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それ以外のすべて

コルカノ大陸西部に浮かぶ、小さな島国。


その国は、偽りによって成り立ち、

背信によって滅びた。

故に誰彼からも見捨てられ、

時の中で忘れ去られることを選ばれた。


国家は国民のためにあり、

国民は国民のためにこそある。

それを忘れた国家は、

国家たることを忘れ去られ、捨てられる。


故にその国の名は、今もって伝わっていない。


エーミール・ルイソン・ペルグラン、著

“べリュイール共和国前史”より

1.


 葬列は、そのまま宮廷へと向かっていった。あるいはその手に、何かしらの武器を携えて。

 マレンツィオが凶刃にたおれた。誰がやったかは、エルミニオには予めの検討がついてあった。だから今こうして、群衆の先頭に立ち、それを率いている。

 兄王子、アウグスティン。父マルテンがユィズランド連邦に外遊している隙を付き、宰相カゾーランと国民議会議長マレンツィオを暗殺し、国政をほしいままにしようとする、旧時代的な愚物である。

 カゾーランが死んだ時、エルミニオは内心でほくそ笑んでいた。マレンツィオが死んだと聞いたときは、舞い上がっていたと言っていい。

 すべては、アウグスティンの間者から密書ひとつ、取り上げていたからだった。

 エルミニオは才覚に恵まれたが、環境には恵まれなかった。母親であるカロリーナはアウグスティンと同じく、親政を望むところが強く、カロリーナの親族もまた、同じだった。親族の期待を負わされ、しかしエルミニオはそれに反発していた。

 何度か、殺されかけもした。アウグスティンや、カロリーナの親族。目先の権力しか見えていない愚か者ども。

 そしてマルテンはすべてにおいて、見て見ぬふりを貫いた。

 ひとり、抗い続けていた。

 光明が見えたのは、マレンツィオが国民議会議長に選出されてからだった。勢力の垣根を越え、“緩やかな革命”というものを立ち上げてくれた。それは王家の権威を約束する一方で、それの無力化をも意味していた。これが成るだけで、アウグスティンやカロリーナを黙らせることができる。

 しかし、やはり遅かった。誰も彼もが、結末だけを望んだ。あるいはアウグスティンたちも。

 だから、マレンツィオには死んでもらわなければならなかった。ほんとうの革命を起こすために。

「国父、フェデリーゴ・ジャンフランコの無念を晴らすために」

 それで、声が上がった。壁のような、大きなものが。

 民衆とともに、アウグスティンを打倒する。その後、マルテンをあらためて迎え入れ、その権限を譲らせることで、エルミニオが立憲君主制の君主として君臨する。

 実権はないが、王としての権威はある。国の頂点という意味では、何の見劣りもない。

 宮廷前広場。門は閉ざされていたが、この人数である。いずれは無理が来る。宮廷警備隊は弱兵揃いだから、これも人数で圧倒できる。民衆に被害が及べば、他のものが激昂する。

 いける。勢いで、押して行ける。

「国父の大願を成就するぞ」

 がなり立てていた。そうするたび、興奮の坩堝は火を吹いた。

 おお、勇敢なるフェデリーゴ・ジャンフランコよ。よくぞ死した。よくぞ、我が為に散ってくれた。私が国の頂きに登ったあかつきには、貴方を国父として、英霊として、次代に語り継ごうぞ。

 不意に、大音量が割り込んだ。何かが、迫りつつある。

 山ほどの荷馬車。民衆とエルミニオの前に並んだ。そうしてそれは横倒しにされ、ひとつの壁のようになった。銃眼付きの衝立も展開されていく。

 武装馬車ウォーワゴン。野戦築城のつもりか。

「おお、見よ。これが国の答えぞ。我ら無辜の民に対し、銃を突きつけることが、この国の答えだ」

 エルミニオは声を張った。そうすることで、怒れる民衆はそれに応えてくれた。

「打倒せよ、国民よ。虐げるもの、尽くを」

「それまでにございます、弟王子殿下」

 凛とした、雪解け水のような声。

 出てくる。小柄な修道女の姿。馬車の壁と民衆の間に、割って入ってきた。

 その象徴を見とめたとき、エルミニオはぞっとしていた。

「この傷にまみえ、その名を呼ぶのならば、しかり、とのみ答えよう」

 向こう傷の聖女、サントアンリ。

「課せられたもののため、我は聖なるものとして、恐ろしきなんじの前に立ちはだかる」

 動揺が広がっているのがわかる。アンリさま。サントアンリさま。そう言った声が、波のように。

 駄目だ。しぼむな。ここでしぼめば、我が大願が。

れっせられしものとして、そしてただひとりのアンリエット・チオリエとして、生命せいめいを脅かす汝に対し、立ち向かう。たとえこの身が朽ち果てようと、炎となって立ちはだかり続けるであろう」

 唱えるは聖句。信念のうた。およそ可憐な娘からは発せられないであろう、荘厳とした、そして人とは思えない、声。

 エルミニオは、動けずにいた。足に杭を打たれたように、そこに突っ立っていた。

 そうしてそれは、そんなエルミニオの前まで傲然と歩を進め、その両手を広げた。

「そのために、この傷と名を、負ったのだ」

 吠え声。そして、ごうと鳴る赤。

 馬車が燃え上がった。それは炎の壁となって、眼の前を焼き焦がしていた。

 民衆たち。皆、足を止め、膝をついていく。神秘にまみえたように、誰も彼もがこうべを垂れていく。あるいは泣き崩れ、ゆるしを請うている。

「収めよ。さもなくば、斬れ。その覚悟無ければ、去れ」

 清らかな声で、静かな声で。聖女は迫ってきた。

「そなたこそ退かれよ、サントアンリ。我ら、国父フェデリーゴ・ジャンフランコの無念を晴らすために」

「あのお方は流血を望んでおりません、弟王子殿下。それはあのお方が死してなお、変わりません。流血なき改革。それこそが、“緩やかな革命”の本質でしょう」

 七色の光を放つ瞳。それに、圧された。エルミニオは、思わず懐に手を伸ばしていた。

「国民議会議長夫人シャルロットさま。これへ」

 サントアンリが、そう声を上げた。

 ひとり、現れた。老婦人。炎を背に、シャルロットは、静かに一礼した。

「皆さま」

 静かな声だった。それでも、炎の轟音にかき消されず、響き渡った。

「どうか、お下がりください。あのひとのためをと思うなら。あのひとの志を継ぐと仰るのなら、どうか血を流すことなく、大義をお果たしください」

「議長夫人。我々は、国父の遺志を果たそうと」

「お気持ちはありがたく思います。ですが、力でことを成したとして、それは“緩やかな革命”を果たしたとは言えません。誰も傷つくことなく、誰も傷つけることなく、お志をお遂げください。どうか、どうかこのとおり、お願いいたします」

 悲痛な声。それでも通るもの。炎のような揺らぎが、民衆に伝わっていく。

 奥歯が軋んでいた。たった女ふたり。それに阻まれている。この数の民衆が、虚仮威しと泣き言に立ちすくんでいる。

 こんな事があって、たまるものか。

「綺麗事だ。血を流さずして、大義が成るものか」

「自分のものでない血だから、そんなことが言えるのです」

 叫びは、叫びによってかき消された。悲憤によって。

 シャルロットは涙していた。細い目を真っ赤にいからせて、エルミニオたちをきっと見据えていた。誰もが、やはりそれに気圧されていた。

「あのひとは死にました。貴方がたのように、血気に逸ったひとによって殺されました。貴方がたは、同じてつを踏もうというのですか?あのひとの願いと言いながら、あのひとのことをないがしろにするような行いをなさるのですか?あのひとでなくとも、誰がそれを望むものですか。いい加減、目を覚ましなさい」

「議長夫人、どうか。それは我々の本意ではなく」

「ならばお下がりなさい。志を継ぐというのなら、血を流さずしてやってごらんなさい。そうでなければ、貴方がたにその資格はない。たとえそうやって国家を打倒したとして、誰が貴方がたに着いていきましょうか。あのひとに手袋を投げておきながら、あのひとの名をかたるというならば、このシャルロットが、その一切を許しません」

 それができないのであれば。そう、続けながら。シャルロットはエルミニオの眼前まで迫ってきた。

 震えが、どこまでも伝っていった。

「ここで私を殺し、その骸を踏み越えていきなさい」

 突きつけたものの、前に。

 滝のような汗が、それでも熱を冷まさずに流れ続けた。エルミニオはただずっと、老いた女に拳銃を突きつけながら、口を開けたり閉じたりするだけしかできなかった。

 この女のどこに、それだけの力がある。そして私に、それを排し切れる力が無いとでも言うのか。

 怒りが、恐怖に勝った。

「我ら、国父フェデリーゴ・ジャンフランコのために」

 引き金を、引く。

 途端、視界が回っていた。石畳が目の前にあった。きっと、誰かに組み伏せられている。

 シャルロット。生きている。憤怒の形相で、倒れたエルミニオを見据えている。

「神妙にすれば、それでよし」

 声。憤然と。

「さもなくば、炎をもって罰するのみぞ」

 聖人。救いではなく、怒りの聖人の声。それが、叩きつけてきた。

 皆、一様に崩れたようだった。

 炎の壁から、油合羽あぶらがっぱが続々と飛び出してきた。そうして民衆たちを押さえつけ、退くことを促していった。

 潰えた。これが、終わりなのか。

 紙一枚。ふと、眼前に落とされた。それで、背筋が凍った。

 兄の書いた、マレンツィオ暗殺の密書。

「あのひとから、言伝を承っております」

 シャルロットの声。

「ざまあみやがれってんだ」

 そうして、そのひとは顔を覆ってしまった。


2.


