協奏曲、あるいは、狂騒曲
時、川の如きもの為れば、どうと流れ出でる事もあり。
交わりて、或いは離れ、朝に澄み、昏きに澱む。
跳ねるものを追うもの在れば、只、水を汲むものも在り。
何れ海へと流れ着けば、川、それを卒える時なり。
袁季鮑、著
エルヴェシウス、訳
詩集“須臾”より
1.
人が、宙に浮いていた。
二階の窓から見えた光景である。それは下から跳ね上がってきて、そして落ちていった。
下には練兵場がある。今の時間は、確か“錠前屋”が使っていたはずだった。
「ルキエ伍長かな?」
落ち着き払った様子で、隣にいたガブリエリが言った。
「そうじゃないかな。あの人、口が悪いからなあ」
ペルグランにとっても、見慣れた光景だった。
ご存知、“錠前屋”名物、オーベリソン軍曹の指導である。
身近な大男であるダンクルベールに匹敵する背丈ながら、筋肉の量であればそれを遥かに凌ぐ、北方アルケンヤールの血を引く巨人である。いわゆる“南蛮北魔”の“北魔”の方。今でも多数の紛争、係争を抱える、蛮族の名産地だ。長柄の斧と、父祖伝来の、目元を覆うような鉄兜を身に着けたその姿は、まさしく“北魔”の再来というべき、恐怖の威容である。
その屈強な肉体と厳しい顔面とは裏腹に、本人の人となりはまさしく父性の人であり、心優しく、剽軽である。いくらか長い顎髭を、ご家族の皆さまや、仲の良い女性隊員などに三つ編みに結ってもらっているらしく、日によってその結い方がちぐはぐだったり、おしゃまなリボンを付けられたりしている、気のいいお父さん、といった人だった。
ただしかし、あの“錠前屋”の筆頭下士官である。
いわゆる特殊部隊。精鋭である。誘拐や立て篭もり事件など、武力以外での解決が困難な状況の対処を目的として設立された、というのがお題目であるが、実際は、政変前後での急激な治安悪化により、司法警察局独自の機動戦力が必要となったダンクルベールとセルヴァン両名の判断により急遽設立した、未だ組み立て途中の掘建小屋である。
隊長を務めるゴフ中尉を筆頭に、強兵という名の乱暴者と問題児が揃い踏みであり、平時でも喧騒が耐えない有り様だった。警察隊という肩書きがついたごろつきだと言われても、否定はできない。
国家憲兵隊警察隊とは、軍隊である。軍隊とは、規律と規則によって制御される暴力装置である。そして現場にて、その規則と規律を担うのは、曹長、軍曹などの下士官である。
立ち返って、“錠前屋”の規律を担うオーベリソン。
勿論、話が通じる相手であれば、父親のように諭すだろうが、相手は何しろ“錠前屋”である。話は通じなければいい方で、胸ぐら掴まれて怒鳴り返されるのが普通なぐらいだ。
そうすれば本人の言葉を拝借して、道理を諭し、義理人情に訴えかけるべき状況において、それが可能なほどの余裕が与えられていない場合の最適解とは、即ち腕力、ただひとつになる。
あの強靭な肉体をふんだんに使った、砲弾のような拳骨が、“錠前屋”を軍隊として一応のかたちを保つ、唯一の規律なのである。
勿論、突然ぶん殴るようなことはせず、まずは姿勢を正すことを促し、改めるべき部分を説き、相手の復唱と返答を確認したうえで、それでは指導するので用意、と順番を整えてから、ぶん殴る。
その威力たるや素晴らしく、人の十人分ぐらい吹っ飛んだり、その場でぐるぐると風車みたいに回ったり、あるいは今日のように、空高く打ち上げられたりする。
最初見た時は戦慄したが、ことの経緯や、オーベリソンの人となり、あるいは“錠前屋”の面々の素行不良ぶりを知るうちに、まあ、そりゃそうなるわな、と納得し、今に至る。
今回はおそらく、ルキエという女性下士官が相手であるので、ある程度の手心はくわえているのであろうが、それでもこれぐらいにはなる。ちょっと下を覗いてみると、“錠前屋”の面々と、地面にへばりついたルキエ、ちょっと離れたところでへたり込んだ、自分たちと同期の女性士官、ラクロワ。そして、慌ててすっ飛んできた衛生救護班班長、聖アンリことチオリエ特任伍長の姿が見えた。
ペルグランは、それこそ“錠前屋”を含む各隊員へ、福利厚生関連の書類を渡す業務の途中だったので、そのまま階下の練兵場へ向かうため、そのあたりでガブリエリと分かれた。
はたして練兵場にたどり着いたときには、オーベリソンとアンリが、ぎゃあぎゃあと言い合いしていた。
「だから、ちゃんと手加減はしたってば。持ち上げるようにして、投げ飛ばすようにしているから、そこまで大きな怪我をしているわけじゃあないだろう?」
「それでもやりすぎです。ルキエは女の子ですよ。女の子に手を挙げる殿方なんて。カスパルおじさま、見損ないました。最低です」
「ルキエもルキエで悪いところがあったから、軍人として、ちゃんとそういうのを直してもらうためには、こういうことも必要なんだよ。なあ、アンリちゃん。俺だって大変なんだ。日に六人も殴っていれば、手も腫れる。どうかこの通りだから、そんなに怒鳴らないでくれよ」
これもまた、見慣れた光景だった。このふたり、同郷である。それもアンリが赤ん坊の頃からの付き合いだそうで、くわえてアンリは修道女として、オーベリソンは自警団として、あの凄惨な戦場の中を駆け回った戦友でもある。
ふたり、同時期に招聘されており、オーベリソンははじめ、辞退を考えていたが、アンリが行くと言ってきかなくなり、それを心配するかたちで着いてきたらしい。そしてアンリの方が強情で、オーベリソンの方はその父親気質もあり、強くは出られない。
「また、カスパルおじさまに、アンリちゃん、ですか」
各位に書類を手渡しながら、ちょっとぼやいた。
「他部署から来た若い士官が、ラクロワにちょっかいをかけやがったんだよ。俺があしらう前に、ルキエが噛みついた。やり方がまずくて怪我をさせた。その点を注意したら文句を垂れた。だから指導だ」
ゴフが、ことの経緯を説明してくれた。
小柄で華奢、それに気の弱いラクロワのことだ。調子づいた連中に言い詰められて、竦み上がってしまったのだろう。そういうのは普段、弱いものいじめが大嫌いなゴフの出番だが、ラクロワと仲の良いルキエが、それより先に飛び出したわけだ。気が強く、口の悪い人だ。取っ組み合いの末、怪我をさせて、追い散らしたはずだ。
ここら辺、ゴフは本当に上手で、傷を負わせず、それでいて、こわい思いをしてもらうようにしてあしらう。喧嘩上手は、気遣いも上手なのだ。
「俺は今から、向こうさんに、謝罪と経緯の説明に行ってくる。ルキエは落ちた際の捻挫ぐらいかな。アンリも来たし、大丈夫だろ。ふたり分、書類は机の上に置いといてくれ」
かしこまりました、と敬礼し、さてと、自分はへたり込んだままのラクロワを気遣うことにした。
「ラクロワ、落ち着いた?」
「ごめんなさい、ペルグランくん。私が情けないばかりに」
「こわい思いをしたんだから、そこまで思い詰めなくたっていいよ。ちゃんとルキエ伍長に、ありがとうって言っときなよ?きっと、軍曹にぶん殴られるの覚悟の上で守ってくれたんだからさ」
素朴なそばかす顔を涙で濡らしながら、ラクロワがのそのそと立ち上がり、へたばったルキエの元に歩いていった。
気が弱いが頭は走る才媛で、あのセルヴァンが欲しがるほど、後方支援に卓越した才覚がある。ダンクルベールは、まずは捜査官として教育を済ませた後、司法警察局へ嫁がせる、という考えのようだ。
ただどうしてもその背格好とか性格から、男所帯の国家憲兵隊では、ちょっかいをかけられやすい。
自分がぶうたれ小僧だった着任当初から幾分経ち、精神面で余裕ができてきたあたりに、それに気が付いた。だから、同じく同期であるガブリエリとふたりで目を配るようにしていたが、ガブリエリはガブリエリで、あの顔面のこともあり、今度は女性隊員からやっかまれる遠因となりはじめた。仕方がないので、歳近い先輩隊員たちや、ルキエのように、あれと仲の良い女友だちに頼み込んで、ラクロワの面倒を見るようにしていた。
数少ない同期。いくらかでも力になれるなのならば、なってあげたい。
「ルキエのきかん坊ぶりも健在か。どうしたもんだかな」
ひとしきりが済んだあと、本部長官執務室に戻ると、おそらくゴフや向こうさんからの話があったであろうダンクルベールが、ぼんやりと天井を眺めていた。
「“錠前屋”設立から、確実に検挙率は上がっています。ある程度の素行不良は、仕方ないかと」
「他部署の人間に怪我をさせるのは、流石にまずい。今回は向こうにも落ち度はあるとはいえ、素行についてはもう少し改める必要があるな。セルヴァンに相談してみよう」
「上から順々。それでいいと思います」
ダンクルベールに珈琲を差し出しながら、答えた。ダンクルベールはその香りに、満足そうな顔をした。
副官仕事も色々あって、こういったお茶汲みのようなことも、ひとつにある。男がそんなことをするなんぞ、とは思ったが、家の嗜みと自分の好みもあって、紅茶や珈琲を淹れるのは、好きなことであった。もの自体は軍の支給品ではあるが、淹れ方ひとつで、味は随分変わる。日々、応対する来客や、他部署のお偉方には、自分の名前とあわせて驚かれ、また大いに褒められた。
「そうだ、ペルグラン。出張がある。用意をしなさい」
「はっ。どのような案件でしょう?」
「ヴィジューション。応援要請が来ている」
ダンクルベールが、応接卓の方に体を動かし、卓に資料を置いた。随分な量があった。
「死体が多すぎる」
ざっと並べた資料。およそ二十。これがすべて、死体の数。
顔から、血の気が引いていた。
「交通の要衝だ。大きな街道がある。ただまだ整備が追いついておらず、オイル灯の設置数は少ない。憲兵隊の郵便運送局でもよく使う道で、そいつ等が早朝、死体を見つけて腰を抜かす、というのが、ばんばん上がっている」
この国や、北東の海を渡ったユィズランド連邦において、郵便配達は憲兵、あるいは軍隊の仕事である。昔、東の大平原と“国境”を隣するオルリアント辺境伯領が、大平原の駅伝制という制度を取り入れたのが、そのはじまりである。
主要な街道、道路上に、等間隔で宿駅を設置する。各駅には十分な量の馬や鳩、食事、そして寝床が用意されており、民間人であれば安宿として、軍隊としては簡易的な拠点として機能している。緊急時などは、そこに寄る度に馬を替えて、ばんばんと走り継ぐのだ。
現在でも、軍馬の鍛錬や、設備の定期点検、あるいは街道沿いの治安維持のために、郵便配達の名目を使って、その制度を保っていた。勿論、利用者からは切手代や運搬料を頂戴するので、国家憲兵隊としては、貴重な収入源のひとつでもある。
「下層階級が多い地域だ。冠婚葬祭に金を回せないものが、家族の亡骸を棄てて烏に啄かせる、ということは、こちらの方でも見る風景だが、困ったことにほとんどが殺しだ。それも手口が違うし、どれもが洗練されている。連続殺人犯は手口を変えない。基本中の基本。バラチエ司祭のときにも、その話はしたはずだ」
「聡明で、狡猾な、連続殺人犯ですか」
「支部小隊の人数と人材は不足なしと見ていたが、それでも打つ手なし、だ。だから、俺が行く。長くなるだろう」
「その間の本部運営は、どうしますか?」
「ウトマンがいる。あいつなら回せる」
ダンクルベールは、さっと答えた。
百貨店こと捜査一課課長、ウトマン少佐。異名の通り、ひと通りのことを、ひと通り以上にこなせる秀才だ。それぞれ必要に迫られて覚えたこと、と謙遜しているが、とてもそうは思えない。
「お前が来てくれたから、これもできるようになった」
ダンクルベールが、嬉しそうに、にこりと笑った。
それを見て、嬉しさと気恥ずかしさで、ペルグランも笑ってしまった。
「あとは、相手がこちらを上回る場合のための“鬼札”だな」
“鬼札”。つまりは、ボドリエール夫人こと、朱き瞳のシェラドゥルーガ。
かつて文壇を席巻し、熱狂の時代を拓いた女流作家。第三監獄の最奥に座する、凶悪殺人犯。そして、摩訶不思議な力を操る、人でなし。
傲慢で残忍、尊大で冷酷。しかし礼節と教養に溢れた智の巨人であり、ダンクルベールの宿敵として、また恩師として、今もなお闇の中で蠢き続ける、正真正銘の化け物である。
どこまでも頼りになる反面、どこまでも信用ならない。
「連れて行くことはできません」
「そうだ。遠方になるから、連絡も取りづらい。連絡を取っていることがマスメディアに知られるのもまずい。で、だ」
ダンクルベールがそこまで続けて、のそりと立ち上がった。小さな執務室に対して、その巨躯は、あまりに収まりが悪そうだった。
「札遊びをするうえで、忘れてはならないことが、ひとつ」
ちょっとした言葉遊びのような選び方をして、続ける。
「“鬼札”は必ず、二枚ある」
ふと、正面に気配を感じた。見やると、人がひとり、座っていた。
小さい男。朱みがさした、浅黒い肌。印象としてはそれだけで、どことなく、覚えづらいというか、記憶に残らない。そこら辺にいる人、という雰囲気だった。
先程までいなかったはずだが、突然現れたのか、それでも別段、驚きを感じなかったのが、自分でも不思議だった。
手枷と、猿轡をされていた。それだけは、気になった。
「“鼠”だ。ようやく使う許可が下りた。アルシェのかつての仕事仲間といえば、話が早いかもしらん」
旧王朝の“秘密警察”。
厳密には、名前がないらしい。ただし、そういう組織を、旧王朝は抱えていた。政争のための目であり、刃であり、盾である。政変の際、捕縛された将校や王族の証言でその詳細が明らかになり、その殆どが処断されている。
「こいつは、もと暗殺者。それも神域のだ」
暗殺者。
闇の中を駆け回り、命を奪うものども。謎に満ちた、そして明かされることのない、見えない恐怖。
それが、対面に座した、この小さな男だというのか。
「どうも。鼠のスーリでおま。この度、中尉相当官を頂戴しました。おかげさまで、正規軍人の仲間入りさね」
またふと、正面を見た。小男がにこにことしながら、敬礼を捧げてきた。口調も明るいというか、おちゃらけていた。
手枷と猿轡は、どこにも見えない。
「暗殺とは気付けない手口。政変後、かつての王族や、組織の重役の証言以外、一切の証拠がない。それぐらいの腕前だ。偽装工作、潜入、変装も熟達以上。特に生存能力だな。こいつはすごいぞ」
そこまで続けて、ダンクルベールは苦笑いを浮かべた。
「少なくとも俺たちに八回逮捕され、五回は処刑されている。うち一度は、こいつ本人として。しかもあの、ムッシュにだ」
言われて、唖然とした。きっと阿呆面を晒しているところだろう。死んでも生きている人間が、ここにもいたとは。
「こないだ会ったとき、ムッシュのとっつぁん、泡吹いて倒れちゃったや。悪いことしちゃったねぇ。あの時は、本当に色々と気を揉んでくれて、おかげさまで胸張って死ぬことができたよ。神さま、ミュザさま、ムッシュさまだ」
死んでいるはずの人間が、きゃっきゃと笑った。口調はどこまでも軽く、そして底抜けに明るい。
「本人を前にしてですが、暗殺者とは思えないぐらい、明るい人ですね」
「んにゃあ。処世術、処世術さ」
ペルグランが漏らした言葉に、男は頭を振った。
「あんまり言いたかぁないけど、おいらは産まれたときからの、奴隷だった。包丁一本渡されて、死んでこいって言われてきた。やってられっかよ。眼の前のこいつ殺してでも、生き延びてやる。ただその思いひとっつでしのいできた。そのためならどんな努力でも苦労でも、喜んでやってきたよ。本当、政変で全部おじゃんになって、ばんばんざい。もう殺しなんてやらなくて済むんだからね」
そこまでさらさらと言っていたが、その目は、真っ黒だった。光を吸い込む、黒点。
ひとごろしの目。そう、直感した。
「職業暗殺者。それでも、殺しはうんざりだったと」
「そんなもん、いやしないさ。大した稼ぎにはならない。収支はいつだって大赤字だし、何しろリスクが大きすぎる。やるだけ馬鹿をみる仕事だ。皆、小説の読み過ぎだよ」
真っ黒な目のまま、それはからからと笑い声を上げた。
「教訓となる言葉だ。そのまま、面接を続けようか。殺しはひととおり、できると聞いていたが、得意科目は?」
「そりゃあ馬だね。轢いてよし、蹴ってよし、振り落としてよし。焼いて食うこともできるから、証拠としても残りづらい。万能包丁より万能だ。馬食うのには抵抗あるだろうから、人にはおすすめはしないけどね」
その答えに、思わず苦笑してしまった。
確かにこの一帯では、馬肉を食する文化はなく、特に軍人や農民からは、忌避される傾向が強い。曽祖父たるニコラ・ペルグランの日誌には、戦地で食うものがなく、足の折れた軍馬を屠って喰ったら美味かった、なんて記載があったが、実際はどうなのだろう。
「捜査官として連れて行くことになる。やり方は任せるが、どのように進める?」
「チェックリストを作るのがいいかな?殺しの手口ごとに、気をつけるべき点というのがある。それを塗りつぶしていって、空白になる欄が証拠になるはずさね。どうじゃろ?」
ふざけた口調だが、受け答えはしっかりできている。不自然さはない。
「合格。あらためて、ご就職おめでとう。歓迎するよ」
「後で雇用契約書はちょうだいね。ちゃんと確認しないと、後々、面倒なことになるから」
「大事なことだな。出立は明後日。諸業務の引き継ぎを済ませて、身を綺麗にしてからの出発だ」
「へい、かしこまり」
瞬きひとつだった。
スーリが、消えていた。見渡しても、何処にもいない。
「曲者だが、あの通りの性格だ。組み合わせには困らんだろう。アンリエットだけは気がかりだが、境遇を知れば、ある程度の同情は買えるだろうし、あいつも、そのあたりの腹芸はできるはずさ」
「それこそ“足”でいいんじゃないですか?」
「“足”はどこまで行っても俺の私兵だ。正規軍人として、密偵、斥候、囮に使える、特殊工作員が欲しかった」
言った通り、ダンクルベールは、私的に密偵を抱え込んでいる。元来、現場の人であったが、左足を悪くしたから、その“足”代わりである。“足”の頭目が都度、人員の調達と育成をしているそうで、その規模と人員については、今やダンクルベール本人でも把握しきれないほどになっているらしい。
「そうだ。行く前に、ウトマンと話をしておきなさい。きっと喜ぶはずだ」
「喜ぶ、ですか」
「ヴィジューションには、あいつの友だちがいるからな」
ダンクルベールは、本当に、優しい顔をしていた。
言われた通り、後ほどウトマンに出張の話をした。確かに、本当に嬉しそうにしていた。仕事を折ってまで、色んな話をしてくれた。
ウトマンの若い頃の話。そしてその同期の、おかしな男の話。本当に面白くて、何度も笑ってしまった。そして、本当に楽しそうだった。
「よろしく言っておいてくれ。私は元気だってね。あいつはきっと、元気だろうけど」
いつも忙しそうにしているウトマンが、とびきりの笑顔でそう言った。
泣き虫ヴィルピン。そういうひとが、いるそうだ。
2.
