028 「外伝・鳳財閥略史(1)」
日本の企業は、『財閥』という名称に象徴されるような企業の集団を形成する事があった。
『財閥』とは、言葉が表す通り「財」を持つ「閥」。「ある市場で支配的地位を占める一族」を示す。企業ではなく一族が中心となって支配するのが特徴だ。類似例はコンツェルンという言葉が示すように、欧米社会にも見受けられた。
19世紀から20世紀前半のアメリカでは、創業者を頂点とした巨大なコンツェルンが形成され、創業者を成功した業種の「キング」と呼んだりもする。
また日本の場合は、世界的視点から見ると「金融コンツェルン」の形態を持つ。中核に各企業の株を持つ「持株会社」があり、ピラミッド構造を作る為だ。
場合によっては、その頂点に一族や個人が君臨する。この場合は、一族が支配する企業集団という事になるので従来の財閥に近い。
この『財閥』は20世紀に入ると明確な形成が始まり、第一次世界大戦で本格的に誕生する。
そして昭和初期に集中と巨大化が進み、第二次世界大戦による日本全体の肥大化と成長産業の偏りにより、一部の巨大財閥が突出した。
三井、三菱、住友、安田、そして鳳がその代表だろう。
第二次世界大戦が終わった頃の報道各社などの分類では、「十大財閥」、「十五大財閥」などと言われたりもした。
そしてこれら大財閥は、日本経済の半分を占めるほどとなった。
日本の「王」達だ。
そうした中で、鳳財閥もしくは鳳グループは日本の財閥としては少し変わっている。
1920年代にいち早く財閥本社を解散し、機関銀行を中心としたグループ企業に作り変えた。実際の形態としては、コンツェルンや財閥よりコングロマリット、複合企業体に当たるだろう。
ただしその中心には鳳一族がいるので、やはり「財を持った一族(閥)」としての財閥とも言える。
そしてその財は、ある時期を境として日本の中では圧倒的となり、また多国籍となった。
鳳財閥の起りは、まだ江戸時代だった西暦1864年の高利貸しの鳳屋の開業にある。ただしそれ以前の記録は、あまり正確ではないと言われる事がある。
江戸時代、長州藩の下級武士の流れで、一族が大鳥と名乗っていた頃に小さな廻船問屋を営んでいた。
だが、創業者は船が嵐で難破して大陸に流され、一族の主な者は亡くなる。残された創業者だけが、鎖国中で日本に帰れないので大陸で身を起こして返り咲いたとされる。
だが信ぴょう性の薄い噂の中には、創業者の鳳玄一郎は大陸の上海か南京辺りの出身だとする説がある。少なくとも、上海の経済界と強いつながりがあるとも言われる。
それはともかく、創業者の鳳玄一郎は長州藩出身の下級武士で、彼と彼が経営する「鳳屋」は長州藩に多方面で貢献を果たした。このことは間違いない。
その貢献は大きく、鳳玄一郎は維新の功労者の一人として認められ、明治に入って子爵の位を賜る。
ただし武器売買などで、同様の活躍をした者たちと対立や競合したといわれる。その中には、あの坂本龍馬もいた。
そうした一方で商売も続け、維新の功労者という立場も利用して事業を拡大した。
ただし商才が抜きん出ていたとは言えず、事業の方は二人の息子、蒼一郎と紅次郎が行った。そして息子達は才があった。
明治時代を通じ、商売は相応に拡大を続けた。日露戦争後の北樺太での石油開発により、第一次世界大戦までに「石油の鳳」と言われるようになる。
さらにその後、第一次世界大戦の戦争特需の流れにいち早く乗る事で事業を急速に拡大。
一気に規模を拡大し、日本を代表する財閥の一つと称されるまでになる。
だが第一次世界大戦の事業拡大と投資が大き過ぎ、大戦後の不況下で大いに苦しむ事になる。しかも関東大震災で、地盤と言える神奈川県の事業所や工場の大きな損害で上積みされた。
そしてさらに、借金が借金を生んでいく。
財閥の規模も僅か5年で一気に縮小した。
だから周囲からは、これで鳳財閥は倒れると見られていた。この為、鳳財閥の持つ権利に目をつけた他の大財閥の急接近が見られた。
しかしそこから、奇跡とすら言われる起死回生の逆転劇が始まる。
