山田太郎の恋愛事情
いつからだろうか、夢を追わなくなったのは。子供の頃、野球少年はプロ野球選手になりたいとか、女の子はケーキ屋さんになりたいとか、みんな必ず夢を持っていた。
なのに、高校生になった今、夢を追いかけているだろうか。
当たり前のように、同じ時間に起きて、当たり前のように同じ時刻の電車に乗って、当たり前のように登校する。
機械的に、繰り返すだけの毎日。
明確な目標もなく、消費されていく人生。
こんな人生に意味などあるのだろうか。
それを否と答えるのには、俺のここまで辿って来た人生には説得力がなさすぎた。
きっと、このまま死ぬまで誰かが辿って来た道の上を歩いていくことになるんだろう。
寂しい気持ちもある。もっと夢を追いかける人生の方が華々しいんじゃないかって、けど、そんなこともする必要もないんじゃないかって思えていた。
来須由依に会うまではーー。
山田太郎は、大きなあくびを職員室でかいていた。
「反省しているのかね!君は!」
「はいはい、してますしてます、ちょーしてますよ」
「はいは一回でよろしい!」
山田は、うんざりしたような表情をしながら、鼻の穴を人差し指でほじりながら、返事をした。
「君はこの学園始まって以来の問題生徒だ!この社会のゴミクズが!」
「クズねぇ…この学校に来て言われた言葉ランキング1位だよそれ」
そう、この学校に来てから山田太郎が言われた言葉ランキングで堂々の1位はクズ、ちなみに2位は、バカだ。
どれもこれも言ってくるのは教師たちで、生徒たちはそもそも近づいてこない。なんでかは、わかっている。俺が問題児だからだ。どこらへんが問題児なのかはさておき、とにかく問題児なのである。
学校に登校すると授業を受けるのと同じくらいに当たり前のように山田は職員室で怒声を浴びるのが日課になりつつある。
いい加減、教師の怒り面を見るのも飽きてきた。
窓の外を見ると、綺麗な青空に白い雲が浮かんでいた。
「人の話を聞くときは話してる相手を見ろ!このクソガキ!」
「その辺にしてやったらどうですか?教頭先生。こいつには何を言っても無駄ですよ」
あまりに長すぎる教頭の説教にほかの教師たちが仲介に入る。
「何を言ってるんだ!?このクソガキには、わかるまで言わねばならないのだ!」
「まぁまぁ、その教頭先生の熱意も私が受け取りますんで、ここはひとつ」
頭が熱くなった教頭先生にぽんぽん、と頭を優しく叩く教師が1人。
「ここは、このクソガキ担任田中礼子がお受けいたしますわ」
「そうですよ、田中先生ならこの生徒も抑えられますよ。ささ、ここは田中先生に」
教頭先生は、ふん、と機嫌を損ねながらも職員室から出ていった。
山田と田中先生もまた職員室をあとにした。
放課後の誰もいない廊下は昼間と違って静かで不気味な感じである。
その廊下を今は田中先生と2人きり、あくびをかきながら廊下を歩く。
「あれだけ授業中に寝ていてまだ眠いのかお前は」
「やっぱり、眠るなら机じゃなくてベッドがいいな。寝心地が違う」
「なら、授業は眠らず真剣に受けろよ。このままだとお前また進級できなくなるぞ」
「それは怖いですね」
オレンジ色の光が廊下に刺す。田中先生は 夕焼けの空を眺めながら、タバコを吸った。
「いいんですか?学校内で吸って」
タバコをふぅーっ、と吹いて田中先生は答えた。
「いいんだよ。今は生徒はいないんだから」
「ここにいるんですけど」
「お前は別だ」
「なんすか、それ」
「お前は、私にとって生徒でもあるが、唯一の悪友達という存在だ。他の生徒とは別だよ」
「差別ですかね」
「いいや、いい意味での特別扱いさ」
「そして、悪ガキであるお前にやってもらいたい仕事がある」
山田はポケットに手を突っ込みながら、聞く。
「何やるんですか?また、めんどくさいことですか?」
「まぁ、それなりにな。だが、やりがいはあるぞ」
「何やるって聞いてんですけど」
「それは後のお楽しみ」
ただし、と先生は言葉を続けた。
「この仕事を断れば、お前は即刻この学校を辞めてもらう」
「はぁ?なんで?どうしてそうなるんですか?」
「お前がやらかしてきたことを考えれば当然のことだ。文句があるなら昔の自分に言え」
言い返すことができない山田。それを見て少し気分が良さそうな田中先生。
