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シェラドゥルーガは、生きている

「なあ。この水面みなもに移る星々こそ、魂のほんとうの居場所だとは思わないかい?」

「あら。こんな時に、素敵なことをおっしゃるのね」

「夜空の星に手は届かない。でも、この水面みなもの星になら手が届く。ふたりで、そこに行けるよ」

「ならわたくしは、月になりたい。我が儘かしら?」

「すべて、君の思うがままに。我が愛しき人」


パトリシア・ドゥ・ボドリエール、著

“湖面の月”より

1.


 店を開けようとした途端、雨が降りはじめた。またか、という表情で、夫婦ふたり、顔を合わせてため息をついた。

 もとより長雨の季節ではある。それでも、今年は随分と降るように感じた。水害になっていないだけありがたいと思うべきか。

 地方はいざ知らず、首都近郊は治水計画の見直しにより、だいぶ水捌けがよくなった。店の前が川のようになることもなくなったし、乾季に水不足になることを心配することもなくなった。政治家というのは、たまにはいい仕事をするものである。

 それよりは、辻の天気読みとかいう連中だ。道端をうろついて、小銭をせびっては、適当なことしか言わない。昨日、両替するのを面倒くさがった分を渡したら、満面の笑みで、明日は快晴だと踊り狂っていたが、この有様だ。まったく、帳簿を書く身にもなってほしい。

 ああくそ、国家憲兵どもめ。ああいう手合いも詐欺師の類として引っ捕えてくれないものかね。

「あれえ、憲兵さんたちだよ。お前さん」

 そんなことを毒づいていたら、ひと回り太くなった腹回りを揺らしながら、女房が声を上げた。言った通り、長雨滴る石畳の向こうから、規則正しく軍靴の音が響いてきた。

 数にして三十名程度。先に五騎ほどが駆け抜けた後に、ざっざと足音を立てながら、進んでいく。

 雨の中だが、傘は差さない。深緑に染まった、頭巾フード付きの外套は、降り頻る水滴を面白いぐらいに弾いていく。

 綿織物の上に、蝋入りの油を塗り込むことで、水を弾くようになっている。昔から油合羽あぶらがっぱと呼ばれているものだが、漁師町の若い衆が好んで羽織るような、野暮ったい作業着である。

 兵隊連中、まして民衆の前に姿を見せることが多い国家憲兵隊が制式採用すると聞いた時は、あの連中、ついに頭がおかしくなったのかと思ったものだが、今となっては見慣れたものになっていた。時間というものは恐ろしい。

 この国において、油合羽あぶらがっぱといえば国家憲兵。その中でも、首都近郊の犯罪捜査を担当する警察隊本部を差す言葉として通じるようになってしまっていた。

「近くかねえ。とすると、今日は客が来ないかもねえ」

「もとよりこの雨さ。朝めしを食うような連中も仕事をさぼりたがるだろう。ちょっと言って、見てこいよ」

「いやだよう。どうせ人死にだろう?死人なんか見て、何が楽しいもんかよ」

 女房が顔をしかめながら店の奥に戻っていった。客が少ないだろうとはいえ、鶏肉の煮込みか何かしらの用意はしておく必要がある。

 雨音の中に、がらがら、という音が混ざった。

 歩兵の後ろに、ゆったりとした速度で、一台の馬車が続いていく。簡素な作りだが、しっかりと屋根がついていた。

「ご覧よ。ダンクルベールの殿さまだ」

 思わず声に出していた。

 女房が、慌てた様子で奥から走ってきた。その頃には、馬車はすでに店の前を通り過ぎてしまっていた。

「あやあ。今回も見そびれちまったよ」

「好きだねえ、お前も。俺というものがありながら」

「それはそれ、これはこれ、さね。ありがたいもんじゃないか。なんたって魔除けの案山子、ダンクルベールのお殿さまだよ。あの人のおかげで、この店だって、ようやく路地前に椅子を並べれるようになったじゃないか。あの人はねえ、商売繁盛の守護聖人なんだから」

 女房が額の前で、右手の親指と人差し指を擦り合わせた。ヴァーヌ聖教式の礼拝である。

 まあ確かに女房の言う通り、あの杖付きの大男が警察隊の重役についてからは、この国の治安も格別によくなったのは確かである。

 十数年前までは、このあたりだってひどい有様だった。

 年老いた娼婦と、傷痍軍人の物乞いと、乾涸びた死体が仲よく横になっているのが、当たり前の光景だった。うちのような流行らないめし屋だって、店を開くのにも勇気と度胸がいるぐらいの、語るのもおぞましいほどの治安だった。

 そこに颯爽と現れたのが、先の警察隊本部捜査一課課長にして、今はその本部長官たるオーブリー・ダンクルベールさまだ。

 貧民の生まれだとは聞いているが、相当に才覚が走る人なのだろう。盗人だろうが、ひとごろしだろうが、容赦なく取っ捕まえる。かつて巷を賑わせた怪盗や、なんとか夫人っていう凶悪すぎる殺人狂いも、この人の活躍で、お縄を頂戴している。

 一方で、訳ありの盗人なんかであれば、情けをかけて、密偵にして面倒を見てるなんて噂も立っているほど、立派なお人だ。

 おかげさまで、こんな通り外れでも安心して店を開けられるようになったのだ。女房のように、聖人のように持てはやす連中も少なくない。

 だが、そんなダンクルベールさまも、今や足を悪くした老人である。それが馬車まで出して現場に来た。つまりは、それぐらいのことが起きているということだ。

「いやあ、おはよう。今日もひどい天気だね」

 常連のひとりが店の中に飛び込んできた。この辺りにたむろしている、日雇い稼ぎの中年である。

「やあ。今日みたいな日でも、真面目に仕事かい?」

「そんなもん、後回しさ。野次馬っていう副業がある」

 運ばれてきたスープに、黒いものが多いパンを浸しながら、常連さんはにやにやと答えた。

「さっき憲兵馬車が通ったもんでね。お給金より、話の種の方が金になる」

「とっつぁんも目ざといねえ。どうせ憲兵さん相手に、ある事ない事吹き込むんだろ?」

「馬鹿言うんじゃあねえよ。立派な捜査協力さ」

 げらげら笑う常連さんに、安物の白をグラスに注いで渡してやる。いやいや、どうも、と言いながら、常連さんはそいつを一気に飲み干した。てきぱきと食事を片付けてから、外套から小銭を相当分取り出して、足早に去っていった。

 大事にならなきゃ何よりだがねえ。そんなことを思いながら、まずは自分の店をどうにかすることを考えることにした。


2.


 現場に到着してからは、やるべきことを順々にこなしていく必要がある。

 雨が降っているなら、まずは自分の油合羽あぶらがっぱ頭巾フードを立てる。足元が滑らないことを確認しつつ、馬車の扉を開けて先に出る。前後左右の確認。馬車周辺に異常がないかの確認。そうしたら、あらためて御者に停止の合図を出して、馬車の入り口まで戻る。そして中に残っている人の足元に気をつけながら、その手を取って、馬車の外に導く。雨の日は、傘が必要かどうか先に聞いておく。このひとの場合、大体は、不要だ、の一言で終わるが、確認しておくに越したことはない。

 そうやって馬車からゆっくりと導き出したのは、大男である。

 見上げるほどに背が高く、分厚い。深い褐色の肌。おそらくは剃り上げているであろう禿頭。そして顔半分を覆う、短く刈り揃えた白髭が、肌の色と対比されて目立っている。大きな体の割に小さく、少し落ちくぼんだ青色の瞳。その周囲を、峡谷のような皺がいくつも走っている。

 そういう、男だった。

 ダンクルベールは左手に持った杖を鳴らしながら現場に降り立った。それだけで、先に現場に到着していた警察隊の空気が引き締まる。

「さて、ペルグラン。見るべきものを見ていこう」

 言われてペルグランは、思わず固い返事をした。

 自分のおよそ三倍は生きている人間である。存在感が違った。行き交う先輩隊員たちが視界にそれを収めるなり、居住まいを正して敬礼する。それに対しダンクルベールは、手でそれを制する。そのまま、そのまま。形式で仕事を邪魔することは本意ではないと本人も常々言っている通り、あまりそういうところにはこだわらない。

 杖をついた、いくらかに足を引きずった老人ではあるが、歩幅は大きい。早足でなければ置いていかれる。

 この雨足でも、ダンクルベールは頭巾フードを被らなかった。長くなるようなら、自前の黒いフェルト帽を被る。それぐらいである。

 はたして被害者は、大通りの脇に、棄てられるようにして横になっていた。

 妙齢の婦人である。

 顔立ちや着ているものから、なんとかして中流家庭に嫁げたといったぐらいか。目は閉じ、眠るように。この雨で化粧は落ちていた。

縊死いしですな」

 先に現場に到着していたウトマンが言った。自分が着任する前にダンクルベールの副官を勤めていた人である。今は花形である捜査一課の課長を任されていた。

「それにしても下手です。力が足りないのか、縄の締め方がわからなかったのか、首筋に、ほれ、爪の跡。こんなに」

「ひどいもんだな、可哀想に」

 底からひねり出すような声で、ダンクルベールがうめいた。杖突きなのに、雨の中、跪く。そうして女の頬に手を添えていた。

 周囲を見る。野次馬を押さえ込むゴフたち。雨の中、這いつくばって、何かないかと目を走らせる一課の先輩。

 そして、部下に傘を差させてまで、犠牲者の様子を素描する、ひとりの軍警。

 フェリエ。それよりはデッサンという渾名で知られる男。自分や他の連中は、死体画家なんて、ひどい呼び方をしていた。

 正直に、この人をあまり好いてはいなかった。

 誰よりも先に現場に来て、死人の姿を絵に描いていく。繊細に、というより執拗に。雨の日は、今日みたいに、部下に傘を差させてまでそれをする。見た目なんて、下膨れの瓶底眼鏡に無精髭。両の手はいつだって、炭やパン屑で汚れていた。

 いつ見たって、悪趣味な男だ。内心、そう毒づいていた。

「ペルグラン。何か見えるかね?」

 おもむろにダンクルベールが訪ねてきた。

 言われて、あらためて犠牲者の周辺を見る。ずぶ濡れの、首を締められた女。それだけである。

「雨で全部流されています。証拠はないでしょう」

 思ったことを正直に言った。

「もそっと近づきなさい。人の目は、そこまでよくない」

 穏やかだが、たしなめるような口調だった。正直むっとしたが、言われた通りにすることにした。

 死体に近づく。着任からおよそ一年、それなりに死人を見てきてはいるが、やはりまだ慣れない。どうしても汚いものとして見えてしまう。

 ふと、違和感を感じた。死体の背中に手を回し、少しだけ持ち上げる。

 背中に、藁が付いていた。

「荷馬車で、ここまで運ばれてきたんでしょうか?」

「そうだな。つまりは、ここは犯行現場じゃない」

 ウトマンの手を借りながら、ダンクルベールがのっそりと立ち上がった。それに合わせて、ペルグランも急いで立ち上がる。

「気持ちはわかるが、面倒臭がるのはよくない。になる前に直しておきなさい」

「はっ、申し訳ありません」

 言われて、形式通りの敬礼と謝罪を返した。それを見たウトマンは、心配そうにこちらを見ていた。

 お互いにまだ、よそよそしいところがある。それは承知の上だった。

 両親が無理を通して、ダンクルベールの副官として、自分を当てたのだ。それもベテランのウトマンを押し退けてまでである。

 ペルグランとしては、元々は別の役職を希望していたし、ダンクルベールも、士官学校を卒業したばかりの若造を押し当てられて、面倒に感じているだろう。それでも向こうが大人なところを見せて、なんとか自分を受け入れようとしてくれている。

 その心遣いをありがたく思う一方、迷惑にも思えていた。

 後から来たもう一台の馬車に犠牲者を押し込んで、もうしばらく現場を見て回って、それで終わった。途中、野次馬連中とゴフが取っ組み合いになりそうになったのを、ダンクルベールじきじきのお説教で場を収めるという、ちょっとした騒動はあったものの、順当に終わった。

 さて、帰るときは、行きとは逆の手順で、ダンクルベールを馬車に押し込める必要がある。これもまた、形式通りに馬車の周囲を確認し、自分の油合羽あぶらがっぱに残った水滴を払ってから、ダンクルベールの手を取った。

 これで、三人目。

 馬車に乗り込むとき、ダンクルベールが小声でそんなことを言ったのを、ペルグランは聞き逃さなかった。


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 コルカノ大陸西部に、小さな島国がある。

 国土は小さいものの、降雨量の多い温暖な気候と、緩やかな丘陵、そして急峻な山脈地帯から流れ出る清流が、豊かな農作物や果樹、数多くの海産物を産出する、楽園のような大地である。

 その一方、そこは“政争の国”と揶揄やゆされるほどの、絶えることのない情勢不安に悩まされ続ける国でもあった。

 もともと各地方の豪族、名主たちが、絶え間なく勢力争いを続けていた。そこにかつての大国、ヴァルハリアが侵入した。ヴァルハリアの名門貴族が王となり、圧政を敷いていたが、相手は歴史の大半を抗争に費やした、歴戦の猛者である。時には自ら王を僭称せんしょうし、時には民衆を煽動せんどうし、そして敵の敵は味方とばかりに合従がっしょうし、王侯貴族と衝突を続けた。

 くわえて時代が降ると、文明の近代化に伴い、海運業を担っていた豪商の影響力が強くなりはじめる。対してヴァルハリア本国にて宗教革命が発生し、国教たるヴァーヌ聖教がなかば死に体となったことで、王の絶対性もまた揺らいだ。度重なる叛乱と民衆蜂起により、王侯貴族が折れる形を取り、国民議会の制定を確約した。

 それは、民衆の代表という大義名分を掲げた豪商たちが、それまで手の届かなかった宮廷に乗り込むことを意味していた。

 そうしてここに、現在まで続く、地方豪族、王侯貴族、そして豪商という、終わることのない三つ巴の政争関係が完成したのである。

 宮廷がこの有様なら、市井はもっとひどい。政争に敗れた貴族、豪族たちが賊に身をやつし、あるいはより高度な犯罪組織へと変貌した。政治に不満を抱えた民衆たちは、今度は民主共和政の実現を掲げ、叫び猛りながら暴れ回っている。古代より延々と続く地方豪族同士の領土争いも、未だ燻り、時には火柱を上げている。


 そのような暴虐から無辜むこの市民を守り、助けるのが、内務省管轄の国家憲兵隊である。そして中でも、闇に紛れて凶行に走る恐るべきものたちに対し、昼夜を問わず、全身全霊をもって相対する勇者たちがいた。

 それこそが、国家憲兵隊司法警察局警察隊。各地方に配備される支部小隊。そして首都近郊の犯罪捜査を担う警察隊本部中隊を併せて一個大隊相当の、屈指の精鋭であった。

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3.


 実家は名家だった。

 曽祖父の代で大名乗おおなのりを上げた。立身出世の代名詞、ニコラ・ペルグラン。独立戦争時に艦隊を指揮した提督で、最近進水した戦艦にもその名が付けられたほどの人物である。

 祖父も父も、国防軍参謀、海軍重役などを歴任し、その後は貴族院議員として活動している。王族や他の貴族にも、女たちを何人も嫁がせている。

 そういう、華々しい家だった。

 だから自分も、そういう道を歩むと思っていたし、父親たちもそういう道を用意してくれるものと思っていた。

 それが変わってしまったのは、二年前の政変だった。

 実家を含む、王侯貴族のほとんどがひどい目にあった。父は早くに地方豪族たちに恭順する意向を示したが、それでも影響力のほぼすべてを失ってしまった。

 おかげで、確約されていたはずの軍総帥部の席も流れてしまった。

 その後、父がなんとか手を回して用意してくれたのが、国家憲兵警察隊本部の本部長副官という立場だった。

 正直に、不満だった。

 軍警になる気なんて、まったくなかった。雨の日も風の日も、死体だの泥棒だのと睨めっこなんて、やってられるか。

 着任してからしばらく、誰とも口を聞こうとも思わなかった。話すとしても、士官学校時代の同期であるガブリエリとかラクロワくらいだった。

 はじめての現場で、認識を改めさせられた。

 一家惨殺。屋敷の端から端まで、血と腹の中身で汚れていた。

 思わず、へたりこんでしまった。

 ダンクルベールは、そんな酸鼻極まる空間にずかずかと乗り込んで行って、数分もしないうちに犯人を探り当ててみせた。先輩たちが、ダンクルベールの言う通りに外に駆け出ていって、その日のうちに犯人は確保された。

 世の中にはすごい人がいる。そう思った。

 そこからは、必死だった。しがみつかなければ、追いつかなければ、置いていかれる。家柄なんて何ひとつ役に立たない。実力だけが評価される世界だった。

 ちゃんと周りを見渡せば、ダンクルベール以外にも、すごい人は山ほどいた。

 以前の副官だったウトマンは何でもできる人だったし、ゴフなんかは見た目通りの粗野な乱暴者だが、腕っ節だけで進んできたと豪語するだけあって、どんな悪漢相手にも殴り負けない、とんでもない強さだった。

 楽をしたいなら国家憲兵警察隊本部だけは絶対に選ぶな。士官学校で噂に聞いたとおりだった。

 くそったれ。やってやろうじゃないか。こうなったら、自分の力だけでのし上がってやる。こちとら立身出世の代名詞、ニコラ・ペルグランのお血筋だぞ。そんな気持ちが、日に日に高まっていった。こんなところ、ただの踏み台だ。のし上がって、自分の力で、高いところまで登ってやる。

「夫人に会いに行く。着いてきなさい」

 ダンクルベールがそんなことを言い出したのは、先の事件の現場検証報告書が仕上がったあたりだった。

 出発前、ウトマンには青い顔で、くれぐれも気を付けて、とだけ言われた。何のことだかはよくわからないが、ひとまず言われた資料を鞄に詰め込んで、馬車を手配し、それに乗り込んだ。

「仕事は、どうだ?ペルグラン」

 道中しばらくして、ダンクルベールは静かな声で問いかけてきた。

「着いていくのに必死です」

「今のうちはそうだろうな。数を重ねて、ようやく余裕が出てくる。根を詰めず、気長にやりなさい」

「長官のやり方は、数を重ねるだけでは、たどり着けないような気がします」

 ダンクルベールの捜査は、独特だった。

 証拠をあまり探そうとしない。そのかわり、そこで何が起きたのか。誰が、どう言う動きをしてきたのかを予測する。誰が、何のためにそういう行為をするのか。その必要があるのかを推察していくのだ。

 それがひらめきからくるものなのか、経験からくるものなのか、そうやって導き出される人物像は、驚くほど具体的だった。それと証拠を突き合わせると、個人を特定できる段階までの精度になる。たったそれだけで、仕事がひとつ片付く。

 捜査官というより、心理学者や精神科医のようだった。

 かつて同じ方法を試した人が何人かいるらしい。だが殺人犯という、常人とは異なる思考の持ち主の心理を推察すること自体が困難であること、またそれができたとして、それを理解、納得することはもっと難しい。ましてや共感するほどの理解をすることなど。そうやって、ほぼすべてが脱落するか、精神を病むかしたそうだ。

