終わった話
生きることに疲れたなら、酒を飲むといい。
生きることに悩んだなら、ヴァーヌの墓を暴くといい。
エルトゥールルのことわざより
1.
若者たちの闊達な議論。ダンクルベールは教壇の上から、それを眺めていた。
庁舎の一室を講義室として、犯罪捜査の講義を行っていた。若手士官だけでなく、士官学校の士官候補のうち、国家憲兵警察隊への入隊を希望しているものや、下士官の中から筋がいいものを集めて、過去の事件を教材として、講義や議論を行っているのである。
特に人気なのが、未解決事件である。このときばかりは、他の士官候補や他部署の人間、どこから聞きつけたのか、犯罪捜査に興味のある探偵やらもが集まってくる。皆、あのダンクルベールのお殿さまでも解決できなかった事件とは如何なるものかと、鼻息を荒くして来るのだ。
自分が士官候補だった頃、警察隊や司法警察局などは、正直に人気のない部署だった。いわゆるニコラ・ペルグラン世代であるので、大体皆、海軍を選ぶのである。
ガンズビュール直後は一時的に志願数は増えたものの、そのほとんどが自分にふるい落とされた後は、楽をしたいなら国家憲兵警察隊本部だけは選ぶなとまで言われるほど、人気が落ち込んでいた。その時は悔しい思いをしたものだった。だから捜査とあわせて、部下の育成にも熱を入れていた。
風向きが変わったのは、ダンクルベールが勲功爵を授与し、その後、ウルソレイ・ソコシュでペルグランが活躍したあたりだろうか。平時でも功績昇進ができること。あるいは貧しい出でも活躍さえすれば騎士爵や勲功爵を得ることができる。つまりは、自身の実力を発揮するのに最適な部署だという認識が広まったのだろう。
また、求める人材が“唯、才のみ”という、コンスタンからの習いにより、他部署よりも女性職員が多いことも浸透してきた。捜査一課課長ビアトリクスや、正規軍人となった聖アンリなど、女性でも活躍できる場であることが知れ渡ってきた。
アンリやムッシュのおかげで、軍医志望者や修道女、看護婦からの転職組も、志願者が増えてきている。司法解剖に関する認知も深まり、大学病院でも教材にするようになったと聞いた。
今年も、本部だけで五名もの新任少尉を迎えている。支部も合わせれば、かなりの数が入隊していた。
いい雰囲気になっている。国家憲兵警察隊が、憧れの対象になってきている。セルヴァンとふたり、人を呼び、招き入れ、育てる仕組みを試行錯誤した甲斐があったものだ。
「ようやく、思い描いた組織像になったようね」
先ごろ、士官学校の特別理事に選ばれたエチエンヌが、講義の様子を見に来てくれていた。ガンズビュールの頃は、ダンクルベール個人の精神面でのケアもしてくれた、現場における後方支援のスペシャリストである。
「そうだね。おかげさまで、おたがい、爺と婆になってから大身になっちまったものだから、毎日が大変だろうさ。アニー」
「家で暇を持て余すより、よっぽどいいわよ、オーブリー。あなたも大佐さまだとか霹靂卿だとか言われながら、椅子に座るだけの仕事なんて、まっぴらごめんでしょうから」
「はは。まったくだ。いつだって忙しいほうが性分に合っているってものさ。おかげで毎日、充実しているよ」
「奥さまもできたから、余計にそうでしょうね」
悪戯っぽく、エチエンヌが笑った。その顔に、思わずきょとんとしてしまった。
「言ってたっけか?」
「こないだ挨拶しに来たわよ、ご本人。生きてるのも、住処が襲われてたのも知ってたし、別段、驚かなかったけど」
「そうか、ならよかった。まあ、あの通りだから、仲良くしてやってくれ。まだまだ友だちが少なくて、人恋しいらしいからね」
言いながら、頭を捻ってみる。
ティナとエチエンヌ。接点は、ガンズビュールの時ぐらいである。それ以降は、確かに生きているのは把握しているぐらいで、現場と後方支援という関係から、第三監獄にはまったく足を運んでいない。ビアトリクスが二課課長になるぐらいにエチエンヌが退役しているので、やはり面識はあってないようなものだ。
それでも社交的で人の扱いに長けたエチエンヌのことであるから、人間離れしたティナであれ、受け入れてくれることだろう。家庭面でもしっかり者同士、世間話の話題には事欠かないだろうし。
「次の教材は、ユルヴィル一家、およびリュシドール一家の殺人事件。いわゆる“十八番街の絞殺魔”事件である」
ひとしきりの議論が終わった後、次の教材を発表した途端、おお、と声が上がった。これもまた印象深い、未解決の事案である。
「双方、手口は同じ。手足を拘束され、頭に麻袋を被せられた状態で絞殺。それも、時間を掛けて殺されていた」
説明を続けていく。生徒からは間を置く事に挙手、質問が相次いだ。
「現在の一課課長、ビアトリクス少佐が新人時代のころの事件だ。証拠なし、目撃情報なし。俺も未だに犯人像が掴めていない。それぐらい難しいぞ。では討論、はじめ」
言った途端、生徒たちがわっと集まった。いくつかの輪になって、我先にと意見を出していく。
当時は大々的に報道されたし、迷宮入り判断が下った後でも、書籍や創作の題材になるぐらい、知名度の高い事件である。
ダンクルベールが捜査に参加したのは、二件目のリュシドール一家殺しあたりからだった。本当に難しい事件で、当時、シェラドゥルーガだったティナにも頑張ってもらったが、結局は何も手がかりがなく、迷宮入りしてしまった。今でもウトマンやティナなどと振り返るほど、悔しい思いをした事件である。
「盛り上がっているみたいだな」
低く落ち着いた声。
その人が入室した時、喚声と拍手が上がった。司法警察局局長、セルヴァンである。
「おお、貴様。今日は大事ないか」
「心配するなよ。たまにこうやって、散歩がてらでも歩かないと、余計に大事になっちまうからな。ああ、エチエンヌ君も久しぶりだね」
「閣下、お久しゅうございます。さあ、こちらにお掛けになってください」
セルヴァンは身体を悪くしてから、自分と同じように杖つきになり、流した髪にもいくらか白が差したが、その佇まいからは悼ましさは感じなかった。
「これを見に来た。これが本当に、見たくてな」
「よく見ておくれ。これが、俺と貴様で築いたものだ」
「ああ。それにしても、“十八番街の絞殺魔”とはまた、懐かしいな。ついつい、感慨に耽ってしまいそうになる」
「おいおい、よしてくれよ。俺からすれば、悔しい思いをした話なのだから」
「終わった話をこうやって、若人に振り返らせることができる。老人が出す教材としては、ちょうどいいものさ」
エチエンヌの用意した椅子に腰掛けながら、屈託のない笑みを浮かべていた。
「いいものになったな。私たちの国家憲兵司法警察局、そして国家憲兵警察隊というものは」
「ようやく、ここまで来た。これからウトマンとヴィルピンが、マギーとアルシェが、そしてルイソンとガブリエリが、これをもっと大きくしていく」
「人は育てなければ育たん、か。そうして育った。なかなかどうして、名捜査官と名伯楽は両立するものだな」
「おっと。素直に褒めるとは、珍しいな」
「もとから閣下は素直な人でしょう、オーブリー。もしくは、あなたとは好敵手でもあったのかしらね」
「エチエンヌ君、大当たりだ。私はこれに嫉妬と憧憬ばかり抱いていたからね。だからこそ、意地になって背中を支えているのさ」
「あらあら。男の嫉妬ってのも、なかなか見ごたえがあっていいものですわね」
そうして三人、笑っていた。その様子も皆、爛々とした瞳で見ていた。
議論が熱を帯びはじめたあたりだろうか。不意に、訪いがあった。
一課課長、ビアトリクスである。
「課長」
ビアトリクスが、その呼び方をした。大事なことがあるときのくせである。
「殺し、一件。発見者の証言から、おそらく“十八番街の絞殺魔”と同じ手口。これから現場検証です」
言われて、きっと固まっていた。講義室のどよめきで、我に返っていたと思う。
「ダンクルベール」
見やる。セルヴァン。その瞳は、これまでのセルヴァンのものと変わりなかった。
おたがい、拳を合わせる。それで、伝わった。
「よし。シャルチエとマルクリーを中心に、過去の未解決を洗わせてくれ。今回や過去の二件以外にも同様の殺しがあるかもしれない。手口は違うが、同一の犯行もありうる。スーリ、アンリ、ルイソン、ティナを現場に。可能であれば、ウトマンも欲しい。ガブリエリも歩かせておこう」
傍らに掛けていた油合羽を羽織った。
「俺も出るぞ」
ダンクルベールのひと言で、ざわめきが喚声に変わった。
あの頃から、色々と変わった。特に人材が豊富になった。証拠探しも、聞き込みも、そして見立てもできる人間が育った。
終わった話が、今また動き出す。そして今なら、たどり着けるかもしれない。
「それでは私は、フランたちを指揮します」
「頼んだぞ、マギー」
「講義は私に任せろ、ダンクルベール。もう一度やり直せる、またとない機会だぞ」
「すまんな、セルヴァン。せっかく来てくれたというのに」
「なあに、いつものことさ」
そうやって、セルヴァンもエチエンヌも笑っていた。だから、笑い返した。
廊下で、ペルグランとティナが待っていた。ティナの瞳は、すでに朱く煌々と輝いていた。
「思わぬ仇敵との再戦だね、アディル。いや」
眼鏡を取る。
「我が愛しき人」
それこそは、朱き瞳のシェラドゥルーガ。
「そうだな、ティナ。そして、シェラドゥルーガ」
「親父たちがたどり着けなかった案件。腕が鳴ります」
「頼みにしているぞ、ルイソン。お前をはじめとして、人が育った今なら、あるいは」
三人、目線をあわせて頷いた。
現場。セニエという四人家族。たしかに全員、麻袋を被せられ、拘束されて死んでいた。
あの時と同じだ。およそ十五年の時を経て、“十八番街の絞殺魔”が戻ってきた。
「来てくれたな、ウトマン」
“百貨店”ことウトマン。穏やかな目が、火を吹いている。
「私は、燃えています。十五年前のリベンジマッチができるんですからね」
「現場で見るウトマン君もかっこいいねえ。今では“二号店”もいるから、存分に燃えておくれよ」
軽口ひとつ、ティナがペルグランの背を叩いた。なんでもそつなく以上にこなす、新旧副官の揃い踏みである。
視界の片隅。小さな体が、ちょこんと丸まっていた。クララックである。
「“ジェーンと虫眼鏡”は、何か見つけたか?」
「いいえ。今のところはまだ、何も」
「証拠がないというのも、ひとつの証拠だ。続けよう」
ダンクルベールが促すと、おかっぱ頭のクララックは、また床に這いつくばった。
“ジェーンと虫眼鏡”。それが彼女の渾名である。証拠探しに対して誰よりも熱心であり、実績も十分以上に出してくれていた。大好きな推理小説の探偵のように、こうやって地面にへばりついて証拠を探すのである。
デッサンの命名であるが、“虫眼鏡のジェーン”でないところに、小説の題のような諧謔みがあって面白い。
しかし全体を見ていけば、何となく違和感を覚えていた。
「アディル、何か思いついたのかい?」
「別の人間に思える。これを見せる観客が違うというか、目的が異なる」
思いついたことを、一旦、言葉に出してみた。
「記憶が正しければ、あの時の長官は、見せしめと仰ってました。つまりは制裁でしょうか」
「だとすると、模倣犯」
手帳に鉛筆を走らせながら、ペルグランが声を上げた。思ったことを、思ったままに。出し終わったら整理整頓。それが、ペルグランの見立てのやり方だった。
「十五年。それで、殺しの手口は十分に解析できる。解析できるのは、プロ。殺しのプロとなれば、殺し屋」
「つまりは、顧客がいるってこったな」
真っ黒な目で、スーリが続いた。
