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魔剣。相対するは、炎の剣

「人は、死ぬる時に、死ぬ」

 抜いた。煌めいたのは、波を打つ刃文。

「今、その時ではないから、おれは死なん」

「おれが、死ぬ側だと」

「お前が今、その時ならば」

 お互い、構えは正眼。上段でもいい。しかし、あの真田さなだという男は、それを許してはくれなかった。

 傷ひとつない。そう見えた。だが幾つも、くぐり抜けてきた。それも、見えた。顎先から、滴り落ちるほどに。

 人か、修羅か。あるいは、それとも別の。

「試すか」

 あえて、声に出した。自分に言ったのだろう。答えは、無かった。

 試すか。おれが、死ぬ時。今、その時か。


 風。静寂しじま。夕焼の中。いるのは、ふたりだけ。

 既に、死域しいき


北原謙太郎きたはらけんたろう、著

パトリシア・ドゥ・ボドリエール、訳

“風ひとつ”より

1.


 大通り。人だかり。悲鳴と、うめき声。

「警察隊、通ります。開けて下さい」

 叫んでいた。何度も、何度も。

 人の壁。開かない。声のもとへ行かないと。

「アンリさま、サントアンリさま。どうか、私の家族を」

 すがってきた。老婆。涙を流している。震えた体。そうして、祈ってくる。

 こみ上げてきた。いらない。邪魔だ。行かなければ。どけ。そこを通せ。

「お婆さん」

 典雅な声。怒鳴りそうになったときだった。

 手が、伸びてきた。そして体が。

 長身。金髪と碧眼。

「大丈夫。アンリさまが、必ず助けますから」

 ガブリエリだった。

 それで老婆の体が、前から離れた。

「はいはい。ごめんなさいね。サントアンリさま、通るからね」

 右から、柔らかい声。

「衛生救護班の皆さん。さあ、早く」

 美貌が、決意に引き締まっていた。頷く。

「通ります。お願いします。警察隊、衛生救護班です」

 叫びながら、人の壁。ビゴーとガブリエリのおかげで、どんどんと、前に進めている。

 景色が、開けた。

 警察隊隊員。それぞれが立っている足元。横たわっている。赤い何かが、散らばっている。

 重なる。炎と、煙。地平線を埋め尽くす、生きた屍の山。私の、故郷。

 同じだ。あの冬の日と。

「救護、看護。ふたり一組。はじめっ」

 女の声。重なった。

 走れ。誰よりも速く。他の人は自分より動けない。ならば、一番遠くの人。あるいは、一番の重傷。どれだ。誰が一番。私が助けるべき人たち。星になんか、絶対に。

 走るんだ。星の下ではなく、助けるべき、生命いのちの下へ。

「アンリさん」

 ペルグランの声。

「こちらの方、一番の重傷者です。血もかなり出ている」

「お湯は?」

「こちらに。ただ、沸かしたてで」

 何箇所かで、湯を沸かしているようだ。

 傷の具合。複数箇所。一番大きいのは、胸。これは縫合しなければ。その他は消毒と軟膏でいい。

 鍋の中。煮沸している湯。布切れ数枚、突っ込む。器を手ごと突っ込んで掬った。誰かが叫んでいる。その中に、針と糸。一秒でも早く。

 胸の傷。出血が多く、具合が見えない。

 鍋の中にある布めがけて、両手を突っ込んだ。

 指の感覚はある。すべての力を、そこに注ぐ。何遍も振って、ある程度温度を下げて。そうして傷に押し付ける。何度も布を替えて。

 見えた。いくらか深いが、大きな血管は傷ついていない。骨も大丈夫。

「消毒します。痛みます。どうか、耐えて。お願い。頑張って」

 ウォッカを染み込ませた布。体が跳ね上がる。それを、押さえつける。

 ご婦人。寒さと痛みに震えている。顔を覗き込んで、言葉をぶつけた。

「針を通します。きっと痛い。でも、それが生きているということ。どうか、気を強く持って。絶対に助けます。生きたいと。どうか生きたいと願って。誰でもいい。家族の名前。友だちの名前。愛する人の名前。口に出して。お願い」

 両手の指。赤くなっている。寒空の下。むしろちょうどいいぐらいだ。動く。ならば、針の穴に糸は通せる。

「ペルグラン少尉さま。この方が痛みに叫んで、舌を噛みそうになったら、布を口に。気道を塞がないように」

 返答は聞かなかった。

 慎重に縫っていく。痛みに、悶えている。ペルグランが体を抑えてくれる。

「お助け下さい。アンリさま。どうか。サントアンリさま」

「皆さん。縫合の邪魔になります。どうか近寄らないで」

 ガブリエリの声。後ろが五月蝿い。自分の名前ばかりが、聞こえてくる。

 群衆。誰も彼も手を組んで、祈るばかり。

 いらない。そんなもの。何の役にも立たない。何もしないくせに。何もできないなら、せめて抗え。人に縋るな。戦え。生命を脅かす、恐ろしきものと。

 血液が、沸点を超える。

「毛布、布切れ、包帯、それとウォッカ。ありったけ、かき集めて。この人たちを救うために、手を貸して」

 炎が、喉から出ていた。

 皆、目が怯えている。懇願している。

 何をしているんだ。眼の前に何があるのか、分かっていないのか。この寒さの中、死にそうになっている人がいるんだぞ。この人が、この人たちが、血を流しているんだぞ。私の名前を呼ぶより、先にやることがあるだろう。

 奥歯が、軋んでいた。あなたたちは、それでも人か。私と同じ、人なのか。

「何してるの。お願い、見てないで」

「ああ、サントアンリさま。どうか」

「早く」

 ぶっ放した。

 それで、人の群れは、動いた。肩が、上下していた。

 違う。正しくない。こんなこと、している場合じゃない。

「ごめんなさい、ごめんなさい。貴女を助けなきゃいけないのに」

 縫合の途中だったんだ。早く。早くしなければ。

 自分の生命なんて、くれてやったって。それでも、救わなければ。私が、私しかできないことを。

 貴女をお星さまになんか、させるものか。

 ようやく、縫い終わった。

「ごめんなさい。痛かったよね。でももう、大丈夫だから。大きく息を吸って。そう。そうやって、深呼吸。生きるために、息をして。大丈夫。もう、大丈夫だから」

 軟膏。清めた布。包帯。可能な限り、きつく。他の傷は、消毒と軟膏、布で縛り上げて、包帯。

「ドゥストさん。後はお願いします」

 看護師のドゥスト。託した。走っていた。

「ああ、アンリさん。こちらの方、血が止まらなくて」

 入ったばかりの修道女だった。おろおろしてばかりだった。

「傷はどこ?太い血管が通る道、塞いで。脇の下。太もも。傷に合わせて、縛り上げます」

「傷は、腿です。でも私、どうしていいか」

 声は、震えていた。使うものは、何ひとつ準備できていない。

 肩に掛けていた頭巾。歯と手で、引き裂く。それで腿を縛り上げる。

 傷の部分の服を、手で破り裂いた。男の足。脛に乗りかかって、押さえつける。

「針と糸、湯で清めて。まずは清めた布。ウォッカ。お願い」

 叫んだ。差し出される。同じようにして、血を拭って、消毒。そして縫合。

「軟膏。布を当てて、包帯を巻いて。患部は、心の臓より上。そうしたら、バトンタッチ。次に行きます。終わったら、貴女も次。絶対に体を冷やさないで。毛布。そうして、元気づけて」

 また、走っていた。そうやって次々と、血が流れるもとへ。

 激情。忿怒ふんぬ。そして灼熱が。炉から、魂が吹き上がっている。冬の空。しんしんと降る雪を、焼き焦がすほどに。

 このための生命。このための体。このために背負った、聖人の名。全部、べてやる。人を助けるためなら、生命を救うためなら、死んだっていい。死んだら生き返って、そうして助けるんだ。私は炎になって、立ち向かうんだ。熾火になって、炭になって、灰になって。そうしたらまた生命になって、燃え上がればいい。

 そのために。この傷も、この名も。負ったんだ。

「おお、アンリ」

 最後のひとり。ちょうど、ラポワントが到着していた。

「アンリ、よくやった。この人は私が」

「私がやります」

 見据えた。睨んだのかもしれない。

「診てきた人たちの状態を、今一度、確認をお願いします。どうか、ラポワント先生。私たちは今、必死で、冷静になれていない。だからどうか、再確認を」

 ラポワント。逡巡があった。

「相分かった」

 力強い声。肩を、軽く叩かれた。

 ありがとうございます。ラポワント先生。

「その傷は。ああ、アンリさま。サントアンリさまだ」

 老人だった。傷は浅いが、心が弱くなっている。

「そう。私はサントアンリ。御使みつかいさまの名代みょうだいとして、貴方を救いに来た。だから、もう大丈夫。もう少しの辛抱。お願い。貴方の勇気を、貸して下さい」

 目を見て、頬に手を添えて。力を、思いを。伝える。

 意識もしない内に、処置は終わっていた。

 見渡す。全員のところに、誰かが付いていた。焚き火を作ったところに運んでいって、体を温めさせている。

 終わった。ひとつの戦い。私だけの、戦い。

「アンリさんや」

 いつの間にか、担がれていた。きっと、ビゴーだ。

「皆、大丈夫ですよ。アンリさんが、皆を助けたんだ。そしてドゥストさんたちが繋いだから。もう、安心だからね」

「ビゴー、准尉さま」

「ペルグランさんから聞きましたよ。沸かしたばっかりのお湯に、手を突っ込んだんだって?あんたも無茶をするねえ。今、ムッシュ先生のところに連れていきますからね」

 ビゴーの顔。柔らかい、お爺ちゃんの顔。

「よかった」

 溢れていた。とめどなかった。

 両手は、軽い火傷で済んでいた。ラポワントに笑顔で叱られた。両手とも、包帯でぐるぐる巻き。それでもその中で、指も掌も、ちゃんと動いている。感覚もある。

 救うことができた。この体で。この、生命で。

 どこかの建物。一部屋、借りたようだった。そこで休むように、促された。

 ドゥストたちが来て、着替えを手伝ってくれた。温めた布で、体も拭いてくれた。走り回って汗だくだったから、すっきりした。

 まだ寒い季節。厚手の羽織物とか、肌掛けも用意してくれていた。

「アンリさん。かっこよかった」

 ラクロワ。飛び込んできて、抱きついてきた。

 ペルグランたち。仲良し同期、三人組。三人の顔を見て、ようやく、心が落ち着いてきた。

「お疲れ様でした。大活躍でしたね。アンリさん」

「ありがとうございます。皆さまのご尽力あってこそ、私も、全力を出し尽くせました」

「本当、びっくりしましたよ。両手、大丈夫ですか?ラクロワが今、ごはん、食べさせますから」

 ペルグラン。困ったような顔で、笑っていた。

 卓に三人。隣に、ペルグラン。その正面に、ガブリエリ。ラクロワが立って、ごはんを食べさせてくれた。果物の入ったヨーグルト。赤茄子トマトとか根菜とか、肉の色々な部分が入った、“内臓料理”と呼ばれた、食堂でよく食べるスープ。それの中に入れられて、ふやかしたパン。それと、ホットチョコレート。ゆっくり噛み締めて、流し込んだ。

 おくまさんが来ていて、被害者の方やそのご家族や、野次馬たちにも、振る舞っているようだった。

「ああ、畜生。アンリ、すまねえ。ごめんだよ」

 汗だくで飛び込んできたのは、“錠前屋じょうまえや”のゴフ隊長だった。

「犯人、取り逃がしちまった。アンリがすげえ頑張ってくれたのに。俺たち、応えることができなかった」

 そう言って、厳つい顔を歪めながら、頭を下げてきた。

「ゴフ隊長。まずは、お疲れ様でした。私は、大丈夫です。お気になさらないで」

「でもよお。アンリたちが大変な思いをしたっていうのに。聞いたぞ、お前。その両手」

「ゴフ隊長」

 つとめて、笑顔で答えるようにした。

「ゴフ隊長と“錠前屋じょうまえや”の皆さんのお陰で、私、頑張れました。私やドゥストさんたちで、傷ついた人々を助けることができました。本当に、ありがとうございます。皆さんもどうか、お休みになって下さい」

 その言葉を、噛みしめるようにして、ゴフも笑顔を作ってくれた。

「おい、お前ら。俺たちのアンリがそう言うんなら、それでいいよな?よっしゃ。ご存知、“錠前屋じょうまえや”ども。長官に叱られに行くぞ。覚悟決めろよ。できないやつは、隣のやつに指導、もらっとけ。あのおやじの前で漏らす前に、小便も済ませとけよ」

 それで皆、笑っていた。

 一緒に戦った衛生救護班。資材を用意してくれた、ラクロワ。道を開けてくれた、ビゴーとガブリエリ。一番の重傷者に案内してくれた、ペルグラン。そして、犯人を捕まえようと奮闘した、“錠前屋じょうまえや”の皆。

 全員、必死だった。懸命だった。まずは人々の生命が、失われずに済んだ。

 それだけで、よかった。そのために戦った。その甲斐があった。

 そのうち。どうしてか、あたりが暗くなった。

 眠りの中なのだろうか。それであれば、これは、夢なのだろうか。

 暗闇。おそらくは、林の中。眼の前に、光があった。誘われるように、そこに歩いていった。

 焚き火。ひとり、座っていた。生成きなりの、きっと古い装束。頭巾を深く被ったひと。

 きっと、幼い日にまみえた、あのひとだ。

 やはり誘われるように、隣に腰掛けた。

 見上げる。綺麗な顔。男とも、女とも取れる。中性的ともちょっと違う、それでも凛々しく、美しい顔立ち。目元まで伸ばした髪。そこから覗く、七色の光。

「ミュザさま」

 口に、出していた。

 その人は、何も言わず、手を差し伸べてきた。顔の傷。額の右端あたりから、左目の、目頭の下あたりまでの、向こう傷。それを、優しく撫でてくれた。

 それだけで、幸せな気持ちになった。

「私は、アンリエットは頑張りました。ミュザさまの名代として、人の生命を救いました」

 伝えた。そうしたら、今度は、頭に手を乗せてくれた。そして、撫でてくれた。そのひとは、微笑んでいた。

 あの日、神託を受けた。

 最初は、ただの夢だと思っていた。でもその日から、人の生命が失われるのが恐ろしくなった。助けなければという思いに駆り立てられた。そして戦場に出て、人を助けた。

 その時、確信した。

 あれは、御使みつかいさまだった。人を照らすことしかできないと、泣いていたひと。照らす光の中で、人が傷ついていくのを、見ていることしかできないのが、つらいと。だから、人を助けて欲しい。

 このひとから、御使みつかいのミュザさまから託された、お願いだった。

「アンリエットはこれからも、戦い続けます。御使みつかいさまの、ミュザさまのために。幼き日に託された、ミュザさまのお願いのために、頑張ります。だからどうか、アンリエットを、見守って下さい。そしてまた、こうやって、お話させてください」

 泣きながら、それでもつとめて、笑いながら。

 アンリエットは幸せです。ミュザさまと出会えて。

 ありがとう。それだけ、聞こえた気がした。

「アンリさん」

 声。女の子の。聞き慣れた声。

 部屋の中、視界が、傾いていた。何かに、もたれかかっていた。

 ぼんやりと、姿勢を戻した。

 もたれかかった部分。髪が、ちょっとべたつく感じ。触ってみた。知っているべたつき。

 これ、あれだ。まだ新しい油合羽あぶらがっぱの、あの感じ。

 それと、口元。ああ、眠っていたんだ。私、口を開けて寝てしまうから。よだれ、垂れちゃうんだった。

 小さい頃から言われていた。寝顔がだらしないって。口を開けて、寝息立てて。ぐうすか寝るこだって。寝相も悪いみたいだし。司祭さまに叱られたり、カスパルおじさまには笑われたりした。

 直しなさいとか言われても、寝ているときのことだから、どうにもならないんだよなあ。

 やはりぼんやりしたまま、もたれかかっていた方向に、目を向けた。きっと口元は、だらしないまま。

 ペルグランが座っていた。

「アンリさん。相当、疲れていたんですね。ごめんなさい。そろそろ、撤収の時間だったので、起こしちゃいました」

 ラクロワの、気恥ずかしそうな声。そして、ペルグランの、火が出るぐらいに、真っ赤な顔。髪に感じた、油合羽のそれに似た、べたつき。

 はっとした。

 見渡す。ガブリエリ。もじもじして、やはり赤い顔で、目線を逸らしていた。ラクロワ。はにかんだ顔も、ちょっと赤い。そしてまた、ペルグラン。恥ずかしそうに。声をかけても、謝っても、眼も合わせてくれない。

 見られた。寝顔を。見られたくなかった、だらしない顔。

 自分の顔も、燃え盛っていた。


2.


 引き寄せられた。そういう言葉が正しいだろう。

 宮廷の美術品展示室にあったそれは、美しかった。夷波唐府いはとうぶの刀剣。前々から興味があったが、あまりこちらには流れては来なかった。あったとしても、状態が悪かったり、いわゆる数打ちという、粗悪品である。ここまで状態が良く、また美麗なものは、はじめてお目にかかれたといってもいい。

 “二尊院酔蓮にそんいんすいれん”という名だった。

 波打つような、あるいはほむらのような刃文。まるで金細工のような、懐中時計の歯車のような、複雑な模様の、丸い鍔。はっきりとした紫の蛇腹糸で、諸捻巻もろひねりまきで仕立てた柄。乳白色が艶やかな鞘の仕上げも、見事だった。

 極東の島国、夷波唐府いはとうぶの刀剣については、我が国にとっては、未だ未知のものである。資料も少ない。

 それでも、見つけた。

 “二尊院酔蓮にそんいんすいれん”。お家ひとつを滅ぼしたという、曰く付きの妖刀。こしらえは異なるが、作りそのものや刃文は、驚くほど似ていた。

 現場の視察と称して、何度も見に行った。

 美しい。妖刀。魅了されている。心を、奪われている。自分のものにしたい。気持ちが、強くなっていった。

 知り合いに作家になったものがいて、よく話す。

 出版社から、プロットを貰ったそうだった。匿名だが、文体から、おそらくは、あの夷波唐府いはとうぶの文豪、ケンタロウ・キタハラ氏ではなかろうか、と興奮していた。

 内容は、妖刀に取り憑かれた男が人を襲う話。後は組み立てればできあがるというぐらい、作り込まれていたそうだ。

 その刀の名は、“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”だった。

 運命の出会い。これは、そういうものなのかもしれない。

 適当な数打ちのひとつを買って、刃文をそれに模した。研磨の仕方などで、なんとはなしに似たかたちには持っていける。美術品展示室には陽が入りづらく、展示箱はガラス張り。反射などで、一見では、刃文の区別はしにくいはずだ。相当な知識がない限りは、見抜かれまい。拵えも、手に入る材料で似せることができた。

 鍔だけは、知り合いの刀剣マニアに手先が器用なやつがいるので、頼んでみた。こいつは頃合いが来たら、消せばいい。

 折よく、展示室の模様替えがあった。そこで、すり替えた。見づらいところに隠しておいて、後で取りに来る。その際は、拵えを、軍支給の馬上刀サーベルに化かした。夷波唐府いはとうぶの刀剣のつくりは、数打ちを使って学んでいた。

 手元にある。“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”。美しい。やはり、手に吸い付き、目に焼き付く。

 妖刀。本物の、魔剣。取り憑かれている。自分の意志で、魅せられている。

 作家の知り合い。遊漁船を持っているので、釣りに誘った。度々、誘っている仲なので、色よい返事が帰ってきた。

 貰ったプロットを基に、かなり組み上がってきていたようだった。一度、読んでくれないかとも頼まれた。ちょうどよかった。

 船の上で、殺した。後ろから首を突いて、放り捨てた。

 体に迸っていた。快感。血が、心を滾らせる。もっと、もっと血を見たい。血を、吸いたい。

 プロットと原稿。両方、持ってきていた。帰ってきてから、刀身の手入れをして、読み込んでいく。

 この妖刀は、生き血を吸う。そして、それを手にしたのは、王の落胤らくいん

 頭の中で、光が走った。

 父祖の地は、ユィズランド連邦のカロジリア。現王朝、エンヴィザック家と同郷だった。

 使えるじゃないか。王家の落胤らくいん。自身を、そう思い込ませる。王家の装束だって化かせる。紋章だって、無理なく手に入る立場だ。

 エンヴィザック家は、宮廷からも市井しせいからも評判が悪い。目撃情報が出たとしても、あの王陛下のことだ。火消しに躍起になってくれるだろう。つまりは、どれだけ暴れたっていいということだ。

 大通り。王家の紋章を縫い付けた外套。その下には、油合羽。逃走する際に、外套を何処かに捨ててしまえば、警察隊本部の連中になりすませる。拵えも再び、馬上刀サーベルに化かしていた。

 その日。大通りは、女と、老人が多かった。警邏けいらも少ない。試し切りには、都合がいい。

 少しずつ、少しずつ血を吸わせれば、妖刀は、本当の力を発揮するはずだ。

 さあ、目覚めろ。“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”。王の血の、手の中で。


-----

 エンヴィザック朝。


 コルカノ大陸西部における、大ヴァルハリア時代以前の大空位時代、あるいは五公ごこう十三伯じゅうさんはく時代とも呼ばれる、混沌と乱世の時代。その五公ごこうのひとつ、カロジリア公エンウィザックを祖とする、名族中の名族である。群雄の中でも筆頭とされる勢力と名声を誇ったが、一方で、領内の不満を抑えきれず自壊したという、不名誉な名でもある。

 先の政変の折、北方ヴァーヌ地方出身の王家、ホフマンスタール家が追放されるにあたり、次の玉座に据えるべきものは誰なりや、というところで、ヴァーヌ聖教会の推薦により、ユィズランド連邦の片隅で細々と生き残っていたこの血族に白羽の矢が立った。ホフマンスタール家はヴァーヌ聖教会と関係が極めて悪く、またエンヴィザック家は聖教会の庇護下にあったため、その影響力拡大を図ってのことである。

 ただしエンヴィザック家としては、恩はあれど義理はないといった姿勢であり、玉座に昇った途端、ヴァーヌ聖教会、およびヴァルハリアや、故郷であるユィズランドからの干渉を、上手く躱し続けていた。場所は変われど、長らく憧れ、たどり着いた玉座である。他の者が触れることを極端にいやがった。

 我が国の貴族や豪族にしてみれば、名は知れど縁はない、といった程度の家であり、また既に責任内閣制度が確立していたため、今更に干渉するだけの価値もなく、いい言い方をすれば、念願の軽い神輿みこしがやってきた、という認識である。王家も王家で、政治や市井に余計な口出しをするつもりはないようであり、まさしく“君臨すれども統治せず”という、責任内閣制の開明的な原則、あるいは大義名分を、期せずして実現したかたちになっている。

 しかし、もしくはやはり、他の勢力や聖教会に接触を図り、誼を深めようという、旧時代的な勢力拡大を図る王家外戚は少なくなく、あるいは王陛下マルテンは、この内部の不穏な動きにこそ注力しており、外部との交流を、つとめて避けているのかもしれない。


 かの“明主”を祖とする、エンヴィザック家。

 その玉座は、未だ薄氷の上にあった。

-----


3.


