐ろしいもの。得体の知れない、恐ろしい、何か。

 あるいは、あの人でなしより、恐ろしいものを。

 着いてきなさい。そう言って、ダンクルベールは、踵を返した。少しだけ、背中が小さく見えた。 

 個室。セルヴァンとベイロンが、立ったまま、待ち構えていた。

「まずはお話をする前に、捜査本部長、ならびに伯爵閣下に対し、おそらく、相当以上の無礼を申し上げることになる点のみ、予めのお詫びを申し上げます」

「それほどの、内容というわけかね?」

「本官もまだ、自身はありません。思いついたはいいが、受け入れがたい」

 あくまで毅然と、きっと作り込んだ、いつもの声。

「ひとつだけ、質問をさせていただきたい。この近隣において、貧民。もっと言えば、乞食がどれだけいるか、把握されておりますでしょうか?」

 スーリたちが見た姿。ぼろを着た、人。つまり、乞食。

「ほとんどいない。そのための、我々であり、我々が築いてきた、しくみがあり、それが動いている」

 その言葉には、幾らかの苛立ちが含まれているように思えた。そうならないよう、ここに根ざす人達は、戦い、培ってきたのだろうから。

「ベイロン閣下に代わり、補足する。働く者こそ良く食うべき。我々、地方豪族の原則に則り、誰であれ、めしを与え、職を授ける。そういう教育を、子どもたちにもしている。そういうものを見たら、各種行政機関、あるいは領主の居住地へ案内するように、教えてきている。人が育み、人を育てる。そういうしくみを、築いてきた」

 セルヴァンは、いつも通りだった。

 それを聞いて、一拍置いた。ダンクルベールが、背筋を伸ばす。

「犯人は、やはり人です。乞食に化けています」

 ここまでは、範囲内。セルヴァンも自分も、そう、捉えていた。ベイロンのみ、些かの動揺が見られた。

「しくみを、悪用している。手を差し伸べるもののうち、気に入ったものを拐います。そのために、街の作りや、どこに人が集まるか、そしてしくみ自体も、調べている。おそらくはかなりの、時間を掛けている。知能が高い。ただ、それ以外のものが、ない」

 そう言って、一息入れた。その姿には、やはり迷いが見えた。それを察すれるようになった自分に嬉しさを感じたのが半分と、その迷いが何から生じるのか、こわさが、半分。

 たった、一言だけだった。

 全員が、固まった。到底、受け入れがたい見立てだった。自分の当てずっぽうのほうが、きっと、まだましだろう。

 だが、確かに、しっくりきた。

「有り得る話では、あるのだがね」

 ベイロン。絞り出すような、震える声だった。

「ご無礼は、平に」

「我々の落ち度だ。気にする必要はない。気に病む必要も」

 そういってベイロンは、近くの椅子に座り込んでしまった。しゅんとしてしまった。つらそうな、顔だった。

 自分たちのしくみの中から、いてはいけないものが、産まれてしまった。その自責の念から、来るものだろう。

 セルヴァンの顔。同じように、苦悶の表情だった。

「それで、これからは?」

 それでも毅然と、セルヴァンが発言した。ダンクルベールも、自分の出した言葉に恐ろしさが来たのだろう。困惑した表情だった。

「正直に、自身がない。見立てが合っているかも、合っている場合、どうすべきかも」

 震えた声だった。

「一両日、時間を頂戴したい」

 それだけ言って、ダンクルベールは、踵を返した。

 ペルグランは、動けなかった。ダンクルベールひとりだけ、動いていた。

 退室ぎわ。ダンクルベールの声が、本当に小さな呟きが、聞こえた。

 誰かの名前のような、そんな気がした。


4.