 それだけ強靭な精神の持ち主なのだろう。あるいは別の何かを持ち合わせている。それは、捉え方によっては、人の闇、というべきものかもしれない。

 そういうところが恐ろしく感じてしまって、ペルグランはこの老人のことを、心から信頼できていなかった。

「基本は、数さ。やり方はどうあれ、な」

 口数は、いつだって最低限だった。それでも十分に会話は成立する。

 不意に、思ったことを思ったままに聞いてみたくなった。

「長官は私のことを、どう思っていらっしゃいますでしょうか?」

「質問の意図がわからんな。もっと簡潔に」

「父は、ウトマン少佐殿を押し退けてまで、副官の座を用意してくれました」

「ああ。そういうことか」

 ダンクルベールは、自分の発言に対して、笑顔で答えた。

「せっかく時間もある。そういう時期だし、今のうち、今年の人事考課をやっておこう。ペルグラン」

 そう言って、とん、と杖を軽く鳴らした。

 広い額に、角ばったごつい顎。夕闇のような肌と、大きな顔そのものの割に、小さな瞳。

 夜の海。暗闇から、さざ波の音だけが聞こえてくるような。穏やかだが、どこまで深いのかわからない。落ちたら岸には戻れないだろう。どことなく、そんな印象だった。

 それが、こわかった。

「まず誤解を解いておくべきことだが、よいとこの坊ちゃんを押しつけられるなんてことは、よくあることだ」

 一息入れてから、ダンクルベールが語りはじめた。

「髭も生えていない若造に、そのような口を聞くとは何事だ。身の程を弁えんか、貧民めが。とかわめかれることなんて、恒例行事みたいなもんだよ。怒鳴りつけたらそれきり来なくなる。そういった手合いに比べれば、お前は優秀だ。何といっても士官学校次席卒。流石は、かのニコラ・ペルグランのお血筋だ。礼儀正しく教養があり、会話の受け答えにも問題がない。思ったことを思ったまま口に出すきらいがあるが、若いうちはそれぐらいが丁度いい」

「聞きたいのは、そういうことではありません」

「ウトマンと比べてどうか、というのを聞きたいのか?」

 憤りのようなものを抑えながら発した言葉に対し、ダンクルベールはつとめて穏やかに、そしてたしなめるように言った。

 ウトマンは極めて優秀な人だった。何をやらせてもそつなくこなす。そして、わからないことがないぐらい博識だった。何かが起ころうとも、ひとまずウトマンに任せようと白羽の矢が立つほどで、裏ではウトマン百貨店ひゃっかてんなんていう、ありがたいのか馬鹿にしているのか分かりかねるあだ名で呼ばれていたりもする。それぐらいの人だった。

 そんな人物と比べてどうかなど、たまったものではない。

 一度、落ち着こう。そう思って、深呼吸をした。

「いいえ」

「そういう、引くべきところは引くところも評価できる。まあウトマンにもそろそろ、人の上に立つ仕事を任せたいと思っていたところだった。だからお前が来る話が出てきたおかげで、あれをようやく捜査一課の課長にさせてやることができた。お互い、都合がよかったというわけだ」

「ですが、家柄とか血筋とか、そういうところでは見てほしくないのです。親の立場を利用して、副官の座を得た自分が言うのも、おこがましいことですが」

「ペルグラン。もうひとつ、誤解していることがあるな」

 割って入るように、ダンクルベールはペルグランの言葉を断ち切った。

「この国において、家柄というのは、何より重要な要素だ」

 重く、しっかりとした語気だった。目の色が、まさしく海の底のように、深く揺蕩たゆたっている。

「どれほどの才覚があろうと、どれだけ実績を積もうと、生まれが悪ければ登れる階段は低くなる。今の法では、俺やウトマンは、どう頑張っても大佐にはなれん。つまり、警察隊本部が今以上の裁量を得ることは難しいということだ」

 そこまで言って、ダンクルベールはため息をついた。どこか諦観ていかんを感じさせる、悲しげな表情だった。

「俺がある程度自由が効くのは、上役である司法警察局局長閣下と懇意にさせてもらっているからだ。本来であれば、悪さをする王侯貴族や地方豪族を相手取ることなんて、できるはずがない。もっと言えば、士官学校に入れるかどうかすら怪しい。俺の場合、奉公先のご子息さまに気に入られて世話してくれたからだ。それぐらい、俺の家は貧しかった」

 父親から聞いたことがあった。

 今の警察隊本部長官は、優秀だが、所詮は貧民の出だ。奉公先の坊ちゃんのおまけで士官になれたような、その程度のやつだ。今は中佐だそうだが、それ以上は登れん。すぐにお前の靴を舐めることになる。

 さげすむような口調だった。それを聞いた自分も、心のどこかで、この白秋はくしゅう手前の大男をさげすんでいたのかもしれない。

「お前のような名家の出身ならば、よほどの馬鹿をしない限りは、三十半ばで大佐か、あるいは少将ぐらいにはなれるだろう。上に立つものがそれほどの地位であれば、警察隊の裁量はもっと大きくなる。考えるべきことが少なくなる。つまりは、部下どもに苦労をさせなくてよくなる」

 つまりはそういう、大きなところまでも考えていたのだ。

 組織のため、国家のために働くには、それなりの箔がいる。それを自分は運よく持っていて、ダンクルベールは運悪く持っていなかったのだ。

 いろいろと、悔しい思いをしてきたのかもしれない。

「差し出がましいことを申し上げました」

「構わない。さて、お互いの腹も割ったところだし、もう一度、同じ質問をしよう。仕事はどうだ?いいと思ったところ、悪いと思ったところを、ひとつずつ挙げてみなさい」

「めしが美味いです」

 思った通りのことを口にした。それを聞いたダンクルベールは、楽しそうに笑った。

「そうか、そうか。量は足りているか?」

「はい。食べきれないぐらいです」

「温かいめしで腹を満たすのが、いちばん健康にいい。最近は士官でも下士官でも、あれを目当てに志願してくるものも多いと聞くからな。おくまさんにはちゃんと挨拶をしておきなさい」

 警察隊本部庁舎にしっかりした作りの食堂と厨房があったことは、ペルグランにとって大きな驚きだった。

 出てくるものは日ごとに変わる。どれもこれも庶民的な献立だが、温かく、量が多くて、とにかく美味い。パンも、黒いものが多いものの、滋味があって嬉しい。

 おくまさんとかいう、男みたいにがっしりとした体つきをしたおばさんが、昼夜を問わず厨房に陣取っていて、枯れた声で怒鳴り散らしながら、それでもてきぱきと仕事をしている。炊事場の戦乙女なんて呼ばれたりもしている、おっかない人だった。

 働くものこそよく食うべき。この国の地方豪族たちがよく口にする、一種の金言である。

 民衆に温かいめしを保証できないような領主は、すぐに焼けた屋敷の柱に括り付けられる、ということを、昔から経験してきたからなのだろう。今の司法警察局局長が地方豪族の名門出身であるからこそ、そういう部分には、相当気を遣っているということだった。

「いやだと思うことは、フェリエ中尉殿のことです」

 また、思った通りのことを口にしていた。

「正直に、好きではないです。死体をあんな風に、絵に描くなんて。趣味が悪すぎる」

 脳裏に、あの雨の日のことが浮かんだ。人に傘を差させてまで、死体の絵を描く男。不恰好で、奇怪で、不気味な男。

「デッサンか。他人からは、そう見えるかもしれんな」

「長官は、何とも思わないのですか?」

「描かせているのは、俺だからな」

「今であれば、映写機などもあります。それを使えば」

「デッサンの方が、安くて早い。そして精確だ」

 そう答えたダンクルベールの目は、至って真剣そのものだった。

 それを見て、これ以上、この話題を続けるのはやめよう。そう思い、かしこまりました、と小声で答えた。

「うむ。お前の課題は、目を増やすことだな。つまりは、ものの見方、考え方の数を増やすことだよ」

 しばしの間を置いて、ダンクルベールが口を開いた。口調は随分と柔らかくなっている。気に障ったところを何とか抑え、鎮めてくれたのだろうか。

をひとつ、教えておこう。まずは、己を型に嵌め込むことだ。そうすると、自分が思っている以上に隙間が多くて、慌てるはずさ」

「隙間、ですか」

「隙間を埋めていきなさい。そうして繰り返し、いろんな型に嵌め込んでいく。そのうち、余る部分が出てくる。それが長所だとか、個性だとか呼ばれるやつになる」

 言われたことに含蓄を感じた。きっとダンクルベールも、そうやってやってきたのだろう。信じていいのかもしれない。

「お前は真っ白い紙っきれだ。今はまだ、変な折れ目やがつかないよう、周りが見ておかなければならん。迷惑かもしれんが、人のことはよく見ておきなさい。人の話は、よく聞いておきなさい」

「かしこまりました」

「今は平時だ。軍総帥部だとか海軍本部なんぞより、こっちの方が退屈しなくて済むぞ?」

 ダンクルベールが、悪そうに口角を上げた。

 しまった。心の内を読まれていたか。ペルグランの背中に冷たいものが走った。それが顔に出ていたのか、少しして、ダンクルベールがまた笑った。これでおしまい、という感じの笑いだった。

 まだ少しかかる。本でも読んで、暇をつぶしておきなさい。ダンクルベールはそう言って、背もたれに体を預けた。

 言われて、居住まいを崩した。鞄に忍ばせていた本を一冊、取り出す。

 “ルシャドン伯の決闘”。自分が生まれたぐらいの頃に流行ったという、活劇ものである。子どもの頃によく読んでいたのを、前に書店に行った時に思い出して、つい懐かしくなって買い直したのだった。

 作者はパトリシア・ドゥ・ボドリエールという、高名な女流作家だ。

 母親が自分ぐらいの歳の頃、新作を出すたびに本屋がごった返すほどに、巷を熱狂させていたというが、“湖面の月”という傑作を出した後ぐらいに亡くなったと聞いている。

「そういえば、夫人とおっしゃいましたが」

 不意に思い立って、ペルグランは質問していた。

「お前と会わせるのははじめてか。俺の昔馴染みで、長く捜査に協力してくれている。まあ、顧問みたいなもんでな。俺のやり方の師匠でもある」

 目を瞑りながら、ダンクルベールが答える。

 外部の協力者。そういうのもいるのか。口からは自然に、へえ、とかいう言葉が漏れていた。それも、あのダンクルベールの捜査の師匠とは、さぞかし知識人なのだろう。もしかしたらほんとうに心理学者とか、精神科医なのかもしれない。

「結構な有名人だよ。名前だけなら知っているはずだ」

「はあ。お名前は何とおっしゃるんですか?」

「パトリシア・ドゥ・ボドリエール」

 言われて、ペルグランは視線を自分の手元に落とした。“ルシャドン伯の決闘”の著者名を、ゆっくりと読み返す。

 パトリシア・ドゥ・ボドリエール。ボドリエール夫人。

「長官。まさか、からかっているわけじゃないですよね?」

「はは。そう思うのも、無理ないよな」

 ダンクルベールが、楽しそうに声を上げた。

「ボドリエール夫人は、もう亡くなられたはずです」

「そうだな。表向きはそうなっている」

「表向きって。連続殺人犯ですよ?」

 ボドリエール夫人という名前は、もう一箇所に、ある種の有名人として刻まれている。

 およそ二十年前、ガンズビュール地方で発生した、連続猟奇殺人。ガンズビュールの人喰ひとぐらいと呼ばれ、この国を未曾有の恐怖に陥れた、凶悪な殺人鬼としてである。

「そうだ。史上最悪の猟奇殺人犯。くそったれの狂人だ。ガンズビュールの人喰ひとぐらい。狼たちの女主人」

 苛立たしい様子で、ダンクルベールがどんどんと杖を鳴らしながら、言葉を続けていく。

「そして、あかき瞳のシェラドゥルーガだ」

 士官学校の資料室で見せてくれた、当時の新聞では、よくその言葉が使われていた。

 シェラドゥルーガ。生きた人間を貪り食らう、いにしえの悪魔。いわゆる、山姥とか妖怪のような、お伽噺の存在である。自分もよく乳母に、いい子にしないとシェラドゥルーガがやってきますよ。悪い子はシェラドゥルーガに食われちまいますよ。なんて、脅かされていたものだ。

 当時の人々は、ボドリエール夫人を、まさしくシェラドゥルーガの如く恐れたのだろう。人の体を引きちぎり、はらわたを引き摺り出し、心を貪り喰う。おぞましい、人でなし。

 そして、その化け物を逮捕したのが、何を隠そう、ダンクルベールである。褐色の巨才。魔除けの案山子。そして、ガンズビュールの英雄。オーブリー・ダンクルベール。

「あのくそ女、縄を打つ時になって、好き放題暴れやがって。腹に包丁ぶち込んできやがった。おかげでこの通り、左足をにした。今となってはいい教訓だよ」

「そんなことが、あったんですね」

「シェラドゥルーガは、生きている。どういうわけかはわからんがな」

 ダンクルベールが不意に、杖に両手を預けるくらいにして、身を乗り出した。

「ペルグラン、本日の宿題だ。よく聞いておきなさい」

 ダンクルベールは、地の底から鳴り響くような声で、それでもつとめて優しさを込めて言いはじめた。

「やつに魅入られるな。理解しようと、思うな」

 眼を見てわかった。このひと、本気で言っているぞ。そこまでわかって、ペルグランは思わず、唾を飲んでいた。

 外を見ると、珍しい道を通っていた。この先にある建物なんて限られてくる。そのひとつを思いついた時、体のあちこちに鳥肌が立った。

 はたして馬車が到着したのは、予想の通り、第三監獄だった。身分の高い政治犯や思想犯、そして国家に仇なす凶悪犯罪者が、ごろごろと収監されている、堅牢な要塞である。

 何より、ここに収監されるということは、死を意味する。収監後の状態について、公式な声明は発表されないからだ。

 つまり夫人は、生きて、ここにいる。

 中は、しんと静まり返っていた。どの部屋にも黒いカーテンがかけられ、外からは覗くことができない。

 収容されているのは、もともと身分の高い連中ばかりで、愛用の調度品を持ち込んだり、専属の料理人や使用人を雇うことすらして、好き勝手に暮らしているらしい。

 ただ、ここからは一生出られない、というだけだ。

 ついの住処で、かつての栄光を懐かしみながら死んでいく。悲しい連中だ。だが、もしかしたら自分たちがそうなっていたかも知れない。そう思って、ペルグランは黒いカーテンを見ることをやめた。

 お目当ての囚人は最奥だった。

 看守が、どうぞ、の一言と共に、カーテンと鉄格子を開けた。ダンクルベールは、ずかずかと乗り込んでいく。それを見て、気後れしながら、ペルグランも中に入り込んだ。

 牢獄というには、随分広い空間だった。匂いも、香を炊いているのか、心が落ち着くほどである。明るく、広い。

 そして、その空間の大半を、整然と並んだ、無数の書架が占領していた。収められている本は、芸術、歴史、文学と様々だった。だが奥にゆくにつれ、そのほとんどが、司法警察局資料室にあるはずの、過去の事件簿に変わっていった。ちょっと一冊手にとって、軽く読む。どうやら写しのようだ。

 書架の林を抜けた先に、応接間のような空間があった。一対のソファと、豪奢な座卓。敷き詰められたのは、これまた色鮮やかな、南東の国、エルトゥールル様式の絨毯だ。

「時間を作ってくれて、すまんな」

 ダンクルベールがおもむろに声を上げた。それを聞いて、ペルグランははじめて、そこに人がいることに気づいた。

 絶世の美女。その一言だけで、十分だった。

 あかと黒を基調とする、肩口を曝け出した、優美で妖艶なドレス。左肩に、濡れからすのフェザーボアを引っ掛けたり、色々と豪奢な装飾品で全身を飾り立てているが、それすら霞むほどに豊満で若々しい肉体。背も高く、背筋も伸びていて、存在感が飛び抜けている。

 何より、その波打つような髪と、瞳だ。眩しいほどのあか色。こんな色のものを持つ人種など、聞いたこともない。

 ダンクルベールに小突かれて、ようやく自分が目の前にいる女に心を奪われていることに気付いた。慌てて居住まいを正す。

「ああ、我が愛しき人。久しぶりじゃないか。いつぶりだろう?思い出せもしないぐらい、待ちわびていたよ」

 うっとりとするぐらい、蠱惑的な声だった。

 そのあか色の髪をたなびかせながら、夫人は着席を促した。どうやら賓客として迎えているつもりらしい。

 ダンクルベールは遠慮なくソファに腰掛けた。それを見て、ペルグランも遠慮がちに、それに倣う。

「ここのところは部下どもがよく働いてくれていて、俺も楽をさせてもらっていた。ひとり、新しい顔も連れてきた。俺の新しい副官だ」

 正面に座した美女に眼を奪われていると、そう、ダンクルベールに促された。襟元を正してから、敬礼をする。

「この度、司法警察局警察隊本部付、本部長副官を拝命いたしました、ジャン=ジャック・ニコラ・ドゥ・ペルグラン少尉であります」

 言い切って、うまく言えただろうか、と不安になった。それぐらい、綺麗な人である。心臓が大きな音を立てていた。

「これはこれは、可愛らしい副官殿をお迎えになったのだね。我が愛しき人」

 やはり夫人の声は、蕩けるように甘い。

「ペルグラン、ねえ。久しぶりに聞く名だ。ご母堂ぼどうさまは息災でおられるかね?」

「はい。母をご存知なのですか?」

「彼女、私のだったのさ。黒髪くろかみのジョゼフィーヌ。早口で熱っぽくってね。夢中になりすぎたんだろう。真夜中に、屋敷の前まで押しかけてきた時は、流石にこわい思いをしたものだよ」

