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取り残された英雄

果敢に散りしもの

勇敢に死せるもの

それこそは英雄

祀られるべき存在


なればこそ問われる

そこで戦いしものは何者ぞ

郷里に妻子を置き、母を置き

剣を手に取りしものは何者ぞ


あるいは生きてそこにいるものは

生きて戦場より戻りしものは

死したものより価値なきものなのかと


ヴァーヌ聖教外典

“エメンヘッテの対話集”より

 周りには、誰もいなかった。

 野戦築城。横たわった荷馬車。時折の銃声だけが、未だ戦闘が続いていることを教えてくれる。

 壕は長雨で、ぐちゃぐちゃになっている。そこからは侵入してこないだろう。

 だとすると、次はどこだ。

 もう、何日になるかなど、覚えてもいない。五日まで死守しろと言われていた。今は何日だ。それを知る人間も、懐中時計もぶっ壊れてしまった。

 食べるものも尽きていて、出すものは垂れ流しにしていた。とにかく、起きていなければ、乗り込まれる。

 弾丸。火薬の量も考えて、残り十八発。施錠ライフル銃が三挺と、火炎瓶が六本。

 これであと何日、乗り切れるか。

 気配。とっさに、土嚢の後ろに隠れた。

 足音。人じゃない。野犬か。塹壕の方から駆けてくる。

 瓶を投げた。火柱が上がる。犬の吠え声。寸前で足を止めたか。火と油の匂いで、鼻は効かないだろう。ただ動かないと、場所を覚えられる。

 恐怖、恐怖、恐怖。ただそれだけが、体を動かしている。闘志の炉に、熱を吹き込んでくる。

 煉瓦壁の銃眼。そこから、銃身を出す。照準を、覗き込む。

 違和感があった。馬上の人。軍装ではない。

 恐る恐る、下っていった。最後の荷馬車の後ろまで。

「誰か、いるのかい?」

 多分、その人の声だ。戸惑っている。

「貴官、どこの所属だ。こちら、マンディアルグ伯軍、第四歩兵大隊だ。貴官の所属を応答願う」

 声は、かすれていた。ここ何日も、声を出していなかったから、喉が張り付いていた。

「俺は軍人じゃないよ。あんた、軍人さんかい?」

「軍人じゃないだと?民間人がこんなところで何をしている。ここは戦場だぞ。早く避難しろっ」

「あんた、何を言ってるんだい?こんな瓦礫みたいなところで、何をしているんだい?」

 戸惑いが、伝わってきた。恐怖を塗りつぶしていく。

「今日は、何日だ?」

「七月の二五日だよ」

「何年のだ?」

「七十八年だ。あんた、まさか戦争の生き残りか?去年の暮れから、ここにいたっていうのかい」

 言われて、呆然としていた。

 三月の五日まで死守しろ。それが、命令だったはず。去年の暮れとは、どういう意味だ。

「待っていてくれ。今、人を呼ぶ。めしとか着替えも用意する」

 それだけ言って、男は馬を返していった。

 何が、起きているんだ。俺は今まで、何を。

 一体、ここで、何を。


-----


----


---


--


1.


 薬の量は、通院のたびに増えていった。

 あの後、郷里から離れて、首都近郊の病院で治療を受けた。体のそれは寛解したが、心は駄目な様子だった。だからこちらに移り住んで、治療に専念することにした。

 妻と子どもは、自分が死んだと思い込んで、再婚していた。再婚相手は、親友のドプフェールだった。両親は同じく、自分が死んだと思い込み、悲嘆のあまりにたおれたそうだった。