 見立てが立った。ただ、自信が無かった。“あし”の速達であれ、ここから往復三日。それでは、被害が増える可能性もある。なるべく早く、突き止めなければならない。

 答え合わせを、したかった。

 試したかったことでもある。あれは、こちらがどこにいるかを知っている。何かしらを鍵に、ダンクルベールや他の者たちの前に現れる。

 なら、呼ぶこともできるはずだ。

 ダンクルベールに、神通力じんつうりきの持ち合わせなど、勿論無い。だが、向こうはそれを察すれるはずだ。

 それだけ長く、築き合い、確かめ合ってきたのだから。

「おまたせ。待った?」

 瞼を開けたとき、卓の正面には、あかい女が座っていた。

 あかき瞳の、シェラドゥルーガ。

「それほどでも。便利なものだな」

「お前の頼みとあれば、是非にでも」

「早速、仕事の話になるが、いいか?」

「勿論。調査資料など、五分もあれば読み込める」

 雰囲気は、汲んでくれていたようだった。いつもの冗談めかしたやり取りもなく、本題に移れた。

 紙一枚、渡した。

「合っていると思う」

 しばらくして、そう言いながら目を合わせてきた。少しだけ、困惑の色がある。

「で、喰えと?」

「いや、答え合わせだけだ。自信が、無かった」

 シェラドゥルーガは、大きく息を吐いた。どこか、安心したようにも思えた。

「喰えと言われたなら、お前を見捨てた」

 ひどく冷淡な口調だった。

「つまりは、昔の私のようなものだ。それを喰うとなるならば、どうしても、昔を思い出してしまうからね。思い出は輝かしいものだろうが、恥にもなりうる」

「それを俺に言われると、少しな」

「ああ、悪気は無くてよ?我が愛しき人」

 それで、ちょっとだけ、笑ってくれた。自分もそうだが、向こうも何かと、色々あったに違いない。長生きをすると、そういうことも、幾つかはある。

「で。これ、どうすんだ?」

 それが、何よりの懸念だった。

 見立てもそうだが、解決策が少なすぎる。

「法では裁けん。人には、見せられん。特に、ここの人達にとっては、酷な存在だ。だから、殺すしかない」

「殺せるやつは?」

「俺か、スーリ。あるいは、今、来てもらっているが」

 一呼吸。ほんの一呼吸だけ、置いた。

「ジスカール。悪入道あくにゅうどう。その、二代目だ」

 見立てができ次第、“あし”を速達で送っていた。

 “あし”の一部であり、首都近郊の裏社会のまとめ役。悪入道あくにゅうどうリシュリューⅡ世ことジスカール。悪党の中の悪党。そして、恩の貸し借りもある程度には、理解者でもある。

「いやな名前。継がせたとは聞いていたが、本当にやるとは」

 シェラドゥルーガは、心底に嫌そうな顔をしていた。

 初代、悪入道あくにゅうどうことリシュリューは、あるいはシェラドゥルーガを凌駕しうるその頭脳を、神通力じんつうりきと称するほどの、宗教家であり、大学者であり、闇の謀略家だった。頭を使えれば、何でもいいのだろう。神学論争を楽しみ、暦のずれを直し、そして人を貶め、争わせる。

 何度もシェラドゥルーガとともに挑み、何度も囚えては、何度も逃がした。終身刑確実の証拠も揃えたところで、最高裁で逆転無罪。あるいは判決確定後に、ヴァーヌ聖教教皇の名で恩赦が与えられ放免。そんなことを、やってのけた男である。

 自分にとっても嫌な思い出ばかりだが、大人物であることには、変わりなかった。

「あの爺さんの隣りによくいた、顔の怖いやつだろ?いつだかの司祭の罠に引っかかった、お間抜けさんだ」

「あまり言ってやらんでくれ。あいつなりの、事情がある」

「それもわかる。ただ、それを行動原理にするのは気が知れん、というだけだ。だがまあ、人選としては適切かな。裏で、長く生きてきた。その上で、倫理と道徳を弁えているからこそ、どこまでも冷酷になれる」