先の世界大戦による利益のうち円に換金できなかった、もしくはしていなかった大量の外貨を、アメリカ株式市場のダウ・インデックスなどに一気に投資。
当時底値状態と言われていた株を大量に取得していく。
その後も、株価の上昇に上手く乗って積極的な買い増しを続けた。当初は数千万ドルと言われた投資は、当時としてはまだ珍しい投資方法も相まって、あっという間に数億ドルへと膨れ上がった。
当時1ドルは2円50銭程度だから、1926年の時点で10億円以上の時価総額を保有していたと考えられている。
そしてその一部を現金化、もしくは株を担保に日本で借り入れを行い、大戦後に膨れ上がった1億円とも言われる膨大な借金を返済するばかりか、巨額の資金、資産の確保に成功する。
そしてさらに1927年3月、両者合意の上で当時鳳財閥以上の苦境に陥っていた鈴木商店を、膨大な不良債権を引き受ける形で丸呑み。
前後して大規模な事業拡大、他社の吸収合併など精力的に行い、一気に日本有数の財閥へとのし上がる。
ただしこの結果、鈴木を狙っていたと言われる三井財閥との関係が大きく悪化した。
もっとも三井との関係悪化は、この時の内閣交代で鳳が後援と支持を憲政党から政友会に乗り換えた事が原因だったともされている。
そんな鳳の、非常に豊富な資金力を背景とした強気の姿勢は、その後もさらなる拡大という形で続いた。
しかも前後して、大きな幸運ももたらされる。満州及びオーストラリアでの膨大な石油、鉱産資源の発見と採掘権の獲得が相次いだ。
石油の方は、最初に開発が行われた満州南部の遼河油田はともかく、北満州油田群は当時としては非常に大規模なので、日本政府が株の半分を保有する形となった。
だがオーストラリアでの資源は、他国の資源採掘企業との利益分割と合弁となった。
しかもこの資源開発は、1940年代末から50年代初頭にかけてペルシャ湾岸での膨大な石油資源の発見と巨大すぎる利権保有へと繋がっている。
日本の資本がオイルメジャーの一角の座を得たのだ。
なお、もともと鳳財閥は、1906年に日露戦争で得た樺太島北端での石油開発が躍進の大きな切っ掛けとなった。
それが世界各地での資源開発と採掘権保有で拡大し、日本の財閥としては珍しく日本の外での採掘企業、採掘財閥として存在する事になる。「世界の資源王」の誕生だ。
そして第二次世界大戦後は、国際的な企業間の関係と駆け引きから、日本政府すら手が出せない膨大な石油資源の権利を保有する事で、巨大すぎると言われる影響力を有するようになる。
しかも資源採掘ばかりではなかった。
『石油の鳳』と言われるように、石油の採掘に始まり、運搬、精製、各種石油製品の生産、さらにはガソリンなどの小売販売に至るまで、石油に関連する多くの面で独占状態を作り上げた。
一つの製品で独占したり多くの割合を占める事は日本の財閥で珍しくないが、1930年代以後大きな影響力を持つ石油事業を独占した事は、政治経済の双方で大きな影響力を有するようになる。
『日本のロックフェラー』と言われた程だった。
しかも日本の勢力圏である満州、韓国でも、石油関連では系列会社が支配的地位にあった。
そしてまた、石油産業だけではなかった。
第一次世界大戦頃から、重工業の広い分野に大規模に手を広げるようになっていた。これは鳳での重工業部門の創業者と言える一族の鳳虎三郎の影響だった。
そして1927年の鈴木商店の吸収合併、自らの事業拡大によって規模を大幅に拡大する。
特に日本政府の了解を取り付けて始めた製鉄事業は、自前の資源採掘もあって10年足らずで日本の近代製鉄を担ってきた八幡製鉄所を中核とする日本製鐵に匹敵する規模に拡大する。
それ以外の重工業も、革新的な事業拡大を行なった造船、アメリカからの直輸入という手法で事業拡大した、自動車、トラック、重機など多くの分野に及んでいる。
特に日本全体で言えば、工作機械、ディーゼルエンジンなどの製造で一気にシェアを塗り替えている。
