なりたいものに、なるために
女というのはね。綺麗なだけでは、どうにもならないのよ。
それを褒めてくれる人、見初めてくれる人、抱きしめてくれる人がいないと、何もはじまらない。
手の甲にベーゼが欲しいだけなら紅を差せばいいし。
一夜を共にしたいだけなら、胸元をさらけ出せばいい。
何もかもを奪われたいのならば、心から綺麗でなくちゃ。
パトリシア・ドゥ・ボドリエール、著
“女男爵の憂い”より
「ねえ」
雨の中、不意に声をかけられたような気がした。
振り向く。それをみとめた途端、足がすくんだ。
「私、綺麗?」
赤いドレスを着た、痩せた女だと思う。見上げるほどの背丈で、痩躯のせいか、骨ばった肩が目立つ輪郭。
顔は、見えづらい。伸びっぱなしだが艶やかで、指通りの良さそうな黒髪で隠れていた。
「私、綺麗かしら?」
「は、はい。きっと、綺麗」
「あら、うれしい」
怯えながらの返答に、それはざらついた声質で、くすくすと笑った。
いやだ。何なの、この人。気持ち悪い。そればかり、頭の中に。
「これでも、私、綺麗?」
そう言って、その人は髪をかき分けた。
へたり込んでしまった。雨に濡れた石畳。尻が、冷たい。それがすぐに、生温かく感じはじめた。
見てしまった。顔。震えてきた。そして、恐怖が。
顔よりも、手に持っていたそれの方が。
壊れた、片刃だけになった裁ち鋏の方が。
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1.
婦女に対する斬りかかり事件。これで四件目。
事務机の上に短い足を放り投げながら、カトーは新聞にあったその部分を、どれどれと言ったふうに読み進めていた。
詳しくは書かれていないが、手持ちの情報と照らし合わせれば、色々と見えてくるものがある。被害者はすべて女性であり、その顔を傷つけられている。加害者は背の高い、女の格好をした、それでも性別がよくわからない人物だそうだ。
何より、加害者は被害者に対し、自身の容貌に対する感想を求めるのだという。そして皆、一様に、その容貌については、口を噤んでいた。
これ以降については、カトー独自の情報がある。ただ、定かではない。もう少し精度を高めれば、売りに出せるところだが、買い手がつくものかどうか、という程度のものだ。今のところは、こうやってのんびりと、各新聞社の発行物や“仕入先”からのもので、精度を高めようという算段で落ち着いている。
表向き、探偵などという家業に興じてはいるものの、本当は裏の情報屋である。会社の機密や、人の後ろめたいものなどをかき集めては、余所に高値で売るなりしていた。
自分から、それを積極的に使うことだけは無かった。人から恨まれることの大変さは、若い頃に別の家業をしていて身に染みていた。だから、信用だけを大事にしていた。
去年の暮れあたりから、この首都近郊の玉座を任されている。名目上は、かの悪入道ベネディクトゥス・リシュリューⅡ世こと、ジスカールの親分だが、実務はカトーが担当していた。玉座といえば大仰だが、やることとしては、悪党どもの力関係の調整である。情報と信用を使いこなせるカトーとしては、別段、難しい仕事ではない。
信用に足る。任された理由を尋ねた際に返ってきたのは、そのひと言だけだった。
先代の悪入道リシュリューの時代は、カトーは一介の小悪党に過ぎなかった。あの大人物の隣に侍り続け、それが死した後に名を継いだ生粋の任侠者に、そう言われた。嬉しさの反面、義務感のようなものも、大きく感じた。
仕事場は、寂れた事務所である。事務員がふたりほどの、小さな探偵事務所だった。
本日の予約は二件。一件目がそろそろ来る。予約には、くれぐれも内密に、という一筆が添えられていた。いつものこと、そして誰しものことである。
客は、少し早めに来た。急いできたのだろう。肩が上下している。ブラウスにスラックスだけの、黒い髪の美貌だった。
「人を探して欲しいの」
卓の上に放り出していた足の近くに、その女は十数枚の資料を投げてよこした。
「またかい、マギーちゃん。人探しは警察だってできる仕事だろうさに」
「つべこべ言わない。表の仕事、持ってきてあげてるんだから。ありがたく頂戴しなさいよ」
「つまりは、容疑者の特徴が出揃ったってわけだね」
資料を読もうと、黒眼鏡を外そうとした。ちらとだけ女の姿をみとめたが、思わずため息が出た。
「雨が降ってるなら、油合羽ぐらい、着てきなさいよ」
「あら。奥さま以外には興味無いんじゃなかったっけ?」
「目に余るってだけだ。タオルひとつ渡さんとは、サルトリオも気が回らないねえ」
呆れたものしか声に乗らないまま、ひとまずでハンカチーフを渡してやった。ありがとうとだけ、その女は小さく答えた。
国家憲兵警察隊、捜査一課課長。ビアトリクス。付き合いとしては、もう十数年になるだろうか。指揮官としては卓越したものを持っているが、いち捜査官としては基本に忠実で、凡庸の域を出なかった。向こうの仕事で知り合ってからは、こうやって探偵家業の名目で、情報提供をしていた。
現在はお互い、立場というものがある。こちらにも手下がいるし、向こうも腹心のひとりやふたり、育ててはいるはずだが、どうしてか顔を合わせたがるので、仕方無しに付き合っていた。
背を向けて、黒眼鏡を外した。いつからか、人前でものを読むのが気が引けるようになり、こういったかたちに落ち着いていた。
「なかなか絞り込めている。そちらさんは、これから指示を出すってわけか。その前に、ある程度の目星をつけておきたい。つまりは、いつも通りってやつだね」
「五月蝿いわね。その通りだけど」
「ダンクルベールのおやっさんも優しいこって。弟子がこうやってずるをしているの、長らく目を瞑ってやってくれてんだぜ?今頃、草葉の陰で泣いてるだろうさ」
「使えるものは使えって叱ってきたのは、どこの誰だっけ?」
受付のサルトリオに持ってこさせたタオルで髪を拭きながら、ビアトリクスが悪態をついた。ブラウスは未だ、いくらか肌色が透けて見えていた。
正直に、いい女である。歳でいえば、そろそろ朱夏。既にそこに入っており、家庭もあるカトーとしても、刺激の強い光景だった。いくらか矮躯のカトーより頭ひとつほど高い背に、しっかりとした肉付き。纏めずに下ろしただけの黒い髪。唇に乗せた、鮮やかな赤。それがブラウス一枚、小雨に濡れてやってきたというのだから。
ともあれ、仕事である。
「おやっさんなら三件目で気付く。見立ては、弟さんかい?」
「ええ。それと、ひとり目の被害者が、口を開いてくれた」
「口裂け女、ねえ」
それだけ、呟いた。手持ちの情報とは合致している。となれば、その先も繋いでいける。
「顔の傷を外科手術で直そうとしたんじゃない。外科手術で、口を大きくしようとした。それが失敗した。藪医者を捕まえた、可哀想なご婦人だよ」
「やはり、持ってたわね」
「売れる先があんたぐらいしか思いつかん情報だ。店頭には出せないよ」
紙切れ一枚、渡してやった。女の名前ひとつ、書いてあるだけである。
「前科なし。男にこっぴどく振られてる。外見にコンプレックスがある。それが精神を圧迫している」
「見立ては大方、当たってるようね」
「たまには褒めてやんなよ?あんたのために、大急ぎで主任にまで昇り詰めようって、無茶してくれたんだからさ」
これの腹心たるルイソン・ペルグランは、半年ほど前に功績昇進を成し遂げて、二十半ばで大尉に昇り、捜査一課主任になっていた。一課課長補佐役という役職は存在しない都合、課長であるビアトリクスの副官の座となれば、主任しかない。
「それ以降は?」
「今のところ無いよ。それだけで十分だろうし」
「報酬なら、ちゃんと出しているでしょう?カトーさん。ちゃんと仕事してもらわないと、困るの」
「あんたの都合を押し付けるんじゃないよ」
グラスにロゼの甘いものを足してやりながら、返すだけのものを返した。実際、もう出せる情報の持ち合わせはなかった。
「後は下を動かしな?あんたは指揮官なんだ。捜査官じゃない。そうなりたいから、こうやってずるをしているんだろうが、そろそろ弁えたほうがいい」
「私は捜査官よ。そして指揮官なの」
「なら、その名前だけでたどり着いて見せてご覧よ。もしくはここに来るんじゃない」
咥えた紙巻の味が、苦く感じた。ここ最近、これとやりとりをする際は、いつもそうだった。
「旦那さん、疑ってるよ。こないだ、うちに来た」
あえて言った言葉に、美貌が歪んだ。
「帰りが遅い。ここにしょっちゅう、寄ってるって。そうなっちまえば、俺だって迷惑だ。捜査協力というお題目をそのまんま出してで、何とか帰ってもらったけどさ」
ビアトリクスは、何も言わなくなった。
夫婦仲は今でも良好のはずである。それなのに突然、これの夫が物言いにやってきたのだ。持っている情報やら、実際のお題目を並べて、何とか納得してもらったが、またいつ噴火するかわからない火種になっている。
「カトーさんは」
難しい顔のまま。
「私の何が、不満なの?」
「意固地なところ。ありがとうとごめんなさいを、ちゃんと言えないところ。あとは未練がましいところ。つまりは目に見える全部だ」
即答。実際、そうである。それでまた、美貌が歪んだ。
「帰んなさい。料金は後でいい。まずは夫婦のよりを戻すことだ」
「わかった。巻き込んでしまって、ごめんなさい」
「よく、できました。毎回、そうやって素直なら、なおいいんだがね」
エスコートするつもりで差し出した手を、ビアトリクスは思いっきりで叩いてきた。そうして肩を怒らせながら、外に出ていった。
「おっかねえ女だ」
叩かれた手を擦りながら、カトーはひとりごちた。
ここ一年。特に副官であるルイソン・ペルグランが昇進したあたりから、他人に対して攻撃的な態度が強くなっていた。そうやって孤立していた。もはや、他人との付き合い方を忘れてしまっている。
あるいは葛藤から、自らそうしているのかもしれない。
「ああいう手合いは、無視するに限りたいんだがね。客として来る以上、そうもいかんよ」
「そうですね。そして毎回、大変な思いをさせてしまっております」
「そのたびに美味い珈琲が飲めると思えば、気が楽なのかねえ」
「お褒めに預かり光栄です。カトーさん」
しばらくして入室してきた事務員が差し出してくれた珈琲の香りに落ち着きを見出しつつ、それと幾つかやりとりをした。
ふたり目の客、ルイソン・ペルグラン。そのひとである。
「むこうの旦那までけしかけるとはね。やり方が悪党だよ?ペルグランさんやい。ジスカール先生と長らくだから、そういうのも覚えちまったとか言うんじゃないだろうね?」
「うちの相方の悪知恵ですよ。ガブリエリ・マレンツィオのね」
「なるほどね。あのひとなら多少の悪逆非道も、名前と顔面でどうとにでもなるってか」
言った言葉に、童顔がはにかんだ。
「あのとおり、マギー課長は制御不能に陥っています。頼れるのはきっと、カトーさんだけですから。無茶をお願いしてしまって申し訳がありません」
「それで、兄さんの要件は?」
「あらためて、冷静に答え合わせをやっていきたい」
言われて、黒眼鏡のまま、資料を読み返した。
ビアトリクスがここに来た理由は、ペルグランの見立てに不満、不足を感じたからだろう。それはおそらく直感的なもので、論理立てての反論材料が見つからなかった。
ペルグランの見立ては、師匠筋であるダンクルベールの添削も受けているはずだ。
「あえて見立てを間違えたね?」
思った通りのことを口に出した。
「はい。マギー課長を、ここに来させるために。カトーさんであれば、見立て以上の情報を持っているという確証がありましたので」
「マギーちゃんの顔を立てたいってところかい。兄さんも苦労人だね」
「なにぶん、意固地な姉ですので」
ペルグランの言葉でふたり、苦笑しあった。
「連続傷害事件。ただ犯人に、いくらかの同情の余地がある。それを産んでしまった土壌が、この国にある」
「悪党ではなく、怪物を産む土壌かね。確かにな。誰も彼もが疲れている。そうやって他人を許せなくなっている。雰囲気として、そんな感じはあるよね」
「国家憲兵警察隊という立場から、理非曲直を正していきたい。それが俺たちの、ここ最近の目標です。こういった犯罪を未然に防ぐため、人の心や価値観を、変えていきたい」
「それを俺に言う理由は?」
「信用を得るため」
ペルグランは、にこやかにそう言った。
「ジスカールの親分さんは、親父との恩の貸し借りがあった。だから信用があって、信頼を育めた。カトーさんとは、未だビジネスの関係です。情報屋という、情報と信用を通貨とする仕事であれば、貨幣価値と為替の動きを理解してもらえば、信用は得られるはず」
「俺は、顧客は選ばない主義でね。ビジネスの関係のままの方が、ありがたいのだけれども」
「ヴァルハリア。というよりは、ヴァーヌ聖教会」
その声は、低かった。
目を見やる。顔は笑っているが、眼は吹き荒んでいた。
なるほど。答え合わせは、こっちの方か。
「確かに、フレデリク・ニコラに、“シェラドゥルーガは、生きている”を流したのは、この俺だよ」
紫煙を吹かせながら、カトーはペルグランの目を見据えた。
ヴァーヌ聖教会。一番の顧客である。いっときは、ほぼ専属と言えるほどの仕事をこなしていた。向こうは未だ、こちらを手駒と見ているだろうが、カトーとしては、あくまでも、いち顧客の扱いだった。
独立戦争の英雄、ニコラ・ペルグラン。ヴァルハリア、ないしヴァーヌ聖教会から見れば、海上の天敵である。その血を絶やし、名を辱めれば、あるいは失った航路や名誉の回復に関して、いくらかの足しになるとでも考えていたのだろう。そのために、泥舟同然だったそれに、国家転覆を企てるよう、けしかけたのだ。できるはずのない夢を見させて、“ニコラ”の首を、まとめて柱に括りつけさせる腹づもりでいた。
実際に、それは果たされた。ただし、ヴァーヌ聖教会の手ではなく、その血が産んだ次代の英傑、ルイソン・ペルグランの手によって。