 また、肩に重みを感じていた。

 重みと温かさと、誘惑。加えて今、自分が着ているものは油合羽ではなく、略式軍装のジレとシャツの組み合わせであり、それから零れ出た液体が、シャツのところどころに、それの体温に由来する温かな滲みを作っていた。流石によろしくないと思い、細心の注意を払って、その重みとの間にハンカチーフを差し込んだものの、あまり効果は見られない。

「一昨日、大活躍だったからな。枕ぐらいには、なってやりなさい」

 穏やかに、ダンクルベールが笑っていた。父親の顔だった。

「実は二度目なんです。ご本人、かなり気にしてらっしゃるようなので、どうかご内密に」

「ああ、めしの後か?ラクロワから聞いてるよ。いやあ。衛生救護班、全員出動なのに、あの場の全員の応急処置を、ほとんどひとりでやっちまったんだもの。凄いもんだ」

 仕方ない、という口調だった。

 衛生救護班の皆、通り魔事件の対応なんてはじめてだから、おろおろしていたのに、このひとだけは違った。その尊名の通り、雪空の下を駆け回り、叫んで、人を救っていった。その姿は果敢で、恐ろしさすら感じたものだ。

 生ける聖人。向こう傷の聖女こと、サントアンリ。

 人を待っているうち、眠くなったのだろうか。うとうとしながら、その内にこうやって、また自分の肩を枕にしてしまった。あの時と同じ顔。口を開け、よだれを垂らして、そのあどけない顔をふやけさせて、いびきまでかいている。時折、身動みじろぎしたり、むにゃむにゃと寝言まで。そうしてその髪が、香りが、頬に当たるまでになっている。

 ここがダンクルベールの私邸で、家主が目の前にいなかったら、ペルグランはきっと色々と、我慢ができなくなっていたかもしれない。本当に、色々なものが。

 聖女さまの寝顔。きっと清らかで、美しいものなのだろう。そう思っていたが、逆だった。こんなに、だらしがない顔。子どものような、可愛らしい寝顔。それが驚きで、新鮮で、戸惑いばかりだった。

 可憐な人。衛生兵。救命医療の熟達者。そして音に聞いた、向こう傷の聖女。はじめて会った時は、本当にびっくりしたと同時に、心を奪われた。姿も仕草も、あどけなく、清楚で、可愛らしかった。

 簡素な黒い修道服に、生成きなりの頭巾を肩に掛けただけの、小柄な体。後ろで軽く纏めるぐらいの長さの、淡く癖のかかった金髪。乱反射する碧眼。ちょっとだけ太く短い眉。いつも微笑みをたたえた唇。

 そしてそれとは裏腹な、額から目の下まで袈裟けさに入った、向こう傷。

 特に、声。きっと故郷の戦乱の中、張り上げ続けたのだろう。少しだけかすれた、それでも雪解け水のような、透き通った声。ラクロワは宝石と例えて羨み、ガブリエリは儚さといじらしさを感じると。

 それでも、負傷者を応急処置する際などは、その声に、毅然さと勇壮さが顕れる。あるいは、悲壮さすら。

 あの時のアンリは、炎のようだった。

 布や針などを清めるために、沸騰した湯に両手ごと突っ込んだり。押し寄せる野次馬と、懇願する声に対し、ものを持って来いと怒鳴りつけたり。消えかける生命に顔を近づけて、強い言葉で励ましながら。ひと通りが済むと、風に煽られたかのようにすっ飛んでいった。スーリの足の速さにも驚いたが、もっと速いかもしれない。追いついた頃には、次の人の応急処置はもう、終わっていた。

 私は御使みつかいさまの名代みょうだい。その言葉に、震えた。宗教画の、御使みつかいのミュザに描かれるような、炎の冠を見た。

 本物の守護聖人。でも、生きている人間。今ここで自分に寄りかかってぐうすか寝ている、子どものようなひと。これでいて、ふたつほど上のお姉さん。それなのに、あんなに峻烈で、こんなに可愛らしいひと。無垢で罪な、ただひとりのアンリエット・チオリエ。

 この聖女の魅力から逃れるのに、同期の男ふたり、必死だった。

 ガブリエリはあの通りの顔面と、親戚のマレンツィオ閣下と同じく、南東ヴァーヌの本場の伊達男エスト・ヴァーナだから楽ができた。独身寮近くのカフェで働いている、どこにでもいるような、栗毛ちゃんである。

 ペルグランは、そう簡単にはいかなかった。

 ひとりっ子。母親はの夫人の追っかけをやるほどの、恋物語が大好きなお嬢さまである。許嫁なんか用意しない。男なら自分の嫁ぐらい、自分で捕まえてこい。でも領内は、海の男だらけ。

 そうしてまみえたのが、この修道女。逃げるように、ゴフ隊長に誘われては、女遊びに繰り出したものだ。

 おかげさまで、先ごろようやく恋が実り、男に成れたところである。これはまだ、誰にも言っていない、秘密の話。ひとりだけには、漏れてしまったみたいだが。

「パトリシア・ドゥ・ボドリエール、入ります」

 ひと声あって、居間の扉が開いた。待ち人である。

 あかと黒。虚空に揺蕩たゆたう、ほむらのようなあかい髪。己が名乗るそれにふさわしい、宝石のようなあかい瞳。

 ボドリエール夫人こと、シェラドゥルーガ。第三監獄に収容されているはずの凶悪犯罪者にして、正真正銘の化け物である。

 ただいつもと違うのは、格好と表情だった。

 寒いのが嫌い。そればっかり言っている通り、いつもひけらかすようにしている肌は、麗しい美貌ぐらい。後は全部、毛皮と毛織物。足元は、もふもふのスリッパ。あかく燃え広がる髪と調和して、ひとつの毛玉のようだった。

 そしてその表情。いつもの不敵で、魔性の笑みをたたえたそれではなく、ダンクルベールの決め台詞、“神妙にすればそれでよし”をそのままぶつけられたような、正しく神妙な表情だった。

 本日は、謝罪会見というお題目だった。

 いつもは、こちらから出向くなり、あるいは、我が前にまみえよだとか、傲慢で尊大な態度で連絡を寄越してくるが、まさかの刑務局経由の封書という、正式な手続きでのご連絡であり、また説明資料まで添えてまでしてでのご訪問である。

 脱獄ではなく、前に使っていた、ちょっとした“悪戯いたずら”だろう。ご本尊ほんぞんはきっと、あの監獄の最奥の中におわすのだ。

 ダンクルベールとペルグランは、組織の長とその副官という都合、いわゆる重役出勤でも問題はない。アンリは一昨日の事案対応の際に負った両手の軽度火傷のため、療養推奨という診断が下っており、無理に出勤はしなくていい状態である。そういった諸々と夫人の希望もあり、本日十時、ダンクルベールの私邸での会見開始と相成った。

 軽い挨拶をすませ、さあ我が愛しき人の隣へ、と思ったのだろう。しかし自分を枕にして眠る、可憐な聖女をみとめた途端、その表情がめろめろに崩れた。毛玉の格好のまま、ペルグランごとアンリをぼふんと包み込んで、それから除け者のようにペルグランを追いやって、自身の膝をその枕にしてしまった。そうしてずっと、アンリ。ああアンリ。私の可愛いアンリの寝顔。はじめて見た。こんなに可愛くて、だらしなくって、はしたない。たまらない。食べちゃいたい。でも我慢。アンリは皆のアンリだから。ああ、おてて。可哀想。ペルグラン君のと替えてあげよっか。そんなことをぶつぶつと、口にしていた。いいよなあ、女の人は。そういうの、簡単に口に出せて。

 ひとごろしの夫人と、救命医療の守護聖人たるアンリだが、とびきりに仲がいい。

 聞くところによると、アンリが警察隊本部に招聘されるやいなや、ひとつ脅かしてやろうとしたところ、毅然とした態度で対応されたのが気に入ったそうだ。アンリはアンリで、実は相当以上のボドリエール・ファンだったらしく、あっという間に相思相愛。自身をサントアンリ原理主義者と呼んではばからないほどには愛してやまない、特大のお気に入りになっていた。

 ちなみにこの物騒な思想名については、何故かあのゴフ隊長も使っており、ただ向こうは、可愛い妹分といった意味合いだろう。過激派と穏健派の違いである。

「お楽しみのところ悪いが、本題に移ろうか」

 家主ではあるが、上官である。来客であり部下でもあるペルグランに紅茶を淹れさせて、ダンクルベールが切り出した。

「資料は読んだが、今一度、説明が欲しいな。にわかに信じ難いのもあるし、どう捉えるべきかを、整理したい。そしてこれが、誰に対しての謝罪なのかもな」

「そうだね、そうさせてもらうよ。じゃあ、謝るべき人を起こさないとね」

 夫人はそう言って、自分のおでこを、アンリのおでこにくっつけた。少しして、アンリの目が、ゆっくり開いた。

「えっ、夫人?」

 慌てたように、ばっと、上体を起こした。ただ、このあたり、流石は人でなしである。額どうしがぶつけることもなく、アンリの体がすり抜けていった。

「あの、おはようございます。でも、あれ?もしかして、私。また眠っちゃって」

「ああ、私の可愛いアンリ。そうとも。我が忠実なるジャン=ジャック・ニコラの肩なんぞを枕にするとは、なんて愚かなことをしてくれたんだい?私という、極上のしとねがあるというのに。我慢ができなかったのかね?」

 そうやって抱きつかれて、真っ赤な顔のアンリが、こちらを見てきた。その瞳に、恥と、懇願の色が浮かんでいる。

 恥じらいを抑え込み、静かにかぶりを振るだけにした。

「何を恥じらうことがあるんだい?私の可愛いアンリ。お前の寝顔、すっごく素敵だよ。でも人前に晒すのだけは、いただけないなあ。私が独り占めしてあげるから、眠たくなったら、ちゃあんと私を呼びたまえよ?」

「夫人、お願い。私。これ、すごく嫌で」

「なぁに。気にすることは無い。うちの上のも、お前くらいの頃まで、似たようなもんだったよ。今は随分、ちゃんとしてしまったが、代わりに孫どもさ。あっちへごろごろ、こっちへごろごろ。ああ、本当。お前の寝顔を見ていて、懐かしくなっちまったなあ」

 あのダンクルベールが、お爺ちゃんの顔になってにこにこしていた。白秋はくしゅう手前。正真正銘、孫持ちの爺さまである。

 上の娘といえば、リリアーヌさまか。父親はさておいて、娘ふたり、砂漠と大河の美形の血である。何度かお会いしたことがあるが、白い肌の人と黒い肌の人のいいとこ取りの、ばっちばちの美人である。

 長官め。絶世の傾城けいせいたる夫人の口説きも色仕掛けも効かないのは、よもやその血の宿命さだめ、相当な美人慣れをしているだけなのではあるまいか。

 アンリの赤面が落ち着いた頃、その包帯が巻かれた手を包みながら、夫人が話を切り出した。

「結論から言う。先の通り魔事件、私が関わっているかもしれない」

 資料を読み込んでは来ていたものの、やはり突拍子も無いことを言い出した。

「順番に行こう。まず、著作活動で使っている名義。そのひとつに、ケンタロウ・キタハラ、というのがある。極東の島国、夷波唐府いはとうぶで活動しているというていだ。夷波唐府いはとうぶや、ずい朝あたりの歴史ものだとかを中心に、ちょっと男臭いのを書きたい時に使ってるやつだよ」

 これは正直、資料を読んでいて、一番に驚愕した点である。

 夫人から名の知れた文豪で、その翻訳をしていたのは、の夫人だった。今は別のかたが翻訳をされているが、特に夫人が翻訳していた時期のものは、相当に人気が高かった。

 血の汗を流す愛馬に、互いの老いと疲れを問いかける猛将の孤独。記憶を失い、異郷の将と成り果てた実の兄と、戦場で相見えることとなった烈士の血涙けつるい。父祖伝来の剣を手に、二親ふたおやと声を失った少年の盾となり、その目に焼き付けよと告げて散ってゆく父親の、その顔に刻まれた青い痣。

 乱世や戦国の時代、壮絶に生き、鮮烈な死を残す男たち。体言止め三連発などの技法を巧みに用いた、その硬派な作風は、多くの男たちを虜にしてきた。

 先ごろ、氏の新作を買ったばかりのペルグランとしても、今の翻訳さんもようやく夫人の域に到達したなと感心するぐらいには、読み込む作家のひとりであった。よもや恋愛小説の大家が、男しか残されていないような男ふたりが荒野で斬り結ぶような、男々おとこおとこしい著作を長く出しているとは、思いもしなかった。

「次に出版関連。この名義の出版社は、フォートリエ出版さんだ。ここは若手を育てたい方針らしく、それなり名の上がった作家に対し、使っていないネタだったり、プロットだったりを譲ってくれないかと、頼んでくることがある。ケンタロウ・キタハラである私にも、何か無いかという話が来たのだが、確かにひとつ、そういうものがあったわけでね。念の為、各局には確認した上で渡してやった」

 確かにあの出版社からは、新進気鋭の新人たちが、それとは思えない内容の秀作を、次々と世に送り出していた。年寄り作家にしてみれば、ネタ泥棒だと疎まれるだろうが、文壇の新陳代謝を高めたいという意欲は大いに評価すべきである。

「さて、プロットの話。いわゆるオカルトと剣豪ものの組み合わせだ。古今東西、魔剣や妖刀と呼ばれる、曰く付きの刀剣というものは、数多くの言い伝え、あるいはそれらしい実物が残されている。実際に、お家ひとつを滅ぼしたという曰くのある、夷波唐府いはとうぶの刀が実在するそうなので、そいつを軸に作ろうとしていた。ただ、組み立てが上手く行かなくってね。渡す先の新人さんが、話の組み立て方が上手いってことで、じゃあ後はお願いします、ってところさ」

「このあたりだな。話が怪しくなるのが」

 ダンクルベールが、静かに割って入った。

 脇に避けていた素描を一枚、卓の中央に出してきた。反りはいくらか浅めで、それでも綺麗な弧を描いた刀身。いわゆる太刀たちとか打刀うちがたなとか呼ばれる、夷波唐府いはとうぶの刀剣である。

 そのプロットに記されていた、実在の妖刀こと“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”。どういうわけか、現王家のエンヴィザック家が所有しているとのことだ。それも、王家所有美術品の一般公開などでも展示するような雑多な扱い方であり、デッサンことフェリエ中尉が、その会場で見ながら描いたものがあるということで、一枚、お借りしてきた次第である。

「先の通り魔事件、特殊な凶器が使われているというのは、その場に居合わせた巡警から聞いている。一見、馬上刀サーベルのようだが、片手半かたてはんから両手。つまりは、夷波唐府いはとうぶの刀剣が一番近い。つくりについては、俺はよくわからんが、おそらく化かしているのだろう」

「そう。新聞にも、ちょろっと載ってた。それに、当日の夜あたりかね。我が居城に、近衛このえ師団かどっかが怒鳴り込んできて、そこらの貴族層の囚人どもに、尋問をかけてたのが聞こえたんだよ。宮廷から刀ひとつ、盗まれてるって」

 夫人が迷惑そうに、鼻を鳴らした。

 近衛このえ師団というのは、俗称である。現状に則すれば、宮内くない省の近衛このえ局憲兵隊が正しい。

 宮廷の警備や警察機能については、その管轄は未だ曖昧で、宮内くない省、内務省国家憲兵隊、あるいは軍務省国防軍陸軍などの間で、たらい回しにされている。以前は、まさしく近衛このえ師団という名称で陸軍管轄下にあったのだが、対外政策の関係で軍縮が進み維持困難という建前で、宮内くない省に対し、組織丸ごとで渡っていた。

 王族や、宮廷に出入りする名家名門とお近づきになりたい連中にとっては憧れの的だろうが、運営する側からすれば、よこしまな気持ちばかりで士気が低いわりに、家柄は無駄に高い問題児である。金食い虫は、余所に渡すに越したことはない。

「刀剣の名前も聞こえた。プロットに書いたとおり、曰く付きの“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”、そのものらしい」

「それで?お前の渡したプロット通りのことが起きている。そういうことかね」

 夫人が、神妙な表情で頷いた。それをみとめて、ダンクルベールが訝しげな表情のまま、ため息を付いた。

 まさしく、そのプロットの内容が大問題なのである。

「血を吸う妖刀、“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”。手にしたのは、王陛下のご落胤らくいん。プロット通りなら、厄介この上ない話になりますね。捜査のスタート地点が、いきなり政治絡みですから」

 これこそが、大問題の理由。

 夫人のプロットには、妖刀を手にしたのは、夷波唐府いはとうぶの君主のご落胤らくいん、つまりは隠し子と、綴られていたのだ。

 政変後、新しい王家として、ユィズランド連邦より我が国に招かれたのが、カロジリア公エンヴィザック家だった。千年、二千年ではきかないほどの超弩級の旧家の名も、今や昔の話である。似たような境遇となったヴァーヌ聖教会の庇護を受けながら永らえていた、旧時代の遺物だった。

 とはいえ向こうとしては、五公ごこう十三伯じゅうさんはく時代から苦節云百年の、恋いに焦がれた玉座なわけで、腰を下ろしてからは自己保身に夢中であり、三つ巴の政争は放ったらかし。他国ばかりか、軒下三寸をお借りしていたはずのヴァーヌ聖教の干渉すらも良しとせず、誼を結ぶにしても、人畜無害な連中とばかりと来たものだから、“君臨すれども統治せず”という責任内閣制の原則を、悪い意味で体現している状況である。

 特に、島国という特性を活かした、交易を主軸とする積極経済を望む宰相閣下との相性は最悪で、そのくせ面目と体面については口喧しいので、各勢力からも市井からも、金食い虫、税金泥棒、あるいは何しに来たんだこいつらという、過去最悪の評価を頂戴している有様である。

 嘘か真かはいざ知らず、王陛下の隠し子を吹聴する不届き者が辻斬りなんぞをやろうものなら、国中の不満が大爆発し、最悪の場合、また政変が起きかねない。

「だから私は、アンリに謝らなければならない」

 ぽつりと、夫人は悲しげに零した。

「私のせいで、可愛いアンリが一番嫌いなことが起きてしまった。人を救うためとはいえ、この両手を沸騰した湯に突っ込ませてしまった。私も、私の意思とは別のところで人が傷つくのは、ごめんだしね。許してくれとは、とても言えない。でもどうか、頭ぐらいは下げさせておくれ」

 そうして夫人は席を立ち、聖女の方へ向き直った。

 跪く。両膝で。両腕は垂らしたまま。そして、俯いた。

 それは正しく、神に連なるものや絶対君主に対して行う、最大の礼であった。

「夫人」

 ひと言。それでわかるほど、毅然としていた。

 向こう傷の聖女は、あかき瞳のシェラドゥルーガの前に立った。膝を折り、その垂らした両手を包帯だらけの手で取る。自分の頬に、その白い手を迎え入れた。

「貴女を、ゆるします」

 生ける聖人、ただひとりのアンリエット・チオリエは、そう言って微笑んだ。

 俯いていた夫人の顔が、ゆっくりと上った。

「アンリ。私の、私の可愛いサントアンリ」

 涙を、流していた。

 悪魔をゆるす聖女。それは、宗教画のような光景だった。

「過ちを犯したものにこそ。過ちを犯してしまったと悔やむものにこそ、赦しは与えられ、救いはあるべきです。そこには必ず、理由があるはずだから」

 泣き虫で意地っ張りなサントアンリは、涙を流さず、瞳も潤ませもせず。ただ穏やかな慈愛の瞳で、魔性を照らしている。窓から差し込む冬の光が、柔らかにふたつの輪郭を、包んでいった。

