シェラドゥルーガは、もうおしまい
母方の祖母のことについては、あまり知らない。
自分が十かそこらのときぐらいである。母と叔母が、連れてきてくれた。母姉妹と同じぐらいに若々しく、そして綺麗な人だったことだけは覚えている。ほんとうの祖母は、自分が産まれる前に亡くなったと聞いていたのだが、母姉妹はずっと、嬉しそうに一緒にいた。
成人する頃だったはずだが、祖父は患いものをして、何年もしないうちに亡くなった。祖母も、その後を追うようにして亡くなった。遠くに住んでいたので、ふたりとも、火で清められた後でしか会えなかった。
優しく、朗らかな人だった。肌の色とか、顔立ちとか、瞳の色だとかを褒めてくれた。祖父そっくりだと、愛おしげに抱きしめてくれた。
我が愛しきパトリック・リュシアン。その言葉と声だけは、今でも思い出せる。
ベリュイール共和国、内務大臣
パトリック・ベロワイエ、著
“ダンクルベールとしての日々”より
1.
警察隊本部食堂の会計資料について自信がなかったので、今回もまた、別棟の庶務課資料室に足を運んでいた。
司法警察局の新庁舎移設にあたり、人員不足ということで、庶務課から何名か引き抜かれていた。補填として、内務省から官僚を転属させるかたちで三名が入ってきたのだが、資料室室長となった女性中尉がとても聡明で、何より優しい方なので、すっかり頼りにさせてもらっていた。
「概ね、大丈夫だと思うよ」
素敵な笑顔とともに渡された資料を見て、ラクロワは安堵のため息を付いた。
以前より修正が少なくなっている。この人に相談するようにしてから、苦手だったこの業務にも、ようやく自信が持てるようになってきた。
「添削、ありがとうございます。ティナさん」
ファーティナ・リュリ中尉。
とびきりの美人さんだった。ビアトリクスと同じぐらいの歳だろうか。左手の薬指に輝くものもあったので、既婚者だろう。ビアトリクスが絵に描いたような女軍警ならば、こちらは敏腕キャリアウーマンといった趣である。
女性士官用の略式軍装は同じだけど、ところどころを崩している。室内にいることが多いため、油合羽ではなく、大きめのカーディガンをゆるく羽織っていたり、アスコットの色は支給の色より明るいものを使っていた。朱を差し色にした、癖の入った亜麻色の髪を、下の方でゆるいシニヨンで纏めてるのが、大人っぽい雰囲気だが、そこから覗く耳には、結構な量のピアスが並んでいて、ちょっとびっくりする。眼鏡の奥に見える、黒く、ほんのりと揺蕩う朱。高身長でスタイル抜群。足も長く、白いスラックスで強調される脚線美。ちらりと見えたくるぶしの白さと艶かしさに、同じ女性ながら、いけないものを見た気分に襲われるほどだった。
庶務課資料室。言ってしまえば閑職だが、その有能さから、きっと色んなところから仕事が回ってきているのだろう。それすらもてきぱきこなして、そのうえで余所事をしたりもしていた。
ちょうどお昼だったので、せっかくと思い、ごはんを誘ってみたところ、快く返事をしてくれた。階下に向かうとアンリが待っていた。同じく、ティナをごはんに誘おうとしていたようである。どうやら前からの知り合いらしい。
「家の近くに、エルトゥールル様式の蒸し風呂があるんだよ。あれが最高でね。引っ越してきてから、よく通っている。前まで肌荒れがひどかったけど、おかげで化粧のりもよくなったし、香水も少しで済むようになったんだ」
口調は結構、ざっくばらんだ。それが見た目の麗しさとは裏腹で、親しみやすかった。
「今度、一緒に行ってみないかい?」
「私、ですか?」
「アンリと三人で。アンリも、はじめてだっけ?」
「私は何度か。郷里で、アルケンヤールのものをやっていました。あれで育ったから、ちょっと暑さが物足りないけど、洗ってくれるの、気持ちいいですよね」
「サウナってやつかあ。あれも興味があるね」
別棟から、食堂へ向かう途中だった。
若くて、不良っぽい男性士官ふたり、待ち伏せていたかのように、声をかけてきた。
「よう。お姉さんたち、可愛いじゃん。ここの人?」
いやらしい顔つき。思わず、竦み上がっていた。
司法警察局や警察隊本部は、女性職員が比較的多い。それを狙いに、他部署からたまに、こういった人たちが、ちょっかいをかけてくるのだ。ラクロワは背も低く、どうしても気が大きくなれなかったので、よく絡まれてしまった。それが本当にこわくて、いつも泣いてしまっていた。
すっと、アンリが前に立ってくれた。そしてその前に、ティナが立ちはだかる。やはり背が高い。
「こわい顔すんなって。ちょっと遊ぼうよ。へえ、お姉さんは、奥さまなんだ。ちょっと火遊びぐらいなら、旦那さんも許してくれるよ?そっちのその傷、もしかして、聖アンリちゃん?本当に可愛いんだねえ」
「貴官ら、どこの所属か。星の数も数えられんとは」
「いいじゃんかよ。俺たちの家の名前聞けば、喜んで飛びつくだろうぜ。どうだい?」
男のひとり。不細工。ティナの美麗な顔に、手を伸ばした。払いのけることもなく、きっと睨みつけていた。
こちらから手を出せば、問題になる。どうすればいいんだろう。こわくて、たまらなかった。
でも、頑張らなきゃ。頑張って、自分で何とかしなきゃ。
震える足で、アンリの横に並んだ。体も震えている。アンリがみとめて、肩に手を回してくれた。
私だって、やらなきゃ。
「そういうの、嫌いなんだよ」
後ろから聞こえたのは、静かな声だった。
それは、アンリと並んだラクロワの肩に、手を置いた。知っている分厚さ。こわさが、どこかに行った。
あのひとだ。やっぱり、来てくれた。
「俺がそういうの嫌いだってこと、知ってんだろ?」
屈強な黒い肌。ご存知、“錠前屋”のゴフ隊長。
ティナの前に、その体を出した。ダンクルベールやオーベリソンとまではいかないが、かなりの長身である。ふたりとも、見下されている。
また、近くに人がいた。デッサンだ。隣りにいてくれた。語りかけてくるような、穏やかな目だった。
殴りかかってきた片方の拳を、ゴフはそのまま頬で受け止めた。一切動じず、睨みつける。怯んだ相手を、そのまま胸ぐらを掴んで、壁に叩きつけた。
そこに、もうひとりが殴りかかってきたところを、デッサンが割って入った。何もせず、睨みつけるわけでもなく。そうするだけで、すごすごと引き下がっていった。それをみとめたゴフが、もう片方から手を放す。
そうしてふたり、逃げていった。
「国家憲兵総局の新任少尉だな。めし泥棒ついでに遊びに来やがったってとこかな。先輩がたの教育が行き届いていないご様子だ。後で文句、言ってくる」
アンリが、殴られた頬を診ようとしたが、ゴフは笑って、それを制した。
「ラクロワ。姿勢、正して。指導をしようか」
デッサンだった。
姿勢を正す。目をつむると、額を軽くだけ小突かれた。瞼を開ける。にこやかな笑み。
これも、いつも通りだった。
「泣くのを我慢したのは、えらい。アンリに並んだのも、すごくえらい。そしたら次は、いやなことはいやだって、言うようにしようか。自分から、それを言えるようにしよう」
目は、穏やかだった。それで、本当に安心できた。
「ゴフ。ラクロワ、叩いちゃった。指導を頼むよ」
「おうよ。指導だ」
肩に、がつんと拳が入った。それでふたり、笑っていた。
「すまねえな。遅くなっちまったよ」
「ありがとうございます。ゴフ大尉殿、フェリエ大尉殿」
ティナが、綺麗な所作で一礼した。
困ったときといえば、このふたり。ゴフは、どこからともなく駆けつけてくれる。デッサンは、いつもどこかにいてくれる。見た目はとっつきにくいけど、中身は本当に爽やかで、気持ちのいいふたり。女の子たちは皆、このふたりを頼りにしていた。
ふとゴフが、ティナの顔を訝しげに覗き込んだ。
「あのこれ、ナンパってわけじゃあないんですがや。どっかで会ったこと、ありませんでしたっけ?これがね。ずうっと気になってたんですよ」
その妙な質問に、ティナはにっこりと笑った。
「そうだね。君が新任少尉のときに、会っている」
「そうなんすか?俺、どうも頭が悪いもんですから」
「その頃の私は、朱い髪だったよ。ゴフ坊」
ティナがそういって、ゆるく編んだシニヨンを解いた。
広がった長い髪。燃え盛るように。不思議とそれは朱に染まっていった。はっきりとした、鮮やかな朱に。
「お化けだっ」
それを見たゴフが、飛び上がった。隣にいたデッサンにしがみつく。
それが面白かったのか、ティナは高笑いしはじめた。その笑い方は、今までのティナとはかけ離れた、魔性のものだった。眼も、そして表情すらも。
「久しぶりじゃないか、ゴフ坊。ちゃんとした大人になったみたいで嬉しいよ。女の子、守ってあげてるんだねえ。えらいじゃないか」
「何だよ。お化けも就職難か?おい、デッサン。助けてくれ。お化けだよ。前に言った、お化け屋敷にいたやつだ」
ゴフは度胸満点だが、怪談話とかそういうのが、大の苦手だった。それがここまで怯えているのは、ティナとは、どんな存在なのだろう。
一方で、デッサンは落ち着き払っていた。いっそ、一歩ほど距離を縮めるぐらいだった。
「やっぱり。あの夫人だったんですね。デッサンことフェリエです。はじめましてになりますね」
「はじめまして、デッサン君。君とは是非、会いたかった。君の絵の大ファンだったのでね。それとゴフ坊。いつまで騒いでるんだ。女の子の前でみっともないぞ?」
面白がりながら、ティナがゴフにちょっかいをかけている。その度に、ゴフの大きな体が、跳ね上がったり、縮こまったりしていた。
今、デッサンはこの人を、夫人と呼んだ。
「あらためて、自己紹介が遅れてしまったね。ラクロワ君」
すいと、ティナがこちらを向いた。いつもの穏やかなそれではない。燃え広がる朱い髪。浮かび上がる朱い瞳。そして不敵な、魔性の笑み。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。
夫人。もしかして、このひと。
「それこそは、ファーティナ・リュリ。そしてかつては、パトリシア・ドゥ・ボドリエール」
ボドリエール夫人。ガンズビュールの人喰らい。
震えはじめた体に、アンリが手を添えてくれた。それをみとめてか、朱いひとは、その表情を緩ませた。
朱いまま、ティナさんの顔に戻っていた。
「そう。シェラドゥルーガは、生きている」
ティナさんの、静かで、穏やかな声。
朱い瞳のティナさんは、頬にベーゼをしてくれた。
2.
食堂で、珍しい組み合わせがあったので、ガブリエリとふたりで混ざってみた。ゴフ、デッサン、ラクロワにアンリ。そして新顔の、ティナさんことリュリ中尉だ。
「おい、鞄持ち。お化けのこと、黙ってやがったな?」
一足早く、一通りを片付け終わったゴフが、恨めしそうな顔で言い寄ってきた。
「ゴフ隊長と面識あることなんて、知りませんでしたよ。知ってたとして、お化け扱いだなんて。隊長、何したんですか?」
「実在するからお化けじゃないだろう。それに、こんな綺麗な奥さまをお化け扱いするなんて、ゴフらしくもない」
デッサンがけらけら笑っていた。女遊びが好きなゴフが、別嬪さんを目の前に怯え散らかしているのだから、面白くって仕方ないのだろう。
「これが新任少尉のときの教育指導をやっていたんだよ。ウトマン君と殴り合いするぐらいには、乱暴者だったから」
「まあ、はい。その件については、反省しています」
「素直でよろしい、ゴフ坊」
その呼び方に、ガブリエリとふたり、思わず笑ってしまった。あの剽悍なゴフが、坊や扱いである。
冷静沈着、温厚篤実なウトマンではあるが、実は結構、気性の荒い逸話が残っている。もともとダンクルベールと同じぐらいか、もっと貧しい出自で、本人曰く、ほぼ貧民窟みたいな場所で暮らしていたそうだ。そのためか、かなり喧嘩慣れしており、奉公先からの伝手で入った士官学校でも、出自を馬鹿にしていじめてきたヴィルピンを馬乗りになって殴り倒したという話もあるぐらいだ。ましてガンズビュールに配属された新任少尉時代には、あの事件も担当しており、その後はダンクルベールの懐刀として、悪党という悪党とも渡り合ってもいた。あのおっかないジスカールの親分からも、ウトマンちゃんなんて呼ばれて気に入られているのだから、相当な武闘派なのである。
「ラクロワも、話は聞いたんだ」
「うん。でも、大丈夫。こわくないし、すごく優しい」
ティナの隣にいたラクロワは、随分と懐いている様子だった。
ティナが配属されてから間もないうちから、業務関連で悩んでいたのを、ダンクルベールとふたりで紹介していたのだ。
ファーティナ・リュリ中尉。通称、ティナさん。つまりはあのボドリエール夫人こと、パトリシア・ドゥ・ボドリエールであり、あのシェラドゥルーガである。
先の第三監獄襲撃のため、内務尚書(大臣)ラフォルジュ閣下じきじきの提案により、夫人を内務省、ひいては司法警察局か警察隊本部の目の届くところに置いておこう、となった。どうやら、一部政治家や軍上層部が、その存在に価値を見出しているらしく、しかし国家と国民第一の内務省としては、夫人という人的資産を余所に渡すつもりはなく、木を隠すなら森の中といって、正規軍人採用としたのだ。
なかなか滅茶苦茶な案ではあるが、内務省総出で、夫人ことティナさんを、保護、管理する姿勢を見せるかたちである。
配属当初、どえらい美人が来たと大騒ぎになった。しかも愛称に指輪までもがくっついて来たので、事情を知らない女性隊員からすれば、もしかしてダンクルベールの恋人か、あるいは後妻かと、勘ぐっているものすらいる。
ただしティナのそれは、いわゆる魔除けらしく、ようやくの釈放で意気揚々と外に出たら、行く先々でナンパされ、それに辟易したのだそうだ。このあたり、ある程度は姿かたちを替えたとはいえ、流石は巷を沸かせたボドリエール夫人である。
腹の膨れた女房を抱えた同期ふたり、ティナさんって、えっちだよな。そういう、ちょっとした盛り上がりがあったりした。
いかにも女性将校といったリュリ中尉とは異なり、化粧から髪型まで細かく変えている。亜麻色のふわっとしたシニヨン。いわゆる萌え袖まで備えた、だぼつかせた厚手のカーディガン。そしてあの、伊達眼鏡。そんなふんわりした雰囲気とは裏腹に、両耳にはピアスがばっちばちに付いてるものだから、下心しか動くものがない。
今となっては見慣れてしまった、朱と黒の魔性の女から一転、ゆるふわ系の若奥さまに変貌したのだから、年若い男心を持つ身にもなってほしいものだ。
「今度、ティナさんのおうち、遊びに行くんだ」
「料理を教えて欲しいって、お願いされたんだよ。ペルグラン君たちは、もう聞いてるんだろ?」
その言葉に、ガブリエリと目を合わせた後、同期三人、とびきりの笑顔を見せあった。
ラクロワ、婚約決定。家どうしの紹介らしい。自分が真っ先に、報告を受けていた。
私、ペルグランくんのこと、好きだったんだ。ペルグランくんが結婚した後も、インパチエンスさんのことも一緒に、好きだった。だから、私が結婚した後も、これからも。ペルグランくんのこと、好きでいても、いい?
