その一夜は始まりに過ぎなかった 上
ストックホルム症候群。誘拐や監禁等により、被害者が加害者に対して好意や共感、延いては信頼や結束の感情を抱いてしまう現象。実際に事例を挙げる事も可能だが、俺はこのような出来事を真実であるとは思えない。
犯人が可愛らしい女の子であればワンチャンあるような気もしないでもないが、それにしたって確率は物凄く低い筈だ。犯人が美少女である可能性も、その犯人に共感してしまう可能性も。
そもそもストックホルム症候群とは「人間が人間に対して」、という絶対条件がある。もし「被害者が加害者に対して」という条件にするならば現在の状況にも当てはまるだろう。
詰まる所、
――俺は人ならざる者の人質にされ、ついでに監禁されているのであった。
***
西暦2020年、七月十五日、早朝、日本、某所。
今日もまた、くだらなくて、詰まらなくて、退屈で。それでも微かな幸福を得られる日々が続いて行く。筈だった。
これが運命の悪戯であるならば、例え運命ちゃんが生後一日であったとしても、俺は運命を赦す事が出来ない。
俺の職業はなし、というか学生。漫画やライトノベルの主人公でお約束の十七歳まで、あと少し。高校二年生の――夏。
朝シャンをキメて朝食を食べ、共働きの両親が仕事に出掛けた後、俺は歯ブラシを咥えて食器を洗った。一本磨きまで使って綺麗に磨いた歯を洗面所の鏡に映し出し、満足げに頷いてみせる。
まだ学校に行くには時間があるか――七時半に家を出れば、そこそこの余裕を持って学校にまで到着するので、タイムリミットはおよそ三十分。
現在時刻は丁度七時であった。教科書とノートを本日の授業内容に合わせて編成し、それから学ランに着替えれば準備は万端だ――と、そう思っていた時期が俺にもあった。
『——で爆発事故が――』
付けっ放しであったテレビの電源を落とす。何でも、辺鄙な田舎で爆発事故が起きたようだ。何が爆発したのか気になりはしたものの、朝という貴重な時間を浪費してまで確認する事柄でもあるまい。
眠気で閉じかける瞼を押し上げるべく、俺はリビングルームに設えられた窓に向かって歩き出した。
差し込む陽光に、思わず目を窄める。
地上十階建てマンションの、八階。階段を上ろうものならば、問答無用で足が死んでしまう高さだ。このマンションにエレベーターが付いていたという事実には、日々感謝の念が絶えない。
まぁ昨今の十階建てビルで、エレベーターがない代物の方が少ないのだろうか?
窓の鍵が閉まっている事を確認し、俺は踵を返した――瞬間。
耳を劈く程の音が鳴り響く。きっと近隣住民も耳にしただろうし、迷惑に思っただろう。確かに俺の部屋――俺が住んでいる部屋での出来事ではあるが、俺に一切の非はない筈だ。
現れたのは、少女。
艶やかなプラチナブロンドの髪が目を引く、可憐な少女である。
歳は俺と同程度だろうか?
リビングルームで圧倒的なまでの存在感を放っていた筈の大窓は、無残に砕け散っていた。
「や、やぁ」
驚いた。思わず間抜けにも腰を抜かす。
「あー…………どうも」
掛けられた声に対して、上手い返しが思いつかずにそう答える。
そもそも状況からして異様だ。ここはマンションの八階、地上から跳躍して来たとは思えない、だとすればこのマンションの住人だろうか? 一つ下の階から上って来る事も出来るだろうが、それにしたって難易度が高い。となれば一つか二つ上の階からの来訪者だろう。
窓硝子を割る積りは無かったのか、少女はこちらに入って来る様子もない。
恐らくは不慮の事故であるのだろう。修繕費と迷惑料だけ渡して貰えば、俺も俺の家族も怒りはしない。誰にだって失敗はあるものだし。
「ところでさ、ちょっとお邪魔させてくれないかな?」
ふむ。確かにこれが不慮の事故であるならば、と言うか意図的な物だったとしても彼女はここから脱出する必要がある。当然ながら、下の階へと一つ一つベランダ伝いに降りて行くだなんて得策ではない。愚の骨頂だ。俺の部屋を通り抜け、マンションのエレベーターないし階段を使って移動するべきだろう。
「あ、でも……」
「入れてくれないのかい?」
上目遣い気味に、しかし俺が腰を抜かして尻餅をついているが故に、結果的には見下す形で少女が告げる。まるで俺が彼女を拒んでいるような状況ではあるが、さっさと出て行かれても、それはそれで困るのだ。
「修繕費とか、色々相談事もありますから……あ、入るのは、どうぞ。十分程度なら寛いで貰っても大丈夫ですよ」
ちょっとだけ冗談めかして言った俺は、立ち上がると同時に少女へ入室の「許可」を出した。
「許可」を、出してしまった。
――時に「吸血鬼」という化け物は、家主の「許可」がない限り家には入れない。
逆に「許可」さえあれば、誰が意図した訳でもなく家へと刷り込まれている魔除けの効果等が無効化され、吸血鬼等の「魔」に連なる者は家への侵入を果たすものだ。
「じゃあ、お邪魔します」
「手間の掛かるお茶とかはちょっと……時間の都合もあってお出し出来ませんけど、喉が渇いたなら言って頂ければ――」
「それなら気にしなくて良い――」
少々食い気味で言った彼女の方を振り向けば、その全身は輝いていて――いや、それは燃えているのだろうか?
正面からでは分からなかったが、今の今まで日差しを受けていたであろう背中部分は煌々と燃え上がっており、そんな彼女は俺に背を向けて窓際のカーテンを素早く閉めていた。
さらに彼女の背中――今はこちらに向いている――を見ていると、幾つか傷のような……銃で撃たれたような痕が残っている。
理解が追い付かない。銃弾を受けたような痕跡ならば特殊メイク等で表せるかも知れないが、燃えている理由は見当が付かない。
出来ない事もないだろうけど……。
彼女はカーテンを閉め終えると、燃えていたからか焦げた背中を隠すように百八十度回転。俺へと子供っぽい顔を向ける。
先程の言葉から繋げるように、
「――私はお茶なんて飲まないからね」
気付けば俺は彼女に押し倒されていて――性的な意味で襲われる、なんて楽観的な考えは浮かばなかった。ただ、このまま行けば死んでしまうのではないかという恐怖だけが、そこにはあって。
少女の笑顔に対して、その可愛い筈の顔に対して、そのまま「可愛い」という感想は抱けずに、眼前で三日月に開かれた口から覗く、二本の牙に戦慄を覚える他なかった。
「キミの血だけで十分だ」
俺はうつ伏せにも近い体勢で床に押し付けられており、拘束の為か固く握られた左腕はあらぬ方向に曲げられてしまい、骨が折れるのではないかと思った。痛みはある、だがそれ以上に恐怖が勝る。何をされるか分からない――いいや、きっと俺は。
血を、吸われるのだろう。
右の首筋に牙が突き立てられる。焼けるような、痛み。
頸動脈が心配になるが、それ程深くは考えられなかった。
「思ったより美味しいや。やっぱり若い子の血は格別だね」
次に失血死を恐れる。他にもこの先、俺を襲う死因は幾らでもあるのだろうが、残念な事にこのような場面で冷静に回るような頭を、持ち合わせていなかった。
意識が混濁する。血を失い過ぎたから、ではなくパニックに因る所が大きいだろう。
「やめっ、止めて、い、死にたく、死にたくない……!」
ああ、それとも吸血鬼にでもなるのだろうか? 彼女が吸血鬼だとして、それが伝承通りの吸血鬼だとすれば、もしかするとあり得るのかも知れない。そんな空想じみた展開が、巻き起こされるのであれば、少しは楽しいのかも知れないけれど。
吸血鬼狩りに怯える日々でも始まるのだろうか。嫌だ、そんな生き方はきっと苦しい。
「吸血鬼にはしないし、ちゃんと致死量も把握してる。キミ、貧血気味だったりしないよね?」
「いやだ……死にたくない、吸血鬼にも、なりたくっ……」
「どうなんだい? 貧血気味ならもう止めるけど」
「止めて、やめっ……こんな、訳も分からずっ、終わるなんて、いや、だ……」
「ねーえ! 聞いてるー!?」
***
あるのは恐怖、それから絶望。
死んだのだという感覚。だがしかし、これは夢を見ている時の感覚にも近いように思う。
むしろ今まで見ていた光景が夢なのではないだろうか? 何せ仮称吸血鬼だ、完全に空想の生き物だろう。まさかそれが、現実に現れるだなんて思えない。
朝日を背に、凶悪とも取れる表情をした少女が立っている。
彼女は俺を見つけると、嬉しそうな顔で大口を開け――
「うぁああッ!!」
「っ……ビックリしたぁ、急に大声出さないでくれる?」
「ああ、ごめん。母さ……ん」
にこにことした少女。母親ではない。
残念ながら俺にはこんなに可愛い姉も居なければ妹も居ない。従妹は居るが、それもここまで可愛くはない。そして恐ろしくもない。
学校の友達……は俺の家を知らない筈で、詰まり彼女は……
「きゅ、きゅきゅぅああぁッ!?」
「そうだよー、私こそが吸血鬼さ」
割れた窓の破片が散らばった、見覚えのある一室。間違いなく俺が物心ついた時から住んでいた、そして今もなお住んでいるマンションの一室。こんなに窓硝子の破片が散らばっている光景は見た事が――さっきの一度しかないが、それを差し引いても見慣れた光景には相違ない。
それからもう一つ見慣れない者を上げるならば、それま間違いなく彼女である。仮定ではあるが吸血鬼の、見てくれだけは可愛らしい少女。それから一瞬にして俺のトラウマとなった、恐るべき少女。
「え、あ、っと、君は……」
言いながら距離を取ろうとして、俺は自分の体が満足に動かせない事に気が付いた。これは詰まり、拘束されている訳だ。
俺の意識が途切れてからどれくらいの時間が経過したかは分からない。太陽の位置……もとい陽の差し方から言って、然程時間は経過していないと見える。
それでも数秒程度は気を失っていたのだろうから、まだ生きているという事は、これから下手な真似をしない限り、彼女は俺を殺す気がないような気もする。或いは相手の意識がある状態で四肢を切断する事に生き甲斐を感じている猟奇殺人犯の可能性も捨てきれないが、そんな事を考えていてはキリが無い上に、俺の精神衛生上良くない。
どちらにしても、俺に出来る事なんて無いに等しいのだ。出来る限り楽観的に物事を捉えておこう。ストレスで死んだら笑いものである。
「私かい? 私は吸血鬼のアシュリー・ナーダシュディ。本当ならナーダシュディが先に来るけれど、日本で英名を名乗るならこっちの方が馴染み易いよねぇ」
ナーダシュディ? どこかで聞いた事があるような……そうだ、血の伯爵夫人の夫だっけ。その名を名乗るという事は、要するに。
「私は父の隠し子、という立ち位置にある。それでも……と言うか、そもそも夫人に残虐性を与えたのは父の偉業なんだ。だから父こそが吸血鬼、故に私も吸血鬼という寸法だ」
そんな事は聞いていないし、正直どうでもいい。
「キミは?」
自己紹介の流れになってしまったので、俺はおっかなびっくり口を開く。
今日という日は、未来永劫俺に取っての厄日となるのだろう。明日も明後日も、来年も生きられたならの話だけれど。
「俺は……仲互 三佳」
「酷い名字だね。友達居ないの?」
「別に……少ないけど、居ない訳じゃない」
俺だって酷い苗字だと思うし、喧嘩別れでもしようものなら、この名字が悪さをしているのではないかといつも疑っている。そんな疑り深い性格もあってか友人は少ないが、その分良い知己を得ているので、一概に悪いとも言えないのだ。
それでも沢山友達を持っている人物を見ると、少しだけ嫌気が……今はそんな事に思考を割いている場合ではない。
「ふーん、それなら私が友達になってあげるよ」
「じゃあ友達の証としてこの縄を解き、窓硝子の修繕費と迷惑料を置いてさっさと消えて欲しい。それから後日遊びに来るってんなら友達として歓迎しよう」
「じゃあ良いや。ああそれから、私、暫くここに居座らせて貰うよ。勘違いしないで貰いたいんだけど――キミ、自分がどういう状況にあるのか分かってる?」
途端に寒気がした。かなりフレンドリーに話し掛けてくれていたので警戒心も薄れつつあり……その上棘のある切り返しをしてみたのだが、どうもそれが癇に障った……訳ではないらしいが、少なくとも彼女が優位な立場に立っているという事だけは忘れない方が良さそうだ。
「わ、分かってる。君に取って俺は、いつでも殺せる餌。俺に取って君は、決して機嫌を損ねてはいけない吸血鬼。ちゃんと理解してる」
自分で言っていてバカらしく思えた。目の前の少女が吸血鬼だなんて、とても信じられそうにない。
「そう? ならいいや」
数秒間、されど数時間にも等しいまでの気まずい空気が流れる。俺は自分をコミュ障などと卑下はしないが、それでもそんじょそこらの人間よりはコミュニケーション能力が低いと自分を正確に評している。
「あれ、そう言えば」
「ん?」
「君、さっきまで怪我してなかった?」
「ああ、あれね。キミの血を吸ったら治っちゃった」
なんでもないように笑ってみせる彼女――アシュリーだが、結構な出血量と負傷であったと記憶している。怪我は治ったとしても、失った血は戻らないのではないだろうか?
「それに吸血鬼ってのは、人間の血を吸う事で血液も大分補充出来るからね。その辺りも心配いらないさ」
「別に心配はしてない、けど」
「おや。そんな冷たい事を言って良いのかな? キミは絶賛、私に監禁されている訳だけど」
「監禁……って、何の為に?」
「そりゃあ――」
彼女がその先を口にする積りだったのかは分からない。ただ一つ分かる事は、マンションの外より掛けられた声のお陰で、彼女は言葉を切ったという事だけだ。少しばかりの憤懣を覚えたものの、彼女は吸血鬼……いわば俺に取っての「敵」である。
ならば外より掛けられた声は?
一体誰の、どのような人物の声なのだろうか?