暗がりの街道。驢馬を連れて、歩いていた。
荷は、ひとつだけ。麻袋に入れてあった。整備された街道だが、その背の上で、不安定に、ふらふらと揺れている。
また、やってしまった。
そればかりが、心の中にあった。衝動に駆り立てられ、気付いたときには、ことは済んでいた。こうやって、心の中には、澱ばかりが積もっていく。
だいたい、いつもの場所。前のものは、既に見つかっていて、それでも、たどり着かれてはいない。そこに荷物を放り捨て、また、とぼとぼと街道を歩きはじめた。
空が、白みはじめている。光が、心を苛みに来る。
「また、あんたかい」
正面。男ひとり。髭面の、大柄な男。
「心配だよ、あんた。見つかるかどうか以前に、あんた自体が。そうやって、しょぼくれてよ」
紙巻をふかしながら、男は難しい顔をしていた。
この男も、ここで似たようなことをしていた。ただ自分と違い、こいつは自分の意志で、そうしていた。
「お互い、詮索はしないと言ってはいるがね。あんた、余所に行ったほうがいい。もっとひどくなるぞ」
「それができない。そういう立場なのだ」
「そういうのも、あるのかねぇ」
声色は、沈んでいた。本当に、心配してくれているようだった。
「他に何か、無いのかい?博打だとか、酒だとか。ああ、あんたの望みは、このあたりじゃあ売っていないか。隣にはあるらしいけどね」
「何も。何をやっても、逃げているようにしか感じられないのだ」
「いいじゃねぇか。目を逸らしな。全部捨てて、逃げちまいなよ」
紙巻。一本、寄越された。咥えてみる。火を、点けてくれた。
やはり慣れない。ただ苦く、煙たいだけ。
「正直に、迷惑なんだよ。別にお互い、何するわけじゃないが、あんたひとり無計画だし、不安定だ」
「すまないとは、思っている」
「望んでやっていることじゃないってのが、わかるのがよ。俺が言うのも何だが、これ、よくないことなんだぜ?」
それだけ言って、男は去っていった。
しばらく、立ちすくんでいた。そうして、昇りはじめる陽の光に急かされるように、また歩きはじめた。
行く場所も、望むものも、見つからなかった。
あばら家に、驢馬を戻した。そこで、もとの服に着替え直した。それで、自分自身も、着替える。自分の、地位と立場に。
「お早うございます。今日もいい天気になりそうですね」
家の近く。郵便憲兵が、わざわざ下馬してまで、挨拶してくれた。
「おはよう。毎日、ご苦労さまです」
「日課のお散歩ですか」
「毎日、机とにらめっこだからね。こうやって歩いて、英気を養わないと」
「それはそれは。お仕事、お疲れ様です」
よく会うひとりだ。若い郵便憲兵。爽やかな男だった。
「そうだ。あの街道、また増えたんですって。巻き込まれることはないでしょうが、くれぐれもお気をつけて」
「ありがとう。それでは、いい一日を」
「いい一日を」
そう言って、それは去っていった。
ふと、よぎった。彼ならあるいは。
彼なら、わかってくれるだろうか。
衝動が、膨らんだ。眼の前が暗くなるほどに。それを、何とか理性で抑え込む。苦痛。悲鳴。自分の、鼓動。
屈み込んでいた。腹のものを、戻していた。
堪えた。衝動を、堪えきった。
ハンカチーフで、口元を拭い、立ち上がった。まだ朝早く。周りには、誰もいない。そうして、家に戻った。
よくないことをしている。その言葉を、反芻していた。
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ああ、夫人。我が愛しき、心から愛する夫人。
どうぞ、どうぞ私めをお召し上がり下さい。この日のために、知を肥やし、学を育み、貴女への愛を蓄えてまいりました。身を清め、香を炊き、このように御前に見えました。ああ、お美しい夫人。目隠をされた今ですら、それが見えます。朱いおひと。麗しいひと。なにとぞ、なにとぞ。
ああ、夫人。痛いです。痛いです。そして嬉しいです。私めの腕を、そして足を。ああ、そうやって、我が生き血を啜ってくださるのですね。獣のように、貪り、求めてくださるのですね。どうぞ、どうぞお召し上がり下さい。今、生命の危機に瀕していることがわかります。体は震え、男のものは勃ち上がり、今まさに放たれようとしております。ああ、そんな。その手で掬ってくださるのですね。啜ってくださるのですね。これほどの果報はございません。
ああ、夫人。腹が、腹が裂けるのがわかります。夫人、痛いです。苦しいです。なにより、嬉しい。愛おしいです。この日のために、食を断ち、糞尿を絞り出し、肉の臭みを消しました。どうぞお召し上がり下さい。脂と酒で肥やした肝を、幾度となく水で洗い、濯いだはらわたを。どうぞ、どうぞお召し上がりください。ああ、今きっと、頭蓋が、脳漿が。
ああ、夫人。そろそろ、そろそろ。夫人。お別れなのでしょうか。今、私めはどこにいるのでしょうか。夫人。どうか、どうか抱きしめて下さい。私めは、貴女と共にありとうございます。そのためにどうか、お召し上がり下さい。私めを、貴女にしてください。どうか、ああ。
ああ、夫人。我が愛しき人。ボドリエール夫人。
-----
3.
ヴィジューション地方。首都から南西に、馬車で二日ほど。
沿岸部である。波の穏やかな浜。それを沿うように、大きな街道がひとつ。その他にも、各地方へ伸びる街道や、交易のための港がある。交通と交易の地である。もう少し南に行けば、船の交易と漁業が盛んになり、また、観光で有名な孤島、ウルソレイ・ソコシュにも行ける便もある。
道中は、賑やかだった。
ペルグランとスーリは、早速、仲良くなった。名家のご嫡男と、奴隷の出の、もと暗殺者。共通の話題があった。競馬である。ペルグランは、馬の見方にも習いがあるそうで、それを教えたり、過去の名勝負について、きゃあきゃあと盛り上がっていた。スーリもスーリで、年若い坊っちゃんが気さくに話してくれるのが嬉しいのだろう。友だち感覚でいいよ、と言って、逆にペルグランをかしこまらせてしまったりもしていた。
その賑やかさの中で、いくつか鳩を送っていた。おそらく必要になるものがあったので、それを頼もうと思ったのだ。
ジスカール。先の一件で遭遇した、悪党である。
あの時こそ、間抜けなこそ泥に身をやつしていたが、本来は、相当に名の知れた大悪党だった。かつて裏社会で、その名を轟かせた“一家”の頭目。生粋以上、がっしりとした芯の通った任侠者であり、長らく、敵と味方の関係にあった。
悪党の種類は数多いが、任侠とは、裏の警察だとか、司法にあたるものである。無論、違法薬物や密造酒などを取り扱う連中もいるが、ジスカールはそういうことを一切やらなかった。法の加護を受けられないものの庇護者となり、あるいは諍いの仲介に入り、他に迷惑をかけるようなやつを叩き潰す。裏の門番としても機能しており、裏にまつわる事案に携わるときは、ほぼ必ず相対する必要があるほどだった。
平時では信用がならないが、こちらが忙しくて、裏にまで目をやれない時には、本当に頼りになる存在だった。
何年か前、首都近郊の、裏の玉座にあった男が死んだ。
警察隊の宿敵。ジスカールもその男の世話になっていて、部下ではないものの、ほとんど右腕みたいなものだった。それがいなくなって、気が抜けたのだろう。すぐに家を畳んで、隠居した。
ただ、その男の部下たちが、食っていけなくなったと泣きついてきたらしく、恩義のため、なんとか食わせてやろうと、立ち上がったそうだ。
結局はうまくいかず、現行犯逮捕と相成ったが、セルヴァンや国家憲兵総監に掛け合い、利用価値があることを説き伏せた。任侠は裏の警察隊。そのひと言で、納得は貰えた。
それで、自分の“足”に組み込んだ。
裏は現在も、空位が続いていた。いつ諍いが起きてもおかしくはない。
だから、ジスカールに玉座につかせた。もとより名の知れた大悪党だけあって、他の悪党を説き伏せ、引き寄せ、あるいは打ち払って、あっという間に玉座に昇った。
その後、あるひとつの名跡を継がせて、その権威を高めた。その名ひとつで、首都近郊どころか、この国の裏は、太平の世を迎えることができるだろう。それほどの神通力を秘めた、巨大な名跡だった。
悪入道、リシュリュー。かつてその名を轟かせた、強大な悪の権化。悪党どもの首魁にして、神域の頭脳を誇った大学者であり、宗教家。死を迎えるまで、その漆黒の玉座を恣にした、ジスカールの恩人、その人のものである。
これで裏にまつわる面倒は、相当に少なくなるだろう。“足”の配置も、ジスカールひとつでよくなる。謀略家ではなく任侠者なので、恩の貸し借りを、裏切りはしない。
「泣き虫ヴィルピン。ウトマン課長が、言っていました」
そろそろ着く。そういうところで、正面に座っていたペルグランが言い出した。
「いっつもどじばっかりして、すぐ泣いて。でも立ち上がって、びっくりするほど成長して、そしてまた転ぶ。自分とは正反対なんだって。ウトマン課長、すごく嬉しそうに話してくれました」
その言葉に、こちらも嬉しくなっていた。
ヴィジューション地方の警察隊支部長、ヴィルピン少佐。
ウトマンの同期である。ふたりとも、あのガンズビュールで出会った。そこに配属されていた、新任少尉ふたり。まったくの正反対だった。
貧民出身。痩躯で、冷静沈着、堅忍不抜。何をやらせてもそつなくこなすのがウトマン。
対してヴィルピンは、地方豪族の次男坊。小太りで、勇猛果敢、猪突猛進。そして何をやっても失敗する。そして泣く。だから皆、あいつ大丈夫かよ。そんな目で見る。
それでも、立ち上がる。泣きながら立ち上がって、走り出す。
そうしてたどり着いた先は、いつだって大手柄。そうして、また泣く。皆のおかげだ。俺ひとりじゃ、何もできないんだ。皆、貰い泣きだ。ほうっておけない。あいつのために頑張ろう。いつしか皆、一緒になって、走っては転んで、走っては転んでを繰り返す。
転んで、泣いて、立ち上がる。そうやって大きくなり、人の心を掴んできた男。
素朴なカリスマ。それが、泣き虫ヴィルピンという男。
「ウトマンはあのとおりだから、俺の側で、俺のできないことをやってもらっていた。代わりに、ヴィルピンを里子に出したんだ。もう五年ぐらいかな。今のところは大好評だ。沢山の人に、慕われているそうだよ」
「失敗は許されない。そういう風潮が、あるとは思うのですが」
「ペルグランや」
身を乗り出した。きっと、思ったことを思ったとおりに口に出したのだろう。こういうことは、窘めておかなければならない。それもつとめて優しく、穏やかに。
「風潮は、風潮だ。失敗を経験して、間違いを間違いだと認識できるようになって、ようやく半人前。そうやって、人間としての精度を高めていくべきだ。俺は、そう思う」
そこまで言って、一旦、スーリを見た。
「スーリは、失敗が許されない世界で生きてきただろう?」
「そうっすね。心底、大変でした。いやでいやで、仕方なかった」
難しい顔だった。やはり本心は、殺しなんてしたくなかった。はじめて会ったときから、そう感じていた。
「失敗を許さないこと。それは、人を緊張させることだ。緊張すれば、頭はうまく働かんだろう?」
「はい。それは、仰るとおりです」
「ならば、ペルグラン。どうすれば、人の頭をうまく働かせ、緊張させずに仕事をさせられるかね?」
「失敗を許すこと。そして、克服の手助けすること。あるいは、失敗したことを、悔やませないことでしょうか」
「発想、着眼点、大いによし」
杖を鳴らした。
このあたり、この若者は、ちゃんと考えることができる。頭ごなしに詰め込まず、促して、発想させる。ペルグランは、それに応えることができた。
「ならばこその、泣き虫ヴィルピンなんだ。上のものが失敗し、それを克服していく姿を、下のものにも見せていく。失敗することは、こわいことではないことを、上のものが率先して見せていく。それで、組織の雰囲気は、ずっとよくなる。そういう風潮もあるということも、覚えておきなさい」
それで、ペルグランの顔も和らいだ。
もともと、ヴィジューション地方支部隊は、あまり評判がよくなかった。
前の支部長は厳粛すぎ、責任の追求に重きを置いているきらいがあった。また組織の練度を、検挙率という数字だけで評価してしまっていた。
それで、組織そのものが萎縮した。誤認逮捕、警察隊隊員による傷害事件、離職が相次いでいた。
だから、代わりにヴィルピンを置いた。
ちょっと若いとは思ったが、爆発した時のヴィルピンは、やはり強い。着任早々、馬からずっこけて怪我を負い、ひと月ほど職場に出れなくなった。病室で泣きながら謝り続けた。
それで皆、解れたのだろう。あらためて自分たちの役割を再認識し、組織として機能するよう、各々が奮起した。ヴィルピンが戻ってきたときには、皆の顔は、いきいきしていたそうだ。
ヴィルピンも元気いっぱいで、ちょうど一件、難しい殺しが残っていたのを、あっさり片付けてしまった。
それで皆、虜になった。
民衆も、あの頼りない小太りの支部長を何とかしてやりたいと、協力を惜しまないそうだ。
「ヴィルピンが困っている。それぐらい、今回の案件は難しい。俺も何度も資料を見たが、未だにわからん。実際に見てみなければ、きっとわからんだろうな」
「そうだね。あの可愛いヴィルピン君のためなら、協力は惜しまないよ」
正面から帰ってきたのは、女の声だった。
「ヴィジューションなんて、何年ぶりだろう。行くなら教えてくれたまえよ。先月ぐらいがちょうどよかったんだろうけど、秋の海というのも、風情があって良いものだね」
その声と姿に、隣りにいたペルグランが絶叫して、ダンクルベールに抱きついてきた。
朱と黒のドレス。焔のように揺らめく、朱い髪。
ガンズビュールの人喰らい。人でなしのシェラドゥルーガである。
スーリの肩に手を回し、その豊満な体を押し付けながら、いつの間にかそこにいた。気付いたが、全員の座っている場所すら変わっている。ペルグランは自分の正面にいたはずだ。
こうならないよう、スーリを用意したというのに。毎度毎度、面倒な化け物である。
「訪いぐらい、入れたらどうだ」
「入れたよ?この可愛いこにね。そうだろう?」
にやにやと笑いながら、それはスーリの頬を指先でつっついた。スーリが、硬い笑顔で首肯する。よく見れば、滝のような汗を流している。
「心臓と、頸動脈。大腿動脈に、両腕の上腕三頭筋。その他諸々。何か、突きつけられてたんでさあ。ようやく無くなったと思ったら、隣りにいるんすよ。おいら、泣いちゃうところだった」
凄腕の暗殺者である。それが急所を抑えられ、身じろぎもできずにいたというわけだ。
ごめんね。そう告げて、それはスーリの頬にベーゼをした。どこからか名刺を取り出し、渡す。それを見たスーリが飛び上がっていた。
「長官、脱獄ですよ。刑務局に連絡しないと」
「人聞きの悪いことを言うじゃないか、ペルグラン君。私はちゃんと、あの牢獄にいるよ?そして今、ここにもいる。とてもシンプルなことだ。若いのだから、柔軟な発想をしたまえよ」
シェラドゥルーガはスーリに抱きついたり、頬ずりしながら、軽口を叩いた。そうした後、ペルグランに対し、その整った上体を差し出すようにして、さあどうぞ。そう、言ってのけた。
ペルグランが、それに恐る恐る、手を近づける。おそらく手妻か、何かしらのまやかしだとでも思っているのだろう。シェラドゥルーガといえば、その手をぐいと掴み、その豊かな谷間に突っ込んでしまった。やられた側は顔を真赤にして、またしがみついてきた。
「もう、えっちなんだから。私のこと、そういう目で見てたんだ。ペルグラン君も、男の子だもんねえ」
そう言って、口元を押さえて笑っていた。
いつもの、ちょっとした“悪戯”。そのひとつだ。自分も何度もやられている。最初のうちはペルグラン同様、心底驚いたが、そのうちどうでもよくなった。念の為、“足”を使って調べてみたことがあるが、本当に、出現場所と牢獄の両方に存在していた。
「我が忠実なるジャン=ジャック・ニコラが毎回、びんたを張られるのも可愛そうだからね。私ってば、気が利くだろう?」
からかいながら、ペルグランにちょっかいを出していた。そろそろやかましくなってきたので、胸元に忍ばせた拳銃に手を伸ばす仕草を見せた。それで、ようやく大人しくなった。
「ちゃんと種も仕掛けもあるよ。遥か東の島国、夷波唐府の信仰文化のひとつ、“分霊”というやつだ。神さまが、神さま本来の力を維持したまま、分身できるんだってさ。別名義で、夷波唐府を題材にした作品を出しててね。その中で学んだひとつだ。やってみたら、できちゃったんだよ」
「化け物の分際で、神さま気取りか」