 エルミニオの身柄は、屋敷に軟禁とした。

 諸々をあらためるなかで、アウグスティン兄弟それぞれで、マレンツィオ暗殺の計画も立てていたことも明らかになった。あるいはカゾーランについても暗殺の疑いありとして見るべきかもしれない。

「ひとつ、進んだ」

 司法警察局局長室。セルヴァンとふたり、そう言っていた。

「貴様もまた、覇道を征くか。ダンクルベール」

「覇道は貴様の道だ。俺の征く道は、外道だよ」

「いずれにしろ、人の道ではない」

「そうだろうな。だが、その後に続く道が王道でさえあれば、それでいい」

 あまり考えず、懐に手を伸ばしていた。

「敷地内禁煙」

 にこりと、刺された。

「やはり、気付くか」

「でくのぼうと思ってくれるなよ、ダンクルベール。貴様ひとりくらい、このざまでも何とかあしらえる」

「それでこそ、ジルベール・セルヴァンだよ」

 そう、笑った。

「今生の別れになるやもしれん」

「ほう」

「それだけの行いをした」

「構わん。私もそのうち向かうから」

「そうか。席を空けて、待っておくよ」

「死ぬなと、互いに言い続けたのにな」

「お互い、甲斐性のない男だったというだけさ」

 言いながら、セルヴァンの手を取った。

 ガンズビュール以来の、長い付き合いだった。

 はじめは、いけすかないやつだと思っていた。現場知らずの若造とばかり、思い込んでいた。それでも弱さがあり、それを乗り越えられる強さと気高さを持った男だと気付き、惚れていた。

 それからはずっと、背中を預けていた。

 こうやって、何度も死にに行くことを伝えていた。そのたび、セルヴァンは笑って見送ってくれた。生きて帰ってきても、いつもどおりの俺、貴様。そうやって今までやってきた。

 今回ばかりは、そうもいかないだろう。

 そろそろ春。久々に、寄り道をしていた。

 そのひとつが、共同墓所だった。かつての妻の墓があった。

 ティナを伴侶に迎えたあとでも、年に一度、墓参りはしていた。夫であった自分の、最後の責任と思って。

 あれの実家は、途絶えたと聞いていた。今やここに来るのは、自分ひとりだけだった。

 墓の前で、しばらく瞑目していた。そうすることで、何かと語らいたかったのかもしれない。

 夕暮れ時。行きつけのビストロ・オーブ。路地席に、見慣れた顔があった。アルシェ一家である。

「おや、長官」

「ご同席、よろしいかね?」

「喜んで。ほら、エドガー。お殿さま」

「こんばんは、お殿さま」

 息子のエドガー。すっかり大きくなった。十五くらいにはなるだろうか。

「エドガーの進路、どうしようかって話してて」

「お殿さま。俺、警察隊に入りたいんです」

「おお、そうか。なら士官学校だな。エドガーなら成績も優秀だろう。泳ぎは今でも、ルイソンに習っているのだろう?」

「はい。ペルグランさんは、本当に親切な方です。俺、ペルグランさんやお殿さまのような、立派な警察官になりたいんです」

「はは。そこは建前だとしても、お父さんのような、と言ってやりなさい」

 ちょっとだけ、アルシェは難しそうな顔をしていた。

「俺は、別の選択肢もあると思ってまして」

「ラウルさんったら、心配性なんですよ」

「格好いい仕事ばかりじゃあないでしょう。理想と現実のギャップが大きい仕事だ。奉公に出て、世間を知ったほうが、きっと本人のためになる」

「それもまあ確かに、一理だな。俺も奉公の出ではあるし」

「お殿さまは、何をなされていたんですか?」

「言ってなかったかな?海運業だよ。東のコンスタン家というところに奉公に出ていたのさ。そこで恩師であるアドルフさまと出会って、士官学校に入れてもらったのだよ」

 言いながら、懐かしいものがこみ上げてきた。

 アドルフ・コンスタン。二歳ほど年上の、破天荒な男だった。いつだって酒と煙草でしゃがれた声。背は高いが痩せた身体。

 うるせえ。俺がお前を、リュシアンって呼びてぇからだ。そのでっけえ体と、綺麗な肌。そしてその、深い目が、俺にそう呼んでくれって、言ってきたのさ。夜の海みてぇなお前から、言ってきたことだろう?だから、今日からお前は、俺にとっては、リュシアンだ。

 リュシアン。懐かしい名だった。この頃は本名のアディルばかりを使っていた。せっかくいい名を授かったというのに、勿体ない。

 あのかたの墓にも詣でなければ。そのためには、まずは里帰りか。

 それからも、エドガーやサラの話を聞きながら、ゆっくりと過ごした。久しぶりに思えるほど、豊かで、穏やかな時間だった。

 夜中、屋敷にひとり、訪いがあった。ペルグランだった。

 何も言わずに、中に上げた。

「マレンツィオ閣下暗殺の実行犯が、舌を噛んだそうです」

 無表情。目が、荒れすさんでいた。

 からになってから、ペルグランの気性の荒さというのは目立つようになっていた。おそらくは生来のものだろう。気圧されるほどのものを持っていた。

 そして時を経て、それを決して表面に出しきらないしたたかさも備えるようになった。

「複数勢力が、閣下のお命を狙っていた。そこまで、わかっていることです」

「そうか。それで、何か気がかりなことでもあるのかね?」

「警察隊本部長官、オーブリー・ダンクルベール」

 見据えられた。嵐をたたえた瞳。

親父おやじの名前も、含まれておりました」

 そう言って、ペルグランは手酌で注いだ緑のエールを一息に煽った。

「真偽について、親父おやじの口から聞いておきたい」

「そうか」

「神妙にすればそれでよしです。まずは話だけでも聞かせていただけませんか?」

「ルイソン」

 つとめて、静かに。

「俺の勝ちだ」

 言い切ったのと、同じくらいだった。

 何人か、乗り込んできた。先頭はビアトリクスだった。一気に囲まれる。

「マギー課長。どうして」

「実行犯の死体から密書が出てきた。マレンツィオ閣下を殺害するよう、長官の名前入りのものが」

 ビアトリクスの美貌に、脂が浮いていた。

 ペルグラン。苦虫を噛んだような顔で、卓を一発叩いた。

 震える声。

「どうして?」

 ビアトリクスの頬。ひとすじが、つたった。

「ねえ、どうして?どうしてなんですか?課長。嘘だと言ってください。私は信じられない。信じたくない」

「俺と閣下。この国が抱える不安の種、ふたつを消す。そのためだ」

親父おやじは英雄です。この国のために、どれだけの貢献をしたのか」

「英雄とは」

 張り上げた。声は、震えてはくれなかった。

「英雄とは、平時には存在してはならん生き物だ。それは為政者の心をかき乱す不穏分子でしかない。俺も閣下も目立ちすぎたのだ。この国に安寧ではなく、不安しかもたらすことができなくなっていたのだ、ルイソン・ペルグラン」