 知らない街と、知らない人々。そして知らない時間の中で生きていた。今までのことはすべて忘れろと言われながら。

「入院したほうが、いいかもしれません」

 医者からは、それだけ言われた。

「状態は、それだけ悪いですか?」

「心や考えがまとまりを欠いた状態です。幻覚や妄想、考えの混乱もみとめられます。あなたひとりで生活するのは、もはや困難です」

「人といたくない。ひとりでいたい」

「わかります。最善の配慮をいたします」

 カルテを見ながら、医者は興味なさげな様子を見せた。

 顔に特徴はない。それは誰を見ても、そう思えた。

「昨日、誰かと話したか。その内容を覚えていますか?」

 言われて、無意識に体は震えていた。

 体のあちこちが、痛い。

「石を、投げられました」

 室内のはずなのに、服は濡れていた。

「小雨の中、めしを買いに行ったのです。それだけなのに、石を投げられて、子どもを撃ち殺したやつだとか、敗残兵だとか言われて、それで」

「ジュネストさん、よく聞いて下さい」

「何でしょうか?」

「昨日は、晴天です」

 言われて、呆けていた。体の痛みも、衣服の濡れも感じていなかった。

「入院しましょう。心が蝕まれている。次回の通院時に、必要なものを持ってきてください」

「お願い、します」

 うなだれるぐらいしか、やることがなかった。

 家に戻る間、にわか雨に降られた。油合羽あぶらがっぱを羽織ってきていたから、濡れることは無かった。

 ただ、秋の雨の冷たさが、心に突き刺さった。

 湖畔の小屋。そこに、住んでいた。景色がいいと心が安らぐと、医者から勧められた物件だった。

 暖炉に火を入れ、昨日の夜に作った兎肉のシチューを温めた。その火を眺めながらもずっと、小銃を抱きかかえていた。

 これがないと、落ち着かない。このかたちがないと、何もできない。

 そうやってめしを食って、小銃を抱えたまま、眠った。

「釣れますかいね」

 次の朝、湖畔でぼんやりとしていたところ、小柄な老人に話しかけられた。胡麻塩頭の、矍鑠かくしゃくとしたひとだった。

「鱒が、何匹か」

「そうかいねえ」

「お父さんは、お散歩ですか」

「そんなところですね。あたしも、近くに住んでるもので」

 のし、と隣に腰掛けてきた。不思議と違和感を感じなかった。

 釣り竿は持っていない。持っているのは、小銃だけだった。

「何に、悩んでらっしゃるんです?」

 自然と、それを聞いてきた。

「生きていること、そのものでしょうか」

「そうでしょうねえ。あんたは、取り残されていたんだもの。きっと今も、その感覚でいるんでしょうね」

「十日で終わる作戦を、誰も終わらせてくれなかった。その後、一年半、俺は何かと戦い続けていました」

「何と戦っていたんでしょうね」

「わかりません。ただ、女とか子どもを撃ったやつだと、言われます」

 老人は一旦、言葉を止めた。

 霧の湖。桟橋の上で、ぼんやりと座っていた。ただこの老人だけは、確実に現実だと思えた。

「ご家族は、もう残ってないんですか?」

「はい。俺、ひとりです。妻は再婚してましたし、両親は他界しました」

「そいつはつらいやね。でも今のあんたは、こうやってひとりで生きているのがいいかもしれないね」

「俺も、きっとその方がいいと思っています」

「時間をかける。ゆっくりと、世俗に慣れてゆく。ここはきっと、その境界線にある場所ですから」

 瓶ひとつ、取り出した。レイニーマンの十二年。そして、グラスふたつ。

 そこで、場所が変わっていることに気付いた。どうやら老人の家らしい。

 老人とは目を合わせず、外を眺めていた。

「酒を飲むと、それにのめり込んでしまいそうな気がしていました」

「酒だけを飲むと、そうなるやね。肴と一緒に嗜むのが大事ですよ」

「外の景色とかですか」

 小銃は、入口に立てかけられていた。

 グラスを傾ける。蜂蜜のような、自然な甘さ。とろみのある舌触り。

「あたしはよく、焚火をします。今日はちょっと、無理そうだけどね」

「俺は、雨を見ます。雨の中、泥の中にいましたから」

「乾かしなさい。日向にいることです。ひとりでもいいから」

「陽の光は、こわいです。自分の場所がばれてしまいそうで」

「何も身体そのものを日の下に放り出せってわけじゃあない。お日さまさえあれば、それでいいやね」

「言っていることは、わかっている気でいます」

 また、視界が変わった。

 自分の家だった。小銃を握っていた。

 あるのはレイニーマンの十二年。老人は、いなかった。

「今、見ているのが、現実なのかどうかがわからないです」

「そこは考えずに、生きてみなさい。あんた、考えている時は、頭が真っ白になっているんでしょうね」

「きっとそうです。今、あなたの姿が見えない」

 手の鳴る音。

 それで、目が醒めたようになった。

 湖畔の、桟橋の上だった。眼の前に、老人がいた。

「思い悩むことを忘れることから、はじめたほうがいいでしょうね」

 それだけ言って、老人は去っていった。

 大汗をかいていた。あの老人は、現実だったはずだ。あのレイニーマンの味も。

 どこからが、本当だ。

 服を脱いで、下着ひとつ。湖に入り込んだ。浅瀬。冷たさが、脳に響く。それが、心地よかった。

 灼けた脳髄を、冷水が包んでくれる。

 水から上がった。脱いだものをそのままに、家に戻った。

 今朝釣った鱒が、玄関にぶら下がっていた。

 そのひとつを取って、火に当てた。自身も着替えて、火の熱に手をかざす。

 火の通った鱒に齧り付く。塩はよく当てていたはずだが、味はしなかった。めしの中で味がするのは、レイニーマンの十二年を湯で割ったものぐらいである。

 蜂蜜の味。落ち着く味。

 次の日、訪いがあった。男がふたり。女がひとり。

「おやじさんの知り合いでね。俺もまた、マンディアルグ伯領の出身だ」

 巌のような大男。そう切り出した。

「戦乱に、蝕まれた。あんたと同じように。きっと今だってそうだ」

「あなたほどの戦士でも、そうなのですね」

「このこを、守ってやれなかった。傷だらけにした」

 そうやって、ひとり、小柄な女性の背中を押した。

 そのひとの額には、向こう傷があった。

「あなたを、知っているような気がする」

「あえて、名乗りはしません」

「正直に、あまり会いたくはなかった。あなたは聖人で、俺は敗残兵です。立場があまりに、違いすぎます」

「ただひとりの人間、というくくりでは、同じです。私もまた、あの場所で戦い続けた。あなたと同じように」

「あなたに対し、懺悔をすることはありません。俺は必死でした」

「それで構いません。私たちもまた、必死でした。あるいはあの場所にいた全員が、きっと」

「ならば、なぜここに?」

「あなたに理解を示したい。わかってあげたい」

 若い男が、珈琲コーヒーを淹れてくれた。香りだけは、わかった気がした。

「きっと、心が別の場所にいる。おそらくは郷里の、戦場のどこかに」

 言われた途端だった。

 銃を、突きつけていた。女の眉間。

「大丈夫。私もそうだから」

「俺は、女を撃った。子どもも撃った。そういうやつだ」

「私は、女も子どもも、あるいは男も、助けられなかった。眼の前で死んでいった。助けられなかったこと。それは人を殺すことと同義です」

「違う。あんたは、助けようとした。俺は自分から」

「大丈夫」

 涼やかな声。

「大丈夫だから。もう全部、終わったことだから」

 それで、落ち着いた気がした。

 手には、小銃は握られていなかった。

「ジュネストさん。撤退しよう。命令が届かなくて、申し訳なかった」

 撤退、という言葉に、温かさを覚えていた。

 そうだ。撤退命令。それさえあれば、俺はあの場所から。

「ひとりで、ずっとあの場所にいた」

 また体が、濡れているのを感じる。

「食うものも無くて、草とか、土とか。死んだ人間だって、食った。ひどい味だったよ」

「そうか、そうだよな。火もおこせないものな」

「ずっと、敵意と銃弾に晒されて。ようやく終わったと思ったら、今度は悪意だ。子どもを撃っただとか、ひとごろしだとか。何にも知らないで、わかったふうなことを言われて。帰ってきたって、仕事も見つからない。家族だって無くなった。人を撃ったやつ。そればっかり、言われて。惨めだよ」

 なにかを抱えたまま、体は震えていた。

「皆、どこ行っちまったんだ?探したって、墓しか見つからない」

「後ろを向いては駄目。前を向いて」

 向こう傷が、囁いた。

「先へ、進みましょう」

「先へ?」

「振り返っても、掘り返しても、そこには過去しかない。現在は、そして未来は見つからない。だから先へ進みましょう。そうして歩んだ道を、新しいあなたにしてほしい」

「俺と親父と姉ちゃんは、それを選べた。ジュネストさんもきっと、それを選べるはず」

 若い男に、手を取られた。

「ここにいること。まずはそれを、ちゃんと理解しよう。ジュネストさんは今、ここにいる。あの拠点ではなく、今ここに」

 その言葉に、濡れたものが乾いていく感覚があった。

「俺は」

 そこまでだった。

 血の匂い。鮮明に。

「おいおい、こりゃ、どうしたことだ?」

 一番、大きな男の声だった。

 見渡す。死体ふたつ。先程の三人でも、あの老人でもない。

 手には、包丁。体が、温かいもので濡れている。

 知らない誰かが、たおれている。

 肩を揺さぶられた。

「あんた、ジュネストさんだね?自分が何したか、わかっているか?」

「俺は、何を?」

「俺は今来た。今来て、こうなっている。覚えていないか?」

「覚えていない。何も。いや、あんた、さっきまで、あんたたちと話をしていた。あんたと、きっとあんたの子どもふたりと」

「子どもは、連れてきていない。俺と、おやじさんだけだ」

 みやる。大男と、昨日の老人。ふたりとも顔が青くなっている。

 死体。容貌から、悪漢の類か。いや、違う。わからない。

 死んでから時間が経っているとしか。

 叫び声が聞こえた。自分の声だった。


2.


 心神喪失状態での犯行ということで、一応の決着が着きそうだった。

 別棟の一室で、ジュネストを保護していた。アルシェは細心の注意を払って、ジュネストの状態を確認していった。

 現実と、そうでないものの区別が付けられない。時間が剥離するときがある。わかっているのは、それぐらいだった。

「次回の通院時、入院するという診断を下したそうですね」

 ジュネストが通っていた精神科の医師に、カルテを見せてもらいながら、話をしていった。ガルニエという医師である。

「見識は正しいと思います。入院の判断も。前提の確認ですが、これはあくまで聴取ですので、ガルニエ先生を罪に問おうとか、そういう意図はありません。ですので、どうか心を平らかに」

 その言葉に、ガルニエはわざとらしいぐらいに、胸を撫で下ろした。

「まずあらためて、先生の判断は正しいと思います。私も精神医療の専門家をやらせていただいておりますので、何となくはわかります」

「ありがとうございます」

「確認したいことは、入院後の治療方針です。どういったものをお考えでしたでしょうか?」

「薬学的な療法。アプローチとしては、それだけしかないと思っております」

「それもきっと正しい。サナトリウムですよね?」

「そうですね。うちの病院で一棟、所有しているものです」

「やっぱり、それが最善ですよねえ」

 適切。頭をかくぐらいしか、やることはない。

「治療の内容と方針に問題ありません。だからここは、犯行の動機ではありません」

「そういっていただけますと、安心できます」

「となれば、別の部分。ここからは雑談です」

 失礼。ひと言、断りを入れてから、アルシェは胸元から紙巻を取り出した。

「犠牲者二名。縁戚関係なし。交友関係なし。あの近辺の人間ではない。報道関係者。となれば、ジュネストさんを刺激した可能性がある」

 その言葉に、ガルニエは苦い顔をした。

「ジュネストさんは」

 そこまでで、一旦の区切り。

「幻覚、幻聴が強い。特に、他者から攻撃されたというもの。女や子どもを撃ち殺したとか、敗残兵だとか、そう言われる。そういう妄想に駆られるときがあります」

「それを刺激した、という可能性はありますか?」

「直接的にそれを言われると、攻撃的な衝動反応を起こす場合はありえます」

「意図はどうあれ、なじられたと受け取った。それで切り替わった。身を守るため、ふたりを殺した」

 言いながら、やはり引っかかっていた。

 手際が良すぎる。ほとんど抵抗の痕跡がないのである。家屋の内部は荒れた様子はないし、ジュネスト自身も、怪我などは負っていない。

 ほぼ出会い頭に、ふたりの首を包丁で掻っ切ったとしか思えない。

「状態が一番悪いときに、出くわしたのかも」

 それを伝えつつ、アルシェはそう、締めくくった。

「あの場で、無理にでも入院させていれば」

「たらればは、よしましょう。あなたに責任はない。最善を尽くした。そこまでです」

「それでもやはり、考えてしまいます」

「今日の帰りにでも、一杯やってください。それで切り替えましょう」

 ガルニエとの聴取は、そこまでにした。

 別棟。ティナの作業場や司法解剖室、“錠前屋じょうまえや”の装備保管室などがある。念の為、“錠前屋じょうまえや”の装備は、別の場所に移していた。

 ジュネストの監視は、“錠前屋じょうまえや”数名と、デュシュマンに依頼していた。流石はもと刑務官だけあって、見事なものである。

「極度の緊張状態にある。拘束しているが、舌を噛むかもしれない」

「そこまで、行ってますか」

「それと、ラウルさんの提案のとおり、アンリと会わせたのだがね」

 そこまでで、デュシュマンは暗い顔で、かぶりを振った。視界の隅で、アンリが俯いて座り込んでいるのが見えた。

「恐慌状態に陥った」

「アンリでですか」

 思わず、顔をしかめていた。

「カスパルさんとアンリ、ビョルンが訪ねてきたんだと。それで、説得されたと。先へ進もうって」

 その言葉に、どこか聞き覚えがあった。

「あの場にアンリはいなかった。ビョルンすら」

「幻覚だと思う。しかし、鮮明すぎる。前日に、ビゴーさんと会って、それからカスパルさんと会わせてみよう、って話なんだろう?それなのに、アンリとビョルンの姿を見たと言っているんだ」

「理解が及びませんな、そこまで行っちゃうと」

 ため息、ひとつ。

 俯いたままのアンリを連れて、資料室まで向かった。

「心が戦場に戻っている。私たちの郷里、マンディアルグ伯領の戦場に」

 ぼうっと、アンリがこぼした。

 戦乱の地、マンディアルグ伯領。アンリやオーベリソンの郷里。そこで育ち、アンリは向こう傷を負い、生ける聖人になった。

「私に、できることはありませんでした」

「誰にも無いだろうさ。ティナさんだってそうだし、長官だって、きっと」

 ジンジャーティー。それで、心を落ち着けたかった。

「さて、我々としてできることは、書類送検までかね?アルシェ君」

 ティナが、難しい顔で問いかけてきた。

「そうですね。殺人ですが、おそらくは猶予付き判決。そして軍病院、ないし刑務病棟での療養となります」

「ここから先のことは、我々は介入できない。そして現在、彼の心に介入できるものは、誰もいない」

「手を尽くした。それで駄目だった。そこまでです。だからアンリも、気にする必要はない」

 アルシェの言葉に、アンリは眉間に皺を寄せた。

 泣くことは、少なくなった。感情を制御できるようになっている。

「無念です」

「だろうさ。それでいい」

「まだ、戦いは続いている。各々の心の中で」

「ひとりひとりの戦いだ。だからやはり、ひとりひとりでしかやれることは無いんだよ、可愛いアンリ。まずはお前が落ち着きたまえ。お前の戦いは、きっともう、終わっているのだから」