「昔、邪教のご神体をやっていたこともある。ヴァーヌ聖教にぼこぼこにされたけどね。言ってなかったっけか?」
「初耳だな。履歴書に書けば、さぞ大受けだろう」
下手くそな冗談に、満面の笑みで返してきた。
ため息ひとつ、資料の山をシェラドゥルーガに渡してみた。流石は本業作家、てきぱきと読み進めている。
「刺殺。絞殺。撲殺。バラバラ殺人に、拷問もあるのかい?対象は無差別に見えるが、手口ごとに捨てる場所が異なっている。それにここ何件は、傾向が似ている感じも見えるね」
「多数を装っている。あるいは複数犯。しかし目的がわからん。単一の目的には見えない」
「資料だけでは、ちょっと情報が少ないなあ。証拠とかも無いようだし、これだけの量なのに、目撃情報のひとつもないのも、よくわからん」
「組織犯の可能性も考え、“足”に悪党を洗わせている。民衆を襲わせ、各領主の、国家への不安や不信を煽っているのやもしれん。あるいは、領主どもに金の貸し借りがあるとか」
「それをヴィジューションでやる意義があるのかどうかだね。交易と交通の地とはいえ、下層階級の方が多い。むしろ民衆の不信感を煽って、民衆蜂起させて、交通網遮断。それなら、もっと直接的なやり方でもいいしな。ただの殺しでいいんじゃないか?」
シェラドゥルーガは、訝しげな表情のまま、結構な量の資料を読み込んでいっている。
何かがおかしい。ずっと、違和感があった。スーリやウトマンと議論していても、それが何か、掴み取れなかった。これだけの事案があって、民衆からも、各領地の領主からも不満の声も上がっている様子がない。緊急捜査事案としての要請でもいいぐらいの量である。
我が愛しき人。そう言われ、考えを止めた。シェラドゥルーガの目は、真剣だった。
「狙いは、ヴィルピン君かもしれない」
言われて、ぞっとした。
ヴィルピンに不満がある。それを、追い込もうとする勢力がある。
「現場検証報告書の質だ。ウトマン君やデッサン君の報告書に見慣れているのもあるが、どうもおかしい。現場の状況にしろ、証拠にしろ。あまりに、内容が足らなすぎやしないかね?」
「言われてみれば、確かに少ないですね。聞き込み調査も、あまり行っていないように思われます」
「捜査そのものに消極的だ。支部長さんの家族を人質に取られてるとか、あるいは弱みを握られているとか。そうやって、辞任なりに追い込もうっていう寸法っすかね?」
ヴィルピンを、狙い撃ちにした組織犯。よもや、内部か。誰がいる。ヴィジューション。人員の名前が、出てこない。
「まず、そういうことがありうるということだけ、頭に入れておいたほうがいいね。ヴィルピン君はお前のお気に入りだから、考えすぎると、どつぼにはまるよ」
「そうだな。頭にだけ、入れておく」
言われた通り、頭の片隅に、それを置いた。そういうふうに、頭の中を作り込んであった。棚と作業台、物置など。概念として、空間を用途ごとに分けておく。
「さて、そろそろ時間切れかな。もうじき着く頃だろうしね。私の方も、ひとつ、“仕立て”が終わったところだよ。今日は久々のご馳走なんだ」
そう言って、シェラドゥルーガが鼻を鳴らした。
“仕立て”。こいつから聞くと、嫌な言葉だった。
「趣味と実益を兼ねたものとはいえ、ご苦労なことだ」
「ちゃあんと国家に貢献しているだろう?感謝してくれたまえよ、我が愛しきオーブリー・リュシアン」
その言葉に、思わず引き抜いていた。その時、それはもう、いなくなっていた。みとめてから、拳銃をしまい直した。
まったく、迷惑な存在だ。
「あの、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
おどおどした様子で、ペルグランが訪ねてきた。
「“仕立て”のことか?」
首肯する。
目から読めた。おそらくは、もう片方も聞きたいのだろうが、自分の機嫌がよくないことを悟って、前者に絞っている。
「第三監獄の、囚人どもだよ」
ペルグランの目に、怯えが見えた。喉が鳴っている。それだけで、理解できたようだ。
第三監獄に収監されている、身分の高い政治犯や思想犯、凶悪犯罪者。これらは基本的に、自給自足を強いられている。死んだことになっているとはいえ、実家なりから援助を受けたり、残った財産を切り崩すなり、内職をするなりして、日銭を稼いでいた。それが尽きたとして、国家にそれを養う義理も義務もない。とはいえ、餓死させるまで放っておくのも、刑務官たちの心情に悪影響を及ぼす。
そこで、あのシェラドゥルーガの出番である。人の生命を好物とする、人でなし。それも魚の仕立てや、鵞鳥の肥育のようにして、自分好みの味になるようにしてから、胃袋に収めるのだ。
「あの。夫人はなぜ、人を食べるのでしょうかね?」
「本人に聞け」
「美味しいからだよ」
何処かから、女の声が聞こえた。ペルグランの体が、跳ね上がった。
ダンクルベールは、あえて周囲を見回さなかった。どうせもう、逃げ帰っている。紙巻を取り出し、火を点けた。これが無くなるぐらいで、到着するだろう。
第三監獄は、あれにとっての生簀なのだ。ガンズビュールの惨劇は未だ、あの場所で続いている。
あのシェラドゥルーガが、生きている限りは。
4.
死体が増えたとのことで、そのまま現地で合流することになった。
「遠路はるばる、本当に申し訳ございません。ダンクルベール本部長官」
馬車の側まで駆け寄ってきたのは、輪郭の丸い中年だった。軍帽と、口髭。丸い目。なんだか、ぬいぐるみとか、子供向けの絵本に出てくるような外見である。
この人が、あの泣き虫ヴィルピンなのだろうか。
「よう、ヴィルピン。元気そうだな」
いつもの手順で、馬車から導き出したダンクルベールは、会心の笑みで、そのひとを、そう呼んだ。
「ああもう、本当に申し訳ございません。我々の力が及ばないばかりに」
「気にするな。ふたり、紹介する」
促され、ペルグランは背筋を伸ばした。
「警察隊本部長副官、ジャン=ジャック・ニコラ・ドゥ・ペルグラン少尉であります。お会いできて光栄です」
挨拶に、その丸い男は、ぎょっとした表情を見せた。
「もしや、ヴィトリー公のご子息にあらせられますか」
「あ、いえ。アズナヴール伯家です。それは大叔母の嫁ぎ先でして。むしろ、よくご存知ですね」
思わず言ってしまった言葉に、丸い顔が真っ赤になった。確かに大叔母の嫁ぎ先である、ヴィトリー公のご次男さまは、どういうわけか、ペルグラン姓を使っていた。
「ああっ、これは。大変に、失礼をいたしましたっ」
ヴィルピンは大慌ても大慌てで、軍帽を取り、最敬礼をしてしまった。
ヴィルピンの隣りにいたダンクルベールは吹き出して、そのまま大笑いしてしまった。本当に嬉しそうに、その背中を叩いている。
「相変わらず、人の名前を覚えるのが苦手だなあ、お前は」
「申し訳ありません。アズナヴール伯ペルグラン家のご子息さまであらせられましたよね。本当に、この通りです」
「お気になさらず。それよりも、私は少尉で、支部長は少佐殿であります。家柄よりも階級を優先していただかなくては、支部長の面目にも関わります。何卒どうか、お顔をお上げ下さい」
こちらが申し訳なくなったので、何とか丁寧な言葉を選んで、それを促した。
そうして上がってきた顔は、やはり真っ赤で、そして目には涙が浮かんでいた。唇も噛み締めて、震えてしまっていた。
心が、ぐっと掴まれてしまった。なるほど。こういう人か。これはもう、ほうっておけないよな。
「泣き虫ヴィルピン、変わらんなあ。安心したぞ」
「すみません、本部長官。俺が、至らないばっかりに」
「本当に、泣き虫なんですね。ウトマン課長からも、お話を伺っておりました。転んで、泣いて、立ち上がって。泣き虫ヴィルピン。失敗と克服の天才だって」
自分の言葉に、さっきまでとは打って変わって、ヴィルピンの顔は、ぱっと明るくなった。
「ウトマン。ああ、元気でおられますか?」
「はい、元気でいらっしゃいます。ヴィルピン支部長はきっと元気だろうけど、よろしく言っておいてくれと、頼まれておりました」
「それは何よりです。あいつ、俺の同期なんです。あいつは本当に、何でもできる、すごいやつなんですよ。ああ、嬉しいなあ」
そうしてまた、嬉しそうな顔で、目が潤みはじめた。もう、見ているだけでおかしかった。思わず笑ってしまった。
たった、ひと言二言。それだけで、わかった。こんなにわかりやすくて、こんなに頼りなくって、こんなに尊敬できる人。
「んじゃあ、続きましてのスーリ中尉でごじゃんす。いわゆる、特殊工作員とか、そういう役回り。泣き虫支部長。よろしく頼みます」
「おや、“鼠”さんか。通り名か、何かかね?まあ、あえて詮索はしないよ。こちらヴィルピン。よろしくお願いします」
笑顔での挨拶に、おっ、と思った。
鋭い。もしや、これがこの人の本領なのか。
さて、現場である。麻袋に入った、男。街道沿い、草むらに打ち捨てられていた。数ある手口の中で、一番、印象的なやつだ。これで六件目になる。
「スーリ、やってみろ」
ダンクルベール。その一言だった。
「驢馬で運んできてますね」
即答。黒い目が、走った。
「石畳からここまでの、三歩半。足跡が残ってる。乗らずに、曳いてる。土を着けたまま、石畳に戻ってる」
ダンクルベールが、支部の隊員に、足跡を追わせた。
「発見は、いつ頃?」
「十時。四時間前ですね。郵便運送局の局員です」
「街道の、馬糞の処理はどなたかしら?そこらの農家さんとか?驢馬の糞が落ちてなかったかの聞き込み。よろしく」
呆気にとられていた。とんでもない早さだ。そのまま、遺体が捨てられていたであろう場所に入っていく。
「秋に入ってる。このあたりの草は、こりゃあ稲の仲間かな?背が高くなるから、隠しやすい。でも見っけた。あんまり気にしてないのかな?あるいは見つけてもらいたいか。このあたりは長官の領分やね。後はこれ、いわゆる“くっつきむし”だ。犯人の衣服に、くっついてるかも」
草の先。穂の部分。それをひとつまみしたら、今度は遺体に向かう。
「絞殺。ベルトだろうね。輪っかにして。金具の痕も付いてる。後ろから一気に、どん、だ。酒、かなり飲んでたのかな?洗練というか、一定してるねえ。それしか手段がない、と判断してもよさそう。麻袋。やっぱり、驢馬の毛だ」
足跡を追っていた隊員が帰ってきた。途中で、土の足跡が消えたそうだ。
「もっかい戻って。その先か途中。厩、あるいは、空き家。宿駅があるようなら、驢馬の貸出記録だ。驢馬見つけたら、“くっつきむし”が付いてるか、見て欲しい。これだよ」
先程の、雑草の穂の部分を隊員に渡した。今度は馬に乗って見に行った。
「とりあえず、第一弾。こんな感じかね?」
そこまでやって、スーリが小さな背を伸ばした。
「凄いです、スーリさん。あっという間に、こんなに証拠なり何なりが見つかるなんて」
「まあねえ。このあたりは杵柄も杵柄よ。ただ問題は、これが他の殺しと、どう繋がるかよねぇ」
「そこだよな。これ単体で見た時は、証拠十分なのだが」
ダンクルベールが、腕を組んでしまった。
「ひとまず、これ単体で考えよう。ペルグラン、やってみなさい」
どきっとした。突然の、お勉強の時間である。
さてどうするか。ペルグランはひとまず、石畳から外れて、草むらとの間の、芝と土のあるあたりに立った。そうして、屈む。ちょうどいい小枝があったので、それで、土を引っ掻いてみたりする。
出てきた。ひとつの纏まり。
「殺し自体は、衝動。酒の席で、かっとなった。頭に血が上ると冷静になるやつ。離席し、油断させて、後ろから一気にどん。終わってからはっとして、どうしようか考える」
これが一番、考え方を纏めやすかった。
本当は、紙とペンが欲しいが、現場ではそうもいかない。それに、それぞれには限りがあるし、書き損じてしまえば、纏まりが解ける。
考えていることを書く、という行為を、抽象化しているとでも言えばいいのだろうか。ともかく、頭の中にあるものを、何かしらの記号だとか、線と点の組み合わせだとか、文字でなくても、そういうものにして、目に見えるかたちに変える。そうすると、情報が整理できた。
「どこかから驢馬を引っ張ってきて、積む。そうして、捨てる。夜間から、明け方の間です。このあたりは、オイル灯がない。人が動くか、動かないかのあたりです。酒が自由に飲める、あるいは酒の席を設けることができるから、中流家庭から、上流家庭。ベルトもそうですね。金具の跡から、結構、そういうものにも金を使える地位、役職にいる」
己を型に嵌め続け、試行錯誤を重ねた。これが今のところの、自分なりのやり方だった。格好は悪いが、スーリやダンクルベールのようなやり方は、自分には難しい。
地味に、地道に。できることから、やっていくこと。これが型から滲んだ、一部分である。
するすると行った。ただひとつだけ、わからなかった。
「この麻袋が、どこから持ってきたのかが、わからないです。ここまでで、お願いします」
「よし、七十五点。これは、穀物の袋だ」
ダンクルベールの言葉に、周りから、おお、という声が上がった。
「穀物問屋。豪農かな?土地持ちかもしれん。それなら、自分の驢馬でなくとも、他の驢馬が置いている場所も知っている。ここまでいけば、百点満点だ」
年の差、約三倍。ダンクルベールのお殿さまの、七十五点。素直に、嬉しかった。
「これは、俺が海運業の奉公をやっていたり、今までの捜査官としての経験から学んでいた部分だ。お前は、操船する側の家だから、これはわからなくても仕方ない。だから実質、八十点でもいいな」
「はっ。ありがとうございます」
「やり方もいい。下手に頭の中で纏めずに、吐き出す。お前のくせ。思ったことを思ったままに口にすることの、変形かもな」
言われて、ちょっと顔が熱くなった。自分の悪癖が、やり方として活きている。くせとはつまり、個性である。
「ヴィルピン。スーリの、驢馬の糞と“くっつきむし”。ペルグランの見立て。これをもとに、まずは本事案に絞って、容疑者を出してみてくれ。後は支部庁舎についてから、各々に指示を出そう」
ヴィルピンの顔が、本気になった。敬礼ひとつ、他の部下を纏めて、さっと支部の方に帰っていった。
馬車に戻る、そう言ったので、手順通り、ダンクルベールを馬車に招き入れた。
「やはり、おかしい」
支部庁舎に向かう道の途中、資料を見ながら、ダンクルベールがこぼした。
「今の手口の、過去の事案ですよね?」
「そうだ。今しがた、俺達が見つけたものが、ほとんど載っていない」
「でも、ヴィルピン支部長は、やる気十分といった感じです」
ペルグランの言葉に、ダンクルベールは頭を振った。
「あいつは、もっと鋭いし、喋る」
その顔に、かなりの迷いが見れた。
ヴィルピンが、おかしい。捜査に消極的、あるいは非協力的である。何かが、ある。
「事案より、内部を洗うぞ。ヴィルピンが鈍っている理由。俺とペルグランは、セットで本寸歩。スーリは、ヴィルピン本人を探ってくれ」
ふたり。頷いた。
ヴィルピンをよく思わない、内部の人間の奸計。もしかしたら、何かの陰謀かもしれない。前支部長は、評判がよくなかったというし、そこも関わってくる可能性はある。
鞄から、自分の日誌と鉛筆。やはり適当な点、線、図形。組み上がったら、箇条書き。支部庁舎までの三十分。自分なりの考えを、纏めていく。
支部庁舎。到着は、十七時だった。隊員たちは、現場検証の後片付けだとか、事務処理のものは、先に帰っていた。今日は、聞き込みは行えないだろう。隊員の名簿を貰って、本格的な調査は明日からだ。
夕飯から宿まで、やはりダンクルベールの顔は、神妙そのものだった。可愛い愛弟子に、何かがある。それが本当に、心配なのだろう。つとめて、特に話はせず、その日は終わりにした。
「支部次長と、副官。この二名だな」
朝飯を終え、ダンクルベールがそう言った。同じ考えだった。
「庁舎の外で、よろしいでしょうか?」
「そうしよう。一番近くの、朝からやっているカフェかビストロを用意する。ペルグランは、双方か、一方でもいい。呼んできてくれ」
敬礼ひとつ。庁舎に向かった。
受付で、ふたつの名前を出した。支部次長ティボー大尉。支部長副官モルコ中尉。お題目は、ヴィルピンの人事考課について、部下の話も聞いておきたい。そういうことにした。
モルコは、ヴィルピンと捜査に出ているらしいので、ティボーが来てくれることになった。歴戦の前線指揮官といった、捜査官より陸軍将校のような顔つきの人だった。
「単刀直入に聞く」
カフェの奥の席。三人で座る。ティボーは、緊張した面持ちだった。
「ヴィルピンに、何かあったか?」