『現在「知恵itビル」の八階十三号室にて立て籠もり事件が発生、近隣住民は速やかに避難を開始して下さい』
知恵itビルとは俺の住んでいるビルの名称であり、その八階とは現在俺が吸血鬼にロープで縛られ拘束されている部屋のある階であり、十三号室とは正に俺が吸血鬼を前にして無様を晒している部屋の番号である。
外から聞こえて来た声が警察なのか、それに準ずる組織なのか。それともヴァンパイアハンターを集めた組織とでも言うのか、或いは個人であるのかは分からない。
俺に出来る事と言えば、アシュリーの機嫌が損なわれないよう、祈るくらいであった――。
***
時は少しだけ遡り、西暦2020年、七月十五日、未明、日本、某所。
「居ましたか?」
両手で大きな銃を持った姿は、日本に於いてまず見かける機会はない光景だ。だが日本人であり、日本国籍を持ち、日本生まれ日本育ち日本在住の男は確かに、両手で大きな銃を持っていた。
黒髪黒目、少々くせ毛でスーツを纏った彼は、高層マンションの屋上から両手に持った――というより両手を添えた巨大なスナイパーライフルを構えて無線に耳を傾ける。
『ああ……二発程ぶち込んでやった』
聞こえて来るのは渋い声音、還暦間近の老骨が発するような――現にその通りで、還暦間近の老人が無線を介して彼に声を届けていた。
ヴァンパイアハンターである二人は、タッグを組んで長い。
吸血鬼を狩る以上、逆に狩られる場合も珍しくはなく、彼等のように十年も共に吸血鬼を狩り続けているという事例は少ない。
それに世界各地で目撃される吸血鬼の数も年々減っているので、それも幸いしているのかも知れなかった。
老人からの言葉に、彼は満足気味に頷く。
「それで、今はどの辺りです? こっちから狙えるなら、デカイ一発を叩き込んでやりますけど」
『ふむ……二十秒後だ、建物は分かってるな。細かい位置は自分で探せ、こっちはこっちで、取り敢えず狙いやすい位置にまで誘導する』
「了解」
それから彼は二十秒を数えつつ、時折右手首の腕時計を一瞥し、スコープを覗く。
二十秒を少し過ぎた辺りで、彼は二つの人影を視認する。廃ビルの三階、幾つかの小型銃とナイフで武装した老人と、まだ年若い少女が姿を現した。
彼は照準を合わせ、忙しなく動き回る少女へ向けて発砲。
真夜中の都市に、耳を劈くような発砲音が谺した。
弾丸――銀の弾丸――は宙を割き、空気を割って吸血鬼へと迫る。
吸血鬼の少女もスナイパーの一人くらいは想定内だったとばかりに回避行動を取るが、それでも彼の銃撃よりは遅かったらしい。
右の足を貫かれた彼女は、大仰過ぎるくらいにのたうち回る。常人が受ければ激痛を伴う一撃だが、吸血鬼に取っては掠り傷にも等しい。しかし彼女――アシュリーがここまで痛がるのは、打ち込まれた弾丸が銀により形成されていたからだろう。
ニンニク等は弱点足り得ないが、過去に残された伝承も幾つかは真実なのだ。
『よくやった。後はこちらで拘束する』
その言葉にホッと一息吐いた瞬間、今まで言葉とも取れない絶叫を上げて床を転がり回っていた吸血鬼の少女が上体を起こし、相対するヴァンパイアハンターを睥睨した。無論スナイパーからはその表情までを伺い知る事は叶わない。
『チッ、不味いな……』
その声を聞き付けて彼が再度スコープを覗いた瞬間。
彼の相棒の首筋に牙を突き立て、弛緩した老人の身体を楯に彼の方を朧気な瞳で見つめる、プラチナブロンドの髪色をした少女が立っていた。
「ぐッ……」
思わず歯噛みする。彼の腕は確かだが、何も100%の正確性はない。この距離であれば十回に一回は狙いを外してしまう上、このまま馬鹿正直に少女を撃ったとしても、少し動かれるだけで弾丸が貫く対象は相棒の肉体になってしまう。
せめて彼女の姿を見失うまいとして、彼はスコープ――そしてその先に佇む少女――から視線を外そうとしない。そんな彼が事の趨勢を見守る中、少女は老人の耳朶を噛み千切り、そこに装着されていた機器を片手で摘まみ上げた。
『あーもしもし? どうだろう、ここは一つ見逃してはくれないかなぁ』
飄々とした――銀の弾丸を受けたとは思えない声が響き、彼は苦虫を噛み潰したような顔でスナイパーライフルから手を離す。
最後に見た相棒の顔は、滾らせた闘志と吸血鬼への殺意とで、一杯だった。
『さようなら』
「ぁ――」
自分でも、腑抜けた声が漏れたものだと思った。
見据えた先、目視でも何とか見える先で、老人の身体が傾ぐ。
先程までも吸血鬼に少女により気絶させられていたようなので、恐らくそのまま放置されても同じような事になっただろう。だが少なくとも、大量の血を撒き散らしながら、その体が頽れる事は無かった筈だ。
「き、さまァアアッ!!!」
吸血鬼の少女は、蝙蝠のような羽を広げて闇夜に飛び立つ。その口元からは、大量の血を滴らせて。
叫んだ声は銃声よりも良く通り、良く響き。
構えたスナイパーの先、見据えたスコープの先では、反射的に打ち込んだ三発の弾丸の内一つが、翔ける少女の脚部を撃ち抜いていた。だが殺せない、それでも届かない。
吸血鬼とは、人間よりも圧倒的に優れた生命体なのだ。
弱々しく飛翔して行った吸血鬼に向かって、再度引き金を引く。しかし弾倉に残弾はなく、手持ちの弾を詰めていれば逃げられてしまう。
斯くして彼が取った行動は、非常に合理的なものであった。
「こちらヴァンパイアハンター日本支部より通達。高位の吸血鬼を一体確認、至急応援を頼みたい。繰り返す、こちらヴァンパイアハンター日本支部、ヨーロッパ本部より調査員の提供を願いたい。場所は――」
悔しいが、日本支部所属のヴァンパイアハンターは絶対数が少ない。
そうして日本に滞在していた、それでいて本部から派遣されていた人間達は、やむなく総動員で一体の吸血鬼を探し出すべく奔走するのであった――。
***
「警察か何か?」
心底嫌そうな表情を作った吸血鬼アシュリーに向けて、俺は思ったままに質問を投下する。これで彼女の琴線に触れてしまえば俺は死ぬのだろう、だがこの程度で殺されてしまうのであれば、俺は遅かれ早かれどうせ死ぬ。
それに先程の……ちょっとだけナメた態度はギリギリ許されたのだ、彼女とて罪なき人間を殺すような人物ではないと見た。
親指の爪を噛んでいた彼女は、俺の言葉に応えてくれる。
「ヴァンパイアハンター日本支部のスナイパー……今声を上げたのは警察だろうけど、多分指揮しているのは彼か、或いは本部から日本にやって来ている人間か……」
「……」
そんな物があったのか。
では彼女……吸血鬼という種族は今までも存在していて、その上で市井には秘匿とされていたのだろう。そりゃあ吸血鬼などというフィクションの存在が実在すると知られれば、混乱は免れないだろうが。
だが警察及びヴァンパイアハンターとやらが動いてくれたからと言って、決して俺は状況を楽観視してはいけない。何せ彼等がアシュリーを刺激すれば、現在尺取虫のような移動方法しか持たない俺は八つ当たりついでに殺される可能性だってある。
そうでなくとも、ヴァンパイアハンターや警察官が、多少の犠牲を顧みずに突撃して来て、俺諸共アシュリーを殺害せんとするかも知れない。
どちらもあり得そうだから困ってしまう。
だが今しがた周囲への避難勧告をしたという事は、極力被害は抑えたいに違いない。吸血鬼の存在を秘匿している限り、可能な範囲でそれを続けたいとも思っているのだろう。
死人が出てしまえばニュース番組等のメディアで大々的に報道されてしまう――吸血鬼の存在が漏れでもしたら尚更だ。俺という人間の死は、仕事熱心なクソ野郎共の給料へと変えられるのだ。
であればこれはただの立て籠もりであり、吸血鬼なんて恐ろしい存在は全くもって関与していない――そういう流れにしたい筈だ。
ならば俺の命を顧みずに突入、なんて真似はされない……と信じたい所である。
これで「人質を殺した方が早い」なんて結末に落ち着いてしまうと笑えない。
「あ、アシュリーさん」
「気安く呼ばないでくれるかな?」
「で、でも! 名前を教えたって事は、詰まり呼ばれても良いという事じゃ……」
「ま、いいさ。それで私に何か?」
どこかピリピリとした空気感なのは、ヴァンパイアハンターがやって来た所為だろうか。恨むぞヴァンパイアハンター!
「……ヴァンパイアハンターって言うと、吸血鬼狩りのエキスパートでしょ? なら君だって危険だ、このまま抵抗して殺されるより、大人しく捕まった方が——」
「独房暮らしなんて、死ぬのと大して変わらないよ。それなら多少のリスクは負って抵抗すべきだ。それに、一度捕まった吸血鬼なんて漏れなく殺処分――かなりの有用性を示さない限りは、ね」
彼女の言っている事も一理あるのだろう。だがそんな事は正直どうでも良い、俺は説得が失敗に終わった事を嘆いているのだ。このまま穏便に彼女が捕まれば、俺も穏当に解放されただろうに。
「安心しな。私は完全回復したらここを出て行く。修繕費なんかは、届けられそうだったら後日持って来る。だからキミは、安心して私の楯になると良い」
警察とヴァンパイアハンターが「必要な犠牲」だったと言い張る未来が見えたので、取り敢えず善後策を講ずるべきだ。
先ず「降伏・平伏」はしない。そうするくらいなら死んでやる、という意気込みで彼女は居るのだろう。…………「抵抗」以外に思いつかないのは、決して俺の頭が足りないからではない筈だ。
後は精々、平和的解決くらいだろうか? しかし吸血鬼狩りを専門とする者達が、危険な吸血鬼を野放しにするのと、俺を殺してでも彼女を殺そうとするの、どちらを取るかと言われれば恐らく後者だ。平和的解決は無理。
やっぱり抵抗するしかないらしい。
少なくとも、俺の考えるヴァンパイアハンターと吸血鬼に当て嵌めた範疇で考えるのであればこの通り。まぁ、俺は死んだ魚のような瞳で壁役を演じるのみだろう。
前途多難である。
「安心してくれよ、キミの事は守り抜いてみせるから」
「なッ……い、いや、そもそもこんな事態になってるのは君の所為で……?!」
こんな時、ドラマや漫画……少なくともフィクションの世界では「君は完全に包囲されている。大人しく出て来なさい」なんて事を言うらしいが、現実ではあり得ない。犯人を逆上させ、人質を殺す可能性がある為だ。
しかしどのようなセリフを吐いて来やがるのか、俺にはまるで見当が付かなった。
***
こんな時、ドラマや漫画……少なくともフィクションの世界では「君は完全に包囲されている。大人しく出て来なさい」なんて事を言うのが常ではあるが、こと現実に於いては勝手が違う。
そもそも気が動転していなければ基本的に立て籠もりなんてしないし、気が狂っていなければ基本的に人質なんて取らないものだ。
犯人を逆上させるようなセリフは、どのような理由があろうとも口にしてはいけない。
何が琴線に触れるとも分からない状況で、明らかに琴線に触れそうな言葉を口に出すのは愚の骨頂である。
しかし彼は犯人以上に逆上しており、更には警察関係者でもないのでそんな御約束は知らない。常ならば頭を回して「この言葉はダメだ」と切り捨てる事も出来ただろうが、彼は数時間前に十年来行動を共にしたヴァンパイアハンターの相棒を失っている。それも、数分もあれば辿り着ける場所に仇が居る。
極めつけは、これから発するセリフが不倶戴天の吸血鬼へ向けてのものなのだから、我を忘れるのも頷けた。彼とて一人の人間なのだ。
「お前は完全に包囲されている。大人しく出て来いッ!!」
スピーカーによって拡大された音声の煩わしさは、プラチナブロンドの髪色をした少女が顔を見せるには充分だった。
***
「アシュリーさん、アシュリーさん!?」
「何だい五月蠅いな。ちょっと揶揄って来るだけじゃないか」
最悪だ。あの無能警官(?)を俺の前に引き摺り出して貰いたい。そうしたら顔面に重たい一撃を入れるし、何度だって金属バットで殴ってみせる。その場に銃があったら発砲していたかも知れない。そういう意味では、彼を俺の前に差し出さない方が良いのかも知れないが。
幸いなのは、アシュリーが挑発に乗った様子がない事だろう。もしも彼女が挑発に乗って、更に相手を挑発し返した場合はどうなる事やら分かったものではない。勿論殆どの警察官は下手な真似をしないと信じたいが、一部のダメな奴等が俺の部屋まで上って来て、構えた銃を乱射するかも知れない。
そんな事にはならないだろうし、なっとしても俺の存在くらい顧慮してくれるだろとは思うがしかし、それでもそのような事態にならない事が一番である。
そうして俺は、引き摺られて行く。
「ほらほら、大人しく出て来たよ?」
『き、貴様ァアッ!! それが大人しい人間のやる事かッ!?』
生憎彼女は吸血なのだが、それを殊更指摘する心算はないらしい。彼女は彼女で、市井への配慮でもしているのだろうか? それとも単に、不必要な訂正だと割り切っているのか……。
俺を挟んで行われた短い会話は、果たして俺の思考を現実逃避へ極振りさせるには十分な内容であったらしい。
「あ、アシュリー……首が、苦しい、です」
「悪いけどこのままにさせて貰うよ。だから楯は黙ってな」
「ぐえっ」
『彼はここの住人かッ!!』
「そうだよ。偶然にもこの部屋に住んでいた」
そうなんだよ、俺は偶然にも運悪く、こうして吸血鬼の楯にされているのだ。学校の連中に話したとして、きっと相手にもされないだろう。そしてオカルト研究部辺りから勧誘されるまでがセットだ。
ヘッドロックよろしく掴み上げられ壁にされた俺は必死になって暴れるも、吸血鬼の膂力には抗えないようで、アシュリーは顔色一つ変えずに俺を掴んで離さない。
『その手を離せ、卑怯者!!』
「ふんッ、二対一で私を追い詰めたキミが何を言う。それも、安全な場所から豆鉄砲を撃つしか能のない人間如きが」
下の人間……アシュリーにどのような恨みがあるのかは知らないが、兎も角激昂している人間は周囲の警官らしき人物に諭されているものの、それを気にした様子もなく声を張り上げる。服装は黒い作業服のような物で……詰まり彼こそが、ヴァンパイアハンターなのだろう。
『クソッ!』
え? 拡声器を置いて? 傍らに置いてあった袋を開いて? 中から黒光りする何かを――何をッ!?
「アシュリー!!」
「おお、これは驚いた。まさかキミ諸共撃ち殺しに来るとは思わなかったよ。ごめんね」
「いや、それは……完全に向こうが悪い、デス」
片言なのは、俺を楯にしているアシュリーにも非があると思っているからである。
しっかし下の男はアシュリー以下だ、善良な市民である筈の俺を――しかも民衆が見守る中で殺害しようと試みるとは。吸血鬼と同じくらい恐ろしい人物である。
あちらこちらから悲鳴が上がり、彼の周囲に居た警官たちは彼を宥める。いっそぶん殴ってでも言い聞かせて欲しい。
現状アシュリーよりも、彼は俺の脅威足り得る人物だ。
あの様子では、アシュリーが逃げた後「貴様は何か知っているんだろう?」とか言って殴り掛かって来そうだ……めちゃくちゃ怖い。
先程放たれたと思しき銀の弾丸は、ベランダの屋根部分にて煙を噴き出していた。怖い。
「一つだけ保証しておこう。キミ達が余計な真似をしない限り、私はこの子――ミカ君を殺さない。だけどキミ達がちょっとでも可笑しな真似をしようものなら、私は彼を連れて逃げ、行く行くは血を吸いつくして殺す」
「なんでですかやめてくださ」
「五月蠅い」
「はいっ……」
そうして彼女は俺を掲げたまま一歩、また一歩と下がって行った。カーテンを閉めれば、俺の暮らして来た一室は静寂に包まれる。
時刻は未だ、朝八時半。先が思いやられる。
***
小さなソファーと大きなソファー、内大きなソファーの方をベランダへと運び込んだアシュリーは、満足気味に手を叩いて埃を落としていた。尚、彼女がソファーによるバリケードを構築している際に銀の弾丸が三発程打ち込まれたものの、全て標的を捉えずに終わった。
ベランダの天井部分――九階のベランダ。その裏側部分――に一発目同様付き刺さっている。
「あの、アシュリーさん」
「何だい? 一度は呼び捨てにした癖に、今更改まって」
呼び捨てにしたの、気付かれてた……。
だが俺と彼女は「被害者」と「加害者」に過ぎず、そこには圧倒的なまでの優位性が確立している。俺が下で、彼女が上。あらゆる観点から状況を見ても、この力関係は決して崩れないだろう。
「私はね、正直申し訳なく思っているんだ。偶々逃げ込んだ部屋に、偶々キミが居て。最悪キミを死なせるような事態にも、殺さざるを得ない事態にも陥る可能性がある。おまけに、血まで吸わせて貰った」
「それは君が勝手に……」
「だからキミの無礼は気にしない、私の琴線に触れない限りは、どんな言葉遣いでも態度でも構わない。私は結構、これまで上手く溶け込んで来たんだよ?」
という事は……この世界、割と吸血鬼が沢山居るのかも知れない。
俺は吸血鬼の事なんて知らないし、アシュリーの事もよく知らない。
「そう、か。そっか。あーそれでお願いがあるんだけど、」
「何かな?」
「学校に連絡入れたいんだけど。今日休みます、って」
「私をバカにしてるのかなー?」
「怒らないでよ。お、俺だって君が腹を立てるかも知れないとは思った、その上で勇気ある言動をしたんじゃないか。流石に学校への電話は冗談だけど」
アシュリーから「やっぱりバカにしてるじゃん」とツッコミを貰った。俺は意に会する事なく続ける。
「両親くらいにはさ……声、聞かせておきたいなと、そう思って」
彼女の行動次第、或いはヴァンパイアハンターや警察の動き次第では、一時間後の俺はこの世に居ないかも知れないのだ。
だから無事な内に声を聞かせたいし、聞きたい。それから一応これまでの感謝と、謝罪を伝えておくのだ。もしかすると「死ぬ気じゃないだろうな」と思われるかも知れないし、怒られるかも知れないけれど。それでもこれは伝えておくべき事柄だ。
「ダメだ。それは私の意にそぐわない」
「……うん。そっか。じゃあさ、せめて君が俺を殺す事になったら、その時だけは……」
「勿論だとも。私は優しく、慈悲深い吸血鬼だからね」
***
「カップラーメンを始めとした保存食がおよそ十個、飲み水……は必要ないらしいけど、一応水道からほぼ無制限に。お菓子はスナック菓子が幾つかと、そろそろ食べた方が良さそうなアイスクリームが三つ。野菜とかは把握してない、冷蔵庫の中を見てくれれば……」
「よろしい。さて、どうしようか」
「ナチュラルに俺を巻き込まないでくれ」
なーに悪巧みの片棒を担がせようとしているのか。俺は清廉潔白な身のまま成長して社会に出る予定なので、吸血鬼が生き延びる方法を模索したりはしない。
「お湯を沸かすのはそこのケトルで、それから――」
「えー私分かんなーい。キミがやってよ」
「え? いやだって、俺は拘束されてる訳だし……」
「ああそうだったね。はい、これで動けるかな?」
「あ、ありがとうございます……って、ええ!?」
良いんですか自由を貰っちゃって。良いんですか俺は逃げ出しますよ!!