笑顔で、でも潤んだ瞳で、そんなことを言われた。
同期の、気が弱くて、素朴な女の子。困った人を助けたいという、その思いだけで、後方支援の花嫁となったひと。そしてかつて、自分に淡いものをいだいていたというひと。
断る理由なんて、どこにもなかった。
「まじかよ。そりゃあめでたいな」
ゴフとデッサンにも、この場で報告となった。ゴフもとびきりの笑顔だった。
「ヴィオレット・ラクロワ・ルブルトンになります。これからも、よろしくお願いします」
「おめでとう、ラクロワ。そして、ルブルトン夫人。でもやっぱり、僕たちにとっては、ラクロワかな?」
「ラクロワがいいよなあ。私も実は、おじさんにいい人を探してもらってたんだけど、要らなくなっちまった」
「閣下に、仲人になって貰えばいいじゃんか。天下御免の箔が付く。それで貴様もようやく格好も付けられようさ」
「おや、同期の男ふたり。我が愛しのアンリだけでなく、可愛いラクロワ君までも取り合いしてたのかい?」
ティナの言葉に、ゴフとデッサンの目が突き刺しに来た。事情を知っているアンリは、面白そうに笑っている。
男ふたり、見合わせる。どうってないことなので、まずは自分から、答えてみた。
「そんなところです。ラクロワって、どうしても男連中から、ちょっかいかけられやすかったもんですからね。俺とガブリエリで面倒を見ようって。ただ、こいつがこの顔面なもんですから、今度は女性職員からやっかまれちゃって。格好をつける場所が無くなっちまったんです」
「そういうこと。だから、もし相手がいないようならってことで、マレンツィオおじさんに何人か見繕ってもらってたんだよ。まあ、結果よければ、それでよしだよね」
とある御仁の名前に、ラクロワの顔に、些かの怯えが見えた。
「マレンツィオって。あの国民議会議長、ブロスキ男爵さまのこと?」
「中尉さま、大丈夫ですよ。男爵さまは、とっても気さくで面白いお方。私もお会いしたことがあるけれど、すぐに仲良くなりました」
「そこら辺を歩いてるから、そんなありがたがるもんじゃないよ。もし仲人さんが見つからなかったら言っておくれ。おじさん、喜んでやってくれるはずだから」
「やっぱりお前らふたりは、人脈がすげえよなあ。ガブリエリよう。俺にも紹介してくれねえか?」
「頼んでおきますよ。おじさんの扱い方のこつは、おばさんを褒めること。そうすれば、すぐに打ち解けられます」
「そうだな。俺にものを頼むなんざ、いいご身分だな、って、絶対言ってくる。そうしたら、奥さまにご一献いたしますって言えば、大丈夫。それだけできっと、お相手探しから結婚式の勘定まで、持ってくれますよ」
「変わらんなあ、あのデブ。私も、何度も口説かれたもんだ。シャルロット姉さまを隣に置きながらね。そうやって姉さまに叱られたがってさ。本場の伊達男ってのは、どうしてまあ」
「ティナさん。私だって本場の伊達男ですよ」
ガブリエリの言葉に、皆で笑ってしまった。
ティナが来て、まだ二週間も経たないが、すっかり打ち解けていた。あるいはアンリやビアトリクスなどのように、その正体を知っているものもいるし、とびっきりの容貌とは裏腹な、その気さくで飄々とした人となりや、事務員としての有能さから、すぐに各位の信頼を獲得していた。
本来は別棟の資料室で、著作活動だけをやらせるつもりだったが、仕事に追われるウトマンが可哀想になったらしく、やれるものから順に肩代わりをしていったのだ。
作家、翻訳家、そしてそれら著作の権利関係や収支の管理も行っていたこともあり、会計方面、各種文書の作成など、ばりばりこなす。特に、ボドリエール夫人といえばの、速筆、達筆、文章力は素晴らしく、書類が上位組織に上がっていく度に、警察隊本部にとんでもない事務さんがいると話題になるほどだった。これには提案を出したラフォルジュも、してやったりのご様子である。
内務省としては、警察隊本部所属となったことによって、夫人の管理は、幾分か楽になったそうだ。
もともと、司法警察局と刑務局で分割管理していたのが、司法警察局に一本化となった。著作についても、基本的にはティナと出版社との直接のやり取りになった。正規軍人としての雇用となるので、税金管理はティナの方で確定申告するなりして管理すべきものとなるので、国家憲兵隊としての負担としては、給金と各種福利厚生ぐらいである。印税からのピンハネができなくなったため、負担は大きくなるが、ティナからすれば間に挟まるものが少なくなって、楽になっているに違いない。
刑務局側も、何かと出たがりで、はた迷惑な囚人ひとりいなくなって、ほっとしているだろう。あの事件のせいで、第三監獄自体が使い物にならなくなったのと、責任問題で、組織自体が結構な変革を強いられているのは、さておきだが。
その刑務局の変革についてであるが、局長ボンフィス大佐は降格、更迭となったが、司法警察局に招聘された。刑務官という、治安維持の極地のような職責にふさわしい、外連味の無い実直な姿勢が、セルヴァンとしても欲しかったようだ。中佐相当官。参謀、あるいは相談役である。来月あたりの人事異動で嫁いでいくウトマンやラクロワの、いい指南役にもなりうる。
第三監獄主任副長デュシュマン少佐は辞表を提出したようだが、引き留められたらしい。緊急事態での対応が大きく評価されたようだ。守りの指揮官として引く手数多らしいが、現場に居た自分やオーベリソン、そしてティナの三人で、是非にでもと、ダンクルベールに推しに推している。正規軍人の足りていない、後方支援室や衛生救護班あたりの、いい親分格になるだろう。
ティナの身の回りについては、公安局こと公共安全維持局の局長、ミッテラン少将が気を回してくれた。
当初は“足”を使っての監視を考えていたが、どこまでいってもダンクルベールの私兵であり、特にその維持費については、ダンクルベールの懐からだったり、あるいは“足”各位の内職で賄っているという、涙ぐましい状態である。後から加わったジスカールの親分が、もそっと渡してやらんかいと苦言を呈したほどの薄給であり、現在の状態では、とてもティナの身辺監視、あるいは保護が十分に行えるとは言えなかった。
またその人員構成についても、もと盗賊だったり、あるいはジスカールのような大悪党だったりするので、内務省としてもいい気分ではなかったのだろう。ガブリエリの“妹”になったとて、そこは同じである。
そこであらためて、内務省の人的資源としての夫人を管理するにあたり、公安局の人員を当てることとなった。“足”の各位やスーリにはいくらか劣るが、精鋭の諜報部員である。資料室の部下ふたりがまさしくそれだが、現状では何の差し障りもない。
また、先だって“妹”と行われていたように、公安局と“足”との連携もはじまり、特にというか、やはりジスカールからもたらされる裏社会の情報に関しては、公安局にとっては千金の価値があるようだ。
このあたり含め、ダンクルベール、ミッテラン、そしてジスカールの三者協議での決定事項である。ミッテランの執拗な詰問にも一切動じず、迎え討ったうえで、各種提案までやってのけたジスカールの侠気たるや凄まじかったらしく、曲者で知られたミッテランが、ありゃあすごい侠だねと絶賛したそうだ。反対にダンクルベールは、そのジスカールたちと後ろ暗いことばかりやってきた手前、身の細る思いだったらしい。
はじめて出会った時は、間抜けなこそ泥だとばかり思っていたが、ジスカールという御仁、類稀以上の傑物である。法の庇護を受けられないものたちの味方であり、また法を振りかざすものたちへの敵となる。
弱きを守るは悪入道。彼もまた、炎の冠を戴いたひとりなのかもしれない。
ちなみに、自分の実家回りについては、すごいことになっている。色々ありすぎて整理がつかないが、ともかく母子三人、平和に暮らす目処が着いたので、めでたしめでたしである。
庶務課資料室。ヴィルピン次長就任までは本部長副官を継続している自分は、よく足を運ぶ場所のひとつである。デッサンもお誘いがあったということで、昼食の後、一緒に立ち寄った。
司法解剖室もある別棟の入退館には、守衛さんへの届出が必要だが、殆ど右から左である。
ティナの作業場は、夫人の牢獄のそれに準じている。いくつもの書見台が並んだ、いくらか広めの事務机。その後ろか横か、とにかく壁には黒板がひとつ。あとは暦表だとか、各種新聞や雑誌のスクラップが、所狭しと並べられたコルク板が立てかけられている。
入室したとき、ウトマンから頼まれていたらしい、業務棚卸と再配分の検討についての資料が、ちょうどできあがったとのことだった。
「右を向いた顔が、どうしても描けなくってさあ」
そんなことを言いながら、素描を一枚、差し出してきた。人物画だ。隣に第一人者がいるのもあるが、些か拙くは思えるものの、十分以上に上手い。
「ああ、なるほど。でも大丈夫。そこは誰でも、躓くところですよ」
デッサンが実際に人の顔をふたつ、描いてみた。そうしながら、説明していく。
利き手によるが、方向によって、描きやすい線と描きにくい線がある。左向きの顔は描きやすい方向の線で描いていける部分が多いが、右向きの顔はその逆だから描きにくい。基本的には、経験を重ねるのが一番いいのだが、薄い紙で左向きの顔を描いてから、ひっくり返して、それをなぞったりする。あとは、当たりをしっかりとつけて描いていく。そういった、色々な提案をしていった。
絵心がない自分でも思わず感心するほど、丁寧で、納得できる内容だった。
「ありがとう。いい勉強になったよ。ラクロワ君のときもそうだったが、教え上手なんだね」
「滅相もないことです。僕は本当に、絵を描くことしかできなくって」
「君は絵を描く事、たったそれひとつだけで、色んなことができるようになっているんだよ。今日だけで、人を助けること。人を導くこと。人を笑わせること。人に理解を示すこと。もう四つも、君の魅力を見つけてしまった」
「やめてくださいよ。つけあがっちゃいそうだ」
デッサンの顔が、ふにゃふにゃになっていた。この人、未だに褒められ慣れていないのだ。
「ペルグラン君は逆に、本当に器用だな。副官やってるのが勿体ない。“錠前屋”に入ればいいのに」
「流石にあの中には無理ですよ。でも何か、水難救助隊ってのを、立ち上げるみたいです。船とか泳ぐのは、家の習いでしたから」
「そうか。あのペルグラン家だもんなあ。海の男だ。かっこいいや」
デッサンが、ふにゃふにゃの顔のまま、褒めてくれた。
確かに、体を動かすほうが好きだった。船もそうだし、馬もそうだった。特に馬は大好きで、乗るのも、見るのも好きだった。仲の良いスーリとは、よく競馬場に行っては、荒稼ぎしていた。
「裸馬に乗れるんだろう?それにこないだは、短弓も使っていた。大平原の、廃れたはずの技術だよ」
「家の馬術指南が、大平原の人だったんです。赤羽のなんとかさん。ガブリエリに調べてもらったんですが、あの“海嘯王”の側近の血でしたよ。もう、びっくりしちゃいました」
「“海嘯王”?こいつはまた古いな。それなら相当な名族だろうよ」
これにはティナも目を剥いていた。
東の大王こと“海嘯王”。大平原の伝説的英雄だ。
西の大王、ミヒャエル・マイザリウスの大東征を事も無げにあしらった後、逆にヴァルハリア首都目前まで一気呵成に攻め返しては、無理くり講和を結ばせたという、まさしく海嘯の如き暴勇からそう呼ばれ、現在に至るまで恐怖の象徴として恐れられている。
興味深いことに、ヴァーヌ聖教会の歴史改竄を受けていないのにも関わらず名が伝わっておらず、現地では今も、ただ大王とのみ呼ばれていると聞いていた。果たして本当に実在したのだろうか。ちょっとしたロマンがある。
「僕も軍の家系だけど、馬は本当に苦手だ。後で教えてくれないかなあ?」
「勿論ですよ。馬を乗りこなしたら、行動範囲が広がりますからね。絵を描きに、どっか遠くに行っちゃいそうだ」
そう言うと、なるほど、という顔で、デッサンの眼鏡がきらめいた。それを見て、ティナとふたりで、笑ってしまった。本当に、絵を描くのが好きなんだなあ。
「盛り上がっているところ、すまんな。ルイソンとティナに用事だ」
聞き慣れた声。ダンクルベールだった。
「いい知らせが、ふたつだ」
褐色の肌と白い髭。笑顔だった。
「ドラフト会議に勝った。デュシュマンとやら、獲得したぞ。本人希望で、一段降格の大尉相当官だ」
その言葉に、思わず飛び上がりそうになった。
「気てくれるんですね。デュシュマン主任副長殿」
第三監獄襲撃事件。ボドリエール夫人に政治的利用価値を見出した、宰相閣下と軍総帥部の、暗闇の政争。そこに巻き込まれてしまった、刑務官たちのひとり。デュシュマン主任副長。暗闇の中の、恐慌と疑心暗鬼の中、自分たちを信用してくれた人。そして、自分たちに信頼を与えてくれた人。
何がそうさせたのかはわからない。でも絶対に、頼りになる人だし、頼ってほしい人。だからあの場にいた全員で、是非に是非にと、頼み込んでいたのだ。
「来て下さるんだね。あの方は、あの状況で、私を信じてくれた人なんだ。本当にかっこいい人だ。きっと皆、信頼できると思うよ」
「夫人、いや、ティナさんが、そこまで手放しで褒めるんですね」
「叱り上手なんだよね。何度も挫けそうになったけど、何度でも立ち直らせてくれた。私にとっては、人生の恩人と言ってもいいぐらいの人だよ」
惚れ惚れ、といった表情で、ティナが喜んでいた。
あの場所で、ボドリエール夫人は自身を利用され、犯した因果に苛まれていた。デュシュマンはそれを看破し、ボドリエール夫人をリュリ中尉として支え続け、叱り飛ばし、シェラドゥルーガのことを、身を挺して守ろうとさえしてみせた。
何が彼にそうさせたのかはわからない。ただそれが、デュシュマンというひとの強さであり、魅力だった。
「さて肝心の、ふたつ目だ」
その時、ダンクルベールの顔から、すべての皺が抜けた気がした。
「スーリの退院日が決まったよ。再来月の頭だ」
言われた途端、何かが、溢れていた。
「よかった」
とめどなかった。
あの闇の中、誰よりも活躍し、そして生命の危機に瀕した、一匹の鼠。先頭に立ち、気を配りながら、皆を導き続けた、朱い肌の暗殺者。
狂気と錯乱に支配された刑務官からティナを庇って、相当量の血を失ってしまった。意識を取り戻したのは早かったそうだが、心身の疲労も相当以上、あったのだろう、起き上がったり、立ち上がったりするのは、まだ大変なようだ。現在も、面会謝絶である。
ティナを見た。やはり、ぼろぼろと泣いていた。
「スーリ君、帰ってくるんだね」
「気を揉ませたな。今、リハビリ中だ。それが終わるまで、もうちょっとの辛抱だ」
「帰ってきたら、うんと褒めてやるんだ。あのこはね、私を守ってくれたんだ」
ティナが言えたのは、そこまでだった。
声を上げて、泣いていた。ずっと、スーリ。私のスーリ。
ずっと、悔やんでいた。表面には出していなかったが、たまにそれが見えた。人を誑かし、貶め、脅かす人喰らい。それを、守ってくれた、庇ってくれた嬉しさと、生命を危機に晒してしまったことへの後悔が、消えてくれることは無かったのだろう。
時折、思うことがあった。この人でなしの、精神的な脆さ。傲慢で残忍、尊大で冷酷。それはあくまで、表面上のものにしか過ぎなかった。人を愛し、愛されることを求める、人ならざるもの。人がいなければ生きていけない、人でなし。どれだけの時を、悲しみやつらさと共に、生きてきたのだろうか。
それを理解できることなんて、きっとできないだろう。
「ボドリエール夫人、そして、シェラドゥルーガ。もっと、恐ろしいひとだと思ってたよ」
別棟から出たあたりで、デッサンが言った。
「ひとりの、人間だよね」
いつの間にか描き上げていた、燃え盛る髪のシェラドゥルーガ。そして、穏やかな顔のティナ。
「俺もはじめてお会いした時は、こわかったです。ちょっとした“悪戯”とかも、色々されましたし。でも、夫人は、そして今のティナさんは、本当に、ただひとりの、人間です」
「ペルグラン中尉がそういうなら、間違いないや」
笑ってくれた。
「どう接すればいいんだろうかって、ちょっと、悩んだんだ。なんにもいらないね。ティナさんはティナさんだ。とびっきりの美人さんで、仕事ができて、剽軽なひと」
「そうですね。夫人の頃から、ティナさんは、そんなひとでした。人のことが大好きな、人でなし。いっつも笑顔で迎えてくれた、凶悪殺人犯。とんでもなく頭がいいけど、出し抜かれるとむきになって、へそ曲げて。そんな感じの、本当に人間そのままの、人間です」
思ったことを、思ったままに言っていた。デッサンも、合点がいったみたいだ。
「でもちょっとだけ、寂しいことがあるんですよ」
「何か、あるのかい?」
「夫人がティナさんになって、変ったことが、ひとつだけ」
それはきっと、今日、夫人であることを知らされたデッサンは、知らない話。だからあえて、言おうと思った。
「あのひと、親父のこと、我が愛しき人って呼んでたんです」
にやけて言った言葉に、デッサンの顔が赤くなった。
「わぁお。そういう関係だったんだ」
「そういう関係なんですよ。あのふたり」
「そんな二人称、聞いたこと無いや。流石は、ボドリエール夫人だね。あの姿かたちとあの声で、我が愛しき人って呼ばれたら、僕だってたまらなくなっちゃうよ」
「ですよね。だから本当に親父も、意地っ張りというかね」
「そこばっかりは、見習っちゃ駄目だね。ペルグラン中尉」
言われて、ふたりで笑ってしまった。
早く、くっつけばいいのにな。あのふたり。
3.
デュシュマン大尉、入ります。それだけ告げた。
正面には褐色の巨才、ダンクルベール。その隣には、あの暗闇を共にしたペルグラン。そして応対席には、修道女がひとりと、黒い肌の士官。そして、どこか見覚えのある、亜麻色の髪の女性士官。
応対席の方に、着席を促された。女性士官の隣である。格別な別嬪さんであるが、色香よりも、柔らかさや穏やかさが強かった。
「まずは先の一件について、あらためて警察隊本部長官として、警察隊隊員に対し、格別のご協力を頂いたことについて、感謝を申し上げたい」
褐色の大男は、そう言って起立し、一礼した。
あのダンクルベールが、自分に頭を下げた。国家憲兵隊の顔と言っていい御仁である。思わず立ち上がり、こちらも一礼した。
霹靂卿。ダンクルベールのお殿さま。あらためて近くで見ると、相当な迫力だが、支えてあげねばならんという、そういったものも見えていた。
「本官からも、警察隊本部の皆さまのご厚意に預かり、こうしてまたお会いできたことについて、心よりの御礼を申し上げます。また、負傷者への医療行為や、殉職した刑務局職員へのご追悼についても、厚く御礼を申し上げます。これが本官の、刑務局少佐としての、最後の職務であります」
敬礼ひとつ捧げ、お互い、見計らうようにして腰を下ろした。
ペルグランが各位に飲み物を配ってくれた。あのニコラ・ペルグランのお血筋であり、男の中の男たるルイソン・ペルグランである。しかしそれを傘に着ることのない、朗らかな若武者といった印象だった。
あれから、辞表を出していた。
侵入者を看破できなかったこと。現状を維持できなかったこと。そして何より、多くの部下の生命を犠牲にしてしまったこと。それに対する責任を取りたかった。
生来、規則と手順通りにしか物事を運べなかった。だからこそ、あのような事態に、最善策を執ることができなかった。
だが、周りの反応は違っていた。
最善の策だった。現場の混乱を最小限に留めた。各位との協力を惜しまなかった。そう、評価してくれた。是非、残ってほしい。上官から。そして、生き残った部下たちや、殉職した部下の家族たちからも、そう言われた。
それが自分にとっては、葛藤だった。孤独だった。あの暗闇の恐怖を、わかりあえる人が欲しかった。
司法警察局警察隊本部から声が来ている。そう言われた時、それが見えた気がした。一縷の望み。軍人として、そして、ひとりの人間としての理解者が、そこにはいるはずだ。
第三監獄の部下たちとの別れは、つらかった。文字通り、生死を共にした仲だ。そして皆、口々に言っていた。
生きて、ルデュクに報いよう。
痩せっぽちで、臆病者の一等兵。でもあの時、あれがペルグランたちと出会わなかったら、きっと自分たちは前に進めなかった。ルデュクの小さな、それでも確かな勇気が、自分たちを導いてくれた。
ならば、それに報いよう。そのために、デュシュマンは警察隊本部へ、そして部下たちもまた他の場所へ。生きて、先へ進もう。自分たちの将来を、ルデュクに示すために。
そのために、招聘に応えた。
「楽にしてくれ。うちは色んな人がいるから、肩ひじを張っていると、気疲れしてしまうだろうよ。俺、お前で大丈夫さ。デュシュマン大尉」
ダンクルベールが、穏やかな顔で言ってくれた。
「世間話からはじめよう。ルイソンも、そうしたがっているからな」
「ご無沙汰しております、デュシュマン主任副長殿。そして今は、警察隊大尉殿」
若武者は、凛々しい顔を笑みで崩した。
「大尉殿が辞表を提出されたと聞き、いてもたってもいられず、親父に直訴したんです。絶対に必要だって。そして絶対に信頼できる、いい人だって」
にこやかに言った親父という言葉に、思わず、ほお、と声を上げてしまっていた。長官と副官を越え、親子のようなものになっているのか。
「俺は、不器用ですよ。あの時だってそうだった」
「でも皆、貴方に着いていました。着いていきました。そういうものを、持っている人だって、思ったんです」
「あの疑心暗鬼の中、短時間で信頼を獲得できるというのは、おそらくは天性のものだと思っている。ルイソンたちの話を聞いて、俺はそう思ったな」
思わず、顔が熱くなった。そして、涙がこみ上げてきた。ルイソン・ペルグランと、あのダンクルベールのお殿さまに、そういう評価を頂戴している。
「お久しぶりです、デュシュマン主任副長殿」
隣の女性が向き直り、座礼した。
「それこそはかつて、パトリシア・ドゥ・ボドリエールにしてシェラドゥルーガ。そして今は、ティナこと、ファーティナ・リュリ中尉です」
驚いていた。あの時のリュリ中尉。そして、ボドリエール夫人。
そしてあの、恐るべきシェラドゥルーガ。
「貴方は、私が人でないと知ったうえで、私を信じてくれた。挫けそうになった私を、何度も立ち直らせてくれた。私とスーリ君を守るため、立ちはだかってくれた。貴方の、人を信頼する力、そして人から信頼を得る力。それが私には、何よりも頼もしかった。本当に、ありがとうございました」
「俺はあの時、すがるものが欲しかった。それが、貴女だった。それだけなんです」
「それだけで、十分です。それをできる人は、本当に少ない。だから私は、貴方にすがった」
