第8話 生まれ来る女の子
「やあーーっ!」
コーン、と軽いボールが跳ねる音がする。
子どもの体には重たいラケットをふり、的確に相手へと返す。
「心理ちゃんは卓球が上手いのぉ」
「ふふ、負けないよ! 山のおじちゃん!」
「ふほぉ……どうやらワシの本気をみせる時がきたようじゃの」
細く埋もれたその眼に、光のエフェクトがみえた気がする。
対戦相手はおじいちゃんだけど、私の祖父ではない。名前を知らないので『山のおじちゃん』と呼んでいる。
私のおじいちゃんは陽のさす場所にすわり、穏やかに私たちを眺めていた。
私もラケットを握りなおす。
コッ、カッ、コッ、カッ……緩い弧をえがくラリーが始まった。
海の見えない内陸の県――群馬県の山の中。
ここにおじいちゃんおばあちゃんの家があり、家族そろって泊まりにきている。
今は太陽きらめく夏休み……ではなく。残暑がまだまだキツイ、九月の中旬だ。
「心理ちゃんの妹さん、無事に生まれるといいわねぇ」
「ええ本当に。そういえば田中さん、この間むかいの矢倉さん家の娘さんが――」
市民センター内の卓球場、そこに設置されたベンチに座る奥さま方のとまらないお喋りが耳に届く。
九月十五日。今日は妹の誕生日だ……元の世界では。
「愛加、ちゃんと生まれてきてくれるよね」
「ほお。心理ちゃんの妹は、もう名前が決まっておるのかの」
「あっううん。まだ決まってないんだけど」
落ちたボールをひろいながら会話をかえす。
そう、この世界では妹の名前が決まっていない。
さらにいうと予定日ももう少しだけ先なのだ。
元の世界ではおばあちゃんに、妹の名前について訊かれたことがある。
『心理はどっちがいいかい?』
『どっち?』
『愛、または愛加』
この質問もまだだ。
訊かれたのがいつだったのか、正確な日は覚えていない。
「うーん、これからされるんだと思うけど……」
「ほれ、さーぶじゃ!」
「わわ」
とりやすい位置にとんできたはずのボールを、とりこぼしてしまった。
「まだまだじゃの」
「く、悔しい」
体を斜めにかまえドヤ顔をみせてくる山のおじちゃん。
運動苦手な私でも、卓球は得意なので結構ホンキで悔しかったりする。もちろん、幼稚園児にしては上手いくらいにしてはいるけれど。
「もっかいだよ!」
「ふぉふぉ。かかってきなさい」
緩やかなラリーを続ける。
愛加のことばかり頭に浮かんでしまう私は、そのボールの応酬が奏でる心地よいリズムにたゆたい落ち着きを保てていた。
そして、元の世界のように祖母から質問を受けることはなく。
九月十五日の夜。
体調が急変した母は救急車で病院へ搬送された。
父は母とともに行き、私はおじいちゃんおばあちゃんと留守番。
病院の方針なのか、大事をとって退院日まで面会にいけないことになっていた。
「今日はね心理。あんたの妹がくるんだよ」
「う、うん。……ねえおばあちゃん、その、妹の名前なんだけど」
いつ祖母から質問されるのかと思っていた。けれどその気配はなく、仕方なく妹が生まれてからは毎日私からきいている。
さりげなくきいても、三文字がいいなと伝えてみても、毎回はぐらかされてしまっていた。
「今日の楽しみにと思って秘密にしてたのさ」
「え! じゃあ、もう決まって……!?」
「もちろん。いいかい、あんたの妹の名前はね――……」
繰り返し、ゆっくり名を発音するおばあちゃん。
私はその口元を、焦点がだんだんズレはじめる中ただ見つめていた。
☆
「ほら心理、ランドセル背負ってみなさい」
「うん、お母さん」
「あらいいじゃない。おじいちゃん達が買ってくれたしね、大切にするのよ?」
真っ赤にテカテカと光るランドセル。早めに買ったもらったそれを背負ってみせ、くるりと回転する。
「まうまう、ばー!」
「愛も言ってるわよ。心理に合ってるって」
「……ありがとう、愛ちゃん」
お母さんに抱かれた赤ちゃんが、こちらに手を伸ばし満面の笑顔をみせてくれる。現在九ヶ月でまだまだ目が離せない年頃。
名前のとおり愛くるしくて可愛いその女の子は、私の妹だ。
たった、一文字。
赤ちゃんである彼女をみても違いなんか分からない。彼女が愛加という名前であった、元の世界との違いは。
「ぶーぶーぶー!」
「そうだったわね、愛。心理にも言っとかないとよね」
「なにを?」
お母さんは愛ちゃんを抱きつつ、少し大きくなっているお腹を右手でさする。
愛加……いや、愛ちゃんと一年違いで生まれる予定の赤ちゃんがそのお腹にいる。元の世界で一希という名前の弟だった子。
「お腹にいるこの子のことよ」
愛ちゃんに誘われるように手をふられ、私は彼女の頬をなでようと手を添える。
壊れないようにそっと手を動かしたとき、お母さんは顔をあげ柔らかい笑みとともに告げた。
「この子のことで分かったことがあるの」
「分かったこと?」
「女の子だったわ。心理と愛とこの子で、三姉妹になるのよ」
「三……姉妹……!?」
愛ちゃんの頬をなでる動きがぴたりと止まる。
それどころか、呼吸の仕方さえ忘れてしまったのかのように体が動かない。
「うー。ばうあう?」
「そう、なんだ! 女の子なんだね」
愛ちゃんが声をあげたのをきっかけに、なんとか声と表情を取り繕う。
私の妹だった愛加は、愛という名前になった。
私の弟だった一希は、女の子になった。
すでに妊娠五ヶ月。知識がないのでよくは知らないけれど、ほとんど性別は確定事項だろう。
ホントはもっとたくさん考えたいのに、頭にはずっと同じ考えがめぐっていた。
私が。私の選択が存在が……二人を、殺した。