 促され、アンリもジンジャーティーに口を付けた。

 送検が済み次第、ジュネストの身柄は刑務病棟に搬送された。

「ジュネストさんは、なにか鮮明なものを見ていました」

 湖畔の小さな小屋。ビゴーの隠居先に足を運んでいた。ジュネストとは、たまたま会ったという。

「幻覚というより、幻視のようなもの。釣っていない鱒。レイニーマンの十二年。アンリたち。それは何を意味しているんでしょうかね?」

「あのひとの望むもの。陳腐ですが、それぐらいしか思いつきませんね」

「小銃を、ずっと抱えていたとも言っていましたが」

「何も持っていませんでしたよ」

 ビゴーが悲しそうな顔で、瞼を閉じた。

 長く、聞き込み調査を担当していたひとであり、市井の端から端までを歩いていた。首都近郊の人間であれば知らないひとがいない程の大ベテラン。人と話し、触れ合うことで、わかってあげることができるひと。

「あたしはあのひとを、わかってあげられなかった」

「俺も当時の報道を見ました。理解の外にいる存在です。おやじさんだってきっと、難しいだろうとも」

 出されたレイニーマンの十二年を、舐めるようにして。

 マンディアルグ伯軍、第四歩兵大隊所属の精密射撃手マークスマン。要衝である第二八五拠点にて、飽和攻撃により部隊が全滅してなお撤退せず、死守命令を守り続けていた。

 発見されたのは、部隊全滅から約一年半後。その頃には、その戦線での戦闘は終結しており、その間もジュネストはひとり、戦闘が継続していると思い込み、近隣を通りかかったものを敵兵と見做して銃撃していたという。

 身柄が保護された後、武功勲章を授与され、退役した。傷痍軍人年金と武功軍人年金を受給しており、主治医であるガルニエの勧めで、この湖畔の近辺に家を借りて暮らしていた。

 戦場に取り残された兵士。未だ、精神が戦場に置き去りにされている。世間だけ時間が進んでしまい、彼だけは、その時間についていけていない。

 それが幻視を見せている。鮮明なまでの、戦場の記憶。

「すべての物事にはその後がある。あのひとだけには、それが用意されていなかった。未だそうやって、戦い続けている」

「オーベリソンやアンリも、拒絶しました。もはや手が付けられない。隔離病棟の中で、一生を過ごすしかない」

「悲しいですねえ。それがあのひとの、その後なんですね」

「そういうこともあると割り切らないと、俺たちも先に進めなくなる」

「あんたはいいやね。そういうことを、すっぱりとできる」

「拷問官ですから。何人も殺した。悔やむような死に方をされました。自分でその後を用意しないと、取り残される」

 苦みが、口の中に広がった。

「眼の前で、舌を噛み切られるんです」

 自分で言った言葉に、痛みを感じた。

 レイニーマン。残っていたものを、一息に煽った。甘みが紛らわせてくれると思った。

 家に帰って、いつも通り、食事を済ませて眠った。

 夢を見たような気がした。あまり、覚えいていない。

「うなされていたの、ラウルさん。大丈夫?」

 朝食後、妻のサラが尋ねてきた。心配そうな顔だった。

「ありがとう。でも、あんまり覚えていないんだ」

「ラウルさんは、いやなことをすぐ忘れるものね」

「そうだね。得な性分なんだ。これで救われている」

「よかった。それであればいいの。疲れてたり、悩んだりしているかと思ったから」

「ありがとう。それじゃ、行ってくる」

 おたがいの頬に、ベーゼを。そうして家を出た。

 きっともう、忘れたこと。それでも何かが残っている。いやな予感とでもいうようなもの。

 実現しないことだけを、切に願った。


3.


 雷雨。その中で、横たわっていた。

 視界には、幾人もの子どもと女たち。皆、見下ろしている。皆、同じ顔で、同じように。

 ひとごろし。

 囁き、罵ってくる。同じ顔の群衆。笑っている。

 お前は、私を殺した。

 やめてくれ。そんなつもりじゃない。任務に忠実だっただけなんだ。近づいた奴らを、打ち払わなければ、我軍は負けてしまうから。

 雨に、溺れる。言葉に、追いやられる。

 人でなし。

 叫び声。やはり、自分のものだった。

 寝台に縛り付けられていた。どうしてそうなのかは、思いつかなかった。

 どこなんだ。景色がころころと変わる。ついていけない。

「よう、ひとごろし」

 誰か、入ってきた。

「お寝んね楽しいかい?お清めの時間だぜ」

 嗤いながら。

 何か、ぶっつけられた。熱い。その後、冷たいもの。

 そうして、出ていった。

 何だ、今のは。現実か。

 寒さに震えていた。冷たいものが、ずっと、まとわりついている。体中に染み込んでくる。

 そうしているうちに、ひとつのものだけが鮮明になった。

 冷たい、泥の感覚。雨の中、腹這いで這いずり回った、あの日。

 また誰か、入ってきた気がした。

 拘束具を外される。上体だけを、無理くり起こされた。

「ごはんの時間でちゅよぉ」

 気持ちの悪い声。

 盆に、頭を叩きつけられた。何度も、何度も。

 そのたびに、やはりあの日が、鮮明に。

 叫び。

「てめぇ、大人しくしろ」

 その声の主の顎。殴り飛ばした。

 駆け出していた。目に付くものを押し倒しながら。

 ここじゃない。こんなところじゃない。そればかりを、考えながら。

 外に出るのは、それほど難しくはなかった。装具をつけた馬がいたので、それを奪った。

 何をしているのか、今になって思い出そうとした。それでも思い出せない。

 守らなければ、自分の身を。自分を守る外壁を探さなければ。

 看板に猟銃のマーク。銃砲店。これだ。

 持っていたものを、扉にぶっつけた。何を持っているのかは知らない。

 男。怯えた様子。

施条ライフル銃。前装式でも構わない。それと弾丸と火薬。雷管も、ありったけだ」

 持っていた小銃を突きつけて、その男に用意させた。

 後装式。用心金トリガーガードが仕掛け状になっているもの。金属薬莢は山ほど。擲弾もある。よし。

 めしは、後でいい。現地で兎とか、けものを狩ればいい。

 家には帰れない。どこがある。林の中。

 そうだ、あの廃墟。壁やら屋根が崩れた、あの立派な建物。

 あそこなら、きっと。

「いたぞっ」

 林に入ったあたりで、後ろから声が聞こえた。

 馬から降りる。銃砲店で、藪漕ぎ鉈は手に入れていた。それを使って、茂みに潜り込む。

 何かの枝。小枝を払って、先端を尖らせる。

 息を殺した。そうやって、風景とひとつになる。

 足音。眼の前を、通る。

 今だ。

 太ももに枝をぶっ刺した。悲鳴。走る。途中、また枝を拾う。もうひとり、眼の前。構える前に、首筋。

 小銃を奪った。滑腔銃マスケット。これじゃ狙えない。

 火薬を敷いた上に、滑腔銃マスケットを横たえる。周りに薬莢。そこから火薬を線上に、五歩ほど引いてくる。また、茂みに隠れた。

「大丈夫か。しっかりしろっ」

 四人ほど近寄ってきた。もう少し、もう少し近くに。

 よし、今だ。

 線に引いた火薬に、火打ち石で火を付ける。火が、走る。

 閃光と破裂音。いくつかの悲鳴。

 走っていた。ところどころ、記憶が曖昧だった。

 ただひとつ、体が濡れていることだけはわかった。それが乾くうち、べとつき、へばりつく液体に。

 廃墟にたどり着いたとき、息は上がっていた。

 高揚感。ここだ。ここなら、守れる。

 これが唯一の、俺の安寧の地。

 ここが、俺の戦場。


4.


