顔を削いだ鼠
これで最後だ。
あんたの大事なものひとつ、頂戴しにいくよ。
差出人不明の手紙より
本日、早上がり。結婚記念日なので、ダンクルベールとふたり、夕餉を摂ることにしていた。あれが退勤するまでに用意しておきたい。
ダンクルベールは血と歳のこともあり、肉の脂を好まなかった。ここについてはティナも同意見なので、自分の好み通りに作っていけばいい。
赤茄子とパプリカのポタージュ。シャルロットから教わった、海老と木の実のタルタル。あれの血の故郷の、焼き野菜のサラダ。メインはガブリエリから教えてもらった、南東ヴァーヌ風の根魚煮込み。あとは焼きたてのパンと、セルヴァンの実家であるロジェール男爵領の名物、青カビのチーズを添えて。
いくらか多めに作るのは、この生活をはじめてからの習いのようなものだった。
ダンクルベールとは未だ別居である。婚姻関係を大っぴらにしているわけでもないし、自分が作家業を抱えていることも、いくらかにある。それでもそれは、もはや必要なこととしてやっていた。
使っていないひと部屋、卓と寝台があるだけの、そっけない一室。作ったものをそこに置いておくと、少しもしないうちに平らげにくる。そうして食べ終わったものを台所に片付けて、寝台でひと眠りして帰っていく。律儀なもので、寝台もしっかり片付けをしてから帰るのである。
いやだとか、気味悪いと思ったことはなかった。
それがいつからそういう仕事をしていたかは、わからなかった。前職をともにしていたアルシェですら、転任した際には既にいたということで、わからないらしい。
「不覚を取ったね。朱い肌のスーリ」
それは今、その一室の寝台で、まるで子どものように眠っていた。自分が部屋に入っても起きることなく、すやすやと。
寝顔。愛おしかった。いくつぐらいなのだろうか。幼くも見えれば、老いても見えた。
産まれたときからの奴隷。他の血族がいたとしても、それは同じなのだろう。ヴァーヌに焼き払われたその血は、そうやって細々と生きながらえていた。
これはおそらく、その最後の一滴。あの山々で暮らしていた、朱い肌の人々の。
頬を撫でる。ざらついた肌。懐かしさを感じる感覚。
涙は流さなかった。あのこたちのために泣くのはやめようと決めたから。
ごめんね。おかあちゃんが頼りないばっかりに。お前たちにはつらい思いをさせてしまったね。
守るべきものを守れなかった。そればかりが悔悟として心のうちにあった。それでもいつしか、それらが生きていると知ったとき、本当に嬉しかった。
生きてくれていてありがとうと、感謝が溢れていた。
どんなかたちであれ、生きてさえいればいい。私もまた、どんなかたちであれ生きているのだから。
「かあちゃん」
呟き。何よりも嬉しく、温かいもの。
「大丈夫」
頬に触れた。温かかった。いつまでもそうしていたいと思うぐらいに。
大丈夫だよ。おかあちゃん、ここにいるからね。
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1.
与えられたのは、人の名ですら無かった。
物心ついたときから、薄暗い、牢獄のようなところにいた。食べれるものは、誰かの残飯とか、そういったものばかりだった。それでも、それしか食べるものが無かったから、食べ物とはそういうものだという認識でいた。
薄暗がりの中で、感覚だけは鋭敏になっていた。鼠や毒虫。生と死は、いつだって隣り合わせだった。
どうしてこんなところに、というものは、あまり感じなかった。
はじめての殺しは、あまり詳しく覚えていない。それほど、必死だったと思う。包丁一本だけ渡されたことだけは、いやほどに覚えている。
どれだけ身を清めても、血の匂いやべたつきが落ちることがないことを、そこで知った。
人を殺すこと。正直に、恐ろしかった。慣れないうちは、前日にげえげえと戻していた。
いつだったか、立て続けに子どもを殺すことがあった。生きて返ってくるたびに、泣いて、うなされた。なぜそうしたのかは、よくわからなかった。倫理だとか道徳とかではない。生命に刻まれたものがそうさせてくるとしか、言えなかった。
泣きながら、詫び続けた。そしてその時はじめて、自分は好きで殺しをやっているわけではないことを認識した。
血には酔えなかった。あるいは悲鳴にも。いつも後味の悪いものを感じながら、人を殺め続けていた。
それがなくなることは、ついぞ無かった。
誰かと組むということも、何度かあった。どれも長くは続かず、自分だけが生き延びてきた。あるいは組んだ相手を捨て駒にするようなことは何度もやってきた。
暗闇。生と死の間。その中で、生に執着してきたのは、どうしてなのだろうか。思うことはたびたびあった。死んでしまえば楽になれると何度も思いながら、それでも死にたくないという思いだけが、強く、強くあった。
もしかしたら、眠りの中で、それと出会ったからだろうか。
きれいなひと。朱い髪と瞳のひと。抱きしめてくれた。待っていると、言ってくれた。
そして、ありがとうとも。
殺しを重ねるたびに、そのひととは出会えなくなった。それより先に、殺した人々の顔を見るようになった。
そうやって、眠ることすら恐ろしくなった。
眠りにつく記憶は、ほとんどなくなった。殺して、帰ってきて、また殺してを繰り返す。そんな感じである。
おそらくその間に、眠っているはずである。
あるいは、夢を見ないように眠るこつを掴んだのかもしれない。そうやって、気付いたら朝になっているということを、繰り返していた。
そのうち、闇の中で、同じ人物と出くわすことが増えてきた。相手は見るたびに姿かたちが異なっていたが、それでも同じだという核心があった。
いつしかそれと、酒場で落ち合うことになった。
特に何を話すわけでもない。くだらない、四方山話だとか、その程度である。それでも、生まれてはじめて出会った、長く付き合える人間だった。
それのことは、“蜘蛛”とだけ呼んでいた。何故そう呼んだのかは、あまり覚えてはいない。
“蜘蛛”は、不思議な男だった。密偵のようなことをやりつつ、義賊のようなこともやっていた。もしくは自身と同じような存在を教育していた。
身を守る術、欺く術などを、教えてもらった。それは生き延びることに大いに役に立った。
政変を経て、正規軍人になった。それでも“蜘蛛”との付き合いは変わらなかった。闇の中で出会い、お互いのことはつとめて詮索せず、時折、酒を飲み交わす。お互いの持っているものを、教え合う。
“包丁使い事件”の頃には、持っているものは“蜘蛛”と並び立つほどのものになっていた。あるいは向こうも、同じ程に。
そのころだっただろうか。“蜘蛛”がそういうことを言い出したのは。はじめはよく、意味がわからなかった。そのうちに意味がわかるようになり、どうすべきか、考えるようになった。
俺にならないか。“蜘蛛”が言い出したのは、そういうことだった。
2.