麗しい人だった。あの暗闇の中とは違った、優しい顔。
俺は、この人を守り、この人に守られたのか。
「あらためて、感謝を申し上げる。リュリ中尉」
泣きそうな心を鎮めるために、座礼で、それを隠した。
「うちのオーベリソン軍曹が世話になりました。ご存知、“錠前屋”の隊長、ゴフ大尉です」
正面に座した、獣のような、黒い肌の男が握手を求めてきた。今は同階級とは言え、上官に対してやるべきではない行為である。
でも自然と、それに応えていた。
「やっぱり、応えてくれるよねぇ」
そう言って、ゴフは、にっこりと笑った。
なぜ自分は、それに応えたのだろうか。戸惑いがあった。
「オーベリソンから話を聞いて、大尉殿みたいなとっつぁんがいれば、きっとうちは引き締まるだろうって思ったんです。オーベリソンに不足があるわけじゃないんだけど、どうしても優しすぎてさあ」
砕けたというか、底抜けに明るくて、気持ちがいい。一瞬で、それがわかった。だからきっと、応えた。
「あのオーベリソン殿が、お優しいと?」
「自分の娘ひとり、ちゃんと叱れないんすよ。あいつ」
ゴフが指さした隣。ひとりの修道女。可憐な美貌。
そして、額の向こう傷。
「聖アンリさまと、お見受けいたした」
「はい。聖アンリです。そして、ただのアンリエットです」
無垢な聖女。それが、微笑んだ。
「そして、御使たるミュザと、父の血族を育んだ、双角王の名に誓い。カスパルが子、アンリエット・チオリエ・オーベリソンです」
あの北の勇者の娘。今、聖女は確かに、そう名乗った。
驚いていた。知らなかった。そんな縁があったなどとは。
「あのお方は、お父君にあらせられましたか」
「私は、孤児でした。血は繋がっていません。お父さんからは、家族のように育ててもらいました。そして、本当の父娘になりました」
手を、差し伸べられた。やはり思わず、それに手を、委ねていた。
「大尉さま。カスパルお父さんの娘としての、お願いです。どうか、一緒にいてくれませんか?そして、お父さんのお友だちに、なってくれませんか?」
真っ直ぐな瞳だった。
戦乱のマンディアルグ伯領。そこで人を救い続け、傷を負い続けた、生ける聖女。そして、ひとりの父親の娘。
自然と、言葉が出ていた。
「お安い御用だ。君のお父さんの、友だちになろう。俺も、ひとりの娘の、父親だからね」
聖女は、とびっきりの笑顔だった。嬉しそうだった。
「やったなあ、アンリ。いい親孝行ができたぜ」
「本当、ありがとうございます。お父さん、明日、誕生日だったんです。最高の誕生日プレゼントができました」
正面で、はしゃぐふたりに、ちょっと戸惑った。
「そういうところさ。多分、自覚は無いんだろうけどね」
隣でリュリが、くすくすと笑っていた。
「雑談だけでいいみたいだな。俺もすっかり惚れてしまった。あらためて、これから一緒にやっていこう」
ダンクルベールが立ち上がり、握手を求めてきた。足の悪い、白秋に入った大男。それが立ち上がってまで、自分を迎えてくれる。やはりどうしてかは、わからなかった。
「こんな俺でよければ、使って下さい」
それでもその手に、立ち上がって、応えていた。
今後に向けて、組織改革を考えているらしい。そこの叩き台ができるまでの間は、衛生救護班の責任者をやってほしいということだった。すべてが非正規軍人であり、正規軍人としての責任者が、欲しかったそうだ。
修道女と看護師たち。軍隊のやり方は、きっと通じない。まずはひとりひとりを見ていった。そうして一箇所に集まった時の、動き方を見る。それだけで、問題点は見えてきた。
意見は出るが、纏める人がいない。アンリという強力な個性で引っ張ってきた組織なのだろう。それはそれでいいのだが、ひとりの力に依存した組織は脆くなりやすい。そしてそのアンリ自体も、精神的に未熟だった。感情の起伏が激しく、強情で、自分を曲げたがらない。
組織としての作り込みを行った。デュシュマンが責任者、アンリを次席、ドゥストがそれに続く。役割も明確にした。アンリを長とした救命班。ドゥストを長とした介護班。
緩いかたちだが、規則も作った。人の話を聞くこと。話を遮らないこと。否定から入らないこと。自分の意見を言う際に、人を経由させないこと。感謝と謝罪は忘れないこと。議論をするなら結論を出すこと。後から結論を覆さないよう、議論の場では率先して意見を出すこと。本当に、下らないことばかりだった。
ただ、それらを明確にしただけで、動きがまるっきり変わった。班員同士の衝突が無くなった。
アンリの精神面についても、都度都度、注意した。叱り、諭して、促していく。
そのうち、不安定さの原因にたどり着いた。他者からの、聖人であることへの期待に応えようとしている。
だからそれを、やめさせた。
お前は人間だ。聖人じゃない。アンリエット・チオリエ・オーベリソンだ。人間だから、できることと、できないことはある。それを悔やむな。気に病む前に、次の生命へ進め。
そうやって、何度も叱りつけた。人の精神とは、そのものを単純化することで強固にできる。刑務官として培ってきた、杵柄である。
「アンリが泣かなくなった。貴方が叱ってくれたおかげだ」
庶務課資料室室長となっていた、シェラドゥルーガことリュリ中尉。そしてティナ。どうしてか、足繁く通っていた。
「聖人となろうとすることを、やめさせた。他の人々は、きっとそれを望むだろうが、彼女のためにならない。他者が求める姿に、なろうと思う必要はない」
隣に座っている男が、ぎょっとした顔を見せた。アルシェ。拷問官であり、心の医療の専門家だ。
「アンリの不安定さを、もう見抜いたんですか?」
「アルシェ少佐殿も、気付いていたかね」
「気付いていたんですが、こわくて踏み込めなかったんです。そこに踏み込むと、壊してしまいそうで」
「なるほどね。俺は組織として、彼女は聖人であるべきではない。そう判断した。壊す、壊さないは、少佐殿が拷問官だからこその発想だな。俺はもと刑務官だから、更正するという発想を持っていただけだよ」
仏頂面の、付き合い下手と聞いていた。だが本当は、至って普通の人間。だからこそ、人に理解を示せるし、人の心の中に踏み入るこわさを知っている。その先は、アプローチの違いだけだ。
「人が、他者に何を見出すかは、人の勝手だ。ただ、それに応える義務はない。だから今でも、他の人々にとっては、彼女は聖アンリだ。それに応えることも、拒むことも、しなくていい。やるべきことではなく、やりたいことをやるべきなんだ。彼女の場合、それは同義だから、後は捉え方を後者にすれば強くなる」
自分の言葉に、ティナは穏やかに微笑んでいた。
「やっぱり、貴方を呼んでよかった」
言われて、ちょっとだけ照れくさくなった。
「とんでもない人ですね。こりゃあ、頼れるわ」
「他の皆も、懐いているよ。衛生救護班以外の人々もね」
本当に、個性豊かな人間だらけだった。もっと言えば、問題児だらけだった。そして、そういった人材を、制御しきれていない感じがした。前までは、あのビゴー准尉が中心にいたのだろう。退役してから、そこがぽっかり空いているのだ。だから、纏まりに欠けている。
また各組織が、その長の才覚に依存しているのも、よくなかった。これは、本部長官たるダンクルベール自体が、その筆頭であるということに、起因しているのかもしれない。
特務機動隊“錠前屋”からも、状況を見てほしいと頼まれた。とびきりの問題児の集まりである。ゴフとオーべリソンの人柄と腕力で、ようやくかたちになっている程度だった。
規模は、二個分隊程度。これを、伍長や下級士官の分だけ、班に分けた。部隊の指針を明確にしたうえで、それに沿うかたちで、各班の指揮と教育を任せる。各自に責任を持たせる。それを、ゴフとオーベリソンが取りまとめる。やったのは、それだけだった。
それでもすぐに、問題行動が減少した。オーベリソンの指導も、少なくなった。
そんなことを、色んなところに頼まれては、やっていった。
「個性派揃いだ。各自、色々な信念がある。纏める必要はない。見る方向だけ示してやる。それが今まで、できてなかった。組織とは概ね、凡人で構成される。凡人ではないもので構成される組織では、そういう部分が、疎かになる」
「凄いよねえ。それが貴方の力であり、通貨だよ。何かを、見つけることができる。その何かは、まだわからないけど」
「通貨、ですか」
ちょっとだけ、納得した。自分の通貨。価値も本質もわからないが、それだけで、いい買い物ができていた。
「おや、グレッグさん。人生相談かい?」
後ろからのそりと、大きな影。オーベリソンだった。
「そんなところだよ、カスパルさん。まだ何となく、やっていることが正しいのかどうか、わからなくってね」
オーベリソンとは、階級の上下なく、すっかり仲良くなっていた。年頃同じぐらいの、北の戦士。優秀な下士官。そして心優しい父親。
ただその優しさが、組織運営で邪魔をしていた。他人のための優しさは、自分に負担を課してしまう。
「グレッグさんのやり方でいいですよ。あんたがいてくれる。見てくれる。それだけで、俺たちは心底、安心ができます。あんたの目と小言は、無くてはならないものだ」
「このあたり、本部長官殿は口下手で、おっかないからねぇ。大尉殿みたいにうまくはできないんだよ」
ティナが、ちょっと不満げに鼻を鳴らしていた。ボドリエール夫人の頃から、長らくダンクルベールと奇妙な関係を続けていた、人ではない何かである。
あの人は、夜の海だ。皆、ダンクルベールのことを、そう言っていた。暗闇から、さざ波の音だけが聞こえてくるような海。穏やかだが、どこまで深いのか、わからない。どこからが、深いのかも。そして落ちたら、きっと岸には戻れない。それが、ダンクルベールのこわさなのだろう。
ならば、それを楽しめばいい。浜辺に立たず、少し遠目に。浜辺とさざ波と、暗闇の中に滲む月。そういった遠景を眺めながら。ぼうっと、酒でも飲みながら。
思いながら、はっとした。
「人の見方。人の、受け入れ方とか、受け止め方。俺の通貨ってのは、それなのかね」
言った言葉に、ティナも抜群の笑みを返してきた。
「それだな。私を、シェラドゥルーガではなく、ファーティナ・リュリとして見てくれる。聖アンリでなく、アンリエット・チオリエ・オーベリソンとして見てくれる。勿論、オーベリソン殿のことも、北の魔物ではなく、ひとりの友だちとして見てくれる。人が、見てほしいと思っているかたちで、見てくれる。それが、貴方の通貨だよ」
「俺ぁ、この通りの見てくれですから、それがすごく、ありがたかった。どうしてもこわがられちまう。でもあんたは臆せず、むしろ小言も言ってくれるもんですから。思わず頼っちまいますよ」
オーベリソンが、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ムッシュも喜んでましたね。あの人もまあ、おっかない所が大きいから」
仏頂面を微笑ませながら、アルシェがこぼした。
ムッシュことラポワント。高名な、死刑執行人だった男。それ以前に、歌と酒を愛する好漢であり、腕の良い医者だ。
「それこそ小言だがね。ここの連中は、人の中身を、見すぎちまっていると思うんです。人の歩んできた道とか、人のおっかなさとか、そっちにばっかり気を取られている。まあ、捜査官ってそういうもんだから、仕方ないんですがね。見たまんま、見ればいい。例えばムッシュは、ムッシュって呼んじゃあ駄目さ。ラポワント先生って呼ばないと」
「難しいなあ。そして厳しい。でもその厳しさ、うちには足りなかった。皆、心が優しいもんでして」
「少佐殿、そりゃあ大間違いだ。優しいんじゃない。遠慮しあってる。お互いを尊重するってお題目で、遠回りしているんだよ。理解し合うのに、時間をかけすぎている」
「人を理解するのには、時間が必要じゃないのかね?」
「あればあるだけいいってわけでもないだろう?ティナさんよ。見えるものから順に、理解していけばいい。本ってのは、まず表紙があって、順々に読んでいくもんだろう?余所見したり、途中から読みはじめるから、時間がかかるのさ」
下手くそな例えだった。それでも三人、笑っていた。
「おいおい。そんなに面白いことかよ」
「いやね。どうして貴方が、人を信頼できて、人から信頼されるのか、それを知りたかったんだよね。たった、それだけだったんだ。貴方はすごく、シンプルな人なんだね」
「そうだよ。俺は、難しいことなんてできないんだよ。手順通り、規則通りだ。それの何が、悪いってんだ」
「これがさ。案外、いないもんでしてね。皆、好きな本しか読まなかったり、歩幅が大きすぎたり。曲者ばっかり」
「本当にそれだよ。どいつもこいつも、基本の基本ができちゃいない。唯才だの、一芸特化だの、そういうお題目に逃げちまって、基本を作ることを忘れている」
「いいぞ、グレッグさん。あんたの本領発揮だ。どんどん、言ってやりましょうや」
オーベリソンがげらげら笑いながら、肩を叩いてきた。それもなんだか、気に障った。
そこからはずっと、小言を並べていた。誰がどうだの、あれがこうだの。感情が高ぶっているときに言い出すと、止まらなくなる。悪癖だった。入隊当初からの先輩だった、もと刑務局局長ボンフィスには、よく窘められた。周囲からは、小言のグレッグなんて呼ばれたりもしていた。
刑務官とは、人を監視し、保護し、更正させる仕事だ。従事していた第三監獄は別として、他の監獄などは、特に保護と更正に重きを置く。罪人とはいえ、ひとりの国民に変わりはない。刑期を満了し、再び市井に赴くにあたり、再び罪を犯さないよう、手に職を持って不自由なく暮らせるよう、そして身辺を脅かされることがないように、導く必要がある。
そのためには、よくないところを指摘し、どうすれば他の人に受け入れてもらえるかを諭す。自分の直すべき部分を見つけて、それを直す努力に手を付けられるよう、促す。あるいは反省が見られないようならば、道理を以て叱りつける。
叱って、諭して、促して。上も下も、罪も咎も関係なく。刑務局刑務官のスローガンである。デュシュマンはそれに、準じすぎていたところがあった。下からは煙たがれ、上からは反骨漢として見られたものだ。しかしすべては、ボンフィスのそれを見て育ったものであるし、そのボンフィスが局長になってからは、右も左も似たような、口うるさい連中が揃い踏みになってしまい、結果的に理解者に恵まれた。
そうして三人、その通りだ、大当たりだ、そう言って、大喜びしていた。たった少しの間なのに、よくわかりますね。そんなことも言われた。順々に見ていけば、すぐにわかることなのにと、ぶうたれた。それすらも、笑われた。
「なんだか、大工の棟梁みたいだよね。大尉殿って」
“錠前屋”の調練を見ていたら、ゴフが笑いながら、そう言ってきた。今日も絶好の、小言日和である。
「俺ん家、大工なんですよ。親父とそっくりだ。職人たちを怪我させちゃあいけないからって言って、小言並べたり、叱ったりして。まあ、五月蝿いの何のって」
「お前さあ。もう少し、言い方ってのがあるだろう?」
「でも本当に、叱ったりできる人がいなかったんです。皆、叱るのも、叱られるのも、こわがってたから」
アンリも隣で、からから笑っていた。あれだけ叱り飛ばしているのに、随分と懐かれてしまった。
「俺だって、好きでやってるわけじゃあないんだよ。ただ、どうしても出てきてしまう。それだけさ」
「口から出てくる事自体が、すごいよねえ。あたしなんか、先に手が出ちまいます」
「ルキエ軍曹は、外からの刺激に過敏すぎる。あと、何に対してかは知らんが、劣等感もある。だから、先に手が出る」
ぱっと出た言葉に、ルキエの顔が赤くなった。その後に、慌てたように腕を抑えた。じろりと寄越してきた視線に対し、よくできましたと、笑ってみせた。
こうやって小言を重ねていくことで、ちゃんと堪えられるようになってきている。
「あの、私はどうですか?私も、叱られたりするのに、免疫をつけたいんです」
アンリの影にいた、小さな体。捜査二課所属、ラクロワ中尉。気が弱いが、才覚は走る。後方支援の要である。
「ぶりっ子」
あえて、意地汚い言葉で言ってみた。それで、その素朴なそばかす顔も赤くなった。
「甘えることに味を占めているよな?人に頼めば、助けてくれる。勿論、それも大事だが、自分で解決することも大事だ。ましてラクロワ中尉、結婚するんだろう?夫婦間の問題なんてなあ、助けを求めたって、解決しないんだからな」
しゅんとして俯き、涙を浮かべてしまった。アンリが慌てたように、ラクロワの肩に手を置こうとした。それを、手で制した。
「アンリ、助けるな。ちゃんと中尉自身で気持ちの整理をさせてやるんだ。自分で頼んだことなんだから、自分で片付けをしなさい」
同期のペルグランなどと比べれば、成長が遅い。それは彼らの隣に、手本となる存在がいたからだ。ラクロワには、それがいなかった。
ならば、自分で進んでいくしかない。
「中尉はまだ、お嬢さん気分でいる。だからまずは、お姉さんになること。それから、奥さんになって、お母さんになる。そのためには、自分を信じることからはじめなさい。よろしいかな?」
つとめて穏やかに並べた言葉に、ラクロワは涙を浮かべたまま、目線を合わせてきた。
首肯する。しっかりした表情だ。そこでようやく、肩を叩いてやった。
隣に手本がいなかったからこそ、助けてくれる人に依存する癖が付いてしまっている。気性は仕方ないとしても、それぐらいなら、小さなことから克服させていけば、直せるはずだ。乗り越えれば、大きくなれる。
小言だとか、叱ることとかは、本来はこういうためのものだ。よくないところを自覚させて、自分で克服させる。それを促していく。自分で成長することが、いちばん大事。そのためには、先入観を廃するか、持っていることを自覚したうえで、順々に、時間をかけずに、人となりを見ていくこと。
叱って、諭して、促して。上も下も、罪も咎も関係なく。それが自分の、人との接し方の、根本にあるものだった。
そうこうしているうちに、皆が集まってきて、叱ってくれだの、小言が欲しいだの、そんなことを言い出しはじめた。
それが頭に来て、全員整列させて、ひとりひとり叱りつけた。それでも皆、笑っていた。しゅんとするもの、泣くものもいるが、そのうち、笑顔になった。気が楽になったとか、自分の悪いところを自覚できたとか、そんなことばかり。
そのうち、ダンクルベールまでやってきて、これは如何したことかと言われたので、仔細を伝えたうえで、教育が甘すぎると、噛みついてしまってもいた。
「どうにも俺は、そういうところに気が回らんのでなあ。これからも、お前に頼ってしまうことになりそうだよ」
白い髭を撫でながら、笑っていた。
そうか。どいつもこいつも意気地が無かっただけなんだな。ようし、それなら蹴れるだけのけつを蹴るだけだ。
「よお、小言のグレッグ。絶好調みたいだな」
声をかけてきたのは、朱夏の半ばを越えながら、なお筋骨隆々とした偉丈夫。ボンフィスだった。隣には絶世の美中年ことセルヴァンが、げんなりした様子でいる。
「俺も今、司法警察局の方で、お前みたいなことしているよ。上から下まで、叱り飛ばす毎日さ」
中佐相当官として、司法警察局に行っていた。セルヴァンの参謀役をやっているという。
「ダンクルベール。私も貴様も、大当たりを引いちまったようだな。来る日も来る日も、説教と小言のオンパレードだ」
後方支援の神さまとも評される賢人である。それがここまでぐったりしているのだから、ボンフィスも、現役時代さながらの小言をかましているのだろう。
そしてその肩に、分厚い掌が乗せられた。ごつい顔が、喜色満面で待ち受けていた。
「そりゃあ、局長閣下。あんたが叱り甲斐がありすぎるのが悪いんですよ。何でも全部、自分でやっちまうんですから。ちゃんと下にも仕事を与えないと、人は育ちませんよ。そのくせ、あれが欲しい、これが欲しいって言い出してさ」
笑いながら言った小言に、思わずダンクルベールが吹き出していた。セルヴァンとダンクルベールが、人材育成に関して、よく喧嘩をしているのは、ペルグランから聞いていた。
「やめてくれ。気晴らしに足を伸ばしたってのに、ここでも説教かよお」
「俺たちゃ、もと刑務官です。叱って、諭して、促して。それが仕事ですからね。閣下が招聘したんですから、恨むんなら、ご自身をお恨みすることですな。さあ、観念なさい」
耳を塞いで抱え込んだ男前に対し、ボンフィスは仁王立ちで笑いながら小言を重ねていた。それを見て、皆、げらげらと大笑いしている。
叱って、諭して、促して。上も下も、罪も咎も関係なく。それが求められ、笑顔を作っている。不思議な環境だった。
「すげえや。大工の棟梁が、ふたりも居らあ。これで地震が来たって、こわくないぜ」
「おう、“錠前屋”さんよ。いいこと言うじゃんか。小言のグレッグが、グレッグ棟梁に転職だ。ようし。お前ら、覚悟しとけよ。こいつの小言は、俺の比じゃあないからな」
「現在進行系で体感中ですよ。グレッグ棟梁のおかげで、すっかり皆、自信満々だ。内向きの指導者が欲しかったが、ここまでとびきりだとは思いませなんだ」
へとへとになったセルヴァンにしがみつかれながら、ダンクルベールもまた、笑っていた。
そうした、ちょっとしたことが済んだ後、本部長官の執務室に呼ばれた。ダンクルベールとペルグラン、そしてティナが待っていた。
渡されたのは、組織図だった。
「基礎ができあがった。一棟、頼んだぞ。グレッグ棟梁」
内容を見て、飛び上がった。
総務課課長。指揮下に警備室、経理室、資料室、労務人事室、衛生救護班などを含む後方支援室。以後の予定として、水難救助班なども加えるとのこと。
結構な規模である。配属されて、ひと月も経っていない。警察隊本部という組織における、捜査以外のすべての機能を任されたと言ってもいい。
見渡した。全員、自信満々の顔つきだった。
「不服かな?」
「いや。むしろ、俺でいいんですか?」
「アンリエットを人間に戻し、“錠前屋”を大人にさせた。お前がやったことは、今まで俺たちが、やりたくてもやれなかったことなんだ。ビゴー先輩が去った今、屋台骨になるべきは、棟梁たるお前が、最適だと思う」
「警察隊本部庁舎という現場を一番機能させれるのは、デュシュマン大尉殿以外、考えられません。そのうち俺も、大尉殿の指揮下に入るかと思いますので、どうか、ご指導ご鞭撻をお願いします」
皆、そこまで俺を、評価してくれているのか。
「棟梁さん。我が愛しき人の、大事なおうち。任せたよ」
ティナ。とびきりの笑顔だった。なぜだか、恥ずかしくなって、目を逸らしてしまった。
よう、ルデュク。俺は棟梁、やることになったみたいだ。
4.