 ジュネスト脱走。

 刑務病棟での食事提供の際、隙をついて逃げ出した。途中、銃砲店を襲撃し、小銃と弾薬を多数強奪しているとのこと。

 ご存知、“錠前屋じょうまえや”は全員動員。最終的な潜伏場所の特定と確保が最優先事項となっている。

「若い刑務官が揶揄からかったんだとよ」

 デュシュマンは極めて憤然としていた。かの悪名高き第三監獄の主任副長を務めていた、もと刑務官である。

 叱って、諭して、促して。それをないがしろにした結果、事態が起こってしまった。やるせない気持ちだろう。

 先に動いている刑務局鎮圧部隊は、相当な被害を被っているらしい。住んでいた家近くの森に潜み、即席の罠や、草木に紛れての伏撃をお見舞いされているようだった。

「ワンマンアーミーってやつかい。いやになるね」

 現場までの道を馬で駆けながら、ゴフは毒づいていた。

「おいらとも領分が違うから、正直に勝手がわからないよ」

「スーリ先生でも駄目なら、俺たちゃ大根役者が決定するぜ。ひとりで野戦築城なんかおっぱじめられたら、どうしようもなくなる」

「まさしく、おんなじこと考えてたよ。ゴフ先生。ひとりで一個大隊は相手取れるんじゃないかしら?」

「んな、大袈裟な」

 言いながら、やはりいやな予感が頭をよぎった。

「ルキエを下がらせよう。撃たれる」

 ひとまず、それだけ口にした。

 一度、全員の足を止めて、地図を見ることに集中した。廃屋、廃墟。それも中規模以上。

「ここだな」

 ひとつ、見当が付いた。

 何某なんとか伯爵の別邸跡。かなり古く、壁も屋根も崩れているところがあるようだった。

 野戦築城をするには、もってこいだ。

「塹壕を掘る時間は無いだろうが、罠は作れる。要領がよければ、木の板から、仕掛けも」

 スーリが舌打ちをしながら言ってきた。

「全員、散開。まとまればやられる。まずはここにたどり着いて、拠点を作る」

「土嚢用の袋は、持ってきています。木も切り倒せる」

 工兵のオードラン。腰にかけた、小ぶりの斧を軽く叩いた。

「俺やオーべリソンも、そういうのはできる。グレヴィと四人で、柵やら盾やらを組むぞ。他のやつは壕を掘ってくれ。その土で土嚢を拵えよう」

「道中は、俺とオーベリソン曹長、スーリさんにマックスが先頭で行きましょう」

 ペルグランだった。

「マックスってなあ、ロッシュだったな。船乗り二郎、白兵戦は?」

 マクシミリアン・ルイソン・ペルグラン・ロッシュ。ペルグランの腹違いの弟だそうだ。海軍出身の下士官である。

「海兵どうしの喧嘩なら、負け無しです」

 軽口ひとつ。片刃の剣を引き抜いた。船乗りらしい、由緒正しき舶刀カトラスである。

「足元注意、頭上注意だ。そこら辺はスーリ大先生とオーベリソンの得意科目だろうから、よろしく頼んだぜ」

「お任せあれ」

 オーベリソン。力強く。

 小雨の中、各々が頷きあった。

 散開して近づく。

 ゴフはあえて、大きめの音を立てた。“とんかち”で木を打ち付けたりして、音を鳴らす。自分に注意を引かせる魂胆である。

 部下は誰ひとり、失えない。

「あれか」

 見えた。左翼が崩れた、二階建てのマナーハウス。

「あたし、見てきます」

「待ちなよ、奥さん」

 ルキエの前に体を出したのは、スーリだった。

「いる。もう、見てる」

 瞬間だった。

 発砲音。何かが、ゴフの肩をかすめた。

「隊長っ」

「かすめただけだ。皆、伏せろ。一里下がるぞ。」

 吠えた。

 何だよ。おたがい、お早い到着だったな。

 一里半離れたところに、拠点を作った。三箇所に分けてある。刑務局鎮圧部隊も合流し、大所帯である。

「弾丸の摘出ができるものは、おられるか」

 鎮圧部隊で、ふたりほど撃たれたらしい。場所としては急所を外しているが、弾が残っていて、苦しんでいるという。

「もうじき到着する。ただ、久しぶりにやると思うから、相当に体力を使わせることになる。喰らったら負け、ぐらいに考えてもらいたい」

「承知。できるだけ、自分たちのことは自分たちでやるが、こういうのだけはどうにも」

「そりゃあ平時だもの。仕方なしだぜ」

「ありがとう。気が楽になった」

 笑ったようだった。

 衛生救護班、および指揮官部隊到着は、三十分ほど経ってから。

 森の中、開けたところに本営を構えた。天幕をいくつか用意する。

「布を噛ませて。最悪の事態に備えて、鋸も用意お願い」

「切り落とすしかないのか?」

「やってみないことにはわかりません。ただ、絶対に生命だけは助けます」

 我らが頼みの綱、サントアンリ。てきぱきと指揮をしていく。

「大丈夫。私がいる。あなたをお星さまになんてさせやしない」

 強い励ましの言葉。それで、はじまった。

「鎮圧部隊の二百のうち、約二十が重軽傷。普通の戦場なら全滅判定よね」

 本営で、ビアトリクスが苦い顔をしていた。

「もうじき日が沈む。主力は温存。少数が威嚇射撃と火炎瓶とかで圧をかける。相手を眠らせない」

「殺すしか、ないですか。マギー姉さん」

 ペルグランも、極めて渋い表情である。

 本当は、誰だって殺しなんてしたくない。それは向こうもきっと、そうだろう。

「血で血を洗うしかない。ただひとつ、方法は思いついている」

 額を抑えながら、ビアトリクス。

「理想論。そうであればいいという、願い」

「何するつもりですかい、監督」

「届け物、ひとつ」

 顔を向けた先には、金髪を後ろに流した、長身の無頼漢。

「撤退命令です」

 そう言ったガブリエリの目は、澄み渡っていた。


-----

 ガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキ。

 天下御免の名に恥じぬ才覚を纏い、政争の中心に君臨し続けた、無頼の徒。


 大ヴァルハリア侵攻期にこの国に渡ってきた名門ガブリエリ家の血を引き、また当時では数少なくなった、ヴァルハリア帝国の爵位を持っていたブロスキ男爵マレンツィオ家の養子でもある高貴な存在。そしてまた、かの名軍警エクトル・ビゴーに薫陶を受け、独自の密偵を用いた広大な情報網をも駆使した、稀代の異才である。

 後に公安局局長に抜擢され、盟友であるルイソン・ペルグランとともに数々の国難を切り抜け、あるいは信義に背いた国そのものを弾劾し続けた。


 市井に理解を示し、交わり続けた純朴さ。そして奸計と謀略を以て敵を囲い、追い詰める狡猾さ。この二面性こそが、彼の本質を見定めることを難しくする最大の要因となっている。

 研究家の中ではしばしば、ルイソン・ペルグランは稲光と、ガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキは雷鳴とも評されていた。闇の中、ただ遠くに轟き、近づけば稲光と共にすべてを撃ち焦がす。

 稲光と雷鳴。彼らの師、霹靂卿へきれききょう、オーブリー・ダンクルベールの携える、一対の鉾。それは民衆に安堵を、為政者に緊張を与える、裁きの雷であった。


 あるいはそれは、民主共和の実現に殉じた養父への弔砲だったのかもしれない。

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5.


 アンリは、疲れ切っていた。ふたり一気での弾丸摘出。極度の緊張と疲労から、眠れないほどだった。酒を含ませて、ようやくで眠りについた。

 精密射撃手マークスマンとは聞いていたが、鎮圧部隊の被害の大半は、白兵戦だった。森に紛れての不意打ちができるということは、正面切ってもやれるかもしれない。銃が苦手なロッシュとしては、そっちのほうが好都合ではある。

「まさか初回で二百人相当分のごはんを作る羽目になるとはね。思い切っての手抜き料理だ」

 ティナが来ていた。資料室室長と兼任して、後方支援室の室長も担当している。

 煮込み料理。淡い褐色。ほぐれきった鶏肉と豆、繊維状になるまで煮込まれた玉ねぎが入っていることはわかった。添えられているのは、蒸した芋だった。

 口に含む。いくらか辛い。複雑なようで、シンプルな旨味が先に来る。作法なんか後回しで、かっこみたい美味さだった。

「エルトゥールルより更に南東。灼熱の国、シュリニヴァーザの料理から着想を得た香辛料煮込みだ。秋雨で体が冷えているだろうから、香辛料で芯から温まるといいよ」

「これで手抜きですか。凄いっすね、ティナ室長殿」

「ちゃんとしたごはんとして食べるなら、芋じゃなくてお米がいいだろうね、それとサラダが欲しいところだ。明日からはもうちょっと頑張るから、今日はこれで辛抱してくれたまえよ」

 美貌を、抜群の笑みで崩していた。

 先遣隊として、ロッシュ、ゴフ、ルキエ、ペルグランが内部に侵入を試みることになった。その間、刑務局鎮圧部隊の方で、正面から圧をかける。

 ゴフが前衛、ペルグランとルキエが中心、そしてロッシュが殿という役割になった。

「ガブリエリの道を拓く。物理的にも、精神的にも」

「物理は俺、精神は二郎だな。船の上での実力、おかの上でも見せてもらうじゃないか」

 口の悪さとは裏腹な、朗らかな笑みで、ゴフが背中を叩いてきた。

「ルキエは絶対に、ペルグランから離れるなよ。今回ばかりは、お前の目と洞察力すらも上回ってくるかもしらん」

「わかった。生命、預けるよ。ルイちゃん」

「お互いに」

 そういってふたり、拳を突き合わせていた。

 開始。迂回しつつ、建物に近づいていく。

 みやる。建物からは、確実に人の気配。ただ、何人もいるような気すらする。

「やる気満々。生き生きとしてやがる」

 思わず、口に出した。

「いいぞ、マックス。そうやって、口に出していってくれ」

「肉体と精神と場所が合致した状態。今までは、それがばらばらだった。極度の緊張状態で敵意に晒されることに、体も精神も慣れている。一周回って、そっちの方が楽になってしまっている」

「飽和させて、破綻させることはできるか?」

「できなくはない。ただ、こっちが敵意を見せれば見せるほど、相手も動きが良くなる。燃料切れまで、死闘になる。アンリ少尉殿が疲れ切っている今、こっちとしては下策になると思う」

「アンリを守るっていう、護衛戦にもなるわけだね」

 ルキエ。性別を越えて結ばれた愛しい人のことである。心配だろう。

 警察隊本部では、ダンクルベールの直属で教育を受けていた。“行動分析学”という、ダンクルベールの見立てを理論立てたものを学んでいる。筋が良いとは言われたが、まだまだその神智には及びもしない。

