【4】
少年が立ち去ってからベンチに座った二人は、最終便が飛び立ってもそこを動かなかった。
しかし沙耶子が両親に怒られることを危惧して時間を気にすると、女は沙耶子の家に電話を掛けてあげると言い、沙耶子から番号を訊いて、母親に遅くなることを詫び、責任を持って送り届けることを約束した。沙耶子は二人のこの関係を両親に怪しまれることを恐れたが、母親は「良い先輩ね。見習いなさいよ、さやちゃんも」と言うだけだった。
大蛇の長く肉感のある舌がまだ絡みついているようだ。
何度まぶたを閉じてみても、あの艶めかしい情事のことばかりが心地良い罪悪感とともに浮かんでくるのである。
女が見せたあの突然変異は、唇を離した途端、瞬く間に正常に戻っていた。沙耶子はそれが不思議でならなかった。その後もキスを繰り返したが、すべてが最初のキスのような感触よりも、香りの効いたものばかりだったのである。
『わたしの舌と繋がると、あの人は乱れるのかもしれない』
沙耶子のこの妄想は、女の本意とはかけ離れていたが、もちろん沙耶子がそれに気付くことはなかった。あの官能は『少年』という絶対条件があって成り立つものなのだから。
そこに女と少女の、この関係における観念の根本的な違いがあるのである。
翌日の登校時、森笠が下駄箱の横で沙耶子を待っていた。
沙耶子は昨日この少年に見られていたことを忘れていた。あんなに動揺してたのにと思うと、可笑しくもあった。
「誰なの、あの人」
「さぁ、知らない」
「知らないって、普通じゃなくない?」
「なにが言いたいの?」
「なんつーか、その、ショックだった、つーか」
沙耶子はもはや二人の関係の唯一の目撃者にさえ興味がなかった。だからそんな質問や感想自体が邪魔でならない。
「なんでついて来たのよ」
「どうしてもおまえが好きな場所を見たかった、っていうか、こう……」
「ごめん、消えて? おちびちゃん」
すれ違った上級生に笑われた森笠は、その場に立ちすくんだ。
噂は学校中に広まった。
生徒達はこれまで注目したこともなかった寡黙で地味な少女を「S高で一番の危ないレズ」と称し、騒ぎ立てた。授業中にも絶え間なく噂話は繰り返えされた。比較的仲の良かった同級生もさすがに気まずそうで、沙耶子に近寄ろうとしない。「気にしないほうがいいよ」と慰めるものもいたが、それは反面沙耶子の気に障る。そういう人間達はその言葉の裏に、噂以上の真実を遠回りに聞き出そうとするのだ。
「気にしちゃダメだよ。沙耶子がそんなことするはずないもん。ね? 森笠は空港で見たって言ってるけど、行ってないよね? そんなところへ行く理由なんてないもんね?」
沙耶子は嘘をつく気はなかった。なぜなら、この生徒達の到底知り得ることのない、成熟した大人の感覚を知り尽くしたという、圧倒的な優越感が沙耶子にはあったからである。
しかし冷静に、ここは否定を含ませなければならなかった。
沙耶子が怖かったのは、なによりも両親に知られてしまうことであった。沙耶子の中に、両親に対して言葉にできない罪悪感があるのは事実だった。両親だけは、いつも沙耶子の内側に存在するのである。
「あたしさぁ、女しか好きになれないんだけど、あんたもそうなの?」
ある朝、不良じみた上級生にそう打ち明けられて、沙耶子は困窮した。
自分は同性愛者なのだろうか? 自分は女しか好きになれないのだろうか? 男の人とはセックスできないのだろうか? なにもわからない。
ただひとつわかっていることは、あの女の存在が、処女である沙耶子の性的嗜好のすべてを凌駕しているということだけである。
「すいません、わからないんです」
沙耶子が正直に言うと、上級生は「はっきりしたら教えに来てよ、いろいろ共感できる部分があると思うからさ」と言って足早に去っていった。「危ないレズ」といるところをあまり見られたくないのだろう。
実世界の狭い高校生には、レズや同性愛という事実は衝撃的だったようで、さすがに噂は簡単に消えなかったのである。
母親はダイニングテーブルで肩を震わせて泣いていた。
「どうしたの?」と声を掛けると、母親はぐしゃぐしゃになったA4の紙を力無く差し出した。
「…………」
ワープロで打たれたその内容に、沙耶子はやりきれず、じっと震えた。
『お宅のサヤコはレズビアン。お宅のサヤコはレズビアン。お宅のサヤコはレズビアン。』
沙耶子の気持ちを知ってか知らずか、真っ赤な夕陽は音もなく沈もうとしていた。
沙耶子は自転車を漕いで空港の展望台を目指した。
涙が止まらない。管制塔がぼやけている。ガソリンスタンドを右に折れ、立ち漕ぎをし、赤信号を無視する。ぼやけている信号が意味を失う。母が泣く。悔しくてたまらない。自転車を投げ倒す。遊歩道が長くて、中程でうずくまる。涙が止まらない。離発着の轟音。とにかく丘を登る。ああ、誰もいない。たったひとりだ。悔しい。涙が止まらない。泣きじゃくるその声を吸引するエンジン。涙が止まらない。誰もいない。たったひとり。たったひとり。涙が止まらない。
足音に振り返る。
しかし、涙は止まらない。