この夢と欲は誰が為に 上
例えば三月を上旬・中旬・下旬ではなく上旬と下旬の二つに分けて考えたなら、今月は三十一日まであるので今日はギリギリ上旬と言っても過言ではすみませんでした。いや、ちょっと余裕ぶっこいてたのと、それから資料集めに手間取っていたお陰で遅くなりました。
二章は筆者である私さえも渋面を禁じ得ないような胸くそ悪い展開を盛り込んでありますので、読者の皆様には最悪の気分になって最終的には面白かったと思って頂けるような章に仕上がったと自負しております!
後編(下)は……前回同様私の推敲が終わり次第ぶん投げます。
それでは、本編をどうぞ!
果たして、罪とは何だろうか。
彼はその昔、それこそ幼稚園に入るより早くに、信号を無視して横断歩道を渡ってしまった事がある。当時の彼はその事を酷く悔やみ、一月以上もの期間、良心の呵責に苦しんだ。死んでしまいたいとすら思う程に。
青だと思ったら赤だった――たったそれだけの事で、しかも誰が見ていた訳でもなく、殊更問題が起きた訳でも無い。それでも、こうして罪の意識を持てる人物であった。
幼稚園に入ってから、彼は電車に乗った。その帰り際、傍らに落ちていた電車の定期乗車券を発見したが、彼がそれを拾う事はなかった。定期は少し汚れており、かなり使い込まれた風であったが為に、もしかするとゴミなのかも知れない――その上、駅員に届けるという発想を得たのは、家に帰り着いてからの話だった。
別に、これは罪ではないのだろう。だが少年はこれまた良心の呵責に苛まれた。
もし、あの定期をなくしてしまい、元の持ち主が悲しんでいたら――。
これは悪ではなく、善を為さなかっただけの話。
小学校に上がって直ぐの事、彼は同級生の折った折り紙を思い切り踏み付けた事がある。これは本人――彼にも悪気はなかったのでなあなあになったが、力作の無残な姿を見た少女は泣いていた。この時、彼は初めて「自分は罪を犯したのだ」と理解した――「この苦しみは、罪の証なのだ」と。
小学校高学年時代、彼は友人に対して一度だけ心の底から「死ね」と叫んでしまった。ゲームでボコボコにされた腹いせで、相手は彼に対して同じような事を何度も言って来たものの、普段は大人しい彼からの鋭い言葉は、相手の何かを抉ったらしい。
その時の彼は、酷く悔いた。死んでしまおうかと思ってしまうくらいに、自分が凶悪な犯罪者に思えて仕方がなかったのだ。
そして彼は考える。
――罪とは何だ、と。
結論から述べよう。罪とは、則ち他者への「迷惑」である。
例えば、殺された人は迷惑する。そうでなくとも、残された家族なんかは悲愴に明け暮れるだろう。特異な例もあるだろうが、ここで言う「迷惑」とは飽くまで広義的なそれである。
同じように、私物を壊されれば迷惑に思う。バスの車両内で騒がれれば、大抵の人物は迷惑に思うだろう。そうした迷惑を人は罪と名付け、法を整備し人を律した。
では、彼の犯した罪は誰も迷惑に思わなかったのか?
――否。
しかしながら、彼の犯した罪を罪と断ずるには、少々「迷惑」が足りていない。
それに、彼自身の意思も法律は加味してくれる。そも、警察沙汰になるような事はなかったのだが。
そんな風に、日々積み重ねる罪を必要以上に気負ってしまう彼をしても、或いは彼だからこそ、目の前の人物は自分異常の「悪」に見えたし、もしも自分が法に介入し断罪を執り行えるのであれば、目の前の二人を「罪人」と断じた事だろう。
それ程までに、彼は目の前の二人組を迷惑に思っていた。
「今、あなたは幸せですか?」
家にやって来た怪しげな女性二人組相手に、少年は彼女等を自分のテリトリーに入れまいと戦っていた。むしろ、一度玄関を開けてしまった自分を責め立てているくらいだ。
ドアのチェーンは掛けたままだが、大本の鍵は開けてしまった。このままでは、そう遠くない未来に侵入を許してしまう。
「ちょ、か、帰って下さい! 家は代々無宗教なんです!!」
捲し立てる少年。相手の女性二人組――内、小太りな壮年の婦人が言う。
「あらぁ、無宗教だなんて勿体ないわあ。どこにも入っていないなら、是非うちに! この偉大なるエンヴィグリド神を崇めるエンヴィグリド教に入信しましょう?」
強欲と嫉妬を攪拌したような、およそ神とは思えない名称に少年は眉を顰める。
少年は焦ったように扉を押し戻しながら、
「いーやーでーすー! そもそもっ、俺はまだ子供ですから、こういうのって親の許可とか必要でしょう!?」
別に必要はないが、法律の話を持ち出された事で相手は一歩だけ引き下がった。しかし開口一番「幸せですか?」と問うて来た方の派手な格好の婦人は、少年の戯言に耳を貸す事はない。
「今、あなたの周りで酷い目に遭っている人が居ませんか?」
少年は口を噤む。現に彼の知る人物――クラスメイト――には、酷い目に遭っている者が居た。
「そうでしょう。居るのでしょう。これはすべて、エンヴィグリド神のお導きによる邂逅なのです」
しかし少年もまた、一歩だって退く気は無い。そもそも酷い目に遭ったり辛い状況にある人物なんて、この世に幾らでも居るだろう。そこらの中学生一人に焦点を当てたとしても、勉強が上手くいかないだとか、友人関係に不安があるだとか、そういった悩みは幾らでも出て来る。
それこそ同じように、周囲に不幸な人物の一人や二人は居て然るべきだ。
それをエンヴィグリド神とやらの超能力で言い当てたように嘯くのは簡単だ。そもそも少年はエンヴィグリド神という胡散臭さの塊を一ミリも信用してはいない。それどころか、神の存在さえも彼は否定していた。
「そ、そんなの。誰にだって思い当たる節はあるんじゃないですか?」
「そうねぇ、例えばイジメ、とか?」
見透かしたように――恐らくは当てずっぽうで口にした小太りの婦人に対して、少年は一瞬だけ言葉を詰まらせた。それを見逃がしていては、とても宗教勧誘の任は務まらない。
「あらまぁ! あなたの周りではイジメが起こっているのねぇ。だと思ったわ。ささ、その子の連絡先を教えて貰えるかしら? 住所と電話番号、それさえ聞ければ、もうあなたには構わないわぁ」
少年は数秒間の逡巡を挟み、
「分かりました」
と、小学校時代から半ばグレていた同級生の住所と電話番号を教えた。
彼にぶん投げておけば問題ないだろう。
「最後に、あなたのお名前を聞いても良いかしらぁ?」
「えっと……田中 太郎です」
それを偽名だと思ったのか、小太りの婦人は不満そうに頷いた。勿論偽名である。そも、傍らの表札には堂々と「仲互」の二文字が刻まれていた。
去って行く小太りの婦人を他所に、派手な格好の婦人が少年を見下ろす。
「今、あなたは幸せですか?」
そればかりが訊きたいとでも言いたげに。恐らくは、幸せでないポイントを見付け次第、勧誘の方向へと持って行く積りなのだろう。
少年も露骨な問い掛けには落ち着いて回答する。
「ご心配なく。俺はこれでも、恵まれています」
そんな、中学生時代。
どこにでも居るような平凡極まる少年。
そんな人生を送っていた筈の少年は青年となり、現在スウェーデンに住んでいる。旅行ではなく、留学でもなく住んでいるのだ。
それも……
――古き吸血鬼と共に。
***
2022年、十二月十九日、午後九時。
俺は平々凡々な暮らしを、ただ漫然と続けていくのだろうと思っていた。そして今も、そう思っている――予定だった。それはある日の朝、瀕死と呼べる状態の吸血鬼アシュリーが俺の部屋にあった大窓を割り、そして俺が彼女を招き入れた時点で瓦解したのだ。
今となっては、どれだけ冀ったとしても手の届かない「普通」。今思えば、何不自由なく暮らせる金を持ち、衣食住が問題なく揃い、幾つかの趣味を持てるという生活が、どれだけ幸福かつ得難い物であったのか、それが良く分かる。
日本という安全な国で、ぬくぬくと育った約十七年。自分の事も、彼女の事も、何も分からないまま彼女に手を引かれた約三十時間。それが、俺という人間に於ける、人生の分岐点であったのだと思う。あの日の出来事はどれも新鮮で、刺激的で、二年以上の歳月が経過した今でも、色濃く脳裏に張り付いて離れない。
季節は冬、雪が積り子供が騒ぎ大人が慌てる十二月下旬。
九州の十分の一くらいという小さな島に、俺は移り住んでいた。日本ではもうじき冬も終わりに近付いて来た頃合だろうが、こちらではまだまだ真冬である。
この地に移り住み、俺は平穏を手に入れた。日本で暮らしていた時の方が平穏ではあったがしかし、吸血鬼アシュリーと出会ってから――という物差しで見れば、不思議とこの地はかなり落ち着いた場所となる。何でも彼女が以前住んでいたらしい。
それは、こちらに移り住んでからの生活で、良く分かった。
そして俺が手に入れた平穏は、しかし現在進行形で崩れようとしていた。
やや古風で中世チックな町並みを、深夜零時に爆走する齢十九の青年は、見る人が見れば不審者とも捉えられるだろう。だが、そのような事を危惧している暇はない。何せこれは、俺の安寧に直結してくる問題だから。
旧市街地と呼ばれるこの場所は、壁の色はばらばらであるにも関わらず、かなり一貫性のある街並みだ。観光名所として――そしてとある映画の聖地としても――有名な上に、飲食店もこまめにあり、服や雑貨等の買い足しにも特段困らない。
そして冬場は観光客も少ないので案外落ち着く。実家のような……とは行かないものの、かなり安穏とした生活が続いていた。
そう、何度も述べるが続いていたのだ。厳密に言えば未だ続いているが、彼女との接し方次第では、物事がどのように転がるか分かった物ではない。
急勾配な坂を駆け下り、背後から「待ちなさいッ!!」と浴びせられる怒号を、その聞き覚えのある透き通った声を無視して突き進む。
敢えて拠点へ直接には戻らず、大分遠回りをしているのが現状だ……。
もしかすると拠点は既に抑えられているのかも知れないが、幸いな事にここはゴットランド島――何の因果か、ストックホルムから程近い島だ。
しかも冬季のこの場所では、日中は夕焼けのような空が広がり、その上日照時間が六時間程と、もの凄く短い。逆に夏場は十八時間も日が出ているので、アシュリーは引き籠りと化してしまう。白夜の際には逃げ場がないので、少しだけ落ち着かなくなる。
と、そんな事を考えながらも俺は立ち入りが禁止されている廃墟を屋根伝いに逃げる。屋根が崩れたりしないよう気を付けてはいるが、追手が廃墟の屋根を踏み抜くかも知れない、という可能性までは視野に入れる事が出来ない。
どうも俺を追いかけて来る足音と声は一人のものであり、しかもまだまだ素人臭い。
俺が狭い道を選んで通り、抜けた先で屋根から飛び降りつつ一階部分が通り抜けられる――強いて言えば「二階しかない建物」の一階部分を通り抜け、すぐさま二度程路地を曲がって追手を撒く……スマート過ぎて、追手の輩も今頃は逃亡犯の手際の良さに感服し脱帽している事間請け合いだ。
「もうッ!! 折角見付けたのに……。どこに行っちゃったのよ……!?」
少し申し訳なさ、と言うか哀れみの感情が沸いてきたが、俺は優先順位を履き違えたりはしない。もしも俺が単独で彼女に追われるような事態に陥っており、そこにアシュリーという吸血鬼が一切関与していないのであれば、そしてその「アシュリーが無関係」という事実を俺が把握していたならば、のこのこと姿を見せても良かった。
だが今はアシュリーが心配だ、彼女は俺からの心配を煩わしく思うだろうし、俺よりも彼女の方が圧倒的に有能ではあるものの、それでも俺は彼女を大切にしたいから。それに、少し煙たがられるくらいが、一番仲の良いラインではないだろうか?
斯くして俺は、小走りになりながらも我が家へと帰宅するのだった――。
***
十九日、午後九時半。
僅かな恐怖と、早く扉を開けろという焦燥。
彼女であれば大丈夫、という大きな信頼を寄せて、俺はいつも通りに門扉を開いた。何食わぬ顔で、何事も無かったかのように、俺は尋常ならざる普通を享受する。
帰宅した先では、予想通りに普段と変わらぬ光景が広がっていた。
「ただいま」
思わず、安堵の息が零れる。
「お帰りー……って、どうかしたのかい? 凄い汗だ」
そう言いながらも、彼女はまるで嫌がる素振りも見せずに両手を広げる。
俺もそれに答えようと、彼女の胸に飛び込んだ。所謂、抱擁の形を取った。
「あぁ、いや……。アシュリーが居て良かったな、と思って」
「はぁ……何かあったんだな」
今日も今日とてダラダラと過ごしていたであろう吸血鬼は、俺の帰宅を歓迎してくれる。詰まらなそうな面持ちでテレビへと視線を向けていた彼女はにこやかに俺を振り返り、
「急用なら、スマホで連絡してくれれば良かったのに」
「逆探知でもされたらどうする積り?」
「人間は日常生活のやり取りで逆探知を恐れるのか」
彼女の言い分は尤もである、しかしながら吸血鬼と同棲をする……というのは、生憎だが「人間の日常生活」には当て嵌まらない。アシュリーはヴァンパイアハンターや国家権力の一部から狙われる存在であり、俺はその共謀者に当たる。
それに、俺は人を一人殺した。
確証はない。それでも確かな手応えが、命を奪ったという感覚があった。アシュリーと出会った翌日、彼女と共に命からがら逃亡を謀った俺は、満身創痍のヴァンパイアハンターを一人殺したのだ。
もう後戻りは出来ない。
「俺達の日常は普通じゃない。それに……おいそれと電話を使えるような状況でもなくなった」
「やっぱり、何かあったんじゃないか」
まるで危機感を覚えていないアシュリーだが、現に彼女を傷付けられる存在は少ない。ましてや彼女を殺せる人物――脅威足り得る存在となれば、それは人間に於ける最高峰の者だけだろう。何せ彼女は吸血鬼という存在の中でも、突出して強力な力を持っている。らしい。
だが俺は人間だ。幾ら最強と言って差し支えない吸血鬼と共にあっても、ビルの八階から地上一階のコンクリートに向かって飛び込めば死ぬし、海で溺れも死ぬ。ナイフで刺されるだけでも、最悪失血死という結末が大口を開けて待っている。
吸血鬼を狩る為に組織された「ヴァンパイアハンター協会」に所属するヴァンパイアハンターに銃弾を撃ち込まれたならば、それこそ即死だってあり得るのだ。
そう。正しく今回現れたのは、
「ヴァンパイアハンターかストーカーのどちらかが、俺とアシュリーを……もしくは俺を狙ってる」
「何だその究極の二択は」
そうは言うが、実際問題、ヴァンパイアハンターかストーカーの二択なので、俺に言える事はない。俺が文句を言われる筋合いもない。そして前者であれば狙いは俺とアシュリー……後者であれば俺のみとなる。
いや、それとも熱心なストーカーは、アシュリーの存在も疎ましく思うだろうか?