「そうだ。スーリは凄腕だが、心が強い。ムッシュと同じだ。だからこそ、揺り動かされる。あれは、それがない。正気のまま、人が殺せる。そういうやつだ」

「悪党。あるいは、任侠だからかね」

 シェラドゥルーガは、重たそうに、その美しい瞼を閉じた。そうしてしばらく、もの思いにふけるようにしていた。

「お前さあ。よくこれ、たどり着いたよね?」

「辿り着いたが、やはり自信がない。異例中の異例だ」

「だろうな。話にしか、聞いたことがない。ここまで、育ち、ねじれたやつも」

 そこまで言ったシェラドゥルーガは、虚しそうな顔で、ため息を付いた。何か、思うところがあるようだった。

「いるんだねえ」

「いるんだろうな」

 そこまで言って、とりあえずで用意したワインを注いだ。品種も銘柄もよくわからないが、文句ひとつ言わず、口を付けてくれた。自分の酒も用意したが、やはりふたりとも、あまり進まなかった。

 その答えを受け入れるには、やはり、自信がなかった。

 求めているものが到着したのは、翌日の昼だった。

 警察隊本部隊員と同じ装束の、威容、としか表現できない男。眉が薄く、彫りが深い。迫力のある人相。馬に乗って現れたそれは、戦場が剣と弓の時代の将軍のようでもある。

 悪入道あくにゅうどう、リシュリューⅡ世。その名を、ジスカール。

「手を煩わせる。すまんな」

「いいさ。話は聞いた。俺が適任だろう」

 堂々とした居住まいに相応しい、厳かで、静かな声。

 裏の人間であり、何度も戦ったが、何度も手を取った。信用はできないが、信頼はできる。そういう男。

 “一家”の稼ぎは、法すれすれ、あるいは法の下に収まる範囲であり、何より、貧しい者たちに仕事を与え、理不尽の前に立ちはだかる救済者であり、守護者でもあった。

 自分も貧しい家の生まれだから、その在り方に憧れがあったのかもしれない。

 ジスカールという名は、おそらくは偽名だろう。人相や口調から、そう感じ取っていた。もっと北東。おそらくは、平原の北にあるという、枯れた国。

 過去については、語り合うことはしなかった。そこは、同じ悪党である、アキャールと同様である。在り方は異なるが、同じく友だちとして、接することができる男だった。

「そこの人は、殺し屋さんかい?それも、もと殺し屋だ」

「大当たりだよ、やくざ屋さん」

「あんたはやめときな。やれば、戻るぞ」

 その言葉に、スーリに若干の怯えが見えた。

 生粋の悪党。それだからこそ、殺しの恐ろしさも知っている。そしてそれを、克服するなり、折り合いを付けるなりができている。

 人の家に、堂々と正面から乗り込んで、人を殺せる。そしてその帰りに、普通にめしが食える。そういう男だ。スーリは、生きるために殺した。心を殺してでしか、殺せない。

「“あし”に場所を掴ませている。見ないほうがいい、とも、言われたよ」

「なら、なおさら、俺だな」

 ジスカールは胸元から、自分の使っているものと同じ型のパーカッション・リボルバーをちらつかせた。あまり道具にこだわりはないはずだが、あえて合わせてきたのだろう。

 手柄を寄越すつもりか。自分の姿を隠すつもりか。

 山林の中は、恐ろしく静かだった。自分たちの足音と、後は烏とか、何かの鳥の鳴き声ぐらい。奥に進むに連れ、それは強くなった。

 ここは縄張り。そいつの、聖域。だから誰も、近づけなかった。そこに踏み入ったから、あの残りかすを投げて寄越したのだ。こうなるぞ、という、警告。

 そして時期が来て、狩り場が広がった。人里にまで。

 何かがいた。背を向けて、かがんでいる。

 誰かが、何かを、食べていた。むしゃぶりつく音。いくらか近づいたところで、それは振り向いた。

 目が、澄んでいた。動物のそれと、同じように。

 若い男。痩せているが、筋肉はしっかりとついている。髪は何かで切っているのだろうか、思ったより長くはない。髭も、同じように目立たない。そしてやはり、何も着ていない。白い肌の、全裸だった。不思議と汚れていない。山の闇の中、その輪郭が、くっきりと浮き上がっていた。