「でももし、夫人のプロットをなぞり、魔剣に魅入られた。そんな理由で、人を傷つける人がいるならば」

 突如、その声に力が宿った。

「私はその人を、ゆるさない。御使みつかいさまの名代みょうだいとなり、炎のつるぎもって、その人を罰します」

 慈悲深く。裏腹に、傲然とした声。その背に戴くは、炎の冠。

「そのために、この傷と名を、負ったのですから」

 聖女の顔から、笑みが消えていた。

 怖気がたった。一昨日にまみえた、あの表情。人を救うために、燃え盛る。生ける聖人の、もうひとつのかお

 怒りの聖人。

 その苛烈さがどこから来るのだろう。そう、思うことがあった。戦乱を駆け回る、小柄な娘のかたちをした炎。あるいはシェラドゥルーガよりも、恐るべきもの。

 救いとは、あるいは怒りから、生まれるものなのだろうか。

 ペルグランは、それから目を背けるように、紅茶を淹れ直すことにした。炎が放つ光に、目を焼かれると思ったからかもしれない。

「私はとりあえず、ケンタロウ・キタハラは死んだことにする。たとえプロットが見つかったとしても、追いかけられないように、工夫はしておくよ」

 ひとしきり落ち着いた夫人が、新しく淹れた紅茶に口をつけながら、話を続けた。まだ手が不自由であろうアンリには、いくらか大きめのマグカップがあったので、そちらで提供している。

「現在のところ機密、かつ保留中ではあったが、刀剣の盗難について、宮内くない近衛このえ局から捜査の応援要請が来ていた。こちらにも応じよう。フォートリエ出版にはスーリ。そこから先は、ビゴー先輩とガブリエリだな。プロットの行方だけを追っていこう」

 ダンクルベールの声に頷いた。

 近衛このえ局憲兵隊は弱兵で士気が低い。おそらくは追えていないのだろう。むしろ、こちらが宮廷に潜り込める、いい大義名分ができたわけだ。出版社には特殊工作員のスーリ、作家から先は、聞き込み調査コンビ。こちらも適切な役割分担である。

「長官。今回は、本寸法ほんすんぽうですね?」

 あえて、思ったことを言ってみた。真顔の首肯が、返ってきた。

 本寸法ほんすんぽう。ダンクルベールや、夫人のやり方ではなく、本来の捜査のやり方である。常々、ダンクルベールは、自分のやり方は異端だと言っていた。

 つまりは警察隊本部の本領。各々の力の見せ所である。

 ただ、何かが引っかかっていた。

 日誌と鉛筆。思ったことを、思ったままに。並べて整理。箇条書き。

 すぐに見えた。

「ついでに、盗まれた“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”について、所感になります」

 ダンクルベールに、声をかけた。

「お家断絶の曰くがある刀剣を王家が持っている事自体が、おかしい。武運長久、国家繁栄の逸話があるものならいざ知らず、あまりに縁起が悪すぎます。購入の際、目利きのできるものを伴うはずですし。美術的価値があるとはいえ、どんなものでも、その背景を知らずに、購入、所持することは、無いかと思います」

 何故、王家が妖刀を持っているか。そもそものところである。ダンクルベールの目から、おそらく向こうも、同じ疑問を持っているのは、見えてきていた。

「いわゆる、“写し”なのではないでしょうか?」

 “写し”。贋作、あるいはレプリカである。それなら、刀剣の美術的価値のみを楽しむことができるはずだ。お家断絶の曰くまでは、伴わない。

 自分の発言に、ダンクルベールは、とん、と杖を鳴らした。

「発想、着眼点、大いによし。やはりそこは、お前の方が強いな。犯人としてはどちらであれ、曰く付きの刀剣であることには変わりない。そのつもりで進めてみよう」

 これは、以前のヴィジューションで取り切れなかった二十点である。

 ダンクルベールとペルグラン。お互いの出自や経験の差。そこに良し悪しは無いはずだから、お互いを補間し合えばいい。

 ダンクルベールの隙間という型に、己を嵌め込む。ペルグランにとって、ようやく見つけた、副官としての在り方だった。以前の副官であるウトマンとは、まったく異なる在り方である。

 “写し”という言葉について、女性陣が首を傾げていたので、一応の補足を入れておいた。このあたり、いいとこの坊っちゃんたる、ペルグランの領分である。

「ペルグラン。庁舎に付き次第、マギーに通達を頼む。やる、とだけで伝わるはずだ。“写し”のことは、後でいい」

「ビアトリクス課長ですね。かしこまりました」

 かたちぐらいの敬礼。やる、で伝わるとなれば、応援要請について、ある程度のかたちを整えていたわけだ。確かにあの人ならきっと、それだけで発進できる。

「女の名前」

 夫人の声だった。

 見やると、不機嫌そうに顔をしかめていた。

 ダンクルベールを見る。どことなく、やっべ、という顔をしている。そうしてため息をひとつ、作っていた。

「確かに女だがな。捜査二課課長、サラ・マルゲリット・ビアトリクス。正しくはビアトリクス・ロパルツだったかな?旦那も子どももいる。ママさん軍警デカだよ」

 つとめて静かで、宥めるような声。

「マギーって何さ。何でミドルネームを縮めるんだよ?」

「あいつの家。女は全員、サラなんだとよ。だからマギーだ」

「何故、それを知っているのか、だ」

「本部生え抜き。俺が育てた。付き合いが長い。それだけだよ」

 そこまでで、夫人の頬がハムスターみたいに膨れはじめた。

 まさか、焼き餅かよ。案外以上にこのひとも面倒くさいな。思わず苦笑した。隣に座ったアンリも、面白そうなものを見たように、くすくす笑っている。

「やめなさい、そういうの。みっともない」

 もはや、子どもを宥めすかす親である。

「女の名前なんか、聞きたくない」

 対してこちらは、子どもそのもの。

「司法警察局、ないし警察隊本部は女性職員が多い。人材に求めるのは“たださいのみ”。それがセルヴァンなり、アドルフさまなりの方針だ。知ってるだろう?」

「知っているけど、いやなものはいやだ。私の気持ちも考えたまえよ。すけこましの朴念仁の、甲斐性なしの意気地なし」

「あのなあ。そこまで言うのなら、もう少し大人しくしなさい。それこそ人の都合も考えずに、自分勝手に動き回って。それは無いだろうが」

 ヒートアップする一方の夫人に対し、ダンクルベールは辟易も辟易で、それでもちゃんと大人としての対応をしようとしている。

「それはこっちの台詞だ。思わせぶりなことばっかりしやがって。いつぞやは、迷ったふりして探ってきたり。手の甲にベーゼする格好だけしたりしてさあ」

 その言葉で、かちんと来たのだろう。ダンクルベールの巨躯が、すっと立ち上がった。対して夫人は、意地でも動かず、座り込みで猛抗議の構えだ。

「蒸し返すなよ。それこそお前。あの時、俺の左手を覗き込んで、唇、噛んだろう?あれは流石に俺だって気まずかったんだからな。ああいうの、本当によくないと思うぞ」

「気付いてたんなら言えよう。私だって、淑女らしく振る舞おうと気ぃ張ってたのに。てか何でミドルネーム隠したんだよ?」

「あの頃はアドルフさまがご健在だっただろうが。下手に呼ばれれば、叱られるのは俺なんだぞ。あの飲兵衛のんべの殿さま。本当に横っ面、はたいてくるんだからな」

「嘘つけ。私に気付かせるために隠したんだ。そういう喋り方だった。いらない気を回しやがって。お前のそういうところ、本っ当に大っ嫌いだ」

「お互いさまだろう。あいつに馬鹿にされて、顔、真っ赤にしていた時のお前を返してほしい。あれだけは本当に可愛かったもんだがね」

「なんだと。お前、ふざけんな。淑女の恥を蒸し返すとは、紳士の風上にも置けないやつめ。親の顔を見せてみやがれってんだ」

 ふたりとも、もう抑えるものも抑えずに、随分も随分な痴話喧嘩になっていた。子どものようにぷんすか怒る夫人と、父親のように叱り飛ばすダンクルベール。しかも、知らない情報がばんばん出てくるので、こちらとしては、困惑と笑いしか出てこない。

「そこまで、そこまで。それこそお互い、みっともないですよ」

「そうですよ。本部長官さま、どうかお気をお鎮め下さい。夫人もどうか、大人になって」

 剛腕ごうわんダンクルベールとガンズビュールの人喰ひとぐらい。世紀のマッチアップなんぞ御免被ごめんこうむるので、そろそろひとつ、ご勘弁を願わなければなるまい。アンリとふたりで割って入り、何とか宥めすかした。

 ミドルネームを隠してた。不意に、以前の夫人の言葉を思い出した。

 我が愛しき、オーブリー・()()()()()

 オーブリー・()()()()()・ダンクルベール。それが、本名なのだろうか。でも、呼ばれれば叱られるとは、どういうことなのだろう。飲兵衛のんべの殿さまに、アドルフさま。これもどこかで、聞いたことがあるような気がしてならない。

 ひと通りが落ち着いてから、昼食でもとろうということになった。ダンクルベール行きつけであるビストロ・オーブに、お弁当を頼んでいたらしい。アンリの両手の都合、夫人が甲斐甲斐しく世話を焼きたがると思っての対処だろう。

は先に行って、仕事の準備をしておきます」

「おう、頼んだぞ」

 それだけやりとりして、ペルグランはダンクルベールからお弁当を受け取った。

 ふと、くすくすとした笑い声が聞こえたので、そちらを見やる。夫人とアンリが、口に手を当てて笑いを堪えていた。

 夫人の意地悪そうな言い方に、ペルグランは思わずむっとした。

 ヴィジューションから戻ってきてからしばらくして、ペルグランはからになっていた。

 切っ掛けは些細なことである。ラクロワに、きっと似合うと言われたからだった。名族出身としては、そして男としては、婦女子の前では格好をつけたくって仕方がないお年頃。女の子にそんなことを言われたら、舞い上がってしまったって仕方のない話である。

 ヴィオレット・ラクロワ。捜査二課所属。中流階級出身。ガブリエリとペルグランという男子ふたりに挟まれた、どこにでもいるような女の子。

 これがまた、可愛いのである。

 単純に、女性に対する知識と経験と免疫が足りないだけかもしれない。それでも三つ編みに結った黒髪に、素朴なそばかす顔。そして小柄で華奢な体格に頼りなげな瞳と、庇護欲をくすぐられまくる要素がてんこ盛りである。そんなこに、ペルグランくんなら似合うよ、とか言われたものだから、その瞬間から使いまくって、ご存知、“錠前屋じょうまえや”をはじめとした警察隊の面々から、似合わないだとか、かっこつけだとかと揶揄からかわれまくったのだった。そのたびにラクロワとふたり、顔を赤くしたり、むきになったりと忙しくしていた。

 ちなみにガブリエリもラクロワに勧められ、紙巻をはじめていた。こちらははじめたてから堂に入っており、女性職員一同、相変わらずきゃあきゃあと大騒ぎだった。

「慣れないねえ。そして可愛いねえ。なんたって、ペルグラン君がだよ?ねえ、私の可愛いアンリ」

「夫人、失礼ですよ。ペルグラン少尉さまだって、立派な大人なのですから」

「大人ですし、男です。大人の男ってこわいんだぞって、誰かから言われたりしていませんか?」

「やあん。私、ペルグラン君にわからされちゃうのかしら?ほら、我が愛しき人。愛しの私の危機だよ。助けてくれたまえよ」

「すまんが勝手にやっておくれ」

 ダンクルベールはただ、額を押さえることに終始していた。

 庁舎に着いた頃には、各員、昼食から戻ってきた感じの頃合いで、ペルグランも自席でてきぱきとお弁当を頂いてから、仕事をはじめることにした。ビアトリクスへの通達である。

「やる、ね。承知した、と伝えといて」

 二課課長、マギー監督こと、ビアトリクス大尉。本部生え抜きの筆頭。三十半ばで課長職を任されるほどの名指揮官だ。

「ひとつ、その件で打ち合わせしたいことがあるから、長官が出勤次第、連絡貰っていい?」

「かしこまりました」

 その凛々しい眼と口調に圧されてしまったように、硬い返事をしてしまった。

 何しろ美人である。スタイル抜群。肩にかかるぐらいの、纏めずに下ろした黒髪。鮮やかな赤の口紅。はっきりとした眉と瞳と、文句の付けようがない。その上で、着古した油合羽と咥え紙巻で現場に赴くのだから、本当に、絵に描いたような女軍警である。

 上にも下にも躊躇なくものを言うので、ちょっとしたおっかなさはあるものの、いつだって先頭に立ってくれる、頼れる現場監督だ。警察隊婦人会という、女性隊員や、男性隊員の配偶者で構成される集まりの代表も務めており、女性隊員からは絶大な人気と信頼を獲得していた。

「鞄持ち。ちょっち、いいかしらい?」

 さてじゃあダンクルベールの到着を待つか、というところで、黒い肌の屈強な闘士、ゴフ隊長が声を掛けてきた。いくらか困ったというか、神妙な表情である。

「長官が来たら、具申したい事がある。先の通り魔事件、ルキエがっけもんしたんだがな。どうもこりゃ、難しそうでね」

「難しい、ですか。まず、わかりました」

「あと、できればなんだが」

 やはり難しい顔で、肩を組んできた。

「アンリにも、来てほしいんだよ」

 小声だった。

「その場にいてくれるだけでいい。頼む」

 目を見る。困惑はあるが、真っ直ぐとした眼。

 首肯した。それで、相手も安心したようだった。

 つまりはルキエが、何かしらを見落としていたことに気付いた。あるいは見つけたが、言い出せなかったことがあり、それについて責任を感じているのだろう。同い年で、仲の良いアンリを伴わせれば、いくぶんかは気の持ちようも楽にはなる。

 ゴフ隊長。やはり喧嘩上手の、気配り上手である。

「ペルグラン少尉」

 ゴフが離れたあたり、後ろから声を掛けられた。ウトマンの声だ。

「長官に具申あり。出勤次第、連絡してくれ。先の通り魔の案件だ。重要度が高い」

「かしこまりました。ええと、ちょっと待って下さいね」

 ダンクルベールに用事があるのが、三組。しかも、ほぼ同時に言われたものだから、どう調整するべきか。

「ちょうど同じく、打ち合わせしたいというのが何組かおりますので、一度、確認を取ることにします」

 ウトマンが首肯した。隣に、あのアルシェがいたのが、なぜだか引っかかった。

 さてどうするか。本人に聞くのが一番早い。

 念の為、会議室だけ押さえておいて、その上で“あし”を使って、ダンクルベールに連絡をした。以前、ひとりだけ、貰っていたのである。大体は、庁舎の警備に化けているので、合図ひとつで来てくれる。

 返事はすぐに来た。全員一緒でいい、ということだった。そうして会議室に、ダンクルベールに用事があるものを、まとめて集めるようにした。

 三組。ビアトリクス。ウトマンとアルシェ。そしてご存知、“錠前屋じょうまえや”のゴフとルキエだった。

「顔色の悪いやつから、順に行こうか」

 そう言って、ダンクルベールが目を合わせたのは、ルキエだった。

 いわゆる、女だてらに気が強くの典型で、がさつでやんちゃな不良娘である。とにかく目が良く、馬の扱いも見事なので、偵察、追跡、見張りにと、走って跳んでの活躍を魅せる、抜群の斥候役だ。腕っぷし最優先の“錠前屋じょうまえや”の中では、ちょっと特殊な立ち位置だが、絶対に欠かすことのできない一番打者である。

 それがどうしてか、しゅんとした表情でいる。隣に控えたゴフも、どこか神妙な表情だった。

「お前の口から話してくれ」

 促され、意を決した様に、ルキエが話はじめた。

「あたしの、所感になります。犯人追跡中、隊員の数が、途中から一名、多かったように感じました。そしていつの間にか、そいつが消えていたんです」

 落ち込んで、震える声。内容は、不穏なものだった。

「油合羽。腰に馬上刀サーベル。軍帽を、目深に被っていました。“錠前屋じょうまえや”で、軍帽を被るやつなんていたっけか。ふと思ったときには、いなくなってた。都度の点呼の際、人員の数は合っていたので、気のせいと思っちゃって。でも」

「腰の馬上刀サーベルつかが、長かったんだな?」

 ダンクルベールの割って入った言葉に、ルキエの表情が固まった。怯えている。

 ダンクルベール。一息、作った。

「ルキエ。お前を、しばらく“錠前屋じょうまえや”から外す」

「長官、あたし」

「マギー」

 詰め寄ろうとしたルキエの前に、ビアトリクスが立ちはだかった。毅然というより、峻厳な美貌。それで、ルキエの体が、萎んだようになった。

「ルキエ伍長。姿勢、正せ」

 ビアトリクスの声。すぱっと、いい切るような。でも、大声ではない。

 促され、観念したように、ルキエの背筋が伸びた。

「指導、一回。用意」

 ルキエの顔に、悔しさが滲み出た。そして、返答。

「指導」

 甲高い音。ただきっと、音だけだろう。その顔は、ほとんどぶれていない。

「深呼吸。三回の後、聞く姿勢」

 言われるがまま、それでも悔しさが残ったままに、ルキエはそうした。ビアトリクスの表情は変わらない。

「指導の前提。指導事項、三点。貴官の対応に関する、貴官と本部長官、並びに本官、それぞれの認識の確認。続いて、本事案に関連すると思われる情報の提示。最後に、貴官を特務機動隊“錠前屋じょうまえや”から異動する理由の確認。ここまで、よろしいか」

 毅然と、しかし静かに。やや早口の、てきぱきとした口調。

 ルキエが逡巡の後、返答した。おそらくは三点目だろう。何故それを、ビアトリクスの口から言われるのか。

 指導、はじめ。ビアトリクスが言い切った。

「貴官は、現場にて適切な対応が取れなかった。および、貴官の所感に関する具申が遅れたと認識している。対して、本部長官、および本官は、貴官の行動については適切であり、また具申の時宜じぎについても問題なしという認識である。よって自身の行動を顧みるにあたり、責任を感じたり、問題視する必要、あるいは反省、後悔する必要はない。ここまで、よろしいか」

 その言葉に、ルキエの表情がいくらか引き締まった。返答は、力強かった。

「続いて、本事案に関連すると思われる情報を提示する。現在、宮内くない近衛このえ局より、宮廷内の美術品盗難について、司法警察局あてに捜査の応援要請あり。盗難品は夷波唐府いはとうぶの刀剣。これについて、先ほど捜査二課あてに、本部長官より応援要請に応じる旨、通達あり。盗難品が本事案の凶器として用いられている可能性は、現状では考えにくいが、貴官の具申によりその可能性が高まったというのが本官の所感である。あくまで所感であるため、参考程度までにすること。ここまで、よろしいか」

 返答。

「よろしい。最後。貴官を特務機動隊“錠前屋じょうまえや”から異動する理由。これは先に提示した、近衛このえ局からの応援要請に対応する場合の人員について、事前に本部長官と本官にて、貴官の有する能力が、捜査において適していると判断し、人員の候補として挙げていたためである。よって、本事案における貴官の行動に対する責任の追求、ないし罰則ではない。これについても、反省、後悔する必要はまったくない。詳細は追って通達する。ここまで、よろしいか」

 ビアトリクスの言葉に、ルキエが戸惑いを見せた。ゴフやアンリの顔にも、驚きが見える。

 ペルグランとしても、初耳である。

 あの“錠前屋じょうまえや”下士官を、盗難事件の捜査官として抜擢した。それも、その能力を必要として、である。おそらくは、斥候役として培った、目の良さ、洞察力、そして判断力が適していると見たのだろうが、なかなか思い切った判断と言えるだろう。

 ルキエの戸惑いが決意に変わるまで、いくらかの時間を要した。

「よし。指導、終わり」

「ありがとうございました」

 ルキエの頭が上がってきたあたりで、ビアトリクスの手が、ルキエの肩に乗せられた。

「はい、お疲れ」

 今までの峻厳な顔つきが嘘のように、ビアトリクスは、朗らかに笑っていた。

「ルキエさ。こないだは、アンリの頑張りに応えようと頑張ってくれたよね。だから今度は、私のために。そしてルキエ自身のために、一緒に頑張ってくれないかな?」

 優しく、そして力強い言葉だった。

 ルキエの瞳が、潤む。震える声で、返答していた。

「ルキエのこと、長官が推薦してくれたんだ。私もそれ、いいなって思った。捜査官なんて、やったことないだろうけどさ。そこは皆でサポートするから、安心して。大丈夫。一緒にやっていこう。ルキエのこと、頼ってもいいかな?」