「あえて未解決の“十八番街の絞殺魔”を模した。これ自体が、ひとつのメッセージだ」
遺体のひとつ。握りしめられた拳を、スーリが解いた。何かを握りしめている。
「軍の階級章かな?」
「陸軍大尉。衣服の切れ端なし。爪に争った痕跡なし。“十八番街の絞殺魔”は証拠を残さないから、あえて握らせた。何かのヒントにはなりうるけれど、ミスリードの可能性が高い」
ペルグランはそこまで続けて、手帳を閉じた。
「挑戦状。叩きつける先は、親父やウトマン局次。もっと大きく、国家憲兵隊と捉えてもいいでしょう。俺たちの、顧客に対する態度に、何らかの変化が生じている」
「犯人そのものの意志じゃなく、顧客の意志か。俺たちの変化は、何かあるかな?」
「組織構造でしょうか」
続いたのはデッサンだった。素描を何枚も仕立てながら、眉間に皺を寄せている。
「例えば悪党。理解の強い長官が表に出なくなりました。ヴィルピン次長やマギー監督では厳しすぎるのかもしれません。それに、ジスカールの親分さんが巡礼のために首都近郊を空けたままにしているのも、不安材料になっているのかも」
言われた言葉に、素直に頷いた。現場をともにすることの多いペルグランに触発されたのか、この頃はこうやって自分の意見を臆することなく具申できるようになっている。
ジスカールが首都から離れていた。カトーに裏の実権を渡すにあたり、国内の悪党を見て回り、不安要素がないかを自らで確かめているのだ。
「次長であるカトーに対し、不平不満があるのかもしれんな。カトーは信用一番の商売をするとはいえ、力関係の調整の仕方は、ジスカールとはまるで異なる」
「つまりは裏社会の玉座に用事がある。あの任侠さんやカトーさんに抑圧されていたか、見捨てられた。そして陸軍、いや国防軍の階級章」
ティナの美貌が、いやなものを見るような表情に崩れた。ペルグランも、何かを察したようだ。
「ペルグラン君。我々には心当たりがあるね」
つまりはヴァーヌ聖教会。カトー経由でペルグラン一族を陰謀に加担させた張本人である。
「聖職者なら苦しませないはずだ。アンリ、検案を頼む」
それを察したウトマンに促され、アンリが遺体をあらためていく。
「はっきりとした索溝。ひと息にどん、です。時間はかけていない。もしかしたら頚椎に損傷が見られるかも」
「遺体を動かしてみよう。ジェーン、犯行現場がここかどうかを確かめておくれ」
「遺体はそのままで。先に梁を見ます」
言って、クララックが立ち上がった。
「カトーさんが追ってくれますかね?」
「マギーを含めてで相談してみよう」
まとめに入ったあたり、クララックの声が上がった。梁に、縄の痕跡があったようだ。
犯行現場はこの家でよさそうだ。
「模倣犯。かつ、おそらくは複数人数。それもヴァーヌ聖教会が関わっている可能性がある」
庁舎に戻り、執務室にビアトリクスを呼んだ。過去の事案洗いは、一旦止めている。
「カトーが何か、掴んでいるかもしれん。あるいは関わっている」
「あの人の太客ですものね。明かしてくれるでしょうか?」
「お前と俺とでの、今までの信用で」
「あるいは、吐かせるしかない」
凛々しい顔が、難しく歪んだ。
カトーが聖教会とつながりがあるのは、昔から把握していた。その上で、ダンクルベールの密偵たる“足”として取り入れ、その後に独立した際、ビアトリクスに付けていた。カトーとしては、あくまでいち顧客のつもりだろうが、向こうはきっと、家臣か何かだと捉えていることだろう。
太客ひとつ、捨てさせられるか。駆け引きが必要になってくる。
そのあたりで不意に、執務室前が騒がしくなった。
「突然の訪い、失礼する」
見たことがある顔が二名。それと、あまり記憶にない顔。
「国防軍憲兵隊総局局長、大佐。バルテレミーと申します」
痩躯の、それでも挑みかかってくるような目の男。国防軍憲兵隊といえば、軍内部の犯罪に関する警察機能である。
「本日、そちらで現場検証を行った、セニエ一家殺害事案について、国防軍憲兵隊へ情報提供をすることで、国家憲兵総監閣下が決定を下した。現段階で作成しているもので結構なので、成果物の提出を願う」
「ほう。それはまた、急ですな。可能であれば経緯の説明を願いたい」
「承った。これも可能であれば、内密に願いたい」
促し、三名が卓に座る。
司法警察局のボンフィスと、国家憲兵総監。総監はすでに、青くなって震えていた。
「ウトマンに散々、怒られたと見えますな、総監閣下」
ダンクルベールの呆れた言葉に、総監はただ頷くことしかできていなかった。
「現場の同意を求めずして決定を下した。やる気十分だっただけに、ウトマン次長は怒髪天を衝く勢いですよ」
「確かに、いただけない話ですからな。余所の管轄が絡む話であれば、上なり下なりに同意、ないしは同席を仰ぐべきでしょうに」
「すまない、ダンクルベール。私にも立場というものが」
「守る以外に使い所がない立場なんぞ、ただの足枷です。とっとと捨てちまいなさい」
ボンフィスが吐き捨てるように言った。それで総監は、また小さくなった。
咳払い、ひとつ。それでバルテレミーがはじめる。
「陸軍大尉。階級章紛失を追求したところ、犯行を自供した」
言われた言葉に、ダンクルベールもビアトリクスも、顔をしかめていた。
「それであれば、その将校を我々に引き渡すのが筋ではないでしょうか?ここまでは、一般的な刑事事件の範疇である認識です」
「ここまでは、な」
ビアトリクスの言葉に、バルテレミーは些か困ったような顔をした。
「未解決事件の主犯たる“十八番街の絞殺魔”が、長らく軍内部にいた。これを今、世間に公表すれば、国防軍の信用は完全に失墜する。先のニコラ・ペルグラン追放騒動で、我々はもはや、崖っぷちに立たされているのだ」
「確かに。身から出た錆、と一蹴するには、些か規模が大きすぎますな。そして国防軍だけでなく、行政、司法の警察機能を司る国家憲兵隊の信用にも響くと」
「もっといやな言い方をしよう。軍全体で犯行を隠蔽していた。世間にそう、捉えられかねない」
そう言ったバルテレミーの顔には、明らかに脂が浮いてきていた。
「“十八番街の絞殺魔”事件の捜査には、ダンクルベール大佐、およびビアトリクス少佐も参加していたことは知っている。両名の信用にも響くか、あるいは、もっとひどい事態が置きうる可能性もある」
「可能性の話ですが、どんなことでしょう?」
「現場の奮戦を蔑ろにし、保身に走った上層部を一掃し、ダンクルベール大佐を重役登用すべし。例えば、国家憲兵総監」
言われて、自分でもわかるほどに、いやな顔をした。
国家憲兵総監、オーブリー・ダンクルベール。考えうる限り、最悪の人員配置である。
「確かに、御免被りますな。貧しい出自の老人が、セルヴァン局長閣下を差し置いて国家憲兵総監の椅子に座るなぞ、政治的混乱を招くだけです」
「貴官の前で言うのは無礼なのは承知の上、その通りなのだ。貴官にとっても、そして各勢力にとっても、それは非常に危険な状況でしかない。そして今の国家に、その声を押し留めるほどの力はない。それを避けるために、こちらの軍法会議というかたちで事案を処理したい」
「そしてそれを、総監閣下は、誰の同意も得ずに許可したわけですな?」
ダンクルベールの言葉に、総監の体がびくりと跳ね上がった。
「こうやって経緯を知れば、責める道理はありません。責める気力もね」
「こちらも、そういった責任問題に終始したくない。もとより終わった話だ。さっさと終わらせて、平和な毎日に戻りたいだけなのだ。そのあたりはご理解いただけるだろうか?」
「承知した。よろしいかな?マギー」
「政治の話にまでなると、私は門外漢です。決定に従います」
興味なさげに、ビアトリクスは頷いた。
「しからば。かまえて、国家憲兵総監閣下に言上仕る」
ひとつだけ、懸念事項があったので、ダンクルベールはあえて声を大きくした。
「ウトマンに一発、ぶん殴られておいて下さい」
言葉に、総監は口元と腹を抑えて、がたがたと震えだした。
「ダンクルベール長官」
ボンフィスだった。笑顔である。
「もう、もらいました。鳩尾に、とびっきりのを」
「おお、そうだったか」
「本官も必死で抑えた。ウトマン局次のことは聞いていたが、あれほどおっかないとは思わなんだ」
「それはそれは、お手数をおかけしました。あれは怒ると止まりませんからなあ」
ダンクルベールは思わずで笑っていた。
いわゆる、ごめんで済むなら警察は要らない、というやつである。細身の外見からは想像しにくいが、気性の根っこは荒々しい。一度怒れば最後、血を見るまでは収まらないほどであった。
新任少尉の頃、ほぼはじめての案件でそれを見せつけられたのが鮮明に残っているのだろう。今もそうだが、ビアトリクスはこの話題になると、顔が真っ青になる。
「ところで、バルテレミー局長」
三人、退室間際。
「セニエ一家殺害事案の手口が“十八番街の絞殺魔”と同一であることは、どこから知りましたかな?」
それだけ、気になっていた。
バルテレミー。考え込む様子も、焦る様子もない。
「犯人の自供だ。それをこれから、貴官らの資料で確認する」
「左様でしたか。それであれば」
「言っておくが、本官も今回の件、何か裏があると思っている。今の今更、未解決事件の犯人が再度犯行を犯し、しかもそれを自供するなど、不自然にもほどがある」
振り向いた。眼。嘘は、言っていない。
「身の回りにひとり、増えるはずです。我々との連絡係ですので、もしよろしければ使って下さい」
「かたじけない。それでは」
そう言って三人、出ていった。
紙巻を咥えた。続くようにして、ビアトリクスもそうした。
「きな臭くなってきましたね」
「アルシェとガブリエリを用意しよう。それとマギー。カトーと会えるかね?」
「ヴァーヌ聖教会ですか?」
「ああ。ジスカールを呼び戻す」
紫煙の燻りでも、怒りは鎮まらなかった。
それから二日して、手紙一通、届いた。届けに来たのは、カトーだった。
「くれぐれも内密に、とのことだ。だから俺自身が、まずはおやっさんに渡しに来た」
神妙な表情。差出人には、アルドワンとだけ書かれていた。
怪しいものを感じながら、封を開けた。内容は一文のみ。それも、俄に信じがたいものだった。
俺じゃない、とだけ、綴られていた。
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霹靂卿、オーブリー・ダンクルベール。
現在まで続く犯罪捜査の基礎を築き上げた、褐色の巨才。
貧しい出自ながら、ほぼ功績昇進で大佐まで昇り詰めた稀代の捜査官であり、またサミュエル・ウトマンやガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキ、そしてルイソン・ペルグランといった輝かしい歴々を輩出した教育者でもある。
民衆からは“商売繁盛の守護聖人”、“ダンクルベールのお殿さま”と敬われた一方で、貴族階級からは出自から疎まれ、軽んじられてきた。それでもジルベール・セルヴァンやフェデリーゴ・マレンツィオ、そしてパトリシア・ドゥ・ボドリエールなどの理解者に恵まれたため、多くの活躍を残してきた。
霹靂とは、闇を裂く光であり、沈黙を破る音である。類稀な才覚と叡智を以て、数々の苦難を切り拓いてきた、まさしく稲光と雷鳴の如き英雄。
しかし稲妻がそうであるように、英雄もまた、そこにあるだけで不安をもたらす凶兆である。
治世の英傑。その末路を予想できたものは、当時、どれだけいたのであろうか。
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2.