軍帽を取って最敬礼。お礼の仕方は、やっぱりそれだけ。
警察隊本部次長、中佐。念願叶っての、ウトマンの下での仕事。法改正のおかげで、出自のせいで天井ができていたウトマンでも、大佐以上になれることになった。これであれば、ヴィルピンは気兼ねなく、転んで、泣いて、立ち上がることができる。
「お前もまあ、変わらねぇなあ。それ一個でここまで来れたんだから、立派なもんだよ。擦り傷だらけの、でっかい泥団子だ」
ひと回り以上も大きくなった、ブロスキ男爵マレンツィオ閣下。今回の法改正の立役者。このひとのおかげで、ウトマンはもっと大きくなれた。そのお礼をしに来たところだった。
「俺、ダンクルベール長官にも言ってたんです。最初、俺の方が司法警察局だって言われて。でも、違うと思うって。ウトマンが、俺の上に立つべきだ。俺は、ウトマンの上には、立てないって。ウトマンの下でなら、何回でも転べます。ウトマンの上で転んだら、あいつに迷惑がかかる。俺は、そんなの嫌だって。それが叶って、本当に嬉しい。本当に、閣下のおかげです。あいつを、でっかい舞台に立たせてあげられたんです」
「泣くんじゃねえってよ。それに、俺は何もしちゃあいねえ。お前とおんなじこと考えている連中がいっぱいいて、それを取りまとめただけさ。だから今回は、お前が思っていることが叶った。たったそれだけのこと。さあ、胸張って転がっていこうぜ?泣くのはこれから。今は威張れ。どうだ、俺が言ってたこと、正しいだろうって。思いっきり、威張り散らすんだ。そうしてから、どかんと一発、転んでみせろ。それで皆、大笑いさ。泣き虫本部次長、本領発揮だってね」
マレンツィオは相変わらず、でっかくて、頼もしいひとだった。指揮官として、そして指導者として。
人の上に立つ。それができる、大人物だ。
久しぶりの油合羽。知らない人も、いっぱい増えてる。いなくなった人も多い。頼り切っていたビゴーのおやじさんだって、退役してしまった。戸惑うことも、怯えることも、山ほどあった。
それでも、ダンクルベールがいる。ペルグランがいる。ビアトリクスがいる。不安だからと連れてきた、モルコもいる。だから、転んで、泣いても、立ち上がれる。立ちすくんだら、転ばせてくれる。恵まれた環境。やりがいのある環境だった。
「この案件は、アルシェさんたち、二課にお願いしよう。殺しではなく、別の方向からたどっていく。逮捕後に、マギーちゃんのほうで追いかけ直して、再逮捕だ。こっちは、ゴフ君とデッサン君を中心にやってみてくれないか。ひらめきを、広い視野で支えていく。ペルグラン君もくわえて、ゴフ君を両脇から支えさせるのも、いいかもしれない」
相変わらず、自分だけではなんにもできないから、人任せ。だから、口調にだけは気をつける。命令、指示ではなく、提案や依頼のつもりで、言葉にする。そうしないと、ただのいやなやつになってしまうから。対等に。いや、それより下からでも一向に構わない。
仕事をしてもらうのだから、頭も言葉も下げなければ、示しがつかない。
思いつきを任せてみて、駄目そうだったら、一緒に転んで、やりなおし。ダンクルベールのやり方とはまるで違うだろうから、皆は戸惑うだろうし、迷惑だろうけど。自分のやり方ばかりを、押し付けてしまうかたちになって、本当に申し訳ないけれど。やっぱり、それが一番、結果が出せるやり方だから、それでお願いしてみた。
「ヴィルピン先輩が戻ってきてから、大忙し。課長とウトマン主任がやってたことが、皆に降り掛かってさ」
一課課長になったビアトリクス。大人になって美人さんになった分、気も強くなった。こうやって、叱られてばかり。でも、おかげで、気兼ねなく転んで泣けていた。
「ごめんよ、マギーちゃん。俺、なんにもできなくって。人に頼ってばっかりで」
「褒めてるんですってば。それだけ皆、あのふたりに、頼り切りだったんだと思う。私も含めて三人、出たがりだったから、ヴィルピン先輩がそれを振り分けてくれる。皆、いきいきしてますよ。泣いて頼まれるから、断れないって。頑張ろうって、思っちゃうってさ」
「ビアトリクス課長もそうだがね。組織ってのは本来、そういうもんですよ。偉い人のやることは、仕事の振り分け。言ったとおり、出たがり三人。だから下は、付いてくのがやっとこさになっちまう。ヴィルピン次長は、そこが上手だ。しかしあんた、もそっと胸は張ったほうがいいね。空威張りも大事だよ。あんまりにも縮こまってちゃあ、皆、申し訳なくなっちまうんだからさ」
新顔も新顔の、総務課課長、グレッグ棟梁ことデュシュマン大尉。捜査以外は全部お任せ。叱って、諭して、促して。何だか自分に、ぴったりな人だった。
ペルグランの奥さまが経営してらっしゃる、“赤いインパチエンス亭”での反省会。何日かに一度ぐらい、帰りの三十分から一時間ぐらいをお借りして、管理職一同から、愚痴と小言を頂戴する。
これもひとつの思いつき。三人とも、笑って受け入れてくれた。
「アルシェさんは、どうかなあ。俺のやり方、通じてるかな?」
「万事順調。次長がばんばん指示を出してくれるから、楽でいいや」
「ラウルさんは横着しすぎ。本当、仕事嫌いなんだから」
ビアトリクスにがつんと言われても、どこ吹く風。捜査二課課長のアルシェ少佐。ポーカーフェイスの達人だ。最初は一番、おっかなかったけど、今では一番、気楽な人である。
「泣き虫さまは、頼り上手、甘え上手で羨ましがんす。あたくしどうも、そういうのは苦手でして」
インパチエンスさん。とびきり美人のおかみさん。背も高くて、目が怖かった。でも優しくて、ちやほやしてくる。赤いインパチエンスという、素敵な名前通りのひとだった。
「インパチエンスさんに甘えられちゃったら、おじさんは参っちゃうから、そのままがいいなあ。ああ、気を使わなくていいよ。モルコ、やってあげて。自分たちの分は、自分たちでやろう」
「承知しました。貴様、ご内儀さま。ちょっと入るよ」
「大丈夫。カンパニュールもコロニラもいるからさ。運んでもらうだけ、お願いするから。貴様も、のんびりしてちょうだい」
お腹がちょっと膨らんできているので、動いてもらうのは申し訳ない。本人は動きたがるけど、無理をする性分だということは、すぐにわかった。
こういうときは、世話焼き上手なモルコの出番。ご亭主のペルグランとも、相性ばっちり。副官どうし、支え合っての助け合いだ。
不安と心配ばかりの自分と違って、モルコは毎日、楽しそうだった。憧れの警察隊本部。ダンクルベールのお殿さまのお膝元だといって、はしゃいでいた。
歳の近いペルグランたちとは、すぐに仲良しになって、俺、貴様だなんて、悪い言葉に、はまってしまった。ダンクルベールとセルヴァンが悪い先例を作ってしまって、皆でそれを面白がって、真似しているのだ。
ペルグランとガブリエリ。名族中の名族である。ヴィルピンですら話をするのも憚られるぐらいなのに、家柄を傘に着ることのない、気持ちのいい若武者たちである。
男一本、夢一本。祖先の築いた“ニコラ”の名すらも海に捨て。抱きしめたるは、素性卑しき姉さん女房。そんな愛する名も無き花を、包丁からも、世間の目からも、その身を盾にと守り抜き、道義に背いた家をも捨てた、男の中の男である。
ウルソレイ・ソコシュの一件を知ったときには、ヴィジューション支部一同、大いに驚愕し、快哉を上げ、自分のことのように涙したものだった。
一本立ちした案山子の杖は、今や男の本懐の代名詞。次代の英傑、ルイソン・ペルグラン。今や貴賎を問わず、世の男子の憧憬と羨望の的である。本人は多分に迷惑そうなので、あまり言わないようにだけは、気を付けよう。
ガブリエリの方は、何と言っても、もと王家。眉目秀麗、長身で典雅な声の、本場の伊達男である。家の都合で廃嫡となり、庶民の婿になった今でも、その名声と顔面の強さに、一切の衰えはない。
色落ちの進んだ長合羽に、咥え紙巻と無精髭。おやじさんの忘れ形見こと、はぐれ軍警の二代目さまは、いくらかダーティーな色男。ダンクルベールの“足”のように、“妹”と呼ばれる、独自の密偵をも駆使する、清濁併せ呑んだ、妖しく燻る無頼漢だ。
その紙巻と無精髭は、ラクロワちゃんという、同期の女の子にせがまれてはじめたそうだ。何だかちょっと、微笑ましいエピソードである。
そのラクロワちゃんは、先の人事異動により、司法警察局に嫁いでいった。お花屋さんにいるような、そばかす顔の、素朴で愛らしいお嬢さん。そんな見た目とは裏腹に、セルヴァンの正当な後継者として育てられていたという、後方支援の花嫁である。ご自身も婚約が決まり、めでたい限り。異動後も、組織間の連携役として、よく顔を見せてくれていた。
ただ残念なこととして、モルコがラクロワに一目惚れしてしまい、婚約の件を知ってすぐさま失恋。それでもペルグランとガブリエリに慰められて、すぐに立ち上がった。今ではひとりの友だちとして、仲良くやっている。
ガブリエリの煙草と無精髭もそうだが、ペルグランは私から俺にさせられたり、他の男たちも、どうしてか、ラクロワの前では格好付けたがっていた。先天的な魔性の女なのかもしれない。
モルコは、そこ三人とは、二つか三つ上。男所帯のヴィジューション支部で育った、仕事熱心な若者である。女の子には慣れていないため、唯才というお題目の都合で、女性職員が多い司法警察局と警察隊本部という場所は、些か刺激が強いかもしれない。
自分の長女を当てようかと思った時期もあったが、時代は自由恋愛である。ペルグランに倣って、自分で捕まえさせることにしていた。お膳立てぐらいはするけどね。
「ヴィルピン君も、いいこを拾ったね。真面目で活発。話しも上手で、てきぱき動ける。いい副官だ」
「モルコは本当、いてくれなきゃ困ります。今、もとの場所で支部長になったティボーっていうおやじと三人、並んで走った戦友ですよ。ファーティマさん。あ、いや。ファーティナからの、ティナさんだ」
ヴィルピンの不始末に、亜麻色の髪の事務さんは、思わずと言った感じで吹き出してしまった。
「躓いたのを、持ち直せるようになったんだ。大成長じゃん」
伊達眼鏡と、ふんわりシニヨンの若奥さま。だけどピアスはばっちばち。ティナさんことファーティナ・リュリ中尉。そしてあのボドリエール夫人でもある。新任少尉で担当した大事件の主犯であり、そもそも人にあらざる人でなしだ。随分と泣かせてもらった恩人であり、宿敵である。
第三監獄が閉鎖になったのは知っていたが、どういうわけか、本部で普通に仕事していた。ウトマンばかり仕事しているのが可哀想だったらしい。ヴィルピンが業務を振り分けるようになってから、余裕ができたと、この反省会に紛れ込むようになった。
悪女とか魔女とかそのまんまの夫人時代とは異なり、朗らかで頼りがいのある、いい助言役である。
「棟梁とヴィルピン君が来て、組織構造を見直してで、皆の動きがすごく良くなったね。それぞれの組織の長が悪目立ちしていたのを、泣き虫が頼って、棟梁が叱ってで回っている。マギー君とアルシェ君の役割分担も最適だ。表と裏。構造がしっかりしたから、誰を何処においても、動けるようになった」
「次長は一国一城の主だったし、自分の才覚を信用していないひとだから、尚更、いいんでしょうね。ウトマン中佐だったら、やっぱりあのひとに全部、集中しちまう。あのひと、いい意味で面倒臭がりだから、自分でやったほうが早いって、考えるんですよ」
デュシュマンが、ぼやくように言った。
小言ひとつで人間どころか組織そのものを建て直す、説教上手である。何しろ人を見るのが速く、的確だった。
人の適性を知りたいときには、デュシュマンの出番。そうして知り得た人材に、仕事をお願いしていく。できること。やれること。やらせたいこと。そして、できるようになってほしいこと。
人それぞれに、出番がある。それを見つけて、作っていく。そうしてお願いしていけば、全員に打順が回ってくる。ひとりではなんにもできないからこそ、お願いをして、皆で一緒にやっていく。それがヴィルピンなりの経営学だった。
「ウトマンはダンクルベール長官に、俺はブロスキ男爵閣下に育てられたようなもんだから、そこで似たのかなあ。グレッグさんの言う通り、向こうふたりは、出たがりというか、現場の人だから」
「男爵閣下は、人の上に立つしか能がないって、ご本人でも仰ってました。実際、どうだったんですか?」
「とにかく振り分け。責任持ってくれるのもでかいけど、一番はいわゆる、火消しだね。棚卸とフォローは大得意だ」
「あのデブの本髄だね。くわえて、自分の名前で仕事させられるのが何しろ強い。全員に名刺配って、全部、お前がやっていい。ただ、俺がやったことにしろ。そのためにも、やったことは記録を残しておけ。名刺と記録は、そのためのお守りだって」
言いながら、ティナは名刺一枚、さっと取り出してみせた。どこからかはわからないが、まあ、それはいつものことである。
「すげぇ、天下御免の大安売りだ。前評判だと、嫌味で偏屈な癇癪持ちって聞いてたの、不思議だったんですよね。きっと言ってることと口調から、外から見ると、そう見えるだけなんでしょうかね。真ん中にどかんと座ってくれて、状況も見てくれるんなら、これほどありがたい上司はいないでしょうに」
「そうだねえ。思い返せば、あのときだって」
はっとした。出てしまった言葉を、一旦、切る。
小石が見えた。行けば躓く。
ティナの目。表情。穏やかに微笑んでいる。もう一度、目。
停まって、左右確認。よし。
「長官の仕事量、かなり減らしてましたし」
「はい。よく、できました」
「ごめんなさい。不快な思いをさせてしまいました」
「むしろ愉快なぐらいさ。本当に成長したねえ」
その美貌を、満面の笑みで崩してくれた。喜んでくれているぐらいだった。
小石だとか、段差だとか。転んでしまう原因。ようやく、そういうものに着づけるようになってきた。その前で立ちすくんでしまうことも多かったが、回り道だとか、その原因の大きさだとかを確認すれば、また進める。
前方注意。十字路は一旦停まって、左右前後の確認。転んで、泣いて、立ち上がるとは言うけれど、不要な転倒は避けるべき。司法警察局への転属を打診されたあと、ヴィジューションの皆で、試行錯誤をして見出した、本当に当たり前のことのひとつだった。
ウトマンの上に立たなきゃいけない。そのためには、努力が必要だった。でもやっぱり、自分ひとりではどうにもできないから、皆に手伝ってもらった。そうやって皆で、成長した。今はティボーが、同じようにやっているだろう。
「そういや、どうしてここで反省会なんかやろうと思ったんだい?会議室を確保して、定時内でやればいいだろうに」
ティナが、ぽつりと。
「ふたつ、ありまして。まず、モルコ。首都近郊ははじめてだから、ここを起点にして、休日の遊ぶ場所とか、友だちとかを見つけて欲しい。ヴィジューションのときもやったんです。俺も昔、そうだったけど、仕事人間だと、仕事以外の理解が狭くなっちゃうからね。仲良くなったペルグラン君ご夫妻のお店ということもあり、甘えさせてもらいました」
その言葉に、モルコが頬を赤らめた。対してペルグラン夫妻は、にやにや顔だ。
「これ、私のときも、やってくれた。疎かにしちゃったから、今、大変ですけど」
ビアトリクスも、ちょっと頬を赤らめながらの、苦笑い。デュシュマンとアルシェは、なるほど、といった感じで、笑っていた。
仕事も大事だけど、仕事以外も、とても大事。同じように、仕事の友だちも大事だけど、仕事以外の友だちも、とても大事だ。
仕事に付いていくのに必死になってしまい、山ほどいたはずの友だちが、数えるぐらいになってしまったという、苦い経験をしたからこそ、モルコたちには、同じ轍を踏んでほしくは無かった。
酒が飲める場ともあれば、一期一会の出会いも増えるだろうし、ペルグランが多趣味であり、社交的でもあるので、ここを足がかりとして、モルコの私生活をよくしてもらいたかった。
「もうひとつが、インパチエンスさん。大事な時期だから、こういうお題目を作って、家庭持ちで面倒見たほうがいいかなって。うちもひとり目は、お互いに郷里を離れての出産、子育てだったから、頼れる人がいなくて大変だったんですよ」
「次長。それ、俺も経験者。産まれてからだけどね。かみさん、ぼろぼろにさせちゃった。本当、申し訳無いことをしちまったよ」
今度はアルシェが苦笑い。アルシェの家庭事情については、ビアトリクスから聞いていた。
「ヴィルピン次長。あんた本当に、転んでばっかりなんだね。だから気遣いができるし、言うことに、いちいち含蓄があるんだな。面白い御仁だよ」
「グレッグさんはさ。失礼な言い方だけど、趣味も家庭も、ちゃんとしてるはず。じゃないと、その歳になって、その量の小言を出して、それを受け入れてくれるような人にはならないよ」
「おっと、名推理だなあ。刑務官なんて、辛気臭い商売してると、人生が嫌になってくるからね。色々、遊んだものさ。家庭のことも、かみさんにも娘にも、不自由はさせたくないって、随分と気を揉んだなあ。こないだ、ようやく嫁いでくれたよ。もう少し余裕ができたら、ふたりで旅行にでも行こうかね」
「そいつは、おめでとうございます。ちなみに、家庭円満の秘訣は?」
「愚痴と小言は言わないこと」
アルシェの問いに、大真面目な顔で答えた小言のグレッグ。思わず皆で笑ってしまった。
「趣味の方なら、今でもやるのは、テニスにダーツ、あとはビリヤードだな。ここにもあるから、誰かできるのかなって、密かに思ってたりしたんだがね。どっちかが趣味なのかい?」
「両方。それで九番、落としました」
ペルグランの気取った答えに、全員が爆ぜた。言った当人も頑張ったのだろう。いくらか以上に頬が赤い。
「やあだ。お坊ったら良振りこいて。あたくし、お恥すないですわあ」
「貴様さあ、すごいよなあ。ご遊女さんに遊びで勝って、口説き落とすだなんて。男の本懐の代名詞、ルイソン・ペルグランだ」
インパチエンスの惚気顔。モルコなんかは真っ赤になって、お口あんぐりである。
「ようし、ペルグラン中尉。一発、やってみるかね?俺もこれで、結構、鳴らしてんだぜ?モルコ中尉にも教えてやるよ。ちゃあんと覚えて、悪い女に、手球に取られないようにしないとね」
「おっ、見たい見たい。俺も息子に何か、遊びのひとつでも教えなきゃって思ってたんすよ」
デュシュマンが腕まくりをして、男連中を集め出した。心地の良い、珠のぶつかる音が鳴りはじめる。
「ほでなしたら、監督さまには、札遊びでもお教えしあんしょかね?お子さまとも遊べるもの、いくつかご用意してごぜあんしてよ」
「本当?ありがとう。休みは寝てばっかりだから、子どもにも愛想つかされはじめちゃってさあ。やっぱひとつ、お母さんだって、かっこいいところあるんだぞって、見せつけなきゃね」
「私もいいかね?ひとり用の遊びばかりで、皆でやるようなのって、あんまり知らないんだよね。これからはそういうのも覚えていかなきゃ、人間社会に溶け込めないからさ」
卓の方にはインパチエンスと店員さんふたり。ビアトリクスとティナに、札遊びを教えはじめた。お腹がいくらか大きくても、札遊びなら、いい発散になるだろう。
自分ひとりじゃなんにもできないけど、出番を作ることなら、それなりできる。キャリア晩年は国家憲兵消防部部長も務めた、火消しの男爵、マレンツィオ師匠の、薫陶の賜物である。
さてもうひとつ。今度は自分の出番である。
「久しぶりだねえ。ウトマンちゃんはちょくちょく会うが、ヴィルピンちゃんとは、十年単位だ。こっちに戻ってきたっていうのが、まず嬉しいよね」