ヴァルハリアとヴァーヌ聖教会は、何も得られなかった。むしろルイソン・ペルグランという、恐るべき嵐を呼び寄せてしまった。産まれた家を更地にし、民衆の前で、実の父と祖父の背に鞭を打つ暴風雨を。
だから聖教会もルイソン・ペルグランの暴虐に加担し、勇名を称え、阿ることしかできなかった。この国のあらゆるものは“ルイソン”を畏れ、“ニコラ”を塗りつぶした。そうして恐怖のもとに結託した勢力は強固となり、通商は活発になり、海軍力も向上した。
ヴァルハリアは今、怯えて震えている。いずれ怒れるルイソン・ペルグランの大船団が、大陸本土を更地にしに来るのではないかと。あらゆる逃げ道を、聖アンリの炎の壁に塞がられるのではないかと。そして、うろに捨てられたはずの朱き瞳に、生きたまま貪り食われるのではないかと。
それだけの愚行を、ヴァーヌは行ってきたのだから。
「あるいはウルソレイ・ソコシュ。ポワソンに包丁使いの情報を流して、唆した」
「そこは俺じゃない。聖教会、そのものだ。だから大下手をこいた。フレデリクもフレデリクで、大概だったがね」
「俺が家に対して悪感情を持っていることまでは、見通せなかった。ヴァーヌに手袋を投げて寄越した、憎きニコラ・ペルグランが途絶えた。それが目的だったから、結果オーライでしょうがね」
「何ひとつオーライじゃないよ。大幅に軌道修正だ」
珈琲の香りを楽しみつつも、大きくため息を出してしまっていた。
ルイソン・ペルグランは、未知数だ。寛容かつ孤高であり、絶対に利用できない。その逆鱗に触れればどうなるか、それは自身の生家に対して行った仕打ちを見れば、火を見るより明らかだった。
大暴風雨、ないしはそれをひっくるめた、あらゆる天災。もはや大将首ではない。畏れ敬い、崇め奉る以外に、鎮める方法はない。
「あんたと聖アンリ。これがこの国における、聖教会の二頭立ての馬車だ。兄さんたちを使って、ここに移住するつもりでいる」
つまりは、出郷の旅。聖地を捨てて、この国に新たな霊峰を築き上げる。この島に土着化し、国家とふたりの聖人に寄生して、そうしてまた、歴史を塗り替えていく。
この島を、新たなヴァーヌにする。“本来の霊峰”にたどり着く、そのための前哨基地に。
「守護聖人なら、もうひとり。商売繁盛の守護聖人、オーブリー・ダンクルベール」
男の顔からは、笑みが消えていた。目に、嵐が見えている。
「血が邪魔をしている。あれはヴァーヌの求める血ではない」
カトーはそれだけ、簡潔に答えた。
眼の前の嵐。どう出るか。それをどう、やり過ごしていくか。ひとつでも間違えれば、更地にされる。ここも、ヴァーヌ聖教会も。あるいはヴァルハリアすらも。
信義と親愛のためならすべてを焼いて清める、覇道を征く男、ルイソン・ペルグラン。無意識の恐怖政治を敷く、恐王にして明主である。
「それで?俺を公安に差し出すかね?」
「いいえ、待てを掛けています。カトーさんには、感謝がありますから」
にっこりと。嵐を目にたたえながら、それは微笑んだ。
「あの事件のお陰で、俺はルイソン・ペルグランになれました。ニコラ・ペルグランに引導を渡すことができました。喪ったものはあれ、母に親孝行ができましたから」
「俺の親には?」
「いずれ、更地にしに行くとだけ」
その言葉に、笑ってしまっていた。
この男の信用は、買ってでも得ておかなければならない。そうでなければ、吹き飛ばされる。
立ち上がり、手を差し伸べた。がっしりと、握り返してきた。
「料金はいらないよ。兄さんの言葉通り、貨幣価値と為替の動きがわかったからね」
「ありがとうございます。マギー課長のことだけ、面倒をおかけします」
幼い顔が、幼い子供のように笑っていた。
ペルグランが退室してから時間を開けて、もうひとりの事務員、モンタナーリを呼んだ。ヴァーヌ聖教会との連絡係である。
逃げるなら今のうちだ。それだけ伝えるように言った。
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嵐の英雄、ルイソン・ペルグラン。
かの名将、ニコラ・ペルグラン提督を父祖とするアズナヴール伯ペルグラン家の出身でありながら、ニコラの名を海に捨て、いち捜査官から国家憲兵総監にまで昇り詰めた傑物である。
篤実な人格者であり、他者に対して寛大である一方、敵と定めたものに対しては極めて苛烈であり、盟友である公安局局長ガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキと共に、数多の政敵を粛清した覇道の人でもある。それは生家であっても一切の容赦なく、信義に背いた親族を投獄し、不義を働いた父と祖父を、公衆の面前で鞭打ちに処すなど、市井には快哉を以て迎えられる一方で、宮廷や他家には、絶え間ない恐怖と不安を与え続けてきた。
晩年に、ヴァルハリアが宣戦布告無しに奇襲侵略を決行した際、事前にそれを察知していた彼は、国家憲兵海上防衛隊の戦力のみでこれを迎撃、侵攻艦隊の悉くを撃滅し、捕縛した将校に“貴国を騙る奸賊を討伐せり”の札を下げ、ヴァルハリア大使館の前にならべて首を吊るした。この逸話は、戦争の危機を機転で回避した英断と評価される一方、為政者たちの心をかき乱した蛮行とも評されており、“嵐神”と渾名された、その激しい気性を表している。
信義と親愛を尊び、理非曲直を正す。そのためなら手段も相手も選ばず、すべてを灰燼に帰す大暴風雨。人道にもとる行いをしたとあらば、生まれた家すら更地にする、嵐の申し子。
それはおそらく、生まれ育った彼の国すらも例外ではなかったのだろう。
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2.
アデライド。貰ったのは、名前ひとつだけ。ここから逆算して、証拠や動機にたどり着く必要がある。
憧れだった名捜査官、ダンクルベールのようにはなれなかった。だからビアトリクスとしてのやり方を模索する中で、ダンクルベールの密偵である“足”に相当する情報網を持つ必要性に迫られた。
ちょうどその頃、対応した案件で知り合ったのが、裏の情報屋であるカトーだった。元々、“足”にいたらしく、情報屋として独立した直後だった。その際、ダンクルベールから、ビアトリクスへの協力を依頼されたのだという。
現場一筋の女軍警が隠し持っている、ちょっとしたずる。あるいは、下駄。それがあってこそ、現在まで続く実績と功績があると言っても過言ではない。
捜査員としての才覚は、凡庸だった。それは自分が一番、わかっていることだった。
国立中央大学病院の病院長に、外科医学の名医が就任したとのことだったので、連続通り魔事案に関しての見立てに対して、見解を貰おうとしていた。
「貴様が聞き込みとは」
一緒に来たガブリエリが笑ってみせた。
「珍しいな」
嬉しそうな顔のペルグランが、その横にいた。
「バティーニュ先生は生命の恩人だからな。顔合わせ程度でもいいから、会っておきたい」
「構わんよ。むしろ、向こうも喜ぶだろうさ」
「しかしまさか、それほどの名医だったとは。俺のインパチエンスも、俺の傷たちも喜んでいますよ」
晒した下腕にうっすら走る刃物傷の数々を撫でながら、ペルグランは笑っていた。
東で外科医をしていたバティーニュという御仁である。ペルグラン夫妻が新婚旅行で訪れた、南の島のリゾート地、ウルソレイ・ソコシュにて発生した“包丁使い事件”に、ふたりと共に巻き込まれ、対応したペルグランの応急処置を行っていた。
全身麻酔下の開胸手術や、縫合技術の巧みさで知られた名医だが、もともとは、かけつけ医院で緊急救命医療に携わっていた、外科的な応急処置の第一人者なのだという。そのおかげか、ペルグランが大量に負ったはずの傷も、そのほとんどが残っていないほどである。
聖アンリことチオリエ少尉も、是非にでもと声を上げていたが、都合が折り合わず、今回は不参加である。人材登用制度の改正により、正規士官として再登用されて以降は、全国の名医のもとに足繁く通っていた。
「ルイソン・ペルグランさま。またお会いできて光栄です。年寄り目線で恐縮ですが、一段とご立派になられましたなあ」
毛量十分の白い髪が眩しい、初老の医者。手を見てみれば、がっしりとした、分厚い掌だった。
「整形外科医学、ないしは美容整形外科医学というのが、ありましてですな」
ひとしきりの世間話を終えてから、本題に入っていく。
犯人の外見。長身痩躯。赤いドレス。長くしなやかな黒髪。そして、頬の先まで裂けた大きな口。
口裂け女。極東の国、夷波唐府の怪奇譚に出てくるそれに近しいもの。ただし見立てが正しければ、精神的に不安定であるため、報道にはそこまでを流していないし、流したとしても、その言葉を使わないよう、要請するつもりでいた。
「外科的技術を以て、人体の見た目の改善を目指すものです。例えば一重瞼を二重にしたり、多すぎる脂肪を取り除くなどするものです」
「神たる父と御使たるミュザ、そして二親から賜った肉体に、あえて傷を入れるのですか?」
「はい。本来は、もっと素朴で、もっと崇高な目的のために存在するからこそです」
ガブリエリの言葉に、バティーニュはつとめて毅然とした声で反した。
「人は五体満足で産まれるもの。それは理想であって、現実はそうではない。手足の指が多かったり、少なかったり。瞼がちゃんと開かなかったり。あるいは足の長さが不揃いだったりと、目に見える形の部分から、そうあるべきではないかたちで産まれる人というのは、少なからずいます」
言われて、ガブリエリとペルグランの顔が、いくらか曇った。ふたりとも去年の春頃に父親になったばかりである。それぞれの子にそういうものがあるという話は、聞いていなかった。
「揚げ物の油が爆ぜる。犬に齧られる。そういったものでも、人の顔やかたちは崩れてしまう。それは不可逆なもの。その不可逆を取り戻せるならば、どんな大金を出そうが、それにすがるでしょう。その願いに応えることこそが、あらゆる外科医療の原型です」
その言葉で脳裏に浮かんだのは、恩師であるダンクルベールの姿だった。
「今までのかたちに、あるいは自分の目指すかたちになりたい。それは誰もが持ちうる、素朴な欲求。それに医療が応える事ができるならば、それに越したことはない。人を救う。どんなかたちであれ、それが医療に携わるものたちの、成すべきことです」
バティーニュ。立ち上がる。その顔に、いくらかの陰が差している。
「残念なのは、それをわからずに医療をやる医者というものが存在するということです。美容整形外科には、特にそれが多い」
「本件の容疑者は、そういうもののひとりに、翻弄されたものと?」
「あるいは、そうかもしれませんな」
ため息、ひとつ。
女であれば特に、容貌についての願望というものは大きい。醜く産まれてしまえば、親を呪い、人を恨むような生き方が示されてしまうだろう。あるいはその道を選ばないよう、そういった選択肢があったならば、自分でも飛びつくかもしれない。
大きく裂けた口。元々は、小さかったのかもしれない。もう少しだけ、ほんの少しだけ大きくしたい。たったそれだけの望みを、ずさんな技術で壊されたとなれば。
「市井から、怪物を産みたくはない。市井を、怪物を産むような土壌には、したくない。為政者ではなくとも、治安維持に携わる国家憲兵たるものであれば、それが成し得ると、俺は思っています」
少しして、それを言い出したのは、ペルグランだった。
「そのためにも犯人を、わかってやりたい。つらいもの、歪んでしまったものを。第二、第三の口裂け女が産まれないように、市井の蒙を啓いていく。天下御免を任された、ひとりの無頼として、世の人々を変えていきます」
ガブリエリが続く。それらの言葉に、バティーニュは微笑みを返していた。
男の中の男、ルイソン・ペルグラン。そして天下の無頼、ガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキ。この一年、ふたりはそれを提唱し続けていた。罪を憎んで人を憎まず、救い、受け入れるということを。生家を沈め、名を託されたふたりだからこそ、成せることだと。
夢物語だとは思った。だがそれが、このふたりの原動力になるならば、それでもいい。そうやって、大きくなっていけばいい。
「歪んだかたちは、心すらも歪ませる。心の歪みを治すために、かたちの歪みを治すのは、人を救う手段のひとつになりえます。今までとこれからの被害者さまを含め、私と、私の弟子たちが、その一助を担えればと思います」
「ありがとうございます。バティーニュ先生」
ビアトリクスとバティーニュのやり取りは、それぐらいだった。
「廃業した美容整形外科のカルテが見つかるようであれば、探してほしい。もしかしたら詐欺、医療事故などの刑事事件で、証拠品として残っているかもしれない」
それだけ指示を出して、ビアトリクスは席を立った。
残っているカルテから医者を伝って、アデライドを見つけ出す。手順としてはそれでいいだろう。第一の被害者からの証言で、“デッサン”フェリエが似顔絵も仕立てている。
証拠としては、それでいける。あとは巣穴を見つけ出す。
「マギー課長」
病院の廊下。呼び止められた。
「カトーさんのところですよね?」
「そうよ。容疑者の巣穴を取ってくる」
「昨日の今日ですよ。仕入れているとは思いません」
苦い顔のまま、それは眼前に立ちはだかった。
「お願いします、マギー姉さん」
姉。ダンクルベール一門の、きょうだい弟子だからこそ。
その言葉に、いくらかだけ。
「皆、心配してます。心を開いてくれなくなった。指導してくれなくなったって。皆、姉さんのこと、大好きなんですから」
「だからこそ、皆の期待に応える必要がある」
「十分以上です。姉さん個人で頑張る必要は無いんです。ヴィルピン次長がやるべきことを割り振って。貰ったものを再分配して。そうして姉さんが真ん中にいてくれれば、一課は機能するんです」
「私は置物じゃない」
思わずで掴みかかっていた。ペルグランの胸ぐら。
