この夢と欲は誰が為に 下
自分がシャッフルを手伝った後に並べられた十枚のタロットカードを見詰めて、小首を傾げる。先程見せられた「ツーオラクル」という占い方法とは違って、今度は複雑で難しく感じてしまう。今回は、殊更裏返した状態でカードが置かれる事もなく、初めから表向きだった。余談だが、今回も七枚目からセッティングされている。
アルも碌な解説を挟んでくれないので、俺は、良く分からない光景を、ただ呆然と見守る事しか出来ない。
「それで……どんな感じ?」
俺のタロットカード占い経験は、アルに占って貰った一回だけ……これが正しい方法なのかすら、分からなかった。見たまんまに表すのであれば、十字に重ねられた二枚のカードを取り囲むように、四枚のカード。そして俺から見て右側に、縦陣に並んだ四枚のカード。合計十枚のカードが、今回の占いを形作っていた。
それから、ツーオラクルと違い、今回は使用カードの絶対数が多い所以か、シャッフル時に使用したカードも多く、七十枚はくだらなかっただろう。確か、タロットカードは全部で七十八枚だったか……。
「先ず大事な事なんだけど、今回の「ケルト十字法スプレッド」――要するに見ての通り、この並び方の事だね。この場に記された内容を読み取るには、」彼女は十字に重ねられた二枚のカードを指さして、「ここにある下のカードが現状。そして上のカードが問題点。この二つだけで、問題の本質は見えて来る筈だよっ。それが何よりも先決だ」
現状の位置にあるのは「THE HIROPHANT」――「教皇」のカード。その上に乗っているのは「PAGE of CUPS」――カップのペイジ?
現状が教皇で、問題は杯。成る程ね?
「「教皇」はヒント。ヒントを得られる事を示している。それはこの占いで見つかるかも知れないし、ボクこそがヒントかも知れない。或いはどこかにヒントがあるのかも知れない。それが過去現在未来に渡って、そのどこかで示される。きみは、それを見逃さないようにね?」
「神経質になってれば良いのか……分かった。それで、この杯は?」
「これは――何かに心を奪われている、現状の位置に「教皇」が出ている時点で、然程心配する必要もないだろうけど……。まぁ、ともあれそういう状態を表している。姫か、過去か、その他に……あ、分かった!」
アルは神妙そうな顔付きから一転、花開くような笑みを浮かべる。その様子から見るに、本当に思い当たる節があったのだろう。自分では気付けなくても、三人称だからこそ、見えて来る物もあるのだ。
「なになに!?」
「ボクだねっ! きみは、ボクに心を奪われているんだ! あーあー、罪な女だなぁボクは」
「……他のカードは何を現してるんだろう?」
何事も無かったかのように振る舞う俺に対して、アルは「つれないなぁ」と呟くだけに止め、至極真剣そうな面持ちで続ける。
次に彼女は十字の上下に展開された二枚のカードを指さして、
「この二つもセットで考えるんだよ。上の「目標」に出ているのは「剣の7」、下の「原因」――問題の根幹――に出ているのが「杯の9」。目標は、秘密裡に準備を進めている……この場合、秘密の目標があるのかなぁ。そして原因は――念願が叶っている? いや、でも……うーん? 叶っているとすれば、手放さないようにする思想? 心当たりはある?」
叶っている念願。俺の欲しかった物。――友人?
確かにアシュリーは、俺に取っての念願なのかも知れない。と来れば、秘密裡に進めている準備或いは思考というのは、前述の叶った念願を手放すまいとしているからだろう。そうなって来ると――現状維持。
現状を維持する為の行動?
それとも、無自覚に考えている事、とかだろうか。
「いや……良く分からない」
現状維持。
それを成す為に必要な事。――まだ、分からない。思い当たる節はなかった。
「そっか。こういう時、本来なら全てと繋がる「現状」と合わせて考えるんだけど、教皇だしなぁ……ま、良いや。いつか分かるかも知れないから、今は次の読み取りに進もう。――十字の左右に展開した二枚のカード、右が過去で左が未来。過去に出ているのは「審判」――これまた大アルカナだね。そして未来に出ているのは「棒の4」。それぞれ、過去のやり直しと、これからが本番、という意味合い。…………きみ、「現状への打開策」という言葉に、一体何を当て嵌めたのかな? それとも、訊き方が悪かったか、幾つ当て嵌めたのかな?」
ヒントはある。アシュリーとの生活について。そして過去と向き合える。それぞれ、檻に閉じ込められた現状と、アシュリーとのこれから、そして中学時代の過ち。当て嵌めて行けば、それぞれ独立させて考えれば、成る程確かに合致する。綺麗に当て嵌まる。
「差し詰め、アルは「教皇が示した人」なのかな? そう考えると、全ての歯車が噛み合う訳だし」
「ふーん。幾つか当て嵌めた自覚はある……と」
「意識してやった訳じゃない……けど、有り得るかなって」
「だとすると、一列に並んだ残りの四枚は、本音の位置にある「剣の3」、則ち別離に対する不安は「現在」を、」縦陣の俺から見て一番手前、七枚目のカードを指さしていたアルは、その華奢な指を上へと這わせる。「周囲を現す位置にある「運命の輪」、則ち変化の訪れを現すこのカードはこれからを――さっきの、きみが起こそうとしている行動、秘密裡に抱く目標は、変化を危惧しての事なのかな? 七枚目と照らし合わせても、姫との別れを恐れているんだろうね。そうなって来ると、やっぱりきみの思想というのは、これから見付かる物なのかも。そして、未来への気持ちを現すのは「吊られた男」、悲観と、けれどそれを転換させて、良い方向に考えて、どうにかきみは別の思考を手に入れる。最後は結末、この位置にあるのは「女帝」、努力の成就。それを現す。さて、きみは、きみ自身はっ、この結果から何を見出す! 大事なのは解釈だ、ちょっと仲の良い女子二人組を、脳内でカップルに仕立て上げるような物だよ。面倒臭いオタクの夢想と何ら変わりない、さぁ、さぁ!! きみは何を見た、ここから何を見付ける!?」
本当に、良く喋る奴だ。死んでも喋り続けるのではないだろうか。
「過去と未来は、これから考えるよ……。現状、正真正銘の「現状」に関しては、多分君に答えがあるんじゃない? だって、教皇の位置に当て嵌まるのがアルである事を、他のカードが示してる訳だし……そうなって来ると、答えに辿り着くのは俺ではなくて――」
そにれ、既にアルは「ヒントをくれる人」だった。
「あぁ、そうだね。もしかして、これの事かな?」
お手製だよ、と付け足して。
やっぱり吸血鬼は吸血鬼だ。
彼女は恐らく、初めから答えに辿り着いていたのだろう。その上で、恐らくは彼女が自分を占った結果として、俺を占うべきだと解釈した。それが全てなのだろう。そう、考える他なかった。
俺はアルが懐から取り出した――黒板消しサイズの直方体を見詰めて、渋面を浮かべずには居られなかった。誰だって立場が同じであれば、同じような反応を示していただろう。今回は、それが俺であっただけの話。
もしかすると、彼女と関わり合いになった過去の人間達とは、気が合うのかも知れない。
「さっさと出よう、こんな所。悪趣味な吸血鬼と一緒に閉じ込められたままなんて、到底我慢出来ない」
「じゃあ仕掛けて来てよ。鉄格子の……そうだね、上部分にくっつければ、水没の心配もないだろうし」
何の躊躇いもなく、そしていとも容易く、俺の両手を縛っていたロープを引き千切る。
揺れる足場の中、俺は彼女が間違っても起爆スイッチを押さないように念を押してから、慎重な足取りでC4爆弾――或いはPE4を仕掛けに行く。アルのお手製とあって、正確な名称はおよそ分からないものの、威力は本物にも引けを取らないと豪語していた。
「これで良い――」
踵を返し歩きながら、最後に疑問符を添えようとして――そこを正しく爆音と表現するに相応しい轟音が遮った。俺は思わず両耳を塞ぎ、その場で屈み込んで頭を守るような体勢を取る。案外、小学校で習った事は、役に立つものだ。
「あっ、危な……危ないじゃん、アル!」
「危なくないアルよー。いや、まぁ危ないけどね? でも怪我はなかった訳だし、大丈夫大丈夫!」
「危なかった事に文句をだね……ッ!?」
怪我をしたか否かは問題足り得ない。懸念すべきは、彼女の性格。今後も似たような事が起きかねないという憂慮だった。
***
仲互 三佳という人物は、彼女からしてみると、酷く痛ましい存在に思えた。毎日が苦しくて、辛くて、死んでしまった方が幸せなのではないかと疑ってしまう程に。とは言え、純愛と呼ぶに相応しい感情を抱いている彼女は、共に歩む道を選ぶのだろう。しかしながら、それこそが惹かれた原因、ともすれば始めは恋心なんかではなく、道端に捨てられ衰弱した猫を拾い上げる、くらいの気持ちであった。
それがいつしか、気付けば彼の存在を目で追っている。追っていた。今となっては、追いたくても追い付けず、目で追う事すら難しくなってしまったのだが。
だから彼女の抱く気持ちは、恋と博愛と、そして憐憫なのだろう。
苦しそうに笑う三佳という男。彼の友人である大岩 九魔御は、三佳がレベッカに残した言葉を伝えた後に、こう言った。「いつも通り、アイツらしい満面の笑みだったぜ」――と。
(ふざけないで――)
ふと、その瞬間を思い出した彼女は、胸の内でそう呟いた。
三佳は気付けば苦しそうに笑っていた、いつのまにか笑っていた、彼女が認識した時には既に笑っていた。にこにこと、張り付けただけの苦しげな顔で。それを知りもせず、三佳が適当に話を合わせて、あたかも楽しいように見せているだけ――或いは実際に楽しいのかも知れないが――なのに、それを「満面の笑み」と評したのだ。
(でも、あたしはここまで来た)
全長20メートル程のボート、その甲板に乗っていた彼女は、ちらと横目で牢屋の方を見た。中は暗くて窺えないものの、そこ――手の届く範囲――に三佳が居ると思うと、酷く安心する。
ともすると、この遭遇は、逢瀬は彼の望む物ではないだろう。それでも、このような立場の違いがあったなら、彼も普通に接してくれるかも知れない。
聞き上手で、相手の顔色を窺って、いつだって優しく、笑顔が魅力的な人物――ではない。
本当は冗談交じりのお喋りが大好きで、気付けば自分の話ばかりをしてしまうような性格で、そこまで優しくはなく、しかし大切な部分では確りとしていて堅実で誠実でやっぱり優しくて……あんまり笑わなくて、無気力で、そんな中で稀に飛び出る笑顔が、どこまでも魅力的な人物。それが本来の仲互 三佳。
捻くれていて、いつも詰まらなそうにしていて、実は心の底から楽しんでいるような人物。
それを知りもせず。上っ面だけで判断を下し、分かった風な口を利く。
(あたしは三佳を分かってあげられる。あたし、なら……)
それでも彼は、優しかった。レベッカがどれ程の無理難題を押し付けようとも、嫌な顔一つせず承諾して。レベッカがどれだけ距離を詰めた気で居ても、注意して見れば疲れが色濃く浮かんでいて。結局彼女では、三佳の本音を引きずり出す事が叶わなかった。
もしかすると、時間さえ掛ければ解決出来たのかも知れないし、体を重ねれば違った展開が待っていたのかも知れない。それでも、そのような手法で三佳の本心を引きずり出すのは無理だろうし、現に彼女が一度それとなく誘った際にも、彼は気付かない振りをしてやり過ごした。
三佳の友人を語る人物以上に許せないのは、自分だった。結局何もしてあげられず、結局彼に負担を掛けただけで、結局何も成せないまま、別れすら直接告げられずに、三佳を吸血鬼に攫われた自分が、許せなかった。
そして最も赦し難いのは――アシュリー・ナーダシュディ。事件の張本人。
三佳を恫喝し恐怖させ、催眠で魅了し連れ去った諸悪の根源。レベッカという人物が思い描く限り、最大の敵。
「もっと飛ばしなさい」
船の操縦を任されていた黒服の男に向けて、彼女は命令を下す。熟練のヴァンパイアハンターである岸波 零士に教えを請うている彼女は、これでもそれなりに偉い立場にある。そも、零士ともあろう人物と共に行動しているのだから、必然的に高位の吸血鬼とも戦闘経験があり、比例して彼女は強く、そして畏敬すら集める存在になった。
そんな彼女の命令に背く筈もなく、しかし部下に近しい立場にあるヴァンパイアハンターは、重苦しい面持ちでレベッカを見上げる。それはさながら、護衛対象をみすみす殺してしまい、それを上申するSPのようでもあった。
「すっ、既に全速力です!」
「そ、なら良いわ。このままの調子でよろしくね」
わざとらしく、アイコンタクトよろしく瞬かれる眼。
「はいッ!!」
「あんた達も――」レベッカは後方で控えていた耀と昌義を振り返り、冷たく淡々とした口調で続ける。「隠れてなさい」
見れば、舵取りのヴァンパイアハンターの姿がない。
ストックホルムというスウェーデンの首都からゴットランド島にまで、レベッカの姿を追い、フェリーを用いてやって来ていた二人組は、しかし彼女が一度ストックホルムに帰還した事を知らず、島に滞在したまま彼女の姿を探していた。その後に運命的な出会いを果たし、そしてストックホルムにまで戻る運びとなり、今に至る。
そんな二人は互いに顔を見合わせ、今は大人しく従う事にした。もしもレベッカの機嫌を損ねてしまえば、これまでの苦労が最悪の場合、水の泡と化す。下手な真似は出来ない。
と、その時。レベッカは安堵した。或いは、対策を講じておいて良かったとばかりに嘆息した。振り返れば、蝙蝠のような羽を大きく広げ、空を飛ぶ少女の姿。プラチナブロンドの髪をたなびかせ、赤の双眸でレベッカを睨み付ける。
写真越しでしか見た事はないが、特徴は一致していた。
黒のニーハイブーツを履き、ショートパンツを穿き、肌寒い冬場にも関わらず七分袖のシャツに身を包む、一見可憐な少女であった。……羽織った短めのジャケットを突き破るようにして、背中から生える羽にさえ、目を瞑る事が出来るのであれば。
「吸血鬼、アシュリー……!!」
驚愕を織り交ぜながら、それでも半ば予想していたとばかりに声を上げる。
名を呼ばれたアシュリーは、降下し甲板に着地すると、斜に構えて口を開く。
「やぁやぁこんばんは。忙しそうな所悪いけれど、うちのミカ君を知らないかな? 私の見立てだと、どうもこの船が怪しいんだけど…………今なら見逃してやる――ミカ君を、返せ」
問い質す様に、ただし確信を持っているように、恫喝とも言える口調であった。
「あんたなんかに、三佳は渡さないわ。催眠で篭絡して、無理矢理連れ去ったあんたには。――あたしが三佳を取り戻すんだから」
――その為だけに、ここまでやって来たのだから。
「そうか、それなら敵だな。悪いけど、手心を加える積りはないぜ?」
「望むところよ。全力のあんたを殺してこそ、あたしの悲願も果たされるというもの!」
腰の得物に手を掛けたレベッカは、叫びを上げると同時にそれを抜き取る。長さ30センチメートル程のショットガン。早撃ちよろしく引き金を引けば、既に弾が装填され、安全装置も最初から作動させていないショットガンは、使い手の思惑通りに弾丸を射出した。散弾銃故に射程距離は短く、その代わり散布界は比較的広めで、そして彼女自身の腕前が重なり、結果的にアシュリーは先手を取られる形となる。
「チッ」と短く舌を鳴らしたアシュリーは、剥き出しの両腕で顔面を覆い、ショットガンによるダメージを最低限にまで抑えた。しかし次弾の装填までには時間が掛かるだろう――そう予測し、彼女は満足に視界も確保出来ぬままに駆け出す。
掌底でレベッカの腹部――鳩尾――に狙いを付け、下から掬い上げるように叩き込んだ――がしかし、「ゴホッ、カハッ」と何度か咳き込んだレベッカの表情は、苦しさよりも勝ち誇ったような笑みに彩られている。その事をアシュリーが疑問に思う暇もなく、俯き気味だったレベッカが懐から閃光弾を取り出し、発動。当人は瞑目していたが、それでも眩しそうだ。
怪訝な目付きで彼女を見詰めていたアシュリーは、思わず閃光を直視してしまい両目を押さえた――が、それは単なる閃光弾ではない。
「ぐァァアアアアッ!?」
両目を潰す勢い。常人が受ければ失明し、夜闇に慣れている吸血鬼にも十分に脅威足り得る威力であり、加えて今回発動された閃光弾は、ヴァンパイアハンター協会の作り出した特別製だった。
太陽光と同じ光の性質、同じかそれ以上の光量。故に、吸血鬼にも効果があった。
露出していた肌色部分に炎が灯り、吸血鬼にのみ感じられる熱さで身体を焼く。傷一つなかった玉肌は段階的に焦げ茶色へと変色して行き、その口が漏らす絶叫の大きさは衰えない。やがて閃光弾は光力を落とすも、アシュリーの身に宿った炎は彼女を燃料として燃え続ける。
アシュリーともなれば、浴び続けでもしない限りは、太陽の光で死ぬ事はない。無論、既に瀕死の状態であれば危ないだろうが……。しかし、太陽の光で死ななくとも、痛みがない訳ではない。人間が箪笥の角に足をぶつけた所で死にはしないが、それでも死ぬ程痛むだろう。それと同じように、そもそも「焼かれる」という絶対的な痛みが彼女を襲っているのだ。
それ故の、絶叫。
「やった――。ッ!?」
勝利を掴んだかに思われたレベッカは、小さく歓喜の声を上げる。二年半にも及ぶ復讐心が、遂に満たされようとしているのだ。であれば少しだけ気を抜いて、少しだけ喜んでしまう事を、誰に責める権利があるだろうか。
だがアシュリーという人物を、彼女は甘く見ていた――甘く見過ぎていたらしく、両目を喪失し全身を燃え上がらせながらも、牙を剥いて突進を仕掛けて来たアシュリーに、まんまと体当たりをされてしまった。微かによろめくレベッカを感覚的に察知し、彼女はこれまた感覚のみで蹴りを放つ。するとその一撃は、あたかも狙い澄ましたかにように、レベッカのこめかみを穿った。
「うッ――」
大きくふらつき、同時に船も大きく揺れた所為か、レベッカは体勢を崩してその場に頽れる。敵の弱点を突けた、という確信をアシュリーが抱いた瞬間。正にレベッカという邪魔者を排除しようと腕を振り被った瞬間を突くように、
「ダーメっ」
と、酷く場違いな、どこまでも人を小バカにした声が響く。
その声と態度に心当たりでもあったのか、アシュリーは驚愕に満ちた声で返す。
「お前は――」
「それもダメーっ」
しかし二の句が続けられる事はなく、闖入者が手にした銀の杭がアシュリーの脳天を狙う。それは楔を打ち込むが如く、十字架のようなハンマーで叩き込まれた。
咄嗟に身を屈め、お辞儀のような体勢を取って銀の楔を躱したアシュリーだったが、およそ敵前で取るべき体勢ではなく……「本当は触りたくないんだけどねぇ」なんて零しながら、二体目の吸血鬼は右肘でアシュリーの背中を、右膝でアシュリーの腹部を、それぞれ挟むようにして、腹と背中を同時に打ち据える。
「かはッ」
苦鳴を漏らしたアシュリーはその場で腹を抱え込んだまま動かない。動けないのだろう。
そこへ嗜虐的な笑みを湛えた吸血鬼――アルが、思い切り振り被った足を前に出す。腹部を抑えていた両腕ごと、アシュリーの身体が蹴り飛ばされて宙を舞う。
驚いた表情のまま、取り繕うことすら出来ずに。
全身を燃やされたまま、海に落ちた。
それでも炎は、絶えず彼女を苦しめる。
吐き出した二酸化炭素の塊が、泡となって海面で弾けた。
そして戦場は元の状態に、船上は静けさを取り戻す。
***
「……何かあったの? いや……何があったの?」
「いやいや、何にもないよ。それに、もしも何かあったのなら、今しがた駆け付けたボクよりもレベッカちゃんに訊いた方が良い」
レベッカちゃんとは、また随分と親しげな愛称だ。そんなレベッカは、力無くその場に座り込んでいる。そして俺よりも先に甲板へ出ていたアルは、両手に黒のグローブのような物を着用し、右の肘と膝を燃え上がらせていた。まるで何でもないかのように、飄々とした佇まいで。
「アル、それって……」
「あぁこれ? ちょっと燃え移っちゃって……でも心配しないで! ボクも無事だから」
「服に燃え移る気配がない。それなら、多分その炎は吸血鬼専用の――太陽光限定の、物で……」
状況から考えれば、アルとレベッカが小競り合いを起こしたような物だろう。アルを燃やす炎は、新手の閃光弾か何かか――聞く所に依ると、現代の技術であれば太陽光と同等の光量も再現可能らしく、であればそれを転用して、閃光弾として運用する事も可能ではないだろうか?