「とにかく今日はもう帰れ。明日を楽しみにしておけよ」
そう言われて、山田は家に帰った。
そして、楽しみな朝がやってきた。
いつものように、山田の朝は8時半から始まる。目やにがついた目を水で洗い、まだボケーっとしている顔を見ていつも通りだと少し安心する。
朝食を食べて、誰もいない通学路をほかの生徒とは1時間遅れて登校する。
心地よい春風が眠気が取れない体に優しく触れる。
めんどくさい、今日もつまらない1日が始まるのか、と憂鬱な気分になりながら歩いていると、同じ高校の制服を着た女子生徒が信号を待っていた。
山田は気になった。それは容姿とか、この時間に自分以外の生徒がいるとか、そういうものではない。
それは、学校に登校するものであれば、ありえないことをしているからだ。
山田は、その疑問をその女子にぶつけた。
「あの〜、そんなところで何やってんの?もしかして、家に帰るのか?」
女子は山田の方を振り向いて答えた。
「何いってるのよ、学校に登校するに決まってるじゃない」
はぁ、と山田はため息を吐く。
頭をがりがり、とかきながら山田は言った。
「だったら、ここの信号じゃなくて、もう一つ奥の信号なんだけど、学校行くんだったらな」
一体、どこの世界に自分の高校まで迷うやつがいるのだろうか。いるとしたら、きっとこいつくらいなのだろう。
山田は、その場から去っていった。
1時間遅れて登校した山田は、後ろのドアから入って、自分の席に座った。
山田が遅刻してくることはもはや当たり前なのだということが、クラスには染み付いていた。よって、山田が遅刻をしてきても誰も不思議だとは思わない。
しかし、今日は珍しく山田の隣の席が空いていた。というより、なかった席ができていた。
「遅いぞ、山田。ちゃんと時間通りにこい」
「はいはい」
「よし、全員揃ったことだし、いよいよお待ちかねの時間だ」
田中先生がそういうと、クラスメートが騒ぎ出す。
一体なんの騒ぎだというのだろうか。
「それでは、入ってきて」
がらり、と前方のドアが開く。
廊下から現れたのは、先ほどの信号で学校までの道を迷っていた女子だった。
女子は、長く艶やかな髪を肩まで伸ばし、ぱっちりと可愛らしく見開いた目。
そして、身長はかなり小さかった。
教壇にあがり、チョークを手に取り黒板に白い島を書き込んで行く。
「来須由依。今日からこのクラスに転入してきました。よろしくお願いします」
来須は自分の名前をいうと、拍手が起きた。
周りの男子からヒソヒソ、と声が聞こえてくる。
結構可愛くね、とか。俺、一目惚れしたかも、とか。その他諸々。
「じゃあ、来須さんはあそこにいる目つきの悪い男の隣の席に座って」
「わかりました」
それとーーと、田中先生は言葉を続けた。
「山田、あんたには来須の指導係やってもらうわよ」
「は?」
「まだ、学校のこととか分からないことがあると思うから、そういう時があったら、全部あの男に聞いてね。来須さん」
「わかりました」
ええー!、とクラス中で叫び声が聞こえる。なんでよりにもよって山田なんですか、とか。あんな奴にできないですよ、とか。俺にやらしてくれ、とか。
できるのであれば、そうして欲しいところだが、それはできない。
山田はわかっていた。これが昨日のお楽しみなのだと。これを断れば、自分は退学。
「よろしく」
そういう来須に山田は顔を合わさず、ため息をついた。
授業が始まってから特に何もなく1日が終わった。というより、終わっていた。
山田にとって、授業とは睡眠時間なのであり、受けるものではない。
ゆえに起きる頃にはいつも帰りの挨拶なのだ。
今日も終わった。そう思って、カバンを手にとって帰ろうとすると。がしり、と手を掴まれた。
「ちょっと、どこ行くのよ」
手を掴んだのは、来須だった。
「は?帰るんだけど」
「あんた、私の世話係なんでしょ。だったら、勝手に動くんじゃないわよ」
こいつは何をいっているんだ?山田はそう思いつつ、軽蔑の眼差しを来須に送る。
くだらない、やってられるか、そう思って手を振り払おうとすると、さらにぎゅっと力を込められる。
なんだか、めんどくさいことに巻き込まれている気がした。