 そうやって、ダンクルベールはペルグランの両肩に手を置いた。

「息子よ。どうか、英雄にだけはなってくれるな」

 ペルグランはずっと、うなだれていた。

 ビアトリクスを見る。涙を流し、かぶりを振っていた。その姿に、新任少尉の頃の姿を重ね合わせ、いくらか胸が苦しくなった。

「マギー。言いなさい」

「いや。いやだ」

「言うんだ」

「いやです。それだけは、やめてください」

「マギー」

 その身体を抱きとめ、涙をハンカチーフで拭ってやった。

「卒業式だ」

 そうやって、頬に、ベーゼを。

 それで、ビアトリクスの瞳の色が変わった。

 突き放された。そうして、大きく息を吸って。

「オーブリー・ダンクルベール。殺害教唆の疑い。確保」

 叫びだった。

「よくやった」

 それだけ、やはりつとめて静かに。

 見知った顔が、何人か近寄ってきた。身体に縄が打たれていく。

「僕は、絵を書くことしかできないから」

 背中から、そう聞こえた。

「縄を打つのは、苦手です。途中で解けたら、ごめんなさい」

「いや、いい。ありがとう、デッサン。お前は絵を描くだけで、本当にいろんなことができるようになった」

「長官のことですから、何かしらのお考えがあるはずです。僕はそれを信じています」

 そうして、デッサンの身体は離れた。

 ゴフとオーベリソンに促され、屋敷の外に出た。

 ひとり、そこで待っていた。

「私は、警察隊本部長官、オーブリー・ダンクルベールをこそ、愛している」

 ティナ。寂しそうな顔だった。

「罪人は、愛せない」

「そうだな。そう言っていた」

「これがさよならになるのは、本当に不本意だ。我が愛しきオーブリー・アディル」

「さらばだ。我が愛しき人」

 そう告げると、ティナはくすりと笑った。

「私は、人じゃないのに?」

「人として生きなさい。人として終わるために。そのために、俺という呪縛から解き放つ」

「愛ではなく、呪縛か。そうだったのかもしれない」

「あるいは、同じものかも」

 ふたり、微笑みながら唇を重ねた。

 留置所の一室。そこに入れられた。デッサンの言葉通り、縄は少しもしないうちに解けた。

「上手く行ったみたいだな、旦那」

 するりと、影ひとつ。

「お前の方もな」

「あとは幕を下ろすだけ」

「そうだな」

 ひとつ、受け取った。それは笑ったようだった。

「効き目は抜群だ。うまく使いなよ」

「ああ。世話になったな」

「お互いに」

「達者でな」

「またいずれ、どこかで」

 そうして、消えた。

 すべて、ダンクルベールの企てたことだった。マレンツィオの生命を脅かす勢力を炙り出すために。そしてセルヴァンの策を最大限に活かすために。

 “緩やかな革命”は、マレンツィオという最大の急所を抱えていた。それが無くなれば、一気に瓦解するという欠点を。

 だから、殺した。恩人ではあるが、国の未来のために、それを選んだ。

 その後に求められるのは、英雄という偶像だろう。ダンクルベールか、あるいはルイソン・ペルグラン。それは為政者の心をかき乱す雷雲にしかならない。

 だから、これも消す必要がある。セルヴァンが描く未来のために。

 そのためなら、この血肉を礎とすることを厭う気など、まったくなかった。


3.


 警察隊本部は、ダンクルベールという、大きな柱を失った。かけがえのないものを失い、誰も彼もが立ち直れないでいた。

 後任には、ヴィルピンが着いた。実務においては以前から引き継いで実施していたこともあり、問題はないが、士気の落ち込みようはどうしようもなかった。

 ここにはもう、用はない。そればかり、ビアトリクスは思うようになっていた。

 ダンクルベール。憧れだった。一緒になりたいとすら思った。それと、別れなければならない。しかも、ダンクルベールが陰謀に加担した疑いがあるとして。

 泣きながら、引導を渡した。あの時からずっと、そこから抜け出そうとしても、抜け出せないでいた。

 夫と子どもとは、何度も話した。警察隊を辞めることについて。説得されたが、心には響かなかった。だからそのうち、好きなように決めろとだけ言われるようになった。

 辞表を胸に忍ばせ、司法警察局局長室へ向かった。

 扉の前。最後にひとつ、格好をつける。ただそれだけ。

 入室を告げ、中に入った。寝台ひとつ。そこに、セルヴァンは上体を起こして待っていた。

「ペルグランは、十分に育ちました。ガブリエリだけでなく、ゴフやデッサンもいます。私がいなくても、捜査一課はうまくやっていけます」

「そうか。君が、去るかね」

 ため息、ひとつ入れたようだった。

「それで」

 セルヴァンが、閉じていた瞼をゆっくり開けた。澄んだ瞳。目が見えなくなったとはとても信じられないほど、しっかりとした眼差しだった。

「これから、どうする?」

「フォンブリューヌへ帰ります。家族も同意してくれました」

「そうか。それならひとつ、話だけでも聞いてくれないかね?」

 セルヴァンが副官に対し、何かを促した。紙一枚、寄越してくる。

 異動の辞令だった。

「フォンブリューヌだ。地方支部長。情勢不安定のため、追って“錠前屋じょうまえや”と衛生救護班も向かわせる」

「フォンブリューヌがですか?初耳です」

「最近はどこだってそうだよ」

 うそぶくようにして。

 目を覗き込んでいた。本当に、見えていないのか。それぐらい、精気に満ち満ちている。

「私が貴官たちを守る。貴官たちを、守り抜いてみせる」

 セルヴァンの言葉。優しかった。そして、逞しかった。

 敬礼ひとつ、それを受け取ることにした。眼差しと言葉の力強さに揺さぶられたのだろう。

 庁舎に戻ると、大きな体が出迎えてくれた。オーベリソンだった。

「俺も同じく、セルヴァン閣下のところに行ってきました」

「曹長も?」

「アンリもビョルンも、ひとり立ちした。俺がいることもない。そう思いまして」

 談話室で話をすることにした。珈琲コーヒーの香りが、いくらかのざわめきを落ち着かせてくれた。

「おそらくは、同じことを言われました。閣下が、皆を守ると」

「そうね。そう言っていた」

「あの方がそう仰ってくれた。だから、思い留まりました」

「私もきっとそう。閣下は、何かを見ている。そう思った」

「それも、同じことを思いました」

 オーベリソンは、朗らかに微笑んでいた。

「信じてみることで、いいと思います。フォンブリューヌで何かが起こる。俺たちは、そのために向かう」

「そうね。閣下のことですもの。長官のことも、何か考えがあるのかもしれないし」

「おそらくは、きっと」

 その後しばらく、話をした。お互いの家族のことだとか、郷里のこと。

 オーベリソンにもまた、心の空洞ができていた。それをセルヴァンが埋め直したのだろう。

 守り抜いてみせる。その言葉の真意は、わからなかった。それでも信じることはできる。そういうものが、あの言葉には秘められていた。

 フォンブリューヌへは、まずはひとりで向かうことにした。

 久々の郷里。情勢不安や動乱の気配はない。実家にも立ち寄ったが、そんな雰囲気は微塵も感じなかった。

 地方支部庁舎にて、ゴセックが出迎えてくれた。フォンブリューヌ支部の支部長職の引き継ぎで、色々と話をした。

「ひと段落したら、ボーマルシェ伯領に向かって欲しい。ベイロン閣下が会いたがっている」

「私とですか?」

「私も詳しいことはわからん。ただ、何か大きいことをしようとしている。それだけはわかる」

「大きなことですか」

 考えても、思いつかなかった。

 ゴセックは別支部の支部長として赴任するようだった。引き継ぎを終え、ゴセックを見送ったあと、ボーマルシェ伯領に向かうこととした。

 ボーマルシェ伯領。やはり穏やかだった。

「おう、来ましたね」

 指定された館にて、“錠前屋じょうまえや”のゴフが出迎えてくれた。

「来るとは聞いてたけど」

「俺たちも昨日、話を聞きました。政治の話はよくわかりませんが、どうやら首都にいるよか楽しそうですよ」

「政治の話ねえ」

「マギー監督なら、きっと気にいるかと思います」

 とびきり嬉しそうに、ゴフは言っていた。

 そのまま中に促される。髭を蓄えた、堂々とした佇まいの男が握手を求めてきた。

「ボーマルシェ伯ベイロンと申します」

「警察隊支部長、少佐。ビアトリクスです」

「マギー監督ですね、お待ちしておりました」

 席に促される。ゴフとアンリが同席していた。広げたのは、地図一枚。

「作戦を説明します」

 ベイロン。目は真剣だった。

「我軍の戦力はフォンブリューヌ支部小隊、および“錠前屋じょうまえや”の二個分隊、そして私の私兵が一個小隊。目標は、この地に駐屯している国防軍陸軍、二個中隊。これを急襲。可能な限り各員の身柄を確保し、その戦力と機能を掌握します」

「お待ち下さい。国防軍を相手にするのですか?」

「はい。これこそ、セルヴァン少将閣下の戦略にございます」

 そうして、ベイロンがそれを告げた。

 衝撃を受けた。郷里が、それまでのことをしようとしているとは。

「国家が我々の信に背くなら、我々も同じことをする。それがセルヴァン少将閣下と、そしてフォンブリューヌ諸侯の総意にございます」

 ベイロンの表情は変わらなかった。

 そうしてひとり、連れてきた。どこか見覚えがあるおもかげだった。それを思いついた時、ビアトリクスはゴフとアンリを促し、起立していた。

「セルヴァン閣下の兄上さま。ロジェール男爵閣下ですね?」

「はい。ジルベールがお世話になっております」

 そのひとは、やはり似たおもかげのまま、会釈してくれた。

「ジョアキム・クリスチアン・ドゥ・セルヴァンと申します」

「こいつぁ、どうも。ご兄弟、そっくりでいらっしゃる」

「ちょっと、ゴフ隊長」

「はは。お構いなく。ようやくお会いできました。心より光栄に存じます。“錠前屋じょうまえや”隊長殿」

 ジョアキム・クリスチアンは笑って、ゴフと握手を交わしていた。

「先だってルイソン・ペルグラン殿、およびガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキ殿ともお話をさせていただいておりました。弟とダンクルベール殿の築き上げたものを守るため、警察隊本部の皆さまには、是非ともご協力を賜りたい」

「ペルグランとガブリエリにも話を付けているとなれば、私から申し上げることはありません。謹んで、指示に従います」

 ビアトリクスはそう言って、敬礼を捧げた。

 ベイロンとジョアキム・クリスチアンを伴い、“錠前屋じょうまえや”隊員たちの前に立った。

 見渡す。皆、覚悟ができている顔だった。

 自分はどうか。

 ひときわ大きな体。オーベリソン。あえて、目を合わせた。オーベリソンは微笑んで、頷いてくれた。

 それで、いくらか落ち着いた。

 思い返す。ダンクルベールと出会ったときのこと。ダンクルベールになろうとしていたときのこと。そして、ダンクルベールを逮捕したときのこと。

 夢のような時間だった。そして、それが醒めた。でもまだ、夢を見続けていたい。ダンクルベールという夢。そして、マギーという、自分自身を。

 なりたいものに、なるために。

「これより、フォンブリューヌ独立に向け、国防軍地方部隊駐屯地の掌握を行う」

 声として出てきたものは、強く、大きかった。

「前線指揮、ゴフ大尉。後方支援指揮、チオリエ少尉。それぞれ前へ」

「はっ」

 二名、並んで出てくる。決意の表情。

「この島の未来、こじ開けてもらうわよ」

「お任せあれ。ばっちり、決めてみせるぜ」

 ゴフ。不敵な笑みで返してくれた。

「人を救う。そのために、この傷と名があります。国が変わっても、それは変わりません」

 アンリ。その象徴に手をかざしながら。

「作戦総指揮は私、サラ・マルゲリット・ビアトリクス少佐」

 油合羽あぶらがっぱ。その襟元を整え直しながら。

 私を。そして皆を。ダンクルベールが育て上げ、セルヴァンが守り、導いてくれた。

 ならば、それに報いるまで。

「皆、びしばし行くわよ」

 大音声。それで、動いた。

 

4.