「質問の意味が、わかりかねます」
「あいつが鈍っている。そしてそれが、全員に伝播している。調査報告書や、昨日の現場から、俺はそう感じた」
その言葉に、ティボーの顔が、一段と険しくなった。
「できうれば、お話したくないのです」
「ヴィルピンが、狙われているのか?」
「いえ。何と申し上げるべきか」
ティボーが、口ごもっている。やはり、何かがある。
「思ったことを思ったままに、申し上げます」
あえて、口を挟んでみた。一度、ダンクルベールを見る。やれ。そういう目。頷いて、ティボーを見る。
「殺しが二十件余。解決できていない。大問題です。応援要請ではなく、緊急捜査事案としての要請が妥当かと思われます。支部内部で何かしらの隠蔽、陰謀があるとならば、公安局や法務部からも人員を要請する必要もあります。ダンクルベール長官だけではなく、司法警察局局長たるセルヴァン閣下、ならびに、国家憲兵総監閣下を巻き込んででも、解決すべき問題かと存じます」
自分でも、ほぼ恫喝のようなことを言っている自覚はあった。一度、ダンクルベールを見る。そこまで。目で、伝えられた。頷いて、もう一度、ティボーを見る。
そうして、一礼した。
「その、総監閣下なのです」
震えた声。苦虫を噛んだような顔。
「以前、現場の視察に来られました。閣下は、ヴィルピン支部長を叱ったのです。無用な失敗が多い。責任感が足らない。立場に見合った立ち振舞をするべきだ。そう、仰っておられました」
おや、と思った。
上官としては、最もな言い分である。現地でひとつ、格好でもつけようとでも思ったのだろう。言われた側は、はいはい、そうですね。それぐらいで済むだけの話だ。言ってしまえば形式的なもので、些事も些事である。
ダンクルベールを見る。思わず、ぎょっとした。
見たことのないぐらい、憤怒の形相だった。
「ヴィルピン支部長は、それで、こわくなってしまったのです。自分のやり方が間違っていると、迷われておられる。でもきっと、あの方は、あの方のやり方でしか、うまくできない。精一杯、試行錯誤をされておられます。それで、我々もどうしていいか」
「そこまででいい」
ダンクルベールの声は、静かだったが、明らかに怒気が含まれていた。
「よく、言ってくれた。ティボー、ありがとう」
「本部長官。申し訳ございません」
起立し、最敬礼。大声だった。
「我々が、我々が至らないばかりに。ヴィルピン支部長の足を止めてしまった。もっと早くに相談するべきでした。応援要請も、ほぼ、私の独断です。もう、万策尽き果てまして、それしかなかった」
「ティボー。そこまででいいと言った」
「いいえ。出過ぎたことを申し上げているのは、重々承知の上。それでもどうか、曲げてどうか。すべて、我々の落ち度です。事の次第が済み次第、ヴィジューション支部の、私と、管理職全員、職を辞する覚悟に」
「ティボー」
一喝。それでも、つとめて静かに。
そうして、ほとんど口をつけていない珈琲を、一気に飲み干した。
「珈琲。おかわりを、お願いしてもいいかね?あと、甘いものもあれば、欲しいな」
ダンクルベールは、穏やかな表情だった。
ティボーが、感極まった表情で、それでもつとめて穏やかに、店員にいくつか頼んだ後、ようやく涙をこぼした。
「よく聞いておくれ。お前たちには、何の責任もない。勿論、ヴィルピンにもな」
ひとしきりのものが届いてから、ダンクルベールは、話をはじめた。穏やかな、父親のような口調。
「明日。俺が、ヴィルピンを泣かせよう。それで進める。ヴィルピンのやり方で、やり直そう。よろしいかね?」
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「よく頑張った。そして、よく呼んでくれた。お前は、あいつのことを、本当に思ってくれているんだな」
「はい。私は、ヴィルピン支部長が大好きです。泣いてばかりで、頼りなくて。でも、いつも大花火を打ち上げてくれる。何より、私たちを必要としてくれるんです」
おそらく、年嵩はヴィルピンより上だろう。それでも、涙を流しながら、ティボーは心を打ち明けていった。
泣き虫ヴィルピンの泣き虫は、きっと、支部の全員に広まっているのだ。そう感じて、なんだか微笑ましくなった。
昼。一度、宿に戻った。スーリと合わせて、作戦会議である。
スーリの方は、収穫なし、とのことだった。こちらの話をすると、スーリはきょとんとしていた。
「お偉いさんの小言、真に受けたってこと?」
「本当に、あいつらしいよな」
困ったように漏らしたダンクルベールに、スーリが腹を抱えて大笑いした。
「馬っ鹿でぇ。本当、あのひと。最高ですね。おいらもう、病みつきになってきちゃったよ」
「そうだねぇ、スーリ君。私もひと安心だ。本当に、真面目で不格好で、可愛いこだよ。ああ、杞憂で何よりだ」
何故か聞こえた女の声。もう、驚く気にもならなくなった。ベッドにそれは腰掛けていた。
「総監閣下には、セルヴァンを通して文句を入れておく。現場の事情も知らず、余計な口出しをしてくれたんだからな」
「局長閣下も剛毅なお方ですが、総監閣下はそれこそ、国家憲兵の親玉です。大丈夫ですか?」
「もっと上から、ぶん殴らせるよ」
ダンクルベールの口角が、悪い感じにつり上がった。それを見て、ペルグランは苦笑いしかできなかった。
もっと上。国家憲兵隊は内務省管轄下。つまりは、内務尚書(大臣)たるラフォルジュ閣下、そのひとである。
「さて、後は各事案の関係性と、ヴィルピンの泣かせ方だな。ペルグランなら、どうする?」
「何でも、真に受けるひとです。それこそ内務尚書閣下とか、上から」
「お前なら、どうするか。それを知りたい」
ダンクルベールの目。穏やかな目。つまりは、お勉強の時間だ。
やむなし。懐から、日誌と鉛筆。書いていく。夫人が、興味深そうに近寄ってきて、それを眺めていた。
「諭しても駄目。頭ごなしも、駄目。自分のやり方を褒める。褒め方が大事」
「速記。違う。暗号かい?それとも独自の文字?」
「泣かせる。つまりは、ヴィルピン支部長を転ばせる。そして、立ち上がらせる。まずは現状について叱って、総監閣下の言うことなんて気にするな。自分のやり方に自信を持て。つまり、勇気を与える。成功体験を、思い出させる」
「そこまで。百点だ」
ダンクルベールが手を叩いた。
「我が愛しき人。なにこれ?」
「思ったことを思ったままに出して、整理しているんだよ。書いているもの自体に、意味はない。だろ?ペルグラン」
首肯。褐色の髭面が、笑みを浮かべた。夫人も、得心した様子でいる。
「なかなかどうしてじゃん。ちゃんと自分のやり方ひとつ、仕上がったのかい。我が愛しき人や、他の人に引っ張られず、それでいて突飛でない。組み立て方が違うだけで、ちゃんと他の人が納得できるというのが白眉だね」
豊満な体が抱きついてきた。思わず、心が跳ね上がった。
「よし。それこそ、ペルグランから勇気が貰えたぞ。後は俺が引き継ごう。最後は、それぞれの案件だな」
「はい、長官」
スーリが、ぱっと挙手した。
「どうぞ」
「ふたり、いませんか?」
その言葉に、呆気にとられていた。
見渡す。夫人もダンクルベールも、目を丸くしている。
スーリが鞄の中から資料を取り出し、部屋の真ん中に、陣取った。
これとこれ。あとはこれも。これはふたり目。これも、こっち。ああ、違う。三人。いや、それ以上。そんな感じで、いくつかの束ができあがる。
「組織犯じゃない。複数犯でもない。単独犯が、同じ場所に、複数人いる。シンプルに、それだけ」
「手口ごとにか?」
ダンクルベールの問いに、真っ黒な目が、頷いた。
「思い込んでたんですよ、おいらたち。ひとつだと、思いこんでいた。違うんだ。何人か。何でかは知らんが、同じ狩り場にいた。それもお互い、それに気付いてる。ある種の協定も設けてる。獲物の種類、禁猟地、禁猟時期のようなもの。そうやって、互いに競合しないようにしてやがんだよ」
連続殺人犯は手口を変えない。基本中の基本。基本に忠実なやつが、何人かいた。たった、それだけのこと。
「何かしらの収束が見られるのは、ちょっとした危険を感じた。不安定なやつだとか、衝動的なやつがいる。そいつが見つかれば、芋づる式になる。だから意識して、もしくは無意識に、ある程度のフォローをしている。もしくはそういうやつを諭して、外に逃がすか、更正させている」
「緩やかな、犯罪組織みたいになりつつあるんですね」
ダンクルベールが、ひとつを手に取った。昨日の手口のものだ。
瞳の色が、変わった。夜の海。ダンクルベールの色。
「男。同性愛者。周囲の理解がない。地位役職が枷になっている。理解者が欲しい。攻撃的な反応に対して、過剰に反応してしまう。解決策がないから、殺してしまうのか?」
「ちょっと、我が愛しき人?早くない?」
「こんな感じで、後は長官と夫人の方が本領かね。あるいは、厄介そうなものだけ引き取れば、ピンちゃんの顔も立つっしょ」
そこまで言い切って、やはりスーリが背筋を伸ばした。
そこに夫人が歩み寄っていって、頬にベーゼをした。吸い後が残るぐらいに。
「ご褒美」
「やぁだ。おいら、欲しがりさんなんだから、ご勘弁よ」
「凄いじゃないか。私も、我が愛しき人すらも出し抜いたんだ。もう私の出番はないようだね」
スーリの小さな体を抱きかかえながら、夫人がからからと笑った。
「でも、我が愛しき人の格好良いところは、見ておきたいなあ。明日、こっそり見せてもらってもいいかい?」
「出しゃばらなければ、構わん。着替えてこいよ」
「あら優しい。今回のお仕事は捜査官じゃなくて、指導者だね。我が愛しき人のそっちの方は、あまり見たことがなかったから、心が弾んでいるよ。ちゃんとおめかししていくから、気障なところ、見せておくれよ?」
じゃあね。それだけ聞こえた。抱きかかえられていたスーリの体が、そのまま落下して、尻もちを着いた。
「どいつもこいつも。今回は、問題児どもが大活躍だな」
困った顔のまま、ダンクルベールが紙巻を取り出した。
5.
“くっつきむし”の、容疑者が出た。
三名。有力なのは、土地持ちの息子。家督は親から相続済。結構な名族で、なにより親の顔が強い。下手な詰め方をすれば、逃げられるか、こちらがやられる。
一歩が、踏み出せない。あの日から、そうなってしまった。
どうせ、現場を見ない人間の小言。右から左でいい。でも、すべてが突き刺さった。その通りだった。ヴィルピンは、不器用だった。自分ひとりでは、何もできない。それを、詰られた。自分の在り方を、否定された気分になった。
ウトマン。俺、やっぱり、駄目みたいだよ。
地方豪族の出身。いい格好ができるだろう、それぐらいの気持ちでの士官学校入り。
同期にウトマンとかいう、貧乏な痩せっぽちがいた。面白がって、からかって、皆で寄って集って、いじめてみた。
その日のうちに、全員、殴り飛ばされた。
ほとんど貧民窟の産まれ。身を守るために、喧嘩には慣れていたのだ。そんなの知らなかった。馬乗りになって、ぶん殴られまくった。
怒りも悲しみも見えない、真顔。こわかった。殺される。そう思って、泣いて謝った。
普段は、穏やかだった。困ったことがあったら、頼ってみると、何でもやってくれた。器用だった。それでいて、慎重でもあり、冷静でもある。
そしてやっぱり、怒るととんでもなくこわい。荒んだものが、底に眠っている。特に、酒を飲むとそれが出る。
最初のうちは面白がっていたが、新任少尉で、一緒にガンズビュールに配属された時は、本当にはらはらしていた。あのボドリエール夫人にも、無遠慮にうざ絡みをして、びんたを貰っていた。しかも次の日には、けろっとしてるのだ。そこだけは、大酒飲みな自分がしっかりしなきゃと、躍起になった。
ごめんな、ヴィルピン。私はどうも、酒だけは難しいみたいだね。お前と一緒だと、つい、お前の量で、飲んじまうよ。お前と一緒だと、楽しくってさ。
ウトマン。何でお前、俺みたいなのを、そんなに褒めてくれるんだよ。俺、いっつも失敗ばっかりして。
あの時だって、中央から来た、あのマレンツィオ課長と、ダンクルベール主任。主任に何が起きてたかなんて知らないで、俺、主任を傷つけること、言っちゃって。マレンツィオ課長にぶん殴られたじゃないか。それでもお前、庇ってくれてさ。
俺、お前みたいになりたかったよ。でもお前、百貨店だもんな。俺には無理だよ。何かするたび、ずっこけて。涙が出てきて。悔しくって。がむしゃらになってやることしか、できないんだよ。でも皆、ヴィルピンはそれでいいんだ。褒めてくれるんだ。わかんないよ。
泣き虫ヴィルピン。変な渾名。馬鹿にしてるのかよ。そう思って、悔しさで泣いて、走り回った。そしたら皆、着いてくる。どうしてなんだろう。いつも思っていた。転んで、泣いて、立ち上がる。それしか俺、できないんだよ。何で皆、手を差し伸べてくれたり、肩を貸してくれたり、一緒になって、泣いてくれるんだろう。
どうしてそれが、すごく、ありがたいんだろう。
今はもう、それすらできない。こわい。一歩を踏み出せば、その先がない気がして。崖っぷちにいる。
ティボーが、いつの間にか応援要請を出していた。支部長のためなんです。見放された。いつも一緒になって、転んで、泣いて、走ってくれるティボーたちにも、見捨てられたんだ。
そうしてやってきたダンクルベール主任、いや、本部長官。最後に会ったときより、恐ろしいものに感じた。頼もしさなんて、ひとつも感じない。ただただ恐ろしい。
着いてきたふたり。あのニコラ・ペルグランのお血筋。流石だ。若いのに、てきぱきして、ちゃんと自分のやり方がある。見てすぐの現場で、ダンクルベールに、実質、八十点。血筋と、才覚と、努力。そんなの、勝てっこない。
スーリという男。きっと前科持ち。いや、相当なひとごろしだ。その経験を活かしてる。いわゆる暗殺者かもしれない。だから、殺しをする際に気をつけるべきことを知っていて、そこの漏れを見つけられる。無理だ。できない。ひとごろしなんて、おっかなくてできない。
そうして、やり方も、居場所も、培ったものも、無くなった。空虚だった。
ウトマン、助けてくれよう。ティボー、見損なわないでくれよう。俺はもう、何にも無くなっちゃったんだよ。だからもう、誰も助けちゃくれないんだろ。きっと、そうなんだ。
もう、駄目なんだ。俺、きっと、終わりなんだ。
今、懐には、辞表が入っていた。後はきっと、ダンクルベールと、あのふたりと、ティボーたちがいれば、解決できる。それで、ひと安心だ。
最後だけ、皆の前で格好つけて、終わりにしよう。それで、泣きたい分、泣けばいいんだ。だって俺、泣き虫ヴィルピンなんだし。
庁舎に来たダンクルベール。全員、集めろ。そう言った。ちょうどいい機会だ。そこで、終わりにしよう。晩節を汚したのか、有終の美なのかは、もう知らねえ。
名前を呼ばれて、前に出た。巨躯。褐色の肌。吸い込まれるような瞳。あの頃から変わらない。いや、それよりも。
でも駄目だ。格好つけて、辞めるんだ。そう思って、懐に手を入れた。
「お前。今回の件、泣いてないな?」
言われて、固まった。見抜かれた。先に言われた。
卓に、報告書の写しの束を置かれた。それを、思いっきり、ぶっ叩かれた。
「これはなんだ、ヴィルピン。この調査書はなんだ」
怒鳴られた。こわい。胸元の辞表から、手が離れた。すくみ上がる。やっぱり、ダンクルベールだ。ダンクルベールのお殿さまだ。
俺、辞めることができないんだ。辞めさせられちまうんだ。情けない。情けないや。俺、最後まで、駄目なんだ。
「こんなに消極的になって、お前らしくもない。何もやっていないと、同じような事じゃないか。どうしたんだ」
でも、思っていたのと、違う言葉だった。
もう一度、目を見た。夜の海。でも、穏やかな、さざなみ。優しい方の、ダンクルベールの目だ。
言葉を、出してみよう。勇気。勇気だ。
「俺には、責任があるんです。もう、間違えちゃいけないんです。部下たちや、国家憲兵そのもののためにも」
「馬鹿を言うんじゃない」
浴びせられた。
馬鹿。そうだ、俺、馬鹿なんだよ。本部長官の言うとおりだ。やっぱり、駄目なんだ。
でも、違う。違う思いが、湧いてきた。
やめてください。俺のこと。本当のこと、突きつけないで下さい。ひどい。そんなこと、言うなんて。悔しい。悔しくて、たまらない。見返してやる。俺が本気を出せば、皆、着いてくるんだって。
戸惑っていた。背筋に何かが、昇ってきた。
肩に、何かが触れた。ダンクルベールの、でっかい掌。見上げる。表情は、険しいまま。
