声を嗄らして叫んでも、夏は永劫続かない。
苛々する。
気温の上昇に反比例して、躯は倦怠感が増していた。割れんばかりに蝉が喚いていて、呪詛を聞いている気分になる。授業が午前で終わる今日は、教室のクーラーが管理室で切られて動かない。窓を全開にしても熱風だけが通り過ぎる。茹だる熱気が思考能力を低下させる。汗が染み付いて肌に張り付くシャツが気持ち悪い。反吐が出る程の蒸し暑さ。この季節は、不快感でどうしようもなくなる。
報告書を書くシャーペンも汗でぬかるんでくるような気がして、手を止めた。
解禁襟を引っ掴み、空気が通るようにバサバサ動かす。それでも不愉快なのは変わりなく、シャツにも手を伸ばす。第二、第三、第四釦に手を掛けたところで――此方を真正面からじっと見ている奴の存在にはたと気付いた。
頬杖をつきながら此方の一挙一動を観察している奴。ポニーテールをまとめた髪、特に美人でも可愛くもない顔、やや幼さの残る奥二重の瞳、細っこい首、半袖の白いセーラー。此方は曲がりなりにも女子と称される奴の居る前で ストリップをするところだったのだが、それは真正面の奴もお相子だった。
屈みこんでいるせいで、セーラー襟の隙間から胸の谷間が見えている。机を向かい合わせに並べて、無防備な姿で此方を観察している様は、傍目にも楽しそうだ。俺が下着を見下ろしているというのに、奴は此方の視線に気が付いていない。開いたシャツの内側――はだけた胸板をじっと眺めていた。
視姦されている。
焦れて動作を止めると、相手は俺の視線を覚ったのか、頬杖を外した。目が合う。
「……じろじろ見んな。気持ち悪い」
思い切り目の前の奴を睨んでやった。我を失う程 惚けられているのは居心地悪い。
「え、なんで? 見惚れてただけじゃん」
こいつが意に返さない性格だとは予想していたものの、全く裏切らない答えが返ってきた。悪びれない。頬をやや染めて、此方の全てを肯定するように微笑む。その態度が神経を逆撫でした。先程まで俺を舐るように観察していた筈の眼は、既に正常な女子の瞳に戻っている。
「好きだよ。くら」
そしてまた奴は、何十回聞かされたか分からない決まり文句を吐いた。
橋川 茉莉。
妙に纏わり付いてくる奴は、確かそんな名前だった。
二年のクラス替え時に顔を合わせ、その他大勢、クラスが同じとしか認識がなかった女子だ。
まともに話をし出したのは、ここ一ヶ月。いつだったか放課後、計らずも委員会の用事で教室に二人になったのをきっかけに、奴は適当な愛称で呼びつけてくるようになった。
クラスでは必要最低限のことしか話さないくせに、委員会で二人になった途端、同じ言葉を吐いてくる。
まるでクレープよりもワッフル派だと言うのと同じように、軽々しく口にする。馬鹿のひとつ覚えで、此方を好きであると。
それ以来、注視するようになった俺は、奴の瞳にチロチロと覗かせているものがあると思い当たった。一般的に好意と呼ばれるもの。相手に恋焦がれる感情。確かに、奴が此方を見る目は熱を帯びている。だが滾らせているのは、普段、人が押し留めている本性。薄皮一枚で覆い隠している猥らな感情。本人は――無意識なのか。それともわざと見せ付けているのか。例えば、先程無防備に見え隠れしていた胸の谷間のように。
「お前、……俺に何か求めてんの」
ざわざわと波立つ皮膚の感覚が、殊更不愉快になった。ようやく俺は、ここ一ヶ月、放置していた疑問をぶつけるに至った。蝉は依然として喚き散らしている。でたらめなシンバルを至近距離で聴いてしまったのに匹敵する、耳障りな音。
奴は暫し目を瞬かせて、微笑む。
「珍しいね。くらが問いかけてくれるの。いつもは無視してるのに」
奴は委員会の割り当て分の仕事を既に終えていて、此方を手伝おうとはしなかった。それなのに教室に居残って俺を観察するのに勤しんでいる。
「別になにも求めてないよ。あたしが勝手に好きって言ってるだけだし。くらが厭なら拒めばいい」
胃あたりから逆流するムカつき。委員会なんて煩わしいだけだ。二年の忙しい時期に、教師も平気で生徒を居残りして業務をやらせる。この糞暑い日に、学校も授業が終われば平気でクーラーを切る。担任は言う――「二年のこの夏が受験の大事な時なんだ」、親が言う――「部活なんか辞めなさい、あんた今レギュラーでもないんでしょ」、塾講師は言う――「委員会で点数稼いでおけばいいじゃないか」、奴が気兼ねなく笑い掛ける――「別になにも求めてないよ」、――どいつもこいつも、反吐が出る。