「どちらにしても、二年越しで追い掛けて来てる訳だから、ストーカーには違いないけどね」
俺がお道化たように肩を竦めるも、アシュリーは困ったように眉を顰めるばかり。
彼女は吸血鬼という存在が世に出た当初から――詰まり、観測された中では、最も古い時代から生きている吸血鬼だ。そんな彼女は並のヴァンパイアハンターに殺せる手合いではない……がしかし、言ってしまえば銀の弾丸を脳天に喰らえば死ぬし、心臓に銀の楔を刺されたならば死ぬ。
否応なく。須らく。
当たり前に命を散らす。
どれだけ脆弱な相手であっても、せめて回避や防御を行う必要はあるのだ。
そうなって来ると一番怖いのが「暗殺」。如何にアシュリーと言えども、寝ている隙に至近距離から弾丸を撃ち込まれれば避け様がない。無論、そのような距離まで敵の接近を許す彼女ではないが。
それにしたって、四六時中気を張り詰めたまま過ごすのは難しい。
日が出ている間に三百六十度全方位から機銃掃射でもしてみろ、俺は一瞬で肉塊になって彼女は――彼女は、太陽に身を焼かれながらも逃げられそうだが、それはそれとして。
俺が死んでしまう。俺は自殺願望も破滅願望もないので、自ら死にに行くような事はない。
「その口振りだと」
アシュリーは溜息を吐くように続ける。
「キミの知人かな、ミカ君?」
俺は嫌気が差したような、少しだけ嬉しいような、何とも言えない笑みを浮かべて、
「その通り。良く分かったね……アシュリー」
そう言って、彼女から逃げ回っていた旧市街地の一角へ目を向けた。
室内からでは窺えないが、気持ちはそちらへと向いている。
***
十二月二十日、午後七時。
とん、とん、とん……と、一定のリズムで男の指先が机を叩く。一度仮の拠点にまで帰還し、落ち着いた矢先、突如として空気は鈍重さに包まれた。
「何故あのような真似をした」
「……」
「私は、本気で吸血鬼アシュリーを殺したいと思っている……それに、彼が丘霧 霞を殺したのも、何かの間違いだと――それこそ、吸血鬼アシュリーによる洗脳の類ではないかと思いたい。私は極力、力を貸したいと思っている――それに比べてお前はどうだッ!!」
淡々と、ただ業務を熟すばかりの社畜のように続けられていた言葉は、最後の一喝だけに熱を灯す。威圧的で高圧的で、ともすれば攻撃的とも言える怒鳴り声に、それを向けられた赤髪の少女はすっかり委縮してしまった様子。
しかしながら、彼女とて生半可な気持ちでこの場に立ってはいない。
それこそ、思い人を追ってヴァンパイアハンターの高い敷居を跨ぐなど、それは最早妄執と呼んでも差し支えない感情が、一枚噛んでいるに違いない。
かつて吸血鬼に先輩と後輩を奪われたヴァンパイアハンターは復讐に憑りつかれ、かつて悪しき吸血鬼に恋人を連れ去られた少女は憎悪と覚悟を胸に宿した。
掲げる理想と目標は似て、しかし同じではないが故の対立。
「お前は、自分の事ばかり考えている。自分の大切な物ばかりに目が眩んで、根本から断とうという気が窺えない」
「それは……はい、その通りです……。でもっ、あたしはやっと見付けた。二年の歳月をかけて、やっとあいつを見付けたんです!」
「それも承知の上だ、お前の気持も良く分かる。私からしてみれば、雷蔵や霞と再会したような物だろう。だが分かるだけだ、許容出来る訳ではない。任務に集中しろ、それが出来ないのであれば、日本に戻って普通に生きていれば良い。一筆認めてやろうか、退職金は巨額になるぞ?」
思いやりのようであり、しかし彼の口調は責め立てるような物だ。彼の言葉は彼女――レベッカに取って、ここ二年の辛苦を捨て去って全てを諦めろ、と言われているに等しい。命令に従えないのであれば、ここまでやって来た苦労を無に帰して、努力を蔑ろにして、心の拠り所であった恋人の存在を忘却しろと、そう叱られているのだ。
「何度も言うが、この業界は綺麗事では済まされず、理想だけでは語れない」
「……はい…………」
「私とて、お前の理想には協力する。だが、私の優先順位も尊重して貰わなければ困る。お前が初恋を拗らせている最中、私が見出すのは怨敵だ。だが……お前の情報は訳に立った、確かお前は「クリンテハムンの方へ逃げた」と言ったな、ならば逆だ。ビズビューに留まっているか、或いはフォーレスンド方面に逃げたか……」
ゴットランド島の中にある町の名前を次々と出し、結果的には「ビズビューよりも南側ではないだろう」という、何とも曖昧かつ不確かな結論へと行きついた。だが部下の証言一つで捜索域を凡そ半分にまで絞れたのだ、これは大きな進展である。
(とは言え、それらがブラフである可能性も否めない……か。それに、もう一方の動向も気になるな)
彼等は日本を拠点として活動をしており、しかし必要とあらば私的に海を渡る事もある、変り者であった。何せヴァンパイアハンターという、死と隣り合わせの職に就いておきながら、比較的安穏とした生活が送れる休日を潰してまで、ヴァンパイア憎しとどこまでも追い掛けるのだから。
元よりヴァンパイアハンター協会とは、大なり小なり吸血鬼を憎む人間ばかりをスカウトしている。であれば彼等の行動にも理解は示せるが、自分もそうしようとは思えないのが世の常だ。その点、彼等二人はそれ程の妄執に憑りつかれているという訳であった。
たった二日……時間にしてみれば一日と少しの時間が、彼等の人生を狂わせたのだ。
丁度二週間前、ストックホルムで大量傷害事件が起きた――その被害者は皆総じて首に噛まれたような傷があったと言う。それはまるで、狂犬の牙を突き立てられたような。
恐らく、吸血鬼アシュリーであればこれ程迂闊な真似はしない。仲互 三佳もここまでバカではない。であれば、他なる吸血鬼。しかし現地に赴き、付近の調査を進めて見れば、過程は黙秘しているものの、レベッカが有益な情報を得た。どのような情報であるのか、彼女は語らなかったがしかし――どのみち、手掛かりはなかったのだ、藁にも縋る思いで、二人はゴットランド島へと赴いたのだ。
その後、レベッカの独断専行があった。
頭ごなしに叱り付けても良い場面だろう。それでも、レベッカは確実な成果を出した。発見した、とでも言うべきか。まるで、全て知っていたかのように。
――仲互 三佳と思しき人物を見掛けた。
これは二人に取って、途轍もなく大きな手掛かりであり、二年間のも間全くと言って良い程に進展が見られなかった、吸血鬼アシュリーに関する捜査に於いての躍進であった。
ヴァンパイアハンター一名を殺した少年――今となっては青年と呼べる年齢の彼と、溢れんばかりの余罪を抱えた吸血鬼。中国、カザフスタン、ウクライナと、どのような手段を用いたか北西に向かって移動し、バルト海を渡ったかに思われた所で消息を絶った。
それまでも殆ど無いに等しい情報の粒であったのに対し、本格的に足取りを掴めなくなったのだ。
それまでの二人は各国の主要都市や首都を渡り歩き、行く先々で吸血事件を起こしていた。しかし海へ出たからか、それとも二人が慎重を期したからか、それ以降の動向は一切掴めていない。
始めはスウェーデンに絞って何かと調べていたのだが、同じ場所に止まるとは思えない、とノルウェー方面の調査を進める運びとなった。
だが、どうやら吸血鬼アシュリーと仲互 三佳はスウェーデンのゴットランド島に逗留――或いは居を構えていたらしい。
しかし今回ばかりはタイミングが悪い、何せ別な吸血鬼が近くに潜伏している。このままでは吸血鬼アシュリーと遭遇する可能性が高い。群れを形成していない吸血鬼とは、自分のテリトリーへ闖入を果たす吸血鬼を殺しにかかる――場合もある。そうなれば、必然的に両者は巡り合うだろう。
そのまま殺し合いに発展すれば良いが……。
(最高なのは、吸血鬼同士での殺し合い。それが終了し疲弊した所を突ければ最善だ――が、それは吸血鬼同士の接触を許すという事だ。最悪のパターンは、協力関係を構築される事……)
(あたしは、何としてでも三佳を助け出す……)
吸血鬼お得意の「洗脳」という、在りもしない能力に縋るように。
恋は盲目であった。それも、二年が経とうとも色褪せぬ恋であれば頷けよう。
斯くして日本から遥々やって来た二名のヴァンパイアハンターは、悩むようにうんうんと喉を唸らせつつ、今後の動きを考えるのだった。二人とも同じ相手を憎み、同じ組織にあって、しかし相容れない物がある。
彼女がゴットランド島を行先に定めた経緯も、帰還前に再びそれと見えた事も、何一つ話していないのが、なによりの証拠だろう。
ストックホルム滞在七日目の夜は、そうこうしている内に更けて行く。尤も、冬のスウェーデンの太陽は、とっくに沈み切っているのだが。
***
十二月十九日。時刻は十時を過ぎようかという頃。
アシュリーの助言により周囲で人の動きがない事を知った俺は、安堵の息を漏らすと同時に夕食の準備を終えた。いきなり本題に入ろうとした所、アシュリーから「それよりもお腹空いたなぁ」と文句を言われたので、仕方なく夕食の準備を終えてから、話のタネにでもしようと思った次第である。
本件は最重要な課題であるが、それでも高位の吸血鬼ともなれば、今晩のおかずに及ばない程度らしい。まぁ、確かにアシュリーであれば、並のヴァンパイアハンターなんて、脅威足り得ないのだろう。
それにしたって、少し呑気過ぎる気もするが。
「キミは不満に思うだろうけどね、追手は一人だろ?」
「うん、そうだね……いや、何で知ってるの?」
肯定しかけて、思わず目を見開いた。ツッコミというよりも疑義を唱えるように、俺は彼女の方を見やる。彼女は彼女で、何やら奥ゆかしい含み笑いを端正な顔面に閉じ込めて、どこか楽しむように俺を見返した。
「キミも知っているだろう? 私は地獄耳だって」
吸血鬼の特性……ではなく、アシュリーという個体に備わった特殊能力。しかし漫画やアニメのようなファンタジーではなく、単純に耳が良いというだけの話だったが……。
そんな思考を見透かしたように、アシュリー。
「言いたいことは分かるさ。確かに私の聴力は自前だけどね、吸血鬼は元より感覚が研ぎ澄まされている」
「じゃあ、アシュリーがずば抜けて地獄耳なだけで、他の吸血鬼も耳は良い訳だ」
彼女と行動を共にして、既に二年以上の時間が経過している。それでも、知らない事はまだまだあって、毎日のように新たな発見がある。もしかすると、俺は彼女が与えてくれる「新鮮味」に惹かれたのかも知れない。
「あー……そっか、ミカ君は、私以外の吸血鬼と、会った事がないんだっけ?」
「目立った行動も、控える必要があったから……」
それでも、日本からスウェーデンまでの旅路に於いて、血液の供給源が俺だけというのは少々不味い。もしも貧血で倒れれば迷惑を掛けるし、倒れなくとも体調は優れなくなる。右も左も分からぬ異国の地で、万全の状態で居られなくてはどのような災難に見舞われるとも分からず、何らかの病気に罹った場合にどこを頼るべきかも定かではない。
そんな環境で吸血を許してしまえば、ちょっとの風邪でも大事に至る可能性があるのだ。――最悪の場合は、俺を吸血鬼化させる事でどうとでもなるらしいが……俺はまだ、もう少しだけ人間でいたかった。そうして二年という時間を与えられ、特にこれと言った事件もなく、俺はまだ人間のまま。そろそろ大人しく、観念して化け物になるべきかも知れない。
故にアシュリーは、現地人から血を頂く事にしたのだとか。因みに、俺は彼女に血液の提供を申し立て、逆に彼女がそれを拒んだという形である。しかし最低限、吸血行為で人間を殺さないようにして欲しい――という俺の要望を聞き届けて、彼女は大勢から血を啜るという方法を取った。
それが俺達の足跡を残す行為だとは分かっていても、譲れなかったのだ。
「懐かしいな」
「そうだね。そんな懐かしい記憶を、俺はまだ思い出になんてしたくない。今度はおふざけなしで言わせて貰うと――ヴァンパイアハンターがやって来た。多分、俺とアシュリーを狙って」
「キミはターゲットに含まれないんじゃ……?」
「いいや、連中は俺が吸血鬼になったと思ってるんじゃないかな。それに、どちらにしろ俺は人殺しだし……」
今でも色濃く思い出せる、罪の意識。バットでヴァンパイアハンターの頭蓋を砕いた感触が、未だに両手から離れない。自分で言った癖して、少しだけ手が震えてしまう。
落とさない内に、そして冷める前に、熱々の鹿肉ハンバーグをテーブルに並べておこう。
……下拵えも大詰め、いざミンチ肉を捏ねようかといった所で、つなぎのパン粉を切らしていた事に思い至った俺は、既に調味料を始めとして、更に玉ねぎとアシュリーに彼女が嫌いな物も、栄養バランスを考えた上で食べさせるべく、必死に微塵切りにした人参を仕込んでおいたミンチ肉にラップを掛け、泣く泣く冷蔵庫の最奥に仕舞い込んだ。
それから大急ぎで外出の準備を整えた後に近場のスーパーで不足分を買い揃えようと思ったのだが。
その帰り際に、俺をつけるような人影に気付いた。吸血鬼程の危機察知能力は無いが、俺とて外出の際は常日頃から気を張っている。
スーパーから追跡されていた風ではなかったので、一先ず大きく遠回りをして帰還した次第だ。
上手く撒けていると良いのだが。
「わー、豪華だねえ」
俺の気も知らず、無邪気に声を上げるアシュリー。目にも止まらぬ速度でハンバーグ内の人参を取り出して行く彼女には、最早溜息しか出て来ない。俺の皿に次々と微塵切りにされた人参を移していた彼女に向けて、俺は巌のような顔を作り上げる。
「それで、どうする積り?」
「んー? と言うと?」
「だから、ヴァンパイアハンターが来たんだって」
少しだけ語気を荒くして言うと、彼女は一瞬口籠ってから、素っ気無く「別に」と一言だけ返した。恐らく彼女は、それ程脅威に感じていないのだろう。現に、これまでこの地にやって来たヴァンパイアハンター達は、まるで俺達の気配に気付く事はなかった。だが、
「今回ばかりは違う。明確に、俺を知っている人物だった」
「となると……スナイパーのヴァンパイアハンターかな?」
「いや――」
確かに彼もやって来ている可能性は高いが、俺が見付けたのは――もしかすると少女と呼んでも良さそうな、まだ年若い女性のヴァンパイアハンターだった。そして俺は彼女の声を良く知っている、毎日のように至近距離でぺちゃくちゃぺちゃくちゃと騒がれ続ければ、否応なく脳に刷り込まれるというもの。
彼女には本当に悪い事をした。申し訳が立たない事をした。彼女に好意を向けられていながらも、俺はそれに応える事もなく、剰え応えようともせずに吸血鬼の手を取ったのだ。繰り返されたアプローチを蔑ろにして、ぽっと出の少女に見惚れてしまった。
彼女をここまで駆り立たせるのは、やはり俺への執念なのだろうか?
彼女はアプローチの仕方を間違えていたし、友人達に取れるマウントと、彼女の熱狂的なファンから命を狙われる私生活というのは、流石に費用対効果が釣り合っていないと思うのだが。
そんな彼女の名は、
「――レベッカだよ」
アシュリーが吹き出したお茶が飛び散るのを、俺は顔を顰めて見守る。どうせ掃除は俺の役割なので、彼女は特に気にした様子もない。因みに彼女の担当はゴミ捨て、以上。しかも捨てるだけであり、集める作業は俺がやっているのだ。他は全部俺が担当している。この世は理不尽によって成り立っているのだ。
雑巾を取ろうと立ち上がった俺に向けて、吸血鬼は歪な笑みを浮かべる。
「まぁまぁ待ちなよミカ君。それで、どこまで進んだのかな?」
はい?