「泣き虫ヴィルピン。泣いてみせろ。転んで、泣いて、立ち上がれ。それがお前だろう。地位も役職も責任も。全部、泥だらけにして、それでもお前は立ち上がってきたから、ここまで来れた。そうだろう?」
ダンクルベール。おっかない声だけど、求めてた言葉。走って、転んで、立ち上がる。俺のやり方。
そうだ。そうだよ。それしか、できないんだから。
悔しくなってきた。言い返したくなってきた。そうして、視界がどんどん、あやふやになった。水たまりができてきた。
「今更、自分のやり方が間違っているんじゃないか、不安なのか?ひとつ間違えたら、後戻りできないことが、こわいとでも思っているのか?お前はそんな小さなことばかりを考えて、ここまで進んできた男じゃあないだろう、ヴィルピン」
そうです。本部長官。俺、不安だったんです。こわかったんです。あの日からずっと。
「総監閣下のお言葉がなんだ。市井の評判がどうした。お前は人の目だとか、声だとかを気にして走ってきたのか?違うだろう?目の前にあるものだけ、真っ直ぐ見据えて、がむしゃらに走って、すっ転んで、ぼろぼろ泣いて。だから皆、着いてくるんだ。だから皆、支えてくれるんだ。お前が放っておけなくて、お前が走る姿が見たくてだ。皆、そうやって、お前の涙に惹かれてきたんだ」
思わず、振り返った。
皆、堪えている。涙を。唇を噛んで。きっと今、俺がしている顔と、おんなじ顔で。
ティボー。いつも頼りにしている、最高の女房役。戦慄いている。今にも殴りかかりそうなぐらい、悔しそうな顔。
皆、同じ思いなのか。俺と、同じ思いを、してくれているのか。見捨ててなかったんだな。
勇気が、溢れてきた。もう一度、ダンクルベールの目を見る。こわくない。大丈夫だ。
「泣き虫ヴィルピン。泣いてみせろ。泣かないお前に、用はない」
その一言で、溢れた。
「はい。本部長官。俺、泣きます。皆と一緒に、転んで、泣きます。それしか、俺にはできません」
出てきていた。熱湯のような、涙。鼻水も、嗚咽も、溢れ出て、止まらない。堰き止められていたものが、どっと溢れた。堰そのものが、ぶっ壊れた。
ティボーが、横にいた。モルコも、隣に来てくれた。泣いていた。ふたりとも、震えながら、ぼろぼろ泣いていた。
ダンクルベールの顔。優しかった。
「お前は立ち止まってしまった。こわくなってしまった。躓くことに恐怖を覚えた。それはわかる。だがな、ヴィルピン。それじゃあお前の良さがなくなる。お前じゃなくたってよくなる。ここはお前の支部小隊だ。お前と、お前の部下たちの居場所だ。今の今更、お前のやり方に不満があるやつなんて、いるものかよ」
「ダンクルベール本部長官の、仰るとおりです。誰ひとり、ヴィルピン支部長に、不満などありません」
ティボーだった。いつも先陣に立ち、引っ張ってくれる、あの大声。
後ろから、皆の声が聞こえる。泣きじゃくりながら、俺の名前を呼んでくれる。
「貴官ら。ヴィルピン支部長の方針に不満あらば、即刻、ここから立ち去れ。五分以内。用意」
モルコ。俺の大事な副官。新任少尉から育ててきた、ヴィジューションの生え抜きの俊英。泣きながら、部下たちにぶちかました。そうしたら、皆、どっと押し寄せてきた。
皆、いいんだな。俺で、いいんだな。こんな俺でも、許してくれるんだな。
「ヴィルピン。走れ。どこにだっていい。転んで泣いて、立ち上がって。あっちに行って、こっちに行って。そうやってたどり着いてこその、泣き虫ヴィルピンだ。皆、それを見てきた。皆、それに従ってきた。皆、お前の背中を押したくて、うずうずしているんだ。お前たち、そうだろう?」
大音声。そうだ。そうです。仰るとおりです。そんな声ばかり。
やっぱり、俺は、駄目なやつだ。皆を、不安にさせてたんだ。俺のこわさが、皆に、伝わってたんだな。
ごめんな。俺、駄目なやつだからさ。
「俺は、面目がありません。申し訳が、ありません。こわくて、こわくて、仕方なかったんです」
叫んでいた。ようやく、言いたかったことを、言えた。
ダンクルベールは、笑っていた。よく見る、穏やかな笑み。見たかった、ダンクルベールの顔。
「そうだ、泣け。泣いて、全部吐き出せ。皆の前で、胸の中にしまっておいた、つらいものを全部、放り出せ。そうやれば皆、わかってくれる。お前がどういうやつか、皆知っている。だから泣け。泣き虫ヴィルピン。そうやって立ち上がれ。みんなに支えてもらって、また走り出せ。いいな?」
「はい、はい。本部長官。ありがとうございます」
軍帽を取り、最敬礼。これしか、お礼の仕方は知らなかった。
「実はな、ヴィルピン」
穏やかな声だった。
「セルヴァンが、お前に来てほしいと、言ってるんだ」
びっくりした。司法警察局局長、セルヴァン閣下。とんでもない秀才。縁の上の力持ち。
「今の法では、俺やウトマンは、中佐止まりだ。だから、家柄のいいお前が、司法警察局。ウトマンが、警察隊本部。俺とセルヴァンがいなくなった後は、そういうかたちにしよう。セルヴァンと話し合って、そう決めたんだ」
また、大粒の涙が溢れてきた。ウトマン。そうなのか。
「俺は、違うと思います。ウトマンが、俺の上に立つべきです。セルヴァン局長閣下のお気持ちはありがたいですが、俺は、ウトマンの上には、立てません。ウトマンの下でなら、何回でも転べます。ウトマンの上で転んだら、あいつに迷惑がかかります。俺は、そんなのいやです」
叫んでいた。本心だった。
知っていた。わかっていた。そして、諦めていた。ウトマンは、生まれのせいで、どう頑張っても中佐止まり。でも絶対、ウトマンが上にいるべきだ。それが悔しくて、仕方なかった。
あいつのためなら、俺は泣ける。俺は何回だって、転べる。間違ってる。世の中の、すべてが。
「その涙こそが。皆が、お前を慕う、すべてだよ」
見上げた。あのダンクルベールの瞳が、潤んでいる。泣きそうになっている。
また、湧いて出てきた。ぼろぼろ。ありがたい。ダンクルベールに、見捨てられてなかった。皆に、見捨てられてなかった。その上で、評価してくれてる。着いてきてくれている。
「さあ、お前たち。今回の件、ヴィルピンの一番の大手柄にしてやろう。そうして皆で、ヴィルピンを司法警察局局長にしてやろう。花道ひとつ、作ってやろうぜ。いいよな?」
振り向いた。大音声だった。
「ヴィルピン、仕事の時間だ。泣いた。立ち上がった。後は、走るだけだ。できるな?」
背中を向けたまま、その声に頷いた。
「さあ。位置について、用意」
どん。背中を押された。優しく、でっかい掌。
一歩が、踏み出た。足元に、感覚がある。
行ける。
「よし。まずは、殺しの手口ごとに事案を分けよう。それから、ひとつの手口ごとに、一班ずつだ。そして、一件ずつ、証拠や調査の見直し。この数をひとりでやるのは、きっと難しい。手口ごとにひとり。いや、一件にひとりだと思って、見直してみよう。皆、ここまで、よろしいか」
ひとまずの思いつき。返答。どでかいのが返ってきた。
「“くっつきむし”の犯人は、おそらく身分が高い。後回しでいい。俺が持つ。本部長官たちと連携してあたる。その他だ。ティボーは全体を見てくれ。簡単そうなものがあれば、シャノワーヌや、オランジュとかを着けよう。新任少尉、少尉にやらせるんだ。経験を積ませる。失敗させよう。モルコとバロワン曹長が後ろにつく。ここまで、よろしいか」
返答。足が、どんどん出る。走れる。
「今日は皆、頭に血が上っている。明日から本番だ。手口と、人員の配置まで。そこまでやって、早上がりだ。たった半日にはなるが、休んでくれ。皆に迷惑をかけた、俺からのお詫びだ。しっかり食べて、よく眠る。明日から、再出発だ。ここまで、よろしいか」
反応が上がる。皆が、駆け回る。
「指示内容は以上。質疑応答、十五分。それまでの準備に五分。間に合わない場合は、明日の朝礼で再度実施。ここまで、よろしいか」
やはり、大音声。
「はじめっ」
どっと、動いた。
皆が、泣きながら、いきいきした表情でいる。机に向かい、輪を作って語り合い、競うようにして資料棚に飛びついていく。
これだ。これが見たかった。いつもの風景。これが俺の、俺たちの、ヴィジューション支部。一緒に、走っていく。並んで、皆で、すっ転んで、立ち上がる。
涙と一緒に築き上げた、ずたぼろの、泥だらけの勲章だ。
五分経過。近づいてきたのは、軍帽を目深に被った、女性士官。見覚えがない。
覗き込んできた、その顔。
「じゃあん」
飛び上がった。名前が出そうになったのを、慌てて口を塞いだ。
「かっこよかったよ。これからも頑張りたまえ。我が親愛なる、泣き虫ヴィルピン」
朱い瞳はそう言って、どこかに行ってしまった。
嘘だろ。生きてるのは知ってたけど、来てたのかよ。
「ピンちゃん支部長。ご苦労ちゃんでした」
足元。スーリという男。
「実はおいらも、おんなじところにたどり着いてて、終わり次第、提案しようと思ってたんだ。要らなかったね」
「同じことって?」
「手口ごとに、ひとりずつ」
驚いていた。ただの思いつきだったのに、このひとごろしのような男と、同じところにたどり着いていたのか。
「改めまして、ペルグランです」
顔を真赤にした、好青年。びしっと決まった敬礼。
「泣き虫ヴィルピンの泣きっぷり、拝見させていただきました。敬服いたしました。非才の身ではありますが、何でもお申し付け下さい」
「あいや、あのニコラ・ペルグランのお血筋さまの、お手を煩わせるなんて」
「私は少尉。支部長は、少佐です。星の数もめしの数も、支部長の方がとびきり上です。お手伝いを、させてほしいんです。私、うきうきしてます。あの泣き虫ヴィルピンの下で、仕事できるだなんて、きっと皆に、自慢できるんだって」
そう言って、ペルグランは、童顔をはにかませた。
「ふたりとも、すっかりお前の、大ファンだな」
そして、ダンクルベール。
「さあ、やっていこうぜ。泣き虫ヴィルピン」
自信満々の笑み。
軍帽を取って、最敬礼。これしか知らない。
ウトマン。俺、これだけで、やっていけるんだ。
6.
泣き虫ヴィルピン、本領発揮。
ものすごい勢いだった。二日もしないうちに、ひとつの手口について、逮捕令状ができあがった。ばんばん、手口ごとの容疑者が出てきて、絞り込んで、令状発行。そして逮捕。その間も、何回も転んで、泣いて、立ち上がっての繰り返し。
一週間もしないうちに、後はふたりというところまで、片付いていた。
「“くっつきむし”を、どうするかだよな」
昼時。一旦、休憩というかたちで、とりあえずで見つけたビストロのテラス席。六人ぐらい座れる大きな卓だが、ダンクルベールとスーリと、ペルグランの三人だけ。ちょうど空いてたのが、その卓だけだった。
「遠方での根回しは、やはり時間がかかりますね」
「セルヴァンからも返答があったが、あいつの実家や、国家憲兵隊とは縁が薄い家だそうだ。ガブリエリやアルシェにもあたったが駄目そうだ。頼みのジスカールも、どうもならんとのこと。ヴァーヌ聖教会や、悪党とも繋がりがない。となればヴィルピンも駄目。どうしたものだかなあ」
ダンクルベールが、難しい顔をした。
この国の犯罪捜査で、一番難しい部分である。政治がいちいち絡むのだ。下手に触れば、面倒なことになる。
ここ一帯でも、名のある土地持ち。かなりの名声、支持基盤がある。あるいは現行犯逮捕したとしても、裁判でひっくり返される可能性がある。自分の実家とも、縁はなかった。やるとすれば、内務省か、あるいは宮廷か。
何かしらのご印籠ひとつ。それがあれば、けりが着く。それがない。
三人、頭を抱えていたところだった。
「おお、ダンクルベールの黒犬め。ここであったが百年目。元気がなさそうで何よりだ」
どこかしらから、快活な声で、随分な嫌味が飛んできた。
思わず見やる。老夫婦。ダンクルベールから、おお、という声が上がった。
恰幅の良い、というより多分に肥えた大翁。大きな顔の中心部に、全てが集まったような人相。何より目つきの悪さが、どことなく嫌味というか、ちょっと距離を起きたい印象を与える。反して、装束は豪奢というよりかは洒脱であり、上品ではあるが押し付けがましい感じはない。そのあたりで、外見上の釣り合いは取れていた。
お隣の小柄で可憐な老婦人は、きっとご内儀さまだろう。難しい見た目の男とは正反対に、どこまでも優しい、気品のあるお婆さまだった。
「これはこれは、ご無沙汰しております。ブロスキ男爵閣下」
ダンクルベールが立ち上がりながら放った言葉に、思わずぎょっとした。慌てて姿勢を正し、起立する。
「かみさんと、ちょっと足を伸ばそうと思ってだな。ここのめしが美味いと聞いたのだよ。席が空いているが、相席してもよろしいかね?本部長官殿」
「勿論ですとも。こんなところでお会いできるとは、奇遇も奇遇。ああ、奥さまも、お元気そうで何よりでございます」
「お久しぶりですわ、ダンクルベールさま。いつも主人がご迷惑ばかり」
「ああ、愛しいお前。ここは、どっちもどっちだ。俺もこいつも、互いに迷惑を押し付け合って、飽き飽きしているんだ。そしてこれもどっちもどっちで、双方、大人なところを見せているだけなんだよ。そうだよなあ、ダンクルベール」
「いやはや、男爵閣下の懐の深さには、毎度、敬服させていただいております。ささ、どうぞお掛けなさって」
あのダンクルベールが、妙ににこにこしながら、席を用意した。その巨体が腰を掛ける。どかん、と鳴るかと思えば、そうでもなし。すっと、その巨体が収まった。
爵位は男爵と、決して高くはないが、ブロスキ男爵という肩書に、強い意味がある。ここの国ではなく、もと宗主国たるヴァルハリアの爵位。それも、もと王家であるガブリエリの親戚ときたもんだ。そんじょそこらの名門貴族が何を言おうが、この肩書だけで殴り飛ばせるぐらいの、権威の暴力がある。
誰が言ったか、天下御免のブロスキ男爵。貴族院議員、マレンツィオ大閣下。その人である。
市井にも理解が強く、というより俗っぽく、目の前にいらっしゃるご内儀さまと一緒に、方々にデートと称して足を運び、そこらのカフェやビストロで庶民に混ざってめしを食い、あるいは絡んできた民衆と論議を交わし、機嫌が良ければその場の会計を全部預かってしまうなど、妙な気前の良さから、議員としての素質や能力は別として、民衆からの人気は高かった。
「紹介いたします。俺の新しい副官です」
促され、起立のまま、深呼吸をひとつ。
「ジャン=ジャック・ニコラ・ドゥ・ペルグラン少尉。お初にお目にかかり、光栄であります。ブロスキ男爵閣下」
敬礼。正直におっかない。だが、正面に座した老夫婦は、おお、というふうに、顔を綻ばせた。
「若くして才気煥発、それでいて、伸びしろ十分という面立ちだな。それにしても、かのニコラ・ペルグランのお血筋にあらせられるアズナヴール伯さまの、しかもご嫡男さまを、そこらの案山子風情が鞄持ちにしてやがるだなんて、お前、どんだけ罰当たりなんだかなあ」
「いやあ、本当に、畏れ多い限りです」
好印象のようだ。それにしても、随分とダンクルベールの腰が低い。
「でも良かったじゃないか。飲兵衛の殿さまも俺もいなくなり、頼れるのはセルヴァン閣下ぐらいになっていたところを、あの名族ペルグラン家のご嫡男が来てくださったんだ。早いところ叩いて伸ばして、お前の席を譲ってやれ。お前は現場がお似合いだから、一課課長の方が、気が楽だろうて」
「いやまさしく、渡りに船とは、この事です」
あの威風堂々としたダンクルベールが、へらへらとしながら、ぺこぺこと頭を下げている。
「そうだ。ちょうどもう一隻、船が来てくださったんだ。少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「おう?どうせ自慢の当てずっぽうが当たったはいいが、相手が厄介な連中で、二進も三進もいかなくなっているんだろう。よもやこの俺に、一筆くれとか言う気じゃあないよなあ?」
悪そうな顔が、にやりと、悪そうに笑った。
つまりは、ちょうどいいところに、ちょうどいいひとが来た。それで、ご機嫌取りをしているのだ。前評判では、嫌味で偏屈な癇癪持ちと聞いている。なかなかの難物のはずだ。
「読まれてしまいましたか。いやあこれは、参りましたなあ」
からからと笑いながら、席の後ろに立ち、ダンクルベールが酌をしている。そうして少し、顔を近づけた。
「然れども、天下御免のブロスキ男爵のご印籠。ガンズビュールの大英雄ことマレンツィオ閣下、未だ健在なりと。不肖、このオーブリー・ダンクルベールが、閣下の名代として、見事、天下に示してご覧にいれましょうぞ」