ヴァーヌ聖教は、そのはじまりからそうであったように、争いから利を産み出してきた。
この国は、楽園だった。特に豪商が発言権を増した当たりから、政争が耐えない構図になったのが大きい。そこでこぼれるなり、血腥い戦火から逃れるなりするものたちを庇護し、取り込み、搾取していく。
宗教が宗教たり得てさえいれば、自ずから利は産まれる。
利を御するのに、悪党をも用いてきた。先代の悪入道リシュリュー。そしてその二代目、ジスカール。性質は異なるが、裏社会の基盤を整え、力関係を調整することができる才覚があった。現在の次長であるカトーもまた謀略家の類であり、争いを産むのは上手だった。
あるいは聖アンリ。この二十年で、最も大きな収穫である。戦乱の中に生きた修道女。傷を負い、傷を癒やし続けた、生ける聖人。口さがない言い方をすれば、絶好の広告塔である。
それが変わってしまったのは、ダンクルベール、ルイソン・ペルグラン、そしてマレンツィオの存在だった。
ダンクルベールは貧民の出であるからか、悪党への理解が強かった。尖兵として使っていたはずの悪党を懐柔された。“商売繁盛の守護聖人”などと渾名されているが、その活躍は、ヴァーヌ聖教をもり立てる要因には成り得なかった。
ルイソン・ペルグラン。ヴァルハリアの国威高揚のため、ニコラ・ペルグランを生贄にしようと思っていた。結果、怪物を産み出しただけに終わってしまった。
嵐の申し子。その機嫌を損ねれば、更地にされる。
そしてマレンツィオ。国民の声の代弁者にして、緩やかな革命の代行者。ユィズランド連邦で勃興した民主共和制を、時間を掛けて実現しようという姿勢は、ヴァーヌ聖教としては脅威だった。
ヴァーヌ聖教とはその実、権威と権力のための宗教である。それが民衆と同一になれば、存在意義が失われてしまう。搾取する民衆と同一になるという矛盾を孕めば、この構造は自ずと瓦解してしまう。
権威と権力。生き残るために、それを得なければならない。ヴァーヌが王たる国家を作らなければ、穏やかに滅びるしか道はない。それが、大司教であるフォーコンプレが導き出した結論であった。
ただし、急いてはいけない。ゆっくりと時間を掛けて、他を腐らせる。信頼を失墜させ、構造を堕落させる。そうして唯一、清く見えるものでさえあれば、誰もがヴァーヌ聖教に付いてくるであろう。
まずは軍部。潜入させた工作員に過去の未解決事件の模倣を行わせ、民衆の不安を煽る。またこれを国家憲兵警察隊以外の警察機能に解決させることで、双方の信用を損なわせる。
ダンクルベールとルイソン・ペルグランという英雄たちは、民衆に祀られて、上の立場に導かれるだろう。もっと政治に近い部分にと。
武人を戦場から引き離す。政治の舞台では、武人はうまく立ち回れないだろう。
「ロンデックスは、軍に潜り込んだのだろう?」
カトーを呼び寄せていた。“十八番街の絞殺魔”の模倣犯であるロンデックスを軍に忍び込ませていたのだが、それからの動きが見えなかった。
「国防軍憲兵隊にも聡いやつがいてね。さっさと隠しちまったようだ」
「ふん。ならば二の矢を放つまでだ」
「逃げるなら今のうちだと、言ったはずだが」
声色には、諦観と失望が乗っていた。
「逃げ場などない。戦い、勝つより他はない」
「さいでっか」
もはや興味なさげに、カトーは卓の上に足を放り投げた。
「悪いが、俺はいち抜けさせてもらうぜ」
「何だと?」
「ご本家さまがご憤慨でね。このままじゃあ、他の仕事にも支障をきたすおそれがある」
「まさか、教皇猊下が?」
「そっちじゃないんだよなあ」
紫煙。くゆらせながら、カトーは小馬鹿にしたように綴った。
「まあ、せいぜい弁明することだな。そうじゃなきゃあ、あんたらの生命じゃ足りない勘定を請求される羽目になるぜ」
それだけを言い残して、カトーは去っていった。
言われたことの意味は、わかりかねた。
没薬を含んだ。香りが、胸騒ぎを落ち着ける。
異変は、次の日に発生した。“十八番街の絞殺魔”と同様の手口の殺人が、また発生したというのである。
「ロンデックスは、確かに捕まっておるのだよな?」
「確かに国防軍憲兵隊に捕まっており、犯行を自白しています」
「なら、なぜ“十八番街の絞殺魔”と同様の手口の殺人が発生する?次は別の事案を模倣する計画だろう」
「現在、調査中です」
「急いてくれよ。他の勢力が勘付いて、乗じているかもしれん」
苛立ちがきっと、声に乗っていたと思う。
何かが起きている。澱んだものをかき回した結果、いらないものを呼び寄せたのかも知れない。
没薬。含んだ。頭蓋の広がる感覚。
一旦、見に入るほうがいいのかもしれない。
3.
ロンデックスは釈放した。
“十八番街の絞殺魔”と同様の手口の殺人が、また発生した。現場では国家憲兵警察隊と国防軍憲兵隊で衝突がおこり、大混乱に陥った。
バルテレミーは、軍務尚書(大臣)づてに内務尚書ラフォルジュに対し、捜査を国家憲兵警察隊に一任する旨を連絡した。犯人を自称する男が手元にいるというのに事案が発生した。つまりは、ロンデックスは虚言癖の馬鹿者というだけになる。
となれば、一般的な刑事事件として取り扱うべきだという判断するのが妥当だった。
ダンクルベールから、司法解剖に同席して欲しい旨を依頼された。その場で作戦会議でもするつもりだろう。
司法解剖室。しっかりとした設えだった。中央に、夫婦の遺体。医務員が三名と、ダンクルベールやセルヴァン、オダンに他何人かがいた。
「よし、そろそろいいぞ」
ダンクルベールがそう、遺体に向けて言った。
死んだ顔の遺体ふたつ、むくりと起き上がった。頭の片隅にそれを予想していたので、そこまでの驚きはなかった。
「そういう手駒がいる、というのは便利だな」
「いやあ、生命がいくつあったって足りないよ。ちゃんと殺されなきゃいけないからね」
男の方が、首元をさすりながら、うんざりしたような声を上げた。そうやって、外に出ていく。
女の方。起き上がり、ダンクルベールから頬にベーゼを貰っていた。上機嫌そうに、その隣に並ぶ。それにだけ、バルテレミーは些か驚いていた。
「“十八番街の絞殺魔”事案を、我ら国家憲兵警察隊の管轄に戻すための茶番です。事前の打ち合わせなしで、申し訳ありませんでした」
「構わない。こちらも一般的な刑事事件など、持て余していたからな」
「釈放したロンデックスなる男は、私の“妹”が監視しています」
典雅な声の美丈夫だった。
「警察隊本部、中尉。特別治安維持対策室室長、ガブリエリと申します」
「何と。ガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキ殿か」
「一介の中尉に過ぎませんので、お気遣いなく。バルテレミー局長」
そうやって、にっこりと。
「今回の一件、お渡しした調書には書いておりませんが、おそらくはヴァーヌ聖教会が関わっています」
小柄な女性。額には物々しい向こう傷。おそらくは、あの聖アンリである。
遺体ひとつ、運んできた。セニエ一家殺害事案のうちの、犠牲者のひとりである。
渡された調書に書ききれていないところを、説明してくれるようだった。
「十数年前の殺しは見せしめ。だから、苦しませて殺している。ただ今回のは首吊り。一息にどん。時間をかけた窒息ではなく、頸髄損傷が死因です。現場の梁には、縄をかけた跡も発見できています」
「模倣犯というわけか。ロンデックスひとりで四人、順に首を掛けていくのは、結構な手間だろう」
「通常の絞首刑でもそうですが、死人ひとりにつき複数名を付けるのが安全です。ですので複数人での犯行と見るべきですな」
恰幅のよい偉丈夫。こちらはおそらく、かの高名なムッシュ・ラポワントと見るべきだろう。
「拘束されていますが、その割に抵抗が少ない。吐瀉物や腹の中身から、薬物も見つかっています。陶酔に近い状態で、殺されている」
「薬物だと?」
「芥子や、それに類するものでしょう。いずれにしろ非合法のものだ」
寝ぼけ眼の仏頂面が、淡々と述べた。
「裏から相当量の違法薬物が、ヴァーヌ聖教会に流れている。高位の僧が神通力を得るためとかいって、常用している。法とは関係なく、慣習として、そういうことをしている」
矮躯の、それでも洒脱な格好の男。国家憲兵ではない。
「ヴァーヌ聖教会。そして目的は、政争絡みか」
「はい。それも、カトーが掴んできてくれました」
矮躯の男が、軽くだけ会釈をした。顔の効く悪党、もしくは裏の情報屋か。
「バルテレミー局長が危惧していたとおり、本官を警察隊から切り離し、政治的混乱をもたらすのが目的のようです。あるいはこのルイソンも標的かと」
促され、若武者がぺこりと頭を下げた。
ルイソン。つまりはルイソン・ペルグランである。
「この場に、本官を呼んだ意図を聞きたい」
思わずで、本音を言っていた。
「バルテレミー局長を味方につけたい。それだけです」
「しかし、これからは一般的な刑事事件だ。本官はこれ以上、関わることができない」
「椅子ひとつ、用意してある。国家憲兵総監だ」
セルヴァンの言葉に、きっと呆けていた。
「私が体を悪くした後でも、ウトマンたちのおかげで、司法警察局、ないし各地の警察隊は滞りなく運営できている。しかし、こういった陰謀まがいの事案に対しては、視野が広く、政治に明るい人間が、やはりひとりは欲しかったところでな」
「しかし、なぜ国家憲兵総監なのですか?セルヴァン閣下の下で働くならともかく、閣下よりも上の立場になります」
「貴官がそれだけの力量を有しているのがひとつ。現在の総監閣下にそれまでの力量がないのがひとつだ」
目を、見据えられた。病人のそれではない、力強い眼差しだった。
「ロンデックスが自供した際の判断は、まったく正しい。凡百の捜査官なら、喜び勇んで逮捕、送検だろう。それに対し、政治的観点から危険を察知し、行動に移せた。組織を守る力量と責任がある」
「それを、国家憲兵総監という役職に求めていると?」
「そうだ。その点、残念ながら総監閣下は力不足だ。所詮は家の名だけで出世してきた男だからな。それにもう、嫌気が差しているようだ。上からは詰られ、下からは疎まれているんだもの。大半は自分のせいとはいえ、いやにもなるさ」
セルヴァンの言葉に、誰も彼もが苦笑した。
「私もバルテレミー局長には、こちらに来ていただきたい」
国家憲兵法務部の部長、オダン。かつての部下でもある。
「私は法律家という立場から、ダンクルベール長官たちを守っていますが、やはりこういった政争絡みになれば、下手に手を出せなくなりますから」
「オダンまでそう言うか。いやしかし、憲兵総監ともなれば」
「大丈夫ですよ。師匠、できる人ですもの」
そう言って強面をからっと解した。
「どうか私たちとともに、この警察隊を守っていって欲しい。ようやくダンクルベールとふたりで、ここまで築き上げてこれたのだから」
セルヴァンも、席から立って頭を下げてきた。
見渡す。皆、いい面構えだ。全幅の信頼を置けることが、顔からでも伝わってくる。
これの上に立つ。それだけのものがあると、セルヴァンは言ってくれた。
「即答は、致しかねる」
ひとまず、それを。
「だが、本官にできることがあるならば、全身全霊を以て当たりたい。これは国防軍憲兵総局局長としてもそうだし、個人としてもそうだ。関わった以上は、きちんとしたかたちで終わらせて、皆で、お疲れ様でしたと、やっていきたい」
「まずはその気持だけでも十分です。バルテレミー局長」
褐色の大男。微笑みながら、やはり一礼をしてきた。
しばらくして、ペルグランが紅茶を淹れてきてくれた。こだわりはないので良し悪しはわからないが、思わずでほう、と声が出るぐらい、いい香りだった。