 情報が錯綜していた。

 カゾーランとマレンツィオが死んだ。ここまではいい。しかしなぜ、ダンクルベールが関わっているのか。それがアウグスティンにはわからなかった。

 エルミニオが国民を扇動したことも、想定していない。そしてそれを警察隊本部に阻まれ、幽閉されたことも。

 もしかしたら、別の勢力が思い描いたものになりつつあるのかもしれない。

 内務省に対し、ダンクルベールの身柄を移送するよう、要請しているが、うまくいっていない。内務尚書ラフォルジュと公安局局長ミッテランの罷免をちらつかせてはいるが、強情な態度を崩さない。

 ここからどうにかして建て直す必要がある。望んだかたちにはなっているが、不明瞭、不可解なものが多すぎる。

「殿下」

 別邸で臣下とその話をしていた時、ひとりが青い顔で飛び込んできた。

「フォンブリューヌ、独立を宣言」

「何だと」

「これに続くかたちで、ガンズビュール、ヴィジューションなどの十数地方が独立を宣言して、フォンブリューヌに合流しています」

「フォンブリューヌなら、ボーマルシェ伯ベイロンか。あるいはロジェール男爵セルヴァンか。いずれにしろ、直ちに内閣閣僚を集合させろ。国防軍と国家憲兵隊の総動員を行う」

 動かない頭の中で、アウグスティンはそれでも告げていた。

 何かが起きた。カゾーランか、マレンツィオか。いずれの死で、誰かが動きはじめた。

 閣僚は、軍の動員に否定的だった。各地方に配備していた人員は、すでに押さえつけられ、取り込まれているという。

「敵勢力は?」

「首都レスタンクールを除く、すべて」

「そんな馬鹿な話があるか」

 卓に拳をぶち当てていた。

「一日、二日の話だぞ。たったそれだけで、すべてがひっくり返る。そんなことがあってたまるものか」

「殿下。どうか御心みこころを平らかに」

「我軍の兵力は?海軍を陸に上がらせろ。軍艦を浮き砲台にして、各港湾にくくりつけるんだ」

「恐れながら、同意いたしかねます」

 言い出したのは、軍務尚書ガイヤールだった。

「兄王子殿下に陰謀の疑惑あり」

 その言葉に、閣僚たちからざわめきが上がった。

 もしや、見つかったか。密書が。

「宰相カゾーラン閣下、ならびに国民議会議長マレンツィオ閣下の暗殺の疑いがございます。公安局局長殿。これへ」

「はっ。末席よりの発言、失礼いたします」

 一礼し、ミッテランが胸元から何かを取り出した。それを見て、アウグスティンの体はぶるりと震えていた。

「これなるは、私どもの方で捕縛した不審なものから見つかった密書にございます。文末と封には、エンウィザック家の紋章が刻まれておりました」

「内容は、なんと?」

「警察隊本部長官ダンクルベール指揮のもと、両名を誅殺すべしと」

 ざわめきは、もはや止めようがなくなっていた。

「ダンクルベールは、何の関係もないだろう」

「ダンクルベール長官の邸宅からもまた、密書が見つかっております。家族を人質に取られていたようです」

「家族だと?」

「ご内儀さま。国家憲兵警察隊の、ファーティナ・リュリ中尉です。そして、それこそは」

 ミッテランが、一拍を置いた。

「かつての、ボドリエール夫人」

 それで、静まり返った。

 シェラドゥルーガ。誰かの、呟き。

「しからば、国家憲兵隊の動員についても同意いたしかねます。陰謀への加担は国家憲兵隊の本意ではありません」

 国家憲兵総監代行、バルテレミーだった。毅然とした態度である。

「しかし、シェラドゥルーガだぞ。それを隠していたとなれば」

「リュリ中尉の素性については、内務省で把握しております。第三監獄襲撃により、ボドリエール夫人としての確保、保護が困難となったため、雇用というかたちで保護をしておりました。これは宰相閣下や王陛下も把握済みのことです」

「一度、ダンクルベール長官を証人として喚問すべきです、殿下。ご自身の潔白の証明にもなります」

 内務尚書ラフォルジュの言葉に、アウグスティンは頷くしか他なかった。

 一度、場を崩した。そうして別邸で、臣下を集めた。

 ダンクルベールの手によって密書が偽造された。おそらくはそういうことだろう。アウグスティンとエルミニオを罠にかけ、フォンブリューヌ独立に持っていったと考えるのが自然である。

 本土諸国の大使と話をしたかったが、にべもなく断られた。国体を保っていない国家は国家ではないと、ひどい言い方をされた。

 証人喚問に向けて、ダンクルベールの身柄は宮廷に移送された。別棟の一室に隔離されている。

 一度、会うことにした。

 見上げるほどの大男。褐色の巨人。気圧されるようなものを放ちながらも、静かに座していた。

「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」

「能書きはいい。何が望みか、それだけを申せ」

「国家の安寧。それのみを望みます」

「お前がそれを乱した。カゾーランとマレンツィオを害したがゆえに」

「殿下の命により」

「私は、命を下していない」

「密書を賜りました」

 極めて落ち着いた様子で、ダンクルベールが言った。焦りと怒りが口から飛び出そうになったのを、何とか堪えた。

「かような事態になったこと、父上のお耳に入れば、大変なことになるぞ」

「ご安心めされい。左様なことにはなりますまい」

「どういう意味だ?」

「それについても、殿下は既に命を下されておられる」

 その言葉に、ぞっとしていた。

 ダンクルベール。懐から一通、取り出した。差し出してくる。

 受け取り、開けた。確かに自分が書いたものである。

 帰路にある父マルテンの乗る船を沈めよ、と。

「王陛下は、お帰りあそばされません」

「もう一度、聞く。何が望みだ?」

「国家の安寧です、殿下。そのためなら国そのものを塗り替えてでも」

「フォンブリューヌをはじめとする各地方の独立。よもや、お前の企てか」

「あえては申しますまい」

 微笑んだようだった。

「あとひとり死ねば、それが成る」

 そうして、ダンクルベールがまた懐に手を入れた。

 止めた。止めようとした。だが、遅かった。ダンクルベールはそれを一息に飲み干してしまった。

 あっという間だった。大きな体が、ごとりと席から崩れ落ちた。そうしてそのまま、ぴくりともしなくなった。

たれぞ。たれぞある」

 叫んだ。叫び、喚いていた。

 すぐに何名かの衛兵が飛んできた。そうして、それを見とめて、誰も彼もが真っ青になった。

「もしや、殿下」

「違う。私ではない。これが勝手に」

「ともかく、隠さねば。ダンクルベール長官が亡くなられたことが広まれば、また民衆は蜂起いたしますぞ」

 声に、頷くことしかできなかった。

 目の前で、大男の体が運ばれていく。呆然と眺めていた。いなくなったあとも、しばらくそうしていた。

 あとひとり死ねば、それが成る。あの男は、何故それを言ったのか。それをずっと考えていた。

 地下室。簡素な寝台の上、それは眠っていた。じっとそれを見つめていた。

 この国から、すべてがなくなった。国土も領民も、軍隊も。そして英雄すらも。

 マレンツィオが死んだ時、アウグスティンはすべてを手に入れたつもりになっていた。すべてが順調だった。弟が民衆の蜂起に加担したのだけは想定外だったが、それも警察隊がいい仕事をしてくれた。

