第4話「新入社員④」
私が促すより前に、今泉薫は力なくソファに座った。顔を覆って俯くと、声にならない嗚咽を漏らす。
小さく肩を揺らすその姿は、必死に涙を止めようとしているように見える。
泣いている理由は全く見当が付かない。だからといってそのままにすることも出来なくて、そこにあったティッシュを差し出した。
「ありがとうございます。あの…母はなにか言ってましたか?」
その言葉で、理解した。
家出した少年は、あの依頼者の息子は、今泉薫だ。
母親が依頼人として現れたときから、依頼内容は考えるまでもなく分かっていたんだ。スキルで分かったことじゃない。
そして自分のことだから、あんなに断定的な言い方をしていたんだ。
上手くいかなかったとしても、迎えに来てくれることを望んでいた。それなのに今更って思って、つい厳しいことを言ってしまったんだ。
きっとそう。
でもそれなら、あの沈黙の意味はなんだったんだろう。依頼者が「期待されていなかったんですね」と言った後の沈黙。
期待していたんじゃないの?分からない。でも今は考えるより、依頼者の息子として尋ねている今泉薫に答えないと。
「健康に気を付けて、と」
「そうですか」
自分から尋ねた割には随分と淡泊な返事。本当に、全然分からない。みんななら分かるのかな。
…もしかして、だから私を選んだの?なにも知らなくて、素人同然。そんな私なら口を挟むから。だったら…!
「本当は母親と話したいことがあったんでしょ!?だったらどうして突き放すようなこと言うの!どうして今だけでも親子として話せなかったの!」
「勉強したからね」
その声は震えていた。でも泣いているのとは違う。
ゆっくりと上げられた顔に涙の痕はない。代わりにあるのは、これでもかってくらいの歪んだ嘲笑だけ。
「その気がないなら突き放してあげた方がいいんでしょ?どうして期待されてることを期待していいって思えるんだろう」
ずっと、笑い出すのを我慢してたの…?
母親の言葉を尋ねたのは依頼人が自分の母親だと、私に分からせるため。それだけだった?一体なんのために。
「自分が捨てたのに」
その言葉に似合う表情は、憎悪とか悲哀とかだと思う。だけど今泉薫はなんの表情も浮かべていなかった。
正真正銘の無。
「君も分かったでしょ?」
私に向けられた表情や瞳からは、なにも感じ取れなかった。無を極めたとしか表現出来ないそれらに怖気づく以外、私にはなにも出来なかった。
でも情けないところなんて、絶対に見せたくない。
「な、にを…?」
だけど発せたのは、たったそれだけ。
「自分の醜さだよ」
「醜さ…?」
「あはははっ」
鼓膜が破れるかと思った。それくらい大きな声。
「あはははっあはははっあはははっ」
大きな声。大きな声。大きな声。
「あはははっあはははっあはははっ」
背中を仰け反らせて、繰り返し繰り返し笑い声を上げる。その様子は、不気味としか言いようがなかった。
笑いながらも深呼吸をして落ち着くと、私に嘲笑を向ける。
「君、最低なんだね。あのね、人は悪人でも善人でもないんだ。悪いことをしたら悪人で、善いことをしたら善人。それだけ。君は善人でいたいから、俺に善人っぽいことを言っただけなんだよ。分かるかな?」
なに言ってんの、コイツ。
「当たり前でしょ。会ったばかりの、しかも男。興味なんてあるはずない。アンタの方こそ、世の中善人ばかりだとでも思い込んでるんじゃないの?」
今度向けられた笑みには多分、嘲笑は含まれていない。それでもなんだか馬鹿にされている気のする笑みで、あまり愉快ではない。
人に向ける最低限の心配をした、その心を返してほしいと思った。
一言で言ってしまえば、私は今泉薫が嫌いだ。
私は男嫌いだけど、男だからって理由で嫌いにはならない。少し…本当に少し、警戒心が強くなるだけ。それは分類がある以上、仕方のないこと。
だから今泉薫を嫌う理由に性別は関係ない。
「安心した。綺麗事を言うだけの人じゃないんだね」
「なんでアンタなんかに心配されなくちゃいけないの」
軽く首を傾げる。本気で不思議に思っていそうな表情をしている。分からないのは私の方。今泉薫という人物の輪郭すらも全く掴めない。理解出来ない。
失敗した影分身の術みたいに、少しずつ違う今泉薫が沢山いる感じ。
「なんで俺が君の心配なんてするの?綺麗事ばっかり言っていちいち立ち止まられたら絶対面倒だよね。同い年とか同期とか、そんな適当な理由で慰め役を押し付けられる。仕事のしわ寄せが来る。だから安心したって言っただけ」
「アンタ人の心がないわけ?!」
「なに聞いてたの?あるよ」
ないと思うから言ってるの!
そう声を荒らげそうになったけど、なんとか堪えた。
狙っているわけではないと思う。でも思う壺な感じがして嫌。激昂を誘っているような言い方に、乗せられてしまった気がする。
「だけど…そうだね。さっきみたいに優しい言葉をかけられる人には、そう見えるのかもしれないね」
視線を落として、自分の掌をじっと見ている。
睨むように見ている私を気にする様子は微塵もない。それか、気付いているから私の方を見られないのか。
後者だったら良いなと、ぼんやり思った。
「俺は俺のことしか分からない。無理に立場を置き換えて考えるだけだと、どうしてもなにかが違うんだ。元々できる人には分からないと思うけど、一応言っておこうかな。きっと君なら考えてくれる」
指を組んで、ゆっくりと顔を上げる。その穏やかな表情を見て、思った。
さっきの言葉にはなんの感情もなかった。私のことなんて本当は、心底どうでも良い。口先だけ。どうとも思っていない。なんの感想も抱いていない。
振り回されているのが悔しい。
「考えることを学ぶのは、共感するためなんじゃないかって思うんだ」
サイコパスと捉えても差し支えないような、今までの発言。それとは全く毛色の違う発言に、私は戸惑った。
…まぁ、共感力がないともはっきり言っているわけだけど。なにせ今泉薫は考えるということを3年間の付け焼刃で覚えただけなのだから。
でも、だから分かったことなんだろうな、とは思う。
「君はどう思う?」
「物事の意味はひとつじゃない。あなたの考えは把握した」
「君は、どう思う?」
考えることが、どういうことか。なんのためなのか。なにを意味するのか。
そんなこと考えたことがなかった。誰しもが極々自然に行っていて、大なり小なり考えを持って行動していると思っていた。
「…物心ついた頃から当たり前のように出来る私には、今は難しい問いだよ」
一度聞いただけで理解した気になんてなりたくない。きっと、今泉薫には今泉薫の苦労があったはずだから。
「でも私は、あなたの考えに共感していると思う」
にへら、と柔らかい笑みを浮かべる。これまでとは全く違う雰囲気の、その表情に私は……ドキッとかしていない。