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沙耶子  作者: 原田昌鳴
1/5

【1】

 1週間も降り続いた雨がやっとあがり、町はたくさんの水溜まりで普段の午後よりも明るかった。白い光を跳ね返すビルの窓ガラスが、辺り一面に散らばっているようだった。

 沙耶子は学校が終わると家に立ち寄って鞄を投げると、服も着替えないで慌ただしく自転車を飛ばした。ガラス板だった水溜まりは横切ると勢いよく割れ散って、その瞬間、紙を破くような音と一緒に液体へと変わって跳ね上がり、彼女の清潔なローファーを濡らした。


 やがて遠くに、管制塔と航空機の尾翼が見えてくる。

 閑散としたガソリンスタンドの脇を右に折れると上り坂になり、スカートをなびかせ立ち漕ぎをすると、やがて赤信号に足をついた。よく澄んだ秋の空気を揺るがすようなエンジン音が、耳に押し寄せる。沙耶子は背伸びをした。さっきまで見えた管制塔も、背の高い雑草に邪魔され、空港に近づくにつれて見えなくなっていた。小さな交差点を右に折れると、そこからは空港の敷地と公道とを仕切るフェンスが続いて、それに沿って沙耶子はペダルを漕ぐ足を速めた。


 空港の広大な駐車場を過ぎると、展望台の標識が見える。小高い丘のふもとに自転車を無造作に止めて、螺旋状に作られた遊歩道の中腹で、太陽から逃げるように飛び立つ飛行機を見た。

 沙耶子はじっとそれを見つめた。雲はひとつもなかった。

 公園になっている展望広場まで上ると奥に2人の若い女性がいたが、それ以外に人影はなく、まだらに生えた芝生がいつものように懐かしく広がっていた。沙耶子は先客の邪魔にならないように入り口のそばの欄干に両手をつき、空港を見下ろした。5機の飛行機が駐機している。中には韓国の飛行機や、小さなプロペラ機もターミナルから離れた場所に見えた。

『日本の飛行機はどれも白を基調にしていて面白くないわ。もっと派手な色があればいいのに』

 それがこの景色に対する唯一の不満だった。

 遠く西の空に、着陸態勢に入った飛行機が現れ、空気を軽く裂くような高い音を立てながら滑走路に引き寄せられる。白に赤が少しのボーイング767だった。


 学校が終わると、沙耶子は自転車に乗ってひとりでよく空港に通った。飛行機はどこへでも自分を連れて行ってくれる、空想を現実に変えたタイムマシン。そして空港は無機質な乗降所。時空を越えた旅の記憶をリセットするために、そこは無機質でなければならない。

 ああ、なんてロマンチックなのだろう。降り続いた雨が意地らしく彼女は何度も空を睨み付けたが、ここにやってくると、青く開け放たれた空がいつも根拠のない幸福感を与えてくれるのだった。

 飛行機が1機、プッシュバックに入って滑走路の方へのろのろと向かっていくと、まもなく滑走路の手前で停止した。着陸する飛行機があるのかもしれない。

 もう一方の端にいる2人の先客に目をやる。

 彼女らはさきほどから眼下に広がる空港全景の写真を様々な角度から撮影していた。時間の経過に沿って一定間隔でシャッターを切るので、太陽の傾き方を気にしているのかもしれない。その都度鞄から書類を取り出しては、基礎工事だとか、ゾーニング、景観上の観点など、なにか専門的な単語を並べながら眼下を指差していた。それらの打ち合わせが一段落したのか、彼女達も欄干の柵に寄りかかって空からやってくる飛行機を心待ちにしているようだった。西日が彼女たちを静寂な影絵に仕立てた。

 着陸態勢に入った飛行機が滑走路に着地すると、それを見届けて離陸待ちの1機が滑走路へと向かった。


 突如、沙耶子は2人について根本的な疑問を持った。

『あれ? 2人はどちらも女の人じゃなかったっけ?』

 細い影絵同士の距離が、近かった。ひとつは欄干を背に寄りかかっていた。そしてもうひとつはその影に向かい合って、形の整った鼻を近づけたように見えた。

 口づけをするのかもしれない。沙耶子はそう思った。

 沙耶子は顔を戻し、今度はゆっくりと目だけを2つの影絵に向けた。影は、いびつな形をしてひとつになった。口づけをしているのがはっきりとわかった。2人の髪がひとつになって風になびく。鼓動の早くなる胸の振動を感じながら、なんて綺麗な光景なのだろうと少女は思った。

 飛行機が轟音を響かせながら離陸する。


 星が姿を現し始めると、2人のうちのひとりが「空港の管理事務所に顔出してきます」と言って沙耶子の後ろを気にも留めず通り過ぎた。すると残されたもうひとりの足音が、なぜか沙耶子の座るベンチにどんどん近づいているように感じた。沙耶子は気まずかった。口づけを盗み見ていたのを、その女性が気付いているような気がしていたのである。

 身じろぎもせずじっと滑走路に目をやっていたのに、やはりそれはこちらに近づいている。集中力の凝縮された聴力がそれを聞き逃さない。

「ねぇ、あなたひとり?」

 沙耶子はひどく驚いて、反射的に体がびくっと波打った。

「ああ、はい」

 返事ができたことが奇蹟であるかのように感じられた。罪悪感で声が震えたが、沙耶子はそれを隠すことだけに懸命だった。そして女の次の言葉を恐れた。しかし沙耶子の予想に反して、女は意外なことを言った。