そのまま、来須について行くことになった山田はなんでこんなことになったのだと、少し嘆いていた。
「おい」
「なによ」
「なによ、じゃねぇよ。一体どこまで連れまわすつもりだよ。いい加減帰りたいんだけど」
「何いってるのよ。あんたは私の世話係なんでしょ」
なんだこいつは。さっきから世話係、世話係ってあくまで学校の話だろうが。
「ついたわよ」
「どこだよ、ここは」
「私の家」
「あっそ、じゃあ帰るわ」
またがしりと手を掴まれる。
「何帰ろうとしてんのよ。こっからでしょうが」
そのまま、無理やり家の中へと連れていかれる。
離そうとするも来須の握る力には勝てない。
「…なんだこれ」
家の中に入ると、ダンボールの山がたくさんあった。
「私、昨日の夜引っ越して来たばっかりなのよ。だからあんたには、私と一緒にダンボールの山を片付けるのを手伝ってもらうわよ」
「なんで俺がそんなことしないといけないわけ?」
「だってあんた私の世話係なんでしょ?それくらい当然じゃない」
この女…。調子に乗るのもいい加減にしろよ、そう思う山田にぎろりと強い視線を送る。
「なんか文句ある?」
「ありまくりだよ。てめぇのいいなりになるのはあくまで学校の中だけだろうがよ」
「そんなこと誰がいったのよ」
「は?」
「誰がそんなこと言ったのよ。学校内だけだって」
確かに言われてみれば、言われてないような。いや、それでも常識的に考えて。
「とにかく、早く手を動かしなさい。そうじゃないと朝になっちゃうわよ」
しぶしぶ、山田はダンボールの山を片付けることにした。
「終わった〜」
力ない声でダンボールのない部屋で大の字になって寝転がる山田。
なんやかんやで2時間ほど休憩なしで片付けていたから結構疲れた。
そういえば、来須を見ていないな、そう思った山田は家の中を歩き回った。
無駄に広い家だ。部屋がいくつもある。なのに、ダンボールがたまっていた場所は一箇所だけでそれ以外の部屋には一個もダンボールは見当たらなかった。
二階に上がり、電気が付いている部屋があった。がちゃりと扉を開けると、下には大量の紙が散乱していた。
そして、奥にはワイシャツ姿の来須がいた。
下着は何も履いていない、それはわかった。くっきりと白いワイシャツの下から覗かせる白く細い足。そして、ワイシャツから少し透けて見える白い肌。
「うわ!ごっ、ごめん!まじごめん!……って、聴いてる?来須さん?」
来須は山田の話を聞こえていないようだった。まるで、眠っているかのように静かに、それでも彼女は何かをしていた。ただし、ここからではそれを見ることはできない。
ただーー、横暴な性格とは裏腹にその何かに集中している姿は美しい。
不覚にも山田はそう思ってしまった。
こっそり来須の家を抜け出した後の帰り道。赤い車がぷー、ぷー、とクラクションを鳴らしていた。
流石に見覚えがないな、と無視していたら車から聞き覚えのある声が聞こえた。
「おい、山田。私だ、田中だ」
なんだ、知人か。少し安心した山田は田中先生の車に近づく。
「どうしたんですか、まだ俺に用ですか?」
「いや、そんなことはないさ。それよりどうだった?来須由依は」
「どうもこうも最悪ですよ。いきなり家まで連れてかれて引っ越しの荷物の手伝いやらされるし、しかも一人で。あいつの部屋に行ったら声をかけても全部無視するんで勝手に帰ってる途中ですよ」
だろうな、と田中先生は笑いながら言う。
「まぁ、彼女のことを頼むぞ」
そう言い残して、田中先生は車とともに去って行った。
変な1日だった。山田は家へと歩みだした。
それからも、山田の来須による世話係生活は続いた。ことあれば、すぐに来須は山田に絡み、山田のスクールライフを狂わせた。いつもなら眠っているはずの時間に無理やり叩き起こされ、どうでもいいことばかりに付き合わされる。
例えば、授業中に消しゴムが落ちたから拾えだったり。
例えば、昼ごはん持ってくるの忘れたからお前の昼ごはんをよこせ、だったり。
例えば、帰り道に今日も手伝ってもらいたいことがあるから家に来いと言われ、ダンボールからだした物を整理したり、だったり。
とにかく、来須が来てから1週間ひたすらにこき使われている。普段人の言うことを聞かない山田が来須にだけ言うことを聞くということで、生徒の間では来須の犬とまで言われる始末である。