日を改めた、とある教会。威容の司祭が、あくどい顔で出迎えてくれた。初対面の際、その人相の悪さに竦み上がったのが面白かったのだろう。それ以来の慣習である。
いつの間にかその名跡を継いでいた、悪入道こと、ジスカールの親分である。悪党ではあるものの、一本以上の、どでかい筋が通った任侠さんなので、本部にいた頃は、よく頼っていた。
「お忙しい中、本当にありがとうございます。しかもこんな、お節介みたいなことを頼んじまって」
「構わんさ。最近はこの仕事、需要が増えてね。法に引っかかるものでもないし、皆が幸せになれる。俺たちの名も善い方向で広まるし、むしろ本筋にしたいぐらいだよ」
「親分さまも、ひとつ名前が増えて、嬉しいでしょう?」
一緒に来てくれたのは、あの聖アンリである。色々と奇縁があり、親分とは仲がいいようだ。
「悪党の爺が名乗るには、ちょっと恥ずかしいがね。でもまあ。おかげさまで、生ける聖人の仲間入りさ」
「手前、恋愛成就の守護聖人。名を、悪入道と発します、ですか。頼んだら最後、破局も不貞もできませんでしょうに。一生を面倒見てくれるなんて、頼もしい限りですよ」
ウトマンも、一緒に来てくれていた。三人、遊びついでの、ちょっとした悪巧みである。
モルコに対し、気のある女の子がいるらしい。ルキエという、ご存知、“錠前屋”の女性下士官。男勝りで口も悪い、不良娘である。
もともと、とある男友だちに恋心を抱いていたのだが、意気地がなくて踏み込めず、遂には何にもしないままに、向こうに恋人ができてしまったらしい。そうしてうじうじ引きずっていたところに、異動してきたモルコの甲斐甲斐しさに、きゅんと来たそうだ。ただやはり意気地がないので、ちょっかいは出すけれど、その程度。モルコもモルコで困惑しつつも、何だかちょっと、ありそうだった。
これに怒髪天になったのが、あの向こう傷の聖女。聖アンリこと、チオリエ・オーベリソン特任軍曹である。
ルキエとは同い年の大親友だそうで、その背中を押すために、見せるだけの女を見せたのに、結局駄目。それにも関わらず、別の男に対して、同じ轍を踏もうとは如何なる所存かと怒り心頭。ウトマン経由で、自分のところに相談しに来たのだ。
三人で協議したところ、あのジスカールの親分が、ペルグラン夫妻の恋路を補佐した経験があったので、ひとまず話でもしてみようかとなったところ、ジスカールも前のめりで了承してくれた。本部復帰の挨拶もしたかったので、ちょうどよかった。
裏社会でも、あの夫妻の恋物語は広く伝わっており、インパチエンス側の世話役から仲人までも務めたジスカールに、かのルイソン・ペルグラン夫妻と同じように、道ならぬ恋路を支えてくれないものかと、注文が殺到しているとのことだ。律儀なジスカールのことだから、二束三文で請け負っているのだろうし、顧客に横恋慕や片思いをしているものがいようものなら、それらもまとめて世話してくれるのだから、ひとつの恋路で三つ、四つも本懐を遂げさせてやっているそうだ。
そうして実績を重ねるに連れ、聖アンリ、商売繁盛の守護聖人ことダンクルベールに次ぐ、第三の生ける聖人、恋愛成就の守護聖人として、ありがたがられるようになっていた。顔面には似合わないが、人となりにはぴったりな、頼もしくも可愛らしい尊名である。
「ルキエ姉さんの身の回りについては、心配要素は特に無し。まずは警察隊としての仕事として、ふたりを組み合わせるということをしてみればいい。その反応を見つつ、ヴィルピンちゃんの副官さんか、ルキエ姉さんかのどちらかに、俺からお話をさせてもらおう。チオリエ姉さんの心情を考えれば、ルキエ姉さんにしたほうが、溜飲も下がろうさ」
「ご厚意を、感謝いたしまぁす」
ことの発端であるアンリは、強面の任侠司祭を相手にして、うきうきのご様子である。よほど腹に据えかねているのだろう。
「俺はあくまで、仕事を作るぐらいかな。ウトマンには、モルコに対して、世間話ついでに、ルキエちゃんの話題を出して欲しい。あくまで名前を出す程度にね。それでやる気が出るようなら、親分のお話で、背中を押させよう。男が格好を付けたほうが、本来はいいだろうからさ」
「お前の育てた副官だもの。骨の何本でも折ってやろうよ」
司法警察局へ行ってから、ウトマンはいくらかふっくらした。セルヴァン、ラクロワ、ボンフィスと、頼れる人が山盛りで、大きな苦労もなくやれているようだ。
「ルキエったら、本当に意気地なし。前のひとのとき、私、背中を押してやろうって、唇だってあげたのに。頭来たから、押し倒そうって決めた途端、失恋したってめそめそ泣いて。何とか立ち直ったと思ったら、今度はモルコ中尉さまにぐらついてるんですよ?これで駄目なら本当に押し倒して、私が娶ってやるんだから」
「チオリエ姉さんも剛毅だねえ。俺はむしろ、そっちのほうがいいと思うよ。同性婚ってのも、一個は実績作ったほうが、社会のためにもいいだろうさ。それで悩んでる連中だって、山ほどいるからよ」
「その際は、私が夫になりますから、法律はともかく、ヴァーヌの教えとしては問題ないですよね?修道女として純潔は守ってますし」
「行けるはずだね。その際は、俺が出しゃばる必要もなかろう。むしろカスパルさんが適任さね。ふたりでルキエ姉さんの首根っこ引っ張って、バージンロードを歩かせればいい」
とんでもないことを言い出したアンリに対し、ジスカールもとんでもないことを言いながら笑っていた。生ける聖人ふたり、もはや倫理も道徳もどこかに行ってしまっている。
「ウトマンちゃんが局次長で、ヴィルピンちゃんが本部次長か。後継ぎの準備が整って、あのふたりもようやく爺さんになれるんだね。ふたりはこれから大変だろうが、親孝行だと思って頑張ってくれよ」
ひとしきりの打ち合わせが終わった後、ジスカールはそう言って、穏やかに微笑んでくれた。その顔にもどこか、老いたものを感じてしまった。
親孝行。育ててくれて、支えてくれた、ふたりの親に対する、せめてもの恩返し。
言われて、少しだけこみ上げてきた。それでも、嬉しさと勇気のほうが強かったから、溢れはしなかった。
今度、大泣きするのは、あのふたりの親の死に水を取るときだ。そう決めたから。
「俺も、次長を探さないといかんね。一回、引退した身だから、長居するのも悪いだろうし」
「親分まで代替わりだなんて、寂しい限りですな」
「寂しがってくれるだけ、ありがたいよ。俺たち“足”の頭目も、そろそろじゃないか?ちゃんと話はしてないけどさ」
「そこは引き継ぎができそうです。おやじさんの後継ぎ君が、“妹”っていうのをこしらえてましたから」
「そりゃあいいねえ。いやあ、どこもかしこも揃いも揃って、あれから云十年ってか。辛気臭い話だよなあ」
しみじみと語りながら、ふと、といった表情を見せた。
「ヴィルピンちゃんよ。後でひとり、会わせる。マギーちゃんにも言っといてくれ」
「次長さん、いるんですか?」
「名跡は俺で終わりにするが、玉座は任せてもいいやつが、ひとりいる。ちょっとくせがあるから、マギーちゃんの方が向いてるかもな。確か面識もあるはずだしね」
言われて、ちょっと難しくなった。
悪党相手の仕事はちょくちょくやってきたが、腹の探り合いは、やっぱりできない。そうなれば、ビアトリクスか、あるいはアルシェの方がいいだろう。アルシェは汚れ仕事が得意だが、扱う事案の特性上、ビアトリクスが直接やり取りをしたほうが、きっといい。もしくはペルグランか、ガブリエリあたりでもいいかもしれない。
ともかくそれは、自分以外の、誰かの出番だ。
「俺、腹芸は苦手です。頼み事しか、できないですから」
「そうさね。でもそれで、ここまで来たんだからさ。凄いもんだよ」
からからと、笑ってくれた。
ぶっとい任侠さん。おっかないけど、何でも頼まれてくれる、頼もしいひと。何度も敵と味方をやってきた間柄。
そのひとも、その名跡も、そろそろおしまい。なんだかちょっと、寂しい気分になった。
「泣き虫ヴィルピン。泣いていこうぜ。泣かないお前は、見たかぁない」
それでも、ジスカールの親分は。
沸騰したものが、溢れてしまった。でもきっと今、笑っている。嬉しいものが、ぼろぼろ溢れていた。
ジスカールの親分。法の外に立つ、もうひとりのダンクルベール。やっぱりおんなじことを、言ってくれるんだ。
決めたこと、破っちまったな。でもいいや。長官たちなら、笑って許してくれるよ。もっかい、決めればいいことだし。
「嘆くなよ。と言われて、嘆かぬものがいるものか」
少しだけかすれた、それでも雪解け水のように。
「振り返るな。と言われて、振り返らぬものなど、いるものか」
小柄な身体。可憐な美貌と、向こう傷。
「誇りたまえ。君は勇者だ。ただひとり、信念を携えて戦いに赴く、気高き人だ。たとえその剣が折れようとも。君の歩んだ道を咎めるものなど、いるものかよ」
人を救うためだけに、傷を負い、涙を流し、戦火に向かう。最前線の守護天使。
「ただしかし、覚悟のみを持ちたまえ。覚悟無しには、前には進めぬ。立ち止まれば、君はたちまち過去となる。今を生きるためには、前に進むしかない」
生きながらに聖人であることを求められ、それに応え続ける、気高き勇者。アンリエット・チオリエ・オーベリソン。
「勇者よ。前へ。ただ、前へ。その足を進めたまえ」
小さくも、大きな背中。ジスカールに並んで、振り向いた。
「私の大好きな詩。ラポワント先生。ようやく詩集、出すんですって」
微笑んでいた。目にいっぱいの、涙を浮かべて。
ばしん、と。背中に感触。
「さあ、ヴィルピン。一緒にやっていこうぜ」
ウトマン。にこにこ笑っている。俺の、最高の友だち。
皆に頼ってばかりで、ここまで来た。ここまで来れた。
だから、俺。
「はい。俺、泣きます。泣き虫ヴィルピン。泣いていきます。それしか、俺にはできません」
自信満々の、笑みのつもりで。
軍帽を取って、最敬礼。これしか知らない。
俺、これからも、これだけで、やっていくんだ。
5.
祝日。ティナに、エルトゥールル様式の蒸し風呂に誘われた。ラクロワと三人で、行くことにした。
店の入口は小さい。肌は白いが、ダンクルベールと似た鼻立ちの、恰幅の良いおばさんが案内をしてくれた。
用意された下着とタオルを巻いて、浴室に入る。むわっとした蒸気。おばさんに、真ん中の、大理石でできた台の上に寝そべるように促される。ほんのりとした温かさと、湿度の高さに、どんどんと汗が出てきた。
「聖アンリさん。擦るけど、傷、大丈夫?」
おばさんが、顔を覗き込んできた。大丈夫、と答えると、粗めの布で、体をこすられた。垢すり。ちょっと痛め。それでも、首筋や鼠径部、耳の後ろまで、丁寧に擦られて、温めのお湯を掛けられた。それだけでも、かなりさっぱりする。
その間も、おばさんが色々とお話してくれた。エルトゥールル訛りの言葉。ところどころ、濁点がついたりつかなかったり、詰まったり伸びたりする。だからきっと、ダングルベールじゃなくて、ダンクルベールなのかもしれない。
隣に寝そべっていた、豊満な体を眺めた。夫人ことティナさんである。夢うつつの中で、何度か裸の姿を見たことや、見られたことはあるが、改めてちゃんと見ると、圧倒的である。その肢体を、同じようにごしごしと擦られながら、気持ちよさそうに、うめき声を上げていた。ラクロワも、ふやけた顔だった。
自分の体型には、あまり自信がなかった。
上背の割に、筋肉が多い。いかり肩だし、胸も尻も、あまり柔らかさがない。ラポワントのところで栄養学を学んでいくうちに、穀物で育ったのがその要因だと知って、ひどく恥じたものだった。その分、そのあたりの男なんか気にならないほどには動けるが、じゃあ女として見ると、となると、気が引けていた。
ラクロワなども、いかにも女性らしい体系というか、雰囲気があるし、ビアトリクスに至っては、やはり酪農の地、フォンブリューヌ出身とあって、羨ましい肉付きをしていた。ダンクルベールの娘ふたりと、ティナに関しては、言及する必要すらない。
おばさんが石鹸を使って、大量の泡を作っていた。もこもこにされる。そしてまた、今度は目の細かい布で擦り上げられる。それをお湯で流してから、香油を塗ってくれた。
髪は自分で洗ったほうがいい。何度か来ていたので、経験として学んでいた。周りを見ると、似たようなおばさんたちに、拷問みたいな洗われ方をしている女性たちが、ぎゃあぎゃあ騒いでいた。備え付けの石鹸なり、お湯なりで、髪を洗って、もう少し温まる。
「色々あったけど、こうやってアンリたちと遊べるようになったのは、本当に嬉しいことだよね」
浴室の外で、ティナは、綺麗な顔をはにかませた。
「ティナさんって、本当に優しくて、素敵なひと。アンリさんが羨ましいなあ。ずっと、仲良かったんでしょ?」
「どうだったかなあ。一回、大喧嘩してますよ」
「あった、あった。それでふたり、ぎゃあぎゃあ泣きながら、ごめんなさいってねぇ」
三人、タオルまみれのだるまみたいになっていた。おばさんたちが甲斐甲斐しく、世話してくれてるのだ。
サービスで貰った、エルトゥールル式の珈琲も美味しい。見たことのない、不思議な作り方をするやつ。熱した砂に、銅か何かの、取っ手の付いた小さな鍋の中に、挽いた珈琲豆と砂糖と香辛料を、一緒に放り込む。それから水を入れて、砂の中でじっくりと温める。煮沸しかけた上澄みを、小さなカップに注ぐというのを繰り返すのだ。
ヴァーヌの教えで育ったが、異郷の文化を知ることは、楽しかった。
珈琲やカフェは、エルトゥールルがはじまり。紅茶は東の大国、瑞朝からもたらされたもの。カスパルお父さんの血族に伝わっている、サウナという蒸し風呂は、郷里でよく楽しんだ。身を清めるのに井戸や川などの水を用いるが、冬になると水そのものが貴重になるので、最低限の水で身を清められるとして、育った修道会でも、民衆の衛生状態を保つために、特例として採用されていた。
「アンリさんのおなか。触っても、いいですか?」
ラクロワが、とんでもないことを言いはじめた。思わず顔が火照った。
返答する前に、タオルまみれの体に、ラクロワの腕が入ってきた。触られた。一番、恥ずかしい部分。
「私ね。筋肉、好きなんだあ」
そう言って、ラクロワが恥ずかしそうにはにかんだ。
「すけべだねえ。アンリのおなか、気になってたんだ」
「はい。ようやく見れました。アンリさん、修道服ばっかりだから、見せてくれないんです。すっごく、素敵な体してるのにね」
恥ずかしかった。褒められてはいるけれど、顔から火が出ていた。その間もラクロワの指は、腹の窪みなどを沿うようにして、這い回っていた。
「私は、あんまり自信がないんです。ティナさんとか、ラクロワ中尉さまとか、女性らしい感じのほうが」
「アンリはさ。人を救うために、その体を培ったんだよ。心もそうだし、体もそう。それは信念の証。誇るべきものだ。他の人とは、比べちゃあいけないよ」
「私は、アンリさんの体のほうがいいなあ。私、おにくばっかり。ちゃんと筋肉、つけたいんです」
「そうなんですかね。なんだか、よくわからないや」
混乱していた。
女性らしくありたかった。でも修道女だし、御使さまに誓いを立てて、戦場に立っていた。それでできあがったのが、この肉体。役に立つには、役立つけれど。
どうすれば、いいんだろうか。
「あら、アンリエットさんじゃない」
聞き覚えのある声だった。赤い顔のまま、顔を上げた。驚いていた。
「リリアーヌさまに、キトリーさま」
宝玉のような褐色の肌。うねる青鹿毛。眼も鼻もばっちりで、超が付くほどの高身長。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んで。女性の理想のすべてを備えた美女。
ダンクルベールのご息女さま、ふたり。
「久しぶりじゃない。蒸し風呂にも来るんだね。ちょっと意外。異郷のだから、受け入れられづらいかもって」
キトリーの、からっとした声だった。奥の方に、どうやら旦那さまのような方と、見慣れた四人の子どもたちがいる。ダンクルベールかマレンツィオあたりに、顔を見せに来たのだろう。
「何度か来てるんですよ。今日は、職場の人たちと。本当に、いい文化です。もうちょっと暑めだと、もっといいかな」
「ありがとう。ヴァーヌの聖女さまにそう言われると、私たちも自信が持てるってもんよね。そちらは確か、ラクロワちゃんよね?まあまあ。タオルまみれで、可愛いこと」
リリアーヌが、ラクロワの頬を押さえて遊んでいたりした。ラクロワも、嬉しそうだった。
「こちら、ティナさんです。うちに新しく、配属になりました。事務員さんです」
ひとまず、ティナを紹介してみた。ティナは、ぽかんとした表情のままだった。
「はじめまして。父がお世話になっております。オーブリー・ダンクルベールの娘、リリアーヌとキトリーです」
「はじめまして。ファーティナ・リュリと申します。本部長官殿には、大変よくしていただいて」
「リュリさん。ちょっといいかしら?」
突如、キトリーがティナの顔を覗き込んだ。瞳には、夜の海が広がっていた。
浮かび上がる。ダンクルベールの、俤。
「顔立ちはそうは見えないけど、エルトゥールルのご出身?ファーティナって、うちのお婆ちゃんの名前なのよね。しかも結構、珍しいやつ。ファーティマは多いけど、ファーティナって少ないはず。まあ、私たちだってエルトゥールルの生まれ育ちではないけど。ちょっと奇遇じゃない?」
「奇遇と、申しますと?」
「左手の指輪。結婚してらっしゃるのね。どなたと?」
「あの、いえ。これはですね」
「キティ。はじめましての方に失礼よ?」
びくついたティナに淡々と詰め寄るキトリーを、さっと止めたのは、リリアーヌだった。静かに、微笑んでいる。
「ごめんなさいね、リュリさん。もしよかったら、本日、父とお食事会をするんです。よかったら、一緒にどうでしょうか?」
リリアーヌ。笑顔であるが、どこかその瞳にも、ダンクルベールがちらついている。
「お気持ちだけ、頂戴いたしますわ。こちらも三名、おりますので。ご迷惑になるかと」
「それは残念。では、また今度に」
一礼して、リリアーヌとキトリーが踵を返した。
「そう、また今度。是非にでも」
ちらりと。そして霹靂のような、ひと言を残して。
その影が浴室の方に消えた後、ティナの顔から生気が抜けた。相当、気を張ったのだろう。
「なにあれ」
「本部長官さまのご息女さま。ふたりです」
「リリアーヌさま、キトリーさまとも、長官そっくりの、ご聡明なお方ですよね」
ラクロワの顔も、ちょっと青ざめていた。おそらく自分のも、そうなっているだろう。
いつぞやの、ゼーマン著“明かりが灯る頃に”に仕込まれた“悪戯”を見抜く際、ふたりともそれを読んでいないのにも関わらず、そして、当てずっぽうと言いながら、見事な見立てを作り上げてみせた。
直感で駆け抜けるリリアーヌ。理論で追い立てるキトリー。褐色の巨才からふたつに分かれた、鬼才の大河。かたちを変えた、ふたりのダンクルベール。
「聡明なんてもんじゃない。まさしく神機妙算だ。恐ろしい思いをしたよ。あいつの若い頃より、ずっと早くて鋭い」
「本部長官さまは、若い頃のほうが、凄かったのですか?」
「本質は変っていないよ。ただ、捜査官から指揮官になった。立場の都合、やり方は変えなきゃいけない。それに、あまり言いたくないけど、精神的にも肉体的にも、あいつは全盛期が無かった。あの娘どもには、それがないんだよ」
ちょっと苦い顔で、ティナがこぼした。