 顔つき。子どもより、子どものよう。そうとしか、表現できない。そのぐらい、あどけなく、幼かった。

 奥に横たわっているものを食べていたのだろう。頬が膨らむぐらいに何かを含み、口の周りを血や脂でべたつかせながら、澄んだ大きな瞳で、じっと、こちらを見ていた。

 おそらくその姿に、何かを重ねてしまっていた。

「当たっちまったな」

 ジスカールの声は、いつも通りだった。

 ナイフを用意したスーリを手で制し、ずいと前に出た。懐から、パーカッション・リボルバーを取り出す。男が、唸り声を上げ、四つん這いで近づいてくる。けものの警戒のしかただった。

 破裂音。続けて、二発。それで、動かなくなった。

「あんちゃん。それ、貸しな」

 ジスカールが、スーリに促し、ナイフを手渡す。その手を掴み、手の甲に浅く、傷を入れた。ほんの少しだけ、血が滲んだ。ダンクルベールの手も取って、同じことをしてきた。

 血は滲む程度だったが、いやなものが、同じように滲んだ。

「確保の際に抵抗し、隊員に傷害を負わせたため、銃殺。それでいいだろう?」

 その間ずっと、動けなかった。

 男。十代半ばから後半。教養も道徳もない。知能は高い。手段として、輪の中に入ることはできる。サディスト、あるいは、捕食者。被害者は、情欲の対象であり、食欲の対象でもある。繁殖本能から情欲が産まれるということを理解しておらず、その教育も受けていない。

 つまりは、野生児。それこそ、お伽噺の存在。

 見立てが当たった。信じたくはなかった。当たってほしくも、なかった。

 だからこそ、動けなかった。

 やはりジスカールは平然と、背を伸ばして、首を捻ったりしていた。眠らずに、早馬で駆けつけてくれたのか、あくびまでしていた。

「帰ろうや、ダンクルベール」

「そうだな」

 紙巻を、咥えた。きっとその手は、震えていたのだろう。マッチが上手く、擦れなかった。

 横から、火が灯される。ジスカールだった。同じように、胸元から紙巻を取り出す。

「それでいいんだよ、ダンクルベール。法の下、理の下で生きる。それが本来の在り方だ。そしてお前たちは、それを司り、それをもって裁くものでもある。それも、正しい」

 ジスカールの言葉は、どこまでも落ち着いていた。

「だからお前は、そしてお前たちは、これを殺してはいけない。これを殺すのは、法の外、そして、理の外にいる、俺のような連中の仕事だ」

 真っ直ぐな目だった。それから、去っていった。

 スーリとふたり、ふたつの骸の前で、しばらく、立ち尽くしたままだった。


-----

ロ・ロは何処。ロ・ロは何処。

森へと帰り、夜が来る。

ロ・ロは此処。ロ・ロは此処。

朝へと巡り、森となる。


ロ・ロは其処。ロ・ロは何処。

山へと昇り、鳥となる。

ロ・ロは何処。ロ・ロは此処。

里へと下り、人となる。


ふるいロ・ロ。今のヒト。

ふるいヒト。今のロ・ロ。

-----


5.


 あの後、熱が出て、何日か寝込んだ。

 少し重めの、風邪だそうだ。ムッシュに診てもらって、薬を貰った。日に何人か、部下たちが様子を見に来てくれる。

 特にアルシェは近所だということもあり、妻であるサラと一緒に、何度も面倒を見てくれた。酷薄な拷問官、あるいは謀略家としての印象が強いが、仕事と家庭ではまるっきり別人であり、よき夫、よき父親である。サラの郷里であるフォンブリューヌで出会い、前職でこちらに来るにあたり、時期が悪く、サラをひどい育児疲れに追い込んでしまったことがあるらしい。そのため、自分から家事育児を率先してやっているそうで、来る度に、慣れた手つきで掃除や洗濯、料理までこなして、二日分ぐらいの作りおきまで残してくれた。