「だーかーらー。二年越しに再会を果たした彼女を相手に、どこまでヤッたのかって訊いているんだよ」
俺は自分に用意したお茶を、吸血鬼に向かってコップごと投擲した。びちゃびちゃになった床を見つめ、それと同じくらい水浸しになった自分を見つめ、抗議的な視線と共に彼女は捲し立てる。
「うーわやりやがった! 最低だなミカ君!! 床まで水浸しじゃないかっ」
「どうせ拭くのは俺だし? あ、お風呂は自分で沸かしてね」
洗濯機は……まぁ、どうせ彼女は扱えないだろうから、ここは俺がスイッチを入れてあげよう。
壁に掛けてあった雑巾を手に取り、アシュリーの座席下部に広がったお茶の泉を拭き取って行く。こちらを伺うように見ていた彼女を一瞥してから、俺は「食べてれば?」とだけ返した。少し冷たい口調であったが、普段からこんな感じなので問題はない。それに、俺はそこまで怒っていないし。
それに。それに……これが、本来の俺なのだから。
「……うん。その、ちょっとだけ、悪かったかなって」
「大分悪かったけどね?」
「ごめんって……」
「そんなに怒ってないから。……あ、そうだ」
名案とばかりに顔を上げた俺と吸血鬼の双眸。二つの視線が交錯する。
そんな俺の表情に何を思ったか――長い付き合いで薄々気付いたらしく、彼女は顔を背けた。しかしながら、その程度で口を噤みはしない。
一度立ち上がった俺は、自分の皿に移された人参をアシュリーの皿へと戻して。満面の笑みを浮かべてから言う。
「悪いと思ってるなら、俺が必死になって微塵切りにした人参、食べてくれるよねー?」
「あ、うぅ……ん。わ、分かったよ、食べる、食べるから」
かつて、ここまで吸血鬼アシュリーに大きな態度を取った者が居ただろうか? 多分、俺が人類初の例だろう――もしかすると、吸血鬼を含めて考えたとしても、彼女相手にここまで善戦しているのは俺だけなのではないのだろうか。
小学生のように鼻を摘み、一度に人参を口に含むアシュリー。一気に食べる必要性を無くそうと思い、微塵切りを頑張ったのだが。
それから雑巾を絞って、ぬるま湯を張ったバケツに入れ、アシュリーに早着替えを見せて貰い、脱ぎ捨てられた衣服を洗濯機に突っ込んでから、俺は台所に立ち寄る。もう少しで、夕食――吸血鬼に於ける朝食を平らげようというアシュリーを後目に、俺は再び席に着いた。
俺達の生活サイクルで言えば昼食であるハンバーグを貪りながら、俺は寝間着のようなラフな格好から、薄手のセーターに着替えたアシュリーを見やった。たっぷりと眠っている筈の彼女は、しかし盛大な欠伸を浮かべている。
「眠いの?」
「まぁね」
俺は午後三時に起きて、大体午前九時に眠る。対してアシュリーは午後四時くらいに起きて、朝の八時に眠る。要するに、この吸血鬼はバッチリ八時間睡眠という理想の眠りを実現してやがるのだ。本人曰く、元来吸血鬼は日照時間=睡眠時間なので、これでも短い方なのだとか。
現在は冬であり、日照時間が短いからまだマシなのだが、これが夏場になると彼女は延々眠っている。完全に日光を断った部屋で荒々しく起こせば目を開けてくれるだろうけど。
いや……しかし、これだけの睡眠時間を取っていると、逆に眠気が襲って来るらしいので、彼女はやはり眠り過ぎなのかも知れない。睡眠時間は、人それぞれ、そして適量を確保するのが大事なのだ。
だらりと垂れたプラチナブロンドの髪を弄びながら、彼女はハンバーグを完食した皿を静かに見つめる。
まぁ……偶には良いか。
「コーヒーをご所望かな」
言って、俺は席を立つ。とっくにハンバーグは冷えてしまっているので、今更気に掛け、取り急ぎ食す必要もないだろう。彼女の返事を聞き届ける事もなく、俺はさっさとコーヒーの準備に取り掛かる。手早く挽いたコーヒー豆をドリップし、濃厚で目覚めにはうってつけの一杯。それを二つ。
彼女は少し甘めのコーヒーが好きなので、大匙三杯の砂糖を投入しておく。
俺が気休めに、命乞いとも言えない程度の保険として彼女に一杯のコーヒーを献上してからと言うもの、俺は毎日欠かさず目覚めの一杯を淹れる事にしている。とは言えカフェイン中毒になった吸血鬼なんて見たくはないので、一日一杯に止めているだが、時折こうして昼間に二杯目を飲む事もある。
両手にコーヒーカップを持ち、鼻歌混じりに戻って来ると、食卓にあった筈のハンバーグが一つ消えていた。口回りに先程まではなかった食べかすを付着させたアシュリーは、ふるふると首を横に振った。
無くなっていたのは、言わずと知れた俺のハンバーグ。
成る程難解な事件だ。
「いや……つい、美味しくって」
ちゃんと嬉しいので怒るに怒れない。
「……それはどうも、ありがとう。コーヒー淹れて来たよ」
「キミは優しいねぇ」
「ところで銀の杭ってどこにあったっけ?」
「優しくないッ!?」
正解はアシュリーのペンダントだが、返し方としては今しがたのセリフで正解だ。
時折飛び出すいつものやり取り。最早日常の光景と化しているので、殊更に話題を広げる事もなく、俺は静かにコーヒーを啜った。ズズズ、と少しだけ音を漏らしながら。目の前のアシュリーも俺と同じく焦げ茶色の液体を啜った所で、二度程逸らされた話題を再三本筋に戻す。
「それで本題だけど、逃げるか、戦うか」
正直、端的に言えば選択肢はこの二つに限られるだろう。敵の戦力を鑑みた上ならば、戦闘になるのも吝かではない――まぁ、俺に戦う力は備わっていないのだが。どれだけアシュリーのようにと願い、拳を振ろうとも、所詮は人間の肉体が繰り出す一撃。
幾ら足腰を鍛えようとも、スナイパーの弾丸を避ける様な芸当は不可能だ。
俺としても、彼女と肩を並べて――或いは背中合わせで戦えたなら、それはとても楽しく満ち足りた一時なのだろうとは思うけれど、可能な範囲で人間の協力者が居ると、彼女の動きやすさとしては全くの別物だろう。
俺が人間で居続けるのには、そういう打算もあった。
「うーん、取り敢えずは様子見かな?」
「俺としても、何事も無くこの日常が続けば良いなって……」
「んん? 私はそこまで言っていないけどねー?」
成る程、極めて悪辣な罠に嵌められた訳か。しかし、ここで照れた様子を見せるのは、何とも言えぬ「敗北感」を感じてしまう。であれば俺は泰然とした態度で、さも当然のように言葉を続ける必要がある。
「言葉の裏の裏まで読んだだけだよ。……となると、一先ずは隠れ潜む方向だね……」
一月も経過すれば、如何に執念深いヴァンパイアハンターと言えども、他の場所を当たるだろう。流石に吸血鬼殺しのエキスパートが跋扈する島で、一月も動きを見せなければ向こうが「逃げた」と判断する筈だ……。判断してくれると良いのだが。
「非常食と保存食。それを約一月分……」
思い付いた事は、片っ端からメモ帳に書き起こす。
隠れ潜む方針ならば、俺も仕事に出向けなくなる。これは懐が痛い――ヴァンパイアハンターと事を構えようという局面で、まさか財布の心配をする羽目になるとは。やはりどこに行っても金は大事なのだ。
「アシュリーは幾らくらい出してくれるのかな?」
「本拠地まで辿り着ければ、幾らでも返すよ……」
本拠地から追い出された吸血鬼が何を言う。
辿り着いても入れないから困っているのだ――でなければ、今頃俺は強い吸血鬼達に守られた、理論上最強の布陣の最奥で贅の限りを尽くしている予定だったのだが、アシュリー曰く、彼女の好感度、俺という存在、この二つが影響して、本拠地の中に入るのは困難なのだとか。
侵入という意味でも、入場という意味でも。
「そうだねぇ、後はチェイテ城の方にも金銀財宝が残っているかも知れないな」
どこか影の差した顔でそう言って、彼女は目を伏せた。
彼女は自虐ネタが絶望的なまでに下手くそなのだ。そこに辛く悲しい記憶があるのに、自分からつついて思い出してしまう。
「いつか招待してよ」
「何も無いよ、あそこには」
「それでも。アシュリーの生まれ故郷だから」
確かにアシュリーからしてみれば、嫌な記憶ばかりが残る土地だろう。あまり耳にしたくはなくて、思い出したくもない筈だ。それでも克服しようとして、自虐のように繰り出すのかも知れない。だから今はまだ、故郷の空気を吸うべきではないだろうけど……俺はいつか、彼女の生まれた土地に赴きたいと、そう思う。
「はぁ……キミも物好きだな」
「俺は吸血鬼の手を取った人間だよ――」
物好きでない訳がない。
「――今更過ぎるって」
砕けた態度で、そう言った。
***
散歩気分で、しかしまったりとは程遠い足取りで歩く。
今日は少しだけ早起きをしたので、まだまだ空に太陽が浮かんでいる。まるで起床時間が遅い人物の戯言に聞こえてしまうだろうが、生活サイクルが夜型なので、これでも規則正しく就寝し、起床しているのだ。
それに、日照時間も日本とはまるで違うし。
本日の就寝は普段よりも三時間程早く、午前五時。起床時間もそれに並行して正午と早い。さして空きもしない腹に詰め込んだのは、焼いた食パンを一枚、そこに目玉焼きを乗っけて適当なサラダを添えたものだ。その後に牛乳を呷り、アシュリーへのメモ書きを残して出発した。
二十分程の時間をかけて、大きめなスーパーマーケットに足を運ぶ。缶詰、パン、は大量に。そして食べきれる範囲で野菜。それから安くなっていた肉を少量。冷凍されている肉も少しだけ奮発して調達しておく。合計金額は日本円にしてざっと六万円――手痛い出費だ。
後はアシュリーの吸血衝動を抑える為に、人間の血液でも売られていれば良かったのだが。それが存在していない事は、この地で一年余りを過ごした俺が良く分かっている。
そして、そのような物を扱う店も。
裏路地に入り、幾度か曲がって。
「はろー」
俺が拙い発音の英語で語り掛ければ、店の店主は「また来やがったのか」的な事を伝えるべく、その巌のような顔を顰める。身振り手振りと表情から、あまり俺という存在を快く受け入れられないのだろうと予想が付いた。だが、このようなやり取りも半年以上続いている、最早慣れた物だ。
ここの店主は意外にも気さくで、色々な事を教えてくれる――もとい、お喋りが好きな方だ。常であれば、分からないなりに俺の言葉を理解して、逆に伝わらないと知りながらも怒涛のマシンガントークを披露してくれる。
「いつもので」
俺がそう口にすれば、詰まり「血を売ってくれ」という合図。店主にも「いつもの」は、そういう意味の合言葉だと認識されている。まぁ……どうせ「いつもの」ではなく「血液」という意味で受け取っているのだろう。
彼……店主は、寡黙な態度で頷いた。ニコニコと――自分で言うのも何だが、人当たりの良い笑みを浮かべている俺を見詰め、ゆっくりと鷹揚に。或いは、俺がそう感じただけかも知れない。
――お喋りな店主は、終ぞ言葉を発する事なく、怪しげな肉を陳列したショーケースの上に巨躯を横たわらせた。逞しく盛り上がった胸部から夥しい量の血を流す店主の骸が、そこに映じられる。対して、キラキラのガラス玉のような、それでいて赤く透き通った瞳を持ち、背中を登攀するようにして店主の背後から現れた女性が、硝子の鏡面に映し出される事はなかった。
赤の瞳は不思議なくらい澄んでいて、その瞳に反射する俺の双眸の中までもが、嫌なくらい鮮明に見えた。にも関わらず、目の前の女性が映っている様子はない。詰まり――
「ふーん。ボクをそういう存在だと知っての行動かな? それとも単なる恐怖? 今の一瞬でそれ程の思考を纏められたとも思えないし」
「吸血……ッ!?」
「あぁ良かった。やっぱりきみ、日本人だ」
咄嗟に仰け反った俺を追うように迫る、吸血鬼の右腕。裏路地であれども微かに差し込んでいた陽光を避けてか、彼女の手は俺を捕えようとしたのと同時に引っ込められた。
お世辞にも平坦とは言えない足場のお陰で体勢を崩した俺は、あろうことか逃げ出してしまう――微かな日差しがあったと言うのに、自らその場を離れてしまったのだ。
ゴロゴロという小さな音が耳を掠めて。次に、買ったばかりの林檎がレジ袋から転がり落ちている事に気が付いた。俺の視線が向いた先に、敢えて降り立つように――その吸血鬼は、真っ赤な林檎を踏み潰し、黄色い中身をぶち負けながら俺の顔を覗き込んだ。
「そんなに怯えないでよ。ボクも、悲しくなっちゃうからさ」
相手は平静を装っている。俺は過呼吸と冷や汗が止まらない。
どうしてここに吸血鬼が? いいや……そこに滅多な理由付けなんて不要だろう。たまたまふらりとやって来た、吸血鬼がどこかに居る理由なんて、それだけで事足りるのだ。アシュリーが日本を彷徨っていたように、日本人の観光客が世界各地へ飛び立っているように。彼女がこの場に居る理由なんて、幾らでも思い付く。
流暢に日本語を操る事に対する理由付けだって、幾らでもあるのだ。
「きみに何をする訳でもない……あぁ、でも」
吸血鬼は嫣然と微笑んで、
「楽しいコト、しちゃおっかなぁ?」
「あ、ぁぁあ生憎ですがッ、待ってる人が、居ますので」
「へぇ、きみも初心そうに見えて、実はそうでもないんだ?」
辛うじて会話は成立している。だが非合法肉屋の店主を見れば分かるように、彼女は殺しに大してご大層な感情を抱いてはいない。あの店主の顔は寡黙な――どこぞの軍人のようでもあった。それは詰まり、苦しむ間もなく絶命した、という事実の左証でしかない。
俺が生きていられるのも、きっと。
そういう事だ。
「んー、でも。「人」って表現には語弊があるよねぇ?」
……アシュリーの存在を勘付かれている。
「ねぇきみ――」
話題を変えられて。否、むしろここからが本題だとばかりに。
見透かしたように覗き込まれる。俺と言う存在を。
どこまでも深く。
「――罪って、何だと思う?」
「…………」
冷たい風が吹いた。冬にしたって、防寒対策は完璧だと言うのにも関わらず……。
「サイコーに楽しい物だよねっ!!」
「……はい?」
眼前でむすっと膨れる白髪の吸血鬼。
俺の答えが相当気に入らなかったらしい。真冬の空の下、下着のようなレース生地の黒いネグリジェを着用し、肩から羽織物みたいに厚手のダウンを着た、何とも歪な服装。今しがた林檎を踏み抜いた黒のハイヒール……いや、パンプスだろうか? 兎も角踵の高い、それでいて踵部分と地面との接点が広めに取られた靴を履いていた。
「例えばだけど、海兵を溺死させたり、大量の埋蔵金を盗んだり、ただの農民を魔女として告発したり――お姫様の旦那を奪ったり」
俺は自分を善人だなんて思わない。善か悪かで言えば、後者に身を置いているとさえ思っている。そんな俺をしても、目の前の吸血鬼が挙げた例には賛同する事が出来なかった。そしてスケールの大きいジェネレーションギャップを感じたとも。
もしかすると、彼女は彼女でかなり老獪な吸血鬼なのではないだろうか? それこそ、アシュリーと同じくらいに生きた個体ではないのかと疑ってしまう。強ち間違いにも思えないので、笑えない。
スーパーのレジ袋を握り締めて、敵愾心を剥き出しに、俺は眼前の吸血鬼を睨み付ける。
「別に、人の性癖にまで口を出す積りはありませんけど」
ニチャアと粘り気のある笑みを浮かべた吸血鬼。ともすれば悪辣とも言えるような表情で、彼女は俺の前に屈みこんでいた。細められた瞼の向こう側では、虎視眈々と得物を狙うような赤が煌いている。まるで俺の言葉を咎めるような、続きを言わせまいとしているかのような、冷たい瞳。ただ、彼女が言動を以て、俺の言葉を制す事はない。
一瞬の静寂が場を支配し、俺は絞り出すように。
「俺は共感しかねます」
「ふんふん」と納得したように喉を鳴らし、吸血鬼は面白い物でも見たかのような反応を示す。続けて「そっかぁ~」と落胆めいた声を上げたかと思うと、
「じゃ、ボクが罪の楽しさを教えてあげよう」
――不味い。
魔性との暮らしが長かったからか、直観的に、そう感じた。
逃げるべきだ、一も二もなく自分の直観に従って。
「刺激は、間に合ってるんでッ!!」
立ち上がった拍子に、買ったばかりの果物がゴロゴロと袋から飛び出す。無駄になった金額は五百円程だろうか? こちとらお世辞にも余裕のある生活とは言えないのだが……。
兎に角日差しの下に出るのが先決だ。そこまで行けば吸血鬼は追って来れない――!