ダンクルベールから、ちょっとした話があるということだった。通っているムッシュの医務院で落ち合うことにした。
セルヴァンの体の調子は、正直によくなかった。真っ直ぐ歩くことが難しくなったり、眼の前が眩しくなったりする。ひどいときには、手足にしびれのようなものを覚えることもあった。
脳漿の一部分が傷ついている。おそらくはそういうことらしかった。
ムッシュには、鍼を打ってもらっていた。東洋の医学のひとつらしい。
上半身裸で、寝台の上にうつ伏せになる。背中に、ムッシュの掌があてがわれる。
ぞくり、とするところ。そこに、鍼が打たれる。痛みはない。なにか重いものがのしかかるような感覚である。
それを繰り返すうちに、気づけば眠っていた。
「メタモーフから、俺宛に挑戦状が届いた」
ダンクルベールが訪いを入れてきたのは、ひと眠りした後だった。神妙な面持ちで、そう切り出してきた。
一枚、取り出した。渡される。噂に聞いた通りの文言である。
それよりも、これが最後、という文面に、引っ掛かりを覚えた。
「何故、貴様なのか。そして最後とは」
「わからん。“足”や“妹”でも、今のところ何も掴めていない。それと」
「何か、あるのか?」
「スーリの行方がわからなくなった」
そのひと言で、雰囲気が一気に剣呑になった。
「気になるな。前職のことがある」
ラポワント婦長が淹れてくれた紅茶を含みながら、セルヴァンは考えを巡らせていた。
“鼠”。本当の名前はわからない。あるいは、ないのかもしれない。
前王朝、ホフマンスタール家は、暗殺を好んだ。政敵を排するのに、それをよく選んでいた。
その尖兵として、スーリは誰よりも選ばれていた。
“秘密警察”と呼ばれた組織。アルシェが投降してきた際の情報により、その大半は処断できていた。スーリもまた、その情報により捕まえることができたのだ。
もしかしたら、生き残りがいるのかもしれない。それと相対しているか、あるいは未だそれに操られているか。
「懸念すべき“秘密警察”についても、残党がいる様子はないようだが、スーリとアルシェがいた場所だ。ひょっとしたら、ひょっとする」
「今現在、首の値段が高い御仁となると?」
「マレンツィオ閣下だな」
ダンクルベールの言葉に、ぴくりと体が跳ねた気がした。
国民議会議長マレンツィオが今死ねば、何が起こるか。
豪商派の議員が主体となって推し進めている“緩やかな革命”。立憲君主制と民主共和制の両立。その平和的な実現。マレンツィオは、その運動の神輿だった。
マレンツィオが凶刃に斃れたとなれば、性急な民主化運動が起こるだろう。いわば革命と呼ばれるようなものが。
血が流れる。それもこの島から溢れるほどに。
「“妹”だけでなく、公安の枚数も増やしている。それでも動き回るひとだ。万が一がありうる」
「動き回らねば、実現できない運動だ。そこは理解を示そう。あるいはそこにスーリとメタモーフが関わってくることも」
「あれは義賊だ。それも考え方は、為政者のそれに近い。国のよくないところを正す。そういうことを、ひとりでやってきた男だ」
「そして貴様の“足”の第一でもある、と」
あえて言った言葉に、ダンクルベールは静かに頷いた。
ダンクルベールと誼を通じるにあたって、教えてもらっていたことであった。あるいはその存在こそが、かつてのボドリエール夫人への、疑いの要因のひとつでもあったと。
メタモーフが“緩やかな革命”について思うところがあるとすれば、その手駒として“足”やスーリを使うかもしれない。
そのあたりで、ふたり、入ってきた。巨躯の司祭と、小洒落た男。二代目悪入道リシュリューことジスカール。そしてその次長であるカトー。
「八方、手は尽くしたが」
ジスカールの方から、切り出してきた。生粋の任侠者だけあって、所作は見事なものである。
「未だ、掴めず」
「構いはしない。それよりも、マレンツィオ閣下の護衛の枚数を増やして頂きたい。ふたりが何をするにしても、狙われて困るのが閣下の首だ」
「承りました。“足”だけではなく、悪党筋からも人間を出しましょう」
セルヴァンの要望に対し、静かで厳かな声で、ジスカールは一礼した。
「カトーさんの方は、どうかね?」
「気になるのが、ひとつ」
言いながら、カトーが紙切れ一枚、寄越してくる。
「兄王子殿下が宰相閣下と接触している」
「ほう」
王陛下マルテンはともかく、兄王子アウグスティンは“緩やかな革命”には反発している。そこが何故、“緩やかな革命”を推進する立場にある宰相カゾーランと繋がろうとするのか。
「宰相閣下に野心ありかな?」
「だとしたら、凝りない御仁だ。ティナが聞いたら怒鳴り散らかすだろうな」
ダンクルベールが神妙なまま、口元だけで笑った。
カゾーランとかつての軍総帥部急進派は、ティナのかつての姿であるシェラドゥルーガを巡って暗闘を繰り広げていた。それが第三監獄襲撃として表面化し、内務省の介入によって、その野心は打ち砕かれているはずである。
あれから時間が経ち、病を経て、カゾーランは性急になっているのかもしれない。
「ともなれば、私の方も、早めに進めておかねばなるまい」
その言葉に、ジスカールが居住まいを正した。この件については、この三人には先に話を付けていた。
「ベイロン閣下とお会いなさりますか?」
「うむ。とはいえ、私はこの体たらくだ。こちらで会えるよう、ジスカールさんに頼んでもよろしいかね?」
「承りました。手前の方で用意いたします」
そう、一礼の後、ジスカールが退室した。
「カトーさんは引き続き、兄王子殿下の方を」
言いながら、立ち上がろうとした。
そこまでは、覚えていた。
「セルヴァン」
体は横たえられているようだった。
瞼は、開けているはずだった。
「わかるかね?」
「眩しい。暗くしてくれないか」
「目を閉じて下さい、閣下。まずは心を平らかに」
ムッシュの声だった。
一度、瞼を閉じた。程よい闇。そうしてしばらくして、瞼を開けた。
「なるほどな」
きっと、笑っていたと思う。
「大丈夫だ。死んだわけではない。口と頭が動いているならば、私は働ける」
「無理をするな、セルヴァン。何があったか、覚えているか?」
「覚えていない。カトーさんにひとこと残したところまでは覚えている」
「そうだ。そこで、立ち上がろうとした。そして倒れた。ついさっきのことだ」
「閣下、どうか無理をなさらず」
ジスカールの声。おそらく事態に気付き、戻ってきたようだった。
「まずは、少し眠ろう」
それだけ、ダンクルベールに言われた。