 二課課長、ビアトリクスも、何度も来てくれた。優秀な女軍警であり、卓越した指揮官であるが、こちらはアルシェとは反対に、まるっきり家事ができない、仕事人間だった。それでも話をしてくれたり、ある程度のものを置いていってくれる。

 そして毎晩、アンリやルキエが来て、病状を診てくれて、励ましてくれた。

「フォンブリューヌからこっちに戻って、気温差とかでやられたんでしょう。お薬もあるし、もう熱も落ち着いてるみたいだから、あと二日ぐらいで、元気になるわよ」

 ペルグランが気を使って、娘ふたりにも伝えてくれたようだった。今日の朝、ふたりとも駆けつけてくれた。

「すまんなあ。リリィ、キティ」

「大丈夫よ。久しぶりのこっちだもん。遊びに来たついでだと思って、気楽にやるわよ。掃除も洗濯も、綺麗にできてるし。あとは本当に、お父さんだけね」

 リリアーヌとキトリー。ふたりとも、もうお母さんだった。そしてふたりとも、子どもはふたりずつ。

 男手ひとつで育てたが、素直に育った。幼い頃に見た母親の姿にそっくりで、背が高く、目鼻が整って、褐色の肌も、幾らか青の透ける黒い髪も、父祖たる砂漠と大河の血を色濃く残した、別嬪になってくれた。

 リリアーヌは情熱的なロマンチスト。ひとつ下のキトリーは、恬淡としたリアリスト。正反対だったが、大人になっても、仲はとても良かった。

 拐われたすべての被害者は、死んでいた。あのあたりの土の中から、いずれもひどい状態で見つかった。

 検死の必要はないと、アンリとムッシュに伝えた。数は合っていた。地方分隊には、身元確認は不要、火で清めて返してやれとだけ、命じた。

 子どもたちのあんな姿を、家族には、見せられなかった。

 誰も、助けられなかった。

 首を括るやつが、何人か出るだろう。あの後、ジスカールから、そういうことを言われた。それも、その通りになった。何人かの女が、首を括るなり、手首を斬るなりして死んでいた。そういう経験をしたからこそ、苛まれ、それしか選択肢が無くなったのだろう。

 人を助けるしくみ、人を育むしくみがあったからこそ、時間が立てば経つほど、業が、罪が、あるいは悲しみが、浮き彫りになる。

 “ロ・ロ”は確かに、復讐者だった。人に対して突きつけられた、その人の歩んできた道。人の記憶から追いやられ、山へ移り、森から現れ、心を拐う、復讐する歴史。

 “ふるいヒト”。その名の通り、過去から蘇る、鮮やかなおもかげ

 そしてそれを、自分の内に潜むおもかげに、重ねてしまった。

 赤ん坊。あれの腹の中にいたはずの、子ども。

 腹が膨らみを見せはじめたとき、あれは姿を消した。そして、浜に上がった。知らない男と、ふたりで。

 でも自分には、三人に見えていた。

 捜査官ではなく、死亡者の配偶者として、あの場にいた。後ほど、事案報告書を読んだ。諸々の話を、聞いた。“あし”も使った。

 結果はすべて、同じだった。

 あれの腹にいたものは、流れた。それが、事実だった。

 それでよかった。あの場に三人目なんかいなかった。

 だが心はいつの間にか、真実を作り上げていた。あれと同じ、白い肌の女の子。それがいれば、あれを幸せにできていた。あれを、ひとりぼっちから救い出せた。ずっと憧れていた、幸せな家庭になれていた。

 それを見抜いたのは、ただひとり。シェラドゥルーガ、いや、パトリシアだった。

 ガンズビュール。疑っていた。それでも、愛を告白してくれた、ただひとりの女性。

 だからこそ、吐き出した。作り上げ、心のなかで腐りはじめていた真実を。

 それでようやく、あのこは眠ったはずだった。

 あの“ロ・ロ”は、それを蘇らせた。あるいは、あの赤ん坊は、自分の中で“ロ・ロ”になってしまった。

 撤収の前日、もう一度シェラドゥルーガを呼んだ。終わったこと。見立てが当たったこと。そして、作り上げたものが蘇ったこと。“ロ・ロ”として、あの森の中で、あの山の中で生きているということを、吐き出した。

 我が愛しき人。まだそれ、残ってたの?