「因みに私への敵対行為、または私の意にそぐわない行動を起こした場合は問答無用で殺すから。その積りで居てね」
分かりました絶対逃げ出したりなんかしません。え? いやだなぁ、逃げ出すだなんてそんな、考えすらもしていませんよ。
「既に玄関は封鎖してある。この部屋に布団は?」
「三枚あるけど?」
「よし。じゃあさっき見かけたベッドはバリケードに回すけど異論はないかな?」
「ベッドの方が寝心地良い……あ、はい、異論はない、です」
しかし吸血鬼とはいえ見た目は少女、果たして彼女一人でベッドを運べるのだろうか? そんな疑問も、早速カップラーメンの準備を終え、その辺りに座り込んでいた俺の前を通って行ったアシュリーの姿を目撃した事で霧散した。
一人で軽々とクイーンサイズのベットを運んでいく様は、流石吸血鬼といった所だ。
「昼食の用意は出来たのかい?」
「カップラーメンの用意は簡単だから、ちゃちゃっと」
時刻は朝九時。未だお昼時とは言えない――というか、早すぎる。
そして用意されたカップラーメンは一つだけ。この状況にアシュリーは眉を顰めたものの、俺は規則正しい生活リズムで朝食を食べているので、お腹が空き出すのは正午頃になる予定だ。
今日は学校への道を歩いていないので、もしかすると一時くらいになってようやくお腹が空くかも知れないが、それは誤差に過ぎない。こんな状況だ、食べれる時に食べておこう。
今ではないけど。
「ああ、そうか。私の分か。いやぁ助かるよ、三日間飲まず食わずで、睡眠も碌に取れていなかったからね。それと、食べながらで済まないけど、テレビのリモコンとかはあるかな?」
「ニュース番組?」
「バカ。お笑いに決まってるだろ……冗談に決まってるだろ。この時間帯でお笑いなんてやってないよ」
「……」
俺の非難めいた視線も意に介す事なく、アシュリーは物凄い勢いで、日本人じみた音を立ててカップラーメンの麺を啜る。
外国人みたいな名前だし、外国人みたいな見た目だが、日本生まれ日本育ちの可能性もある。その辺りの追求は不要だと思っているので尋ねはしないが、もしも機会があれば訊いてみよう。
俺はテレビのリモコンを操作して液晶を光らせる。チャンネルを変え、ニュース番組に合わせてみれば「速報」と銘打って俺の住まう一室をヘリコプターから映したような映像が流れて来た。
さっきからプロペラの音が五月蠅くてビビり散らかしていたものだが、テレビ局のヘリコプターなら一安心だ。
機関銃なんて搭載していないだろうし、勇猛果敢にこの部屋へと突っ込んで来る事もない筈。
もしそんな事をされたなら、俺はもう何も信用出来ない。
「吸血鬼、って情報は全然出てないみたい。俺の首に付けられた傷も、流石にカメラに映る程大きくはなかったのかな」
そう言って傷に触れてみると、
「あれっ。あ、あれ? 傷が、ない……!?」
まさか……俺は吸血鬼にされてしまったのだろうか? 吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼になる、なんて話は有名なものだが、まさか本当に……!?
このままでは俺もヴァンパイアハントの対象にされかねない。むしろヴァンパイアハンターが、俺を殺す大義名分を得たとも言える。
「安心しなよ。キミのそれは、私に血を吸われた箇所だから治りが早いだけだ。大体「血を吸われたから吸血鬼になる」というのも可笑しな話だろう? 正確には、吸血鬼の血を吸ったら吸血鬼になるのさ」
「いや……許可を貰わないと家に入れない時点で、可笑しな話もクソもないと思うけど」
「私の食事中に「クソ」とか言わない」
「はい……」
ともあれ俺の吸血鬼疑惑は晴れたので良しとしよう。吸血鬼になるのも面白そうだと思ったのだが、アシュリーが俺の部屋に侵入……招待された際に彼女は燃えていた。恐らくは太陽が弱点なのだろう。
正しくお天道様の下を歩けないとなると、それはかなり不便な生活を強いられる。
やっぱり俺は人間のままがいい。
俺が付けたテレビの中では、こちらの映像を映しながらも専門家気取りの男が偉そうな事を喋っている。実際に犯罪心理学等を学んでいるようだが……アシュリーの様子も、俺の様子も、まるで見当違いな事ばかり申していた。やはり人間の犯罪心理学は適応されないらしい。何せこちとら吸血鬼に監禁、もとい人質にされているのだ。
そりゃあ誰も、銀の弾丸を打ち込まれた挙句朝日に焼かれて熱かった、という理由で立て籠もりを始めたとは思うまい。そもそも吸血鬼という前提条件を受け入れる必要がある。これは俺の予想が半分程混ざっているが、強ち間違いでもないだろう。
テレビ番組ではアシュリーの情報が掴めていないのか、現在は何かしらに憤りを覚えただとか、被害者と関わり合いがあっただとか、その辺りの線で議論を交わしている。安全な場所から物を言うのは、随分と楽しそうだ。
現場で見ているアシュリーが、少しずつ怒りを露にしているとも知らずに。
そして彼女がブチ切れた場合、恐らく最初に被害を被るのは俺だろう。やめてくれ。
おいそこ、「今この番組を見ているなら、大人しく投降しなさい」とか言うんじゃない。見てんだよ実際に。
「あ、アシュリー。結局君は俺を楯にして、何がしたいの? 警察かヴァンパイアハンターと交渉でもする積り?」
「そうだね……。さっきも大々的に言ったように、私は回復が完了すれば直ぐにでもここを発つよ」
「回復……と言うと、太陽に焼かれた傷? それとも銀の弾丸? 傷は治ってるように見えるけど」
「回復しているのは見てくれだけさ。まぁキミの血を吸う事で、大分早く治っているけどね。明日の夜にもなれば、逃げるくらいは出来るだろうけど……」
では明日の夜が最低ラインという訳だ。
だがそれは――
「俺の血を吸う前提、だよね?」
「ああそうさ。あと二回の吸血、それから自動治癒も込みで明日の夜。大体十時くらいが出立の目安だ」
「そんな事、俺に教えて良かったの?」
「キミに何の抵抗が出来るというんだ。それに、そんな勇気もない癖に」
……人の事を見縊らないで貰いたい。俺だって今でこそ安全マージンを取っている積りだが、必要とあらば危険な賭けにだって出る。それが生き延びる為に必要な行為ならば、俺は今すぐにでも彼女に殴り掛かる。ただ、今は大人しく従順にしておく事が何よりの自衛手段だと思っているだけであって。
そう思いながら、しかし口に出す事はなくテレビへと視線を向けると、そこには見慣れた顔が二つ並んでいた。ライブ配信、場所は――この建物からほど近い、俺も足を運んだ事がある場所だ。
と言うか毎日行っているし、何なら今日も行く――もとい、通る予定であった。
***
二人が務める会社にそれぞれ連絡が行ったのは、殆ど同時刻の出来事であった。
「「三佳が人質に?」」
最初は信じられないといった様子で、しかし母が夫へと連絡を入れた事と、それからニュース番組を急ぎ見た事で、二人に伝えられた情報は真実であると仮定された。未だに信じられぬという様子で自宅マンションに駆け戻ったのは、これまた殆ど同時刻。
そこに集ったパトカーと警察官の数を見て、二人は告げられた出来事が真実であったと認識した。止めようのない焦燥、溢れ出そうな憤怒。自分達の愛息子を、人質に取られたのだという――細やかな絶望。そして犯人が告げた保証を警官より間接的に伝えられ、ようやく安堵の息を漏らした。
そして未だ繊細な面持ちのまま、不躾にもインタビュアーがやって来た事で、二人はその求めに応じたのだ。
***
『犯人はどうして三佳を狙ったのか分かりません。息子を、返して下さい!』
『私達が知る限りで接点はなかったと思います。でも、あの子は、誰かに恨まれても、ここまでされるような真似はしない筈です』
「二人とも家族思いの、良い人だ」
「そう思うなら、俺の両親に免じて解放してくれても良いんだけど」
「それは出来ない相談だね」
テレビ画面の向こう側では、俺の両親が涙ながらに熱く語っている。こうして聞くと、しかも全国放送だと思うと少しだけ恥ずかしいけど。それでも俺は、二人の言葉を、怒りを……申し訳ないが嬉しく思う。
どうもヴァンパイアハンターの野郎が発砲した事は知らされていないらしく、まだそちらに怒りの矛先は向いていない。
***
マンションの前に並び立った警官連中は持ち場を離れる素振りを見せない。時折交代しているようだが、テレビ番組から得られる断片的な情報では、事態を正確に把握する事は出来ずに居た。
変わった事と言えば、俺の住まうマンションを中心として、円を描くように立ち入り禁止エリアが指定された事くらいだろう。
「私の正体は――バレた様子もないね」
俺のスマホを弄って情報収集をするアシュリーは、何でもないように言い放つ。
因みに当然と言えば当然だが、俺はスマホを扱う権利を得ていない。何せ十秒程度で警察に状況を話す事が出来る文明の利器だ、彼女の中ではかなりの危険物扱いをされている。
それでも貴重な情報源なので、窓から外に放り出す事は出来ないとのこと。
「……ねぇ、それで俺の両親にメッセージとか――」
「ダメだと言っただろう。ああでも、向こうから送られて来た内容くらいは見て良いよ」
既読付くのでは? と思ったが口には出さない。
そこに書かれていた内容は、俺の身を心配するようなものから、気を紛らわせるような雑談まがいの物まで多種多様。不在着信も数十件はあった。
およそ全ての連絡手段を用いて連絡を入れてくれていたので、全て回遊するには相当な時間を必要とした。時刻は昼、午後一時だ。そろそろお腹が空いて来た。
次のメッセージボックスを開こうとするアシュリーだが、それは多分フィッシングサイトへのリンクだ。やめてくれ。ああほらセキュリティ対策アプリ立ち上がったよ。
忌々しげにセキュリティ対策アプリを閉じるアシュリーを後目に、俺はカップラーメンの山を見やった。山と言っても、精々三段重ねの小さな山である。
「お昼にする?」
「どうせカップラーメンだろ。私は要らない」
「素麺があると思う。夏らしくて良いと思わない?」
「いいね、それにしよう」
およそ「被害者」と「加害者」の会話とは思えない内容だが、人間も吸血鬼も食事なしには生きられない。吸血鬼の場合も食事は必須。後は飲料水でもあれば生きられるが、血液を飲めば水要らず、そして何より美味しいらしい。その結果、吸血行為を重ね、こうしてハンターに目を付けられて追い詰められているのだから笑えないのだが。
一部のSMSでは既読が付いた事を察知した両親から、大量のメッセージが送られて来ていた。アシュリーがまたもや面倒臭そうな顔をしている。
***
厳かな面持ちの警官連中。怒りを爆発させたヴァンパイアハンター。どのような感情かは分からないが、不安故か泣き続ける両親。
それら全ての原因である俺とアシュリーは、二人仲良く素麺を口へと運んでいた。
麺つゆはない。
「不味くはない」
「……うん」
ワサビを乗っけたり、辛子を付けみたり、苦し紛れに柚子胡椒を付けて、何とも言えない顔したり。そんなアシュリーを見つめながら、俺は安全牌であるマスタード素麺を食していた。そこそこ美味しい気がする。
麺つゆさえあれば幾らでも食べられるぜ! とお互いの意思が合致した為に素麺を食べる運びとなったのに、肝心の麺つゆがないという事実に気が付いたのは麺を茹で上げた後という始末。
俺は差し出されたイカ墨素麺から有無を言わさぬ気迫を感じた為、止むを得ず口に運んだ。うーん、好きな人は好きそう。
「俺は好きだけど、好みの差が出そうな感じ」
「そうか。私は嫌いだからあげるね」
もう実食した上で、しかも自分は好みの味ではなかったというのに、その上で俺へ差し出したのか、悪しき吸血鬼め。しかし中々イケる……。
そして完食。
付けっ放しのテレビでは、食事前と大して変わらない内容が延々と流れていた。評論家気取りのおっさんが、俺の家族――詰まり両親の心情を我が物顔で語っている。結構当たっていそうなのが癪だ。
「あ、そうだ。新しく届いたメッセージとかあれば、是非とも見たいんだけど……」
「まぁ良いよ。えーと、古いのからだとこれが一番――」
一人ごちるように呟きながら、彼女は俺のスマートなフォンを操作する。スクロールされ、一番上まで戻って来ると、そこに表示された最も古いメッセージボックスを開く。まだ最後まで見ていなかった、ショートメッセージの方なので個別になっている。
俺は古いのから順序立てて見て行く派なので、こうして並びを古いものからにしているのだ。
アシュリーが一番上のメッセージボックスに触れた瞬間。否、触れる瞬間。まるで見計らったかのように、そこへ電話の通知が顔を出した。通知と言うか正にこの瞬間、掛かって来た分である。
詰まる所、彼女の細く綺麗な指先は、そこに表示されたボタン――しかも緑の方に触れた。
問答無用でスピーカーフォンに切り替わった。
これは不慮の事故だ。もし俺の声が入ってしまったとしても、それは勿論事故である。何せ俺はメッセージを確認していただけであって、電話を掛けた覚えもない――むしろ電話に出たのはアシュリーなのだから、何がどう転んでも俺に非はない。断言してやる。
電話の相手は――恐らく二人とも同じ場所には居るのだろうけど、母親だった。ので、
「母さん! 俺は大丈夫、ちょっと危険かもだけど一応は無事だし、相手も徒に――むぐっ、んんー、んー! んーんー!!」
***
二人は繋がる筈のない電話を、ただひたすらに掛け続けていた。繋がると信じているのではない、何かしていないと不安に駆られて仕方がないのだ。そんな状況下に於いて、息子である三佳の為になりそうな事は、それだけで自分達の救い足り得たのである。
無意味な事と知りながらも、欠片程度の可能性があるなら縋り付く。
これは三佳の事を思っての行動というより、自分達を正統化させる為の行いなのだ。
それが悪い事とは言わない。むしろ何もしないよりは、きっと幾らかマシだろう。
メッセージだって、既読が付くものは全て既読になった。当然のように既読スルーではあるが、三佳が見ているかも知れないというだけで、二人に取っては一先ずの安息と言えるのだ。
そんな中、少しだけ時間を置いて再度繋いだ電話は――果たして、一瞬で繋がった。今までと違い、電話の「Prrrrr」という音が途切れた事でその表情は驚愕に染め上げられる。スピーカーフォンにしていた為、二人とも。
『母さん! 俺は大丈夫、ちょっと危険かもだけど一応は無事だし、』
事件発生、その事実を認知し確信してから早四時間、ようやく聞く事が叶った息子の声に二人は驚愕と歓喜の声を上げた。周囲でその様を見守っていた警官達も、心なしか驚愕にありながらも喜んでいる。
しかし次の瞬間、
『相手も徒に――むぐっ、んんー、んー! んーんー!!』
愛息子が苦しむような声を上げた事げ、周囲の空気は一変する。きっと犯人の隙を突いて電話に出たものの、直ぐに気付かれ口を塞がれたのだろう。これは不味い、警官達のみならず、一般人たる両親までもが一瞬の内に理解した。
――三佳は今、間違いなく犯人の逆鱗に触れたのだ。
傍で事の推移を見守っていた本事件の指揮監督を務める警官が声を上げる。
「――直ぐにSATを突入させます。それから、」
「それからウチも出撃するよん」
この場で最も高い権力を有している男の言葉を遮ってまで発言したのは、未だ年若い女。三佳や犯人よりは年上に思えるが、それでも成人しているかどうかは怪しい年齢だ。
金色に染めた髪を後ろで結び、所謂ポニーテールのような形に整えた彼女の瞳には、吸血鬼への対抗意識からか、血の色であり吸血鬼の双眸の色でもある赤に対して補色となっている、エメラルドグリーンのカラーコンタクトが嵌められている。
彼女は傍らに置いてあった銀製のバットを掲げ、知恵itビルの八階を指した。
「ウチが必ず助けてあげっからね」
***
電話が切られてしまった……ではなく、突然の事故で驚いてしまった。あまりに突然だった為、気が動転して良く分からない事を口走ってしまった。いやぁ誰に繋がっていた電話だったのだろう?