 夫人はそう言って、からからと笑った。思わず頬が赤くなる。

 確かに母は、筋金入りのボドリエール・ファンだった。今だって、持っているはずの書籍の、版数違いや言語違いのものを、どこかかしらからかき集めている。

 言われてみて、目の前にいる夫人の服装や装飾も、どうしてか母のそれに似ているように感じてしまう。

 ああ。そういうところも含めて、熱を上げていたんだろうな、母上め。

「あの、おそれいりますが」

 おずおずと、ペルグランは尋ねてみた。

「ほんとうにボドリエール夫人、ご本人なのでしょうか?」

 その問いに、夫人はにっこりと頷いた。

「まあ、当然の疑問だね。ペルグラン君」

 くすくすと笑いながら、夫人はじっと、こちらの目を見詰めていた。

 生きていようが、死んでいようが、自分が生まれる頃の時代の人である。目の前の美女は、あまりに若すぎる。

「でもおそらく、君の隣に座っている人も言っていたはずでしょう。一言一句いちごんいっく、同じことを」

 あかい瞳。なんだろう、人の目ではない。猛禽類とか、あるいは、肉食獣のような。それでいて、ずっと見ていたいぐらい、綺麗で、美しくて。ずっと、ずっと。

 甘酸っぱい香り。蕩けるような、柔らかい感触。優しい。温かいものに包まれていく。ずっと、この感覚を。

「シェラドゥルーガは、生きている」

 言葉が、耳に入ってきた。そこまでは、覚えていられた。

 衝撃があった。

 隣を見る。険しい顔のダンクルベール。

 じんわりと、痛みが広がる。頬を引っぱたかれたのだろう。

「まだ子どもだ。からかってくれるな」

 ダンクルベールが、迷惑そうにため息をついた。それを見て、夫人はまた、くすくすと笑っていた。

「あまりにも初々しいものだから。つい、味見をね」

「お前が楽しむには、若すぎるだろう」

「おや。その年の新作を楽しむのも、通の嗜みだよ」

 魅入られるな。理解しようと、思うな。今更、ダンクルベールに言われたことを思い出した。

 お飲み物を用意しましょう。そう言って、夫人は席を立った。

 少しして、ワゴンを押しながら、戻って来る。ここの囚人は使用人を雇っていたりもするが、それはないらしい。この広く綺麗な空間を、ひとりで維持しているのだろうか。

 まず、ダンクルベールの前には、小振りのタンブラー。そして見たことのある、緑の瓶。手際よく注いでいく。黄金色。そして上面に少しだけ、きめ細やかな泡が揺蕩たゆたう。

 自分の前には、ワイングラス。背面から、身を乗り出すようにして、赤いものを注いでいく。

 不意に背中に、温かく、柔らかいものが触れた気がした。どきっとして顔を見やる。からかうような微笑みの、やはり美貌。心が、揺り動いた。

 逃げるように、注がれたものに目を戻した。ちょっとだけ泡が混じっている。

 からかうのに気をやって、しくじったのか。不作法だな。心のなかで毒づいていた。

 夫人の分も、自分と同じものだった。やはり少しだけ泡が混じった。もしかしてワイン、下手なのかな。

 さあ、どうぞ。促された。

「いい手並だ。注ぎ方も変われば、味も変わる」

 注がれた黄金色の酒に口を付け、ダンクルベールは満足そうに頷いた。

「お前はいつもそれだな。我が愛しき人」

「エールは労働者の酒だ。そして俺は、労働者だ」

「もっといい銘柄も用意してあるというのに」

「どこにでも置いてある酒が、一番いい酒さ」

 しみじみと味わうように、ダンクルベールは杯に口をつける。胸元から紙巻を取り出し、煙を肺に入れていく。

 この国、この時代においては、ともすれば珍しいほどのエールビール愛好家だった。しかもいつだって、この緑の瓶である。酒屋に行けば、棚の端の方に必ず置いてあるやつだ。

 同じビールでも、巷ではヴァルハリアン・ラガーという、今の季節なんかにちょうどいい、爽やかで口当たりの軽いものが流行っているが、見向きもしない。

 自分も同じものを試したことがあるが、芳醇だが濃厚すぎず、ただ、それ以上の特徴を感じなかった。そういうのが好みなのだろうか。あるいは、自分では感じないものを感じ取っているのだろうか。

 ともかくダンクルベールといえば、緑の瓶と、東の紙巻というのが、お決まりであった。

 差し出された赤い酒。まずはグラスを回した。あまり香りは立たない。新酒と思えるが、香りがここまで立たないものなのか。

 おずおずと、口につける。

 いきなり、違和感があった。ぱちぱちする。赤なのに発泡ワインとは珍しい。

 夫人を見ると、自分の反応が顔に出ているのだろう、面白そうに、にこにこしている。

 軽やかな味わい。嫌味のない甘味。酸味と渋味がちょうどよく、いくらでも飲めそうな気さえする。何より、いくらか冷やされていたのか、この時期の酒気払いにはちょうどいい。何年の云々というものより、はるかに楽しい。

「夫人。これ、美味しいです」

「それは何より。知恵を絞った甲斐があったよ」

 夫人は、手元に注がれた同じものを、回しもせずに口に運んだ。一息に飲み干す。

「タンティ・バンビーニ種、プレフェリト・デ・ペスカトリのセッコ。舶来品の安酒さ。度数の低い、赤の微炭酸。ヴァルハリアとユィズランドの国境あたりでよく飲まれているんだ。今頃の、じめじめした日なんかには、こういうのが一番楽しい。何より肩肘を張らず、気兼ねなく飲める。お客さまには、何の何年なんてのよりも、こういうお手頃なやつが適任だよ。受け取る側も、気を使わなくていいしね」

 夫人は鼻歌混じり、手酌で次を注いでいく。これも不作法なぐらい、並々と注いでいる。

「君のご先祖さまの、ゆかりの一本でもある。今じゃあすっかりお貴族さまになってしまったが、元は向こうの漁船乗り。君の曽祖父さまの、曽祖父さまぐらいのころだがね」

 言われて、銘柄を今一度読み返した。理解して、思わず顔から火が出そうになった。

 ちょうどそのあたりの言葉で、漁師好み、である。

 そして、舶来品の安酒。つまりは、海向かいの船乗りどもが買い込んで、がぶがぶとやる代物だということだ。回したり、香りを楽しんだり、ありがたがって飲むようなものでは断じてない。

 小馬鹿にされたのもわからず、おだてられたお坊ちゃま。つまりはそう言いたいのかよ。

 そこまでたどり着いて、ペルグランは夫人を睨みつけた。夫人は自分の心情を理解したのか、堪えきれなくなったのだろう、腹を抱えて笑い出した。

「あまりに可愛くてつい、意地悪をしてしまったよ。いやあほんとう。ジョゼとそっくりだな、君は」

「家名を侮辱された。お恨み申し上げますぞ、夫人」

「あらあら。それは御免なさいね?」

 声を張った途端、夫人が突然、しゅんとした表情を見せた。いじらしく、肩を狭まらせて。そうして自分の隣に座って、体を寄せてきた。

 目を合わせてくる。懇願、あるいは哀願か。そうして、自分の手を取って、その、たわわな胸の上に、置いてしまった。

 柔らかい。心の臓が、口から出そうになった。

「目を輝かせて、うきうきしていらっしゃったから、喜んで下さったかと思っていたのですけれど。ご機嫌を害してしまったというのならば、この女主人の不徳の致すところですわ。けれど私は虜囚の身。払うべき財産など、我が身ひとつしかございませんの。それでどうか、お気を鎮めてはいただけませんでしょうか?」

 我が身ひとつ。その言葉に、固まってしまった。

 これは、よくないぞ。紳士たるもの、ここは引かねば。

「満足、しました。美味しかったです」

 誘惑に負けまいと、なんとか絞り出した。

 そうして、しばらくして、また意地悪そうに吹き出した。からから笑いながら、正面の席に戻っていった。

 恥ずかしかった。結局、弄ばれただけになってしまった。

「いい人選じゃないか、我が愛しき人。ペルグラン君には素質がある。目の前の事実に向き合える素直さと、自分がにされたことを理解できる知識の両方を備えている。怒りや誘惑に負けない、冷静さもね?」

「そいつはよかった。だが、教養が必要な類の冗談は、俺にはちと難しい。ご勘弁を願おう」

 ダンクルベールは興味なさそうな口調で、既に瓶の二本目に移ろうとしていた。このひとはこのひとで、案外、情が薄いな。こっちは家を馬鹿にされた上、男心を弄ばれたというのに。

「ところで夫人。その、長官のことを、愛しいというのは?」

 仕返しでもしてやろうと思い、思いついたことを、そのまま言ってやった。

 視線を感じる。ダンクルベール。余計なことを言うな、とでも言いたげな、険しい顔つきだった。言い過ぎてしまったかと思い、口を抑えてしまった。

「そのままの意味だよ。ペルグラン君」

 言われた夫人は、まんざらでもないようだった。いくらか酒気を帯び、とろんとした貌。艶っぽさに、どきっとした。

「私は、この男を心の底から愛し、敬い、慕っている。若い頃の血気盛んな男盛りのときから、こんな杖をついた爺の手前ぐらいになったとしてもだよ」

 その声は、後ろから聞こえた。

 あれっ、と思いながら、周りを見渡す。

 いない。

 肩に、誰かの手が乗せられた。振り返る。

 夫人が、ソファの背もたれに腰をかけながら、にこにこしていた。

 思わず飛び退ってしまった。驚きと、あまりの距離の近さに。綺麗な顔、きめ細かな肌、あの豊かな乳房、そして芳醇な、いい匂い。ときめきが、止まらなくなっている。

「いいかい?この男はね。この私を捕まえたのだよ。ペルグラン君。この意味がわかるかい?この通りの、人でなしである、この私をだ」

「昔の話だよ」

 夫人が、ダンクルベールの白くなった髭を、細く白い指でじっくりとねぶる。卑猥なものを感じる指遣いだった。その指が耳たぶを摘んだあたりで、ようやくダンクルベールの顔が迷惑そうなものに変わっていった。

「ああ、我が愛しき人。つれない言い方をしてくれるじゃないか。あの暑い夜のこと、忘れたのかね?私をああまで追い詰めて、この体のあちこちに、こうやって、消えないものを刻み込んでおいて。それをお前は、昔の話だなんて言う」

 蠱惑的な言葉を並べながら、夫人は、左肩に乗せていた黒いフェザーボアを取り去った。

 歯形だった。首筋に、くっきりと残っている。

 生唾を、飲んでいた。いけないものを見てしまった。快感がほとばしるほどに、官能的で、背徳的なものを。

「長官。まさか、ひょっとして」

「ああ。昔のことにして忘れてしまいたいぐらいだよ。こちとら腹を刺されて死にかけたんだ。歯型と鉛玉の何発かで済んだだけ、感謝してほしいくらいだ」

 うろたえもせず、ダンクルベールが言い返す。

「なら、片足だけなぞとは遠慮はせず、背中に爪でも立ててやればよかったのかな。そうすれば、こんな甲斐性なしに落ちぶれることもなく、盛った雄のまま、私のものにできた」

「俺もあの時、その小五月蝿い喉笛をきちんと噛みちぎっておけばと、今でも夢に見るよ」

「ほら、ご覧。この通り、両思いなの」

 そこまで言われて、ダンクルベールの右手が動いた。瞬間、閃光と爆音。

 パーカッション・リボルバー。年代物の拳銃だが、威力は折り紙付きだ。肉をえぐり、骨をも砕く。

「それ、痛いんだよなぁ」

 くすくすと笑う声が、また違う方向から聞こえた。

 元いたところ、つまり、自分達と相対する側のソファに腰を下ろし、夫人はワイングラスを回していた。グラスの中身が、赤から白に変わっている。

 化け物。呟いていた。それに対し、自己紹介は済ませたはずだよ、と、夫人は軽口を叩いてきた。

 本題に移ろう。ダンクルベールが、ため息混じり、渡していた資料を卓の上に置いた。

「殺しが三件。二ヶ月ほど前からだ。うちの部下どもはともかく、俺は同一人物の犯行だと見ている」

 資料を受け取った夫人は、そっと立ち上がった。一挙手一投足が、いちいち瀟洒で優雅である。

「なになに?全身打撲に頭部挫傷。後頭部殴打による頭蓋骨陥没。そして、縄で括られて窒息か。一件目はともかく、次の二件がひどい。殺しがあまりに下手すぎる。丁寧にやらないと、肉に血が混じって、味が落ちる」

 微笑んだ。邪悪な笑みだった。捕食者のそれである。狼とか、熊とか、そういったけものの。

 目の前にいるのは、本物の狂人だった。

 自分の体が震えていることに気づくのに、そう時間はかからなかった。

「相変わらず美食家のようだな。人喰ひとぐらい」

「健啖家でもある。殺し三件では、腹も膨れん」

 踊るようにくるくると回りながら、夫人は資料を読み進める。ときおり、宅の上に置いたグラスに手を伸ばし、傾ける。ああ、これは赤にしておけばよかったな。という呟きが聞こえた。殺しの報告書すら酒肴のつもりらしい。

「それにしても、お前の部下、いい報告書を書けるようになった。この添えてある絵が実にいい。現場や犠牲者の特徴を、多角的に、そして詳細に捉えている。何より素描であっても、絵として見た時に完成している」

 ふと、満足げな口調で、夫人はそんなことを言い出した。

「フェリエ中尉が腕を振るってくれた」

「ああ。あのデッサン君か。お前もいい拾い物をしたよ。いい目といい腕を持っている。優秀な捜査官だ」

「あれは、絵を描くことだけしかできない。だから、絵を描くことだけできれば百点満点だと教え込んだ」

 ペルグランは、はっとした。

 デッサンことフェリエ。死体画家と陰口を叩かれる、悪趣味な男。それがこのふたりからは、そう見えている。

「この四枚目あたりからが、特に素晴らしい。線から苦悩が読み取れる。犯人、いや、自分に対する怒りだ。ちょっとでも自分に力があれば、この人を救えたのかもしれない。そういう、憤り。正義感とか、責任感が強いのかもね。可愛いやつだなあ。今度、連れてきておくれよ」

「ああ。そして、可哀想な奴だ。なんとかして、報いてやりたいとは思っているのだが」

 ダンクルベールの嘆くような言葉に、ペルグランは思わずが悪くなった。可哀想にしているひとりが、ここにいるのだから。

「褒めておやり。それだけでもひとつ、足しになる」

 夫人からの助言に、ダンクルベールは、そうすることにするよ、と紫煙を吐きながら答えた。穏やかな顔だった。

 手にしたワイングラスを置き、夫人は、自分たちの周りをうろつきはじめた。ゆっくりとした歩調である。

「男。五十代から六十代。それなりの資産と名声がある。殺しをするための場所がある」

 書面を裏手ではたきながら、夫人は思いついたことを並べていく。

「道徳とか倫理観は失っていない。教養もある。馬は乗れないが、馬車は使える。奉公時代の名残かな?案外、力持ちかもしれん。犠牲者とは全員、顔馴染みだ。恩義か、金銭の貸し借りか、とにかく何らかの繋がりがある」

 聞いていて、ぞっとした。やり方が、ダンクルベールのそれとまったく同じだ。

 あらかた見立てを並べ終えて、夫人は勝ち誇った顔をして、こちらに振り向いた。しかしダンクルベールに目で促されたのか、書類の裏に目を向けた途端、その表情が崩れた。

「可愛くないやつ」

「お褒めに預かり、光栄です」

 拗ねたように、恨み言を呟いてきた。その表情にも、可憐さを感じていまい、ときめいてしまいそうになる。対してダンクルベールの方は、してやったり、という笑みを浮かべていた。

「一件目は、過失だな。階段から突き落とてしまった」

「それで、殺しの味を覚えた。二人目は、自分でやってみた。実質、初体験だ。だが何故、三人目で手口を変えた?連続殺人犯は手口を変えない。お前もそうだった」

「私は、最後の方だけだったか。欲を出して、しくじった」

「同じ手法で回数を重ねて、洗練させていく。殺人犯とは一種の職工だ。もとより殺しという、危険と隣り合わせの仕事で、何故わざわざ手口を変える必要がある?」

「問いながらも見えてきている。続けたまえ」

 ダンクルベールが立ち上がった。夫人とふたり、書架の林を並んで歩く。遅れるようにして、ペルグランもそれに続いた。三室ぶち抜きぐらいか、ほんとうに広く感じる。

「殺しから、人の死から、何かを知ろうとしている。犠牲者たちは貴重な経験を与えてくれる恩人だ。価値のある死を提供してくれる。だから殺した後に、身を清めて、服もあらためている。化粧も施しているが、棄てるのは必ず雨の日だから、流されちまっている。気が回るんだか、回らないんだかな。まあ俺も同じく、年嵩のおやじだ。そのあたりは何となく、わかる気もする」

 これは、あくまで推論だ。ただの仮説でしかない。だがどうして、この少ない情報量から、ここまでのことが思いつくのだろう。

「考え方を変えてみよう。一歩、戻ってみるのはどうだ」

 いくらかのやりとりのあと、不意に夫人が言い出した。

「知ろうとしているのは、そのものじゃないか?」

「そのもの、とは」

「死だ。死、そのものを、知ろうとしている」

 その言葉に、ダンクルベールとペルグランは、思わず足を止めた。

 きっと今、自分は、とんでもない阿呆面をしているだろうということだけは、理解できた。

 まあ、掛けたまえ。夫人が、そう促した。足を止めた場所は、ちょうど最初の席の前だった。どうしてか作為的なものを感じた。

「一昔前、あらゆる生命いのちは死と隣り合わせにいた。些細なことで死は訪れる。それが当たり前のことだった。だが時代が降るにつれ、社会とかいう、富の再分配を保証する構造が確立し、食糧供給が安定し、そして医学や薬学が発達した。産婦人科というものもできたので、出生率も向上。産褥熱さんじょくねつで死ぬ女など、もはや少ない。そうやって死は、どんどん遠くなった。もはや死は、生命いのちの隣人ではなくなった」

 言いながら、夫人は書架から、何冊かの本を持ってきた。歴史書だとか、医学書とかだ。数百年前に、世界人口の半分を奪ったとされる鼠血病そけつびょうの記録から、南方大陸の古代オルク文明に存在したとかいう生贄文化まで、多種多様な死が目の前に広がっている。

「そして人は、死がどういうものかを忘れてしまった。昔の出来事として書物には載っているが、知識として、経験として、死というものを知ることが、ずっと難しくなった。未知なるものは、つまりは恐怖。昔よりずっと恐ろしいものに、忌避すべきもののように思えてくる」

「確かにな。顔も名前も知らないやつが、突然、親戚だとか言って近づいてくれば、そりゃあおっかない」

「なぜ、死を知りたがるのか。死人を見るだけでは、満足できないのは何故か。人の死にゆく姿を見たがっている。それを知ることで、得られるものは何か」

 夫人は再び、書架の林の中を歩き回る。

 少しして、わかった、という声が上がった。そうして、早歩きでソファまで戻ってきた。

 得心したような表情だった。

「我が愛しき人、急いだ方がいいよ」

 ワイングラスを傾けてから、夫人が言い出した。まるでそそのかすような口調である。

「こいつ、もうじき死ぬぞ」

 そう言って、夫人は笑った。

 人の、笑い顔じゃない。飢えた獣が、牙を剥いた時のそれだった。


4.