おたがい、据わった目で見据えあう。
「あんたたちはそれでいい。だけど私はそれがよくない。たったそれだけ」
「犯罪捜査はひとりでするもんじゃない。全員でやるものです。親父がポワソンの爺に言った言葉をお忘れか」
「あのひとはあのひと、私は私よ」
「そうかい。じゃあ、ご勝手になさい」
放り投げるように言われた言葉に対し、ビアトリクスも、脱いだ油合羽をペルグランに投げつけた。
自分が和を乱している。わかっている。でも、こうするしかない。
何かひとつ。自分自身での結果を残しておきたい。
カトーの事務所。予約は、ほとんど直前に入れていた。
「アデライドの巣穴は、わかる?」
入室すぐに、要件に移った。
「前にも言ったはずだけどさ」
返ってきたのは、呆れた声だった。
「油合羽ぐらい、着てきなさい。通り雨、凄かったじゃないか」
わかっていた。病院を出てすぐ、大雨に降られた。ずぶ濡れのまま、事務所に上がり込んでいた。
「着替えと温かいもの、用意する。少し休みな」
「そんな暇はない」
「こんなところで油売ってるんだから、十分あるだろうさに」
「五月蝿い」
噛みついた、すぐあとだった。
視線が、ぐらついた。ソファの上、押し倒されていた。
無表情。黒眼鏡の奥の一重瞼が、かすかに刺してくる。
「ここは悪党の寝ぐらだぜ、奥さん。こんな目に遭うかもしれねえって、心構えぐらいはしてくれないと、こっちだって困るんだよ」
悪党の声だった。唇に、指がかかる。
ブラウス。剥ぎ取られた。スラックスも。
抵抗はしなかった。
「何、期待してるんだよ」
不意に言われた。
左胸に、手をあてがわれていた。乳房ではなく、心室の上あたり。それ伝いに自分の鼓動を感じて、急に恥じらいが広がってきた。
それで、カトーの体は離れた。
似たような衣類とタオル。それと紅茶。用意された。
紅茶に目一杯の砂糖を入れて煽った。甘さと熱さが、心地よかった。
「荒んでるふりしてるんじゃない。それが一番、周りに迷惑がかかるんだからさ」
「ごめんなさい」
「情報はない。今日は雨宿りだ」
それだけ言って、カトーはそっぽを向いてしまった。
「壊してほしかった」
思っていたことが、口から出てしまっていた。
「やり直したい。何もかも。いっそ、まっさらにして、もう一度最初から、すべてを」
「抽象的すぎるねえ。ちゃんと自分自身を見つめ直してから、言葉に出しなさいよ」
「何も見えてこない。がらんどうなの」
「じゃあ、目のほうが悪いってこったな」
向き直った。丸い鼻に引っ掛けられた黒眼鏡。
「一重瞼だったのね」
「コンプレックスでね。若い頃、奮発して買ったんだよ」
「へえ。そういえば、カトーさんのこと、ちゃんと知らなかった」
羽織っていたジャケット。それを肩に掛けてきた。いくらか冷たさの残る体には、温かかった。
カトーはそのまま、隣に座った。紙巻を渡された。同じ銘柄だった。
ふたり分の紫煙が、部屋に漂った。気分は、いくらかましになっていた。
「夷波唐府の出身?名前がそれっぽいけど、見た感じはそうじゃないって、ずっと引っかかってた」
「南東ヴァーヌ。いわゆる本場の伊達男さ。夷波唐府にもカトウさんはいるってのも、確かによく言われる」
「へえ、お名前をお伺いしても?」
「アレッサンドロ・バルドヴィーノ・カトー」
言われて、思わず吹き出してしまった。煙が体の変なところに入って、盛大にむせる。
「本当に、ごりっごりの本場の伊達男じゃない」
「格好で気付けよ。捜査官だろ?」
「そうね。そうだった」
口元だけの笑顔。
「落ち着いた。ありがとう」
「どういたしまして。ちゃんと素直になりなよ。人にも、自分にも」
そうやって、互いの頬にベーゼをした。
雨が上がってから、庁舎に戻った。まだ陽は高かった。
「マギー君」
呼び止められた。自分よりいくらか背の高い、亜麻色の美貌。
ファーティナ・リュリ中尉。ティナと呼ばれていた。
「就業時間中に男と遊んでたことに対する、教育的指導をします。姿勢、正せ」
「はい」
「指導」
がつん、と。脳天。持っていた本だった。頭を抱えるほどに痛かった。
「本部長官執務室。長官が呼んでる」
多分に呆れたため息と表情を見せながら、ティナが顔を覗き込んできた。
「少しは持ち直したかい?」
「本当に、少しだけ」
「長官の話が終わったら、上がりなさい。朝と違う格好のまま仕事したら、皆、びっくりしちゃうんだからさ」
そう言って、笑ってくれた。執務室への道順も、あえて人が少ないところを選んでくれているのを、歩きながらに気付いた。
「えっちはしてないんだね」
言われて、思わず足が止まった。
ティナ。悪い顔の笑みが浮かんでいる。
「鼻は、野生動物並みに効くんでね」
「しないですよ。滅多なこと言わないで下さい」
「旦那さんとは、今でも週四だもんね」
きっと、顔は赤くなっていた。ティナもくすくすと笑っていた
執務室。ビアトリクス、入りますとだけ、告げた。その人とペルグランは、並んで立っていた。
警察隊本部長官、大佐。霹靂卿、オーブリー・ダンクルベール。現在の警察隊の、基礎を切り拓いた人。世代交代が済んだ今、庁舎へは、散歩がてらに来ているようなものだった。
風貌も雰囲気も、随分変わった。顔半分を覆い尽くしていた白い髭は、顎と口だけになった。峡谷のように走っていた皺も、ほとんど見当たらない。峻厳なものは少なく、穏やかなものが大きかった。人となりも、泰然というか、茫洋としたものになっていた。
ビアトリクスは反射的に、目を逸らしていた。あのころの課長。それが、重なったから。
「最近、相談に来てくれなくなったからね。俺の方から呼んでみた。少し、世間話でもしようよ」
にこりと、微笑んだ。
わざわざ世間話のためだけにティナまで使って呼ぶことはない。ペルグランが相談したのだろう。別れ際とは打って変わってにこやかなペルグランに、一瞥だけくれてやった。
促され、応対席に座る。ダンクルベールは正面に。ティナはビアトリクスの隣に座った。ペルグランは外に出ていった。
「家庭は、問題ないかい?お前は仕事人間だから、そればっかりが気になっている」
「旦那が、理解を示してくれていますから。なんとか」
「ちゃんと休みなさい?休み方も大事。ご亭主さんと、子どもと、ちゃんと触れ合って、そうやって心を休ませる。どこかに出かけるなり、できているか?」
「できてません。自分ひとり、寝てばっかりです」
「だろうと思った。刺しておいてよかったよ」
ダンクルベールが、苦笑した。
あのころ、二課に移ってすぐに、良縁に恵まれた。ドミニク。何でも聞いてくれる。受け入れてくれる。愚痴ばかり言っても、笑って、受け止めて、あるいは受け流してくれる。
すぐに、子どももできた。フェリクス。男の子。可愛かった。今だって可愛い。
ただ何より、すべてが大変だった。やったことがないことばかりだった。それで、仕事のほうが、余計に好きになった。
「家庭って、大変です。仕事のほうが、ずっと楽。仕事が大好きだったから、花嫁修業とか、後回しにしちゃった。それで今になって、余計にそう、感じてしまいます」
「仕事に、逃げに来ていたのか。気持ちはわかる。逃げたくもなるよな」
「これ、何度も言ってますけど、私って、何にもできないんです。料理も、洗濯も、掃除も苦手。子供のことも、ラウルさんやサラ姉に頼りっぱなしで」
ペルグランが、珈琲を淹れてきてくれた。角砂糖、ふたつ。
カップを掴もうとした手が、震えていた。
目を見る。深い青。何度も見てきた。夜の海。
めげそうになるたび、くじけそうになるたび、このひとのところに行った。ここ一年、それを疎かにした。だからその分が、澱んでいた。ただひとり、悶々とそれに向き合い続けてきた。
解決しようもない悩み。眼の前にある、醜い自分。
「何にもできない。仕事も、家庭も。それ以外ですらも」
澱んだものが、溢れていた。涙は出なかった。その分が、言葉に乗った。
ダンクルベール。紙巻をひとつ、渡してくれた。火を点ける。
「何に悩んでいる?」
「自信を打ち砕かれています。皆、素晴らしい。意見を出すことを恐れず、自分を信じて行動していける。ただ、それに着いていくことができない」
紫煙を肺に入れながら。ゆっくり、本心を綴っていった。
「私は捜査官として、そして人として、極めて凡庸です。それと向き合うことが、つらいです」
ダンクルベールやペルグランのような見立てはできない。現場からしかものを見つけることができないが、今はスーリやクララックがいる。ゴフやシャルチエなど、ひらめきに優れたものがいる。洞察力ならデッサン、観察眼ならルキエがいる。情報網ならビゴーを師に持ち、“妹”を操るガブリエリが突出している。正規軍人になったアンリもまた、現場での検案において、医学的見解から意見を出すことができていた。名前だけになった今、ダンクルベールは後進を育てることに集中しており、才能のある若者は、これからもっと増えてくる。
きっと指揮官としては、才覚があるのだろう。それでも、捜査官でありたかった。それが捜査一課という場所では、できなくなっていた。
「マギー。基本に忠実というのが、お前の強みだ。そしてそれは、絶対に必要なことだ。それに忠実であれる人間をこそ、捜査の芯に据えるべきだ。それが、警察隊のあるべき姿だからな」
紫煙の香りとともに。その声で、いくらかの落ち着きが湧いてきた。
「基本に忠実であり、外部にカトーという協力者がいる。教育する力があり、人を指揮することができる。それ以外の何かが欲しいのだね?」
「きっと、そうだと思います。ただそれが何かがわからない」
「スランプだね。自分で自分を褒められない」
「それと」
意を、決して。
「戸惑いが強くあります。正直に、あなたが変わったことについて」
その人の、顔を見た。ダンクルベール課長の顔を。
「あなたは若返った。あの頃の課長、そのままです。また、ダンクルベールのようになりたい。オーブリー・ダンクルベールになりたいという気持ちがある。それがあの頃は、原動力だった。今はきっと、それが枷になっているんだと思うのです」
あの頃の、ダンクルベール。
憧れていた。ヒーローだった。あの日、初めて会った時、ダンクルベールというのは実在するのだと、心が躍った。
必死に食らいついた。一緒にいたかったから。それでも、振り落とされた。捜査二課に異動しても、めげそうになるたびに会いに行った。そうやって捜査二課課長になり、捜査一課課長になった。
夢を見たこともあった。あの頃の課長と唇を重ね、身体を委ねた夢。起きた時、ひとりきりの寝台で、ぼろぼろ泣いた。喜びと、寂しさで。
やはり、あれは恋だったのだ。恋をしていたから着いていけたし、着いていけなくなっても、仕事を辞めなかった。隣にいることまではたどり着けなくても、そばにいることはできた。一緒に年月を重ねていたから。
それが突然、ダンクルベールだけが若返った。あの瞬間、自分の心も、ビアトリクス新任少尉の時まで、若返ったのかもしれない。
「認識違いがひとつある」
ダンクルベールが、身を乗り出した。
「これは、今のオーブリー・アディルとしての、俺のありたい姿だ。あの頃の俺の再現ではない。お前がどう捉えるかは別として、俺の心の持ちようとして、そうなんだ」
アディル。ダンクルベールは去年辺りから、その名前をよく使うようになった。戸籍上の本名。つまりは、本当の自分。
恩師であるコンスタンから賜ったリュシアンの名は、ほとんど使わなくなった。
「どうして、その姿に?」
「今が、俺の全盛期だからだよ。マギー」
にこやかだった。それでどうしてか、震えは止まっていた。
「ゆっくりやりなさい。もう、着いてこいとは、言わないからさ」
紙巻を灰皿に押し付ける。もう一度、ダンクルベールの顔。
課長ではない。古くない、新しいダンクルベール。そう見えてきた。
「気が楽になりました。ありがとうございます」
言葉に対し座礼した。
「シャルチエが、泣いてるんです」
油合羽を渡してくれながら、ペルグランが言った。
「マギー監督が、構ってくれなくなったって」
「そっか。そこまで行っちゃってたか、私」
「それだけは、ちゃんと謝ってくださいね」
「そうね。わかった。ありがとう」
フランセット・シャルチエ。一昨年入隊した女性士官。自分と同じく、ダンクルベールになりたがっている女の子。ダンクルベールになれなかったビアトリクスが育てると決めた。ダンクルベールにしてあげたかったから。
愛おしかった。妹か、娘のようだった。どこへ行くにも引っ付いてきて、何でも相談してくれた。それはペルグランが副官となった今でも変わらなかったはずだった。
バティーニュのところに行くとき、となりにシャルチエがいなかったことを思い出し、胸が傷んだ。
なりたい自分がある。でもそれ以前に、あのこが求めるマギーであらなければ、あのこをダンクルベールにしてあげるどころか、あのこをフランにすらさせてあげられなくなる。
油合羽。羽織る。気が引き締まる。懐には、東の紙巻。出して、咥えた。炙って、また紫煙を肺に入れる。
目の曇りは取れなかった。それでも、毅然でいるところまでは、戻れた。
「今日は、お前がスランプに陥っているところまで。これから先は、ヴィルピンの出番かな?皆一緒に、やっていこう。もう一度、マギーになろうよ」
「ありがとうございます。でも、これ以上は、迷惑をかけてしまいます。それに耐えられないかもしれない」
「迷惑をかけてくれ。お前のために、手間暇をかけさせておくれよ、マギー。俺の大切な、大事な一番弟子なんだからさ」
ダンクルベールは、笑っていた。あの時とおんなじように、心から。
泣いていた自分に、見せてくれたように。
ダンクルベールの、一番弟子。
「課長」
その言葉だけは、聞きたくなかった。今でもそうだ。
課長に言われたことの中で、一番、嬉しかったから。
「それは言わないでって、お願いしてたじゃないですか」
最後まで、言い切れなかった。
本当の思いが、こぼれてしまっていた。
3.