「セルヴァン局長閣下のお膝元ともなれば、いい茶葉も使えるものなのかね」
「局長さま。これ、茶葉は支給品なんですよ。ルイちゃんの特技。紅茶とか珈琲とか淹れるの、誰よりも上手なんです」
アンリがにっこりと微笑んで、そう言った。ペルグランは少し、恥ずかしそうだった。
「不思議でしょう?アンリはペルグラン君のお姉ちゃんを気取っているんです」
死体役の、ティナと名乗った士官。とろけるような、麗しい笑みだった。
「ダンクルベール長官とセルヴァン局長閣下の、俺、貴様は存じていたが、きょうだいも許せる風土なのかね」
「きょうだいもいますし、親子もありますぞ。長官とペルグラン大尉は、父と息子の間柄です」
「それはそれは。ペルグラン大尉には嫉妬してしまうな。可愛らしいお姉ちゃんにくわえて、立派な親父までいるんだもの」
ムッシュの言葉に、思わずで笑ってしまっていた。
「皆、羨ましがってますよ。ダンクルベールになりたい病の連中は特にね。ダンクルベールになれなかったなら、せめて家族にしてくれよって」
「まったく。貴官の世代はこじらせた連中が多いなあ。それだけの魅力が、この爺さんにあるものかね?」
「おや。一番に惚れてる人がそれを言いますか。毎日、顔を合わせているから、見慣れちまったんですかね」
オダンの冗談に、セルヴァンが笑っていた。
その穏やかな空気に当てられたのか、バルテレミーの心も和んでいた。
「本官も、ダンクルベールになりたかったものだよ」
「バルテレミー局長も、ダンクルベール世代なんですか?」
「第一世代。メタモーフの頃だよ、ペルグラン大尉。ちょうど士官学校で、進路も国防軍に決まっていた。あのボドリエール夫人の目の前で怪盗メタモーフをふん縛った、稀代の名捜査官、ダンクルベール中尉だもの。進路の決まった連中皆で、どうして警察隊を選ばなかったのかって、輪になって泣いたものさ」
笑って言った言葉に、皆が微笑んでくれていた。
「国防軍の中にも憲兵隊があるから、そこで頑張ろうぜっていうことになった。思った仕事とは違ったけど、それでもやってこれた。でも時々思うことはあるよね。とびっきりの美人の前で、悪いやつを懲らしめて、頬にベーゼを貰いたいなってさ」
「はは。気持ちは大いにわかりますぞ。男というものは、いつだって可愛いこちゃんの赤いほっぺを眺めていたい生き物ですからな」
「そういうムッシュは、ギターでお嫁さん捕まえたんでしょ。私はそういう方が好きだな」
「そうだったんですか、ムッシュ。かっこいいなあ」
「昔の話ですよ。そういうことを言い出したら、ペルグラン大尉に敵う男なんて、いなくなりますからね。祖先の築いた“ニコラ”の名なぞ海に捨て、抱きしめたるは素性卑しき姉さん女房。そんな愛する名もなき花を、包丁からも、世間の目からも守り抜いた、男の中の男ですよ」
ムッシュに言われて、ペルグランの頬が嬉しそうに赤くなった。
ふと思い返す。なぜ軍人になりたかったか。
かっこよくなりたかった。女の子たちに、きゃあきゃあと言われたかった。それだけ、上の世代にはヒーローが多かった。
その筆頭が、やはりダンクルベールだった。メタモーフ。ガンズビュール。最近で言えば、“二尊院酔蓮”に“颪”まで。
皆、ダンクルベールになりたがった。お殿さまとか、何某卿とか言われてみたい。
男なら、そういった憧れのひとつやふたつは必ずある。それに近づけるだけでも、十分に嬉しいものだ。
「俺も格好ひとつ、つけるべきかな?」
「おっ、バルテレミー師匠。もしや、お応えいただけるんですか?」
「即答は致しかねると言ったつもりだよ」
乗っかってきたオダンに、つとめて穏やかに。
ダンクルベールになりたかった。今だってそうだ。そうなれる、いい機会なのかもしれない。
そう思えるだけ、この家族の雰囲気は魅力的だった。
4.
アルドワン。本物の、“十八番街の絞殺魔”。それがカトーづてに接触を図っていることを、ダンクルベールから聞かされていた。
こちらの取調室で会えるようだった。人員は、ビアトリクス、ティナ、ペルグランとした。本当はシャルチエも含めたかったが、人物像が見えないので、危険かもしれないと判断した。
囚人、ひとり。カトーに連れられてきた。うだつの上がらない、地味で冴えない印象の、太った男だった。
「初対面の人に言うことじゃないけど」
苦笑交じり、ティナが会話をはじめた。
「とても凶悪殺人犯には見えないよね」
「殺し屋だもの。ひとごろしに見えちゃあ、よくないだろう」
「それなら仰る通り。それで、あなたが本物の“十八番街の絞殺魔”ってことでいい?」
「ああ、俺だ。ユルヴィルとリュシドール。両方とも、俺がやった」
ぼんやりとした答え方だった。見た目もそうだが、声色も頭に残らない感じである。
闇の家業をやる人間は、そう見えてはいけない。ビアトリクスは以前、スーリにそんな話を聞いていた。それでいえばこの男は、殺し屋としては正解なのだろう。あるいはそれより上の、達人のようなものなのかもしれない。
「囚人のようだけど、別件で捕まったの?」
「ああ。強盗殺人の未遂で、終身刑だよ。ジスカールさんが逃がしてくれた」
「逃がした、というのは?」
「ユルヴィルとリュシドールの殺し方がまずかった。名前が付いちまった。この商売では、名前が付くことはリスクでしかないからな」
「その名前というのが、“十八番街の絞殺魔”か」
「そういうこった」
ため息、ひとつ。
「ふたつとも堅気なのに、人の名前を勝手に使って悪どいことをしていた。俺も無用な殺しはしたくないから、再三、注意したんだがね。駄目だった。だから依頼のとおり、見せしめのようにして殺したんだよ」
「顧客の名前は、言える?」
「もう潰れちまったよ。任侠。体面に五月蝿いやつらだ。勝手に名前使われた落ち度と、度の過ぎた殺しのお陰で、ジスカールさんに叩きのめされた。俺はジスカールさんとは長くて、おたがい助け合ってたから、逃がしてくれた」
アルドワンは、ひどく疲れたようにこぼした。
生粋の任侠、ジスカールが逃がすとなれば、かなり懇意だったのだろう。あるいは殺ししか仕事がないような、よほど弱い立場だったのかもしれない。
「当時、私は、あの事件を担当していた」
「そいつは、ご勘弁でしたとしか言えないや。恨み言は、ジスカールさんに言っておいてくれ」
「わかった。ところで、ロンデックスという名前はご存知かしら?」
「弟子みたいなものかな。出来がよろしくなかったから手放した。ユルヴィルとリュシドールのちょうど後ぐらい。だから今回の件、やるとしたら、そいつだろうなと思っていた」
「犯行を自供した。しかも私たちにではなく、軍の方の憲兵に。そしてもしかしたら、ヴァーヌ聖教会にも関わっている」
“妹”から、ロンデックスが何かしらの組織と接触していることが明らかになっていた。それが、もしかしたらヴァーヌ聖教会に連なるものかもしれない。バルテレミーに対し、未だ国防軍に潜んでいたロンデックスを再勾留するようにと依頼も出していた。
「ひょっとして、“火の信徒”かい?」
アルドワンの言葉に、カトーがぴくりと動いた。
「噂程度だ。悪党の中に、ヴァーヌ聖教会と特に繋がりの強いやつがいる。違法薬物や人身売買なんか、とびきりの外道働きばかりをやっている連中だよ」
「カトーさんは、知ってる?」
「ああ。俺の前歴だよ」
事もなげに言ったひと言に、ペルグランが思わずといったかたちで、身を乗り出した。
「なに。もうほとんど関わりはない。特に今回の件についてはね」
「ペルグラン、信用しましょう」
「課長が言うのであれば、かしこまりました」
そうやって、落ち着いた。
「後悔をしている。俺がちゃんと終わらせなかったから、今回の件が起きたんじゃないかってね。それは俺の本意じゃないから、できうる限りのことをしたかった」
「気持ち以上のものを貰った。これでだいぶ、捜査が捗りそうよ。ありがとう、アルドワンさん」
「それであればよかったよ。本当に、すんませんでした」
ぺこりと、髪の薄い頭を下げてきた。
「産まれにも何にも恵まれなかった。眼の前にあるものをしのいで生きてきたなんて、とても言えない。これでいいやで生きてきちまった。ダンクルベールのお殿さまみたいに、ちゃんと努力をして生きるべきだったよ」
「あのひとは運と人にも恵まれた。それがなかったら、そちら側にいただろうと、よく言っている」
「そうだったのかい。駄目だなあ。人を羨むばっかりで終わっちまった。今になって、色んなことがしたくなって勉強しているよ。外になんか出られないのによ」
「いい心がけだね。使わなくても、知識を得るだけでも楽しいだろう?勉強とは、知識と経験という友だちを得ることだよ」
「いいこと言うね、奥さん。その通り、楽しくて仕方ないよ。わからないことがあるということが、喜びだと思えるぐらいに」
ティナの言葉に、アルドワンははじめて笑みを見せてくれた。
「今はこれぐらいかな。何かあったら、また聞いてくれ。答えられることはすべて答える。そしてどうか、俺の不始末をちゃんと終わらせてもらえると嬉しいです。このとおり、頼んました」
「承った。お勉強、頑張ってな。また会おう」
「ルイソン・ペルグランさんにそう言ってもらえるなら、ありがたいや」
立ち上がったペルグランと、しっかりと握手をしていた。
ひとりの殺し屋の、悔悟ひとつ終わらせる。それも仕事のうちである。
庁舎に手紙が投げ込まれたのは、それから三日ほど経ってからだった。
内容をあらためる前に、シャルチエがそれに飛びついた。
「これを運んできた郵便憲兵さんは、どなたですか?」
「フラン?」
「郵便運送局の受取印、微妙に違う。他のものと比べさせてください」
気色ばんだ声色だった。
他の郵便物と比べてみる。確かに、僅かながら差異が見られた。
「偽の郵便憲兵ってことか。なかなか悪知恵が働くね」
受け取ったものへの聞き取りから人相書きをおこしつつ、デッサンがごちていた。
「シャルチエ少尉もお手柄ですね。よく気付いたよ」
「なんたってフランですもの。じっくり時間をかけるのならジェーンが勝るだろうけど、瞬発力なら負けないわよ」
「対抗心、燃やさないでくださいよ」
デッサンが、そうやって笑った。
去年あたりに、犯罪鑑識室というものを発足させた。状況記録に卓越したデッサンを長として、“ジェーンと虫眼鏡”ことクララックなど、そういった能力に長けたものが五名ほど配備されている。
瞬間的なひらめきのシャルチエと、証拠から理論立てるクララック。師匠にあたるビアトリクスとデッサンとは、それぞれ異なる性質だが、いい友だちであり、いいライバルになっていて、お互いに切磋琢磨ができていた。
「スーリ。ロンデックスと接触している組織に潜り込める?」
「お安い御用。この顔を見つけ次第、戻ってくるよ」
ビアトリクスの問いに対し、スーリは瞬きひとつでいなくなった。行動が早くて助かる。
これでひとつ、決心がついた。バルテレミーのところに向かう。
「共同作戦を提案します。こちらからは、“錠前屋”と衛生救護班を出します」
「難しいところだな。こちらも一個小隊出せるとはいえ、政治の部分に懸念がある。ヴァーヌ聖教会からの密書などが見つかった場合は、どう対処する?」
「偽物ということにします」
その言葉に、バルテレミーが悪い笑みを浮かべた。
「玉座の主、悪入道ことジスカールの親分が、こちらに向かっています。密書があれば、捕まえた連中と一緒に突き出して、ヴァーヌを騙る奸賊ありとして、聖教会を恫喝できます」
「釘を刺すなら急所ってわけか。ビアトリクス少佐も、なかなかどうしてだね」