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 我らが生ける大地となり、永久とこしえに伏せし我らが父よ。天より授けられし炎により、夜闇を照らす御使みつかいたるミュザよ。迷えるものたちの、その旅路を指し示し、照らし続けたまえ。されば迷えるもの、いと高き彼の山を登り、そして天への道へと至れり。ものども、その御前にまみえたならば、夜に輝く星の座のひとつとして迎え入れたまえ。さすれば我ら、夜の帷が降りるたび、貴方がたと共に天を仰ぎ、未だ彼のものの生命いのちが続きしことを、懐かしみ、慈しむだろう。

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 儀式は、しめやかに進んだ。

 国家憲兵隊から届けられたコレットの遺骸は、丁寧に清められ、死化粧を施されていた。そのまま、火葬から埋葬までできる状態だった。

 あれの夫を含め、いくらかの縁者のみで葬った。

 首を絞められ、道の脇に打ち捨てられていたという。聞いて、思わず涙をこぼした。こわかっただろうに、つらかっただろうに。

 そうして、一通り片付いたあたりで、誰かが訪いを入れてきた。

 ふたり。国家憲兵隊の警察だった。

「司祭さま、この度もご面倒を見てくださって、ありがとうございます。あのお嬢さんも、これで浮かばれるでしょう」

 ビゴーと名乗った老人は、穏やかに謝意を示した。色褪せた油合羽あぶらがっぱと同じように、草臥くたびれた顔をした、初老の軍警である。

 何度か顔を合わせたことがあったが、偏屈で頑固そうな外見とは裏腹に、極めて柔和な人となりだった。町外れの隠者のような自分にさえも、親切に応対してくれた。

 若い頃からずっと聞き込み捜査だけをしている変わり者だった。それでいて、この人のよさなのだから、民衆はこぞって協力する。

 ある意味、警察隊の顔とも言っていい人物だった。

「私にできることをしたまでです。旅立つものに、旅立ちの場を設けるのも、司祭としての責務です」

「人の貴賎を問わず、いや、貧しいものに対してこそ、それができる御仁など、数えるほどもおりますまい、バラチエ司祭さま。特に貴方のような、名声のあるお方がお声をあげていただけるとは、我々も感謝に耐えません」

 冠婚葬祭とは、もとより金のかかるものである。あの夫婦は貧しかった。だからこそ、手を差し伸べたかった。

 宗教家としては、大成した。

 かつてはヴァーヌ聖教南部教団の司教として、数々の神学校で教鞭をり、多くの宗教家を排出した。

 老境を迎えたとき、ふと信仰の根本に立ち返りたくなった。地位と役職を棄て、町外れの廃院を建て直し、ひとりの司祭として市井に信仰を広めんと、街に出ては説法を説き、催事を執り行い、こうやって旅立つものを見送ってきた。

 それでも信仰を、人々の心の芯に据えることは、難しくなってきた。

 はじまりは些細なことだった。

 随分昔に、南東の国、エルトゥールルの硝子職人が、遠眼鏡というものを作り出した。遠くのものがよく見えるという、玩具の類だ。それの馬鹿でかいものを拵えた数寄者がいて、それを使って、夜の星々を観察しはじめた。何人かが面白がり、それに続いた。

 そして、皆が気付きはじめた。ヴァーヌの教えと、今、自分たちが見ているものに、明らかながあることに。

 そこからは早かった。御使みつかいたるミュザの掲げる灯火は、恒星と名付けられた、自ら光と熱を放つ巨大な星だった。永久とこしえに横たわる神たる父は星々のひとつに過ぎず、天に昇った人々の魂として信じられていた他の星々と同様に、恒星の周囲を楕円状に周回する、球状の土塊のひとつでしかなかった。夜と昼、つまり我々の日々というものは、神たる父そのものが回転することによって、恒星から発せられる光を浴びる箇所が変遷していく現象でしかなくなった。

 そしてその観測的事実は、なぜ、そういうことがおこるのか、という疑問に繋がり、それも多くの天才、秀才によって生み出された、膨大な量の数式と法則によって立証されはじめ、遂には自然科学という、実験事実を正確に示す学問の成立にまで至った。

 それは、真実と事実とは同義ではないことを、つまり、宗教から、天文学を含む、ありとあらゆる学問が切り離されることを意味していた。

 今日、惑星の動きを予測することに、神通力じんつうりきは必要ない。天文学の教科書と、算盤と、いくらかの時間があれば、奉公あがりの若者にでも可能なことであった。

 市井や各地の学校では、日々、自由で活発な議論が繰り広げられている。宗教的価値観から解き放たれた、自由な発想、思想、視座が、人々の想像力を掻き立てている。新しいものが、新しい考えから、無数に発生していた。

 ただ我々、宗教家だけが、ぽつねんと取り残されていた。

「バラチエ司祭さま。大変失礼ではございますが、このたび、少々ご確認をさせていただきたいことがございまして」

 ビゴーの隣にいる、背の高い若者が割って入ってきた。こちらの油合羽あぶらがっぱは、まだ黒いと思えるほどに色濃い。金髪碧眼の、何もかもが整った美男子だった。

「ああ、こいつはその。ええと、あたしの副官と申しますか。役職でいえば、あたしが部下なのですが」

「失礼いたしました。私、ビゴー准尉殿と共に、本件の捜査を担当させていただいております、ガブリエリ少尉です」

 美男子は、秀麗な動作で敬礼した。その名を聞いて、心当たりがあった。というよりは、ぎょっとした。

「ガブリエリ、といえば、あのガブリエリ家のご子息さま」

「ああ、まあ、そんなところです。今はもう、勘当されたようなもんですから。お気になさらず」

 ガブリエリと名乗った青年は、が悪そうに笑った。その所作ですらになっている。

 三つほど前の王朝の、つまり、王の血族である。男子が生まれなかったため、他家に玉座を明け渡したが、家自体は細々どころか、むしろこうやって燦然と輝くまでに続いている。

 風の噂で、今世の嫡男が変わった子で困っている、ということは聞いていたが、まさか警察隊の、しかもこんな端役はしたやくというべき、聞き込み調査をやるような役職になっていたとは、まったく想像していなかった。

 昔から、衛兵とか、軍警に憧れていたんです。家柄にふさわしくないと何度もたしなめられましたが、どうにも諦められませんでして。それに、六つぐらいの頃に、おやじさん、ああいえ、ビゴー准尉殿にお会いして、決意が固まりました。毎日毎日、歩いてばかり。ほんとうに、楽しい仕事です。

 聞けば聞くほど、確かに変わった子だった。本来であれば、口を聞くのも憚られる、天上の人である。ただ話してみると、口調も物腰も柔らかく、気さくで、まるで迎え入れられているような包容力がある。天性の人たらしだ。

 話し込んでいるうち、ビゴーが気まずそうに、そして呆れたように、頭を掻きはじめた。

「まあ、本筋に戻りましょう。まず結論からですが、あたしどもは、司祭さまを疑っているわけではありません。ただし、ここ最近の、いくつかの事件において、司祭さまの名が上がることが多くなってまいりまして」

 咳払いひとつ、ビゴーが話を続けた。

 心当たりはあった。コレット、エミリエンヌ、そしてジャスミーヌ。最近、三人とも殺された。

「寄付の件、ですな」

「まさしく」

「おっしゃる通りです。最近殺された三人を含め、何人かには、蓄えから心付けを渡しております。食べるものや着るものに困らないように。そういうところから、奉公先や嫁ぎ先の世話などもしております」

 奥の方から、紙を束ねたものをいくつか取り出して、持ってきた。

「ここ何年かの帳簿です。どうぞ、ご査収ください」

「これはこれは、よろしいのですか?」

「不調法な言い方にはなりますが、やましいことは何ひとつありませんので」

 それであれば、という風に、ガブリエリの方が丁寧な仕草でそれを受け取った。

 蓄えのあるものの義務として、やっていたことだった。

 ここには畑もあれば、井戸もある。自分ひとりが食っていくのは難しくない。文筆の覚えもあるので、証文の写しだとか、手紙の代筆だとかを、二束三文で請け負うこともある。布教の中で慕ってくれる民衆も増えてきており、気のいい連中が食い物や酒を持ってきてくれることもある。

 老後のためにと溜め込んだ蓄えは、実際のところ、ほとんど死蔵となっていた。

 ここに説法を聞きにきたり、懺悔をしにくるものの中には、金に困っているものも多い。そういうものに、いくらか包んで渡していた。返すか返さないかは、気にしていない。それが、その人の役に立てば、それでよかった。中には、同額、あるいはそれ以上の額で返しにくるものもいるので、二回か三回断ってから、それでも、というのであれば、受け取るようにしていた。

 宗教家は非課税である。幸いなことに清貧に育ったため、金に執着はなかった。人のために使って喜んでくれるのならば、何よりだった。

「おお、あの大聖堂の修繕費までお出しされているとは」

 ちらちらと帳簿を眺めていたガブリエリが、尊敬の眼差しでこちらを見てきた。綺麗な目である。

「順に、ジャスミーヌさん、エミリエンヌさん、コレットさん。このお三方に最近、お変わりはございませんでしたでしょうか?」

 ビゴーの問いに、そう言えば、と答えたぐらいだった。

 不意に、視界がぐらついた。体のところどころが、重い。意識が、持っていかれるほど、えぐられるような。

 体が浮く。何かが、脈打っている。

「司祭さま、大丈夫ですか」

 気が付いた。倒れていたらしい。大汗をかいていた。

「おお。ビゴー准尉さま、ガブリエリ少尉さま」

「びっくりしましたよ。胸を抑えて倒れられました。うわ言のように、薬とだけ繰り返しておりましたので、私室にお邪魔させていただきました。勝手をお許しください」

「なんの。いや、お二方とも、我が生命いのちの恩人です。ほんとうにありがとうございます。そして、お見苦しいものを」

「ああいえ、お気になさらず」

 ひとつふたつ、深呼吸をする。痛みはあるが、抑え込める程度だった。意識もはっきりしている。

「ご病気ですか」

「ええ」

 汗を拭いながら、答えた。

「できものが、あるのです。からだの中の、あちこちに」

「それは、大事になさらないと」

「いいえ。もう長くない。医者からすでに宣告されております。ですから、成り行きに任せることにしました」

「それは、相当なお覚悟ですな」

「いいえ、臆病者ですよ。死が、怖くてたまらない。ですから、忘れたいのです。忙しくして、死ぬであろうことを忘れてしまいながら、死んでしまいたい。今の今更、病室のとこに縛り付けられて、来るべきものに怯えながらなど、まっぴらごめんです」

「はは。仕事中毒ですか。あたしも似たようなものですが、信念も度が過ぎれば、周りは大変でしょう」

「ほんとうに、人に迷惑をかけてばかりで、生きてきた」

「まずは、お体に気をつけて。このあたりで失礼します」

「ありがとうございます、我が恩人。いつでも、いらっしゃってください」

「どうも、ご丁寧に。それでは」

 そう言って、ふたりは帰って行った。

 ひと呼吸をおいて、私室に向かった。

 少し散らかってはいるが、ひっくり返した、までは行かない。卓上の日誌は開かれた形跡はないし、書棚にも触れられた形跡はない。あるいは窓際に置いてある、天体観測用の望遠鏡にも。

 深呼吸した。

 よかった。ただ、急がなければならない。ことを進めなければ、たどり着かれるかも知れない。

 ひとまず、汚れてもいいような格好に着替えた。そしてそのまま、台所に向かう。

 包丁。いわゆる、万能包丁とか奥さま包丁とかいう、ひととおり使えるようなもの。金物屋なら、どこにでも売っているものだ。

 そして、礼拝堂の隅にある、地下の物置に続く階段を降りる。

 鍵はかかっていた。

 扉を開ける。暗い。備え付けのオイルランプに火を灯した。ぱっと、明るくなる。土間、土壁の、簡素な空間。

 ここも、踏み入られたようすはなかった。

 よかった。それでは、はじめるとしよう。

 ひとり、寝そべっていた。両手、両足を縛られ、猿轡をかけられた女。自分の姿をみとめて、身をよじり、涙を浮かべながら、怯えた目で呻いている。

 よく我慢してくれたね、シュゼット。さあ、旅立ちの時間だ。私の信仰に、応えてくれたまえ。


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 永久とこしえに伏せし我らが父よ。夜闇を照らす御使みつかいたるミュザよ。迷えるものたちの、その旅路を指し示し、照らし続けたまえ。されば迷えるもの、天への道へと至れり。ものども、その御前にまみえたならば、夜に輝く星の座のひとつとして迎え入れたまえ。さすれば我ら、夜の帷が降りるたび、未だ彼のものの生命いのちが続きしことを、懐かしみ、慈しむだろう。

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5.


 四人目が、あがった。

「滅多刺し、か」

 帰りの馬車の中で、ダンクルベールは呟いた。正面に座るペルグランは、面白いぐらいに真っ青な顔をしている。

「あれほどのものは、俺も久しぶりに見るぐらいだ。こういう時は、忘れなさい。忘れ方を覚えなさい。ゴフのやつなら、女遊びにでも誘ってくれるだろう」

「女の顔も、見たくないです」

「なら、酒かな。奢ってやるが、まあ今日は、これから司法解剖だ。もう少し我慢してくれよ、ペルグラン」

 現場でも、何度も吐いていた。今もこうやって、涙目で震えているが、それでも成長の兆しを見せてきた。

 次に死体があがったら、側で仕事を見せてもらえないか。散々、悪しざまに言っていたデッサンに対し、自分から申し出たそうだ。

 後になって、デッサンの方が気味が悪くなったのだろう、大慌てで、自分のところに相談しにきた。

 笑って、付き合ってやってくれとだけ、言っておいた。

 今からちゃんと検死となるが、ひどい殺し方だった。

 前の三件同様、通りに投げ棄てられていた。違ったのは、身も清めず、服もあらためず、殺しっぱなしだったことだ。棄てておいて、申し訳程度に麻布を掛けていた。

「棄て方が違った。具合が悪いところすまんが、お前はどう思う?」

 返答はなかった。それも、しばらく。

「ペルグラン?」

「自分のやったことに、動揺したんだよ」

 女の声だった。

 ペルグランの顔を覗き込む。さっきまでの青く震えた顔ではない、太々しい、泰然とした表情。平然と背もたれに背中を預け、堂々とした態度だった。

 そしてその目は、栗色ではなく、あかだった。

 シェラドゥルーガ。

「ちょっとペルグラン君をお借りするよ、我が愛しき人」

「勝手にしろ」

 面倒になって、吐けるだけのため息を吐いた。

 ウトマンの時にも、散々やられた手口だ、あの牢獄に閉じ込めているが、流石は人でなし。そんなもの、なんの意味もないようである。

「それで、お前の見解は?」

「自分の責務に無我夢中だった。もしかしたら、直前に不都合があったのかもしれない。時間がない。早く、早くしなければ。知ることもできずに死んでしまう」

「欲望ではなく、責務か。知的好奇心ですらないとは」

 ダンクルベールは紙巻を取り出し、咥えた。肺に煙を入れていく。昇った血が、全身に行き渡っていく。

 見えなくなっていたものが、見えてきた。

「こなさなければならない仕事を、無理を押して頑張った。見返して、自分のやったことが恐ろしくなった。だから後始末が疎かになった」

「繁忙期ってのはそんなもんさ。後ろが突っかえてるとなれば、なおさらだ。思い出すなあ。私も新聞連載なんぞをやっていたときは、随分せっつかれたものだよ」

「それでも、雨の日を選んで棄てるのだけは忘れていない。現場にはほとんど証拠がないが、ほんとうの現場は、まだ片付けが終わっていないはずだ」

 手がかりさえあれば、すぐにでも押しかけたい。その手がかりを今、探ってもらっている。

 ビゴーとガブリエリの、ふたりである。

 身分と役職、そして経歴がちぐはぐな組み合わせだが、すでに噛み合いはじめている。お互いの長所を尊重し、短所を補える。叩き上げのベテランと、超がつくほどの名家のお坊ちゃんである。釣り合いが取れた、名コンビになるだろう。

「死体を棄てるのも見えてきたな。見せびらかすためではなく、見つけてほしい。別に山の中に放っても構わないのに、人前に晒すのは、罪の意識があるからだ。見つけて、止めてほしい。咎めて、裁いてもらいたい」

「ならば、自首しないのは?」

「信心深いのだろう。あるいは、傲慢なところがある。自分を裁くべきは、人じゃない。神であるべきだ」

 ダンクルベールのその言葉に、ペルグランの顔をした何かが、歯を見せて笑った。

「素晴らしい。それがほんとうなら、相当に屈折した人間だ。罰してほしいという善性と、我が儘の為に人を害する悪性が均衡している。葛藤の中に長く生きた人間だ。是非、味わってみたいものだな。長く、ゆっくりとね」

「残念だが、お前にはやれんよ。四人も殺したとなると、人前で首を括る必要がある」

「意地悪だなあ。じゃあ処刑人ぐらいやらせてくれよ。つまみ食いぐらいなら構わんだろう?」

 シェラドゥルーガは、からからと笑いながら、物騒なことを言っている。冗談ではない。こんな畜生を、二度と衆目に晒すわけにはいかない。もう片足を投げ出してでも止めてやる。

 ふと、何かが頭の中に転がった。ぽん、と虚空から転がり出て、それは思考の中に、ちょこんと座り込んだ。

 広がる星空と、地べたに座ってそれを眺める若い娘の姿。それはここ数年で、何度か見た光景だった。

 ひょっとして、これかもしれない。

「なあ、シェラドゥルーガ」

「なんだい?」

 ダンクルベールは、紫煙を吐いてから、尋ねた。

「人が死ぬたび、星の数は増えると思うか?」

 言って、しばらくの沈黙があった。相手は呆けたような顔をしている。

 爆音。破裂するような、笑い声。それはげらげらと、腹を抱えて笑っていた。人のそれではない。けもののそれですらも。ひどく下劣で、醜悪だった。

 だがつまりは、を引いたということだ。

「そろそろ庁舎に着く。ペルグランに返してやってくれ」

「おいおい、勝ち逃げなんて許さないぞ。感想戦ぐらいやろう?なあ、我が愛しき人。どこから思いついた?」

「また後で寄る。その時に」

ぁだ」

 満面の笑み、聞くに絶えないほど、甘ったるい声だった。

 思い切り、頬を張った。

 目の光が変わった。混乱している。目の端に、涙が滲んでいた。

「長官。私は、何を。いえ、何が」

 声が戻っていた。

 叩かれる直前、引き下がったのであろう。ペルグランは、ペルグランのまま、をもらったわけになる。

 気の毒だが、仕方のないことだった。

「気にするな」

 ため息ひとつ、紙巻を携帯灰皿に押し付けた。

「ただの、パワーハラスメントだ」

 無茶苦茶な言い訳をしている自覚はあった。事実だから仕方ない。騒がれたら面倒だが、そこはペルグランを信用することにしよう。

 庁舎に到着次第、遺体を司法解剖室に運ぶ。

 別棟にあつらえた、最新の設備である。入退室の際は、石鹸を用いた手洗いを必須としている。持ち込むものも必要最低限で、油合羽あぶらがっぱなども、必ず脱いで入室することと定めていた。

 三人。準備万端という様子で待っていた。いずれも簡素な医務服を纏っている。

「すまんが、今回のは刺激が強いぞ」

 三人の顔を見渡し、ダンクルベールは伝えた。

 運び込まれた遺体を見たときの反応は、三者三様だった。口元を覆い、嗚咽を堪えるもの。ただじっと目を離さずにいるもの。瞼を閉じ、ヴァーヌ聖教式の礼拝を捧げるもの。

 しばらくして、三人が目を合わせ、頷いた。

 司法解剖は、チオリエ特任とくにん伍長による、ヴァーヌ聖教の聖句から始まる。

「出血多量ですな。長く、苦しんだのでしょう」

 自分と同じく白秋はくしゅうの手前ぐらいながら、肌艶がよく、恰幅もある偉丈夫が口火を切った。ラポワント特任とくにん大尉。ムッシュの名の方が通った、腕利きの医者である。

「凶器は牛刀?いや、奥さま包丁かな。厄介ですな」

「刃物は持ち主の地位を表す。無我夢中の殺しでも、そこはちゃんと気をつけているようだな」

 淡白な口調。この中では唯一の正規軍人のアルシェ大尉。寝ぼけ眼で、仏頂面の付き合い下手だが、恬淡としていて、いやなところがない男だった。

「馬乗りで、逆手でざくざくとやってる。しかし、ほとんど急所を外しているな。これじゃあ、はらわたがはみ出ても死ねないぞ。よほどの悪趣味か、もしくは勉強不足だな」

「両の手首と足首、そして口には、拘束の跡があります。その時まで、長く囚われていた。衣服に失禁の跡も残っています」

 声を震わせながら、チオリエ特任とくにん伍長は、それでも手を動かし続けている。金髪碧眼の可憐なお嬢さんだが、その額には、物々しい向こう傷が走っていた。

 震えた手で、その頬に触れる。涙が溢れてしまった。

「ごめんなさい。貴女を助けてあげられなかった」

 アンリエット・チオリエ。またの名を、サントアンリ。

 豪族同士の領土紛争が絶えない地域で産まれた、修道女である。物心ついたときから、戦場を見てきた。血と、肉と、人の死を見てきた。吹っ飛んだ片腕を探して彷徨さまようものを。恋人の名を呟きながら、動くのをやめていくものを。