 瞳に続いて、ルキエの唇が、震えはじめた。

「はい。お願いします。マギー監督、ありがとうございます」

 再度、一礼したその背中を、ビアトリクスは優しく叩いていた。顔を抑え込んでしまったルキエに、ゴフとアンリも、身を寄せていた。

 これぞ、マギー監督ことビアトリクスの熱血指導。

 果断で峻烈だが、慈愛の人でもある。形式に沿いつつも、相手を否定することなく、勇気を促し、優しい言葉で立ち上がらせる。

 捜査二課は窃盗などの軽犯罪が中心で、ちょっと地味な立場にある。あるいは、一課でやっていけなくなった人員の受け皿と見做されることも、少なくない。

 だからこそビアトリクスは、誰も落ちこぼれになんかさせやしないと、率先して引っ張っていく。こうやってひとりひとりを励まし、支えていき、あるいは一課から簡単な殺しなどを回してもらって、仕事を作っていくということをやってきた。

 マギー監督。その名通りの、姉御肌の現場監督。そして現場を作る、ダンクルベール譲りの女傑である。

「化けるのにも色々あるが、追う側に化けるのは、大胆ではあるが小心者だな。身を守りたい欲が強い。責任転嫁が得意かもな。それでいて通り魔。自己顕示欲が強い。随分と身勝手なやつだ」

 ルキエの様子が落ち着いたあたり、不意に、ダンクルベールが静かに並べはじめた。

 腕を組み、背もたれに巨躯を任せ、少し首を傾け、瞼を閉じたまま。言葉の途中途中、ほんの少しだけ出した舌で、唇を湿らせつつ。

 見立てだ。それも即興アドリブの。

「得物も化かせる。狡猾。世渡り上手だ。おべっかも上手いのかな?直属の上司を飼いならしている。友だちのことを、友だちと思っちゃあいない類だろう」

 呟くように。誰かではなく、自分と語り合っている。

 ダンクルベールの見立ての中でも、まだ見たことが少ない、珍しいやつである。

 普段、各種資料を前にしてやる場合、その瞼は開いている。目で見て、頭で組み立てたものを、口に出すからだ。

 対して閉じている場合は、それを口に出しながら、からみつへと、収束させていく。

 褐色の巨才、そのの部分。たどり着くところは同じだろうが、その過程が見られる、貴重な機会だ。

「俺たちに化けれるということは、軍人としての基礎がある。ただ、“錠前屋じょうまえや”が、そして俺たち警察隊本部が、軍帽を被るやつが少ないということを調べていない。頭でっかちで、自己中心的。虎の威を借り、屁理屈並べて、最後には怒鳴るやつ。いやな上司だな。四十代、軍関係者、管理職。出世はするが、きっと評判は悪いだろう」

 そうして、開いた目。穏やかなさざなみの、夜の海。

「よう、ルキエ。お前のおかげで、見立てひとつ、組み上がったぞ」

 微笑み、ひとつ。

 言われた側は、口を開けて動けなくなっていた。アンリも、同じような表情でいる。対して、ウトマンとビアトリクスは、会心の表情だった。

「どうしたよ。そんな顔して」

「あの、あたし。長官の見立て、生で見るの、はじめてで」

「こいつは俺の中じゃあ、曲芸の類だ。いつものやり方じゃない。ペルグランなんか、即興アドリブとかいってはしゃいでいるがね。だがこうやって、格好はつけられる」

 笑いながら、身を乗り出した。話題に出された側としては、苦笑するしかやることがない。

「つまり、お前の目が見つけてくるものは、“錠前屋じょうまえや”だけでなく、俺にとっても千金の価値があるってことだ。爺が格好を付けれるほどにはね。だから、自身を持ちなさい」

 言葉通り、気取ったふうなダンクルベールの笑みに、ルキエも自信が持てたのだろう、満面の笑みで返答していた。

 今回は本寸法ほんすんぽうでやると決めているのだから、きっとこの見立ては使わない。ルキエを立ち直らせるため、まさしくひとつ、格好を付けたのだ。

 これも、このひとなりの、背中の押し方である。

「さて、一緒にビアトリクスの件も片付いたことだし。このまま皆で、ウトマンとアルシェの話に行こうか」

「先ごろの通り魔事案、目撃者や被害者の中に、ちょっと様子がおかしいのがおりましたので、アルシェを使いました」

 ダンクルベールの言葉が終わるやいなや、待ってましたとばかりに、ウトマンが身を乗り出した。

「おかしいとは?」

「何かを隠している。言いたくないものがある」

 よもや。そう思い、ダンクルベールの目を見た。同じく、まさか、という目と表情であった。

 アルシェは、素知らぬ様子だ。いつもどおりのぼんやりした瞳で、一枚の絵を取り出した。

「子どもは素直です。お菓子をいくつか、あげました」

 冗談とも取れるが、きっと言葉通り、お菓子とか、おもちゃをあげたのだろう。一児の父でもあるし、そのあたりの加減はできる人だ。

 その絵は、子供らしいものだった。ぐしゃっとしていたが、見覚えがある。

 それが結びついた時、背筋が凍った。

 王家。エンヴィザック家の、紋章。

()()()()()。犯人はそう、言っていたそうです」

 夷波唐府いはとうぶの刀剣。ご落胤らくいん。そして、王家の紋章。

 プロット以上のことが、起きている。


4.


 作家ひとり、消えていた。

 何日か前に、行方不明者届が出ていた。知人と釣りに行ったまま、帰ってきていないとのことである。その知人については、家族付き合いがあるわけでもなく、顔も名前も不確かだそうだ。

 それでもいくつかの名前を、手に入れられた。

 遊漁船で近海に出ていた。戻ってきたのを見たものがいた。ふたりともちゃんと戻って、その場で別れたそうだ。

 遊漁船の持ち主について、名前を貰った。先に貰っていた、家族からのもののひとつと、合致していた。

「作家じゃあない。その知人でもないってことですか」

 隣りにいたガブリエリが、尋ねてきた。

「そうなりますねえ」

「作家さんのご自宅も、盗難とか、強盗にあった様子はない。作家から知人経由で、何者かに渡った」

「そこまでは、回りくどすぎるかな。そこまで価値のあるもの、隠さなければならないものでもないでしょう」

 とりあえず、思いついたことを返した。

 ボドリエール夫人こと、シェラドゥルーガ。偽名での活動において、フォートリエ出版社にてプロットを提供したところ、そのプロットの通りの事件が発生している。そういうことだった。

 あれとは、三十年来の付き合いになる。ちょうどダンクルベールが中尉のころ、ガンズビュールに応援に行った時に出会った。ガンズビュール以降も、何度も顔を見ている仲だ。

 人でなし。人にあらざるもの。人の道徳や倫理、あるいは常識からかけ離れた思考を根本に置きつつ、品性と教養に溢れた複雑怪奇。幾度も捜査を妨害され、容疑者たちを教唆され、混乱に貶められたものだ。

 それでも、嫌いにはなれなかった。

 彼女は、ビゴーをあにさまと呼んだ。ダンクルベールには愛を求める一方、ビゴーには親愛を求めていた。あの魔性のあかい瞳が、尊敬や敬愛の色を帯びていた。言葉遣いも極めて穏やかで、親切であり、そして、か弱かった。

 弱さを見せてきた。今まで経てきた、つらさや悲しさを。きっと、理解してもらうために。

 あれは孤独なのだ。愛を求めているのだ。そしてその最大の愛情表現が、人を喰うこと。そのひととずっと、一緒になるために。

 だからこそ、本意でないところで人が傷つくことを。そしてその愛が損なわれることを、極端に恐れている。プロットを渡したこと、プロットに書いた実在の刀剣がこの国にあり、また盗まれていることを、ダンクルベールに教え、通り魔事件の人命救助で奮戦したアンリに心よりの謝罪を見せたのも、それが理由だろう。

 フォートリエ出版から作家の手に、プロットは渡っていた。それをもとに、もうそろそろ仕上がるというところまで、書き進められていた。知人と釣りに行って消えたとき、そのプロットも原稿も、消えていた。だが、海からは帰ってきている。

 何かを取りこぼしている。そう思ったときだった。

 路地に、何かが見えた気がした。

「ガブリエリさんや」

 声に出した。顔は、あわせなかった。

 やはり、いる。

「先に、戻っていて下さい」

 ガブリエリの返答は聞かず、入っていく。

 ちらつく雪空。路地裏の、薄暗がりの中。いつものように、その影は待っていた。

 フェルト帽を被った影、ひとつ。片手で、それを押さえたまま。それが、その影の在り方だった。

「久しぶりだね。親父」

 ざらついた、女の声。

「あんたも動いてたんですね」

「そりゃあね。大ごとだもの。私の方もおんなじように、歩き仕事からのスタートだよ」

 正面から歩いてきた、影のようなもの。同じようにして、近づいた。顔も眼も、体すらも合わせず、並ぶ。

 影のように黒い肌。白目が際立つほどに。そちらが瞳のようにすら思える。羽織った外套も、黒ではなく、影に近い。

 ミラージェとだけ、呼ばれている女である。

 公共安全維持局、あるいは公安局と呼ばれる組織。国家憲兵隊とは趣を異にする、内務省直下の公安警察、つまりは諜報機関のエージェントだった。本事案のような、国家の存亡にも関わるものであれば、公安局も当然、動いているだろうとは思っていた。

 となれば、この女もまた、接触しに来る。

「作家ひとり、消えた。釣りに行ったまま、帰ってこない」

 先に切り出したのは、ミラージェの方だった。

「そうですね。船を出した男は帰ってきているそうです。船から降りたところで、別れている。他の人が、それを見ていました」

「やっぱり。そこまでだったんだね」

 嘲笑うこともない。淡々とした口調。 

「金を渡している。そうやって、嘘を付かせた」

「へえ。そりゃあ大変だ。その人、今、生きてますか?」

「うちで預かってるよ。殺されるかもしれないからね」

 それならば、ひと安心だった。

 これでひとつ、借り。

「もうひとり、消えてます」

「おや。初耳だね」

 言葉とは裏腹に、口調は変わらない。

「刀剣マニア。手先が器用でねえ。彫金とか金属の加工とか、そういうのが得意な人です。作家さんと共通の知り合いがいました」

 紙切れを、女に渡した。

 ひとつ、貸し。これで、貸し借りなし。

 この貸しの部分については、まだ誰も見つけていないものだった。あるいはいつも隣にいるガブリエリにさえ、教えていない。ビゴーひとりで、見つけたものである。

 借りの部分について、取りこぼしたもの。おそらくは、このミラージェなら、それを取り切れているだろう。それだけこの女を、ビゴーは信頼していた。

 貸しひとつ、借りひとつ。それが、この黒い毛皮の、白い瞳のけものとの決まり事。違えることの許されない、悪魔との契約だった。

 司法、行政の警察機能を担う、国家憲兵隊司法警察局。公安警察機能を担う、内務省直下公安局。扱う事案は異なるが、時折こうやって重なる時がある。

 そういった場合、ミラージェは必ず現れる。異なる警察機能同士の、情報交換、あるいは意見交換のためにである。

 本来は、内務省を中心に、国家憲兵隊司法警察局と、公安局の重役で、それを行うべきなのだろうが、それではいくらか時間がかかりすぎる。

 だからこうやって、現場の人間同士で、それを行っていた。

 ミラージェは公安局における、ビゴーと同じ役回りだった。だから、こうやって顔を合わせることも難しくはない。

「あの、とっぽいの。使えてるのかい?」

 微かに、感情が乗ったように感じた。

「使えるようにするのが、あたしの仕事ですよ」

「足枷だろう?親父ひとりであれば、もっと動けるはずだ」

「そうでもないですよ。あれのおかげで、行けないところにも、行けるようにもなりました」

 向こうの言い分もわかるが、本心だった。

 ガブリエリには、やはり名門の生まれという、大きな強みがあった。本人はいやがるだろうが、それは自分に持ち合わせのないものだった。歩みは遅くなったが、足を伸ばせる範囲は、ガブリエリのおかげで、何倍にも広がっている。

 あとは、歩き方を教えるだけ。それであの若者は、ひとりで、どこにでも歩いていけるだろう。その時になれば、自分はもう、必要なくなる。年齢も考えれば、丁度いい頃合いだった。

「あんたにも、教えたはずです。捜査の基本は、足。ただ、山もあれば、谷もあります。峡谷ぐらいのものだってある。それを、あれがひとつ、橋をかけてくれる。ありがたいことですよ」

「箔ってやつかい。組織の都合、うちはそれがいらないからね。それであればいいんだ。親父ももう、随分だろうから」

「そうですね。あと、何年もできませんでしょう。だから、あんたと貸し借りをさせるためにも、一歩ずつ、一歩ずつ、教えていかなけりゃあなりません」

 だから、それまでに、育てきる。ビゴーが決めた、最後の仕事のうちの、ひとつだった。

 不意に、誰かが近づいてくるような気がした。後ろ。

 足音で、誰かは分かった。

「先に戻ってて下さいと、言ったはずですよ」

 ガブリエリ。

「ビゴー准尉殿。誰ですか、そいつ」

「あんたにゃあ、まだ早いんです。これはね、まだあたしの領分なんですから」

「誰なんですか。場合によっては」

「場合によらなくったっていいだろう。大したことじゃあないよ。お兄さん、安心しな」

 ミラージェがため息ひとつ、作ったようにした。

「公安局のエージェントだ。親父とはたまに、こうして会ってる。私ら公安と、お兄さんがた、司法警察局との橋渡し役ってところだね」

 フェルト帽を押さえたまま、ミラージェが伝えた。

「ビゴー准尉殿。まさか、おやじさん」

 ガブリエリの典雅な声に、いくらかの迷いと、怒りが聞こえた。

「だから、あんたには、まだ早いって言ったんです」

 振り向きはしなかった。

 ガブリエリは真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎるぐらいだった。陽の差すところで産まれ、育ってきたから。

 ビゴーは、暗がりの中で生まれ育った。そうして一歩ずつ、一歩ずつ、陽の差すところへ歩み出ていった。陽の光に、目を焼かれないように。

 だから、こういう暗がりの部分は、時間を掛けて教えるべきだと考えていた。一歩一歩、小さな歩幅でいかなければ、大きな踏み外しをする。このミラージェという白い瞳のけものを、今のガブリエリでは、扱いきれないはずだ。

「親父を疑うんじゃない」

 女の声。荒げてはいないが、感情が乗った。怒り。

 思わず、眼だけを向けていた。

「お兄さん。疑うなら、私を疑いな。疑ったところで、何にもなりゃあしないだろうがね」

「なら、あんたに聞くよ。公安が、ビゴー准尉殿に何の用だ」

「捜査協力だよ。私からひとつ。親父から、ひとつ。それで、貸し借りは無しだ。それが親父と私との決まり事だ」

 まさしくその通りのことを、ミラージェは答えた。

「お兄さん。親父の言うことは、ちゃんと聞きな。そのうちお兄さんが、親父の代わりに、私と貸し借りをすることになるんだ。そのためには、一歩ずつ、一歩ずつだ」

 それだけ続けて、ミラージェは歩を進めた。顔だけで、振り向く。女はやはり帽子を押さえたまま、ガブリエリの横に並んだ。

「エージェント・ミラージェ。あんたの先代だと思ってもらえれば、それでいいよ。お兄さん」

まやかしミラージュではなく、ミラージェか」

「どっかの誰かがスペルミスしやがってね。気に入ったんだ。まやかしミラージュではなく、人としてここにいる。だから、ミラージェだ」

 押さえたままのフェルト帽。一度それを、女は取り払った。髪のすべてを剃り上げた、黒い頭。そうして帽子に積もった雪を取り払い、再度、それを隠すように、被り直した。

「捜査の基本は、足。それは、私ら公安だろうが、お兄さんたちだろうが変わりはしない。私にそれを教えてくれたのは、親父だ。それを疑うようなことは、するんじゃない」

 それだけ言い残し、ミラージェの姿は霞んでいった。

 通りに戻った。雪空は、暗がる一方だった。

「ガブリエリさん。あれとはね、あんた、まだ早いんです。あれは貸した分を返さなければ、人をまやかしに変える女だからね。公安という組織は、そういうものなんです」

 自分に言い聞かせるようにして、ビゴーはそう言った。

「落ち着きましょう。紙巻、吸いなさい?」

「すみません、失礼します」

 促され、ガブリエリが懐に手を入れた。紙巻。手は、震えていた。マッチの火がその横顔を灯し、紫煙が香った後、それは収まったようだった。

 いくらか前から、ガブリエリは紙巻を咥えはじめた。同期の女の子に、きっと似合うからと、勧められたそうだった。同じく同期のペルグランも、そのこの勧めで、からになっていた。

 子ども三人の、微笑ましいやりとり。そうやって一歩ずつ、大人になっていく。

「すみませんでした、ビゴー准尉殿。出過ぎた真似をしました」

「いいんですよ。一歩ずつ、一歩ずつです」

 あの女との付き合いは、長かった。きっとダンクルベールよりも、長いだろう。

 ひとり、友がいた。心残りがある。それを、託された。まやかしになりかけていた、白い瞳のかたち。

 だから、育てた。まやかしミラージュではなく、ミラージェとして。今のガブリエリと同じように、一歩ずつ、一歩ずつ。暗がりの中から、日の光に慣らしていき、そうして手元を離れた。

 託し、託される。刻まれた記憶を辿るように。血の中に、あるいはかつて育った暗がりの中に、それはあったのだろう。ビゴーはそれに応えることでしか、報いることができなかった。

 育てたとはいえ、親ではなかったのだから。

「あれにも、そうやって教えたものですよ」

 昔に死んだ友の、娘だった。


5.


 血が止まらない。

 布を何度も取り替えても、血の通り道を塞いでも。きっと大きな血管が切れている。そしてもう、血が流れすぎている。

 助からない。

 頭では、わかってしまっていた。でも、助けなければ。この人の後ろにいる人たちのために。この人の周りにいる人のために。

サントアンリさま。私はもう、駄目です」

「言わないでっ」

 叫んだ。

 聞きたくない。そんな言葉。遮るようにして、何度も何度も声を張った。

「どうか、他の方へ。より多くの、生命を」

「あなたを助けなければ。私は、あなたを」

「相分かった」

 男の声。

 何かが、眼の前で起きた。心臓がある場所。そこに、短剣が突き刺さっている。

 “慈悲ミセリコルデ”。

「ありがとう、ございます」

 眼の前で、生命が。

 呆けた顔のまま、見上げた。見慣れた顔だった。

「ラポワント、先生」

 真剣な、それでも真っ黒い目。

「どうして。どうしてですか?お婆さんを、どうして」

「アンリ。次へ進め。まだ、何人もいる」

「どうしてですか。この人は、まだ生きていけた」

「アンリ」

 胸ぐらを、掴んでいた。それでも、静かな声しか返ってこなかった。

「多くの生命を救いたまえ。多くの屍を乗り越えて。その覚悟がなければ、ここから立ち去るがいい」

 傲然と、告げられた。

 それからは、あまり覚えていない。

 ぼやける視界で、とにかく走って、傷に布を押し当て、ウォッカで消毒し、傷の程度によっては縫合した。そうして軟膏と、当て布と、包帯。

 それを繰り返したはずだった。

 また、通り魔事件。被害者十二名。うち、重傷者四名。 

 そして死者、一名。

 ひと通りの片付けを終えて、撤収するときだった。

「お婆ちゃんを、ありがとうございます」

 知らない女の人。

「アンリさまに見送られて、旅立てたなら、きっと」

「私は」

 聞きたくなかった。だから、遮った。

「ごめんなさい。救えませんでした」

 きっと、冷たい言い方だったと思う。

 帰りの馬車。ずっと、塞ぎ込んでいた。皆、労いとか、慰めの言葉をかけてくれたが、言葉を言葉として認識できなかった。ただの雑音としか、思えなかった。

 何度か、声を荒げたくなった。

 庁舎。正面から女の人、ふたり。

「ルキエ」

 その顔を見た途端、こみ上げてしまった。

 しがみついていた。胸元。ルキエの、一番の友だちの。それで、吐き出したかった。吐き出していた。言葉も、涙も、感情すらも。

 救えなかった。たったひとり。そして、ただひとりを。もっと力があれば。もっともっと、強いものがあれば。

 ルキエは、何も言わなかった。ずっと、そうやっていてくれた。

 夜。晴れていた。星が綺麗だった。

 あれのどこかに、救えなかった生命がいる。ミュザさまの光に導かれてしまったものが。

 星は誰も、語りかけてはくれなかった。

 助けてあげられなかったときは、いつもそうだった。いつもは皆、方々から声を掛けてくれる。救えなかったときだけ、それがなくなる。

 聖人としての資格がない。突きつけられている。人を救う資格などないと、責められている。

 ミュザさま。どうしてこういうときに、語りかけては下さらないのですか。どうしてこういうときに、お呼びいただけないのですか。アンリエットは寂しいです。どうか、お助け下さい。御使みつかいさま。ミュザさま。

