Chapter-5
「人が人を想う気持が、人を救うんだ、沙原くん!」
次の日の朝。教室で顔を合わせるなり磯崎は大声でそう言った。磯崎が変人であることはだいぶ浸透してきており、驚きの目を向けるクラスメイトはかなり減ってはいる。とはいえやはり視線は集まる。
「よくそんな恥ずかしいこと言えるね。朝っぱらから」
「恥ずかしいことはない。真実だ」
「磯崎って、恋愛の話は苦手なのかと思ってた」
「探偵である以上、人間に関わることすべてに精通する必要がある」
「それって……」
僕が訊ねかけたその時、クラスメイトの一人が磯崎に、宿題の数学の解き方について教えてほしいと声をかけてきた。変人磯崎は、しかし頭も性格もいいので、人に慕われることの方が多いように見える。嫉妬の対象……になってる部分もないとはいえないだろうけれど。自分が嫉妬している、なんて誰も認めたくないし、それを表に出すようなガキは今のところクラスには見当たらない。
「依頼人と、昨晩電話で話をした。先輩は橘綾香のことを想い、心配していた」
僕たちがその話題の続きを話せたのは、昼休みになってからだった。僕たちはその日五人ほどで学食に行ってお昼を食べたが、僕が飲み物を買いたくて自販機に向かうと、磯崎も付いてきた。
「つまり先輩は、橘綾香さんのことが好きだってこと?」
食堂はざわめきに包まれている。僕たちの会話を聞いている人がいるとも思えないが、念のため、山中先輩の名前は出さないようにして話をする。
「そういうことだ。依頼のあった日、僕は電話であれこれカマをかけた。彼はあまり感情を表現しないタイプだが、素朴で素直だ。宿題を手伝う約束が、と言っていたが、橘綾香に好意があることは瞭然だった。昨日、こちらの懸念事項を伝えると、協力したいと申し出てくれた。今日、彼女に会いに行く。もちろん君も来てくれるだろう?」
磯崎の、日本人離れした立体的な横顔を見上げながら僕は訊ねた。「磯崎って、実は恋愛経験豊富だったりするの?」
紙コップを傾けかけていた磯崎が、手を止めてこちらを向く。
「何の話だ」
「言ってるとおりの話」
「なんで今、そんな質問が出るんだ」
「だって昨日から気になって」
磯崎は顔をしかめた。
「僕は探偵だ。探偵として必要なことをする。それだけだ」
「それってどういう意味なの?」
僕はじいっと磯崎の顔を見た。磯崎は目をそらすかと思ったのに、逆に真向視線を合わせてきた。身長のせいで、どうしても僕は磯崎に見下ろされる。それが癪でならない。
「どうとってもらっても構わない。とにかく今日の話だ。来てくれるということでいいな?」
「僕、行く必要あるの?」
「何だって?」
磯崎は顔色を変えた。
「どうしたんだ。何なんだ。君は僕の助手ではないのか。何が起こったんだ。ちょっと待ってくれ。僕は何か重大なミスでも犯したのか?」
あまりにもうろたえて手をわなわなさせているので、僕の方が少し慌てた。
「いや、そうじゃなくて。橘さんのことが好きな先輩と、君のことが好きな坂木さん。四人で会ったらいいんじゃないかと思って」
「そんな合同なんとかみたいなものを想像しているのならそれは全く違う。僕と先輩は橘綾香を問い詰めに行くようなものだ」
「じゃあなおさら、男三人で一人の女子を取り囲むなんてやめた方がよくない?」
「いやいや君には重大な役割がある。来てもらわないと困るんだ」
そう磯崎は言った。
その日の学校帰り。やはり僕たちは、前の日と同じハンバーガーショップにいた。
磯崎と山中先輩が、橘綾香と向かい合っている。そうして僕は別テーブル。彼らの近くの席で、坂木えみと向かい合っている。
僕の重大な役割。それはかなり大変なものだった。
坂木えみを連れてきて、橘綾香に内緒で彼女と磯崎達の会話を聞かせるように。
それが磯崎の指示だった。
――磯崎のことで話があるんだけど。今から電話しても大丈夫ですか?