 戦場における彼女の武器は、包帯と軟膏だった。

 敵も味方もない。ひたすら生命いのちを救うためだけに奔走した。その為ならば、軍人どもにすら食ってかかったのだろう。可憐な顔に走る刀傷は、その時のものだそうだ。

 いつしか人々は、その娘をサントアンリと呼ぶようになった。向こう傷の聖女。最前線の守護天使と。

 故郷の情勢が安定したところで、警察隊本部に招聘した。救命医療の専門家が欲しかったところだった。

「アンリ。死した彼女を救うのが、我々の仕事だ」

 血に濡れた手で涙を拭おうとするアンリに対し、ムッシュが、優しくも厳しい口調で諌めた。

 このあたりで、デッサン、ゴフも入室してきた。二名とも犠牲者に黙祷を捧げたのち、自分と同じように遠巻きに陣取った。

 ペルグランがそそくさと、デッサンの横についた。小声で、また見させてください、と頼み込んでいる。

「デッサン。引き続き見せてやってくれ」

「構いませんが、ためになるかどうかは」

「それは捉える側の話だ。気にせずやりなさい」

 幾らかの狼狽を見せた後、デッサンは自分の仕事道具を用意しはじめた。

「気をつけろよ、鞄持ち。こいつは長官より難儀だぜ?」

 面白いものでも見たように、ゴフが揶揄からかうような声を上げた。浅黒い肌。屈強な体躯そのままの、粗野な男である。

「なんたって死体画家だ。仕事を馬鹿にされようが、どこ吹く風だが、邪魔するやつには容赦がねえ。せいぜい胸ぐら掴まれないよう、慎重にやるこったな」

「おい、変な印象を植え付けないでくれよ。ゴフ」

「ほんとうのことだろう。お前、俺の顔、何回ぶん殴ったか、覚えてるか?おかげで俺は、人を馬鹿にしてはいけないっていうことを教わったもんだよ」

「やめてくれよ。昔の話だ」

 このふたりは仲がよかった。士官学校時代の同期でもある。

「衣服に藁。長官の見立て通りであれば、四人目になりますかな。しかしまあ、また手口を変えてきたとは」

「それにしたって下手な殺しだ。こないだの首絞めもそうだが、もそっと何とかならなかったのかね」

「アルシェ。君も拷問官だから、わかると思ったのだがな。絞殺というのは、なかなかに難しい方法なのだよ」

「ああ、まあ。殺すまでは、やったことがなくってな」

 アルシェが口元だけで苦笑いした。

「俺が締め付けるのは、心だけだよ」

 曰く付きの男だった。

 正規軍人ながら、かつて旧王家の秘密警察とかいう組織で、政争に明け暮れた男である。その中でも最も恐れられた拷問官だった。あいつに拷問される前に舌を噛み切れ、とまで言われるほどの手腕である。

 政変の折、その組織も標的となったが、司法警察局局長の縁者にゆかりがあったらしく、その伝手でこちらに流れてきた。

 拷問には、豪華絢爛と言っていいほど、数多くの道具が用いられる。だが、アルシェはそれを一切用いない。棒切れ一本あればいい、という。

 一度立ち会ったことがあるが、なるほど、これは死んだ方がましだ、というやり方だった。

 とにかく、心を攻めるのだ。

 適当に殴ったり蹴ったりしながら、淡々とした口調で蔑んだり、脅したりする。それを、例えば二時間とか三時間を目処にして、定期的に行う。

 そして相手が暴力と暴言に慣れてきたあたりで、その周期をずらしたり、止めたりする。そうすると、来るはずのものが来なくなって、最初こそ安堵の表情を浮かべるが、そのうちに、それが恐怖に変容する。

 来るべきはずのものが来ない。逆の言い方をすると、いつ来るか、わからない。

 そのうちに、今までに刻み付けられた体と心の痛みに、苛まれはじめるのだろう、二日もすれば錯乱状態に陥ってしまう。そうなってから顔を見せると、相手は嬉々として秘密を明かすのだ。心の痛みから、解放されるために。

 心を弄び、その痛みに依存させる。趣味の悪いやり方だが、こういうことができる人間がひとりは欲しかった。いわゆる汚れ役である。搦め手や悪巧みをする際の、いい参謀役だ。拷問に長けているだけあって、人体構造や外科医学にも明るい。こうやって司法解剖にも携わることもできる。

 あるいは将来、心を苛むことの逆、心を癒やすことを学ばせれば、活躍の場は増えるだろう。

「首を絞めれば人は死ぬ。呼吸困難か、頸動脈圧迫により脳に血がいかなくなるためだ。それはわかっているが、どうやって確実に死に至らしめるかが課題になってくる。例えば、手や腕で首を絞め続けることの難しさは、喧嘩が得意なゴフ中尉なら、いやほどご存じのはずだね」

「そりゃあもう。やられた側は、大暴れですわ」

 ゴフがおどけたように、ペルグランの首に腕を回す。ぎょっとしたように、ペルグランが体を大きく使って抵抗した。すぐに解放される。つまりはこういうことだ、という表情で、ゴフが笑った。

「そう。それを何とかするために、首吊り、いわゆる絞首刑が発案された。ただこれも、単純に縄で括り上げるだけではやはり暴れる。縄が解けたり、苦しむ中で糞尿を撒き散らしたりする。そこで、物が落ちる速度を利用して、頚椎を破壊することで、ほぼ即死させる方法が編み出された。しかし、しかしだ。縄の長短、強度、結び方、処刑台の高さと、やはり考えるべきことは山ほどある」

 まるで何かの授業のように、ムッシュがつらつらと言葉を並べていく。その表現の豊かさに比べ、声の抑揚は、恐ろしいほどに平坦だった。

「つまり、ひとごろしにおいて真っ先に求められるのは、物理学の知識だ。それだけあれば、殺せるのだから」

 締めくくりの一言は、どこか寂しげだった。これこそが、この男が今もムッシュと呼ばれ続けている所以である。

 解剖にも明るいほど優秀な医者でもあるが、なにより代々続いた死刑執行人だった。人を殺すことだけを仕事にしてきた男だ。今でこそ、酒と歌を愛する気持ちのいいおやじだが、つい何年か前までは、生涯最後の立会人、旅立ちを見送る人として、誰彼からも畏れ敬われたほど、高潔で厳粛な人物だった。特に貴族たちにとっては、彼に処刑されることは一種の名誉と言われるほどだった。

 十年ほど前になる。数多くの罪を犯した極悪人。ひどく醜い顔の男。死を前に、毅然とした態度だった。

 断頭台がその首を落とした後、集まった群衆の方々から野次が飛んだ。

 途端、この死刑執行人は、憤怒に染まった表情と、その朗々とした美声で、彼らを一喝したのだった。

 この首だけのものを見たまえ。神たる父と御使みつかいたるミュザ、そして我が名のもとに生涯をまっとうした、このものを見たまえ。諸君らは、このもののようになれるか。おのれの過去を精算するために、この断頭台に首を委ねる覚悟が、諸君らにあるのか。その覚悟なく、このものの死と生涯を嗤うならば、今すぐここを立ち去るがいい。

 この名演説以来、処刑場を見世物小屋と同じように捉えるものはいなくなった。誰しもが喪服や礼服を羽織ってくるようになった。誰も一言も発せず、ただ、人が死を迎える瞬間にまみえ、それをいたみ、弔うようになった。

 その様子は、まるで戴冠式のように厳かだった。

 今まで娯楽でしかなかった公開処刑を、人が最期を迎える場として啓蒙し続けた異端児だった。人の死を嘲笑することを、決してよしとしなかった。

 ムッシュ・ラポワント、あるいは、ムッシュ・ド・ネション。死を司り、生涯を尊ぶ、代々の死刑執行人。

 それほどの傑物であっても、先の政変で、崩れた。

 知己ちきを含む、多くの人を殺めた。それで、疲れ果ててしまったのだろう。事態が収束次第、隠居を申し出たそうだ。

 町外れの小さな医務院で、細々と医者をしているところを、司法警察局局長とふたり、何度も通って口説き落とした。

 死の専門家、その第一人者として、協力してほしいと。

 司法解剖室と、この三人。肝入りの施策だった。導入から間もないが、確実に検挙率は上がってきている。今まではその都度、軍医や町医者に声をかけて頼んでいたが、誰も彼もが法医学やら解剖やらに詳しいわけではない。父祖伝来の技術を持つムッシュを長として、救護兵のアンリ、拷問役のアルシェを組み合わせてみた。年も立場も、アンリに至っては性別すら違う三人だが、今まで衝突はない。もっと場数を踏ませて、馴染ませる。そしていずれは、人数を増やしていきたい。

「だとしても、今回の犠牲者も苦しませています。四人目ともなれば、手口を変えたとしても、幾らかは要領がよくなるのではないでしょうか?」

 ゴフにしてやられた襟元を正しながら、ペルグランが声を上げた。だいぶ落ち着いたのか、惨たらしい光景を前にしても声は震えていない。

 それについては、思いついていることがあった。

「試行錯誤そのものに意味がある。死に方の最適解を見つけ出そうとしている。どんな死が、最も尊いのかを」

「死に、優劣をつけられる立場の人間なのですか?」

 アンリの問いに、ダンクルベールは首肯した。

 目の色が、変わった。その手も、戦慄わなないている。

「今、私は怒ります。怒りに身を委ねます。いつか、その人をゆるすために」

「それでいい。その怒りをうまく使いなさい。きっとお前はそうやって、今まで多くの人を救ってきた」

「はい。そして」

 また、アンリの目から涙が零れた。

「多くの人を、救えなかった」

 それを見て、アルシェがはじめて瞼を閉じた。

「アンリ、二度も言わせるな。今は、悔いるな。お前が助けてきた人や、そうでなかった人を、失望させることになる」

「そうだよ、アンリ。君は、生命いのちを救うために行動することができる。それはほんとうに素晴らしいことだ」

 デッサンが口を挟みつつ、そこまで言って、唇を噛んだ。

「僕は、絵を描くことしかできないんだ」

 筆が、止まった。

 小さく、畜生、と繰り返し呟いていた。隣にいたペルグランがどうしていいかわからずに、おろおろとしている。

 可哀想なやつだった。ほんとうは、自分自身が犯人を捕まえたいのだろう。ただそれに見合う才覚がない。あるのは、絵を描く才能。たったそれだけだった。それは我々にとって十分以上に役立つものだが、本人としては、まだ納得できていないのかもしれない。

「ぼやくなって。いつも言ってるだろ、役割分担だぜ?」

 うつむくデッサンに、ゴフが笑いながら肩を叩いた。

「よく聞け。死にそうなやつには俺たちのアンリで、これから死ぬやつはムッシュのおっさん。死なない程度にしなきゃならないならアルシェ大尉。そして死んでいいやつは勿論、この俺の役割だ」

 その言葉に、思わず苦笑してしまった。同じ年寄りのムッシュなどは、声を上げて笑っている。

「そいつを絵に起こすのが、お前の役割だぜ?それをもとに捜査するのがウトマン課長だったり、我らが本部長官さまだ。いいね、わかりやすくって。それでいいじゃねえか」

「そうだ、そうだったね。ありがとう」

 重くなった空気が、一気に和やかになった。

 乱暴だが、陰湿ではない。気持ちのいい男だった。こういうやつがひとりいると、組織というのは案外、うまく回る。

「しかしまあ、鞄持ちの言う通り、要領が悪い。馬乗りで逆手でしょ?アルシェ大尉」

「ああ。その見立てだ」

「となると、兵隊じゃねえな」

 ゴフの言葉で、全員の手が止まった。

「ほら、兵役奉公でも士官学校でも、刃は寝せて突け、って叩き込まれるだろ?立てて突けば、肋骨で止められる。ここ。実際、心臓を狙ってるのが何発か。全部、立ててる。これじゃあ通んねえよ」

 その言葉に対し、反応はさまざまだった。アンリやペルグランは、目を輝かせている。ムッシュとデッサンは、これぞ、という、満足げな表情だ。アルシェだけは、迷惑そうなものを見るように眉間を押さえている。

 この男には、こういうところもある。直感が鋭い。あるいは、ひらめきが走る。腕力ばかりが悪目立ちするが、その実、この直感をもって、膠着した状況を何度も打開してきた、優秀な捜査官なのだ。

 ただし、の悪いことに、本人にはその自覚がない。

 何度か矯正したり、自覚させようとしたが、うまくいかなかった。下手に論理立てるより、自由な発想を尊重した方がいい結果につながる。自分のやり方の後継者になりうるかと期待したのだが、それは叶いそうになかった。

「準男爵以上の爵位持ちであれば、徴兵義務は免除されますが、剣術指南役を雇うなり、あるいは親が担うなりして、同じことを学ぶはずです。つまり犯人は、人を殺すための、刃物の使い方を、知らない」

 ペルグランが、早口でまくし立てる。そのあたりで、ゴフもようやく、自分が突破口を切り開いたことを自覚したようで、照れ臭そうな顔をしはじめた。それをたしなめるように、デッサンが肘を飛ばしていた。

 平民の男たちには、兵役奉公だとか徴兵義務だとかいうのが、義務として課されている。ただし、国や領主が養える期間や資金は限られてくるわけで、銃の扱い方、刃物の使い方、指揮系統の大切さ、それぐらいを叩き込む程度である。期間としてはだいたい二ヶ月程度。しかも、ある程度の地位であれば、それをする必要もない。

「ただ、長官の見立てでは、女ではない。つまり、男で、懲役が免除されて、剣術を学んだことがない立場。つまり」

「ああ」

 興奮するペルグランの言葉に合わせ、ダンクルベールは、杖を何度か鳴らした。

「宗教家だ」

 大病に苦しむ司祭がいる。ビゴーからは、そんな話を聞いていた。


6.


 三十枚ほどに纏められた書類の、およそ三ページあたり半ばに目を通したところで、すぐに読む気が失せた。その問題の部分に、多分に言葉を選んだ上で、書けるだけの文句を書き重ねて、側に控えていた副官に突っ返した。

「却下」

 副官は、明らかに狼狽していた。

 司法警察局の庁舎の老朽化に伴い、移転、あるいは建替の話が出ていた。まだ予算は確定していないものの、どこからかその話を聞きつけたのだろう、鼻息の荒い建築家どもから、山のように図面が届いている。

 残念なことに、どれもこれも、役所の仕事を理解していない駄作ばかりだった。

 今回送られてきた図面は、国内でも名の知れた建築家のものだった。宮殿の増設や、どこかの聖堂も手がけている、実績がある人物である。実家も名家だった。

 それほどの人物であっても、この程度である。

「婦人用の厠所トイレを考慮していないなど問題外だ。うちに何人の婦女子が出入りしているのか、まったく理解していない」

「しかし閣下、あの自信満々の様子ですよ。突き返したとなれば、怒鳴り込んでくるかと」

「追い返せ。それで駄目なら、適当な罪状で捕縛しろ」

 セルヴァンがそういうと、副官は諦めたように項垂れた。

 もとより連中、順序というものを知らないのだ。まず要求仕様があり、それに対する予算が定められ、叩き台程度の草案を挙げていく。気が滅入るほどの行程を以て、それを推敲していく。

 それが、役所としての順序だ。

 今はまだ、要求仕様をまとめている段階である。自分たちがどの行程のどの部分で必要とされているのかも理解できない連中をまともに相手をする必要など、本来であれば、ないはずだ。

 だが司法警察局の局長ともなれば、こんな面倒なことも、仕事として受け入れなければならない。

 国家憲兵、それも警察隊などは、世が太平であればあるほど金食い虫扱いをされる。幾分か落ち着いたとはいえ、おかげさまで情勢不安が続いてはいるが、それでも毎期の国会で真っ先に槍玉に上がる程度には、政治家どもには疎まれている。

 そういう連中もひっくるめて、国家と国民を守らねばならない。国家憲兵とはそういう仕事だ。

 そのためには、こういう馬鹿げたやりとりも、後々の肥やしになってくるし、怠れば禍根になりうる。

 望んで面倒を選んだのだ。仕方あるまい。

 そうこうしているうちに、陽が傾きはじめた。そろそろ客人が訪いに来る頃合いだった。重要な客人である。

 先に、副官に下がるようにだけ伝えておいた。この副官と客人とは、どうしてか相性が悪い。

「すまんな。貴重な時間を頂戴させてもらう」

 入ってきたのは、杖をついた、褐色の大男と、若い士官だった。両方とも知己ちきである。

「構わんさ。口頭でやりとりした方が早いこともある。特に、貴様の頭の中を文面に起こすとなれば、至難の業だ」

「お互い様だろう。おお、噂の新庁舎の図面か。貴様もついに建築にまで手を出すとは。手と頭がいくつあるのか知りたいぐらいだよ」

 大男とのやりとりに、若者がぎょっとした表情をしていた。傍目からみればそうだろう。

 少将と、中佐である。

 セルヴァンは実家のこともあり、とんとん拍子で現在の地位、役職に上り詰めた。対してダンクルベールは貧民の出である。それでも類稀な才覚と努力で実績を積み上げ、老境手前で警察隊本部長という地位を掴み取った。

 はじまりは二十年ほど前。あのガンズビュールだった。

 それからの、長い付き合いだった。何度もぶつかり、手を取り合い、取っ組み合った。自然と、俺と貴様とかいう、古臭い兵隊言葉でやりとりするようになった。年齢も軍暦も、向こうのほうが十近く上で、対してこちらは、歳若くして閣下なんぞと呼ばれている身の上である。

 それでも、自然とそうなった。

「踏み込めない領域に、踏み込みたいのだが」

 ダンクルベールの、いつも通りの、深い声だった。

「粗筋は読ませてもらった。それにしても、もと南部司教猊下げいかとは大きく出たな。今や在野の隠者だが、私たちにとっては、確かに未だ不可侵の領域だ。だから、今一歩踏み込むためには、もう一歩分の根拠がほしい」

「目撃情報が出ました」

 ダンクルベールの横に掛けていた若者が、声を上げた。緊張しているのだろう、額に汗を滲ませていた。

「荷馬車を見ていました。麻布に包んだ何かを放り出す様子を見ていたと。荷馬車ですが、一頭立てでなく、二頭立てだったそうです。つまりは」

「ペルグラン少尉」

 ところどころ、つっかえながら言い進める言葉を、あえて遮った。

 ペルグランの体が強張った。向こうは自分以上の名家の出身とはいえ、少尉である。それぐらいは弁えているのだろう。声も手も、可哀想なぐらいに震えている。

 セルヴァンはじっくりと、ペルグランの目を見た。

 怯えの底に、しっかりしたものがある。それは、元来備えていたものではなく、培ってきたものだ。

 それを見抜ける程度には、歳を重ねてきた。

「合格だ。まあ、及第点だがな」

 返答に対し、ペルグランは、わざとらしいぐらいに胸を撫で下ろした。それを見て、ダンクルベールが満足げにペルグランの背中を叩く。顔を立てるために、ちゃんと練習をさせてきたのだろう。このおやじのことだ。それぐらいは気を回す。

「なかなかどうして、一年でも育つもんだな。ご実家が投げて寄越してきた時は、ずっと不貞腐れた顔をしていたものだから、どうしたものかと気掛かりだったが、杞憂だったな。いい面構えになったぞ、少尉」

「めしが美味いのが、気に入ったそうだ」

 ダンクルベールにそう言われ、ペルグランが照れ臭そうに笑った。

「なるほど、めしか。若い頃は、めしか女だもんな」

 セルヴァンは笑った。冥利に尽きる話だ。

 働く者こそよく食うべき。この地に長く根差した豪族たちの、ある種の共通認識である。自分の財力や武力が、領民の生活を犠牲にして成り立っているのを自覚しなければ、燃え盛る館の柱に吊るされる末路だけが待っている。