「それで、そうなって来ると……でも、二人が争ったというには、現状が落ち着き過ぎで……」
良くない思考が脳裏を過る。仄かに香るコーヒー豆の匂い、ほろ苦く鼻腔を撫でるいつもの香り。アシュリーから漂って来るような、自宅に充満しているような――
「アシュリーが来た?」
「ッ!?」
どうやら、俺の嫌な予感は当たったらしい。
「それじゃあ、アシュリーは……」
「それ以上は――」被せるように、アル。彼女が何を考えているのかは分からないが、今だけはその焦燥と、隠された真実が容易く見て取れた。「藪蛇だよ?」
口を噤み、急いで辺りを見回す。先程から黙ったままのレベッカと、相も変わらずお喋りなアルはやけに落ち着いていた。であればアシュリーを追う必要がなく、警戒する必要もない――ならば、
「海――!!」
「アル! 三佳を助けなさいッ!!」
「はーい。成る程ね」
ようやく口を開いたレベッカがアルに告げたのは、他ならぬ俺の救助。そりゃあ勿論、荒波の中で吸血鬼を抱えたまま生き延びるのは至難の業だろう。その無謀を成そうとしているのが、正しく俺な訳だが。
俺は肺に目一杯の酸素を送り込み、息を止めて水中に潜る。開けっ放しの目に海水が染みる、海中でも辺りを見回し、やがて斜め下方向に、燃え上がるアシュリーの姿を見付けた俺は、脇目も振らずに彼女の元へ泳ぐ。水泳は苦手な部類だが、泳げない訳ではない……尤も、この沖合から生還出来るとは思えないけれど。
アシュリーの体躯を受け止め、しかし「泳ぐ」と「潜る」では訳が違うので、俺は上手く海面へ戻れずに居た。両足を我武者羅に暴れさせようとも、体から酸素が減っている所為か沈むばかりで上昇しない。
意識が遠のく。長らく無縁だった死の感覚が蘇る。銃弾が腕を掠めた時よりも、鮮明に克明に、海水は俺に「死」を思わせる。視界が霞み、海面がどちらかも分からなくなって、俺はやがて意識を手放した。
アシュリーだけは、確りと抱いたままで。
***
アシュリーという吸血鬼の少女と相対したレベッカの感想は、空恐ろしいといった物であった。
今となっては、それ以上に、悔しいらしいが。
上辺だけでなく本心から心配されて、凄い剣幕で静かに怒りを燃やしていた。それが堪らなく愛おしく、それが自分に向けられていないという事実が、堪らなく苦しかった。間違いなく一番に三佳を思っているのはレベッカの方であり、三佳の為に自分を曲げたのは間違いなく彼女だけだ。
(それなのに、それなのに……!)
三佳はあろうことか、無理無謀を承知で大海原に飛び込んだ。最終的にはアルという吸血鬼によって救出されたが、もしそうでなければ溺死していた事だろう。
(何よ、何よ何よ何よ! あたしはこんなに頑張っているのに!! ――頑張った、のに)
――何一つ報われていない。三佳との再会にしたって、事態がプラスに動いたのではなく、マイナスがゼロに戻っただけだ。彼女は何も成せていない、彼女の努力は何一つとして結実していない。悔しくもあり、悲しくもあり、何より妬ましかった。アシュリーという吸血鬼の少女が、どこまでも羨ましかったのだ。
そして、そんな感情をも押し込んで、最初に受けた印象――アシュリーを視界に入れて始めに抱いた感覚は、「恐怖」の一言に尽きる。恐らく、生身であれば一瞬で殺されていた、アシュリーの知らない新兵器の閃光弾がなければ、今頃海に五体投地ならぬ五体投海していたのは、アルとレベッカの方であっただろう。
万全の状態で不意を突き、その上で吸血鬼の協力まで借りて、詰まる所自分一人では勝てなかった。そして三佳を止められなかった時点で、レベッカの勝ちとも言えなかった。
「吸血鬼アシュリ―……今なら、殺せる……」
「止めときなよー。それはボクへの敵対行為でもあるんだから。全てはプロット通りに進めなきゃならない。キャラクターが生きている、なんて暴論で好き勝手に、その場のノリで物語を書く作家は居るけれど、生み出されたのは駄作ばかりだよ。少なくとも、ドラマツルギーの意味すら知らない、きみ如きが、好き勝手に介入して良い問題じゃないんだ」
「なッ、何よ!? あたしじゃ役不足だっての!? あたしじゃあ……ダメ、なの……?」
「あは。役不足、役不足ねぇ。それ、誤用だよ」
こんなにも好きなのに、愛しているのに。叶わぬ恋だと悟りながら、それでも全力疾走で駆け抜けたのに。それでも、その上で、こうして正面から否定されるのか。
「でもね、違う違う。きみは監督じゃなくて演者だって事だよ。それを忘れないように、ね。この場合の監督はボクだから。忘れないで貰いたいのは、詰まり、ボクの協力を仰ぎたいのであれば、それに足る忠誠心と従順さを見せろって意味だよ」
「……そう。そうね、分かったわ」
「んー、でもぉ……」
暗転した空を見上げ、思案げな面持ちで唇に人差し指を当てるアル。彼女はやがて口端を僅かに釣り上げると、どこか興奮した様子で続ける。その笑みは、いつのまにやら凶悪さを増していて。
「そうだね。やれる物ならやってみなよ。きみが演者にして登場人物である以上に、脚本家としての才を見せ付けてみせてよ!」
「は、はぁ……」
困惑したように、レベッカ。そも、アルを理解してやれる人物なんて、同類くらいだろう。
「どう? 一見可憐なこの少女を、少女の皮を被った吸血鬼を、きみは殺せるのかな? ミカくん、ミカくん……名前で呼ぶのは初めてだなぁ……。ミカくんは、きっと悲しむだろうね。きみを殺しちゃうかも知れない」
脅すように言って、それでも期待めいた輝きを放つ、子供のような赤の瞳でレベッカを見詰める。
対して見詰められたレベッカは、一度小型自動式拳銃を構え、懐に仕舞い込んだ。
「あたしの復讐は、ここまで簡単に終わってはいけないの。自分の力で打ち勝って、足蹴にしながら殺すわ。だから今は殺さない……それだけよ」
「ふふふ、やっぱり殺せないんじゃーん♪」
「殺さなかっただけ」
「その理由も含めて、きみは姫を「殺せない」んだよ」
続けて「だから……」と呟いた彼女は、頭を振って今の言葉をなかった事にした。
怪訝な目を向けるレベッカに対して、アルはちゃらんぽらんな態度を崩さない。問い質されても、のらりくらりと質問を躱し、会話の主導権を他に移さない。ともすれば強引とも言えるコミュニケーションではあるが、それでも効果的なのは確かであった。
(初めて出会った時から、こんな感じだったわね……)
数日前、吸血鬼案件と思われる傷害及び殺人事件――について私的な調査を始めようと思っていた矢先、実を言うとアルがゴットランド島へ渡るよりも早く、レベッカと彼女は邂逅を果たしていた。
綺麗な吸血鬼だった。どこまでも自分の人格を確固たる物としており、信念めいた物を持ち合わせているような、ある意味毅然とした態度。美しいとさえ言えただろう。短く切り揃えられた白髪と、辺りに広がる真っ赤な血糊との色彩は、見惚れてしまうくらいに魅力的で、蠱惑的だったのだ。
気付けば、銃を下げ、野趣な自然美を食い入るように見ていた。
生き汚い執念こそが、レベッカを絡み取った。
無意識の内に声を掛けていた。死体からの吸血に夢中だったアルは、始め驚いたような顔をしたものの、以降はお得意の人を小バカにした態度が目に付いた。
――きみに良い事を教えてあげよう。
――ボクを追って来るんだ。きみの願いが叶う。
そんな言葉がフラッシュバックして。
――ボクと共闘しよう。きみが嫌っている人物を殺せる。勝てる。願いは叶う、ボクの望みも成就する! WIN-WINの関係だね。さぁ、初めましての握手だ――初めましてーっ!!