眠りの中で、セルヴァンは色々と試していた。体を動かすこと。昔のことを思い出すこと。何かを思いつくこと。
すべて、それなりにできるように思えた。
しばらくして、瞼を開けた。眩しさだけが、そこにあった。
「約束を違えてしまったようだな」
「本当に。貴方は無茶ばかりをするのだから」
女の声。それと輪郭で、ティナのものだと言うことはわかった。
司法警察局局長室に寝台を持ってこさせ、過ごすこととしていた。最初こそ、誰彼からも止められたのだが、命令だと言うと素直になった。
「駄目な男。私は壊れた貴方を食べたくないと言ったのに」
「もとより食うべき部分などなかっただろうさ。今はそれのすれっからしになったぐらいだ」
あの時、ティナはシェラドゥルーガだった。自分の病に気付いてくれて、ジンジャーティーを淹れてくれた。そうして肩を揉んでくれて。
朱い瞳になったパトリシア。そのひとに、愛を伝えた。
「それでもね。不思議なもので、今が一番、冴え渡っているようにも思えるよ」
おそらく上体を起こしている。そして、窓の外を眺めている。
すべて、感覚だけだった。
「本当に、こんなになってまで、そんなことを言うのだね」
呆れたような声だった。それも、鼻にかかって、涙でかすれたような。
「私のために、泣いてくれているのかね?」
「そうだよ。当たり前だろう?私がこれほど愛しているのに、貴方は応えてはくれなかったのだから。本当に甲斐性のないひとだよ」
「むしろ、余計なものが無くなったようにも思える。私を構成する最小単位になった。そんな気分だな」
どこか、清々しい気分だった。
「伝えるべきことがある。今後のことだ」
そうして、ティナに対して、それを伝えた。
「本当に、そうするつもりかい?」
「国家が我々に背こうとしている。あるいは、使い捨てようとしている。ならば我々もそうするというだけだ」
「だけど、協力者が必要だろう?私たちだけでは、どうにもならない話だよ?」
「これはもう、ボーマルシェ伯ベイロン閣下をはじめとするフォンブリューヌ諸侯だけではなく、国内各地の地方豪族や王侯貴族、そして他国にも話を通してある。そして理解も得ている」
「あのデブの進める、“緩やかな革命”は?」
「もともとは、それが失敗したときのための策だ」
そこまでで、瞼を閉じた。
「国家とは国民だ。それを蔑ろにする国家は、国家に値しない。国民のための国家をこそ、我々、国家憲兵は守るべきなのだ」
「まずはそうならないことを、祈るばかり。私は、政治のことはよくわからないから」
「だからこそきっと、貴女に伝えたのかもしれない」
ティナの方に顔を向けた。輪郭は、何となくで掴める。
「これは、貴女がひとつの社会的存在として生きるための手段でもある。人か、人でなしかを問わず、国家とは、そこに住まうものに対してこそ、あるべきだから」
「嬉しい。貴方はやはり、私たちの帰るべき、温かいおうちだった」
「二十年前から、誓いは変わらない。私が皆を守る。貴女を含めたすべての人を、守り抜いてみせる」
頬に、感触があった。温かかった。
そしてもうひとつ、今のうちにやっておきたいことがあった。
「お連れしあんした、大舅さま」
インパチエンスの声。他に男がふたり、女が三人。ルイソン・ペルグラン一家である。
「セルヴァンさま」
少し沈んでいるが、明るさのある声。“赤いインパチエンス亭”の店員、コロニラ。
「お加減を悪くされたと聞いてたの。本当に、大丈夫じゃないところまで」
「なに、このとおり、生きている。だから、大丈夫さ」
「そうだよね。だって、お顔は幸せそうだもの。お酒を飲んでいるときと、同じ顔」
「そうかね。確かに、ずっと酔っ払ったような感覚でいるよ。あるいは今までも、ずっとそうだったのかもしれない」
「素敵なことば。でも本当に、もう無茶しちゃだめだからね。酔っ払ってると、足元がおぼっつかなくなっちゃうんだから」
「はは。それはそうだな」
セルヴァンは笑ったが、コロニラはつらそうだった。
次男のジェラルドと仲良くやれていた。同じぐらいの歳で、ダンクルベールに提案されて紹介していた。女性に対して奥手なところが強かったジェラルドではあるが、やはりコロニラの闊達で人好きのするところに、すぐに絆されたようだった。コロニラも世話焼きな性分だから、ジェラルドが可愛くって仕方ないのだそうだ。
「大舅さま、本日はコロニラに大事な話があるとのことであんしたが」
「うん。インパチエンス君をはじめとした、コロニラ君のご家族の皆さんに聞いて欲しいと思ってだね」
気配の方を向いて、微笑んだつもりだった。
「コロニラ君に、私の義娘になってもらいたい」
全員、はっとしたようだった。
「セルヴァン閣下。それはつまり、閣下のご子息さまとのご婚約ということでしょうか?」
「ええ、ジョゼさま、そしてエルランジェさま。私の家内も、コロニラ君なら任せられると。そして家族として迎え入れたいとも言ってくれたのでね」
「でも、セルヴァンさま。私」
「君の気持ちの整理が付いてからでいい。あれは言い出せないだろうから、君から言ってやっておくれ。男が格好を付けるというのも、もう時代ではないだろう」
そうやって、笑った。
手に、感覚があった。コロニラ。俯いて、震えている。
「閣下のお気持ち、汲みました」
花たちの母たるジョゼフィーヌの夫、エルランジェの声。
「何と言っても我らが長女、インパチエンスが育てた女です。どこに出しても恥ずかしくない自負がございます。コロニラの父として、どうか娘をよろしくお願いいたします」
「義父上に同じ。いやというなら、俺と義父上ふたりがかりで、バージンロードを引っ張って歩かせますよ」
ペルグラン。はにかんだのが、声でわかった。
「閣下のご慈悲、なんとお礼を申し上げていいか」
「大仰だよ、ジョゼさま。農家の嫁に来てくれと言っているだけなんだから」
「それでもご慈悲にござりあんす。母も、そして姉であるあたくしも、これ以上の果報はござりあせん」
ふたり、泣いているようだった。
「さあ、コロニラ。お答えしましょう」
カンパニュールの声。
「お義父さん」
しばらくして、手の上に、ぽつりと落ちてきた。
「よろしくお願いします。お義父さん」
涙を含んだ声で、コロニラは応えてくれた。
「ありがとう、私のコロニラ」
体に、腕を回した。抱きしめた。愛しい義娘。腕の中で、声を上げて泣いていた。
ダンクルベールたちのように、家族を増やすということを、やりたかった。それがひとつ、叶った。
孫の声は聞こえるだろうか。楽しみだ。
3.