 そうならないために、富の再分配は必須になる。その際、真っ先に求められるのは、食事だった。

 北西部に根ざす、八百人相当の領民を抱える大豪族、それがセルヴァン家である。

 聞こえはいいが、八百人を食わせるのは、生半なことではない。牛馬が不足すれば、麦が減る。里山の管理を怠れば、豚や茸が減る。場合によっては、領主一族自らが鋤鍬すきくわを手にしなければならない時もある。

 金を生み出す仕組みも、必要になる。

 領土内には金属の鉱脈がなかった。あるものは、自分達が食う分の食糧である。それを、増やす。増えた分を売る。あるいは酒や加工品にして、価値を高める。チーズや生ハム、煙草や紙、綿花や絹など。作れそうなものは、なんでも試してみる。うまくいったものを、定着させる。それの繰り返しだった。

 そうやって、領土と領民を保ってきた。

「今年は雨が多く、晴れの日が少ない。川の氾濫が起きていないだけましだが、どうしたもんだかな。麦は早めに刈り入れたからいいとして、南の米とか蕎麦は不作だろうな。葡萄や芋も駄目かもしれん。早めにエルトゥールルあたりから買い付けしておくよう、豪商派には口添えをしておかなければなるまい。ああ、瓜や赤茄子トマトは豊作だそうだ」

 冬頃、民衆の不満が溜まるだろう、ということを、遠回しに言ったつもりだった。今後の懸念のひとつである。ダンクルベールは、それが理解できた様子で、眉間に皺を寄せた。

「ええと。局長閣下は、食うめしのことについて、普段からそこまで、お考えになられているのですか?」

 対してペルグランは、呆気に取られた顔をしていた。表面上の意味しか理解できていないようだが、今はそこまででも十分である。

「事務方をめるなよ、若僧。飢えて凍えて泣きたくなければ、私の言う事はよく聞いておけ」

 にっこりと笑って、ペルグランをたしなめておいた。

 国家と国民を守るのが、国家憲兵の仕事だ。そして、国家憲兵の立場と生活と給料を守るのが、自分の仕事だ。

「捜査の現場は、そこのダンクルベールの領分だ。今の今更、少将閣下が現場にしゃしゃり出たところで、甚だ迷惑だろう?なあ、中佐」

「仰る通りです、少将閣下。ふたり揃って、憲兵総監閣下を怒鳴りつけたことは、若気の至りにしてもやり過ぎたよな」

 言って、ふたりで大笑いした。そんなことも、よくあった。

「さてと。それにしても、今回も奇々怪々な見立てだな、貴様。よく言って突飛な発想だ。詳しく聞かせてくれ」

 先んじて渡されていた書類と、眼鏡を取り出しながら、セルヴァンは話を聞く姿勢を見せた。近頃、どうにも目が霞んでしまい、細かい字が読みづらくなってきてしまった。

 ダンクルベールの見立てはいつもどおり、荒唐無稽だった。

 死期が近い、老いた男。教養があり篤実で、他者からの信頼が厚い。信仰に篤く、真実と事実は同義だと信じている。

 だから、どう死ねば星になるのかを、知りたがっている。

 これに当てはまるのが、かの南部司教、バラチエだというのだ。にわかには信じ難い話である。

「俺は、信仰というものには無縁な生涯を歩んできた。だからこそ逆に、信仰というものを主軸に人生を歩んだ場合、そして今の時代、そういう人間が死を迎えるにあたり、どういう心境になるか、というところに行き着いた」

 胸元から紙巻を取り出そうとしたのを、セルヴァンは目で咎めた。警察隊本部の方はともかく、司法警察局総局の庁舎は全面禁煙を命じている。それに気付いて、ダンクルベールは渋々、胸元から手を離した。

「信じてきたもの。正しいことだと、他者に説いてきたものと、観測的事実から導き出された自然科学とやらにがある。それに対する葛藤だ。大地は神たる父にあらず、太陽は英霊が掲げたる灯火にあらず。まして死期を前にして、死んだとしても星にはなれんと言われても受け入れられまい。だから実験する。宗教論ではなく、科学的な視点から、どうやれば星になれるのかを観測したいのだ。星になれないのは、死に方がまずかったのか。もっと苦しんで死ねば、あるいは。それの試行錯誤を、自分の番までやる」

「雄々しく散りたるもの、非業のうちに死したるもの。ミュザの火は、それらをより尊び、強く照らしたもう。ヴァーヌ聖典、第八章、第二節だな。観測するとなれば設備が必要だ。こちらについては、目処は立っているか?」

「天体望遠鏡。誰も使っていないやつが、ひとつある」

 中央天文台。

 この国で最も早く建設された、天体観測用の施設である。今は観測技術の発達と、機器の価格安定により、同等以上の性能のものを、複数台は建設できるようになったため、使われなくなった。基本的に一般公開も行われておらず、どこだかの教授をやっていたらしい偏屈なおやじが、管理人として暇を持て余しているだけの、寂れた場所である。

「今、ウトマン達に、来館記録を洗わせている」

「手際がいいな。しかし、だ」

 違和感があった。

 詳しすぎる。普段の見立ては、もっと粗い。それを現場に残された証拠で補強していく。

 今回は、逆だった。

 何となく、ペルグランの顔を見た。

 頬が、わずかに腫れていた。

「シェラドゥルーガに会ったな?」

 言われて、ダンクルベールがが悪そうな顔をした。それを見て、セルヴァンはため息をついた。

「頼り甲斐はあるかもしれんが、程々にしておけよ?あれも貴様には未練があるだろうし、一応は死んだことになっている存在だ。警察隊の本部長官ともあろう方が、そんな化け物と会っていることをすっぱ抜かれてみろ。だぞ」

「すまん。わかっているつもりだ」

「頼むよ。でなければ、守れなくなる」

 警察隊本部の評判は、賛否両論、と言ったところである。

 市井からは商売繁盛の守護聖人だとか誉めそやされているが、貴族名族からは、今まではおべっかをかいてきた連中が突如として令状を提げて乗り込んでくるようになったものだから、心底に恐れられ、そして疎ましがられていた。

 そして、マスメディアの連中。

 これが一番厄介で、特に最大手である青鷺あおさぎ出版社が、ダンクルベールを目の敵にしていた。連中、自分達のことを玄人裸足の名探偵だと思っている節があるらしく、捜査現場への不法侵入、公務指示および命令の無視、証拠品の窃盗など、好き放題やってくれる。

 いつぞや、あそこの社長が捜査協力を申し出たところ、ダンクルベールに丁重に断られたそうで、それ以来、毎日のように嫌がらせをしてくるようになった。

 都度都度、法務部を経由して訴状を送りつけたおかげで、随分と大人しくなったが、いつまた噴火するかもわからない、危険な火種のひとつである。

 不意に、ノックが鳴った。

 入室を促すと、副官が入ってきて、不思議そうな顔をしたままダンクルベールにそれを渡して、さっさと退室してしまった。

 紙切れ一枚である。

「動いたようだ」

 それを見たダンクルベールの目が、こちらに向いた。

「貴様の“あし”か」

「ああ。バラチエ司祭が中央天文台に向かっている」

 ガンズビュールで足を悪くして以来、ダンクルベールは自身の部下とは別に、独自の密偵を雇っていた。

 ふと、外を見る。雨は上がっていた。傾いてはいるが、陽も顔を見せている。

 もしかしたら、今日の夜は星が見えるかもしれない。

「俺の“あし”が届いたとなれば、俺の部下も届くころだな」

 ダンクルベールの言葉が終わるか終わらないかぐらいで、扉の向こうが慌ただしくなった。

 失礼します、と荒い口調で入り込んできたのは、ふたりだった。痩せた男と、浅黒い肌の男である。

「中央天文台の来館記録、出ました。バラチエ司祭、事案ごとに訪れています。“あし”からも今、動いたと報告あり」

 ウトマンが肩を上下させながら報告した。ペルグラン以前にダンクルベールの副官を務めていた、警察隊の名参謀である。

 わざわざ足を運ぶ場所ではないところに、足繁く通うのには、つまり何らかの理由があるということだ。

「警察隊本部長官」

 セルヴァンは、思い切って声を出した。

 好機を前にして、判断に時間を費やすほどの余裕はない。

「以降の判断について、すべてを貴官に一任する。そして、貴官の判断の一切について、責任は上官である本官が取る」

 ダンクルベールが立ち上がり、敬礼した。

 本来であれば、ヴァーヌ聖教会や貴族院議会、そして裁判所あたりへの根回しが必要になる。だがここを逃せば、また人が死ぬ。そうなる前に、押さえられるものは押さえておくべきだ。

 それができるのは、ダンクルベールたちしかいない。

 ならば、彼らの帰るべき寝床を準備し、あるいは尻を拭い、骨を拾うのが自分の仕事だ。

 役所には順序があるが、場合によってはそれをすっ飛ばすことも必要になる。いつも通りのことだった。

「ゴフ。“錠前屋じょうまえや”は何人出せる?」

 ダンクルベールが、浅黒い肌の男に問う。

「騎馬八騎、徒歩かち十二名。門前に控えてます」

 特務機動隊、通称“錠前屋じょうまえや”。警察隊本部の虎の子である。組み立てたばかりで、腕っ節最優先、乱暴者の集まりではあるが、を開けるには“錠前屋じょうまえや”が適任だ。

「よし、修道院の方だ。騎馬だけでも先に向かわせろ。俺も後から、アンリエットと共に行く。ウトマンは天文台だ。司祭の身柄を確保しろ。抵抗するようなら、足の一本ぐらいなら構わん。一才、容赦するなよ」

 早口で捲し立てたあと、ダンクルベールがこちらを見た。決意の奥に、幾らかの迷いが見えた。

 任せろ。そう、目で伝えた。それで、向こうも、頷いた。

 警察隊の面々が慌ただしく退室した後、副官がおずおずと入室してきた。こちらの顔色を伺っている。

 張り詰めたものを解したくて、ひとつ、深呼吸をした。

珈琲コーヒーを。それと、始末書と辞表も用意しておいてくれ」

 これも、いつも通りのことだった。


7.


 空は、闇の方が強くなってきた。

 修道院への道は舗装されているので、馬の足を心配する必要はない。これが未舗装路だったら、ぬかるんで、速度は出せなくなる。ゴフは馬の扱いに自信がある方ではないので、正直、ほっとしていた。走る、止まるぐらいならともかく、士官学校でやるような、飛んだり跳ねたりが必要な道だったら、目も当てられない。

 先に駆けていたはずのルキエが、速度を落として並んだ。

「先に、何かいる。十人ぐらいだ」

 女だてらに肝が据わっていて、何より目が効く。斥候や見張りによく使っていた。

「盗人だよ。それも生粋の」

「殺しなし、火付けなしのやつか。今時、いるもんだな」

 なぜ今、修道院を狙う必要があるのか。

 もとより清廉篤実で知られた、もと南部司教さまである。そんな人の、あばら家から立て直したような修道院に、盗人が狙いたがるものなんてないはずだ。

 考え方を変えれば、狙わせたのかもしれない。

 あらかじめ、高価な何かしらを修道院に入れておいて、情報を流す。金に困った盗人だとか、ヴァーヌ聖教によからぬ印象を抱いている奴らに襲わせて、都合の悪いものと一緒に盗んでもらったり、あるいは燃やしてもらえれば、重畳至極。

 へえ。頭のいい奴の考えることは、回りくどいな。

「当初の予定通りで行く」

 とはいえ、やることは変わらない。強行偵察だ。

「そうかい。じゃあ、あたしは後ろに付いとくよ」

 ルキエが、さらに速度を落として殿についた。

 すぐに建物が見えてきた。まずはふたり、見張りだろう。

 ゴフの得物は戦鎚だった。柄はそれほど長くなく、馬上でも扱える程度の、下腕ほどの長さだ。時代遅れだが、何かと融通が効く。なにより実家が大工なもので、の扱いは身に染み付いていた。

 馬から飛び降りながら、一気に襲い掛かった。反応しきれない様子で、どてっ腹に槌頭がめりこんだ。もうひとり、ようやく腰にぶら下げた剣に手をかけた。その手に、戦鎚とんかちを振り下ろす。悲鳴が上がった。

 あくまで強行偵察だ。殺しはしない。だが、死ぬ思いぐらいはしてもらおう。

 真正面から侵入すると、十人ぐらいが礼拝堂にいた。向こうも今しがた到着したと見えて、こちらの着ているものをみて、全員、ぎょっとした表情をみせた。

「よお。ご存知、“錠前屋じょうまえや”のお出ましだ。邪魔するんなら、こじ開けるぜ?」

 決め台詞。喧嘩には、こういうものも必要だ。

 雄叫び。三人、一気に飛びかかってくる。

 先頭のやつの顔面に、軍靴をお見舞いしてやった。左から、鉈。戦鎚とんかちの柄で受け止めて、金的に蹴りをかます。そこまでで、最後のひとりの腰が引けた。

 おいおい、びびったら、負けだぜ。

 膝に、思いっきり戦鎚とんかちをかましてやった。曲がってはいけない方向に曲がった膝を抱えながら、泣き叫んでいる。

 喧嘩の鉄則は、早めに派手なことをすることだ。場の空気を、自分の方に引き込む。それで、大人数相手でも勝てる。

「国家憲兵隊。それも、警察隊か」

 じりじりと後退りする賊どもの中から、一際大きい男が、堂々と割って出てきた。歳の頃は、ダンクルベールよりか少し若いくらいだろうか。それでも、およそ普通の生き方をしてきてはいないだろう、厳めしい気を放っている。

「おたくさん。ここには用があってきたのかい?」

「家宅捜索だよ。それで、お前らは、窃盗の現行犯かな」

「この状況なら、そうなるよな。よし、わかった。降参だ」

 男は、どっかりとその場に座り込んだ。

「随分と物分かりがいいじゃねえか」

「俺はこいつらを死なせるために生かしてきたわけじゃない。この首ひとつでそれが叶うんなら、安いもんだ」

 男は首を差し出してきた。それを見て、周りの連中も、次々とそれに倣う。泣きはじめるやつも、何人かいた。

「すまねえ、叔父貴。俺たちが不甲斐ねえばっかりに」

「みっともねえ真似するんじゃあねえ。俺たちゃ悪党だろう。国家憲兵さまをわずらわすことないよう、神妙にしろい」

 老人が吠えた。礼拝堂すべてを震わせるほどの怒号だった。それを受けて、誰も彼もが、粛々と居住まいを正した。

 事情はわからないが、ひとかどの任侠者のようだ。

 この辺りで、後続が間に合った。ダンクルベールやアンリも駆け込んできた。

「おお、ダンクルベールまで来やがるとは」

 ふたり、顔を合わせた途端、はっとしていた。

「見たことのある顔だ。ジスカールじゃないか。任侠崩れがほんとうに身を持ち崩すとは。いやな時代になったもんだ」

「ほんとうな。食うに困って盗みの真似事だ。下手なもんだから、このとおり、現行犯逮捕だってよ。笑っちまうよな」

「笑えるもんかよ、まったく。馬鹿なことをしてくれた」

 ダンクルベールがかぶりを振りながら吐き捨てた。

「家探しをする。人手が足らんから、手伝ってくれ」

「おいおい、順序ってもんがあるだろう。まずはお白州しらすじゃあねえのかい?」

「俺は老人で、目も耳も、加えて足も悪い」

「そうかい。なら、謹んでお手伝いさせてもらうよ。お前さんがたのお目当てを探せばいいんだな?」

「部下が指示を出す。懐に入る程度のものなら、目を瞑る」

 ダンクルベールが瞼を閉じながら細巻を咥えた。その表情から、感情は読めなかった。

 だが、その声色には、どこか悲しいものを感じた。

「お前ほどの男を粗末にしたとなれば、向こうに行った時、悪入道あくにゅうどうの爺にあわせる顔がないからな」

「恩に着る。ほんとうに、すまない」

 座り込んだまま、ジスカールと呼ばれた男は、震える声を絞り出した。

 ダンクルベールが紙巻をふかしながら、ゴフの方に歩いてくる。次の指示が来るのだろう、居住まいを正した。

「信用していい。あれの親玉はとびきりの悪党だったが、それ以上にとびきりの人物だった。使ってやってくれ」

 静かな声で、そう呟いた。

 ダンクルベールというひとは、信用する人間の前でしか紙巻を咥えない。風説に過ぎないが、入隊する時から聞いていた。それが正しいのならば、つまりは、そうなのだろう。

 昔、相手した悪党の手下。上り詰めた男と、堕ちた男。そして、聞いたことのある、悪入道あくにゅうどうという名前。

 ゴフは、それ以上を詮索するのをやめた。全員にとって、昔の話だ。それで済むなら、そのほうがいい。

 盗人どもを含め、方々をひっくり返すように、指示を出した。怪我をさせた奴は、アンリに押し付けた。足を折ってやったやつの状態を見て、やりすぎです、と大声で叱られた。聖なるアンリエットにしてみれば、警察隊でも盗人でも、生命いのちの値段は同じなのだ。

 ひとつ目は、外で見つかった。荷馬車に敷いた藁に、血が混じっていた。まだ、片付けが終わっていなかったのだ。

 地下室に続く扉の前で、三人ほどが、すったもんだしている。中に、何かの気配がするらしい。

「鍵じゃない。内側からかんぬきをかけてます。考えやがった」

「おい、オーベリソン」

 ゴフは焦ることなく、後ろに控えた巨躯にひと声かけた。

「ご自慢の万能鍵、お見舞いしてやれ」

 オーベリソンが、ずいと前に出た。

 つま先で二、三、扉を小突いた後、周囲に離れるように促した。そうして、お似合いの長柄斧を振りかぶり、一気にぶっつける。

 一発だった。観音扉が、綺麗に割れた。どよめきが上がる。

 ダンクルベールと並ぶか、それ以上の図体を誇る、うち一番の力自慢だった。蛮族の名産地たる“南蛮北魔なんばんほくま”の“北魔ほくま”の方。北方の雄、アルケンヤールの戦士の血である。

 オーベリソンを先頭に、慎重に、暗闇を照らしていく。思ったより、広い。足音を立てないように、ゆっくりと。

 何かの、気配。生き死にはともかく、何かがいる。

 オーベリソンの腕を叩き、感じた方に顎を向けた。頷き、ランタンを差し出してきた。受け取る。あと何歩か先に、何かある。

 いる。倒れている。

「いたぞ。ひとりだ。雁字搦めになってる」

 伝えてから、駆け寄った。

 倒れている若い女。目隠しに、猿轡をされて、手足も拘束されていた。ランタンのわずかな光でもわかるぐらい、痩せ細って、渇き切っている。時間をかけて、飢え殺しにかけられたようだった。