と、そんなふざけた態度で握手を交わしたのが、全ての始まりだった。もしもアルと出会わなければ、ゴットランド島にはやってこなかっただろう。互いに連絡を取り、タイミングを合わせて三佳をを拉致し、ここまで漕ぎ着けた。最早万事上手く行ったような物だろう。
「それで――」
と、途端に現実を浴びせるように、どこかしどろもどろに口を開くアル。
彼女らしくない、覇気のない口調にレベッカは怪訝な瞳を更に細める。
「――隠れている二人は、一体何をしているのかな?」
「あはは……」
愛想笑いと呼ぶに相応しく、どこかよそよそしい笑い声。些か人の顔色を窺う嫌いがあり、その上でどのタイミングで爆弾発言を投下するかを探っているような昌義の物ではなく。それなりに人当りが良く、爆弾発言をプレゼント包装するのが得意な耀の声であった。
この上なく介入し辛い会話が繰り広げられていた――端的に言えば怖かった為に出て行けなかったのだが、それが裏目に出たらしい。
「えっと、吸血鬼の方ですよね? 少しお話窺ってもよろしいですか?」
商魂逞しい、とでも言うべきか。
職業病、とでも言うべきか。
「はぁ……まぁ良いよ」
嘆息めいた吐息を漏らしたアルは、それでも以降は嫌な顔一つしない。自分の言葉一つが――嘘か真かも分からない戯言が、世界を一々激震させると思うと、堪らなく興奮した為だ。罪を犯しているのだという感覚が、そして誰かを歓喜させ、誰かを苦しめるであろうという感覚が、堪らなく。
人の不幸を嗤うのは良くない、なんて事を言う人間は多いだろうが、アルは遠慮なく笑い飛ばす。面白可笑しく語られた方が、嗤われる側も気が楽だろう。何よりも悪い事をしている、という感覚が素晴らしく美味で、酔いしれてしまうのだ。
約二年――さらに正確さを求めるのであれば、時間にしておよそ二年半。それ程前の出来事ではあるが、ちょっとした――本来であれば、一日二日の間、ニュースとして報道され、視聴率を稼ぎ終えた後は誰の記憶にも残らないような、所詮はその程度の事件。
知恵itビルでの立て籠もり。うら若く童顔の、それでいて異国の民のような容姿。一見すれば愛くるしい少女の姿をした、吸血鬼。それが事件の原因ともなれば、凡庸な――誰の記憶にも残らない程度の――立て籠もりなどとは比較にならない。
現に、目の前で人当りの良い笑みを浮かべる記者然とした男によって、吸血鬼の存在は明るみに出た。と同時にヴァンパイアハンターの実在も確認され、冬は暖かく夏は涼しい、そして防御面にも優れている万能コート、というヴァンパイアハンターの標準装備は廃止され、制服はスーツに。胸にあしらわれたヴァンパイアハンターである事を示すシンボル――吸血鬼の牙と銀の杭がぶつかり合い、前者が砕けているようなデザイン――もまた、廃止された。
市井にヴァンパイアハンターという存在が知れ渡ってからというもの、彼等彼女等の任務は以前に比べて滞っている。
吸血鬼の存在を甘く見、可哀そうだ何だと捲し立てる害虫。
ヴァンパイアハンターによる武器の所持に反対する害虫。
野次馬、記者、作家。
そしてヴァンパイアハンターを装い、凶器を持ち出して無差別殺人を起こすような事件もあった。何件も。
諸悪の根源、もとい原因である甲賀 昌義に関しては、法に触れるような事は、あまりしていなかった。故に罰する事も出来ず、結局は軽めの罪を償って釈放された。
SNSを通じて、吸血鬼らしき人物の写真(盗撮)が大量にアップロードされ始めたのは、少なからず吸血鬼探しの一助となっているのも、また確かではあるのだが。
吸血鬼、ヴァンパイアハンター。それら二つの情報が出回っただけでこの騒ぎ。正しく世界が変わったと言っても差し支えないような変革。
しかし両者とも多くは語らない。ヴァンパイアハンターは総じて口が堅く、吸血鬼は取材どころの騒ぎではない。出会い頭に血を吸い尽くされて終わりである。
そう――ヴァンパイアハンターはどうにかなったとして、吸血鬼は大抵がどうしようもないのであった。故に昌義と耀はアルという貴重な情報源を重宝し、尋ねる。一方でアルは、自分が世界を更なる混沌に貶める要因となる未来を思い描き、恍惚と顔を上気させ、鼻息荒く唇をペロリと舐めた。
「何でも答えてあげよう」
「やったぁ! やりましたよプロデュー……耀さん!」
思わず「プロデューサー」と言いかけた彼だが、名前を呼ばれた耀は起こる素振りもなく、ともすれば気に留める積りもないようで、「そうだなぁ……ようやくここまで来れたんだな!」と、柄にもなく燥いでいた。尚、昌義に関しては元からピュアな性格であり、今のように喜びを露わにする事も屡々。よって然程珍しくもなかった。
その後は問答を繰り返し、昌義と耀のアナログなメモ帳が一杯になった所で終わりを迎える。尤も、スマートフォンがなくてはスウェーデンという異国の地で過ごすのが困難であろう二人も、背に腹は代えられないとばかりに、スマホの充電を気にしながらではあるが、アプリとしてインストールされているメモ帳も駆使してインタビューを続ける心算であった。
それ則ち――彼等が問答を止めるには、また別の要因があった訳で。
「……ん、ぁ……アシュリーは……!?」
開口一番、自分の肩に頭を乗せて小さく寝息を立てる少女の名を呼び、瞬時にアシュリーの存在に気付き、それから周囲の面々より向けられる視線に対して居心地の悪そうな顔をしてから、
「あぁ……おはよう。目覚めは最悪だけど……まぁ、悪くはないかな」
己の肩に預けられた体重を、心地よく噛み締めるように。
真冬の深夜の海に飛び込んだ青年は、人心地付いたような声音で呟いた。
***
目覚めて、縛られている事に気付いて、体内時計から察するに、およそ三十分といった所だろうか。
アシュリーは依然として目覚めないまま、俺達は黒塗りの車に詰め込まれた。運転はレベッカで、その隣にはアル。後ろの座席には同伴のヴァンパイアハンターが一人、そして俺とアシュリーだ。どうやら船上にはジャーナリストの方も乗船していたらしいが、そちらはバスに乗り後から合流するらしい。俺としては、合流する予定がある事にびっくりだ。
車は三十分と少しの時間を走り、地下の道路に差し掛かる。
人数の都合上、レベッカがステアリングを握っている。後部座席に放り込まれた俺からは、彼女の横顔を断片的に窺う事しか出来ない。彼女が何を思い、どのような気持ちで車を走らせているかなんて、皆目見当も付かなかった。
俺は、「ねぇ」と思わず訊いてみる。彼女は一瞬、驚いたように肩をびくつかせたが、それきり取りつく島もない、といった風に、済ました顔で応じる。尤も、これまたやはり横顔でしかなかったが。
「何よ」
「レベッカは……どうして、ここに?」
「……あんたを、三佳を追いかけて来た。それ以外にある? そもそも、ヴァンパイアハンターになったのだって、漠然と吸血鬼を憎んでいる訳じゃないの。あたしは、アシュリーという個人を恨んでいるだけよ」
「俺を、追い掛けて」
初めて自覚した。
そう、詰まり彼女は。レベッカという人間は、本当に俺の事を好きでいて、好きであり続けてくれたのだろう。
二年以上に渡って。もしかすると、一生届かないかも知れなかった理想を、追い求めて。
「……」
沈痛な空気が流れる。俺はそれ以上、何も返せなくて、レベッカもまた、言葉に詰まっていた。
「ごめんなさいね。迷惑だったでしょ? 鬱陶しかったでしょ? 今も、昔も……」
「そんな事――」
反射的に否定しかけて、口籠る。
俺は確かに、彼女を疎ましく思っていた。鬱陶しくて、厄介で、迷惑で、それでも「良い子」で、頑張り屋さんで、そんな所も実は知っていて。
ただの一目惚れ程度の意思で、恋人という立場を無理矢理に要求して来る人物であれば、流石の俺でも――あの頃の俺でも、素直に従いはしなかっただろう。
「――少なくとも、今は……そんな風に思ってないよ」
俺は、人当りの良さそうな笑みを浮かべて応じる。
「嘘ね。分かるのよ、あたしには」彼女はちらと後写鏡を見やり、鏡越しに俺と目を合わせた。「そんな顔をして欲しくて、わざわざここまで来た訳じゃないわ」
……久方振りの再会とあって、笑顔に哀愁のような物が混じっていただろうか? 両頬を揉み解して確認するも、さして不自然な点には思い至らなかった。額面通り、言葉通りに受け止めるなら、レベッカは俺を追って、このような――日本から遠く離れた場所まで、やって来てくれたのだ。ならば、それは俺を思っての事なのだろう。
それなら、せめて心配は不要だという所を見せておかなければ。
「そうだね……でも、俺は大丈夫だから。こう見えて、毎日楽しくやってるよ」
「そうでしょうね。だってあんたは、だから、そうなる為に……」
彼女は恐らく気付いている。俺が、アシュリーの手を取った理由に。俺が、アシュリーを選んだ理由に。
疲れていたのだ。
人間関係に。
だから、逃げた。目を逸らすのではなく、尻尾を撒いて逃げたのだ。誰しもが向き合うべき問題に、俺は向き合わず。目を背け、逸らし続けて、最後には逃げた。多分、アシュリーという存在が現れなければ、今頃の俺は――やっぱり退屈で凡庸な生活を、続けていたのだろう。
奪われたのではなく、捨てたのだ。当たり前に享受していた「普通」な「日常」を。
そして、レベッカはそれに気付いた。
俺がある種の自由を求めて、逃げ出した事に。
沈痛な空気が流れたまま、車は地下道を抜ける。
「お熱いねぇ……」
場違いにも程があるセリフを吐いたアルは、誰も反応を示さない事に不貞腐れたか、その唇を「ちぇー」と鋭く尖らせた。レベッカの視線は鋭くなり、俺はジト目になる。それでも後悔や反省といった言葉を知らないのか、アルは依然としてお道化た態度で、まるで俺達を茶化すような態度で続けた。
「それで、この車は一体全体何処に向かっているのかな?」
俺も気になっていた所だ。レベッカの目的もそうだが、現在向かっている場所も謎である。それに、無防備な状態のアシュリーも連れているので、詰まり殺せる状況にありながらも殺されてはいないので、何かしらの考えがあるのだろう。
「もしかしてホテルとか?」
口早に言ったアルの言葉に、俺は思わず吹き出しそうになる。尤も、吹き出す物なんて口に含んではいなかったものの、ともあれ、彼女の言葉はそれくらい衝撃的だった。この状況で、アルのような言動を出来る人物は、恐らく彼女自身ただ一人だけだろう。
これにはレベッカも――
「ええ、そうよ」
「そうよ!?」
アルは、まるで知っていたとばかりに笑顔のまま、俺だけが一方的に驚いている。
他の誰しもが静かな車内、一人叫んだ俺は嫌に目立っていた。
***
彼に取って一番赦し難い吸血鬼とは、相棒を殺したアシュリー。
彼に取って一番赦し難い人間とは、後輩を殺した仲互 三佳。
二人の内、どちらか一方しか殺せないとなれば、彼はどちらとも選べない。どちらとも同じくらいに憎んでおり、何が何でも両者共に地獄へ叩き落す心算であるが故に。ただ、結果だけを見ればその通りであれども、過程を見れば、また違った解釈が生まれる。
例えば万全の状態にあった熟練のヴァンパイアハンターを、正面から戦った結果勝利を収め、最終的には殺害した吸血鬼。
対するは、周囲に散々守られた後、その全てを蔑ろにし、挙句手負いのヴァンパイアハンターを殺した人間。
三佳――もとい、不正入手した偽造戸籍を登録するにあたって改名した男――ミカ・ナーダシュディの言葉を借りるようだが、彼と零士の考えは似通っていた。勿論根本的な部分は相容れないが、こと吸血鬼への、人間視点からの認識は。
――人間と吸血鬼なんて、然程変わらない。
或いは、既にミカは人ならざる物、であるのかも知れないが。
零士がヴァンパイアハンターになったのは、生き場所と死に場所がなかった為。零士がヴァンパイアハンターを続けていたのは、今更変えられない生き方――言ってしまえば生活――の為。零士が今でもヴァンパイアハンターを続けているのは、アシュリーとミカを殺す為。
憎き仇。不倶戴天の怨敵。
怒りの矛先。怨嗟の終着点。
そして彼には、他にも許せない物があった。ともすればそれは、許せないというにはあまりにも優しく、甘い感情ではあったものだ。彼が許せない物――それは、言う事を聞かない部下である。差し詰め、レベッカという名のヴァンパイアハンターであった。
普段は良い。だが今回の彼女の行動は目に余る。それに、それさえも常であれば許せただろうが、こと今回に限っては零士も並々ならぬ気持ちで動いているのだ。
始め、ストックホルム内で大量殺傷事件の犯人と思しき吸血鬼を捜索していた矢先、突如としてレベッカがゴットランド島に赴く事を上申して来た際には、何を考えているのかと疑問に思った。彼女は理由を口にはしなかったが。
そしてゴットランド島に到着してみれば、レベッカは「誰かに言われたから」という理由で駆け出した。どこか遠くへ、駆けて行った。近場と呼ぶには少し遠いが、それでも事件が起こっているストックホルムからは、割と手軽に訪れる事が可能な土地とあって、零士は焦燥に駆られた。
結果的にレベッカは無事であったが、無事に戻って来れない可能性だって多分にあったのだ。
一度ストックホルムに戻り説教をしたが……。
数時間と経たぬ内に、レベッカは姿を晦ました。荷物一式がなくなり、ついでとばかりに移動用の車も見当たらなかったので、彼は直ぐに察した。
彼女はゴットランド島に蜻蛉返りしやがったのだ。
それから数えて、今日が二日目。十二月二十一日、ストックホルム。深夜のガムラスタンの街並みは、暖色の光に灯されており、どこか趣がある。
そんな街の一画。とあるホテルの前で、左手首に巻き付けた腕時計を見やり、苛立たしげに右足で地面の石畳を叩く。直ぐに戻るだろうと待ち、気付けば小一時間、それからもうじき帰るだろう、と楽観めいた物を抱いてから三時間。彼は待ち続けた。
有能ではあるが扱いに困る部下からの「今から帰還します」という一通のメッセージを心の支えに、この寒い中、合計三時間半以上もの時間を、ホテルの前で棒立ちになるという、吸血鬼が日光浴をするような所業を実行に移していた彼は、ようやく表れた黒塗りの車に、安堵と同時、落胆のような怒りのような、何とも言えない感情を抱いた。
「随分と遅かったな」
矢鱈と憔悴したような、それでいて興奮冷めやらぬ様子で車を降りた部下――レベッカに対し、岸波 零士は開口一番冷たく言い放った。嫌味な目で――意気揚々と自分の前に躍り出た後輩を――見据える。
「はい、申し訳ありませんっ。でも、捕まえました!」
「捕まえた?」思わず聞き返した零士は、そのまま目線を黒塗りの車へと移す。「一体何を?」
「仲互 三佳改めミカ・ナーダシュディ。そしてアシュリー・ナーダシュディです。両名とも、拘束してあります」
「それは……本当かッ!?」
言うが早いか、零士は駆け足になる健脚を必死で抑え込み、しかしやはり興奮気味に、鼻息荒く車へと駆け寄った。後部座席には見慣れたヴァンパイアハンターの姿、此度の、休暇を使った二人の進軍に同伴してくれた、正義感の強い同僚だ。立場としては、レベッカよりも下の部下に当たる。
彼の顔が最初に見え、隣――真ん中の座席――にミカの姿を確認する。ミカは彼の姿を見るや否や、己の身を案じてか過呼吸気味になっていた。零士はその顔を怒りに染める。
次に彼は、最奥に坐するアシュリーの姿を捉えた。その顔が更に赤くなる。血管が破裂しそうな程に心臓が鼓動を打ち鳴らし、目は段階的に充血して行く。
そこに冷や水を掛けるのは、
「わぁ! お兄さんカッコ良いね。この後ディナーでもどうかな? 奢ってくれても良いよんっ」
ニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべる、白髪に赤目の吸血鬼。身に纏った下着のような黒いネグリジェには皺らしい皺一つなく、その上から羽織った白い厚手のフード付きダウンは、彼女の動きに合わせてのびのびと躍動していた。それ則ち、彼女がそれだけ自由に動ける事を示しており、詰まる所彼女が拘束されていないという事実を物語っている。
それよりも、何よりも彼を激震させたのは――
「貴様は……!!」
「あれぇ? もしかして、本部で会った事、あるかな? 岸波 零士さん」
まるで相手の話を聞く積りがないかのように、事実彼女の言葉に耳を傾ける事なく、零士は己の言葉を続けた。その間には、一切の言葉が挟まれていなかったと主張するが如く。
「――アルミルス・エネプシゴス!!」
「あは。やっぱりボクの事知ってるじゃん。それとも、ボクが有名になり過ぎたのかな?」
大量虐殺の代名詞。
同族にさえも疎まれた存在。
悪行しか知らぬ三姉妹。
生まれながらの吸血鬼。
ヴァンパイアハンター界隈、そして吸血鬼界隈に名を馳せた、正真正銘の吸血鬼。アシュリーなんて比べ物にならない程、速やかに滅ぼすべき人類の敵。
故に、ヴァンパイアハンター協会の人員を総動員して、討伐に当たった。結果としては殺しきれず、三姉妹全てを捕獲。
何より厄介だったのが、本来徒党を組まぬ吸血鬼が、肉親という理由で三人も――しかも各々が圧倒的な力の持ち主――が共闘していた点だろう。
それも今や、過去の話。百年以上も前の話だ。
「まさか、とは思うが……ストックホルムでの大量殺傷事件、その犯人ではないだろうな? この事を本部に報告すれば、どうなるか分かっているのかッ!?」
「報告する? 報告するって、どうやって? バカバカしいよねぇ、だって、必死こいて捕えたボクを、こうして餌或いは兵として、兎も角「駒」として、束の間の自由を与えちゃったんだから。どうなるか? 分かってるよそんな事。でもさ、ボクは大量虐殺の代名詞、罪の代名詞でしょ? そんな人物が、吸血鬼が、ねぇ? そっちこそ、どうなるか分かってるの? それにさ……心配要らないんだよ、もう定まったから」
「あまりナメ腐った事は言ってくれるなよ。私はこのような場所で発砲して、徒に市民を恐怖させる趣味はないのだからな」
「あの!」
喧々諤々――と表すには些か人数が足りないようだが、それでも大勢で議論を白熱させるものと伯仲する程には勢いがあった。尤も、五月蠅かったのは零士ばかりなのだが。