“妹”が三人ほど消えた。すべて、宮廷に入れているものたちである。
ガブリエリはひとまず、バルテレミーと会うこととした。先ごろ次長を経て、国家憲兵総監代行という役職に就任している。
「つまりは、宮廷で何かが起ころうとしている。あるいは、何かが起きているということかね」
「そういうことになります」
「宰相閣下が病を患ったというのは、聞く話ではある」
バルテレミーが静かに瞼を閉じた。
「“緩やかな革命”では、遅すぎるのかもね」
「宰相閣下が、動きますか」
「それだけではないはずだ。いくつかの小会派閥は、“緩やかな革命”に対して良い印象を抱いていない。宰相閣下の動きにあわせて、何かしらをしてくるだろう」
紙一枚、広げた。この国の勢力図をもれなく記載しているものである。
「アランブール派、メルセンヌ派などの、いわゆる山岳派。名誉回復が許された北方ヴァーヌ旧王朝系の王侯貴族。南西地方では独立の気運すらある」
「養父であるフェデリーゴ・マレンツィオの暗殺も」
「あるいはね」
ここは、先にダンクルベールより内々に話があった。スーリと“足”の頭目との二名と、連絡が取れなくなっているとのことだった。
何かが起きようとしている。それが何かを確かめる必要がある。
「今、言うべきことではないだろうが」
ふと、バルテレミーがそう言い出した。
「公安局のミッテラン少将が、貴官を欲しがっている」
「私をですか」
「参謀として迎えたいそうだ。大尉待遇。国家憲兵警察隊との兼務は可能とのこと。“妹”の情報収集能力を買ってのことだと思うが、いい話だとは思う。考えておいてくれ」
「兼務可能ということであれば」
敬礼、ひとつ。
「私の職務は、あくまで聞き込みです。我が恩師、ビゴー准尉殿と同じく、一歩ずつ、一歩ずつ、市井を歩くことだけを望みます」
その言葉に、バルテレミーは満足げに微笑んだ。
その日の夜、マレンツィオに呼ばれた。
「最近、身辺が物々しくてな。そこまで高値の首ではあるまい」
「高値の首だからです。ご辛抱下さい」
「面倒だのう」
マレンツィオは葉巻を咥えながら、渋面を歪めた。
「明日、宰相閣下の見舞いに行く。着いて来なさい」
「そういう名目の社交界ですね?」
「そういうこった。閣下も飽きないことだよ。何とか自分の基盤を強くしようと躍起になっておる」
「王陛下と王妃陛下が外遊中の今だからこそ、余計にそうなのでしょうね」
ガブリエリは言いながら、頭の中で考えを組み立てていた。
縁のあるユィズランド連邦とはいえ、外交に消極的な王陛下マルテンが外遊に出ている事自体が珍しい。おかしい、と言い換えてもいいぐらいである。
これもあるいはカゾーランの考えのひとつなのか。あるいは別の勢力の。
別の勢力、というところで、両王子のところに考えが行き着いた。
兄王子アウグスティン。血筋は上だが、考えが前時代的で、親政を望んでいる。対して弟王子エルミニオは聡明で市井に理解があり、“緩やかな革命”にも理解を示している。ただし実母である王妃カロリーナは“緩やかな革命”には否定的であり、考えとしてはアウグスティンに近い。
“緩やかな革命”の賛同派であるマルテンとエルミニオ、否定派であるアウグスティンとカロリーナという構図。これを宰相であるカゾーランは利用しようとしているのかもしれない。
“緩やかな革命”実現により実権は無くなるとはいえ、国家の象徴としての王家は残る。その際の後継者は、エルミニオになるだろう。それをよく思っていない勢力が争いに加入してくることは十分に有り得る。
事を起こすとなれば、この外遊の間であることは間違いない。
カゾーランの邸宅。一国の宰相というだけあって、豪奢な佇まいである。
豪華な面々だが、何より兄王子アウグスティンが参加していることが気になった。
「おや、父上」
見やれば、父であるジェナーロがいた。向こうも、おお、という風に寄ってきた。
廃嫡、マレンツィオ家への養子縁組となった今、お互い気楽になったのだろう。以前よりも砕けて接することができていた。
「宰相閣下のご容態についてですが」
「うむ。咳に血が交じるという」
「となれば気管支喘息、または肺気腫あたりでしょうか。不治ではありますが、急激に悪くなる病気ではないでしょうね」
「詳しいな」
「うちには、かのムッシュ・ラポワントや聖アンリがおりますから」
答えに、なるほど、と言ったふうにジェナーロが笑ってくれた。
マレンツィオの周辺には、“妹”が二人、公安が三人ほど付いている。ガブリエリ自身も適宜、見ているが、これだけの人数の中で大事を起こすことはないだろう。
定刻。そろそろ、主人であるカゾーランが顔を出すといった頃合いであるが、一向にその気配がない。
カゾーランに着けている“妹”からの音沙汰が無いのも、おかしかった。
「何かが起きています。父上はマレンツィオ父さんの近くから離れないで下さい」
「わかった。無理はするなよ」
そうやって、ふたりと別れた。
“妹”ふたりを先に走らせた。ガブリエリは侍従たちに聞き込みをしつつ、屋敷の深部へと踏み入っていく。
「居室におられるのか?」
「おそらくは。ただ、鍵をかけているようでして」
いやな予感がした。
居室の前。“妹”の片方が、鍵を開けたようだった。
死の匂い。
「ムッシュを呼んできてくれ。それと、今いる面々には、宰相閣下のご病気が篤く、出席できないと伝えるよう、侍従に申し伝えてくれ」
もう片方に、それだけ頼んだ。
扉。重苦しい空気の中、ゆっくりと開けた。侍従長とともに入っていく。
寝台の上に、男ひとり、寝転んでいる。
「宰相閣下」
答えはない。
薄暗がりの中、近づいていく。
寝台の上。カゾーラン。顔は土気色だった。
恐る恐る、その手を取った。
脈は無かった。
4.
今日の夕飯もひとり分、多めに作った。それをいつもの部屋に置いておく。
朝、目が覚めると、空の食器が台所に戻されていた。
スーリは生きている。その上で、会えないようなことをしている。そのことが、ティナの心をずっとざわめかせていた。
宰相カゾーランが死んだ。
世間では病死したことになっているが、ムッシュが検視したところ、毒で死んでいることがわかった。
事案については、公安局預かりとなった。宰相の毒殺となれば、一般的な刑事事件を取り扱う司法警察局では、持て余す。
王陛下マルテン夫妻には、緊急事態のため、故郷であるカロジリアに滞在するよう、要請が飛んでいるという。
今、マレンツィオではなく、カゾーランを殺して得をするのは誰なのか。
そして、スーリとメタモーフ。もしやそれに関係しているのか。そうだとしたら、何故。
「兄王子殿下」
司法警察局局長室。ウトマンが口火を切った。
「違う、正しくない。真っ先に疑われることをするはずがない」
「となれば、弟王子殿下の派閥ですか?」
「どうだろうな。殺す理由がない。自死というのもあるだろうが、わざわざ客を呼んでする必要もないだろう」
ティナの反論に対し、セルヴァンが続けて言った。
「正直に言って、生命の値段が高くない。これを今、排することで得をすることは何ひとつない。なのに殺した」
「見せしめか、当てつけ。あるいは本命が別でいるとか」
「後継者」
ダンクルベール。瞳が青く揺蕩っている。
「マレンツィオ閣下が死んだ場合、“緩やかな革命”の後継者は、宰相閣下になりうる」
「導線を切ってきたというわけですか。となればやはり」
「どの勢力であれ、狙いはマレンツィオ閣下ということでいいだろう」
そのひと言で、全員の目がマレンツィオに集まった。
「今更、生命を惜しむこともない」
咳払い、ひとつ。
「何より、俺は神輿だ。表面上、“緩やかな革命”を推し進めている人間でしかない」
「その表面上というのが肝です。民衆も為政者も、閣下が“緩やかな革命”の実行者だと捉えている。閣下が死せば、これを続けるものがいなくなると思い込んでいる」
ダンクルベールが言うと、マレンツィオは押し黙ってしまった。
「スーリが戻ってこない」
ティナは、思わずで言っていた。
「あのこが、関わっているとしたら」
「やめなさい。スーリを信じてやるんだ」
「アディル。それでも私は思ってしまうんだ。もしかしたら、あのこが関わっているのではと」
「ティナ」
セルヴァンだった。
「大丈夫」
セルヴァンの、低く落ち着いた声。どうしてか、そのひと言で取り戻せた。
「ともあれ、マレンツィオ閣下をお守りすることで方針は変わりない。閣下が斃れたとなれば、民衆は必ずや蜂起しましょうから」
バルテレミーが仕切り直した。その言葉に、マレンツィオが苦虫を噛んだような表情をした。