 そして今、すべてが狂った。

 この男は、死によって何を得たのか。あるいはフォンブリューヌは、ダンクルベールの死により、何を得たのか。

「アウグスティン殿下」

 誰かの声。

 思わずで振り向いていた。そして、そこには誰もいなかった。

「何者ぞ」

 返事はない。

たれぞ。たれぞある」

 どうしてか、怖気だったものを感じた。

 部屋を出る。衛兵が控えていたはずだが、いない。階段を駆け上がる。大広間。やはり誰も。寝室。食堂。

 どこにも、誰もいない。

たれぞあるか」

 玉座。謁見の間。そこで、突っ立っていた。汗だくで、息を切らしながら、声を上げ続けた。

 誰もいない。どうして。

 ぎい、と音がなった。大扉。

 鼓動が高鳴る。汗が、どっと吹き出る。

「それこそは、ファーティナ・リュリ・ダンクルベール。そしてかつては、パトリシア・ドゥ・ボドリエール」

 影ひとつ。女。あかと黒のドレス。

「それこそは、人でなし。それこそは、ガンズビュールの人喰ひとぐらい。あるいは、狼たちの女主人であり、あかき瞳の恐ろしきもの。そして」

 たてがみのような、あるいは燃え盛る炎のようなあか

 それは幾人の油合羽あぶらがっぱを引き連れて、悠然と闊歩してくる。

 竦み上がっていた。気圧されるようにして、玉座に座り込んでしまった。

「お前たち以外の、すべて」

 眼前。煌めく、あかい瞳。

 シェラドゥルーガが、生きている。

 震えていた。威迫。恐怖。人が放つものではない。

「兄王子殿下に、問う」

 ぱちん、と指の音。それで、油合羽あぶらがっぱたちが広がった。

「宰相カゾーラン閣下と国民議会議長マレンツィオ閣下の生命を奪いしは何故なにゆえぞ」

 もう一度、ぱちん、と。

「“緩やかな革命”に不満ありせば」

 はっとした。言ったつもりはない。それでも、口は動いていた。

 そのあかは憤然としたものを吹き上げながら睥睨してきた。

「王陛下マルテンさまを弑逆しいぎゃくせしも同じか」

「同じく」

 また、言っていた。汗が、目に入るほどに流れ続けている。

「そして、我が愛しきオーブリー・アディルすらも殺した」

 指が、鳴る。

「違う。あれは、勝手に死んだ」

 その前に、何とか言えた。叫ぶようにしていた。

「ダンクルベールのことは知らん。あれは密書を偽造し、我が企てに割り込んできた。私は知らぬ。一切、知らぬ」

「それでも、死んだ。殿下が殺したも同然の死に方をした」

 ぱちん、と。

 息が苦しくなった。舌が飛び出そうになる。見えない何かが、首を締め上げている。声が出ない。

「オーブリー・アディルに、如何いかなる罪咎つみとががある」

 再度、指の音。それで、呼吸はできるようになった。ぜえぜえと、喉を鳴らしていた。

「お答えあるべし。さもなくば、ここでかばねを晒すことになるぞ」

 今度は、シェラドゥルーガの手が喉元に伸びてきた。白く細い指が、首筋にめり込んでくる。

 苦しい。そして、恐ろしい。あかが、目の前で燃え盛っている。

「それまで」

 男の声。知っている声だった。

 誰もが、その声の方を見やり、そして居住まいを正した。そのひとは、ゆっくりとした足取りで、アウグスティンとシェラドゥルーガの方に歩いてきた。

 顔を見て、総毛立った。

「父上」

 王陛下マルテン。今頃は、海の藻屑となっているはずの人間が、生きている。

 すっと、シェラドゥルーガの体が離れた。そうしてマルテンの方に向き直り、跪く。

「我らが不義、不実、そして不徳。もはや国家の長たるに相応しからず」

 マルテンは、差し出されたその手を静かに取り、一礼した。そうしてシェラドゥルーガが立ち上がるのにあわせ、静かに跪き、その手にベーゼをした。

「この国とこの島を、シェラドゥルーガさまにお返しいたす」

 確かに、そう言った。

「謹んで、承りました」

 そっと、瞼を閉じながら。

「然れども、この身は既に神にあらず。人にあらざる人でなし。人たるものが、人たるを率い、養い、敬う。私はそれをこそ望みます」

「万事、御意のままに」

「ならば私はここを去りましょう。人のための国家のために。人にあらざるシェラドゥルーガは、時の流れの中で忘れ去られることを望みます」

 大扉が、また開かれる。ふたり、外に向かって歩き出す。

「シェラドゥルーガは、もういない。かつてあったの国とともに、忘れ去られて消えてゆく」

 油合羽あぶらがっぱたちが、マルテンが、そしてシェラドゥルーガが。

 そうやって誰もが、いなくなった。

 呆然としていた。ただ、そうもしていられない。

 立て直さなければ。

 広間から出ようとした。だが、開かない。どの扉も、かんぬきをかけられたように、びくともしなかった。

 出られない。となると、どうしようもない。

「何が、一体」

「言ったとおりですよ」

 呟きに、返答があった。

 ぼうっと、それは突っ立っていた。壊れたような笑みを浮かべながら。そこにはいなかったはずの姿が。

 エルミニオだった。間違いなく、その姿だった。

「もはやこれまでです、兄上。我々は、何かを間違えた」

「エルミニオ。これはどうしたことか」

「どうしたもこうしたもないのです。もはやすべてが過去になった。我々も、この国も」

 笑いながら、手に持ったものを、こめかみに突きつけて。

「シェラドゥルーガは、生きている。恐怖となって、心の中で生き続ける」

 それはきっと、女の声で綴られたと思う。

 破裂音。閃光。何かが、エルミニオから飛び散った。そうしてその身体は、そこに崩れ落ち、動かなくなった。

 駆け寄っていた。エルミニオではなく、それが持っていたものの方に。

 回転式拳銃リボルバー

 倒れたエルミニオから、それをむしり取っていた。そうしてそれを咥えて、何度も引き金を引いた。

 それでも、何も出てこなかった。


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 そうして、その国は滅びた。


 国家に対し独立を宣言したフォンブリューヌは、急激にその勢力を拡大。ひと月もしないうちに、首都圏であるレスタンクール地方を除くすべての地域を掌握した。

 王陛下マルテンは、べリュイール共和国首相ベイロンに対し、国家権力の無条件での禅譲ぜんじょうを決定。両議院がこれを承諾した。コルカノ大陸本土の諸国もこれに賛同し、ここに民主共和制国家、ベリュイール共和国が樹立した。

 故カゾーラン宰相の悲願であった、島国という特性を活かした積極経済と、大陸本土より伝播した産業革命により、国は大いに賑わった。

 フォンブリューヌ独立より五十年が経った今では、大陸西部の中でも有数の産業国として名を馳せる大国となっている。


 一方で、滅びた国のことを記されたものは、ほとんど残っていない。

 ヴァーヌ聖教会により異端と認定されたその国は、存在そのものを否定され、それを記載する書物などは尽く禁じられ、焼き滅ぼされた。

 今となっては覚えているものも僅かであり、口頭で細々と騙り紡がれるのみとなっている。


 その国の名は、今もって伝わっていない。

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5.


 昨年からの遷都計画も一段落し、首都機能をレスタンクールに移行することも、ほぼ落ち着いた。ようやく、といったかたちで、パトリック・リュシアンもまた、レスタンクールに向かうこととした。

 やはり、栄えていた。かつての首都があった場所である。ヴィジューションあたりとは、どうしても比べてしまうような状態だった。

 産業の発展。それに伴う貧富の差の拡大。それは経済だけでなく、治安維持の観点でも頭を悩ませる課題になっていた。

「内務大臣閣下。長旅でお疲れでしょうから、少しでもお眠りになられてはいかがですか?」

 馬車の中、正面に座した秘書官が、気を利かせたようなことを言ってきた。エーミールという名で、十かそこら下ではあるが、何かと面倒見のいい男である。

「構わん。それより、首都警備隊の配置についてはどうなっている?」

「はっ、当初計画より進捗の遅れなく」

「それであればいい。来月には、お前の父上の退役式典があるのだから、内外ときっちり引き締めて置かなければなるまいよ」

 そうやって、また馬車の外を眺めることにした。

 レスタンクール。幼い頃、何度か訪れたきりであった。国の独立までは祖父母もレスタンクールに住んでいたし、縁者のものも多かった。国が独立して、首都がフォンブリューヌになってからは、めっきり訪れなくなった。仕事でたまに来る以外で考えれば、およそ四十年ぶりと言っていい。

「叔母が、当時の内務省の庶務をやっていたと言っていた。東の分所でだがね。それでも、いろいろな人と会ったと聞いているよ」

「東といえば、かのサントアンリさまも、現在はそちらにいらっしゃると聞いております」

「あの婆さんも元気だね。そろそろ七十近いだろう?いつお会いしても矍鑠かくしゃくとしておられる。俺もそろそろ爺の仲間入りだから、健康の秘訣でも聞いておこうかね」

「何と言っても聖人さまですからね。年若い頃は、戦場で駆け回っていたとも聞いております」

「あの婆さんといえば、この間、ユィズランドの大使と会った時に聞かれたな。アンリは男の名前だろう、って。あのひとの父親が、小さい頃のアンリさまが男の子みたいだったから、エティでなくってアンリにしたんだっけか」

「はい、カスパルおじさんがね。懐かしい。子どもの頃、そういうのもよく聞かされましたよ」

 エーミールが困ったように笑った。

「私も、久しぶりのレスタンクールです。とはいえ、私が過ごした頃は、ひとつかふたつぐらいの時ですけれど」

「あの頃の“赤いインパチエンス亭”には、よく連れて行ってもらった。お前のご両親にビリヤードを教わったものだよ。フォンブリューヌに移ってからは、少し狭くなって、ビリヤード台が置けなくなってしまったからな」