しかしながら。
日差しまで辿り着ける、と言うのはどこまでも甘え切った希望的観測である。俺が、一番良く知っている――この状況から、向こうの慈悲なしでは抜け出せない事を。
冷や汗でぐっしょりと濡れた背中に嫌悪感を抱きつつ、俺は大慌てで踵を返した。大量に買った缶詰までもが幾つも飛び出して、カツンと乾いた音を鳴らす。
それはパンプスの踵で石の地面を叩いたような音でもあり。
「どこに行くのかな、ぼく」
優しく包み込むように――抱擁とも言う――俺の身体を包み込んで、彼女は鋭い牙を獰猛な笑みと共に剥き出しにした。視界の端に映り込んだだけであれども、その口元が好色を帯びている事くらいは見て取れる。それから、瞬く間に牙は俺の耳を穿ち。
「……ッ!」
微かな痛みと、心地よさ。すっかり慣れてしまったアシュリーによる吸血よりも随分と強引で、しかし不思議と気持ちが良い――気分が良く、爽快だった。
結局の所、日本人がお人好しな傾向にある理由は、半ば約束された安寧に飽きているからだと思う。故に日本人は刺激を求めて、都合の良さそうな相手を見付けだす。その対象にしやすいのが、お手軽に困っているのが見て取れる人だと言うだけの話だ。
「誰かの味がする。唾を付けられているのかな」
少し悪くなった活舌で、尚も耳元で囁かれる。お陰で耳の中が擽ったい。
一度心に決めた相手と結婚をしておきながら、浮気をする。その行いを俺は肯定する事が出来ない……が、吐き気を催すようだが、今だけは――その気持ちが良く分かった。
「やめ……て、下さいッ!」
絡められた吸血鬼の腕を強引に振り解き、徒に耳を傷付ける可能性すらもかなぐり捨てて、俺は一目散に駆け出した。えっちらおっちら足を動かし、数メートル先の日溜りを目指す。
「初心な子だ――」
ニヤリと口角を上げる彼女の姿が目に浮かんで……。現に、俺の退路を断った吸血鬼は、想像と同じ顔をしていた。
「――食い甲斐がある」
***
綱 健次郎。三十六歳。ニュース番組「毎日エブリデイ」の元チーフディレクター。そして、暴行罪の容疑で逮捕、後に有罪判決が下された事により、現在は独房の中で生活をしていた。
本来許されてはならない程の傷を昌義に与えた事で、彼は逮捕される運びとなった。無論、「毎日エブリデイ」は馘首である。しかし事の発端は昌義とその共謀者にあり、詰まる所健次郎が罪を犯すに至った理由として、昌義に原因があるとも言えるのだ。
その事を理解していた昌義は、同時に自分にも非があると認めていた。故に彼は告訴を取り下げ、結果として二年と少しの執行猶予で許されたのだ。
事の経緯は単純明快。
昌義が良く分からないビデオテープを強引に再生し、それを止めようとした健次郎が鋭いストレートを放った。そして倒れた昌義へと馬乗りになり、その後顔面に十発以上の打擲を与えたのだ。昌義は鼻の骨を折り、眼窩の骨に罅が入る怪我を負った。
しかし、それも今日で終わりだ。執行猶予はまだ残っているが、刑務所からは出られる。
(今頃あいつは、何やってんのかね)
謎の映像を全国に流し、公に発表こそされていないが世界に激震を奔らせた数十秒。SNSでは瞬く間に拡散されて行き、あっという間に収拾が付かなくなった。市井で実しやかに囁かれる「吸血鬼」の存在。半信半疑な者が殆どではあるが、吸血鬼という架空であった筈の存在を、半分も信じているのだから、昌義の与えた衝撃は大きな物だろう。
(確か……クビになる前に、自主退職したんだっけか……)
一度だけ面会室に現れた部下を思い出し、冬の寒空に息を吐き出す。寒さに白く彩られた吐息は、少しずつ薄れ、或いは空色に染まって行き、やがてどこからともなく漂って来た排気ガスと混ざり合い、元の色を失うのだった。
***
「ふーん、それでそれで?」
「そこでアシュリーが天井を突き破って、九階の一室に避難した」
「へー、凄いね。そんな芸当、ボクには出来ないや。出来る事と言えば、迷える少年に楽しい遊びを教える事くらい」
あまり関わり合いになりたくないような言動をする吸血鬼。しかし彼女は思いの外気さくで、然程「悪しき吸血鬼」といった雰囲気は感じない。どちらかと言えば近所の悪ガキを揶揄うお姉さんキャラ、くらいの印象だ。
一度は彼女に退路を断たれた俺は、しかし彼女からの提案によって、俺が行動を共にする吸血鬼――詰まりアシュリとの馴れ初めを話すという条件で命を助けて貰える運びとなった。隣を歩く吸血鬼――アルと呼ぶように言われた――は鼻が利くらしく、俺が吸血鬼と行動を共にしている事も、アルの嗅覚によって察知したらしい。
吸血鬼の人間離れした能力は、何だか嫌になる。人間の想像を難なく超えてくるので、動きが予測し辛いのだ。
それから、彼女には敬語も止めるように言われた。何だか他人行儀なのが気に入らないらしい。俺に取って彼女は赤の他人で、馴れ合う積りなんてなくて、二度と出会う予定もないのだが。
「楽しい遊びなんて要らないよ、俺は今の暮らしに満足してる。このまま穏やかに一生が終われば良いなって」
「それがどれだけ上質な夢か、きみが一番理解してるだろうに。どうせ十字架にでも磔にされて、日の光に焼かれるのがオチだよ」
彼女の例え程に酷い結末は御免被るが、アシュリーが吸血鬼である限り、確かに平和な終わりは訪れないのだろう。俺はいつか吸血鬼になるだろうし、アシュリーならば勝手に俺を吸血鬼にするかも知れない。そうなれば、穏やかに一生が終わる事はそもそも有り得ない。
吸血鬼は永劫の時を生きるが故に、その終わりはいつだって凄惨である。ヴァンパイアハンターに殺されたり、太陽に身を焼かれたり。銀の杭を心の臓に突き立てられたり、死なない限りは殺される。そういうオチだ。そんな結末が待っている。
「それは、そうかも知れないけど――」
だからと言って、道が残されていない訳ではない。俺一人の力でどうにか出来るとは思わないが、吸血鬼と人間の共存だって可能な筈だ。いつかは終わりが来るのかも知れないけど、引き際は自分達で決められる。
笑いたければ笑うが良い。そんな夢物語を、俺はいつだって夢想しているのだ。
「可能性くらいはある。違ったかな?」
「……いや、そうだね。ボクは君の考えに賛同出来ない――どうせ辛苦を伴った死が終わりを告げるのだとは思うけれど……応援してるよ! きっと、とっても素敵な事だから――まぁ、どうせ無理だろうけどね」
アルはお道化たような仕草で、こちらを振り返った。俺は最低限の安全確保をしながらも、彼女を相手に「逃げない」という意思表示を込めた結果、折衷案として彼女の直ぐ隣かつ、日差しを歩いている。――尤も、吸血鬼に掛かればこのような距離、あってないような物なので、俺に取っての心の拠り所、くらいでしかない。
ガラガラと音を立てて引いている、大量の糧食を詰めた荷車は、非合法肉屋から拝借した物だ。返す予定はない。
余談だが、荷車はアルが持ちだした物である。彼女曰く「友好の証」なのだとか。
今更ながら、身近で殺しが起きてしまっては、ヴァンパイアハンターの一件が片付いても、この地に留まる事は出来ないのではないかと心配になって来る。
俺に非はないと思うのだが……。
「応援してくれるだけでも、ありがとう。でも、俺も無謀な理想論だとは思うけどね」
「あは。でもでも良いじゃん、夢はでっかく見る物だよ! ボクとしては、先ず小さくて大事な夢から叶えたいけどね」
「それは、俺だってそうだよ。ご大層な夢よりも、今の暮らしにこそ価値がある」
「……好きなんだ? アシュリー姫の事」
俺は少しの逡巡の後に「あぁ、そうだね」と掴み所のない口調で答えた。アルは興味深げに鼻を鳴らしこそしたものの、それ以上の追求はなかった。しかし俺からの追求はある。
見ず知らずの吸血鬼のアルが、アシュリーの事を「姫」と呼んだ件についてだ。
単なる愛称であれば問題ないのだが、俺はその実アシュリーの過去や吸血鬼としての立ち位置を良く知らない。訊いてもはぐらかされるばかりで、彼女はまともに取り合おうとしないのだ。こうして得体の知れない吸血鬼に頼み込むのは癪だが、いつまでも晴れなかった霧の中で見付けた光に向かわないとあらば、それはもう生物ですらないだろう。負の光走性どころの話ではない。
「その、「姫」ってのは?」
ガラゴロガラゴロという荷車と地面とが織りなす旋律が、静寂を良い事に場を支配する。少し前を行くアルが、その頭で何を考えているのかは分からない。後ろ手を組んでスキップじみた歩みを進める彼女は楽しそうで、しかし空気は沈痛そのものであった。
数瞬と呼ぶには長すぎる時間が経ち、やがて吸血鬼アルは口を開く。今までの空気を拭い去るように、やはりお道化た態度で。
「ここから先は対価を貰おっかなー? そうだね、きみの血液を一口分、これでどうだろう?」
「……アシュリーが何と言うか分からない。それに、一口の大きさは人それぞれだから」
「ありゃ、一口で血を吸い尽くす計画がバレてた?」
「そんな事考えてたのっ!?」
「…………冗談に決まってるじゃん?」
彼女は取り繕ったように言うが、詰まり取り繕っている事があからさまな慌てようだったので、何だか残念な物でも見せられているような気分になった。「まぁ確かに、」と俺に主導権を握られまいとして続ける彼女の姿は、ある種の憐憫すら抱いてしまうようで――
「――まぁ、催眠効果もあるからねぇ。とは言え、さっきみたいな短い吸血じゃあ、発動する物も発動しないけれど」
「今、何て?」
「ん? いや……吸血鬼の常識だよ。もしかしてきみ、知らずにアシュリー姫と暮らしていたの?」
いや……いや、そんな事がある訳がない。目の前に居るアルという吸血鬼は、悪趣味な冗談の一つや二つは平気で口にするだろう。吸血鬼とはそういう生き物だと、アシュリーも……違う、アシュリーも吸血鬼だ。
「話の挿げ替えは止めて貰いたい……」
「ああゴメンゴメン、そうだよね、知らない訳がないよねぇ? だからさ、もしもきみが催眠を気に掛けているならさ――多少の質は落ちるけど、注射器で血を抜き取るのはどうかな? あ、注射大丈夫? 怖くない?」
「別に怖くないし、大丈夫。……なっ、何で都合よく持ち歩いてるの!?」
「まぁまぁ、そんな事はどうだって良いじゃん」
何も答えず服の袖を捲った俺の腕に、太めな注射針が突き刺さる。そこにアシュリーが行う吸血のような心地よさはなく、ただひたすらに痛みだけが奔った。採血が終われば、またぞろ歩き出す。
彼女は楽しそうに鼻を鳴らしながら、先程投げかけた俺の質問に答える。飄々とした態度とは裏腹に、思ったよりも律儀な人物らしい。
「姫は姫だよ、彼女はお姫様だから」
「お姫様?」思わず訊き返す。俺は足を止めて、「どういう意味?」
「これも聞いてないの? ああいや、さっきのは結局知ってたんだっけ……。えっとね、アシュリー姫は始まりの吸血鬼であるナーダシュディ・フェレンツ二世の娘だから」
同じく歩みを止めたアルが振り返ると同時に告げた。俺から採血した血を飲んだのか、口端からは真っ赤な血が滴っている。
始まりの吸血鬼……まぁ、額面通りの意味なのだろう。となれば最初に出現したとされる吸血鬼はナーダシュディ・フェレンツ二世――詰まりアシュリーの父親であり、アシュリーの母であるエルジェーベトは、フェレンツによって吸血鬼にされた可能性が高いのではないだろうか。
「ふーん」と素っ気無い反応を示し、俺はそこで会話を終わらせた。彼女との話を続けるのも吝かではないのだが、生憎帰り道は別方向――思いっきり日差しとなっている道を通るのが一番早い。次の曲がり角でも良かったものの、この辺りでお暇するのが、会話の切れ目である事から考えても、最良だと思った。
「じゃあ、俺はこっちだから」
「うん、またね!」
案外あっさりと手を振られてしまい、主導権を握っていた積りの俺は肩透かしを喰らった気分だ。一見屈託のない笑みで送り出すアルは、吸血鬼という素性も相まって、どこか不穏な物を感じさせられたが……。
「あ、あぁ……」
「次はいつ会えるかな?」
「……まだ、食糧が足りないかも知れないから――」
嘘だ。心もとなくはあるが、「足りないかも」とは思っていない。
俺はアシュリーが大事で、アシュリーと一緒に居たい。大丈夫、気持ちは変わっていない。
「また明日、君と出会った場所に居てくれれば……会えるよ」
俺が会いに行けば。
「そっか。楽しみにしてる。でも大丈夫? 姫と仲違いするかもだよ?」
どこか凄艶に笑った彼女には、先天的な怖気と好奇心が擽られた。
俺はアルとの会話を楽しんでいる。これはアシュリーと出会った当初に感じていた物と同じで、非日常に惹かれているのだろう。それでも、俺はアシュリーの元に戻る。それは絶対的に変わりようのない、ある種不変の気持ちだ。
だから……と言う心算ではないが、アルと言葉を重ねる機会は二度と訪れない訳で、逆にアシュリーとはこれからも一緒に居る予定なので……許してくれるだろう。
事情を話しさえすれば、理解して貰える。或いは黙っておいても良い、アルは俗に言う「悪しき吸血鬼」には分類されないだろうから。それに、どうせ明日も買い出しには行く予定だった。
辛うじて食い繋げる程度の食糧で、一月を遣り繰りするのは、流石に御免であるが故に。
「アシュリーはそんなに狭量じゃないから。それじゃあ、また明日」
「ホントかなぁ」
言い残して、俺は道を曲がった。俺がどれだけ静かにしていても、ガラガラという荷車の音は沈黙を好まない。
さっさと帰ろう、アシュリーの元へ。
***
「ちょっぴり遅いお帰りだね、ミカ君」
「ただいま。そっちは随分と早いお目覚めだね?」
常であれば午後四時頃に目覚める(布団を出るとは言っていない)アシュリーはしかし、午後三時という時間帯でありながら、既に起床していた。朝食が平らげられている所を見るに、寝起きという訳でもないのだろう。当然のように食器は洗われていない。
まぁそこは俺の役割なのでとやかく言わないでおこう。
水道脇にまで運んでいるだけ、彼女も成長しているのだ。俺は嬉しいよ。
「ヴァンパイアハンターの話をしたからかな? どうにも胸騒ぎがして――」
彼女の勘が恐ろしい。聴覚や嗅覚が鋭いのはまだ分かるが、第六感まで洗練されているのは反則だろう。彼女を見ていると思うのだが、人間と吸血鬼が全力で戦争を始めたならば、恐らく人類に勝ち目はないと思う――それこそ、卓越した頭脳の持ち主が数人集まって、策謀を巡らせでもしない限りは。
「――目が覚めちゃったんだ」
彼女は己の胸中に巣食った不安を押し潰すように、大きく両手を広げて俺に向かって来る。少なくとも俺には、単なるスキンシップとは思えなかった。しかしそんな様子は噯にも出さず、両手に持っていた買い物袋を降ろし、追随するように両手を広げる。
「だったらそれは杞憂だよ。俺はこうして帰って来たし」
――自戒のような言葉。
胸に飛び込んで来るような、それでいて抱かれるような感覚と共に、彼女はやって来る。俺の腕に収まっているようでもあり、俺を包み込んでいるようにも感じた。どちらにしても抱擁と表現すべき行動に――或いはアシュリーの甘えた姿に――俺は物珍しそうに目を瞬く。
「どこかへ行く時にはアシュリーも一緒だよ、まぁ……君次第な部分もあるけど」
「ぁ――あぁ、うん、そうだね……」
どこか戸惑うように、歯切れ悪く言葉を捻り出したアシュリーの声は、酷く印象的だった。
「それじゃあ昼ご飯にしよっか。これからは節約生活になるから、今日くらい御馳走を振る舞ってあげるよ!」
「うん、そうだな…………食後のデザートを所望しようか」
俺は微笑を湛えて「分かった」と頷く。俺と彼女の間では言わずもがなだが、食後のデザート=血液という認識になっている。別にいかがわしい言葉でもないので、言い換える必要性には欠けると思うが、彼女曰く「カップル間でYes/No枕を使うようなもの」なのだとか。
そしてアシュリーがそのような表現をする際は、俺の血を望んでいる証拠でもある。
もしかすると、恥ずかしいのかも知れない。
結局昼食に何を食べるかのリクエストはなかったので、俺はあれでもないこれでもないと思索しなければならない。昨日の夕飯はハンバーグだったが故に、二日連続で肉というのも如何な物かと考えてしまうが……吸血鬼アルに血を取られてしまったので、何か血肉となるような物を食べたい、と思っているのもまた事実。
幸い肉屋から状態の良さそうな肉を幾つか見繕って来た。
罪の意識はあるものの、形式としてはアルを経由して手に入れた物なので、俺はアルから肉を貰った――という形になる。
すき焼きは何かと足りない物が多すぎた為に、しゃぶしゃぶにしようかと思い、結局適した肉がない事に気付く。やはり無難に面白みもなくステーキでも作ると良いだろうか? お世辞にも楽な調理ではないが、言ってしまえば「ステーキソースを作る」「ステーキを焼く」くらいの行程しか存在していない。
他に野菜等も用意する必要があるものの、現状で肉を食べるとなるとステーキくらいしか思い付かなかった。そして……俺の経験から推測するに、これはヘラジカの肉である。
「ステーキで良いかな、アシュ……?」
生物用のまな板に肉を広げ、遅ればせながら念の為アシュリーに断りを入れておこうとして、振り返った先。
「――ねぇミカ君。私の勘は良く当たるんだ」
滑らかな口調で彼女は続ける。瑞々しい唇が一度閉じられて、開き、もう一度閉じて、やがて意を決したように声を押し出した。
「抱き合った時に感じた、妙な心臓の鼓動――何かを隠しているような、後ろめたい物があるような。そして何より、沢山の人間から返り血を浴びたような――啜ったような、典型的な吸血鬼の匂いがした。もしかしてキミ、私以外の吸血鬼と出会ったのかなぁ?」
……どうして、そんなにも悲しむような顔をする?