その噂について来須に話すと、
「あら、よかったわね。私の犬になれて。感謝しなさい、今日もこき使ってあげるから」
と、言うのであった。
流石の山田もいい加減にしろよクソ女、と文句を言いたくなるが、なかなか言うことはできない。なぜなら、この女は喧嘩はめちゃくちゃ強いからだ。
女を殴るのに抵抗があるとか、そう言うのではなく、怒らせると本気で殺されかねないからだ。
そんなわけで、山田は今日も今日とて不機嫌である。
しかし、山田にも一つ来須の気になるところがある。
それは、彼女の周りに友人がいない、と言うところだ。転入してきて1週間。もうそろそろ友達の一人や二人いてもいいはずだ。それどころか一人も寄ってこない。
もしかして、俺が世話係してるから近づいてこない、とかあるんじゃないかと心配する山田。
いや、考えすぎか。
さすがにそこまで行くと自分の存在が嫌になってしまう。というか、そうであって欲しくない。
「やぁ、山田。どうだね調子の方は」
機嫌良さげな雰囲気で近づき、声をかけてきたのは田中先生だった。
「そうですね、先生のおかげで毎日毎日、あの女にこき使われてますよ」
「それはよかった。安心した」
「何が安心したですか!?俺はあの女のせいで生活狂いっぱなしっすよ!あいつの家に行けば、昨日掃除したところがもうゴミ屋敷になってるし、部屋はよくわかんないけど紙まみれだし、人の話きかねぇし、風呂から出てきても髪を乾かさないし…とにかく破綻してすよ!あいつの生活は」
それに、と続けようとした一言だが、山田は言わなかった。それは山田にも少し感じるところがあったから。だから、言わないことにした。
「ようやく、彼女のことを少し理解したようだな」
「あれで少しなんですか?」
「そうだ。ほんの一部にすぎない」
はぁ、とため息が出る山田。あれで一部だとしたら俺はこれからもっと苦労するのか、と。
「おーい、山田ー。次の授業の場所がわからないから教えろー」
声の主は来須。廊下から大きな声で山田を呼んだ。
「それくらいてめぇで行けよ! どんだけ俺を頼るんだよ!」
「だって、お前は私の世話係だろう?だったら私のことをしっかり世話するのが仕事でしょうが」
あのなぁ、と今にも怒りが爆発しそうな山田にまぁまぁ、と教頭先生の怒りを抑えるようにぽんぽん、と肩を叩く田中先生。
「今度、飯くらい奢ってやるからさ」
「…約束ですよ」
「任せておけ。約束は守る」
山田は渋々来須を案内することにした。
「あんた、よく田中先生と喋ってるけど仲いいの?」
「まぁまぁだな」
「なにそれ」
「そんなこと聞くくらいなら早く教室覚えろよな」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
その日の放課後、山田は少しずつ日課となりつつある来須の家訪問をしにいく途中、隣を歩く来須の歩みが急に止まった。
「おい、どうしたんだよ急に止まって」
来須の顔を見るととてもいい表情ではなかった。少なくとも風邪をひいているとかではなく、なんだか嫌なものに見つかったかのような表情をしている。
来須の視線の先には一人の男性がいた。
白いスーツを着た三十半ばくらいの男性が山田と来須にお辞儀をする。釣られて山田もお辞儀をするが、来須は頭を下げなかった。
「おい、どうしたんだよ」
「あんな奴に下げる頭なんてないわ」
どうにもあまりいい仲ではないらしい。
「久しぶりだね、由依。君のことを探していたんだよ」
「気安く名前で呼ばないで。どういうつもり?」
「それはこっちのセリフさ。君こそどういうつもりなんだい?こんなところにまで逃げてきて」
ちっ、と舌打ちをする来須。男は一歩、また一歩と近づいてくる。
「少し話をしないかい?こんなところで立ち話もなんだろう。君もそう思うよね?」
急に山田に話を振られた。山田は、一度来須の顔を見てから判断しようと来須の顔を見るが、首を横に振る以外選択肢はないらしい。
「おや?そうなのかい?なら、ここで立ち話とするか」
「時間の無駄よ。行きましょう山田」
「お、おう」
そして、来須の家へと向かった。