自動車、重機も系列企業と合わせると、ほぼ独占と言える状態になった。他にも、主に自らが様々なものを建設する為、巨大な建設会社を形成してもいる。
「重工王国」と言われたほどだ。
また重工業だけでなく、傘下に置いた旧鈴木商店系列が軽工業分野などで大きく業績を伸ばしている。鳳にないのは、古くから他の財閥もしくは企業が大きなシェアを占める製紙事業くらいだとすら言われた。
勿論、他にも足りない業種、手を出していない業種もあるが、殆どに手を出していると言われた。
さらに創業頃から始められた学園運営、医療、製薬でも、無視できない規模と地位を短期間で作り上げた。
学園は日本有数の私学となり、製薬はいち早く世界的規模の会社となっている。大規模な病院経営も、当時の日本にはないものだった。
全ては巨大な資金の力だと言われるが、先見の明があった事もまた事実だった。
日本本土以外でも、主に満州では石油事業以外にも様々な事業拡大を実施していた。
鳳は、1930年台前半の政府からの重工業分野での満州進出を断っていたが、満州での大規模な建設事業、大規模農業経営を当時の満州臨時政府と共同で行うようになった。
この為、後から主に重工業部門の独占の為に進出した日産系列の満州重工業開発(満業)、さらには古参の南満州鉄道(満鉄)と並ぶ、満州三大財閥ともなっている。
そうした余りにも前のめりと言われた事業拡大の最中、1939年9月に第二次世界大戦を迎える。
この事業拡大が石油、鉄鋼、各種機械という戦争で最も必要とされる産業ばかりなので、あり得ない事だが大きな戦争を予見していたとすら言われたほどだった。
実際は、単に10年先、20年先の日本経済全体を見越しての事だったが、それは戦争を予見したと取られるほどのタイミングだった。
ただし、アメリカ株への投資と利益確定が類い稀な先見の明だったように、あまりにも大胆な先を見越しての事だったとは言われ続ける事になる。
それだけの拡大と肥大、そして他の財閥に一歩先んじる動きとなったのは間違いなかった。
そして第二次世界大戦においては、日本政府、軍の求めに応えるべく、政府の強力な後押しを受けて事業拡大に次ぐ事業拡大、生産に次ぐ生産を実施。
他の財閥、企業では担えない、もしくは鳳が行う方が効率的だった事もあり、肥大化というレベルで事業拡大に成功する。
そうして、第二次世界大戦が終わりを告げつつあった頃、第一次世界大戦の時の鈴木商店の貨物取扱量がそうだったように、鳳グループ(財閥)はついに日本一の財閥へとのし上がる。
それが一時的なものであったとしても、三井、三菱を超えた事は間違いなかった。
そしてそんな状態を、人々は「奢る平家」になぞらえたりもした。
.。゜+..。゜+.玲子の部屋.。゜+..。゜+
曾お爺様「随分と懐かしいな」
善吉「はい、本当に」
お嬢様「私は途中からしか知らない時期ね」
曾お爺様「そうだな。知っているのは、あとは時田くらいか」
お嬢様「お爺様は?」
曾お爺様「あれは陸軍に逃げたから、家の中はともかく商売の事は詳しくないよ」
お嬢様「善吉大叔父さんに任せていたものね」
善吉「私も関東大震災までは、龍次郎様の補佐だったけどね」
お嬢様「龍也叔父様のお父様ね。私、全然覚えてないわ」
曾お爺様「3つで覚えていたら、もう神童すら越えているだろうな」
善吉「でも玲子ちゃんは、4つの頃から財閥運営に関わっていたんだから、十分以上に神童だよ」
お嬢様「アラ私、神童じゃなくて巫女ですよ」
善吉「おっと、確かにそうだったね」
曾お爺様「告げるだけでなく、自分からせっせと動いていれば十分に神童だ」
お嬢様「世の評価は、祟り神らしいけどね。触らぬ神に祟りなしって」
曾お爺様「力を持つ者は、それくらいでいいんだよ」
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製紙事業:
鉱工業売上高のランキングで見ると、昭和初期は紡績、製紙、製糖、各種鉱業の会社が上位を占めている。
重工業が上位を占めるのは日中戦争以後。