 隣に、誰か座った。大きい人。

 ダンクルベール。

 何も、言わなかった。ただずっと隣りに座っていた。ただそれだけで、星々の苛みから守ってくれる。

 それでも、つらかった。

「嘆くなよ、と言われて、嘆かぬものがいるものか」

 朗々と。寒空の下、それは響いてきた。

「振り返るな、と言われて、振り返らぬものなど、いるものか」

 促されるようにして、振り向いた。恰幅の良い偉丈夫。

 ムッシュ・ド・ネション。ラポワント先生。

「人はただ懸命に生きる。使命のため、願望のため。あるいはただ、生きながらえるため。その道中に、幾多の過ちがあるだろうか。幾多の困難が待ち構えているだろうか。そんなもの、進まない限りは、わかるはずもあるまい」

 ラポワントは空を眺めながら、その美声を、星々に語りかけるようにしていた。

「誇りたまえ。胸を張りたまえ。君は勇者だ。ただひとり、信念を携えて戦いに赴く、気高き人だ。たとえそのつるぎが折れ、その腕が折れようとも。その道中、幾人もの守るべきものを失おうとも。君の歩んだ道を咎めるものなど、いるものかよ」

 それを誰に語りかけているのかは、わからなかった。ただ、心の虚しさに、色がついていく。それだけはわかった。

「ただしかし、覚悟のみを持ちたまえ。人を救えぬこと。人を傷つけること。あるいは、己の生命を落とすこと。それから目を背けては、前には進めぬ。立ち止まれば、君はたちまち過去となる。今を生きるためには、前に進むしかない。たとえ何を置き去りにしようが、人は、今を生きることしか許されてはいない」

 そして、前へ、歩を進める。見える。大きな背中。

 そうだ。過去になんてなりたくない。眼の前にある、潰えそうな生命のために、ここに留まってはいけない。

「勇者よ。前へ。ただ、前へ。その歩を進めたまえ」

 大きな背中は、大きいままに、消えていった。

 ぽん、と肩に大きいものが乗った。

「だとよ」

 ダンクルベール。微笑んでいた。

 それで、こぼれた。

 通り魔と闇討ちが続いている。同一犯。王家の紋章が入った外套を羽織り、王陛下の隠し子を吹聴しながら、人を斬り続けている。

 それもすべて、女、子ども、老人。弱者を狙っている。

「裏の方でも見廻りは強めておく。何かあったら、すぐ連絡するよ」

 ジスカール。またの名を、悪入道あくにゅうどうリシュリューⅡ世にせい。その教会に、ダンクルベールに連れられて訪った。

「ご厚意を、感謝いたします。ジスカールの親分さま」

 きっと沈んだ声で、感謝を述べた。

 はじめて会ったのは、バラチエ司祭の一件だった。

 隠居していたが、ご初代さまの部下が困窮したのを助けようと、泥棒になった。“錠前屋じょうまえや”の面々が怪我させた部下たちを手当したのを、心から感謝してくれた。

 強面の悪党だが、義理人情に篤く、頼り甲斐のある人だった。

「通り魔。そこかしこで、何回も起きているねえ。チオリエ姉さんも大変だろうさ。特にこの間のは、つらかったろうに」

「ジスカール。あまり、言ってやるな」

「いや、あえて言う」

 真っ直ぐ、目を見てきた。眉が薄く、彫りが深い。眼力に圧倒されそうになる。

「神さまってなあ意地悪なもんでよ。人を強くは作ってくれなかった。強く成らなけりゃあ、人は救えない。強く在らなけりゃあ、人は守れない。そのためには、姉さんが自分で努力をすることだ。反省は努力のひとつ。だが後悔は、努力じゃない。そこだけ絶対に、履き違えちゃあいけないよ」

 その瞳には、悲しみが籠もっていた。

「俺も任侠。おとこであることを任された身だ。法の加護を受けられない連中を守り、法を振りかざすものどもの前に立ちはだかる。それができなかったことなんて山ほどある。守れなかった連中の屍で橋をかけて、ここまで来たようなもんさ。そしてこれからも、きっとそうだろう」

 両手を、取られた。自分の、ぼろぼろになった両手。

「チオリエ姉さんのもっとも大事な傷は、この両手の傷だ。額のそれじゃあねえ。この傷の数分、生命と向き合ってきた。それをちゃんと見てやりな。夜空の星じゃなく、姉さんが見てきた生命そのものを。これが姉さんの歩んだ道、そのものなんだから」

「親分さま」

 溢れそうなものを、必死で堪えた。

 このひともまた、自分だけの戦いに身を投じたひとり。悪党として、弱きを脅かすものと立ち向かい続けたひとり。

「私は、親分さまのように強くなりたいです。私はまだ、ただひとりのアンリエット・チオリエでしかない。サントアンリなんかじゃない。ただの、アンリエットなんです」

「そうだよ。チオリエ姉さんはチオリエ姉さんだ。サントアンリである前に、アンリエット・チオリエだ。まだまだ年若い娘さんだよ。俺やダンクルベールみたいな年寄りじゃない。だから、まずはそっからはじめなさい。皆、姉さんに押し付けちまってるが、そこは絶対、忘れちゃあいけないよ」

「はい、はい。ありがとうございます、親分さま」

 堪え続けながら、何とか答えた。

「世話をかけたな、ジスカール」

「おや。そのために連れてきたと思ったんだがな」

 威容を綻ばせながら言われた言葉に、ダンクルベールが頭をかいた。

「ダンクルベールも恥ずかしがり屋だからねえ。こういったことは言えないだろうと思ってたよ」

「言ってくれるなよ。お前が物怖じしなさすぎるんだよ」

 そのやり取りに嬉しくなって、涙が引っ込んだ。

「おふたりとも、仲良しなんですね」

「まあ。長く、敵と味方をやっていたもんだからね。そういうもんさ。立場も似ていたしな。俺の先代が、ダンクルベールにとってのセルヴァン閣下みたいな感じかね」

「セルヴァンにあの爺が務まるものかよ。何度、最高裁まで持ってって、ひっくり返されたことか」

「ありゃあ、俺たちだってびっくりしたよ。それもあのひと、楽しかったのひと言で済ますんだもの。悪党というより悪人だからなあ、あのひとは。倫理と道徳がぶっ飛んでる。本当、頭を使えりゃあ、何でも楽しかったんだろうさ」

 その言葉に、こちらも思わず笑ってしまった。

 初代悪入道あくにゅうどう、リシュリュー。ヴァーヌ聖教会としては、エルネスト・ベネディクトゥス・リシュリューの名で、広く知られていた。

 篤実で敬虔な司祭でありながら、開明的な視座の持ち主であり、天文学、自然科学、数学、物理学に精通した、神域の頭脳を持つ大学者。語り伝えられてきた真実と、観測的な事実は別のもの。それを最初に唱えた、異端の宗教家。

 そのひとが悪党の代表格だったと知ったのは、つい最近のことである。

 ジスカールの言う通り、頭を使うこと自体が楽しみであり、生き甲斐だったのかもしれない。そのためには、倫理とか道徳とかは、邪魔だったのだろう。

 周りの価値観に縛られず、自分のやりたいことをやり通したひと。それが悪入道あくにゅうどうの、ご初代さま。

 自分にとっての、やりたいことって、何なのだろう。ふと、そんなことを考えた。

 人を救うこと。漠然としていた。消えゆく生命を救うのか。生命を脅かすものの前に立ちはだかるのか。それともまた、別のかたちなのか。

 この体で、この心で、そのうちの一体、何が果たせるのだろうか。

「何度も仕損じておりますなあ。刃物のつくり、使い方を熟知していない。あるいは別のものの癖が、残っている。本当に夷波唐府いはとうぶの刀剣なら、まるで違う使い方になりますから」

 ラポワントが苦い顔をした。

 司法解剖室。老いた男の死体。昨日、見つかったもの。おそらく首を落とそうとしたのだろうが、何度も失敗した跡が見られた。結局は首を落とせず、心臓を貫いて殺していた。

 ひどい殺し方。人のことを、なんとも思っていない。家畜とか魚とかじゃない。紙切れか何かのようにしか、思っていない。

「ムッシュは夷波唐府いはとうぶの刀剣にも、心得があるのか?」

「多少ではありますが。馬上刀サーベルとも、()()()()とも異なります。相当に難しい。具足を着込んでいる状態、平服の状態でも、変わってくるほどです。ただし使いこなせれば、まさしく首を容易く落とすことができる。胴を断つこともできるとも、聞いています」

 ちょっと見てみよう、ということになった。

 調練場。集まったのは、本事案を担当している、捜査一課の何人かと、刀剣の盗難について調べている、捜査二課のビアトリクスたち。それと、“錠前屋じょうまえや”の皆だった。

「アンリちゃん」

 声をかけられた。オーベリソンだった。その表情は、どこか難しそうだった。

「大丈夫じゃないように思えるんだ」

「うん。でも、大丈夫です。本部長官さまやラポワント先生、ジスカールの親分さまに勇気づけてもらいました。そして、カスパルおじさまにも」

「そうか。それなら、いいんだ」

 どこか、言い淀んでいた。

「郷里に、帰らないか?」

「おじさま?」

「もう、見ていられないんだ。アンリちゃんがつらそうなの。俺や俺たちがそうさせちまってるようにすら、思えてきてしまって」

 言いながらの瞳は、暗かった。

 いつだって心配してくれていた。ここへ来ることも、ここでの暮らしも。

 人を救いたいという、自分のわがままに付き合わせてしまっていた。本当に大切な、家族だというのに。

 だから、つとめて気丈に。

「おじさま、屈んで?」

「うん?」

 目で促す。それで、オーベリソンは目線を合わせるぐらいにしてくれた。

「心配してくれて、ありがと」

 その頬に、ベーゼを。

 それで、オーベリソンもにっこりと笑ってくれた。

 信頼に、そして期待に応えなきゃ。そうして、おじさまを安心させるんだ。それだけ、思い定めた。

 豚、丸ごとひとつ。中身は抜いてある。

 食堂を管理する、おくまさんという大きなおばさんが、丸ごと買ったほうが安いと言っていた。肉はそれぞれの料理に、中身や耳、鼻などは、きちんと処理して、“内蔵料理”という、本部食堂名物のスープにする。骨も、スープの出汁に使っているようだ。

 資料室に保管していたひと振りを、ラポワントが手にした。恰幅のある偉丈夫が持つと、些かに短く、細いが、ずしりと存在感があり、押されるほどの圧がある。

 美しく湾曲した刃。鍔は小さい。滑らかな光だった。

 ラポワントはかつて、代々の死刑執行人をしていた。ほとんどは、いわゆる断頭台とか絞首刑だが、断頭台が開発される前の、首を落とすための剣術や、抵抗する罪人を抑え込む体術も受け継いできた。

 ムッシュ・ラポワントの首切り剣法。実際に体験したという夫人との文通で、それを知った。髪の長い女性の、その髪は斬らず、首だけを断つ。それほどの腕前だという。

 人を殺すために、人体のつくりや物理学を習得し、また一環として、一流の医者としても通用するほどの外科医学、内科医学も備えている。他にも様々な事柄に精通した、聡明な学者である。

 寛容で朗らかな好漢。美声の歌人。博識な知識人。外科、内科に精通した医者。死刑執行人。そして、無双の剣客。それが衛生救護班特別顧問、ラポワント特任とくにん大尉。

「まずは前提として、太刀たち、あるいは打刀うちがたなというのは、片手半かたてはんから両手になります。同じ曲刀である馬上刀サーベルやシャムシールなどは、片手剣。ですので、片手で握れば重すぎる。デッサンの絵にあった“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”のつくりは、重心が先側にあるため、叩きつけることもできなくありませんが、基本的には反りを活かして斬ります」

 すべて、自分に言い聞かせるように。それほど静かで淡々とした口調だった。

「指ではなく、掌で包む感覚。直角ではなく、腕の延長。力は不要。半身にせず、真正面に。気をつけるべきは、やはり骨。肉は反りを、骨は重心を活かす。筋肉ではなく、体全体の体重を、使う。点から、線に」

 ゆっくりと両の手が上がる。瞼は閉じていた。

 刮目。ふっと、吐いた。

 豚の胴。音もなく、ふたつになっていた。

「お美事みごと

「いや、仕損じました」

 ラポワントが渋い顔で、刃の脂を拭ってから、刀身を眺めていた。その後、それをダンクルベールに渡す。

 ダンクルベールは、はっとした様子だった。

「今の斬れ方で、これか」

 どうやら、刃こぼれをしているらしい。

「いくらかでも間違えれば、すぐにこうなる。心の乱れる戦場では、三人も斬れますまい。しかも今のは()()もしています。私は医者ですから、メスの要領も用いました。本当の使い方では、途中で止まるでしょうな」

 遥か極東の島国、夷波唐府いはとうぶ。そこで使われていた、他の国のそれとはまったく異なる刃物。その中でも、美術的価値もある逸品。

 それを理解もせず、所持することだけに。人を斬ることだけに、酔いしれている。

「刀剣好きでしょうが、慣れていない。あるいは軍人。馬上刀サーベルの癖が抜けていない。太刀筋から読めるのは、このぐらいでしょうか」

 ラポワントの、渋い顔のままの言葉。

 こみ上げてきたものがあった。それに、体が追いつかなかった。

ゆるせない」

 出てきてしまった。

「道楽のために。自分の欲のために、人を害するなんて、絶対にゆるせない。どれだけ価値があるものだとしても、ただの刃物じゃないですか。それなのに、そんなもののために」

 かすれた声。ひねり出し、絞り出した声。目が、体が、熱い。燃え盛っている。

 人を救う時のそれが、出てきている。

「そんなことのために、傷つかなきゃいけない人がいるんですか?そんなもののために、悲しまなきゃいけない人がいるんですか?絶対に、絶対におかしい。何でそんなこと。何が楽しいんですか?人を傷つけて、何が嬉しいんですか?」

 止まらなかった。止まりたくなかった。もうすべて、吐き出したとしても、次から次へと、それは産まれてきた。

 怒り。生命の灯火に焚べ続けた、湿気った薪。

「私に、力があれば」

 沸騰したものが、溢れ出ていた。

「私に、本部長官さまのような知恵があれば。ゴフ隊長や、カスパルおじさまのような力があれば。私に、少しでも、何かがあれば、こんなこと、させないのに」

 嗚咽も、涙も、怒りも何もかも、止まらなくなっていた。

 ゆるせない。ゆるしたくない。こんな理不尽なこと。そして、それを止められない自分自身を。

「チオリエ特任とくにん伍長」

 ゴフ隊長の声だった。

 迫ってくる。屈強な肉体。怒気を放った表情。

「姿勢、正せ。指導だ」

 言われて、びくりと背筋が伸びた。

 ゴフ隊長の、指導。

「用意」

 涙を流したまま、眼を閉じた。

 こわい。絶対に、痛い。だって、ゴフ隊長の。

 額に、何かが当たった。

 ゆっくりと、目を開ける。痛くない。

 指で、弾かれたようだった。

「聞く姿勢」

 言われてもう一度、背を伸ばした。戸惑いが、強かった。

 両手が、肩に乗ってきた。分厚くて、柔らかい。

 真正面。真っ直ぐな瞳だった。

「気持ちはわかる。すげえわかる。ゆるせねえよな。ゆるしたくねえよな。でもそれは、自分に向けんな。怒りは外に出せ。もしくは俺たちにぶつけろ。それ全部、俺たちが持ってくからよ。お前が泣いて怒った分、全部持ってって、聖なる怒りを、悪いやつらにぶっつけてやるんだからよ。だから絶対に、自分に、それを向けんじゃねえ。いいな?」

 白目がはっきりするぐらいに黒い肌の、精悍な顔立ち。乱暴だけど、優しい言葉を綴った、厚い唇。何より、曲がったことが大嫌いと言っている通りの、澄んだ瞳。

 こわかった。ダンクルベールやオーベリソンほどではないが、それでも十分以上の上背があって、筋肉質で、黒い肌の屈強な肉体。荒々しくて、がさつな言葉遣い。圧のある、大きな声。それと、()()()()と呼んでいる戦鎚。

 でもそれ以上に、優しかった。

 明るくて、気持ちよくて、からっとしている。悩みを打ち明けたって、具体的なことは何ひとつ言わないけれど、笑って、気にすんな。役割分担だ。ちっちゃいことだなあ。たった、それだけ。でも、悩んでいたことが、それだけで、どこかにいってしまうぐらい、嬉しかった。

 笑っているか、怒っているか。どっちかだけ。誰に対しても、おんなじ。同い年のデッサンとは真逆だけど、どこか似ている。芯の太さ。芯の強さ。そして、真っ直ぐさ。

 このひとに、この力強さに、助けてもらってきた。

 涙を流したまま、首肯した。ゴフも、真面目な顔のまま、頷いてくれた。

「オーベリソン」

 振り向いて、やっぱり大きな声だった。

「女、殴った。指導、一回。俺にだ」

 大真面目に言い放ったゴフの言葉に、オーベリソンは、喜色満面を浮かべた。

「おうよ」

 たった一声。そしてたった、一発。

 あのゴフの屈強な体が、どこかへすっ飛んでいった。

 呆気にとられたまま、体だけは動いていた。調練場の壁に、へばりついていた。

 頭は動いていないけれど、体に染み付いたものは、機能していた。

 大きな外傷なし。骨折なし。各部の腱に問題なし。殴られた部分の打撲と、背中のも、同じ程度。軟膏を付けて、二日程度あれば。

「へへ。隊長も大変だねえ」

 耳に、笑い声が聞こえてきた。

 顔を見る。ゴフ。笑っていた。

「格好も付けなきゃいけないし、けじめも付けなきゃいけないんだからさあ。でもまあ、これでも、楽しいんだぜ?」

 にこにこしながら、拳を突きつけてきた。

 手で、それを包み込む。大きくて、柔らかい拳。温かかった。それでまた、震えてきてしまった。

 本当に、乱暴で、がさつで、優しいひと。ゴフ隊長。

「ああ、いい。泣け泣け。ぜぇんぶ、持って行くからさ」

 自分の泣き声と、その優しい声だけが、聞こえていた。


6.


 ある程度、絞り込めてきた。流れた血の分の成果が出はじめた。

 後は、どう捕まえるか。政治の部分になってくる。

「王陛下に、本当にご落胤らくいんがいらっしゃるかどうかは」

「ダンクルベール」

 セルヴァンにそれを相談しようとしたところ、すぐさま遮られた。

「守れなくなる」

 真剣な顔で、圧してきた。

 予想はしていた。やはり、確認は無理だろう。

 落胤らくいん。隠し子。庶子として公表することもなく、暗部として、恥部として消えゆく存在。

 王家はその有無を、未だ公表していない。それが、不気味だった。単純に迷っているのか、あるいは別の思惑か。

 ともかく、これ以上の血を。そしてこれ以上の死を、生み出すわけにはいかない。

 となれば、根回し無しの、一発勝負。

「現行犯逮捕しかないか」

「すまないが、そうなる。見立てはどうだ?」

「今回は本寸法ほんすんぽう。順番立てで、絞り込んである」

「ウトマンか?」

「マギー。捜査二課、ビアトリクスだ」

 資料を差し出す。セルヴァンも興味津々の様子だ。

「ウトマンがルークなら、こいつはポーンから成り上がった、抜群のクイーンだ」

 自分のしたり顔に、セルヴァンもその美貌を綻ばせた。

「マギー監督だ。いいねえ、びしばし行こうぜ」

 捜査二課課長、ビアトリクス大尉。窃盗などの軽犯罪を担当している、現場一筋の女傑である。

 自分の後任としてウトマンを本部長官に据えた場合、ビアトリクスを捜査一課課長にすることを考えていた。そしてその次がビアトリクス本部長官。その次が、ペルグランやガブリエリになる。

 警察隊本部は、あくまで現場。そのための人材と教育だ。

「宮廷警備と宮廷警察の、そもそもの管轄である宮内くない近衛このえ局。捜査協力を要請してきた割に、やけに動きが消極的でな」

 捜査協力要請に対しては、軽犯罪担当の捜査二課課長であるビアトリクスに、ルキエを含む数名を当てていた。その中で、ルキエが見つけた違和感を、ビアトリクスが具体化した。

 宮廷の警備、および警察機能については、管轄が未だ曖昧であり、国家憲兵隊の下にあった時期もある。その背景から、配備される人員は、弱兵が多い。法整備のたびに再編成が必要となるため、優秀な人材は当てづらい。

 とはいえ、刀剣一本程度の盗難であれば、十分に対応可能な人員が配備されているはずだが、事態発生からおよそひと月経った今でも、ろくに捜査が行われている様子がない。どうやら、責任の所在と追求の方を優先しているようであり、宮内くない省の官僚や王族からも、不満の声が上がっているようだった。そしてまた、そういった声に対する釈明の方も、優先していた。

 仕事をするべき部署が、仕事をしていない。つまりは、近衛このえ局の中に、何かがある。

 セルヴァンに紙一枚、渡してみた。中身をみとめたセルヴァンが、おや、という顔をしていた。

「評判が悪いやつだ。典型的な佞臣ねいしんだよ。上にへつらい、下には威張り散らす。ただちょっと、家柄に問題ありだ」

 その美貌に、少しだけ苦みが混じった。冷めた珈琲コーヒーを一気に流し込んで、こちらを覗き込んできた。

「こいつの家は、ユィズランド連邦、カロジリアが本家だ。つまりは、王家エンヴィザック家と同郷にあたる」

「ご落胤らくいんの可能性、あり、とな?」

 犯人が王陛下の落胤らくいんを吹聴したり、装束に王家の紋章を縫い付けていることについても、宮内くない省経由で、王陛下の耳には入っているそうだ。相当、お怒りのご様子である、とのことだが、それ以降が何も無い。