ふたりとも、警察関係者ではないのだが、あのボドリエール夫人の心胆を寒からしめるほどのものを持っている。たった名前ひとつだけで、まさか、ティナがボドリエール夫人であることを見抜いたのだろうか。
だとすると、親以上の、恐ろしい才覚かもしれない。
ようやく落ち着いたところで、次は早めの昼食でも、ということで、ラクロワが気になっていたお店があるらしく、席だけ予約してくれていた。ここから歩いて十五分程度。天気もいいので、丁度いいお散歩である。
ティナからの業務指示により、今日は修道服以外でのお出かけとなった。とはいえ、持っている服も少ないので、結局はティナに選んでもらうことにした。
鎖骨が見えるぐらいのボートネックに、やや大きめの羽織物を引っ掛ける。スカートの丈は、ちょっと短め。くるぶし丈の、編み上げのブーツが見えるぐらいに。
羽織物と色調を合わせた帽子を合わせると、確かに上に伸びた感じがして、筋肉質な体が気にならなくなった。中は淡色、外を濃色で重ねること。羽織物のざっくり感で、肩の落ち感を出すと、いかり肩が目立たなくなるそうだ。もしくはいっそ、隠すぐらいなら出してもいいらしい。
勇気を出して、いつもの短合羽は、本日お休み。確かにいい感じ。ほっとした。
夫人の頃に、服を送ってくれたことが何度かあった。
本当に嬉しくて、何度も袖を通した。でも姿見の前に立ってみると、どうしても、違和感みたいなものを感じてしまい、恥ずかしくなって、色々と言い訳がましいことを書いた手紙と一緒に、送り返してしまっていた。
実は夫人も、自分の体型や悩みをちゃんと考慮したうえで、服選びをしていたらしく、夫人がティナさんになった今、その好意に甘えなかったことに対し、白状したうえで謝った。笑って許してくれたし、送り返した分も、ちゃんと保存していたようで、あらためて受け取ることにした。
今回は、今まで送ってくれたものを使って、おさらいと実践である。
ティナは、長身で豊満な肉体を存分に活かしたうえで、活発な印象のパンツスタイル。女性の私服としては挑戦的で、流石は当時のファッションリーダーたるボドリエール夫人そのひとである。
聞けば、人でなしが人を模す以上、社会に溶け込むうえで不可欠なのが、流行に関する知識だそうだ。それに沿うか、あるいは先へ進むかしないと、違和感を持たれかねないため、必要に迫られて努力してきたという。このあたりは、人ならざるもの特有の、苦労である。
ラクロワは、ふわっとしたブラウスにサロペットスカートに短靴と、簡単で可愛い感じに纏めてきた。いいなあ。
「アンリ、ラクロワ君」
不意に。お店までの通りを歩いているときだった。
「ちょっと、ごめんよ。先に行っててくれたまえ」
ティナの顔。真剣だった。
「何か、あるんですか?」
「こっちを見てる」
右の路地。そちらを向いた。
確かに、何かがいる。影としかいえないものが。
ラクロワと目を合わせる。同じ思いのようだ。
「私たちも、行きます」
「ごめんよ。多分、私に用事があるやつだ。気を付けたまえ」
ごくりと、喉がなる音だけ。
そうして、入っていった。見えるのは、暗がりの中、片手で帽子を押さえつつ佇む、ひとつの影。
「見つけてくれたみたいだね」
ざらっとした、低い、女の声。
こちらに来る。影が、影のまま。いや、そういう色の人。一歩ずつ、一歩ずつ。どこか見たことのある歩き方。
男装の麗人というのとは、またちょっと違う。細身の、黒い肌の女性。手で押さえたままの、黒いフェルトの帽子。袖まくりした黒いシャツと、同じく黒く細いスラックス。首元の、アスコットか、あるいはスカーフ。それだけは白かった。髪はどうだろう、纏めている様子すら見えない。褐色の肌の人より一段濃い、神秘的な美しさのある面立ち。厚ぼったい唇。大きな目と、真っ黒な瞳。白目の部分が、瞳に思えるぐらいに。
白い髭と、白い瞳。契約の対価を取り立てに来た、黒山羊姿の悪魔のような影。
歩み寄ってくる。一歩ずつ、一歩ずつ。まやかしのような雰囲気を纏いながら。
「はじめましてになるから、自己紹介からいこうかね」
自分たちの二歩前に立っているティナの横に並び、それでも背中合わせみたいに。顔も、体も向けるわけでもなく。
「公安局。エージェント・ミラージェ」
その影は、ぽつりと言った。感情のない声。
「そして」
いや、感情。
「ノエル・ビゴー」
ビゴー。
固まった。おそらく皆、そうだろう。黒い肌の、美しい影。確かに、そう名乗ったのだ。
優しくて、温かい、お爺ちゃんみたいなひとの名前。
「兄さまの、娘か?」
「さあね。育ててもらった。名前も、貰った。それぐらいだ。このとおり、血も繋がっていないしね」
淡々とした、ざらっとした声。それでも、穏やかな。自分の影を見ているような安心感だった。
「普段の仕事と兼業で、お姉さんのお守りを担当させてもらうことになった。長い付き合いになるだろうから、割れる腹は先に割っておこうってね。それだけだよ」
公安局の諜報員。ダンクルベールの密偵、“足”の代わりに、ティナの身辺を監視、保護する役目。
朱き瞳のシェラドゥルーガを見守るのが、白い瞳の影。
「色々、聞きたいことがある。五月雨式でいいかね?」
「いいよ。そのつもりで来た。女の集まり。井戸端会議だ」
口調は変わらない。ただ、落ち着いている。
「貴女と兄さまで、何をしていた?」
「捜査協力。言い方を変えれば、情報の横流し。公安と、司法と行政。お互いに必要なものを、やりとりしていた。それに、あのお兄さんが来るまでは、親父が行ける場所も限られていたしね。その手伝いさ」
「ガブリエリ君とは、やらないのかね?」
「あのお兄さんはもう、ひとりで、どこにでも行ける。それに、考え方も違う。親父と私は、貸し借りの関係だった。貸しひとつ、借りひとつ。お兄さんには、それは向かない。優しいひとだからね。貰ってばっかりだ」
「兄さまも、優しい方だろう」
「どうだろうね」
ミラージェがいくらか暗い声で、頭を振った。
「優しいけれど、不器用だった。私が言い出したのもあるけど、貸しと借り。それでしかやれなかった。お兄さんには、父娘の愛だとか、絆だとか言われたけれど、そうじゃない。親父が退役した今、貸し借りは終わった。だからノエル・ビゴーも、終わり。私はもう、ミラージェだ」
「まやかしじゃなくて、ミラージェか」
「そう、ミラージェ。コードネームを貰ったとき、親父がスペルを間違えた。まやかしでなく人だからとか。言い訳がましいこと、言いながらね」
そこだけ、いくらか呆れたような言い方だった。
ビゴーは、この人がまやかしであることを嫌がったのか。やはり父としての思いがあったのだろうか。
「ミラージェさん」
声を上げたのは、ラクロワだった。
「おやじさんと、今からでも、父娘になれませんか?ノエル・ビゴーに、なれませんか?アンリさんは、育ててくれたお父さんと、それができました。だからきっと」
「いらない」
断ち割るように。
「お互い、望んでない。繰り返しだが、貸し借りだ。私と母親が死にかけて、私だけであろうと、親父は助けてくれた。これがふたり分の、借り。親父は私たちのうち、私しか助けられなかった。それがふたり分の、貸し。それで親父との貸し借りは、終わり。お互いそれが、足枷だったのさ」
スラックスのポケットから、紙巻を取り出しながら。
「それに、見方が違うんだよ。お姉さんたちと、私とでは」
火が灯る。影の輪郭が、一瞬だけ、人のものになった。
「親父は、ひとりでいたかった。はぐれていたかった。人を理解すること。わかってやることが、どんだけつらいか。それを仕事にすることが、どれだけつらいか。私は、親父のそれを見てきた。お姉さんたちは、反対側。人に理解を示せるひと。わかってあげられるひと。そっちから見てきた。それでいい。親父は、そういうひとであるべきだから。今の今更、親父の影を、わかってやる必要なんて無いんだよ」
その声だけは、ひときわに、こもっていた。震えてすら。
ビゴーは、彼女にとって、そういうひとだったのだ。アンリたちにとっては、誰にでも理解を示してくれて、優しくて、温かいお爺ちゃん。それは、陽の光に照らされていた部分でしかなかった。
影から父を見ていた娘は、そのつらさを、見てしまっていた。それを、わかってしまった。
だから、貸し借り。これ以上、ビゴーを苦しめないために。ノエル・ビゴーは、その黒い瞳で、父を求めることをせず、白い瞳で、まやかしのように父と隣り合ってきた。
父娘のかたち。父娘にならないという、絆のかたち。
「親父をひとりでいさせること。それが、私なりの親孝行だ。必要だと思ったら、お互い、歩み寄るだけ。一歩ずつ、一歩ずつね」
「私も君に、歩み寄るべきかね?」
「任せるよ。私も人でなしだなんて、はじめて知るからね。だからこうやって、会えるところまで歩いてきた。割れる腹も割った。これ以上は、必要に応じてだろうさね」
紙巻を携帯灰皿に押し付けながら、ミラージェは続けた。
「捜査の基本は、足。人との交わり方も、足。一歩ずつ、一歩ずつさ。それが親父が、私に教えてくれたこと」
まやかしのようなひとは、踵を返した。そうやって、離れていく。一歩ずつ、一歩ずつ。暗がりに、溶け込んでいく。
「そうそう。忘れてたよ」
ふと。
「ごはん、食べに行くんだろう?予約してる?あの店、そろそろ混みはじめるよ」
声が変わっていた。明るい。
「席だけ、予約してました。ご存知なのですか?」
「うん」
ラクロワの言葉に、弾んだ声が帰ってきた。
帽子を取る。きっと、剃り上げている。そうして、顔だけで、振り返った。
「私の、行きつけ。なんでも美味しい。楽しんでね」
白い瞳の人は、はじめて表情を変えた。朗らかな、綺麗な笑顔。
そうして、白い瞳の影は、影になっていった。
「まやかしじゃなっくって、ミラージェ」
ぽつりと、こぼしてしまっていた。
「そうだね」
ティナも、同じように。
「私のような人でなしでも、まやかしのような人であれば、うまくやれる気がするよ。一歩ずつ、一歩ずつね」
「私の選んだお店が、いいところだと教えてくれた。ミラージェさんへの、ひとつ、借り」
「おっ。上手いじゃんか、ラクロワ君。じゃあ、行こっか。なんだか、余計に楽しみになってきちゃったよ」
「そうですね。あとで、返さなくっちゃ」
そうやって、三人で笑った。
あの影はきっと、それを伝えに来ただけなんだろう。
着いたお店。雰囲気がすごく良い。異国情緒、という感じ。広めのテラス席で、日当たりもちょうどよかった。
地元の料理も勿論、ユィズランド風の料理も色々あるとのことで、コースではなく、気になるものを片っ端から頼むことにした。ラクロワはともかく、アンリは食べる方だし、ティナは底なしの健啖家である。
飲み物はサングリアという、ユィズランド風の、果物とかを漬けた赤ワイン。デキャンタで、どんと、真ん中に置かれた。アンリは酒が強くないので、少量を炭酸水で割ったのを飲んでみたが、甘くて美味しかった。これなら、少しずつで楽しめる。他にもヨーグルトを使った、お酒の入っていない飲み物があったので、途中でそちらに切り替えよう。
マテ貝のワイン蒸し。しゃきしゃきした貝に、バジルのソースがよく合う。内陸育ちなので、海産物はいつ食べても美味しい。ティナが頼んでいたのは、血詰めのソーセージとマッシュポテト。赤ワインには肉、とのことである。ラクロワが頼んでいたのも面白そうだった。ポトフを冷やし固めたもの。ティナとふたりで、嘘でしょ、とか言いながらつまんでみたけど、最高に美味しい。
それと、恐る恐るで頼んだ、蛸と色々な野菜のサラダ。蛸って、食べれるものなのかとぎょっとしたけど、食べてみたら癖がなくて、柔らかかった。先入観を覆された時というのは、ちょっとした快感があるものだ。
ミラージェの言うとおり、どれもこれも、美味しかった。
暗がりの中にいた、まやかしのような人。そんな人が、日差しの中、美味しいごはんを楽しんでいる。まやかしではない、ひとりの女の人。父娘であることを選ばなかった、優しいひと。
行こうと思っていたお店が、いいところだと教えてくれた。ひとつ、借り。あとで返さなくっちゃ。
そして、お待ちかね。ユィズランドといえばの、浅い平鍋で作る、炊き込みごはん。これには蛸どころか、烏賊まで入っている。海老、黒曜貝。香りからして最高。穀物で育った自分としては、以前から、興味津々だったのだ。
とはいえ、この平鍋、結構な大きさである。置かれた瞬間、三人とも、ちょっと怯んだ。
「量、多くない?ラクロワ君は大丈夫?」
「なんだかもう、気分が上がっているので、いけそう」
「穀物なら、私に任せて下さい。それで育っているので」
「おいら、お腹ぺこぺこ。これぐらい平気よん」
どこからか、そんな声が聞こえた。
いるはずのない四人目が、それを勝手に取り皿に取って、食べはじめた。あまりに自然に会話に入ってきて、そしてごはんを食べはじめる。何度か経験したことのあること。
もしかして。
そこにいるはずのない、そして、そこにいるはずの人を、目で追った。いた。
「スーリ中尉さま」
スーリだ。スーリが、ごはんをかっこんでいた。
そうして、取り皿分をしまい込んで、あらためて立ち上がって、敬礼ひとつ、掲げてみせた。
「ただいま、ただいまでごじゃんす。絶賛、入院中の脱走中。外を眺めてたら、見かけたもんで、押しかけちったよ」
朱みがかった、浅黒い肌。そして小柄な男。それぐらいの印象。だけど剽軽で、茶目っ気があって、楽しい性格。
重傷を負っていた。でも、生命を繋ぐことができた。そろそろ復帰予定。それでもまさか、こんなところで会えると思っていなかった。心が、踊っていた。
「元気になって、よかった」
「ありがとさんね。いやあ、いつだって、生命がいくつあっても足りないねえ。そうそう、病院食ってさ。どうしても味気なくってね。おいらもちょっと、贅沢しちゃおっと」
けらけら笑いながら、勝手に注文を追加していった。そうしてまた、よく食べる。最初の頃は、意地汚いぐらいだったが、この頃はちゃんと、行儀よく食べるようになった。
もと暗殺者。それだけで、拒否感があった。でも、境遇に胸を打たれた。奴隷のように、ただ殺すことだけを強要された。価値のない生命。だから“鼠”。死にたくない。死んでたまるか。それだけで、人を殺めてきた。泥と血と怨嗟に塗れた、一匹の鼠。そして、ひとりの人間。
受け入れる努力をした。向こうも、歩み寄ってくれた。そうしてお互いに、理解できるところまで来れた。
「怒られない程度にしてくださいね。でも本当に、安心しました。血が出すぎていたから、心配してたんですよ」
「このとおり、元気いっぱい、おっきいおっぱい。別嬪さんの抱っこのおかげで助かったよ。おや、夫人ったら、イメチェン?ゆるふわ系の若奥さまだ。大胆に振り切ったねえ」
スーリの軽口に、ティナは答えなかった。ぽろぽろと、涙を流していた。
「何だよう。せっかく顔見せたのに、泣いちゃって」
「ごめんね。ちょっと、安心しちゃった」
「そっか。おいらも、心配かけちゃったもんね」
気恥ずかしそうに、ティナの頬にベーゼをした。そうしたら、ティナが思わずと言った感じで、スーリの体を、抱きしめていた。スーリは、照れくさそうにして、笑っていた。
「多分さ、おいら。夫人のこと、かあちゃんって、言っちゃったよね」
「言ってたよ。朱い肌のスーリ」
「ごめんね。もしかしたら、今後も、ぽろっと出ちゃうかも。なんかやっぱり、わかっちゃったかも」
「いいよ。でも、おかあちゃん、泣いちゃうかも」
「じゃあ、一回泣いたら、一回おっぱいね」
そんな軽口に、ティナは軽く、びんたを入れていた。そうして、涙を流しながら、“おかあちゃん”の顔で、笑っていた。
以前、聞いたことがあった。夫人が神さまをやっていたこと。そして今、この国にいる人々は、他の国からやってきた人々だということ。元いた人は、ほどんど、いなくなったとも。
もしかしたら、そういうことなのかもしれない。
あらためて、炊き込みごはんを各自、楽しみながら、四人でのお食事会。いつの間にか、豚肉の生姜炒めをパンに挟んだものとか、色々が増えていた。
「今ね。夫人は、改名したんです。ティナさん。ファーティナ・リュリ中尉。警察隊本部の、資料室室長」
「まじで?いつでも会えるようになったんだ。あの牢獄、使い物にならなくなったから、そりゃあそっか。じゃあ毎日、ダーリンと惚気けてんの?」
「仕事と家庭は切り分けてるよ。別居だし。それと、あのデュシュマン主任副長殿も、大尉相当官で来てくれた。あのひと、やっぱり、相当な大人物だったよ」
「うひゃあ。そいつぁ、とびきり嬉しいや。よくわかんないけど、信頼できたよね。主任副長殿なら、真ん中にどんと置いときゃ安心だね。ちょっと小うるさそうだけど」
「小うるさいどころじゃあないですよ。早速、端から端まで叱り飛ばしてます。刑務官って、叱るのが仕事なんですね。大工の棟梁みたいだって、ゴフ隊長が言ってから、グレッグ棟梁って渾名が付いちゃって」
アンリの言葉に、スーリが大笑いしていた。ぴったりだと、納得していた。
外からは見ることのできない、闇の中の恐怖。そこで出会った、信頼しあえる人物。グレゴール・デュシュマン大尉。戻ってきた全員が、絶対欲しいと、ダンクルベールに訴えていた。
そして来たのは、いかにも厳しそうな、整った口ひげの三白眼。でもすぐに、魅力に気づいた。人を見る力、人々を見る力。そしてそれに応える力がある。そうしてそれを導いていく、まさしく大工の棟梁みたいなひと。
何度も何度も叱られた。そして諭して、促してくれた。
人は、お前を聖アンリとして見る。否定するな。そして、それに応えるな。お前はお前の言う通り、ただひとりのアンリエットだ。ならばそうあることに、力を傾けなさい。
皆、叱られたがった。小言を言われたがった。お前ら、どいつもこいつも自信なしの意気地なしか。ようし、わかった。右から順に、けつを出せ。思う存分、蹴ってやるからな。笑って皆、叱られていった。
退役してしまったビゴーの、優しい厳しさ。ちょっと違って、厳しい優しさ。今まで、自分ひとりが悪目立ちしていた衛生救護班が、ちゃんと組織として成り立ったのは、棟梁が骨組みを組んでくれたからだ。
警察隊本部の新たなおやじは、説教臭い棟梁さん。叱って、諭して、促して。小言ひとつで人から組織までをも建て直す、人間の達人みたいなひとだった。
「聞いて下さい、スーリ中尉殿。私、棟梁にぶりっ子って言われたんです」
「ぶりっ子だって?ひどい事、言うねえ。でもラクロワちゃんが、ぶりっ子を卒業して、お姉さまになっちゃったら、おいら、めろめろだろうね。とっかえひっかえして頂戴よ?」
その言葉に、皆で笑った。ちょっと下世話が入るけど、許せる人柄。いやなことを、笑い飛ばすことができる。そうやって、自分の過去を、笑い飛ばしてきたんだろう。
「じゃあ私、お姉さんになって、中尉殿を口説いちおゃう」
「よっしゃあ。ひとっつ、生き甲斐ができたぜ。ちゃんと上手く断るから、惚れる準備、しときなよ?」
「それとさ。泣き虫ヴィルピンだ。覚えてるかな?ヴィジューション支部長。なんと警察隊本部次長でのご登場だ」
ティナの言葉に、スーリが特大の笑みを浮かべた。
「ピンちゃん支部長?」
「スーリ中尉さま、ご存知なんですか?」
「大ファン。すっごい面白いひと。お馬鹿さんで、かっこ悪くて、とびっきり最高なんだ。あの時の長官のお説教、今でもそらで言えるぐらい」
「そうそう。泣き虫ヴィルピン、泣いてみせろ。泣かないお前に、用は無い。もう、かっこよかったあ。それで、ぼろぼろ泣いちゃって。はいっ。俺、泣きます。ってさあ。もう、可愛くって可愛くって」