「じゃあ俺が言えば、お前 何でもするわけ」
投げやりでこんな低い声が出てくるのは、蒸し暑い大気のせいだろう。
理由もなくムシャクシャするのは、俺を否定する人間と、ただひとり、肯定する奴が居るからだろう。
「俺が押し倒して ヤらせろって言ったら、ヤるのかよ」
鋭い目つきを向ければ、余裕に浸っているのを怯ませられると思った。けれどこいつは違った。
「そういった状況に追い込まれてないから分からないけど。そうだな、くらが本気で言ってくれたら、押し倒されてもいいよ。だって――」
その先の台詞は聞き飽きた。遮って席を立つ。大股で近寄り、後頭部を髪ごと掴む。唇を舌ごと塞ぐ。机が揺れ、机上のシャーペンが転がり落ちる。勢い良く頭を引き寄せたせいで、口を切った。錆びた鉄の味が咥内に広がり、顔を顰める。驚いて声も出せずに居るところを、そのまま机と机の隙間に押し倒した。硬直していると思った奴の身体が、反して弛緩しており、抵抗なく緩やかに倒れていくのが意外だった。ベージュ色のフローリング床に、髪飾が弾け飛び、癖のある栗毛が広がった。
「嘘付けよ。お前、そんな正常に俺のこと見てたのか。適当な言葉吐きやがって、イラつくんだよ」
押し倒した奴の口端から、血筋が垂れていく。口を切ったのは俺ではなく、咥内に広がった血はこいつのものだったと今、知った。途端、口に溜まった鉄味の唾が泥水のように思えて、堪らず吐き出した。
俺の行為に落胆したのか、核心を突かれて逃げ場がなくなったのか。押し倒されても怯まなかった奴は、そこで初めて自嘲気味に笑ってみせた。
「……そっか、ちゃんと理解ってたんだ」
正常ではない視線で俺を見ていたと、露呈したのと同じく。
奴は観念したように目を瞑り、瞼を開く。白いセーラーから臍を覗かせたまま、噛み締めて言う。
「なんでかな。くらを好きって云えば、自分の厭な感情が正しいものに変わる気がしたんだ。あたしね、欲情してたんだよ――初めて見た時から、くらの躯に」
傍からは滑稽で奇妙な光景だっただろう。好きだと言われているのに、組み敷いた男子はそれを嘘だと否定する。押し倒された女子は、それでもなお好きだと告白している。ただし、躯に欲情していたと、淡々と――赤裸々に語りながら。
だからこいつは、お決まりの言葉を繰り返し唱えていたのだ。俺が見る、こいつの滾った感情。それを自分でも劣悪な感情だとわかってて、そんなものを持っていると認めたくなくて、こいつは自己暗示で好きだと口にしていた。
「でも今は、ちゃんと好きだよ。くらの中身を、躯ごと愛せてる」
癇癪を起こした子供を宥めるように、奴の手が伸びる。俺はその指が髪に触れられる前に、か細い腕を引っ掴み、容赦なく床に押し付けた。拒絶されて行き場所をなくした細い指が、関節を曲げて天井を仰いだ。
奴の両腕の自由を塞ぎ、陳腐な台詞を紡ぐ奴の 瞳を再度見下ろす。
微笑を浮かべているのに反して、焦点が定まっていない瞳。俺ではなく、向こう側にあるものを見つめていた。どこか熱を帯びた眼。逆巻き、激しく沸き立つ本性。組み伏せているのは此方の筈が、目で舐り取られている感覚。理解した。こいつが見ているのは、恋焦がれているのは、俺ではなく俺の躯だ。
「……ねぇ。この状況は、本気で好きになってくれたって思ってもいいの?」
奴は錯覚したまま気がつかないだろう。本気で俺を内ごと恋するようになったと思い込んだままだろう。俺をただひとり肯定する存在も、結局は苛立つ以外の何物でもなかったわけだ。
「好き。好きだよ、くら。あたし、くらのことずっと大好きだよ」
暑さで沸き立つ汗が、じんわりと背中を流れていく。蝉の啼き声が直接脳を揺さぶる。いつかの担任の声が、親の叱責が、塾講師の激励が、聞こえる校庭の笑い声が、好きだと譫言で呟く声が、一斉に被さり内外で反響する。
じりじりと肌が焦がれる中、自分にかかわる全ての不愉快なものを罵り、声が嗄れるまで叫びたい衝動に駆られ――口を開きかけたところで、止めた。
体力の無駄だ。どうせ暑いのはこの一時だけで、時期が過ぎれば、蝉は消える。大気は冷える。夏が死んでいく。それよりも、もっと簡単に この鬱積した焦躁を鎮める方法があった。煮え立ってくるこの劣悪な感情を、当たり散らせていけるのだと悟った。
手っ取り早く傍に居て、俺を意味なく盲愛し、手酷くしても俺の全てを肯定するものに。
「苛々するだけだよ、お前なんか」
グラスを叩き付ける前に似た燥ぎを覚えて、首筋に唇を埋め、嘲う。
声を嗄らして叫んでも、夏は永劫続かない。
《了》