「キミさぁ……良くやるよ、本当に」
勇気がないなりに、蛮勇を振り絞っての行動だったが……怒ってはいないらしい。良かった。
「そ、それにしてもぅふ」
まだ気管にブツが残っていたのか、俺は言葉を切って咳き込んだ。
確かに俺は被害者に――立て籠もられてる人物として、明らかに異常な行動をした。偶々繋がった電話に向かって、意図してはいないけど、いないけど! ついつい変な事を口走ったのだ。それは彼女とて怒って当然だろう。
だが。
だからってこの仕打ちはあんまりだ。
「……ん゛ん゛っ、イカ墨で口を塞ぐ事はないんじゃない? 酷いよ」
「殺さなかっただけマシだと思って貰いたいね。まさか忘れたのかい? 私とキミの、立場の差を」
「勿論覚えてるよ。だけど俺は、突然繋がった電話に気が動転してしまって……それで、可笑しな事を口走ってしまったんだよ! 信じて欲しい!」
「信じる余地がない、けど……まぁギリギリのラインだ。「私が君を害さない」って部分さぁ、私が言うのとキミが言うのとでは、信憑性に天と地程の差があるんだよね。あんまり信用され過ぎるのも困るのさ」
それは重々承知の上だ。彼女が数日間立て籠もった後に、何もなければ俺を害さず出て行くのは約束済みだ。実際にその時が訪れるまで、結果は彼女のみぞ知る所だが。
それでも数日、少なくとも順当に行けば約二日は両親と会えない計算になるだろう。既読スルーばかりで生存報告をするのも寂しい物だ。
それにああ言って安心させてやりたい、という気持ちも彼女なら分かってくれるだろう。
何せ彼女は極悪人の類ではない。人を殺した事はありそうだが、やんごとなき理由があったのかも知れないし……。兎も角俺は、彼女を根っからの悪人だとは思っていない。勿論これは俺の推測に過ぎないけれど。
アシュリーという一人の吸血鬼と数時間を過ごし、彼女という人格が少しだけ分かって来た気がする。
きっと彼女は、無益な殺生をしない。
初動で俺以外の血を吸いに行かなかったのも、きっと多くを巻き込みたくないという理由で。他にも予測は立てられるものの、俺はこの説を信じていたい。
だが俺の血を吸いながらも、吸い尽くさないのなんて何よりの証拠ではないか。後二回程、彼女は俺の血を吸うと断言した。その二回分は、今俺の体内にある分を全て吸い尽くせば、余裕で事足りるのではないだろうか?
だからこそ俺は彼女を少しだけ信じつつある。
止むを得ず俺を殺す事はあっても、無益な殺生だけはしないと。
…………。
少しの沈黙があったお陰で、俺達はその存在に気付けたのだと思う。
正確に言えば俺は全く気付いていなくて、何らな今だってまるで分からない。先程までと変わらず静寂が広がっているように感じていた。
音量の下げられたテレビの方を見やれば、SATと一人の女性が突入して来る様が映し出されている。物騒だ。
まさかアシュリーは、ここ八階から一階の音を聞き取ったのだろうか?
「タイムリミットは一分と少し。いや、正確にはそこからバリケード突破にまで時間が掛かるから……三分といった所かな」
「何をする積り?」
「それは勿論、平和的な交渉だよ」
少なくとも悪辣な笑みを浮かべながら口にする内容ではないだろうし、少なくとも俺を担ぎ上げながら言う内容でもないと思うのだが。その辺りはどのように考えているのだろうか?
気持ち程度に爪を長くした彼女は、俺の首筋にそれを突き立てて玄関の方へと鷹揚な所作で歩いて行く。
「こういうのは雰囲気が大事なのさ」
「だから何を――あいたっ」
わざわざ目を向ける必要もなく、アシュリーの爪が俺の首筋に突き立てられているという事が分かった。僅かな痛みに目を細めながらも、俺は彼女の機嫌を損ねるのは得策ではないと判断し――邪魔をしないように口を堅く結んだ。
彼女の話を聞いて来た事で、彼女への信頼は少しだけ高まりつつある。だがそれはマイナスが取れてゼロになったと言うだけの話であり、決してプラスに傾いたという訳ではないのだ。
どちらにしろ吸血鬼で、どちらにしろ立て籠もり事件の犯人。その心中を全て察しろというのは無理がある。
ましてや模範的な一般市民である俺には、少しばかり難し過ぎたようだ。
「良いかいミカ君。私は最悪、ここでキミを殺す事になる。必要な分の血を吸って、ここを発つよ」
「――――」
詰まりだ――言葉にも詰まった――詰まり、現在必死に階段を上っているであろう連中がここまで辿り着き、もしも扉を破って、もしもアシュリーを追い詰めたとして、もしもその時にまだ俺が彼女の手が届く範囲に居たならば。俺の命は保証されないどころか、むしろ絶望的な状況になる。
「いや、いやだ! 良くないよ、何も良くないっ。勝手に決めるんじゃない、勝手に俺を殺すな、殺さない、で……」
だが……落ち着け。彼女とて俺を殺すのは、本望ではないと言った。ならば、
ガンガンガンと、五月蠅いくらいに扉が叩かれる。本当に警察なのか疑わしくなってきた、何せこれは――犯人を刺激しかねない。
「おーい、無事かなぁ? 三佳君、聞こえるー?」
間延びした声で俺の名を呼んだのは、扉の向こうに居る誰かだ。もっと事細かに言えば、扉とその前にあるバリケードの向こうに居る誰かである。
彼女はおよそ場に相応しくない口調で尋ねると、俺の返事がない事を疑問に思ったのか、発声を止めた。
それを見計らってか、アシュリーが口を開く。
「何か用だい? 下手な真似はするな、と忠告しておいた筈だけど。ミカ君の命が惜しくないと見た、なら――もう役には立たないよね」
「ま、ちょ、ちょっと待って。俺は、俺は肉壁くらいには使える筈だ、だから、だから爪を引っ込め」
「お生憎様、キミをわざわざ肉壁にするより、キミの血をぜーんぶ吸って、一人で飛んで行った方が幾らか安全なんだ」
嘘だ。きっと嘘だ。
時間的に打ち合わせが出来なかっただけで、彼女の言葉は演技に過ぎない。
何せ本当に殺す積りならば、彼女はその鋭い牙を俺の首筋に突き立てる筈だから。殊更に爪で脅すような真似は必要ない。
「ちょ、ちょっとタンマ! それってもしかして、ウチ等が来たから殺す感じ?」
「あぁ」
「うーん……そりゃ不味いな。っし分かった、それなら日を改めるわ! また明日ッ!」
***
『えー、あっ! 只今SATの皆さんが戻って――』
「何も、されなかった」
「きっとキミを見捨てるのは世間体的に良くないんだろう」
「もっと言い方無かったの?」
……と、ともあれ窮地は脱したと言える。今後どのような展開が待ち受けているのかは分からないが、一先ず延命処置は成功……首の皮一枚繋がった。
それにしても先程の――ギャル? は心臓に悪い。
「俺を……俺を殺すって言ったのは」
「それは嘘半分だよ」
「って事は半分が本気……」
「あぁ。もし彼女を初めとした連中が無理矢理にでも入って来る素振りを見せたなら、私は遠慮なくキミの首を掻っ切って、体を陽射しに焼かれながらも飛び立っていた。運が良かったね、ミカ君」
「じゃあ俺は、これからも生き延びる為に……。こうして延命を続けなくちゃならない、結果的にアシュリーを庇うような立ち回りをしないといけない、のか」
「そうなるね。頑張れ!」
「他人事みたいに……!」
俺は彼女への認識を改めるべきだ。結局俺と彼女の関係は「被害者」と「加害者」であり「利用される者」と「利用する者」でしかない。それ以上でも、それ以下でもないのだ。だから彼女は、状況によっては遠慮なく俺を殺すのだろう。
俺に利用価値がないと知っても殺さないだろうが、プラスマイナスで、もしも俺を連れていた場合にマイナスへと傾くのならば、きっと「お荷物」だという理由だけで命を刈り取られる。
それから、俺の死が彼女のプラスになる場合も。
「分かったよ。あと、それから……殺す時は、一瞬でお願い」
「……勿論だとも。無為に苦しめたりはしないよ。まぁ、私が生き残る為には、そういった非人道的な手段も選ぶけどね。だからこそ無為に苦しめたりはしないんだよ」
必要とあらば気付け、苦しめる。
それが彼女の答えだった。
***
時は少し遡り、同日、十二時半。
その日、夜尾場高校には激震が奔った。とは言え極一部の生徒に限定されたものではあったが、当人達に取っては決して看過出来る事柄ではなく、同時に脇目も振らず行動を起こすには充分な出来事だったのだ。
「な、なあ、これって……」
この中の誰も知らないビル。どうも会社のオフィスだとか、そういった類のビルではないらしく、どちらかと言えば人が住む事に重きを置いたような建造物だ。
彼等は皆総じて交友関係が少ない人物である。そして同時に、皆総じて仲互 三佳の友人でもあった。
彼等の内一人が、クラス替えと同時に仲互 三佳と隣の席になり、話し掛けられた。そこからはマニアックなアニメ等の話――彼が知らないであろう話題――にも悪い顔一つせず付き合ってくれた。そんな人柄に惚れた、或いはあまり遠慮しなくても良い相手は、彼等に取っても付き合い易かったのかも知れない。
そこからは鼠算式に、オタク仲間達に彼を紹介した。
未だ重度のオタクにこそなっていないが、それも時間の問題だろう。
故に彼は、充分に好感の持てる友人と言えた。
そんな彼の姿が、三人に取り囲まれたスマホの液晶に映っている。
「三佳だ……間違いない」
「だろ? 何か美少女に捕まってて羨ましい……」
「バカッ、こいつは事件に巻き込まれてんだぞ」
沈痛な空気が場を支配して。昼食を胃の中に掻き込んだ三人は、急ぎ担任の教師へと早退を告げる。
斯くしてデブな大岩、それとは相対的に身長が高く体重の軽い野田、そして模範的な陰キャを体現したような、眼鏡を掛けた前髪の長い田村。以上三名が、この日学校を早退し――家に帰る事もなく、どこかへ消えたのだった。
***
俺の交友関係と言えば、少々悲しいものである。無論気の合う友人は居るし、学校で苛められているという事もない。
誰かに告白される事はないものの、それを差し引いても楽しい日々を過ごしていたと言えるだろう。告白された事はない、断じてありはしない。あったとしても記憶には残っていない……ッ!
だが依然として交友関係は寂しい。
友人の数を数えるには、片手の指で事足りる。友情の質は中々に良い物であると自負しているが、相手が俺の事をどのように思っているのかは分からない。
そして俺と友達になってくれるような人物と言えば、何故かコミュニケーション能力に難があるようなやつばかりなのだ。
そしてここからが本題なのだが。俺が凝視した先のテレビ画面では、光の融合によって見覚えのある人物三名が映し出されていた。
「キミの友人面した彼等は?」
人呼んで、痩せればカッコいいと噂の大岩 九魔御。
筋肉を付ければカッコいいと噂の野田 煌輝。
もう少し美容に気を使えばカッコいいと噂の田村 光哉。
俺達のグループ内での噂、とかではなく実しやかに囁かれている以上三名の姿が、そこにはあった。
因みに俺は、ちゃんとカッコいいと噂の仲互 三佳である。
思わず漏れた溜息を聞きつけたのか、アシュリーが俺の顔を覗き込んで来る。先程食事を終えた後、俺はトイレで用を足してからリビングルームに戻って来ていた。念の為という名目で、両手を固く縛られている。
ああ、それから、俺の暮らす一室のトイレには窓が完備されているのだが、アシュリーによって板材を張り付けられていた。釘とハンマーなんてどこにあったのやら。
もしかすると素手で釘を打ち付けたのかとも思ったが、釘だけあってハンマーがないなんて、そんな訳もない。
「いや……あれ。俺の、一応、友達」
「ふーん、仲は良かったのかい?」
「まぁ、ぼちぼちかな」
本当に、ぼちぼちなのだ。俺は彼等と仲良く接していた記憶があるのだが、実際人の心なんて分からないもので。そこらの吸血鬼が抱く思考よりは単純明快だろうが、結局の所他人に変わりはなく、俺はそんな他人の心を推し量れない。
無論想像する事は可能だし、別に苦手でもない。
だから「結局は分からない」という話であって……それなら、仲が良いと嘯いても大丈夫だろうか。
『仲は良かったです。色んな話に付き合ってくれて……』
「……キミは好かれているらしいけど。随分と淡泊じゃないか」
それなら良かった。
テレビの前で――そして知恵itビルの前で――堂々と語る大岩 九魔御はどこか照れくさそうに頬を掻いて。俺は嬉しさと申し訳なさ半々の心境でそれを見つめていた。
少しして、テレビ番組の風景がスタジオに切り替わったかと思うと、「次は専門家の方から意見を伺いたいと思います」なんて言葉と共にまたもや俺の住まうビルが映し出された。
しかし撮影している角度は先程と違い、移り込む人物もまたそれに伴って変わっていた、のだが……。
「アシュリー、あ、あれって……」
「あぁ、ヴァンパイアハンターの」
そこに映っていたのは俺ごとアシュリーを殺害せんとしていた恐るべきヴァンパイアハンター。まだ若々しい男だと思っていたが、カメラを通して間近で見て見れば、それが事実であったと良く分かる。
彼は俺を殺してしまおうとしていた時は打って変わって、毅然とした態度でインタビューに答えていた。
『監禁……今回で言えば人質ですが、結局は監禁と大差ないでしょう。そのような状況下で被害者が加害者に共感を抱いてしまう事例があります。このままでは三佳君にどのような影響があるか分かりません。可及的速やかに、SAT等による鎮圧が好ましいですが……』
『やはり危険が伴う、と?』
『はい。警官隊としても、被害者は出来る限り傷付けずに確保したいでしょうから』
「良く言うよ。あぁでも、自分は警察でもないから言いたい放題なのかな」
「だろうね。キミの命なんて、彼はむしろ邪魔に思っているくらいだよ」
画面の向こうで本性を押し隠しくっちゃべるヴァンパイアハンターを見ていると、どうしても殴り飛ばしてやりたくなる。こいつ逮捕されないかな?
しかし困った……俺はアシュリーに対して、そして警察とヴァンパイアハンターにも自分の有用性を示しておく必要がある訳だ。もしも保身の為とは言えアシュリーの味方をしていては、ヴァンパイアハンター諸君に敵だと思われかねない。
時刻は午後三時に差し掛かりそうな頃合で、しかし夏であるが故に太陽が沈む気配はない。アシュリーの活動時間としては、まだ早いくらいだ。この後夜の帳が降りれば、きっとそこは彼女の独壇場になる。少なくとも、朝方や昼間よりは幾らか脅威度が増す事請け合いだろう。
――吸血鬼の弱点と言えば、十字架や銀製の武器。残念ながら俺の家に銀製のナイフやフォークはないし、十字架も持っていない。ニンニクも多分常備していなかったと思うし、俺がもし彼女を殺せるとしたら、お誂え向きにそこらを転がっていた杭で、心臓を穿つ事くらいだろう。
問題点を上げるとすれえば、そのような得物に一切の心当たりがないという事くらいである。
果たして彼女がいつ何時睡眠を取るのかは分からないが、伝承に因れば朝方は本来、棺に入って眠るとされている。そこが好機だ。
俺は吸血鬼に有効な素材の杭なんかは持ってはいないが……鉄の杭の代用としてアイスピックなんかどうだろう? 杭と定義出来るかも知れない。銀製でないのが不安である。
「そうだね……キミに残された突破口と言えば。――私を殺す積りかい?」
「いや……」
殺したいのは山々だけど、と言いかけて口を噤む。そんな事を言ってしまえば、最悪殺される可能性がある。彼女が俺に危害を加えないのは、飽くまで俺が脅威足り得ず、同時に有用である場合のみだ。そんな俺が彼女に仇名す存在になれば、問答無用で殺されてしまう。
もしも彼女に武器を向けるとなれば、それはもっと大事な局面であるべきだ。
なのでごく自然かつ、彼女に害を及ばせて、しかも俺は悪くないと言い張れるような方法と言えば……知らない振りをして、伝承に則り粒状の物でも数えさせるくらいだろう。思い当たる節がないのは唯一の懸念点である。
「別に、殺せるとは思ってない」
「じゃあ殺せたら殺す積りなんだ、へぇ」
「……俺は、君と苦楽を共にする仲間でもなければ、同棲しているカップルでもない。君は俺を人質に取っていて、俺は人質に取られている側で。敵愾心を持つのは当然だ……けど、君を害する事は難しそうだし、成功しても俺くらい道連れに出来るでしょ。そして君は間違いなくそうする。俺の目的は第一に生き残る事だから、」
「でも殺せそうな瞬間が訪れたなら、キミは遠慮なく私を殺すだろう?」
「俺はいつだって殺されそうだけど?」
俺がそう言ってみせると、アシュリーは「それもそうだ」と笑い始めた。いつだって俺を殺せるし、自分の都合でいつでも殺す積りだ――隙を見せれば俺に殺される程度のリスクは、背負って貰わなければ釣り合わない。
彼女の気分を害する言葉かも知れない、とは思ったものの、俺だって憤懣が溜まっているのだ。このくらいの言葉は許して貰いたい。
ただ、こうやって自分の考えを口にできるのも、やはり彼女の人となりを少しでも知れたからだろう。
「あー、全く。そう考えると、キミは随分と哀れな子だね」
「そう思うなら解放してよ」
俺の健気な要求は、当然の事ながら却下されるのだった。
***
午後十時。野次馬共も帰路に就き、警官の姿は逆に増加して来た頃。
本来であれば犯人が寝静まったりして、警官隊が突撃してくる時間帯だ。だが今回立て籠もっているのは吸血鬼であり、夜でこそが本領を発揮出来る種族である。
――だからこそ、だろうか?