「あそこの支部、皆、泣き虫なんだよねえ。全員一緒になって、わんわん泣いて、走り回って、やったやったって、泣いて喜んで。本当、大好きだった。ピンちゃん次長かあ。楽しみだなあ。おいらもきっと、泣いちゃうんだろうなあ」
やっぱり、そうなんだ。皆、そう思っちゃうんだ。
名前だけはよく聞いていた、面白おかしい名物支部長。ウトマン課長やラクロワと入れ替わりで、次長に就任した、丸っこいおじさん。デュシュマンが馴染んだあたり、アンリと同じぐらいの歳のモルコ中尉を引き連れて、不安そうな顔でやってきた。
本当にどじで、頼りなくて、そして何故だか、ほうっておけない。そうして手を差し伸べると、ぽろぽろ泣く。ありがとう。やっぱり俺、皆がいないと、なんにもできないや。そして軍帽を取って、最敬礼。
それでも、軍帽を被り直した途端、その目に火が灯る。
勇猛果敢、即断即決。次へ次へと前に出る。思いついたことをばんばん託して、一緒になって駆け回る。そうして転んで、また泣いて。立ち上がっては火を吹いて。たどり着く先は、いつだって大花火。
でも自分だけでは、なんにもできない。ひとまずの思いつきを、誰かにお願いする。君の出番だ。やってみてほしい。涙目でそう言われるから、断れない。
おかげで毎日、大忙し。それでも毎日が、何倍も楽しくなった。
それに何より、気遣い上手。困ったことがあると、モルコと一緒に飛んでくる。それをやるのがペルグランだったり、自分になったりすることも。あのひと、支えてあげてくれないかな。やっぱりお願い。頼り上手の、甘え上手だ。
涙をインクに綴ってきた、泣き虫勇者の英雄譚。なんにもできないができる、素朴なカリスマ。
前へ。ただ、前へ。泣いていこうぜ。泣き虫ヴィルピン。
じゃあ、また後でね。たったそれだけ。まばたきひとつで、スーリの姿は、いなくなった。
「スーリ君だなあ」
「スーリ中尉殿ですねぇ」
三人、ちょっと涙を浮かべて、笑ってしまっていた。
そうして、残ったものと、デザートを片付けながら、跡はゆっくり、おしゃべりの時間。
ラクロワの、お相手の話。家の紹介とはいうけれど、実はあの悪入道、ジスカールの親分の伝手である。ラクロワの淡いものを見落としていたと自らを罰し、落とし前と称して、いくつか良縁を探していたのは、アンリも知っていた。
紡績業の次男坊。ちょっと遊び人気質。ひとつ上。支えてあげなきゃ。そう、思ったそうだ。いつも頼ってばかりのラクロワが、そう思い、決めた。弟みたいな人。
「それ、ペルグラン君じゃないかね?」
「ちょっと、ティナさん?」
「ペルグランくんは、お兄ちゃん。あのひとは、弟くん。ほっとけないんです」
満面の笑みに、ふたり、笑い返した。ラクロワにも、そういう部分があったのだ。
「ちゃあんと、尻に敷くんだぞ。財布を握るのが、一番早い。ラクロワ君は後方支援の人だから、そいつを前線に出すと思えばいい。悪いことをしたら、兵站を切るのさ」
「肝に銘じます。そういうかたちで、活きるんですね」
「人間、どっからでも学べるものだよ」
「そっか。アンリさんは、好きな人とか、いないの?」
精神的に余裕ができたのか、ラクロワが意地悪っぽく聞いてきた。
でもその質問。実は、想定内。
シャツの下に隠していたネックレス。取り外して、見せつけた。
「じゃあん」
婚約指輪である。ラクロワの目が、白黒した。
「えっ、本当?いつの間に?」
「ついこないだ。法律の都合、事実婚ですけれど。ラクロワ中尉さまも、ご存じの方ですよ」
「アンリさんと仲の良い、男の人?もしかして、ビョルン君とか?しかも法律の都合って、何ですか?」
「レヴィ。レベッカといえば、わかるかな」
ラクロワのそばかす顔が、見る間に赤くなった。
ご存知、“錠前屋”のなまくら鍵こと、レベッカ・ルキエ。
“女だてらに気が強く”を地で行く不良娘の毒舌家でありながら、恋愛方面となると奥手も奥手。筋金入りの意気地無しである。
不良友だちに恋心を抱いていたので、女を見せて唇を捧げ、背中を押したのにも関わらず立ち往生。失恋したとべそをかいておきながら、今度はモルコに首ったけ。前回の失敗を活かすと思えば、案の定、ちょっかい止まりという醜態を晒していたので、ウトマンとヴィルピン、そして恋愛成就の守護聖人たるジスカールの手を借りて、再度、背中を押してやろうと企てていた。
しかし想定外な事態が発生したため、陰謀はその日のうちに破綻した。ペルグラン夫妻と仲良しになったモルコが、“赤いインパチエンス亭”の店員さんから猛アタックを貰ったのだ。
淡い紫、泣きぼくろのカンパニュール。インパチエンスを慕って着いてきた、もと遊女。たおやかな雰囲気のお姉さまなので、インパチエンスよりも年上なのかと思っていたが、なんとアンリやモルコと同い年である。
ペルグランほどではないが童顔で、くわえて小柄。そんな頼りなげな見た目とは裏腹に、しっかりもので世話焼きなモルコに、心を掴まれたそうだ。女性から言い寄られるなんてはじめてだから、どうしたものかとヴィルピンに相談しに来たらしい。
モルコの私生活の充実を図っていたヴィルピンの施策が実りを見せたかたちであるが、こちらとしては不測の事態。泣き虫ヴィルピン、渾身の大転倒である。
結局はモルコの意志を尊重すべしとなり、協議の結果、カンパニュールとのお付き合いで方針決定。モルコからアプローチをし直して、めでたくカップル誕生と相成った。
となれば、ルキエはどうすべきかとなったものの、アンリとしては、当初の予定が復活しただけなので、諸々の根回しを済ませたうえで、有無を言わさず押し倒した。
営みなんてはじめてだったし、しかも女を女にしてやらなければならない側なのだから、多少の緊張はあったものの、大変ご満足いただけたようだった。今では二日に一片ぐらいの割合で、赤い顔で袖を掴まれている。
その後、我が父カスパルより“自分の恋路もこじ開けられんとは笑止千万”と。法務部部長オダン大佐より“法的責任ではなく、社会通念上の責任を果たすべき”と。司法警察局局長セルヴァン少将より“飢えて凍えて泣きたくなければ言うことを聞け”と。そして我らが霹靂卿、警察隊本部長官ダンクルベール大佐より“神妙にすればそれでよし”と。お集まりいただいた一同より、お祝いの言葉を頂戴した。それでも涙声でぐだぐだ抜かしはじめたので、ルキエ憧れのボドリエール夫人ご本人に、三人だけの祝賀会を催していただき、“君を喰べて、私がレベッカ・ルキエになれば万事解決だよね”とご提案をいただいたところ、ようやく首を縦に振ってくれた次第である。
念の為、ヴァーヌ聖教会にも確認したが、“生ける聖人と尊ばれるお方に説法を説くなど畏れ多い”と、おそらくは了承と取っていい言葉が返ってきたし、国民議会議長マレンツィオ閣下にも報告させていただいた際、言祝ぎと併せて、然るべき法案を上げようとも申し出てくれた。つまりはそのうち、正式なふうふになれる日も来るということだ。ジスカールの親分からも、“世の恋人たちのいい希望ができたね”と、労いとお褒めの言葉を頂いている。
以上。世のため人のため、何より意気地のないルキエ本人のため、大手を振って街を歩けるかたちで終着できた。とはいえアンリとしては、大好きな友だちが、大好きな女になるだけなので、何が変わるわけでもないのだが。
「人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて地獄に落ちろと申せども、自分の恋路をしくじるやつは、恥を晒して生き地獄です。我が一生涯の伴侶として、幸せにしてあげることにしました」
「前提の確認なのですが、アンリさんって、同性愛者でしたっけ?」
「異性愛者。でも、ルキエは別。あまりに意気地がないから、私が全部、もらっただけです」
「はあ。ティナさんも、よくお許しを出しましたね」
「アンリが夫だというからね。逆だったら容赦しなかったよ」
サングリアを傾けながら、シェラドゥルーガが口角を吊り上げた。今の時代、おそらく唯一の人類の天敵にして、頂点捕食者。繁殖欲求は無いとのことだが、人の生命を心に宿し、幾多の愛欲を綴り続けた大耳年増である。
「にしても、あれだね。ルキエ君、あそこまで面倒だとは思わなかったよ。意気地が無いのも度が過ぎると、強情にもなるとはね。本当に手に負えない」
「今だから言えますが、三回ほどレヴィにしてあげてから、囲んでもらった方が早かったですね。レヴィにするたび素直になるということも、わかりましたから」
「あの、レヴィにするって。一体、どういう」
「いい声で啼きますよ?」
呆れ顔のティナと、湯気を出したラクロワ。事実を述べたまでである。
経緯はどうあれ、せっかく貰った以上、思う存分に楽しませてもらっている。ルキエを、レヴィにする。これ以上の至福は、そして甘美は、何処を探したって見つからないだろう。
火照る肌で蒸発する汗。恥じらいと悦びに荒ぶ吐息。弓なりに仰け反る、しなやかな肢体。やめて。そう言われて手を止めてあげた時の、戸惑う瞳。こちらの体を触ろうとする手を叩いてあげた時の、あの表情。ぞくぞくする。そして、レヴィにしてあげた後のシーツ。これ全部、レヴィのだよ。耳元で、教えてあげる。震える唇。たまらない。もっと、レヴィにしたい。
おへそ。いいもの見つけちゃった。そこだけで、ルキエはすぐに、レヴィになる。いつでも、レヴィにしてあげられる。袖を掴んだ、その時にだって。どこでも、何回でも。
いいよね。もうずっと、私の女なんだから。
ティナさんの今。職場近くの一軒家を買い取って住んでいる。久しぶりの、ちゃんとしたひとり暮らし。蔵書や家具は一部、断捨離したうえで、第三監獄から持ってきているので、大きな変化は無いとのこと。貸倉庫も借りたので、蔵書が増えても安心だそうだ。食事は夫人時代からの習いで、近くの市場に出入りしている各種生産者と直接契約を結んで、値がつかないものを、破格で買い取っているらしい。ラクロワがいちいち感心しながら、メモを取っていた。
「ティナさんって、本当に家事上手だし、多趣味ですよね。香水も自分で作ったりするし」
「長生きだからね。生涯の大半は、自給自足さ。必要なことを、都度都度、覚えていったんだ。掃除をしないと、虫が湧いて、ごはんとか、あるいは体に害を及ぼすだろう?そういう、小さな経験の積み重ねさ。そうして、娯楽の必要性にもたどり着いた。日々を楽しく、生きるためにね」
「人じゃないのに、人の中で生きようとするって、凄い大変なことだと思います。例えば、お伽噺の魔王とか、そういうことは、やらなかったんですか?」
「こわがられるよりも、愛されたいじゃないか。そして私も、人々を愛したかった。だから、人の社会の中で生きることを、選んだんだ。愛し合うことって、大変だけど、それ以上の価値があるんだよ、ラクロワ君」
ティナの言葉に、ラクロワも合点がいったようだ。
ボドリエール夫人は、愛の大切さを説いていた。愛し合い、求め合うことの尊さを、叫び続けていた。あるいはそれは肉体的な悦びであり、時に別れを伴う、悲しみの涙として。それは時に、悲鳴ですらあった。
鮮烈な、愛の描写。愛したい。愛されたい。それは、人でない孤独から解放されたいという、名も無き人でなしの、心からの渇望だったのかもしれない。
だからこそ、人々の心を打ったのだろう。
そして今、最愛の人から、名前を貰った。ファーティナ。エルトゥールルの言葉で、魅力的な人。名前の意味を知った時、きっと無意識だろうけど、ダンクルベールもまた、このひとを心から、愛していたのだろうと思った。
「ああ。ようやく、見つけた」
そんな時、声をかけてきたのは、ビアトリクスだった。油合羽に略式軍装。祝日。何かがあったのか。
「緊急招集」
言われて、頭が切り替わった。三人、立ち上がっていた。
必要としてくれるひとが、待っている。
「全員、現地集合。格好はそのままで、まずは事態の把握から。ここまで、よろしいか」
マギー監督の、少し早口で、はきはきした言葉。背筋が伸びていた。三人同時に、返答した。
「状況、作戦目標については、現地についてから説明。準備時間、三分。ここまで、よろしいか」
「はいっ」
三人、声を揃えて敬礼した。
準備時間、三分。とはいえ、特にやることはない。軽く身支度を見直して、会計を済ませるぐらい。
そうして、ビアトリクスを先頭に、全員、駆け足で移動していく。官庁街通りの方。もしかして、通り魔か、立てこもりか。心拍数が上がっていく。ティナもラクロワも必要となれば、人数が必要な案件。何があるのか。
考える。自分がやりたいこと。つまりは、自分に必要なことであり、自分がやるべきこと。グレッグ棟梁から教わったことが、染み付いている。考えを、纏めやすくなっている。
そうしてたどり着いたのは、“赤いインパチエンス亭”だった。店内に、灯りが灯してある。
強盗。あるいは立てこもり。インパチエンスさん。
体が、飛び込んでいた。三人とも同じだった。
見えたのは、あえて店内中央に据えられた卓。待ち構えていたのは、ふたりの褐色。
違う、正しくない。何かが間違えている。
「騙してしまい、大変申し訳ありません」
ばつの悪そうな顔で、ビアトリクスが、扉を閉めた。
あらためて、そのふたりを見る。褐色の美女。その瞳は既に、夜の海に染まっていた。
背筋が、凍りついていた。
「改めまして、オーブリー・リュシアン・ダンクルベールの娘、リリアーヌ・ハハル・ダンクルベール・ベロワイエと申します」
「その妹、キトリー・ラティーファ・ダンクルベール・マニフィカです。リュリさん、アンリさん。どうぞこちらへ」
リリアーヌと、キトリー姉妹。
ラクロワは、ビアトリクスがカウンターの方へ連れて行った。何故、自分も。そう思いながら、促されるまま、正面に並んで座った。
ほんの少し、お腹の大きくなったインパチエンスが、グラスをふたつ持ってきてくれた。ティナには白。自分のは、ノンアルコールのカクテルである。
「お申さ訳ながんす。どうか、お許しえって下んせ」
こちらも、無念、という表情だった。
「国家憲兵警察隊本部、中尉。ファーティナ・リュリと申します」
ティナは、落ち着いた様子だった。むしろ、怒りすら見える。ビアトリクスたちを使ってまで、何をするつもりか。
「もしよろしければ、旦那さまの姓を、お伺いしても?」
「いわゆる、事実婚です。籍は、入れておりませんもので」
「ラ・ラ・インサル。あるいは、ゼーマン?」
リリアーヌ。静かな声。
ふたり、固まった。まさか、見抜いた。
すっと、立ち上がる。ヒールの鳴る音。リリアーヌが、自分たちの後ろに回った。
「第三監獄が軍総帥部の急進派によって襲撃され、閉鎖になった。機密の都合、場所名は報道に出しておりませんが、私、内務省に勤務しておりますので、存じておりましたの」
口元だけで微笑みながら、キトリーが並べた。
「第三監獄に収監されることは、死を意味する。それは、その後の一切について、公表されないから。その第三監獄が閉鎖になって、収監されていた囚人たちが、他の監獄に移送となった。死んだ人間が、蘇った」
リリアーヌ。巨才の血。彷彿とさせる、静かで深い声。
「さて、過去の話になりますが、史上最悪の猟奇殺人を犯し、逮捕の際に抵抗、捜査官の応戦により死亡。その亡骸を第三監獄敷地内に埋葬された人物がいます」
キトリー。卓に両肘を立てて寄りかかり、両手を口元で組んだまま。
「名を、パトリシア・ドゥ・ボドリエール」
霹靂が、瞳に迸った。ティナの顔に、怯えが表れた。
ふたりは、見抜いている。そして、追い込もうとしている。ボドリエール夫人を、そして、シェラドゥルーガを。
「立ち返って、この国の人であるリュリさんの、ファーティナという名前。これはエルトゥールルの名前であり、この国では使われることはない。またアンリエットさんは貴女をティナと呼んだ。エルトゥールルには、愛称という風習自体がない。誰かが名前を、縮めた」
また、後ろから声。語りはじめに、若干、舌を打つような音が入る。
「女性の呼び方にこだわりがあるひとも、あるいは存在します。サラ・マルゲリット・ビアトリクス・ロパルツさんのご一族には、女性にサラと名付ける習わしがある。長い付き合いからそれを知り、マルゲリットから、マギーと呼びはじめたひと。生ける聖人たる聖アンリを、ただひとりの女性として、あえてアンリエットと呼ぶひと。そして、名も無きひとに、赤いインパチエンスという、花の名を授けたひと」
ヒールの音が、正面に回った。座るキトリーに、背を向けて。
「我が父、オーブリー・リュシアンです」
振り向いたリリアーヌの、雷鳴のようなひと言。
「ですが、死人の生きる第三監獄とはいえ、ボドリエール夫人は土の中。まして生きていたとしても、あれから二十年以上も経っている。きっともう、お婆ちゃん。貴女のような年若く、麗しいご婦人であるはずもない」
ふたりとも、少し首を傾けたまま。言葉の途中、ほんの少しだけ出した舌で、唇を湿らせながら。
「ただ、ボドリエール夫人にはもうひとつ、知られた名があったのもまた、事実」
もう、ひと言も発せない。身じろぎすら、許されていない。ふたりのダンクルベールが、許してはくれない。
「それこそは、血塗られた悪魔。シェラドゥルーガ」
事実を告げるのは、キトリー・ダンクルベール。
「無論、実在するわけがない。お伽噺の存在。ただ、実在することを仄めかした人物がいる。それもまた、ボドリエール夫人。“湖面の月”の、本当のはずれで、それは記された」
キトリーも、立ち上がった。ふたつの長身が、卓の両端に並んだ。
「シェラドゥルーガは、生きている」
真実を。リリアーヌ・ダンクルベールが、傲然と。
「我らが父祖の地たるエルトゥールルの、それも我らが祖母の名を戴き、配属直後に愛称が通っている、ティナさんこと、ファーティナ・リュリ。父が信頼を置き、また打ち倒したボドリエール夫人こと、シェラドゥルーガ。オーブリー・リュシアンというひとりの男で、そのふたつを結びつけるのは、いくらなんでも無理がありますよね?」
「あら、ティナさん。どうなさったの?その目、その表情。怯えている。何かを、隠している。でもご安心下さい。私どもは、ただの主婦。捜査権も逮捕権もない、一般人です。だからこれは、ただの世間話。怯える必要なんて、何も無いでしょう?それでも、怯えている。きっとこの状況で、隠すべきものがあるのでしょうね。ああ、気になりますわ」
震えるティナの顔を、微笑みながら覗き込み、ふたりのダンクルベールはまた、後ろに回ってきた。
ヒールの音。合わせたようにして、止まる。
「神妙にすればそれでよし。そうでないなら」
後ろから、リリアーヌの声。すっと一枚、差し出される。
「こちらにお名前のご記入をお願いいたします」
キトリーの声。内容を読んで、顔に熱が上った。
婚姻届。夫名欄、証人名欄の二名分が、記入済のもの。
ティナを見る。蒼白。完全に、追い詰められた。
「お二方。もう、そのあたりで」
「お黙りなさい」
見ていられないという風に割り込もうとしたビアトリクスに、リリアーヌが吠えた。それで、あの峻烈なマギー監督が黙り込んでしまった。
「ご覧の通り、父は自供済みです。ボドリエール夫人、そして、朱き瞳のシェラドゥルーガさま。あるいは、スプリクチェンコでも、ケンタロウ・キタハラでも、袁季鮑でもよろしくてよ?」
キトリーの、淡々とした口調。左から。
「父の意気地のなさと甲斐性のなさでつらい思いをされてきた。ただ一筆で、国家という構造が、貴女の願いを叶えてくれる。これは第二のガンズビュール。男と女。逢瀬を遂げる、またとない機会です」