「あなた、S高生でしょ。そのチェックのスカートですぐわかるわ」

 女は沙耶子の顔をのぞき込んで微笑んだ。声に冷たい印象があるが、やわらかい話し方がそれを中和する。

「わたしもS高の卒業生なのよ。つまりはあなたの先輩ってことね」

 ぽかんと口を開け、目をまん丸と開いて女を見る沙耶子の様子に隙を見つけ、女は沙耶子の隣に座った。


 女は自分のことを快活に語った。

 滑走路のすぐ脇に多目的公園を作る計画があり、その設計を女の働く事務所が行うことになったので、現地調査に来ているのだと言った。また調査は念入りに行うことが基本なのだけど、ここのところ雨が続いていたので今日は久しぶりに来たのだという。

 そして「やっぱり飛行機の眺めはこの展望広場が一番ね」と言って、女は大きく深呼吸をした。女はタイトなジーンズに胸の大きく開いた白いニット、そしてその上に薄い緑のカーディガンを羽織っていた。胸元の白い肌に、十字架に巻き付く蛇のネックレスが佇んでいる。

 沙耶子は胸を支配していた不安がなくなったことにホッとしていた。

『さっきのキスを見ていたことを、この人はまったく気付いてないようだ』

 

「あなた、ずっとひとりで座ってるんだもん。浮いてたわよ、景色に」

 女はそう言い、その歯切れの良い声の後ににっこり笑って沙耶子をのぞき込んだ。

「わたし、いつもひとりなんです」

 沙耶子もつられて微笑んだ。 

「好きな人とかいないの? 連れてくればいいじゃない」

 簡単にそう言う女に、『そんなことができるのならもうとっくに連れてきてますよ』と沙耶子は頭の中で呟くのだった。

 もっとも恋愛というものに興味はあるものの、高校生になったいまでもその対象を沙耶子は見つけられないでいた。女の母校でもあるS高校とは商業高校で、生徒数は1学年あたり250人いるものの、男子生徒はたったの20人しかいないという、ほぼ女子校に近い高校なのである。そして沙耶子のクラスにいる5人の男子生徒は、彼らだけでグループを作り、頑なにその輪を崩さなかった。

 黙ったままうつむいていた沙耶子を見かねて、女は8年前に卒業したという高校の想い出を懐かしく回想しながら語ってくれた。初恋のことも、ずる休みした想い出も、いま隣に座る少女のように、ひとりでよくこの展望広場に来ては飛行機を見ていたことも。

「じつはね、ファーストキスをしたのもね、ここだったの。こんな秋の夕暮れだったわ。よく憶えてる」

 この人の横顔はなんて綺麗なのだろう。遠い記憶を透かしている瞳はなんて麗しいのだろう。沙耶子はじっと女の横顔を見ていた。女の長い髪が風で沙耶子のほうになびくと、そこに甘く刺激のある香りがあることを知った。沙耶子はうっとりと目を閉じた。女は風の音に耳を澄ましているようだ。自分も耳を澄ましてみよう、そう思った。


「あなた、キスしたことある?」

 唐突にそう訊かれて、沙耶子はうつむいて首を小さく振った。

 沙耶子はキスという言葉の響きが苦手だった。口づけと言って欲しかった。キスという響きは、沙耶子には生々しく聞こえる。それは少女がずっとキスに憧れ、そしていまだキスを経験していないために起こる感情の乱れかもしれない。

 自分の知らない世界を知っているであろう大人の女性を前にして、どこまでも少女だった沙耶子は、女の問いに黙ってうつむくしかなかった。


 気が付くと、丘を登ってきたときよりもよっぽど寒くなっていて、沙耶子はぶるっと震えた。それを見た女はすぐさまカーディガンを脱いで沙耶子の肩に掛けると「すいません」と動こうとする沙耶子の唇を、自分の冷たい唇で遮った。

 沙耶子はびっくりしてぎゅっと目を閉じた。そして強ばったまぶたをゆっくりと開きながら女を見ると、女は口元をつり上げ微笑みを作ったが、その目に口元と同じ種類の微笑みはなかった。鏡の中を覗いているような、こちらになにも訴えかけない透き通った目をしていた。

「もう1回、今度はちゃんとやってみる?」

 女の声はあまりにやわらかく、風が呟いたのかと錯覚するほどで、その風は沙耶子の心を吹き抜けた。少女は黙って頷いた。

 ぎこちなく、目を閉じるタイミングを模索していると、整った鼻が近づいてきて、女は目を閉じて少し唇を開く。女の真似をすることしか知らない少女が目を閉じると、さっきよりももっと冷たく、もっとやわらかい唇が沙耶子のすっぴんの唇を覆った。左のまぶたに女の長い睫毛がチクッと刺さる。化粧品の色っぽい香りがする。わざとらしさのまったくない、行儀の良い香り。

 唇がだんだん熱を帯びてくるのがわかった。味はしなかったが、これはとても秀麗な行為なのだとだんだん沙耶子にはわかっていった。すうっと、全身の力が抜けた。

 そして女はその瞳にも微笑みを作った。さっきよりも艶やかに微笑んだ。

 寒さのことなど忘れていた。少なくとも沙耶子の熱っぽい体温は、女の唇から伝わってきたものだった。それが体中に巡ったのだ。心臓は少し早いペースで脈を打った。

 後ろから足音が近づいてきたので、沙耶子は慌てて自分の唇を舐め回した。女の唇には薄くグロスが塗られている。

 着陸誘導灯の白いライトが、滑走路の延長線上を流れるように光り、やがて電飾に飾られた夜の航空機が着陸する。

「お待たせしました、先輩」と、足音がそう言った。

 沙耶子は腕時計を見た。

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