「あの頃の台は、カンパニュールおばさんが引き継いだんです。今もあのひとのお店に置いてありますよ」

 言葉に、懐かしくなった。去年のあのひとの葬儀の際、その話になったことを思い出していた。リターンボックスのあたりに落書きを刻んでいたことを、インパチエンスに怒られたのだ。

「四十年か。早いものだな」

「年寄りみたいなことを言わないでください、閣下」

「年寄りだよ。嫁いだ娘も、ようやく腹が大きくなってきた。名前をどうしようだとか、今から騒いでいる」

「はは。うちのこはまだ先ですから、羨ましいお悩みです」

 そうやっているうち、ひとつの大きな建物が目に入った。それを目に留めたとき、パトリック・リュシアンの中で、よくないものがむくむくと大きくなった。

「少し、止めてくれ」

「閣下?」

「エーミール、ちょっとだけ肝試しといこう」

「またですか?閣下。本当にやんちゃが抜けないのですから」

「人生、いつだって楽しまなければ損だよ。俺の人生の師匠がそう言っていた」

 エーミール。仕方なし、という表情だった。

 馬車が停まる。ゆっくりと、それから降りた。フォンブリューヌに比べれば、外はまだ暖かい。

 城のように大きな建物。だが、おんぼろだった。幽霊屋敷としては本格的な部類だろう。

「小さな頃、よくこの建物を見ていた。祖父の家や、お前の家だった“赤いインパチエンス亭”も近かったしな」

「これがあの、旧王家の宮廷ですか」

「そう。今や誰も近寄らない、お化け屋敷さ」

 かなり広い敷地だった。そのすべてが、鉄条網で覆われている。本来は衛兵のひとりでも立てるだろうが、誰もいなかった。

 ぐるりと見て回る中で、ひとつ、穴が空いているのを見つけた。きっと近所の子どもが空けて、潜り込んだものだろう。

「入れるかな?」

「ちょっと、閣下」

「大丈夫だ。ちょっと見て回るだけだ」

「まったく、内閣閣僚さまが、廃墟への不法侵入だなんて。ばれたら大ごとですよ」

 呆れたような、エーミールの声だった。

 屈んで、穴に入っていく。パトリック・リュシアンの大きな体でも簡単にくぐれるほど大きい。それに続いて、エーミールが恐る恐るといった感じで入ってきた。

 鉄条網一枚で隔てられてるとは思えないほど、寂寥としていた。肌に感じるものも、いくらかに冷たい。

「先人の失敗をあげつらい、嘲笑するのは簡単だ。昔の人は愚かであるという考えをすることは、今を生きる人間にとっての特権だと言ってもいい」

 建物を見上げながら、口に出していた。

「四十年だ。たったそれだけで、国ひとつ、過去になった。俺たちがそうでない保証が、どこにあるのだろうか。これを見て、俺はそう思うのだ」

「学ばなければなりません、閣下。かつての人々は忘れることを選びましたが、その次を行く我々は、それを見なければなりません。忘れ去ることは、目を逸らすことでもあるのですから」

「そうだ。俺たちは、今を行かねばならない。そのためには、過去から学びを得る必要がある」

「はい、閣下。だからこその、レスタンクール遷都でもあるのでしょうから」

 エーミールも、頷いていた。

 べリュイールとヴァーヌ聖教会は、の国を過去とすることにした。膨大な時間の中に閉じ込め、蓋をすることに決めたのだ。

 パトリック・リュシアンは、それが昔から、不思議でならなかった。どうしてそんな簡単に、過去を捨て去ろうとすることができるのだろうかと。あるいはそこに後ろめたいものがあったのではないかと、邪推することすらあった。

 の国の残滓ざんし。その最後のひとかけら。それがこの宮廷跡地だった。

 最初、ここを解体する案が出ていた。

 パトリック・リュシアンは反対した。遺すべき過去もある。いつもエーミールとふたり、そういうことばかり言っていた。光も闇も、綺麗なものも、汚いものも。

 そこから必ず、何か得られるものがあるはずだから。

 そうして、ここは残った。いずれ我々が必要となったとき、の国のことを思い出すために。

「おじさんたち、何してるの?」

 幼い声、ひとつ。

 見やれば、子どもたちがそこにいた。女の子ひとり、背が高い。大将といったところだろう。

「肝試しだよ。いいお化け屋敷を見つけたのでね」

「そう。あんまりここにいちゃいけないよ」

「ここにいる君たちが、そう言うかね」

「ここにいるからだよ」

 女の子。美しい顔立ち。妖艶ともとれるほどだった。

「お化けが出るんだよ」

「これはこれは。お化けと来たかね」

「シェラドゥルーガっていうお化け。悪いことしてると、食べられちゃうんだよ」

「そうか。それは気をつけなきゃな」

「ここにいたひとたちは、皆、食べられちゃったんだって」

 じゃあね。そうやって、そのこたちは去っていった。

「シェラドゥルーガですか。大きく出ましたね」

「案外、冗談でもなさそうだぞ」

「閣下?」

「あのこの瞳。あかかった」

 笑ってそう言うと、エーミールの表情が固くなった。

あかき瞳の、シェラドゥルーガ」

「取って食われないうちに、戻るとしようか」

「はっ、急いで戻りましょう」

「お前はやはり、苦手なのだな。入口の穴、塞がれているかもよ」

「やめてくださいよ。閣下のお祖母さまに散々脅かされたのが、未だに響いているのですから」

 顔を真赤にしたエーミールに、思わず笑っていた。

 入ってきた穴から外に出る。そうして振り向くと、ちらりと白いものが降ってきたのに気付いた。

「雪か」

「早いですね。フォンブリューヌでも、まだ降らないと思うのに」

 吐いた息も、白くなっていた。

 もう一度、見上げる。大きな廃墟。かつての宮廷。今や、お化けが潜むおんぼろ屋敷。

 それでも確かに、ここに国があった。ベリュイール以前の国が。

 そしてそこで、パトリック・リュシアンの祖父やエーミールの父親などが育ち、戦ってきた。それが、国家憲兵警察隊本部。

 国がベリュイールというかたちに変わっても、それは変わらない。

「おう。こんなところにおられましたか」

 声に見やれば、がっしりとした老黄忠が立っていた。エーミールの父。国家憲兵総監、ルイソン・ペルグランであった。

「趣味の、肝試しをですね」

「はは。お元気ですな。それも、かつての宮廷に潜り込むとは。それで、なにか見つけましたかね?」

「子どもに会いました。お化けが出るから帰りなさいと、怒られましたよ」

「そうですな。ここは、そういうのが出るというのを、よく聞いております」

「憲兵総監殿もですか」

「シェラドゥルーガは、生きている」

 感慨深げに、ルイソン・ペルグランは顎髭を撫でていた。

「昨日、ここの前を通ったとき、ご近所だというご婦人に脅かされましてね」

「奇遇ですな。あのこたちも、シェラドゥルーガと言っていた」

「なら、いるんでしょうね」

「いるんでしょうなあ」

 そうしてふたり、腹を抱えた。エーミールはひとり、きょとんとしていた。

「父上も、散歩だなんて呑気なことを言っていないで、行きますよ。きっと母上が心配しております」

「大丈夫だよ。何と言っても、久しぶりのレスタンクールなんだもの。俺にとって第二の郷里。勝手知ったるものだよ」

「俺も似たようなことを言っていた。懐かしいなあ。あの頃の“赤いインパチエンス亭”は、残っておられましたでしょうか?」

「残っておりますとも。かみさんとふたり、懐かしみながら訪れたものです。そのうち、あの場所を買い取って、もう一度店を開けようかなって」

「はは。インパチエンスさまもお元気ですなあ」

「婆になっても相変わらず、一度決めたらこうとなって、きかないったらありゃしない」

 ルイソン・ペルグランが気恥ずかしそうにしているのを、パトリック・リュシアンは面白そうに笑った。

 そうして、馬車は先に行かせて、三人、歩きながら行ってみようとなった。ルイソン・ペルグランはしみじみと景色を眺めながら、あそこはああだとか、ここは昔、こういうものだったとか、色々と教えてくれた。それに対し、エーミールがいちいち、へえだとか、ほおだとか、そういった相槌を入れていた。

「シェラドゥルーガは、生きている、か」

 もう一度、振り返った。あの建物はまだ見えていた。

「閣下、行きますよ」

「ああ、今行く」

 後ろ髪を引かれるようなものを感じながら。

 パトリック・リュシアンは、エーミールたちと並んで、初雪の中を歩いていった。


(おわり)










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おまけ

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 ふと、意識があることに気付いた。

 あの時、死んだはず。ダンクルベールはそればかりを考えていた。捕縛されて、メタモーフに渡された毒を飲んだ。確かにそうしたはずだった。

 ただ、生きている。感覚があり、肉体がある。手足は動くようだし、声も出るようだった。

 暗さと狭さだけ、気になった。まるで棺の中にいるようだった。

 棺、と思い浮かんだところで、ふといやなものが頭によぎった。

 まさか、これから火で清められるのか。毒が浅く、それで目覚めてしまったのか。

 そこまで思いが駆け巡ったところで、ダンクルベールの肌には脂が浮いてきた。

 ああ畜生。最後の最後に謀略なんぞを企てたのが仇に出たか。課長を殺し、周りの全員を騙して勝手に死んだとなれば、これほどの仕打ちを受けても仕方あるまい。いや、ごめんだ。生きたまま燃やされるほど、身勝手なことをしたつもりはない。