メールではうまく説得できる気がしなかったので、僕はそんなメールを坂木さんに打った。少しすると返信があったので、僕は電話をかけた。
「磯崎は、橘さんのことをすごく心配してる。今日、会って話をすることになってて」
僕が切り出すと、しばらくの沈黙の後に声が返ってきた。
「磯崎くんは綾香のことが好きなの?」
「や、それは違うと思う。なんというか、探偵として」
「綾香のことを好きなわけでもないのに、なんでそこまで?探偵係はそこまでするもの?」
坂木さんの問いは、もっともだと僕も思う。
近くにいる僕ですらそう思うのだから、坂木さんにはなおさら理解できないに違いない。
「磯崎の探偵の定義は、まあ特殊なんだけど。でも、たしかに橘さんの様子は、ちょっと普通じゃない感じがして……。こう、何か取り返しのつかない行動をとるかもしれない、と磯崎は思ってて」
「そうだとしても、磯崎くんには関係なくない?」
「……逆に君は橘さんの友だちなのに、何とも思わないの?」
「だって、別にいつもどおりだし」
「……うん、磯崎の判断が間違ってて、橘さんも特に何か問題を抱えているとかじゃないのかもしれない。それならそれに越したことはないし、それを今日は確かめるんだって言ってた。で、坂木さん、磯崎にばれないように、その様子をこっそり覗きに行く気はない?それとももう、磯崎のことなんてどうでもいいかな」
僕の無理矢理な提案に、しばらく沈黙があった。
もう関わりたくない、と言われたら、僕にはどうしようもない。
そう思っていたけれど。
「……私はそんな薄っぺらい女じゃない」
喉の奥から出すような声で、そんな返事が返ってきた。
「磯崎くんのこと、もっと知りたい」
騙すようで、少し罪悪感があった。
でも、磯崎と関わるということに変わりはないわけだし。完全に「騙す」というわけでもないのではないか。そう自分に言い聞かせる。
僕は具体的な待ち合わせの場所や時間を告げた。素直に聞いていた坂木さんは、最後に訊ねた。
「沙原くんは、どうしてわざわざ私に連絡くれて、磯崎くんの情報くれたりするの?」
訊かれて、僕はことばに詰まる。
何か理由をでっちあげなければいけない。
「それは……」
「うん」
「モテる人は、彼女がいた方がいいんじゃないかと思うというか」
「だから私に協力してくれるってこと?」
「そう……うん。そう」
しどろもどろな僕の答えに、けれども坂木さんは、一応納得してくれたようだった。
今すぐ行くから。そう言って、坂木さんは電話を切った。
ふう、と息をついた僕の隣で、磯崎が僕を見ている。
何か言いたそうな目をしていたけれど、結局何も言わなかった。
橘さんの方は、山中先輩が電話をした。
先輩は嘘をつくこともなく、ただ、話したいことがあるから、と言った。
お店に現れた橘さんは、磯崎が同席していることに驚いたようだったけれど、だからと言って帰ったりはしなかった。促されるまま、素直に二人の向かいの席に座った。
彼らのテーブルは、沈黙に包まれていた。
山中先輩が橘さんに好意を持っている、というのは、こうして見ると丸わかりだった。念のために僕と坂木さんは、橘さんの背中側の席にいた。山中先輩は、僕たちに依頼をしに来た時のようにやはり一見ぼうっとしていたけれど、顔を心持赤くして、見とれるように橘さんを見たり、はっとしたり、そっぽを向いたりしている。
「話って?」
山中先輩が口を開かないので、橘さんが訊ねた。
「ああ、うん」
山中先輩はもぞもぞしている。
「山中先輩に、改めて相談されました」
話しだせない先輩に変わって、磯崎が口を開いた。