 セルヴァンの言う通り、落胤らくいんの存在そのものの確認は難しい。となれば、ひょっとすれば、ひょっとする。

「動かなければ応援取りやめ、とだけ、向こうに言っておこう。近衛このえ局ではなく、宮内くない省と、王家侍中たちにな。司法警察局は殺傷事件の捜査のみ、行う。それも、あえて明言する。正式な声明にしてもいいかもしれん」

「いい恫喝だ。うちはあくまで、犯人を捕まえて、以降は法に則って対応する。ここまでは、言わなくてもいいかな?」

「言わなくていいだろう。行間は、あえて読み取らせよう。余計なことを言えば機嫌を損ねかねん」

「わかった。マギーの手も、いくらか緩めさせる。それこそ、こちらも不満があることを仄めかす」

「それでいい。あとは一発、蹴りをかませば炙り出せるだろうが、何か策はあるか?」

「まだ組み立て途中だが、ひとつ。俺としても後ろめたいものを使う都合、貴様には話せんが、奇策、とだけ」

「裏とか、悪党か」

 首肯だけした。

 セルヴァンと自分では、世代がひとつほど異なる。コンスタンやマレンツィオがいた時代は、仕事の大半は、裏社会か悪党が相手であり、警察隊隊員も武闘派揃いだった。ダンクルベールとその副官だったウトマンが、その最後の世代といえる。それ以降は裏の情勢もあって、相対的に、凶悪犯罪の対応が増えていた。

 裏や悪党に顔が利くのは、もはや自分とウトマンぐらいである。

 この美中年と自分の役割分担は、綺麗に分かれていた。セルヴァンが宮廷や貴族名族。ダンクルベールが悪党や裏社会。後方支援と現場。そこに起因するものでもある。

 セルヴァンとの話を終え、本部部署に戻ったあと、ビアトリクスを呼んだ。

「会わせたいやつがいる」

「はっ」

 敬礼ひとつ。凛々しい女。今や、母親でもある。

「俺のやり方の師匠。有名人だ。ボドリエール夫人」

 さっと言ってみたが、驚きはあまり、無いようだった。

「死んだと聞いています。つまりは、第三監獄」

「やはりお前だな。後はまあ、実際に見てみなければ、わからんことばかりだと思う」

 ビアトリクスへの言葉は、いつも最低限か、少し多いか。それぐらいだった。あえて、そうしているのかもしれない。

「お前たちの捜査から、かなりの精度まで絞り込めたのでな。後は大詰めをどうするかというところを、夫人と話し合う。経緯については、道中で話そう」

「捜査の基本は、足。そして現場。それが、です」

 は、微笑んでいた。あの頃の、あどけないビアトリクス新任少尉の面影は、少しも残っていない。それがとても、嬉しかった。

 立派になったなあ、マギー。

 女軍警って、かっこいいじゃん。それぐらいの軽い気持ちで、将来を決めたと聞いている。

 フォンブリューヌの片田舎の出。士官学校の成績は優秀。警察隊本部に入ってきた。その頃の捜査一課課長は自分で、ウトマンを主任に上げようかと思っていたぐらい。まだあどけなさの残る、黒い髪の女の子。

 わたし、ダンクルベール課長みたいになりたいです。わたし、ダンクルベールになりたいんだ。目を見て、そう言ってくれた。

 ダンクルベールのやり方は、やはり他のものとは違った。

 捜査の基本は足。それでも、証拠より先に、見えてくるものがある。行動、人となり、考え方。そこから逆算して、証拠に至る。最初は偶然かと思ったが、いつしか確信を持っていた。

 これが自分の力。俺の、必殺の一撃。

 だが、理解できるもの、真似できるものは少なかった。

 あるいは、ウトマンはアプローチを変えた。ダンクルベールの引き出しという引き出し、戸棚から扉まで、どんどん開けてくる。ダンクルベールに、整理させ、発想させる。そのための、紙とペンのようなやり方。大いに助けられたが、ウトマン自体は、あくまで基本に忠実だった。

 もしかしたら、このこがダンクルベールになれるかもしれない。そう、期待した。

 だから、誰よりも熱心に接し、指導した。ビアトリクス、マルゲリット、マギー。それの呼び方が変わったのに気付いたのは、かなり後だった。それぐらい、お互いに懸命だった。マギーを俺にする。着いてこい。大丈夫。お前なら、やれる。何度でも励ました。躓くたび、泣くたびに、支えて、叱り飛ばし、肩を貸した。ウトマンとふたり、マギーはやれる。絶対にでっかくなるぞ。顔を赤くして、語り合った。

 その頃はまだ、ヴィルピンもいた。泣き虫のわりに世話焼きだから、落ち込んだビアトリクスを心配して、結局ふたりでわあわあ泣いていたのが、本当に微笑ましかった。

 ビアトリクスも本当に、ダンクルベールになりたがっていた。

 形から入ったりもしていた。無理をして、むせながら紙巻を吸い、緑の瓶を、にがい、にがいと騒ぎながら飲んでいた。紙巻は様になったが、エールはついぞ飲めなかった。

 その様子は自分の娘のように、可愛かった。

 でもそのうちに、ビアトリクスが鈍りはじめた。頭が回らなくなり、妙な間違いをしたり。ひどい時は、自分やウトマンの顔を見るだけで、びくびくしていた。

 大丈夫か。でもきっと、お前なら。心配だった。立ち直らせてやりたかった。だからそれでも、必死になって隣りに居続けた。

 辞表を、渡された。着任四年だった。

 受理してくれとも、読んでくれとも、受け取ってくれとも言いません。ただ、今の気持ちを、かたちにしました。

 泣いていなかった。声だけは、震えていた。

 心が、折れました。着いていくことが、できなくなりました。私は、課長のようになりたかった。課長そのものに、なりたかった。

 でも私は、オーブリー・ダンクルベールには、なれませんでした。

 挫いてしまった。本当に、つらかった。

 ウトマンと三人で、めしを食いに、行きつけのビストロに連れて行った。そこではじめて、どんなにつらかったか、どんなに大変だったか、そして、どんなに自身を責め続けていたのかを、泣きながら言ってくれた。

 無理をさせてしまっていた。追い詰めてしまった。このこがダンクルベールになりたいと言ってくれたから。ダンクルベールにさせてあげたかったから。

 自分は、このこをダンクルベールにさせてあげられなかった。だからこのこを、にすることに決めた。

 二課に異動させるよう、掛け合った。自分に憧れを持って入隊し、諦め、あるいは見損なうようにして離れていった若い者たちは、二課に移っていた。理解者がいた。

 自分の手元から離れたことで、ダンクルベールになることをやめたことで、ビアトリクスは大きく成長した。憧れと恐れになったものがいなくなった。それだけで、ビアトリクスはマギーとして、大きくなった。すぐにいい人を見つけて結婚し、子どもも産まれ、お母さんになった。でもやっぱり仕事が好き。そういって、誰よりも先に出勤してくる。

 ウトマンとふたりで、あれでよかったんだなと、慰めあった。

 それでも、つらいこと、挫けそうなことがあると、真っ先に相談しに来た。嬉しかった。俺はマギーに、見捨てられていなかったんだと。

 そのうち、指揮官としての才覚を啓いて、マギー監督だなんて呼ばれるようになった。教育熱心な現場監督になっていた。になってくれた。

 だから、自分が本部長官に任命された後、すぐにビアトリクスを二課課長とした。三十に入るか、入らないかぐらいだったはずだ。

 その後、ウトマンと三人で話しをし、ビアトリクスが()()()になったことを褒めてあげた。自信満々の笑みだった。

 一言だけ、言いたかったことがあったので、その両肩を掴んで、目を見て、言った。

 マギー、お前は俺の一番弟子だ。ダンクルベールの、一番弟子だ。

 ぼろぼろ泣かれた。ヴィルピンほどではないが、よく泣くこだった。二課転属後はめっきり泣いていなかったが、久しぶりに見たので、ぎょっとした。

 ずっと、言われたかった。ダンクルベールになれなかったけど、課長と一緒にいた時間を、かたちにしたものが、欲しかったんです。

 言われて、本当に嬉しかった。それと一緒に、もう二度と言わないで欲しいと頼まれた。一度きりで十分だと。

 ウトマンとふたりで、笑った。やっぱり、マギーだな。ようやく、になったんだな。マギー。

 向かったのは、第三監獄の最奥。黒いカーテン。

 伴った新顔を、あかい美女は美しい所作で迎え入れた。

 ダンクルベールとビアトリクスで、並んで座った。自分が紙巻を咥えたのをみとめてから、ビアトリクスが紙巻を咥えた。女の子なんだから、お母さんなんだからと、たまに小言を言うこともするが、止める気はないようだ。今ではすっかり、堂に入っている。

 飲み物の酌をしながら、ビアトリクスの後ろに回ったとき、シェラドゥルーガの目に、いやなものが混じった。

「我が愛しき人と同じ銘柄」

「そうです」

 その返答に、シェラドゥルーガの口角がつり上がった。

「言葉の区切り方、それに仕草。透けて見えるよ。憧れている。あるいは恋い焦がれている。きっと長かった。ようやく隣に立てたんだあ。よかったねえ、マギーちゃん」

「おい、シェラドゥルーガ」

「女軍警。女ダンクルベールか。かっこいいねえ。それで一本、短編が書けるよ。憧れの人を追い続け、格好かたちから入ってみる。ようやく隣に並び、苗字でなく、名前で呼ばれた。しかも愛称でだ。抑えつけてた恋心が前に出ちゃって、憧れの人から異性になり、すべてを投げ捨ててでも結ばれたい。女軍警マギー。陳腐だが、需要はある分野だよ」

 割って入ったが、気に留めるつもりもない。どんどんと、ことばが溢れてくる。

 悪いが出ていた。人を弄び、なじり、嘲笑う。本人は遊びのつもりだろうが、ビアトリクスは繊細なところも強い。

「なあ、マギーちゃん。情婦のつもりかい?あるいは後妻か?でも困るなぁ。田舎娘が、私のリュシアンに色目使っちゃってさあ。その訛り、フォンブリューヌだろ。何よりその手。あらあ、綺麗だこと?まだまだ水も冷たいのに、真っ白いまんま。料理も洗濯もしていないのかい?家事ができない女に、我が愛しき人の生活を任せるのは心配だなあ。でも恋人気取り、楽しいだろう?ほら、お酒も緑の瓶にして、お揃いにしてあげるよ。さあ、召し上がれ?」

 すべて、突き刺さることばだった。耐えられないほどに。

 眼の前に注がれた黄金色のものから、目を背けるように、ビアトリクスは静かに目を閉じた。

「ご心配なく。失恋済みです」

 返ってきた声に、シェラドゥルーガが、おや、という顔をした。覗き込む顔に、ビアトリクスが目を刺し返した。

 心は平静。毅然としている。微笑んですら。

「仰る通り、憧れました。恋い焦がれました。オーブリー・ダンクルベールになりたいと、必死になって追いかけました。でも、なれませんでした。だから私は、マギーです。長官、いえ、ダンクルベール課長に導かれて、マギーになりました。リュシアン?どなたですかね。存じ上げません」

 怯えも、怒りもない。屈辱もない。少し早口の、はきはきとした、ビアトリクスそのものの声。それで淡々と吐き連ねる。

「私は情婦じゃない。ダンクルベールの、一番弟子です」

 あくまで平静な心と声のまま、ビアトリクスは、最後まで言い切ってみせた。言わないでくれとお願いされた、一番弟子という言葉まで、使ってみせて。

 少し間をおいて、シェラドゥルーガが吹き出した。

「合格、合格以上。御免遊ばせ?やはり、はじめて会う人とは、ちょっと遊んでみたくなってしまうものでね」

「光栄です。それとお酒は、ロゼをお願いします」

 そう言ってひと息、決意を見せてから、注がれたものを一息で飲み干した。にがいもの。嫌いなもの。そんな顔だ。

「エールは苦手です」

 は笑って、空のグラスを差し出した。

「いいものが入ってるよ。いい女に、相応しいものがね」

 感服、といった風に、やはり笑顔でシェラドゥルーガが受け取った。自分用に持ってきたものを、まずは口直しにと、渡していた。

「フォンブリューヌなら、チーズはどうかね?セルヴァン閣下のご実家のやつがあるけれど」

「お気持ちだけ。でも、包んでくださると。友だちが好きなんです。それこそ、故郷の味だって」

「おや。もしかして、アルシェ君のかい?」

「そうです、ママ友。ラウルさんにお願いされて」

「そいつは、とんだ失礼をしたね。先に聞いておくべきだったよ。ご無礼は、ひらにね?マギー君」

 からからと上機嫌で、ワインセラーの方に消えていった。

「すまんな、マギー」

「大丈夫です。事前にお話を伺っていましたので。それに私はもう、マギーですし」

 口直しのワインを含みながら、ビアトリクスは答えた。

「一番弟子。自分で言う分には、大好きですから」

 は、自信満々の笑みで、ウインクを返してきた。

 ヴィルピンほどではないが、こいつも、泣いて強くなる。そういうやつだった。

 改めて、ビアトリクスにロゼの甘いものを注ぎ直して、正面に座した。ワインは詳しくはわからないが、ペルグラン曰く、ソムリエが逃げ出す程には詳しいが、人に出すのは、気兼ねなく飲めるものが多いそうだ。

 ビアトリクスは、出されたものに口をつけたとき、目が光っていた。よほどいいものなのかもしれない。お詫びのしるしにお持ちあれ、と、ボトルを渡されていた。

「賓客は三人と聞いたけど。ペルグラン君は、病欠かね?」

「隣りにいるぞ」

 自分の言葉に、それが横を向いた途端だった。

 誰かが、その濡れた唇を奪っていた。

 一瞬で、あかい髪が燃え盛る。怒声とともに振るった腕は、空を凪いでいた。

「ようやく大願成就だ。苦節三十云年ってね。旦那の下で修行した甲斐があったってもんだぜ」

 声の主は、事もなげに、ソファの背もたれに肘を持たれかけて、にやにやしていた。

「お前。まさか」

「名乗るほどのものじゃあございません?もとより、顔も名前もありませんしね」

 言う通り、目元も見えないぐらいに頭巾を目深に被ったそれが、おちゃらけた様子で言い放った。

 “あし”の頭目である。

 いつも異なる姿で現れるが、今回だけは、わかりやすい格好で来るように、注文を付けておいた。黒装束に頭巾と、注文通りの、いかにもな格好である。

「盗みといえば、こいつだからな」

「お久しぶりだねぇ、夫人。同窓会だ。とはいえ、年寄りは旦那、ひとりっきりみたいだけどね」

 相変わらず、人を馬鹿にするのが好きなやつである。シェラドゥルーガの肩に手を回しながら、げらげら笑っていた。

「下郎が。気安く触るんじゃあない」

「マギーちゃんをいじめたお仕置きだよ、お局さん」

 そう言ってまた、その艷やかな頬にベーゼをくれていた。シェラドゥルーガが、蝿でも追い払うように、腕をぶん回しているが、気に留める様子もない。

「あまりに調子乗ってると、お縄をあげるわよ?頭目さん」

 見苦しかったのだろう、ビアトリクスがそう言うと、今度はビアトリクスの肩に手を回しに、こちらへやってきた。

「そいつは嬉しいなあ。でも、マギーちゃんになら、おりじゃなくてせきに入れてほしいよね?女をるのは流儀じゃないけど、られる分には大歓迎さ。まあ、ここらで神妙にしとこうかね」

 そういう様子で、それはビアトリクスをシェラドゥルーガの隣に座るよう、促した。そうして自分の隣に座り、どこからか持ってきたウィスキーを、指一本にしてやりはじめた。きっとそのあたりからくすねてきたのだろう。シェラドゥルーガといえば不機嫌そうに、夷波唐府いはとうぶごしらえの煙管パイプを吹かせていた。

 議題は、各自の進捗報告と、今後についてである。

「私から行こうか。ケンタロウ・キタハラは病没。家族に管理能力無しとして、フォートリエ出版に、著作の全権利を無条件移譲するようにした。その家族についても、配偶者側の実家に帰ることとしたので、今後、連絡は取れない旨、通達もしている。これでプロットが見つかったとしても出版社で止まるはず。収入が減るのは痛いが、まあ、よしだ」

 シェラドゥルーガ。そもそもの発端、とは言えなくもないが、十分以上の対応である。長く使っている名義を閉じるとは、かなり責任を感じているのかもしれない。

 超然とした化け物ではあるが、自分の本意ではないところで他者が害されるのは、よしとしない性分だった。むしろそれで荒れたり、落ち込んだりするほどである。普通の女の何倍も気難しく、繊細な心の持ち主だった。

 あるいは人でないからこそ、そうなのかもしれない。

「刀剣について。これは少し、説明が長くなります。まず、盗まれた刀剣と、妖刀伝説のある“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”は、別物であることがわかっています」

 ビアトリクスの、はきはきとした言葉に対し、あのシェラドゥルーガが、ぽかんとした顔をしてみせた。

 根本は、ここ一帯と夷波唐府いはとうぶとの、文化の違い、そのものにあった。

 こちらでは、名剣の類は、その一振りごとに名がつけられるのに対して、夷波唐府いはとうぶのそれの名は、刀鍛冶の名前、あるいは所有者の名を組み合わせて呼ばれることが多い。

 “二尊院酔蓮にそんいんすいれん”とは、刀工“酔蓮すいれん”の三代目こと、二尊院能親にそんいんよしちかという、およそ二百年前の刀鍛冶の名である。盗まれた刀剣は、その作のひとつである、“三代目さんだいめ酔蓮すいれん二尊院能親にそんいんよしちかでん幾曽馬求門いくそまくもん佩刀はかせ”と呼ばれるもので、その名を紐解くと、幾曽馬求門いくそまくもんという人が使用したと伝えられている“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”ということになる。

 この幾曽馬いくそま氏については、現在も血が続いていることを、王家側でも把握をしており、あくまで美術品として購入、保有していたようだった。このあたり、展示や一般公開する際には、先の文化の違いからの説明となり、煩雑となるため、表記上、“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”の名で取り扱っているという。

 ここまでは、ビアトリクスとルキエたちが、王家の侍中たちへの聞き込み調査を行っている内に判明したことだった。さらに、このことについて、本来の管轄である近衛このえ局憲兵隊は、把握をしていない様子だった。

 そこで、近衛このえ局への疑いもあり、宮廷側と協議の上、司法警察局預かりの極秘情報とすることにした。

 シェラドゥルーガがこれを知らなかったのは、あるいはプロットを書くため程度の調査しかしておらず、しっかりとしたかたちにする段階で、改めて調査するつもりだったのだろう。

 そして犯人も、その程度の認識で、あの“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”を盗んだ、ということになる。

「知らなかったよ。マギー君、凄いね」

「足で稼ぐのには、自信があります。著作活動で、調査が必要な事項があれば、お申し付け下さい」

 そう言って、自信満々の笑みを返していた。

「フォートリエ出版についてだ。先ごろ、沿岸警備隊が近海で発見した他殺死体について、キタハラ氏のプロットを受け取った作家であることがわかった。誰かがプロットを奪って、その通りのことをやっている。王陛下のご落胤らくいんを名乗るのまでなぞりつつ、王家の紋章を縫い付けた外套を羽織る、おまけ付きだ」

 そして、この作家が行方不明になった時期に、誰かと接触していることも、明らかになっている。こちらはビゴーとガブリエリが見つけてきてくれた。

 ビアトリクスの刀剣の情報と合わせて、ひとりの名前が浮かび上がった。

「王陛下にご落胤らくいんがいるかは流石に確認できなかったが、セルヴァンに近衛このえ局への揺さぶりを頼んでいる。刀剣盗難について応援要請を出しておきながら、やけに消極的な対応ばかりしているので、ここが巣穴だという読みだ。そこから現場に、炙り出す」

「んで、その炙り出しが、俺の仕事ってわけだ」

 頭目の酒は、今度はワインになっていた。見覚えのある瓶。いつぞや、ペルグランがにされたときのものだ。

「組み上がってるか?」

「万端。お手紙一通。それで出せるぜ」

 相変わらず、笑ってばかりいながら、身を乗り出した。

「あの刀は、“写し”だよ」

 ひときわ悪そうに、頭目は言った。

 “写し”、つまりはレプリカや贋作である。

「贋作盗んで喜んでる間抜け野郎って、おもっくそ馬鹿にしてやるんだよ。どうせ別物なんだから、とびっきりにね。久しぶりに俺の名前、使ってもいいかもな」

「妖刀に酔いしれている。それでよろしかろう」

 盗人には、盗人を。まして目利きができていないと馬鹿にされれば、頭に来るはずだ。

「後は、本当に隠し子だった場合ぐらいかね?我が愛しき人。下手すれば、また王朝がひっくり返るよ」

 シェラドゥルーガが、ワインを喇叭らっぱで飲んでいた。相当、機嫌を損ねたらしい。

「王陛下は、犯人がご落胤らくいんを吹聴していることを把握済みだ。面目を潰されている。たとえ本物だったとしても見捨てるだろうが、未だ落胤らくいんの存在に関する声明は発表していない。面倒なことに、容疑者も王家と同郷だそうだ。現行犯逮捕狙いでは行くものの、そこから先はどうなるものか」