 シェラドゥルーガは、いや、あかい瞳をしたパトリシアは、泣いていた。美しい顔が崩れるほどに。きっと自分も、涙を流していたと思う。ふたり、静かに抱きしめ合っていた。

 自分の傷を見つけてくれて、ふたりのものにしてくれた、パトリシア・ドゥ・ボドリエール。紫があかに変わっても、それは変わらなかった。

 “ロ・ロ”の名は、幾つもの“ロ・ロ”を呼んでいた。心のなかに埋めたものを掘り起こし、到底耐えられないかたちで突きつけてきた。

 あの山は、そういう山だったのだ。法の外、理の外の世界。あるいはもしかしたら、第二、第三の存在が、潜んでいるかもしれない。それがあるいは、いにしえからいたのかもしれず、“ロ・ロ”だとか、“ふるいヒト”だとか、そう呼ばれてきたのかもしれない。

 未だ、何かがいる。得体の知れない、恐ろしい何かが。

「なあ。リリィ、キティ」

 不意に、聞きたくなった。

「俺は、良い親だっただろうか?」

 いつだって、それがわからなかった。

 ひとりで、そして色んな人の手を借りて、育て上げた。良縁に嫁いだ。母親になった。

 自分は親だったが、夫にはなれなかった。だからいつも、わだかまっていたものが、澱んでいたものがあった。

 ふたり、顔を見合わせたあと、表情を変えず、またこちらに向いた。綺麗な顔だった。

「わかんないわよ」

 リリアーヌだった。思わず、きょとんとしてしまった。

「それ、実際に親をやりきってからでしか、わからないことでしょ?私はようやく、親になったって、実感が湧きはじめたぐらいだから、わかんない。キティもそうでしょう?」

「そうねえ。うちもふたり、育ててるけど、まあ大変。良し悪しは決めれないけど、お父さんの気持ちはすっごくわかるようになったわ。姉さんところもふたりだから、きっとそうよね?朝から晩まで、ほんと戦場。今日はいい気休めって感じだわ。熱出してくれて本当、ありがと。お父さん」

 キトリーは、やはり恬淡というか、冷淡ですらあった。

 唖然としすぎたのか、わだかまっていたものが、どこかに行ってしまった。

「母親については、ふたりで何度も話をして、折り合いが付いてるし。なにより、シャルロットおばさまとかに良くしてもらったから、きっとそれ以上に、いい環境だったのかもしれないわね」

「おばさま、本当に優しい方だからねえ。今日も来るとき、四人、預かってもらっちゃった」

 キトリーの言葉に、思わず動転していた。

「ちょっと待て。聞いていないぞ。ブロスキ男爵閣下に世話させる気か?」

「喜んでやってくれるわよ?おばさまとふたり、たまに家に遊びに来るの。おもちゃとかお菓子とか貰っちゃって。お返しすると、また倍になって返ってくるのよねえ。おじさま、本当に見栄っ張りで、楽しいお方で」

「あのおふたり、お子さまがいらっしゃらないから、余計に可愛いのかしらね。子どもたち以上に、はしゃいじゃってさ。びくびくしてるは、うちの旦那だけ。あいつ、いちいち肝が小さいんだからさあ」

 そう言ってふたり、けらけら笑っていた。

 ブロスキ男爵夫人シャルロットは本当に心優しい人で、あれが失踪したと知った途端、家に飛んできて、手伝いをさせてくれと頼まれたほどだった。

 だから、甘えた。マレンツィオもいやな顔ひとつせず、ふたりの面倒を見てくれた。色んなところにも連れて行ってくれた。

 娘たちにとっては、あのふたりは、もうひとつの父と母でもあった。だから自分たちの子どもも、孫を会わせに行ったり、預けたりする感覚でいる。

 とはいえ、何と言っても天下御免のブロスキ男爵家。粗相があったらどうする気なのか。

「特におじさまは本当に嬉しがってくれて。あの通り、体が大きい方だから、子どもたちも面白がって飛びついてるわよ。角力かくりきさんだって言ってね。おじさんもおじさんで、角力かくりきさんだぞって、もう大騒ぎ」