そこへ割り込んだのは若年のヴァンパイアハンター。と言ってもレベッカよりは年上で、しかしレベッカよりも格下の男。彼は何を思ったか、圧倒的に立場が上の相手と、この場で暴れ出した場合の被害がおよそ未知数である吸血鬼の、ある意味百名以上の命運を左右する会話に割って入ったのだ。
アルは酷く楽しそうだが、対する零士は今にも激怒しそうである。
「取り敢えず、レベッカさんの話を聞いてあげたらどうでしょう。全部、あの子が説明してくれますよ」
それとなく説明責任を放棄するヴァンパイアハンターの姿が、そこにはあった。
しかしながら、説明をするに最適な人物がレベッカである事も、また揺るぎようのない事実だ。
「聞こう」
「……はい。時は十二月十八日にまで遡ります――」
***
岸波 零士。彼とは、ちょっとした因縁がある。俺も彼の事を良く思ってはいないし、恐らく向こうは俺を殺したい程憎んでいるのだろう。彼がこちらを目が合った瞬間から、その疑惑が確信へと変わった。
これは、俺が一生を懸けて向き合い、償うべき罪。
彼は憎しみに染まった顔を、しかしアルへと向けたタイミングで驚愕一色に染め直し、それからは二人で幾度となく言葉を交わし合っていた。顔見知り、と呼ぶには些か険悪過ぎる嫌いがあるので、知り合い……或いは、彼の方から一方的に認知しているようでもあったので、ここでの適切な表現方法が、俺には浮かばなかった。
どうやらアルの本名なんかにも言及されたらしいがしかし、俺にはさして関係のない事柄だろう。一応、記憶の片隅に留めてはおくが。
その後はレベッカが語り手となり、事情を知らない彼に状況を説明していた。
ストックホルムでのアルとの出会い。ゴットランド島へ導かれた事。予言通り、或いは助言通りに、俺を見付け、その後は捕まえるにまで――詰まり現在――に至ったという事実。
アルはこんな未来を、預言してみせたらしい。そして、的中している。言及されているアル本人は、酷く自慢げなドヤ顔で腹が立った。
彼女は恐らく、占いを用いて未来を予測したのだろう。尤も、レベッカは「占い」について語りはしなかったものの、勝手に占われたか、隠しているかの二択だ。
そして、次なる話題は――その矛先は、俺に向く。
「事情は分かった。だが解せない事実が一つだけある――レベッカ、お前は何故アシュリーとミカの両名を殺していない?」
「それは――以前にも、申し上げた筈です」
「ならば質問を変えよう。何故アシュリーまで生かしている?」
「アルから、助力の条件として言われました。結果から見ても、間違いではなかったかと」
「……それはッ! ――いや、いい。良くやった」
結果論だと言おうとしたのだろう。
彼は一度言葉を切ってから、もう一度声を整えて、咳払いを数回繰り返し、そして居心地が悪そうにレベッカを見据えた。
「お前の目的は重々承知している。それを目標に、お前が努力を積み重ねて来た事も知っている。――だがッ! 私は、可愛い部下を殺された怒りで、どうにかなってしまいそうだ! 今までも、今も、そして、この場でミカを殺せなければ、これからもッ!!」
「どうすれば……良かったんですか」
「吸血鬼アシュリーを殺し、ミカを連れて逃げるのが、お前に取っての最適解だったろうな。今の状況は、お前に取っての間違いで、何よりの正解でもある」
カチャリ――と音を立てて、特筆すべき点のない銃がこちらへ向けられる。少し距離があるものの、「突き付けられている」と言うには充分な距離感であった。あの引き金が引かれた瞬間、俺の命は潰える。その場で散って、あっさりと消えて無くなるのだ。
両手両足を拘束された状態では、更に脅威的だった。
「すまないな、お前には辛い思いばかりをさせる。元はと言えば、私が吸血鬼アシュリーを仕留め損なった事が発端で――」
「聞きたくありません!」
落ち着いていた会話が、突如として白熱する。ともすれば威圧的に、気圧されそうになるくらいの気迫だ。叫びを上げたレベッカは、スナイパーライフルと思しき長物を背負った――岸波 零士のセリフに割り込む。
場がひりつく。一気に、別の世界へ放り込まれたものかと錯覚してしまう程の豹変。
「銃を降ろして下さい」
「だがな、私はミカという男を――」
「あたしはミカに生きてて貰いたい! 生きてて貰いたくて、無理かも知れないけど、連れ戻したくて。それを知った上での行動ならば、それを理解した上での行動ならば、あたしは貴方の敵にもなります。こうなる事は、薄々分かっていましたけど――」
彼女は律儀な子だ。本当に俺を連れ戻したいなら、手元に置いておきたいなら――いいや、こんな言い方は意地悪が過ぎるだろう。詰まり、彼女は俺を手元に置いておきたい反面、世話になった岸波 零士というヴァンパイアハンターにも、礼儀を尽くしたかったのだ。
決別が訪れると、理解していながらも。
「ならば終いだ。十秒数えて私は撃つ。それまでは、好きにしろ。お前はどうする、田所」
「私は、零士さんの部下ですから」
「そうか」
それだけで二人の会話は終わり、レベッカは車の反対側にまで回って、弛緩したアシュリー越しに俺へと手を伸ばす。
「十、九……」
「逃げるわよ!」
「……分かった」
何とも言えない逡巡を挟んで。
それは、何を根拠とした悩みだろうか。
俺の手を取ったレベッカは、車から俺を引きずり下ろすようにして、そのまま連れ出す。何度も繋いだ筈の元恋人の手は、前よりもずっと頼りになって、前よりもずっと傷だらけだった。
「あ――」
「置いて行くわよ、そんな物!」
俺の腕がアシュリーと接触し、彼女の身体が傾ぐ。地面に打ち付けられそうになっていた彼女を受け止めたは良いものの、それを見たレベッカは冷たく突き放した。
それでも、俺は。
どれだけ思われても、俺は。
「連れて行く」
「でも」
「連れて行く!」
頑として譲らない俺に、時間が惜しいとばかりに嘆息したのはレベッカの方だった。
俺は若干の申し訳なさを感じつつも、アシュリーの身体を抱き抱えて走り出す。彼女と手を繋いで、彼女に手を掴まれたように、彼女に手を引かれて。
「三、二、一、」
間に合わない、と思った。戦うではなく逃げる以上、猶予があまりにも少なかった。
スナイパーの距離ではないが、零士という男の得意武器は、何もスナイパーライフルだけではない。銃器全般を扱える――その情報は、以前アシュリーから、知恵itビルや、そこへ逃げ込む前に彼と交戦した話をされた際に、知る事となった。
「零」
と、声が響いたものの、銃声にはズレが生じ、銀の弾丸は俺の耳を掠めるに留まった。
「ねぇねぇお兄さん。ボクを除け者にするのは、ちょっと戴けないんじゃない? ほら、こう見えて、有名で高名な吸血鬼だよ、ボク」
「私に取って、お前なんぞより、ミカという男の方が重要だ」
「だったら銀の弾丸はやめて、実弾を使うと良いよ。ミカくんは、まだ人間だから」
「それを助言してどうする、恩赦でも請うのか?」
構わずに駆ける。
振り返る積りなんて、本当はなくて。
「違うよ? ボクときみの利害は一致している。ただそれだけ。なら、協力してあいつ等殺そうよ」
「なん、で」
思わず振り向き、アルがその顔に、端正に整っている顔に、凶悪な笑みを張り付けているのだと気付いた。普段と変わらない笑みだった、彼女は俺に対して……。
ずっと悪意を持って接していたのだ。
「何で、ってそりゃあ勿論――」
彼女が口にする答えは知っていた。或いは本心ではなく、本心を隠す為なのかも知れないけれど。
それでも、分かり切っていた。
言うまでもなく、
「最高に楽しいからだよっ」
それがアルの、答えだった。
しかし彼女のお陰で、逃走の時間は随分と稼がれた。
もしかすると、それすら彼女の掌の上なのだろうか。
「逃げるなァ! 仲互 三佳ァァアアアッ!!」
回転式拳銃の給弾口でもある回転部分を回し、連続で五発の弾丸が射出された。
そのどれもが、まるで狙いすら定められていない銃撃で。俺達にまで届く事はなく……虚しいまでの銃声が、ストックホルムの夜を恐慌させた。
***
木を隠すなら森の中。
人を隠すなら人込みの中。
碌な準備もなしに駆け出した俺達は、押っ取り刀で手狭な路地を抜け、ストックホルムのガムラスタン、ストールトルゲット広場にまでやって来ていた。色鮮やかな建物は、暖色の光に照らされており、足を止めて見惚れていたいくらいだ。
だが今は観光をしている訳ではなく、とても人心地つけるような状況ではなかった。
息も絶え絶え。アシュリーを背負っての全力疾走は、想像以上に堪えたらしい。
「どこに逃げる!?」
「…………」
「レベッカ!」
「そ、そうね。向こうには吸血鬼のアルが付いているわ、逃げるというのは、現実的じゃない。一旦隠れてやり過ごすべきよね……」
「うん、それが良いと思う。でもアルは地獄耳らしい、もしかすると心臓の鼓動でさえも聞き分けるかも――」
流石に買い被り過ぎかも知れない、と付け足しておく。
必要なのは現実的な思考と、気を楽にする為の楽観だ。
「あそこに隠れましょう?」
そう言って彼女が指さしたのは、赤い建物の前に設置された、幾つものテーブル。飲食店か何かだろうか? 時間帯もあってか閉まっているものの、テーブルと椅子は夜風に晒されていた。
果たしてアルから身を隠すに十分な設備とは言い難いが、他に隠れ場所も見当たらないので良しとしよう。どちらにしても、見付かる時は見付かるのだから。
――ゆっくりと、緩慢な速度で足音が迫る。
カツ、カツ、というパンプスの音が、足音の正体を物語っていた。
「うーん……」
彼女にしては珍しく、心底困ったような顔で唸り声を上げる。
「どうかしたのか?」
と、後からやって来たヴァンパイアハンター、零士が訪ねる。
「いや、ボクはこう見えて耳が良いんだけどね。まるでそれらしい音が聞えなくって」
「本当は分かっているのでは? お前は、そういう奴だと知っている――平気で仲間を裏切るし、それに快感を見出すような変態だ」
「あは。酷い事言うなぁ。ボクには背中を預けられないって?」
「良く分かっているではないか」
棘のある言葉に、アルは飄々とした態度で答える。彼等のやり取りは、一歩間違えれば破綻してしまうような脆さが窺えるものの、両者共に割り切っているからか、不思議とその心配はなさそうだった。成る程、確かに利害が一致しているのだろう。アルに取っての「利」を知れば、また違った手の打ちようがありそうな物だが……生憎と俺は、彼女の事を良く知らない。思えば、一方的に捲し立てる癖に、情報を聞き出されたのは俺ばかりだった。
「ここには居ないみたい」
「本当か?」
彼の言葉にアルの表情が凍り付いた。
俺だから、分かる。俺でなければ、分からない変化。気付かれているのだろうか、であれば、彼女は俺達を逃がそうとしている……? 普通に味方をするより、敵に回ってそれとなく助ける方が得策だと思ったのだろうか? それとも……。
そうこうしている間に、二人の姿は見えなくなった。
それから「待って下さいよーっ!」と駆けて行った若年のヴァンパイアハンターを見送って、
「…………行ったみたいね」
「そう、だね」
思わず言葉に詰まってしまうも、気取られぬように言葉を紡いだ。
アルと零士の二人はどこかへ歩いて行った。アルが「あっちから足音がする」といった旨の話をしていたので、一般人の足音を、俺達の物だと勘違いしたのだろう。勿論、アル味方説も推して行きたい所だ。
「こんな時だけど」
やけに可愛らしい口調で、隣のレベッカが口を開く。
アルに聞き取られぬよう、極力潜められた声で。
「ううん。こんな時だからこそ、伝えておきたいの」
「……」
「あたしは三佳が――ミカが、あたしの告白に応えてくれて、嬉しかったの」
「……俺も…………嬉しかったよ。レベッカの気持ちが、紛れもない本物だと気付いて……。気付いた日は、本当に嬉しかった。だからさ、俺はこれでも頑張ったんだよ。俺なりに、精一杯」
「分かってるわよ、そんなの。でも、あたしはそんなあんたを変えたくて、見ている内に、惹かれて行って……どこに居てもぴょこぴょこと、ホントあんたってウサギみたい。目障りで……だから、目が離せなくて」
俺の言葉に嘘はない。せめて真摯に、答えるべきだと思ったから。
俺は疲れ切っていて、疲れるようになっていて、疲れる以外の選択肢を選べなくなっていた。人間関係という、極めて難解な問題に対して。
自責の念か、それとも単に嫌気が差したか。
今更、真相は分からないけれど。
「俺は人付き合いが苦手でさ。昔は、そうでもなかったのに」
「分かってる。そもそも、あんたが自分の事を話すのだって、どうせ珍しい事なんでしょ? あんたなりの精一杯だって、ちゃんと分かってるから」
――あぁ、俺はどうして今まで、彼女と向き合えなかったのだろう?
いつまでも過去に囚われて、誰かに触れる事を拒絶した。過去を良いように使って、あたかも「俺の話」であるかのように。俺は加害者で、被害者ではないというのに。
始めは自責であったのかも知れない。だが、高校生活に於いて、ひきずっていた過去は、俺が良いように使った道具に過ぎないのだ。どこまでも最低な人間だった。
「いつだって君が手を引いてくれた」
「ごめんなさいね。無理に連れ出して」
「違うよ。楽しかった……。でも、それでも、疲れちゃってさ。「楽しかった」「また行きたい」って思い以上に、疲労が上回って」
それから、恐ろしかった。手に入れた物を失うのが、大切な物を無くすのが。その為に考え出した自衛手段が、根本的に大切な物を作らず、何も手に入れない、という歪んだ答え。
「今はどう?」
何故か心底楽しそうに、レベッカは上目遣いで俺を見詰める。両手で頬杖なんか突いて、俺はその赤色の頭に、ぴょこぴょこと動く不可視の兎耳を幻視した。
「そんなに疲れはしないかな」
「そうみたいね。笑っていないもの、すっごく詰まらなそう」
「楽しんでるよ」俺は微笑みながら言った。感情の死んだ顔で続ける。「嘘じゃないからね?」
そう言うと、レベッカはどこまでも嬉しそうに笑って。
「そう」
案外、そっけなく答える。
だが、その声音からは、随分と明るい印象を受けた。
「今考えるとね、少し恥ずかしいんだけど……」レベッカは一度目を伏せてから、言葉通り――心底恥ずかしそうに口を窄めた。「ミカの事、愛してたんだと思う。恋から始まって、気付いたら愛になってて……」
朱に染まった頬は、最早昔懐かしの光景だった。
「だからね、ミカ。あたしはあんたを愛してる、だから、だから……愛して、くれる?」
「……」
言葉にするべきなのだろう。レベッカともあろう美女に言い寄られて、ここまで素っ気無く扱うのは俺くらいではないだろうか。言葉にした方が良いようで、しかしあまりにも残酷で。
「嘘でも良い?」
愛していない、という訳ではないけれど。
「もうそれ、殆ど答えじゃない」
笑っていた。目元を、華奢な人差し指で拭っている。
「…………ごめん。君の気持ちは嬉しいけど、やっぱり俺じゃあ不釣り合いだよ」
お付き合いの申し出を断る常套句を述べるが、これこそ本心なので仕方がない。当時、彼女を受け入れきれなかった原因の一つ。
「安定した稼ぎなんてない。将来には不安ばかりが残る。そんな俺は必死で、君を受け入れる余白がなくて、結局これが、最初の全て」
「あたしが稼ぐわよ。家事も全部やるわ、あんたはぐーたらしてれば良いのに。それで、構わなかったのに……」
消え入るようなか細い声で、嗚咽のように紡がれる。
「あんたって、優しいのね」
「優しくなんかないよ。そう見えるだけ」
それは優しさなんかではない。ただの自己満足で、くだらない自尊心を満たす為の物。
俺は優しいんだ、誰かの役に立ってるんだ、生きてて良いんだ、ここに居て良いんだ。だからこそ、今は居場所なんてないから、変に気取らなくて済む。尤も「居場所がない」に対しては、「良い意味で」という枕詞が必要だが。
それに、居場所がないと言ってしまうと、多大な語弊があるから。
「……あたしじゃ……ダメだったの?」
「そんな事は、ないと思う」
詰まりながらも、言葉を捻り出す。
正面切っての肯定は出来ない。
「ただ……多分、あのまま時間が流れても、無理だったかな」
日常では叶わなかったのだろう。アシュリーという吸血鬼が、異例の異形がやって来て、俺に可能性を見せてくれた。
同じ髪色、同じスーツ、同じ制服、似たような名前、丁寧な態度、丁寧過ぎない態度、考える事は沢山ある、考えなければならない事は山積している。鬱陶しい、あの日常――社会から、抜け出せるのだと、そう言われている気がしたのだ。
「そう……」
結局の所、俺は自分の意思に関係なく、もう「それ」が板についてしまっていた。笑いたくなくても、笑ってしまう。いつまでも愛想笑いを浮かべてしまう。誰かと居るだけで疲れが溜まる。
社会への適正がなかったのだ。
「だったら、あたしはどうすれば良かったのよ。どうすれば、あんたを振り向かせられたの?」
その言葉は過去形で。もう、諦めてしまったようでもあり。
ならばここで「それなら、それこそどうしてこの場にやって来た」と訊いてしまうのは、野暮を通り越して性悪だろう。
俺は、数秒間の沈黙を選んで、
「……やっぱり、無理だと思う」
そう言って、俺は数年ぶりの笑顔を作る。さっきよりも、余程精巧に。
「そう……」
レベッカは素っ気なく答える。もう感情なんて宿ってもいないようで、興味なんて失ったようで。
「あたしは、三佳を連れ戻せると思ってた。何でも出来るって、頑張れば、何だって出来るんだって思い込んでた。だから、無謀な理想を追い掛けた、ここまで、駆け抜けて来た」
「ごめん」
「連れ戻すのは無理みたい。でも、お幸せにね。せめて、最後に笑って見せなさいよ。あんたの笑顔を見る為に、あたしはここまでやったんだから。やって来たんだから」
と、そこで一人の闖入者が現れる。と言っても、ずっと傍には居たのだが。
「ん……ひゅーひゅー、お熱いね。嫉妬しちゃうなぁ……。それにしても、キミが私をここまで運んでくれたのかい? 相も変わらず、ミカ君は優しいな」
寝起きだというにも関わらず、どうして吸血鬼という生き物はいつも、こう……!