 ため息の後。

 。そう言われた。ビアトリクスだった。

「奇策には、奇策を重ねましょう」

 驚いていた。現場の女、基本に忠実なビアトリクスから、奇策という言葉が出ること自体が、驚きだった。

「王族より、立場の高い人間をぶつけます」

「誰がいる。ヴァルハリア、ユィズランド?それとも、ヴァーヌの教皇か?」

「うちにいます。とっておきのが、ひとり」

 言われて、頭を捻ったが、出てこなかった。ペルグランでも、ガブリエリでも、家格は届かないだろう。

 考えても出てこなかったので、もう一度、ビアトリクスを見た。自身のある目をしている。

「生ける聖人。聖女、アンリエット・チオリエです」

 あくまで大真面目に、ビアトリクスはそう言った。

 頭目が、口笛ひとつ、ビアトリクスのグラスに酌をした。

 サントアンリ。向こう傷の聖女。最前線の守護天使。そして、生ける聖人。

 確かに聖人とあらば、王族よりも立場が上であるし、知名度は抜群だ。民衆から貴族名族、東西南北において、もはやあの、小柄な娘を知らない人はいないほどである。

 アンリが落胤らくいんを捕らえるとなれば、ヴァーヌ聖教も後ろ盾にできる。あるいは、聖教会の総本山であるヴァルハリアや、王家ゆかりのユィズランド連邦をも引きずり出して、王陛下を包囲できる。本物の隠し子ひとりのために、可愛い玉座を放り出す人ではないだろうが、圧力としてこれ以上はないだろう。

 王の魔剣。それに相対するは、聖女が握る炎のつるぎ。はたして、折れるか。

「妙案ではあるが、私の可愛いアンリにこわい思いをさせるつもりかね?それは看過できないな」

「責任は、私が取ります。現場の責任なら、取れます」

「一番弟子だねぇ。いやなところまで似てしまってる」

 また新しいものを喇叭にしながら、シェラドゥルーガが悪態をついた。

 瞼を閉じる。あの顔が、浮かんできた。

 ゆるせない。

「アンリエットが、怒っている」

 それだけ言った。

「絶対にゆるせないと、泣いている。アンリエットを泣かせるやつは、俺は絶対に許さん。部下どもも同様、怒り心頭だ」

 それで、シェラドゥルーガの髪が燃え盛った。その瞳も、煌々と光り輝いている。

「謹んで掌を返そう。大賛成だ。私も怒鳴り込みたいぐらいだね。私の可愛いアンリを泣かせるやつなんぞ、生き返らせてでも殺してやる。引き千切り、腹を割いて、生きたまま豚に喰わせてやる」

「流石は、サントアンリ原理主義者だな」

「ああ、そうとも」

 咥えていた煙管パイプを、灰皿に叩きつけた。

「それも過激派でね」

 あかい瞳。けものの目。

 シェラドゥルーガは、アンリをこれ以上無く可愛がっている。このひと言だけで納得してもらえるだろうと、踏んでいた。

「決まりですね」

「ああ、頼む」

「聖女さまの怒る顔、見に行ってもいいかい?」

「やめとけ。とんでもなく、こわいぞ」

 アンリは苛烈な一面もあった。戦乱の中、その怒りを携えて、人を救ってきた。だからこそ、あの向う傷がある。一度、このシェラドゥルーガとも、大喧嘩をしていた。

 聖女を怒らせた報いを、受けてもらおう。


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 血を吸う妖刀じゃあなかったっけ?汚すだけ汚して、下手くそな剣豪さまもいたもんだね。

 お生憎さま、本物はこっちで預かってるよ。からっからになるまで、吸ってやるから、そのなまくら、ちゃんと研いでおくこった。

 楽しみにしときな。親愛なる、ご落胤らくいん陛下ちゃん。

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7.


 今の今更、メタモーフだと。

 手紙ひとつ、届いた。美術品展示室の、あれがあった場所に、置いてあったという。

 文面を読んだとき、血が、沸き立っていた。馬鹿にしてくれる。三十何年前のこそ泥風情が、今更、あの第三監獄から脱獄して、現役復帰のつもりか。

 この“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”は、贋作などではない。本物だ。その力がまだ、眠っているだけなのだ。もっと血を浴び、吸わせれば、刀身に眠った魂が、蘇るはずなのだ。

 解放させるための、声が必要だ。悲鳴という、声が。

 上の方からも、だいぶ、せっつかれてきた。司法警察局からも、やる気がないなら応援は下げる。殺傷事件の捜査のみを行うと、はっきり言われている。貸し出された、ビアトリクスとかいう女軍警とその部下どもも、最初こそ気合十分だったが、この頃は非協力的になっていた。現場の連中への干渉も限界が来ていたし、そろそろ何かひとつ、手柄を上げなければならない。ちょうどよかった。

 受けて立つ。ただし間抜けを晒すのは、向こうのほうだ。

 すぐに司法警察局に応援要請を出した。あの怪盗メタモーフが現れたと。盗まれ、数件の事件で用いられているであろう“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”は贋作。その真打しんうちを持って、切り込んでくる。宮廷警備隊の戦力だけでは、心許ないとも。

 難色を示されたが、自分が宮廷警備隊側の現場指揮をとると言ったら、途端に色の良い返事が帰ってきた。

 作戦会議において、一切の質問は認めなかった。階級は、こちらが上である。また管轄も異なるため、管轄外秘情報として、すべて押し切った。作戦会議に出席していた警察隊本部の連中は、既に不満げな様子である。

 宮廷広場。予告していた時刻は近い。宮廷警備隊。国家憲兵警察隊本部からは、“錠前屋じょうまえや”とかいう連中と、あとは修道女とか看護師だとかの集まり。それと、指揮官格が二名。ビアトリクスと、あのダンクルベールである。

 夷波唐府いはとうぶの刀の作りは、知っていた。目釘を打てばつかを外すことができる。馬上刀サーベルに似せたつかと鍔を取り付ければ、それに化かせる。

 そうやって今も、この腰には、“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”が、やはり馬上刀サーベルに似せた鞘の中にいる。何度もやってきたことだ。

 確保して、抵抗させて、斬る。それだけでいい。それで、この“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”は本物になる。本当の、妖刀になる。

 時刻。しかし、変化はない。

 宮廷警備隊にも警察隊にも、だらけきった空気が広がりはじめた。気を張っていたのに、何も起きなかった。

 どうした、メタモーフ。臆したか。俺に。この戦力に。そして、本当の“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”に。

「やっぱりあれ、偽物なんじゃねぇの?」

 “錠前屋じょうまえや”の隊長。黒肌の、屈強な不良軍人だった。

「どっちがですかね」

 答えたのは大男だ。長柄の斧に、時代遅れの鉄兜まで被っている。編み込んだ髭も相まって、“北魔ほくま”のようだった。

「両方。メタモーフも、刀も」

 何だと。

「メタモーフなんて、三十云年前の怪盗だろ?刀の目利きはできても、爺には振り回せやしないだろう。刀も刀で、なんか怪談話がくっついてるけど、現場には血がごまんとあった。血を吸う妖刀にしては、お行儀が悪すぎる。お化けが苦手な俺にとっちゃあ、好都合なんだけどね」

「確かにな。だとしたら今回のこれは、何とする?」

「自作自演。まさかこの場には居ないと思いますが、都合の良い連中集めて、試し切りでもしようと思ったんでしょう?残念ながら、こちとらご存知、を開けるは“錠前屋じょうまえや”だ。びびって刀も抜けやしないで帰りやがったんでしょう。そこらの草むらでも漁れば、案外、隠れてるかもね」

 黒肌め。適当なことを言いやがって。

 俺はお前らに臆したわけではない。メタモーフとやらをおびき寄せるために。

「なれば。作戦総指揮、近衛このえ局次長殿にお尋ねいたす」

 杖つきの大男が、ずしりと、こちらに迫ってきた。

「怪盗メタモーフの犯行予告と伺っておりますが、現在は第三監獄に収監されているとの認識です。そちらの収監状況は確認しておられるか?」

 思わず、その威容に押しつぶされそうになった。この男こそ、あのメタモーフを捕まえた男である。

 しかし、階級はこちらが上。そして、管轄も違う。

「管轄外秘情報だ。貴官らに答える必要は無い」

「ならば我々も、これ以上の応援の要無しと判断いたします。これにて失礼いたす」

 憤然とそう告げられ、背中を向けられた。

 しまった。それでは困る。本当にメタモーフが乗り込んできたら、我々だけで対処しなければならない。宮廷警備隊は弱兵揃いで、士気も低い。暴漢ひとり対応することも、あるいは難しいかもしれない。

「貴官等の撤収後に襲われたら、何とする」

「もとより、宮廷警備と宮廷警察は、近衛このえ局の管轄ではなかろうか?我々は、応援に過ぎません」

「盗まれた刀剣の真打しんうちを持ってくるんだぞ?」

「お言葉ですが、次長殿。盗まれた刀剣が、いわゆる“写し”であることは、確認済みでしょうか?」

 今度は、ビアトリクスが迫ってきた。口ばかり達者で、癪に障るところが多い。

「それも貴官等に、答える必要は無い」

「それであれば我々、捜査二課の捜査協力も不要という認識でよろしいですかね?情報提供も人員の提供もなく、そちらがやるべき職務を、応援のひと言で押し付けるようであれば、それに応える必要性を感じません。改めて、応援要請の根拠について、ご提示を願います」

 そこまで言い切ったのを、ダンクルベールが目で制した。ビアトリクスが、一歩下がる。

 女の分際で、つけあがるからそうなるんだ。

「まずは本作戦において、提供された情報の確実性について、保証を願いたい。メタモーフの犯行予告であること。盗難された刀剣が“写し”であること。そして、それが複数件の殺傷事件の凶器として用いられていること。とくに三件目は、我々の管轄である一般的な刑事事件です。何故、宮廷警察である近衛このえ局が、それを把握しているのか、お聞かせ願いたい。答えられないようなら、司法警察局としてではなく、内務省として、宮内くない省に対し、正式に調査を要請することになりますぞ」

「その必要はないと言っている」

「よろしいか、次長殿。本作線は失敗です。指定された時刻と場所に現れなかった。あるいは陽動。別の場所に現れているやもしれない。下手をすれば王陛下のもとに。ここにいるだけ無駄です。今やるべきは、周辺の状況の把握。対策の検討。戦力解体。再編成と再配置です。そのためにも、まずは情報の確実性を担保していただかなくては困ります」

 失敗。その言葉に、ぞくりと来た。

 ダンクルベールたちは本作戦を失敗と見做している。その責任は、現場指揮を執っている、自分たち、近衛このえ局にある。

 曖昧な情報で押し切って、空振りに終わった。そういうかたちで、直轄である宮内くない省に知れたら、まずいことになる。これまでやってきたことが、白日の下に晒される。

 余計なことを、喋りすぎた。

「撤退であれば、敵前逃亡と見做すぞ」

「敵がおらん。筋が通っておらん。撃ってもいいが、結局は責任を追求されるのは、あんたがただ。本官はただ、質問に答えろと申したまでだ」

「貧民の出の分際で」

「本官は国家憲兵です。今の発言、国家憲兵隊として、憲兵隊将校への侮辱罪として訴えることが可能ですぞ」

「やかましいっ」

 抜き放った。“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”。美しい刃文。

「作戦中の、上官への反抗的な態度。処断するには問題なかろう?ダンクルベール中佐」

 妖刀だ。お前の血を吸う、魔剣だ。

 怯め。竦み上がれ。怯えて泣き叫べ。杖つきめ。

「次長さん、ちょっとご覧よ?」

 いつの間にか、肩を組まれていた。“錠前屋じょうまえや”の黒肌だ。

 眼の前に、紙切れ一枚、突き出される。

 素描。間違いなく、“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”の絵。

「次長さんのその馬上刀サーベル。なんでこれと刃文が似てるんですかい?そもそもそれ、馬上刀サーベルじゃなくって、夷波唐府いはとうぶの刀ですよね?支給品以外の武器所有は届け出が必要ですけど、出してますかね?まあ、管轄外ですから、とやかく言いませんけど」

 どっと、汗が吹き出した。

 罠。

 これは、罠だ。はじめから知っていたんだ。それで、おびき寄せた。炙り出された。

 俺を、狙い撃ちにした。

 黒肌が口笛を吹きながら、離れていった。いつの間にか、囲まれている。獰猛な獣たち。嘲笑っている。

「俺は、ご落胤らくいんだぞ」

 呟いていた。

「俺は、王陛下のご落胤らくいんぞ。お前たちとは、立場が異なる。捕らえられるものなら、捕らえてみるがいい」

 内側から、怒りがこみ上げてきた。

 いいぞ。もうこうなったら、全員まとめて、この“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”に吸わせてやる。

 悲鳴を、聞かせてやろう。

 不意に。眼の前で、どん、と音が鳴った。

「最果ての地。氷河のはらを切り拓いた、双角王そうかくおうの名に誓い」

 長柄を、正面に。斧頭に、両の掌。静かだが、腹の底から迸る声。

「我ら、鋼の血族。カスパル・オーベリソン」

 見上げるほどの巨躯。鉄兜。長柄の斧。

「血を吸う妖刀。是非とも、切れ味を拝見したい。胸ひとつ、お貸しいたすゆえ、どうぞ、お示しあれ」

 “南蛮北魔なんばんほくま”の“北魔ほくま”の方。アルケンヤールの戦士の名乗り。まさか、眼の前で。

 震えていた。北の戦士の血。魔物のかおだ。

如何いかがいたした?さあどうぞ、ご落胤らくいん陛下。それで皆、陛下の御前ごぜんにひれ伏しましょうぞ。ただひとり斬り伏せるだけで、それが成る。簡単なことではござりませぬか。さあ、お示しあれい。できぬとあらば、我ら、ご存知“錠前屋じょうまえや”。陛下の腕前、こじ開けてみせましょうぞ?」

 どん、と、もう一度。巨躯がその大斧を、構えた。

 竦んでいる。動けない。“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”が、動かない。

「俺は、王陛下の子ぞ。落胤らくいんぞ。殺せば、どうなるか」

「ご落胤らくいん陛下」

 深い声。ダンクルベールだった。

「札遊びをするうえで、忘れてはならないことが、ひとつ」

 言葉遊びのように言って、それは紙巻に火を灯した。

「“キング”は、“鬼札ジョーカー”には、勝てない」

 何を言っているのかは、わからなかった。

 ふと何かが、正面にいた“北魔ほくま”の前に割って入っていた。気付くまで、しばらく掛かった。

 小柄な女。頭巾を目深に被っていた。

「何だ?どけ。今更、女、子どもなど、斬りたくはない」

「女ではない。子どもでも、ない」

 傲然と。

 修道女だろうか。うつむき、頭巾の下。未だ顔は見えない。小柄な、若い娘。

 それを、取り払った。

 そうして、震えることなく、あるいは怒りに打ち震え、堂々と両手を広げた。

 まるで、立ちはだかるかのように。

 顔を上げた。金色の髪。可憐な美貌。憤怒の色に染まる瞳。そして。

 まさか。

 戦慄が走った。呟いていた。

「この傷にまみえ、その名を呼ぶのなら。しかり、とのみ、答えよう」

 その象徴。袈裟けさに走った、向こう傷。

「我が名こそ、アンリエット・チオリエ。サントアンリである」

 女でも、子どもでもなく。人ですらない。

 “鬼札ジョーカー”。聖人、サントアンリ。

 向こう傷の聖女。最前線の守護天使。それが、憤怒ふんぬもって、眼前に立ちはだかっている。

 人を救う聖人が、怒りをもって、眼前にある。

「課せられたもののため、我は聖なるものとして、恐ろしきなんじの前に立ちはだかる。れっせられしものとして、そしてただひとりのアンリエット・チオリエとして、生命せいめいを脅かすなんじに対し、立ち向かう。そして、たとえ。この身が朽ち果てようと。炎となってなんじの前に立ちはだかり続けるであろう」

 唱えるは聖句。信念のうた。およそ可憐な娘からは発せられないであろう、荘厳とした、そして人とは思えない、声。

 震えていた。俺は今、神秘に、まみえている。今まさに聖なるものが、御前ごぜんに在る。

「そのために」

 傷が、火を噴いた。

「この傷と名を、負ったのだ」

 吠え声。立ち上る。

 炎だ。人のかたちをした、炎。見えざる灼熱が、壁となって立ちはだかっている。

 動けなかった。どうすることもできず、ただ震えながら、切っ先をちらつかせることしかできなかった。

 俺は御敵おんてき列聖れっせい御敵おんてきになってしまったのか。

 一歩、二歩。近づいてくる。圧して来る。そして後ろには、あの北の魔物。

 魔物を従えた聖女が、締め上げてくる。

「収めよ。さもなくば、斬れ。その覚悟なければ、去れ」

 その澄んだ声で、静かな声で。怒りは迫ってきた。

 切っ先は、その向こう傷の、前。でも、動けない。恐れとおそれに、心が染まっている。汗が滴り落ちる。

「選べ。我は御使みつかい名代みょうだいなりせば、選べぬならば、炎をもって罰するのみ。龍か、人か。なんじいずれなりや。此処ここに示せ。示せぬならば龍と見做すぞ」

 怒りが、首を締め上げてくる。聖なるものの尊崇されない側面が、見えざる手をもって喉を押さえ付けてくる。

 俺の喉を潰しながら、選ぶことを、迫ってきている。

「おゆるしください。聖女さま、アンリさま。どうか」

ゆるせぬ。なんじ数多あまたを害し、数多あまたを傷つけ、数多あまたを悲しませた。ゆるしを請うべきは我に非ず。数多あまたなり。星となりしもの。いまだとこに伏せ、血を流したるもの。あるいは、それぞれのかたわらにありて涙するもの。それこそなんじの罪たる証」

 世界が揺れている。地鳴りのように。視線が、定まらない。俺が見ているものは、一体、何なのだ。

 これは、俺の感じる恐れ、そのものなのか。

「我にゆるしを請うことも、自裁することも許さぬ。許したのは選ぶことのみ。その先は人の法なりせば、それに従え。さあ、選べ。神妙にすればそれでよし。さもなくば炎をもって罰するのみぞ」

 激しい怒りを、抱いている。激しい怒りを、向けてくる。

 怒りの火。劫火ごうかの中、聖女と魔物が、揺らめいている。

「ああ、聖女さま。アンリさま。どうか、どうか」

「選べと言ったっ」

 爆炎だった。

 崩折れてしまった。刀は、手から離れた。

 これが聖女。サントアンリの、怒り。怒りの聖人の、炎のつるぎ

 妖刀も、自分の心も、打ち砕かれていた。

 そうしているうちに、体に縄が打たれ、立たされた。大勢が、罵声と怒声を浴びせてきている。でも、何も聞き取れなかった。

 皆、これが何かを、わかっていないのか。これは畏るべきもの。御使みつかい名代みょうだい。守るべきもののために傷を負う、向こう傷の聖女。そして、怒りの聖人。

 御前にまみえ、挫かれた俺にしか、わからないことなのか。

「後は、お願いします」

 そう、小さな声で言ったひとは、聖女ではなく、ただひとりの、若い娘だった。

 白い頬が、濡れていた。


8.


