第18話「依存的な人①」
私の足元で、猫さんが小さく鳴いた。今泉薫は帰ったのに帰らないで、顔を摺り寄せて来るなんて珍しいことをして来る。
随分慣れたとはいえ、あまり触らせてもくれないのに。
「慰めているの?じゃあ、私が悪いと思うんだね」
あの質問の答えを聞いて、今泉薫はすごく傷付いた顔をしていた。
間違ったことを言ったとは思っていない。でも間違っていないことが正しいことだとは限らない。私は、正しくないことを言ったのかもしれない。
「あの…依頼なんですけど、予約とか必要ですか?」
「いいえ、必要ないですよ。お伺いさせていただきます」
「あ、あなたが…?」
また。また、私じゃ駄目なの?若い女だから。
そんなことを言っていたら、女は一生ろくな仕事が出来ないじゃない。ある程度年を取ってから経験を積んでいたら遅い。
それとも男と同じように働くなって言っているの?そんな差別、絶対に受け入れられない。受け入れちゃいけない。
「はい。男性職員は1時間後には戻る予定ですが、お待ちになりますか?」
「良かった」
やっぱり、そうなんだ。駄目なんだ。
10年くらい前に一度、男女差別はなくなりつつあったらしい。でもスキルのことで世間が混乱している間に再び開いた。
今は差別をなくそうっていう差別がある。ただ差別されるよりは、きっと良い。そう信じていた。でも駄目だ。
「恋人のことなんです。だから女性の方が良いのかなと思ってて。でも女性の探偵がいるのか分からなかったから。いるんですね。かっこいい…」
「…こちらにどうぞ」
やばい、泣きそう。反応が予想外過ぎる。
でも人前で、特に男の前でなんて、泣いたりしな…男?そうだ、この人男だよ。飛び込みなのに、私、話せて…
きっと社会人として過ごして、責任感が増したからだ。もちろん、今までだって責任感は持っていたつもり。手を抜いたことだってない。
でも逃げるなんて選択肢は、絶対にないんだから。もう甘えなんて、絶対に許されないんだから。こんなに簡単なことだったなんて。
「恋人が結婚詐欺師ではないという証拠がほしいんです」
お茶を出して向かいに座るとすぐ、食い気味に言われた。突然の言葉に少し驚いていると、軽く謝罪して事情を語り出した。
恋人が出来て数ヶ月。ちらりとではあるが、結婚の話しが出た。そう友達に話すとその友達は、結婚詐欺ではないかと言う。
内気な自分をいつも気にかけてくれる、大切な友達。意地悪や嫉妬で言っているのではなく、自分のために言っていると信じている。
なので結婚詐欺ではないという証拠を掴んで、友達を安心させたい。
「ご自身の中で、少しでも疑問に思うような出来事があったのでしょうか?」
「僕自身はないです。でも友達が疑うのも分かる出来事はあります」
その理由は、誕生日にブランドバックを贈ったこと。
まともな交際は初めてであり、なにを贈って良いのか分からなかった。ブランド品なら喜ぶだろう。そういった安易な考えを持ち、自分の意志で選んだ。
友達はその説明を、その場では受け入れてくれた。けれど会ったことのない人物を疑うのも仕方がない。
「このままだと2人の内どちらかしか選べない。それは嫌なんです。それに2人とも僕の大切な人だから、仲良くしてほしくて」
他人の忠告に耳を傾けるということは、心に余裕がある証拠。つまり盲目的ではないということ。
それだけではなく、疑うことに理由があると相手の立場で説明出来ている。
もし本当に結婚詐欺なら完全に失敗だから、手を引いた方が良い。
「事情は分かりました。ただ“していないこと”を証明するのは難しいです」
「あ…そういえばドラマでやってました。真犯人が分かればその人がやってないことになるから、真犯人を探すんだって」
「はい。ですので被害が出ていない場合、状況証拠のみになります。ただ、状況証拠だけで判断するのは危険です。物語の道筋通りに証拠を並べてしまえるため心象で白にも黒にもしてしまえます」
仮に、恋人に結婚詐欺の前歴があるとする。でも依頼人にもその目的で近付いたとは限らない。
結局のところ、その言葉を信じるか信じないか。ただそれだけのこと。
調べて分かることは2つ。過去の言動。指定の日時や場所で起こったことがその人に行うことが出来たかどうか。
依頼人が恋人にブランドバッグを贈ったことは事実。それに対する見解が依頼人と友達で違うだけ。
「どれだけ“やっていない可能性の高い証拠”を並べても、友達が信じてくれない可能性はあります。そうなれば、どちらかを選ぶ必要があると思います」
「分かりました。少しでも可能性があるのなら、調べてほしいです。それにひとつの出来事で詐欺だなんて言うとは思えません。僕に心当たりがないだけで、他にもなにかあるんだと思います」
心の底から2人を信じているんだ。恋人は結婚詐欺師じゃない。友達がそう言うのは自分を心配しているから。
どうしたら大人になっても、そんな風でいられるんだろう。…きっと、知っても私には出来ない。いつからそうなったんだっけ。
昔は、小学生の頃は、素直で無邪気だった気がする。
「分かりました。お引き受けします」
「よろしくお願いします」
基本的な情報を聞いて、調査の粗方の方針を話す。それが終わると、丁寧に頭を下げて事務所を出て行った。
この依頼が、先に歩みを進められるきっかけになったら良いな。たったひとり。たった一言。それでも嬉しくて、その気持ちをくれた人だから。
そのためには、気を引き締めないと。柊探偵事務所を選んだことも、私が担当することも、絶対に後悔なんてさせない。
「猫さん、私…今度は正しくあれるかな?」
返事をするように短く鳴くと、窓から出て行った。どんな意味かは分からない。そもそも偶然で、意味なんてないかもしれない。
だけどまた触らせてくれなかったという事実は、ここに変わらずある。