右から、リリアーヌ。蠱惑的な、甘い囁き。
「ちょうどこちらに、ヴァーヌの助祭さまもおられることです。神たる父と、御使たるミュザ。そして、氷河の原を切り拓いた、双角王の名に誓い。生ける聖女、アンリエット・チオリエ・オーベリソンさまも、きっと、貴女の恋路を見届けて下さることでしょう。ねえ、アンリさん?」
いつの間にか、自分も巻き込まれていた。しかもどうしてか、カスパルお父さんの娘になったことまで知っている。仲人になれとでも、いうのだろうか。
いくらかの、沈黙の後だった。
「アンリ。あれを」
ぼそりと、ティナが呟いた。
眼を覗いた。覚悟の色。ゆっくりと、頷いた。
立ち上がって、カウンターの奥の、酒棚。酒の種類も銘柄もわからないが、ひとつ、ふたつは知っている。あった。透明な瓶の、透明なお酒。ラベルは、青。衛生救護班でも、たまに使うもの。未開封。これでいいはず。
それをティナの前に置いて、カウンターに飛んで逃げた。
眼鏡を取り、蓋を開ける。座ったまま、それを喇叭で、少しだけ口に含む。そうして口を離した後、瓶を、軽く回す。それで瓶の中に、渦ができる。
それを一気に、傾けた。
ウォッカの一気飲み。夫人の、腹を括るときの定型である。少ない喉の音だけで、それはすぐに空になった。久しぶりに見たので、圧巻だった。カウンター側にいたビアトリクスたちは、唖然としていた。
そうした後、一息入れて。
「神妙にいたします」
ティナの顔は、卓に突っ伏してしまった。
咆哮。歓喜の、鬨の声。リリアーヌとキトリーが、抱き合った。そうした後、突っ伏したままのティナの体に、飛びついていった。
「やっぱり、ボドリエール夫人だったのね。苦節二十数年、ようやく大願成就よ。ねえ、キティ」
「ええ、姉さん。でもきっと、戸籍、無いでしょうから。本人証明できませんし。このまま事実婚で行きましょう。ねえ、お継母さん」
「本当に、申し訳ありません。それでご勘弁下さい」
顔を上げた夫人は、観念しきった様子だった。
あらためて、席と食べるものなどを用意しなおして、即席の婦人会みたいなものになった。
リリアーヌとキトリーが、色々と作ったものを持ってきてくれていた。インパチエンスのことを気遣って、ラクロワとビアトリクスと三人で、動いていく。
「夫人、そしてティナさん。そしてアンリとラクロワ。お疲れ様でした。本当に、騙してごめんなさい」
「マギー君、末代まで祟ってやるからな。こんなこわい娘を、ふたりも貰わないといけなくなったんだぞ」
「失礼しちゃうわね、お継母さん。私たち、家事は勿論、育児も介護も得手でしてよ?ちゃんとお父さんと、シャルロットおばさまに叩き込まれておりますから。ねえ、キティ」
「性格が両極端なのだけは、ご勘弁よね。姉さんったら、走り出すと、こんな感じで止まらないもんだから」
「何よ、キティ。今回は、あんたが先に気付いたんじゃない。人のせいにしないでよ」
「ああもう。我が愛しき人の教育方針に、文句をつけたい。ガンズビュールの時の数倍、おっかなかったよう」
絶世の美貌をへとへとにくたびれさせて、ティナがワインをちびちびやっていた。もう、どうなってもいいや、という感じすら見える。
「ガンズビュールのときも、こうやって詰められたんですか?そういえば、ご本人からは伺ってませんでしたもので」
「そうだね、マギー君。あいつ、わざと本当のはずれに引っ掛かりにきて、“犯人はシェラドゥルーガですよ”とか言い出したんだよ。そう仕向けたのはあったとしても、いやあ、おっかなかった。何とか巻き返して、ナイフぶち込んだまではよかったけど。ほら、これ」
「わあっ」
アンリ以外、驚愕の声を上げていた。
ティナが曝け出した、首筋に残った歯型。皆、興味津々というか、いけないものを見たようにしていた。自分は何度か、見せてもらっていたが、何度見ても淫靡なものを覚える。
「いいなあ」
インパチエンスだった。赤いまま、難しい顔をしていた。
「あたくしも、そういうの欲しい」
「ちょっと、インパチエンスさん?」
「お坊ったら、意気地無しでがんすから。大事にばっかりされて。あたくしだって、そういう徴が欲しがんす」
「まあ、継娘もできたことだ。これはもう、要らないや」
はにかみながら、その歯型に手を伸ばした。
ちょっとしてから離すと、綺麗さっぱり。美しい、白い肌だけが残った。
「ああっ、勿体ながんす。せっかくの、お舅さまの徴が」
「お父さんへの未練で残してたのねぇ。お継母さんったら、やっぱり情熱的なひと。リリィ、嬉しいですわ」
「人でなしって、便利ねえ。それで二十数年、姿かたちが変わらないわけなのね。私、体型が変わりやすくってさあ」
「あんたは飲み過ぎ、食べ過ぎよ。その歳で腹が出たらどうするのよ。ご覧なさい?インパチエンスさんとかアンリエットさんとか。いつ見たって、すらっとしてるじゃない」
「ああいえ、私は、その」
「アンリさんね。腹筋、割れてるんですよ」
ラクロワが、からっとした顔で漏らした。思わず、その口を塞いでしまった。
「本当?かっこいいじゃん。筋肉女子だ。見せて、見せて」
「やめなさい、キティ。でも凄いわねえ。マレンツィオおじさまも言ってたわ。前に具合悪くした時、アンリエットさんが担ぎ上げたんでしょう?あんな小さなこに持ち上げられて、びっくりしたって。そして、おかげで助かったってね。もうずっと、褒めてばっかりよ」
「アンリ。あのデブ担いだのかよ?とんでもないなあ。腰とか、痛めなかったかい?ありゃあ相当、重かったろうよ」
「“颪”のときよね。セルヴァン閣下も驚いてらっしゃったわ。凄いものを見たって」
「義姉さまの心と体は、人を救うために、強くなったものであんすものねえ。えらい、えらい」
そうやってインパチエンスに抱きつかれ、皆に腹を触られて、きゃあきゃあと言われた。
人を救うための、心と体。これが聖アンリとしての、炎の冠。そう、思うことにした。
我が愛しのミュザさま。謹んで、お恨み申し上げます。
「そういえば、我らが自慢の息子たるルイソンはどうしたんだい?まさか、この企みに協力していたとは言うまいよね?」
「カンパニュールとコロニラと一緒に、お舅さまを慰めに」
どうやらペルグランどころか、店員ふたりも巻き込まれていたようだ。おっとりさんな聞き上手のカンパニュールと、元気な話し上手のコロニラもいれば、ダンクルベールも落ち着くだろう。
「ごめんなさいね、インパチエンスさん。ちょっと言い過ぎちゃったかも。お父さん、しょんぼりしちゃったから」
「リリィ、キティ。どれだけ脅したんだい?というか、今朝のお風呂で会ってから、思いついたことだろう?手際が良すぎるだろうに」
「突貫工事も突貫工事よ。子どもたちをおじさまのところに預けて、婚姻届取りに行って、お父さんを問い詰めて、マギーさんたちにお願いして、ここを用意。後はぶっつけよ」
キトリーがグラスを傾けながら言った言葉に、インパチエンスとビアトリクスが目を逸らした。この女傑ふたりを従えるとは、どれほど恐ろしいお願いだったのだろう。
「キティの情報が発端よね。お婆ちゃんの名前と、第三監獄閉鎖の情報。お父さんのくせは、私のほうが思いついた。後は、お父さんの成績がガンズビュール前後で変化がないことから、ボドリエール夫人に相当する協力者がいるっていう推測。シェラドゥルーガの実在だけは、賭けだったわ」
「生きてたとしてもお婆ちゃんだろうなって、諦めてたのよね。でも会ってみたら、小さい頃に見た、夫人のまんまだったからさ。姉さんとふたり、腹を決めたわよね」
「思い立ったが吉日ですもの。ああ。でも気を詰めて、疲れちゃったわ。ねぇ、キティ」
「本当。あのシェラドゥルーガ相手ですもの。殺されるかもしれないって、こわくてこわくて。ねぇ、姉さん」
ふたり揃って、わざとらしいぐらいのため息をついた。まったくそうは見えなかったのだが、本人たちが言うなら、そうなのだろう。周りのみんなも、苦笑いだった。
「そういえばお姑さまは、お舅さまの、どこに惚れあんしたのですか?」
インパチエンスの、意地悪そうな顔での問い。ちょっとの間を置いて、ティナは目を逸らしつつ、顔を赤くした。
「一目惚れ」
おお、と声が上がる。
若かりしダンクルベールには、この傾城が心を奪われるほどの、何かがあったのだろうか。皆、どこが、どこがと、問い詰めあった。
「かっこよかった。背が高くて、笑顔が素敵で、声も綺麗。リリィが産まれてすぐのころだったよ。でもあいつ、道に迷ったふりして訪いに来ただとか、手の甲にベーゼのふりだとか、勘違いさせるような事ばっかり。本当、ひどいやつだ」
「もしかして、メタモーフ事件ですか?狙いが、ボドリエール夫人の唇だったってやつ。それをティナさんの眼の前で、課長が捕まえたんですよね」
「ちょっとだけ違うなあ。でもこれ、話題にすると、あいつが来そうだから、また今度だ」
そのげんなりした声を聞いて、ビアトリクスとふたり、笑ってしまった。
神出鬼没の悪戯好き。確かに、潜んでいてもおかしくはない。
「そういやそのときって、髪、あったの?」
キトリーだった。確かに、ちょっと気になっていた。ダンクルベールは、あえて髪を剃り上げていた。
「もう剃ってたよ。髪質がもじゃもじゃなんだってさ。押しに押して、本人の口から言わせたけど、腹抱えて笑っちゃったよ」
「そう、それそれ。うちのふたり目に、受け継がれちゃってさ。もう、ブロッコリーなのよ」
キトリーの言葉に、ティナが吹き出した。
確かに、ひとりいる。お孫さん四人。パトリック・リュシアンみたいに、さらさらか、いくらか癖があるぐらいなのに、ひとりだけブロッコリー。目元も見えないくらいの、もじゃもじゃ頭。
「それでも一目惚れするって、相当だったのねぇ。アドルフさまも、よく言ってらっしゃったなあ。よう、リリィ。リュシアンは若い頃も、すっげえ、いけてたんだぜ?」
リリアーヌの、誰かの声真似。喉を嗄れさせた声に、ビアトリクスが嬉しそうな顔をした。
「それ、もしかして、コンスタン教頭ですか?」
「そうそう。アドルフ・コンスタンさま。私の初恋の人。あの人、あの不良っぽいところが、最高に素敵でねぇ」
「そうだったんですね。士官学校時代の、教頭だったんです。後に校長になってね。確かに格好良かったなあ。不良中年。それこそ、課長ぐらいの背があって、それでも痩せてて。足も細くて、すっごい長いんですよ」
「白髪交じりの癖っ毛を後ろに流して、山羊みたいな髭、生やしてねぇ。よく遊んでもらったな。あの目も、がらがら声も大好きだった。ぶっきらぼうだけど、優しくってさ」
「見た目は抜群だったなあ。ちょっと素行不良が過ぎたけど。猫背で、のしのし歩いてきて。よう、ボドリエール夫人。やっぱあんた、綺麗だね。山奥の湖みたいだ」
やっぱりティナも同じように、がらがら声。ビアトリクスとリリアーヌ姉妹が、きゃあきゃあと盛り上がっている。一方で、ラクロワとインパチエンスと三人。きょとんとしてしまった。笑いながら、ティナが説明してくれた。
飲兵衛の殿さま、アドルフ・コンスタン。ダンクルベールの、奉公先の三男坊。上官にして、恩師。ダンクルベールは、今のペルグランのような、鞄持ちだったそうだ。そのひとの薫陶を受け、後を継いだから、ダンクルベールもお殿さまなのだとも。
「士官学校に、酒と煙草、持ち込んでねえ。なあ、ビアトリクス。黒に赤は、ちょっと派手かな?どきっとしちゃった。それで、それなら私、口紅、赤にしようって、決めちゃって。うわあ、恥っずかしい」
「監督さまも、乙女であんすねえ。でも、そんたな意気なこと言われたら、無理もながんすもの」
「そうそう、本当に気障でさあ。特にお父さんに対してはもう、ぞっこんなの。リュシアン。お前のその名は、俺のもんだぜ。他のに呼ばせてみな。お前もそいつも、横っ面、叩いてやるよ。俺みてぇによ。お前に一目惚れして、とことんお前に惚れ抜いて。そうでもしなきゃ、許さねぇからな?」
「本当にへそ曲げるからね、あの飲兵衛。私もリュシアンって呼ばせてもらえるまで、相当かかったもんさ。よう、夫人。とことん、リュシアンに惚れな?惚れて惚れて、惚れ倒して、どうにもなんなくなって、そこから出てきた言葉が、リュシアンって言葉なら、それでいい、ってさあ」
「本当、格好よかったわあ。そうそう、お継母さん。私ね。長男の名前、パトリック・リュシアンっていうの。お継母さんとお父さんの名前から貰ったのよ」
「ちょっと、リリィ。何、勝手なことしてるんだよ。あれかい?これから私、継孫のこと、自分とあいつの名前で呼ばなくっちゃいけないのかい?」
「お姑さまはもう、ティナさまであんしょ?ほしたら、それでえがんすえ」
「良かあないっ。お前は本当に、生意気な嫁だなあ」
四人の嗄れ声の物真似を聞きながら、嬉しくなった。
リュシアンの名付け親。それも酔っ払って、若かりし褐色の巨人の名も聞かず、一方的に呼びはじめた。子どもの頃に飼っていた、犬の名前。でもそれを他の人が呼ぼうとすると、途端に不機嫌になる。あのブロスキ男爵マレンツィオすらも、マレさん呼ばわり。自分勝手で、破天荒で、滅茶苦茶な人。
そして、素敵な言葉を使う人。惚れる。世界。夜の海。言葉のすべてが、ひとつの詩のようなひと。フェリエにデッサンという渾名を付けたのも、そのひとらしい。
「お坊も、そのぐらい良振りこきだったらえがんすけどねぇ。あのこ、こればっかりは、どうしても野暮で」
「ペルグランくんは、かっこいいですってば」
「あらあら、未練たらたらじゃん。ラクロワ」
ラクロワが荒げた言葉に、ビアトリクスをはじめ、皆で笑った。このふたり、かつての恋敵ではあるものの、大の仲良しである。
ペルグランを男と夫と父にしたのがインパチエンスだが、私から俺にしたのはラクロワである。そこに関してラクロワは仄かな優越感を持ち、インパチエンスはささやかな嫉妬を抱いていた。現在はおあいこで落ち着いているが、刺激しないことに越したことはない。ルイちゃんにしたことは、もうしばらく黙っていよう。
「それで?これからもお継母さんは、ファーティナ・リュリなの?」
「そうする。パトリシア・ドゥ・ボドリエールも、シェラドゥルーガも、もうおしまい。色々、ひと区切りさ。どっちも、いい経緯で付いた名前じゃないしね」
リリアーヌの問いに、一拍置いて。
憑き物が落ちたような顔だった。不老長寿の人でなし。その、新しい人生。それが、ファーティナ・リュリ。国家憲兵警察隊、資料室室長のティナさん。あのオーブリー・リュシアン・ダンクルベール本部長官の後妻で、ふたりの継娘に四人の継孫もちの、若奥さま。
「お父さんもなんか、あれよね。まさか自分の母親の名前、寄越すなんてさあ」
「キティ。私は、あいつのそういうところが、好きなんだ」
恥ずかしそうに笑った。それが、とても素敵だった。
「素敵。これからもよろしくね。お継母さん」
「はいはい。よろしく頼むよ。我が愛しのリリアーヌ。そして我が愛しの、キトリー」
ふたりの娘に抱きつかれて、やはり観念したように、ティナさんは笑っていた。
ひとつの家族のできあがり。涙なんてひとつもない。ずっと笑ってばっかりの、継母と、娘ふたり。
隣に座ったラクロワとふたり。笑っていた。
次の日、やっぱり立ち寄ってしまった資料室で、ティナと雑談していたところ、大男ひとり、やってきた。
旦那さま。ダンクルベール。厳つい顔を、しゅんとさせていた。こちらもきっと、相当にこわい思いをしたはずだ。
「娘たちが。その、すまないことをした」
どもりながら言った言葉に、ティナがはにかんだ。
「いいよ。ちゃんと、お継母さんになったから」
「そうか。俺も指輪、するべきかな?」
「いらないよ。アディル」
とびきりの笑顔。その名前に、ダンクルベールがぎょっとした顔になった。
「おい、それ。どこで」
「それが指輪代わり。お昼行こうか、アンリ」
けらけら笑いながら、手を取られた。ダンクルベールは呆気にとられたまま、動けないようだった。
別棟から出たあたりで、左手の薬指にはめられたそれを、ティナは躊躇いなく、外してしまった。
「これで、お揃い」
まるで手品のように、握られていた手の中にあったそれは、消えてしまった。
「ミドルネームを隠してた。そんなあいつへの、ちょっとした“悪戯”さ」
そうして、ふたり。笑いあった。
それは確かに、あの婚姻届に書かれていた。
アディル。オーブリー・アディル・ダンクルベール。ダンクルベールの、戸籍上の、本当の名前。
それがきっと、最後の隠し事。そしてふたりの、目には見えない、結婚指輪。
このひとは、ファーティナ・リュリとして、生きていく。
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ああいや。どうも、先生。お邪魔します。
いやあ。お陰さまで、大好評ですよ。“ダンクルベール物語”。重版出来も重なりに重なって。本当、一気にうちの、稼ぎ頭ですわ。デビュー作で、ミリオンも見えるだなんてねえ。
いやしかし、題材の妙につきますよ。百何十年前の、国家憲兵隊警察隊本部長官だなんて、誰も思いつきませんって。歴史の教科書にも書かれていない人ばっかり。それなのに、この現実感溢れる描写。このダンクルベールって人の、生い立ちから、立身出世、そして退役に至るまで。まるで見てきたように書かれている。登場人物も本当に、緻密で多彩。セルヴァン閣下、ルイソン・ペルグランさま、それに聖アンリ。アンリさまって、あのあたりの時代の人だったんですね。へへ、私の故郷の有名人なんですよ。それでもまあ、ほんのちょっとが、残っている程度ですがね。いやあ本当、史実と脚色のバランスが絶妙。見事としか言いようがない。新人とは、まるで思えませんなあ。ベテランじゃないと、ここまで上手に書けませんって。
でも、このボドリエール夫人ってのは、悪いやつですねぇ。今でも著作は残っていますが、まさか凶悪殺人犯だったなんて。しかも動機が、ダンクルベール氏を愛していて、しかもその人と添い遂げたいから、殺したい?本当の精神病質者じゃないですか。ひどいやつもいたもんですよねぇ。あら先生、ちょっとこわい顔して、どうなすったんです?ああいえ、気分を害したようであれば、本当にすみません。
ただね、論評でもありましたが、最後のほうがちょっと、尻切れ蜻蛉というか、なんかこう、淡白ですよね。まあ、史実が元だっていうのはありますが、もうちょっと脚色入れてもよかったかなあ、なんて。編集の私が、今更言うのもなんですが。あとちょっとこう、後半になるにつれ、ファンタジーというか、オカルトとか、そういう感じでねえ。それこそ“シェラドゥルーガ”だなんて。お伽噺に出てくる妖怪とか、山姥みたいなもんじゃないですか。本当にいたんですかあ?
え?会ったことがあるって?いやいや、ご冗談を。先生。そういうのは、よくないですよ。次回作はホラーですか?それもいいと思いますね。“シェラドゥルーガは、生きている”。なんちゃって。へへ、きっと馬鹿売れしますよ。ねえ、先生。
先生、どうしました?そんな顔して。どこか具合でも?
先生?
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(おわり?)
Reference & Keyword
・棒の哀しみ / 北方謙三
・蒼天航路 / 王欣太
・B's River / Marcus Miller
・カラスの冷めたスープ / 藤井フミヤ(作詞:チバユウスケ)
・STRIPPER / The Birthday
・ゲリラ / The Birthday