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沙耶子  作者: 原田昌鳴
2/5

【2】

『あの教師がわたしを指名したら、快活に答えてやろう。その滑らかな唇の摩擦にこの教師は気付くかしら。生徒達は見とれるかしら。もう美しいキスを知ってしまっていることに嫉妬してしまうかしら』

 窮屈だったこの世界が、一夜にして自分に開かれたものに変わったと感じた沙耶子は、授業中にもこんなことを想像した。机に肘を突いて頬を支え、目立つように、できるだけ退屈な表情を作ろうとしたのである。


 沙耶子は次の日も、その次の日も、授業が終わると急いで展望台に行った。しかし女は来なかった。少なからずがっかりしはしたが、そんなときはこれまで通り空想にふければよかった。目の前の飛行機に自分を乗せて飛び立てばよかった。サンフランシスコもパリもブエノスアイレスも、飛行機を降りればすぐそこにあるのだ。


 ある日、最終便が飛び立つのを見てしまった沙耶子は、大いに後悔した。家から閉め出されるかもしれないと思い、慌てて丘を駆け下り自転車に乗ると、まくれ上がるスカートを気にもせず、とにかくペダルを漕いだ。

 家に着くと父親が帰ってくるまで灯っている玄関の灯りがすでに消えていた。「ただいま」と小さく言うと、すぐに母親が「さやちゃん、こっちおいで」とダイニングに呼んだ。父親はもう風呂から上がりビールを飲みながら、高血圧に効く食材、という趣旨の番組を見ている。母親は「こんな時間までどこに行ってたのよ。もう心配かけないで」と、かぼちゃの煮物を皿に移しながら言った。

「物騒な世の中だからな。遅いとお父さんも心配するから、せめて電話しなさい」

 両親はさほど怒っている様子ではなかった。しかしそれが返って沙耶子を調子に乗せる。

「わたし子供じゃないんですけど」

 その言葉が出たとき、沙耶子はとっさに『しまった』と思った。なぜ子供ではないと思うのかを問いつめられるかもしれない、そう思ったのだった。

「子供じゃなきゃなんだっていうのよ。偉そうな子ね、まったく」

 母親が沙耶子に言ったのは、そんな軽い言葉だった。胸をなで下ろした沙耶子に、今度は母の言葉の意味がのし掛かる。

 自分はもう子供ではない。だからといって大人でもない。

 沙耶子にとって、子供とはキスを「キッス」とか「チュー」とか呼んでいた頃のことで、大人とは上品な香りを漂わせながらキスをする女のことであった。ならば、自分はいまなんという成長の過程にあるのだろうか? 台風になれない熱帯低気圧みたいなものだろうか? それとも弾き手のない和音?

 いや、もしかするとただの空白なのかもしれない。

 しかし空白は、こんなにも鮮明に恥じらいと不遜心を残すものだろうか。さっぱりわからない。

 秋雨前線の影響で明日からしばらくは雨だと天気予報が言った。早く食べてしまえと、母親が急かした。


 一度沙耶子に開かれた世界が、また閉ざされてゆく。

 雨は窮屈な色で、教室も廊下もグランドも、とにかくすべてを包んだ。

 帰り道、誰かが沙耶子に並んで声をかけてきたので、傘を高くしその顔を見ると、同じクラスの森笠という男だった。寡黙な沙耶子は、事務的な内容でしかこの少年と話をしたことがなく、それだけになぜ自分に声をかけてくるのかが不思議だった。そしてこんなに窮屈な世界で、無理に明るい声で話そうとする少年の素振りが気にくわなかった。真っ白な顔も、耳にかかる直毛も、低い背も、なにもかもが不快だった。

「なに?」

 無感情に色素のない声を装うと、森笠はまたしても無理をして笑った。

「いやさ、じつはさ、ちょっと訊きたいことがあって」

「なによ?」

 もしもあの大人の女が自分と同じ立場だったら、どんな声でこの少年に言葉を投げるのだろう? 想像をしてみる。きっと無色な声ではないような気がする。声色こそわからないが、おそらくこの少年の顔をのぞき込むだろう。そしてその刹那、キスをするかもしれない。

 その想像が沙耶子を苦しめる。

「いつもさ、学校が終わったらどこ行ってんの?」

「なんでそんなこと知ってんの?」

「いや、あの、いつも教室出て行くのが早いからさ、どっか行ってるのかなって思って」

 終業のチャイムが鳴り終わらないうちに教室を飛び出していくことを知っているのは、自分のことを意識しているからに違いない。それぐらいは沙耶子でも理解できる。

『この少年は、わたしのことが好きなのかもしれない』

 しかしその少年の想いをどう汲み取るべきなのか、経験がないだけにわからない。

「面白いところがあるの?」

「さあ」

「どこなの? なんか気になるんだよなぁ」

「あんたには言わない」

 少年はあからさまに不満そうな顔をした。

 沙耶子はそれを放置してバス停に立ち止まると「わたしここだから」と言い、少年を自分から遠ざけようとした。少年はそれを呑み込み「今日は雨で良かったよ。じゃまた明日な」と軽く手を上げて通り過ぎた。

 バス停は長らくシャッターを閉めきったままの煙草屋の前にあって、その小さな店の機能はすべて2台の自動販売機に受け継がれている。それ以外の機能といったら、2〜3人が雨宿りをできるほどの小さな屋根があるだけだ。

『この雨がやんだら、きっと来るはずだわ』

 沙耶子はてるてる坊主でも作ろうかと考えたが、バスに乗るとすぐに忘れた。


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