第9話「初仕事⑤」
………平手打ちなんて、初めてしたかも。
「あ……、ごめん。つい」
別に今泉薫が悪いわけじゃないのに。いや確かに十分無神経なことは言われたんだけど。でもそれだけじゃない。
昔って言えるほど割り切れていない。そんな過去のことを思い出して、八つ当たりをしてしまった。
「俺は大丈夫。それより柊さんは手、大丈夫?痛くない?」
そういえば痛いかも。青春系のドラマでよく、殴った方も痛いから、それがどうのこうのって説教をしている場面がある。
本当だったんだ。痛い。
喧嘩をするような友達がいなかったから、知らなかった。
友達が欲しくないと思ったことはないけど、必要だと思ったことはなかった。
上辺の付き合いだけでも、それなりに楽しい学校生活は送れたから。風邪で学校を休んだときとか、少し不便なことはあった。
でもだから友達を作ろうっていうのは、違う。それは掃除機をかけるのが面倒だからロボット掃除機を買う、みたいなもの。そう思った。
不便だから便利なものが欲しい。それは、本当にそれを欲しいわけじゃない。
「大丈夫。急に叩いたりしてごめん」
「ううん、いいんだ。きっと、俺が嫌なことしちゃったんだよね。ごめん」
「そりゃそうだよ。なに当たり前のこと言ってんの。全くなにもないのに叩くはずないでしょ。でもアンタは、それで良いの?」
キョトンとした表情の今泉薫が首を傾げた。
私には、それがとても呑気な表情に見えた。少なくともたった今、頬を叩かれた人の表情だとは思わない。
「どういう意味?」
私の言っていることはスキルでは分からない“気持ち”らしい。それか、こんな感じなのかもしれない。
分からない言葉を辞書で引いたら、その中に分からない言葉がある。
「理由、聞かなくて良いの?感情が知りたいなら聞くべきでしょ」
「教えてくれるの?」
「嫌。でも聞かなかったら、誰も教えてくれない。ただ待っているだけでなにかが変わることなんて、滅多にないんだから」
口元に薄く、微笑みが浮かべられる。静かにゆっくりと細められた目が、そのまま伏せられる。それでも微笑みは、そこにあった。
なんとなく分かった。
この言葉をきっと、今泉薫は聞いたことがある。
こういう直接的な言葉選びだったのか、もっと遠回しだったのか。それは分からない。だけど言われたことがある。
「そうだね。ありがとう。ねぇ、ひとつ頼みたいことがあるんだ」
「叶てあげる義理はない。だから聞きたくないけど、叩いたお詫びとして内容くらいは聞いてあげる」
正直、叶えても良いかなとは思う。今泉薫が無理難題を吹っかけて来たり、非道徳的なことを言ったりするとはあまり思わない。
だけどなにより問題なのは、私が今泉薫自身を嫌いなこと。
「ありがとう。あのね、俺、柊さんの自己紹介が聞きたいんだ。流れでしないままだったから。ダメかな?」
「そんなこと?」
拍子抜けという言葉以外に、適切な言葉は見つかりそうになかった。
そして同時に、これまで自分が思っていたこと…というよりは、信じていたことだと思う。それと事実が異なることを悟った。
男だからって理由で嫌いにならないなんて、嘘だった。
多分私は、それを本当はずっと前から知っていた。だから男性と話すことに心の準備が必要だったんだ。
嫌いを自覚しないために、苦手を意識した。
その準備が必要だった。
「柊咲奈。同期として、よろしく」
「うん。よろしくね」
今泉薫は、握手を求めて来なかった。
私の周りには何故か、スキンシップの多い人が沢山いる。こういうときに握手をすることなんて、当たり前だとすら考えない。
するかしないか考えることもなく、する。
それが間違っているとか、おかしいとか、私の価値観で決め付けたことを言うつもりはない。そういう人ばかりだったから、新鮮っていうだけ。
まぁでも男性が苦手なことは知っているわけだし、普通はしようとしないか。
「柊さんがどう思ってるかは分からないけど、俺は優しくはないよ」
「誰もそんなことは言っていないと思うけど」
「柊さんがそう思ってるかはどっちでもいいんだ。そう言われることが多いから、先に言っておこうと思っただけだよ」
優しさなんて、評価基準や価値は個人ですら曖昧なもの。
そのときその言動をされた人やそれを見ていた人。そういった人たちが優しいと思ったのなら、そのときその人物は確かに優しかったんだと思う。
だからそれを否定する必要なんてどこにもない。私はそう思う。だけど今泉薫が嫌だと言うのだから、それを否定する必要も、またない。
兎も角、私はこれまでに今泉薫を優しいと思ったことはない。それだけは揺るがない事実として、私の心の中にある。
もしかしたら猫を必死で助けようとした理由を聞いたとき、優しいと思うのかもしれない。だけどまだ聞いていない。
案外しょうもない理由かもしれない。
助けようとした。その事実だけで、優しいとは思わない。
握手を求めなかったことだって、単に習慣かもしれない。
男嫌いな私を気遣ってくれたのだとしても、分かり切ったこと。優しいと特記するほどでもないと思う。
「相手が嫌がることをしない。それを優しいと、みんなは言うけどね。俺は違うと思うんだ。その人のために行動を起こそうと思えないだけ。だから嫌がることだけじゃなくて、嬉しいと思うこともしない」
「好きの反対は無関心だからね。良いんじゃない?それをしたら、相手や周りの人がどう思うかは考えているわけだし」
本人も自覚している通り今泉薫は、こと気持ちに関して知らないことが沢山あるのだろう。さっきそのせいで私に平手打ちされたわけだし。
でも誰だって、人の気持ちを正確に知ることなんて出来ない。互いに思い合うことが出来れば、それで良いんじゃないかと思う。
こんなの綺麗事。そんなことは分かっている。
でも綺麗事すらこの世から消えてしまったら、なにを綺麗と言って良いのか分からなくなってしまう。何事も、手本や見本のようなものは必要だと思う。
「そう言ってもらえると、少し気が楽になるよ。だけどね。少しだけではあるんだけど、分かってしまったんだ」
「…なにが?」
「じゃあ、まだ秘密」
同じようなことを言っても、シチュエーションで感想が随分違う。
まさか、わざとやっているのでは。そう思いたくなるくらい、今泉薫には人を怒らせる才能があると思う。
分かるかどうか分からないけど、精一杯の嫌そうな笑顔を向ける。
「冷めちゃってるね」
出してもらったお茶に口を付けていて、見ていなかった。