 建物に差し掛かった。右翼側。割れたガラス窓から侵入する。

 明かりは使えない。暗がりの中、自分の感覚だけが頼りになる。

「第三監獄ってなあ」

 ゴフだった。

「こんな感じだったのかしらい?」

「似たような感じではあります。あっちはもっと、お化け屋敷。何が出てくるか、想像もつかない。今回は、相手が決まりきっていますから」

「それでも、どこから出てくるかは」

 そこまで、言ったぐらいだった。

 ゴフの手が上がる。

 何かの吐息。そして、足音。

 人じゃない。

「野犬の家族だな。ペルグランが一発撃ったら、接近戦だ。噛まれたら変な病気をもらう羽目になるから、とにかくぶん回せ。ルキエは物陰に隠れてろ」

「了解」

 ペルグランが、その場に座り込んだ。

 はじめて見る構え。あぐらをかくように座り込んでから、前足の膝を立て、その膝を抱きかかえるようにして銃を保持していた。

「変な構えだろ?」

「なんだい、兄貴。そいつは」

「先代のブロスキ男爵マレンツィオ閣下から教わったんだ」

 銃剣付きの、後装式施条ライフル銃。

 銃声。けものの声。こっちに来る。

 大きな個体。母親か。闇の中、牙の白さが際立っていた。

「こなくそっ」

 大きく開いた顎に、舶刀カトラスをぶち込んだ。肉に突き刺さる感覚。振りほどこうと、首を振る動きの力強さ。爪を立てた前足が、油合羽あぶらがっぱを引っ掻いてくる。

 腹に蹴りをぶち込んだ。それで離れる。横たわり、ぜえぜえと荒い息を立てていた。

「ごめんよ、ワンちゃん」

 それだけ詫びて、首筋に短剣を。

 見渡す。全員、終わったようだった。

「怪我は、無いな?」

「大丈夫です」

 そう言って、振り返ったぐらいだった。

「ルキエッ」

 ペルグランの声。

 ルキエの後ろ。誰かいる。

 何かを、振りかぶった。

 ルキエが後ろ向きのまま、背中でそれにぶつかりに行った。よろめく。すかさずゴフ。駆けよって、ルキエの体を抱きとめていた。

「下がるぞっ」

 ゴフ。

 近くの窓から、外に飛び出た。一目散で、とにかく森の中へ。木の後ろに隠れた。

「マックス、忘れ物はしてきたか?」

「万全。きっと中身、ぐちゃぐちゃだろうけど」

「大丈夫だって。今日のは、そうやって食ってもうまいやつだからな」

 男三人、息を切らしながらで笑った。

 ティナが作った料理を、いくらか貰っていた。それを置いてきたのである。

 美味いめしは、人の心を取り戻させるはずだ。

「ルキエ軍曹は、無事ですか」

 近寄る。怯えて、震えていた。忘我とまではいかないが、恐怖が強く出ている。

 本営に戻ることにした。

 全員、衛生救護班に状態を診てもらうことにした。野犬との戦闘で噛まれたり、ひっかかれたりは無かった。

 ルキエも無事だったが、まだ怯えが強い。

「アンリさんと一緒に寝てなさい」

「ルイちゃん、あたし」

「姿勢、正せ」

 詰め寄ったルキエに対し、ペルグランがひと言。

 そうして、軽く頬を張った。

「まだまだ出番はある。眠って、万全になってくれ」

「ごめん。足手まといになったとばかり」

「誰だってそうなりうる。だからそうならないようにしよう」

「ありがとうございました」

 一礼して、天幕に向かった。

「俺たちは、もう一回入るか」

 ゴフに促され、ふたりで頷いた。

「モルコも到着している。二方向から行こう。俺とモルコ。ペルグラン兄弟で行く」

「了解しました。行こう、マックス」

「おうよ、兄貴」

 拳。突き合わせた。

 そのひとを兄と知ったのは、およそ一年前だった。

 父は見たことがなかったし、母はロッシュが海軍に入隊するあたりで亡くなった。

 母は何かにすがっていた。もしくは、取り憑かれていた。

 ニコラ・ペルグランになりなさい。そればかりを言われて育った。

 だから奉公先も、海軍に縁のあるところを選んで、その人の紹介で、兵卒として海軍に入隊した。配属された部署はいい人が多かったので、そこがもうひとつの家庭だとも思っていた。

 ニコラ・ペルグラン。母に刷り込まれたものは、憧れになっていた。そしてその血筋たるルイソン・ペルグランも。船ではなく、法の上で戦う男として。

 そのニコラ・ペルグランの名が虚像であることがわかったのが、一年前。国家転覆の陰謀への加担。脱税、資金洗浄などの金銭問題。贈収賄に役職の売買。そして、婚外子の存在と、山ほどの疑惑が突如として湧いて出てきた。

 失意の中にあった。憧れたものが瓦礫の山だったことに対しての悲しみがあった。母は、薄っぺらな虚像に惑わされていたのだと。

 にわかに身辺が慌ただしくなったのは、少しもしないうちだった。海軍の中にいる、すべての“ニコラ”が粛清されはじめた。部署の親玉も“ニコラ”だったため、捕縛され、罷免された。

 宙ぶらりんになった部署の中で、自分だけが呼び出された。案内された部屋の中にいたのは、あのダンクルベールのお殿さまだった。

 詳しいことを聞かされた。父は、かのルイソン・ペルグランの実父たるフェルディナン・ニコラだった。父は母を弄び、子ができると捨てたのだという。それをルイソン・ペルグランが暴き出し、あらゆる“ニコラ”を焼いて清めていると。

 ふたつ、用意された。マクシミリアン・ロッシュとして、海軍下士官として生きる道。そしてマクシミリアン・ルイソン・ペルグランとして、兄とともに法の下、戦う道。

 後者を選んだ。“ニコラ”という海に、用事は無くなっていた。

 “赤いインパチエンス亭”という酒場で、兄と会った。はじめて会う感覚が薄かった。出会って二、三、言葉を交わしただけで、兄と呼んでいた。あるいは義姉であるインパチエンスに対しても同様に、姉と呼んでいた。

 マクシミリアン・ルイソン・ペルグラン・ロッシュ。それが新しい自分。そして今まで通りの自分。頭の一部をちょっと切り替えるだけで、そうなれた。

 いつしかダンクルベールにも気に入られ、見立ての教育を受けるようにもなった。あのダンクルベールのお殿さまが、どのような考えをしているのか、どのように考えを組み立てていくのか、それを学ぶ日々。