 もしかしたらもう何人か、かどわかしているかもしれない。ダンクルベールの予感が的中したわけだ。

 瞼を閉じた。すまねえ、間に合わなかった。心の中で、詫びた。

 それでも確認のために、首元に手を添えた。

 ふと、感じた。脈がある。動いている。

 生きている。

「生きてるぞ。湯を沸かせ。動かすなよ。それと、アンリ、サントアンリだ」

 思わず、腹から声をぶっ放していた。全員が弾けるように、一斉に動きはじめた。

 一分もしないうちに、アンリがすっ飛んできた。女の様子をみて一瞬の動揺を見せるも、すぐにその細くなってしまった体を抱きかかえた。

「飢えて渇いている。湯は今、沸かしている」

「何か食べ物を。もっと言えば、麦か蕎麦。それと毛布とか。とにかくかき集めて。体を温めます。早く」

 女の拘束を解きながら、アンリが叫んだ。それに、頷いて答える。

「手が空いてるやつ、台所と寝室を漁れ。めしを持ってる奴は、何でもいい、持ってこい」

 すぐに悪党のひとりが、硬くなったパンのかけらを持ってきた。食器や湯も、間に合った。

 アンリがそれを、全部まとめて器にぶち込んで、ゆるめの粥状にする。匙で流し込もうとするが、口を動かす力すら、残されてないようだ。

 見かねたアンリが椀に口をつけて、何度か咀嚼してから、女と唇を重ねた。舌で歯をこじ開けて、口移しで、無理やり流し込んでいく。少しずつ、生命いのちを吹き込んでいく。

「貴女をお星さまになんかさせやしない。生き返らせてみせます。だからどうか、諦めないで」

 アンリが力強い声で励ましながら、めしを食わせていく。

 少しして、女の頬が、動くようになってきた。ここまでいけば、匙からでも食えそうだ。

 後になって、ありったけの毛布やら麦を挽いたものなんかを抱えて入ってきた悪党どもが、その光景を見て、膝をついて祈るように両手を組んだ。誰も彼も、アンリさま、サントアンリさまだと、涙を流しながらこぼしている。

 ひとつ、生命いのちの目処がついた。

「八人来る。馬だ。こいつらとは、別の連中だ」

 外からルキエの声が上がった。夜だろうが何だろうが、こいつの目はいつだって確かだった。

 地下室から這い出すと、ダンクルベールが待っていた。すでに拳銃を握っている。

「女ひとり、飢え死にさせようとしてました。何とか間に合いましたよ。サントアンリさまさまだ」

「よし、なら次は外だ。二虎貪食にこどんしょくとは、向こうも頭が回る」

「まあ、俺たちの敵じゃあないっすよ」

 舌なめずりして、ゴフは答えた。

 考え方としては籠城戦だ。悪党どもは別にして、死にかけの女に割いているのは三人。周囲の警戒に五人やったとしても、銃列を組んで待ち構えるぐらいの余裕はある。

 外を見やると、雨が降っていた。小銃と実包を布で包んできて正解だった。

 正門で銃列を二枚、組んだ。

 夜雨の向こう。馬影はまだ小さい。こちらの銃は騎兵用で、取り回し最優先だ。通常のものより、いくらか射程が短い。

「二列斉射、二回。用意」

 合図と共に、前列の銃声が上がった。いくつか、いななきが上がる。すかさず、前後を入れ替えた。

 馬は相当鍛えない限り、爆音と閃光で足が止まる。雨であろうが、当たらなかろうが、撃つだけで人を振り落としてくれる。

 装填。銃の横についている取手を引き上げると、銃身の根元にある基部が跳ね上がる。そこに、前装式のと同じように、火薬と鉛玉を押し込んだら、上がっている取手ごと平手で押し戻す。仕掛けの都合、撃鉄は既に半分上がっているので、雷管を交換したら、最後まで起こしてやる。

 その頃には、二列目の銃声が鳴り止んでいた。

 この後装式小銃は、古きよき前装式と比べれば、半分以下の時間で装填が終わる。それでも配備されているのは旧式だった。最新型は、雷管と実包が一緒になった金属式薬莢とかいうのを使うので、もっと早い。とはいえ高級品なので、国家憲兵の、それも警察隊に配備されるのは、ずっと後になるだろう。

 歯がゆいが、我慢するしかなかった。

 二列、斉射が二回で、影は残らなかった。

 代わりに、後ろで音がした。

 銃列を崩し、修道院の中に引き戻る。甲高い銃声が連続して響いた。ダンクルベール愛用の、パーカッション・リボルバーの音だ。

 広間に辿り着く頃には、あらかた片付いていた。乗り込んできたのは六人ぐらいで、残していた五人とジスカール、それにダンクルベールだけで対処できていた。

 まだひとりだけ、元気なのがいて、ちょうどダンクルベールと正対するかたちになっている。向こうは右肩を撃ち抜かれたのか、震える左手で、細剣レイピアを突き出していた。

「神妙にすればそれでよし。そうでないなら」

 六発全部、打ち切ったのだろう。ダンクルベールは言いながら、拳銃を胸元にしまい込んだ。

「ここでかばねを晒すことになるぞ」

 左手にあった杖を右手に持ち替え、正眼に構えた。やり合うつもりか。

「図に乗るなよ、油合羽あぶらがっぱ。お前ひとり、やっつけちまえば」

「できると思うなら、やってみろよ」

 一喝の後、ダンクルベールが周囲を見渡した。割って入ってくれるなよ、という目だった。

 男が吠えた。真っ正面。圧の強い、突き。火花が散った。

 細剣レイピアが、ひん曲がっていた。

 間を置かず、ダンクルベールの杖が、男のこめかみにぶち当たった。人間の体が、ごろごろと音を立てて転がっていった。

「また別の連中が来るかもしれん。息のあるやつは、一箇所にまとめておきなさい。後で診る」

 ダンクルベールが、ひと心地入れてから、声を上げた。

 六十手前で、片足が悪くたって、これほどである。杖術というより、杖を使った喧嘩術だ。よほど腕前に自信があったところで、一度でも打ち合えば、まず剣の方が持たない。あの特注の、鉄芯入りの杖で、容易くへし折られる。あれを頭に喰らったらどうなるかなんて、考えたくもない。

 二階に上がっていたペルグランが、急足で降りてきた。

「盛りだくさんです。日誌、望遠鏡、現代天文学の学術書」

「兄さん。額縁に入った絵とかなんか、あったか?」

 ジスカールが、つとめて落ち着いた口調で、ペルグランに問いかけた。おそらくは、そもそものお目当てである。

「抱えても余るほどに。絵画に貴金属。帳簿と照らし合わせましたが、ここ数日で揃えています。ですが」

 ペルグランは、一瞬の逡巡を見せた後、ゆっくりと答えた。声には、迷いが多分に含まれていた。

「おそらくはすべて、贋作です。絵画は特に、私でも知っているほどの画家のものですが、帳簿につけられた金額とはどうしても釣り合いません。宝石類も、あるいは」

 本人はおそらく、言っていることの意味を理解できているはずだ。ゴフとしても、予感以上の妙策である。

「撒き餌、か」

 当のジスカールといえば、顔を両手で覆い、かがみ込んでしまった。大きな体が小さくなってしまっている。

「お前たち以外にも、方々に言いふらしているだろうな。盗人連中呼び込んで、証拠と一緒に荒らしてもらおうっていう寸法だったんだろう。間に合ってよかった」

 ダンクルベールが、紙巻を取り出して、火をつけた。

「よかったな。おかげで俺は、馬鹿を見る羽目になった」

 小さくなったジスカールの体が、震えていた。

「悪党が泣くんじゃない。泥啜ってでも、子分どもを食わせたかったんだろう?見てるぞ、立て。しっかりしろ」

「悔しい。悔しいよう、ダンクルベール。俺は、あの人の残したもんをよう」

「しっかり守り続けているじゃないか、ジスカール。悪いようにはしないよう、上には掛け合う。だから裁きが終わるまで、首括ったり、舌噛んだりするんじゃないぞ。いいな?」

 その声は、つとめて気丈に振る舞っているように聞こえた。ダンクルベールはジスカールの背中を叩きながら、悪党どもに目配せした。

 そうやって、子分達に支えられながら立ち上がった男の顔は、ぐしゃぐしゃに濡れていた。

「ありがてえ。そして、面目ねえ。警察隊本部長官さま」

 咽び泣きながら、ジスカールは深々と頭を下げた。

 三人つけて、先に帰らせた。その様子を見ながら、ダンクルベールは肩を震わせながら、それでも堂々としていた。

 火のついた紙巻を、握り潰しながら。

「撤収する。いつ次が来るかわからん。騎馬はウトマンと合流だ。俺の馬車には、被害者とアンリエットを」

「長官、これを」

 オーベリソンが大きな声を出して駆け寄ってきた。持ってたのは、綺麗な封筒に入った便箋だった。

 それを受け取り、読みはじめたダンクルベールの顔が、みるみる赤くなり、怒りに歪んでいった。

「くそったれ」

 怒号。手にしていたそれを投げ捨てて、さっさと馬車に乗り込んでしまった。オーベリソンも、盛大なため息をついて、捨てられたそれを拾い上げた。

 目で、渡すように促した。受け取る。

 おそらくは女の字だろう。土と雨で汚れてはいるが、綺麗な字で、ただ一文だけ綴られていた。

 バレてる。


8.


 急ぐべき状況ではあるが、やれることは、全部やった。

 美術品。すべて、贋作である。ごろつきに金をやって、言いふらした。

 あの教会は棄てる。そのために、荒らすだけ荒らして貰って、あわよくば焼いてもらう。あの中にはもうひとり、用意していたが、こちらもそろそろ死ぬ頃だったので、都合はよかった。

 発作の回数は、増えてきていた。

 自分も、もうじき。その前に、見なければならない。見つけなければならない。自分が教えてきたこと、学んできたことが正しいことを。

「星は、増えているかな」

 どこぞやの教授をやっていたという男だった。旧知でもある。金も、いくらか出していた。

「変わらんね」

「そんなはずはない。少なくとも」

「四つ、増えているはずだ。とでも?」

 その言葉に、思わず、震えていた。

 手紙が一通、送られてきた。書かれていたのは、ひと言だけだった。

 バレてる。

 そのひと言のため、ここまで急いだというのに、よもやこんなところに、憎むべきものがいたのか。

「雄々しく散りたるもの、非業のうちに死したるもの。ミュザの火は、それらをより尊び、強く照らしたもう。ヴァーヌ聖典、第八章、第二節」

「何を、言っている」

「最近は物騒だよ。女四人、ひどい死に方をした。あんたが世話してやったんだろう?衣食住から、旅立ちまで。気持ちは分からんでもないが、でもな」

「あの手紙。やはり、お前か」

「手紙?何を言い出したよ、あんた」

「しらばっくれるな。それで、私を脅すつもりか」

「知らんよ、馬鹿馬鹿しい。何を言い出すかと思えば」

「ほんとうのことを、言え。さもないと」

「どちらも、ほんとうのことを言っている。手紙の事は知らないし、星は増えない。よしんば増えてるように見えたとしても、それは望遠鏡の精度だったり、年月の具合だったりで、見えていなかったものが見えるようになることがある。すべて、観測的な事実だ。あんたの信じるものとは別のものだ」

「真実と事実は、同義だろう」

 怒鳴っていた。そうして、押しのけていた。

 望遠鏡を覗き込む。どこだ。ジャスミーヌ。エミリエンヌ。コレット。シュゼット。私の恩人たち。生命いのちを投げ打って私の信仰に応えてくれた、我が愛しい隣人たちよ。

 私なら見分けられるはずだ。我が神通力じんつうりきなら、必ずや。

 おお、永久とこしえに伏せし我らが父よ。夜闇を照らす御使みつかいたるミュザよ。迷えるものたち、我が導きにより、天道に至れり。星の座のひとつとして迎え入れたならば、どうかここに顕れたまえ。どうか、我が前にまみえさせたまえ。

 それでも、見つからない。角度を変えても、ピントを変えても、どれも同じ。ただの光る星でしかない。

 あの子たちの、魂ではない。

「おい、爺さん。いい加減に」

 肩を、掴まれた。瞬間、体の中で、何かが昇り切った。

 望遠鏡から目を離していた。手が、赤いもので濡れている。聖句を刻んだ小刀が、その手の中にある。

「まさか、あんたが」

 男が、這いつくばっている。その周りが、赤黒い。羽虫のような、甲高い音を発している。耳がきんとなるほど五月蝿い。やかましい。耳障りで、仕方ない。

 何をした。私は、今、何を。

 振り向いた。もう一度、望遠鏡を覗き込む。そうだ。今なら、星が増えるところが見えるはずだ。この男の魂が、天道へ至るところが、見える。

 だが、見えたのは、ただの闇だった。あったはずの光の数々が、何かに遮られている。

 望遠鏡から遠ざかる。窓から空を眺めた。いつの間にか、分厚い雲が空全体を覆っている。今にも、雨粒が降ってきそうなぐらいだった。

 違う。正しくない。あらゆる魂は、その善悪を問わず、天へと昇り、そして、星として。

 また、羽虫のような音が響いた。聴いていられなかった。

 這い回る男に覆いかぶさって、その喉を切り裂いた。切り裂いて、突き刺した。

 音が出ているのは、喉か、それとも舌か。

 切り開かれたところから、何かざらっとした、赤いものが見える。そこに手を突っ込んで、それを引き摺り出した。案外、長い。根元から、それを切り取る。

 血みどろの中で、それをよく見た。

 人間の、舌だった。

 叫んでいた。

 とにかく、走った。走って、転げ回って、それでも走り続けた。大雨。そして、雷の音。閃光が、何度も瞬く。血と雨で、ぐちゃぐちゃになりながら、走り続けた。

 逃げろ。何処かへ。でも、どこに。どこに逃げればいい。

 どこへ、行けばいい。どこに、居ればいい。

 どくん、と体そのものが脈打った。からだの中のあちこちが暴れ回っている。意識が、浮いている。

 こんな時に、来たのか。我が死よ。まだ、迎え入れる準備すら、できていないというのに。

 多分、倒れていた。眠い。それでも、頭と口だけは、壊れたように動いている。

 何度も唱えた、はじまりの一節。

 荒廃のとき御使みつかいたるミュザ、あかき瞳の龍と相対し、これをたおす。おお、見よ。龍の骸。空を貫く、あの峰のへと棄てられれば、たちまち炎の柱となりて闇を焦がす。ミュザは柱を昇りて天へと至り、うつろの闇にて輝ける陽光へと姿を変えん。これこそ、昼と夜の、はじまりである。

 こんにち、生きとし生けるものの死せる時、誰もがミュザの掲げたる灯火に導かれ、天へと至るだろう。そしての者とまみえ、火の裁きの後、無垢となりせば、星の座として、夜に在ることを赦されるだろう。

「なあ。この水面みなもに移る星々こそ、魂のほんとうの居場所だとは思わないかい?」

 薄い意識の中、凛とした声が、延々と唱え続ける聖句に割って入った。 

「夜空の星に手は届かない。でも、この水面みなもの星になら手が届く。ふたりで、そこに行けるよ」

 どこかで聞いたことのある言葉だった。

「ならわたくしは、月になりたい。我が儘かしら?」

 ああ、知っている。昔、よく読んだ、あの“湖面の月”の、最後の一節。何度読んでも心が震える、大好きな名場面。

 体が動くことに気付いた。まだ雨は続いている。

 濡れた体を、ゆっくり起こした。

「すべて、君の思うがままに。我が愛しき人」

 正面に、誰かがいる。背を向けている。

 傘を差した、女だった。

「あら、お久しゅうございます。バラチエ司教さま」

 振り向いて、こちらに歩いてくる。聞いたことのある声だった。それも、ずいぶん昔に。十年、いや、二十年以上前かもしれない。何度も、顔を合わせた記憶がある。

 饗宴を共にしたことも、覚えている。あの本の感想を、伝えたことも。

「ああ。今はもう、職を辞されたのでしたっけ?」

 稲光のたびに輝く、あかと黒を基調としたドレス。均整の取れた、美しい肢体。

「それとも」

 顔が見えた。

 美しい、女。纏め上げた、艶やかなあか色の髪。

「やめたのは、人間の方かな?」

 稲妻と、雷鳴。咆哮のごとき、轟音。

「ボドリエール、夫人?」

 違う、正しくない。

 ボドリエール夫人は、紫だった。あかではない。

 つまりあれは、シェラドゥルーガ。ガンズビュールの人喰ひとぐらい。ただ恐ろしき、あかき瞳のごときもの。

 叫んでいた。身が竦んでいる。なぜ、死んでいるはずの人間が。それに、当時の姿のままで。

 シェラドゥルーガが、生きている。

「業病を患い、天命を受け入れると口では言いながら、随分と生き汚く、無様な様だね。とっても素敵だ。司祭さま」

 そのあかいものは、夫人とはまったく違う、傲然とした口調で語りかけてくる。あかい瞳で、睥睨へいげいしてくる。

「でも残念だねえ。何故、溺死を試さなかったのかい?私の“湖面の月”、気に入ってたんだろう?最後の一節について、顔を赤くしながら、小一時間は語ってくれたのに」

 傘を畳み、束ねた髪を広げた。あかいそれは、たてがみとも、炎とも呼べるもののように、蠢き、燃え盛っていた。

「私がひとごろしだったから、嫌悪感を抱いた。だから避けたのかな?存外、薄情な奴だったんだな。がっかりだよ」

 眼前まで迫ってきたそれを、追い払おうとした。両腕を、突き出す。

 何かが、引っかかった。それに気づいて、思わず飛び退っていた。

 女の腹に、短剣が刺さっていた。刺して、しまった。

「痛いじゃないか。ひどいなあ」

 しばらくの間をおいて、それは平然と言葉を放った。腹から血を滴らせながら、まったく動じていない。

 腰を抜かしてしまった。膝が、がたがたと音を立てている。

 化け物だ。シェラドゥルーガだ。本物の、人でなし。

「シュゼットも、そう思うだろう?」

 シェラドゥルーガが指を差した方を見た。

 女がひとり、ぼうっと、突っ立っている。体のあちこちから血を噴きながら、こちらを見ている。

 自分が殺めた、シュゼットだった。

 叫んで、目を逸らした。逸らした先に、コレットが首を吊っていた。舌をだらりと垂らして、ゆらゆらと揺れている。

 ジャスミーヌと、エミリエンヌ。二人とも、頭から血を流しながら、こちらに這いずりよってくる。首と口から、赤い泡を吹いた男もひとり。

 やめろ。やめてくれ。そんなものを、見せないでくれ。

「人は死んでも星にならない。骸にしかなれないよ。お前もそれを、五人分、見てきただろう?なあ、ひとごろし」

 違う。骸にしたのではない。星に、星にしたつもりだったんだ。そうして自分も、そうなるかどうか、知りたかった。

 たったそれだけを、知りたかっただけなんだ。

「お前は死ぬ。星にもなれず、聖人にも列せられずにだ」

 細い腕が、白い指が、首に食い込む。そのまま、持ち上げられた。

 息が苦しい。もがき苦しみながら、その腕を振り払おうと、両手で掴みかかった。

「駄ぁ目」

 差し出した手を、払われた。赤いものが、散る。

 左腕。吹き飛んでいた。痛みはなかった。

「違う。正しくない。罪ある私を裁くのは」

「傲慢な奴だなあ。神さまも、そこまで暇じゃあないよ」

 側に立てかけていた傘の先を、腹にあてがわれた。

 やめろ。やめてくれ。

「裁くのは、人。それまでは、遊びに付き合っておくれ?」

 痛みに、叫んだ。何かが、体を貫いた。

 それはすぐに、勢いよく、引き抜かれた。首を掴む手も、離された。

 膝からくず折れる。瞼が、重い。聞こえるのは、雨音と、女の笑い声。

 意識を保っていられたのは、そこまでだった。


9.