ガンズビュール。はっとした。このひと、ダンクルベールのもと上司だ。士官学校の、ガンズビュール事件の資料に、名前が乗っていたのを思い出した。
嫌味そうな顔が、それで、更に歪んだ。
「よっしゃ。ただ、高いぞ。出せるかな?」
それに対し、一層、作った声で。
「奥さまに、ご一献を」
閣下、手を叩いての呵々大笑。ご内儀さまも、まあ、というふうに、頬を抑えている。ご機嫌取り、大成功のようだ。
「ああ、我が愛しいお前。このダンクルベールめに酌をしてもらうなんぞ、滅多にないことなんだから。勿体ぶって楽しんでおくれよ。さあさあ、ペルグラン殿も、そこな君も、遠慮なく召し上がりなさい。お前たちの面倒も、この場の会計も、このマレンツィオめが預かり申した」
豪放磊落という言葉がぴったりの体の動きと大声で、マレンツィオが大笑いを上げた。とびっきりに上機嫌である。
前評判以前に、生粋の南東ヴァーヌの血、いわゆる本場の伊達男である。見栄っ張りで、情熱的で、感情豊か。女を見れば、すぐ口説きにかかるけれど、ひとりを愛すると決めたら、一途も一途。たまに心が浮ついたりもするが、女を口説く時は、必ず愛する人を隣に置くのもお作法のひとつ。貴女はとても素晴らしい女性だけど、もう私にはこのひとがいるから、ごめんね。というやつである。
馬鹿げた連中で、好きにはなれないが、やはりこの気前の良さは、見ていて気持ちがいい。
おそらくもくそもなく、長い付き合いである。そこを、うまくくすぐったのだ。おだてて、登らせるべき木に登らせている。
あえてご内儀さまではなく、奥さまを使うのも妙手だ。そこをマレンツィオ閣下が怒るのを、男爵夫人さまに窘めさせて、ああごめんよ、と惚気けさせてやるつもりなのだろう。もしくは庶民派な閣下のことだから、奥さまのほうがお気に召しているのかもしれない。
「時にダンクルベール。ヴィジューションに仕事というならば、よもや部下の不手際か?」
「ご賢察にございます。あのヴィルピンめが、少し」
その一言で、今までの機嫌の良さが嘘のように、むっとした顔になった。
「お前なあ。ヴィルピンは、ちゃんと都度都度、面倒を見なきゃあ駄目だろうが。どうせあの泣き虫め。余所からどうこう言われて、こわくなっちまったんだろう?尻を蹴飛ばして、怒鳴り散らかして、そうやって泣かせないと、あれは前にも進めまい。里子に出すなら、同期のウトマンがいい線だが、あれも生まれが邪魔をしやがったもんなあ」
あのダンクルベールのお殿さまに向かって、がつんと言ってのけた。何より、ヴィルピンという名前だけで、そこまでわかってしまうのが、びっくりした。
「すごいですね、ブロスキ男爵閣下。何も言っていないのに、そこまで」
思わず、口に出てしまっていた。ダンクルベールの険しい視線と、マレンツィオの会心の笑みが突き刺さった。
「いいかい?ペルグラン殿。これはね、俺の唯一の取り柄なのだよ。捜査官としては、この黒犬めが何歩も上だ。だが、こいつの恩人たるコンスタン長官をして、俺は、人の上に立つことしか能がないやつと評された男なのだ」
そこまで言って、また大笑いした。そうして、自分のグラスに酌までしてくれた。機嫌が直ったご様子だ。
「つまりは軽い神輿さ。神輿は、担ぎ手のことをちゃんと考えなくては、振り落とされちまうからな。ダンクルベールめは、どうしても出たがりだから、そのあたりが気が回らん」
巨体が軽い神輿とは随分だが、確かに含蓄のある発言である。きっと現役時代は、真ん中にどっかりと腰を据えて、あれやこれやと気を回して、部下を走らせたのだろう。責任は俺が持つ、という類の、大親分だ。
対してダンクルベールは現場主義だから、確かに何かと、取りこぼすものは少なくなかった。
「へへ。男爵さまは、面白いお方だにゃあ」
「おお、そこな面白そうな君よ。面白くあらねば、面白くは生きられまい?見てみろ、このダンクルベールとかいうやつを。つまらない顔ばっかりしているから、つまらないことばっかりに巻き込まれるんだよ」
「あなた、あまりいじめては、よくないですわよ」
「おお。愛するお前、そうだな。お前の言うとおりだ。少しはダンクルベールも褒めてやらねば、やる気も出まいて。本当に、お前は気の利くひとだよ。なあ、ダンクルベール」
「本当に、奥さまには、いつもご慈愛を賜りまして」
「いいのですよ。この人はこのとおり、難しい人だから。後でちゃあんと、叱っておきますからね」
男爵夫人さまの、朗らかな言葉。その肩に手を回して、やっぱり上機嫌に大笑い。見ていて飽きないというか、賑やかな人である。
さてと、といった風に、ダンクルベールが、事案調査書と、鞄から出した便箋ひとつ、差し出した。それをさっと見るぐらいにして、さらさらと一筆、頂戴した。これにて、天下御免のご印籠、獲得である。自分とスーリも、奥さまにお酌をして、ご機嫌伺い。奥さま、本当に心穏やかで気配り上手な、素敵な老婦人さまである。
そうして結局、会計まで持ってもらって、一件落着と相成った。
「都合の良い時に、都合のいい人というものは、いるもんだな。あの人が生粋の本場の伊達男で本当に助かった」
馬車の中、気疲れした様子で、ダンクルベールが紙巻を咥えた。さっきまでのへらへらした様子とは一転して、いつもの険しい老警の顔である。
「なんだよ」
自分の顔に、何か書いてあったのだろう。訝しげに、そう言ってきた。
「なんだかちょっと、幻滅しちゃいました」
思ったことは、思ったままに。
それで、ダンクルベールも、気を持ち直したようだった。穏やかに笑って、嗜めるような格好を見せてきた。
「気持ちはわかる。だが、世間を渡るには、処世術は必要だ。名門出身のお前であれ、いずれ必要になるやもしれんから、それだけは覚えておきなさい」
「はい。でも同時に、ブロスキ男爵閣下は、頼れる人だとも思いました」
「それは本当にそうだ。あの人ほど、頼れる人はいない」
何かを思い出したように、ひとつ、笑った。そうしてぼんやりと外を眺めながら、紫煙をくゆらせた。
「出会いに恵まれた。たった、それだけだな」
ダンクルベールの顔は、ちょっとだけ、寂しそうだった。
7.
死体が増えた。また、“くっつきむし”の方だ。
「おかしいっすね」
現場に真っ先についたのは、ダンクルベールの馬車だった。それを見た途端、スーリがこぼした。
“くっつきむし”は、ようやく令状が出て、今日、身柄確保の予定だった。それが、動いた。こちらの動きに気づいていないのか。
そしてスーリの言う通り、この殺しは、どこかがおかしい。
「麻袋が違う。別の業者とか、入れるものが違うやつ。今までは、同じ種類だった。酒も飲んでない。後ろから、どん。それは同じだけど、ベルトじゃない」
「別人。模倣犯ですか?」
やり取りの中、ふと見えた。
「もうひとりの方だ。あえて、“くっつきむし”の手口を使った」
もうひとりの、いやに手際のいいやつ。殺しに慣れているのが、残っていた。おそらくは悪党の類と見たので、ジスカールから貰った資料を洗っていた最中だった。
不意に、スーリの目が走った。
「いる」
走った。
誰かが、草むらから出てきた。遠い。スーリも、かなりの速さである。追いつけるか。
後ろで、がちゃがちゃと音がする。振り向いた。
「ペルグラン、何を」
ぎょっとした。
馬車に繋いでいた馬。ペルグランが、その金具を外そうとしていた。辛抱しきれなくなったのか、馬上刀を抜いて、車両と繋いである部分だけを斬り払う。そのまま、馬の背に飛び乗った。
「御免っ」
そう、ひと言。踵で、腹を蹴った。走り出す。
馬車馬と乗用馬では、装具が異なる。鞍も鐙もない。手綱も長すぎる。それでも颯爽と、ペルグランはその影を追いかけていった。駆けながら、長過ぎる手綱は取り去って、鬣を握って操っている。そうしてスーリとふたり、影を挟み撃ちにした後、嘶きとともに、馬は両の前足を上げた。
「神妙にすればそれでよし。返答や、如何に」
裸馬の鬣を握りつつ、若き騎馬武者は、馬上刀を突きつけ、その影に言い放った。
それで観念したのか、男は跪き、スーリに押さえ付けられた。
ペルグランは、どう、どうと、馬をいなしながら、ゆっくりと戻ってきた。馬車馬には、人を乗せるような訓練はしないはずだ。それでも暴れることなく、大人しく従っている。
驚いていた。信じられない光景が、眼の前にある。
「ペルグラン。お前、それ、裸馬だぞ?」
「えへへ。実は、ちょっとした自慢でして。うちの馬術指南、大平原の人だったんです」
はにかみながら、ペルグランは馬を降り、備え付けの予備を使って、馬を馬車に繋ぎ直していた。御者はずっと、腰が抜けたようになっていた。
士官学校、次席卒。しかも座学より、実技のほうが評価が高かった。射撃、徒手格闘、剣術、水泳、操船、そして馬術。ほぼすべて、最高評価である。
配属前、セルヴァンとふたり、成績書を見た時、ニコラ・ドゥ・ペルグランの名より、そちらの方に飛び上がったほどだった。
着任より一年半余。自分の隣に置いておくよりも、もっと別のことをやらせたほうが、良かったのかも知れない。
「お前、“錠前屋”に入らんか?あるいは、別の部隊を立ち上げて、それを率いてみるとか」
「予備役でお願いします。流石にゴフ隊長とかには、敵いませんから」
可能性の塊。あるいは、別種の百貨店になりうる。戻ったら、セルヴァンやウトマン、ゴフを交えて、相談してみよう。騎馬隊。水難救助隊。あるいは、精密射撃部隊。ちょっと考えただけで、それだけ出てきた。
縄を打たれたのは、髭面の巨躯。人相や態度から、それなりの悪党のようだった。
「お前がここの、狩長だな?」
「好きに呼びなよ。そんな感じだ」
観念したというより、覚悟していたような口ぶり。話を続けても、答えてくれそうだった。
「何故、手口を変えた?それに何故、ここに来た」
「唆された。ここの連中で決めてた酒場。女だよ。見たこともねえやつだ」
唆された。ふと、思いついた。
「髪か、瞳。変な色じゃないか?例えば、朱とか」
逡巡の後、男は頷いた。思わず、舌打ちしていた。
また邪魔しやがったな、あの、くそ女。
「もう、引き際だと思ってな。引き受けた。向こうも、俺の商売もよ。だから、見にも来たってわけだ」
「手口の、元々の主だな?」
「そうさね。ここでやってた連中よ。どうしてか、お互いに気付いていたからさ。何するわけでもなく、たまに集まってた。お互い、邪魔しないようによ。あいつはもう、限界だろうから、逃がしたかった。もしくはもう、見当がついてるんだろ?それなら引導ひとつ、渡してやってくれよ」
そこまでで、悲しげなため息をついた。
“くっつきむし”。接触していた。その上で、こう言っているということは、おそらく見立ては当たっている。
「俺は商売だから、割り切ってやってたけどよ。あいつだけは違ったんだよ。会ってみればわかる。見てらんねぇよ、あんなの」
商売。いわゆる殺し屋、始末屋の類だ。やはり食うには、厳しかったのかもしれない。そして、それしか仕事がない。
この狩長は、スーリの同族だ。別のかたちの、その成れの果て。心を殺した、ひとごろし。
それが、見ていられないほどのもの。
懐の紙巻に触れていたことに気付いたのは、それを咥えた後だった。
「あの泣き虫ヴィルピンになら、この首、くれてやってもいいと思っていたがよ。まさか、ダンクルベールのお殿さまが来てくださるとはね。悪党冥利だよ」
「お前さん、ヴィルピンを買っていたのかね?」
「そりゃまあ、あの人柄だからね。俺も始末屋商売とはいえ、ああいうのは、嫌いにゃあなれねえよ。上から下まで、好かれるお人だもの。でも何だか最近、調子悪いみたいだから、顧客がつけあがっちまってよ。すまねえことしたって謝っといてくれりゃあ、助かります」
狩長は、疲れたように笑った。
「わかった。顧客のことだけ、別で聞く。ご苦労だった」
肩だけ、叩いてやった。
支部小隊の分隊ひとつ、届いた。身柄を渡した。これも件数が多かったので、死罪だろう。それまでに、聞けるだけのことを、聞いておく必要がある。
馬車に戻る前、鳩を貰って、ひとつだけ送った。
「本部ですか?」
「ああ」
したのは、返事だけだ。
「お仕置きだ」
声に出した。怒りはきっと、それで収まった。
ヴィルピンは、“くっつきむし”の身柄確保に向かっていた。これからは、そちらに合流することになる。
会ってみればわかる。見ていられない。狩長の言葉が、耳に残った。あの男はきっと、長くここで商売をしていて、他の殺しの犯人とも会っている。その上で、お互いの保身のため、取り仕切りをしていたのだろう。その中で見つけた、“くっつきむし”。
男。同性愛者。周囲の理解がない。地位役職が枷になっている。理解者が欲しい。攻撃的な反応に対して、過剰に反応してしまう。解決策がないから、殺してしまう。
狩長は、“くっつきむし”の理解者にはなれなかった。そのうえで、やめさせようとしていた。逃がそうとした。そうすることもできず、シェラドゥルーガの唆しを、双方の最後の切っ掛けにしようと、心に決めた。
心を殺したひとごろしの、最後の良心。
重かった。立ち向かえるだろうか。
到着したのは、大きな館だった。ヴィルピンが待っていた。
「先ほど、容疑を認めました。これから確保です」
「わかった。話はしたか?」
ヴィルピンの目。いくらか、難しい色。
「そうか。俺も、会ってみよう」
その肩を叩いて、中に入っていった。
狩長すら好印象を抱いていた、泣き虫ヴィルピン。それですら、理解の及ばざるもの。
足取りが、重たい。紙巻を咥えたいが、紫煙がきっと、それを邪魔するだろう。
真正面から、見なければ。犯した罪ではなく、その、ひとを。
大きな部屋だった。かわいそうなぐらいに、小さくなっていた。そして、その目に涙をいっぱいに浮かべて、ぼうっと突っ立っていた。
「ダンクルベールの、お殿さまですね?」
これが、“くっつきむし”。頬のこけた、若い男。
「言いたいことが、あるような顔だ」
ペルグランにひと声かけ、一旦、周りを引かせた。席に促し、ダンクルベールも正面に座った。
思い悩み、そして、それに疲れ果てた顔。
「話を、聞いてくれるだけでも、いい」
凍えるように、震えた声だった。
「悩んでいたんだ。女を愛せなかった。私は男しか、愛せなかった。それがいけないことなのか?誰に言っても、誰も、理解してくれなかった。気味悪がられた。汚らわしいと言われた。拒絶された。だから、拒絶されることを、拒絶した。それの何が悪いんだ?愛し合うことじゃない。理解してほしいと思うことの、何がおかしいのだ?」
魂からの、哭き声だった。
見立てはすべて当たっていた。そして、それがどういう人間なのかを目の当たりにして、やはり、つらいものが広がった。
誰からも理解を貰えなかった。望まざるままに害虫になってしまった。路端に揺れ、誰とも出会えず、枯れてしまった“くっつきむし”。
「ダンクルベールさま。これはすべて、私の罪なのですか?」
子どものように、懇願するような。
人と接すること。人を思うこと。人を、愛するということ。すべて、大変なことだ。人は、結局は自分のことしか知らない。他者を向かえ入れ、あるいは訪いを入れ、理解し合うというのは、本当に難しいことだ。
そのことに、心が折れてしまったのだ。
「おかしくはない」
つとめて、穏やかに言ったつもりだった。
「同性に惹かれるというのも、いけないことではない。ただそれを理由に、他者を害してはいけないという、一番手前の部分を見落としていた。ただそれだけだ」
「ただ、それだけ。私の罪は、ただそれだけなのですか?」
「そう、ただそれだけだ。あるいはもう少し時間をかけ、世間を知り、理解のある人と巡り会えれば、別の結果になっていた。それが、できなかった。その選択肢を、取っ払われた。心中を察するに余りあるとは、とても言えない」
それぐらい、そのつらさは、滲み出ていた。
終わりにしよう。終わりに、してやろう。俺には、それぐらいしか、してやれない。
瞼を開けた。腹は、括った。
「神妙にすればそれでよしだが、どうする?」
何とか、言葉にできた。
それで、憑き物が落ちたようだった。静かな座礼だった。
「お前の罪は許せんが、お前自身は、許してやりたい」
それだけ残して、席を立った。
屋敷の玄関のあたりで、男の両親と思しきふたりが、血相を変えて詰め寄ってきた。
「ダンクルベールさま。どうか我が子を。お慈悲を」
「人を害し、罪を犯したものを、野放しにはできません」
そう。罪は、許されない。
つとめて、傲然と言い放った。それでも、引き下がらなかった。何度かの問答を繰り返しているうち、父親のほうが、何かを差し出し、自分の手を包み込むようにして、それを渡してきた。