俺に命令して布団を敷かせたアシュリーは、玄関と大窓にバリケードを作成したお陰で家具が無くなり、やけに広々とした印象を受けるリビングのど真ん中に寝転がっていた。
「……夜なのに寝るの?」
「おや。キミは昼夜逆転が常な人間だったのかな? 人間なら夜に寝ろよ。最近の人間は吸血鬼みたく夜中に活動している輩も多いからねぇ、昔よりも随分と動き辛くなった」
「そんな事は訊いてない。君が、吸血鬼である筈の君が、どうして夜中に寝る必要があるのかなって」
お道化たように肩を竦めて、アシュリー。
「……実の所、私はここ三日程寝てないんだ。それに夜が主な活動時間であるだけで、何も朝方から昼にかけて眠っておく必要はない。ほら、キミ達人間の一部が――さっきも言ったように、夜を主な活動時間としているのと一緒だよ。そういう人間は昼間に睡眠を取るだろう? 私もそれと同じって事さ」
成る程。言われてみれば理に適っている。夜を主な活動時間としている吸血鬼が、まさか夜に寝静まっているとは思うまい。
だがそれは吸血鬼を架空の存在だと断じていた俺の考えでしかないのだ。果たして吸血鬼狩りのエキスパートであるヴァンパイアハンター達は……。
「そう難しい顔をしないでくれよ。キミは大人しく、私の楯となり餌となれば良いのさ。ほら、こっちに来るんだ」
「?」
「うん。首の傷は粗方治っているね。さて……」
両手を縛られたままの俺は、アシュリーに促されるまま、その傍まで歩く。布団の上で手招きをしていた彼女は俺が近付くや否や、俺の頭髪を除けて首筋の傷跡を確認した彼女は、俺の腕を容赦なく掴んで――。
「もう我慢出来ないや。殺しちゃったらごめんね」
「い……ッ」
痛みを感じたのはほんの一瞬。いや、正確にはその後も続いているのだが、本格的に痛かったのは最初だけである。数秒間、十秒かそこらの時間が経過し、彼女は仕事帰りのサラリーマンが居酒屋で安酒を呷った時のような、「ぷはっ」という声を上げた。
尚も俺の手首から血が滴る様子を眺め、彼女はそこを一舐めする。
唾液が入って吸血鬼に、なんて洒落にならない。
「吸血鬼の唾液には治療効果がある。吸血鬼の血液には更に莫大な治療効果と、相手を吸血鬼化させる効果がある」
彼女は「私の唾液を取り込んでも吸血鬼にはならない」と暗に示してくれた。
少し頭がくらくらする。
「ちょっと、吸う量が多かったんじゃない?」
「そうかな? そうかも知れないね」
冗談じゃない。
「でも安心して欲しい。キミにはまだ利用価値がある」
「…………」
俺に出来る事なんて、しぶとく生き残り、全てが解決した後に生き永らえさせてくれるように願うくらいだ。無力な一匹の人間に出来る事なんて、精々その程度。
「お休みミカ君」
そう言ってアシュリーは眠りに就いた。不用心にも、俺に多少の自由を残したまま。
***
顔を近付けてみる。プラチナブロンドの髪を持ち上げてみる。
首に手を触れさせてみる。その首を絞めるような愚は冒さないが、触れただけでも敵対行為に等しいだろう。……反応はない。
最後に彼女の脚部に触れてみようとして、それは男としてどうなのか、と手を引いた。
息を殺し、足音を極力抑えて一歩一歩確かに踏み出す。
キッチンに立ち、ありとあらゆる棚を開けた。
アイスピックは二本程あったので、その位置を記憶しておく。万が一の有事に備えて――既に有事だ――いつでも速やかに、取り出せるよう準備しておくのだ。
一応ニンニクも探してみたのだが、それらしい物はなかった。あったとしても、アシュリーが真っ先に処分したのだろう。
そして本命の……
俺はキッチンの棚から一つの袋を取り出した。ご飯と一緒に炊いて食べると美味しい黍である。吸血鬼は細々とした物を見ると数えたくなってしまうと実しやかに囁かれているので、これ等をばら撒いておけば数秒程度の足止めにはなると考えての行動だ。
米等でも代用出来るかも知れないが、細々の定義は人それぞれ、いや吸血鬼それぞれかも知れないし……そもそも吸血鬼の共通認識で米サイズは細々とした物に入らないかも知れない。だからといって小麦粉等は細々というか粉なので、用意出来る範疇で最適なのは黍だと思った次第である。
時刻は丁度日を跨いだ午前十二時。
真夜中、自宅に黍を撒く怪しげな青年の姿がそこにはあった。
何もアシュリーを殺す必要はない。要は俺が生き残れば良いのだ。
そんな状況で、彼女の脅威から逃れるにはどうすれば良いか……追い出してしまえば良いのだ。殺すのはヴァンパイアハンター達に任せれば良い。俺は彼女を自宅から追い出し、拒絶する。
一度入った家ならば問答無用で侵入が可能かも知れないが、試す価値はあるだろう。
しかし失敗への道は数多くあり、どれだけ緻密な策を弄しても、予想外の事態は起こってしまう物だ。そんな時に彼の黍様が居れば、アシュリーに言い訳の声を届けるくらいの時間は稼げる――と、良いな。
見れば彼女はぐっすり眠っている。ちょっかいを掛けても目を覚ます気配はなかった。
やるしかない、という事もないが……成功した時の見返りは凄まじいだろう。何せ命の保証がされたも同然なのだから。
もしもその後、彼女がヴァンパイアハンターの魔手から逃げ延びた――もしくは迎撃し切れた場合はとても不味い事になるのだが、それも今よりはマシだろう。
何せ現状、いつ殺されても可笑しくはない訳だし。
それに、この世界には「終わり良ければ総て良し」と言う言葉がある。こうして俺の心の支えとなってくれたシェイクスピアさんには、感謝の念が絶えない。
丁寧な手付きで窓のバリケードを崩す。絶対に音を立ててはいけないという緊張感が、焦りへと変わって行く。出来る限り呼吸音すらも抑えて、一度ゆっくりと深呼吸をした。
最悪腕の一本でも出ればそれで良い。知恵itビルの下に集まった者達に、状況の変化を伝えられればそれで構わないのだ。
予備の椅子まで持ち出して形成されたバリケード。そこから二つの植木鉢と一つの机、次に中位のソファーを退ければ恐らくは手が出せる。
狙い目のソファーは小さめのサイズなので、それを持ち上げる事は容易い。大きい方のソファーは玄関のバリケードと化している故、そちらもどうにかして除ける必要があった。
しかしこの小さなソファー……両手が縛られている状態では開け辛い。
アシュリーは、自分が俺に殺されない、または殺す事が出来ないという確信を抱いている。それは間違いないし、現に事実だ。
だが俺が脱走しないという仮説はハズレである。そのくらいの勇気は、蛮勇は、残念ながら持ち合わせていた。
俺は玄関のバリケードの一部と化した勉強机の引き出しを開け、一つのハサミを取り出した。アシュリーの敗因は、俺の足を縛らなかった事だろう。
「…………よしっ……!」
小さくだが、思わず声が漏れる。
慌てて口を閉じ、俺は再度リビングのバリケードへと挑む。
小さなソファーを退けてやれば、そこからは微かな月明かりが差し込んだ。
俺は右手と顔を出して大きく手を振る。
何やらスナイパーを構えている人物が見えたが、俺は構わず手を振り続ける。恐らくはアシュリーと勘違いしてその銃口を向けたのだろうが、俺しか居ない所を見れば撃つ必要性もなくなるだろう。
ジェスチャーで必死にアシュリーが眠ったという旨の主張を必死に行えば、やがてスナイパーは下げられて、地上のヴァンパイアハンターを始めとし、警官隊が慌ただしく駆け回る。武装した部隊……SATも居るようなので、直に突入して来るだろう。
となれば俺の成すべき事は、あと一つ。アシュリーをこの一室から追い出すのだ。これで吸血鬼との共同生活ともおさらば出来る。
玄関のバリケードは、一つずつ順序立てて引いていけば、案外簡単に通り道が出来上がった。
俺は自室から引っ張り出した、中学時代、野球部に入っていた名残のヘルメットを装着し、金属バットを玄関の傍に置く。これで少しは戦闘力・防御力共に上がった筈。
万全を期し、アシュリーを布団ごと引っ張っていく――。
我ながら、かなりのリスクを背負っているとは思う。
だがこの程度のストレスで吸血鬼を追い出せるならば、この程度のリスクで再びの安寧を手にする事が可能ならば、俺は喜んで危険な近道を選ぼうではないか。
玄関前まで辿り着き、扉を開いて、布団からアシュリーを持ち上げ抱き抱え、それから彼女を乱雑に投げ飛ばした。
グッスリと…………それこそ俺がバリケードを崩していても気付かず、俺にお姫様抱っこをされても目を覚まさなかったアシュリーだが、固いコンクリートの床に叩き付けられては流石に目を覚ますというもの。
限界まで開け放たれた玄関扉から、少女の矮躯が飛び出していく。
俺と同じくらいの大きさをした、それでも俺より少しだけ小さな影が撥ねる。
驚異的な再生能力を持つ吸血鬼とは言え、銀の武器以外でも痛みを感じたのか。それとも単に驚いただけか。呻くような声を上げたアシュリーは、力無く仰向けに寝転がると同時、真紅の瞳で俺を見やり――
「――ミィイイ……カァアアアアッ!!」
バタン、という音を立てて扉が閉まった。
牙を剥いた、ともすれば吸血鬼らしい剣幕が、酷く印象的だった。
「入って来るな、吸血鬼」
改めて、俺はここに「拒絶」を示す。
***
後輩である丘霧 霞からの報告によって吸血鬼アシュリーの行動を予測した結果、未だヴァンパイアハンターやSATは動けずにいた。
復讐に燃える鬼、とでも形容すべき形相で空を――もといビルの八階を見仰いでいた男は、覗いた双眼鏡の先に青年の姿を捉えた。その瞬間、彼は大急ぎでスナイパーライフルを構える。双眼鏡よりも倍率が高めに設定されたスコープを覗けば、先程よりも鮮明に青年の姿を確認出来た。
彼――青年は、見て取れる限りでも両手は拘束状態にないらしく、大仰な動作で何かを伝えようとしていた。彼の背後に不倶戴天の吸血鬼の姿はない。
時刻が夜、則ち太陽が昇っていない時間帯である事から、これが罠ではないのかと邪推する。しかし彼の考えは、直ぐに忘却の彼方へと送られた。
(睡眠……? 眠る……? 後ろ、室内……室内に居るのは――)
数秒間の思考を経て、男の思考はある一点に纏った。
(吸血鬼。あの吸血鬼が眠っているとでも……!? いや、だが……確かに裏を突いた行動だ)
吸血鬼に大抵の攻撃は通用しないし、もし有効打であってもそれが銀によって形成された武器でもなければ瞬時に再生されてお終いだ。弱点は多々ありながらも、それを補って余りある利点だろう。
ただしそんな吸血鬼も、決して万能ではない。――もしも意表を突けたならば。
朝から昼は睡眠を取り、飲食もまた必要としている。
水分補給なんかは水でも構わないのだが、それは人間の血液でも代用が可能だ。吸血衝動は人間でいう所の性欲――決して我慢出来ない物ではないものの、我慢し難い物だろう。
だが。今更吸血鬼を赦す事は出来ない。
彼等彼女等は数多の人間を殺害せしめ、過去には敢えて苦痛を与え、辛苦の中で嬲り殺しにされた人間も居る。それは彼の有名な、チェイテ城での出来事が主な事例となっていた。
幾ら殺しても吸血鬼は稀に生まれる。そこに血の繋がりはないが――それは人間から吸血鬼が生れるケースに限る。
吸血鬼の子は、総じて吸血鬼であるが故に。
バートリ・エルジェーベトという女性は、一応アシュリーの母親に当たる。その実血は繋がっていないが、名義上は間違いなく母なのだ。
そんなバートリ・エルジェーベトの息子娘は全て吸血鬼、その夫が別の女性と拵えナーダシュディ・アシュリーと名付けられたそれも、また生まれながらに吸血鬼であった。
詰まり吸血鬼であったのはバートリ・エルジェーベトだけではなく、しかしフェレンツだけでもない。
二人とも、だ。
かつてフェレンツから拷問の術等を教え込まれたエルジェーベトは、返り血の付着した部分の肌が、いつもより艶やかである事に気が付いた。それからは猟奇的な拷問と、血を求める日々。
若い血の方が美しくなれる。拷問器具は程よく錆びていると痛みが増して良い。男の方が血は野趣な旨さがある。女の血は繊細で舌触りが良い。
人体の一部を切断してしまうと死期が早まるので、傷を付けるなら「刺す」方が長く楽しめる。老骨の血は顔を顰めてしまうような味わいだが、偶に飲む分には楽しめる。
そんな事まで分かってしまう程に、彼女は拷問と血に溺れて行った。
それは彼女の悪事が世間に気付かれ、捕縛されるまで続いたという。
それが約五百年前の出来事。
そして今、この現代に於いてまともな吸血鬼は居るだろうか?