「少し黙っててよ、吸血鬼」
「優しくないッ!?」
いつもは半分ネタでやっているのだが、今だけは心から沈黙を貫いて貰いたかった。
「少し、静かにしてて」
「ああ。分かったよ、仕方ないから」
アシュリーの目覚めも、なんだか日常が戻って来たという感覚で、詰まり「嬉しい」とかではなく、ただひたすらに安堵した。
「吸血に、催眠効果は――」
「ないよ。あるのは中毒性と、心地よさだけ。本当さ」
そこに、謝罪の言葉は要らなかった。俺は彼女が、彼女なりに悩んだのだろうと推察出来たし推測していて、それは彼女とて同じなだろうから。
まぁ、常套句は使ったけれど。
さて、目覚めたばかりの彼女には悪いが、俺にも時と場合によっては、アシュリーよりも優先させる事柄くらいあるのだ。
いつの間にか俯いていた顔を上げて、俺は正面からレベッカを見据える。彼女には悪い事をした、彼女には沢山世話になった。彼女は沢山与えてくれた。彼女は、彼女は――
――彼女の頭には、生物の温もりを感じられない、無機質な長方形がくっついていた。
見覚えがある。
揺れる牢獄。船内に設えられた鉄格子。
そこに仕掛けたC4爆弾。アルお手製の爆弾。
「ぇ――何よ、これ」
引き剥がそうとするレベッカ。鳥黐のように粘着質な接着剤が、彼女の髪に絡み付いて中々取れない。爆発の威力からして、ここからでは巻き込まれる。今ならまだ、レベッカも助けられるだろうか? いや、危険は冒すべきではない。
「離れろミカ君!!」
それなら。
その通り。
俺の行動は決まっている。
***
爆弾を投下し、己の手中にある起爆装置を見やる。そして静かに、ニヤリと嗤って、彼女は起爆装置のボタンを押した。
その眼下。
「ぇ――何よ、これ」
「離れろミカ君!!」
レベッカは突然の出来事に困惑を隠せずに居た。
(何かが頭に――何が)
混乱する彼女は、助けを求めるように正面のミカを見た――が、彼は心底申し訳なさそうな顔で。否、本当に心の底から、申し訳なさそうに。それは彼女が見て来たミカの顔と一致しない、始めて見る顔、始めて見せられた顔。
否、その昔、いつも遠くから眺めていた顔。
そして彼女は、「P、P、P……」と謎の電子音を発する何かを、やっとの思いで剥ぎ取った。その代わりとばかりに、今度は彼女の掌にくっついた。混乱と困惑、戸惑いと、言い表しようのない不安。何か、良くない未来が待っているのだという――気味の悪い確信が、彼女を包んで。
「爆、弾……?」
見覚えのある物ではなかったが、映画やドラマで目にした事がある。それが爆弾である事は、一目で、そして直観的に分かってしまった。気付く事がなければ、そのまま、何も知らずに死ねたのに。
「ぁ、待って――」
そうするべきではないと、分かっていた。
この爆弾を抱いて、最愛の人に背を向けて、一人で死ぬべきだと思った。そうする事で、自分の愛を証明出来た。死後の自分を、きっとミカは愛してくれる。一番にはしてくれなくても、その寵愛を受けられる。どれだけ我武者羅な努力を重ねてようとも届かなかった物が、手の届く範囲にある。
それでも。
理性で分かっていても。
死ぬのは、怖い。
咄嗟に、反射的に、彼と一緒になりたいと思ってしまった。助けを求めてしまった。一人で死にたくはなかった。このまま、ずっと一人のまま。
(報われたい、離れなきゃ、死にたくない、ミカを守って、ああ、ああああ――!!!)
手が届く。彼の袖を掴んで、その顔を見上げた。
見上げた――その、顔は。レベッカを見てはいなくて。目線は爆弾に釘付けにされていて、彼と目が合ったかと思えば――
「ごめん」
酷く焦ったような声音だった。自責の念で潰れてしまいそうな、死んでしまいそうな程の脆く弱い声。
「ミカ……?」
ここまで全力で駆けて来た。どんなに辛い事も、彼を思えば乗り越えられた。血の滲む努力を重ねた。何度も死にかけた。二年の時を経て届いた。届いて、そして、
思い人の袖を掴んでいた指先は、他ならぬ思い人によって払われていた。
(何で、どうして、ここまで、頑張ったのにぃ……)
ミカなら、きっと自分の手を取ってくれるものだと思っていた。もしかすると、以前の彼ならば、一緒に死んでくれたのかも知れない。自分の命に価値なんて見出せなくて、他に大切な物も無かった……そんな、当時の彼ならば。
今の彼とは違う。
ミカは変わった、良くも悪くも。
(あぁ、でも――)
走馬灯は流れない。「死」を自覚していても、肉体は「死」を感じてはいないのだろう。
ならば、彼女が見た光景は――ミカと二人、手を繋いで、どことも知れぬ河原を走る光景は、ただの羨望だ。
(そうね。笑顔じゃないのは、少し残念だけれど――)
時の流れが、酷く緩慢に感じられた。
突き飛ばされた勢いのまま、慣性を殺しきれずに体勢を崩す。手の中の爆弾が破裂して、爆発したのだと痛感して、一瞬だけ全身に激痛が奔って、それでも直ぐに感覚は消え失せて。
夜闇の中、咄嗟に吸血鬼を庇うような素振りを見せたミカ、その顔が照らし出されて。それが、彼女の見た光。見たかった光景。ずっと待ち望み、追い求めた、心からの感情が籠った表情。
尤も、状況が状況なのも相まって、笑顔ではなかったが。
それでも、心からの謝罪。
心をそのまま、映し出した表情。
(あたしは、ほんのちょっとだけ、報われ――)
爆音。
それを、最も近距離で聞いていた筈の彼女は、しかしその強烈なまでの轟音を、聞き届ける事はなかった。
***
疎らに存在していた人々が、突然の爆発音に恐怖と困惑を攪拌したような声を上げるも、俺はそんな事に気を割く余裕はない。
右腕が吹き飛び、頭蓋骨が顕わになり、しかも砕けていて、血潮と臓物を散乱させる肉塊は、人間の名残とばかりに黒いスーツを身に着けていた。……すっかり赤く染まっていたが。
赤い頭は、いつにも増して真っ赤だった。
「あ、ぁ……」
俺が殺したような物だ。もっとやりようはあった筈だ。
「ここは危ない。逃げるぞ、ミカ君」
全身血塗れの二人。傷一つない、人間と吸血鬼。それから、人間だった物。
俺が作り出した、簡易的な地獄。
「レベッカ、レベッカ……俺は何も返せなくて、何もしてあげられなくて」
嬉しそうに手を引いて、映画館に、遊園地に、昼休みの屋上に、連れて行ってくれた彼女は、もう居ない。どれだけ願っても届かない、もう、救えない。
救いようがないのは、俺の方だ。
何も出来なかった。
俺は譫言のように唱え続ける。ごめんなさい、ごめんなさい、と。
まるで被害者の面をして、何度も何度も言い続ける。まるで本心ではなかったと、望んだ結末ではなかったとばかりに。
本当に……俺は最低な人間だ。
「ミカ君。辛いのは分かる、でも彼女は、キミを生かす為の犠牲になったんだろう? キミは生きたくて彼女を犠牲にしたんだろう? なら、生きなくちゃ。今は取り敢えず、今だけは死にたくないと願ったのなら」
「…………」
「……私が居なければ、キミは彼女の手を振り払わなかった。キミは優しいからね、今回は状況が良くなかった。私と彼女、二者択一を迫られたんだ。それなら、キミが私を選ぶのは当然だろう。何せ私は可愛い上に親しみやすい、しかも吸血鬼という確固たるキャラを持っていて、殺すなんて勿体ないから。キミは優しいな、割り切った筈で、割り切った上で、答えは変えないけれど悩んでいる。取り返しが付かなくなってから、その誰かを軽んじない為に」
「今の俺に「優しい」だなんて……皮肉でしかないよ」
ヤケクソ気味に吐き捨てた。
それでも、彼女の言う通りだ。少しだけ彼女の言葉とは差異が生じるが、それでも俺は生き延びる為にレベッカを見捨てたのだ。助けられたとは思えない、それでも一緒に死んでやるくらいは、出来ただろうに。だからこそ、殺したのならば、その分生きなければならない。
レベッカの気持ちを代弁するような事は、何をどう間違っても絶対にやらないけれど、彼女を殺してまで生き延びたのだ。易々と死んでやる訳にも行くまい。
彼女が今の結果を望んでいたとは到底思えない。それでも、このまま俺まで死んでしまうのは、それこそ彼女に――レベッカに、申し訳が立たないから。
「だったら、酷い奴だよ、ミカ君は」
「うん、それで良い」
そうだ。俺はアシュリーの口に血を流し込んだ瞬間から、或いは彼女を再度室内に招き入れた、忘れもしない2020年七月十六日の御前零時過ぎ。あの時、あの場所で、アシュリーを再度迎え入れた瞬間から、全ては始まっていたように思う。要するに、その一瞬の出来事が、心の動きが、俺の人生を決定付けた。
だから、その時には、全部覚悟していたのだ。死ぬ事も、殺す事も。こうなる事も。
結局、清廉潔白で居られる程に善人ではなく、それでいて割り切れる程に悪人でもなかったのだろう。そのように、なれなかったのだろう。
「どうやら決心はついたみたいだね。うん、良かった良かった」
軽い口調と共に石畳へと着地したのは、白髪に赤の双眸が良く映える、どこか空恐ろしいものを感じさせる吸血鬼。そして……先程の爆弾、彼女が上から降って来た事、あらゆる面から考えて、まず間違いなく――彼女がレベッカを殺した犯人。差し詰め、俺は共犯者といった所だろうか。
……責任転嫁をする訳ではないが、彼女が居なければ、レベッカは死ななかった。
それに――何も俺は、レベッカが嫌いな訳ではないのだ。昔から、どちらかと言えば好きでさえあった。
「スナイパーと雑兵一人、それから目の前の吸血鬼」
「私一人で全員相手は、ちょっと厳しいね」
敵はそこまで多くないが、アルという戦力が大きいのだろう。
単純な強さで言えば岸波 零士とヴァンパイアハンター一人の方が弱いのだろうが、それは吸血鬼と人間で戦わせた場合だ。俺なんかを相手にするのなら、吸血鬼の身体能力よりも、銃弾の方がよっぽど脅威だろう。
「アル――白髪吸血鬼の方は、全体的に良く分からない。何か異質と言うか、敵か味方かも分からないと言うか――」
と言っても、レベッカを死なせた要因、その一つである彼女を、今更味方だとは思えない。
「飽くまでも時間稼ぎだ、良いな?」
「うん。精々早く助けに来てよ……」俺は目の前の吸血鬼から目線を外し、悪辣な笑みを浮かべた吸血鬼を睨み付けて、その両隣に陣取った人間には目もくれず。「俺、すぐ死んじゃうからね?」
「分かってるよ」
頼もしい声だったが、これからその「頼もしい声」と離れるかと思うと、かなり心配になって来る。既に、広場からは人気がなくなった。閑散とした街中で、しかし遠くからは微かな悲鳴が聞こえて来る。
「私がミカを殺す。それだけが悲願だ」
「良いじゃーん、乗ってあげようよー」
アルがファイティングポーズを取る。拳を二つ、顔の前で握り締めたようなシルエットだった。
「手出し無用だよ♪」
「……ああ。確かに、鬱憤が溜まっているのは、何もミカに対して――だけではない。こちらも手出し無用だ。だが、ミカは生きたまま引き渡せ、良いな?」
「うーん、まぁ良いよ。そんな状況になったらね」
誰とでも同じように接するのだろう。アルはそれきり黙り込み、ヴァンパイアハンター二名は銃器を構え、アシュリーが駆け出したタイミングで、人間全てに備わった弱点である鳩尾に、鈍い痛みが奔った。アシュリーは振り向かない、一先ず俺が殺されない、と理解しての事だろうが――何分痛い。こちとら十六年余りの時をぬくぬくと過ごし、それからの二年も碌な喧嘩一つなかった身だ、痛みに対する耐性はないし、戦闘技術も素人芸にすら満たない。
だが……向こうが俺を殺さないならば、幾らでもやりようはある。
「ガ、はッ……!」
周囲の建物に比べ、矢鱈と横幅の広い建造物に叩き付けられ、支柱のような装飾に、僅かではあるが罅が入る。それだけアルの膂力が凄まじく、その気になれば今の一撃で、俺を殺す事も可能だという証左だ。それこそ今しがたの膝蹴りを顔面に入れられるだけで、俺は死んでいただろう。もし辛うじて生き永らえたとしても、瀕死な上、意識も刈り取られていたに違いない。
今の俺に出来る事は、抵抗でも応戦でもなく遅延行為。可能な限り精一杯に、被ダメージを抑える事こそ肝心要であった。何せアルが相手では、俺程度何も出来ない小童に等しい。それこそ、赤子の手を捻るのと、俺を殺すのでは、難易度なんかさして変わらないだろう。それとも倫理的な観点から見て、俺を殺す方が簡単だろうか?
自分の無力が恨みがましい。アシュリーの隣に並べないのが、一人だと直ぐに死んでしまうのが、悲しかった。俺にも力があれば、レベッカも助けられたのに。生憎と、人間は弱い。
少なくとも俺が、一人で逃げ出せる程度の状態になければならない。
そうでなければ、アルは俺を放置してアシュリーを仕留めに行けてしまう。
だから、重要なのは時間稼ぎだ。俺の役目は戦闘じゃない。
「アル、はさぁ……!」
「んー?」
「アルは、俺の敵なの? どうも、そうは見えないと言うか……何か、決定的な部分が違うような、気がして……」
「あは。この期に及んでボクを味方だと思いたいのかな? どう考えても敵でしょうに――でも、そうだね。強いて言うなら、今はきみの敵だけれど、それはボクが吸血鬼陣営でもヴァンパイアハンター陣営でもなく、ボク自身の独立した思想に基づいて動いているからねえ。もしかすると、きみの弁舌次第では、どうにかなっちゃうのかも」
その言葉に、俺は希望を見せられたようだった。しかし同時に、俺は気付くべきだったのだろう。アルという吸血鬼の言動を思い出し、彼女の性格を再確認するべきだったのだ。悪辣な吸血鬼、罪を罪とも思わず、まるで悪びれる素振りもなく、己のエゴにのみ従って動き、剰え楽しんでいるような異常者。
そんな人物は、決まって上げて落とすのが好きだろう。彼女を見ていると、それが紛れもない事実であるかのように感じられた。
「まぁ、ボクの猛攻に耐えながら、頭と舌を回す必要が、あるだろうけどね」
ちゃぶ台を挟んで正座……とは行かないらしい。
そりゃそうだ。
しかし「何かある」とは分かっていても、その「中身」までは分からない。あるなしの二択ではなく、無限にあると言って差し支えない選択肢から、たった一つを選ぶ必要があるのだから。当然、難解極まる問いの答えに、辿り着ける訳もなく。
「ほらほら、早くしないと死んじゃうよ? まぁ安心して、殺しはしないから」
彼女は恐らく、スナイパーのヴァンパイアハンターこと岸波 零士に言われたが為に俺を殺さないのではない。時に「死」とは救いであり、連綿と続く痛みよりは、苦しみや絶望が幾らか劣ると知っているからこそ、殺さない。むしろ彼女の性格であれば、一瞬で約束を破り俺を殺していそうな物だが……今回ばかりは、自身の愉悦を優先させたのだろう。
「でもねミカくん、それはボクの都合でもあるんだ」
都合とは……また、それらしく聞こえる言い方だ。
そんな言葉とは裏腹に、直後の一撃はとても痛かった。
***
吸血鬼アシュリーを脅威たらしめているのは、道徳という概念に唾を吐き捨てた様な、持ち前の悪辣さだろう。尤も、アルのようにアシュリーよりも悪辣で最低最悪な吸血鬼はごまんと居るのだが。
しかしそれは飽くまで感情面――相手が人間であるからこそ、意思のある生命体だからこそ通じる手段だ。もしも相対するのが感情の籠らないロボットであったなら、彼女の思考回路は、全く持って強みにならない。
しかし、人間と吸血鬼。峻烈な訓練を受けて、それを乗り越えた吸血鬼殺しの専門家であるヴァンパイアハンターと、吸血鬼として生まれ、或いは吸血鬼に大量の血を与えられて成った後に、人間から血を奪って力を蓄えた吸血鬼。どれだけ決意の量が違おうとも、宿る力は残酷であり、いつでも後者に微笑んでいる。
文字通り血の滲むような努力を重ねようとも、ちょっと血を吸った吸血鬼には勝てない。
死ぬ程の訓練を積み重ねようとも、沢山の血を吸った吸血鬼には及ばない。
それに対抗出来る道具こそが、銀製の武器。例えば銀の弾丸、例えば銀の杭、例えば銀のバット。そういった銀製の武器だけが、吸血鬼という存在に傷を付けられる。勿論、太陽の光を数えるのであれば、船上でレベッカの使用した閃光弾なんかも、有効打の一つには数えられるが。
今回は銀製の武器に焦点を当てて述べて行くが、そうなると一気に、吸血鬼を人間の上位種たらしめている要因が見えて来る。徒手空拳で立ち向かって来る吸血鬼相手であれば、新米のヴァンパイアハンターでも、数名が集まれば太刀打ち出来る――勿論、冷静さを欠いてしまえば敗北は必至だ。
吸血鬼はその大半が銃弾を見てから避けられる。零士の使用するようなスナイパーライフルの弾丸であれば、相手に悟られない距離からの発砲であったり、至近距離からではとても避けられない速度での発砲であったりと、何かとやりようはあるものの、彼程までにとは言わないが、最低限スナイパーライフルを使い熟す必要があるだろう。
だが吸血鬼もまた――当然の事ながら――武装する。アシュリーであれば、投げナイフとしても使える無数の短剣を、暗器よろしく持っているように、吸血鬼は須らく何らかの得物を所持しているのが常だ。それが刀であれ短剣であれ、銃であれ。兎も角武装されていては、一気に人間で太刀打ちできない存在になってしまう。
どれだけ鍛えても届かないからこそ、人間は文明の利器を手に取ったのだ。しかし、それは吸血鬼も同じ事が可能であり……結果的に、お互い武器を持たせてみれば、人間の方が不利になった。一撃受ければ死ぬ、大して吸血鬼は致命傷を避ければ良い上に、得物で人間の攻撃を弾く事も可能。
――裏を返せば、弾く必要がある。得物で、受け止める必要がある。
直接喰らっては不味いのだ。
ならば吸血鬼を最強たらしめているのが武器だとして、それを奪ってしまえばどうだろうか?