それから、何度かあの男について聞いてみようかと思ったが、どうにも来須はご機嫌斜めなようで話しかければ牙を向き、襲いかかってきそうな雰囲気だだた。
そのあと、結局一言も話さず、山田は来須の家を後にした。
暗い夜道を歩いているとそこには先ほどの白いスーツを着た男がいた。
「やぁ、待っていたよ」
「あの、なんなんですか?」
「君、もしよかったら僕とディナーに行かないかい?おごるよ」
山田はその男についていくことにした。
高層ビルから見下ろす夜景はとても綺麗だった。ピカピカに磨かれたガラス窓には店内の光が反射して山田と男の姿を映し出していた。
「君は、来須由依の友達かい?」
「いや、世話係です」
「世話係?変な関係だね」
男は笑いながらそう言った。
「あの、あんた一体何者なんですか?」
「あー、そうだった。そういえば、まだ自己紹介してなかったね」
すると、男は財布からすっと、一枚の名刺を差し出した。
「僕は常泉裕一郎といってね、来須由依のことをプロデュースしている人間なんだ」
「プロデュース?来須を?なんで?あいつ芸能人だったの?」
常泉は、やっぱり、とため息混じりに山田の顔を見た。
「君は…いや、君たちは彼女のことを何も知らないみたいだね」
常泉は、カバンの中から一枚の絵を見せてきた。
「この絵どう思う?」
「めちゃくちゃ上手いと思います。っていうか、でかい美術館に飾られてたってこの前ニュースで見たような…」
「そう、この絵はオーストリアの美術館に飾られている。そして、この絵を描いた人物こそあの来須由依だ」
なんだか信じられない、そんな気がした。1週間だけだが、彼女の部屋にはそんな芸術的なものなどは一切なく、ただのゴミの山しかなかった。
「僕の言っていることが信じられないなら信じなくても結構。結局のところ君には関係ないからね。僕はこの街に来た理由はただ一つ」
常泉は、真剣な表情をして言った。
「来須由依を芸術家の世界に連れ戻す。そして、連れ戻したらすぐに再び海外に行く」
「……は?」
「どうやら、話についていけてないみたいだね。無理もない。ただ、僕から君にお願いできるのは彼女に説得してもらいたいんだ。僕と海外に行くことを」
「どうして?」
「彼女には才能がある!それも世界一のだ。誰にも追随を許さないその才能には世界が注目している。世界中が彼女の絵を愛している。彼女は芸術の世界においての宝だ。だから、僕は彼女を来須由依を芸術家として世界の頂きに君臨してもらいたい」
だが、と常泉は言葉を続ける。
「見ての通り彼女は僕のことを嫌っていてね。きっとこのままだと僕は彼女を連れていけないだろう。だから、友人の君ならと思ったけど、どうかな?」
「最初に言いましたけど、俺は世話係なんで。友達じゃないです」
そうか、と常泉は悲しげな表情をして言った。
「それでも構わない。この通りだ」
常泉は、すっと、深く頭を下げた。
「来須由依を芸術家としての道に復帰させるために手を貸していただけませんか?」
「…まぁ、やれることはやってみます」
「ありがとう」
常泉と会って1週間。山田はいつものように来須に振り回されていた。
「ねぇ、山田。昼ごはんもってくるの忘れたからあんたの昼ごはんちょうだい」
「いや、嫌だよ。っていうか、来須。お前、前にも昼ごはん忘れてたよな。自分の飯くらい忘れるんじゃねぇよ。それにこれは俺の飯だから誰にも譲るつもりはねぇ」
「目の前にお腹空かしている女の子がいるのに飯一つ譲れない男が何言ってるんだ?ああん?」
「そんなこと言って、この前忘れた時に一口とか言って全部食ったのは誰だと思ってんだ?ああん?」
「ケチな男はモテないわよ」
「余計なお世話だ。胃袋ブラックホール」
山田と来須は互いにバチバチと睨み合う。その危ない雰囲気にクラスの人間はその二人だけを残して去っていった。
「そういえば、来須。ききたいことがあるんだけどよ」
「はぁ?なによ」
「この前、お前のことを探してた常泉って人とこの前飯食ったんだけどよ」
来須の表情が強張る。なにかに怯えるように、しかし、目つきは鋭いままだ。
「お前、あの男となんかあったのか?」
「……別に」
来須は目を合わさず、舌打ちをする。
ピンポンパンポーン、と放送前のアナウスが鳴る。
「来須由依さん、2年7組来須由依さん。至急職員室まで来てください」