答えは「是」。そういった類の吸血鬼は間違いなく居る。だがヴァンパイアハンター達に齎される情報は、常に被害報告のみだ。無論彼等も善良な吸血鬼が居る事は知っている、そしてどれ程までに悪辣な吸血鬼が居るのかも、また同様に。
被害報告があれば駆け付ける。命に別状がない範囲での吸血行為であれば、黙認もする。
ヴァンパイアハンターが殺す相手は、殺害するターゲットは詰まる所……。
――誰かを殺した吸血鬼だけだ。
例えどれだけ残虐な吸血鬼を生んだとしても、例えどれだけ邪悪な眷属をを作ったとしても、それだけで殺される事はない。ヴァンパイアハンター達が殺すのは、意図して人間を害するような教育を施す吸血鬼か、或いは先程述べた内のどちらか一方である。
無論、両者共に当て嵌まる個体も居るのだろうが。
だから争いはなくならない。人間にその力があれば、美辞麗句なんかはかなぐり捨てて吸血鬼を皆殺しにした事だろう。その力がないからこそ、偽善者で居るだけの話である。
ヴァンパイアハンター達の考え方はこうだ。「猟奇的な下手人も、それを企てたブレインも、知らずに包丁を売った店主も、皆総じて罰を受けるべきだ」、と。
ヴァンパイアハンターの掲げる理想は、口にこそしないものの吸血鬼の殲滅にある。
口では「殺しをしない吸血鬼は害さない」などと言っておきながらも、畢竟彼等は吸血鬼を須らく敵視している。
そういった考えに陥る原因としては、ヴァンパイアハンターの殆どが吸血鬼に怨恨を持つ人物で構成されている事が挙げられる。
しかし何事にも例外はあるもので、彼もまたその一人であった。
岸波 零士。
吸血鬼の襲撃に遭ったと思われる惨状――日本某所の安アパートで、両親と思われる血塗れになった惨殺死体と共に発見。頭部を含む全身に打撲痕があり、「吸血鬼にやられた」という旨の話をしていた。
だがベテランハンターである石川 雷蔵に追い詰められた吸血鬼を殺す前に尋問した所、「甚振るくらいならさっさと殺す」という返答が返って来た。
両親を殺されたにも関わらず、岸波 零士は嗤っていた。まるで邪魔くさい手枷足枷から解き放たれたかのように。
そういう意味では、彼の吸血鬼に抱く敵愾心は微々たるものであった。
ほんの数時間前までは。
「直ぐに部隊を編成して下さい。丘霧も連れて行くと良いでしょう……彼女はあんなナリですが、腕は立ちます。私は万一に備えてここから狙いますで、最悪逃がす場合は窓側からお願いします」
耳聡い吸血鬼にも聞き取られぬよう、極力抑えた声音で警官隊の現場指揮官に告げる。
少々ふくよかな――しかし良く見れば中々に筋骨隆々な中年男性は、僅かに眠気を感じさせる表情で、だが力強く頷いた。
それから午前十二時という時間帯にあっても、昼間となんら変わりないパフォーマンスを見せつけ、速やかに集結したSATを一瞥し、彼は突撃の合図を出そうとする。しかし。
「一番槍はウチっしょ。さぁ付いてきな特殊急襲部隊の皆ー! 今度こそ三佳君を助けるよ」
輪を乱さぬよう――既にギャルのような風貌のヴァンパイアハンターが輪を乱しまくっているが――目礼と首肯だけで同意を示した警官隊、もといSATの面々は、厳かな面持ちで足音は抑え、知恵itビルへと突入するのだった。
***
階段を駆け上がる、という動作は往々にして苦しい物だ。重厚な装備なんかを装着していれば、それは重い荷物を持った状態に等しいか、それ以上だ。だが彼等は訓練を受けた特殊急襲部隊であり、呼吸一つ乱す事なく階段を駆け上がる事が出来る。
そんなSATと呼ばれる彼等は、吸血鬼という未曽有の相手に対して戦々恐々としていた。SATの役割はテロ等の有事に対処する事であり、それらは精々が「武装した人間」を想定してある。決して吸血鬼への対抗策なんて物はこれまで講じて来てはおらず、そもそも吸血鬼という架空の存在が実在していると知らされたのも、数刻前と直近の出来事なのだ。
しかも生半可な吸血鬼ではなく、実在する吸血鬼の中では原点とも呼ばれる世代。
チェイテ城のバートリ・エルジェーベト。そしてその旦那、黒騎士ナーダシュディ・フェレンツ二世。その二人こそが確認されている中では最初の吸血鬼。
詰まりは全き吸血鬼の始祖である。
そんな吸血鬼の実の娘が、今回の相手だと言う。
よって、強い。
初めての対吸血鬼作戦にして、凡そ最大とも言える敵を相手取る必要がある。
銀の弾丸は大急ぎで補給された。装備は全て最高品質の物を揃えた。公言こそ出来ないが、吸血鬼アシュリーという人物はそれ程までに脅威であり、滅ぼすべき敵なのだ。
因みにベテランのヴァンパイアハンターである石川 雷蔵を殺害した、という情報は無論伏せてある。部隊の士気に関わって来るが故に。
この作戦は、言わば本職のヴァンパイアハンターがアシュリーを殺す為に、SATの隊員を使い潰す、という非人道的な物であった。
それを知るのは、計画を打ち立てたヴァンパイアハンターの面々のみである。
何せ吸血鬼の恐ろしさを充分に理解しているのは、ヴァンパイアハンターだけなのだから。
斯くして八階までの階段を上り切ったSAT、そしてその面子を引き連れて我先にと駆けあがって来たのは丘霧 霞。剣士とは名ばかりの、金属バットならぬ銀バットを扱い吸血鬼を撲殺してきた殺戮者であり、人間社会の守護者でもある。
「っし……行くよ、多分ソッコーで戦闘になるよん。ヤバいよね」
常であれば語尾に感嘆符を二つ程付けて喋っていた筈の丘霧 霞とて、最高位と恐れられる吸血鬼と対峙するともなれば、心なしか口調も大人しくなる。それ以前に、耳聡い吸血鬼アシュリーとの接敵を前に、出来る限り静かに振る舞おうという心掛けもあった。
一度訪れている為に、部屋の位置は把握している。
奥まった一室。勢いよく閉じられる扉。轟く、少女の声。
「――ミィイイ……カァアアアアッ!!」
ちらりと垣間見えた青年の横顔は、清々しさに辛苦の色を織り交ぜてあるようで、
「入って来るな、吸血鬼」
***
一瞬ではあったものの、視界の端にSATらしき警官隊と、ヴァンパイアハンターらしき少女……いいや女性か。兎も角その姿が見えた。
アシュリーは逃げるのだろうか? それとも戦うのだろうか? 曲りなりにも俺から血液を補給していたので、全くの無力という事もないだろう。
一発だけ、重厚な金属扉が小さな拳の形に盛り上がった。
数分もあれば破られそうだが、数分の猶予はない筈。
何せ頼れる方々が来てくれたのだ。
「は、ははッ、俺を見縊ったな、吸血鬼め!!」
「ミカァッ! い、いいやミカ君、ここを開けるんだ。大人しく、ここを――」
それからゴンッ、という鈍い音。金属バットで頭蓋を叩かれたような音だ。
ここ数時間で聞き慣れた声が、血反吐を吐くような音に代わっている。
銃声。不思議と耳に障る、荒い息遣い。
「ミカ君、キミが大人しくしていれば、私がキミを殺す理由はないッ」
それは説得だろうか?
「三佳君、吸血鬼の声なんかに耳を傾けちゃダメっしょ」
金属バットのような物を持っていた女性の声。
それは至極真っ当な言葉で、俺の考えとも一致する。
「だが、キミが。ここで私に牙を剥いた。今ならまだ赦してあげよう」
心なしか、余裕がないように聞こえる。焦燥に駆られたアシュリーの声音。
俺は無言で扉を押さえ続ける。きっと吸血鬼の膂力を持ってすれば簡単に突破出来るのだろうが、俺から「拒絶」を示された彼女には、俺の家に逃げ込むという選択肢がない。
「でも、キミが私を締め出したまま、もしも私が生き延びたらッ?」
そんな事は承知の上だ。その上でヴァンパイアハンターに全てを託したのだから。
「安心しなよ。ウチ等がこいつを、完膚なきまでに叩きのめして、責任を持って殺すから!」
そりゃそうだ。そうして貰わなければ困る――
「ぐぅッ……ミカ君! 家族がどうなっても良いのかッ!?」
――だから。そんな事は気にしてない。
このままだとアシュリーは負ける。
俺の元へ逃げ込んで来た時から、既にボロボロになる程にまで消耗していて。悪しき吸血鬼を殺すまでは、後一歩の所まで迫っていた。そこに至るまで、どれ程の犠牲を積み上げたのか。彼女が一体、どれ程の屍を生み出したのか。
分かっている。
これで世界は、ほんの少しだけ平和になるのだ。
最後にアシュリーの姿を見届けようと、俺は扉の覗き穴を覗き込む。余計な一手だろう。だけど、そうするべきだと思った。
俺の行動が彼女を殺した。そういう自覚を持って、その責任と共にこれからを生きて行こうと思って。自分への、せめてもの罰で。彼女への、せめてもの贖いで。
不思議とアシュリーよりも荒くなった吐息と共に、俺は目にした。
全身に銃弾が撃ち込まれ、牙が片方欠け、右腕があらぬ方向に拉げ、額には痣が出来ていて。
今にも死にそうな少女の姿を。
家族が、彼女が生き延びた場合、俺の家族が危ない。これは脅しだ、俺は脅された。アシュリーが恐ろしくて堪らないんだ。ヴァンパイアハンターを信用し切れていないんだ、だから。
――だから仕方ない。
「入って……ッ!」
「ミカ君――!」
花開くような笑顔で、彼女は俺の部屋へと入って来て。俺は不安と焦燥と絶望と、何だかよく分からない感情が綯い交ぜになった――表現方法が見付からない様な顔で、憎むべき吸血鬼を迎え入れた。
***
銀の弾丸計十五発、着弾箇所。
右足に三発、左足に二発、右腕に二発、左腕に四発、腹部に二発、胸部に一発、右耳に一発。
銀のバット計十七発、打撃箇所。
右足に一発、右腕に七発(防御込み)、左腕に五発(防御込み)、腹部に一発、背部に一発、頭蓋に二発。
これ程の攻撃を入れて、未だ活動可能。
多少の負傷は覚悟の上で、機能しなくなると困る箇所や急所は死守していたらしい。
しかも銃弾の軌道まで読んで行動していると思われるのだから恐ろしいものだ。
しかし満足の行く結果ではなかった。
最低でも吸血鬼アシュリーの無力化、最上は仲互 三佳の奪還と吸血鬼アシュリーの殺害。
だが現実はどうだ? 三佳はアシュリーの言葉に恐れをなしたか、これを匿う動きを見せた。そして結果は吸血鬼アシュリー瀕死、しかし殺害には至らず。仲互 三佳の確保は失敗、再度吸血鬼の人質となった。
想定し得る中で、下から数えた方が早い結末だ。
不幸中の幸いなのは、ヴァンパイアハンター丘霧 霞及びSATに負傷者が出なかった事くらいだろう。
しかし肉体的には無傷でも、吸血鬼との戦闘は精神的に来るものがある。何せ未知の敵であり、気付かぬ間に殺されても可笑しくはない相手なのだから。
一部の者は「吸血鬼とも渡り合える」と希望を見出していたものの、それは違う。そのような思考に陥る程、に今しがたの数秒間が好機であったという訳だ。こんなチャンスは二度も訪れない。
「今ならまだ間に合うかも。ウチが手短に交渉してくっから」
返事はない。
「なぁ三佳君。今、吸血鬼瀕死っしょ。それ――」
掠れた声が、扉の向こうから。
「――いぃま、粗方、回復され……」
ただ漠然とした、怖気のような物が奔って。
「――やばっ。オジサン達、逃げ――」
霞が降り返った先。そこには疲弊したSATの面々が――雁首揃えて死んでいた。
***
「おやおや、専門家なのに知らなかったのかい?」
「ッ……この、薄汚れた吸血鬼がッ!!」
「吸血鬼ってのは、蝙蝠に変身出来るものだぜ?」
鋭利な笑みを浮かべて、吸血鬼はそこに立っていた。
就寝前に三佳が貧血で倒れるまで吸血しておくべきだった、なんて事を考えながら、アシュリーは憎きヴァンパイアハンターを睨み付ける。
すっかり再生した牙を覗かせて、しかし肉体は依然としてボロボロの吸血鬼が。やたら元気に笑っている。
霞は金属扉の隣に設えられたダクトを一瞥する。
(……あれを通って出て来たか!)
「一対一。私は傷だらけ。もしかしたら勝てるんじゃない?」
「雷蔵オジサンなら勝てただろうね」
己の死を悟り、しかし霞は自分が死した後の事を考えていた。そこに諦観の色はない。先ず第一に、SAT隊員達の死体。これを放置すれば、アシュリーは数分と経たない内に逃げ出すだろう。何せ満足に血液の補給が可能である。
それだけは、絶対に避けなければならない。
ここまで追い詰められておきながら、依然として仲互 三佳の生存が確認されているのは、些か以上に不気味ではあるのだが……。
十分。それが人間の死体から摂取出来る血液の、消費期限だ。
それまではどうにか、時間を稼がなければならない。
既に一つの死体を持ち上げ、アシュリーが吸血行為に進もうとした所で彼女は雄叫びを上げ、果敢にアシュリーへと殴り掛かる。
「させないッ。ウチが止めてみせる……」
振り被ったバットは、しかし。
「吸血鬼ってのはねぇ……銀製の武器に対して、無力な訳じゃあないんだよ」
投擲用の短剣。普段ならばそれを三十本程持ち歩いているアシュリーであれど、流石にここ三日程ヴァンパイアハンターに追われていたお陰で使い尽くしていた。だが最低限銀と打ち合える硬度を有した棒でもあれば、アシュリーともあろう吸血鬼が並のヴァンパイアハンターに遅れを取る理由はない。
知恵itビルの、窮屈な廊下。そこで蝙蝠のような羽を広げたアシュリーはバットを振り被る霞に向けて飛び立った。
とは言え翼は然程機能していない。狭苦しい廊下では、精々機動の補助や、楯として利用するくらいしか使い道もないだろう。はっきり言って、被弾の可能性を高めるばかりの一手である。
――普通の吸血鬼であれば。
彼女の翼は武器でもある。飽くまでも、諸刃の剣でしかないが。
腕から垂れ下がるように広がった蝙蝠の羽は、巨大且つそれに見合った質量を内包しており、碌に防御も取らず喰らってしまえば、敵対者に致命傷を刻み込む凶器だ。
「へへっ」
嗜虐的な笑みを浮かべたアシュリーは、翼を一度だけ動かす事で初速を稼ぐ。勢いそのままに壁を蹴ると同時に身を翻せば、彼女の体躯は霞の背後に。
仕上げに天井を蹴って急接近を果たした所で、だが霞は驚異的な反応速度で振り返り、その手に握り締めたバットを振るう。
翼目掛けて振られたバットは、しかし虚しい風切り音を残しただけで、霞の手には一切の手応えがなかった。
何事かと目を瞬かせれば、そこには蝙蝠の大群が。恐らくはアシュリーの翼部分を形成していた蝙蝠なのだろう。およそ身体構造が謎に包まれいてる吸血鬼、こういった戦術を巧みに使える個体は往々にして、古くから生き延びている者に限られる。
年季が違うのだ。
急ぎ銀製のバットを戻し、吸血鬼アシュリーへの迎撃に当てる。しかし霞の目が次に捉えたのは、プラチナブロンドの髪が目を引く吸血鬼の少女、ではなく――ありふれた金属バットであった。
似通った形状の二つがぶつかり合い、圧倒的なまでにあった膂力の差故に押し負けたのだ。
振った腕を肩辺りから噛み千切られた。
銀バットが床を転がり、霞は頽れる。
「ぅぁあ……っ」
蹲り、傷口を抑え、痛みに悶える霞を見下ろしたアシュリーは、その首を噛み千切ろうとして――瞬間、飛来した銀の弾丸を紙一重で躱す。位置的には、ヴァンパイアハンターの狙撃手である岸波 零士から狙われる地点ではない筈――だが、狙いの正確性を考えれば彼以外に心当たりがない。
弾丸は、白煙を上げてビルの壁に突き刺さっていた。
昨夜、廃ビルの中から彼にしてみせたように、彼女は発射元を予測しそちらを一瞥する。吸血鬼よりも「鬼」の名が似合う、復讐鬼の姿がそこにはあった。
「スナイパーライフル立ち撃ちとか、キミも人間じゃあないよね……」
ぼやくように独り言ちたアシュリーは軽やかなステップで数歩引き下がる。スナイパーライフルが狙えない位置へと。
それから彼女は、忌々しげに舌を鳴らした。
***
俺はアシュリーを助けた。助けてしまった。
結果的にSATは全滅、バットを手にしたヴァンパイアハンターも右腕を失う重症――或いは重体――だという。これ等は、斯様な地獄絵図をこの世に顕現させた人物からの情報である。
そんな彼女。喜々として、しかしヴァンパイアハンターを一人仕留め損なったと不満げに零すアシュリーは、全身に返り血を浴び、その口に女性のものと思しき腕を咥えて戻って来た。
一方で俺は、彼女に血を吸われ過ぎて動けない。頭がくらくらしており、意識も朦朧としている。
悔し涙が出て来る。自分が惨めで仕方がない。