「これからもやり合う以上は、こっちが主導権を握りたい。まして狙いが長官とペルグランであれば、後手で戦う事自体が下策になります」
「了解した。そうこなくっちゃ、だね。犯罪組織としてのロンデックスたちを捕縛する。それならば、我々は後詰に回ろう。貴官に指揮を一任する。好きにやりたまえ、マギー監督」
「ご理解とご協力、感謝いたします」
たがいに笑顔で、敬礼を交わした。
向かう先は、ご存知、“錠前屋”の詰所。衛生救護班も含め、主だった面々は揃っていた。
「そろそろ、こじ開けてもらうわよ」
その言葉に、ゴフは待ってましたとばかりの笑みを浮かべた。
「犯罪組織、“火の信徒”掃討作戦。作戦総指揮は私。前線指揮はゴフ大尉。後方支援指揮はリュリ中尉。構成員は今後の交渉のためにも、極力生かしておくこと。スーリ中尉が巣穴から戻り次第、作戦開始」
見やる。全員、決意の表情。
「ビアトリクス少佐殿」
声を上げたのは、ティナ。瞳に、朱が差しはじめる。
「勝手ながら、前線への参加を希望します」
舞う火の粉。それこそは、朱き瞳のシェラドゥルーガ。
「復讐など無益だということはわかっている。しかし、かつて愛した、あのこたちの無念。そして、第三監獄で私が受けた屈辱。これを忘れるわけにはいかない」
その朱は、悲しみを帯びて震えていた。
「誰ひとり殺しはしない。それは、必ず守る」
「それであれば、オーベリソン曹長」
「御前に」
「私が言うべきことは何もない。曹長とともに行動すること」
それだけ、告げた。
ビアトリクスとしては、このひとたちのことは、話程度にしか知らない。かつて根付いていたもの。そしてヴァーヌ聖教に滅ぼされたもの。
棄てられた神性と、汚された戦士の誇り。過去との決別のための復讐と定めているならば、たがいに進めるだろう。
「ティナさん。そして、かつてのシェラドゥルーガさま。我らが愛娘アンリと、我らが過去のため、ともにヴァーヌの悪しきを戒めましょうぞ」
「ありがとう、オーベリソン殿。ともに、火の汚れを清めましょう。これからのヴァーヌと、これからの私たちのために」
見事な所作の敬礼。
そして、そのふたりの間。ひとり、小柄な聖女。
「ごめんよ、アンリ。私たちの我儘を赦しておくれ」
「お父さん、そしてティナさん。ふたりに、この国のヴァーヌ聖教の在り方を託します」
「神たる父、御使たるミュザ。双角王と、お前の名に誓って。必ずや」
三人、ひしと手を取り合って。
「よし。皆、びしばし行くわよ」
おう、と声が重なった。
5.
突入命令。
ヴァーヌ聖教会。中弛みした三つ巴の政争をかき乱して影響力を増そうとか、そういったぐらいの魂胆だろうが、警察隊本部を標的にしたことが最大級のどじだということを、懇切丁寧に教えてやらなければならない。
「よお。ご存知、“錠前屋”のお出ましだ。邪魔するんなら、こじ開けるぜ?」
真正面から殴り込み、ゴフはお決まりの決め台詞をぶちかました。実のところ、正調での口上は久しぶりである。
「我ら、ヴァーヌ聖教会の“火の信徒”と知ってのことか」
「おっと、自己紹介ありがとよ。ちょうどお前さんがたに用事があって来たんだよ。あとはまあ、わかるよな?」
その言葉の返答は、上段からの馬上刀だった。受け止めようと、とんかちを構える。
「よくも」
馬上刀は、来なかった。
「よくも、ヴァーヌ」
ゴフの眼の前。女、ひとり。素手で馬上刀を受け止めていた。
手のひらからは、血の一滴すら流れていない。
「私はお前たちの死ではない。お前たちは罪人として死ぬ。民衆の前で首を括られ、石を投げられて死ぬのだ」
「朱き瞳。まさか、その朱き瞳は」
「そうだ。私は、シェラドゥルーガだ」
女の体が戦慄きはじめた。掴んだ馬上刀が、みしみしと音を立てている。
「朱き瞳の、シェラドゥルーガだっ」
咆哮。もはや人のそれではない。
朱と黒のドレスが、人の群れに飛び込んだ。
悲鳴。絶叫。ただ痛みのみが飛び交う。引き裂いた部分が瞬く間に塞がり、血を流すことすら許されない。
ちょっとした“悪戯”にしては、度が過ぎている。
「うへえ、おっかねえ」
こちらに逃げてくる連中をとんかちで片付けながら、思わずこぼしていた。
ファーティナ・リュリこと、お化けのシェラドゥルーガ。本人たっての希望で前線参加である。我らがアンリとは懇意も懇意だが、ヴァーヌ聖教会そのものには、思うところ以上のものがあるようだった。
「ヴァーヌよ、ヴァルハリアよ。最果てより、北の魔物が帰ってきたぞっ」
続いて飛び込んだのは、“南蛮北魔”の“北魔”の方ことオーベリソン。長柄の斧が、並み居る男どもを吹き飛ばしていく。
この日のためにと刃を潰しているが、それでも鉄の塊をぶっつけられれば、人間の体なんかひとたまりもないだろう。
しばらくもしないうちに、大勢が怯みだした。出口に殺到する。
そこに立ちはだかるひとつの影。それに手を伸ばしたものを投げ飛ばし、すっと両手を広げた。
「この傷に見え、その名を呼ぶのなら。然り、とのみ答えよう」
その象徴。袈裟に走った、向こう傷。
「我こそは、聖アンリなるぞっ」
男ども。聖女の大喝に気圧された。
足を止めた連中の横合いから、一個分隊が殴り込む。殺傷力の低い警棒などが主兵装ではあるものの、どいつもこいつも容赦なく振り下ろしているので、悲鳴が耐えない。
男ひとり。痩躯の隊員の前で膝をついていた。降参だとか投降だとか、そんな言葉が聞こえてくる。
「ごめんで済むなら警察は要らねえんだよっ」
警棒がへし折れるぐらいの一撃が、脳天に突き刺さっていた。
本日の特別ゲスト、司法警察局次長ウトマンである。“十八番街の絞殺魔”に対するリベンジに燃えていたのをふいにされたとあって、その激憤たるや凄まじく、どこからか出動の話を聞きつけて無理やり参戦と相成った次第だ。
数々の危険な現場や悪党の巣窟にも果敢に乗り込んでいった歴戦の猛者であるから、多少のブランクなんてわけもないのだろう。ご覧の通り、現役の“錠前屋”隊員たちを差し置いて、飛んだり跳ねたりの大活躍である。
「みんな、大はしゃぎだねえ」
へたばった男どもをふん縛りながら、ルキエが呆れたように声を上げた。
「歴史の授業がいかに大事かっていう、生きた見本だと思うことにしようぜ」
「うちに家系図はなかったはずだけどさ。もしかしたらそちら側の血なのかもしれないかと思うと、考えさせられるどころじゃないもんね」
言われて、確かに、となった。
頭の悪いゴフではあるが、歴史は生き残ったものが書き記すということぐらいは心得ている。つまりはこの国の歴史というものは、ヴァーヌ聖教、ないしヴァルハリアの都合のいいように書かれており、それに追いやられた連中のことは、悪しざまに書かれているか、もっとひどい場合は、書き残されていなかったりすることもある。
シェラドゥルーガやオーべリソンは、書き残されていない側の歴史をたどってきたものたちだった。泥に塗れ、同朋を喪い、ただ恨みつらみだけを耕してきた、悲しい血族。
復讐ではなく、先へ進むための、ヴァーヌとの確執を捨てるための戦い。だからこそ、アンリはそれを許したのかもしれない。
「ゴフ坊、足りんっ。あと五百は持って来いっ」
ひとしきりをなぎ倒し終わったあと、憤怒の形相でシェラドゥルーガが噛みついてきた。
「まあまあ。無茶は言わんことですよ。一応は、いち犯罪組織なんですから。いい運動ぐらいに留めときましょうや」
「ああくそ、もどかしい。今までの鬱憤がようやく晴らせるとあって張り切っていたのに。ひとりぐらいは骨のあるやつがいてほしかったんだがな」
そこまで言ったぐらいだった。
シェラドゥルーガの腹から、細身の剣身が突き出ていた。
「骨のあるやつ、ご所望のようだね」
引き抜かれる。同時に、シェラドゥルーガの、熊のようなひっかき。外れる。
男の影、ひとつ。
「“火の信徒”が第一の臣、参る」
しっかりとした拵えの細剣と、左手にマントの端。どことなく闘牛士を思わせる佇まい。
「お化けとオーベリソンはここまで。こっからは、俺の出番だ」
「ふん。手こずるようであれば、横から奪い取るぞ」
「どうぞ、ご勝手に」
呆れながらも、ゴフはとんかちを仕舞い、馬上刀を抜いた。
秘密結社の第一の臣と名乗るならば、相当な腕前だろう。
突き。流しながらも、胸甲で受ける。どれほどの腕前だろうが、曲面加工の効いた胸甲までは貫けないはずだ。流された剣先が、腕や首に跳んでいかないことだけ、注意すればいい。
胴が効かないとなれば、相手の構えは必然的に、上段になる。
しかしマントがある。瞬間的に視界を遮られた後、あの音速の突きが飛んでくる。
胸甲で守られた胴以外は、思った以上に急所だらけだ。腕や腿の太い血管。首。目に眉間と、狙われたらまずい部分に対し、真っ直線で飛び込んでくるのをいかにさばくかが、細剣とやり合う時の最重要事項だと言っていい。
最短距離で来る点の攻撃。とんかちでは、相手の間合いになりすぎる。馬上刀でいなしながら、なんとか相手を狙おうとするも、うまくいかない。
そうこうしているうちに、鋭いはたき落としを貰って、馬上刀を落っことしてしまった。
とんかち。間に合うか。
来る。切っ先。左肩に、入った。
貰った。
とんかちを、男に向かって放り投げた。細剣の柄から手が離れる。そこから一気に詰め寄った。
拳。届いた。顔面に、思いっきり入る。
倒れ込む体に飛び込んだ。馬乗り。男の左手に、短剣。それを突き出す前に、顔面に拳を振り下ろした。男の体が跳ねる。
そうやって何度か拳をぶちかましているうちに、大の字になって動かなくなった。
「やるじゃん、ゴフ坊」
シェラドゥルーガが微笑みながら近づいてきた。
口に、ハンカチーフを噛まされた。左肩に刺さったままの細剣に、手が伸びる。
「ちょっと痛む。ごめんよ」
言われて、身構えた。
一気に引き抜く。痛み。叫ぶほどではない。
そのあと、傷口にアンリの指が伸びてきた。
「大きな血管に傷はなし。腱も無事。傷口を縫えば、すぐに治ります。どうか、我慢を」
ひたむきな目と、向こう傷。これを頼ってきた。
笑顔で、頷くだけ。その間には、すでに縫合は済んでいる。そこら辺は、流石の聖アンリだった。
「終わったようね」
乗り込んできたのは、我らが名監督、ビアトリクスである。
「楽勝も楽勝だね。名誉の負傷も貰えたし、ご存知、“錠前屋”としては万々歳の戦果だぜ」
「その傷ひとつで、何万字の武勇伝ができあがるか。これからの見ものでさあな」
オーベリソンの軽口で、皆が綻んだ。
捕まえた連中の縄をあらためていく中で、ひとりがひときわにもがきはじめた。
「我ら、“火の信徒”。神たる父と、御使たるミュザに誓って」
ひとりの縄が、解けた。胸元から、何かを取り出す。
擲弾。
「伏せろっ」
それだけ叫んで、隣りにいたアンリに覆いかぶさったはずだった。
何かが爆ぜる音は、聞こえなかった。ひとつ、悲鳴が上がっただけである。
見やる。スーリ。男の、擲弾を持った手を斬り飛ばしていた。宙を舞った擲弾は、シェラドゥルーガの手の中に。
「抵抗したやつは、何でしたっけ?」
「生死問わず」
「あいさ」
真っ黒い目で、スーリが何かをした。それで、それは斃れた。
シェラドゥルーガ。手の中の擲弾。握りつぶした。爆発せず、砂のようになって、さらさらと砕けた。
「お手柄だね、我が愛しき、朱い肌のスーリ」
「かあちゃんも、お手柄やんね」
ぱちんと、おたがいの手のひらをぶっつけて。
「やれやれ。化け物だらけで、うちの立つ瀬がないっての」
腕の中、にこにこ笑うアンリに向かって、ゴフは毒づくぐらいしかやることがなかった。
6.