何故、君の声は震えている?
「もし、その通りだとして」
俺の唇は疑問を言葉として放つ。彼女への僅かな疑義がそうさせた。或いは俺が捻くれている所為なのかも知れない。
「それって、何か問題でもある?」
目の前の吸血鬼が目を見開く。それは心細さに心臓を刺されたような、親に突き放された子供のようで。
俺は俺で、自分でも信じられないくらいに下卑た顔をしているような、そんな気がした。
それは、良くない開き直り方で……。
「何を聞いた……」
「…………」
諭すように、捲し立てるように、焦ったように。アシュリーは早口に言う。
「良いか、吸血鬼は危険だ。皆が皆、私みたく友好的な訳じゃあない。例え笑顔を張り付けていたとしても、その裏では何を考えているか分からない。吸血鬼には、往々にしてそういった輩が多いのさ。今すぐに縁を断て、外出は必ず私と一緒にだ、二度とその吸血鬼と会うな」
努めて語気を荒げないようにしているが、少しずつ声は焦燥を帯び、それと並行して早口になる。不思議とこの瞬間だけは、彼女の機微に目敏く気付けた。
「でも、俺が出会った吸血鬼は――」
悪い人物ではない、と否定しようとして。まるで確証がない事に気付いた。
だがそれは――
「そう言うアシュリーは……君は、どうなんだよ」
言い直した俺の言葉に、アシュリーは驚いたように目を見開き、真っ赤な双眸を揺らす。
俺は自分の口を止められずに、彼女へ抱いた疑義を声に出した。
「吸血行為には催眠効果があるって、そう聞いた……」
否定して欲しかった。
俺は他ならぬ俺自身の意思で、彼女に同行したのだと思いたかった。そうであると、今まで信じていた。信じ続けていたかった。
或いは、催眠効果というのも、また夢のある話ではあるのだろう。
「――――」
「どう、なの? アシュリーは俺を利用しようと、使い捨てようとでも思ったの!?」
「違う。それだけは違う。……今まで黙っていて悪かった。叶うなら、いつまでも黙っていたかったけれど――あるよ、催眠効果は」
黙っておく必要なんてなかった筈だ。でなければ、彼女が俺を利用しようという魂胆を持ち合わせていなかったのであれば。あの日、知恵itビルの前で、彼女は催眠効果の話を持ち出して、俺をその場に残す事も可能であった筈だ。
「ねぇ、答えてよ、吸血鬼」
「何を――」
「どうして黙っていた?」
もっと早く話してくれていれば、こうはならなかった。今の日々を続けていきたいと願っているのなら、それこそ早々に打ち明けて然るべきだ。
「キミこそ……」
「――――」
「キミこそ、私の存在よりも、初対面の吸血鬼を信頼しているのかい? その存在すらひた隠しにして、話そうともせず、逆ギレなんかしちゃってさぁ」
違う。俺は催眠について訊いている、それにアルの事も話す積りだった。
「逆ギレしてるのはそっちでしょ? 俺はアシュリーとの関係に亀裂を入れたくなくて――」
「それならよっぽど、良い方法が幾らでもあった筈だ」
「良い方法? 俺だって、自分から話す積りで……それを、焦って問い詰めて来たのはそっちの方でしょ。アシュリーこそ――俺を疑ってるの? 俺は毎日買い物に出掛けた、熱い日も寒い日も、雨の日も雪の日も……毎日天気予報を確認して、あぁ、明日は雨なんだなーって思ったら、二日分の食料を買い溜めた。君が服を汚す度に文句ひとつ零さず洗濯機に入れた、最初は洗って良い服なのかも分からなくて……世間一般の、家事を手伝わない夫の事はまだ分かる。でも、アシュリーは毎日何をしてた? 俺が日銭を稼いで、俺が怪しげな肉屋で血液を買って、物取りから逃げ回っている間――この、一年間の献身を、まるで信じていないんじゃない?」
今まで貯め込んでいた物が噴き出した。或いは売り言葉に買い言葉――と言うと語弊があるが、兎も角何でも良かった。何かしら、言い返したかったのだ。ともするとアシュリーの怒りは真っ当な物で、俺の方が逆ギレしているという自覚もある。
「……」
アシュリーは何も答えなかった。
俺は深く嘆息して、
「…………熱くなり過ぎた。頭を冷やしてくる。適当に、缶詰でも食べてて。落ち着いたら、戻るよ。日付が変わる頃には」
「あぁ……」
一瞬、追い掛ける素振りを見せたアシュリーは、しかし直ぐに手を引っ込める。漏れ出た言葉は、肯定か、それとも嘆きか。
このまま、島を出てしまおうかと思った。勿論そんな事はしない。
でも……実行に移したなら、アシュリーは悲しんでくれるかな。
「バカだ……」
手荷物は財布と、位置情報をOFFにしたスマホだけ。
どこへ行くでもなく、でこぼこの地面を駆ける。
…………。
気が付けば日は沈み、俺は数回程しか通った事のない路地を歩いていた。
月光を背に、短く切り揃えられた白髪を揺らして彼女は現れる。開口一番、お道化たような口調で、
「約束の時間には早いんじゃなーい? でも、その様子だと、ご傷心と言った所かな」
「どうして君が……?」
「あは。そんなの、運命の巡り合わせに決まってるでしょ?」
アシュリーと同じく、真っ赤な二つ目が硝子玉のように煌いて、静かに俺を見下ろしている。
湛えられた笑みは、どこまでも歪で不気味だった。
――彼女も、俺も。
***
十二月二十一日午前零時。スウェーデン、ゴットランド島。
普段から、お世辞にも平静さを保っているとは言い難い性格をした人物。輝くような赤髪は、地毛であるが故に染めたような不自然さが感じられない。ともすれば、ヴァンパイアハンターという隠密性も重視される職に就く人物としては些か不適切だろう。
彼女自身も自覚している為、幾度となくトレードマークである赤髪を切り落とそうと試みた。しかしその度に岸波 零士は彼女の行動を咎めるのだ。曰く「思い人と再会した暁に、かつての恋人だと認識されないかも知れないだろう」――との事であった。彼なりの気遣いではあるのだろうが、血も涙もない言葉である。
何せ彼女――赤髪が特徴的なレベッカにしてみれば、仲互 三佳と再会を果たしても、どうせ気付いて貰えないと言われているに等しかったからだ。
しかしながら、現に「赤髪」というインパクトの塊を抱えていた彼女には、逆にそれがなければ気付かれない――という可能性も大いにある。そも、ヴァンパイアハンター協会はその辺りの規則が緩いので問題はない。肝心なのは銘々の心構えだ。
閑話休題。
良く言えば情熱に溢れ、悪く言えば直ぐ感情的になってしまうレベッカは、今となっては殊更憤懣やるかたない感情を、一挙一動に滲ませていた。地面を叩く跫音は小刻みに荒々しく、十人に訊けば十人全員が「彼女は怒っている」と判断するであろう、只ならぬ雰囲気である。
鬼気迫る様子で後続を突き放さんと歩みを進める彼女の姿は、全身黒づくめで夜闇に溶け込んでいるお陰か、目立つ事はなかった。
「少しで構わないから、ね、ね!」
「あーもうッ、五月蠅いわね!」
ストーカーのストーカー。レベッカに粘着質な態度で付き纏う二人組の男は、見る人が見れば変質者のそれである。未だ幼さとあどけなさを残した、やや童顔の女性を追い掛ける様は、正しく誘拐犯や犯罪者予備軍と呼んで差し支えない。現にこのまま順当に行けば、彼等は犯罪者の仲間入りをしても可笑しくはないのだ。
それこそ、レベッカが一言悲鳴を上げるだけで刑務所送りである。
そんなリスキー極まりない綱渡りを行っている二人の表情には、しかし恐れや後悔の念がまるで見当たらない。一つ諦念じみた溜息を吐き、レベッカは一際歩行速度を引き上げる。
尚も追い縋る厄介なおっさん共を一瞥し、ゴットランド島からストックホルムにまで戻った後、休む暇もなくゴットランド島へと蜻蛉返りをした彼女は一言。
「邪魔をしたら容赦しないわよ」
「えっ、じゃあ……!!」
「好きにしなさいよ、インタビューくらい……」
彼女の胸中を詳らかに開示すれば、面倒だとか、鬱陶しいだとかの感情で一杯である。それでも彼女は、向けられた熱意を――否、向けた熱意を素っ気無く往なされる痛みを誰よりも理解していた。
かつて愛した、そして今も焦がれ続けている人物からの別れの言が、友人経由の言伝一本だった経験はある種のトラウマだろう。
(あいつの顔面、殴ってやるんだ……絶対に)
確かに女王様気取りに、成り行きで土下座をさせた三佳の頭を土足のまま踏み付けたりはしたが、このような仕打ちで終わるのはあんまりだ。確かに彼女の所為で三佳の元にはファンという名の殺人鬼予備軍共が群がっていたが、それとこれとは話が違う。と、彼女は思っている。
(そしてあたしは、三佳を取り戻す)
それが彼女を突き動かす要因であり、行動理由の根幹にある感情。
ある日、目を奪われるようになってからと言う物、彼女の心はいつだって三佳へと向けられていた。そして何より許し難い存在が――吸血鬼アシュリー。三佳を脅し、彼を誑かし、連れ去ってしまった張本人。
他にも、過去大勢の人を殺したらしいが、最早彼女にそのような事実はどうでも良かった。
読者モデルを引退して、己の肉体と向き合い自身の身体を苛め抜いた二年。その集大成が、これからの数日――もしかすると数時間か数分に、実を結ぶか或いは摘み取られてしまうのか。それだけが彼女の中で重視するべき事項であった。
そして願いが叶うのであれば、是非とも穏便にこの二人をどうにかしたいとも思っていた。はっきり言って邪魔である。それはもう途轍もなく邪魔臭い。
思い返せば、何度か遭遇した事もある。
(確か、二人ともテレビ会社に勤めていたんだったかしら?)
覚えている限りでは、読者モデルである彼女に向けてシャッターを切るカメラマンではなかった筈だ、当然の事ながら鮮明に記憶しているマネージャーや、彼女が所属していた事務所の関係者でもない。そうなって来ると、少なからずテレビ業界に進出していた彼女に取って、然程記憶に残ってはおらず、しかし何となく覚えている人物という括りの中にテレビ会社の人物が加わる――と同時に、その可能性が飛躍的に向上する。
何せ彼女は人に取り入るのが上手く――勿論、貞操は死守していたが――斯様な技能を活かす為には、先ずもって記憶力やコミュニケーション能力が重視される。となれば彼女の記憶に何となく残っている程度の関わり合いがある人物と言えば、それはかなり少数に絞られるのだ。――中途半端な距離感。
だが、覚えていない訳ではい。テレビ関係者であると胸を張って言える程度には、彼女とて確信を得ている。
「確か……甲賀 昌義さんと、立花 耀さん……だったかしら」
まるで敬いの心など持ち合わせていないと、その態度が雄弁に語っていた。しかし相手――彼等二人――も一端のジャーナリストだ。元はと言えばテレビ会社の社員であったが、とある事件をきっかけに退職している。よって、現在は売れないジャーナリストと言う訳だ。
そも、仕事は一本も受けていないのだが。
事実上の無職であった。
「はい! よろしくお願いするッス!!」
「うん。よろしく頼むよ」
被せる様に、息ピッタリに返事をした二人は、先輩後輩という間柄よりも仕事仲間という認識を優先させたか、互いに顔を見合わせて快活に笑う。それ以前に、現在は無職のような存在なので、先輩後輩もないに等しいのだが。
「それじゃあ……えっと、あたしと三佳の馴れ初めでも話せば良いのかしら?」
まだ「インタビューをする」としか聞かされていないのに、それでいて消極的な態度を取っていたのに、いざとなると食い気味に言葉を返すレベッカ。彼女としても、不愛想な上司よりも、感受性豊かなインタビュアー相手の方が、幾らか語り手冥利に尽きるという物だ。
単刀直入に、身も蓋もない言い回しをするのであれば、詰まり彼女は自分の恋バナを――惚気話をしたくて堪らないのである。
「うん……」
やや小太り、といった体型であった立花 耀は、今やぽっちゃりか、或いはメタボと呼んで差し支えない体型になっている。レベッカを追い掛ける際に痛くなった、さながら幼児のように、ぽこんと前に出た腹の脇を摩りつつ、彼は答えた。本来であれば彼女の言動を不思議に思っても良い場面なのだが、話の流れを断ち切ってまで追求する必要はないと感じたのだろう。
「ええっとそしたら、馴れ初め……と言うより、彼に惹かれた原因でも訊いちゃおっかなー」
「甲賀くん!」
これから本題――吸血鬼関連の話題へ路線を変更しようと画策していた矢先、仲間の裏切りに遭った耀は吠える。肩を組むようにして甲賀 昌義の耳元に唇を寄せ、自分達が為すべき事の再確認を行う。
「目的の情報は吸血鬼についてであって、元読モの恋愛話なんてどうだって良いんだよっ。私達は自然な流れで会話を誘導するんだ、これは誘導尋問だと思って良い。吸血鬼、そしてヴァンパイアハンターの事を聞き出すんだよ――私達まで熱くなっちゃいけない」
熱くなって日本中に吸血鬼の動画をばら撒いた元凶の一端は、過去の経験を活かす積りか諭すように言った。その実、自分の内で燃え盛る炎の存在は認知していながらも。
レベッカ。レベッカ・T・東雲。彼女が素っ頓狂な声を上げたのは、そんな時だった。或いは沈黙に耐えかねての発言であったのかも知れないが、直ぐにそれが大きな間違いであると証明される。
「あっ――」
最大限に目を見開いて、まるで出来る限り沢山、思い人を視界に入れておきたいとばかりに。
「――三佳だ」
***
もうじき零時を回るだろう――そんな、月明かりくらいしか地上を照らす存在が居ない中、俺は暇潰しがてらアルとのお喋りに興じていた。と言っても、俺としては彼女への不信感が勝ってしまい、まるで和やかな雰囲気とは言えないのだが。
家に帰ったら、アシュリーと仲直りをするのだ。実を言うと、俺の心はとっくに決まっていた。沢山走って、気付けば俺が悪い事を言ったのだと自覚した。
だが、ある種の気まずさ――直ぐに帰るのも如何な物か、という気持ちがあった為に、こうして暇潰しをする破目になったのだが……どうにも心が落ち着かない、やはりアシュリー以外の吸血鬼とは初めての接触とカウントされるので、それもあるのだろう。
それでも、いつになったら俺は謝る気になるのか――なんて事は、全くもって分からなかった。
「ねーねーねーえー」
地べたを歩く俺の隣で、今や廃墟には見えないが、事実として廃墟と化した建物の屋根を、軽やかな足取りで飛び移り練り歩く吸血鬼が、酷く楽しそうな声を上げた。偶然とは言え、アシュリーと喧嘩をした手前でアルと邂逅を果たすというのは、些か思う所もあるけれど。
彼女の声が俺に語り掛ける類いの物であると認知し、仕方なしとばかりに聞き返す。
「どうかした? アル」
「何? その、昔のアニメに登場する日本語が不自由な中国人みたいな」
「いや分かるけど、痛いくらいに伝わって来たけども、君の名前を呼んだらこうなった……それだけ」
それに、語尾が「アル」は現代でも健在アル。
「ふんふん。それで本題だけど」
そう断ってから、彼女は続きを口にする。何だか、低能な話を続けたくはないと、まるで詰られているような気分になった。
「きみ、仲直りの常套句とか、知りたくなぁい?」
見透かしたような一言だった。
或いは、彼女と二度目に出会った瞬間……俺の顔を見て「ご傷心」と評した時点で、ある程度の察しは付いていたのかも知れない。そこまで顔に出ていただろうか、俺の感情は。
「教えてくれるの?」
「勿論。だけどね、仲直りの常套句とは言ってもね、やっぱり人によって違うんだよ。ボクにはボクの常套句があって、きみにはきみの常套句がある。ボクの決まり文句が「過去が未来を決定づける」であるのと同じように、きみにもお決まりの、使い勝手が良い、いつものフレーズがある筈だ。そういった物を、見付けようという回な訳だよ」
俺は「君の決まり文句なんて初めて聞いた」という言葉を、発する寸前で飲み込んだ。殊更に言及した所で、詮無き事だろう。
「俺の常套句……とは言え、喧嘩自体殆ど無かったしなぁ……」
本当に、喧嘩らしい喧嘩はなかったのだ。ちょっとした小競り合いや言い争いはあっても、こうまで露骨な入れ違いはなかった。故にアルの自信たっぷりに、満を持して解き放ったセリフが、全くの無意味であるのではないかと不安に思った訳である。
半ば落胆めいた口調で呟くと、アルは舌をチッチッと鳴らしながら人差し指を左右に振る。
「常套句ってのは、そうだね、言い方が悪かったよ。詰まり今回は、今――そしてずっと先まで使える決まり文句を見付けよう……と、そういう試みな訳だ。まぁ、不要かも知れないけどね、精々使えるセリフを考えるとも」
「それにしたって、俺と出会って一日と経ってないような君が、どうやってこれから未来永劫使い回せて子々孫々に威風堂々とした佇まいで語り継いでも全くもって問題ないような常套句を考える積り? まさか、預言者でもあるまいし」
何かしら、ツッコんでくれると嬉しいけれど。
「予言、預言ねぇ。どうだろ、それに近いのかな。でも、そんなに大した物じゃないんだ。だって考えてもみてよ、預言なんて出来っこない。そんな全知全能とも言える権能を持っていたなら、ボクは今頃ハリウッドの高層ビルディングbuildingの最上階で最高級のワインを呷っている頃だろうからね。詰まり、そう、ボクのは――」
屋根の上で、長いローブを翻すかのように身を回し、進行方向からピッタリ九十度の信地回転を行ってから、ふわりと浮かんだ白いダウンが落ち着きを取り戻すや否や、彼女は俺を見下ろして、
「――陳腐な占いだよ」
そう、言って退けた。
***
彼女が有名人となったのは高校生になってからだ。学業の傍ら読者モデルとなり、あらゆるメディアや、果ては世界にまで飛び立った。実を言えば彼とは中学の時から同じ学校――一度だけ同じクラスにもなった事があるのだが、中学生というのは何かと多感な時期であり、小学生の時のように、気さくな男子が女子グループの会話に割って入ったりはしない。或いは本当に、根明で気さくな人物であれば、そのような事もあるのだろう。しかし、兎も角彼女が体験して来た中学校というコミュニティで、そのような人物は居なかった。