「おい、お前呼ばれてんぞ」
「わかってる」
来須は山田の弁当を全部食べた。それも一瞬で。山田の好物の卵焼きが、大好きな肉たちが全て来須の胃袋へと吸い込まれていった。
「これはあくまで忠告。あいつ…常泉裕一郎のいうことだけは絶対に信用しちゃダメ」
そう言い残して、来須は教室から出ていった。
すると、ことが済んだことを確認して安心した顔つきで出ていったクラスメートが教室に帰って来た。
その日の放課後、来須の様子は明らかにおかしかった。いつもなら拳の一つや二つ飛んで来てもいい時でさえ、彼女は襲いかかってこない。
明らかにおかしい。そう思った山田は早速話題を切り出した。
「なぁ、来須。職員室でなにしてたんだ?」
「……別に」
またこれだ。昼休み以降から来須に職員室について聴くと帰ってくる返事は全て別に…である。
「じゃあ質問を変える。常泉裕一郎、あいつが関係してるのか?」
「しつこい男はモテないわよ」
そんなことはどうでもいい。元からモテていないからな。
「なら、質問を変える。お前、プロの画家らしいじゃねぇか。なんでこんなところにいるんだよ」
「あいつから聞いたのね」
ああ、と山田は答える。
「お前の作品にたくさんの人が感動して待ってるんだろ。世界とかそういうレベルの力持ってるんだろ。なのに、なんでこんなところでくすぶってんだよ」
「はぁ?」
「だってそうだろ。俺はお前の絵を見た時すげぇ、って思った。そんでもってその絵は俺以外にもっとすごい人たちからも評価されてるんだろ。だったら、お前はそこにいるべきなんじゃねぇのか?」
その瞬間、来須の拳が山田にぶつけられた。
「……なにも知らないくせして、偉そうに言ってんじゃねぇぞ!」
来須は山田の胸ぐらを掴み、頭突きをする。
「世の評価がなんだ!そんなものに振り回されて生きていくのはごめんなんだ!私は誰かのために描いているんじゃない!私は私のために描いているんだ!
それのどこがダメだって言うのよ!」
来須は強くそして、目を赤くして山田に言った。
そして、胸ぐらを離した。
「あんたは違うと思っていた。あの男と。世間の人たちと」
来須は弱々しい声音でそう言った。
「今日ね、職員室に行ったら常泉がいたのよ。あと、教頭と田中先生。そしたら、なんて言ったと思う?君を芸術家の道に戻すためにこの学校を辞めてもらいたい、ですって。しかも、学校の広告用に一枚学校のために絵を描けとか言うのよ。馬鹿馬鹿しいでしょ。結局、あいつらはみんなそう。金とか自分の身とかそういうことしか考えてないのよ。別に私の絵なんか要求してないのよ。私が描けば金になる。ただそれだけ」
「お前、それどうしたんだ?」
「もちろん、断るつもりだった。けど、明日答えをきくとか言ってそれで終わり」
だけど、と来須は続ける。
「それで救える人がいるなら、私は描かないといけないのかもね。プロの芸術家として」
「だから、今日で山田太郎の来須由依の世話係は終わり。あんたと私はもうただのクラスメート」
来須は夜空に浮かぶ月を見ながら、最後にこう言った。
「短い期間だったけど、すごく楽しかった。こんなに楽しかったのは多分生まれて初めて。だから、ありがとう」
ばいばいーー山田くん。
来須はそう言い残して、山田から去っていった。
そして、山田の世話係は幕を閉じたのだった。
次の日、山田はいつものように1時間遅れて登校し教室にはいると、黒板には自習と書いてあった。
そして、となりに座ってるはずの来須の姿はない。
「おい」
「ひぃ、な、なんだい山田くん?」
「来須のやつはどこいった?」
「来須ならさっき職員室にいったよ。田中先生と一緒に」
「そうかい」
山田はカバンだけ机の上に置いて教室の扉を開けた。
「ちょ、ちょっとどこいくんだよ」
「自習してくる」
職員室では、田中先生、教頭先生、常泉、そして来須がいた。
来須はケースの中から大きな一枚の絵を取り出した。
そしてそれを机の上に置く。
「おお、これは素晴らしい。なんと美しい絵だ。これだけ美しい絵があればいい宣伝になる。ありがとう来須くん」
「いいえ、別に」
常泉は拍手をした。
「素晴らしい絵だ。やはり君のような才能のある人間は凡人たちと紛れて生きるべきじゃない。どうだい?僕とまた世界で才能の花を咲かせる気にはなれたかい?」