「なら、いいんだが。くれぐれも失礼の無いようにな?」

 それだけは言っておいた。

 マレンツィオ夫妻。ふたりとも口を揃えて、自分が子どもができにくい体質だから。そう言っていた。表情から読み取ってしまったが、おそらくはシャルロットのほうだろう。だが見栄っ張りで愛妻家のマレンツィオのことだから、愛する人だけに恥はかかせられないと、一緒に悲しみを背負うことにしたのだろう。

 確か、自分とほぼ、同じぐらいの歳である。養子の話も、全部断ったらしい。お互いがいれば、それでいい。ふたりとも、笑いながら言っていた。それを決められる相手がいる。それが本当に微笑ましく、そして、羨ましかった。

 天下御免。栄光のブロスキ男爵マレンツィオ家は、あのひとで終わる。確か、きょうだいはいたはずだったが、直系は途絶えることになる。

 あのひとは、それを望んで、選んだ。

「ほら。人は育てなきゃ育たない、だっけ?ウトマンさんにも言ってたやつ。結局、それじゃない?私たちは、お父さんと、周りの皆に、育ててもらった。だから育った。それだけ。良し悪しまでは、わかんない。それじゃ、駄目?」

「そうなのかな。それで、いいのかな」

「久しぶりに体壊して、弱気になってるだけよ。ほら。寝台直すから、一旦、動いて」

 娘ふたりの言葉に、心を委ねることにした。それだけできっと、楽になれるだろうから。

「おお。リリィ君にキティ君。久しぶりだねぇ。いやあ、ふたりとも、相変わらず綺麗だ。そして何より、いつだって可愛いこたちだ。我が愛しき人とふたりで育てたからかねぇ。あのおやじに似ず、魅力に満ち溢れた貴婦人に育ってくれたものだ。ああ。親として、これ以上の果報はあるまい」

 しばらく横になっているうち、誰かが訪いを入れたようだった。誰かは声で、すぐに分かった。

「おじさま、お久しぶり。きっと元気だって思ってたけど、それ以上ね。子どもたち預けちゃって、ごめんなさい」

「なあに、また君たちが来てくれたようなものだ。今度は男の子もいるぞ。今から家に帰るのが、楽しみで仕方ないよ。ああ。おやじの看病なぞ、大変だろう?ほれ、ちょうどここに、あれの忠実なるしもべと、こんなに可愛い天使も来てくれた。さあ、お菓子を持ってきたよ。ゆっくりしなさい」

「ありがとう。でも、たまには親孝行ぐらいさせて頂戴?何も無い家だけど、ニコラ・ペルグランのお血筋さまと、生きてる聖女さまがいらっしゃったなら、おじさまにもきっと、満足いただけるはず。少尉さん、アンリさん。ありがとう。折角だから、おじさまと、ゆっくりしていってね」

 やはり、ブロスキ男爵マレンツィオだった。大きな腹を揺らしながら、ずかずかと、それでもどこか上品に中に入ってきた。相変わらずの、嫌味を多分に含んだ、それでもちゃんと気の利いた挨拶をぶん投げてきた。

 ペルグランとアンリも、その巨体の影から、顔を見せてくれた。きっと家の前で鉢合わせたのだろう。ペルグランが持ってきてくれた紅茶と、マレンツィオが持ってきた山ほどのお菓子で、寛いでくれた。

 アンリとマレンツィオは初対面だったはずで、アンリは緊張した様子だったが、そこは流石の本場の伊達男エスト・ヴァーナである。見た目を褒めそやし、勇名を讃え、つらさを受け止め、そしてダンクルベールの悪口を言って、すぐに打ち解けていた。