 即刻、処刑だった。

 近衛このえ局次長。近衛このえ兵大佐。刀剣の収集癖あり。

 宮廷の美術品展示室に展示していた、“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”こと、“三代目さんだいめ酔蓮すいれん二尊院能親にそんいんよしちかでん幾曽馬求門いくそまくもん佩刀はかせ”という、夷波唐府いはとうぶの刀剣を盗難し、それをもって、通り魔や、夜間の殺傷を行っていた。

 外套には、王室であるエンヴィザック家の紋章を刻み、また王陛下の落胤らくいんを吹聴。目撃されようとも、不満の矛先が、王室に向かうようにしていた。

 取り調べに対し、容疑の一切を認めた。

 事態について、王陛下は激怒。宰相閣下に対し、裁判なしでの、即刻の死刑執行を要求した。王室の権威を損ない、国家と国民を脅かす行為、つまりは、国家反逆にあたると見做したのだ。

 貴族院議会議長、国民議会議長と宰相閣下の三名での協議のもと、要求合意となり、合意二日後には、怒れる民衆と、拘束された親族たちの前で、生きたまま四つ裂きにされた。許された着衣は猿轡と下着だけという、最大の恥辱を与えられたうえで、四肢を斬り落とし、首を括られた。

 それは中世さながらの、残酷な処刑だった。

 “二尊院酔蓮にそんいんすいれん”は、天文学的な賠償額の請求と共に、一族に渡された。到底支払うことはできず、全財産没収。目に見えるものも見えないものも、何もかもを奪われて、一族郎党、路頭に迷うことになった。全員、顔も名も晒されているので、行く先々で石を投げられているそうだ。

 “二尊院酔蓮にそんいんすいれん”は今ここに、まさしく、お家ひとつを滅ぼした妖刀と成り果てた。

 近衛このえ局について、局長以下、各部署の責任者の罷免。宮内くない尚書しょうしょ(大臣)、次官の更迭。新任の宮内くない尚書しょうしょに対し、軍務尚書しょうしょ、および内務尚書しょうしょの両名指導のもと、宮廷警備、宮廷警察機能の再構築を厳命。設定期間内に達成不可ならば、内務省国家憲兵隊管轄下へ、その機能を移動。各事案の被害者、および遺族に対し、王陛下、宰相閣下、貴族院議会議長、国民議会議長、四名の署名の入った謝罪文送付と、医療費の負担、遺族年金の増額。フォートリエ出版、ならびに故ケンタロウ・キタハラ氏のご家族への謝罪声明発表。

 ここまで、第一次決定事項である。

 論功行賞については、国家憲兵隊司法警察局警察隊本部長官ダンクルベール中佐を功績第一とし、栄誉武功勲章授与、並びに、勲功爵くんこうしゃくの授与。麾下きか、作戦指揮ビアトリクス大尉に、栄誉武功勲章授与。特務機動隊“錠前屋じょうまえや”全隊員に、武功勲章授与。および、衛生救護班班長、アンリエット・チオリエ特任とくにん伍長に対し、特別功労勲章の授与。そしてヴァーヌ聖教会より、助祭、および祓魔師ふつまし叙階じょかい

 本当は司祭の叙階じょかいを予定していたが、アンリがこれを辞退したため、助祭と祓魔師の双方を叙階と決まったようである。聖教会のしくみはよくわからないが、おそらくこの双方の叙階じょかいは、異例中の異例であろう。

 ダンクルベールの勲功爵については、爵位ではなく、栄誉のある称号という意味合いが強いため、貴族として扱われるわけではない。ただし、いわゆる騎士シュヴァリエに相当する称号であるため、これにて名実ともに、ダンクルベールのお殿さまになったことになる。

 出自の都合、昇進はさせたくないが、今までの功績があまりにも華々しく、市井の人気も高いため、そろそろかたちになるものを与えなければという、国側の苦心が見える判断だ。

 アルシェは、現場から帰ってきたアンリを、すぐに診察した。

 拷問官として、心を苛む仕事をしてきたが、その反対側、つまりは心を癒やすこともできるだろうと、ダンクルベールから提案され、心理学、精神医学を学んでいた。念の為程度に、国防軍軍医大学にて学位試験を受験し、精神医学修士の学位も貰っている。

 不思議な娘だった。純朴で、素直で、涙もろい。ただ、勇壮であり、果敢であり、なにより苛烈である。

 念の為、高名な精神科医にも立ち会ってもらったが、現在のところ、特に異常は見られない、という結論で終わった。それでもどこか、不安定なところが見て取れた。そのあたりは不安材料として、ダンクルベールにも具申しておいた。

「司祭、いらなかったのか?自分の教会、持てるんだぞ?」

「私は、孤児です。不相応なものは、こわいです。教会の運営とかも、わかりませんし、警察隊としての仕事にも、差し障りが出てしまうかも知れませんから」

 後日、改めて心を診た際に、微笑みながら、アンリはそう言っていた。

 今はどこかの小さな教会に、名目上の預かりになっている特任とくにん下士官。つまりは、非正規軍人である。生活については、その教会の近くの仮住まいでひとり暮らしをしていた。近くにこれの同郷で、幼い頃からの付き合いでもあるオーベリソンが一家で借家暮らしをしているので、世話は焼かずにもいいだろう。

 警察隊本部。個性的な面々の集まりである。その中でもひときわ、この小さな聖女は、目立っていた。政変後に転属となり、これがかの有名な、とは思ったが、それ以上に、その不安定さに、若干の不安を覚えていた。

 皆が聖女であることを、生きた聖人であることを、押し付けている。それに、この小さな体と心は、応えようとしている。

 どこかで、その均衡が崩れるかもしれない。

「そういえば、なのですが」

 状態を見ていたとき、アンリが葉書を取り出した。

「今朝、私の家に、届いてたんです」

 困惑した表情で、それを渡してきた。

 “聖女さまの可愛い寝顔と寝相、頂戴しましたよ”

「借りていいかい?長官に見せておく」

 きっと、あの人の“あし”の頭目であろう。前職で何度か接触したこともある。スーリとも馴染があるようだった。

 まさかあれが。それが、正直な感想だ。

 ひとしきり事態が収拾した後で、ビアトリクスと話すことにした。今回の作戦の発案者だった。

「余計なお節介になります、マギーさん」

 喫煙可能な個室。ふたりとも喫煙者であるので、遠慮なく紙巻を咥えていた。向こうも自分より早く、火を付けていた。階級は同じだが、歳は自分が上。ただビアトリクスは、この警察隊本部の生え抜きであり、ダンクルベールじきじきの薫陶を受けていた時期もあるという。

「まず、今回の作戦は、見事だと思います」

「ありがとう、ラウルさん」

 妻が世話になっていた。首都近郊に移ってからようやく見つけた、妻の同郷出身者だった。

 前職でこちらに移ってきた際、ちょうど子どもが産まれたばかりで、妻を郷里から放したことにより、育児ノイローゼに陥れてしまったことがあった。前職の上官や周囲の協力も貰って、なんとか持ち直したが、今度はホームシックになりやすくなった。

 そこで同郷出身者を探していたところ、見つけたのが、マギーさんことビアトリクスである。今では、妻の呼び方が伝染るほどには、仲良くなってくれていた。

「アンリの状態も、大丈夫みたいです。引きずってたり、変なねじ曲がり方もしていません」

「ラウルさん。本題でいいわよ。それとも、そんなに言いづらいこと?」

「言いづらいですねえ」

 ため息ひとつ、作った。

「あんまり、こういう奇策を作るのはね。マギーさんには、よくないことだと思うんですよ」

 やはり、難しい顔をされた。

「あんたは現場の人です。現場で、皆を引っ張ってく人です。ようやく、見っけたんでしょ?このやり方。って、やり方」

「そうね。私、ダンクルベールになれなかったから」

「うん。だからさ、よくないなって。言い方悪いけど、未練っていうかさ。また、ダンクルベールになろうとしてる」

 一瞬、眉間に怒りを見せたが、すぐに平静に戻った。

 感情豊か、あるいは起伏の激しいところがあるひとだが、制御は十分に可能である。こちらもあえて、そのあたりを突っつく言葉選びはしていた。一度怒らせて、平静を取り戻させたほうが、話しがうまく進むこともある。

「落ち着いて聞くようには、努力するわ。ラウルさん」

「こちらも、受け入れて貰えるよう、言葉は選ぶ。いやだったらすぐに言って下さいよ。マギーさん」

 話を続けても、大丈夫なようだった。

「あの人さ。よく話すし、家庭でも、家が近いこともあって、家族で仲良くさせてもらってるけどね。やっぱりこう、おっかないっていうかさ。人とは違うものを多く持っている人なんですよ。例えば、出自ひとつとってもそうだし、才覚も、経歴も。何より、あのひと個人の生きてきた道ってさ。常人には耐えられないことばっかりじゃんか」

「奥さまとかとのこと?」

「そう、主にそれ。そこと、“湖面の月”と、あのガンズビュールって、立て続けなんですよね」

「強い人だと思っていた。だから、乗り越えたんだって」

「俺もそう思ってたけど、違うんですよ。あのひと。ずっと引きずってる。ひとつも乗り越えてなんかいない。あのひとの湖面には、ずっと、月が映ったまんまなんです」

「例えが上手すぎて、わからないわよ。ラウルさん」

「闇が深い。それだと、直球すぎるかなって」

 あえて言った言葉に、ビアトリクスの眉間に皺が寄った。そして少しして、ひとすじが、流れてしまった。

「うん。直球すぎた」

「ごめん」

「大丈夫。あの人の陰を見ると、つらくなるっていうか」

 貧民の出身。縁に恵まれ、捜査官として身を立てた。良家のご令嬢と結ばれたが、子どもふたりが産まれた後、不貞が明らかになり、妻は失踪。しばらくして、知らない男とふたり、浜に打ち上がっていた。

 ちょうどボドリエール夫人が、かの傑作、“湖面の月”を発表して間もない頃。

 そしてその末路は、“湖面の月”のそれをなぞっていた。

 前職で、ダンクルベールは、要注意人物として監視されていた。怜悧で果断。手を汚すことに躊躇がない。いわゆる裏社会にも顔が利き、特に“一家”のジスカールという、こちらも要注意人物として監視していた、悪党の知己でもある。そしてまた、要注意人物のひとり、ボドリエール夫人とも、交友があった。こちらも聡明怜悧。作家ではあるが、心理学者や精神科医のような、人の隠したものを見透かす何かを持っていた。

 ダンクルベールが、このふたりと連携を取り、本気で前職を狙いに来たとすれば、太刀打ちはできなかっただろう。あのスーリですら、何度か捕らえられていたのだ。

 その前に、政変が来た。

 死ぬつもりでいた。妻の郷里に、妻と子どもを逃がし、司法警察局に出頭した。すべてつまびらかにし、処断を仰いだ。それぐらいのことをやってきたから、死ぬべきだった。

 たまたま妻を育て、働かせてくれていた方が、セルヴァンの親戚だった。その方が気を利かせてくれて、生命ひとつ、繋いでくれた。

 生きて、妻子と出会えた。あの時は、本当に久しぶりに、涙を流した。

 そして、ダンクルベールと出会った。

 闇を見た。闇しか、見えなかった。自分と同じ類、あるいはそれ以上のもの。

 自分の闇は、培ったものだった。仕事上、それが必要だったから。だが、ダンクルベールのそれは、人生を歩んできた中で、積り重なってきた、澱んだ闇。本当の、闇。

 驚きはしたものの、怯えはなかった。だからこそ聡明で、老獪で、果断であれたのだろうという、納得があった。向こうも、おそらく自分のそれを見抜いていた。

 だから、汚れを担うことを選んだ。ダンクルベールがやってきたことを。

 謀略、奸計。闇に潜み、闇を暴く。闇を知らなければ、それはできない。アルシェは闇を知り、そして一度死んだ人間だった。だからそうすることに躊躇いはなかった。今まで通りのことを、違う場所でやるだけだった。

 ビアトリクスは、聡明だった。果断だった。だが、闇がなかった。

 ダンクルベールになりたかった。でも、なれなかった。ダンクルベール自身も、ビアトリクスをダンクルベールにしてやれなかったことを、悔やんでいた。

 だがふたりとも、見落としていた。ダンクルベールというものの本質は、積り重なった、闇の中にあることを。

 ダンクルベールになる。それは、水面みなもに映った月を、浜に打ち上がった死体を、ずっと見続けること。人間の生々しさ。業。それを突き詰めたものと正対したまま、正気で居続けること。

 それは人ではない。人でなしだ。ダンクルベールとは、シェラドゥルーガなのだ。それは、あの夫人と出会って確信したことだった。

「俺は前職で、汚いことばっかりやってきたから、そういうのには慣れてる。必要なことと、不要なこと。でも、必要なことのために、不要なことをやる必要もある。そういう風に割り切れるようになってる。あのひとは、心の澱んだ部分で、割り切らないまんま、できちゃう人なんです。だから表面上は、清濁併せ呑んだ、神算鬼謀の人っていうふうに見えているだけ。これ、ムッシュとかスーリもおんなじ」

「皆、難しい人たちね」

「そう。だからさ、そういう人たちを目指しちゃあ、駄目なんです。いざ、それが見えちゃったときに、耐えられなくなるから。さっきマギーさん、泣いちゃったでしょ?それがそうなんです。見ちゃいけないもんなんですよ、あれ」

「ラウルさんは、なんで大丈夫なの?」

「たまたまですよ。見ても大丈夫だった。それだけ」

 そのあたりで紙巻きが短くなった。そろそろ終えよう。そう思いながら、灰皿に押し付けた。

「だからさ。そういうのは、俺、やりますよ。マギーさんは、ちゃんとしたやり方だけやりましょうよ。じゃないと、ダンクルベールになっちまう。さっき見たものに、なっちゃいますよ。俺、マギーさんには、そうなって欲しくない。ようやく見つけた、かみさんの同郷の友だちだし」

「サラねえには、助けてもらってる」

「どんどん頼ってよ。かみさん、マギーさんのこと大好きだし。かみさん、ひとりっ子で、両親を早くに亡くしてるから、妹が欲しかったんだって。マギーさんが可愛くって仕方ないみたい。サラねえ、サラねえって、呼んでくれるって」

 ビアトリクスと、妻のファーストネームは、同じだった。サラ。サラ・アルシェと、サラ・マルゲリット・ビアトリクス。妻と自分が同い年で、ビアトリクスが、二つか三つ、下だったはずだった。だから、サラねえと呼んでくれている。

「思いついたとしても、俺に言って下さい。それなら、マギーさんは現場に居続けられるし、若いこたちの上に立ってられる。俺は、そういうのの専門。長官もウトマン課長も、そういう見方をしてくれてるから、気が楽なんです」

「ご提案ありがたいけど、自分のケアとか、大丈夫?」

「勉強中。鏡を見る方法ってのが、あるんだよ」

「そう。なら素直に、甘えることにする」

「改めて、ごめんね。マギーさん」

「いいの、こちらこそ。ちょっとだけ、つっかえてたから」

 きっと本心だろう。そう思うことにした。

 ビアトリクスには、陽の当たるところを歩いてほしい。それもまた、自分の本心だった。毅然とした、綺麗なひとであってほしかった。

 一滴であれ、心に落ちたそれは、大きな染みを作る。ダンクルベールになれなかったビアトリクスが、それに耐えきれるとは思えなかった。耐えきれなくなったら最後、湖面に映る月と星々に吸い込まれてしまう。

 部屋を出るとき、ビアトリクスが振り向いた。

「ラウルさんさ。今度、ごはん、食べに行ってもいい?子どもと旦那、連れて行く。うちの子、ラウルさんのごはん、好きみたいだから」

 笑顔だった。いつも見ている、の顔。

「いいよ。食べたいものがあったら、言ってちょうだい」

 できる限りの、笑顔を、浮かべたつもりだった。

 これで、ビアトリクスはきっと、でいられる。

 陽が残っているうちに、家に帰れた。妻のサラと、息子のエドガーが出迎えてくれた。

「サラさん、帰りました。今、ごはん作るから」

「おかえり、ラウルさん。ごめんね。いっつも」

「エドガー、今日、休みだったじゃん。ありがとうね。明日は俺、エドガーの番だから。ごはん、よろしくね」

 家事は、交代制。最近はエドガーも手伝ってくれる。十二歳。すっかり、大人扱いで大丈夫になった。

 ありがとうと、ごめんなさいは、欠かさない。家のしきたりとして、ふたりで教えていた。そしてふたりで、実践している。それだけで、ずっと、雰囲気は良くなる。

「ありがとう。折角だし、オーブ、行かない?エドガーが行きたいって」

「賛成。ありがとう。じゃあ順番、繰越で」

 これも鉄則。できるだけ、相手の提案は聞き入れること。子どもはそうじゃないけれど、夫婦は、もともと他人。協議を重ねて、理解し合う。提案を受け止めることは、何より大事なこと。あとは、家では紙巻は、吸わないこと。

 家庭がいちばん好きだった。

 仕事は嫌い。いやなことばかりだから。でも、必要。稼がなければならないし、家のために大切なことは、職場から拾ってこれる。人との接し方。話し方。あるいは所作とか、そういうところも。

 必要なことと、必要じゃないことがある。でも、必要なことのために、必要じゃないことをやる必要もある。そこをちゃんと線引できていれば、難しく考える必要は、あんまり無くなる。自分なりの、処世術だった。

 油合羽あぶらがっぱ。正直、苦手だったが、最近、ようやく馴染めるようになった。

 人に頼んで、油を抜いた油断合羽ゆだんがっぱにしてもらったというのも、多分にある。普段遣いでも、色々と便利だった。略式軍装のうち、ダブルのジレと、タイを取って、下はトラウザーと靴を履き替えれば、すぐに出かけられる。油は落としてあるので、子どもを抱いたり、肩に担いでも気にならない。季節ごとに種類もある。そろそろ借家から一軒家にしてもいいかもしれないと考えていた。花とか、家庭菜園も、やってみたい。そのための野良着としてもいいだろう。

 十二歳。もう、重たい。でもまだ、心は子ども。はしゃいでばっかりだった。きっとサラに似た。目が穏やかで、自分の目とは、大違いだった。

 サラは、きっと綺麗になった。

 新任少尉として着任したフォンブリューヌで出会った、セルヴァンのご親戚のところにいた、使用人だった。両親を早くに亡くしたのを、使用人として迎え入れ、養っていたという。あまりにもてきぱき働くものだから、手放すのが惜しくなって、気付いたら婚期を逃しかけていたところに、ひょんなことから自分と誼ができたので、ならば、と紹介してくれた。

 最初こそ、まあ普通、ぐらいしか見えていなかったが、過ごす時間が長くなるにつれ、綺麗なひとを貰ったなと、思えるようになった。

 ビアトリクスに会わせたときには、随分、驚かれたものだ。何あれ。年上には見えない。肌が綺麗。髪も。ずっとそんなことを言われたが、ビアトリクスも十分に美人なので、謙遜しているだけかなとばかり思っていた。自分の見る目が無かっただけらしい。

 きっと、普通の家庭。でも十分に、幸せな家庭。

「おお、アルシェ」

 行きつけのビストロ。ビストロ・オーブ。見慣れた褐色の巨体が、路地の卓ひとつ、使っていた。ここのカウンターはちょっと狭いし、このひとは路地卓のほうが好きなようだ。まだまだ冬の寒さだが、気にも留めていない。

「どうも、長官。ほら、エドガー。お殿さまだ」

「お殿さまだ。騎士シュヴァリエさまだ」

 エドガーが、ダンクルベールに駆け寄っていった。ダンクルベールも、悪い左足を折ってまで、笑って抱き寄せてくれた。本当に、自分の孫のように接してくれる。

 政変後、引っ越しをしてから、近くにあったこのビストロでばったり会ったのが切欠だった。子どもがダンクルベールのお殿さまが大好きだから、ご厚意に甘えるかたちになった。

 今ではすっかり、家族付き合い。子どもにとっては、いいお爺ちゃんだった。ダンクルベールとしても、娘ふたりとも遠いところにいるらしく、孫とは頻繁には会えないということもあって、とても可愛がってくれていた。

 今日も結局、相席にしてもらった。ディナーセット、三人分。ひとり、子どもがいるけど、あまり気にしなくていいです。伝えるのは、それだけ。

「マギー、大丈夫そうだったか?」

「ちょっと、泣かせちゃいました。でもまあ、マギーさんは、マギーさんでいてもらわないとね。ちゃんと受け入れてもらえました。ああ、サラさん。今度、マギーさんたち、うちに遊びに来るってさ」

「本当?嬉しい。マギーといっぱい、お話できる。エドガー。今度、フェリクス君、来るんだってさ」

「お泊り?やったぁ」

「ごはんだけだよ。でも、いっぱい遊べるから」

 ダンクルベールから、ビアトリクスへのお節介を頼まれていた。手塩にかけて育てた可愛い部下ではあるが、自分が言えばきっと、角が立つから。

 ダンクルベールだけでなく、ウトマンや他の仕事仲間からも、そういう相談はよくされていた。自分の口からは言いづらいのだけれども、という類だ。これも自分の、汚れ仕事のうちである。

 人のために働くのも、必要なこと。

「マギーは仕事人間だからなあ。お前が来てくれて、本当に助かったよ。部下とか後輩はいるけど、友だちがあんまりいないみたいだから」

「本当。娘さん、何人いるんですか。いっつも思いますよ。ずっとお父さんやってて、大変じゃないですか?」

「染み付いちまったもんは、そう簡単に取れまいよ。ああほら、エドガー。行儀よくしなさい。ごはんが来ますよ。ちゃあんと、ミュザさまに、いただきます、するんだぞ?」

 男手ひとつで娘ふたり嫁がせて、孫もいる。本当に、教育上手な人だった。エドガーも、お殿さまの言うことなら、素直に聞く。

 いつもどおり。ディナーセット、三人分。エドガーの分は、亭主さんが気を利かせて、色々変えてくれる。ダンクルベールもいつも通り。緑の瓶と、海鮮のタルタルに、チーズが幾つか。巨躯の割に、それだけでいいらしい。

 いつもどおり。そうやって、過ごしている。


(つづく)

Reference & Keyword

・リゼ・ヘルエスタ

・葵小僧

・三国志 / 北方謙三

・血涙 / 北方謙三

・水滸伝 / 北方謙三

・天海祐希

・Bruce Lee / Marcus Miller

・羊たちの沈黙 / トマス・ハリス

・St.Anger / Metallica


改版履歴

・24.4.4:初版

・24.12.2:3章、加筆修正

・25.2.22:5章、加筆修正

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