いつものことではあるが、よくもまあ、飽きもせずにやれるものだと思いながら、ガブリエリは女ふたりを宥めすかしていた。
夫婦揃って養子に入ったマレンツィオ家ではあるが、嫁姑問題、とまでは行かないものの、ちょっとしたぶつかり合いが起きていた。名族出身の養母、シャルロットと、庶民出身のルシールの、金銭感覚の違いから来るものである。
「初孫が可愛いのはわかります。でも、欲しいものを端から端まで買い与えていては、このこのためにはなりません」
栗毛のルシールがシャルロットに対し、毎度、こうやって噛みつくのである。
親戚のおじさんこと、天下御免のブロスキ男爵マレンツィオ。警察隊を目指すに当たって、何から何まで世話になったので、恩返しと思って養子に入っていた。子宝に恵まれず、当代で名跡を閉じる覚悟でいたところに、子どもどころか孫まで連れてきたのだから、ふたりとも、初孫たるソフィが可愛くて仕方がない。隙あらば、お菓子から着るもの、おもちゃに絵本と、ありったけを買ってくる。これはガブリエリが子どものころもやられていたし、しょっちゅう預けられていたダンクルベールのふたりの娘もそうだった。
「大丈夫よ、ルシールさん。うちのこたちも色々買ってもらったけど、おかげさまですくすく育ってるから。ね、パトリック・リュシアン?」
「うん、ありがとう。おばさま」
「ほら、ちゃんとありがとうが言えてるでしょう?だから、気にしないの。おばさまたちに、お祖父ちゃんお祖母ちゃんをやらせてあげて頂戴?」
褐色の貴婦人、ダンクルベールの長女であるリリアーヌに促され、すっかり大きくなったパトリック・リュシアンがにっこりと笑っていた。ちょうど遊びに来ていたのだ。
「ごめんなさい。どうしてもソフィちゃんが愛んこいものですから、我慢ができなくて」
「愛しいお前、泣くのはおよし。なあ、心優しいルシール。お前が連れてきてくれた天使を愛でるのは、この老いぼれふたりの何よりの楽しみなのだ。もう少し大きくなって、このこに分別がつくようになったら、勿論、控える。だからどうか今のうちだけは、この可愛いソフィを甘やかすのを許してくれはしないだろうか?」
「買うなとは申しておりません。買いすぎなのです。せめて、今の量の半分程度にして下さい」
「ほら、ルシール。このあたりにしよう?父さんも母さんも、小さくなってしまっているのだから」
「大体にして、レオもレオで甘すぎるのよ。世の中、一寸先は闇なのよ?ちゃんと貯蓄して、いつ何があってもいいようにしないと」
「わかった、わかったから。ルシールは今、怒りたいんだろう?ならばそのまま、私に矛先を向けておくれよう」
こうやってルシールの怒りを、さめざめと泣くシャルロットと、巨体を縮こまらせたマレンツィオから何とか遠ざけ、自分の方に向ける。わかってあげる仕事をしているからできる術ではあるが、毎度のことなので辟易も辟易である。
「すみません、リリアーヌさん。折角、遊びに来てくれたのに、みっともないものを見せちまいました」
ひとしきりルシールの怒りが落ち着いてから、リリアーヌに頭を下げた。遊びに来てくれたというのに、自身の子どもたちと一緒に、愛娘ソフィの世話までしてくれている。
「いいのよ、レオナルドさん。ひとり目ってどうしても、不安ばかりで、神経質になっちゃうものだからね。そこへきて、周りの大人がああだこうだと世話を焼くのだもの」
「長官もやっぱり、そうだったんでしょうかね?」
「どうだろう。お父さんは忙しくて来れなかったし、マレンツィオおじさまたちもたまに来るぐらいだったからね。でも向こうの親が、似たようなものだったわ。今だってそうだし」
大人たちの喧騒に疲れたのだろう。眠りこくったソフィを抱っこしながら、リリアーヌは笑っていた。
こればかりは、親友たるペルグランの環境が羨ましい。二親の顔も知らぬままに売りに出され、己ひとつで身を立てたインパチエンスと、育った家の名を奪われ、男を育てると腹を括ったジョゼフィーヌという、教育ママの二枚飛車が揃っているのだから、ちやほやはすれど、甘やかすなんてことは一切しない。父と定めたダンクルベールや“赤いインパチエンス亭”の店員たちが色々と買い与えているそうだが、それも事前にインパチエンスの許諾を得て、ペルグランの財布から出すかたちでやっているという。目を離した隙に、すべり台やらトランポリンが増えている我が家に比べれば、健全な暮らしぶりである。
想い人と添い遂げて、育ててくれた恩人に孝行もできた。やりたいことも、やるべきことも済ませたあとには、些事ばかりが積もっているというのは、何というか夢がない。
「あのデブもシャルロット姉さまも、何をどうしたって楽しい盛りだろうさ。目に入れても痛くないものが三つもできて、しかもひとりは反抗期と来たものだから」
道中、その話をしたところ、ティナは素敵に笑ってみせた。
「ちゃんとした経験があるわけではないが、子どもはやっぱり、可愛いものね。私も“おあいて”がいるならば、三つ四つはこさえてみたかったもんさ」
「育てた経験は、あるんですか?」
「何人か。生贄だって、寝ぐらの前に捨てられてね。いやあ、大変だった。乳なんぞ出ないから、そこら辺から山羊ひっぱってきて、布に湿らせて飲ませたものさ」
言われた言葉に、思わず苦笑していた。
美麗な女性の姿をしているものの、れっきとした化け物だった。おそらく現在、唯一の、人類の天敵にして捕食者。七百年は確実に生きていて、邪教のご神体まで務めていた、生ける神性。お伽噺でのみ語られてきた、朱き瞳のシェラドゥルーガである。
この複雑怪奇と同じ職場で仕事するまでには紆余曲折がありすぎたが、長命博識で聡明怜悧とくれば、頼るに一切の損はない。今回は人を見るという都合、お願いをして着いてきて貰っていた。
カトーという男。現在の、裏社会の次長である。それもその人を見るのではなく、それを通じて、ビアトリクスを見るということを、やりたかった。
カトーが次長に昇り詰めたのは去年の暮れ頃だが、ビアトリクスとは十年来の付き合いだということは、調べているうちにわかったことだった。ビアトリクスは捜査において、現場で拾えなかったものを、カトーから拾ってきていたのだ。
これについては、師であるビゴーとミラージェの例があるので、驚きは少なかった。ただ最近、その頻度が高いというのが、気になっていた。
ビアトリクスのスランプの原因が、カトーにあるのかもしれない。
「わざわざうちじゃなくて外とはね。いい気分転換になるから助かったよ」
ひとつのカフェで待ち合わせをすることにしていた。自分たちが付く前には、それは足を放り投げて卓に着いていた。
正直に、容貌はよくない。しかし風采そのものは洒脱で嫌味がなかった。とろみの効いた濃紺のスリーピースに、茶のネクタイと短靴。目元を黒硝子の眼鏡と、これまた濃紺の帽子で隠した洒落男である。
「まずはこちらの方を。私と同じく国家憲兵警察隊、中尉。ファーティナ・リュリであり」
そこまでをガブリエリが紹介し、後をティナに任せた。
「それこそはかつて、パトリシア・ドゥ・ボドリエール」
見据えた瞳が、朱に染まり、火の粉を散らした。
それをみとめたカトーは、へえ、とだけ、反応した。
「シェラドゥルーガは、生きている。かね」
穏やかな首肯。
幾つもの顔を持つ女である。およそ二十年前、この国を未曾有の恐怖に陥れた凶悪殺人犯。没落貴族の愛妾から文壇に飛び込み、咲き誇る愛を奏で続けた恋愛小説の大家。そして暗黒の存在、人でなし。
「あんたがフレデリク・ニコラに流した。ヴァーヌ聖教会の依頼でね。そしてそのあたりを、私はペルグランに伝えている」
「知っている。こないだうちに来て、にこにこしながら脅されたよ」
苦笑しながら、カトーはグラッパを嗜んでいた。
「それで、今日は満を持して更地にしに来たのかね?」
「サラ・マルゲリット・ビアトリクスとの関係を知りたい」
「顧客。以上」
「男と女では?」
「俺には務まらんよ」
カトーが懐から紙巻を取り出した。それをみとめて、ガブリエリも紙巻を咥えた。ティナという女性がいる前ではあるが、このひとも喫煙者である。
「ただまあ、正直に、向こうがどうか知らないよ。最近、予約が多くてね。それもあんた方ができるような仕事ばかりだ。金にはなるが、今はおたがいに立場もあるから、ペルグラン兄さんが来てくれたほうが助かるんだがね」
「会いたがっている。うちの人がイメチェンしてから、マギー君は、うちの人に頼ることができなくなった。昔の姿を重ねてるんだってさ。言い方は悪いが、間男にしてるのだろう」
「おや?おやっさんの奥さんになったのかい。大願成就、おめでとう。お祝いが遅れて、失礼でした」
「どうも。私、戸籍無いから、事実婚だけどね」
そう言ってふたり、グラスを掲げていた。
紆余曲折のうちのひとつ。ダンクルベールとティナの結婚である。
長らく、死亡したはずのボドリエール夫人として活動していたティナの存在が、ダンクルベールの娘ふたりに気付かれたのだ。早くに母を喪い、父親と誼のあった文壇の徒花、ボドリエール夫人に憧れを抱いていたふたりは、父親とティナを一気に追い詰め、白状させ、縁を通じさせたのである。
かつての捜査官と凶悪殺人犯、人と人でなしであるが、出会ってから三十年来の愛念があったので、何の問題なく夫婦関係に移行できていた。
「俺に用事があるんじゃなく、マギーちゃんに用事があるわけね。その通過点として、俺を見に来たと」
「マギー課長を取り戻したい。自分がわからなくなっている。だからそれを含めて、わかってあげたい」
「ペルグラン兄さんの功績昇進も大きいだろうね。家の名を捨てて、実力だけで二年で二階級だ。それで自信を打ち砕かれた」
「あいつの家の焼き方にも、問題がありますよね。どいつもこいつもこわがっている。人参をぶら下げようものなら、片腕ごと持っていかれると、思い込んでいる」
「実際、そうだろうさに」
カトーが苦笑いを浮かべた。
これもまた、紆余曲折のひとつである。人でなしたるティナに何かしらの価値を見出した複数勢力が、かつての居城たる第三監獄で、暗闇の政争を繰り広げた。そのひとつに、ペルグランの親族たるフレデリク・ニコラが大きく関わっていたのである。
生家が母にした仕打ちと、それに抗い続けた母を見て育ったペルグランは、生家と戦い、そして更地にした。ニコラ・ペルグランは立身出世の代名詞ではなく、あらゆる婦女の敵の名となった。それは民衆には快哉を以て迎えられた一方、三大勢力には若き覇王として恐れられていた。
あれ依頼、ペルグランはのびのびと生きている。仕事も順調で、内外から信頼を得て、次代の英傑として評されている。もはや国家憲兵隊の新たな顔と言ってもいいだろう。
「ダンクルベールになりたい病と、見下してた坊ちゃんへの妬み嫉みの二本立てだ。それで意固地になっているわけだ」
「どうしたもんですかね」
「マギー君を活かす。なりたい姿より、求められている姿のほうが魅力的であることを、教えてやる。不本意だろうが、褒めておだててやれば、やる気も出るだろうさ」
「つまりは、“マギー監督”だね?」
「捜査二課でできていた。捜査一課でもそれができるよう、促す」
ティナの言葉に、ガブリエリは頷いた。
もとより指揮官気質の人である。それも、あのセルヴァンが逸材中の逸材と認めるほどの、卓越した才覚がある。人を動かし、促す力に長けているのだから、そちらを伸ばしてやったほうが、組織のためにも、本人のためにもなる。
捜査官であることを、諦めさせる。指揮官としての成功体験を思い出させれば、きっとそれが叶うだろう。
「デュシュマンという人がいるだろう。“小言のグレッグ”だか、“グレッグ棟梁”だったか」
「そもそも話を聞かないもの。ヴィルピン君でも駄目だったんだから」
「なら、お膳立てだね」
紫煙をくゆらせながら、カトーが悪い笑みを浮かべた。
「今回の連続通り魔。マギーちゃんには、名前まで渡してある。そこまでの筋道を、あんたらで案内してやればいい」
「そうして、言わせるわけだ。神妙にすればそれでよし、ってね」
ティナが苦笑した。退役したビゴーから続く、警察隊本部といえばの名調子である。
「見立てはペルグランが済ませてる。容疑者も、ある程度の絞り込みが済んでいる。あとはその中から、あんたが渡した名前が入っていれば、それでよし。道程としては、十分以上のところまでは進んでいるってことですね」
「流石はおやっさんのご家来衆だ。まあ、一度で済むかはわからんがね。それでも、いくらかは取り戻せるだろうさに」
「ありがとう。ご協力を感謝する」
掌にいくらかの銭を隠した状態で、右手を差し出した。
「ひとつ、訂正しておこう。俺とマギーちゃんの関係だ」
カトーはそれに応じず、紙巻を灰皿に押し付けた。
「俺はマギーちゃんの“嫁入り道具”さ。俺が独立するあたりで、おやっさんが話を持ちかけてきた。部下ひとり、手放す。それを支えてやってほしいってね」
「二課異動。ダンクルベールになれなかった時の話か」
手を差し出したまま、身を乗り出していた。
「マギーちゃんは俺のこと、ずるとか下駄とか呼んで、極力、使わないようにしたかったんだろうがね。変な意地張るんじゃねえって、何遍も叱ったもんさ。それで今回のことだもの。まったく、本当に手間のかかるこだよ」
「そうだったのか。これでようやく、あんたを心から信用できるようになったよ。ありがとう」
「こちらこそ。顧客は選ばん主義だが、太客は大事にしたいからね。どうかマギーちゃんのこと、よろしく頼んだよ」
そこでようやく、手を握ってくれた。
ちゃりん、と音が鳴る。向こうも同じことをしたようだった。ふたり、何とか苦笑を堪えた。
これがこの男なりの、信用の稼ぎ方なのかもしれない。
「ふたりとも、本場の伊達男だねえ」
苦笑は、ティナの方から飛んできた。やり取りに気付いたらしい。
「カトウといえば夷波唐府とも思ったが、なるほど、南東ヴァーヌにもいるものね。カトー、あるいは、ケトだ」
「流石は、かつてのボドリエール夫人。あらためまして、アレッサンドロ・バルドヴィーノ・カトー。エービーシーって渾名もある」
「可愛い名前だ。マギー君含め、今後ともよろしく。セニョール・エービーシー」
そう言って取り出したのは、一冊の本。カトーがぎょっとした顔をしていた。ティナは手ぶらで来ていたはずだ。
「次の新作。ちょっとした“悪戯”さ」
人差し指で、自分の唇を軽く叩いて。
朱き瞳のファーティナ・リュリは、格別の笑みを浮かべていた。
4.