「爺ひとり死んだところで何があるわけでもあるまい。蜂起などせず、国に愛想を尽かして終わりだろうさ」
「そうあって欲しい。何しろ貴方の声は大きいものでね。どいつもこいつも感化されてるんじゃないかと、気が気でないのですよ」
「セルヴァン閣下まで、そう仰るかね」
「私もまた、感化されたひとりですからね」
その言葉に皆、いくらか笑ったようだった。
警察隊本部庁舎に戻った後、司法解剖室に立ち寄った。ガブリエリと待ち合わせていた。
「“妹”の損耗が激しい」
眉間に皺を寄せ、ガブリエリがそう言った。
今年に入ってから、宮廷とカゾーランの周りをあわせて十名は消えている。
「人を入れ、育てるのは時間がかかります。まして“足”の頭目がいない今、人間の精度を高めるのは難しい」
「お前の私兵だ。無理はしなくていい」
「お言葉ありがとうございます。しかし今、宮廷が見えなくなると」
「マレンツィオ閣下を守ることさえできれば、それでよしだ」
ダンクルベールが、ガブリエリの背を叩いていた。
「アディルの“足”に比べ、“妹”は立ち上げて間もない。そういうのもあるだろうさ」
「それでも、相当数がやられました。向こうも随分に手練れですね」
「政争の国だ。誰が何を持っているかなんて、わかるもんか」
ティナがそこまで言っても、ガブリエリは難しい顔のままだった。
ため息、ひとつ。
「ガブリエリ君、ちょっと屈みなさい」
「どうしました?」
「いいから」
そうやって、ガブリエリが目線を合わせるように。
手を、その美貌に近づける。
「目やに」
それで、ガブリエリが笑った。入室したときから、気になっていたのだ。
「ちゃんと休めてるかい?」
「いいえ。正直に、張り詰めたままです」
「だろうと思った。諜報なんて、君の柄でもないことに長く携わっている。オンオフの切り替えはしっかりしたまえよ。あのデブもそうだけど、何よりも家族のためだもの」
「ティナさんも、張り詰めていらっしゃる」
「おや、君も怒られるのが好きな類だったかね?」
「あえて余計な事を言いました。それでも、スーリ中尉のことです。きっと大丈夫ですから」
そう言われても、胸のつかえは取れなかった。
「大事なもの」
帰宅してひとりになってから、ひとりごちた。
メタモーフは何故、今この時に動いたのか。
あれが盗むものは大したものではない。真意はいつも別にある。ガンズビュールの時は、裏社会の立て直しに奔走していた。
「大事なもの」
もう一度。そうして、思いつく限りのものを並べた。
何もかもが大切だった。どれも欠かすことのできないものだった。もはや何ひとつ失いたくない。そればかりがあった。
思い返しても、思いつかなかった。
夕飯。やはりひとり分、多めに作った。そうしてあの部屋に持っていく。
部屋の前で、ふと、誰かがいるような気がした。
気配は感じないが、確実にいる。
「かあちゃん」
扉の向こうから、聞こえた。
「ごめんよ。今はまだ、かあちゃんと会えないから、こうさせておくれ」
聞きたかった声。唇が、震えていた。
「おいら、おいらじゃなくなるかもしれない」
「何を言っているんだい?朱い肌のスーリ」
「約束ひとつ、果たさなきゃならないんだ。そのために、おいらはおいらであることを捨てなきゃならないかもしれないんだ。だから、かあちゃんにだけは、伝えておきたかった」
「言っていることが、よくわからないよ」
「おいらも、よくわかっていない。でもきっと、そういうことだと思っている」
扉を開けていた。思わずだった。
スーリ。夜闇の中、そこにいた。
抱きしめていた。朱い肌のスーリ。愛しいあのこたちの生き残り。
「どうか、戻っておいでよ。私のスーリ」
「ありがとう、かあちゃん。おいら、戻って来るから」
いつも通りの、からりとした声。
だから、涙は出なかった。ただずっと、腕の中のものの感触が消えるまで、そうしていた。
戻っておいでね。おかあちゃん、待ってるからね。
5.
“足”ひとり、接触してきた。自分の事務所である。
頭目からの連絡だった。その内容には、カトーは思わずもなく眉間を押さえることしかできなかった。
「ダンクルベールのおやっさんは、把握しているのかね?」
「わからない。“妹”発足後は、そっちに機能を移行したから、俺たちはあってないようなものだったしな。把握の有無は、あまり気にせんでいいだろう」
「そういうもんだかね」
紙巻に火を灯しながら、ぼんやりと返した。
“足”の解散。伝えてきたのは、それだけだった。
長くはないものの、カトー自身も“足”として活動していた。頭目とは、その中で何度も接触し、色々と教えてもらった。
親とまではいかないものの、世話になったことには変わりない。
それに、もはや“足”ではないものの、連絡をよこしてきたとなれば、何かしらの理由があるはずだ。
そのあたりで、訪いの気配があった。予約は入っていないはずである。
入ってきたのは、油合羽を羽織った美貌の女だった。
「人を探してほしい」
「ろくな期待はしてないけど、誰だい?」
「スーリ。うちの捜査官」
「ああ、“鼠”か」
「メタモーフからの挑戦状。警察隊本部に届いていた」
ビアトリクスの言葉に、顔をしかめていたと思う。
「必要ないことだ」
「何か持ってるのね?」
「憶測だよ。今しばらくは見つからん。そうして、ひょっこり戻ってくるはずさ」
「それじゃ困る」
カトーの言葉に、ビアトリクスは焦りの表情を見せた。捜査官ではあるが、もと暗殺者である。それが音信不通になっている。政治的なよろしくなさがあるのかもしれない。
「前にも言ったけど、捜査官なら、自分で探し当ててみせな」
「八方、手は尽くした。“妹”も使った。それでも駄目」
「なら、俺でもそう変わらんさに」
「カトーさん」
ビアトリクスが詰め寄ってきたのを、こちらから体を入れて留めた。
眼を見やる。怒りと焦り。それが萎むまで、ゆっくりと時間を使った。それでも吠え声ひとつ。ビアトリクスはそうやって、大人しくなった。
「ごめんなさい。でもこれ以上は、宰相閣下毒殺の疑いが、スーリに向かうことになる」
「よくできました。そっちに関しては心配する必要はない。犯人について、俺の方で、ひとつ仕入れていたからね」
紙一枚、渡した。ビアトリクスがはっとした表情をする。
「同じ筆跡」
「まあ、そういうことさ」
「どこにいるの?隠さないで言って頂戴」
「そこまではわからんよ。俺の方も、これについては精査が必要だもの」
ロゼ一本を棚から取り出して、どっかりとソファに腰掛けた。続くかたちで、ビアトリクスが隣に腰掛けてくる。
グラスにロゼを注いでやった。それでも、ビアトリクスはそれに手を付けようとはしなかった。
「書いていたと思うが、これが最後だ。大事なものってのは、“足”そのものだ」
「頭目さんがいなくなるからって」
「おやっさんも、じきに退役だろうさに」
言うと、ビアトリクスは黙り込んでしまった。
「こいつはひとつの卒業試験だよ、マギーちゃん。あんたらが、おやっさんとその“足”なしでもやってけるかっていう」
「そんなこと、考えたくない」
「眼を背けるんじゃない。親の死に水取るのが、子の努めだろうが」
「私は」
言葉は、震えていた。唇も、きっと。
「ダンクルベール長官の子どもじゃない。子どものままでいたくない」
静かに。そうして、ひとすじ。
「私はダンクルベールの一番弟子。そして、あの人を愛した、ひとりの女でありたい」
「そうかい。だがね、人間、どっかかしらに終わりってのがあるんだ」
「私は、認めたくない」
「駄々こねるんじゃないよ。子どもじゃないんならよ」
そう諌めるのが、精一杯だった。
ビアトリクスはしばらく、静かに涙していた。カトーもまた、その様子を見ながら、物思いにふけっていた。
ダンクルベールというものの存在の大きさ。それが無くなることをどう受け止めるか。誰しもが、それに戸惑うことだろう。ビアトリクスのように、強い思いを抱いているものであれば、なおさらだ。
「ごめんなさい、カトーさん」
泣き腫らした瞳で、ビアトリクスはつらそうに微笑んだ。
「泣きたくなったら、またおいで」
「わかった。本当に、ありがとう」
そうやって、互いの頬にベーゼを交わした。
ビアトリクスが出ていく時、入れ替わるようにそれは部屋の中に入ってきた。ビアトリクスは気付いていない様子だった。
「待たせたね」
予約の客である。肌が若干、朱みがかっているぐらいで、外見に特徴はない。
紙一枚、渡した。それだけで、その客はいなくなった。
グラスにグラッパを注ぐ。ひと息で、それを煽った。ざわついたものは、それで大人しくなった。
6.