男女が分かれて、しかし仲が悪くはない――小学校。
男女が分かれ、それぞれのキャラクターを確立し、決して交わらない――中学校。
男女が分かれていない――高校。
思えば、彼に惹かれ始めたのは中学生の時であった。その時期は、やはり男子グループと女子グループとが交錯する事はなく、互いに「これだから女子は」、「ちょっと男子ぃー」と牽制し合う関係性が構築されていたものだ。
そんな中、目立たず――しかし、それ故に彼女の目に留まった人物が居た。
仲互 三佳。学力、運動能力共に平々凡々。友人は少ないながらも居るようだが、あまり積極的に誰かと関わろうとはしない。来るもの拒まず――といった具合だ。取るに足らない些事で、あっさりと友人が居なくなってしまうのではないか――離れて行ってしまうのではないかと、他人事ながらも、その性格が引き起こしかねない出来事を危惧してしまう。
当時から人気者。学校内ではスターとさえ呼ばれていた彼女は、そんな風に彼を評していた。
どこか掴み所がなくて、意図せず儚んでしまうような――。
気付けば彼の事を目で追っていた彼女――レベッカは、いつしか、ちょっとした覗き魔のような真似事をするようになっていた。とは言え、何も三佳の着替えや入浴等のサービスシーンを盗み見ている訳でもなく、ただ、扉の隙間から思い人の姿を見詰める程度の事であり――その後がどうあれ、当時の彼女はその程度で踏み止まっていたのだ。
――彼はいつもにこにこしていた。いつだって微笑んでいた。目を向ければ、常ににっこりと笑みを作り上げている。いつも、だ。無論、本当に四六時中笑っている訳ではない――彼が笑うのは、決まって友人連中と、或いは赤の他人と話している時だ。それはいつだって談笑と化す。
失笑の際、爆笑の際、哄笑の際、苦笑の際、朗笑の際、絶笑の際、狂笑の際、歓笑の際、譏笑の際、彼はいつだって笑っている。同じ顔で、同じ表情で、寸分違わず同じ笑みを張り付けて。
しかしながら、前述した「朗笑」という表現は些か不適切だろう。何せ彼が浮かべる笑みは、そういう類いの物ではないのだから。
彼女は、そんな三佳の笑顔が嫌いだった。或いは、人が捌けた後、一人その場に残った彼が零す、「はぁ」という疲弊したような、憔悴したような溜息が、心底嫌いだったのかも知れない。そんな大嫌いな溜息の原因となる笑みも、比例して嫌いになっただけだろう。
ともあれ、好きは好き、嫌いは嫌い。
その笑みを彼女が嫌っているのもまた、事実に変わりなかった。
大笑いをした後、帰路の分かれ目で友人達に背を向けた途端、真顔になる彼が、少しだけ怖かった。何か得体の知れない物を見ている気がして。
現代人なら、誰もが持っている感情だろう。彼は、それが一際強かったというだけ。
何も可笑しな話ではない。矛盾点はない。
――季節は春。場所は夜尾場高校校門前。もっと良い高校を目指せた筈だと言いながら、何だかんだで祝福をしてくれる両親と共に、一枚の写真を撮った。着飾ると言うには堅苦しい服装で、しかし晴れ姿と現すべき服装のレベッカが、喜色満面の表情で写っている。
思えば、何となく選んだ高校も、それなりの理由があったのだろう。例えば――好きな人を追って、とか。
昨年の十一月頃には、既に自分が仲互 三佳という人物に惹かれ、興味を持ち、好意を持っているという事実に気付いていた。幸いな事に、彼女が本来目指していた学校よりも偏差値の低い学校であった為、大した苦労をする事もなく入学出来た。
告白をしよう、という決心はとっくに付いていたから。だから、同じ高校に進んだ。
告白して、付き合って、行く行くは結婚して、子供を授かって、毎日「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を繰り返して……。
未来を夢想し、綿密に計画を練り上げた。
大々的に、公衆の面前での告白は、成功し易い。外国の血が多少なりとも混ざっている彼女としては、およそ理解の叶わない感覚であったが、日本人はそういった圧力に弱いものだ。
果たしてあの捻くれ者が、一筋縄で行くとは思えなかったが。
そしていよいよ、告白の日が訪れた。愛の告白ではなく恋の、しかし恋愛という括り方をされた告白。
今日の為に大量のコネクションを作り、高校という機関の中で一つの勢力を立ち上げた。準備は万端だ……断られない状況作り、並びにセリフ回りまで完璧に手の込んだ――これは最早、一つの作品だろう。
勿論、三佳の気持ちを度外視した段取りである事は分かっている。だが彼に必要なのは、荒治療だ。
……結果として、彼女なりの告白は成功した。成功したと言っていい物か曖昧なラインではあるが、表面上だけを見れば「告白して付き合った」と表現可能な分水嶺は越えていない。
本人の――特に仲互 三佳の胸中を覗き見れば、そのような考えが全くの見当違いであると分かるのだろうが。生憎として、そのような奇跡を可能とする道具は実在しない。
実在するファンタジーは吸血鬼ばかり。
ひみつの道具も、ハッピーな道具もない。
上手く行くと思っていた、上手くやれていると思っていた。
結局の所。
彼は優し過ぎたのだ、異常なくらい、病的な程に。
それは果たして、優しさと呼べるのだろうか。
***
「占いってのはね、殆どがインチキなんだよ。それっぽくホロスコープなんて作って、厳かな表情で手相と睨めっこして、水晶を覗き込んで適当な事を口走る。ただ、きっと本当に本物の占い師は居て、預言者も居る。百発百中故に敢えて時折外す者も居るくらいだよ」
近場にあった木箱を裏返し、地べたに腰を下ろし、手際よく占いの準備を進めていたアルは、保険でも掛けるかのように捲し立てた。しかし、そのニヤニヤとした顔には、一欠片程の不安も浮かんではいない。詰まり、飽くまで保険。不測の事態に備えているだけで。
或いは初めから、インチキなのかも知れないけれど。
木箱の上に、黒を基調として、そこに金の十五芒星――五芒星が三つ折り重なったような模様だった――が刻まれた布を広げ、そこに上下の区別が付かないカードを二十二枚、そっと置いた。次に彼女は両手を用いて、時計回りにカードを掻き混ぜる。
それを三つの山に分けて整えたかと思えば、彼女は互い違いに、乱雑に、適当とも言える――およそこれといった法則のない手付きで、それらを一つの山に纏めた。
「それじゃあ……ボクの十八番ではないんだけど、先ずは、ツーオラクルで」
「ツーオラクル?」
聞き慣れない単語に、思わず聞き返す。当然の事ながら、俺はタロットカードに詳しくないので、一から十までてんで分からないのだが。それでも、気になる物は気になる、取り分け声に出されてしまうと、やはり興味を惹かれるものだ。
「うん。簡単な未来――この場合だと、きみは姫との仲直りを望んでいるようだからね。このくらい、簡単な占いで事足りているんだよ。それで……念の為、簡潔かつ明快に改めて、きみの知りたい事を聞いておこうかな」
微妙に訊きたかった内容からは逸れているのだが。
「アシュリーとの仲直り……と言っても、多分仲直りは出来るだろうから、殺し文句と言うか決め台詞みたいな――詰まり、アルが言う所の「常套句」を知りたい」
「ふんふん。随分と信頼しているんだね。まぁ、結局は仲直りの方法――と」
言うが早いか、彼女はカードの山から二枚――七枚目と八枚目――を引いた。
「今回はきみ基準にしよう。きみから見て正位置か逆位置か。詰まり上下の話になるね。そして、きみから見て左を「問題点」、右を「解決策」とする」
上下の向きを変えないよう、アルは丁寧に、しかし迷いのない所作でカードを運ぶ。宣言通り、二枚を並べて置いた。今度は丁寧と言うよりも慎重に、二枚のカードをゆっくりと、上下を入れ替えないよう左向きに捲る。
一枚目――俺から見て左の、問題点を示すカードは「THE SUN」。読んで字の如く太陽を模している。向きは普通、逆さまではなかった。
二枚目――俺から見て右の、解決策を示すカードは「THE WORLD」。時でも止められそうな名称のそれは、逆さまだった。感覚的に、良さそうな意味を持つカードの逆位置とあって、どことなく不安感を煽られる。
「先ず、問題点の場所にある「太陽」だけど、これはまぁ見ての通り良い意味だね。苦しみがなく、希望に満ちていて、問題なんて何一つとしてありはしない。そんな具合」
「でも、この――」俺は一糸しか纏わぬ姿の女性が描かれたカード……「世界」を現しているであろう二枚目のカードを指さした。「こっちのカードとは、どんな繋がりになってるの?」
まるで関係がなさそうだけど――と付け足して。
「タロットカードってのはね、謂わばどのカードがどの向きでどこに出るか、それが全てじゃあないんだ。この場合の「太陽」は単純に、そのままの意味として取れるけど、反対に逆さまの「世界」はいろんな解釈が出来る。普遍的な物で言うと、最悪ではない――ってな所かな。或いは不完全な状態。そして次に大事なのがカード同士の繋がりなんだ、だから「正位置の太陽」と「逆位置の世界」――見ようによっては、詰まり逆から考えたなら、「不完全なままに幸福となってしまう」。不完全なまま、それが今後の最良となってしまう――」
「不完全な――不仲な、まま。それが、当たり前に」
「そう。……まぁでも、流石にこの結論は尚早で捻くれた脅しだけどね? きみの問題だ、考えるのはきみだ、ボクときみで、唯一の解釈を見出す。これこそがタロットカードの醍醐味だよ」
「だったら、出来る限りポジティブな考えで行くと……。不完全な状態――仲直りをしない状態でも、以前と変わらない。また、何事も無かったかのような日常が戻って来る。そういう見方もあり?」
「うんうん、その調子だよ!」
「うーん……でも、今回は「謝り方」を知りたかった訳で……」
「「世界」のカードは、今までの努力が実る、成功する、みたいな意味も込められているね。ああ、正位置での話だから、この場合は「悪く言えば」という考え方が必要だけれども」
努力が実る。成功する、成功――してしまう。願いが叶う、望みが叶う?
今までの成果、努力、偉業。成して来た事。俺が、やらかした事。
覚えている範囲で思い出す――俺の失敗談。記憶に残る決定的なミス。中学時代――弓狩 大河……ではない。恐らく、今回の一件とは無関係だろう。そうでなくては困る。
イジメの記憶。いや――高校に上がってからの失敗? それとも、小学校や幼稚園での致命的なミス? 今になって響いてくるようなミス……小学校で出来た初恋の相手すら、とっくに思い出せないのだ、記憶にさえも残っていない以上、それもあり得ないだろう。
ミス、間違い、失敗。
気を張って、警戒ばかりの高校時代とは違う――となるとやはり、中学時代。
「悪く言えば……。昔日から尾を引くような、今にも繋がるミス……」
長い時間を掛けて熟れてしまう何か。
心の問題でないとすれば――ああそうだ。そうだった。
俺はそれを視界に捉えて始めて、失念していた、と自分の浅慮を呪った。
そう言えば、彼女との確執は残っている。たった一言、言伝程度で止まるような人物ではなかったのだろう。なら、そこまで思ってくれているならば――もっと早く、気付けていたなら。
でも、それでも今の俺を否定はしない。
誂えたかのようなタイミング。
「ねぇ、アルってさ……」
「どうかした?」
ニヤニヤと歪なまでに楽しげな笑顔で、彼女は俺を見詰める。
対して俺が見詰める対象は、アルを通り越した向こう側――。
瞬間、目の前の吸血鬼がよろめくように動いた。
思わず、脊髄反射で受け止める。
「あは。そんな積りじゃなかったのに、優しいね、きみは」
俺はアシュリー以外に、いつもの定型文は返さない。理解してくれるとも限らないだろうし、何より、そうしたくはなかったから。
最早逃げ出そうという気にもなれなかった。嬉しいやら、嘆きたいやら、諦めやらで。
「頂きます」
鋭い牙が突き立てられる。体内から、血の吸い出される感覚。辛うじて左の首筋に誘導するのが、せてもの抵抗であり――。
時刻は深夜十二時。約束の帰宅時間には、とても間に合いそうもなかった。
***
十二月二十一日。ゴットランド島。午前零時。
「遅いなぁ」
ぐちゃぐちゃになった家。掃除に失敗して、選択に失敗して料理に失敗した痕跡が残る家の、屋根上で。
ただ、ぼんやりと月を見上げていた彼女は、ふと食欲――もとい、吸血衝動を煽る匂いに鼻をひくつかせた。彼女は鼻よりも耳の良い吸血鬼ではあるものの、血液の匂いには一際敏感だ。それが、ほぼ毎日のように吸っている血とあらば、尚更に。
「ミカ君。まさか、」
彼が能動的に自身の元を離れる。そんな考えは微塵もなく。
「待ってろ――直ぐに行く」
***
俺は常々、吸血鬼とヴァンパイアハンターは相容れないものだとばかり思っていた。それは化け物と人間という関係以上に、複雑なものだろうから。
だが状況から察するに、見知った人物とアルは手を組んでいたと、そう推測して然るべきだ。何事にも例外はある、それが今回であっただけの話。アシュリー以外の吸血鬼を味方だと思う積りはなかったものの、俺は知らず知らずの内にアルをアシュリーと同じようなポジションに置いていたのだろう。とんだ勘違いだった。
俺とアシュリーがそうであるように。
吸血鬼とヴァンパイアハンターが手を組む事も、また有り得る訳だ。
「ねーねー」
俺の感性だけで語れば、目の前の吸血鬼は間違いなく「悪しき吸血鬼」なのだろう。彼女の背景に何があろうとも、俺から見える限りでは。
暇潰しを請う子供のように、退屈を紛らわせようとばかりに、彼女は出会った時から何ら代わりのない笑顔でいじけたような声を出す。
「……何?」
不機嫌さを微塵も隠そうとせずに、そう返した。そんな答えは不満だったのか、彼女――アルは機嫌を損ねたぞとアピールでもしている積りか、唇を尖らせる。
しかし、俺が抱いた不快さは当然だと思う。何せ過剰な吸血により俺を昏倒させたのは、間違いなく目の前の吸血鬼なのだから。
「つれないなぁ。ボクはこんなにも、きみの事を思っているのに」
言って、彼女は小さく両手を広げる。周囲の風景を、漠然と指し示すような動作に釣られて、俺は辺りを見回した。どうやらちょっとした牢屋のようになっているらしい。その証拠として――鉄格子。三面が壁になっているのに対し、残り一面の壁は、壁ではなく鉄格子と化していた。
「嘘だね」
「わお。ご明察!」
わざとらしく驚いた素振りを見せる彼女に、俺は「誰でも分かる」と返そうとしたものの、口を開きかけた所で、空間が傾いた。両手両足を縛り上げられていた俺は、碌な抵抗一つ起こせないまま、一度は持ち上げた上体を、再度床に叩き付けられる。
「な……ッ!? この揺れは――」
地震の類いではない。これが地震であったなら、大地震どころの騒ぎではなくなる。世界的に後世まで語り継がれるような、大災害だろう。
「海上か……それで、それも含めて、俺としては是非とも説明を受けたい所だけど」
「見ての通りだよ」アルは何でもないように、いつもの飄々とした調子で答える。「ボクにまんまと騙されたきみは、こうしてヴァンパイアハンターに捕まった。とは言え、彼女に協力したのはほんの気紛れ――折り重なった偶然の上に、今の状況は成立している」
「ヴァンパイアハンターに協力、ねぇ……? 俺を陥れたい訳でもなく、相手を持ち上げたかったのかな。そんな人物でもなさそうだけどね、君は」
口振りからして、俺の敵ではなく、俺の敵の味方のような。差異ないと一蹴されてしまえば、それまでなのだが。
「良く分かってるじゃん。でも、厳密に言えば誰に協力してる訳でもないんだよ? ボクはボクが掲げる目標に向かって、邁進しているだけさ」
彼女はまるで声のトーンを変える事もなく、夜食を食んでいる時と、涼しげな街中で散歩をしている時と、部屋に引き籠ってゲームをしている時と、俺を相手にお喋りをする時と同じように、自分について、少しだけ語った。
その程度では、彼女の素性なんて一つも分からない。
精々、「何かあるのだろう」という感覚が芽生えたくらいで……。だが、それだけでも変化という物は訪れる。例えばこのように、
「だったらさ――」
交渉の材料としたり。
「その「目標」に近付く――その手伝いをするよ。だから、協力してここから出る。良い案だとは思わない?」
自信たっぷりに、あたかも俺は役に立つとでも言いたげに、堂々とした佇まいで言い放った言葉は、しかしアルには刺さらない。彼女は呆れ返った様な嘆息を零す。
「安直だねぇ、きみは。初心とも言える。良いかなぼく、未来なんて物は最初から決まっているんだよ。例えば裏返しにしたタロットカードを表向きにして、それが果たして上向きか下向きか――「上向き」という結末が待っているのだとしたら、それは「上向き」にしかならない」
「いや……だったらタロットカードを裏返す前に、上下を入れ替えてみれば? 未来は返られる。だって未来は未だ来ていない先の話でしょ? それなら、未来を形作るのは過去から現在にかけての行動だよ」
「違う、違うよぼく。「上向き」はどうやったって「上向き」なんだ。ボクが上下を逆さまにしてから裏返せば、それが結局「上向きになる」という結末に繋がる……そのままにしておけば、そのままで「上向きになる」。それだけの話だ、面白みなんてない。未来を変えている、なんてのは、有り得ない。それは発言者が、あたかもそうであるかのように思っているだけ――そんな風に感じる事さえも、それは既に「過去」という変えようのない部分で定められている。全ての運命はね、世界が始まった瞬間から、決まっているんだよ」
それはどこか、皮肉が込められているようで――しかしながら、読心の心得もない俺には、到底理解が及ぶ訳もなく。だが彼女が俺の事をどのように思い、何を感じていようとも、俺は現状からどうにかして脱する必要があるのだろう――手足を縛られた、昔懐かしの拘束プレイを強いられているのだから。手を縛ってあるのが正面なのは、彼女なりの配慮だろうか?