 手を前に突き出す。何かに当たる。壁、いや、蓋だ。やはり、棺。体も横たえられているようだった。

 渾身の力。必死になって、手に感じるものを押した。

 光、ひとすじ。眩しさをこらえた。

 開く。

 足も使って、それを押しのけた。

 がばりと飛び起きる。火の熱は感じない。むしろ、寒さのほうが強い。

 どこかの一室のようだった。

「おっ、起きましたか」

 聞いたことのある声だった。

 見やる。背の高い、屈強な男。肌は黒かった。

「おい、ゴフ。これは何としたことだ?」

「詳しくは後ほど。まずは身を清めて、着替えをしましょう。人に会うには、まずは身ぎれいにしなくっちゃね」

 小柄な姿ひとつ、近づいてきた。アンリである。

「こちら、お使い下さい」

「アンリエット。俺は、死んだのだろう?だとすれば、これは何だ?」

「詳しくは後ほどと、ゴフ隊長が申し上げたとおりです。本部長官さま、いえ」

 いつもの、悪戯っぽい笑顔。いくらか瞳は潤んでいた。

「オーブリー・アディルさま」

 にこりと。

 そうしてふたり、くすくすと笑いながら出ていった。

 きょとんとしていた。これは何だ。何の酔狂だ。ろくでもない生き死にをしたからといって、これはないだろう。

 考えていても仕方ないので、ひとまずはゴフに言われた通りにすることにした。

 用意されたもので身を清める。どうやらを履かされていたようで、意識のない間に垂れ流しにしていたものがこびりついていた。臭いがそれほどないだけ、ましである。

 剃刀と姿見も用意されていた。幾分か頬がけ、髭も伸びっぱなしになっているが、生気十分の様相である。

 着替え。いつものスリーピースに、灰色の長合羽ちょうがっぱ。それと、アキャールから譲り受けた杖。ストールと帽子、香水まで用意してくれている。幾分か、それで嬉しくなった。

 もう一度、姿見の前に立つ。

 どう見ても、生きている。そして、いつもの格好である。

 やはり、考えていても仕方がない。

 ドアノブに手をかけたところで、不意に恐怖が押し寄せてきた。この先の未知に対する恐怖。そして今、武器となるパーカッション・リボルバーは懐にない。

 冥府魔道に堕ちたか。ならば悪鬼ども相手に、杖一本でひと合戦かね。

 深呼吸、みっつ。そうして、扉を開けた。

「お疲れ様でしたっ」

 大音声。たじろぐほどに。

 呆然としながら、見やる。ゴフ、アンリ、デッサン、ペルグラン。警察隊の面々に、セルヴァンまで。

 見知った顔ばかりが、そこにあった。

「おい。なぜお前たちがいる。ここは黄泉の国ではないのかね?」

「フォンブリューヌですよ。ボーマルシェ伯領です」

「はあ?」

「生きてますよ、親父おやじ。死んだつもりになって、残念でしょうが」

 からからと笑いながら、ペルグランが席ひとつ、用意してくれた。

「おい、ダンクルベール。なんてことをしてくれやがった。よもやこの俺を、また殺そうと思ってやがったなんてなあ」

 言葉の割に、嬉しそうな語気で大声が飛んできた。見やれば横にも縦にも大きい体が、のしのしと迫ってきていた。

「ちょっと。課長、どうして」

「俺もお前と同じく、死んだ気になっていた。起きたらこれだ。まったく、冗談もほどほどにしやがれってんだ。こちとら遺言まで残したっていうのによ」

「仰るとおりです。どうして、マレンツィオ課長が生きておられるんですか?」

「悪い、旦那。しくじった」

 若い男の声。

 小男ひとり、正面に引っ張ってこられた。

「おい、お前。まさか」

「計画が全部、バレていた。ガブリエリさんに利用されちまったよ」

「まあ、そういうことです。大佐殿」

 典雅な声と、長身の美丈夫が入ってきた。ガブリエリである。いやなぐらいの満面の笑みだった。

「スーリ中尉を使って父さんを暗殺。計画を流してわざと捕まって、兄王子殿下と二人になったところを見計らって毒で自害しようって魂胆だったんでしょうがね。端から端まで筒抜けでしたよ。うちの“いもうと”たちも嘗められたものです」

 ガブリエリの言葉に続き、アルシェが身を乗り出した。その懐から取り出したのは、あの密書と毒薬だった。

「スーリご用達ようたしの、死んでも死なない薬。おふたりに使わせていただきました」

「となれば、俺は本当に生きているんだな?そして、お前たちも」

「そういうことだ。観念しろ、ダンクルベール」

 隣に座したセルヴァン。瞼を閉じたまま、笑っていた。

「ガブリエリ大尉から報告を貰い次第、私の方で色々と仕組ませてもらった。戦術家が戦略家に勝とうなんざ、百年は早いぞ」

「貴様が相手だったか。それならば、どうにもならんな」

「惚れたろ?」

「もとよりな」

 そのやりとりに、周囲から喚声と嬌声が上がった。

「まあともかく、生き返って何よりです。親父おやじ

「迷惑をかけたな、ルイソン」

「俺はあのあと、ガブリエリから聞きましたので、それほどは。さあ、どうぞ。二週間ほど死んでたから、慎重に」

 ペルグランの珈琲コーヒー。器の温かさが、心にまで沁みてきた。

 ひとくち。それで、胃の腑までの道がめりめりと音を立てて広がっていくのを感じた。香りと美味が、痛みのように押し寄せてくる。

 ゆっくり時間を掛けて、その一杯を味わった。

「ああ、まっこと生き返った。ありがとう」

「どういたしまして。それじゃあ、頑張って弁明して下さいね」

 珈琲コーヒーのカップを受け取りながら、ペルグランがそう、ひと言。

「弁明?」

「セルヴァン閣下の作戦も秘密裏でしたから。知らないひとは大勢いるんですよ」

「ここにもか」

「勿論」

「オーブリー・リュシアン・ダンクルベール大佐。着座のまま姿勢、正せ」

 地鳴りのような声だった。

 声の方を見る。女たちが、憤怒の表情で見据えていた。そしてその中からひとり、峻厳な美貌が進んできた。

 ビアトリクスである。

「指導、一回。用意」

「待ちなさい、マギー。まずは話を」

「指導」

 視界と意識、両方がぶれた。死んだと思った。それぐらい、とんでもないだった。

「聞く姿勢、用意」

 まだ眼の前がちかちかとしているところ、ぐい、と胸ぐらを掴まれた。

 ビアトリクスの顔。散々に泣きはらしたのだろう。瞼が厚ぼったく、まだ瞳には涙が残っている。

「ばか」

 そうして、唇に感触が。

「以上。指導、終わり」

 唇を離したビアトリクスが、してやったりといった顔で鼻を鳴らした。

「すまん」

「いりませんよ、もう。生きてるってだけで満足です」

「マギー監督、誰よりも泣いてましたからね」

 産まれて間もない赤ん坊を抱きながら、ラクロワが笑っていた。

「ラクロワにも、迷惑をかけたね」

「お構いなく。それよりも、他の皆さまも納得させてあげてくださいね」

 さあどうぞ、といった風に。

 それで、女たちがわっと駆け寄ってきた。ビアトリクスほどではないにしろ、渾身の力で頬を張ってくるもの、しがみついてわんわん泣くものなど、大変なことになった。

「皆、ごめんな」

「謝って済む話じゃあないだろうが、まったく」

 ひとしきり落ち着いたところで、軽食を用意してくれたのはティナだった。こちらは意外と落ち着いた様子である。

「私も事前に聞かされていた。その上でああだった」

「そうか。きっとお前には、一番の面倒をかけたと思う」

「本当に。ちゃんと頼んなさいよ。何のための伴侶なんだか」

 穏やかな、屈託のない笑み。

 頬にベーゼをしようとしたところ、唇を重ねてきた。また嬌声が上がる。ビアトリクスがむっとした顔をしたのを視界の端でみとめて、些かが悪くなった。

「それで、そのダンクルベールさんとか大佐殿とかいうのは、何なのだね?」

「仕方なかろう。貴様は死ぬ前に職責を罷免されているのだから、もはや警察隊本部長官ではない。定年退役でも名誉除隊でもないから昇格無し。もと大佐の一般人だ」

「ああ、なるほど。そりゃあいいな。そしてここはフォンブリューヌというと、貴様の策は上手く行ったわけだ」

「勿論。ティナも体を張ってくれたよ」

「聞いて下さいよ、大佐殿。ティナさん、かっこよかったんですから。あの兄王子殿下に対して、“シェラドゥルーガは、生きている”ってぶちかましてくれたんですよ。ほら」

 はしゃいだ様子のデッサンが、山盛りの素描を持ってきてくれた。それで、自分が死んでいる間に何が起こったか、大体のことが把握できた。

「おかげさまで、住みやすい国に移り住めたからねえ。戸籍なんて持つの、生まれてはじめてだよ」

「私なんて国家元首ですよ。身に余る大役で、今から震えております」

 風格ある御仁。ボーマルシェ伯ベイロンである。

「お疲れ様でございました。ダンクルベール卿」

「はは、称号は剥奪されておりませんでしたか」

「私から、あらためて栄誉称号をお授けいたしますよ。以前と同じく、勲功爵くんこうしゃく、“霹靂卿へきれききょう”にございます」

「ありがたい限りです。それで閣下、お悩みは解決いたしましたかな?」

「はい。美しい島ベリュイールと」

 おお、と声が上がった。

 フォンブリューヌ地方を中核として、諸地方を独立させるにあたり、ベイロンは国名について大いに悩んでいたのである。

「ベリュイール共和国。それが、私たちの国です」

「いい響きですな。この爺の隠居先には勿体ないぐらいに」

「すごいもんだぞ、ダンクルベール君。独立宣言をした途端、各地方、次々と加盟してくれた。ヴァルハリアやユィズランドも、独立に賛同してくれている。国家元首ベイロン閣下というのは、極上の選択をしてくれたものだよ」