躱す、受ける、カウンター。内「受ける」という選択肢の喪失は、如何に吸血鬼と言えどもかなりの痛手である。
とどのつまり、零士の作戦は以下の通りだった。
「お前が前衛で引き付けろ、田所。私は距離を取りつつ援護射撃だ。間違っても、吸血鬼アシュリーを私の元まで近付けさせるなよ?」
「はいッ、頑張ります」
「頑張る必要はないが、結果を出せ。と言っても、吸血鬼アシュリーを二度に渡って逃がしている私に、言えた事でもないだろうが……。まぁ、とまれ、期待しているぞ」
――その会話で示した方針の通り、腰から刃渡り五十センチメートル程度のナイフを抜いた田所――田所 凱斗が、アシュリーに肉薄し、或いは肉薄され、得物を振るっていた。
対するアシュリーは余裕の笑みを浮かべ、武器を抜く様子すら見せない。しかしその手は左右どちらかが常に空けられており、零士の銃撃を警戒している風であった。むしろ、そればかりを気に掛けているようで。
「はぁぁあああ――ッ!!」
それが気に障ったのか、凱斗は一層鋭い一撃を放つ。鬱陶しそうに――まるで、耳障りで目障りな蠅を叩き落すが如く、アシュリーはパチンとそれを弾いた。見れば、彼女の手にはグローブが嵌められており、それを利用して銀の剣身に触れても大丈夫なよう、細心の注意を払っているらしい。
こう見えて、田所 凱斗という男はエリートだ。若年ではあるが、彼がヴァンパイアハンターの道に進んだのは実に六歳当時。まだ小学校にも入学していない頃だった。
幼稚園で楽しく遊んでいた凱斗は、その日いつまで経っても迎えが来ないと泣いていた――母子家庭で、ただでさえ寂しかったのに。その母親の顔さえ見れなくて、ただただ不安で仕方がなかった。
数日後。彼は石川 雷蔵という男と出会う事になる。尤も、保護施設で預かられていた凱斗に、雷蔵の方から会いに来た形ではあったのだが。
出会った当初から、矍鑠とした老人だった。既に老いていて、老い耄れてはいなくて、老い耄れる日が来るのだろうと思いながら、終ぞその日は訪れなかった。
(雷蔵さんの仇――)
そして、
(母ちゃんと、妹の、仇――!!)
彼がヴァンパイアハンターになった理由。そんなもの、弔い合戦に他ならない。
銃の扱いもそこそこだが、彼に限っては近接戦闘の方を得意としており、現代ではあまり評価されなかったが――それでも、今はこうして役に立っている。
石川 雷蔵の得物であったナイフ、「秀師釜刑」を手に、不俱戴天の仇と向かい合い、打ち合っているのだ。最早死んでも構わない、だが叶う事ならたった一撃、アシュリーに報いたいという心持ちであった。
「死ねェ、吸血鬼ァアアッ!!」
下段から斜め上へと斬り上げられる。しかし、相手は凡百の人間でもなければ、凡百の吸血鬼でもない。凱斗の身体能力及び反射神経を持ってすれば、並の吸血鬼を相手取る事は容易だろう。背後に零士も控えているとなると、猶更だった。だが、相手はあの吸血鬼アシュリーだ。
肉体――と呼んで良いのだろうか。アシュリーは、その体を無数の蝙蝠と化し、アシンメトリーな短剣が通るであろう一閃に沿って隙間を開ける。
彼女の読みと寸分の違いなく、凱斗の攻撃は、いっそ芸術的なまでに手際良く、そして曲芸じみた精緻さで、絶望するには十分な軽やかさで、何でもないように躱された。魂を込めた、乾坤一擲と言って差し支えない一撃が、だ。
――少なくとも、斬撃が届く事だけは、確信出来た一撃が。
酷薄なまでに、軽々と。
「ははは――」
乾いた嗤いで、至って真剣な面持ちの人間を、吸血鬼は嘲る。
しかし、彼女に取って唯一想定外であったのは――
ダン、ダンッ、と一発目を撃って間もなく、二発目の銃声が響いた。初撃は小さく、軽めの音。二発目は鈍重なスナイパーライフルの音。
フィクションでしかあり得ないような、正しく神の領域。銃弾に銃弾を当て、軌道を変える。それをやってのけるのが、岸波 零士という男だ。
およそ想像し難い角度からの攻撃に対し、アシュリーは人間離れした反応速度で飛び退いた。
それまで一時も気の抜けない攻防を繰り広げていたからか、凱斗は汗だくになりながら、その場に頽れる。吐き出す吐息はどこまでも荒い。
続けて、更に二発の弾丸がアシュリーを襲う。今度は二発とも、スナイパーの銃弾だった。しかし、吸血鬼のズルい所は、銀製の武器――或いは、それと同じ性質を持つ物でなければ、その身に傷を付けられない、という点。
それとも、人間が非力過ぎるだけだろうか? 吸血鬼と違い、人間に弱点なんかない。鈍器で脳を揺らされれば死ぬし、刃物で腹部を刺されれば死ぬ。弱点なんてない、どこをどうされても死ぬのだから。故に、吸血鬼を殺せる武器は銀製に限られても、人間を殺せる武器は割と何でも良いのだ。
だから……例えば、防弾チョッキなんて着られてしまえば、それまでだろう。吸血鬼が己の身体機能を損なう装備を嫌うのが、唯一の救いだった。
(だが、そうだな。この距離であれば、スナイパーよりもハンティングライフルの方が――)
そう思い得物を背負い、腰に下げていた中距離用の武器を手に取った矢先、月明かりのみに照らされる夜闇のなか、彼の視界が一層暗くなった。見れば、凱斗の首を掴んだ吸血鬼が、眼前にまで迫っていて――
(抜かったか――ッ)
***
「人間ってのはね、長年人間を見て来たボクが断言するけれど、生まれた頃は誰しもが、そう、例え凶悪犯罪者の娘息子であっても、最初は純粋無垢なんだよ。勿論例外はあるし、詰まり生まれながらに危険思想の持ち主であったりもする……それでも、吸血鬼と人間を分けるのは、やっぱり生まれたての子供がどういった思考回路をしているか、だと思うんだ」
「…………」
「人間が平和主義を起点として、そこから危険思考に走ったりするのに対して、ボクのような――生まれながらに吸血鬼だった個体なんかは、初めっから凶悪犯罪者のような思考回路をしているんだよ。他ならぬボクが言うんだから、間違いない。勿論逆も当然あって、吸血鬼が全員そうという訳ではないし、そもそも純血の吸血鬼以外は――要するに、吸血鬼によって吸血鬼とされた個体。元は人間として生を受けたような個体は、人間として備わっている感性こそを軸とする訳だけれど」
「……………………」
「だから……そう。例えばきみ、そう、きみだ。きみなんかも、昔は優しかったんだろうなぁって思う。見ていると分かるんだ、そういうの。こう見えても、ボクは長生きだからね。……優しい人間程、道を踏み外し易いんだよ。それこそ見返りを求めていないような、根っからの善性であったとしても、知らず知らずの内に、どうしても「報われたい」って気持ちが膨れ上がるんだ。理不尽な目に遭ったり不当に扱われたりすると、そしてそれが積み重なると、無意識の内に抱いていた不満が溢れ出す。それこそ、罵詈雑言の類がさ」
本当に、お喋りな吸血鬼だった。
やっぱり、死んでも饒舌に喋り続けていそうだ。
とは言え、この状況は不味い。何せ俺は、先程から一言も発していない――否、発せていないのだから。口を開けば、否応なしに舌を噛みそうだった。いや、或いは、舌を噛むリスクを度外視したとしても、俺に声を上げる程の余裕はなく、そのような事に割く程、酸素を持て余してはいないのだ。
全ての資源は有限である。
「ほらほら、逃げてばかりじゃあ吸血鬼は斃せないよん♪」
「戦ったって勝ち目ないじゃんッ!」
思わず、酸素の無駄遣いをしてしまった。だが、言葉でアルを足止め出来るならば、それに越した事はない。正直に言えば彼女の相手は神経を使う――見透かしたような態度を取るので、変に気を張ってしまうのだが、その程度、命とはまるで釣り合いが取れていない。
まぁ、彼女は俺を殺す気がないようだけれど……それでも、痛いのは嫌だった。
とっくに――それこそ、最初の一撃で――左腕の骨は、折れているのだが。
「あは。やっと答えてくれたっ。いやぁ、寂しかったんだよ、ボク。ミカくんがぁー、全然お喋りしてくれなくて」
「敵とお喋りをする趣味はなくてね……」
「敵だなんて、酷い事言ってくれるよ、全く。何度も言ってるでしょ、何度でも言うよ。ボクは飽くまで、どこまで言ってもボクであって、吸血鬼陣営でもヴァンパイアハンター陣営でもない。ただ、家族を思って骨を折る吸血鬼だよ!」
「折るのは自分の骨だけにして欲しいな!?」
「特技は骨折ですっ!」
「めっちゃ弱そう!!」
……楽しかった。彼女は俺を殴るし殴ったし、蹴るし蹴られたがしかし、それでも彼女とのお喋りは楽しかった。気を張るが、それでも楽しくて。
それでも、味方ではない。
彼女は何がしたいのだろう。
「ねぇ……ミカくん」
改まったように、アル。彼女は攻撃と追走の手と足を止めて、その場で目を伏せながら、静かに呟いた。遠くから響く銃声は、最早背景音程度にしか思えない。
目の前の吸血鬼だけに、俺は意識を吸い寄せられている。
「未来は変えられないって言ったけれど、選ぶ事は出来るんだよ。――タロットカードの話、そのまま裏返しても、上下を逆さまにして裏返しても、結果は変わらない……っていうあれ。実はね、少し違うんだ。確かにあの時は、既に向きが決まっていた……でも、次はきっと違う。次は、上向きか下向きの二パターンがある筈なんだ。それが、普通だから。詰まりだよミカくん、未来は幾つもあるんだ。それを決定付けるのが――たった一つに選別するのが、今であり過去な訳であって」
「だったら、やっぱり未来は変えられるんだ?」
「ううん。元からある選択肢より、自分が良いと思った一つを選ぶしかない。変えるんじゃなくて、選ぶだけ。ボク達に許されているのは、ただそれだけだから」
ならば、アルも最良の未来を手に入れる為に、奇怪な行動をしている、とでも言うのだろうか。しかし、余程自分が持つ占いの手腕に、彼女は自信があるらしい。でなければ、未来が既に決まっているとは断言しないだろう。それを自信満々に言って退ける彼女は、未来予知の能力を賜っているか、占いが百発百中のどちらかだ。どちらも、未来予知のような物か。
「でもねミカくん。一度決まった未来は、何がどうあっても覆らないんだよ。良かったね。例えばそう、きみはどうやったって、ボクには勝てないでしょ? そういう事だ」
「だったら、分かり切った未来をなぞる必要はない。ここで俺と、そうだね――アシュリーが来るまで、語らい合おうよ」
「語り合う事なんて何もないよ。だってこれは、ボクが一方的に喋って、きみが面白可笑しく茶々を入れているだけ――SNSでのやり取りのような物だ」
「それなら、いつまでだって喋り続けてよ。これでも、君の話を聞いているのは……少し、楽しいんだからさ」
口の端に含蓄を持たせたのは、何も遅延行為を意図してではない。自然、そうなっただけだ。詰まる所、それは紛れもない、俺の本心だった。
「あっそ」素っ気無く彼女は答えて、突然満面の笑みを浮かべる。「それは良かった」
どこか儚げで、消え入るような笑顔。普通に笑っただけなのに、不思議と特別な笑顔に感じられた。初めて、彼女の本心を垣間見たような……あぁ、もしかすると、レベッカもこんな気持ちだったのだろうか? それは、確かに……追い求めたくもなる。
「俺なら聞いていてあげられる。飽きもせず、いつまでもダラダラと耳を貸すよ。君を分かってあげられるから。分からなければ、分かるまで君と見詰め合っているよ」
「……ばか。そんな事したら、姫に嫉妬されちゃうでしょ」
ガウンの首元に付けられたモフモフに顔を埋めて――顔を隠すようにして――彼女は続ける。
「うん、でも、嬉しいよ。ありがとう、ミカくん」
そんな言葉とは裏腹に、飛んできたのは、やっぱり拳だった。固く握られた、握り拳。腕が四本くらいあるのでは――と疑義を抱いてしまう程、全く持って同時と言っても良いくらいに、素早い四連撃が俺の腹部と頬を殴打した。
殴られたのだった。
***
そこは閑静な博物館だった。とは言え、それは営業時間外であるからであり、開館の際には日々数多の人々でごった返している。今でこそ観光に適した時期ではないので、日中に訪れる人も然程多いとは言えないが、それでも充分に人気のある――そして歴史ある博物館だった。
展示物である船を最良な状態で保存する為に、館内は肌寒い温度となっている。展示物の船とは、建造されて間もなく、出航と同時に風に煽られ沈没した――ちょっと残念な代物であった。だが船自体は頑強な造りとなっており、沈没という出来事がなければ――そしてその後も起こらなければ――きっと他国を震え上がらせる程の軍艦となっていた事だろう。
閑散とした館内を徘徊するのは、警備員と清掃員。客は一人として居らず、故に会話らしい会話も聞こえて来ない。
が。いや、或いは「故に」と言うべきだろうか? いっそ静謐なまでの空気が流れていた館内――そこに響く、耳をも聾する破壊音は、良く響いた。
世界に唯一遺された、十七世紀の名残を――そのマストをへし折って、二人の男が血反吐を吐く。
両手にそれぞれ、若年と三十路間近のヴァンパイアハンターの首根っこを掴んだ吸血鬼は、それらを無造作に捨ててしまい、汚らわしい物にでも触れたかのように、その両手を叩く。
人間が歩んできた歴史の産物を、ただの置物同然に踏み躙って、その甲板に臆する事なく両足を付けたヴァンパイアハンター二名は、他の物なんて視界に入っていないが如く、正眼に構えるようにして、博物館の床に降り立った吸血鬼へ得物を突き付ける。
それぞれ、二丁拳銃とナイフを、真っ直ぐに。
館内の至る所から「何だ!」「何事だ!」とスウェーデン語ないし英語で当惑の声が上がる。テーザーガンやスタンガン、警棒や拳銃を装備した警備員達が続々と集い、守るべき物がものの見事に破壊された惨状を見やり、銘々呆然としていた。
畢竟、誰がどうする事も出来ない事態である為、誰をどう攻める事も出来ないのだが。
強いて言うなら、悪いのは吸血鬼くらいだった。
しかし吸血鬼という存在は、まだまだ半信半疑に思っている人間も多い。むしろ信じている人間よりも、幾らか数が多いくらいだ。確かに吸血鬼の被害は、存在が明るみに出た事もあって年々増加傾向にあるものの、直接の被害に遭っていないような人間に「信じろ」という方が無理な話だろう。
「離れろ! あれは吸血鬼だ!!」
その簡潔極まる言葉に、警備員達は、各々張り詰めたような面持ちになる。
