第39話「父親」
透明なボックスの中で煙を吐いた。僕専用と言っても差し支えない。健康に害がなくなったにも関わらず、この煙は文字通り煙たがれている。
たまに入って来るヤツはいる。だが頼み事だけをすると去って行き、世間話にも付き合わない冷たい人間だ。
ソイツは今日も、笑みを浮かべて入って来た。
「事故で殺されたあのストーカー、お前がどうにかしろよ」
話し始める前に、文句だけは言っておかないと気が済まない。先に自分の用事を済ませておく必要もある。
コイツの探偵としての腕前は確かだ。このボックスを出てすぐに追いかけても、この中以外で会えたことがない。
「なんでぇ?アドバイスしただけやん?ウチのせいにしんとって」
「その気持ち悪い話し方は、僕の前ではするな。それからお前からのアドバイスは脅しだ。父方の祖母の姉って誰だよ」
息子の様子が知りたいなら、他にやりようはいくらでもある。家出をした息子を探さない母親から引き離すことは簡単なはずだ。
しかも今はスキルをかなり使いこなしている。バレるのは時間の問題というより分かっていて言わないだけだろう。
結局は直接手を差し伸べてくれなかった、形ばかりの父親だ。
「会社では生真面目なイケオジで通ってるんよ?キミが聞いてくれないなら、他に誰が聞いてくれるんやろぉ。次はキミの後輩にしようかなぁ?」
「チッ、で?今度はなんだ?」
「精神科のお医者様が、そんな急かしたらいかんよぉ」
「お前は患者じゃないからな」
コイツとの付き合いはもう、5年近くになる。
それだけ長い付き合いにもなると、嫌でも分かることがある。この口調のときに頼み事をすることは稀だ。ではなにが目的で、コイツはここに来るのか。
世間話か愚痴だ。コイツの話に付き合わなくてはいけない。僕の世間話には全く付き合わない癖に、勝手なヤツだ。
「あの子からの紹介の人が行ったやろぉ?あれの依頼のときに、直接会ったんよ」
「通りで聞いたことのある社名だと思った。息子に会うために、そんな大掛かりな仕込みをする必要があるか?」
学生に精神科へ人を紹介しろというのは、それ自体が無理難題だ。しかも場所が離れ過ぎていて、見つけられたとしても通院を勧められる場所ではない。
社会に出れば僕のように、妙な縁もある。そう思って深く追求しなかった。
しかし僕が必要もない横文字を覚えている時点で、不自然だと思うべきだった。コイツの勤め先だったのか。
イン…インなんとかショー、みたいな感じだったな。
ただの探偵事務所が、横文字の社名なんか付けて。恰好付けただけの意味のない文字にしか思えないから覚えられないんだ。
「第一、気付いているだろ」
「それがスキルはあんまり使わんようにしてるみたいでな?調べた限りでは誰にも言ってないから多分だけど、気付いてないよ。可愛いよねぇ」
僕が接触した理由にも、気付いていないのか?本気で父方の祖母の姉なんていう他人の治療費のためだと思っているのか?
だったら知らないままの方が良いだろう。知らない方が幸せなこともある。君の父親は決して、良い人間ではない。
「あそこの社長は、娘を雇わんと思っとったんやわぁ。あの子は大人に滅多に心を開かんから、あそこなら平気やと思って根回ししたんやけど。気に入らんなぁ」
「仕方がないだろ。それに同年代の友達だって必要だ。話しぶりからして、なんの気もない。それなら良いだろ」
「共依存になるくらいなら、付き合って早々に別れてくれた方が…ねぇ?」
共感しかねる。しかも別れる前提なんだよな。もしも誰かと結婚でもすることになったら、相手を殺しかねないな。
そんなに可愛くて心配なら、近くで見守れば良いと思う。だが何故かコイツにはその選択肢がない。なにを考えているのか、僕には全く分からない。
「兎に角なぁウチは、あの娘が気に食わないんだよ。製薬会社社長の息子を使ってトラウマをほじくり返して壊してあげようと思ったのに、ダメだったんだ。弱い子だからだろうねぇ。平気そうなんだ。気に食わないなぁ」
弱いために問題に向き合えず、逃げる。その結果、周囲から平気そうに見える。そういったことはある。
しかし本人にはその自覚がある。問題に向き合えないという事実は、確実に心を蝕んでいる。そのままなら、放っておけば壊れる。
だが言う必要がないことは言わない。出会った人と仲良くなっただけで他者から心を壊されることは、効率重視で面識のない僕でも可哀想だと感じる。
「終わりか?なら仕事に戻る」
「本物の名探偵を、舐めてもらっちゃ困る。キミの予定は把握してるよ。あの娘を壊す方法を聞きに来たんだから、これからなんだよねぇ。ゆっくり話せるように、カフェにでも移動するのも良いかもね?」
「…半年はなにもするな。そうすれば勝手に壊れるはずだ。人は常に誰かと自分を比べるものだ。お前の息子は優秀な働きを見せている」
にやりと不気味な笑みを浮かべると、透明なボックスを出て行った。僕の言った意味が分かったんだろう。
その間にその子が成長するなら、決定的に壊れることはないだろう。庇ってやる義理はない。穏やかな日々が送れることを、心の中で小さく祈っておこう。
しかしあんなに必死な姿を見ることになるとは、予想外だった。よっぽど互いの心に入り込んでいるんだろう。
この国に5名しかいない、腕の立つ探偵…名探偵。大層な肩書きも、人の心の前では無意味だ。
父親という肩書きだってそうだ。そんなもの、薫くんの前では無意味だ。そんな当たり前のことに、いつになったら気付くのだろうか。
3年の月日が流れて僕はやっと、この考えが間違いだったことを知る。警察から電話が入った晩のことだ。
そのとき僕は、アイツのことをぼんやりと考えていた。
姿を見せないというのは、僕にとって平和で良いことだ。しかし長い間見ないと少々心配になる。そう思っていた。
アイツは死期を悟った猫のごとく、死んでいた。それを知った晩に、薫くんから電話があった。
その言葉で僕は、自分とアイツの間違いを知った。
誰にも言わないという選択をしていただけだった。
薫くんは少なくとも、僕と父親の関係には気付いていた。