長女が嫁いだ。二十二歳。許嫁で結婚した自分たちと比べればちょっと遅めだが、自由恋愛での結婚である。そうなれば、ちょうど適齢期だ。
ヴィルピンは、いくらか浮かれていた。誰彼構わずうざ絡みして、喜びを共有していた。いくらか前に娘を嫁がせたデュシュマンには、叱られついでに舅たるものの心得を説いてもらった。予想通り、愚痴と小言は言わないこと、とのことである。
「ひと安心だな。フェリシーちゃん、お付き合いが長かったものなあ」
司法警察局庁舎。ウトマンにも報告しに行った。にこにこと喜んでいた。
長女はヴィルピンに似てしまい、いくらか丸っこかった。それでも外見以外は優良物件だと自信を持って断言できるぐらいには、気立てよく育ってくれた。花嫁修業もみっちりできたので、向こうの家族も一切の不足なしと、好印象のご様子だ。
「ウトマン局次長殿のおうちも、先ごろにお嫁さんを迎えたとのことで。いやあ、おめでたいことというのは、続くものですな」
自分たちより年上だけど、背も高ければむっきむき。もと刑務局局長のボンフィスが、にっこり笑顔で加わってくれた。かの“小言のグレッグ”の先輩ともあって、この笑顔のまま、延々と説教をかましてくるのだというから、ちょっとおっかない。
「本当は局長閣下もいてくださればよかったのだけれども、この頃はお加減がよろしくないとのことでして」
「大丈夫だよ。それこそ、そっちのほうが大事だからね。ラクロワちゃんも、あまり無理をせずにね?」
「ありがとうございます。だいぶ、安定してきたので」
お腹が大きくなりはじめたラクロワちゃん。待望の第一子、懐妊中。つわりのひどかったインパチエンスや、逆子で難産だったというルシールに色々と教えを請いながら、ママさん修行の真っ最中だ。
セルヴァン局長閣下は、今年の頭あたりに、業務中に意識を失った。前兆としての頭痛もあり、すぐに病院に運ばれたので大事には至らなかった。それでも、いくらか足元がふらついたり、ひどい吐き気が出るときがあるらしく、自宅で療養していることが多くなった。
縁の上の力持ち。ダンクルベールの恋女房。歳で言えば兄貴分だが、入隊依頼、育ててもらった親でもある。何度もお見舞いに行って、話をしたり、真っ直ぐ歩く練習の手伝いをしたりと、ヴィルピンもできうる限りのことをしていた。
行くたび、デッサンが描いたものであろう素描や油絵、水彩画での、警察隊の面々の絵が増えていて、それを愛おしそうに見つめるセルヴァンの姿は、見ていられなかった。
「ヴィルピン次長。こちらですね?」
歓談している時に入ってきたのは、峻厳な美貌。
「容疑者が上がりました」
ビアトリクス。その顔を見て、震えていた。久しぶりに見るものだった。
「アデライド・ラヴェル。現状で、住所不定の無職。家族から行方不明者届が出ています」
表情は上気付いた様子だが、口調はいくらか早口ではきはきとした、いつも通りのもの。
もしかして、取り戻したのかな、マギーちゃん。
「双方の親が決めた縁談がありましたが、容姿を理由に破談されています。数ヶ月前に告訴されて廃業した美容整形外科医のカルテに、唇の拡張手術を行った記録が見つかりました」
「今さら、そんな理由で破談にする家があるんだね」
「向こうさん、かなり旧い家みたいです。没落はしているとはいえ、旧家の意地みたいなのがあるんじゃないでしょうかね」
続いて入ってきたペルグランが、いくらかを足してくれた。
「順番はわからないけど、破談、外科手術の失敗、精神の不安定化からの犯行か」
言いながら、気持ちが沈んだ。
「やりたくないなあ」
「そうだな、ヴィルピン。今のお前なら、なおさらだろう」
フェリシーのウェディングドレスの姿。幸せそうな顔。浮かんで、消えた。
「心底の悪いやつなら、許せねえってなるけどさ。たまにこういう、悲しい怪物が産まれてしまうのが、俺はいやで仕方ない。ペルグラン君とガブリエリ君の理想にあてられたのもあるけれど、できることなら、こういう人を産まない土壌や仕組みをつくりたいものだよ」
「作っていこうぜ。私も同じ気持ちだからね」
ウトマン。毅然とした、それでも穏やかな微笑みだった。
「マギーちゃんは」
そして、何よりも。
「取り戻せたのかな?」
その言葉に、はにかみつつも首をひねっていた。その隣で、ペルグランは笑っていた。
「まだ、何とも」
「まずは、ここまでの自分を褒めよう。おやじさんじゃないけど、一歩ずつ、一歩ずつだ」
そうやって、笑ってあげた。
ここ一年ほど、仕事の調子がよくなかった。半年前にペルグランが功績出身で大尉になってから、それがより顕著になった。人付き合いが悪くなり、他人へのあたりが強くなった。
外連味のない、基本に忠実な捜査官ではあるものの、指揮官、指導者としては逸材中の逸材。だが本人は、捜査官でありたい。捜査二課ではそれができていたけれど、個性派揃いの捜査一課では、捜査官としての座る席が無いのだろう。指揮官としても、ヴィルピンが仕事の割り振りをする都合、そこまで率先して考えることは少なくなっている。
自分のやりたいこと、求められていることがわからなくなっているのかもしれない。そうやって、他人も自分も受け入れられなくなっていたのだと思う。
先週あたり、カトーという、昔なじみの悪党に叱られて、ダンクルベールに諭されて、ようやく泣いたと聞いていた。
このこの新人時代、落ち込んだ時に話を聞いて、一緒に泣いた仲だからこそ知っている。泣けば泣くほど強くなる。ビアトリクスもまた、そういう種類の人間だった。だからきっと、強く、大きくなったのだろう。
にわかに、外が騒がしくなった。事案発生とだけ、聞こえた気がした。
体は動いていた。ウトマンとビアトリクスも、一緒のようだった。
「ヴィルピン次長、それにビアトリクス課長も。こちらにおられましたか」
「連続通り魔だね?犯人追跡と、被害者の状態確認。マギーちゃんは前者の指揮に。俺は後者に向かう」
「かしこまりました。被害者は国立中央病院に搬送済です」
ビアトリクスと隊員の敬礼を手で遮って、駆け出した。
馬車一台。ウトマンと一緒に、飛び乗った。ここから五分ほど。被害者搬送済となれば、病院から現場も近いか。確か前回の犯行も、そのあたりだったはず。あの辺りは、細い道が多かった。
そしてやはり、雨の日。人通りの少ない日と道を選んでいる。
病院。モルコと数名の隊員が到着していた。病室に入る。それをみとめた途端、煮えたぎったものがこみあげていた。
包帯。両目の上。目を、潰されたのか。こんな年頃の娘さんに、なんてことを。呆けたように、ぼうっとしている。
許せない。こんなことをして、許されるはずがない。
「ああ、警察さん。うちの子が、うちの子が」
被害者のお母さまらしき人。すがりついてきた。泣いていた。その震えが、ヴィルピンの体にまで伝染した。
見える。浮かぶ。双眸のないフェリシー。そこから血の涙を流して、慟哭している。血で汚れたウェディングドレス。
「せっかく、嫁ぎ先が決まったのに。そしてなにより、この子の目が。どうして、うちの子が。どうしてこんなことに」
「こっちが知りたいよっ」
こみ上げたものが、言葉と一緒に出てしまった。
沸騰した涙。理不尽に対する、怒りの震え。そして、事態に対する思いつき。
呆気にとられていたお母さま。かがんで目線を合わせ、その肩を掴んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。でも本当に、どうしてか、わからない。どうしてこんなことをするのか。どうして、こんなひどいことをして、平気でいられるのか。俺にはわからないんです」
滝のように流しながら、謝り続けた。
悲しむ人がいる。傷が癒えないかもしれない。もう、お嫁に行けないと、ご本人もご家族も、気持ちを病んでしまうかもしれない。悲しみが怒りに変わり、新しい罪に繋がってしまうかもしれない。
そういうことも考えられずに、凶行に及ぶやつがいる。
「約束します。絶対に、捕まえます。捕まえて、ちゃんとやり直させる。娘さんとお母さまにお詫びができるところまで持っていけるよう、国家憲兵隊は全力を尽くします。ですからどうか、ごめんなさい」
立ち上がり、軍帽を取って最敬礼。お詫びの仕方は、これしか知らない。
お母さまも、促されるようにして立ち上がった。ハンカチーフで、流れ続ける涙を拭いてくれた。
「貴方はきっと、泣き虫ヴィルピンさま。泣いてくださるのですね?このカトリーヌのために、泣いてくださっているのですね?」
「はい、お母さま。俺、泣きます。それしか、俺にはできません」
そうだよ。俺、これだけで、やってきたんだから。
背中に、ばしん、と。
「さあ、やっていこうぜ、泣き虫ヴィルピン」
ウトマン。決意の笑み。俺の、最高の相棒。
被害者。カトリーヌさん。見えないはずなのに、顔をこちらに向けてくれている。もう一度、軍帽を取って最敬礼した。
軍帽を被り直す。泣いたあとは、立ち上がる。俺の、ただひとつの定型だ。
「よし。犯人像は、以前のペルグラン君のそのままでいいだろう。各位に通達してほしい。マギーちゃんは、若いこを連れて現場の再確認。証拠は流されているかもしれないが、雨の中の現場検証について経験を積ませよう。スーリ君は、次の出現場所の予測だ。感覚だが、場所が収束しているように思える。ここまで、よろしいか」
返答。病室だが、どでかいのが返ってきた。
「ゴフ君に通達。ご存知、“錠前屋”をふたり一組で組み直してほしい。囮捜査をやるんだ。ガブリエリ君の“妹”と組み合わせて、近辺を歩いてみよう。おびき出されるようであれば御の字程度だ。ここまで、よろしいか」
返答。何人かの声が、潤んでいた。
「アンリちゃんだ。衛生救護班を率いて、今までの被害者とご親族の人心慰撫に当たってくれるように、お願いしてみてくれ。まずはこちらのカトリーヌさんとお母さまから。モルコはガブリエリ君とふたりで、カトリーヌさんの嫁ぎ先へ。事態の説明と、傷を理由に結婚を破談にすることのないよう、天下御免を使ってでも説得してみてくれ。ここまで、よろしいか」
返答。カトリーヌとお母さまの、はっとした表情。アンリと天下御免という言葉に驚いたのかもしれない。
はじめ。その声で、すべてが動き出した。
「ヴィルピンさま。私どものことまで気を遣っていただいて。聖アンリさまに、天下御免のガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキさままで。ああ、何とお礼を申し上げればいいか」
「お母さま、ここからです。俺ひとりじゃ、なんにもできない。だから皆で、皆を救います。そのためのアンリちゃんとガブリエリ君であり、こちらのウトマンであり、俺たち警察隊本部です」
自分のハンカチーフで、お母さまの涙を拭ってあげた。涙を流したものどうし、慰めのお返しである。
不意に、訪い。
父子。ふたりとも憮然とした表情で入ってきたが、息子の方は、ウトマンとヴィルピンの顔を見た途端、ぎょっとしていた。
「どうして、警察隊の方々が」
「被害者への事情聴取だ。その格好、国家憲兵隊将校と見えるが、このカトリーヌさんの愛しい人かね?」
ウトマン。何かに気付いた様子だ。ちょっとだけ声が冷たい。
「生命に別状こそないが、このとおりだ。むごいことをするやつもいたものだ。さあ、こちらへ来て、慰めておやり」
「あの。実は、本官は、その」
「おや。何か不都合があるのかね?よもやカトリーヌさんの傷を理由に、婚約を破断にするつもりかね?国家憲兵隊将校たるもの、そんな滅多なことはしないとはと思うのだがねえ」
「そのつもりで来たのだ。随分と偉そうに。君はうちの息子の何なんだね?」
やはり父親は憮然としたまま、こちらに詰め寄ってきた。お母さまが怯えたのに気付いて、ヴィルピンはすぐに抱きとめた。
「これはこれは、失礼をしました。本官、国家憲兵司法警察局、次長。ウトマンと申します」
ウトマンの慇懃な名乗りに、父親が目をひん剥いた。お母さまも、ヴィルピンの腕の中で跳ね上がっていた。
女を泣かせるようなやつは、国家憲兵隊に更地にされる。先のペルグランの大立ち回りにより、貴賎を問わず、それは共通認識になっていた。それでも一部の名家などは、その中世封建的価値観が変えられないのだろう。面目と体面を気にした行いで、女につらい思いをさせるということは、今でも少なくはない。
そして今まさに、女ひとり泣かせにきたところ、眼の前に国家憲兵隊の局次長がいるという状況を理解したのである。更地にされる可能性に対し、ようやく顔を青くして怯えはじめた。
「あの、司法警察局次長殿。可能であれば、父上の発言を撤回させていただきたく思いますが、よろしくありますでしょうか?」
若手将校が体ごと割って入ってきた。がたがたと震えている。
「おやおや。許可を取るべき相手を間違えてはいないかね?前提として、本官は貴官らの婚約について、とやかく申し上げる立場にはない。今までの発言についても、あくまで所感の範疇のため、何を気にする必要もないよ」
「ええと、それでは、その」
「結構です」
カトリーヌさんだった。口元だけでも、不機嫌そうなのが見て取れた。
「見損ないました。いやならいやと、はっきり申し上げて下されば、まだ諦めはつきました。それなのに、警察の偉い人と鉢合わせたからといって、それこそ体面や立場を気にして、ああだこうだとみっともないことをするなんて。愛想がつきました。最低です」
「そんな、愛しきカトリーヌ。それだけは」
「出ていって。顔も見たくない」
目を塞がれたお嬢さんにそう言われたのが、よほど堪えたのだろう。若手将校はその場でへたり込んで、めそめそと泣きはじめてしまった。
「司法警察局次長殿、そしてカトリーヌ君。先ほどの私の発言について、正式に謝罪をしたい。どうか、どうかお許しいただけないだろうか?」
大慌ても大慌てで、今度は父親が頭を下げた。女の方から縁談を断られたとなれば、面目に響く。女を捨てようとしたら逆に捨てられたと、世間さまから指を差されて笑われることになるだろう。
「お父上。どうぞ、顔をお上げください」
ウトマンが、つとめて優しい声を掛けていた。ほっとしたような様子で、父親が頭を上げたのは、束の間だった。
「ごめんで済むんなら、警察は要らねえんだよ」
顔面、零距離。ウトマンは、上げた頭に合わせて胸ぐらを掴み上げ、底冷えする声をひねり出していた。
これにはへたり込むぐらいしかやることが無く、慌てた若手将校に抱えられ、父子ふたりは飛んで逃げ帰っていった。
国家憲兵司法警察局次長だけは怒らせてはいけない。こちらも国家憲兵隊どころか、社交界では常識みたいなものである。
振り向いたウトマン。いつもの穏やかなにこにこ顔。これにはヴィルピンもほっとした。たまにやる、から怒りである。
「手前どもの関係者が大変な失礼をいたしました、カトリーヌさん。知り合いに頼んで、良縁を見繕ってきますので。どうか、ご勘弁を」
「とんでもありません。ヴィルピンさまに泣いていただいて、ウトマンさまに怒っていただいたので。私、もう、すっきり。新しい恋が、今から楽しみです」
「ああ、カトリーヌ。元気になって。ありがとうございます、ヴィルピンさま、ウトマン局次長さま」
喜ぶふたり。これが見たかった。
とびっきりの笑顔ひとつ。軍帽を取って、最敬礼。いつだって、これしかできない。
なあ、皆。俺、これだけで、やっていけるんだぜ。
5.
