027 「外伝・戦後日本経済略史(2)」
プラザ合意の結果、円は安くなり主にドル及びドルと連動した通貨圏への輸出が一気に伸びた。そして伸びたのは先進国で安さを求められていた主に大衆消費財であり、アメリカ企業と競合している商品は限られていた。
これはドイツを中心とした西欧諸国が、自動車、電子機器などでアメリカと激しい経済摩擦を引き起こしている事と対照をなしている。
そしてさらに1986年度からの予算編成では、経済を好転させる目的で大規模な積極財政政策を実施。
それでもこの時期は、依然としてソ連・共産主義陣営向けの巨大な軍事費が大きな割合を示すも、オイルショック以後の停滞の中で遅れていた公共投資、社会資本整備、企業への投資を大幅に増額する。
1987年には、早くも経済は大きな上向き方向を示し、輸出の大きな伸びもあって円安も1990年には解消され始めた。
この為この時期を、「経済のリブート(再始動)」と呼ぶ場合もある。
もっとも、大きく継続的な経済成長は、東西冷戦が終了して軍備の足かせが消える1990年代を待たなければならなかった。
なおプラザ合意では、日本経済はアメリカ経済以上に疲弊していると考えられた。結果、ヨーロッパ諸国の通貨がドル安になったのに対して、日本の円は逆に円安ドル高になった程だった。
ただしプラザ合意での円安は、別の要素があるのではないかと、その後ながらく政治の専門家からは見られている。
日本が停滞しすぎると、西側諸国によるソ連封じ込め、特に極東防衛に大きな支障をきたすと戦略的に判断されたと考えられている。
何しろ東西冷戦時代の極東防衛は、アメリカが担当する中華民国の防衛以外は日本に一任された状態だった。
そして日本と同じく経済的、財政的に厳しかった1980年代のアメリカには、日本の軍事力を肩代わりする財政的ゆとりはなかった。
何処かの国がアメリカ国債を大量に買ってくれる状況なら話も違ったかもしれないが、既に膨大な額になっていたアメリカ国債をこれ以上買おうという国は世界のどこにも無かった。
当時は、主にドイツなど西欧諸国とアラブ産油国が買っていた。だが、西欧諸国はソ連に対する軍事費で手一杯で、アラブ諸国はイラン・イラク戦争が飛び火した場合を考えた軍事力の整備を急いでいたからだ。
なお、プラザ合意の円安は、ごく単純に見た場合日本経済の衰退を示していた。そしてこれを見た当時まだ健在だったソビエト連邦は、ドルと円の「衰退」を自らの勝利の一つだと考えた。
特に、ヨーロッパでの不利を極東で取り返せるかもしれないと考える。
満州と極東の日本軍と戦力を増しつつあった満州軍に対抗する軍備は、ソ連中央にそう期待させるだけの重い負担となっていた。
そしてソ連は、自らと中華人民共和国の軍事力で日本を威嚇し、アメリカの戦力を一時極東に呼び寄せ、ヨーロッパ正面の圧力を減らそうと考える。
さらに楽観的には、これを足がかりに全体的な劣勢を覆せるのではないかとすら考えた。
しかしソ連の認識は甘かった。
ソ連の動きに対し、日本が自らの軍拡で作り上げた巨大な軍事力が動き出した。加えて、滅多に日本近隣に大規模な軍事力を移動させないアメリカ軍が姿を見せる。
日米が支援して、満州の軍備が短期間で大幅に増強された。
そしてそうなった結果、ソ連の方が極東で身動きが取れなくなってしまう。しかもヨーロッパ正面の圧力も全く減少しなかった。
結果、ソ連も中華人民共和国も何も出来ず、逆にソ連と東側陣営の衰退と劣勢を世界に見せる結果になってしまう。
この一件は、日本にとってはこれ以上過剰な軍事力は不要という事を教え、東西冷戦構造の崩壊前に過度な軍事費の削減を促す事になる。
そして日本政府は、減税と軍事から経済への転換という選択を行う為の一助となった。
その後、東西冷戦構造の解消、ソビエト連邦の崩壊、さらにその最中に起きた湾岸戦争での大規模な派兵を経て、日本は自らの近代史上最大規模の軍縮を実施する。
そして冷戦終了による世界的な自由な雰囲気に乗り、円安を武器にしてアメリカ、西欧を中心に輸出を大幅に拡大。
新たな技術の登場もあり、経済は再び大きな成長曲線へと入る。
もちろん、輸出の拡大、好調な経済発展により円安は徐々に是正され、さらには徐々に円高傾向にすらなっていった。だが、急激なものでもなかったので、その後の日本経済の発展と成長の妨げにはならなかった。
だが徐々に、日本企業の生産拠点の海外移転が進むようになる。日本の急激な所得の向上、円安の是正により、製品価格が急速に上昇した為だ。
日本企業の生産拠点の海外移転は、早くは戦前の満州、韓国(朝鮮半島)進出に代表される。また1960年代にも、満州、韓国への進出が進んだ。