黒いスーツに黒いコート。一昔前のヴァンパイアハンターと同じ姿だった。尤も、纏うコートは制服ではなく、市販でありふれたコートなのだが。
ともあれ、吸血鬼。
およそ人間が――一般人が相手取れる存在ではない。ここで言う「一般人」にはSATや軍隊なんかも含まれる。当然、博物館の警備員も一般人に当て嵌まっていた。一般人でない人間は、吸血鬼を専門に狩るヴァンパイアハンターだけ。
この場に居るのは、零士と凱斗のたった二名。しかも吸血鬼側は悪名高きアシュリー……とても、打ち勝てるとは思えない。
彼女は無益な殺生を好まないが、吸血行為という快楽は「無益」に含まれず、よってどれだけ人畜無害を装っていようとも、ヴァンパイアハンターが敗れた場合、アシュリーは館内の警備員から血を啜る恐れがあった。銀製の道具を持っている人物も居るかもしれないが――銃器も刃物も鈍器も、重機でさえも痛痒に値しない吸血鬼を相手に、並の――人間を想定したような武装の連中に、どうこう出来る訳もない。
だからこそ、零士は避難を促したのだ。
「――逃げるぞッ!!」
それを知ってか知らずか、そもそも吸血鬼を信じているのか否か――そんな事は定かではないが、現場の責任者と思しき巨漢は、野太い声嗄声でそう告げた。彼がこれまでの警備員人生で築き上げた信頼故か、他の警備員達は一気呵成とも言える勢いで撤退して行く。
こういった部分では、ヴァンパイアハンターや吸血鬼の情報が出回っていて良かった、と思える部分かも知れない。ひょっとすると、警備員達の銃口が向けられるのは、ヴァンパイアハンターであったかも知れないのだから。
「良いのかい? 勇敢な仲間を失って」
「ふん。どのみち足手纏いにしかならん、こと吸血鬼が相手ではな」
ただの対人戦でも、負ける積りはないのだが。
「田所――」
「はいッ」
短いやり取りを通じて――最早主語も述語もない言葉のみで、二人は意思疎通を果たす。名前を呼ばれた凱斗は古びた船から飛び降り、小綺麗な博物館の床を踏み締める。抜き身のナイフを片手に、吸血鬼と向き合った。
零士は足場の悪い船上から、それでも絶対的な自身を持って二丁拳銃を構える。無機物の相棒とも言えるスナイパーライフルは、背中に背負っていた。
向かい合う三人。ともすれば三つ巴とでも言い表せそうな立ち位置ではあるがしかし、その実勢力は二つに分かれている。或いは、今この瞬間、やはり三つの勢力に分かれたようでもあるものの。
「どーんっ」
と、全く飄々とした声で登場したのは、白髪に赤目が映える吸血鬼。いっそ酷薄とも言える態度で、引き摺っていた人間を放り投げる。さながら、ぐしゃぐしゃにしたノートを持ち主へ返す、イジメっ子のように。
受け取るは、これまた吸血鬼。アシュリー・ナーダシュディその人であった。
「ミカ君……!?」
驚愕に目が見開かれる。
「お、おい、ミカ君!? 大丈夫か、確り、息をしろ!!」
「息は、してる……って…………」
絞り出すように、苦しげな声。だが、その悪態を吐くが如き態度は、彼が殊の外無事である事の証左でもあった。とは言え、決して軽傷とは言えない傷である。全身にある打撲痕、顔面には地面か壁を引き摺られたらしき、見るも無残な傷跡があった。
「無事、なのかい……?」
「あー、うん。まぁ……アシュリーに殴られた時よりは、痛くないよ」
「ごめんって」
ここでようやく、アシュリーも事の重大さに気付いたようだ。尤も、彼女が予想していたよりも、随分と軽い重大さであった。
地面を転がった青年――ミカは、体中に付着した煤を払い落しながら、憎まれ口を叩いた。
対してそれを成した吸血鬼と言えば、何事もなかったかのように――いつもの調子で、本来敵である筈のヴァンパイアハンターに向かい、己の成果を見せびらかす。服のあちらこちらが破け、一見ボロボロになったミカを、両手で示して強調した。
「ほら、お望み通り連れて来たよ。半殺しのまま……ね」
「どうしてここに……いや、それよりも。半殺し、と言う割には、随分生き生きとしているな」
「まぁ、ボクは鼻が利くからね、きみの居場所くらいは分かるよ。それにさ、今のミカくん、ボクなら一撃で殺せるよ? これは半殺しじゃあなかったのかなぁ」
さながら「きみ達だと、一撃では殺せないもんね☆」とでも言いたげな態度に、零士は額に青筋を浮かべた。
「アルミルス、」零士はアルを睥睨しつつ厳かに言って、「貴様から先に殺しても良いんだぞ?」
恫喝と同じ調子で問うたものの、返って来た言葉は、やはりどこか軽率に感じられた。
「おっと。きみ達は、吸血鬼二体と正面切って戦う自信があるのかな? 勝てるという自負が、もしかしてもしかするとひょとして、あるのかな?」
どこまでも軽々しい言葉だった。
***
やたらと痛めつけられたようでもあり、しかし見た目に反して傷は浅い。負傷の箇所は多く一見重傷にも見えてしまうが、やはり顔に奔った傷なんかは、ヒリヒリと痛んでいるものの、それ以外は特筆すべき点もない。精々、傷痕が多い、くらいだった。
痛くはあるけれど。
「ミカ君」
と、両手を広げ、さながらハグをする前段階――のようなポーズを取るアシュリー。俺は疑問に思いながらも――ヴァンパイアハンターが見てる、なんて思いながらも、彼女の要望に応じて、その胸に飛び込んだ。もし間違いであった時の為、こちらからは抱擁をしないでおく。それから、弾丸が飛んで来ても、躱せるように。
すると岸波 零士の隣に付けたアルが、わざとらしく素っ頓狂な声を上げる。まるで予想外だったとばかりに。
「あっ! しまった。回復されちゃうね」
「回復? ――そうかッ」
途端、二丁拳銃を構えて俺へと発砲する岸波 零士。人前での抱擁は小恥ずかしい――なんて事を考えつつ頬を赤らめていた俺は、迫る死の直観に対して冷や汗を掻いた。だが彼に背を向けていたアシュリーは、吸血鬼としての第六感からか、後ろに目が付いているのでないかと疑いたくもなるような鋭敏さで、発射音と同時に身を翻し、結果として銀の弾丸は俺の耳朶を掠めるだけに終わった。地味に痛い。
「さあ」俺の耳に舌を這わせ、扇情的な感覚を齎したアシュリーは、それから抱擁を止め、正面から俺を見詰めて続ける。「気分はどうだい、ミカ君」
――成る程、詰まり彼女は、俺の治療に当たっていた訳だ。
耳の傷が癒えたのは、彼女の唾液に宿る治療効果あってのもの。全身から――全てではないが――痛みが引いたのは、彼女の汗に宿る治療効果が働いたから。
これは吸血鬼独自の由緒正しき治療行為であったのだ。邪な心なんてない、当たり前だろう。勿論だとも。俺とてそのくらい分かっている。その程度、猿でも思い至るだろう。なので俺も当然ながら、理解していたとも。例え一度は混乱に陥ったとしても、この数秒で考えが及ばない訳もない。当たり前じゃないか、当たり前。
内心、早口でそう唱えた俺は、何事もなかったかのように立ち尽くした。
「さて、振り出しに戻った訳だけど――いや、そっちの二人は、少し疲れているようにも見えるかな」
ヴァンパイアハンター両名は、俺と同じように衣服の至る所が破れ、心なしか息も上がり、傷痕は無数にあった。この場所――博物館? のような建物の天井は、俺が強引に入館した時には既に破られていた。詰まる所、アシュリーとヴァンパイアハンターの小競り合いが原因なのだろう。
とは言え正しく人間業ではないので、アシュリーが引き起こしたのだろうけど。そうなって来ると、そこまで高い天井ではないが……あの高さから、落下した事になる。彼等が消耗しているのも、納得だ。
「いいや、丁度エンジンが掛かって来た所だ、心配ない」
「そうですよ。こっから更に、ギア上げて行きますからねッ!」
手負いの獣は恐ろしい――とは、良く言った物だ。まさか日本人として生を受けた俺が、その言葉を痛感するとは、夢にも思わなかった。
獰猛に牙を剥き、すっかり狂気に染まったかの如く目を見開き、眼光鋭く俺を睨む。二人の獣。
「私はな、これでも慈悲深い方なんだ」
零士は言う。凶悪な笑みを浮かべた顔面とは裏腹に、嫌に落ち着いた口調で。
「特に部下なんかは、大切にしている。お前が殺した丘霧 霞も、お前の所為で死んだレベッカも」
それは、アルの手元が狂って死んだとでも思っているのだろうか。
まさか。アルは意図してやったのだろう。理由は分からない。それでも、不思議な確信があった。
「吸血鬼アシュリー、お前が殺した石川 雷蔵も、私は酷く慕っていてな。これでも、悔しいんだ。悔しくて悔しくて、堪らなくて、死んでも死にきれない思いで、お前達――貴様等二人を、心の底から殺したくて! ここまでやって来た!! そういう意味では、レベッカとの利害も一致していたのだろうか――いや、無い物強請りは、全く無益な物だろう」
「一行で説明してくれるかい?」
「殺すが、文句は言わせんぞ」
「言うよ? そっちから攻撃して来た癖に」
「攻撃する理由があった。人間を、何人殺したッ、言ってみろ!!」
「一万五千七百二十二人。キミ達二人も数えるなら、一万五千七百二十四人だ」
零士の瞳がより剣呑に見開かれる。
「ッ!!! やはり、相容れないな……! 吸血鬼と、人間は」
「だから殺し合ってるんじゃないか。でも、ミカ君と私は仲良しだぜ?」
「似た者同士なんだろう。貴様も、そこの人間も、同族だ。どちらも人間とは呼べない。生まれながらにして悪人、純粋無垢さなど母親の胎内に捨てて来たような悪人だ」
「そうだね。巡り合わせるべきではなかった。けれどね、吸血鬼狩り。そうさせたのはキミ達だろ? 私を追い込んだのは、キミ達ヴァンパイアハンターだ。いやぁ、ミカ君でなければ死んでいただろうさ。彼のような異常者でなければ、私は死ぬべくして死んでいた。殺されるべくして、殺されていただろうね」
すったもんだの鼬ごっこ。
やった、やっていないの、無為な言い合い。
「異常者なんて言わないでよ」
「まぁ確かに、図星を突かれるのは嫌だよね。分かる分かる。それでもミカ君は優しいし、ちょっぴりカッコ良――」
「俺は敵対しても良いんだよ、吸血鬼アシュリー?」
「優しくないッ!?」
いつかと同じよう、やはりどこまでも場違いに、笑い合う。
……ツッコミを入れるのは、一つの銃声だった。それは敢えて外されたようで、俺の足元に着弾する。アシュリーは動く気配がなかったので……もしかすると、彼女は弾道を目で追っているのかも知れない。
「いつまで飯事に興じている積りだ」
「そうだね」アシュリーもアルよろしく、いつも通りの落ち着いた口調で。「始めようか」
それを開始の合図として、戦いの火蓋は切って落とされた。最初に走り出したのはアシンメトリーな短剣で武装したヴァンパイアハンターと、徒手空拳のアル。
だが先程までとは違い、今回ばかりは俺というお荷物が居る。もしもアルがアシュリーを本気で殺す心算ならば、相手の戦力は飛躍的なまでに上がっているだろう。対してアシュリー陣営は、むしろお荷物が増えて弱体化している可能性も、なくはない。
非常に不味い状況だった。
「お前達は吸血鬼アシュリーの足止めをしろ! その間に、私がミカを殺す……ッ」
言うが早いか、岸波 零士は二丁拳銃を突き出し、こちらへ向けて発砲した。
俺は感覚を研ぎ澄まし、言ってしまえば山勘で走り出した。これで初撃を喰らってしまえば笑い物だが、今回ばかりは運良く回避出来た――当然、弾丸を目で追う事は不可能であるが、俺が駆けたのと反対方向の床が砕けたので、相手の勘が外れたのだろう。どれだけ偏差撃ちが上手かろうとも、相手が進行方向を変えたのならば、それは全くもって無意味な物となるのだ。
手近な柱を利用し、その後二発の弾丸を回避する。我ながら冴えているようだ。
致命傷足り得るのであろうナイフを躱しつつ、アルの猛攻を必死に捌いていたアシュリーが、俺の方に向けて叫ぶ。
「ミカ君! 死ぬなよ……!」
「勿論!」
被弾の忠告はしてこない辺り、全弾回避は望み薄だと考えているのだろう。奇遇な事に、俺もだった。「チッ」と舌を鳴らした零士は、二丁拳銃を両手に持ったまま近付いて来る。慎重さは感じられるものの、怯える様子はまるでない、およそ勇猛果敢と言える足取りであった。確かに、俺を恐れる道理はないだろう。
「死ねッ!!」
常であれば「死んで欲しいなら殺しに来れば?」くらいの返しをしていた盤面ではあるがしかし、残念な事に相手は有言実行とばかりに、本気で殺しに来ているのだ。彼の「死ね」という一言からは、ただ願うだけではなく「殺す」という強い意志が汲み取れた。
二発の銃声が間近で鳴り響き、それが三度程繰り返される。柱の一部が砕け、背後にあった船が破損し、最後の二発は俺の左腕を掠めた。
そこで弾切れを起こしたか、彼は拳銃のグリップで俺の頭を殴る。半ばヤケクソじみた一撃ではあったものの、事実初めての有効打でもあった。
「いッ……」
床を転がった俺の元に、革靴の先端が迫る。怒りと怨念を込めた一撃は、俺の鳩尾に食い込んだ。俺は思わず呻き声を上げ、そのまま声とも苦鳴ともつかぬ艱難辛苦の声を吐く。
視界の端、冷たい顔をした零士が、無言で弾丸の再装填をしているのが見えた。
「零士さん! こっち、サポートお願いしますッ!!」
――どうやら、アシュリーに助けられたらしい。
ただ、それは最も恐れていた事態でもあった。
見れば、額に脂汗を浮かばせたアルと、両腕に無数の短剣を突き立てられながらも共闘を続けるヴァンパイアハンターの姿。相対しているのはアシュリーだった、こちらも多少の疲労感を滲ませている。だが順当に行けば――このままの戦局であれば、彼女の勝利は揺るぎようのない物だろう。
このままの戦局なんて物が、有り得るのであれば。
アルの顎を狙った掌底は、低く身を屈めた彼女には届かなかった。勢いをそのままに、アシュリーの顔面を狙った回し蹴りは、いつまで経っても変わらぬ童顔を、蹴り付け、そしてプラチナブロンドの髪を靡かせて倒れる少女は、小高い鼻から鮮血を撒き散らす。
俺が、動揺を誘ったのかも知れない。
零士の二丁拳銃は、ただ無言で、しかし言葉なんて必要ないくらいに確固たる意志を込めて、正面のアシュリーと、それから俺に突き付けられていた。
動けば殺す――そう言っているようで。
だからアシュリーは、甘んじてアルの攻撃を受けたのだろう。それとも、やっぱり動揺で身体が硬直したのだろうか?