没薬の道が絶たれた。“火の信徒”の壊滅により、それに関わるものすべてが、崩落していた。
フォーコンプレは、ただ震えていた。
侮っていた。事件解決だけではなく、我々の実行部隊までをも相手取り、壊滅させうるまでとは。
これが国家憲兵警察隊。これがダンクルベールとルイソン・ペルグラン。
ひとまず司教たちと、主だった司祭を集め、今後の方針を話し合うことにした。“火の信徒”の再編と、没薬の道の再興。これだけでも、早く済まさなければ。
本国に悟られれば、地位どころか生命すら危ない。
「かまえて言上仕る」
威容、としか表現できない、巨躯の司祭。居並ぶものたちの前で、ずいと前に出た。
悪入道リシュリューⅡ世、ジスカールである。
「昨今の“十八番街の絞殺魔”事件にヴァーヌ聖教会が関わっているという、穏やかならざる風説あり」
やはり、出してきた。ここまではまだ、耐えられる。
「ジスカール殿」
「大司教の御前でございますぞ」
「御前ならばこそ」
「噂に惑わされてはなりません」
ざわめきが大きくなったあたり、ジスカールがひとつ、封書を取り出した。
その封印が見えて、フォーコンプレは思わず固まっていた。
「“火の信徒”なるものたち」
それで、しんと静まり返ってしまった。
ジスカールが指を鳴らす。
何名かが、縄を打たれたものを引き連れて現れた。連れてきたものたちは全員、油合羽を羽織っていた。
顔を見て、固まった。ロンデックスたちである。轡を噛まされていた。
「これなるは、違法薬物の密売組織でありながら、ヴァーヌの名を騙る不届き者にございます。そしてまた、これらが、かような密書を握っていたがゆえ、本日、このように罷り越した次第にございます」
「私は、存ぜぬ」
「手前はもとより、猊下を疑ってはおりません。しかしこの密書、偽物にしては精巧がすぎる」
従者伝いに、それを手渡された。
本物だった。ロンデックスに宛てたものである。
「知友である警察隊本部長官、ダンクルベール殿に依頼し、筆跡鑑定も行いました。猊下の筆跡と完全に一致しているとのことです。内容はともあれ、書面の最後には猊下の署名とご聖印、そして封には炎の冠が用いられております。これらは猊下にしか用いることのできぬものであるはずです。本当に精巧な、偽物です」
「言う通りじゃ。これは、偽物じゃ」
「ご発言、真のものでございますね?」
じろりと、その目がこちらを見据えてきた。
もう一通、渡された。きっと青い顔になった。
「しからばこちらも、偽物でお間違いないでしょうな?」
およそ二年前、カトーに渡した、第三監獄襲撃に関する密書だった。
「かつて第三監獄に、死んでいるはずのボドリエール夫人が生きて収監されている。第三者経由で、それを軍総帥部に伝えております。これについては、すでに司法警察局が本物と見做して捜査を開始している様子です」
「知らぬ。軍総帥部も、ボドリエール夫人も」
「ならば君側の奸これあり。猊下を騙り、民心を脅かし、邪毒を以て利を恣にする不心得者が潜んでおります」
へたり込みそうになった膝を、内心で叱りつけた。
誰かを、生贄に捧げなければならない。しかし何も喋れぬまま、時が過ぎた。
おもむろにジスカールが、懐から何かを取り出した。
短刀、ひと振り。司教のひとりに掴みかかり、それを喉元に突きつけた。
「知りませぬ。恐れながら、大司教猊下ご本人の密書かと」
「猊下は知らぬと仰せだ」
「私では、私ではない」
「私にございますっ」
従者のひとり。震えながら、声を上げた。
「私めが、独断で」
「詳しくは、本部庁舎にて聞こう」
油合羽のひとりが、その体に縄を打った。
ジスカールはそうしてまた、一礼。そして、踵を返した。
「つきましては、これらが真であった場合ですが」
退室間際に。
「この落とし前、御身で足りる勘定だとは思わぬことです」
ジスカールが、それだけを言い残した。
出ていったあと、フォーコンプレはその場でへたり込んでいた。
終わりだ。何もかも。どこかで、何かを間違えた。
カトーの言う通り、逃げるべきだった。触れえざるものに、触れるべきではなかったのだ。
よろよろとした足取りで、私室に戻ろうとした。
ふと、人影。女。朱と黒のドレス。
そして、朱い瞳。
「じゃあん」
悪魔のような笑み。
まさか。
「こないだ不完全燃焼だったから、ちょっと発散しに、ね」
手には肉切り包丁、一振り。
見渡す。長い廊下。誰もいない。
逃げ場は、ない。
叫んでいた。叫んで、走っていた。
何かにぶつかって、よろめいた。
見やる。女。また、叫んでいた。
「大丈夫。死なない程度にやるから。ただまあ、死ぬ思いはしてもらうよ?」
左腕、掴まれる。振り上げられる包丁。やめろ。
振り下ろされた。絶叫。痛みが、迸る。
転げ回った。痛い。左腕が、焼けるように。
「よぉくご覧?ちゃんと大丈夫だろう?」
せせら笑う声に、左腕を見やった。
付いている。切り落とされていない。衣服にも、血も傷もない。
ほっとしていた。そして次の瞬間、恐ろしいことに考えが至ってしまった。
これを、延々と。
髪を掴まれる。持ち上げられて、首元に、刃物の感覚。
「死なない」
首を刎ねられた。刎ねられたはずだった。その分の痛みがある。
でも、生きている。
「死なない」
今度は、両足。叫んでいた。でも、血の一滴も出ていない。
「死ななぁい」
腹。ずぶずぶと、刃の感覚。はらわたを、引きずり出される感覚。それもすべて、感覚だけ。
やめろ。やめてくれ。殺しながら生かさないでくれ。すべての罪を懺悔する。すべての咎を精算する。だから、だからやめてくれ。
「私が、何をした?」
叫びまくって、枯れた声。それで、漏らした。
「お前が、ヴァーヌだからだ」
また、首。感覚だけ。首だけになった感覚。にたにたと笑って、女は目を合わせてきた。
煌々と輝く朱。
「私とこの島からすべてを奪い、塗りつぶした。私が私であることを罪と見做し、それを詰るようなことをした。私の可愛いアンリを唆し、戦場に駆り立て、傷を負わせた。よくも、ヴァーヌ。よくも、ミュザ」
頭蓋を割られる。脳漿をかき混ぜられる。眼球を引きずり出され、顎を砕かれる。
それもすべて、感覚だけ。
「火が灯されるより、遥か前からここにあり。記憶の闇から蘇る。実在しない過去が、観測し得ない存在が。すべての事実と真実に対する反証として、ここにある」
ぶち斬られ、断ち割られ、踏み潰され、引き千切られる。
その痛みだけが、体と心に刻み込まれる。叫ぶ喉に、自身のはらわたを詰め込まれ。耳と鼻をゆっくりと削がれていく。
「シェラドゥルーガは、生きている。お前の心の中で、恐怖となって生き続ける」
そのひと言に、ひときわ叫んでいた。
「大司教。フォーコンプレ猊下」
誰かの声。それで、視界が変わった。
見渡す。従者たち。寝台に寝かされているようだった。
「何が、起きた?」
「猊下は、倒れられました。ジスカール殿がお帰りになられた後、すぐにその場に。御心を乱されたのでしょう」
水を、差し出された。飲む。ちゃんと、水の感覚。
生きている。しっかりとした意識の中で。
「没薬を。精神を、統一する」
それだけ告げた。
フォーコンプレは、寝台に身を預けた。
あれは、夢だった。きっとそうだ。そうに違いない。体にも心にも、痛みは残っていない。
しかし記憶には、感覚には、それが残っている。それが恐ろしかった。
運ばれてきた没薬。香りが、和らぎをもたらした。神に通じる薬。
これで、悪夢を忘れられる。
「と、思うじゃん?」
不意に、そう聞こえた気がした。
従者たちの顔。笑っていた。釣り上がった口角。
全員、シェラドゥルーガの顔で。
聞こえたのは、自分の悲鳴だった。
7.