「先輩は、心配しています」
「何を?」
「あなたのことを」
「どういうこと?」
「あなたの様子が最近おかしい、と。先輩だけでなく、あなたのクラスメイトもそう言っていました」
僕たちからは、橘綾香の表情は見えない。
が、橘綾香の動揺は伝わってきた。
「そんな、おかしいって……え?」
動揺を隠すように笑いを含んだ声。
磯崎は続ける。
「あなたは今、大きな悩みを抱えているんじゃないでしょうか」
「あなたに何の関係があるの?」
キツイ調子で橘さんが言うのが聞こえた。
「関係は、ありません」
磯崎の静かな声が聞こえる。
「でも、僕は探偵で、依頼を受けた」
「だから依頼は、えみを探すことでしょう?嘘の依頼なんかして、すみませんでした。それでいいでしょう?」
「いいわけがない。願いがまだ、放り出されてる」
「願い?」
「僕に依頼をしたのは山中先輩で、山中先輩に頼んだのは、坂木えみではなくてあなただ。だから先輩も受けた。そうでしょう?」
先輩は「お、おう」と落ち着かなげに首を振って同意する。
「だからこの依頼にあるのは、あなたの願いだ」
「私は、えみに協力しただけで」
「どうしてそこまで?」
「は?」
「どうしてあなたは坂木えみのためにそこまでするのか」
「だって、それは、友だちだし、それ以外別に、私は」
橘綾香の声が、涙声になっているのに僕は気づいた。
磯崎の顔に、はっとしたような表情が見えた。
「……山中先輩は、あなたをすごく心配している。……僕も探偵として」
どこか気を遣うように、磯崎が言った。
「願いというなら……えみはあなたに告白したんでしょう?それでえみとあなたがつきあってくれたら、それが私の願い……」
橘さんの声は、もはや完全に泣いている人のそれだった。
と、そう思った時には、僕の前にいたはずの坂木えみの姿は消えていた。
僕は立ちあがって彼女を追いかける。
「あやか、どうして泣いてるの?」
坂木えみは友人の元に走りより、訊ねた。
「えみ?」
橘綾香は、ぼろぼろと涙をこぼしながら目を丸くした。ちょっと話しただけでこんな風になるなんて、やっぱり普通の精神状態ではないということなのだろうか。
「えみ、なんでここに?」
「それよりどうして泣いてるの?」
向きあう女子たちに、磯崎が口を挟んだ。
「僕には、坂木さんが家に滞在していることが橘さんを不安定にした、と思えるが」
あまりにもストレートに言う磯崎に、橘さんが顔をしかめた。
「そうなの?あやか」
坂木さんが訊ねる。
橘綾香は口を開きかけ、けれどもことばが出ないまま、その両目からはまたぼろぼろと涙がこぼれた。何度もまばたきをして、それから橘さんは、口元を歪めて何とか笑顔を作ろうとしながら、言った。
「……うん。そうなの。えみのピアノが凄いから、辛いの。おかーさん、えみのピアノを褒めまくるし。私ももっと上手ならよかったのにな、って。えみがピアノ弾いてるの聴くと、辛くて辛くてたまらないのよ。だからね、うちから出て行ってほしいの」
目から涙をあふれさせながら、最後はにっこりと笑ってみせた。
坂木えみは、救いを求めるような顔をして、磯崎を見て、山中先輩を見て、最後に僕の顔を見た。
それから店を、出て行った。
僕は彼女を追いかけた。
「ぜんぜん気づかなかった。そんな風に思われてるなんて、ぜんぜん気づかなかった」
坂木えみは、歩きながらそう繰り返した。
「だってあやかはいつだって優しかったし。ほんとに優しかったし。私といて楽しそうだったし。嬉しそうだったし。嬉しそうに私のピアノ聴いてたし。そんなの、ぜんぜん」
そう言って、しゃくりあげた。