「チッ――」
それは、零士の舌打ちではないような気がした。
だからと言って、アシュリーでもない。
「ねぇ、」悪辣な笑みを浮かべ、ちょっとしたランニングから帰って来たくらいの気軽さで、アルはいつも通りに臆する事なく言葉を発する。「きみが大事なのは、ミカくんでしょ?」
「どちらかと言えば――な」
誰を殺したか、ではなく、誰をどのように殺したか――という考え方に基づけば、俺への怨嗟が大きい事は、何ら不思議ではない。
「だったらさ、姫は――」
腹部を踏み付けられたアシュリーは、「うっ」と小さな呻き声を漏らして……しかし、必死になって声を抑えていた。俺への配慮、だろうか。
アルは尚も、いっそ清々しいくらいの薄情さで続ける。
「――ボクが、処分しておくよ」
「ダメだ」
「いいや、それこそがボクの任務だ。きみも知っているだろう? ――それか、そうだね。それじゃあ瀕死の状態で持って来よう。手柄はボク、下手人はきみだ」
「それは……しかし、ぁ、待て――」
アルは、当然のように待たなかった。
アシュリーの首根っこを掴んで、捻り潰すくらいの勢いで握り締めて、放さない。吸血鬼の、蝙蝠のような羽を広げて、彼女は天高く飛んで行く。場所が建物内とあって、二人の姿は直ぐに見えなくなってしまった。
手が届かない所へ、遠くへ、行ってしまったのだ。
希望が残されているとすれば、アシュリーがアルを殺すか、或いは掻い潜って、俺の元まで戻って来る事。それを――俺が死ぬまでに、だ。
凶悪且つ歪な笑みを浮かべた零士が、腰から果物ナイフ程度の短い刃物を取り出す。一応持っている、くらいの、まるで吸血鬼との戦闘には役に立たないような――銀ではなく、ただの金属に、それは見えた。
***
生まれた時から、死ぬ事は分かっていた。
始めは三日三晩泣いて、疲れ切って二日間寝た。目が覚めると、ガラス玉のような赤の瞳の内に、自分が死ぬ光景を見た。当然の事ながら、生きているのに死なない者は居ない。幾ら不老不死の吸血鬼とて、殺されれば、当たり前に命を散らすのだ。
当たり前を、当たり前に自覚した。
ただ、それだけ。
生まれた瞬間から、死を身近に感じていた。
――見える景色は、暗い街、スーツを着た長身の男、そして背後には、不思議と惹かれる男の子。ある意味、運命の人と呼んでも差し支えないのかも知れない。役者は自分を含めてたったの三人。それ以外は、全部が全部背景だった。
「ぐ――カハッ」
詰まらなそうな顔をして蹴りを入れれば、腹を抑えて少女が喘ぐ。彼女の性格からしてみれば、この状況は愉悦と興奮に包まれて、頬を上気させているような場面であるにも関わらず、湧き出るのは嫉妬ばかりだった。
「ボクなら、永遠をあげられたのに」
ある日、幾つもに分かれて――そして一つに繋がっていた道は、過程さえも一つになった。
出会い、言葉を交わし、別れる。それでお終い。
それでも、彼女の言葉はただの幻想妄想夢想の類に過ぎなかった。何せ、どう足掻いても彼女が見ている景色に彼女自身の姿はないのだから。どれだけ泣きじゃくろうと、喚き散らそうとも、自分の道は既に断たれていた。
世界が終わる日を知っていても、それに立ち会う事は出来ない。二人の最期を知りながらも、そこに関与する事は――出来た。何せ、未来を形作るのは過去であって、幾つもの可能性から一つに決まるのは、決めるのは、過去なのだから。
今は過去。これからが未来。
「きみが居なければ――」
出会っていたのは、自分だった。
けれど、確信はない。確証もない。
それは見えない、ただの願望。
もしも、なんて映らないのだ。
一通り端正な顔を殴った後、彼女は意識が朦朧としている少女の首を鷲掴みにした。
それから真っ直ぐと、道なりに。少しの軌道変更もせずに、爆散した死体が転がる広場から、直線距離およそ二キロメートルを飛行し、一面が硝子張りにされたビルに叩き付け、そのまま硝子を捲り上げる勢いで、壁面と自分で挟んだ少女を引き摺り回す。
全身に硝子が刺さった少女は、今度は彼女に蹴り上げられてどこかへ飛んで行く。
(ああもう、悔しいなぁ……。ボクの方が、ずっと昔から想っていたのに)
ただの愚痴だった。
(でも、ボクはきみを殺せない。道は三本、生きている内に絞り込む――)
愛しているから、幸せになって貰いたい。
変えられないと知っているからこそ、それは愚痴でしかないのだ。
(でも、そうだね。だから彼は、死なないんだ)
宣言通り、瀕死の状態で。
寂しげな風切り音だけが、沈黙の嫌な空気を、取り持ってくれていた。
***
「ひ、いぃぁぁあああッ!! 来るな、来ないで……!!」
殴る蹴る、暴力反対。
特に俺のようなか弱い人間に対して、戦闘のプロフェッショナルが暴力を振るうのは戴けないだろう。あまりにも惨い話だ。
どこまで転がされただろうか? 少なくとも、先程までの博物館ではなく、屋外まで出て来ていた。
右足の感覚は無くなって来た、大体三か所程刺されただろうか? 対して左足は五か所程刺されたにも関わらず、未だに感覚があって痛い。焼ける様に、まるで半田ごてでも当てられているのではないか――と、疑ってしまう程に。
右腕は掌に一度だけ。だが貫通したので死ぬ程痛い。左腕は「刺し傷」というよりも「切り傷」のような物が多く、さながらリストカットでもしたかのような有様であった。本当にこれがリストカットなら、俺は相当に病んでいるのだろう。
この場合、病んでいるのは犯人の方であったが。
「どうだ、痛いか? 痛いだろう。毎度毎度、ひ弱な悲鳴を上げているのが、何よりの証拠だな。だがお前を――貴様を助けようとしたヴァンパイアハンター達は、その心にどれだけの痛みと苦しみを抱いた事だろうな。いや、私には全くもって想像が付かないよ。想像を絶する物だろうからなァ――」
「ヒっ、ハァ……ハァ、ハァ、」
思考ばかりがやけに落ち着き払っていた。脳には体からの警鐘が届き、実際に口は痛みと連動した悲鳴を零す。それでも、まるで脳だけは隔離されているかのように、酷く冷静だった。怖いくらいに。
「死にたいか? 殺して欲しいか? 苦痛から解き放たれたいか? その思考自体を責める心算はない――が、丘霧 霞やレベッカ・T・東雲はどうだった? 死にたがっていたか? 生きたがっていただろう。だが死んだ。殺された。発端となったのは、全て、貴様だ、仲互 三佳――いいや、ミカ・ナーダシュディ。確かにそうだな、吸血鬼らしい名前の方が、貴様にはお似合いだろう」
「俺は、死にたくない……し、死ぬ、積もりも、ないッ。死んでも、殺せ、殺してくれ、なんて言わない……」
「良いだろう。ならば、このままゆっくりと、時間をかけて嬲り殺そうではないか! 吸血鬼アシュリーを目の前で殺して! いいや犯すのも良い……幸い、見てくれだけは上等だからなァ!!」
それが本心であるのか否かは、俺の与り知る所ではなかった。だが脅しであれ、本心であれ、どちらにしても、俺は彼の言葉を許せなかった。殺すも、犯すも、許容出来ない。
俺が死ぬのはまだ許せるが、アシュリーだけは。いや、やっぱり、死ぬのも本当は嫌だけれど。
「私は堪らなく楽しみでならないよ! ああ全く、貴様の、絶望に歪んだ顔が見てみたい!!」
「は、はははははっ! もしも、君が――お前が、そんな事をするなら、したならば。俺はお前を、情け容赦なく殺す。金属バットで、いつか、あんたの後輩を殺したように!!」
怒髪冠を衝く、とは正にこの事だ。
「――ミィィィカァァアアアッ!!!」
正真正銘、終わりだった。拳銃の銃口は俺に突き付けられて、引き金に指が置かれていた。一秒の余裕もない、走馬灯なんて見えなかった。
「ちょっと良いかな」
それは場違いに笑い合う、俺とアシュリーのようで。
ともすれば、それ以上に場違いな、快活な声音だった。
「やっぱりさ、ボクは思う訳だよ。吸血鬼と人間、どっちが危険かなーって。結局の所、人間は吸血鬼以上に人間を殺している訳だけれど。でも、危険度としては、吸血鬼の方が上だよね。だからさ、先にこっち、撃っちゃってくれない?」
笑顔を張り付けたアルは、傍らの何かを横目で見やる。それは、恐らくアシュリーだった。原型を留めていない――訳ではないが、あまりの惨たらしい姿に、俺の脳は理解を拒絶していたのだろう。見れば見る程、アシュリーである事が良く分かった。
傷だらけの顔は、それでも可愛くて。華奢な手足は、あらぬ方向に折れ曲がっていて。それでも、堪らなく――俺は、彼女を愛おしく思っていた。
「ああ」毅然とした態度で首肯した零士は、俺に向けていた銃口を、アシュリーへと向けて……瞬間、発砲音。
同時、俺の腹部に鋭い痛みが奔る。
「な……ッ!? 貴様、まさか死を選ぶ気かッ!?」
アシュリーを庇うように立ち塞がった俺へ向けて、彼は怒号にも似た声を飛ばす。
「ぐぷっ……。は、はぁ? そんな、訳、ないじゃん……」
それが、俺に張れる精一杯の虚勢。ここが限界だった。
意識が朦朧として来る。血を流し過ぎたのだろうか?
「どけッ! そして、吸血鬼の死に様を網膜に焼き付けろッ!! でなければ殺す、貴様を殺して、吸血鬼を凌辱した後に、二人仲良く地獄へ送り出してやるッ!!」
血が滴る。アシュリーの元まで届いただろうか、届いている事を祈る他ない。多少なりとも俺の血を啜れば、アシュリーも……何とか、ここから逃げ出すくらいは、出来るのではないだろうか? 尤も、彼女の性格からして、逃げるくらいなら弔い合戦を選びそうな物だが。
……いいや、それはあまりに、自意識過剰な思考だったか。自分がそうするからと言って、他人にまで、己の価値観を押し付けるべきではない。まぁ、俺としては、逃げてくれた方が良いけれど……戦ってくれた方が、嬉しいのは確かだ。
「何か言えッ! 私が再三引き金を引けば、貴様は死ぬんだッ!!」
「撃てば良い――」
瞬間、鋭い痛み。
「ぐぁぁぁああああああ…………っ!!」
どうやら、弾丸は俺の左腕を貫通し、千切ってしまったらしい。
ボトリと地面に落ちた左腕、そして俺に刻まれた左腕の断面から、同時に多量の血が漏れ出した。
「次は脳天だッ。死にたくなければ――」
「俺はッ、死ぬのなんて、怖くないよ」
怖いのは、痛みだけ。痛みの中で死ぬのが、恐ろしいだけで。
死ぬ事自体は怖くなかった。今の状況ともなれば、最早怖いもの知らずだ。
「ならば死ね! ミカ・ナーダシュディッ!!」
銃声と同時、力尽きて頽れる俺が視界の端に捉えたのは、珍しく緊張した面持ちをした、アルの姿だった。
振り返る。こちらを、彼女が振り返った。
その胸には、大きな血痕。それは今も尚広がりをみせている。
「おめでとう、そしてありがとう。ここより先は一本道だ。それから……そうだね、何と言うか、きみには敵わないなーって、そう思ったよ。さよなら。悪魔の子を頼んだよ。大事な大事な、家族だから。それじゃあ、お先に、行って来ます」
「ア、ル…………?」
困惑を意味する長い沈黙が、場を支配する。
彼女の事だから、「行ってきます、なんて言葉は「言って帰って来る」という意味だから、別離――それこそ、死別の際なんかで使うには、およそ適していないんだよ」なんて言いそうな物だけれど、その実、饒舌な吸血鬼は――死んだら、喋らなくなった。
もう、口を動かす事はなかった。
心臓に突き刺さった弾丸が、決め手となったようだ。
案外、吸血鬼も直ぐに死ぬらしい。
結局、目的も考えも不明なままに。
彼女はもう、黙りこくった。
二度と、あの声は聞けない。
「全く――」
俺は、静かに涙を流していた。最早、何かを考えられる程に、元気な状態ではなかったから――こうして、涙が溢れ出てしまったのだろう。レベッカの分も合わせて、これ以上は抱え込めなくなったのだ。
本当なら、レベッカの時に流すべきだった涙。一度は押し止めた濁流。
「――キミは本当に、」
そこで、俺の涙は止まった。
驚きのあまり、止めざるを得なかったのだ。
彼女は血を滴らせた口を、小さく開いて。目の前に横たわる俺へと、顔を近付ける――。
感触だけで分かる、アシュリーの唇。それが、俺の唇と重なり合っている。
――初めての接吻は、血の味がした。
「本当に、初心だよな」
「五月蠅いよ、吸血鬼」
「いつか、キミが私に血を分けてくれた。今度は、私の番だ」
――吸血鬼の体液には、治療効果がある。唾液、汗、精液、そして血液。今回、俺に流し込まれたのは「血液」だった。左腕は、残念ながら治らない――傷口が塞がるに止まった。が、しかし全身の傷は消え去り、そして吸血鬼の血を飲み下した俺は……。
「これ以上は、ごめんよ……私も血が足りなくてね。中途半端に、なっちゃった」
吸血鬼のなりかけ。吸血鬼殺し。人間擬き。
ヴァンパイアと人間との、中間。
「まさか、吸血鬼に――いや、違う!」
零士が憤怒を込め、そして驚愕に震えた声で言う。
言い当てる――俺の正体を。
「貴様は、それは――吸血人!?」
「多分……そうみたい」
足元で、貧血気味に顔色悪く、意識を手放しかけたアシュリーが、それでも俺を慮って尋ねて来る。
「気分はどうだい? ミカ君」
「最悪で、最高だよ。……直ぐにケリを付けて、それから、また逃げよう」
「……そうだね。それじゃあ、後は、任せたよ」
***
それは一つの厄災――のようであった。善悪の区別すら付かない赤子が、過ぎた力に振り回されているようでもあり、本人の意思で世界を壊そうとしているようでもあった。とは言え、それは彼等二人が、相当に疲弊していたからだろう。
平時であれば、狩れたかも知れない存在。
だが吸血鬼アシュリーとの戦いで、彼等は体力の大半を消費していた。
負傷以外は大した疲れもない零士とて、近距離戦闘は本職ではない。よって前衛が潰れた今、彼に出来る事は何も無かった。
「殺したければ殺せ、甚振りたければそうするが良い」
突き放すような言葉に、しかし相対した吸血鬼擬きは――吸血人は、隻腕の先端にある拳を握り締めるのみだ。
「何とか言えッ、吸血鬼擬きめ――いいや、人間の成り損ないめッ!!」
精一杯の嫌味を込めた言葉だった。
今度こそ言葉を返そうと、口をぱくぱくさせては中途半端な長さと鋭さの牙を垣間見せる青年。それは己の気持ちと折り合いを付けるようで――ともすると、この後に及んで、まだ何かしらの葛藤を抱えているようでもあり。
零士は怒りでどうにかなってしまいそうだった。
「俺は……俺に、言えた事じゃないだろうけど。それでも、徒に人を殺したくはなくて」
「ふざけるな、殺せ。私を、殺せ! 慈悲など要らん、それは施しではない、自責の念を抱くなら、相手を見て――」
そこでようやく、零士はミカ・ナーダシュディ、或いは仲互 三佳という人物を、理解出来たような気がした。
(ああ、そうか。貴様の抱く自責の念は、余す所なく自責のみで形成されているのだろうな)
だから、自分を責めるばかりだった。
信号を無視した時も、自分は悪い子だと感じて。電車の定期を拾わなかった時も、自分を最低な奴だと卑下して。同級生の作品を踏み付けた時も、自分は悪い事をしたのだと理解し、ただただ悔やむばかりで。友人に「死ね」と口走った時も、死んで償うべきだと思って――薄っぺらい謝罪はした。或いは「させられた」と言うべきか。
初めから、彼はどこか欠け落ちたような人間だった。
自分に負荷を掛けるばかりで、他人の重荷を取り払おうとはせず。同じ苦しみを味わう事こそが、何よりも大事なのだと信じ切って。
だから、元より施しの意識はないのだ。これまでも、今回も、そして恐らくはこれからも。
ただ、彼は何もしない。自己完結で納得し、満足してしまう。
「貴様は、貴様等は。生まれて来るべきではなかった!」
「誰も「生んでくれ」なんて頼んでないよ。生まれたから、生きるだけ。君が復讐に憑りつかれて、俺を撃とうとしたように。俺も譲れない物の為に、全力を尽くすだけだ。人はお金を得る為、日々勤労を重ねるでしょ? それと同じで何も変わらない」
黒い頭、黒いスーツ、黒いマスク。
そんな世界を彼は嫌った。
早朝からごった返す駅のホーム。同じ時間に歩む、大勢の人々。
吸血鬼と出会い、世界の広さを知って、可能性に魅せられて。
仲互 三佳という一匹の人間は、人を殺し、レベルアップでもしたかのように、ミカ・ナーダシュディと名を改めた。
「じゃあね。もう会わない事を、期待してるよ」
冷淡に、そう告げて。
赤の右目と黒の左目で零士を見下ろした彼は、静かにその場を立ち去った。
「クソったれがぁぁぁあぁぁぁあぁぁああぁあああああッッッ!!!」
慟哭のような叫びも、冷たく乾いた真冬のストックホルムでは、ただただ虚しいだけだった。
***
2022年、十二月二十五日、午後六時。アシュリーが目覚め、朝食を取ったにしても、少々遅すぎる時間帯。これは、俺が寝坊をした所為である。何分ヴァンパイアハンターとの大立ち回りをした後に、荷造りをして今日という日に出立する予定だったのだ。
これまで溜め込んでいた疲れが、一息に押し寄せた形なのだろう。親切と言うべきか、それとも意地悪でやっているのか、アシュリーも俺を起こそうとはせず、結果としてこのような時間に、ようやっと朝食にありつけた形になる。
お互い、ポテトグラタンを食みながら。
「ミカ君。今日って何の日か知ってるかい?」
「付き合ってから八百日記念、とか?」
「付き合ってたのか私達。まぁ、付き合っていないというのも、また違う気がするけれど……ともあれ、違うよ。まさか忘れちゃったのかい!?」
「ああ」そこで俺は、ようやっと心当たりを見付けたように、カレンダーを見やる。「クリスマスだね! プレゼント欲しいの?」
「えっ……クリスマスを忘れる人間なんて、いいや生物なんて、この世に存在していたのか……!? と言うか、違うけど。あぁいや、プレゼントは後日貰うとして」
どうやら外れであったらしい。だが困った事に、クリスマスが外れとなると、最早心当たりなんて無かった。それ以前に、俺からアシュリーへのプレゼントはあっても、彼女から俺へのプレゼントは無いのだろうか? 無いんだろうなぁ。
「俺にはくれないの? クリスマスプレゼント」
「キミが私にくれるなら、考えなくもないけどねえ」
俺は小首を傾げる。
「どうも、さっきの言い方だと、俺がプレゼントをあげる事は、確定してる様に聞こえたけど?」
アシュリーは我が意を得たとばかりに、満面の笑みを浮かべて言い放つ。
「そりゃあそうさ――」慎ましやかな生板を強調するように、胸の前で腕を組んで、「だって今日は、私の誕生日なんだからね」
プレゼント……去年のクリスマスも、物欲しそうな顔をして俺の財布を寂しくした挙げ句、お返しなんて片鱗すらも見せなかった彼女だったが、成る程そういう理屈だったのなら、納得だ。
「あー、ごめん。知らなくて……何も用意してないから、ここは一つ。俺自身がプレゼントという事で!」
大仰に両手を広げて見せれば、
「私も――キミの誕生日を知っていながら、プレゼントを上げていなかったね。お返しとして、ここは私自身を進呈しようじゃないか!」
結局、お互いにプレゼントを貰えない、悲しいクリスマスだった。
アシュリーに関しては、後日落ち着いたタイミングで、俺からプレゼントを送ったものだが……。
赤黒いイヤリングを、一組。遠出した先で、夜の九時、展望台にあるレストランから、夜景を眺めつつ渡してみた。
毎日付けているようなので、気に入らなかった……という事は、恐らくないだろう。
三部は三月以内に投稿出来るかなと思います。無理かも知れませんが、私なら大丈夫だと思います。