連続通り魔事案、五件目発生。傷は瞼の上だったが、バティーニュの処置のおかげで、失明もせず、傷も残らないようだった。
ペルグランは何より、ビアトリクスの様子を気にしていた。カルテからそれを見つけた瞬間の、目の色が変わった様子で、それを実感した。
戻りつつある。心中を吐露し、涙を流して、たどり着いた。あの“マギー監督”が、帰ってきつつある。
会議室。主だった面々にくわえ、ダンクルベールも入っていた。久しぶりの豪華出演陣、勢揃いである。
「婦女の顔を傷つける。その行いを許すことはできない」
大粒の涙をこぼしながら、ヴィルピンは軍帽を被り直す。ひとつのくせである。
「だけど、君たちの言うとおりだ。アデライド・ラヴェルさんの心を癒やし、罪を産まない土壌を作る。それこそが、俺たち、警察隊がやるべきことだ」
目が、心が、燃えていた。周り全員に、燃え移るほどに。
これこそが、泣き虫ヴィルピン。不屈の勇者。素朴なカリスマを持つ男。
その熱に浮かされて、舵を取っていこうじゃないか。
「僕は、絵を描くことしかできない」
続いたのは、犯罪鑑識室室長、“デッサン”ことフェリエ。
描き上げたのは一枚の絵。口裂け女の、不気味な絵。
「だから、こういうことができる」
取り出したのは、パン屑。それで、その絵の口元を拭っていく。その後、炭の先でちょっと直す。やったことは、それぐらい。
綺麗な女性の絵がひとつ、できあがった。皆で、おお、と声を上げるぐらい。
これがきっと、アデライド・ラヴェルというひとの、なりたい姿。こうなりたいと思って、踏み外してしまったのが、今の姿。
これを取り戻す。こうなれることを、教えてあげる。それだけで、その人の心は救うことができるはずだ。そして、同じ悩みと悲しみ、憎しみを持つ人たちの心も。
「そいつの心を救うことができれば、そいつのやったこともまた、そこで終わり。歪んだものをわかってあげて。叱って、諭して、促して。転ばせて、泣かせて、立ち上がらせる。いいね、わかりやすくって。それでいいじゃねえか?」
ご存知、特務機動隊“錠前屋”のゴフ隊長。デッサンの肩を組みながら、満面の笑みだった。
「一旦、そこまで。言葉だけでは拒絶されるぞ。人数も多ければ、相手は萎縮する。最低限の人数と、最低限の手数でそれをやる必要がある」
言葉の厳しさの割に、デュシュマンの頬は緩んでいた。小言ひとつで人から組織まで建て直す、“グレッグ棟梁”、ひと言、物申すのお時間だ。
「デッサンのやり方もいいが、絵空事だと突っ返される。弱った心を、荒んだ外殻で覆っている。それをどう、解きほぐすかだ」
今度はアルシェが釘を刺した。心を苛む拷問の名手でありながら、心の医療の専門家でもある。
議論をする上で、このふたりは欠かせない。正論、極論、反論、あるいは反証を臆せず言ってくれるからだ。どこか暴走しがちなこの面々を、真正面から窘めてくれる、希少な存在だった。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ。棟梁さんよう」
「結論を焦るんじゃないってだけだよ。方針はそれでいいから、山札から最適解を引き抜いてこい。どうだい、わかりやすいだろ?」
「そうではありますが、なにぶん、僕らみたいな専門店では、手札も山札も少なすぎますよ」
「司法警察局、ないしは国家憲兵隊という山札で考えてみな、デッサン。そうすれば、いくらかましな一手が出てくるはずだ。あるいは組み合わせがね」
小言屋さんと仏頂面が、それぞれの口元だけで笑ってくれた。
常識人コンビ、あるいはここにムッシュが加われば、常識人トリオ。本日は本業の都合、参加していないが、いてくれるだけで嬉しい、頼れる年長者たちである。
そうして専門店ふたり、肩を組んだまま、しばらく額を突き合わせた頃だったと思う。
「札遊びをするうえで、忘れてはならないことが、ひとつ」
聞き慣れた言葉遊び。しかしその声は、ダンクルベールではなく。
ビアトリクス。自信たっぷりの美貌が、咲き誇っていた。
「山札には、必ず“鬼札”が潜む」
ビアトリクスの言葉に、あるひとりに視線が集中する。
「私かい?」
それこそは、ファーティナ・リュリ。この場の議事録を執るために呼んでいた。
「なるほど。確かに、うちのとびきりの“鬼札”です。ティナさんなら、一手で決められる」
ペルグランは興奮が抑えられなかった。あのビアトリクスの名采配が戻ってきたのだから。
「ボドリエール夫人だったティナさんなら、その人の罪を戒めることも、心の傷を癒やすこともできるはずです。ここにいる全員のそれぞれを、愛という、大きなくくりで実現できます」
聖アンリ。可憐な顔と向こう傷が、微笑んでいた。
「かあちゃんなら、ハグ一発で落とせるはずだぜ。反抗期のお嬢ちゃんだって、こんなけ美人なかあちゃんに抱きしめられたんなら、寂しさ嬉しさでわんわん泣いちまうよね」
天井から、おちゃらけた口調。ひょいとその身体が、ティナの膝の上に着地した。
“鼠”のスーリである。第三監獄襲撃事件依頼、どうしてかティナのことを母と定めたようだった。
「それにしても、今引きか。つまりはこれが、マギーの強さなんだな」
そうやってふと、ダンクルベールが嬉しそうに嘯いた。それでペルグランも、ぴんと来た。確かに、ちょうどいい表現である。
ビアトリクスを見やる。いまいち、わかっていない様子である。
「札遊びの用語ですよ、マギー課長。その状況に必要な札を、その瞬間に引き当てること。そいつを山札から引かないと負けちまうって時に、それを引いてこれる力が、課長はとびっきりなんです」
ペルグランが補足をしてやると、マギーの顔に赤みが差した。この人、ようやく自分の強みに気付いた様子である。
「“鬼札”は引いてなんぼの札だ。手札にあれば持て余す。山札に眠っているもんを引いて勝つのが、札遊びの醍醐味だろう?なあ、棟梁」
ダンクルベールの言葉に首肯しつつ、デュシュマンは呆れたように頭を掻き始めた。
「ヴィルピン次長もそうですがね。今引きした側はそりゃあいい気分でしょうが、された側はたまったもんじゃあないですよ。ゴフとデッサンに引かせようって、なんとか山札を調整してたのに。これじゃあ後進が育ちませんよ」
「お構いなく。レディ・ファーストですよ。だろ?ゴフ」
「そうだね。何より、俺たちのマギー監督が戻ってきたんだ。一回休みも悪かぁない」
肩を組んだまま、ゴフ工務店とフェリエ絵画教室の二枚看板が、満面の笑みを撒き散らかした。
「すまんなあ。確かに、ヴィルピンも今引きが得意だからな。ダンクルベールになろうとしていた時期、一緒に泣いてたから、伝染ったのかな?」
ダンクルベールが笑って言った言葉に、ヴィルピンとビアトリクスのふたりが顔を見合わせた。それをみとめて、皆で笑った。
感情的で涙もろい。熱血気質の指揮官なのは、あるいはヴィルピンの影響なのかもしれない。
「前衛のマギー監督に、後衛のヴィルピン次長。今引き上手の敏腕指揮官、豪華二本立て。大抜擢が多いんだから、忙しい反面、嬉しい限りですよ」
ヴィルピンの副官、モルコが続く。ヴィルピンの思いつきに付き合わされて東奔西走。充実した毎日を送っている、今引き被害の第一人者だ。
「“二尊院酔蓮”でアンリを引いたのも、きっとそれだったのかもしれませんね。あんときは咎めちまったけど、伸ばしたほうがよかったみたいだ」
アルシェの仏頂面が、口元だけ笑った。“小言のグレッグ”が来るまでの小言を担当していた、汚れ仕事の達人でもある。
「あのときなら、ルキエもそうですよ。ね?レヴィ」
「あたし、すっごいびっくりしたし、嬉しかった。長官もマギー監督も、あたしを評価してくれてたんだって。ちゃんとお礼、言えてなかったや。ありがとうございました、監督」
チオリエ夫妻。そのふたりの言葉に、ようやくビアトリクスが微笑んだ。
その瞳は、僅かに潤んでいた。
「心配かけたわね、皆。特に、ペルグランとガブリエリ」
「なんもなんも、ですよ」
「おかえりなさい、ですね。マギー姉さん」
ガブリエリとふたり。拳を突き合わせながら。
長かったのだか短かったのだか。まあとにかく、揉む分の気を揉んでいた。それでもようやく、戻ってきてくれた。
「マギー監督」
近寄った、ふたりの女の子。片方は既に、泣きじゃくっていた。
「ごめんね、フラン。私、自分がわからなくなってたんだ。ジェーンにも、フランを任せっぱなしにしちゃったね」
「ありがとうございます。戻ってきてくれました。ねえ、フラン。そうだよね?」
クララックに促され、シャルチエは、ぼろぼろ泣きながらしがみついた。
「ただいま、フラン」
ビアトリクスは、お母さんの顔だった。
「警察隊本部にゃあ、家族が生まれる時がある。俺とアンリからはじまって、今度はビアトリクス少佐殿とシャルチエ少尉殿ですかな。こりゃあ紙が何枚あったって、家系図が書き表せませんなあ」
北の巨人、オーベリソン。得意の冗談で、笑いを取りに来た。人相こそ厳しいが、場を和ますのが得意なムードメーカーでもある。
「なりたい自分と、今ある自分のギャップに悩んでた。でもこうやって、皆に評価されたのなら、なりたい自分もまた、変えられる」
そうして、自分の頬を、ぱん、と張る。
峻厳な美貌。見慣れた顔。久しぶりの、“マギー監督”。
「私はマギー。ダンクルベールでもヴィルピンでもなく、サラ・マルゲリット・ビアトリクス。皆、びしばし行くわよ?」
自信満々の声。おう、と声が続いた。
「ええと、ちょっといいかい?」
そこに、遠慮しがちな声が挟まる。
「自分で言うのも何だが、私、国家機密だよ?それに、人を追い込んだり、丸め込むのは得意だが、説得は正直に不得手だぞ」
膝の上のスーリを撫でながらも、ティナはどこか不満げというか、不安げであった。
「人を愛すること。愛されたいと願うこと。それは、ティナさんの得意分野です。課長にそうしてくれたように、アデライド・ラヴェルを愛してあげて下さい」
ビアトリクスの言葉に、ティナは致し方なし、といった表情を浮かべた。
愛するということ。愛を求めるということ。膨大な時間の中で、ファーティナ・リュリこと、朱き瞳のシェラドゥルーガは望み続け、そして果たし続けてきた。それはきっと人を救い、癒やすことと同義であり、あるいはそれを経て、愛に繋がっていくのかもしれない。
シェラドゥルーガは、生きている。愛するもののために。愛してくれるもののために。
「ご褒美は、ちょうだいね?」
拗ねた子どものような言葉。笑ったのは、隣りに座ったダンクルベールだった。そうして突然、その麗しい顔に、大きな掌を添えた。
軽く、ベーゼ。しかも唇に。
「前払いだ。これで、いいだろ」
にこやかに。
思わずで、ペルグランまでどきどきしていた。寡黙で不器用、威厳の人だったダンクルベールが、こんな気取ったことをするなんて。
見渡す。平然としていたりするのは、スーリと年長者だけで、あとは真っ赤になって固まったり、口元を抑えるなりしている。ビアトリクスなんて、顔を掌で覆いつつも、指の隙間から爛々とした瞳を覗かせていた。
名前だけになり、おおらかになった。あるいはこれが、本当のダンクルベールのかたちなのか。
「人前で恥をかかせやがった。やり直しを要求する」
美貌は、ぷんすかと赤くなっていた。
6.
割れた鏡の前で、身だしなみを整えていた。
いつからか、歪んだ。覚えていない。綺麗でなければ生きていけない。そればかりに、苛まれていた。
何ひとつ、恵まれて産まれてこれなかった。周りには、気にする必要はないとばかり言われてきたけれど、実際はそうじゃなかった。あげつらわれ、いじめられ、追い立てられた。そのたびに、人は心の生き物だから。そう、慰められた。
心の生き物だから、かたちしか見ないのだ。自分の美意識に合致するものだけを、愛でるために。
だったら、周りを歪ませればいい。同じ思いをすればいい。そうして歪んだ世界の中で、私が一番に綺麗なら、それでいい。
誰かが選んでくれるのを待つのは、もうやめた。選ばせる。周りを蹴落とし、ひとりになれば、選択肢はひとつだけになるのだから。
外を見る。小雨の中、傘を差さない女がいた。
袖を捲った油合羽。色は結構、褪せている。裾から覗く足元は、スカートではなく、スラックスだった。口元は見えないが、紫煙の燻りが立ち上っている。
旦那の借り物か。その上、男みたいな格好までして。紙巻まで咥えて、格好つけたがりかよ。
気に食わない。こいつが今日の獲物だ。
壊れた裁ち鋏。裁縫が好きだった。上背が男よりも上だから。自分で作るより、他なかったから。
「ねえ」
俯きながら、女の前に立ちはだかった。頭巾付きの油合羽。
「私、綺麗?」
裁ち鋏は、まだ隠していた。
「いいえ」
その女は、臆することなく。
「貴女は今、誰よりも醜い。心の荒んだものを人にぶつけて、傷つけた分の傷を心に刻んで、そうやってどんどん乾いていく。もはや化粧や服では取り繕えないほど、今の貴女は醜いわ」
目を、合わせられた。綺麗な顔。黒い髪と、真っ赤な紅。咥えられた紙巻に油合羽。
まるで軍警物語から飛び出てきたような、絵に描いたような女軍警。
震えていた。ひどい言葉。突き刺さる言葉。そんなこと、なんで言うの。人のこと、何にも考えていない言葉。
「ひどい、ひどい。どうしてそんなこと言うの?」
「思ったことは、思ったままに。今の今まで、あなたに対して、誰もそれをしてこなかった。だから今、私がそれをしている」
女は、頭巾を取った。黒髪が、雨の中に踊る。
現れたのは、見とれるほどの美貌。
「こちら。国家憲兵警察隊、捜査一課課長、少佐。サラ・マルゲリット・ビアトリクス」
女軍警。警棒、ひと振り。掌に収めて。
「神妙にすればそれでいいけど?やるってんなら、とことん行くわよ」
その言葉に、頭が真っ赤になった。
叫び。斬りかかる。いなされるが、いくつかは油合羽まで届いた。
知っていた。人の弱点。刃物に対する恐怖。それは絶対に克服できないもの。馬上刀や細剣なら、きっと自分が恐れていた。でも警棒。ただの棒切れ。そして身長差。それなら、たとえ素人でもこちらが有利。
振り回すだけでいい。技術を持つものは、技術にしか対抗できない。素人のそれは、未知の恐怖だ。これも知っていた。
“ルシャドン伯の決闘”で学んだこと。大好きな、ボドリエール夫人の著作で学んだこと。
警棒のいくつかが、体にぶつかった。痛みは怒りと憎しみで塗りつぶせる。前に、前に。
お前の口も引き裂いて、醜く歪ませてやる。
「マギー姉さんっ」
そうやっているうちに、男ひとり、間に入った。同じく油合羽。短い丈。こいつも軍警か。
姉さん。その言葉が、頭にこびりついた。
「誰よ、誰よ。誰なのよ、あんた。その女の何なのよ」
「ルイソン・ペルグラン」
揺れ動いた。その幼い顔の男は、確かにそう言った。
ルイソン・ペルグラン。次代の英傑。男の本懐の代名詞。愛する妻と母のために、育った家をも焼いて清めた、男の中の男。
「案山子の嫡男、ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグランだ。国家憲兵警察隊、捜査一課主任。このひとの弟だ」
それは、すべての婦女の盾。
でも、それが私ではなく、マギーとかいう女を守るために、立ちはだかっている。血も繋がっていないだろうにも関わらず、姉と呼んで。
やっぱり、許せない。私を守ってくれないくせに。
「あんたも、私のこと、醜いって言うの?」
「ああ、そうだ。そしておんなじぐらい、悲しい生き物になっている。だからあんたを捕まえて、ありったけをやり直させる。あんたに罪を償わせて、あんたを綺麗にすることが、男たる俺の役割だ」
「男なんてっ」
心の奥底の澱が、飛び出てきた。涙とともに。
「男なんて、都合の良いことばかり並べて。どうせ、かたちにしか用はないんだ。そうして都合が悪くなったら、ひどいことを言ってくるんだ。ひどい生き物。汚い生き物だ。男も、女も。全部、全部が、醜いんだ。全部が間違ってるんだ」