来須は、ごくりと固唾を飲んだ。
ここで首を縦に振れば私はもうここには帰れない。また、暗い部屋の中で一人で絵を描くことになる。
けど、それはいいことなんだ。そうすることで幸せになれる人がいるなら私はーー。
「ちょっと待ちな」
がらりと職員室の扉が開く。
「きっ、貴様は!」
「よぉ、教頭先生。久しぶり」
「ほぉ、君か」
田中先生は静かに微笑んだ。
常泉と教頭先生は驚いた表情をして、来須は目を丸くしていた。
山田はずかずかと職員室の先生たちをはねのけ、来須たちに近づく。
そこに教頭先生が山田の前に立ちはだかった。
「何をしに来た山田!ここは貴様のような人間が来ていい場所ではない!」
「うるせぇなぁ、ぴーちくぱーちく黙ってろ」
「なんだぁ!その口答えは!」
「いつも通りだろうがよぉ」
その瞬間、山田は教頭の頭をひっぱたいた。正確には教頭の髪の毛のみをひっぱたいた。すると、教頭のあったはずの毛が綺麗に吹き飛んでいった。
「ああぁぁぁ!!!私のカツラがあぁぁぁぁ!!!!」
「やっぱりヅラだったか」
さらに絵に近づく。そして、絵を見た。
山田は笑った。
「たしかに上手いな。こんな絵をかけるのは世界でも来須くらいだろうな。だがなーー」
山田は絵を思い切り破いた。そして床に叩きつけ、踏みつけた。
「これで、来須がこの学校を離れる理由がなくなったな」
「貴様!なんてことを」
カツラが取れて、正気を失っている教頭の代わりのように常泉が叫ぶ。
「うるせぇよ。クソ親父。お前にはわかんねぇのかよ、こいつの気持ちが」
「気持ち…だと?」
「こいつはたしかに天才だ。だがな、こんな悲しい顔して描かれた絵なんて見たって感動なんかしねぇ。俺は絶対にしない」
「それがなんだって言うんだ!来須由依の絵が世界を動かすんだ!彼女の絵があれば世界の頂きへと登りつめることができるんだ!」
「そんなもん知るか!そんなのはてめぇの勝手な妄想だろうが!来須の気持ちを考えたことがあるのかよ。こいつは絵を描くことが大好きなんだよ。周りが見えなくなるくらいこいつは絵を愛しているんだよ。その絵を悲しませることは来須は望んじゃいない」
「みんなが幸せになれるのに、来須は幸せになれないのか?そんなのは認めない。世間が認めても俺が認めない。世界がそれを否定しようとも、俺が世界中を否定し続ける」
「ーーもういいよ」
来須が優しく山田の肩に触れる。
「もういいから、本当にありがとう山田」
来須はゆっくりと常泉の方へと近づいていく。
「来須由依、やはり君は芸術家として僕と一緒にーー」
ずどん!、と来須の拳が常泉の頬を刺す。
そして、破れた絵を拾い上げさらにビリビリに来須は破いた。
「こういうことなんで、私学校に残ります。田中先生。私、授業に戻りますね」
来須は、山田と目を合わせることなく、職員室を後にした。
こうして、来須の退学は阻止することに成功した。
次の日から山田の生活はとても平和だった。
いつも通りの日常に帰ったというのだろうか。とにかく、来須からとやかく言われるのはなかった。
そして、もちろん職員室に呼び出されるのもいつもと同じなのはわかっている。そして、決まって説教をしているのも教頭だった。
「おい!山田!何回同じことを言わせれば気がすむんだ貴様は!」
「どうでしょうねぇ」
「貴様といい、来須さんといい、どうなってるんだこの学校は!」
「来須?来須がどうかしたのか?」
「貴様には関係ない!それより、今日こそ貴様に鉄拳制裁を!」
「まぁ、その辺にしてくださいな。教頭先生。ここは私田中に任せてください」
そうして、いつものように説教は終わった。
いつもならここで帰るだけ。だがーー。
「田中先生、一つ質問があるんですけど」
「なんだ?藪から棒に。お前が質問なんて珍しいじゃないか」
「来須、今日職員室で教頭となにか揉めたんですか?」
先生は、校舎の窓から外を見ながら歩みを止めた。
「その口ぶりは寝ていて何も知らないようだな」
「まぁ、そんなところですね」
「いいだろう。はっきり言ってしまえば来須由依はこの学校始まって以来の問題児だ。山田、お前以上にな」
あいつが俺より問題児?想像がつかない。