そう……彼女。彼女の事も考えなければならない。泣き落としでもやってみようか。
「だからねぼく。いいやミカ・ナーダシュディ。未来は決まっているんだよ、例えばそう――ボクがきみに、現状の打開策を占って聞かせて、それをヒントにここを脱出するまで、全て。でも手順を踏まなくちゃならない、ボクに占われて、きみが答えを出す必要がある。やっぱり占いなんて物は曖昧でね、ボクには分からないんだよ。分かるのは精々、全力で「打開策」を占って、きみが何らかの結論を見出す――という事くらい」
正直に言えば、何だか良く分からない。だって彼女は俺を誘拐……それとも逮捕? 兎も角捕える為に、俺との接触を図って、最終的には頃合を見計らってから、俺を昏倒させた。ここまで上手く事が運んだ上で、どうして今度は俺の手助けをすると言うのか。いや……そもそも、どうして彼女まで囚われているのだろうか、吸血鬼だからか、それとも……?
それらが全て「アルの未来」に繋がると言えば、それまでだろうけど。
「信じる訳じゃない。ただ、現状だと何もない――打開策なんてない訳で。だから仕方なく、君に頼る事にした」
ハンマーもない、バールのような物もない、と来れば、頼れる存在は限られてくるのだ。そうして最後に残ったのが、アルであったというだけであって。
「俺が占って欲しいのは、「現状に対する打開策」です」
「はい。賜りました。けれど――」
また長々と喋るのだろうか。
薄暗く、そして狭い空間の中。赤の瞳が二つ浮かんでいる。その双眸は三日月形に歪められ、ねっとりとした笑みを形成した。ニヤニヤ、と表現するのが最適だろう。
「占いってのはね、神聖な儀式なんだよ。だからカードを清めたり、相手に関する理解を深めたり。毎日のように、ボクがカードと言葉を交わしているのだって、カードとの信頼関係を築いてボクだけのカードを作り上げているんだ。だから、全力で占うには、カードときみとの繋がりを鞏固な物にする必要がある。現状維持じゃダメなんだ、ボクを介した対話じゃ物足りないんだ。そうすれば、占いの制度は段違いに上がるよ!」
タロットカードオタクの、タロットカード語りも終わりを迎える。
しかしながら、物語にはいつだって「締め」があるように、会話にもまた、同じく「締め括り」という物がある。
アルは両肘を床につけて、掌で顎を支えつつ、上目遣いに俺を見据えた。
「辛かった記憶、経験……そういった物を赤裸々に暴露して、仲良くなりなよ。詰まり、過去だね。何せ――過去が未来を決定づけるんだから」
ようやっと、自信満々なドヤ顔で、己の常套句を披露するアルであった。
俺の――過去。と言っても、面白い事なんてなく、ありふれた日常の風景でしかないが……。辛かった記憶、と言うと少し申し訳ないが、これに限るだろう。
一瞬の逡巡の中、俺は静かに瞑目した。
刹那の時を、膨大な記憶が駆け巡る。
***
俺の日常と言えば、なんて事はない普通の高校生――それこそモブAという姿を体現している。或いは、強大な力を持った主人公に蹴散らされる、モブAか。それがお似合いだと思う、もしかすると、死んだ方が世界の為になるのかも知れない。
無造作に蹴散らされるくらい、当然の罰だろう。
場所は中学校の校舎。夕日が差し込む、午後五時二十分。
「なぁ三佳、この後ゲーセン行かね?」
掛けられた声はクラス――どころか、学校中の人気者、藍元 栄佑の物だった。
俺達はまだ中学生。本来、大人の付き添いありきでしか、ゲームセンターに行ってはいけないと校則で定められているのだが、むしろ破った事のない人間の方が少ないだろう。現に、以前補導された事のある栄佑と担任教師との会話で、「じゃあセンセーは校則破った事ないんスか?」と、語尾に「W」が三つ程付いていそうな声であっけらかんと言い放った彼に対し、担任の教師は何も言い返せていなかった。元より先生は、そこまで気の強い人物ではないのだろう。
無論、俺とてゲームセンターに足を運んだ事はある。しかしながら、俺はゲームセンターなんて好きではない。単なる好奇心とも違う、本当なら近寄りたくもない。俺みたいなカモは、金を巻き上げるのに最適な対象だろう。近所の高校生に恫喝されるがオチだ。
それでも、目の前で親しげに話しかけてくれる彼の口調からも分かるように、俺は彼と何度もゲームセンターへ遊びに行っていた。席替えで席が隣になり、少し言葉を重ねている内に「友人」と呼ばれるようになった。俺も、一時期はそう呼んでいた。
それから、気付けば様々な場所へ遊びに行く仲だ。仲良くなってしまったのだから、仕方がない。
「あぁ、ごめん。この後用事あるからさ。また今度、誘ってよ」
定型文のように返す。
「おう、そうか!」
そう言い残して、彼は立ち去る。友人連中と共に、先程話していたゲームセンターへ赴くのだろう。
彼は何も不良という訳ではない、少々ヤンキーの仲間入りをしているようにも感じるがしかし、言ってしまえばそれだけ。他の面は、善良な生徒そのものであった。
それ故に、人気がある。
これは俺の勝手な推察に過ぎないのだが、ちょっとした欠点――彼に当てはめるならヤンキーになりかけな部分――こそが、その人をより一層輝かせるのだろう。基本的には優しくて、不器用で、人当りも良い。ヤンキーという、ともすれば欠点とも取れるような部分でさえも、少しツンツンしていて魅力的なのかも知れない――尤も、俺は一方的に怖がっているだけなのだが。
「うん。またね」
そう言って、去って行く彼を見詰める。やがて視線を外した俺は、一つ溜息を吐いた。深い深い溜息、疲れを抜き取るような溜息。溜息を一つ吐く毎に幸せが逃げる、なんて言うけれど、そんな迷信めいた話を信じるよりも、俺は体中から力の抜けるようなこの感覚こそを優先させるのだ。
表情筋の力を抜き、わざとあらゆる物から焦点をずらす事で、可能な限り何も考えない状態を維持する。今日も一日、俺は良く頑張った。帰宅後は宿題をして、それから購入したばかりのRPGを進めるとしよう。
「ねぇ――三佳君」
怯えるような声音。小刻みに震えているのかと想像してしまう程にか細い声で、聞き覚えのない声は、俺を呼び止めた。同時、学ランの裾が後方へと引かれる。優しく、ちょこんと、摘まむように。摘ままれるように。
彼女がどんな顔をしていたのかは、全くもって思い出せない。ただ、注意深く記憶を探ってみれば、彼女の声には、どこかで聞いた事のあるような……。
一秒にも満たない時を硬直と沈黙でやり過ごし、笑みを作り上げた俺は緩慢な動作で振り向いた。
そこに居たのは、美女。他の追随を許さぬ美貌の持ち主だった――それだけを覚えている。
黒髪ロングに黒目の、愛くるしいとさえ言える童顔の少女。先ず間違いなく同い年なのだろうが、それでも年下に見えてしまう。確か、特徴的な名前をしていたような気がする。
彼女はこちらの機嫌でも窺うように、上目遣いで小さく口を開く。
「あの、三佳君。これ……落とし、たわよ?」
「ああ」俺は振り向き様に彼女へ言葉を返し、華奢な手にギュッと握られ、差し出された俺の折り畳み傘を受け取った。「落ちてたんだよね? ありがとう」
「あ、ど、どういたしまして……」
「それじゃあ、俺はこれで」
「はいっ」
たったそれだけの会話だった。どうして思い出したのかさえも、分からない。
もしかすると、この場面に何かとんでもないミスがあったのかも知れないが。
この日は既に、部活がなかった。臨時的な休みではなく、夏休みから……近場の野球場で土を掻き集めたあの日から、野球部の部活動は終わりを迎えたのだが。勿論、「三年生の」という枕詞は必要不可欠だろう、何も廃部になった訳ではない。
その日の夕食は、監督の奢りで高級焼肉を貪ったが、味は記憶していなかった。
まぁ、どちらにしてもこの時期は、どこの中学三年生も部活なんてやっていないだろうけど。しかし部活がないからこそ、こうして唯一無二の友と語らい合う事も出来るのだ。場所は変わって、近場の河原。学校から徒歩十分程の地点に、この災害時に溢れそうな川はある。
去年も一昨年も、ひょっとすると俺が物心ついた時から、毎年のようにやって来る集中豪雨で氾濫する一歩手前まで行き、しかし氾濫しないという心臓に悪いイベントを、これまた毎年のように引き起こしやがる、中途半端な高さの堤防。そこに寝そべっている先客の隣に、俺は近付く。
「遅かったな」
「俺だって人付き合いがあるんだよ。俺が来ないとボッチな君とは違ってね」
「言ってくれるなぁ。僕は大事な友達だろ? もっと大切にしろよ」
「どうせ中学卒業と同時に引っ越すじゃん」
季節は冬。受験シーズンも終わりに近付き、斯く言う俺の受験も既に終わり、見事志望校に受かった。最近は河原で待っていた彼――弓狩 大河との交流も疎かになっていたが、俺達は友情以上の約束で結ばれている、故に段階的に疎遠になる事はない。随分と、気が楽だった。
それに、どちらにしても四月になると同時に、彼は引っ越すらしい。これもまた、切れる事が分かり切っている縁なので、気が楽だったし打ち解けられた。
「まぁな。それでも、友達は大事にするものだろ?」
「大事にしてるよ、だって俺から誰かを「友」と呼ぶのなんて、それ自体一年振りくらいだし」
何か変な物でも見たかのように、肩を竦めて頭を振る大河。彼との出会いは、俺がギャン泣きしながら帰路を外れ、学ランのままにこの河原へ足を運んだ所、同じ学校、同じクラス、しかし見覚えのない大河と出会ったのが始まりだ。大河は家庭の事情で何度も転校を繰り返しているらしく、それ故に一時の友情なんぞに価値を見出せてはいなかった。
そんな彼でも、十五にもなって脇目も振らず全力ダッシュで涙を撒き散らす男子中学生という存在は、恐らく興味深く、それはそれは思わず声を掛けてしまうような異物だったのだろう。
そうして見事縁を繋ぎ、結果的に短期的に、しかし鞏固な友情を結ぶ運びになった。中学卒業と同時に、綺麗さっぱり縁を切るという約束の元に。
「そっか……それならさ、高校生になっても、僕と友達で――」
「それは違う」
食い気味で否定を口にする俺に、大河は少し驚いたような、それでいて実は分かっていたような、何とも言えない表情になった。瞳は僅かに見開かれ、口元は微かに弧を描いている。不満げな怒り顔をしても良い場面だが、彼は悲しそうな笑顔だった。
少しだけ、申し訳なさを感じながら、俺は続ける。
「俺は人一倍怖がりでさ、会話一つするにも、全神経を集中させちゃうんだよ。肩の力を抜こうとしても、気付けば怒り肩になって……無理に笑わなくて良いと思っても、気付けば愛想笑いなんか浮かべてさ。こうして自分の話をするのだって、大河以外には躊躇うしね」
「ふーん。ま、好きなだけ自分の話をしてれば良いよ。僕は真剣に取り合ったり、取り合わなかったり。話すのはお前の自由だろ、三佳。こう見えて、僕は聞き上手なんだ」
「聞き上手なんて、絶対に自称でしょ」俺は大河の隣に腰を下ろして、「だけど、うん、ありがとう。でも……大河を気の置けない友人として見るためには、絶対的な終わりが必要なんだよ」
「お前は気負い過ぎなんだよ……」
小さく呟かれた言葉に、俺が反応を示す事はなかった。
結局、人付き合いで――対等な立場である筈の友人に対して、俺が必要以上に気を張ってしまうのは、別れを恐れているからだ。相手は「自分から離れて行く事はない」と嘯く。嘯くが、もしも俺に強姦でもされたらどうだろう? 俺が相手の立場であれば、間違いなく縁を切るどころか、その相手を殺したくなる。と言うか、多分刺す。
今の例は極端過ぎるきらいがあるものの、言ってしまえば「何をしても許すか否か」である。人は、どこに地雷を抱えているかも分からないのだから。
何がどのように作用して、縁が切れるとも分からないのだ。
そんなボロボロな関係、危険な綱渡り、怖がらない訳がなかった。
「三佳、お前みたいにあれこれと――暗い方向にばかり、無限に思考を展開する奴なんて、お前が思ってるより多くねーよ? 少なくとも僕は、そんなに色々考えて人と接した事なんてないし。それにさ、お前が持ってる考えは、恋人とか妻とか、そういった親密な人間に対して抱くような感情だろ」
「……俺はさ、それくらい皆を大事に思ってるんだよ。俺と親しい人間が、俺と親しくない人間と話しているだけで嫉妬する、毎日誰かに嫌われる夢を見て怖くなる、悪口を言われているんじゃないかと邪推する。耳打ちで友人同士が話している時なんか、特にね……」
俺は始めに、この上なくその人物を好きになる。大好きから始まって、段々とその人を知っていく。そして大抵の人間には、始めに抱いた「好き」という感情が色褪せる事はない。だからこそ、不仲になれば俺は傷付く。
好きから入って、もっと好きになる。縁が切れるのは、怖い。
家族や親戚なんかは、ちょっとした不仲程度で切れる縁ではないだろう。血縁者という切っても切れない縁で結ばれており、だからこそ打ち解ける他ない。好きである事と打ち解ける事は、実は全くの別物だ。
「必要なのは何が何でも切れるとは思えない縁か――絶対に切れる縁だよ。君の場合は、恐らく前者を大事にしたんだろうね……だからこそ、今日という日まで無意味な縁に興味を示さなかった。そしてこれからも、また俺みたいな奴に出会うまで、君は独りで居続けるのかな」
「そうだな、いつか独り立ちしたら、その時は友達と彼女を沢山作るけど、それまでは」
「彼女は沢山作るなよッ!?」
「ははは言葉の綾だ。……兎も角、お前の場合は後者だったんだな。僕に取っての「切れる事のない縁」と、お前の思う「切れる事のない縁」は、まるでハードルが違うんだろうさ。だからこそお前は、絶対に切れる縁を選んだ――時が来ればどこかへ消える僕に、だからこそ心を許した。それは切れても構わない縁だから」
彼の言っている事も間違いではない、むしろ、正鵠を射ているとも言えた。弓狩 大河という男は、どうせ近々北海道に引っ越してしまう。居なくなって、会えなくなる。連絡手段もない――彼とはこうして河原で逢う以外の繋がりがない、だからこそ、彼が引っ越せばそれはお終い。綺麗さっぱり、全てが終わる。
だから……だから、何も怖くはないのだ。
「「切れても構わない」って言い方は、ちょっと止めて貰いたいけどね? こうでもしないと、俺はもう友人を作れないんだよ」
「ははは。お前絶対浮気とかしないよな。多分、誰にも告白しないけど、告白されたら何かと質問攻めにしてから、それでも良いなら、ってOKするんだろ」
「どうだろう? でも、俺に告白してくれる人なんて現れないだろうし――少なくとも、俺を好いてくれるような人には、誠実に向き合いたい。どうせ俺の素を見たら嫌になるに決まってる、それでも好きでいてくれるなら、それこそ気軽には承諾出来ない。幸せに出来るという確証が、せめて手に職付けられるという確信が持てるまでは――最低限でも大学が決まるまでは……」