 目を覚ましたのは、檻の中でだった。

 左腕はあった。衣類に、雨や泥以外の汚れはなかった。中央天文台近くの路地裏で倒れていたところを、確保されたという。

 ヴァーヌ聖教会からは、既に破門が通達されていた。

 そこからは、あっという間だった。

 証拠があった。餓死させようとした女は生きていた。情報を流したごろつきも、捕まっていた。

 裁判で、弁護人は、つかなかった。

 王陛下、およびヴァーヌ聖教会は激怒。判決確定後、即刻の刑罰実施を要求。これを宰相閣下、および両議会が承諾。

 気づけば、目を覚ましてからひと月もしない内に、処刑広場の控室に座らされていた。

 不思議とその間、発作が起きることはなかった。

 処刑前。男ひとり、訪いを入れてきた。

「おお、ムッシュ。ムッシュ・ラポワントではないか」

 恰幅のいい偉丈夫。代々の、死刑執行人。

「愚かなことをなされましたな。バラチエさま」

「ムッシュ。貴方が我が死を与えてくださるのか?」

「残念ですが」

 ラポワントは目を瞑ったまま、静かに首を振った。

「代々の死刑執行人は、その役目を終えました。私はただの町医者です。ただひとつ、お別れを申し上げに」

「ムッシュ、聞いてくれ。私は見たんだ。夫人は、シェラドゥルーガは、生きている。私の前に現れて」

「バラチエさま」

 その言葉は、あのころのラポワントのそれだった。厳かで、静かな声だった。

「死人は、蘇りません」

「何を、言っている?」

「事実を申したまでです。死とは、別れです」

 目を見て、言われた。真実と事実は、同義。

「貴方は、尊敬すべき宗教家でありました。何人もの道をひらき、導いた、大人物でした。すべて、過去のことです。今は、ただひとりの罪人です。ただの、ひとごろしです。ですがそれでも、貴方を慕う人は多かった。本来なら絞首ですが、聖教会所属の修道士たちの嘆願により、断首となりました。立場あるものにのみ許された、名誉ある死です」

 突きつけられた。真実。呆然としていた。

「晩節を、汚されましたな」

 それだけ言って、ラポワントは去っていった。

 私が、何をしたというのだ。ただ呆然と、手枷をはめられた両手を眺めていた。

 そのうちに、また扉が開かれた。

 刑務官。何も言わず、手枷を後ろ手に付け替えされ、両腕を引っ掴まれる。抵抗しようとしたが、押さえ付けられた。

 引きずり出される。廊下の暗闇から、光の中に。

 大勢の人。喪服。誰も彼も、俯いている。死にまみえるため、そして、それを弔うため。

 死ぬのか。今から、私が。

 階段に、引きずりあげられた。眼の前に、見えた。

 断頭台。“正義の塔ポワドジュスティス”。

 腰が、抜けていた。力が入らない。

 刑務官ふたり、両脇から抱え上げられて、無理矢理にうつ伏せに寝かされ、拘束される。首に、何かが嵌め込まれる。

 滑車仕掛けの音。重く分厚い刃が、天頂まで登り切ったのだろう。

 心も体も、すくみ切っていた。それでも口だけは、魂までに刻み込まれたそれを、ずっと唱え続けていた。

 我らが生ける大地となり、永久とこしえに伏せし我らが父よ。天より授けられし炎により、夜闇を照らす御使みつかいたるミュザよ。迷えるものたちの、その旅路を指し示し、照らし続けたまえ。ものども、その御前にまみえたならば、夜に輝く星の座のひとつとして迎え入れたまえ。

 さすれば、我ら、夜の帷が降りるたびに。

 重いものが、落ちる音がした。何かが、首筋に触れた。

 静寂。耳が痛いほどの、空虚。

 死んだのか。私はこれで、死んだのか。

 痛みはない。体は一切動かない。ただ、意識はある。首と体の間に、一枚、金属の板がある感覚だけが、はっきりしている。

 意識だけで見渡すと、誰も彼も固まったまま、動いていない。まるで時が止まったように。

 もしや、この止まった時が、死の正体なのか。

 その時の止まった世界の中、何かが動いた。

 誰かが、断頭台の横から自分の正面まで、つかつかと、わざとらしく踵を慣らして歩いてきている。音は聞こえないが、そんな気がした。

 刑務官の格好。私をこの断頭台に乗せた男の、片方。

 顔を覗き込んできた。満面の笑みで。

 男ではなく。女の、顔。

「じゃあん」

 シェラドゥルーガ。

「あら、お久しぶり、司祭さま。死んだ気分、どうだい?」

 こいつ、何をした。何をしている。私とこの群衆に、何をした。そして、死んだ気分とは、なんだ。

「驚いたろ?ちょっとした“悪戯いたずら”さ。これがお前が知りたかったものなのだから、ちゃあんと時間をかけて味わってもらおうかなとね。私ってば、気が効くだろう?」

 止まった世界の中、シェラドゥルーガは踊るように、目の前でくるくると回っていた。

 そして、こちらを見る。途端、何か面白いものでも見るように、吹き出して笑いはじめた。

「いやあ、最っ高。最高だよ、その顔。ほんとうに、見せてやりたいぐらいだ。ああ、おっかしい。笑いすぎて涙が出そうだ。鏡、持ってこようか?ひっどい顔」

 げらげらと腹を抱えて笑いながら、シェラドゥルーガは言いたい放題している。そのうち、断頭台の首掛けの端に腰を掛け、もう一度顔を覗き込んできた。

「ねえ、今。どんな気持ち?」

 口の両端が目の端にまで届くぐらい、気味悪いほどの、満面の笑みで。

「どんな気持ちだい?自分の知りたいことのために、何人も殺しておいて、死ぬ段階になって腰抜かして、結局、なぁんにも見出せないまま死んじゃうんだって。それってどんな気持ち?後学のためにも教えてほしいなぁ。ああ。でももう、お前、死んでるんだもんね?無理言って、ごめんね?」

 馬鹿にするようにして、笑い続けている。そうやって、ひとしきり笑った後、それはまったく表情のない声で、耳元で囁いてきた。

「これは観測的な事実だ。人は、自己の死を認識できない。死の先に何があるかなど、知ることはできない。だからここから先は、お前の自由だ。星になりたきゃ、なればいいさ」

 じゃあね。そう言って、女は指を鳴らした。

 轟音が響いた。それだけは、聞き取れた。


10.


 看守の働きがどうにもまどろっこしい。もたもたしているようにしか思えない。カーテンと鉄格子の鍵を開けるだけだぞ、さっさとしろよ。もしかしたら口に出ているのかもしれないが、もう取り繕うほどの冷静さもなかった。

 いつも通り、どうぞ、と言って、看守が入室を促した。

 鉄格子をくぐる。ペルグランも慌てて着いてきているが、自分の歩く速度が思ったより早いのだろう、駆け足ですら追いつけていないようだった。

 途中から杖を付くのも面倒になって、投げ捨てた。左足を引きずってでも、さっさとあの顔を拝みたかった。

 シェラドゥルーガはソファにもたれながら、ワインを楽しんでいた。こちらを向いて、美しい顔に笑みを浮かべた。

「やあ、我が愛しき」

 言い終わる前に、動いていた。

 パーカッション・リボルバー。

 六発全部、叩き込んだ。女の体が、人五人分ほどの距離を吹っ飛んでいった。

 拳銃側面の仕掛けをいじり、筒状の弾倉自体を外す。油合羽あぶらがっぱのポケットに仕込んでいた、装填済みの替え弾倉を差し替えて、拳銃を組み直す。

 立ちあがろうとしたシェラドゥルーガに歩み寄りながら、もう六発、ぶち込んだ。

 壁にまで吹き飛ばされたそれは、ぼろぎれのようになっていた。血と肉とはらわたをぶちまけて、それでも声を上げて笑っていた。

「舐めた真似してくれやがったな。この腐れ外道が」

「心当たりがありすぎるなあ。どれが一番、気に障った?」

「手紙一通、送っただろう」

「ああ、そんなこともしたな」

 血の沼が、にわかに泡立った。何かが這い出てくる。血みどろの、女の姿の何か。

 追いついたペルグランが抱えていた杖をもぎ取って、それに叩きつけた。頭蓋の中身が飛び散る。

「知恵比べで負けたから、つい意地悪をしてしまった。ごめんよ。ここまで怒るとは思わなかった」

 声は、後ろから聞こえた。

 振り向く。訪れた時と同じように、ソファにもたれながらワイングラスを傾けている。

「いいか。俺の仕事の邪魔をしてくれるな。それ以上に、あれほどの男に恥をかかせるようなことを、してくれるな」

「あの男?ああ、いつぞやの悪党どもか。あれはほんとうに予想外だったよ。あの馬鹿司祭があそこまで悪知恵が働くとも。そしてあいつが、あれほど食うに困るまで落ちぶれてたも知らなんだ。お前、あの悪党どもとは丁々発止だったからなあ。それなら確かに、私の不作法になるだろうね。詫びが必要なら、そうするよ?」

 興味がなさそうな口調だった。それも頭にきた。

 駆け寄り、杖をぶっつけてやろうとした時、目の前に何かを差し出された。

 緑色の、見慣れた瓶だった。

「感想戦をやろうと約束したろ。後で寄るとも。ね?」

 それで、怒る気も失せた。

 対面に腰掛け、瓶を受け取った。瓶のまま、一口で飲み干した。

 やはりエールは、グラスに注がないとよさが出ない。それでも、頭に上った血を落とすには十分だった。

「バラチエ司祭の処刑が、終わった」

「そうだね。ひと段落だ。ご苦労でした」

「喰ったろ?」

 言われて、しばしの間を置いて、シェラドゥルーガが吹き出した。どうやら、らしい。

「美味しかったよ。芳醇だが、ちょっと甘さがくどかったな。ドライフルーツみたいな感じだ。紅茶がいいだろうね」

「ワインに五月蝿いお前にしては、珍しい提案だな」

「選択肢は多い方がいい。少ないと、どつぼにはまる」

「他の考えを受け入れられなくなる。か」

 差し出された二本目は、グラスに注いで味わった。いつもの、手酌でやっている味である。

 自分は、いつの頃からか、この味しか知らない。

「人の考えることは難しい。何千年も前の人は、人は死んだら星になると説いた。それを何千年も後になった今、人は死んでも星にならないのが常識だなんて言い出してる」

「ねえ、我が愛しき人。すべては移ろい行くものだ。人も、季節も、信仰すらも」

「お前は?」

「髪型を変えたのにも気付かないのかい?駄目な男だ」

 杖を振るった。女の首がどこかに転がっていく。その首から、体が生えてきた。どこからか手鏡を取り出して、髪を手櫛で整える。

 ああ、畜生。くそったれの、化け物め。

「今日の怒った顔、最高。今すぐ、食べちゃいたいぐらい」

「左足だけでは、物足りないってか」

「足りない、足りないよ?だからこうやって、しとねを共にしてくれるまで、口説き続けているというのに」

 シェラドゥルーガはくるくると回りながら、笑い続けていた。そうして、爛々らんらんと輝く瞳と、その美しい顔を、こちらに向けてくる。あか色の炎のような髪をたなびかせながら。

「ああ、待ち遠しいなあ、我が愛しき人。お前が死ぬその日まで、我慢できないかもしれない。だからこうやって、香りだけでも楽しませておくれよ?」

「勝手にしろ。何度でも言うが、俺を怒らせるような真似をしたなら、また殺してやる」

 くすくすと笑いながら、それは頬にベーゼまでくれてきた。こちらはもう、怒り疲れていた。

 へたり込んだままのペルグランから、鞄をもぎ取り、その中身をシェラドゥルーガの前に投げつけた。

「これ、お前が描いたろ」

 何冊かの、子ども向けの絵本だった。

「あら、それもバレちゃった?」

 口調とは裏腹に、少しだけ、恥ずかしそうな顔だった。

 落ち着くために、ひと息だけ入れた。

「孫たちが気に入ってる。もう何冊か、出してくれ」

 そう言って、へたり込んだままのペルグランを引っ掴んで、踵を返した。

 後ろではずっと、女の笑い声が聞こえていた。五月蝿いぐらいに。そして、耳馴染みがいいぐらいに。

 あれの作家活動については、黙認していた。

 生活費の工面のためである。セルヴァンも許可を出しており、国家憲兵隊と刑務局の両方でそのあたりを管理していた。いくつかの偽名で相当数の著作を出しており、あの絵本も、そのひとつだった。

 以前、この牢獄に来たとき、あれが絵を描いていたことがあった。孫に送るものを探していたときに、同じものが描かれているものを見つけた。

 シェラドゥルーガ。そして、ボドリエール夫人。死してなお巷を賑わせる、鮮烈な才の巨人。

「これでひとつ、落着かね」

 馬車の中、ようやく落ち着きを取り戻したペルグランに、ひと心地つけるつもりで、そう言った。

「夫人は結局、何者なのでしょうか?」

「当然の質問だが、俺にもわからん。化け物だとしか」

「長官は、夫人を信用していらっしゃるのですか?」

「半々だな。今回の件についても、頼らなければ、解決は難しかっただろう。時間制限付きとは思わなんだからな」

 そこまで言って、紙巻を取り出した。いつぞやからはじめたそれは、頭を整理するためには一番よかった。

 不意に、ペルグランの顔に、違和感を感じた。

「どうした?」

 涙を、流していた。

「長官が、私の前で、紙巻を咥えてくれた」

「それが、どうしたかね?」

「長官は、信頼している人の前でしか、紙巻を咥えないと、先輩たちが言っていましたので」

 そう言いながら、ペルグランが鼻をすすりはじめた。ぼろぼろと泣きながら、ようやく、ようやくと、呟いていた。

 まったく意識はしていなかった。ただ、周りがそういうのなら、そうなのだろう。ペルグランたちにとっては、それが真実なのだ。

「そうなんだろうな」

 少しだけが悪くなり、外を眺めることにした。その間もずっと、ペルグランは声を上げて泣いていた。

 一歩、進んだということかな。そう、思うことにした。

 庁舎に戻り、ひと通りをすませたところで外を見ると、既に日が落ちきってしまっていた。

 晴れていた。窓越しにでも、星が見えるほどだった。

 残っているのは数人。宿直のものにひと声かけてから、帰宅することにした。大きな案件は、だいたいが終わっている。些事はウトマンが片付けてくれているだろう。

 庁舎の玄関に、誰かが座っていた。星を、眺めていた。

 小柄な娘。アンリだった。

「もう夜も遅い。ほどほどにしておけよ」

 そう言って、隣に腰掛けた。

 紙巻を取り出す。女、子どもの前での喫煙は不作法だろうが、アンリはそういうものを気にしなかった。

 煙には慣れている。いつだったか自嘲気味に、そう漏らしていた。

 だから、ダンクルベールも遠慮しなかった。お互い、腹を割った関係でいたかったからだ。

「なあ、アンリエット」

 本人の希望もあり、この娘を役職で呼ぶ事は少なかった。

「人は死んだら星になる。今も、そう思うか?」

「いいえ」

 星空を見上げながら、アンリは答えた。目の端が、赤くなっていた。

「ただ、そうあってほしいと、願っています」

 声は、毅然としていた。ただひとすじ、その目からは、涙がこぼれ落ちた。

「私は戦場で育ちました。夜は煤と炎ばかりで、どこを探したって星は見えませんでした」

 そして、神たる父。目の前に広がる大地には、骸ばかりが広がっていた。

「人は死ねば星になる。それは救いであり、そして私にとっては、恐怖でもありました。目の前に、星になりつつある人が大勢いる。祈りでは、助からない。助けなければ、救えない。お星さまなんかにさせるものかって」

 咥えた紙巻に火を灯す。紫煙を、吐き出した。星空がひとときだけ、煙の奥にかげる。

 バラチエ司祭が犯人だということを、アンリは頑なに認めようとしなかった。

 すべての宗教家にとって、尊崇すべき人物だったのだ。どうかこれ以上の捜査をやめてほしいと、何度も懇願しに来た。勾留中の司祭との面談も希望してきたし、判決が下った後も、何度も助命嘆願に来た。

 自分たちは、首を横に振ることしかできなかった。

「局長閣下と本部長官さまにお誘いいただき、こちらに来てからは、こうやって星を見ることも多くなりました。あれが、私が助けてあげられなかった人たちです。最初は、こわかった。あの光に、責められているように感じました。そして、陽の光すらも。ミュザさまの、御使みつかいさまの。私の無力に対する、責め苦のように」

 信仰が、己の身を焦がすこともある。信じるものが、自分自身を苛むことも。それと向き合えなくなれば、折り合いをつけることができなくなれば、人は、心を壊してしまう。

 バラチエ司祭はそうやって、壊れていった。

「でもそのうち、語り合えるようになりました。ありがとうとお礼を言ってくれる人。未だ悲しみに打ちひしがれている人。勿論、責めてくる人もいます。それでも、受け入れることができるようになった。だから人が死んだら、星になってほしい。こうやって毎晩、お話できるように」

 戦場で泣き崩れていた小さな娘。今、このこは立ち上がり、歩み続けている。神たる父の上を、御使みつかいたるミュザと、多くの人々の光に支えられながら。

 アンリはこちらを見て、微笑んだ。哀しさが見えていた。

「自分勝手ですよね。信じたいものだけを信じている。でもそうやって、人々は信仰を築き上げてきたと思うのです。だから私は、祈り続けます。これからも、願い続けます」

「ああ。それぐらいで、いいと思う」

 向こう傷の聖女。その傷は、これからも増え続けるだろう。傷つくことを、恐れないからこそ。

「実はな」

 腹に入れた紫煙をゆっくり吐きながら、ダンクルベールは話しはじめた。

「今回の件、お前が星を眺める姿を思い浮かべたのが、決め手だった。不本意かもしれんが、礼を言う。サントアンリ」

 星になりたかった宗教家。真実と事実の狭間に苦しんだ、ひとりぼっちの、年老いた男。

 それがあのひとごろしの、ほんとうの姿だった。

「本部長官さまのお力になれたようで、嬉しく思います」

 その目は穏やかだったが、ひどく泣きはらしたのだろう、わずかに腫れぼったくなっていた。

「それでも、私はただの、アンリエットです」

 お決まりの返し言葉だった。このこは、聖人と呼ばれることをいやがる。自分はただの人間だと。対等に接してほしいと言い続けている。

「そうだな。意地っ張りで泣き虫の、アンリエットだった」

 アンリが頬を膨らませた。可愛い顔だった。思わず声をあげて笑ってしまった。そうしたら、もっと頬が膨らんだ。

 不意に、夜空の中を、何か別なものが光った。それを見上げながら、アンリが声を上げた。

「流れ星」

 綺麗なひとすじだった。天球の端から端をゆっくりと駆けていき、そして静かに消えていった。

 ダンクルベールは、紙巻を携帯灰皿に押し付けた。額の前で、右手の親指と人差し指を擦り合わせる。ヴァーヌ聖教の礼拝。久しぶりにやったものだから、ぎこちなかった。

 ただ、かたちだけでも、弔う姿を見せたかった。

 あの男はきっと、星になれたのかもしれない。


(つづく)

Reference & Keyword

・Barbour

・羊たちの沈黙 / トマス・ハリス

・Apéritif / Hannibal(テレビドラマ版)

・コルトM1848

・Swedish M1851 Kammerlader

・鬼平犯科帳 / 池波正太郎

・水滸伝 / 北方謙三


改版履歴

・初版

・25.5.14: 加筆修正

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