「これを」
その重さを感じた時、自分の全てが、赤く染まっていた。
その手を叩いていた。震えるものを、必死に抑えつけていた。それでも、抑えきれなかった。だから、吐き出した。思いっきり、吐き出してやった。
その後のことなど、知ったことか。
「お二方は、本官を侮辱なさるおつもりか」
「ダンクルベールさま、お声が大きゅうございます」
「怒鳴らずにいられるか。あんたがた。今までも、そうやって来たんだろう?都合の悪いことを塗りつぶし、理解できないものから目を逸らした。それが自分の息子のことであってもだ。あれは理解者を求めていた。愛するもの以前に、理解してくれる人が欲しかった。それすらわからずに、親をやっていたのか。あんたがたは」
「貧民の出に、我が家の何が」
「わかってたまるか。こんなくそったれが。家名にしがみつき、見るべきものも、育むべきものも蔑ろにし、全部を後回しにした結果がこれだ。あんたがたの息子は、首を刎ねられて死ぬ。理由はどうあれ、六人も殺した。いくら積もうが、誰も助けはしやせんぞ。やるべきことを怠った家の連中になぞ、誰が手を貸すものか。家名に泥を塗ったのは、あんたがた自身だ。あのこじゃない。その責任は、あんたがたで取ればよろしかろう。これにて失礼する」
自分を必死に抑えつけていたペルグランと、すくみながらも立ちはだかろうとしたふたつを払い除け、外に出た。未だ、心には燻りが残り続けている。
こんなもんのために、死ななきゃならん人がいたのかよ。
“くっつきむし”。連行される途中だった。ふと足をとめ、こちらをみとめた。
悲しい微笑みを、送ってくれた。
「ダンクルベールさまは、私のために、怒ってくれた」
それが、嬉しかったようだ。そっと、涙を零していた。
「ああ。きっと、お前のためだ」
「どうして、ですか?」
「俺も、親だからだよ」
だから、怒ってしまった。きっと、そうだった。
少しだけ、間を近づけた。最後の最後に、もう少しだけ、吐き出したかった。
紙巻を咥えていた。火を灯す。紫煙が、落ち着きを導いてくれた気がした。
「随分と苦労をした。妻は不貞を働き、家から消えた。知らない男と手を繋いで、浜に上がった。そこからは娘ふたり、俺ひとりで育てた。食うものから着るもの、習い事に必要なもの。助けては貰ったが、結局は俺ひとりだ。良縁があって、ふたりとも嫁ぎ、今や孫持ちの爺だ。孫の顔を見たとき、ようやく子育てが終わったんだと、泣いたもんだよ」
吐き出して、吐き出したものに堪えられなくなって、瞼だけ、閉じるようにした。
二十半ばで紹介された、良家のご令嬢。白い肌の美しい人だったが、心を許せるところまでは、ついぞたどり着けなかった。向こうの顔を立てる。あるいは、実家に送る仕送りの量が増やせる。ただそのためだけに、結ばれた。
突き刺さることばがはじまったのは、三日もしないうち。稼ぎが少ない。見てくれがよくない。ダンクルベール夫人なんて、呼ばれたくない。最初は、自分の不出来を恥じたが、そのうちに、何故こんなやつと暮らしているのか、わからなくなった。それでも愛する。大切にする。その努力をした。
娘がふたり、産まれた。リリアーヌと、キトリー。
ふたりとも、自分と同じ、褐色の綺麗な肌だった。自分の母親に似たのだろう。小さいうちから、目も鼻立ちもばっちりしていて、これは美しいひとになるだろうなと、心の底から喜んだ。リリィ、キティ。可愛い、俺の子どもたち。
あれは、それすらも気に食わなかった。
ひとりだけ、肌が白い。ひとりだけ、顔立ちが違う。名前だって、もっと華やかなものを付けたかった。そんな庶民につけるような名前、口にしたくもない。
子どもに怒鳴ることも多かった。ひどい時は、手を上げた。それだけはやめなさいと、何度も口論になった。それでも、止まらなかった。
そのうち、褥を別にしているのに、腹が膨れだした。
いなくなったのは、それからすぐだった。
それより前に、上の娘のリリアーヌに、感情のない声で言われていた。
お母さん、別の男の人のほうがいいみたい。
何とはなしに、気付いていた。でも、言い出せなかった。ごめんな。そう言って、抱きしめることしか、できなかった。
顔を忘れた頃。あれは、知らない男とふたり、浜辺に打ち上がっていた。
大変だった。それでも、色んな人が助けてくれた。同僚や上司。恩師であるコンスタンや、直属の上長であるマレンツィオ。特にマレンツィオは相当、気を揉んでくれていたのだろう。仕事の一部を引き取ってくれたり、コンスタンに、自分を休ませてやってほしいと、頼み込んでいたようだ。色々と話を振ってくれたが、その頃はそんな余裕なんて無かったから、気付いたらぶん殴っていたということは、何度かあった。
いいってことよ。助けにはなれんかもしれんが、俺でよければ、殴ってくれよ。そう、労ってくれた。
偏屈な癇癪持ちだが、それ以上に、面倒見がいい人なのだ。ご内儀さまからも、温かい言葉をくれた。娘たちの面倒も、喜んで見てくれた。
有り難い。面目ないと、泣き続けた。
ふたり分のバージンロードを見送り、そのうちに、孫が生まれたと聞いた時は、跳ね上がるほど嬉しかった。また、同じ肌の色だった。それでも、ふたりともの家族は、綺麗な色だとか、きっとお祖父さんに似て、男前になるぞ。そう、暖かく迎えてくれた。
不思議と、子どもにも、孫たちにも、あれの俤は見えなかった。
そうして、大変だった子育てが、終わった。
ひとりになった屋敷で、ぼろぼろ泣いていた。喜びと、悲しみと、寂しさと、解放感。もう、俺ひとりでいいんだ。俺、ひとりなんだ。それだけで、だいぶ、楽になった。
その後すぐ、あの牢獄に用があって、訪いを入れた。
朱いそれは、顔を見るなり、穏やかな笑みを浮かべて、優しく抱きしめてくれた。
お疲れ様でした。それだけ言われて、また涙が零れた。
しばらく身の上話をした。朱いそれは、ただ何も言わず、聞いてくれた。
憎しみだけを抱かずに、ここまで進んでこれたのは、そういう出会いに恵まれたからだ。そう、思っている。
「人を愛するということはな。人を育てるということは。本当に大切で、本当に大変なことなんだ。それをわからんままに、親をやるようなやつを。わからんままに、人をやるようなやつらを、俺は許せない。それだけのことだ」
「それだけで、ああまで怒れるんですね」
「ああ。それだけで、十分だ」
「ありがとうございました。晴れやかに、なりました」
「そうか。どうか、達者でな」
そのつらさを、わかってはやれなかった。だが、自分が歩んできたつらさを、見てもらおうと思ったのかもしれない。
理解が貰えなかったなら、ひとり分だけでも、理解してやれば、お互い、理解し合えた気にもなるだろう。
考えているうちに、男の姿は、小さくなっていった。
「帰ろうか、ペルグラン」
ことが済んだと思った。隣りにいたペルグランに声をかけ、踵を返した。
ペルグランは、その場から動いてくれなかった。
「泣くんじゃない」
「泣いていません」
「そうか。なら、帰るぞ」
「はい」
振り向いた若い男の頬は、涙で濡れていた。
8.
黒いカーテン。そして鉄格子。
ここに来るのは、久しぶりだった。そして今、身の回りにある、それも。
三角帽子、濃紺の外套、水色の肩襷、白のキュロットに、短靴。炊いたのは白檀の香。隣に控えるのは、そのころからの助手役であり、息子でもあるセバスチアン。
「このあたりで良い」
しばらく進んでから、一度足を止めた。踵を返す。セバスチアンは何も言わず、厳かに、それを差し出してきた。
切っ先の丸められた、大剣。
「先に戻っていなさい」
セバスチアンは一礼し、去っていった。
また踵を返し、進む。そのうちに応接間のようなところに行き着いた。女がひとり、立っていた。
こちらの顔をみとめると、一度、はっとした表情を浮かべてから、そうして頭を振ったあと、正面に向き直った。穏やかな、表情だった。
「貴方がお越しになるとは、思いませなんだ」
声も、穏やかだった。これから起こることをわかっているようにすら、思える。
そのひとに続き、もう少し歩く。書架の林。本当に広い空間である。独房とは思えないほど、明るく、きれいに整った、宮殿の一室のような空間である。
そのうちに、また少し広めの空間に出た。そこでそのひとは、こちらに向き直った。
「それではどうぞ、よろしく」
そう言って、手の甲を上にして、差し出してきた。無言のまま一礼し、それをとる。
人のかたちをしているならば、人のやり方は、通じる。
伝えたものは、伝わった。そのひとは、がくりと落ちる。そのまま立膝になって、うつ向いた。それをみとめて、即座に横をとる。
まずは一閃、空を薙ぐように横に払う。婦女の髪を斬るのは、もっともの不作法。それで、朱く揺らめくものは風に流され、まっしろな首筋があらわになった。
まず殺すのは、己の心。次に断つのは、生きた道。
音もなく、抵抗もなかった。
ぽとりと落ちた首が、その人の両手の上に、抱えるようなかたちで落ちた。血は、思ったほどには吹き出なかった。刀身や装束にも、汚れはない。
二歩ほど下がり、一礼した。
「お美事です」
そのひとの声だった。
首のないからだが、ゆっくりと、手にした頭を持ち上げる。そうして、あるべきところにそれを据えると、何ごともなかったかのように、その人は立ち上がった。
「ムッシュ・ラポワント。そして、ムッシュ・ド・ネション。それこそは誇るべき、ただ唯一の名」
「光栄にございます、ボドリエール夫人。そして、恐るべきシェラドゥルーガ」
シェラドゥルーガは、生きていた。
わかりきったことではある。化け物だ。何度か、殺している仲でもある。毎回抵抗せず、ただ神妙に、そして穏やかに、それを受け入れてくれる。
それでも心には、疲れは積まれていく。
席に促され、酌を受けた。
強い琥珀色のブランデー。あの時は酔いだけが、心を慰めてくれた。今はもう、他にも心を満たすものが色々とあるものの、やはりこれだけは、この酒でなければ、紛らわせなかった。
「久しぶりでしたわ。代々の死刑執行人、ムッシュ・ラポワントの首切り剣法。我が誘いに“柔”を以て応えるなど、やはり貴方は、今でも研ぎ澄まされている」
「嫌なものですな。どれだけ老いても、どれだけ離れても。身に染み付いたものは、離れてはくれない」
「人とは肉体のいきもの。そして私は、心のいきもの。刻まれ、育まれる部分が異なるがゆえに、私は肉体の死では、死を迎えることはない。それでも貴方が与えてくださるそれは、穏やかで、晴れやかなもの。あるいは人を喰らうことよりも至高の甘美。貴方にさえ負担をかけなければ、何度でも味わいたいぐらいです」
「御免被りますな。人でなしとはいえ、人のかたち。殺意無く、ただ責務に則り命を断つこととは、つらいものです」
手に取ったそれを、味わうこともなく、一気に流し込んだ。喉が焼け、腹の中に染み渡る。それで、目が醒めた。
「あるいは貴女のような、心のいきものであったならば、私はこれを素直に、喜べたのかもしれない」
「心中、お察し申し上げます、などとはとても言えない。私の勝手のせいとはいえ、貴方を傷つけたことについて、深くお詫びを申し上げますわ。ムッシュ・ラポワント」
「ご厚意を、感謝いたします」
もう一度注がれたそれは、ゆっくりと舐めるようにして、味わった。
「怒ってらっしゃった?」
「怒ってらっしゃいましたよ。また邪魔をされたって。文面でもわかるぐらいに、怒り心頭のご様子です」
「それはよかった。我が愛しき人を困らせるのが、この虜囚の唯一の手慰みですから」
「あまり、からかってやらないでくださいね。貴女より付き合いは短いものの、あの方もあの方で、心も体も何処かしこも、傷と疲れに塗れています。いつ壊れるやもしれないそれを、ただ確固たる意志だけで支えているようなものです」
「わかっているつもりではありますが、それでもつい、ね?何をやっても振り向いてくれないのだから、選べる手段は少なくなるの」
「思いを伝えるには、真正面から行くのが、一番ですよ」
「それはいや。淑女ですから。ちゃんと向こうから愛を伝えてほしいもの。それだけを夢見て、私は生きている」
そう言って、ふたりでくすくすと笑った。
心の澱んだものは、消えていた。
「そういえば夫人。ひとつ、文句を言いに来たのでしたよ」
そう言って、忍ばせていた一冊の本を差し出した。
“須臾”、と銘打たれた、瑞朝の散文集である。
「あらま、バレちゃった?」
「著作権侵害ですよ」
観念しましたとばかりに、夫人が笑った。
「よくもまあ、まわりくどくやりましたね。古の瑞の詩家をでっち上げて、それを偽名で翻訳するなんてね」
気付いたのは、妻だった。それの前では、よくそうしていたので、本の内容とそれに、奇妙な一致を見たそうだった。
「恐れ入りましてございます。でも本当に、貴方の詩風は大好きなの。気宇壮大にして雄渾、それでいてどこか、生きることの物悲しさが染み渡る。最初はエルトゥールルの四行詩あたりにしようかと思ったけど、瑞の絶句や律詩にも挑戦したかったから。楽しかった。向こうの文字や発音で韻を踏むのって、すごく大変。色々、ミスがあるっぽいから、次版で直さなきゃね」
そう言って、夫人は楽しそうに本を開いた。そうやって、これがこう。そうそう、これね。と、はしゃいだように、話をしてくれた。
詩や歌が、好きだった。
眼の前に広がるもの。心の中にあるものを、言葉というかたちにすること。あるいは、心を慰め、和ませること。そうやって、心が豊かになること。涙とともに、ある時は汗とともに、音にしていく。言葉だけでなく、楽器があってもいい。時に呟きとして、あるいは叫びとして。空と時の中に、放りだしていく。文字として残すのもいいだろうが、自分は、見えないかたちとしていくことの方が、心地が良かった。
それは、妻と自分をも、結びつけてくれた。とある伝統舞踊で奏でられる旋律だった。
妻は、大陸の出身だった。ユィズランド連邦と、その南東のエルトゥールルとの国境付近。こちらに渡ってきてから、あれの母親が、体を悪くした。家が近かったそうで、自分の医務院に通っていた。
昔、近所の爺さまから教えてもらった、そのあたりの伝統舞踊の、ギターの技法と曲の数々。手持ち無沙汰に、たまに弾いたり、歌ったりしていた。
気付いたら、そのこは隣にいて、にこにこしていた。
こちらに渡ってきてから、聴けなくって。寂しかったんです。素敵な笑顔だった。
一緒になるのに、そう時間はかからなかった。生命という色が褪せるのを見ていくなかで、心に鮮やかな色を与えてくれた。それは、今も変わらない。
血と業に塗れた道の中。そんなことも、あったのだ。
「ねぇ、ムッシュ」
夫人が、顔を上げた。
「今度、時間があるときにでもね。ギターを教えて欲しいんだけれど」
「おや。ご興味がおありですか?」
「前にお話してくれた、奥さまのところの伝統舞踊のやつ。南東に旅行に行った時のこと、思い出しちゃったの。ほら、あのあたり、文化が近いじゃない?」
「そうですね。うちの師匠筋も、そこの人ですから」
「本当に激しくって、情熱的でさ。特に、“ふたつの川”だったかな?もみあげの凄いおじさまが、足組んで叩くようにしてさ。あんなにやっても、壊れないものなのね」
笑いながら、ソファの後ろに手を伸ばしていた。一本、出てくる。何もかも相変わらず、不思議なものだ。思わず、こちらも笑ってしまった。
「まずは、爪を切るところから、はじめましょうか」
「やっぱり?じゃあ、手拍子にしようかな。あれも難しいでしょう?」
「簡単なのから、はじめていく。何だってそうでしょう?“ふたつの川”は、天才が作った曲ですから。格好良いんですけどね。最終目標です。よもや、お喋りしているうちに、アプローチしたい欲でも出たんですか?」
「大当たり。甲斐性なしひとり捕まえるのに、女の方が格好を付けなきゃいけないのも、癪だけれどもね。頑張って覚えて、我が愛しのオーブリー・リュシアンの心を掴まなきゃ」
「おや。うちの家内も、ルシアでしてね。それこそ“ふたつの川”で落としましたよ」
笑って言ったひとことに、夫人が腹を抱えてしまった。
もう三十年、いや、もっと前か。あの曲で、ふたつの川が交わった。色々な流れと交わり、あるいは分かたれ、いずれすべてが、海へとたどり着く。それがいつになるかなど、誰にもわからないことだ。
わからないことを、気にすることも、悔やむことも、必要ない。流れていく。流れたいようにして。
そんなこともある。ただ、それだけ。
9.