俺は家族の身を案じてアシュリーに従った、と言い張る事も可能だろう。だが他人は騙せても、自分自身は騙せない。よく「自分も騙せない嘘で他人を騙せると思うな」なんて言葉を聞くが、実際は己の一番の理解者は己自身であり、他人とはどこまでいっても他人である。
友人だって他人、恋人だって他人、家族だって他人。言ってしまえば、自分以外は全て他人であるのだ。だから人は人を理解出来ない。
だから俺の嘘は、俺が上手く立ち回れば誰にも勘付かれないまま墓場まで持って行ける。
アシュリーが去った後の暮らしは、今までと何ら変わりなく続いて行く。俺が、嘘を貫き通す限り。
「ねぇ、アシュリー。俺はどうすれば良かった」
彼女は俺の敵だ。俺は彼女の餌で、楯で、使い潰せる資源なのだ。
そんな相手に、俺は何を訊くというのか。俺は何を求めるというのか。
「取り敢えず、キミが余計な事をしたのは確かだ」
彼女を追い出し、拒絶した事だろう。あの判断は間違っていなかった。しかし俺は彼女を再度招き入れ、結果的に助けた。そして俺を助けに来た連中を庇おうともせずに、貧血のまま倒れていた。
折れた牙での吸血行為は、今までで一番痛かった。
「気晴らしに殺しちゃおうかな。どうせここで吸い尽くしても、何ら問題はない訳だし」
そう。その通り。俺は今の今まで、彼女の温情によって生かされていたに過ぎない。
「うん。……うん。でも俺は、ああするしかなかった。だけど、それすら貫き通せなかった。もう何が正しくて、何が俺の本心なのかも、良く分からない」
「違うね。キミは全てを把握した上で、その事実を認めたくないと喘いでいる」
「アシュリー……?」
「必要なのは、正当性のある理由だけだ」
そうして俺は、迫り来る彼女の拳から目を離す事なく、それを受け入れた。
この無意味な痛みは俺への罰で、彼女への償いで。先程まで感じていた心の痛みを掻き消してしまう程に、峻烈で鋭い痛みが思考を支配した。
「キミは私に脅されていた。心身共に私の言いなりだった」
言いながら、ともすれば言い聞かせながらも、彼女は打擲の手を止めない。俺は抵抗もせずに受け続ける。もし貧血ではなかったとしても、満足に動けていたとしても、俺を活かす為の拳は、きっと許容出来ただろう。
それでも貧血という状況は、自他を説得する材料で……。それは同時に、自分の行いを「仕方がなかった」の一言で済ませようという、浅ましい魂胆が見え隠れしているようで。
ほんの少しだけ、リストカットをしてしまう人の気持ちも分かった。どうしようもない日々を紛らわせる為に、やり場のない感情を閉じ込める為に、痛みという手段でしか、自分を慰める方法がないのだろう。
俺の場合は他にもあったかも知れないけれど、確かに効果的なのは「痛み」だった。
「これは赦しだ。これが欲しかったんだろう? キミを含めた周り全てが、他ならぬキミを赦す為に」
全くもってその通り。俺は安全な日々を送りたいんだ。だから脛に傷が残っては困る、吸血鬼の味方なんて絶対に出来ない。だから、これは……理由になる。
どうしようもない俺に送られた、せめてもの救いなのだ。
***
それはまるで慰撫のようで。
気色悪いだとか気味が悪いだとか、全てひっくるめて心地が良かった。
猫の舌なんかは意外とザラザラしていて、舐められると痛いらしい。でも吸血鬼の舌は、人間と同じで……或いは人間よりも柔らかかった。
「どうせなら全部治して貰いたかったなぁ」
「それじゃあ意味がなくなるじゃないか。折角正当な理由を得たというのに、キミはそれを自ら手放すのかい?」
「それなら元々、こんなに殴る必要は無かったんじゃない?」
「それはキミの所為だよ。キミがあんまりにも、苦しそうな顔をしていたから。つい殺してあげたくなっちゃった。それに、キミも受け入れていたのが何よりの証拠じゃないか」
俺を嬲り殺しにする寸前まで殴り続けたアシュリーは、正気を取り戻すと同時に俺の顔面を――元の顔立ちが分からなくなる程に腫れた顔面を、彼女自身の唾液で治療した。それも、殴られた事が明確に分かる程度に、だ。
「……そっか。ごめん」
何を言えばいいのか分からなくなって、思わず謝罪の言葉を口にする。すると彼女は居心地が悪そうに頭を掻き毟った。
「いいや、謝るのは私の方だ。キミに害を加える積りはない、なんてほざきながら、このザマなんだから」
「でも、俺が……」
――俺が生き残る為に必要だった? それは違うだろう。俺の勝手な行動と、俺の抱えた懊悩を軽くする為に、彼女は俺に理由を与えた。俺が生きる為には不要な筈の大義名分を。
「いいや、私が言っているのは内側の傷だ。則ちキミに巣食っている罪悪感だよ。突然吸血鬼の肉壁にされて、しかもその吸血鬼が手に入れたくなってしまう程の美少女で、少しばかりの時間を共有して。キミのストレスは、いや全く想像を絶する物だろうさ」
一瞬、自分の頬が引き攣るのを感じた。
「――――」
「結局は揺れ動いているんだろう? なら私の方へ更に傾けろ、比重を上げろ。その理由は用意してある、その為の材料は今からあげよう。さぁ、耳の穴かっぽじって、よーく聞きなよ?」
***
彼女の実母は分からない。どこで生まれ、何を為し、誰を思い死したのか。それとも、彼女が物心ついた頃にはまだ生きていたのか。全ては未知という名の霧に包まれている。
故に彼女――アシュリーに取っての母親とは、バートリ・エルジェーベトその人だ。
アシュリーの実父であるナーダシュディ・フェレンツ二世の死後、彼女は当然のようにバートリ・エルジェーベトの住まうチェイテ城で暮らしていた。
義母の残酷極まる行いを目の当たりにしたアシュリーは、しかし何の感慨も抱かなかった。恐れる事はなく、かといって猟奇的な本能に目覚めた訳でもない。
何せ彼女の父もまた吸血鬼であり、実の所残虐な行為はそれまでも沢山見て来たが故に。
初めて吸血鬼の存在が公になったのはエルジェーベトの行いが露見してからの話だ。当時のエルジェーベト、その息子娘たちは総じて命を取られはしなかった。何せ親が連続殺犯であっただけであり、その子等に罪はないと言われていたからだ。
ここで一族郎党殺しておけば、一体どれだけ世界が平和になった事か。
エルジェーベトの子等は生き延びれた奇跡に感謝を示し、しかし幼かったアシュリーだけは別であった。目の前で親が捕まり、三年もの間監禁された後に死んだ、という事実は幼い彼女を怒りで包んだ。
斯くして彼女は、体が成熟した後に逮捕劇や裁判に関わった兵士、裁判官を鏖殺した。
その後アシュリーの虐殺行為に危機感を示した数名が名乗った「ヴァンパイアハンター」という職は、数十年の時を経て秘密裏に、しかし大規模に展開された世界共通の職業となった。
詰まりヴァンパイアハンター誕生の切っ掛けは、他の誰でもなくアシュリーなのだ。
それからと言うもの、彼女の噂を耳ざとく聞きつけてやって来るヴァンパイアハンターを相手に、大立ち回りをする日々。誰も彼も取るに足らない才能と技量の持ち主であったが、極稀に彼女が思わず冷や汗を掻いてしまうような、そういう手合いも現れた。
だが彼女は生き延びる為に全て殺した。凄腕の暗殺者も、気が触れた殺戮者も、熟練のガンマンも、名の知れた剣豪も、場違いな格闘家も、恨みで動く傀儡も、全て。全て全て全て全て殺した、殺し尽くした。止むを得ず、致し方なく、苦渋の決断で。
ハンドガンとナイフの扱いに長けた老骨も、同じように殺す心算であった――が、存外苦戦した上に、凄腕のスナイパーと組んでいた。
斯くして彼女は深手を負い、満身創痍で仲互 三佳の元を訪れた。他に隠れる場所が見つからず、匿ってくれる偽善者も居なかった、というだけの理由で。
これ以上行く当てがないとばかりに、太陽に焼かれた痛みを堪えて、傷もなるべく目立たぬように。精一杯の虚勢で笑顔を作り上げて。
彼女のに残された善心を痛めながら鷹揚に、「お邪魔します」と口にしたのだ。
***
吸血鬼アシュリー……彼女の人生は数奇なる物だ。俺如き、一般市民では想像の付かない星の元に生まれて来たのだろう。そもそも吸血鬼という時点で普通の――人間と同じ人生は歩め無さそうである。
しかし彼女の話を聞く限りでは、幼さ故の失態が現代にまで尾を引いているように聞こえた。
…………それで、彼女の自分語りを聞かされて、それで俺にどうしろと言うのだろうか。
「理由はある。後はキミの気持ちの問題だ」
俺は一人、頭を抱える。
「|吸血鬼アシュリーは可哀想な子だ。だからねミカ君、キミが私へ憐憫の情を抱いてしまうのも、実に仕方のない事なんだよ」
もしかすると、彼女なりの配慮だったのかも知れない。だが俺には、更なる板挟みでしかなかった。俺は人間で、被害者で、味方は警官やヴァンパイアハンター……の筈だ。
どこまで行っても、俺は吸血鬼の味方ではない。
それでも、もうとっくに感情面での折り合いは付いていて。
――必要なのは、一歩踏み出す蛮勇だけだ。
「…………アシュリーの完全回復までは、予定通りに?」
「ああ。深手を負いはしたけれど、濃厚な血を頂けたからね」
「分かった。じゃあ明日までは、最高のパフォーマンスをしなくちゃならない訳か」
「そうだね、休息が必要だ」
「うん……その間に、よく考えとく」
***
「……わりぃ、しくじったわ」
「お、おいっ。無事かッ!?」
「部下の心配出来るとか超有能じゃん……。結婚相手居ないなら、ウチが貰われてやっても……」
「もういい喋るな! 傷が深い……直ぐに治療を施せば間に合うだろうが…………」
部下という立場にある丘霧 霞の姿を見つけた岸波 零士は、細く尖った双眸を最大限に開いて捲くし立てる。上司の焦燥に駆られた態度が面白かったのか、霞は何でもないように茶化してみせた。
それは彼女の性でありながらも、僅かながら零士の事を思っての発言である。
右腕を肩辺りから断たれた霞は、苦痛に満ちた顔で零士の元へ倒れ込む。重症を負った状態でビル八階分の移動は、如何に鍛え上げられたヴァンパイアハンターと言えども、相当に堪えたらしい。
「治療班の準備は整っている。先ず、死ぬ事はない筈だ」
それきり、彼女は死んだように意識を手放した。肩から溢れ出る血は止まりそうもない、幸いなのは彼女がヴァンパイアハンターであった事――常に危険と隣り合わせが前提の職業故に、医療班も直ぐに駆け付ける上、その技術や道具は充実している。
今回も事件発生現場である知恵itビルの正面――ヴァンパイアハンターを始めとして警官隊等が集う臨時拠点には、ヴァンパイアハンター陣営十余名の医療班が待機しており、手傷を負った戦闘員達を直ぐに治療する事が出来るのだ。
残念ながら、SATの中から帰還者は出なかった。それは既に確認してある。死した人間は治せないが、せめて息のある人物は命を繋いで行こうという精神だ。
「霞、お前は不出来な後輩だった。これからも、そうあり続けるのだろう。だが良くやった。これで吸血鬼の回復が早まる事はない筈だ」
自分に、そして意識のない丘霧 霞に言い聞かせるかの如く、彼は力強く弁舌を振るった。それは部下の英断を褒め称えると同時に、自分に安堵を齎しているかのようで……。
「どちらにしろ、彼等は死んでいた。お前を恨む事はないだろうさ」
知恵itビルの八階。吸血鬼アシュリーが立て籠もったとされる十三号室は角部屋であり、そこで特殊急襲部隊数名とヴァンパイアハンター丘霧 霞対吸血鬼アシュリーとの戦闘が行われた。その内情を知るのは、唯一生還した霞ただ一人。
派遣された特殊急襲部隊ことSATの隊員は全滅、そしてアシュリーの餌となる筈だった。
それを防いだのが他でもない霞である。彼女は深手を負いながらも、SAT隊員全員の亡骸を八階廊下から地上まで投下。結果、吸血鬼アシュリーの完全回復を遅らせる事に成功した。
死しているとはいえ、SAT隊員等も元は生きた人間。そして霞もまた、感情のない人形ではなく、何を考えているとも知れない吸血鬼でもないのだ。
少なからず言葉を交わし、共に死地へ踏み入った仲。多少の情は沸いていた事だろう。
そんな隊員等を、原型がなくなると分かった上で投棄するのは、彼女とて辛かった筈だ。
しかし必要な事だと割り切って責務を全うした霞の行動は称賛に値する。
勇敢にも吸血鬼に挑み、命を散らした特殊急襲部隊隊員に、そして役目を果たした丘霧 霞に、零士は敬意を示した。
***
――翌朝、というか同日になるのだろうか。
吸血鬼が嫌いそうな、燦然と輝く太陽が東の空から昇って来ていた。
俺がベランダ側のバリケードを一部崩した所為で、僅かな日差しが部屋の中にまで入り込んで来ている。常であれば至極当然の光景で、しかし吸血鬼が居候(?)をしているという状況下では珍しいなんてレベルではない。
本来ならば日中でも暗闇であるべき空間で、アシュリーは陽光を割けるように部屋の隅で縮こまっていた。
「よく日光を浴びたまま眠れるね?」
「人間はむしろ、太陽の光なくしては生きられない生物だからね。吸血鬼とは違うんだよ」
生まれた時から吸血鬼であるアシュリーは、太陽の光を全身に浴びる気持ち良さも知らないのだろう。そこにあるのはきっと、体を焼かれる痛みのみだ。
そう……彼女は生まれた時から罪を背負っていたような物である。彼女がどれだけ無垢な少女であったとしても、周囲は彼女を「一体の吸血鬼」として見るのだろう。結果的に、彼女は罪を背負うしかなない運命の元に生まれて来た。
勿論俺は吸血鬼の事なんか、つい先日までは微塵も知らなかった――存在自体信じていないような人間であった。故に、俺の中にある吸血鬼に関する知識は、その殆どがアシュリーという吸血鬼によって齎された物である。
彼女の言葉を信用してもいいものか分からない。
アシュリーの語った来歴は、全てが嘘ばかりかも知れないし、吸血鬼の誕生には大量の贄を必要としていたかも知れない。彼女は物心ついた時から残虐非道な子供だったのかも知れないし、彼女の語った事は全て真実かも知れない。
詰まる所、俺は彼女以外の情報源を有していない現状、その情報全てを疑いながらも、信用する他ないのである。
「これで塞ぐんだ」
そういってアシュリーは、彼女の登場シーンでボロボロに破けた厚手のカーテンを俺に投げ付けた。本当に太陽が嫌いらしい――まぁ、つい先日、太陽に身を焼かれたばかりなのだから気持ちも分からなくはないけれど。
「それならせめて、足の拘束だけも解いて貰え得ない? 流石に歩けない」
「塞ぐんだ」
「いや、だから……」
「塞げ」
「……はい」
どうも昨日――もとい就寝前の行いは、彼女が俺へ抱いていた、雀の涙程度の信頼を無くすには充分過ぎたらしい。元々信頼なんてされてはいないのだろうが。
芋虫の体勢で床を這う、という無様を晒しながらも俺は懸命にリビングの大窓。その先にあるベランダに設置されたバリケードへと迫る。
両足同様に縛られた両手でカーテンを掴むと、半ば投げるような乱雑さでバリケードの穴を埋めた。
「これで良い?」
「ああ、上出来だ」
悪戯っぽい笑みを浮かべたアシュリーは、俺の傍まで歩くと両足を拘束していた縄を圧倒的な膂力で千切る。ドヤ顔をした彼女は俺へと手を差し伸べ、人一人の体重をものとせずに立ち上がらせた。
プラチナブロンドの艶やかな髪はふわりを舞って、鋭く光る赤の眼光は至近距離から俺を見詰めている。顔が触れてしまいそうな程に接近し――
「朝ごはん」
「…………へ?」
「何か精の付く物を作ってくれないかい? 夜は沢山運動したから、腹が減って仕方がないんだ」
「……肉にしようか。確か高いやつがあった筈」
吸血鬼の人質になり、監禁状態で迎えた朝は、そんな風に始まった。
***
知恵itビル付近では陰鬱な空気が漂っており、しかしこの場所だけは違った。
世間一般的に言うならば――人質にされた人間に抱く感情というのは、総じて「憐憫」や「憂慮」といった、少なくとも被害者を可哀想に思うようなものだろう。
知恵itビルの前に集った警官隊やヴァンパイアハンター達は、加害者への怒りを募らせると同時に、三佳に同情している筈だ。
――しかしこの場所だけは違った。
「プロデューサー!」