 あまり見ない顔の御仁が、緑の瓶を注いでくれた。つい首を捻ってしまったが、名前ひとつ思い出して、思わず飛び上がってしまっていた。

「これは、王陛下」

 王陛下マルテン、そのひとである。

「かしこまる必要などない。今やここはベリュイールだ。国家元首はベイロン閣下。だから私はただのカロジリア公だよ」

「いやはや、それでも公爵閣下でございます。この度は手前どもの勝手で、とんだご迷惑をおかけしてしまいました」

「いいのさ。もはや体面も保ちようのないところまで来ていた。君がひと芝居打ってくれて、ティナ君とセルヴァン君が幕を下ろしてくれたのだから、身に余る光栄というぐらいだよ」

 見れば本当に気楽そうな表情である。それでようやくほっとできた。貧しい出なものだから、目上の人と会うのはやはり疲れるものである。

「いまやの国の領土は首都近郊。いや、宮廷周辺ぐらいしか残っていない。まるっと島ひとつ、手に入っちまったもの。はは。まったく、ざまあみやがれってんだ」

「あらためまして、申し訳ないことをしてしまいました、課長。そしてシャルロットさま」

「なんもなんも。私もまた、事前に知らされてはおりましたが、心の準備が間に合いませんでしたわ。このひとが本当に死んでしまうのではないかと泣いてしまって」

「姉さまったら大げさなんだから。このデブが生き返ったあとだって、わあわあ泣いちゃってさ」

「だって、このひとと二週間も会えないだなんて」

 シャルロットがそうやって惚気けた。周りからは黄色い声が上がっている。

「おお、ダンクルベール大佐殿。起きましたか」

 ヴィルピンとウトマン。喜色をたたえた顔で現れた。

「いやあ、さんざん皆には言っているが、すまないことをした」

「ごめんで済むなら警察はいりませんよ。でもまあ、何はともあれ結果よしですよ、長官」

「お前だけは、そう呼んでくれる」

「長く染み付いたものは取れませんものでね、課長」

 ウトマンが屈託のない笑みで敬礼をくれた。

「みんな。歓談のところすまないが、出動だ」

 ヴィルピンが声を上げた。それで、場が一気に引き締まる。

「独立に対して抗議を行っている一部の民衆が暴徒になりかけている。これを説得、慰撫するのが目的である。よろしいか」

 返答。どでかいのが上がっていた。

「交渉役には、ガブリエリ君とおやじさん、アンリちゃんと大司教猊下げいかを出す。これを皆で護衛、補佐すること。よろしいか」

 その声に喚声が上がった。胡麻塩頭の小柄な体と、巨躯の司教、それぞれ前に出てくる。

「あたしも、しばらくは現役復帰みたいですよ。ダンクルベールさんや」

「先輩も、お疲れ様です。しかしジスカール。お前がよもや大司教とはな」

「ベイロン閣下に頼まれてしまったよ。このフォンブリューヌに裏を根付かせる仕事とあわせてな」

「政体が大きく変わる。フォンブリューヌの仕組みでは取りきれないところを、ジスカール殿やカトー殿にお願いさせていただきました」

 ベイロンの言葉で、なるほどとなった。裏社会を作るところまでをジスカール、それ以降をカトーが担うと考えれば、適任である。

 はじめ。それで一斉に動き出した。

「一朝一夕には行かなんだか」

「面目のないことにございます」

「いえ。先輩ではありませんが、一歩ずつ、一歩ずつですよ」

 そうやって、ベイロンに対してはにかんでみせた。

「これから長いぞ、ダンクルベール。お互い無職の爺さまだ。ろくな手慰みもないまま、あるのは時間ばっかりだぞ」

「貴様も、職を辞したかね」

「この通りだもの。ウトマンもヴィルピンもいる。首都の後片付けをしているバルテレミー閣下やデュシュマン少佐も、もうじき合流できそうだし」

「私もそろそろ、後進に道を譲りますかな。アンリとアルシェだけでもやっていけますでしょう」

「おお、ムッシュ。となれば爺四人、そろって隠居か」

「こりゃあいいな。俺とダンクルベールは世間的には死んでるから、慎み深く生きなきゃな。ジル爺、ルーク爺、リコ爺、パコ爺の爺四人衆だ」

「なんですか、そりゃ。リコとパコはどこから生えたんですか」

「フェデリーゴからリコ、フランシスからパコだよ。オーブリーはどうしようもないから、リュシアンからルークだな」

「はいはい、じいちゃんたち。ごはん支度するから、大人しくするんだよ」

 駆け寄ってきたのは、ペルグランの腹違いの妹、メロディだった。爺四人とその他二名、はあいと声を揃えていた。

「フォンブリューヌ、そして、ベリュイール。いいところだな」

 酌をした食前酒をちびちびとやりながら、マルテンがしみじみと言った。ムッシュもマレンツィオも、やはりしみじみとそれに頷いていた。

「陛下、あいえ、閣下もご隠居あそばされるのですか?」

「そうだな。もう少し落ち着いたら、カロジリアへ帰るよ。そしてその前に、せっかくだから、ぐるりと島一周、観光とでも参ろうかね。家内には愛想を尽かされちまったから、爺さまひとりのお気楽旅だ」

「それは羨ましいですな。これからなら、ウルソレイ・ソコシュもいいですぞ。なんでもマノワール・ホリゾンというホテルの近くに、かのルイソン・ペルグランの銅像が建てられたらしいです」

「そりゃあいいな、ムッシュ・ラポワント。我が国最後の遺産にして、この国いちばんの名物だもの」

 そうやって、マルテンが呵々と笑った。本当に憑き物が落ちたような、清々しい顔だった。

「なにより、ティナ君が幸せそうで、伴侶としては冥利だろう?」

 言われて、全員の視線がダンクルベールに向かう。

「ええ、まあ」

 どう言えばいいのかは、わからないが。

「ようやく、かみさん孝行ができたといったところでしょうか」

「なんだそりゃ。もうちょっといい孝行の仕方があるだろうが」

「これからですもの、課長。ようやく人らしく生きれる下地ができたところなんですから。それも大本はセルヴァンの悪知恵ですし」

「私の家内は、都落ちといってぶうたれてた。ティナと会わせて、ようやく帳尻が取れたけどね」

「ほほ。女というのも、現金ですな」

「私はアディルが元気でいれば、それでいいよ。はい、召し上がれ」

「おや、できたひとだね。ああ、ありがとう」

 そうやって、卓の上には山盛りのめしが出揃った。

「お母さんが大奮発だよ。マギーがようやく里帰りしたんだもの。でも皆が帰ってきてからが本番だからね」

「肉とチーズと芋か。郷里の味だ。最高だね」

「これぞ、というやつですな。いやあ、素晴らしい」

「ベイロン閣下にとっては、目新しさがないでしょうけれど」

「お構いなく。さあ、皆さん。そしてサラさんも、おかけなさい」

「おお、サラさん」

 見やれば、柔和な微笑みのご婦人が。アルシェの妻、サラである。

「念願の帰省か。どうだね?こっちの暮らしは」

「ええもう。待ち望んだ故郷ですもの。懐かしいやら切ないやらで」

「いやあ、よかった。それだけで、この老骨に鞭を打った甲斐があったというものだ」

「言ってくれるじゃないか、ダンクルベール。俺がひいこら走り回った“緩やかな革命”を台無しにしてくれやがって」

「あなた、いいじゃない。サラさんが喜んでくれているのですから」

「おお、愛しいお前。そうだな。お前の言う通り、こんなに麗しいご婦人のためとあらば、俺も信念のひとつやふたつ、曲げたって構いやしないよ」

 マレンツィオのあまりの豹変ぶりに、マルテンとベイロンふたり、思わずといった感じで吹き出していた。これもまた、久しぶりに見る光景である。

「若い連中とビゴー准尉たちがあくせく働いている中、年寄どもは卓を囲んで酒盛りですか。はは、こりゃあ風刺画みたいですな」

「本当に陰口を叩かれる前に片付けちまおう、ムッシュ。さあ、皆さん。お飲み物はよろしいかね?」

 誰も彼も、笑顔のままで。

 新しい国と、変わらない顔ぶれ。そしてまだ見ぬ明日を祝いながら。

 乾杯。


(ご愛読、ありがとうございました。)

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