また、振り回した。それでもその男は、悠然と歩を進めてきた。何も持たず、振り出したものを、身体に刻みつけながら。
「そうだ、あんたの言うとおりだ。だから俺は、それをも変えてみせる。歪んだもの、間違ったものを、ありったけ正してみせる」
その男は、真正面でこちらに来た。そうやってほとんど目の前で、構えもせずに立ち止まる。
固まった。わけがわからなかった。こわくないのか。私が、刃物が。そして、人を守って傷つくことが。
「俺の母は、俺を男として産んでくれた。俺の親父は、俺を男として育ててくれた。男たることを任されたルイソン・ペルグランとして、あんたを綺麗にしてやりたい」
傷だらけの男。見てくる。真っ直ぐな瞳。男の、瞳。吸い込まれ、惹かれそうになるほど。震えてしまうほどに。
綺麗になれる。この人の言うことを聞けば、きっと。
「いやだっ」
衝動が、突き飛ばしていた。
とにかく、走った。走って、躓いて、それでも走り続けた。雨の中。涙と雨で、ぐちゃぐちゃになりながら、駆け続けた。
どこかへ。でも、どこに。どこに逃げればいい。
行き場所がないから、それを作ろうとした。それを否定され、生きたくない場所で生きることを促された。でもきっと、まだつらい。綺麗になれたって、つらいものしか、そこにはないはず。この世界は私にとって、あまりにもつらいものが多すぎたから。
どこかの路地。どうにもならなくなって、へたり込んだ。そうして、泣いた。声を上げて、泣き喚いた。
ねえ、どこへ行けばいいの。私、どこに居ればいいの。
「女というのはね。綺麗なだけでは、どうにもならないのよ?」
凛とした声。
「それを褒めてくれる人、見初めてくれる人、抱きしめてくれる人がいないと、何もはじまらない」
どこかで聞いた言葉。いや。何度も読み、言葉に出して、繰り返した言葉。
「手の甲にベーゼが欲しいだけなら紅を差せばいいし、一夜を共にしたいだけなら、胸元をさらけ出せばいい」
ああ、知っている。“女男爵の憂い”だ。使用人アンナに、女男爵メリザンド・ナディアが、女の心構えを説くところ。大好きで、訓戒だと思って、何度も読み返したんだ。
声の方に、目をやった。
「何もかもを奪われたいのならば、心から綺麗でなくちゃ」
傘を差した女だと思う。
朱と黒を基調としたドレス。均整の取れた、美しい肢体。纏め上げた、艶やかな朱色の髪。チュール付きの帽子と薄手の手袋。
綺麗なひと。雨の中、見とれていた。
「貴女は、まさか」
「そう。それこそは」
こちらを向いた。美貌。心が、奪われるほどに。
「パトリシア・ドゥ・ボドリエール」
その名は。つまりは、あのボドリエール夫人。
固まった。およそ二十年前に死んだはずの人間。それがここにいる。それにきっと、当時の姿のままで。
なによりもそれは、あの凶悪殺人犯が、眼の前にいることを意味していた。
「それこそは、ガンズビュールの人喰らい。それこそは、狼たちの女主人であり、朱き瞳の恐ろしきもの。そう、つまりは、そうとも」
雷鳴とともに。朱い瞳が、稲光を残しながら。
「シェラドゥルーガは、生きている」
悲鳴。その言葉に、体が震えだした。
嘘だ。撃たれて死んだはずの人間。生きている。眼の前にいる。そうして、笑っている。つまりは、あのお伽噺の、人喰い悪魔。
シェラドゥルーガが、生きている。
「やあ、アデリー。無様な姿だね。今の姿を否定され、言いたいことも全部、言い返されて。そうして残ったのは、弱い自分。たったそれだけ。それでもその姿、とっても素敵だよ」
その朱いものは、嘲笑うように語りかけてくる。朱い瞳で、睥睨してくる。
「男よりも高い上背、ぼさぼさの髪、そしておちょぼ口。取り繕えば何とでもなると思ってたんだろうね。ただやるべきは、心を矯正することだったようだ。その醜く歪んでしまった心をね」
眼前まで迫ってきたそれを、追い払おうとした。
何かが、引っかかった。それに気づいて、思わずで下がっていた。
そのひとの腹に、裁ち鋏が刺さっていた。刺してしまった。
「痛いじゃないか。ひどいなあ」
しばらくの間を置いて、それは平然と言葉を放った。
腰が抜けていた。膝が、がたがたと音を立てている。
化け物だ。お伽話のシェラドゥルーガだ。本物の、人でなし。腹から血を滴らせながら、動じていないなんて。どうしてそれが、こんなところに。
俯いた顔。それが、上がる。
「いやだっ」
それが目に飛び込んできた瞬間、思わず、叫んでいた。叫んで、手で目を覆っていた。
自分の顔。口の裂けた、醜い女の顔。
「見せないでっ、そんなもの。いやっ、いやだっ。ひどい。そんなもの、私に見せつけるなっ」
「随分なことを言うじゃないか。これが君だよ、アデリー。この醜く無惨な姿こそが、君の今の姿だ」
叫びながら、哭きながら。ずっとずっと、喚いていた。
綺麗になりたかった。綺麗って、言われたかった。そのために、いろんなことをした。高すぎる背丈は着るものを工夫して。髪に着ける油だって、いろんなものを試した。
おちょぼ口。持って産まれたそれだけは、どうにもならなかった。だから、すがった。すがったのに、こうなった。こうなって、誰彼からも見放された。
こんな姿。なりたくて、なったわけじゃない。
「そして」
すっと通る声。ハンカチーフが、その口元を隠した。
どうしてか、それだけなのに。心が落ち着いていく。声が、心の奥から出尽くしたのか。
「それが、私?」
現れたのは、美しい私だった。
見とれていた。確実に、私の顔。でも、唇だけが違う。たったそれだけなのに。
私、綺麗だ。こうなりたいと思うぐらいに。
「なりたいものになるために、人は努力をする。君はその順番とやり方を間違えただけ。だから歪んだ。だから君は、醜くなった」
言われた言葉に、きっと、涙の色は変わっていた。流れるそれが、温かく感じた。
「だけど、やり直せる。今からでも、なりたいものになれる。そのために、まずは人たる君が、君を裁きなさい。罪を償い、そうして綺麗になろうよ。アデリー」
そのひとは、手を差し伸べてくれた。
女男爵さまは言っていた。心から綺麗でなければ、何の意味もないって。訓戒だと思って、何度も読み返していたのに、どうして今まで。
やり直す。やり直したい。できることなら。
「雨に濡れると風邪をひく。美容と健康には、一番良くないことだ。さあ、温かいところに行こう」
俯いてしまいながら、それでも、その手を。
「はい、はい。夫人。ごめんなさい、ボドリエール夫人」
ぼろぼろと泣きながら、その手を取った。
優しかった。温かかった。まるで、お日さまみたいで。
そうだ。これが欲しかったんだ。そのために、綺麗になれば、これがもらえると思い込んでいたんだ。違うんだ。心を綺麗にすれば、これがもらえるんだ。たとえ上背が高すぎたって、髪質がよくなくたって。おちょぼ口だって。
ごめんなさい、女男爵さま。私は、間違えていました。心を綺麗にするべきだったんですね。
「よく、頑張りました。けれど、これは夢。君だけの、望みに向かうための戒め。だから夢が覚めたら、マギーとルイソン・ペルグランに、ごめんなさいを言うんだよ。できるかい?」
「はい、できます。ありがとうございます、ボドリエール夫人。私の中の、シェラドゥルーガ」
「そう、よかった。それならば」
シェラドゥルーガは、もういない。それだけ聴こえたような気がした。
顔を上げる。誰もいなかった。
雨は、上がっていた。
7.
アデライドはあの後、本部庁舎に出頭してきた。
犯行動機には、一定の同情が寄せられていた。またこれに対して、一部の権利保護団体から、現在の中世封建的な価値観の是正、あるいは打倒を叫ぶ声が上がっていた。
取材に対し、国民議会議長マレンツィオは、“非常に痛ましい事件。被害者も加害者も、誰も幸せになれなかった。悪者など、どこにもいない”と感傷的なコメントを残した。司法警察局局長代理、ウトマン次長も“犯行は許せないが、加害者の背景は一考すべきものがある”と答えていた。
ペルグランの受けた傷は、アンリの処置だけで十分な程度だった。ただインパチエンスには相当に叱られ、泣かれたそうだ。
ビアトリクスはバティーニュに依頼して、勾留中のアデライドの状態を診てもらった。弟子のひとりに、美容整形外科に卓越したものがおり、それであれば、裂けた口をある程度は戻せるとのことだった。
医療費を出そうとしたが、断られた。理由は様々だが、まずはアデライドを救いたいとバティーニュは申し出てくれた。
アデライドの治療には、何度か連れ添った。その間にも書類送検、検察での起訴手続きが進み、裁判の日付も決まった。裁判官はアデライドに対し、いくらかは同情的で、おそらくは執行猶予付きの判決になるだろうとのことだった。
行方不明者扱いだったアデライドに、家族も会いに来た。破談について、泣きながら謝られたそうだ。
アデライドの治療がひと段落した段階で、ビアトリクスは面会を申し出ていた。ひとりを伴い、勾留所に向かった。
面接室。軽犯罪者用のもので、衝立や鉄格子は無かった。
現れたアデライド。伸び切っていた髪は、肩のあたりで整えている。裂けた口は縫われて、普通の人と変わりないぐらいになっていた。傷跡もきっと、化粧でごまかせるぐらいのものだろう。
「マギー、来てくれた。ありがとう」
アデライドは、素敵な笑顔だった。
「今日ね、合わせたい人がいるの」
促して、連れてきたひとは、その頭巾を取り去った。
「アンリさま?」
その傷をみとめて、アデライドは呆けたようにしていた。
向こう傷の聖女、アンリエット・チオリエ・オーベリソン。傷を負い、傷を癒やす、生ける聖人。
「アンリさまは何故、傷を疎まないのですか?」
「私の傷たちは、証です。救ってきた人々、救えなかった人々、それぞれの聖痕です。だから、憂うことも、疎むこともありません」
穏やかな目と口調。アンリは、アデライドの手を取っていた。
「私のなりたいものは、人を救いたいと思う心です。この体は、それがかたちになっているだけのもの。かたちが燃えて失われれば、灰から甦ればいい。そのために、心の強さを培った。そのために、涙を流してきた」
ぼろぼろの手。煮沸した湯に、布や針を清めるために突っ込んだり、冷たくなった死体の腹の中を弄ったりしてきた、アンリのもうひとつの象徴。最前線の天使の、傷だらけの翼。
そうしてそのアデライドの指先を、自身の額のそれに当てるようにして。
「人を、救う。そのために、この傷と名を、負ったのです」
その向こう傷から、きっと、温かなものが伝わったのだろうか。アデライドの目から、綺麗なものが、こぼれはじめた。
「私は今、救われました。アンリさまと、マギーやルイソン・ペルグランさん。そして、私を救ってくれようとした、皆さまによって。だから今、犯した罪と向き合うことができます。どうしてこんなことに、なんて思わずに。自分のやったことに正面から向き合って、片付けをすることができます。ありがとう。ああ、ありがとうございます」
そう言って、アデライドは泣きじゃくっていた。
自分のあり方に苦しんだ、ひとりの女性。自分と同じだった。ビアトリクスは環境に恵まれたけど、アデライドはそうではなかった。
だから、手を差し伸べたかった。偽善と思われようが、それで救えるなら、そうしたかったから。
「ねえ、マギー」
帰り際。アデライドは、微笑んでいた。涙を流しながら。
「私、綺麗?」
その笑顔は、眩しいぐらいに。だから、正直に。
思ったことを、思ったままに。
「ええ。今まで出会った人の中で、一番」
「ありがとう。そればっかり、求めていた。そればっかり、言われたかった」
「おめでとう、アデリー。ちゃんと、おかえりなさいって、言わせてね?」
「うん、約束する。マギーたちに、ただいまって言えるように、私、頑張るから」
本当に、素敵な笑顔だった。
面会室の前で、初老の男性が待っていてくれた。バティーニュである。
「バティーニュ先生。この度はご厚意を頂戴し、何とお礼を申し上げてよいものか」
「医師として、人として、人を救えた。その機会を与えてくださった。こちらこそ、お礼を申し上げたい」
にこりと、笑みで顔を崩してくれた。
奇縁で、奇縁を救えた。こういうこともある。
帰りにバティーニュたちを伴い、“赤いインパチエンス亭”を訪ねた。美しい花たちが、出迎えてくれた。
「マギーにアンリさま、いらっしゃいっ」
ひときわ小さく可憐な花。メロディ・ルイソン・ペルグラン。
ニコラ・ペルグラン家没落騒動の際に発覚した、ペルグランの腹違いのきょうだいのひとり。赤毛のおさげにそばかす顔のやんちゃ娘で、母親であるイヴェットとともに、食事の少なかったこの店の厨房を預かっている。まだ十代中頃のはずだが、ビアトリクスが逆立ちしたって敵わないほどの料理上手、家事上手だった。
「御機嫌よう。メル、今日は何を作ってくれたの?」
「マギーの故郷の味。そしてお母さんの故郷の味だよ。マギーが里帰り、全然しないからって、お殿さまが心配してたからね」
「そうかあ、ありがとう。確かに、たまには帰らなくっちゃね」
ちょっとだけ苦笑い。それでも、作ってくれたものは、ちゃんといただかないと。
久しぶりの“赤いインパチエンス亭”。カウンター以外は立食形式にしたと聞いていたけど、いい感じの雰囲気。ビリヤード台ひとつと、テーブル代わりの酒樽が四つほど。その間を縫うように、コロニラとメロディという元気娘ふたりが駆け回るのだろう。落ち着きたいなら、カウンターでカンパニュールとインパチエンスが迎えてくれる。
婦人会にも顔を出さなくっちゃな。きっと皆、心配してくれている。
ソーセージとチーズのサラダに、鵞鳥の肝のテリーヌ。タルトフランベにシュークルート。パンの固くなったもので作るようなマンディアンまで。チーズはビアトリクスの好みに合わせて、新しいものもある。
肉とチーズと芋。そればっかり。ああ、懐かしい。食べすぎると絶対に良くないやつ。それでもこれが、郷里の味。見るだけでもほっとする。
「お医者さま、ご無沙汰しておりあんす。こうやってお会いできること、何よりも嬉しいことでがんす」
女主人、インパチエンス。子どもが産まれてからは、肉付きも良くなったし、髪も伸ばしていた。ウルソレイ・ソコシュ事件にて、夫とは生命の恩人どうしとあって、出会い頭から感極まった様子であった。
「あのときは泣いてばかりでしたので。お医者さまに、ちゃんとしたかたちでお礼を申し上げることができあんした。これ以上の果報はごぜあんせん」
「お互い様ですよ。ルイソン・ペルグラン殿はあの時より、もっとご立派になられた。そして貴女はお母さんになり、より魅力的になられました。お二方の現在を繋ぐことの一助になれたのですから、嬉しいったらありゃしません」
見せてもらったエーミールを抱きかかえながら、バティーニュはにこにこと笑っていた。
「いやあ。にしても可愛いなあ。いつだって子どもは可愛い」
「ひとつになりあんすが、どうも、歩きはじめが遅いようでして」
「なあに、心配ご無用です。ひとりめの男の子ってのは、話すのも歩くのも、ちょっと遅めなことが多いんですよ」
「お医者さまにそう言っていただけあんすと、安心でがす」
「これは医者としての見解ではなく、お祖父ちゃんとしての見解ですよ」
バティーニュの言葉に、インパチエンスとペルグランが笑っていた。
「久しぶりだなあ、バティーニュ君」
男ふたりが、店に入ってきた。ムッシュとその息子、セバスチアンである。
「おお、フランシス・ラポワント君。それに、セバスチアン君まで。もう何年になるんだか、思い出せもしない」
「私もだよ。これでは、お久しぶりなのか、はじめましてなのかすらわからんなあ」
「恵まれた出会いへの感謝だ。酒を飲む理由など、それでいいだろう。昔の君が、そんなことを言っていた」
「そいつはいい。昔の私というのも、なかなか素敵なやつだったのだな」
男三人、子どもを抱き回しながら、やんややんやと盛り上がっていた。