“蜘蛛”になること。それについての決心は付いた。
母と定めたティナに愛されるということはあったものの、生命そのものに用事があるというのは、これがはじめてかもしれない。おそらくそれが、決心の理由だった。
カトーから渡された場所。小さなあばら家だった。あるのは寝台ひとつ。その程度。
その寝台に、老人ひとり、横たわっていた。
「おう、来たか」
顔も向けずに、老人は小さな呟きを発した。あるいはもう、そこまでの力も残されていないのか。
これが、“蜘蛛”の本当の姿。
「お前になりに来た」
「そうか、決めたか」
「お前と同じようなことを、すればいいのだろう?」
「そうじゃない」
“蜘蛛”の瞳が、強い光を放った。
「俺になるんだ。俺の真似ではなく、俺そのものになれ」
顔だけが動く。皺だらけの、乾ききった顔。それを見て、胸の苦しさを覚えた。
“蜘蛛”そのものになる。可能性として、それは思いついていた。
そうなれば、もう、戻れない。
「それで、どうすればいい?」
「具体的にどうしろ、というのはわからない。ただ、俺になる方法は、お前には教え込んだつもりだ。それをやってみればいい」
声は、荒かった。ぜえ、と息の音が交じるほどに。
考える。“蜘蛛”には、顔も名前もない。輪郭だけの存在。だから輪郭だけになれば、“蜘蛛”になれるということだろう。
瞼を閉じた。意識を集中する。
ここからはじめるのは、すべて感覚だけ。実際にはそうしない。己を構成するものを、最小限になるまですべて剥ぎ取り、輪郭だけになる。そうやってたどり着けばいい。
確かにそれは、“蜘蛛”から教わったことだった。
鼻と耳を削ぎはじめた。それが終わったら、瞼と唇。そこまでいって、まだ足りないと思い、皮を剥ぎ、肉を削いだ。
胸元から腹の下まで切れ目を入れる。そうして肉と輪郭の間に、ゆっくりと刃を入れていく。はらわたを傷つけないように気をつけながら。そうやって、服のように肉を脱いだ。
いらないものは都度、取り払っていった。髪や男のもの。爪や歯など。
そうして、脳髄と眼球、はらわたぐらいが残った。その状態でも、手足や皮膚があるような感覚はあった。
透き通っている。これが、輪郭だけになるということなのだろうか。
側に落ちていた“鼠”の皮。それを、一度羽織ってから、瞼を開けた。
視点は、寝台の上だった。側に“鼠”が立っている。
「なれたようだな」
その言葉は、自分から出ていたように感じた。
「あとは、俺をひとりにするだけか」
「そうだな。同じ人間はふたりいちゃいけない。それが世の中の決まり事だ」
“鼠”が短刀を取り出した。心臓の上に、あてがわれる。
気分は、落ち着いていた。
「じゃあな、俺」
「ありがとうよ、俺」
束の間、また目を閉じた。
暗闇。少しの力をくわえるだけで、よかった。
目を開ける。老人の骸ひとつ、寝台に横たわっているだけだった。
“鼠”の格好のまま、家を出た。何人かの気配。すべて、“足”だった。自分が育てた人間たちである。
何度か、瞼を閉じた。そうやって“蜘蛛”のことを思い出していく。
“蜘蛛”として、成すべきことを成す。そのために。
「旦那に会ってくる」
言葉は、“蜘蛛”の声で発せられた。
7.
ベイロンとセルヴァンとの会合が済んだあと、ダンクルベールはベイロンを“赤いインパチエンス亭”に招いた。ベイロンはペルグランの大成を寿ぎ、大いに褒め称えていた。
「しかし、セルヴァン卿もああまでなられても、国のことをよくお考えなさっておられる。私は感服することしかできない」
「あれは稀代の戦略家です。そして愛国者です。誰よりも国家を愛し、それを構成するすべてを守ろうとする。そのためだけに生命を捧げた、信念の男です」
「ダンクルベール卿が惚れたのも、わかる気がいたします」
「あれがいなければ、俺は何もできないままに終わっておりました。本当に、二十数年来の恋女房です」
言った言葉に、ベイロンが呵々と笑った。
「女房殿に絆されて、大役を仰せつかってしまった。身に余る光栄で、今から震えておりますよ」
「本当は、そうならないことが一番なのですがね。諸勢力の動きからすれば、そうも行かなそうなのが、悲しいところです」
「何より、マレンツィオ閣下が無念でござりましょうな」
「それは本当に」
セルヴァンの策は、“緩やかな革命”が失敗し、情勢が混沌としたときのためのものだった。それはつまり、それに長く携わったマレンツィオの大願が成就しないことを意味する。
あるいはもうひとつ、マレンツィオが凶刃に斃れることも。
「あのひとのことは、お気になさらず」
割って入ったのはシャルロットだった。今日も“赤いインパチエンス亭”の手伝いに来てくれていた。
「あのひとは、あくまで市井の代弁者ですから」
その言葉で、ダンクルベールも落ち着くことができた。
天下御免のブロスキ男爵。血筋でいえば、王侯貴族の中核に座すほどのものである。それが民衆に歩み寄り、民衆のための政治を求めて奔走している。三大勢力の垣根を壊して、ひとつの思想の代表として動いていた。考えてみれば、不思議というか、不可解ですらあった。
思い返してみれば、破天荒な道のりを歩んだひとである。ニコラ・ペルグランに憧れを抱き、両親や親族の反対を押し切って士官学校入り。適性の都合、警察隊としての配属となったが、それでも指揮官、管理職としての才覚を啓いた。社交界でシャルロットを見初め、家が定めた許嫁を捨ててでもと結ばれた。子宝には恵まれなかったものの、最近になってガブリエリを養子に迎え、すぐに家督を譲った。
人生、面白く生きなければ、面白くならない。自身がいつも言っている通りの人生を歩んできた。それはとても羨ましいことだった。
家に帰った後、ティナの訪いがあった。
「スーリが会いに来てくれた」
グリューワイン。ソファに並んで座った。どこかつらそうな面持ちで、ティナが切り出した。
「今生の別れとまではいかないけど、そういう雰囲気で、伝えに来たよ」
「そうか。お前にとっては、つらいことだろうな」
ティナが肩を預けにきた。ダンクルベールは、黙ってそれを迎え入れた。
ティナとスーリの関係については、深くは聞いていない。それでも、過去にシェラドゥルーガが教えてくれたことから、いくらかの推察ができた。
スーリ。おかあちゃんだよ。おかあちゃん、ここにいるからね。朱い肌のスーリ。お前のおかげで、おかあちゃんたち、助かったんだから。お前、本当に偉かったよ。ありがとうね。おかあちゃん、待ってるからね。
あの時、シェラドゥルーガは涙を流しながら、スーリにそう告げていた。
ヴァーヌ聖教に焼かれ、塗りつぶされた歴史のひとつひとつ。そのなかの、かつて引き裂かれ、そしてようやく出会えたもの。母と子。土着の神と、それを崇めるもの。
ティナの記憶と、スーリの血の中にこそ、この島の本当の歴史は刻まれていたのだろう。
そうして出会えたものが、別れなければならない。それを考えると、ひどくつらいものが押し寄せてきた。
「戻ってくると言ったのだろう?」