これは、生産コスト削減の為に低賃金を求めての事だった。
ただし最初は海外輸出の為というより、日本及び生産国で使う製品の生産の為が主流だった。
そして満州、韓国だったのは、商業言語として日本語が通じるからだった。この為、海外進出というよりは、戦前の企業進出とほぼ同じ心理が働いていた。
しかし1990年代以後は、グローバリゼーション(グローバル化)の流れに乗った海外進出であり生産移転だった。
まずはより低コストでの生産の為に満州、韓国へ。さらに香港、東南アジア諸国へ。そしてさらに中華民国へと向かった。
21世紀に入る頃には、1970年代以後のドイツのようなアメリカなどとの過度の経済摩擦を避けるために、欧米先進国への進出も日常的に行うようになる。
そうして21世紀に入ると、日本は先進国の中でも世界経済を牽引する大きな力を再び手に入れていた。
昭和初期のように、僅か15年での劇的な変化だった。
1997年から99年にかけて新興国で起きた通貨危機も、日本にはむしろ追い風となった。
通貨危機は、一部新興国の米ドルと自国通貨の為替レートを固定する「ドルペッグ制」を発端とした。だが円は変動制で、さらに近隣の満州、韓国も経済的な勢力下に置いているので、日本への影響は殆どなかった。
この時期の円には、アメリカのヘッジファンドが中心となった通貨のカラ売りは殆ど通じなかった。
逆に日本は、通貨危機で大きな打撃を受けた国を、経済成長で強くなった円を武器にして積極的な投資対象としている。
特に経済破綻でIMF管理下に入った中華民国は、今までアメリカ市場として使われてきたので、深く食いこめたのはこの影響が大きかった。
ただしこれは、今まで食い物にしてきたアメリカに対して、中華民国が強い不信感を持ったのが大きく影響していた。
一方、日本が再び大きな経済成長を進めた1990年代は、IT、インターネット時代の黎明期でもあった。そして日本及び日本の勢力圏はこの潮流に乗る事に成功し、経済成長の一翼を担った。
その影響で、世界的なインターネット・バブルの影響もかなり見られた。
だが、日本経済全体が大きな成長を続けていた事、近隣を含めて言語的に英語圏ではない状況もあって、独自のネットワーク構築を行なって自前の市場拡大にも成功し、これもある程度追い風とする事に成功していた。
何しろ日本だけでなく満州、韓国の商業言語は日本語で、日本語の使用人口数は2億人を超えていた(※満州、韓国の全員が日本語を話せるわけではない)。
単純な人口で見れば、アメリカを超える3億人を超える。
しかも既に3国とも相応に発展した国に成長するか、しつつあり、言語の違いは大きな武器になった。
ただし主にアメリカとの間に、インターネット産業で対立とまではいかないまでも、競合するようにもなっていた。
21世紀に入ると、世界経済はグローバル化、ボーダレス化などが言われるようになり、自由貿易もますます盛んとなる。
日本はこの潮流に乗る事に成功し、近隣の満州、韓国などと合わせて「世界の工場」としての役割を強めた。
そしてヨーロッパ連合(EU)のこの時点での成功を見て、自分たちも世界経済でより大きな力を発揮するべく、連合化とまではいかなくとも、ヨーロッパ共同体(EC)のようなものを目指す動きを見せる。
そしてこれは、1974年に「北東アジア貿易連合(NEATA)」を形成していたので具体的な話として進んだ。
ただ3国の経済格差はまだ大きく、短期間での実現は難しかった。特に通貨統合は、当面は無理と考えられていた。
もっとも、1960年代までの満州は日本円と連動していた満州円を使っている。韓国は独立が1965年で、独立後も日本円と連動した韓国円を使用していたので、通貨統合の話自体は1990年代の頃からずっと言われている事だった。
特に議論は、1997年の通貨危機以後活発になっている。
しかしヨーロッパ連合のような通貨統合が難しいのが実情なので、NEATAを発展させる方向で話は進んだ。方向性としては、世界中で活発になった経済連携協定 (EPA) になる。
そしてこの方向性は、2008年の「世界金融危機」で促進されるようになる。
ただし「世界金融危機」による世界規模の不景気により、1990年前後から約20年も続いた日本の好景気は幕を閉じる。
人口面でも労働力の供給が完全に停滞期に入り、所得も先進国の上位にまで向上した事で製造業の海外移転も進み、もう今までのような成長は難しくなっていた。
むしろ、今までよく成長したとすら言えた。