ヴァーヌ聖教会は、混乱の只中にあった。
大司教フォーコンプレが狂乱し、複数名を殺傷した。没薬と称された違法薬物の使用が認められたため、現在、隔離病棟にて勾留中である。
フォーコンプレの身代わりになった従者は、アルシェの拷問ですべてを明らかにした。密書が本物であること。“火の信徒”という、裏の実行部隊が存在すること。それが違法薬物の売買や、この度のセニエ一家殺害事件にも関わっていることを。
それらはすべて、表に出すことはしなかった。
実行部隊たる“火の信徒”は、フォーコンプレの密書を捏造し、各種犯罪に手を染めた奸賊として、まとめて首を括られた。違法薬物の経路については、ジスカールの方で追いかけ、順々に叩き潰していっている。
我が国のヴァーヌ聖教会は、今後、大司教を定めず、司教たちの合議制で運営していくそうだ。現状、国家憲兵隊に対しては従順であり、何かをしようという気配は見えなかった。
終わった話を蒸し返し、神経を逆撫でる。賢しげなことをやってくれたものだと思った反面、こちらの成長を見くびられたものだと、いくらかの憤慨があった。
今、国家憲兵警察隊本部とは、もはやダンクルベールではない。ウトマンとヴィルピンがいて、ビアトリクスやアルシェがいて、ペルグランたちがいる。たとえダンクルベールがどうにもできないことであっても、他のものが手を取り合って、解決できるだけの力がある。
それだけのものになるよう、努力を重ねてきた。
処刑広場の控室で、ダンクルベールはひとりの男と正対していた。アルドワンだった。
「お前はこれで、いいのかね?」
「ああ。終わった話を、ちゃんと終わらせる。助けてくれたジスカールさんには悪いけど、過去は過去にしなくちゃ、今回みたいに、いらないものを残しちまうからさ」
そういって、朗らかに笑っていた。
アルドワンはあのあと、自分こそが“十八番街の絞殺魔”であることを自白した。あらためて再逮捕、起訴、裁判が行われ、絞首刑が決まった。
「俺自身が何より、向いてなかった。仕事のたび、後悔ばかりが残される。心を病むところまではいかなかったにしろ、終わった話を終わらせることができなかった。だからこれで、おしまい。清々しい気分だよ」
「うちにも、もと暗殺者がいる。奴隷でもあったらしい。生きるためには殺すしかないからと、必死になって殺したらしいよ」
「そいつは大変だな。比べちまえば、俺は中途半端だよ。なんだかんだ、食えてたもの。やりたくねえなって、殺すべき相手をこっそり逃がしたりしてたし」
「はは。優しいやつだな、お前」
「面倒くさがりなだけだよ。だって殺しって、大変じゃんか。お殿さまも何人かは経験してるだろうけどさ。本当に必死にならないと、人なんか殺せないよ」
機嫌よさそうに、アルドワンは話していた。
いろいろな話をした。こうなりたかったという将来のこと。そのために獄中で色々な学問を学んだこと。その、学ぶという事自体が楽しいということに気づいたこと。
雄弁で、熱心な男だった。目標があって、それに対して前向きに生きている。そこにたどり着くのに、ほんの少しだけ時間がかかってしまっただけ。たったそれだけの男。
そして、自身の過去と向き合い、罪を精算することを選べる、立派な人間。
「アルドワン。そして、“十八番街の絞殺魔”。出会いに、感謝を」
刑務官がアルドワンを迎えに来た時、ダンクルベールは手枷をされたその手を、しっかりと握った。アルドワンはその時でも、晴れやかに微笑んでいた。
「確かに、それが一番しっくりくるね。でも俺は、あんたの手柄になれなかった。それだけは、すんませんでした」
「構うことはない。じゃあ、達者でな」
「ありがとう。本当に、世話になりました」
そうやって、連れて行かれた。
“十八番街の絞殺魔”事件、これでおしまい。寂しくもあり、清々しくもあった。
庁舎の講義室に戻ると、活気が溢れていた。今日もまた、教材は未解決事件である。
「どうだ?マギー。教師というのも、なかなか面白いだろう」
「ええ。でも、今日のは教材が教材です。何しろ名前が多くて」
美貌をうんざりしたようにしかめながら、ビアトリクスがごちてきた。
今回の教材にも、名前がある。“プリュデルマシェの蟷螂女”。およそ七十年前の連続殺人犯である。
プリュデルマシェ地方を中心に、全国各地に偽名を使いながら犯行を続けた。また彼女には、通常の連続殺人犯とは異なり、自身と関係のある人間を獲物にし続けたという、特異性があった。
「ポネット夫人とルニエ夫人、ジルロン夫人は同一人物と見てよろしいでしょう。ジロドー夫人とドーバントン夫人も、手口は異なりますが、時期から見て同一人物。ですがデルピエール夫人は」
「待って待って、フラン。そこまで行くと口頭説明だけでは理解できない。黒板を使いましょう」
「もう、書くところがないです。一旦、消さないと」
「はは。熱心で大変よろしい。それにしても、随分と絞り込めてきているな」
「同一の手口による犯行で逮捕されていた、ルイーズ・セルペットの発見が突破口でした」
赤い顔のシャルチエが、鼻息を粗くしながらまくし立てた。
気が弱いのが心配所だが、一度ひらめいたら止まらない。これを論理立てたものにすれば、あるいはダンクルベールになれるかもしれないという逸材だった。
まっさらにした黒板が、シャルチエの説明だけで、また真っ白になっていく。皆、それを壮観なものを見るようにして、食い入っていた。
「シャルチエ少尉。ちょっと待った」
説明に熱がこもるシャルチエを遮ったのは、バルテレミーだった。
あの後、あらためて総監の席を打診したが、まずは国家憲兵副総監の席で体を慣らすことで同意を得た。国家憲兵少将としての栄転である。
「ルイーズ・セルペットの服役時期と、オービニエ夫人の犯行時期は同時期だ。アリバイという、基本のところを疎かにしてはいけないよ」
「申し訳ありません。副総監閣下」
「なに。まだ話は終わっていないよ。本題はここからだ」
しゅんとしてしまったシャルチエに対し、バルテレミーはつとめて穏やかに微笑んでいた。
「視点を変えれば、それ以外は素晴らしいということだ。発想は大胆であれ、それでも理にかなっている。そしてこの膨大な情報量をちゃんと処理しきれていて、説明の声量も表現にも問題がない。これは生半にできることではないことだよ」
バルテレミーの褒め言葉に、周囲がおお、となった。言われたシャルチエも、嬉しさと気恥ずかしさからか、頬の赤みがより増した。
「ビアトリクス課長の言葉を借りるなら、君は十分にフランになりつつある。じゃあ、それの芯を太くしよう。そのためにも、才覚だけでなく、基本に忠実である姿勢が大切だ。例えばアイデア三つに対し、一度の振り返りを行うなどをしてご覧?そうやって、自分のミスに気付くことができれば、君はフランとして、もっと大きくなれる。そうやってフランになり、マギーを経て、ダンクルベールという山の頂を目指していこう。ここまで、よろしいか」
「はいっ、ご指導ありがとうございます。副総監閣下」
「よろしい。さあ、続けてくれたまえ」
バルテレミーが促すと、シャルチエの顔が、ぱあっと明るくなった。そうしてまた、黒板に向かう。
「副総監閣下も、お上手ですな」
「言った通り、俺もダンクルベールになりたかったひとりだからね。同じ夢を追う後進は、いくらでも後押ししてやりたいものだよ」
「お言葉ですが、いくらか褒めすぎな気もします」
「バルテレミー師匠は褒め上手、おだて上手でしてね。人をその気にさせるのが上手いんですよ。私もそうやって育ててもらったもんです」
「懐かしいね、オダン。俺は褒める方が得意なだけさ。なに。人は育てれば育つものだよ。俺が飴で、ビアトリクス少佐が鞭ということで、役割分担と行こうよ」
「まあ、そういうことであれば。私も褒めないこともないですけどね?」
綻んだ顔と穏やかな眼差しのままで、バルテレミーがビアトリクスを言いくるめた。
人は育たなければ、育たない。それがダンクルベールの持論であった。バルテレミーのそれとは、ちょっとしたニュアンスの違いだろう。そのニュアンスの違いが、合うもの、合わないものがいるはずだ。自分やビアトリクスの教育で伸びないものは、バルテレミーに任せれば伸びるかもしれない。
はじめて出会った時のバルテレミーの視線を思い出す。挑みかかるような眼。あれは憧れのダンクルベールに、喧嘩を売るような事をするのだという、緊張の現れだったのかもしれない。
朗らかな、褒め上手の教育家。それがバルテレミーというひとの人となり。隣に座るオダンの師匠ともあり、性格もだいぶんに近しいので、接していて気楽な部分が大きかった。
シャルチエ。褒められたのが嬉しかったのか、気弱さの感じられない、はきはきとした口調になっていた。説明にも一層、熱が入っている。
褒めたら伸びる側の人間なのかもしれない。それを感じ取り、嬉しさと申し訳なさがこみ上げてきた。自分も相変わらず、気が回らないものである。
ふと、何かが頭に引っかかった。
ビアトリクスを連れ、一旦、廊下に出る。
「これ全部、ティナじゃないか?」
ダンクルベールの言葉に、ビアトリクスの顔が呆けたようになった。
「ありうる」
「アルシェとムッシュを呼ぶ。取調室で、ティナを問い詰めよう。未解決ひとつ、解決できるかもしれん」
「おや、講義中じゃなかったのかね?」
聞き覚えのある声。
見やる。ティナとアンリだった。
「そろそろごはんの時間だから、講義が終わったら一緒にどうかなと」
「いい提案だ。ところでティナさんや。ルイーズ・セルペット、ないしはオービニエ夫人という名前に覚えはあるかね?」
ダンクルベールの言葉に、ティナの顔がこわばった。
ティナが振り向こうとする。そこにはアンリが満面の笑みで立ちはだかっていた。
「ねえ、私の可愛いアンリ」
「駄目です」
「ルイーズ・セルペットとしては、刑を全うしたんだよ?」
「駄目です」
「神妙にすれば、それでよし。そうでないなら」
がし、とその両肩を掴んだ。
「アディル、お願い。私ね?」
「ここで屍を晒すことになるぞ」
腹の底から静かに、そしてしっかりと声を出した。
涙目のティナ。居住まいを正し、深々と一礼した。
「神妙にいたします」
「それでよし。事情聴取を行うので、第一取調室まで来るように。昼食はそこで摂ろう」
思わず、ため息がこぼれていた。
まさかこんなところに未解決の犯人が転がっているとは。それでも一件、片付いた。昔では考えられないことである。
それでもすでに、終わった話。今日は今日で、別の話。
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おまけ
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誕生日。ティナがお菓子をご馳走してくれるとのことで、屋敷に遊びに行ったところ、とんでもなく見目麗しい、褐色のご婦人がふたりいた。
継娘ふたり。つまりは、あのダンクルベールの実子である。それだけで、ジョゼフィーヌはかちこちになっていた。おなじく呼ばれていたシャルロットがいなければ、気後れがひどいことになっていたところである。
「お継母さんもまあ、人脈が幅広いわよね。黒髪のジョゼフィーヌさまともお知り合いだなんて。ルイソン・ペルグランさんからの繋がりなの?」
「もっと前。ジョゼは私の追っかけだったのさ。もはや妹みたいなもんでねえ。ペルグラン君そっくりで、可愛いだろ?」
「本当、お祖母ちゃまには見えないぐらい若々しくって」