撤収前に、ヴィルピンから話があった。
近くに有名人が来ている。その名を聞いて、ダンクルベールの顔に、とびきりの喜びが浮かんでいた。
「ガンズビュールにはいい思い出がないが、とびっきりの特産品が、ひとつだけあってだな。そいつみたいだ」
馬車の中。老いた顔が、うきうきしていた。
向かったのは、小さなごろつき酒場だった。悪そうな男ども、化粧の濃い娼婦などが、ごろごろしていた。
「腕の細い男がいると聞いた」
ダンクルベールの声に、ごろつき酒場の連中が、一瞬で静まり返った。ぴしりとした、緊張感が走る。
ひとりだけ、違った。その背中は、カウンターの方に見えた。
「足の悪い、でかいやつがいるとも、聞いてるぜ?」
帰ってきたのは、酒に焼けた声だった。
小柄とまではいかないが、そこまで背も高くない、年嵩のいった、細身の男だった。
「ダンクルベール、とかいうやつでねえ」
そう言って、男が振り返った。
不敵な笑み。杖突きの、老いた男。左手は、簡素な義手だった。
「奇遇だな。俺もダンクルベールという。俺が探しているのは、アキャールってやつだ」
「そいつは奇遇だ。俺も、アキャールっていうんだよ」
「おいおい。そいつは奇遇だなあ」
そう言って、ふたり、大笑いしはじめた。そうして、お互いに歩み寄り、一度、手を取り合ってから、がっしと抱き合った。かなりの体格差だが、アキャールという男も、どうしてか、大きく見えた。
「久しぶりだあ。まさか、こんなところで会えるとは」
「いやあ。店を畳んで諸国漫遊だ。会えるとは思っていなかったよ、ダンクルベール。仕事で来たのか?」
「ああ。ちょうど終わって帰るところだ。部下どもから、有名人が来てるって言われたもんでな」
「有名人か。ありがたいねえ。まだまだこの名も、捨てたもんじゃないな。さあさあ、俺の店でもねぇけどよ。ゆっくりしていってくれよ」
聞いたことがないぐらいに、明るい声。ふたりとも、満面の笑みでカウンターに腰掛けた。相手の方には、ちょっと化粧が濃いが、いい感じの年増さんが引っ付いていた。遅れて、自分とスーリも促される。
本当にふたりとも、嬉しそうだった。
ふと、周りを見た。ごろつきどもが、きょとんとするか、ぎょっとしている。ダンクルベールだと。細い腕。まさか、あいつが。ガンズビュールのやつか。ちょっとしたどよめきになっている。
アキャール氏。悪党方面の、有名人と見た。
「三年か、四年か?店を畳んだとは、勿体無いな」
「あの商売は、もう流行らんよ。ガンズビュールは、おかげさまで裏も太平。継ぐやつもいないし、俺で終わりさ」
「あの。おふたりはどう言った仲で?」
爺さんふたりの世間話に、おずおずと割って入ってみた。
ダンクルベール。とびきり嬉しそうな顔で、こっちを向いた。細い腕というよりも、細面のアキャールも、目を細めて、にこにこ顔だ。
「友だち、ってやつかな。喧嘩ばっかりしているが、それでも友だちだ。好敵手っていっても、またちょっと違うもんな。ダンクルベール」
「そうだな。昔、ガンズビュールで知り合った悪党さ。“細腕”っていう、いい名前がある」
ユィズランド方面の血だろうか。本場の伊達男とはちょっと違った、気障な感じの細面のあちこちに、薄い傷が走っている。悪党と言われたが、からっとしていて、気持ちのいい感じがした。
「申し遅れました。私、ダンクルベール長官の副官を努めております、ペルグランと申します。よろしくお願いします」
おずおずと挨拶をしてみた。悪党相手の挨拶なんてどうしていいものだか、と思っているうちに、ダンクルベールの巨躯をまたいで、言われた通りの、いくらか細い右腕が伸びてきた。思わず、手を伸ばす。
握手。びっくりした。相当な握力だった。
「お言葉、丁寧にござんして。“細腕のアキャール”と発します。親分が面倒くさくて、大変そうって顔をしてらっしゃるね」
「お前が人を悪く言うなんて、随分だな」
「実際、そうだろう?口下手で、そのわりに律儀で真面目なんだから。俺みたいな同世代はともかく、兄ちゃんみたいな若いこは、きっと顔色を伺うのが大変だろうよ」
アキャールの言葉に、ダンクルベールが嬉しそうに苦笑した。ここまで言われてそれで済ませるとは、相当に気心のしれた仲なのだろうか。
「無問題。長官さん、本ぁ気で、いい人なんだよねぇ」
「ほれ見ろ。ちゃんと懐いている」
「いいこなんだよ。お前が、甘やかされてるのさ。何かと下手くそだから。皆、甘やかしたくてしょうがないんだよ」
またふたり、げらげらと笑って、背中を叩き合っている。
本当に、仲が良いんだな。しばらくそうやって、あれこれと身の上話で盛り上がっていた。
向こうもこっちには来たばかりで、あっちへぶらぶら、こっちへぶらぶら。行きずりの女を作ってみたり、見てみたかった風景や建物を見たりだとか、隠居生活を満喫しているそうだった。
こちらも、部下ひとり、活を入れてきたところだと、ヴィルピンをねたにして、笑い合っていた。
アキャールという人は、明るかった。人をとにかく褒める。人のいいところを沢山知っていて、あるいは見抜く能力があるのだろう。ペルグランも、スーリも。たったひと言、二言、交わしたぐらいで、目一杯に褒めてくれた。でも、ダンクルベールに対してだけは、ちょっとだけ辛口。これもきっと、同世代の仲良しだからできること。悪口の言い合いでも、楽しくなれるというやつだ。
ガンズビュール訛りの強い、ちょい悪おやじ。“細腕”のご隠居、アキャールさん。悪党とはいうが、民衆に親しまれるような、頼りがいのある任侠さんかな。喧嘩しているとはいっても、きっと口喧嘩とか、そんな程度なのだろう。
「ああ、そうそう。忘れていたよ」
不意に、アキャールが立ち上がった。
「お給仕さんが足りないから、手伝いしてくれって、頼まれてたんだ。ご注文を、お伺いしようかね?」
ダンクルベールの隣。アキャールはカウンターに背をもたれて、そんな事を言いだした。ちょっとだけ、声色を作ったようにしているのが、引っかかった。
カウンター向かいの亭主を見る。顔に、緊張と感激が見えた。どうしたんだろう。
「別段ない。ただこの店は、席料が高いんだってな」
それもどこ吹く風で、ダンクルベールはにこりと笑って、そう答えた。こちらもどこか、芝居がかった口調だった。
この店には、席料なんてないはずだった。確認しようと、やはり亭主の方を向くと、ぎりっと睨みつけられた。
何かの、符牒の話をしているのかもしれない。
「そうさね。最近は景気も悪くて、席料も上がっちまった。味が良くて、亭主の器量が良くなけりゃ、流行らん店だ」
芝居がかった、しみじみとした顔だった。
このひとも、ここの店に通い詰めているわけではない。今までの会話で、そう言っていたはずなのに。
そのあたりからだ。店中から、おお、というどよめきが上がりはじめた。あれがあの、“細腕”の。ああ、一度見てみたかったんだよ。そんな言葉が、飛び交っている。
何かが、はじまりつつある。
「相変わらず、金はない。渡せば、つけ上がるだろう?」
「ほいじゃ、まあ。ここらでお別れでごじゃんすね」
そう言って、アキャールが腰を浮かせた。
どよめきが、このあたりから歓声に変わりはじめた。口笛すら上がりはじめる。おやじのひとりが、煤けたギターを担いできて、雰囲気のある旋律を奏ではじめた。
まるで活劇ものの芝居。決闘前の、口上の場面。
「言うなって。友だちだろ?爺になって、少なくもなった」
ダンクルベールのその言葉に、男は足を止めた。お決まりのように、両足の踵を、何度か軽くぶつけてみせる。
「少なくなったなあ。友だちも、なにもかにもが」
そのあたりで、もう、店内は大盛り上がりだった。強面の亭主も、涙を浮かべながら、せっせと緑の瓶をふたつ、用意しはじめた。
「これ、ご存知なんですか?」
「頼むよ、兄さん。見させてくれよ。自分も余所で聞いた話さ。それも随分昔の、伝説だ。それがまさか、俺の店で見れるなんてさあ。ああ畜生、生きててよかった」
そこまで言うなら、きっと名の知れた仲の、名の知れたやり取りなのだろう。
白秋の手前が、活劇の真似事。そんなことを、皆して手を叩いて盛り上がっているのだ。
不思議な景色。でもなんだか、かっこよかった。
「俺は左足。お前は、左腕。残ってるものは、本当に少ない。ああ、本当に。寂しくなっちまったもんだ」
「けどよ。少なくなったものを振り返り、懐かしんだり、有り難がるのも、友だち同士だったんなら、悪くはないよな」
「ああ。心の底から、そう思うよ」
ダンクルベールが、立ち上がった。横に並んで。背中合わせの、男ふたり。
そうしてふたり、差し出された緑の瓶を、瓶のまま、一息で飲み干した。その瞬間、背中がしびれていた。
「このやりとりも、この後も。あと何回できるのかしらね」
アキャール。本当にぽつりと、漏らすように。
「考えたくもないから、やれるうち、やれる分を楽しもう。今まで通りにな」
「そうだな。じゃあ、見せびらかしてやろうぜ」
アキャールの指の音、三回。嬌声が上がった。上げてしまっていた。
大歓声の中、ゆっくりと歩みだす。すべて決まった段取りのように、お互いの杖を、床に突く。
とん、という音。それで、静まり返った。
男ふたり、酒場の中央。並び立ち、向かい合う。
「面倒な決まりは、無し。店の迷惑にならない程度に」
「勝敗は、勿論。だろ?」
「ああ。お互いの、気の済むまで」
瞬時に、何かがぶつかった。杖と杖。間合いが離れる。
お互い、同じ構えだった。半身で、まるで細剣の決闘のように。
比べれば、ダンクルベールの方がどっしりとしていて、アキャールの方が軽やかだった。義手持ちとは思えない。鮮やかで、華やかで、そして鋭い。
「さあて。久方ぶりにご尊顔を拝しました“お憲兵さま”に、この“細腕”の妙味、楽しんでいただきましょうや」
張り上げたアキャールの声に、大歓声が応える。
「思い出の味だ。張り切って、フルコースで頼むぜ」
はじまった。杖の喧嘩だ。
お互い、きっと鉄芯入り。細剣のようには突かない。足の動きも、少ない。最小限の所作で、しかし、ぶんぶんと大きく振り回しながら、ぶつけ合う。どれもこれも必殺の一撃。寸前で、あるいは余裕を持って、守り、そして攻め込みあっている。
客はもう、大盛りあがりだ。こんなところで、あの“細腕と剛腕”だ。久しぶりだ。俺は、はじめてだよ。嬉しいなあ。かっこいいなあ。そんな声が、そこかしこで上がっている。さあさ、張った張ったの大音声。涙ぐむおやじども。若い連中だって、男も女も、きゃあきゃあ黄色い声をあげて、楽しんでいる。酒を出した亭主は、もう顔を覆って泣きじゃくっていた。
男の喧嘩。楽しんでいた。
あるいはダンクルベール。踏み込んだ前足の、膝だ。それをアキャールが前足で刺したと思った途端、一気に背後まで回り込んでいたり。それすら無理を通して、ダンクルベールが一気に距離を詰め、杖頭とか、空いた拳で殴りかかってみたり。杖だけじゃなく、体全部を、目一杯使って、じゃれあっている。
まだ有効打は一度もないが、ふたりとも、汗を流しながら、にこにこと、心の底から笑っていた。
それで、気がついた。本当に、友だちなんだな。気心のしれた、喧嘩友だち。あるいは、喧嘩しかしない、ただそれだけのための、友だち。
ふたり、やっぱり同じように。横の薙ぎ払いだった。
閃光と、甲高い音。何かがふたつ、宙を舞った。
「ペルグラン」
静かに言われて、動いていた。とっさに動かした両の手に、ダンクルベールの杖が落ちてきた。
向こうの杖は、向こうの連れていた、綺麗な年増さんの手の中に落ちてきた。
「ああ、“細腕”だ。何度味わったって、味わい尽くせる気がしない」
「まさしく“剛腕ダンクルベール”だね。こればっかりは、やめらんねぇよ」
そうやって、差し出した手を握りしめ、抱き寄せあった。
その後はもう、割れんばかりの喝采と、酒盛りだった。ふたりを真ん中に、いいものが見れた。いやあ、変わらないな。お前も随分うまくなったな、だの。恥ずかしくなるぐらいの惚気合いだ。
ダンクルベールの、こんなにいきいきとしている顔を見るのは、はじめてだったかもしれない。
店を出る頃には、陽が暮れていた。三人、したたかに酔いどれていた。
開けた馬車の中。女ひとり、待ちぼうけていた。
「馬っ鹿みたい」
「俺は楽しんだ」
頬杖をつきながら、珍しく煙管なんかを咥えた夫人。その心底つまらなそうな様子を前に、ダンクルベールは未だ余韻に浸るように、満足そうな顔を浮かべた。
「こんなところでまた会えるとは。あの“細腕”、おんなじような爺になっても、元気そうで安心したよ」
「最っ高でした。喧嘩友だち、って、いうんですかね」
ぽろっと出た言葉に、鳴らした指のまま、顔と指を向けてきた。まだ酒と格好つけが残っているようだ。
「まさしく、それだ。ガンズビュールで鳴らしていた、喧嘩賭博の親玉さ。俺が中尉の頃、捜査の一環で、裏の情報が欲しくてな。あいつの店に飛び込んで、喧嘩して仲良くなったんだよ」
笑ってしまった。そんな無茶な捜査を、この人もやっていたのか。理性の人とばかり思っていた。
「でも“細腕のアキャール”って、面白い渾名ですね。杖か、義手を、そう呼んでるんですか?」
「俺の足も、あいつの腕も、ちゃんとしていた頃からだよ。若い頃から、あいつは“細腕”だった。あの背格好なのに、喧嘩やらせたら、とびっきりなんだよ。少しでも顎を晒したら、あの“細腕”の妙味が飛んでくる。何度も何度も、勝ったり負けたり。それからお互い、体を悪くしたら、今度は杖でやってみようぜ、って」
あの大酒飲みのダンクルベールが、褐色の肌に赤みが差すぐらいになって。皺が無くなるぐらいに、朗らかに笑っていた。
「つまりは俺の、杖の師匠なのさ」
紙巻を咥えながら、また格好をつけたように嘯いた。
「そういや、あの小芝居。はじめて合った時のを、皆が気に入ったから、ふたりで仕方なくやってるんでしょ?でもそのうちに楽しくなってきて、最初の二言、三言の後は、まるっと即興。いやあ、長官の台詞ったらもう。かっこよかったねぇ。皆に聞かせてやりたかったよ」
「おいおい、言うなよ。あれ、すっごい大変なんだぜ?二度目に会ったときぐらいか?ひとしきり飲んで、じゃあやろうぜ。そうなったときによ。あいつの子分どもめ。あの時の、かっこよかったよなあって、茶化しやがってよ。あれだけのために、活劇の芝居に通ったぐらいには、苦労したもんさ」
もう、とびきり上機嫌の饒舌だ。このひとが、こんなに明るいひとだとは、露とも知らなかった。
「爺ふたり。活劇ものの真似だなんて。みっともない」
対して、不貞腐れたように頬杖をついて。夫人は紫煙をふかしながらぶうたれていた。おや、その白い頬がどうしてか、赤いように見えた。
「夫人。まさかアキャールさん相手に、妬いてるんですか?」
思ったことが出てしまった。まあ、これぐらいならね。しかも相手は、男だし。
突然、視界がぐらついた。
胸ぐら引っ掴まれて、引き寄せられていた。朱い瞳のシェラドゥルーガの、とびきり不機嫌な美貌が、眼の前にある。
「何か言ったかね?」
言い返せなかった。ちらと見た、スーリもダンクルベールも、知らんぷりを決め込みはじめた。
これ、やばいやつだ。
「思ったことを思ったままに言う癖は、やっぱり直すべきだったかな?それに、表現も下手くそだ。お仕置きが欲しいなら、正直にそう言いたまえよ。なあ、我が忠実なるジャン=ジャック・ニコラ君?」
助けを求めようにも、ダンクルベールは狸寝入りを決め込んでいたし、スーリの姿は消えていた。
あのガンズビュールの人喰らいを、怒らせた。
「さあて。神妙にすれば、それでよし」
釣り上がる口角。瞬間的に感じた、恐怖。
指の音。ぱちんと。
動かない。いや、誰も動いていない。まるで時が止まったかのように。
まさか、ちょっとした“悪戯”かよ。
動いているもの。正面の、夫人。暗黒の笑み。歯が見えるぐらいに。
顔が、近い。近すぎる。
「それであれば」
唇に、何かが触れた。唇。舌まで、入ってきて、絡まれて。
女のひとの、味。嘘だろ。これが人生、はじめての。
離れた唇、ふたつ。糸が、引いていた。
「これぐらいで、許したげる」
それを指でなぞりながら、夫人が笑った。
先ほどと違う、妖艶で、蠱惑的な表情。目眩がするぐらいに、心がざわついて。余韻がいつまでも残っていて、それが全身に駆け巡っている。
「あら、ちょっと?ペルグラン君ったら、もう」
動かない体のまま。ふと夫人が、自分のある一点を見つめて、驚き混じりの、恥ずかしそうな声を上げた。そうして頬を赤らめながら、そしてどこか気恥ずかしそうに、くすくすと笑いはじめた。
「そこまで気に入ってくれたんだ?ペルグラン君は、本当に可愛いなぁ。でもお仕置きだから、今日はここまで。そこのしっかりものさんは、また別の機会にね?」
夫人はそう言って、また頬に軽いベーゼをあわせてきた。
もう一度。指の鳴る音。
景色と体が、動きはじめた。スーリはいない。ダンクルベールは、本格的に寝入ったようだ。夫人だけは隣でずっと、顔を赤らめて、くすくす笑っていた。
また別の機会。その言葉のせいで、しっかりものさんは、張り切ったままになってしまっている。
「駄ぁ目」
じろりと睨むも、赤い頬のまま、夫人は魔性の笑みで返してきた。
このひと。やっぱり、人でなしだ。
(つづく)
Reference & Keyword
・パトリック・カーニー
・ウィリアム・ボニン
・ランディ・クラフト
・劉備(三国志演義)
・Entre Dos Aguas / Paco De Lucia
・Spain / Chick Corea
・アランフェス協奏曲第二楽章
・The Ecstasy of Gold / Ennio Morricone, or Metallica
・ザ・ロック(ドゥエイン・ジョンソン)
・サバット(フレンチボクシング)
・ラ・キャン