「訂正。そもそもお前なんて一生独り身だ」
「酷い! 縁を切ってやる!!」
「あと一週間くらい仲良くしようぜ」
大河は「あと一週間だからな」と、物悲しげに、付け足した。
「うん。それにさ、俺はもう……友達なんて作れないよ。君は特別措置みたいなものだけど、今後はもう……俺だけ、彼は苦しんでいるのに、苦しませているのに! 俺だけが、楽しく過ごしちゃいけない……!!」
そう。これまでは単純に、怖がって、他人を秘密裏に拒絶して、勝手に疲弊するだけだった。だが、これからは、友達なんか作ってはいけない。何せ、俺は最低最悪な人間だから。
――馬頭 舞良。
女の子のような名前をしているが、彼は男だった。男で、しかも一人称が「私」。悪い事ではないものの、およそ中学生という年齢から鑑みるに、珍しい一人称であった事に違いはないだろう。
女の子のような名前。魍魎とも読める名前。「私」という一人称。罵倒とも読める苗字。案の定、イジメのターゲットとなった。俺も、何となく、始めて彼の名前が担任教師に呼ばれた瞬間、そうなるだろうなと思った――外見からして、痩せていて、気弱そうな少年。優しそうで、温厚そうで、やっぱり気弱そうな顔立ち。
ちょっと揶揄われただけで涙を浮かべてしまう、見た目通りの性格。
不思議ではなかった。
当然と受け止める積りもないが、納得感はあった。そうなるだろうなと思った。
そうなるだろうなと思ってしまった。
舞良は中学三年になって、こちらへ引っ越して来た。もしかすると、以前の学校でも同じような目に遭っていたのかも知れない。
彼がこれまでにどのような扱いを受けていたのかは、俺の預かり知る所ではない。子供は純粋故、時には残酷な生き物と化すが、彼の通っていた小学校で、そのような出来事はなかったのだと思いたい。俺が願うのも烏滸がましいが。
そんな彼とは対照的に、下校前に俺を遊びに誘ってくれた――余計なお世話だ――藍元 栄佑は、入学当初から人気者だった。ユーモア、人徳、ちょっとした思いやり、人気者の素質を持っていたし、現に俺は彼を一目見た瞬間から、そうなるだろうなと思った。
そうなるだろうなと思って、隣ではなかったが果敢に話し掛けた。三年生に上がって直ぐの頃、彼はまだ黒髪だったように思う。専門学校の面接の際も、黒色に染め直していたが。
ともあれ、今は金髪だ。
日本で十人程度しか居ない名字に、英雄という漢字でも表せる名前。
魍魎と、英雄。対照的な二人。
名字の珍しさなら他の追随を許さない俺も、この二人への注目以上には輝けなかった。
実は、俺の名前も過去の偉人の名前へと変換出来るのだが、こちらは正真正銘の偉人なので揶揄われる心配も然程なく、俺はそれなりに安心して日々を過ごしていた。
それは、今も変わらない。
今もモブAとして、最悪な立ち位置に居る。
或いは、役割を与えられた最も悪質な――。
「お前は悪くねーよ」
事情を知っている大河は、顔を俯かせる俺に素っ気無く言った。
「三佳、お前は自分を守ってるだけだろ?」
「他人を楯にして……ね」
「……」
彼は何も言い返さない、否、言い返せないのだ。俺の言葉が紛れもない事実だと知っているから、否定出来ない。
「それでも、自己犠牲の精神で誰かを助けるなんて、それこそ間違ってる。自分を一番大切にするべきだ」
「……加害者の理論だよ、そんなの」
そう、俺は紛れもない加害者だ。傍観者でもなく、被害者でもない。
――受験シーズンという大事な時期に、舞良は不登校になった。
大学志望だったらしいが、結局受からずに浪人するらしい。
英佑は残虐性を有した人間だった。或いは、人一倍残虐性が強い人間だった。そして彼の標的にされたのは、当然のように舞良であり、事が始まるよりも前に――俺は二人と仲良くなった。二人とも、良い人に思えた。特に舞良は、紛れもない善人で、英佑も恐らく、ただ一点を除けば悪人でもなかったのだろう。
その一点を、決して度外視してはいけないのだが。
藍元 英佑、彼はイジメっ子だった。そして、学校という空間の、小さな教室での主導権を握るに十分な人気を博していた。もしかすると、最初はコミュ強特有の、何でもない揶揄いが発端だったのだろう。
そこに誰でもない誰かが油を注いだ。
揶揄いは一転、弄りに。
揶揄いは二転、イジメに。
暴力はなかった。少なくとも、俺が知り記憶している限りでは。しかし言葉の暴力はあった、罵声、怒声、やっかみ、変な噂、根も葉もない噂。
何をするにも文句を付けられ、一挙手一投足余すところなく、クラス全体に行き渡った。いつでも誰かに見られていて、全てが筒抜けになっている――それに対する精神的苦痛は、およそ想像のつかない物だろう。
この鉛筆は彼が触った、あそこに座っていた、ここを通った、ここで誰かを待っていた。
そういった、最早全てと言って良い情報が流されていた。ドッジボールでは集中狙いされていた、曰く「当てやすい人から狙うのは当然」との事だ。反吐が出る。
しかし。
どうして一挙手一投足までもが筒抜けになっていたのだろうか?
皆答えを知っている。俺も知っている。他の誰よりも、俺が一番詳しい。
俺だった。
俺が全ての会話を横流しにし、彼の事を詳らかに包み隠さず全て話した。
自分は何と酷い事をしているんだ――そういう罪悪感もあったが、止めるという選択肢はない。ただただ、自分が標的にされるのではないかと恐れていたのだろう。恐れているのだろう。
今となっては、イジメなんて起きていない。
だって――彼はもう、学校には来ないから。
自殺した訳ではない。心を病んで、引き籠っただけ。
皆口を揃えて言った。「それだけの事」だと。一体どれくらいの人物が、本心から言っているのかは分からない。もしかすると、誰も本心からは言っていないのかも知れないし、皆罪悪感を感じていることのかも知れない。
少なくとも俺は、そんなに軽く受け止められなかった。
どこにでもカーストという物はある。今回ならば、スクールカースト。
下まで落ちて、更に不幸が祟れば、イジメのターゲットとなる。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
可愛そうだと思った、哀れだと思った、助けてやりたいと思った。行動には、現れなかった。
行動は起こせなかった。庇えばきっと、俺まであちら側だ。そうでなければ、もしもそんな事はないのであれば、とっくに誰かがブレーキをかけている。
担任の教師は気付いていた。事の深刻さには気付いていなかった。
首謀者や共謀者を知りながらも、個別に叱る事はなかった――クラス全体に向けて、涙ながらに罵声を浴びせた。結果、イジメがエスカレートしただけだ。
この頃には、もう藍元 栄佑を良い人などとは、口が裂けても言えなくなっていた。
この頃になっても、まだ馬頭 舞良は良い人であり続けた。どう考えても情報源は俺なのに、問い詰める事も問い質す事もせずにはにかんでいた。ずっと、満面の笑みで俺を迎えてくれた。友達だと言ってくれた。
俺は何も返していない――いいや、恩を仇で返したのだ。
「きっと……彼は気付いてた。それでも、俺には何も言わずに、弱音さえも、吐かないで……!」
「……」
「俺は自分が許せない。こんなにも悪辣な人間は見た事がないッ。人殺しよりも悪質で、ともすれば人殺しにすらなりかねなくて、もう人殺しと呼んでも良い。そう呼ばれて、一生後ろ指を差され続けるべき人間だ」
「だったら、謝りに行けば良い。どうせ家も知ってるんだろ」
俺が唯一、誰にも教えなかった事。
家くらいは、安らぎの場所として使って欲しかった。何かをプラス方向に動かした訳ではなく、マイナスを少しだけゼロに近付ける程度の、物語として考えれば駄作で、現実として考えれば失策。くだらない自己満足。まるで自分が、まともな人間であるかのように、自分を納得させる為に。
「……合わせる顔がない」
「顔を合わせたくないだけだろ、三佳は。認めるのが怖いんだよ、結局お前は、自分と向き合い切れていないんだ。まぁでも、嫌になるよな。僕はそもそも、不登校気味だから分かんないけどさ。お前はお前なりに悩んで、結論が出ないまま必死になって頑張ってるんだろうよ。でもな、三佳。努力を隠すのは構わないし、それは美点だけど……隠したまま、成就しなかった努力を黙っていれば、それは何もしていないのと同じだ。少なくとも、僕以外の周囲はそう思うんだろうな、事が露見した時には、全部後付けだって、思われる」
それきり、彼は押し黙った。これ以上、続ける言葉が見当たらないのだろう。少し愚痴のような事を言ってしまったが、ともあれ彼と過ごす時間も残りは少ない。
「俺はさ、結構怖がりなんだよ。精神的な苦痛にも、肉体的な苦痛にも弱くて……。あぁ、この間までは野球部だったし、肉体面は苦痛というより――「苦」と言うよりは「痛」に弱い訳だけど。そういう面でも、精神的な苦痛に対する一番の自衛は、誰にも心を許さない事なんだと思う。だから、俺はそうしたんだよ……多分。それから、本格的に誰も受け入れられなくなって、人間付き合いに疲れて行ったのは――」
言いかけたタイミングで、もしかすると次の言葉が飛び出しそうになった辺りで、それまで沈黙を貫いていた大河が強引に割り込む。
「何も、全部話せって訳じゃないんだぜ? ただ、抱え込み過ぎるのは良くないし、報われない努力なんか続かないって事だ。そうした悩み続けるというお前の、せめてもの折衷案は、誰にも確認されない心の動きは、いつかお前だけは完結しなくなる。だから、だからせめてさ、」
恐らくは、「SNSくらい繋がっとこうぜ!」といった具合に続けようとしたのだろう。何となく、半ば確信めいた物を持っていた。彼ならば、絶対にそう言う。絶対にそうするだろう、という確信。
だが、俺の返答を先んじて理解したか、彼は今度こそ押し黙った。
俺からの言葉を待っている間、ただぼんやりと、彼岸を見詰めていて。
俺は軽快な音と共に両手を合わせ、
「……少し、雰囲気が暗くなったね。それじゃあ、今日は何を話そっか?」
「今のが導入とか、ホンットにもう……。お前には一生、彼女なんて出来ないんだろうな」
「酷い! もう絶好する!!」
「一週間後にな」
そうして、今日も他愛のない話を、二人して、出会った当初と変わらず、日が沈むまで河原で語り合う。俺に出来た、唯一の友人だった。
***
「うんうん。それじゃあ早速、占いと洒落込もうか。楽しみだなぁ、楽しみだなぁ、どんな結果が出るのかなぁ……っ?」
「えっ、アル……」
俺の言葉に対して、まるで訳が分からないとばかりに「んー?」と疑問を顕わにしたアルは、続けて「どうかした?」と訊いて来る。
「いや……俺としては、結構頑張ったと言うか。正直、誰にも話したくなくて……アシュリーにも、まだ話してないような事で」
「まぁあれだね。親しすぎると、逆に話し辛いのかもねぇ、今の内容は。それから……きみも色々大変なんだなって、いっそ相手を自殺にまで追い込めば良かったのに。そこまで行けば、もう吹っ切れて気が楽だよ?」
彼女の言葉から汲み取れる、彼女自身の人格――それは、およそ倫理観が人間のそれとは乖離していた。目の前の存在は、どこまで行っても吸血鬼なのだろうと、改めて再確認させられる。……そしてアシュリーもまた、彼女と同族で……。
「そんな事しないよ……俺は、人間だし」
「あは。別にボク達も、思考回路は人間のそれと同じだよ? まぁ確かに、少しばかりぶっ飛んだ思考の個体が、吸血鬼には多いみたいだけどね。あーコワイコワイ」
アシュリーから「人間を大量に殺している吸血鬼の臭い」と評された体臭の持ち主であるアルは、まるで自分は人畜無害な個体であるかのように、肩を竦めて「やれやれ」という現し方が最も適切なポーズを取る。
アシュリーはそこまで危険思考ではないように感じるので、それこそ個体差と言うしかないのだろう。それこそ、アシュリーとアルの違いなんて、存在としての違いなんて……生まれた時期くらいしか考えられない。
「全く……どうやったら、同じルーツの吸血鬼同士で、ここまで差が出るんだか」
「――同じルーツ?」
食い入るように、アル。揺れる事もなく、真っ直ぐ俺へと向けられた双眸は、言い表しようのない圧を孕んでいる。彼女は吸血行為による催眠効果の話をした時や、アシュリーの呼び方について言及した時と同じく、面白い物でも見たかのように――愉快そうに、その口角を吊り上げて。
「生まれながらに吸血鬼であるボクと、ルーツが同じ?」
「……でも、だってアシュリーは、」
「おやまぁ、隠し事をしてるのはお互い様だった訳だね。良かったじゃん、これで罪悪感を背負わずに済む。行き過ぎた自責の念も、これで少しは和らぐよ」
確かに俺は隠し事をしていた。一緒に居ると心に決め、隠し事はしないと誓いながらも、これだけは、あれだけは、と、気付けば沢山の事を包み隠していた。アシュリーも同じだった、彼女も俺に隠し事をしていた。だが、その理由もまた俺と同じ――二人の関係に、罅を入れたくはなかったのだろう。そうであると、信じる他ない。
まるで目出度い事のように騒ぐアルの声が、酷く耳障りだった。彼女の声が、一挙一動が煩わしい。
「……隠し事なんて、誰にでもあるよ。どんな仲でも、必ずある」
それに、本当かどうかも分からないし、まだ納得も出来ていない。
「でもさ、きみは「自分達の関係に亀裂を入れない為」なんて思っているんだろうけど、可笑しいよねぇ?」
面白可笑しい訳ではない。彼女が言っているのは、変という意味での「可笑しい」なのだろう。
「後天的に吸血鬼と化す者は、みーんなその時点で成長も老いも止まるのに。姫は十五歳から十七歳、先天的な吸血鬼であれば、精々二十歳辺りまでは育つのに、これって可笑しい事だよねぇ? だけれど、そんなの考えなくて良いよ。きみがこのまま、ここで、お得意の懊悩を始めるってんなら、どうせ脱出は絶望的だろうし。どうせ姫との再会も無理だろうし」
「ぁ――」
その言葉で、ようやく状況を思い出した。その他の問題は後回しだ。
どうにか現状を打破する必要がある。策は浮かばない――分かっているのは、俺が何かを思い付くという事。腕利きっぽい吸血鬼の占い師から、お墨付きを貰った未来だ。
直後の占いで、俺は何かを思い付くのだろう。
過去が未来を決定づけるというのであれば、俺に取っての過去は――原点たる起点はこの瞬間で、或いは彼女の言う通り、世界が始まった瞬間で、差し詰め未来とは…………。
「そうだね。じゃあ、占って貰おうかな――「現状に対する打開策」ってやつをさ」