「ああいえ、おそれいりますわ」
きっと、硬い返事。
リリアーヌとキトリー。娘であるインパチエンスより背が高く、豊満。そして美貌。なにしろ北東エルトゥールル由来の、砂漠と大河と美形の血である。
説明不要のティナを筆頭に、長身美形家族の中に突如として放り込まれたのだから、容姿に自信があるわけでもないジョゼフィーヌとしては、若干、居心地の悪いところはあった。そのあたりシャルロットは流石というべきか、いつも通り穏やかで、泰然としていた。
「まあ、この通り。でっかい継娘ができたのを紹介できていなかったし、リリィのタルトタタンが食べたいという我儘もあって、お前の誕生日にかこつけさせてもらったわけだよ。ごめんね、私の愛しいジョゼ」
「でも嬉しい。私の誕生日、覚えてくださっていたなんて」
「大好きな人へのお祝いともてなしは、私の生き甲斐だよ。むしろ、去年はお祝いできなくってごめんね。ちょっと原稿の方でばたばたしていてさ」
そう言って、ティナは頬にベーゼをしてくれた。
リリアーヌのタルトタタン。本当に上手で、美味しかった。
「私のタルトタタンなんて、なんでまた?人さまに振る舞うようなものでもないでしょう?ましてやジョゼフィーヌさまなんて有名人にさあ」
ひと通りを楽しんだあと、紅茶を嗜みながら、リリアーヌが不意に、そんなことを言い出した。
「私の思い出の味。お菓子といったら、リリィのタルトタタンが一番嬉しかったから」
「作ったこと、あったっけ?」
「思い出してご覧?お前が子どもの頃、アディルと一緒に作ったこと、あっただろ?」
その言葉に、二、三拍置いて、リリアーヌの目が輝き出した。
「もしかして、ガンズビュール?」
「大正解。水気の多い林檎。ちょっと焦げたカラメル。だまの多いタルト生地。子どもとお父さんが一生懸命作ったっていう、あの感じさ」
「友だちに持っていくって言ってたけど、お継母さんだったんだ。うわあ、嬉しい」
「あら、そんなことがあったんですね」
「そう、姉さま。第三監獄に入ってから、はじめてアディルが訪いを入れてくれた時、持ってきてくれたんだ。それでガンズビュールの反省会をやって。愛してるって、ふたりでベーゼしてね」
「ええっ。ダンクルベールさまとの関係って、そこからでしたの?」
思わず、身を乗り出していた。それが面白かったのか、継娘ふたりとシャルロットが笑ってくれていた。
「向こうはずっと疑ってたからね。ガンズビュールでそれがようやく終わって、これで愛することができるって言ってくれたんだ」
「そうだったのですね。てっきり、もっと早いものとばかり。いやだわあ、ゴシップ誌を鵜呑みにしちゃった」
「ガンズビュールは本当、色々ありましたねえ」
「ごめんね、シャルロット姉さま。私にとっては一世一代の大勝負だったから。あれしか添い遂げる方法が思い浮かばなかったもの」
「なんもなんも。今こうして、ようやくお継母さんになれたんですから。そのための苦労だと思えば、笑うこともできますわ」
言って、シャルロットは素敵に微笑んでいた。
マレンツィオから聞いたことがあった。ガンズビュール当時のことを。シャルロットがどれだけつらい思いをしたかを。
そして、それをふたりとも許し、このひとをファーティナ・リュリとして迎え入れることができたことを。
「私には、キティのお願いに応える力がなかったから」
そう言って、ティナは少し、寂しそうな顔をした。
「私が人だったら。私に、アディルとの子どもを授かることができる力があるのならば、今のかたちになるような選択肢を取りたかった。それができなかった。それが私にとってのガンズビュール。皆に迷惑ばかりを掛けた、不甲斐ない恋路だったよ」
その言葉の意味は、わかりかねた。ただ、リリアーヌが俯き、瞼を重そうにしていたのを見て、何かつらいものがあったのだということだけはわかった。
「キティちゃん。子どもの頃、妹が欲しいって、ずっと言ってたの」
シャルロットが、耳打ちをしてくれた。それで、胸が締め付けられた。
人でなし。人ではない、別種の生き物。身体を重ねることはできても、子を成すことはできないだろう。
たとえ家族になれたとして、子どもの願いを叶えることができない。それはきっと、“パトリシア”だけではなく、ダンクルベールの心すら苛んでいく。
そうやってまた、家庭は壊れていくかもしれない。
だから“パトリシア”はガンズビュールを選んだ。狂気に陥り、死というかたちで、愛した人々と一緒になることを選んだ。
このひとは絶望と諦観の中、それでも愛を貫こうとしたのだ。
自然と、視界が霞んでいた。静かにそれを、ハンカチーフで拭った。
「何だっけ、それ?」
気の抜けた声は、当のキトリーから聞こえた。全員、唖然とした表情である。
「ちょっと、キティ。本人が忘れてるの?」
「だってきっと、子どもの頃の話でしょう?しかもガンズビュールって言ったら二十年前?私、なんか言ったっけ?」
「あの頃、あんたずっと、妹が欲しいって。名前までお父さんと相談して決めてたでしょ?マリィだか何だかって」
「ああ、思い出した。そうねえ、そんなこと言ってた。私が我儘ぶっこいてた頃よね。懐かしい。ごめんね、お継母さん。お継母さんになってほしいだの、妹が欲しいだの、無茶言っちゃってさ」
「お前は、本当に」
そこまで言って、ティナの瞳からはひとすじ以上が。
「キティのばか。私、すごく悩んでたのに。すごく悔やんでたのに。私に子どもができる力があれば、ガンズビュール、途中でやめれたのに。アディルやお前たちを苦しませずに済んだのに。ずっと、ずっと」
そうやって、ティナはぼろぼろと泣いてしまった。本当に、子どものような泣き方で。
「はいはい、泣かないの。まさか子どもの言うこと、真に受けてたの?お継母さんもまあ、純心よねえ」
「お前が淡白すぎるんだよう。アディルなんてずっと、精神病んでたんだぞ?ご内儀とおんなじ肌の色の、おんなじ髪の色の女の子の幻覚まで見てさあ。マリィがいればご内儀と死別せずに、幸せな家庭になれてたはずだって。ずっと、ずっとさあ」
「うそぉ、そこまで思い詰めてたの?それなら、ちゃんと謝らないと駄目ね。お父さんも心が硝子だから、面倒なのよねえ」
「あんたさあ。もうちょっとこう、責任感とかないの?」
「子どもの頃の発言に責任なんて持てるわけないじゃない」
キトリー。さっくりと言ってのけた。随分以上に、あっけらかんとした性格のようである。
「おじさまやおばさまじゃないけど、笑い話にしましょうよ。終わった話じゃん。ねえ、姉さん」
「まあ、そこはあんたの言う通りね、キティ。私も気にしないことにするから、お継母さんもこれ以上、気にしないでね?」
「うるさいやい。やっぱり優しいのは、ジョゼと姉さまだけだよう」
めそめそ泣きながら、子どものようにぶうたれた。それがおかしくて、シャルロットとふたり、笑ってしまった。
ティナがようやく泣き止んだあたりで、訪いがあった。嬉しい顔ぶれだった。
「誕生日、おめでとうございます。母上」
最愛の息子、ジャン=ジャック・ルイソン。インパチエンスたち、花の三姉妹。そして我が愛しきジョナタン・エルランジェ。孫のエーミールまで。
桃色のカーネーションの花束。涙が出るほど嬉しかった。
「もう少ししたら、親父もお祝いに来るそうです」
「あれ、お義父さまはここにいらっしゃるじゃない?」
「ああ、それはね、リリアーヌさん。貴女がたのお父さまのことなの」
ジョゼフィーヌが言った言葉に、リリアーヌ姉妹は首を傾げていた。
「ジョゼフィーヌさんはルイソンさんを、恩師を父と呼べるような男になれって育てたんですよ。だから、ダンクルベールさんが親父で、僕は義父上なんです」
「まあ、そういうこと?素敵な教育方針ですわ、ジョゼフィーヌさま。私もパトリック・リュシアンに、そういう風に教え込もうかしら」
「でも、ちょっと古風じゃない?今の子どもたちには難しいと思うわよ、姉さん」
「私の親世代の考え方ですから。それをジャンに押し付けてしまって、申し訳ない気持ちが大きいのですけれど」
「それでも、おかげで俺は男になれましたから。エーミールにもそうやって教えますよ」
ジャンは童顔をはにかませながら、エーミールを抱きかかえていた。最近、ちょっとずつ歩けるようになったようである。
そこで、ティナがはっとした顔になった。
「キティのお願い、叶ってるじゃん」
「どうしたの?お継母さん」
「ペルグラン君がアディルの息子を名乗ってくれているなら、インパチエンス君たちはキティの義妹になる」
その言葉に、リリアーヌとシャルロットの顔が、ぱあっと明るくなった。そうして、ティナがジョゼフィーヌに抱きついてきた。
「お手柄だよ、ジョゼ。そして我が自慢の息子たるジャン=ジャック・ルイソン。うちのキティ、妹が欲しいってずっと言ってたんだ。よもやこんなかたちで叶うとは思ってもいなかったが、何はともあれ、義妹は妹だ。ああ、嬉しい。やっぱりお前は偉いこだよ、我が愛しのジョゼフィーヌ」
「ありがとう、姉さま。こんなかたちでお役に立てるとは思ってもいなかったわ」
「小姉さま、そんたなこと思ってあんしたのですね。それでは不束者ではございますが、あたくしども三人、お二方を姉と定めさせていただきあんす」
「よかったわね、キティ。こんなに素敵な妹たちができるなんて。二十年来の願い、ようやく叶ったわよ」
盛り上がる皆に対して、どうしてかキトリーは首を捻ったままだった。
「コロニラちゃんがいいかな」
「ちょっと、キティ?」
「インパチエンスさんは、もうインパチエンスさんって感じ。歳も近いしね。カンパニュールさんは妹っていうか、姉っぽい感じ。んで、ペルグランさんを弟扱いするのは流石に気が引けるから。そうすると、やっぱりコロニラちゃんよねえ。何しろ可愛いし」
「おい、キティ。この期に及んで選り好みかよ?」
「いいじゃない。私にも皆にも、選ぶ権利はあるってだけの話。三人は私を姉と定めればいいし、それなら私はコロニラちゃんを妹と定めたい。それで、なにか付き合い方が変わるわけじゃないんだからさ」
そう言って喜色満面、戸惑っているコロニラにキトリーが思い切りよく抱きついた。
「本当、キティちゃんったら、相変わらずね」
一番最初に笑ったのは、シャルロットだった。
「本当。相変わらず過ぎ。あんた、どこまでも自分本位よね」
「姉さんに言われたくないわよ。ああ、でも嬉しい。コロニラちゃんは、私にだけはお姉ちゃんね?」
「ええと、よろしく。キティ姉、じゃなくて、お姉ちゃん」
「ちなみにですが、あの聖アンリさまは、ルイソンさんのお姉ちゃんを自称していますよ」
「本当?義父上さん、いい情報ありがとう。じゃあ、アンリさんにもお姉ちゃんって呼ばせよう。ペルグランさん、お手柄だわ。ご褒美に、私のことは姉さんでいいわよ?」
「ええっと、それはちょっと。畏れ多いというか、何と言うか。それに、アンリさんのお姉ちゃんは、自称も自称ですし」
「キティ。お前さあ、もうちょっとこう、人の心とかないのかい?」
「でもまあ、素敵な姉ができて、私は嬉しいわ。ねえ、インパチエンス姉さん」
「ほんでがすね。お坊にもいとこができあんしたし。嬉しい限りであんす」
インパチエンスが困ったふうに、それでも楽しそうに笑っていた。それにつられて、ジョゼフィーヌも笑ってしまった。
終わった話から、新しい話が続いていく。新しい、家族の話が。
(つづく)
Reference & Keyword
・BTK絞殺魔
・テリー・ラスムッセン
改版履歴
・24/7/14:初版
・24/11/1:加筆修正