そう呼ばれた眼鏡の男の名は立花 耀。彼は「ウェイクアップTV」の企画担当である。常に番組の利益となるような企画を立案し、それを放送まで漕ぎ着けるのが仕事だ。彼が最も重要視するのは、内容の信憑性でもなければ、倫理観を取り入れ誰かに配慮する事でもない。彼が最も大事に思うのは、視聴率を確保し視聴者を盛り上げる事。
彼の打ち立てる企画には、そういった思惑しか隠れていない。筈だった。
そして、そのような思考を持ち合わせている者は、何も彼だけではなく――今しがた耀に声を掛けて来た男も、彼と似通った考えを持ちながら、働いているADだ。
「何かな甲賀くん?」
「はい。実は昨夜――いえ、本日未明に撮影された動画を入手したんスけど、」
ADの甲賀 昌義が口にした内容では、「何の」動画かが分からない。しかし彼等の中では、昨日から一つの話題で持ち切りだ。何せその話題は視聴率になる。二人が話している事柄は、何を隠そう知恵itビルでの立て籠もり事件についてであった。
「そうかそうか。それは良い事だ。それで……どんな動画かな、見せて貰えるかな?」
「勿論ッス!」
AD昌義が取り出し、横画面にしたスマートフォンの液晶画面を二人して覗き込む。場所はテレビ局のビル……その廊下であり、幸いにも現在は閑散としているが、数十分もすれば人でごった返すだろう。
このまま二人が廊下の真ん中で仲良く動画視聴をしていれば、大変邪魔になる事請け合いである。
しかし視聴率に心を奪われた二人は、そんな事は考える素振りもなくスマホに視線を注ぎ続ける。そこに映っていたのは、立て籠もり事件の犯人と思しき少女、それと対峙する女性――計二名だ。かなり激しい戦闘をしているように見えるが、注目すべきは他にある。
「うーん。これ、もしかしてSATの人達かな?」
「はい。多分その通りッス」
二人が激戦を繰り広げる中、背後では幾人ものSAT隊員が血を流して倒れている。彼等が生きているのか否かこそ定かではないが、このような光景だけでも視聴率は稼げるだろう。問題があるとすれば倫理観、ではなく。
「これ、もしかしなくても炎上しそうだねぇ。それでも視聴率が取れるのは嬉しいけど、今後の事も考えるとマイナスだ」
「あー、じゃあ、上手い事切り取って、こっちの少女だけを放送するのはどうッスか?」
昌義はスマホの画面を指差し、金属バットを持った女性相手に大立ち回りをしている少女だけを、上手い具合に放送出来ないかと提言する。
「だがねぇ甲賀くん。これは良くないだろう、明らかにフェイク映像だ」
「やっぱりプロデューサーもそう思いますか……」
そこには大きな蝙蝠の翼を生やした、プラチナブロンドの髪が特徴的な少女が映り込んでいた。有り体に言えば吸血鬼。
しかし吸血鬼などという存在は完全なるフィクションであり、現実に存在していると考えるのは宗教団体や妄想癖が強い者くらいだろう。
いや、真実か否かというのは彼等に取って二の次だ。大事なのは番組の利益に繋がるか、そして炎上しないかである。この映像が例え真実であっても、視聴者は恐らく納得しない。いよいよTV番組よりもネットニュースの方が信用出来る時代だと、口を揃えて彼等の番組を叩くだろう。
「でも、ですよプロデューサー」
「?」
「これ、撮ったの自分ッス」
長年を掛けて培った、プロデューサーからADへの信頼が悪さをし、この映像が作り物でないと証明されてしまった。
「どうするよ甲賀くん。どうしても放送したくなっちゃったよ。この番組を乗っ取ってでも、この内容を全国のお茶の間に届けたいよ!」
「やりますか。やっちゃいますか立花プロデューサー!!」
彼等の中にあるのは視聴率という数字への渇望か。全くもってその通りだ。
だが、彼等がこの業界に足を踏み入れた時、果たして視聴率が最も大事だと思っていただろうか? そんな夢も希望もないままに、この世界を選んだと言うのか。――否である。
「私の、立花 耀という人間の心に、現実に訪れた空想は火を付けたみたいだね……!」
「自分もッスよ! あぁもっと良いカメラ用意しときゃ良かった!」
やんややんやと騒ぎ立てる二人は、今後の動きを相談し始める。如何様にして、甲賀 昌義ADの撮影した映像を全国各地に見せつけてやるかの話し合いだ。
きっと二人はクビだろう、今後この業界ではやっていけない。それでも、若き日にTV業界に入ったばかりの熱が、彼等の中で再度燃え上がっている。
「そうだね……。丁度今日、この後ビックイベントがあるんだ。君も知っているだろう、被害者くんの、ガールフレンドだよ!」
「成る程! そこで皆さんがガールフレンドに気を取られてる隙に、ささっとハイジャックってな寸法ッスね! 了解しました!」
最早この場に彼等の思考を叱責するような、正常さを持ち合わせた人物は居ない。人気のない廊下で騒ぎ立てるのは、視聴率よりも質の悪い情熱に囚われたプロデューサーと、本件の戦犯であるADだけだ。
「ならば先んじて編集しておく必要があるか……。いやしかし、それならいっその事、SAT隊員等の姿も映すのはどうだろうか?」
「妙案ッスね。確かに今からじゃあ細かい編集なんて間に合いませんし、事が事ッスからいつもの機材も使えません」
詰まる所、自身のスマホやパソコンでえっちらおっちら編集作業を進める他ないのである。解像度は悪いまま、モザイクも切り取りもなく、朝っぱらからショッキングな映像をお茶の間に垂れ流す。悪魔の思い付きだ。
手を加えられる事と言えば、精々がカット編集と明るさ調整くらいだろう。
時間は限られており、特別ゲストを呼んでいる間しか注意は散漫にならない。
まだ小一時間程の猶予はあるにしても、裏を返せばその程度だ。諸々の手筈をたった二人で整えるとなると、未だ考え至らぬような問題が次々と浮彫になるだろう。
「それに、途中で勘付かれてもゲームオーバーだ……」
「了解ッス。自分、編集しときますね」
「ああ任せた。私はその他の準備を終わらせておこう」
近所の悪ガキが悪戯を考えるような笑みを作り、史上最悪のコンビはそれぞれ踵を返す。子供っぽい笑みで、しかし画策されているのは、上手く行けば騒乱罪に問われても可笑しくないような事柄である。この二人が成す事は、世界に激震を奔らせるだろう。
彼等が事を起こすのは特別ゲストが登場してからだ。本来であれば二人ともゲストの姿を拝みたいものだが、今回ばかりはそうも行かない。
誰しもが見物に向かいたくなる程の人物がやって来るからこそ、二人は姦計を実行に移す事が出来る。
一応述べておくが、普通のゲスト程度で警備の目が少しばかり緩くなったり、スタッフ達の緊張感が薄れたりはしない。そんな組織はとっくに瓦解している。ましてや全国区で番組を放送しているテレビ局が、そのような体たらくで良い物か。
答えは否である。普通のゲストでそのような事態には陥らない。
裏を返せば、本日足を運んでくれる予定――改め、既に待機しているゲストは普通ではないゲストなのだ。
一介の高校生が彼女にするには過ぎた人物である。きっとテレビ局までの道中も、数名からナンパされるだとうと予想されたので黒塗りの車という迎えを出した程だ。番組側ではなく、ゲスト側が。
それだけの稼ぎのある、高校生。
多忙な彼女が足を運んでくれるのは彼氏への愛と、それから彼女の通う学校から、このテレビ局が比較的近しい位置関係にある事が主な理由だ。
彼女が勉学に励む傍らで稼いでいるのは――読者モデル、という仕事をしているからだ。
――斯くしてゲストは登場し、時は満ちた。
***
西暦2020年、七月十六日、日本、某所、知恵itビル、813号室、午前七時半。
アシュリーに言われて朝からガッツリした物を作らされた俺は、それを食卓に並べて「頂きます」と口にした。当然のように、彼女は食への感謝声に出さない。
数秒間の沈黙を経て、俺はようやく口を開いた。
「ヴァンパイアハンターに動きは?」
「警察の情報しかないみたいだ。やっぱりヴァンパイアハンターの情報は秘匿されているらしい」
最高級の黒毛和牛――かどうかは分からないが、兎も角高そうな肉のステーキを咀嚼しながら、俺はアシュリーへと問うた。
彼女がヴァンパイアハンターの、ギャル然とした女性を退けてから一夜が明け、ニュース番組やネット上で何か新しい動きがないものかと探っていたのだが、彼女の返答を聞くに、目ぼしい収穫はなかったと思われる。
「なあミカ君。これ、もういっその事ヴァンパイアハンターの情報をばら撒いてみるのはどうだろう? 必然的に私の存在も露見する訳だけど、背に腹は代えられないって言うし」
確かに一時的な混乱な見込めるだろうが、相手は恐らく国家権力とも絡んでいる。警察機関よりも偉そうにしているのが何よりの証拠だ。そんな組織を相手にしても、情報統制が行われるまでは然程時間を必要としないだろう。
ならば即物的な思考は止めて、将来の流れに繋がるような立ち回り心掛けるべきだ。
だが……
「そもそも目撃者自体は居ると思う。探せば、一人くらいはSNSで発信してる人も居るんじゃない? それでも普通の人は信じないし、誰かが信じてもそれが拡大する前に国が止める」
と言うか、既にそういった流れは起こっている筈だ。
就寝前に彼女が見せた大立ち回りも、少し離れビルからならば、最低限撮影は出来る。お世辞にも画質が良いとは言えないだろうが、それにしたって何か「人ならざる者」が動いている様は見て取れるだろう。
そのような動画が投稿された後に、フェイク映像だとか言われて自然消滅していくのだ。或いは国が動く。
拙い事をするよりは、アシュリーとしても現状維持が好ましいだろう。
「ニュース番組の方は役に立たないねぇ。使える時は使えるけど、今回はネットを主軸に情報収集をしていくよ。分かったかい?」
「分かったかい、って……俺は手伝うなんて、一言も」
「交換条件だ。キミが大人しく私の手伝いをすると言うのなら、特別に両親と会わせてあげよう。とは言えベランダからの、それでいて距離の離れた再会にはなるだろうけどね」
何とも心を揺さぶられる内容だ。
俺はアシュリーを良識ある吸血鬼だと評している。だが彼女が常々口にしているように、必要とあらば俺は傷つけられるし最悪死にもする。そうならなくても、ヴァンパイアハンターや警察に撃たれるかも知れない。だから一度、両親とは……確りと話しておきたいのだ。
「分かった。じゃあスマホをこちらに……」
「勿論、キミが見張るのはテレビの方さ。当然だろ?」
ですよねー。
安物のフライパンで焼いたからか、ステーキを噛み切れず咀嚼し続けている俺は、彼女に手渡されたリモコンを巧みに操り黒い液晶に光を灯した。最初に映るのは昨晩まで点けていたテレビチャンネル……「Newsタイムリープ」、過去の放送内容に似たようなものが多いと批判を集める一方で、言っている事の信憑性等は異常なまでに高い。
噂に依ると、一つ一つのニュースを作り込み過ぎているせいで、過去に放送した物のオマージュを挟まなければ制作が追い付かないらしい。放送量を減らせばいいのだろうが、それはそれで問題が起きそうなので……結局、素人に口出し出来る事は少ないのだ。
そんなNewsタイムリープでは、見知った顔の三人組がインタビューを受ける様子が放送されていた。言わずと知れた、俺の学友である。
『えー、こちらが昨日撮影された映像です。これをご覧になって、どういったお気持ちでしょうか』
流されていたのは、アシュリーとスナイパーのヴァンパイアハンターとの中間に置かれ、楯として活躍する俺の姿。
『……可愛いな』
『ああ、可愛い』
『違うだろ。もっとこう……心配の言葉を聞きたいんだろうよ?』
何が「可愛いな」だ。確かにアシュリーの見てくれは美しいと表現して問題ないのだろうが、それにしたって感想が愚直に過ぎる。小学生でももう少し知恵を絞った回答が出来るぞ。
俺の友人達は、事の重大さをまるで分かっていない。俺は仮にも、吸血鬼の人質にされているのに。
最初に声を上げた学友二人は九魔御と煌輝。その後二人の言動を指摘した、比較的まともな人物が光哉である。とは言え彼も、口振りからして前二人と大差ない意見らしい。
そこまで言うのなら、俺と立場を代わって貰いたい。
「全然心配されてないんじゃ……?」
わざとらしい動作で「ミカ君可哀想っ!」と嘆くアシュリー。
「いや、あいつ等は心配した上で欲望に負けてるんだよ」
「良い友達じゃないか。……ネット上でも賛否両論だよ、仲良し派が優勢だね」
「…………」
俺は何と返すべきか思い付かず、止む無くテレビ画面へと視線を戻した。同時に意識もそちらへ集中させる。要らない情報を渡さないで欲しい。
ネット民は俺の交友関係に口を出すのがそんなに楽しいのだろうか?
ニュース番組では、続いて九魔御が雄弁に語り始める。
『三佳はホントに良いヤツなんです。というか、悪いヤツじゃない、みたいな……』
『まぁ嫌われるタイプじゃありませんでした』
俺が見ているとも知らずに、恥ずかしい事を言いやがる。もしかすると、逆に俺が見ている前提で話しているのだろうか? 全てが解決した後は、彼等と共に番組の映像を確認する破目になりそうだし。
「こっ、このチャンネルで有益な情報は得られなそうだね」
俺は居た堪れない――しかしどう頑張っても逃げ出せない状況に絶望し、苦肉の策としてチャンネルを切り替える事にした。一応断りを入れておく積りで、アシュリーへと話し掛ける。が……彼女は俺のスマホを食い入るように見ていた。
俺が何事かと思い彼女の顔を凝視した瞬間――。
「ミカ君。チャンネル1」
「は、はいっ…………げ」
そこに映っていたのは、燃え上がるような赤髪が特徴的な女性、いや少女。どちらの表現方法も強ち間違ってはいない年頃の少女は、先ず間違いなく俺と同年代だ。
しかも誕生日まで丸被りしているに決まっている。
そして画面右上には、主張の激しい色使いで「被害者の彼女、電撃出演!」と書かれていた。さぞかし視聴率を稼げている事だろう。腹立たしい。
アシュリーが怪訝な目でこちらを見て来るので、非常に居心地が悪かった。怪訝というよりも、非難めいた目付きである。
それは彼女の勝手な思い込みで、彼女の勝手な決め付けだろう。それでも俺は、真実の弁明をする必要があった。
いよいよもって、吸血鬼アシュリーは俺を問い詰め始める。
「ミカ君、彼女なんて居たのかい!?」
「いや……彼女と言うか、彼女ではないけど、彼女と呼ぶ以外に正しい表現方法が見当たらなくて。強いて言うならストーカとか……」
「キミは彼女の事をストーカー呼ばわりするのか。最低だな」
「そッ、それでも、彼女とは違うから……」
これは常々頭の痛い問題だと思っていたがしかし、まさか吸血鬼との会話でも俺の頭を痛めるとは。手練れである。
九魔御達友人グループとは違る番組で、しかも彼女は収録ではなく生配信で顔を出していた。きっと今頃、ネット上は大騒ぎだろう。
何せ――仲互 三佳の彼女を名乗る謎の美女が、突如として現れたのだから。しかも彼女は有名人である。
画面の向こうで吸血鬼――もとい立て籠もり事件の犯人へと悲壮を叫ぶ彼女の姿は、この上なく恐ろしかった。きっと世の男共をメロメロにさせながら、しかし俺には恐怖を刻みつつ彼女は言い放つ。
『あたしの彼氏を返して欲しいです……』
「正直言って、俺はアシュリーよりこいつの方が苦手だよ」
「やっぱり酷い事を言うね? 彼女はこんなにも、キミを思ってくれているのにさ」
それは何も知らない人が、何も知らないまま適当な事を言っているだけだ。俺はこれまで、彼女(名詞)のお陰で各方面から不興を買って来た。クラス一、学校一、もしかすると日本一可愛いかも知れないJKが、これと言って悪い所はないが良い所もない俺を慕い、彼氏と呼びながら付き纏って来る。
俺は狂気に堕ちた彼女から逃げつつ、彼女のファンである人物達からの殺意を躱し続けなければならなかった。何せ彼女は全国的な読者モデルの座を、高校生にして勝ち取ったヤバい奴だ。その支持率は圧倒的であり、そんな人物が良い所なしの一般男子高校生を彼氏だと言い張れば、当然俺は命を狙われる。
勿論本当に命を取りに来るような輩は――まだ三人しか遭遇していない。
今頃は三人揃って仲良く刑務所だ。一人は少年鑑別所送りだったか。
「暇つぶしに聞きたいな。彼女との馴れ初めってやつをさ」
吸血鬼がする悪魔の提案とは、これ如何に。