若かりし頃に、同じ医者に師事していたと聞いていたので、呼んでおいたのだ。セバスチアンも、バティーニュには何度か師事していたとのことである。
「目と髪はお母さん。顔はお父さんか。お父さんが僕ちゃんに似ているのかもね」
「ルイちゃん、いつまで経っても子どものお顔ですから」
「セバスチアンさんもアンリさんも、茶化さないでくださいよ。俺だって気にしてるんですから」
「でも本当、若さまは旦那さまそっくりで。大奥さまともそっくりですもの。かわいいのだか、可笑しいのだか」
肉付き十分以上のおっかさんといった感じのイヴェット。同郷出身。肉とチーズと芋で育った、フォンブリューヌの女。
こうならないようにと、郷里を飛び出したのも、ひとつにある。でも見てると、安心するかたち。故郷の女のかたち。
「そういえば、ジャックミノーという人、覚えていますか?」
不意に、ペルグランがアンリに尋ねていた。
「アンリさんが、片足を切り落としたひと」
「ああ。お名前までは伺っていませんが、思い当たる人がひとり」
「生きてらっしゃいますよ。ウルソレイ・ソコシュで、ホテルの支配人をやってるんです。あの事件の時、その人のホテルに泊まったんです」
その言葉に、アンリがとびきりの笑顔を見せた。
「ルイちゃん、なんで今まで教えてくれなかったの?」
「ごめんなさい。今になって思い出したんですよ。あの頃は色々と余裕がなくって」
「ジャックミノー大佐殿ですか。懐かしいですなあ。いい声なんですよ。線は細いのに、どかんと響く」
酒気で頬を赤くしたバティーニュが反応した。
「あの時は、どうしていいかわからなかった。とにかく生き存えさせるために、切り落とすしかなかった。いっぱい泣いて、いっぱいごめんって。まさかホテルの支配人だなんて」
「退職金と障害手当、障害者年金あたりを使って、マナーハウスひとつ買い上げたんでしたっけ。あの建物、本当に綺麗だったよね」
「ええ。ルイちゃんとふたり、はしゃいだもんであんす。大佐さまも本当に優しいおひと。このこがもう少し大きくなったら、お礼をしに行きあんしょ?」
「領土紛争に飽き飽きしていて、戦いが終わったら、人をもてなす仕事をやりたいって思ってたらしいですよ。そうしてアンリさまと出会って、片足を失って、退役する決意ができたんですって。思いがけない出会いのお陰で、なりたいものになれたって、喜んでらっしゃいましたね」
アンリと三人が、賑わっていた。
“包丁使い事件”。ペルグランたちにとっては、新婚旅行をふいにされた、いやな思い出のはずだ。
それでも、こうやって笑いあっている。時間と出会いが、それを作ってくれたのかもしれない。
「なりたいものになるために、か」
ふと、口に出していた。それに、コロニラとカンパニュールが近寄ってきた。
「マギー姉は、何になりたいの?」
「変わらないわよ」
わざとらしく、鼻を鳴らして。
「私はマギーになりたい。マギーでありたい」
ウインクひとつ、マギーの顔で、答えてみせた。
ダンクルベールには、もうなれない。なろうと思う気持ちもない。あのひとは名前だけになって、二十年前みたいな姿になったけれど。それも、なりたいものになれたから。ありたいかたちになっただけ。
だったら、選択肢はひとつしかない。私は、マギーになる。どんなかたちかは、自分が定める。
「そうだよね。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「いいわよ、ルイちゃんみたいに、思ったことは思ったままに、でしょ?」
「コロニラが聞きたくなるのもわかるかも。だって突然、髪型も口紅も変わったんだから。ちょっと、どうしたんだろうって」
「ああ、これ?」
カンパニュールの言葉に、ちょっとだけ、吹き出してしまった。
確かに、変えた。伸ばして流したものを、顎先あたりで切りそろえた。髪色も、いくらか茶を差している。口紅も、淡い桃色のものに変えていた。
もうすぐ朱夏。正真正銘、おばさんの仲間入り。だから新しく、マギーになるために。
なりたいものに、なるために。
「イメチェン、ってやつよ」
それだけ、笑って答えてみせた。
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おまけ
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アデライド・ラヴェルの送検が済んだあたり、ダンクルベールから、久しぶりに前餐でも、と誘われた。夫に鳩を飛ばした後、ビアトリクスはビストロ・オーブに向かった。
「あら、カトーさんまで?」
二階の大きな卓。憲兵たちの中に、紺と茶の組み合わせが混ざっていた。
「俺とて、おやっさんには世話になったしね」
「こちらも、我儘で娘ひとり託してしまった。今回は気を揉ませたね」
「構やしません。大事な妹ですもの」
そのやり取りに、ビアトリクスは思わずむっとしてしまった。
「私だって、女として見られたい」
「なら、女として振る舞いな。仕事人間の度が過ぎて、女としての振る舞い方を忘れてるの、自覚してないのかい?」
カトーの言葉に、周りが笑いを堪えていた。
「マギー姉さんはちゃんと、女性として魅力的ですよ」
それでも、ペルグランである。とっさにフォローを入れていた。
「ルイちゃん、年上好きだもんね」
「否定はしません。さあ、おかけ下さい」
ペルグランが引いた席は、カトーの隣だった。きっと不満そうな顔が出ていたのだろう。カトーが立ち上がり、エスコートの要領で手を差し伸べてきた。
「女として見られたいのなら、まずは素直になることだ」
「わかったわよ」
観念して、その手を取った。
席にかける。隣には、シャルチエもいた。配属当初から慕ってくれる、かわいい娘だった。
「あらためて」
シャルチエの方に、向き直り。
「ごめんね、フラン。心配、かけちゃった」
その一言で、シャルチエの目がすぐさま潤んだ。
「今日は楽しい席だから、泣いたら駄目だよ」
「わかりました、監督。楽しみます」
「よろしい。いっぱいお話しようね」
頭を撫でてやる。目一杯の笑顔。本当に、愛おしかった。
ビストロ・オーブも久しぶりである。値段も手頃で、何でも美味しい店。今日は前餐だから、軽めのおつまみが中心。赤茄子のパン粉詰め。様々な茸とケッパーのソテー。柑橘のサラダだとか、茄子のキャビア風だとか。後はダンクルベールの好物である、海鮮のタルタル。今日は鮪とアボカドだった。
「ロッシュ伍長も来たんだ」
「兄貴に誘われたんです。ちょっと、緊張してます」
勇ましい顔つきの若者。ペルグランの隣でかちこちしていた。
マクシミリアン・ルイソン・ペルグラン・ロッシュ。もと海軍下士官。ニコラ・ペルグラン追放騒動で発覚した、ペルグランの腹違いのきょうだいのひとりである。軍の内部粛清の直前、ペルグランとダンクルベールが救い出していた。
確かに慣れない顔ばかりで居心地は悪そうだが、見渡せば、世話焼きのモルコに、年の近いビョルンまでいるので、そこまで気にかけなくても大丈夫だろう。こういう場を通じて、どんどん周りと仲良くなってほしい。
「そちらの方は、はじめましてかしら?」
ふと、正面に座るティナの隣に。
黒い肌の、妙齢の婦人。剃り上げた頭と、黒いローブ・デコルテが印象的。黒い影の中、白目が瞳のように思えるほどだった。
「ミラージェ。ティナのお守りさ。今日はお殿さまのご厚意で、ご同伴に預かっているよ」
思わず、顔をしかめた。
公安局である。カトーを狙っている可能性は、大いに有り得る。
「ご心配なく。今日はオフだし、カトーさんとは長いからね」
「姉さんも客のひとりさ。安心しなよ、マギーちゃん」
「そう、それならいいんだけれど」
「この店、気になってたんだ。雰囲気もいいし、ごはんも美味しいって評判だったからね」
そう言って、その影は微笑んだ。
「ミラージェさん、いろんなお店、知ってるんです。色々教えてもらうの。今日のはひとつ、貸し」
その隣のアンリ。最近、修道服以外も着ることが多い。ティナに色々と教わったり、選んでもらっているそうだ。
「後で返すよ。でも本当にいい場所。ピアノに、ダーツまであるんだね。帰りに少しやろうかね」
「おや、姉さん。やれるのかいね?」
「まあね。本領。今度、いいダーツバー教えるよ、カトーさん」
「ミラージェさん、ピアノもできるのかね?」
「娘に教えるためにね。お殿さまもそうだっけか?」
「そうだねえ。今は時間もできたから、買い直したよ。小さいアップライト。ピアノと花壇いじり。爺さん趣味には、ちょっと可愛らしすぎるかな?」
ダンクルベールの言葉に、皆が微笑んでいた。
大佐になり、名前だけの仕事になってから、鷹揚になった。そう考えると、あの頃の課長とはやはり、別のかたちなのだろう。
新しいダンクルベール、オーブリー・アディル。穏やかな老紳士としての、好きだった人。
それをちゃんと、受け止めなければ。
「おや、マギー君。顔が難しいよ?妬いてるのかい?」
ティナだった。にやにやしている。
「妬いてないです」
「ミラージェ君も罪だねえ。早速、男ふたり、誑かしちゃってさ」
「心外だね。余所にしておくれよ。こちらはそろそろ孫持ちだよ?」
「おや、姉さん。そんなになるのかい?」
「まあね。こないだ、息子が連れてきてさ。できちまったから責任取るって。勝手にしろって怒鳴りつけちまったけど、お嫁さんには悪いことをしちまった。どう建て直したものかねえ」
「それならば、産まれてから格好をつければよろしかろう。嫁いびりと称して、手伝っておやりなさい。そうやってお嫁さんに楽をさせてやればよろしい」
「へえ。流石はお殿さまだ。先輩として仰がせてもらうよ。祖母なんてはじめてやるから、今から心配ばかりだよ」
「はは。孫はとびきりだぞ?いやしかし、内孫は羨ましいなあ。まあ、エーミールが内孫みたいなものか」
言ってふたり、砕けている様子だった。ミラージェという女、確かに、見た目はそれほどの歳には見えない。
「それにピアノなら、私だって弾けるようになりましたし」
これだけ、鼻を鳴らしながら言ってみせた。隣のシャルチエが目を輝かせている。
しかし、見やる。どいつもこいつも、口元を抑えてくすくすしていた。
「うちの人が弾くからでしょ」
ティナ。思わず、顔が熱くなった。
「そうなんですか?監督。それでも弾けるだけ、すごいです」
「本当、マギー姉さんは親離れできませんよねえ」
「ルイソン。そこがマギーの可愛いところなのさ」
「可愛いんですって。マギー監督」
「マギーちゃんはいつだって可愛いさ。じゃなきゃあ、こんなきかん坊、相手にもできやしないさ」
「アンリもカトーさんも、乗っかるんじゃない」
赤い顔のまま、声を荒げた。それで皆、笑った。
「そういやアディル、どうして“嫁入り道具”にカトーさんを選んだんだい?二課異動した頃って、マギー君も家庭ができたぐらいだろう?年上の男を付けるのは下策じゃないかね」
「ああ、それは」
「私が選びました」
とっさに、声を出していた。こんなこと、ダンクルベールの口からは言わせたくない。
「年上の男の人がいいって。そうじゃないと私、甘えられないから」
ちょっとだけ、どもってしまった。
カトーとミラージェ以外は皆、腹を抱えていた。こちらはもう、どうにでもしてくれという心境である。
お兄ちゃんっ子だった。五つほど年の離れた兄に甘えながら育った。そのうち、同世代や年下の前では、格好を付けたがってしまうようになり、特に同性には意地も出るようになってしまった。年上の男性というのは、気楽だし、何でも受け止めてくれるものだという認識が、心の奥底に根付いていた。
捜査二課に異動する際、“足”がわりになれる友だちを見繕うので、要望があれば、と言われ、とっさに言ってしまったことである。その時もダンクルベールは笑っていた。ちょっとだけ、寂しそうに。
気付いているのだ。ビアトリクスの恋心に。それを、ありがたいとも思ってくれているはずだし、それに応えることができない申し訳無さも。
そうやって出会ったカトー。期待通り、愚痴や弱音など、些細なことにも付き合ってくれる、いい兄貴分だった。そうやっていくうち、いくらかのものを抱いてしまっていた。やはり、向こうもそれに気付いているだろうし。
惚れっぽいのかもしれない。そして、未練がましいのも。
「私は笑わないよ。同じ考えだからね」
ミラージェ。それでも、微笑んでいた。
「気楽なんです。同世代とか年下はどうしても、意地が出てしまって」
「そうだね。十ぐらい上でも全然いいぐらいだ」
「ミラージェ君が甘えるなんて、あんまり想像つかないや」
「甘えられる、が大事さね。するかどうかは別として、拠り所があるってのはいいことだ」
「ですよね。ミラージェさんとは、仲良くなれそう」
「よろしく。大体、ティナと一緒にいるから」
ふたり、そうやってグラスを掲げた。
口調はずっと淡々としているが、感情豊かな人のようだ。
「それで?本日の議題は?」
飲み物が揃ったぐらいで、ペルグランが切り出した。
「モルコとビョルン。それぞれのプロポーズの言葉を考えようとな」
ダンクルベールの言葉に、ふたりの童顔が真っ赤になった。
「ちょっと、長官。まだ早いです。俺、お付き合いからまだ一年で」
「俺だって、まだ二十を越えていない。早すぎます」
「駄目だ。腹は早めに括らないと、ずるずるいくぞ?」
「ペルグランだって、確か二年ぐらい、掛けているはずですよ」
「腹括るのは早かっただろう?ヴィジューションの後ぐらいには、もう決めてたはず」
口を挟んだのは、なぜかティナだった。
「まだ、ニコラ・ペルグランだったし、かみさんが現役でしたからね。腹括ってからの準備のほうに時間が掛かっただけですよ」
「プロポーズが、アキャールさまとの大喧嘩のあたりですよね?懐かしいなあ。私、ペルグラン夫人になりそこねちゃったんだ」
アンリの言葉に、思わずでペルグランをみやった。それは全員がそのようだった。
「ちょっと、アンリさん」
「がっかりしちゃったもん。君の香水が欲しい、だなんて、素敵な口説き文句。そのまま抱きしめて、ベーゼでもしてくれるのかなって、私、期待してたのになあ」
「ペルグラン君。ちょっとお話しよっか。アディルさあ。あの任侠さん、呼んどいてよ」
「カトーとビョルンでいいだろう。俺は事情を知っているから、不参加な」
「俺もパス。ペルグラン兄さんの弱みは、手元に無いもんでね」
となれば、といった風に、モルコとビョルンが立ち上がった。
「ペルグラン大尉殿。人には、ヴァーヌの教えを破ってでも娶るのが戦士の習いと説いておきながら、それですか」
「ビョルン二等。きっと、兄貴にも事情が」
「無えって。ロッシュ、こいつは平気でそういうこと、言うやつなんだよ。クララック少尉とかラクロワちゃんとか、他にもどんだけ誑かしたんだかよお」
憤怒の表情のティナ、モルコ、ビョルンに立ちはだかられ、しどろもどろで弁明をはじめていた。最初、ロッシュが盾になっていたが、一切の役に立てないことに気付き次第、こちらに避難しに来た。
笑っていた。心の底から。それが久しぶりのことにも気付いて、それにも笑っていた。
本当、下らないことに、自分を閉じ込めていたものだ。こんなに素敵で、頼もしい人たちがまわりにいるというのに。
「ほら。何はともあれ、まずは乾杯だ」
ダンクルベール。緑の瓶。見慣れたもの。
「そうだね、乾杯」
ティナ。白のスパークリング。シェラドゥルーガの、新しいかたち。
変わったもの。変わっていないもの。その中で、変化を受け入れていける自分を作っていく。自分もまた、変わっていく。
なりたいものに、なるために。
乾杯。
(つづく)
Reference & Keyword
・口裂け女
・アクロバティックサラサラ
・Magic: The Gathering
・ウィーアー! / きただにひろし
・Unter Donner und Blitz / Johann Strauss
・トマトプロヴァンサル
・シャンピニョンムルタード
・キャビア・ド・オーベルジーヌ