もっとも、1929年の世界恐慌以来と言われる世界的な不景気を呼び込んだ「世界金融危機」に対しては、政府の強力な財政拡張と金融緩和など景気刺激策でしのぎ、その後は安定した成長へと導く事に成功している。
この為、好景気の影響で21世紀に入り無くなっていた国債発行を、再びしかも大規模に行う事になる。そして国債発行は、数年後に大災害が発生した事もあってこの後も続いていく事になった。
2010年代になると、入ってすぐに極めて大きな地震の東日本大震災が日本列島を襲う。1995年の阪神淡路大震災よりも影響は大きく、数年間日本経済は震災復興関連に拘束を余儀なくされた。
これで、大規模な原発災害が起きていたら、目も当てられない事態になっていたとも言われている。
その後日本経済は、2012年からは再び好景気へと移った。
世界経済も、全体としては安定した成長を維持している。
そうした中での日本の懸念は、経済を中心とした地域統合が経済連携協定 (EPA) 以上に話が進まない事になる。
特に21世紀に入り成長を開始し、2010年代には新興国と言われるようになってきた中華民国との経済的な競争が激化していたので、地域統合を急ぐようになっている。
これは以前から話を進めている満州、韓国も同様で、動き自体は加速している。ただ、世界で戦うには3国だけの経済連携協定では足りないというのが大勢で、北東アジアや環太平洋という枠組みへと話が進んでいた。
ただしこの話では中華民国も含む事になるので、北東アジア地域の主導的地位を維持したい日本としては、簡単に話に乗れないというジレンマがあった。
しかも中華民国は、戦後の経緯からアメリカとの関係が深いとなれば尚更だった。
なお、東西冷戦終結以後唯一の超大国となったアメリカの優位は、いまだに相対的には揺らいでいない。
アメリカが発行する膨大な国債は、ドイツを中心とする西欧諸国、サウジアラビアを中心とするペルシャ湾岸諸国、そして21世紀に入り日本が消化し続けていた。
そうした中で、大きな経済成長で再び世界第二位の座へと返り咲き、北東アジア地域での地域覇権国家としての向きを強めた日本は、アメリカとの関係に注意しなければならないだろう。
.。゜+..。゜+.玲子の部屋.。゜+..。゜+
姫乃「玲子様は、この辺りの前半は大活躍でしたね」
お嬢様「あれは、荒ぶってたって言って欲しいかなあ」
姫乃「荒ぶる? 確かに昭和最後の政治改革の山を越えた辺りから、これで心置きなくアコギな商売できるとか仰られていましたっけ?」
お嬢様「言った言った。バブル経済がなかったけど、それ以外が夢見と似た感じだったから私のターン。勝ち馬を知っている競馬と同じ。四半世紀でとんでもなく膨れ上がったものね」
姫乃「ですが、荒稼ぎされたのは、二つの大きな地震対策と復興の為でしたよね」
お嬢様「お金は使う為にあるからね。それよりも、防災対策と地震の時は姫乃さんも大活躍だったじゃない。表の顔で動いてくれて、本当に助かったわ」
姫乃「私には、あれくらいしか出来ないだけですよ」
お嬢様「謙遜しすぎない。女性政治家として半世紀以上も活躍して、特に二つ目の大地震の救援と震災復興の時は鬼気迫っていたわよ」
姫乃「アハハハ。あの頃は、もう棺桶に片足を突っ込んでいましたから、これが最後って気持ちだったからですね」
お嬢様「確かに、お互いもう随分な歳だったものね」
姫乃「はい。ですが、晩年に良い仕事が出来ました」
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・プラザ合意
過度なドル高の是正のために米国の呼びかけ。
史実では日本の円が主なターゲットとされた。
これを切っ掛けに急速な円高が進み、バブル経済、失われた30年の発起点も言われる。
・経済は再び大きな成長曲線へと入る:
この世界の1985年(昭和60年)の一人当たり所得は5000ドル程度と低迷。(史実は1万ドル近い。)
当然、史実のようなバブル経済は発生しない。起きてもリブート(再始動)と表現するくらい経済が低迷している想定。
この世界の日本経済は、21世紀初頭くらいに史実に追いつく。(一人あたり所得4万ドル)
(史実は1980年代に1万ドル、その後バブル経済の急激すぎる伸びと円高で1995年に4万ドル。以後は停滞。むしろ微減)
・通貨危機:
史実は「アジア通貨危機」。その後、ロシア、ブラジルに波及。
この世界は韓国が日本の経済圏内。東南アジアは、日本経済の70年代、80年代の停滞の為、日本企業の進出が影響した経済発展が史実より鈍化しているので発展が遅れ対象外。
代わりに、確実にドルペッグ制の中華民国が歴史の因果を肩代わり。大打撃を受ける。