 マレンツィオの横に広い図体だが、どうしてだか、どこにいても収まりがよい。いつだって、それが不思議だった。育ちのおかげか、本人の資質か。その大げさな身振り手振りの割に、何かにぶつかったり、立ったり座ったりで、周りを揺らしたり、大きな音がすることもなく、ただ豪快な声だけが、五月蝿いと思いつつも、いくらかの元気が貰えていた。

 人の上に立つことしかできない男。あのお方が遺した言葉は、こういうところも、含んでいるのだろう。

「今年もゼラニウム、綺麗に咲いてるわね。あのこでしょ?お土産持ってきてたから、渡しといてよ」

 看病をしながら、リリアーヌがそんなことを言った。

 家の前の小さな花壇に、ゼラニウムが綺麗に咲いていた。“あし”のなかに若い娘がいて、いつからか、手つかずの花壇を世話してくれるようになっていた。

「お父さんの密偵さんでね。一回だけ、会ったことあるの。ゼラニウムが好きだって、世話してくれてるみたい。お父さんだけの寂しいお家だから、本当にありがたいわ」

 リリアーヌの言葉に、マレンツィオがむっとした表情を見せた。ヴィルピンのとき然り、目下の者に気を配る人なので、こういった話題になるとへそを曲げるのは、なんとなくわかっていた。

「おい、ダンクルベール。いいご身分だな?部下に花壇の世話までさせているなぞ、なんてやつだ。ウトマンだけでなく、部下とあらば、どいつもこいつもこき使いやがって」

「大丈夫。好きでやってくれてた。おうちがなくって、お母さんたちを養うために、スリやってたんだって。可愛い女の子よ?きっと、おじさまも気にいるはず」

 それを聞いて、マレンツィオの顔に、些かの悲しいものが混じった。

「これはこれは、早合点だった。ごめんよ、リリィ君。もし次、お会いすることがあったら、不肖、マレンツィオめが、心よりの謝罪を申し上げていたと、どうかお伝えしておくれ。俺もこのおやじに、そんな甲斐性があるとは思わなんだから」

「そうよねえ。本当に甲斐性なし。お陰さまで、私たちふたり、あのボドリエール夫人を継母ままははにするっていう大願、ついぞ成就いたしませんでした。でも殺人鬼だったから、お父さんにも、女を見る目があったってことかしらねえ」

 キトリーの言葉に、三人とも、腹を抱えてしまっていた。

 娘ふたりは知らないものの、この三人は、まだあれが生きていて、しかも人間ではないことを知っている。アンリに至っては、いつの間にか、文通までしているほどに、仲が良くなっていた。

「すまんな、ペルグラン。娘たちにまで声を掛けに行ってもらって」

「いいえ、お構いなく。人の顔を見るのも、いい薬になるかと思いまして」

 久しぶりに、隣りにいるペルグラン。なんだかほっとした。頼りなげなものは、もうほとんど無い。

 結局、フォンブリューヌでは、ペルグランをどう育てるかを考えるまで、余裕が持てなかった。ただこうやって、自分で発想できて、行動できている。そしてそれが実際に、公私を問わず、ダンクルベールの助けになっている。

 自立を促すだけで、いいのかもしれない。置いた環境の中で、必要と思えるものを培っていける。そこまで、育っている。後でムッシュと相談してみることにしよう。

 皆が、助けてくれた。上司も、同僚も、部下も、友だちも、娘たちも。そして、あの人でなしも。そうやって今まで、やってこれた。ひとりでは、歩いてきた道の重さには、堪えられなかっただろう。

 皆がいた。ひとりぼっちでは、なかった。

 オーブリー・ダンクルベール。二児の父。リリアーヌとキトリー。ふたりの娘。

 それが事実であり、真実。これからも、きっと、ずっと。


(つづく)

Reference & Keyword

・ジェヴォーダンの獣

・Apéritif / Hannibal(テレビドラマ版)

・ポール・セザンヌ

・おばけなんてないさ / 槇みのり

・花畑チャイカ

・アンジュ・カトリーナ

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