「うん」
「なら、信じなさい。おかあちゃんなら、そうしなさい。俺はリリィとキティに、そうしてきたのだから」
「そうだね。そうする」
ひとすじこぼしながら、ティナはそう言った。
ティナを寝かせてから、ダンクルベールは居間でひとり、考え込んでいた。
スーリがスーリでなくなる。その意味は、わかりかねた。ましてそれが頭目と何の関係があるのだろうか。
頭目が邪なことを考えているのを、スーリが食い止めようとしているのか。あるいはその逆か。
「これで最後、か」
そうして、紙巻に火を灯そうとしたあたりだった。
気付いた。いる。正面。
「スーリ、いや」
気配が違った。
「誰だ?お前」
ダンクルベールの言葉から、しばらくの間があった。
「俺だよ、旦那」
スーリの格好をしたそれは、若い男の声で答えた。
まさか、メタモーフ。
「安心しな。旦那がたが勘ぐっていたようなことは、していない」
「となれば、お前たちが宰相閣下を殺したわけではないと」
「ああ」
それが紙切れ一枚、寄こしてきた。内容は、ある程度の予想はできたとはいえ、いくらか驚きが強いものだった。
「ならば、これは何の酔狂だね?」
「俺も、随分老いた。もう立ち上がることもできないほど。だから、“鼠”に俺になってもらった。すべて、ちゃんと種も仕掛けもある話さ」
「そうか、お前は老いていたのか」
「あれから三十年ってやつだ。俺はそれ以前から動いていたしね」
「そうか。そうだったよな」
「勿論、おいらはちゃんと生きてるよ」
スーリの声色。笑ったようだった。それで、気持ちはいくらか楽になった。
メタモーフ、あるいはシェイプシフター。顔も名前もない怪盗であり、義賊というより為政者の側面を持った、異能のもの。
「スーリに託したとなれば、まだ、お前としてのやることが残っているのかね?」
「世直し、ひとつ」
「何をする?」
「マレンツィオ閣下」
「やはり、“緩やかな革命”では無理があったか」
「皆、先に進みたがっている。“緩やかな革命”では遅すぎるらしい」
「老いも若きも、貴賤も問わず、か」
燻らせた紫煙。その向こうで、輪郭は頷いた。
“緩やかな革命”は、その名前の通り、世代を跨ぐほどの時間を掛けて実現されるものだった。その反面、それを推進するマレンツィオはダンクルベールと同じく既に老境であり、また民衆の人気を集めすぎていた。
マレンツィオの生命という細い綱。それをおっかなびっくり渡るよりなら、さっさと済ませてしまいたいとでも思ってしまうのだろう。あるいは別の手段をとるなりと。
そのたびに振り回されるのは、気分のいい話ではない。
意を決して、輪郭と目を合わせた。
「俺にも一枚、噛ませろ」
「旦那、なにを?」
「よからぬことを企んでいる連中を炙り出し、十把一絡げに叩きのめす。そのためなら、俺も修羅になろう」
口笛が鳴った。
「何度も巻き込まれた。ならば今回は、こちらから攻め入る」
「セルヴァン閣下の策を使うかね?」
「ああ。あいつのとっておきだ。あれに関しては、マレンツィオ閣下も承知している」
「なるほど。こりゃあ、いいお祭り騒ぎになるぜ」
「それと」
灰皿に、紙巻を押し付けながら。
「ティナの前では、スーリでいておくれ。あれが悲しむ」
「わかった。それは、おいらもそう思ってたんだ」
からりと、スーリの声で答えてくれた。
「しかし、お前が死んだか。もうそんな時間が経ったとはな」
「もうしばらく、厄介になるよ」
「約束は、生命ひとつ分だっただろう?」
「そうだね。だからここからは、俺の自由意志だ。たまたま、旦那とおんなじ方向を向いていて、そして旦那の考えていることのほうが面白そうだってだけさ」
「けったいなやつだ」
グラスふたつと、緑の瓶。持ってきて、掛け直した。
「まずは付き合え。お前への弔いだ」
酌をしてやる。それは不敵な笑みで、グラスの酒を一息に飲み干した。
「ありがたい話だよ。いつだって大事にして下さる」
「持て余していただけだよ。今でもそうだ」
そうやってふたり、笑った。
8.
警察隊本部庁舎の本部長官執務室から、椅子ひとつ盗まれたとのことだった。
メタモーフが再出現したことについて、マスメディアは大騒ぎだった。その相手がダンクルベールであったこと、そしてその席が奪われたというのも、三十数年前の意趣返しを含めて話題になっていた。
「ティナさんのおうちからも、ストーブの五徳が盗まれたんですって」
行きつけのカフェのひとつ。シャルロットが楽しそうに笑った。かつてのボドリエール夫人とあれば、こちらも意趣返しだろう。
久々にシャルロットとふたり、デートに出かけていた。メタモーフ出現、スーリの失踪、カゾーランの暗殺と、周囲が逼迫した雰囲気が続いていたので、マレンツィオとしては、いい気晴らしにもなっていた。
スーリは警察隊本部に戻ってきたという。ひょっこり、という感じだったらしく、それぞれに大目玉を食らったらしい。当人はどこ吹く風というのが、あの小男らしかった。
「ここのところばたついていたから、お前とのデートも久しぶりだね」
「本当に。お仕事がお忙しいようで、何よりですわ。人間、呼ばれるうちが花ですもの」
「まったくそれだ。諸々がなければ、今頃は物寂しい暮らしが待っていたことだろうよ」
シャルロットに酌をしてやりながら、マレンツィオは気分良く笑った。
護衛の数は減らしてもらっていた。民衆に、周囲の者の不安を悟られたくなかったというのが一番にある。
“緩やかな革命”。まだまだはじまったばかり。とはいえ、歳で言えば白秋を越えた爺になった。本来、こういうものは、若者が率先して旗を振るべきものだからと、若手議員に後を譲ろうとしているのだが、うまくいっていない。人は育つように育つと思い、放っておいたのが仇に出たようだ。ここだけは、目標を定めて人材を育てていくダンクルベールに倣うべきだったか。
うまく進まないのは、百も承知で引き受けた。
はじまりは、本当に小さな声からだった。それを拾い上げ、そういう意見もあると広げてみたところ、思った以上に賛同が得られた。そのうちに代表のようなものになることとなり、マレンツィオがいなければうまく進まなくなってしまった。
第三監獄の暗闘やニコラ・ペルグラン追放、ヴァーヌ正教会の自壊などを経ても、山岳派の急進的な考えや、保守的な貴族たちへの対応など、やるべきことは山ほどにある。
ひとつひとつ、ゆっくりと事を成す。そう決めたからには、急がず焦らずである。
カフェを離れてからしばらくして、男ひとり、近づいてきた。
「マレンツィオ閣下にひとつ、お尋ねしたき議がございます」
どこぞの大学の学生のようである。最近、政治に興味を持ったと見えて、多分に鼻息が荒い。
シャルロットにひとつ目配せをしてから、男に向き直った。そうして、シャルロットが二歩ほど後ろに離れた。
「宰相、カゾーラン閣下が身罷られた。次の宰相は、マレンツィオ閣下と噂されております」
「噂は、噂だ」
「ならないと?」