「だから、私はお前を来須の世話係に任命した。この学校であの生徒を相手にできるのはお前くらいしかいないと思ってな」
「一体、どんな問題起こしてんすか?」
興味本位で山田は聞いた。自分以上の問題を起こす生徒に。それが暴力なのか、それ以外なのか。
誰もいない廊下に先生の声だけが静かに響いた。
「一言で言うなら、正式に取り下げたのさ、学校を辞めるの。誰に言われたわけではなく、自分の意思で」
「そうですか」
「山田、とにかくお前はよくやった。いつか焼肉奢ってやる」
「嘘でしょ」
「ばれたか」
そうして、また1日が終了した。
学校から帰ろうと校門を潜ろうとすると、見覚えのある女子生徒がいた。
「遅い…」
「なんで待ってるんだよ」
来須由依は、なぜか校門の前で待ち伏せていた。
「ちょっとついてきて」
言われるがまま、山田は来須についていくことにした。
夕暮れは終わり、世界は完全に闇に染まった。
見えたはずの星空は、人が照らす街灯によって、見えない。
春先の少し寒い夜に来須由依はアイスクリームを食べていた。
「おい、俺に何の用だよ。もう世話係じゃねぇんだぞ」
「あんたーー」
来須はアイスを口にしながら、山田の方へと振り向いた。
「あんた、問題児なんだって?この学校で1番の」
何を話すかと思えば、くだらない。山田はそう思った。
だが、来須の表情はあまりいいものではなかった。
悲しげな雰囲気そこにはあった。
「あんた、今日は何やって職員室に行ったの?人殺し?」
「そんなことしたら、今頃刑務所だよ」
「そうだよね、で、どんなことやったの?」
こいつ、なんで今こんなにテンション高いんだ?いつも不機嫌な感じ醸し出しているくせに。
「ちょっと昨日のことでな。物を壊しちまっただけだよ。それと教頭のヅラを取っただけだ」
「へぇー、案外面白いことするんだねあんたって。私も今日職員室に呼び出されたんだけどね」
「なんでだ?」
「聞きたい?」
「まぁな」
「あんたみたいに物壊したり、そんなことしてないんだけどね、私はいるだけで問題児なのよ」
「意味わかんねぇんだけど」
来須はカバンの中から何やら取り出す。取り出されたのは、一枚の紙だった。
そして、一枚の絵が描かれていた。
「上手く描けてるじゃねぇか」
「そんなこと知ってるわよ。私が描いたんですもん」
来須は自信満々な表情でアイスのクッキーの部分を食べながら、言った。
「そんなことよりあんた、よくも私の絵をビリビリに破いてくれたわね」
「あれはしょうがねぇだろ。そうするしかなかっとんだから」
来須はクッキーをすべて食べ終えて、はぁ、とため息をつく。
「あんたに破られなくても、元からあんな絵、ビリビリに破くつもりだったけど、あんたのせいで全部めちゃくちゃよ」
「悪かったな」
なんだか、悪いことしてないのに悪いことした気分になる山田。全く、どうしてこうなるのか、天才様の考えることはよくわからんな。
「わからないならわからないでもいいけど、とにかく私はその絵のせいで問題児なんだ。だから、私たち仲間だね」
いつもしかめっ面をしていた来須の表情が砕けた。鋭くつよい視線がほんわか曲線を描き、白い歯を見せた。
そう、その時、来須は初めて笑ったのだった。
そして、また次の日。いつものように遅刻しながらも登校していると、来須の姿が見えた。
「よ、お前も遅刻か?」
「朝は苦手なのよ」
どうやら、いつも通りの不機嫌丸出しの来須由依に戻ったらしい。
山田は昨日のまま笑っていれば、少し可愛いのになぁ、と思った。
「なにさっきから人の顔をジロジロ見てんのよ変態。警察に訴えるわよ」
ムカつくところも全部いつも通りのようだ。山田は力がこもった右手の拳を来須に見せないようにした。
「あんたは急がないの?遅刻してんでしょ」
「そんなこと聞くお前はどうなんだよ。こんなゆっくり歩いてると怒られんぞ」
「それはあんたも同じでしょ」
「じゃあ、考えてることも同じなんじゃねぇの。学校に行くのがめんどくさいから」
「同感ね」
朝8時半の四月の青空はぽかぽかと暖かい陽の光を山田と来須に降り注いだ。
誰もいない広い道を1人で歩くには贅沢な気分だったが、2人で歩くと少し窮屈に感じる。だが、その窮屈さも悪くない。そう思った。