 驚きばかりだった。わからないことばかりだった。その、わからないことがあるということが、楽しかった。今の原動力になっていた。

 毎日とは未知。未知の中に飛び込んで生きてきた。未知はこわいものだけど、楽しいものでもある。ルイソン・ペルグラン、ダンクルベール、あるいは、警察隊本部という未知。

 船の間を跳んで渡るようなものだと、ロッシュは思っていた。

 また、迂回しながら近づいていく。正面からの圧は、相手にしていないようだ。近づきながら、何度か狙われている雰囲気を察した。

「用事のある連中に、狙いを切り替えた。積極的に俺たちを狩りに来る」

「用心しよう。めしは食ったと思うか?」

「食ってる。そのうえで、狙いに来る。めしと俺たちがまだ、結びついていないかもしれない」

「なるほどね。本当に、けものみたいだ」

 苦笑したようだった。

 建物に張り付いた。中に入る。

「銃は最後だ。言葉でいけるか、試してみよう」

「盾になるよ、兄貴」

「任せるぜ、マックス」

 拳を突き合わせた。暗闇の中、笑みを浮かべあった。

 壁沿いに進んでいく。頭上注意。崩れている場所から、撃ち下ろされるかもしれない。

 進んでいく中、不意にペルグランが、肩を叩いてきた。すかさずで物陰に隠れる。

 銃声。壁に、何かが当たる。

「後ろにいた」

「危ねえ。すまなかった、兄貴」

「お互い様だ。こうなったら、やり合うしかない。隠れられそうな部屋を探してほしい」

 頷いた。

 ペルグランが座り込む。あの構え。何度かの銃声と閃光。

 三区画ほど先の部屋。扉が頑丈だった。そこまで退いた。少しして、ペルグランが入ってくる。

 ドアの両隣に、ひとりずつ陣取った。人の気配。近づいてくる。

 ペルグランが何度か、ドアを叩いた。

 しばらくして、向こう側から三度、叩かれた。

「話を、できるか?」

 ペルグラン。先程の応戦のためか、肩は上下していた。

「どうして女を連れてきた?」

 男の、暗い声。震えている。

「あれもまた、軍人だ。死ぬ覚悟はできている」

「それでも、いやだ。俺はもう、女や子どもを撃ちたくない」

「よく聞いてくれ。あんたがあの拠点にいた間、女性や子どもの被害は一件もない。ほとんどが牛とか馬だ。人ですらない」

「俺にとっては、そうだった。あれは人だった。軍服を着た敵。不用意に近づく女や子ども。だから、撃ち殺すしかなかった」

「今、俺のことは人だと思って話しているか?」

「よくわからない。本当は顔を見て話すべきだろう。でも、この方がいい。ここを開ければ、俺は撃ってしまう」

「そうか。なら、このまま続ける。一旦、周りを見てくれ。誰か来ていないか?」

 一拍、置いて。

「大丈夫だ」

「よし。いいか、よく聞け」

 ペルグランも、一拍を置いた。それ以上かもしれない。

「帰ろう。撤退命令が出ている」

 反応が、薄らいだ。

「駄目だ、わからない。この間、俺は幻の中でそれを聞いた。そして、殺した」

「そうか。なら、一旦退く。何度かこうやって会おう。めしは食ったか?」

「食った。温かかったし、美味かった。ありがとう。この部屋の窓の下に、仕掛けを置いていたはずだ。帰りは気をつけてくれ。俺ももう、わからなくなってきている」

「わかった、ありがとう」

 ロッシュは先に、部屋の窓に取り付いた。開けて、下を覗く。トラバサミのようなものがひとつ。

 注意して外に飛び降り、仕掛けを放り捨てた。

 ペルグランが外に出たあたりで、叫び声が上がった。銃声。今いた部屋を、撃ちまくっている。

「幻覚を思い出したみたいだ」

「撤退命令だけでは、不足なのかな。何かと組み合わせる必要がある。マンディアルグ伯領なら、オーベリソン曹長とか」

「よくないと思う。幻覚の中で、アンリ少尉殿とビョルン一等を見ている」

「となればもう」

 駆けながら、ペルグランがひねり出した。

「殺すしか、ない」

 ロッシュとしても、それしか思い浮かばなかった。

 本営まで戻ってきた。入れ替わりで、スーリとルキエで入るらしい。

「錯乱しています。撤退命令だけでは通じなかった。何かしらの鍵がある。それが見つからないと、殺すしかなくなる」

「となりゃあ、おいらたちは入るだけにしよう。中の把握と、罠の解除が主軸だ」

 そう言って、建物に向かっていった。

 めしの残りを貰って、腹に収めた。辛さが心地よかった。

 天幕の中に入ってきたのは、ビアトリクスだった。

「お疲れ。あんたたちは寝て頂戴。朝まででも大丈夫」

「承知しました。ただ、俺は大丈夫ですが」

 ペルグランをみやる。

 張り詰めていた。あのやり取りだけで、相当に気を張っていたのだろう。

「ペルグラン大尉、起立」

 ビアトリクスが、一声。

 油合羽あぶらがっぱを脱ぐ。ブラウス一枚。ジレやアスコットは付けないことが多かった。それだけで、女のと、いくらかの汗の匂いが広がる。

 そうして、ペルグランの前に立った。

「おばさんので、ごめんね」

 抱擁だった。

「いえ、むしろ最高です。インパチエンスには、内緒でお願いします」

 ペルグランの顔は、ふやけていた。

 その身体が離れた途端、崩折れるようにして、仮設寝台の上に倒れ込んでいた。

「ロッシュ伍長は、いる?」

「すみません。もらっときます」

「よし。姿勢、正せ」

 そうして、立ち上がった。

 近づいてくる。峻厳な美貌。切りそろえた髪。淡い桃色の唇。はっきりした眉。

「お疲れ」

 柔らかく、湿ったものに包まれた。

「こりゃあ、たまんねえや」

 思わず、こぼしていた。

 そうして、とろけた。


6.


 撤退命令では落ちなかった。

 本営作戦本部。ビアトリクス、デュシュマン、ティナ、ガブリエリで、今後の方針を話していった。

 ガブリエリとしては、できるだけ殺したくなかった。しかしその選択肢が見当たらない。現実と空想の区別がつかない。このひとつが、すべてを否定しうる。

「精神を、殺す」

 それを言い出したのは、ティナだった。

精密射撃手マークスマンひとりを、壊す。煙幕。飽和射撃。擲弾。極限状態を、飽和させる」

「あんたはそれをやられてきた側だろう、ティナさん。それでも、言うかね?」

「無論、どれだけそれがつらいかは、私が身を以て体験している。だからこそ、これ以上の被害を出さないためにも、それをやる。手段を選べるほど、贅沢な状況にはない」

 美貌をつらいもので歪ませながら、ティナは呻くように。

 ファーティナ・リュリ、あるいはシェラドゥルーガ。

 それはお伽噺で伝えられてきた悪魔の名であり、かつてこの地に実在し、信奉されてきた神の名でもある。そして、そのすべてをヴァーヌ聖教に滅ぼされ、塗りつぶされた、歴史改竄と民族浄化の被害者の名でも。

 第三監獄で、シェラドゥルーガは、シェラドゥルーガであることを突きつけられた。誰ひとり守れなかったあの日を。人を愛するものでありながら、人を害し続けてきた存在であることを。そして苦しみ、もがき、泣き叫んだ。

 肉体の死では死を迎えないならば、精神を追い詰め、心を壊して殺す。おそらくはヴァーヌ聖教会が考えついたものを、フレデリク・ニコラたち軍の急進派が具体化した、悪辣な手法だった。

 そして、その壊れゆく精神を立て直したのは、“棟梁”と渾名されるデュシュマンである。

「心の壊れた人が生きるには、この世間はつらすぎる。そしてその、周りの人たちも」

「それも、貴女は経験している。それを取り込むとどうなるかをも」

「そうだね。あの時はマギー君と棟梁はいなかったけど、本当につらかった。うちの人とムッシュに殺してもらって、なんとか乗り越えた」

 ため息。天を仰ぎながら。

 そのひとの尊厳のために、我々は呆けた老婆をシェラドゥルーガに喰らわせたこともあった。壊れた心は、化け物の精神を蝕み、風穴を開けて消えていった。

 ひとりの人生が、夢となって、消えた。そういうことも、経てきた。

「撤退命令が効かないのは、帰る場所がないからだ。おかえりと言ってくれる人がいないから、どこに帰ればいいかわからないんだ」

「やはり、理想論に過ぎなかったのね」

 ビアトリクスが悲しい顔で、額を押さえた。

「諦めるのが早いよ、マギー君」

 ぱん、と手の鳴る音。

「なければ作ればいい。簡単な話だよ」

 にこやかに。

 見渡す。デュシュマンもビアトリクスも、ぽかんとしている。

「ガブリエリ君、アンリが起きているようであれば、連れてきてくれたまえ。もしくはビョルン君かオーベリソン殿でもいい」

「つまりは、マンディアルグ伯領ですか?」

「左利きの人がいる。その人に頼もうかとね」

 ティナの美貌が、自身ありげに綻んでいた。

「つまりは、ちょっとした“悪戯いたずら”さ」

 それで、ガブリエリも笑った。

 なるほどね。どうやるかはさておいて、マンディアルグ伯領に帰る場所を用意するってわけだ。

 アンリたち三人が起きていたので、三人とも連れてきた。

 戻ってきたとき、ティナは椅子の上で、眠りこくったように俯いていた。

 おそらくは、はじまっている。

「私の可愛いアンリ。手を、貸しておくれ。あの人の心を、見つけに行く」

「はい、ティナさん」

 言われるがまま、アンリはティナの前で屈み、その両手を取った。

 少しして、アンリの小さな体が、軽く震えた。

「夜分遅く、失礼します。クレマンソーさま」

「おひさしぶりです、アンリさま」

 ティナの口から、男の声が聞こえた。

 間違いない。あの人の声だ。

「ちょっとだけ、びっくりしています。これはもしや、アンリさまの、聖人としてのお力なのでしょうか?」

「いいえ。私の知り合いの力。ちょっとした“悪戯いたずら”が好きなんです」

「そうなんですね。不思議なこともあるものです。ビョルン君に、オーベリソンさん、そしてガブリエリさんもいらっしゃって」

 その言葉に、ビョルンとオーベリソンが、己の胸をどん、と叩いた。

「最果ての地、氷河のはらを切り拓いた、双角王そうかくおうの名に誓い。我ら、同郷の友。オーベリソン一家です」

 ティナのそれとは違った、柔和な笑みだった。全体を見渡してから、ビアトリクスの方に向き直る。

「あらためまして、クレマンソー。こちらのアンリさまに、向こう傷を負わせたものです」

 その言葉に、ビアトリクスとデュシュマンは口を抑えていた。

「お二方とはきっと、はじめましてになりますものね」

「ええ、ええ。こちら、捜査一課課長、ビアトリクス。そしてこちらはデュシュマンと申します」

 促され、デュシュマンが軍帽を脱ぎ、敬礼した。ティナの姿をしたクレマンソーは、微笑みながら敬礼を返した。

「兵隊ひとり、居場所を作ってもらいたいのです、クレマンソーさん。そして撤退命令を下して欲しい。私たちが、それを彼に伝えます」

「もしかして、何年か前の報道に出ていた、ジュネストという人でしょうか?」

「ご賢察のとおりです。精神が破綻し、廃屋に立てこもっている。どうにか、生きて帰したい」

「かしこまりました。それでは紙とペンをお願いします」

 言われた通り、紙とペン、それと卓を用意した。

 ティナは、ペンを左手で取った。

「こちらに記載した通りです。作戦終了につき、撤退を命ずる。撤退後の集合地点は、マンディアルグ伯領、クレマンソー農園前。集合地点にて次の任務を命じる。時期は問わないので、身の安全の確保を最優先にすること。以上、マンディアルグ伯軍、歩兵大尉。ジャン=ポール・クレマンソー」

 ガブリエリはそれを恭しく受け取り、封筒の中にしまい込んだ。

「確かに、承りました」

「同郷の友を、どうか、よろしくお願いします」

「相分かった。突然のお願いにも関わらずご協力いただき、ありがとうございます。クレマンソーさん」

「そのうちに、新作の蜂蜜酒ミードを持って伺いますので」

 その言葉に、オーベリソンが綻んだ。

「楽しみですな。クレマンソーさんの蜂蜜酒ミード、うちの周りでも好評なんですよ。是非にでも」

「ありがとうございます。そしてアンリさま。あなたのお役に立てたこと、本当に嬉しく思います。思いがけないかたちで、恩返しができました」

「こちらこそ、ご厚意を深く、感謝いたします。またお会いしましょう。今度は、ちゃんとしたかたちで」

 微笑みひとつ。

 ティナの顎が、がくりと落ちた。そうしてゆっくりと、また頭を上げた。

 瞳は煌々と、あかく輝いていた。

「どうやら、うまく行ったようだね」

「はい。ちゃんとお話できました」

「すごいもんですなあ、ちょっとした商売になるんじゃないですか?」

「あはは。ちょっと考えておこうかね」

 からからと、ティナの顔で笑っていた。

「俺は経緯を知らんからわからんが、アンリは、その向こう傷を負わせた男をゆるしていたのかね?そしてカスパルさんも?」

「はい、棟梁。私はゆるしました。そしてお父さんも、あの方をゆるせました。すごい大変でしたけど」

 アンリの言葉に、オーベリソンは気恥ずかしそうにしていた。

「最初はゆるせなかった。グレッグさんも父親だからそうだろうけど、娘の顔に刃物傷を負わせた男なんて、ゆるせるわけないでしょう?」

「そりゃあそうだ。でもあんた、できたんだね?カスパルさん」

「このこたちのおかげでね。そしてその時、俺とアンリは本当の父娘おやこになれました」

 そうして、ビョルンの肩に手を置いた。

「長官や局長閣下、法務部部長のオダン大佐、そしてなにより、警察隊本部の皆さんのおかげです。だから俺、奉公が終わったら警察隊本部に入るって決めたんです」

 ビョルン。まだ幼さの残る凛々しい顔が微笑む。

「私はあの時、別件で対応できなかったけど、ほぼ警察隊本部総動員で、オーベリソン曹長を説得してたものね。どうかゆるしてやってくれって」

 ビアトリクスが、懐かしむような声を上げた。

 クレマンソー。戦乱の地、マンディアルグ伯領のもと私兵。アンリの象徴たる向こう傷を負わせて服役。刑を全うした後も故郷で迫害に遭い、帰る場所を失っていた、まさしく今のジュネストと同じ状況にいた男。