「非才の身でこれ以上は望まん。それに、国民議会議長という、民衆に近い立場でなければ、“緩やかな革命”は推し進められん」
「“緩やかな革命”では遅すぎる。閣下が宰相に昇り、王室を排し、閣下を国家元首とした民主主義国家を」
「それでは血が流れるぞ」
「必要な犠牲です」
「自分のものでない血は、そう言えるものだ」
葉巻に火を灯しながら、マレンツィオはそう答えた。
「ユィズランド連邦は性急過ぎた。そのために、国体が変わってからも血が流れた。ひと世代分の血を流してもまだ止まらん。君はそれを、犠牲のひと言で片付けられるかね?」
「悪習は倣わず、美徳のみを倣うべき。それなら」
「俺にそれができるとは限らんよ」
「あるいは宰相閣下、暗殺との話も」
「それならば、いっそう昇るべきではなかろう。自分が犯人だと言っているようなものだ。そして君は小人を国の長たるものにしようとしていることとなる」
男が唇を噛む。その様子に、マレンツィオはつとめて微笑んだ。
「若人よ、まずは天晴。その上で、了見を広めたまえ。君の言うことは正解のひとつだが、それが必ずしも最適解とは限らんのだ」
言葉に、俯いていた男の顔が上がる。
目が、血走っていた。何度も見た、いやなものだった。
「残念です」
短刀、ひと振り。
来たか。遂に、こういう輩が。
過激な民衆。マレンツィオはこれを何より警戒していた。諸勢力の刺客より無軌道無規律で、手に負えない。
シャルロットを庇うように、身を出した。それで、民衆の中からいくつかの影が出てくる。護衛。しかし、遅い。このままでは一撃は貰うことになる。
構うこたあねえ。狙いが俺なら、やっつけちまえばいいだけだ。体は肥えたから、包丁の一本二本、受け止めてぶん殴るぐらい、できるはずだ。
来る。鈍い光。大ぶりの刃物。
男の足取り。若干、ぶれた。
違う。俺じゃない。
「シャルロット」
振り返る。いた。もうひとり。
必死に、覆いかぶさろうとした。シャルロットの、呆気にとられたような顔。
「あなたっ」
声と同じぐらいか。腰に、何かがぶち当たった。奥歯が軋む。
まとわりついたものを振り解こうとしたが、そのまま、崩折れてしまった。
「ほれ見ろ」
男たちは、地面に押し付けられていた。
「どうせ、こうなるんだ。何が“緩やかな革命”だ。革命には、流血が必要だろうが」
「こいつ。無駄口を叩くな」
「やめよ」
喝。まだ、それぐらいの余裕はあった。
「放してやれ」
「しかし、閣下」
「構わん。放せ。彼らもまた、大切な国民のひとりだ」
マレンツィオの言葉に、護衛たちが離れた。石畳の上で、男たちは立ち上がる気力を失っているようだった。
マレンツィオも、立ち上がろうとした。だが、足が言うことを聞かない。そのうちに、どさりと寝そべってしまった。
何だよ。デブのくせに、これぐれえでやられちまうのか。情けねえな。
「あなた、あなた」
「ああ、愛しいお前。よかった。お前が無事で」
「いいえ。あなた、あなたが」
「大丈夫だ」
シャルロットの顔。ぼろぼろと涙をこぼしていた。それを手で拭いながら、マレンツィオは言葉を続けた。
「お前をようやく、守れた」
つとめて、笑ってみせたつもりだった。
少しだけ、眠くなった。そうしてまどろみの中、ぼうっとしていた。
これでおしまい。まあ、上手くできた方じゃねえかな。孫の顔も拝めたことだし。この辺りで勘弁してくれよ、父上、母上。
周りの騒がしさに苛立ちを覚えた頃、視界がはっきりしてきた。顔が三つ。ムッシュ・ラポワントと秘書官のカスタニエ。あとは知らない男だった。
体は、動いていなかった。
「マレンツィオ閣下。お気を確かに」
「おお、ラポワント先生。俺は、どうだね?死にそうか?」
「今しばらく、死にそうになられておられました。心も体も。そうして今、心だけが蘇っております」
「はは、遺言を残せってかね。面倒だな」
自然と、笑っていた。
体に感じるのは、冷たさばかりだった。顔を覆ったままのシャルロットの体も、どうしてか冷たい。
「カスタニエ」
「はっ」
「シャルロットを、頼んだ」
「身を挺して」
「そして、お前自身のことも」
それだけで、カスタニエも俯いたようだった。
無機質な男だった。それでも言葉を重ねるうち、普通の人間と変わらないくらい、感情が前に出るようになった。
これもまた、ひとりの子どものようなものだった。
知らない男の方に目を動かした。体の大きな男だった。
「君は、誰だね?」
「ピエリックと申します。閣下のお体を、安全なところに動かしました」
「そうかね、ありがとう」
「閣下。我々は立ち上がります。閣下のお命と志を奪った理不尽と戦うために」
「やめなさい。血が、流れることとなるぞ」
「いいえ。やめません。閣下の志は、我々が引き継ぎます。閣下の思い描いた理想の国家のため、我々は立ち上がります」
「そうか。ならば、親愛なる友がらよ」
力が、少しだけ残っている気がした。それを使って、ピエリックのほうに向き直る。
左手は、シャルロットの肩に回したまま。右手が空いている。それを、ピエリックの方に差し出した。大きな掌が、それを包んでくる。
まったく。最後に見る顔が、母親でもシャルロットでもなく、こんなむさいおやじの顔かい。へへ。まあ、俺らしくっていいじゃないか。
さてと。それじゃあ、ひとつ格好をつけて、終わりにしようかね。
「もし君たちが立ち上がり、能く事を成し、王陛下の御前に見えることが叶ったならば、不肖、マレンツィオより言伝ありと、こう、お伝えあれかし」
言いながら声も視界も、霞んできた。ひどく眠たい。
ああ、あともうちょっと。あともうちょっとだからな。がんばれよ、俺。
「ざまあみやがれってんだ」
よし、言えた。はい、お疲れ様でした。
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民主共和制の父、フェデリーゴ・マレンツィオ。
警察隊本部捜査一課課長として、オーブリー・ダンクルベールを世に輩出した後は、貴族院議員を経て国民議会議長に就任。国民の声の代弁者として名声を博した。
魁偉な容貌ながら感情豊かな快男児であり、また格別な愛妻家としても知られた人情の人。その人となりは多くの人に愛され、そしてその死は悼まれ、惜しまれた。
人生は、面白くあらねば、面白くは生きられない。彼は口癖のように、それを言っていたという。
あるいは一種の刹那主義とも取れるその主張は、彼の生き様と、“緩やかな革命”と銘打たれた一連の民主化運動にも紐づいていたのだろう。だからこそそれは人の心を掴み、あるいは揺さぶり、離すことはなかった。
名家に産まれながらそれを頼ることなく、人と能く交わり、人を好んだ、ひとりの人間。彼はそうあることを強く望み、そして果たしてきた、信念の殉教者であった。
ひとりの人間の死。それが、ひとつの国家の死に繋がる。フェデリーゴ・マレンツィオの死は、まさしくそれを告げるものであった。
-----
(つづく)
Reference & Keyword
・三国志 / 北方謙三