 オーベリソンに、クレマンソーという男ひとりをゆるさせる。アンリとビョルン、ふたりの子どもたちの、小さな願い。それを叶えるため、警察隊本部どころか司法警察局、法務部に悪党までもが走り回った、重要案件だった。

 皆で、先へ進んだ。オーベリソンも、クレマンソーも、アンリたちも、郷里の人々も。そうやって、マンディアルグ伯領は、あの冬の日から進むことができた。

 クレマンソーは、ジュネストと同じ境遇を経てきたからこそ、きっと理解が早かったのだろう。こうやって、帰る場所を用意してくれた。

「懐かしいねえ。ビョルン君が、アンリ姉ちゃんと結婚するって騒いんだんだもの。私たち、サントアンリ原理主義者としては、聞き捨てならなかったよ」

「ありましたね。あの時は可哀想な思いをさせてしまった。すまんな、ビョルン二等」

「謹んでお恨み申し上げますよ、ガブリエリ中尉殿とリュリ中尉殿」

 ビョルンが難しい顔で、赤くなった。

 方針は決定した。この撤退命令をジュネストに伝えれば、きっとわかってもらえる。

 朝まで休眠を取った。身を清め、“長合羽ちょうがっぱ”に身を包む。そうして、髪を後ろに流す。

 天下御免の無頼漢、ガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキ。男ひとり、郷里に帰す。それをやる。

「貴様をジュネストのところまで届ければいいわけだな?」

 朝めしを食いながら、昨日のことをペルグランに伝えた。

「ティナさんも上手いこと考えたもんだよ。そしてクレマンソーさんも、上手にやってくれた」

「ありがたい限りだ。あの人の蜂蜜酒ミード、うちで出せるかどうか、俺のインパチエンスと相談してみるよ」

「そいつはいいお礼の仕方だね。さて面子メンツですが、誰が適任でしょうか?」

「オールスター。囮として、精密射撃手マークスマンのペルグランとモルコ。前衛にルキエとスーリ。後衛に俺と二郎。お前の護衛にオーベリソンで行こう」

 一足早く、めしを腹に収め終わったゴフが並べた。いつでも動けるようにという配慮だろうが、この人は、めしを食うのがてきぱきとしている。

「アンリを入れるかどうかで悩んだが、オーベリソンがいいだろう。アンリに対する拒絶反応は、きっと潜在的な嫉妬みたいなものだ。故郷の戦乱で聖人になったアンリと、置き去りにされて、ひとごろしだの敗残兵だの罵られたジュネストだ」

「なるほど。ゴフ隊長は、そういうところがすごいですよね。たどり着けなかった」

「まあ、思いつきだがね。ともかく攻撃を一切止めて、できれば真正面から乗り込みたいね。戦況次第だが、相手も一切の手を緩めていない。こっちに攻め込んでくるぐらいまである。絶好調も絶好調だ」

 悪態半分、ゴフが顔をしかめた。

 用意ができ次第、出発ということになった。各位、三十分ほどで整った。

 正面からの攻撃は、止めさせた。それで、正面から突入する。

「いる。二階。見てる」

 ルキエが早かった。

 大急ぎで建物まで張り付いた。ルキエ、ペルグラン、モルコの三人が正面に残って、視線を引き付けている。その間、残りの面々で正面玄関から中に入った。

 銃声。結局は、撃ち合いか。外を見ると、三人、うまく物陰に取り付いているようだった。

「右翼の二階。一気に行こう」

 スーリが先頭に立った。

 他のものに比べると、ガブリエリは戦える人間ではない。歩いているうちに、こういった軍事行動は、不得手になっていった。今、眼の前でゴフたちがやってくれている室内掃討ルームクリアリングなどは、最も苦手と言っていい。

 戦場への突入。心拍数が上がっている。震えそうになるのを、心のなかで何度も叱りつけた。

 私がこわがってどうする。こわい思いをしているのは、ジュネストなんだぞ。

 ひとつの部屋の前で、スーリが聞き耳を立てた。そうしてゴフに頷いてみせる。

「この部屋だ。三回ノックで行くぞ、オーベリソン」

「相分かった。ガブリエリ中尉殿は、後ろに」

「頼みました、曹長」

 ゴフ。扉を三回、ノックする。

 突入。

「ジュネスト名誉軍曹、それまでっ」

 オーベリソンの大喝。それで、乗り込んだ。

 すでに向き直っている。小銃を構えてしゃがみ込む男。体が震えている。

「マンディアルグ伯領軍、クレマンソー大尉殿より、貴官に正式な撤退命令あり。聞く姿勢、用意」

「知らない名だ。適当を言ってるんじゃないだろうな?」

「貴官の直接の上官ではない。すでに退役もなされている。それでも貴官の状況を把握し、撤退命令を下してくれた。頼む、聞くだけ聞いてくれ」

 オーベリソンが両手を上げ、ゆっくりと近づいた。

「俺も、マンディアルグ伯領出身だ。自警団。貴官らとは長く、敵と味方をやってきた」

「あんた、あの時のひとなのか?」

「そうだ。よく覚えていてくれた。なあ、頼む。神妙にすれば、それでよしだ。そうやって、全部まとめて終わりにしよう。ここに全部、置いていこうや」

 その言葉で、幾分か落ち着いたようだった。

 封筒ひとつ、取り出して渡した。

「作戦終了につき、撤退を命ずる。撤退後の集合地点は、マンディアルグ伯領、クレマンソー農園前。集合地点にて次の任務を命じる。以上」

 その内容と言葉に、ジュネストの頬にひとすじが伝った。

「了解しました」

 そうやって、うなだれた。

 立てないようだった。ロッシュが肩を貸して、立ち上がらせていた。ジュネストはずっと、嗚咽していた。

 戦場からの帰還。勝利者などいない戦いに疲れ果てた、ひとりの英雄の帰路を導く。それが、ようやく叶った。

 外に出た、鎮圧部隊が整列していた。

「捧げぇ、つつ

 ざっと、音が重なる。デュシュマンの声だった。

「任務完了、ご苦労でした。身を清めるものと、めしを用意している。それから動こう」

「ご迷惑を、おかけしました」

「俺も、もと刑務官だ。此度の件、貴官に対し、非礼を詫びねばならん」

 軍帽を取って、最敬礼。

 本営まで連れていき、身を清めさせた。そのあと、めしを食わせた。昨日の夜のものと似た味付けの、香辛料の煮込み料理。体の芯から温まる、美味いものだった。

 貪るように食っていたのが、痛ましかった。

「長い戦いだったな」

「ずっと、終わらなかった。きっとまだ終わっていない。それでも、区切りが入ったのだと思う」

「そいつはよかった。あんたを殺したくはなかったから、なんとか気を回したよ」

「ありがとう。きっと死ぬものだとばかり思っていたから」

 ペルグランの淹れた珈琲コーヒー。豆は軍支給のものだが、淹れ方が上手で、香りがよく立っていた。

「ファビアンがさ」

 それを飲み終わったあたり、ぽつりと、ジュネストが漏らした。

「一番、付き合いの長いやつだ。綺麗な、かみさん貰えたって。テニスで知り合ったってさ。でもそいつ、振り返ったら、いなくなってた。吹っ飛んでたんだよ。あいつの血と腹の中身に塗れながら、必死になって手当したよ。その間ずっと、帰りたいって。ディアヌ、ディアヌって。そうして、そのまま」

 ぼろぼろと、泣きながら。

「誰も助けてくれなかった。もう、何年にもなる。まるで悪夢だ。どうにもならない悪夢ばかり、繰り返してるんだ」

 顔を覆い、子どものように泣きじゃくっていた。

 聞いても、見てもいられなかった。過去に取り残されたもの。ただひとり、生き残ってしまったもの。

 ティナを見やった。つらそうに、目を伏せていた。自分のあり得た姿。それが目の前にある。

 先へ進もう。本当はそう言いたいのかもしれない。でもこの人の進むべき先とは、どこだったのだろう。

 にわかに外が騒がしくなった。

「やめなさい、入るなっ」

 オーベリソンの声。

 それを押しのけて、小柄な体が、天幕に飛び込んできた。

「ごめんなさい」

 そのひとは、涙を流しながら。

「あなたを救うことが、できなかった」

 向こう傷の聖女、サントアンリ。

 ジュネストを抱きとめて、震えていた。

「ようやく」

 そうやって、しばらくしてから。そのジュネストの声は、本当に穏やかだった。

「ようやく、帰れる」

 それを言っただけだった。

 ジュネストの体が、アンリにもたれかかった。もしや。

「大丈夫。眠っただけ」

 涙を流しながらも、気丈な言葉でアンリは応えた。

「ようやく、帰れるね。よかったね」

 その身体を仮設寝台に横たえ、アンリはそれでも、その手をずっと握りしめていた。


7.


 蜂蜜酒ミードを飲むのは、久しぶりだった。

 以前に飲んだものは、もっとどろっとしていた記憶がある。クレマンソーが持ってきてくれたそれは、さらりとして軽やかで、それでいて爽やかな甘みがあって、美味しかった。

「こりゃいいです。食前酒にも食中酒にもいける。赤ワインのかわりに、肉とかナッツに合わせても美味しいでしょうね」

「ありがとうございます。かのルイソン・ペルグランにそう言っていただけるなら、うちも宣伝しがいがありますよ」

「銘も面白いですね。“アンリの一杯ボエソン・ド・アンリ”だなんて。許可貰ってるんですか?」

「アンリさまが付けてくださいましたもの」

 クレマンソーの横で、赤い顔のアンリが微笑んでいた。

「薄めれば、私でも長く楽しめるから」

「それはがんしたわ。まずは期間限定で取り扱ってみあんしょか」

 インパチエンスも満足そうだった。息子のエーミールがひとつを越えてから、ようやく酒に戻りはじめていたころだった。

 ジュネストの刑務病棟脱走は、刑務官の職務怠慢として処理され、罪には問われなかった。逃走中の銃撃を含む殺傷行為も、不起訴処分に終わった。

 先の二名殺害についてのみ、心神喪失状態かつ過失の犯行ということで、執行猶予五年、療養扱いの禁固三年で終着するとのことだった。

 戦乱は未だ、人々の心のなかで燻っている。いつかのオーベリソンのときのように。そして今回のジュネストのように。

 きっと長い時間を要するだろう。戦った時間の何倍もの時間を。

「俺の農園で、過ごさせます。牛や羊もいますし、そういうので心を癒せると思いますので」

「ご面倒をおかけします」

「郷里の人を助けるのは、同郷の人間としては自然なことですよ」

 笑って、クレマンソーは帰っていった。

 同郷。その言葉に、心がちくりと傷んだ。

 ペルグランは、郷里を焼いて捨てていた。産まれた家、そのものと一緒に。

 アズナヴール伯領。今は、王領となっている。兄王子の縁者が名跡みょうせきを継いでいるらしい。経営は安定していないとも聞いている。

 そして一部では、ルイソン・ペルグランをこそ領主にという声も上がっているとも。

 話自体は、何度か来てはいた。すべて断った。それがいやで家を焼き、郷里を捨てたのだと言って。何より、今の仕事を放っぽり出してまで、傾いた領土の経営なんてやりたくなかった。

 “ニコラ”という偶像を海に捨てたはずなのに、今、“ルイソン”の名は、偶像になりかけている。それがいくらか、もどかしかった。

「俺の郷里は」

 非番の日。ティナとマレンツィオ夫妻が遊びに来ていた。店で昼食を食べながら、ぽつりと漏らしていた。

「どこなんだろうと、思うときがあります」

 その言葉に、インパチエンスが難しい顔をした。

「信義にもとる行いをした家を滅ぼした今、俺の帰るべき場所とは、どこなんだろうと」

「ルイちゃん。その話は」

「話だけでもさせてくれ。俺のインパチエンス」

 差し出された蜂蜜酒ミードの味が、あまりわからなかった。

「インパチエンスには南東という故郷がある。カンパニュールやコロニラにも、産まれた場所というのはあるはずだ。俺はそれを、自分から破いて捨てた。そうした時、俺はどこに帰るべきなのだろうか?」

「ルイソン・ペルグランさま。それはね、簡単なおはなし」

 穏やかな声。シャルロットだった。紅茶を淹れてくれた。

「お母さんのところ」

 そう言って、微笑んだ。

「人の郷里は、場所もそうだけど、人もそう。貴方はお母さんのために事を成した。それであれば、お母さんが貴方の故郷。貴方の源流であり、貴方の行動原理の一部。だから道に迷ったら、お母さんのところに行くのがよろしくてよ?」

「母上、ですか」

「インパチエンスさんやカンパニュールさん、コロニラさんも、故郷はお母さん。花たちの母、ジョゼフィーヌさまのおられるところが、皆の故郷なんですから。何も心配するあんつかるこたないんだす」

 その言葉に、合点がいった気がした。

 そうだ。母上だ。俺は母上のために男になり、親父おやじの息子になったんだ。だから母上のところに帰ればいい。

 豪快な笑い声が上がった。マレンツィオだった。巨体を揺らして笑っている。ティナも、くすくすと笑っていた。

「流石は愛しいお前。若人の悩みに真摯に答え、道を示すとはなあ。やはり、俺の帰るべき場所なだけはある」

「あらあら。今さらおだてても何も出ませんでしてよ」

「本当に、こういうのはシャルロット姉さまだね。これだけで、今日はお酒が美味しいよ。コロニラ君、カンパニュール君、そうだろう?」

「同意見。ルイにいも、そんなことでくよくよ悩まないの。お母さんもいるし、姉さんもいるじゃない。なんだったら私たちだって」

「そうよ、兄さん。たまには私たちにだって甘えてよ?いっつも甘えてばかりで申し訳ないって思ってるんだから」

 四人、機嫌良さそうに杯を掲げた。お淑やかなカンパニュールだが、マレンツィオがいると空気に当てられるのか、が多分によくなる。

「議長さま。きっとルイにいね。最近、考えさせられる事件ばっかり担当してるから、気が滅入ってるだけだと思うの。でもさ、やっぱり悩んだって仕方ないことだって、いっぱいあるじゃない?私、そういうことだと思ってるの」

「おお、おお。流石はコロニラ君だ。その通りだ。答えの出ないことなんて山ほどある。そういう場合は、次の問いに進めばよい。時間が余ったら立ち戻って、もう一度考え直すのだよ」

「人生、面白く生きなきゃ、面白くない、ですもんね」

「そうとも、カンパニュール君。それこそは俺の行動原理だ。面白くしたけりゃ、面白く生きたまえよ、ルイソン・ペルグラン。爺になるまで、あと三十何年はあるぞ?そういうことは爺になってから考えるんだな」

「参りました。閣下は本当に、人生の達人ですよね。いつだって笑っていられるなんて」

「これが健康に一番いいからな。多分に肥えたが、海老の一件ぐらいで、他に病気などしたことがない。悩みも病も、全部、笑い飛ばしてしまえばいいのさ」

「あんたは単純でいいね。見習いたいぐらいだ」

「見習いたまえよ、ティナさんや。人間ってなあ、君が考えてるよか、何倍も単純な生き物なのさ」

 言って、呵々大笑。羨ましいぐらいに。

「うちの人のお陰で、私は人生が面白くなりました。私の郷里は、南東でもあるし、うちの人でもあるの。そういう、軽い気持ちで決めていいものだと思いますわよ」

「ありがとうございます。気が楽になりました」

 笑って、礼を返した。

 マレンツィオ夫妻。いつだって楽しく、面白く生きている。そこにいるだけで、雰囲気がぱっと明るくなる。

 きっとおたがい、そうあろうと務めているからだろう。だから他の人とも、そうやって触れ合うことができる。怒りは悪口に、悲しみは笑いに変えて、暇ができたときだけ悩んでいる。

 肥えた大翁と、小柄な老婦人。本当に、理想の夫婦のかたち。名前なんて関係のない、幸せを追い求め続けるふたりの姿。

「ティナさまにも故郷ができたことですし。これでもう、私の心残りは無いかしらね」

 シャルロットの言葉に、ティナがぎょっとした顔をした。

「ちょっと、姉さま。やめてよ。まるで死ぬようなこと言い出しちゃって」

「うふふ。ちょっとした、仕返し」

「何だよう。なんだかんだで根に持ってるじゃんか。姉さまは本当、意地悪だなあ」

 シャルロットとティナ。お祖母ちゃん姉妹ふたり、心から笑いあっていた。

 そのうちに奥から、とてとてと小さい姿が盆を掲げて走ってきた。腹違いの妹、メロディである。

「お待ちどうさまっ。議長さまの持ってきた鹿肉のローストだよ」

「ありがとう、メル。こいつは美味しそうだね」

「兄ちゃん。悩んだら、ごはんをいっぱい食べるんだよ。お母さんはそうやって、悩んだのを忘れてるんだってさ」

「おや、それではイヴェットさんは些かお悩みが多いご様子だね。このマレンツィオめであれば、いつでも相談に乗りますぞ?ただまあ、悩める貴婦人というのも、また魅力的ではあるのだがね」

 軽口と口説き文句の合わせ技で、イヴェットの頬が真っ赤になった。それを見て、皆で笑った。

 そうだ。俺の郷里はここだった。愛しのインパチエンスと姉妹たち。それを愛してくれるティナやマレンツィオたち。そして、ここを好きだと、気に入ったと言ってくれる人々。

 なければ作ればいい。簡単な話なんだ。

「ミディアムレアの鹿肉に蜂蜜酒ミードとは、なんだか野趣に溢れていていいなあ。愛しいお前が許してくれれば、手づかみで頬張りたいぐらいだよ」

「あなた、だめですよ。そういうのは、おうちでやりましょうね」

「はは。やはりだめか。よし。今日の晩餐の酒は蜂蜜酒ミードにしよう。舌が馬鹿になるぐらいに香辛料を効かせた肉料理で、中世ごっこをやろうじゃないか」

「はいはい。でも、お肉はちゃんとした味付けにしますからね。食べ物を大事にしないと、ミュザさまに怒られますわよ」

 まるで子どもをあやすようなシャルロットと、子どものようなマレンツィオのやりとり。本当に面白かった。

がんしたね、ルイちゃん」

 蜂蜜酒ミードを嗜みながら、インパチエンスが笑っていた。だから笑って、グラスを掲げてみせた。

 今いる場所を故郷に、楽しく生きよう。それが今日の決定事項。


(つづく)

Reference & Keyword

・一人だけの軍隊 / デイヴィット・マレル

・残留日本兵

・横井庄一

・Unter Donner und Blitz / Johann Strauss

・The Winner / 松原みき

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